12月31日
午前中、トイレに出ようと思って、飼い主に催促して玄関のドアを開けてもらった。何と、辺り一面に雪が分厚く積もっている。
それまでの、ほんの数センチ足らずの雪なら、大したことはないのだが、これは久しぶりの大雪だ。しばらく、茫然と見回した後、ともかく軒下の雪が降り積もっていない所に下りて、そこでトイレをした。
その後が大変だ。飼い主が玄関のドアを閉めていたので(本当は薄めに開いていたそうだが、気づかなかった)、遠回りして軒下から、ベランダへと上がった。ワタシの体が埋まりそうなほどの雪だった。少し開いていたベランダのドアから部屋に入る、勢いをつけてダダーっと。
飼い主は、あきれたようにワタシを見ていたが、ともかく一刻も早く、雪と寒さから逃れたかったのだ。ストーヴの前に座って、ようやくほっとして毛づくろいをする。
これでは、外にも出られないし、今日はただただ寝て過ごすしかないだろう。朝から、クルマの走る音も聞こえない。わずかに、飼い主がエサをやっている、ヒヨドリの鳴く声が聞こえるだけだ。
静かだ。飼い主のいる台所の方から、何やら音がしている。正月の準備とか言っていたが、ワタシとふたりだけなのに・・・。
「先日の雪は、三日前の雷雨ですっかり溶けてしまっていたのだが、昨日からの雪で、再び雪景色に戻ってしまった。それもかなりの雪の量だ。(写真)
朝は15cmくらいだったが、その後も降ったり止んだりで、約20cm。西風が強く、朝の気温の-7度から、余り上がらず午後になってもー3度くらいだ。
買い物は、この1週間で唯一晴れてくれた、二日前に出かけてすませておいたから心配はない。雪で全く出られなくなっても、1週間や10日は平気だ。
そんな中でも、私は何かとやることがあるからいいのだが、かわいそうなのはミャオだ。ニャーと鳴きかける相手といっても、無愛想な鬼瓦(おにがわら)顔の私しかいないし、雪で閉じ込められてしまえば、他にやることもなく、ただただ寝ている他はないのだ。
それで、傍で寝ているミャオにも、音は聞こえているだろうからと、この所、毎日録画していた音楽番組を聞かせてやっていた。しかし映像なんぞに興味はないらしくて、横になったままだったが・・・。思えば、ネコの耳になんとかだったのかもしれない。
前回少し書いていたのだが、その後のNHN・BS放送の番組も入れて、都合4本を見た。それぞれに、興味深く面白かった。
まず、あのフルトヴェングラー(1886~1954)指揮のウィーン・フィルによる、1954年(彼の亡くなる年の)ザルツブルグ音楽祭公演の舞台から、モーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』である。
それもカラー映画として記録されていて、その上今回のものは映像がデジタル再編集されていて、かなり鮮やかになっているのが分かる。
この映画は、その当時から公開されていたのだが、私は見たことがなく、ただPR映像として見ていただけに、待望の一編ではあった。
まず舞台や衣装は、現代の舞台にありがちな簡略化されたり、背広姿などではないから、安心して見ていくことができた。
それに歌手陣では、何と言っても、ドン・ジョヴァンニ役のチェーザレ・シェピが歌・容姿ともに素晴らしく、さらには、ゆれる女ごころを巧みに歌ったドンナ・エルヴィーラ役のリーザ・デラ・カーサも良かった。
フルトヴェングラーは、このモーツァルトのオペラの中にある、喜劇的な面を強調することなく、ただ勧善懲悪的な結末へと向かうべく、ただまっすぐにしっかりとまとめ上げていた。
女色放蕩(ほうとう)のドン・ジョヴァンニ(ドン・ファン)の物語を、面白おかしく描くか、あるいは、キリスト教的教訓話として描くか、どちらからにもそれぞれに、当時の時代の人々の思いが聞こえてくるのだが。
この『ドン・ジョヴァンニ』の後には、あのトスカニーニ(1867~1957)指揮のNBCオーケストラによる、ワーグナーの序曲集とヴェルディの『諸国民の讃歌』が収められていて、そこでは、イタリア国歌のみならず、トスカニーニ自身が書き加えたという、イギリス、フランス、アメリカさらに当時の共産主義国家のための『インターナショナル』までもが歌われていたのだ。
(思い出すのはロッシーニのオペラ、『ランスへの旅』だ。2月24日~3月3日の項参照)
さらに次の一本も、同じスペインの物語で、こちらは、リヒャルト・シュトラウスの交響詩『ドン・キホーテ』である。
演奏するのは、指揮者としてだけではなくチェロの巨匠としても有名なムスティスラフ・ロストロポーヴィチと、小澤征爾(おざわせいじ)率いるサイトウ・キネン・オーケストラである。それはリハーサル風景と、実際に完成した映像交響詩が収めれれているが、何といっても興味深いのは、前半の、リハーサル風景である。
ロストロポーヴィチは、過去に何度も録音しているこの曲の最後のものとして、盟友小澤征爾率いるオーケストラとの録音に臨んだのだ。
彼自身、共産主義国家時代のソヴィエトで、反体制派として疑いをかけられ、自由を求めて西側に移り、そして、共和国ロシアになった祖国にようやく戻ってきていたのだ。
セルバンテスの描く『ドン・キホーテ』の世界は、そんな彼の波乱に富んだ人生を写しているかのようであり、リヒャルト・シュトラウスの音楽による『ドン・キホーテ』は、音楽家としての彼が、是非ともやり遂げなければならない仕事だったのだ。
その妥協を許さない、オーケストラとのリハーサル風景は、まさに芸術家たるべきものの、すさまじい思いを見せてくれるものだった。
三本目は、ヴァイオリニスト、ギル・シャハム(1971~)によるバッハの『無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ』の中からの、「パルティータ第3番ホ長調」と「パルティータ第2番ニ短調」の2曲についてである。
バッハは私の最も好きな作曲家であり、彼の作曲した作品のほとんどは聞いているはずであり、中でも、この「無伴奏ヴァイオリンのための作品集」と、もう一つの同じ「無伴奏チェロのための作品集」は、バッハの中で一曲だけをと言われた時に、思い悩むであろう作品群なのである。
この『無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ』は、レコードの時代からいろいろと聴いてきた。シェリング、ミルシテイン、ズスケ、ローテンバッハー、クィケン、ファン・ダール、ハジェット、ポッジャーなどであり、その時々の様々な思いに応じて、聴いてきていたのだが、今回、このギル・シャハムを聴いてまた、新たなバッハを知る思いがした。
私は、それまで彼を、パガニーニの作品集や他のヴァイオリンの小品などに、鮮やかな演奏を披露(ひろう)する、テクニックに優れたヴァイオリニストだと思っていた。
しかし今回、東京でのコンサートの来日の折に、東京竹芝桟橋(たけしばさんばし)のホールで録画されたという演奏を聴いて、何とやさしく物思いにふけるバッハだろうと思った。音がなめらかできれいなのはもとよりだが、それ以上に耳に快く響いたのは音のつながりである。
一音一音を、楽譜通りに区切って演奏するのか、それとも音の流れとしてつなげてレガートとして演奏するのか。その上にそれぞれの音の長短、強弱、音色などなど、まさしく一つの楽譜から、無限の演奏形態が生まれてくるわけである。
極端な変化は別として、演奏者の様々な感性で表現される楽曲を、様々な思いの受け手である聴衆が聴くこと・・・正確な、数理的な答えのない所に、クラッシック音楽の面白さがあり、さらに誰でも入って行けるけれども、決して誰のものでもない、作曲家だけの音楽でもあるのだ。
私のバッハへの思いを、さらに新たな一面から教えてくれた、ギル・シャハムのバッハは、恐らくは近いうちに「無伴奏ヴァイオリン」の全集として、録音されることだろう。
演奏会で直接聴くことのできない私には、そのCDを聴くのが待ち遠しく思える。
最後の一つは、『エルミタージュ幻想』という、2002年のロシア映画である。ドキュメンタリー・タッチの美術・音楽・歴史映画であるとでもいえる、実に興味深い作品だったのだが、もう長くなりすぎたので別な機会に、また改めて書いてみたい。
今回、ここにあげた3本の作品に描かれていた主演の主人公たちから、私が感じ取ったのは、内に秘められていたすさまじいばかりの人間の意志の力である。今年、流行のニーチェふうな、アポロン的(理知的)な意志の力ばかりでなく、デュオニソス的(情動的)な意味合いを含めての、人間たちの一途なる思い・・・それこそが、人が生きていくということなのだろうが。
私だけが向かうあの白い頂は、まだはるけき彼方へと続いている。」
「 かぎりなくさびしけれども われはすぎこしみちをすてて
まことにこよなきちからのみちをすてて
いまだしらざるつちをふみ かなしくもすすむなり
そはわがこころのおきてにして
またわがこころのよろこびのいづみなれば 」
(高村光太郎 『道程』より)
12月26日
三日ほど前から急にまた寒くなり、昨日今日と雪が降ったり止んだりで、辺りはすっかり雪景色になってしまった。
ワタシが外に出るのは、トイレの時だけだ。辺り一面の雪の中、適当にひっ掻いて地面を出し、そこに座ってすませる。(写真は、三日前のまだ雪の少なかった時に散歩に出て、その時、溝に降りてトイレをしているところだが、失礼な。)
終わった後、しっかり臭いをかいで、その部分を隠すように再び前足でひっ掻いて、枯れ葉や雪ごと寄せ集める。
そしてすぐに飛んで帰って、薄めに開いているドアを開けて、ニャーと鳴きながら部屋に入り、いつものストーヴの前で冷えた体を温める。
夕方の、サカナをもらうと、体に元気がみなぎってきて、狭い家の中をあちこち行ったり来たり、時には飼い主を相手に見立てて、ダダーッと爪音を立てて走りまわったりもする。
それを見た飼い主が言うのだ。「いい歳こいて、よくそんなに元気に走り回れるな。ばあちゃんネコのくせして。」
ケッ、冗談じゃないよ。ネコを年齢で判断しないでほしい。ネコそれぞれの、実年齢と、健康年齢は違うんだから。
特にワタシは、誰かのおかげで、半ノラとして生きて行かねばならないから、野生本能や俊敏性が発達している。そこらへんの何の心配もなく暮らしている、年寄りのリビング・ネコ(昔は、お座敷ネコといったが)とは違って、いざという時のための力があるし、年齢の割には若いから、15にもなるこの歳でも、元気に走り回れるわけなのだ。
それにしても、こう雪の日ばかりだと、外に出るのは寒くて嫌だし、ただストーヴの前で一日のほとんどを寝ていて、時々ちょっかいを出す飼い主の遊び相手をしてやるくらいだと、やはり退屈ではあるのだが。
そこで唯一の相手である飼い主が、ワタシに何か言っている時に、その顔をじっと見入っては、人間の言葉を理解してやろうと、耳をすませて聞いてみたのだが、悲しいかな、ワタシたち猫族は、持久力にかけるし、まして相手がいかつい顔の飼い主では、つい目をそらしてしまうこともあり、なかなかその言葉を覚えられない。ワタシは、ニャーと小さく鳴いて諦め、また寝てしまうのだ。
「昨日、朝ー7度、日中でもー3度、そして今日も朝のー4度からー1度までしか上がらず、二日続けての真冬日になった。明日も雪マークが出ているから、三日連続になるかもしれない。
クルマのタイヤは、数日前の暖かい日に、スタッドレス・タイヤに付け替えたから、動けないこともないのだが、ここは山の中で、カーブの坂道を上り下りしてまで、無理して町まで出かけて行くこともないのだ。
その上、このスタッドレス・タイヤは今年でもう7年目になる。北海道で乗るクルマのように、雪のある期間の半年ほどもつけているわけではなく、ほんの2カ月余りだし、その間の走行距離も少ないから、まだ溝は八分山ほどあるのだが、いかんせん、もうゴムが固くなっている。
山登りに行くためには、朝にカーブの多い雪道を走らなければならないから、安全を考えて、タイヤを買い換えた方が良いのだが、今年の新製品にすると、工賃含めて一本、2万円余り、ゲッ、去年買った家の液晶テレビより高くなる。
さらに運の悪いことに、メーターの検針で分かったのだが、家の水道の水漏れがあり、自宅内に引き込んだ部分の、家の中のどこかで水漏れしているらしいのだ。
そこで、まず気になっていた古い水洗トイレのタンク内を開けて見た。水あかで汚れた内部を掃除し、再調整して、このタンクからの水漏れではないと分かった。次に床下にもぐり込んで、引き込み水道管の部分に耳を当てて聞いてみると、確かに小さく水の流れる音がする。
玄関周りはコンクリートで固めてあるから、掘り返すわけにもいかない、業者の人に聞いてみると、今ではそうした場合は、地上部分の引き回し配管になり、10万円位はかかるとのこと。
それで、今は仕方なく、使うとき以外は元栓を閉めているが、やはり不便だ。
こんなふうに、文明に頼りきって生きていると、その日常雑事に追われて何かと頭を悩ますことが多く、時々それ相応の対価も支払わなければならない。、世の中の煩悩(ぼんのう)を振り払い、ただ静かに山の中に隠棲(いんせい)して、穏やかに暮らすなどと言っているわけにもいかないのだ。
ミャオを見てみれば、水道なんぞの世話になることもなく、そこらへんの溜まり水を飲み、トイレはどこでもできるし、遠出はできないが自分の生活範囲なら、自前のスパイクつきの4本足で、凍った雪道でも歩いて行けるのだ、ガソリンもなしで。
とはいっても、私もその情けない人間の一人だから、いったん文明の利器のお世話になると、もうそれなしにはすまされなくなるのだ。
この所、年末の様々な特集番組の一環として、NHK・BSでは、ベスト・オブ・ベストとか称して、今までの10年来の番組の中から、評価の高いものを選んで再放送をしているのだ。
いずれも長時間のものが多く、ひたすら録画しては、DVDやBRへと録り溜めている状態だ。なんという、進歩した家電製品のありがたさだろう。
4時間番組だった『法隆寺』、2時間ものの『鳥獣人物戯画』『尾形光琳』『葛飾北斎』、8時間にも及ぶ『世界の名建築』や『スペイン』、さらに3時間の舞台劇『オセロー』とオペラの『ドン・ジョヴァンニ』、小澤征爾とロストロポーヴィチの演奏による2時間の『ドン・キホーテ』などがあり、私は、まだそのうちの3本ほどを見ただけにすぎない。
自分で怖いのは、それらをため込んで、いわゆる録画マニアになってしまわないかということだ。
ところで、私は信者というわけではないのだが、若き日の長いヨーロッパ旅行などで、いくらかはキリスト教に親しむ機会があり、クラッシックの宗教音楽が好きなこともあって、クリスマスの日には、いつもバッハの『クリスマス・オラトリオ』を聞くことにしている。
今回は、11月半ばにこちらに帰って来た時に、ついでにいつもの輸入盤CD店に寄って、ヘレヴェッへのヴァージン・レーべル時代の廉価版セットを買っていて、そのCDをクリスマスの日に聴いたのだ。
それは、今まで聴いてきた様々なレコードやCDのうちでは、特に目立つほどのものではなかったのだが、とまれ、と私は、演奏家の良し悪しを気にしている私自身を戒(いまし)めた。
つまり今、あのバッハの『クリスマス・オラトリオ』が流れているのだから、何を他に文句を言うことがあるのだろうかと。
いつ聴いても素晴らしいアリアの部分や、心地よい器楽演奏の部分など、そのキリストの誕生を祝う祝祭(しゅくさい)の音楽の響きに、身を任せていればよいのだと。
さらにこれはクリスマスの日の、また別なことだが、嬉しかったのは、NHK・BSで24日の深夜に、あのデンマークの名匠カール・ドライヤーの『奇跡』(1955年)を放映してくれたことだ。今までに何度か見ているし、テレビでも度々放映されてきた映画だ。
しかし、それまで録画して持っていたのは、画面が粗いDVDだったので、今回はしっかりとブルーレイで録画した。
ほんの些細(ささい)なことだけど、少し得したような幸せな気持ちになった。
いろいろと、こうしてテレビ録画の楽しみもあれば、初めに書いた日常生活での、現実的な悩みもある。いつも、良いこと悪いことは半々なのかもしれないが、こうして元気に1年を生きてこられたことは、私にとって、それだけでも大きな幸運なのだろう。
今日の新聞に載っていた記事だ。
『東京23区内だけでも、毎日10人もの人が、(自殺や事故死以外の)孤独死として見つかっている。』
『90年代から、男女の生涯未婚率が飛躍的に増え、出生数は50年代の団塊の世代と比べて5分の1にまで激減している。』
人口問題研究所の話、『ぬるま湯がじわじわ熱くなっているのに、目に見えて何かが起きないと危機感が広がらない。』
ミャオが、私の顔を見て、ニャーと鳴いた。部屋の中は暖かいが、外は寒い。雪が5cmほど積もっている。」
12月21日
ストーヴの燃えている音がかすかに聞こえ、窓の外で、ヒヨドリが鳴いている。そして、飼い主のいる居間の方からは、ピアノ曲の音が聞こえてくる。
ワタシは、いつものように午前中をストーヴの前で寝て過ごす。静かだ。ウトウトとして目覚めて、また眠る。
限られたワタシの人生を、いや猫生の殆どを、寝てばかりいてもったいないと人間たちは思うかもしれないが、逆にワタシは、慌ただしく動き回る人や生き物たちを見ていると、いつも、どうしてそんなにと思ってしまうのだ。
生きていく上で、最も大切な点は、自分の命を危うくするような争いに巻き込まれずに、できることなら穏やかな猫生を送ることだと思う。
それは、若いうちは、自分のこれからの猫生に対する様々な欲があるから、他のネコや生き物たちと競い争うこともあるけれども、自分の体力が衰えてきて初めて、もっと自分の体に気を配るようになり、自分の命を大切にしようと思うようになるのだ。
同じ生き物たち同士の、争いを見たことがあるだろうか。一対一で向かい合い、闘うけれども、自分が劣っていると分かれば、人間ほどにメンツが大切な訳でもないから、命をかけて闘うことはないし、後は一目散に逃げ出すだけのことだ。
だから、ワタシのように年寄りネコになればなおさらのこと、無理をすることはよそう、危険な目に遭うかもしれないような所へ行くのはよそうと思うのだ。それは、生き物なら誰もが持っている、生きていたいという本能からくるものなのだ。
もし危険を冒してでもやりたいことがあれば、夢の中でやればいい。それは、今の平穏な日常とのバランスを取ることにもなるからだ。思えば、眠ることほど素晴らしいものはないのだ。
よしんば、昼間も眠らないで起きていた所で、一体何を見ることができるというのだ。欲望に満ち満ちたよこしまな人間たちの、したい放題の姿や悪ふざけを見ていた所で、それが何の足しになるというのだ。
穏やかな毎日と眠って夢を見ること、それが境目もなく続いて、ワタシの死へとつながって行けばそれで良い。死とは、自分では確認できないこと、つまりは目覚めない夢なのだから。
だから、ワタシは眠るのだ。時々、飼い主が寝ているワタシの傍に来て、体を優しくなでてくれる。あー、ゴロニャン。
「寒い日が続いた後、また少し暖かい日が戻ってくる。そしてまた寒い日がやってくる。こうして、冬の日々は、思わせぶりに、しかし確かな足取りで、歩みを進めて行くのだ。
そして、ミャオと二人で、何事もなく平穏に、毎日を過ごしていくことができるありがたさ。
人によっては、それは刺激のない退屈な、寂しい諦めの日々と映るかもしれないが、人それぞれに思いは様々だから、何も臆(おく)することなく、自分の日々を送っていけば良いのだ。
ミャオはミャオなりに、自分の楽しみである夢の世界の中に遊び、私は自分の感性の楽しみの中に、生きている喜びをかみしめる。
つまりは、たとえ自分の人生に、いかなる八大辛苦(はちだいしんく)の困難があろうとも、すべての生きものがたどる命の終わりを、やみくもに恐れるばかりではなく、空から雨が降り雪が降るごとくに受け入れて、その日が来るまでを生きていけば良いのではないのか。
その日とて、ミャオの見ている夢の続きと、何ら変わるものではないのだろうから。前にも書いたことのある、あの臨死体験の一シーン・・・暗いトンネルを通り抜け、まぶしい光の中を過ぎると、咲き乱れるお花畑に出た・・・。
信じるものは、幸いである。
NHKでずっと放送されている『日めくり万葉集』については、事あるごとに度々触れてきたのだが(6月22日の項参照)、今回もその中から一つ書き出しておきたい。
それは、毎日一首だけの短い番組ではなく、まとめて1、2週間分放送のものを録画しているのだが、その中から、最近、気になっていた歌がある。
「世の中の、すべなきものは、年月は、流るるごとし、取り続き、追い来るものは、百種(ももくさ)に追(せ)め寄り来たる・・・。」
これは前文でもある漢文から始まり、長々と続く長歌であり、その全文をここにあげることはできないのだが、実に興味深い一首である。
作者は、山上憶良(やまのうえのおくら、660~733?)で、「銀(しろがねも)も 金(くがね)も玉も 何せむに 勝(まさ)れる宝 子にしかめやも」などの歌で有名な、万葉集の奈良時代を代表する歌人の一人であり、『貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)』などでも知られるように、この時代には珍しい社会派歌人だともいわれている。
上の歌の冒頭部だけを、私なりに訳すれば、「この世の中で、どうすることもできないのは、時の流れであり、そして逆に追いかけてくるのは、様々な八大辛苦(注)である。」
この長歌はさらに続く、「楽しげに遊んでいた若い娘たちも、いつしか歳を取って、髪に白いものが混じり、顔にはしわが寄っている。雄々しい若者たちは馬に乗って遊びまわり、若い娘たちとむつまじい夜を共にしていたのに、今では歳を取り、杖を頼りにふらふらと歩いては、人々からうとまれている。長生きはしたいけれど、こうなってはどうしようもない。」
たとえ月のウサギが、クレーターや荒涼たる砂漠の陰にすぎないことがわかったとしても、たとえ世界中の情報がデジタル化で瞬時に伝えられる時代になったとしても、たとえ難しい病気の数々がすぐに治るようになったとしても、時の流れと、時代時代の人々の八大辛苦は、何も変わらない。
千数百年も前の人々が、思っていたことを・・・その時代以降の人々も、今に生きる私たちも、ただ繰り返してきただけのことだ。
この歌が収められている、万葉集の巻五は、全二十巻の中でも、特異な巻であるように思える。上に書いたように、社会派歌人である山上憶良の、筑前守(ちくぜんのかみ)の時代の歌を主にして編成されていて、梅の花の歌32首など有名な短歌もあるのだけれども、他の巻よりは長歌と漢詩文が多いことに気づく。
それらは、人生を哀しむ暗い思いの歌が多く、末尾近くに置かれた、長文の漢詩文『沈痾自哀(ちんあじあい)の文』は、老年での病に苦しむ作者の思いがつづられていて、悲痛な思いが伝わってくる。
万葉集の編者は、いかなる思いで、この山上憶良に一巻を割り当てたのだろうか。というよりは、何という公平な、ものを見る目を持っていたことだろうということだ。それは万葉集の全巻を通していえることだが。
さてテレビ放送の『日めくり万葉集』に戻れば、番組でこの長歌が取り上げられているのを見て、嬉しく思ったのだが、選者はあの『宣告』や『湿原』で有名な、作家で精神科医の加賀乙彦氏(1929~)だった。
そして彼は、とても高齢の人とは思えない若々しい顔で、万葉集の山上憶良の歌は参考になるし、私の師でもあると答えていた。
彼よりははるかに若い私が、まだこの歳で、どれほど人間のことをそして人生のことを分かっているのだろうかと、自らに問い恥じたのだ。学ぶべきことは、まだまだ果てしなく数多くあるのだ。
午後になって雨が上がり、薄日も差してきた。ミャオはまだ、ストーヴの前で寝ている。庭に下りると、日陰になった片隅に、淡い桜色のサザンカの花が咲いていた。(写真)
もうずいぶん前に、ある植木市で母が気にいって買い求め、植えつけていたものだ。日陰に強いというそのサザンカを、他の木々の影になる所に植えていたからでもあったのだろうが、なかなか花が咲くことはなかった。
その母が亡くなり、もう5年にもなる去年あたりから、ようやくその木に二つ三つの花が咲き始めるようになった。今年は、さらにたくさんの蕾(つぼみ)をつけていて、一カ月前に私が戻った頃から、次々に花を開いていたのだ。
八重咲きの、上品な花びらが、日陰の庭にほの明るく咲いている。私は、母を思った。そして、様々な人たちの、それぞれの人生を思った。
まだ私が若かったころ、大川栄策という歌手が歌う『さざんかの宿』(吉岡治作詞 市川昭介作曲 1983年)という歌が、ヒットしていた。曲はいかにも日本の演歌という感じで、なかなかに良かったのだが、その歌詞の内容は、今でいう不倫の恋を歌ったもので、当時、自分の顔に似合わず、潔癖(けっぺき)な正義感にあふれていた私には、不快な思いのする歌だった。
そんな道徳上許されない、不倫の恋に狂う人たちを許せなかったし、いつも、その子供たちはどうなるのだろうかと心配した。そして、私はよく吐き捨てるように言っていたものだ、「浮気したり離婚するくらいだったら、初めから結婚なんかするなよ」と。
そんな私が、今ではネコと暮らしている。情けないことだが。
話がそれてしまったが、私が言いたいのは、サザンカの花のことだ。
その歌の一番の終わりの歌詞は、「・・・赤く咲いても 冬の花 咲いて寂しい さざんかの宿」というのだが、その頃は、私はその意味が良く分かっていなかったのだ。
つまり、サザンカが、秋の終わりから冬にかけて咲く花だということも、さらに日陰に強い木だということも、だから『さざんかの宿』が、日陰者、愛人を意味する言葉だということも・・・。
都会でサラリーマンの生活をしていた時、ある意味では、時代の新しい流れに関わる仕事さえしていたのに、私はサザンカの花は知っていても、その意味さえも分かっていなかったのだ。
今の若者たちの、英語混じりの単純な歌詞と違い、作詞家が、本当の作詞家であった頃・・・。
いつも思うことだが、歳を取ることは、物事を少しずつ分かっていくことだし、さらに学ぶべきことは、数限りなくあるということも。」
(注)八大辛苦: 涅槃経(ねはんきょう)によれば、生・老・病・死・愛別離・怨憎会・求不得・五陰盛の八苦。
(参考文献 『万葉集』(中西進訳注 講談社文庫)、『万葉集』(伊藤博訳注 角川文庫)、ウィキペディア他のウェブ)
「余談だけれど、『さざんかの宿』の歌詞を調べようとひとつのウェブ・ページを開いた所、何とメロディーが流れてきた。これは無料のカラオケではないか。ダイヤル接続の、動画も見られないインターネットを使っている私には、ある種の驚きだった。
64kpbのダイヤル接続を、人の歩く速さだとすれば、町中の殆どの人が使っている1Gpbの光ファイバーは、何とジェット機の速さだとか。ADSLの計画さえない私の所だが、やせ我慢を承知で言えば、これ以上のものは知りたくないという、ありがたいリミットなのかも・・・。」
12月16日
外は、雪が降っている。ストーヴのある部屋にいるから暖かいけれど、飼い主が出入りするたびに、居間の方からの冷たい風が入ってくる。さらには、部屋の温度がが20度を超えると、暑すぎるからと、時々、ドアを開けたままにしているのだ。
全く、冗談じゃないよ。居間の方のストーヴもつけて、家全部を同じように暖かくすればいいのに、飼い主の節約志向、貧乏人根性には困ったものだ。
ワタシがニャーと不満そうに鳴くと、飼い主は、ワタシの顔をのぞき込み、あたかも若者を諭(さと)すように偉そうに言うのだ、ワタシの方がずっと年上なのに。
「いいかミャオ、オレは灯油をケチっているわけではない。オマエだって、いつオレがいなくなりノラになるかもしれない、その時のため、いざという時のために、寒さに慣れておくのは必要なことだ。その上、地球温暖化の防止にもなるし、限りある化石燃料節約にもなるからだ。」
あーあ、毎年同じことを聞かされて、うんざりなのだが、反論してミャーゴと鳴こうものなら、また飼い主の、訳のわからない『養生訓(ようじょうくん)』や、地球環境などの話をくどくどと聞かされるだけだから・・・昔の阿木燿子・宇崎竜童コンビの歌のセリフのように、あとは、”幸せぼろぼろこぼれるから、寝返り打って、夢ん中”だ。
まあ、二人が一緒に暮らしていくというのは、ガマン、つまり相手の言い分を聞いてやることなのだ。
ところで、あの体半分についたべたべた汚れも、今では体になじんできていて、もうあまり気にならなくなった。ただひたすら、なめてなめて毛ごと飲み込んで、それでも残っているものは、もう前からあった傷のよう、そこにあるもののように気にならなくなってきたからだ。
悪夢のようなあのひと時のことは、もう忘れてしまった。そんな悪い思い出をひずって何の足しになるというのだ、大事なのは、今であり、これからなのだ。
今現在、ワタシはやることもないし暖かいストーヴの前で寝ているが、それで十分だ。夕方が近づいてくると、ワタシの腹のネコ時計が、サカナの時間だと教えてくれる。それまで待っていればよいのだ。
「12月なのに、もうー20度を下回る寒さとなった北海道。その寒波の影響を受けて、九州とはいえ山間部にある我が家の周りでも雪が降り、3cmほど積もった。気温は、朝の-4度から殆ど上がらず、氷点下のままの真冬日の一日だった。
ミャオは、お昼頃、仕方なく雪の中に出て行って、トイレをすませてきたようだが、後はひたすらストーヴの前で寝ている。数日前、大騒ぎした出来事があったのが嘘のように、いつもの穏やかな毎日に戻った。
大体の事件とは、そんなものなのだ。事の大小によって、あらかた解決するまでの、それぞれの時間のかかり方は違うだろうが、絶えることなく流れ続ける時間の波が、すべての物事をいつしか洗い流してくれるものなのだ、思い出という残滓(ざんし)を残しただけで。
その時は、これは一大事だと、いかにうろたえ慌てふためいたとしても、時が解決できない問題は何もないのだ。自分が死に至るようなことを除いては。
もっともそれは、後になって思うことであるが、今度のネズミ捕り事件も、大したことにならずどうやら一件落着しそうだから、今になって言えることなのだが。
ちょうど、その事件が起きた後に北海道の友達たちから電話があって、まだどうして良いのか多少混乱していた私は、彼らに事の顛末(てんまつ)を話してやった。
そのとき電話口の向こうから聞こえてきたのは、彼らの明るい笑い声だった。『ネズミ捕りに、ネズミでなくてネコがかかったってー』
私は、その笑い声に少なからずムッとしたのだ。家の可愛いネコちゃんが、こんなひどい目に遭ってどうしてよいか分からずに、困っているというのに、人ごとみたいに笑ってと。
そういえば、同じようなことは、誰にでも思い当るだろう。当事者にとっては大変な出来事なのだが、周りから見れば、大笑いするような話だということは。
例えば、私が子供の頃、田舎の親戚の家に遊びに行って、あぜ道の横にあった肥溜(こえだめ、便所の糞尿を肥料にするために溜めておくところ)に落ちた時のことだ。
私は下半身、クソまみれになり、臭いやら汚いやら気持ち悪いやらで大泣きしていたのだが、周りの子供たちは腹を抱えて笑っていた。ただ、親戚の家のおねえさんだけが、困ったような真面目な顔をして、手拭いで私の顔を拭きながら、傍の小川に連れて行ってくれた。
そして、河の水できれいに洗ってもらったのだが、どうしても臭いだけはほのかに残っていた。その家での夕食の時間、伯父さんやその兄弟たちにまた大笑いされたのだが、その頃には自分でも笑うことができるようになっていた。
つまり今度の、ネズミ捕り事件でも、逆に友達の家のペットがかかったという話を聞いたら、恐らくは私も笑っていたことだろう。
さて前回に続き、その後のミャオについて。次の日に、動物病院に電話した。
ミャオが二度もお世話になったことのある、その先生は、私の話を聞いた後、即座に答えてくれた。
『おやりになったその処置で十分です。確かにサラダ油か、あるいはマヨネーズなど、有機溶剤を溶かす成分のあるものを塗って、あるいは小麦粉や、はい片栗粉でもいいですし、毛にまぶして、毛玉になって取れない所はハサミで刈ってやって、後は自分でなめて少しずつ取れて行くでしょうから。ああ、マヨネーズは、カロリー・ハーフではないふつうのやつですよ。』
私は、ミャオが寝ている時に、少し毛を切り取る以外は、あえて何もしてやらなかった。ミャオが、あまり体をいじられると嫌がるからだ。
しかし三日四日とたって、ミャオのべたついた毛は殆どなくなり、ただ固い黒い筋のようなものだけが残っている。(写真、左前足の所)
それがいつまでも取れないのであれば、嫌がってもなんとか取ってやらねばならないだろうが、今は様子を見ることにしよう。あとは、体の左側の所々が、私が切り取ったために、所々トラ刈りになってはいるが、人間ほど体裁(ていさい)を気にするわけではないから、そのままでいいだろう、いつか生えそろうはずだ。
余分な話だが、私は、もうここ2年ほど床屋に行っていない。電気バリカンで、自分の頭の毛を刈っているからだ。
今では、まあ何とか普通に、仕上げられるようになったのだが、初めのうちは、ひどいトラ刈りになり、仕方なく、恥を忍んで、床屋さんの世話になったこともあった。その床屋のオヤジさんは、真面目な顔で、素人(しろうと)散髪で失敗した頭の毛を、きれいに刈りそろえてくれた。
むしろ私の方が、大きな鏡に映った鬼瓦(おにがわら)顔でトラ刈りの自分の姿と、それに恐れをなして黙々と刈り続けるオヤジさんの姿に、思わず笑い出しそうになったのだが。
ミャオのトラ刈りの横腹を見ていて、思い出し、ひとりで吹き出してしまった。
くよくよ考えてもはじまらない。いつも、『案ずるよりは産むがやすし』の諺(ことわざ)のたとえのごとしなのだ。
大事なことは、事件が起きた時にバタつかないことだ。冷静になるべく自分に言い聞かせることだ。そうすれば、たいていのことは時が解決してくれる。
前にも書いたことがあるが、あの映画『ライムライト』(1953年)の中で、老喜劇役者に扮したチャップリンが言っていた。」
『時は、偉大なる作家だ。いつも、完璧な終わりを書いてくれる。』
12月12日
ワタシは、疲れ果てて眠っている。飼い主が、何やら部屋を出たり入ったりして、ワタシの写真を撮っているようだ。
昨日の夕方、全く突然に、災難がワタシの身に降りかかってきたのだ。それは、一日のうちで、一番待ち遠しく楽しかるべき時間に、起きたのだ。
サカナの時間だった。ワタシはニャーニャーと鳴きながら、台所にいる飼い主の周りを歩き回っていた。すると、隅の方に見慣れないものがいるのに気がついた。
ネズミだ。近寄って、その小さなネズミに鼻を寄せた。さらにもう一歩と踏み出したところ、肉球の下に、何やらぬるりとした感覚があった。
なんだ、これは。左足が持ち上がらない、ニャーゴー。
飼い主が、気づいて大声をあげた。ワタシはそこから逃げ出そうとしたが、左足がくっついて離れない。動いたかと思ったら、そのネズミのいるシートごと、私の体の左側にくっついてきた。ミャーゴ、ミャーゴー。
飼い主が、ワタシの前足を無理やりそのネバついたシートから離そうとした。ギャオーン。
何とか前足が離れ、体の左側からたくさんの糸を引いて、そのシートが離れた。サカナどころではない。ワタシはその恐ろしい現場から、ベランダへと逃げ出した。
歩くたびに、足がべたついて歩きにくい。ベランダの端に座って、体を点検した。左側の前足はかなり上まで、そのべたついたものがついている。さらにお腹の横にも、糸を引いたものがついている。
なめてもなめても、それは取れない。何という気持ちの悪さだ。ワタシたちの体を覆う毛は、一本一本が敏感になっていて、それで自分の体の幅のあたりをつけて、狭い所でも通り抜けられるかどうかが分かるようになっているのだ。
そんな大事な、体全部を覆う感覚器官である毛に、異物感があること。それは、許されないことだし、またきれい好きのワタシたちネコ族にとっては耐えがたいことなのである。しかし、なめてもなめてもそれは取れない。
そんなワタシを飼い主が抱えあげて、何やら強い臭いのする液体で体を拭いた。ワタシは、体をばたつかせてすぐに逃げた。
しばらくして、飼い主がワタシを呼んだ。皿にはいつもの、小分けにされた魚がのっている。空腹に気づいて、その幾つかを食べたが、体のべたつきが気になって気になって、とてもいつものように食べてしまうことができない。
その後、また近づいてきた飼い主が、粉状のものを私の体にまぶした。全くたまったものではない。
夜になって、いつもならストーヴの前で横になって寝ているのだが、どうにも気持ち悪いし、落ち着かないし、まだ怖いしと、部屋には入る気がせず、ベランダと家の中を出入りしていた。
しかし、外は寒い。あきらめて、部屋のストーヴの前に座った。飼い主が、しきりに何かを言いながら、体をなでてくれた。そしてべたついたところを、あちこちさわり始めた。
ワタシは、それが嫌で、コタツの中へともぐり込んだ。その暗闇の中で、ワタシは、ひたすら自分の毛をなめ続けた。
なかなか眠れずに、恐らくは明け方になって眠り込んだのだろう。朝になって、飼い主が部屋に入って来てもワタシは気づかなかった。しばらくして、コタツ布団をめくられ、名前を呼ばれて、ようやくニャーと返事をして外に出てきた。
しかし、昨日からの睡眠不足ですぐに眠たくなる。そして、ストーヴの前で、再び丸くなって眠りこんだ。悪夢だ。恐ろしいネバネバしたネズミが、ワタシに取り付いている・・・。
「暖かい日が続いた後、急に寒くなって初雪が降り、1cmほど積もって、それから連日、-5度前後の冷え込みになった。やはり冬が来たのだ。
それでもミャオと二人、穏やかな毎日を過ごしていた。そんなある日の夕方、いつものように、ミャオを呼んで、サカナをやる準備をしていた。
ミャオは待ち切れずに、いつものように台所に立っている私の傍を動き回り、鳴いていた。突然、その鳴き声が止んで、足元でバタンという音がした。
しまった。忘れていたのだ。私は、前の日の夜に、台所の隅に、小さなゴマのようなネズミのフンがあるのを見つけて、例の粘着シートのネズミ取りを仕掛けていたのだ。
そして今日の朝、そこに体長数センチほどの、小さな一匹のハツカネズミがかかっていた。さらにそのままにしておけば、もう一匹かかるかもしれないともくろんで、同じ所においていたのだ。
数年前、同じようにして二匹のハツカネズミを捕まえたことがある。ネズミが家に入ってくる理由は分かっている。普通は家の中にはいないのだが、ミャオが夜、玄関の方から出たがるので出してやり、その後、帰って来た時には、自分でドアを開けられるようにと、ドアを薄めに開けておくようにしているからだ。
そのスキに、ネズミが入り込むのだ。
街に住む、体長15cmから25cmくらいにもなるという、ドブネズミやクマネズミと比べれば、小さなハツカネズミは可愛くもあるが、衛生上好ましくはない。
ちなみに、北海道にも小さなヤチネズミやトガリネズミがいて、寒くなる頃、家に入ってきて、それも粘着シートで捕まえたことがある。
それにしても、うかつだった。粘着シートの注意書きにも、ペットなどを近づけぬようにと書いてあったのに、すっかり忘れていたのだ。
今までに、ネズミだけではなく、モグラにトカゲ、ウグイスにキジバトまでも(’08.3.4~3.9の項、参照)捕まえてきたミャオだもの、年寄りネコになったとはいえ、狩猟本能の血が騒ぐのだろう。しかし一歩踏み出したその先に、悲劇が待ち構えていたのだ。
ミャオは、シートから抜け出ようとするが、取れるはずもなく、そのばたつきで、シートが起き上がり縦になって、ミャオの左側ににべたりとくっついてしまった。
私は、ミャオの体を押さえつけ、まず埋もれるように貼りついている、左前足をはがしにかかった。ミャオの悲鳴、そこを強引にはがした。そして、体の方は、毛が幾らかむしり取られながらもすぐに離れた。
シートから解放されたミャオは、左側の前足と後ろ足を床にべたつかせながら、振り払うようにして、ベランダへと出て行った。
大変なことになった。そして、すぐに思いついたのは、日頃から、カメラのレンズ拭きや、油もの汚れ、油性ペンの除去などに使っている無水アルコールである。
それをタオルにたっぷり含ませて、嫌がるミャオを捕まえて、べたつく毛を拭いた。しかし直接のべたつきは収まるが、本体のガムベースの粘着剤は取れない。平面についた汚れを取るわけではないからだ。
その後、幾らか落ち着いてきたミャオにサカナをやり、その間に、インターネットで調べてみた。すると、まずはサラダ油で洗ってやり、後はシャンプーで洗い流してきれいになったとの記述があり、さらに小麦粉をまぶしたらどうだろうかなどの意見もあった。
ミャオは、ノラネコ上がりだから、この私にさえ抱かれるのはそれほど好きではないし、前にも書いた、二度の重病事件の時にも、動物病院に連れて行くまでが暴れて大変だったのだ(’08.2.10~13、’08.4.14~23の項)。とても、一人でミャオを押さえつけて、体を洗うなんてことはできるわけがない。
ミャオは、サカナを半分ほどしか食べていなかった。ともかく再び押さえつけて、小麦粉の代わりに片栗粉(でんぷん粉)を体にまぶしてみたが、やはり無水アルコールの時と同じで、べたつきは収まるが、粘着剤そのものがとれるわけではない。
ミャオは、効果がないとも知らずに、繰り返し繰り返し、汚れた毛をなめている。私の胸は、痛んだ。ミャオが悪かったわけではない、すべては私の不注意から出たことだ。
夜になってもミャオは、私と家の中からは離れて、ベランダにいた。しかし、さすがに寒くなって来て、3時間ほど経ってから、ストーヴの前にやって来て座った。相変わらず、自分の毛をなめながら。
そして、横になった。私は、体をなでてやりながら、そのすきに、ハサミで固まった毛の部分を切った。ジロリとミャオが私を見る。分かるのだろう。
一部は手で取ったりして、何とかひどくべたつくところはないようになったが、それにしても、ミャオにしてみればいっちょうらの毛皮であり、毛先で感じる大切な感覚器官でもあるのだ。
一晩様子を見て、明日、二度も命を助けてもらったあの動物病院に連れて行くかどうかを決めよう。
ミャオは、おとなしくコタツの中に入って行った。私は電気を消してミャオの部屋を出た。申し訳ない思いでいっぱいだった。
そして今日の朝、ミャオは、いつもならコタツの中からすぐに顔を出すのに、しばらくしてようやく出てきた。さわってみると、なかなかさわらしてくれない前足の部分を除いて、すっかり固まっていて、余りべたつくところはない。
さらに、ミャオがまた、丸くなって寝たところで、ハサミで所々、切ってやった。そして記録に残すべく、そのネズミのついたままの恨みの粘着シートを、寝ているミャオの後ろに置いて、写真を撮った。
そして、今日一日が過ぎた。ミャオはあきらめたのか、もうそれほどには、汚れたところの毛をなめなくなった。
夕方には、しっかりとコアジ二匹を食べて、いつものようにストーヴの前で寝ている。
このまま放っておけばいつしか毛は抜け落ちてしまい、また新たに生え換わるのだから、いいのかもしれないが、それまでの長い間、ミャオは、汚れ固まった部分の毛の感覚が失われることになる。
それは、野生を残した動物たちにとって決して良いことではない。何とか少しずつでも、暴れるミャオを押さえつけてでも、とってやるべきなのだろうか。
しかし考えれば、やはり素人判断は、するべきではない。明日、動物病院に相談して見よう。私には大切な、ミャオのため、つまりは自分のためなのだから・・・。」
12月6日
晴れて暖かい日が続いている。寒さが苦手のワタシたちネコ族にとっては、結構なことだ。
ワタシは、そんな日々を、まず午前中に飼い主と一緒に散歩に出かけて、その後は、夕方のサカナの時間までをベランダで寝て過ごす。
ありがたいことに、飼い主は土日などは余り出かけることもないから、安心して、家のベランダにいることができる。飼い主は部屋にいて、機械の動く音が聞こえ、何やら仕事をしているようだ。
そんな時には、なるべく邪魔をしないように、部屋の方には行かないことにしている。いつか鳴きながら部屋に入って行ったら、不機嫌な顔で、怒鳴られたことがあるからだ。飼いネコも、いろいろと気を使うのだ。
ただでさえ怖い顔なのに、怒ったらどんなイヤな顔になるか、自分で知っているのだろうか。時々、鏡を取り出してきて、ニヤニヤ笑いながらワタシの前に差し出したりするが、そんなしょーもないことをしてるヒマがあったら、自分のだらしない顔でも見てほしい。
言いたくはないけれど、ワタシたち犬猫は、愛玩(あいがん)動物、つまりペットとして生きているわけだから、人間から見れば、ワタシたちの顔が可愛いのは当たり前であり、誰も自分の顔のことなんか気にしない。
ところが人間たちは、まず何よりも見た目を重視していて、生きて行く上で一番大事な、真心や行いなどは後回しになる。だから、ゴロニャンの関係になった後で、いろんなアラが見えてきて、ゴタゴタと問題になるのだ。
そのあおりを食ったのが、情けないわが飼い主だ。アホな中年男ヅラ下げて、可愛いねえちゃんたちの前では、どぎまぎしてゆであがった鬼瓦顔だ。
あーあ、アホくさ。ワタシの前では、時々、赤ちゃん言葉で甘えてくるくせに。
とは言っても、ワタシが先に死んだら、このアホな飼い主の面倒を誰が見てくれるというのだ。なんとか、長生きしなければ。
江戸時代の古い読み物、草紙などには、「歳ふりたネコマタというものありける・・・」などと書いてあるというが、あれはネコのお化とのことだし。
「師走とは思えない、暖かさだ。この三日間、空気は澄んで晴れ渡り、18度くらいにまで気温が上がった。
もう1カ月以上も行っていない山登りには、うってつけの日よりだったのだが、今の時期の九州の山には見るべきものは何もない。紅葉は1カ月前に終わり、霧氷や雪に覆われる冬山の姿も、この暖かさでは、まだ先になりそうだ。
仕方なく、家の周りの山道を歩くことにした。余りクルマは来ないから、青空の下、周りの山々の景色を楽しみながら歩いて行くことができる。
しかし、わずか1時間ほどだったが、次の日には、スネの筋肉が痛くなっていた。情けないことに、余りにも山に行く間隔が開きすぎたためだ。
このところ庭の片付けも一段落したし、離れた町まで出かけて行く仕事も今は中休みだし、時間があったので、長年気がかりだった写真フィルムの整理に取り掛かり始めた。
高校生の時から始めた写真、そのフィルムが、35ミリネガ、ポジ、そして中判645と、うんざりするほどにたまっているのだ。いつも言うように、写真は記録だとしか思っていない私に、芸術作品など一枚もないし、記録として貴重なものもない。つまりは、私の思い出のためだけの写真だから、他人には、何の意味もないものだ。
今はもう、殆どデジタル写真で撮っているから、いつでも鮮やかな液晶画面で見ることができるけれども、フィルム写真は、一枚一枚を写真屋でプリントしてもらわなければならない。
もちろんそれらのフィルムはその時々に 現像してプリントしているから、主なものはアルバムの中に見ることができるのだが、何しろサイズが小さく色あせているものも多い。
そこでいつかは、すべてのフィルムをデジタル化しなければ、と思っていたのだ。しかし余りにも膨大なフィルムの数だ・・・数百本はあるだろうし、コマ数にすれば、一万以上あるだろう。
35ミリフィルムで12コマ分、スライドで4コマ、645で3コマを一度にできるが、それぞれにゴミやカビを取り掃除していたら、20分はかかってしまう。つまり、全部のフィルムをやるとなると、計算するのも恐ろしい時間がかかってしまうのだ。
そんな時間をかけて、それを全部やる必要があるのか、それが大きな問題だ。残り少ない自分の人生の中で、そんなことをするより他に、まだやるべきことがあるのではないか。
ただ自分の思い出をたどるだけのための、単純な機械作業にしかすぎないことに、時間を割くべきなのか。
フィルムのデジタル化は、写真屋でもやってもらえるけれども、仕上がりが500万画素位と低く、モニター画面で見るには余りに粗く耐えられない。中判フィルムは、画素数が上がるが、一枚ごとの値段が高い。
そこで、フラット・ヘッドのスキャナーを買い込んで、自分でフィルム・スキャンすることにしたのだ。
家には古い複合機もあって、それにはスキャン機能が付いていて、それでフィルム・スキャンをしたことがあるのだが、出来栄え、時間ともに余り満足できるものではなく、進行しないまま時間がたっていたというわけだ。
しかし、私は決断した。生きているうちに、若い頃の自分の『舞踏会の手帖』(ジュリアン・デュヴィヴィエ監督、1937年)をたどる旅をしなければと。
私が写真を取り始めたころは、白黒とカラーの混合の時代だった。もちろんその仕上がりの差は歴然だけれども、問題はそのコストだ。学生の私にカラー写真のぜいたくを言っている余裕はなく、しばらくは、白黒フィルムだけを使って、当時流行(はや)っていた露出計付きの小型カメラで写真を撮っていた。
今回は、その白黒フィルムからスキャンをし始めた。1200画素の仕上がりにしたので時間はかかるが、仕上がりは悪くはない。当時の思い出がよみがえってくる。良くも悪くも、小生意気な顔をした、私の顔が浮かび上がる。
若者のたちが誰でもそうであるように、自意識過剰にカメラを見つめている。経験も金もないくせに、ずけずけとして若さをひけらかす顔だ。
あのベルナルド・ベルトリッチの映画、『1900年』(1976年)の中で、地主の男が、悪さをした小作人のせがれを捕まえて言っていたことを思い出した。
「オレには、何でもあるし、欲しいものは何でも手に入る。しかし、くやしいことには、何もない鼻たれ小僧のオマエには、オレにないたっぷりの未来があるのだ。」
5時間15分にも及ぶ大作映画で、同じような長編だったあのエルマンノ・オルミの『木靴の木』(1978年)とともに、変わりゆくイタリア農民の姿を描いた名作なのだが、『木靴の木』の方が、まるで絵画の一枚一枚のように、静謐(せいひつ)なシーンの積み重ねであったことと比べれば、この『1900年』は、激動期のイタリア史の流れを、時代に沿って鮮やかに描き出していた。
その中でも、あのセリフは、今でも忘れられないほどに私の胸に残っている。
そんな映画の一シーンのように、今では、私は落ち着いたひとりの中高年男の地主になり、鼻たれ小僧にしか過ぎない小生意気な若者の私を見つめているのだ。
見ない方が良かったのかもしれない。若い頃には戻りたくないのに、怖いもの見たさで開いてしまった、自分の過去の一瞬・・・。
東北の山々に、上信国境の山々に、八ヶ岳に、霧ケ峰、美ヶ原などに登った時の写真がある。(写真は、尾瀬沼からの燧ヶ岳)
その中には、可愛い娘と二人だけの山旅もあった。 秋のある日、高原のバス停で降りたのは、私たち二人だけだった。深く澄み切った空の下、遠くには新雪の北アルプスの峰々が連なっていた。
風が冷たかったけれども、誰もいない高原を、時には相寄り立ちどまりながら、時間をかけて歩いて行った。何という、絵に描いたような青春の日々だったことだろう。
ところが今になって思えば、私は卑怯(ひきょう)にも、そして愚かにも、その娘と別れてしまったのだ。
この三日間、一日の大半を、フィルム・スキャンすることで過ごした。その合間に、片手間にできるようなことは余りなかった。
私には、疲れだけが残った。あの『舞踏会の手帖』のように、苦さと甘さが入り混じるだけの青春の思い出をたどって、今さらどうなるというのだ。昔の思い出は、傷がつきゴミがつき、荒れた画像のフィルムそのものでしかない。
デジタル写真の時代に生きている私は、今や、いつでも鮮やかな画像を見せてくれる、そのデジタルカメラの写真だけを撮っていけばいいのだ。
思い出は、殆ど開くこともない古いアルバムの中に、色あせてあればいいだけのことだ。
私は、すべてのフィルムをスキャンすることはやめにした。そして、二度の長い外国旅行の時の写真だけを、単純な旅の思い出としてスキャンすることにした。特に最初の旅の時のものは、冒険的な旅行だっただけに、35ミリポジ・フィルム(マウントつきのスライド・フィルム)で撮ってあり、デジタル・スキャンするしかないのだ。
そのくらいに、とどめておくべきだろう。すべてのフィルムの一コマ一コマを呼び起こし、若き日の、他人との関係を自虐(じぎゃく)的にあぶり出した所で、いまさら何になるというのだ。
「・・・彼ら(老人)の趣味は、奪われた欲望の数々に懲(こ)りて、今や物言わぬ木石に向けられる。建築、農事、管財、学問、これらは皆彼らの意志に服従する。好きなように近づいたり遠ざかったりできるし、計画も実施も思いのままになる。望みどおりになんでもできる。こうして彼らは自分を解放して、すべてを自分に依存させるわけである。・・・」
『ラ・ロシュフコー箴言集』(二宮フサ訳 岩波文庫)
私にはやるべきことが、たくさんある。まず、何冊も買ってきて、そのままになっている本を読んでしまうこと。録画したままの、何枚ものDVDを見ること。大きな旅の記録をまとめること。そして、興味ある学科をあらためて勉強しなおすこと・・・恐らくは、これから先も、何一つ完遂(かんすい)されることはないのだろうが・・・。」
12月1日
このところは、比較的晴れて暖かい日が続いている。
ワタシは、夜に一度トイレに出た後は、コタツの中に入ってしまい、朝になって飼い主が起きてくるまでそこで寝ている。そして午前中をストーヴの前ですごし、やがて窓辺から差し込む光が十分暖かくなるころに、ベランダに出て、毛皮干しをしたり、庭で動き回っている飼い主を見たりして、時には一緒に散歩に出かけたりもする。
昨日も、飼い主は庭の落ち葉や枯れ枝を燃やしていて、ワタシはベランダから下に降り、先日の時と同じように傍に寄って行って(11月20日の項)、そこでしばらく体を温めていたのだが、飼い主がワタシの体をなでながら言った。
「動物というのは大体、火を恐れるというけれども、オマエはすっかり火に慣れていて、怖がらないどころか、こうして火の傍に寄ってくるほどだ。
まあ人間の思いこみというのは、良くあることだ。例えば、北海道に住むあの巨大なヒグマのことにしろ(8月20日、22日の項参照)、クマに遭(あ)ったら死んだふりをしろとか、山中でキャンプする時は火を燃やしていれば大丈夫だとか(山中のたき火は原則禁止であるが)、まことしやかな誤った情報が流されているんだ。
動物が火を恐れるというのは、人間が山火事になって逃げまどう動物たちを見て、思ったことなのだろうが、何にでも時と場合があるものだ。
都会の犬猫などは、燃え盛る炎など見たことがないだろうから、驚くだろうけれども、田舎の犬猫は、たき火を見ることはいつものことだから、火には慣れている。
前回書いたように、人間も動物も、歳を取って経験を積んでくると、何事にもそうびくつかなくなるものだよね。だから思うんだ、歳をとるというのは、そう悪いことばかりでもないとね。
オマエにしても、若いころの落ち着きのないミャオよりは、すっかりおばあさんネコになったけれど、今のミャオの方がずっと好きだよ。」
ニャオーンと一声、ワタシは飼い主の顔見ながら、鳴くのだ。
「数日前、遠く離れた町にまで仕事で出かけて行って、いろいろとあって夜になってしまい、家に戻ってくると、クルマの音を聞きつけたミャオが、外に出て待っていた。
可愛いものだ。遅くなった分、少し多めに生ザカナのコアジを、小さく切り分けて与えた。私の遅くなってごめんねという言葉に、ミャオはニャゴニャゴ返事しながら食べていた。
次の日は、ゆっくりと一日休養し、録画していたオペラを見ていて、思わず涙を流してしまった。
歳を取って涙もろくなったわけではないのだが、仕事のことや他の出来事などで、少しつらい気持ちになっていたからかもしれない。
そのオペラは、プッチーニの『トゥーランドット』である。今まで何度も、レコードやCDで聴き、ビデオなどでも見てきたオペラなのだが、どうしても、あのリュウが死ぬ場面になると、こみ上げてくるものがあり、時には涙を流してしまうのだ。
ジャコモ・プッチーニ(1858~1924)は、他にも、『ラ・ボエーム』『トスカ』『蝶々夫人』などの有名なオペラを作曲していて、あの『マクベス』『椿姫』『アイーダ』『オテロ』などで知られる、ジュゼッペ・ヴェルディ(1813~1901)とともにイタリア・オペラ界をのみならず、オペラ音楽史上に燦然(さんぜん)と輝く名オペラ作曲家である。
しかし、ヴェルディのオペラは、シェイクスピアなどの文豪原作ものが多くて、より芸術的な作品だと言われているのに対して、プッチーニのオペラは、通俗的でお涙ちょうだい的だと、少し低く見られているようにも思える。
もっともそれは、芥川賞作品と直木賞作品の優劣を決めるようなもので、いずれにもそれぞれの良さがあり、あくまでも読者が、文学作品として何かしらの感銘を受け満足できれば、あえて比較するまでもないことである。
同じように、これらのオペラ作品についても、芸術性云々(うんぬん)の話ではなく、観客や聴き手がそれぞれに感じ入るところがあれば、それで良いことだと思う。それが、オペラなのだから。
私は、最近ではすっかり、テレビでオペラを見るばかりになってしまった。その上に、作品や歌い手、演出や指揮者などで事前に見るか見ないか選んでしまうことも多い。
しかし、そのオペラの評価は、当然のことながら、演目やキャストで左右されるべきものではなく、ただその時に演じられた舞台を見てからのことだ。
そうして、今まで幾つものオペラ作品を見て聴いてきてはいるが、好みは限られつつある。あのバロック・オペラから、モーツァルト、ロッシーニ、そしてこのヴェルディからプッチーニあたりまでのイタリア・オペラ、さらにはワーグナーまでが私の限界だろう。
それらのよく知っているオペラは、例えば歌舞伎の名演目のように、それぞれに有名な見せ場や名場面があり、そこだけはその日の公演の良し悪しを左右する、大切なシーンでもあるのだ。
この11月下旬に、NHK・BSのハイビジョン放送で、またもや2009年度のいつものメトロポリタン・オペラが4本も放映されたのだ。ああ、ありがたや。その中でも、この『トゥーランドット』とオッフェンバックの『ホフマン物語』だけは、しっかりと録画しておこうと思った。
それほどに期待して見た二本だが、豪華な歌手達がそろった『ホフマン物語』は、また別の機会に書くとして、今回書きたいと思ったのは、思わず涙したこの『トゥーランドット』である。
物語の舞台は、中国のある時代、その王国の都、北京の王宮付近である。王国の美貌の姫君、トゥーランドットは、蛮族の侵入によって祖先のうら若き姫が略奪され凌辱(りょうじょく)されたことを恨みに思い、求婚してくる周囲の王侯貴族達に、あのスフィンクスのように、三つの謎かけをして、解けない場合は断首の刑に処し、「氷の姫君」と呼ばれていた。
そこに立ち寄った流浪の王子カラフは、その難問に挑みすべて答えてしまうが、自らも姫に謎かけをして、自分の名前が分かるかと問う。
そのころ、カラフの父親の元王である盲目の老人とその女奴隷リュウが、同じ城下にさまよい歩いて来ていて、彼らは再びめぐり会っていた。それを知って、トゥーランドットは、王子の名前を聞くべく、老人とリュウを捕えて拷問(ごうもん)にかける。(写真)
しかし、リュウは愛する王子のためにと自害して果てる。それほどまでの愛に、と目覚めたトゥーランドットはカラフの愛を受け入れる。
そんな筋書きの中で、私は、分かっていたのだ。今までも涙したことがあったし、あのプッチーニ節のメロディーにのって歌われると、またも泣かされると。
『ラ・ボエーム』で、貧しさの中、ミミが病に倒れ死んでいく時、『蝶々夫人』が、戻ってきたピンカートンが婚約者を連れてきていることを知って、自刃(じじん)に及ぶ時、そしてこの『トゥーランドット』で、女奴隷のリュウが、陰ながら慕っていた流浪の王子カラフの、トゥーランドット姫への愛が叶うようにと、自ら死んで行く時、私は、もう涙をこらえきれなくなるのだ。
何という、報われることのない愛に対する自己犠牲だろうか・・・。若き日に、私だけに一途な愛を見せてくれた娘たちに、私は、何ということをしたのだろうか・・・。私は、涙にくれながら、このオペラを見続けた。
しかし、このリュウの死の後、ラストまでのつながり方にはいつも何か違和感が残る。それはこのオペラが、プッチーニ自身の死によって最後まで完成されずに、リュウの死の所までで終わっていたことにも関係があるだろう。
そのことを嘆いても仕方がないが、書きあげられた所まででも素晴らしいオペラだし、プッチーニとしては見事な歴史劇としても仕上がっているのだ。
それには、今回の舞台演出のフランコ・ゼフィレッリの力も大きくかかわっていて、その壮大な舞台装置と衣装が素晴らしいのだ。(3月22日の項参照)
今や、ヨーロッパ・オペラが現代演劇化して、抽象的舞台装置や現代衣装になってしまっている現状と比べれば、離れた新大陸アメリカに残っているメトロポリタン・オペラには、オペラの伝統を受け継ぐ舞台演出が多く、安心して見ていられるのだ。
(文化は、波及的に広がって行き、中心部がすたれた時にはその周辺部が、今度は新たな中心部となる、という文化波及論がかつてあった。)
さらに歌手達について言えば、まずまずに満足できるキャストだった。
レコードの時代には、あのワーグナー歌手のビルギット・ニルソンが歌っていたほどの、ドラマティック・ソプラノのトゥーランドット役を、マリア・グレギーナは十分に歌い演じ切っていたと思う。
カラフのマルチェロ・ジョルダーニは、そんな彼女に比べると、十分には対抗できていない気がしたが、それは私たちが、ドミンゴやカレーラスを知っているからでもあり、さらにあの有名なアリア『誰も寝てはならぬ』だけをとれば、例えばもうその超絶のテクニックに感動するしかない、パヴァロッティの歌声を聴いているからだろう。
リュウのマリーナ・ポプラフスカヤについて、私は初めて見る歌手だったのだが、中にはその容姿をふさわしくないという人もいるようだが、余りに美人過ぎるリュウよりは、けなげに薄幸な女を演じていて十分だったように思う。
他に盲目の王を演じた、ヴェテランのサミュエル・レイミーの役域の広さにはいつも感心するばかりだし、そして王国の皇帝を演じたチャールズ・アンソニーは、何と81歳とのこと、絶句!
その幕間のインタヴューでは、さらに彼の本名が、カルーソー(レコード時代以前の超有名テノール歌手と同名)であり、若い頃、プロデューサーにカルーソーは二人もいらないと言われ、改名したとの小話も・・・。
歌声を楽しみ、舞台を楽しむ・・・いやー、やっぱり、オペラはいいなあと思う。
人間たちは、様々な面がある自分たちのそれぞれの姿を、他の人に見せるために、時には楽しく時には悲しく演じていく。何という、変わった楽しみを持っている生き物なのだろう。
自虐(じぎゃく)ネタを演じることのできる、唯一の生物なのだ、人間は。
話は変わるが、誰もが次世代にと期待している、歌舞伎界立役の伝統を背負う、あの名門俳優の事件。まさしく、新婚の奥さまの言った一言に尽きる。
生きてて良かった。」