ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

謙虚さについて

2019-03-25 23:12:09 | Weblog




 3月25日

 春だというのに、なぜか肌寒い日々が続いている。
 今日の気温は、朝-2℃で日中も8℃くらいまでしか上がらなかった。
 とてもサクラの咲くころの気温ではない。一か月前のウメの咲くころの気温だ。
 それまでは、1月2月と雪の降る日も少なくて、ユスラウメなどは1月には咲いてしまうほどの、暖冬の日々だったのに。

 季節は、今の私が山登りする時のように、ゆっくりとようやく前に進んではいるようなのだが。
 昨夜は、家のすぐそばにあるスギの木の所から、”ゴロスケホーホー”と鳴くフクロウの声が聞こえていた。
 フクロウは渡り鳥ではなくて、留鳥(りゅうちょう)なのだが、季節とともに平地から山裾の山林へと小さな移動を繰り返しているのだ。
 ちなみに、”ホーホー”と鳴く、渡り鳥でもあるミミズクの仲間、コミミズクや、アオバズクの類は、あまりこうした山里の周りでは見かけない。
  今日は、家の周りに一年中いる留鳥のキジバトが、”デデッポーポー”と鳴き交わしていた。
 とは言っても、確かに春ではある。年ごとに桜の花の開花時期が早くなってきているようだが、わが家のヤマザクラは、まだまだつぼみが固く閉じたままだ。 
 それでも、咲き始めたばかりの真っ白なコブシの花や、濃い赤のツバキの花、そしてあちこちで強い香りを漂わせている、ジンチョウゲの花(写真上)を日々、楽しむことはできるのだ。

 さていつものように、毎週欠かさずに見ている『ポツンと一軒家』(テレビ朝日系列)からの話しだが、今週もまた様々な示唆に富む、興味深い内容だった。
 前半は、島根県の山奥の一軒家に住む、88歳と86歳になるというご夫婦の話で、昔は周りの棚田の全部で米を作る稲作農家だったのだが、おじいちゃんが病気をしてからは、自分達が食べる分だけの米を作っているとのことだった。
 それでも、ここに嫁にきて60年になるというおばあちゃんは、少し離れた所にある小川から農業用水の溝を通して水を引いているとのことで、春を前にその溝さらいをしていた。
 おじいちゃんの方も、病気したとはいえ今は元気に、チェーンソーと薪(まき)割り器を使って、風呂用の薪を作りをしていた。
 そんなふうに辺りの風景が映し出されていて、この番組では定番になっているような、山奥の限界集落に取り残された最後の一軒家に、ご高齢のご夫婦が暮らしているといういつもの話しなのだが、一仕事を終えて、縁側でお茶を飲んでいる二人の姿が映し出されていたが、やがていつかその二人にも別れの時が来るのだろうが、それまでのつかのひと間の時が、少しでも長く続きますようにと祈らずにはいられなかった・・・それが生きとし生ける者たちの定めだとはしても。

 後半の一本は、前回、若い夫婦たちが移住してからの、新しい生き方につて見せてもらったのだが、それは、日本全国に無数にあるこうした過疎地での、今までの農業だけではない、新たな生活プランが可能であることを示唆していたのだが、今回はまた別な視点から、山奥の取り残された土地についての、一つの有効利用方法があることを考えさせてくれていたのだ。

 九州は熊本県球磨(くま)地方の山間部にある一軒家の話で、そこへと続く一本道の先には大きな鉄製のゲートがあって、行き止まりになっていた。
 これは、今までのような、僻地の一軒家に住む高齢のご夫婦が暮らしているような、そんな同じような話ではないというのがすぐに分かったのだが、たまたま先から降りてきた人に尋ねると、彼らは従業員で、そこには何と酒造所があるとのことだったのだ。
 やがて連絡を受けて、離れた町から、社長だという人がやってきた。
 70歳というにはダンディないでたちのその人は、知る人ぞ知る”米焼酎・鳥飼”の社長さんだったのだ。
 彼は、東京でデザインの勉強をしていたが、当時の社長である父の死で故郷に呼び戻されて、その酒蔵の跡を継ぐことになり、当時社運は傾き始めていたが、彼のアイデアでしっかりと醸造吟味された”銘酒・鳥飼”を作り始めてから、それが大ヒット商品になり、今の繁盛につながっているとのことだった。

 なぜ、この山奥に蒸留熟成工場を建てたかということだが、今も見られるように傍らに清流が流れる別天地の環境だが、一時、この辺りに大規模な産業廃棄物の処理施設ができるという話を聞いて、彼は子供のころから遊び親しんできた、故郷の自然が荒らされ破壊されてしまうことを恐れて、あたりの土地の持ち主たちを説得して、必要な酒造所の敷地の何十倍にもあたる、160ヘクタール(1ヘクタール=1町歩=3000坪)という広大な山林を、すべて買い取ったのだ。
 今までにも、そうした自然保護のために個人が尽力した例はあるのだが、例えば、個人で鳥たちにエサを撒いたりしてその環境を守ってきて、そのまま土地を売らずに、その後に”鳥類サンクチュアリ(保護地区)”として認定され、自然保護団体に買い上げてもらったことがあるように、それらは善意的な個人の力によって成し遂げられたものでもあったのだが、今回は、代々続く酒蔵の当主としての財力と熱意があったからこそのものだろうが、それにしても、新たな利益が生まれるわけでもない山林を買い上げて、周りの環境を守るために財産を使ったという、個人の力でもできる自然保護を地で行くような彼の決断力に、私は久しぶりにいい話を聞いたような気がしたのだが。

 しかし、今までにも、全国の土地が外国人に買いあさられていて、それも例えば北海道などで問題になったように、水源地を含む広大な土地にまで及んでいることが問題なのだが。
 今回の酒造所の場合は、一時大問題になった離島(瀬戸内海豊島)などでの産廃施設などの事件に対しての、一つの防止策にはなったのだろうが、それも氷山の一角に過ぎず、業者はただ代替地を探し当て、他の土地に行っただけのことだろうが。 
 海を漂うマイクロプラスティックのごみ、浜辺を埋め尽くすプラスティックごみ、工場廃棄物・営業廃棄物のごみ、原子力廃棄ごみ・・・すべて人間が作り出したごみなのだが・・・。

 と、いつの間にか、これからの人間の将来にも及ぶような、深刻な話になってしまったが、ここで話を変えて、先週特に心に残った出来事を一つ。

 大相撲春場所大阪場所、千秋楽の大関栃ノ心と関脇貴景勝の一番。
 大関陥落と大関昇進をかけた大一番。
 貴景勝にとっては、自分が好きで選んで入門した貴乃花部屋で精進を重ねて、ようやく大関横綱を狙うところまできてきたのに、それなのに大相撲界からの廃業へと追い込まれた、師匠貴乃花への思いもあって。
 その親方への恩返しをすべく、その大関へのチャンスを逃すと、もう二度とめぐってこないかもしれない昇進をかけた一番に臨んだのだ。

  一方の栃ノ心にとっては、母国ジョージア(グルジア)での様々な格闘技の経験はあるものの(サンボのヨーロッパ・チャンピオン)、文化風習の違い人種の違いを超えて、あえて挑んだ異郷の地での自分の人生をかけての大相撲の世界であり。
 途中で、自らの素行不良やケガのために余分な時間がかかったが、以後は改心して稽古に励み苦節12年、やっとの思いでつかんだ大関昇進、それをわずか5場所在位で陥落することになるかもしれないという思い、母国ジョージアからは国民英雄の勲章を受け、家族のみならず国民みんなが応援してくれているのにと、この一番に臨んだのだ。

 そして、両者の思いは土俵上で激突して・・・しかし、勝負は瞬時に決まってしまった。
 勝負を終えて、勝ち残りで土俵下の控えに座った貴景勝の眼に涙がにじんでいた。 
 一方の、栃ノ心の弁、「相手が強くて、こっちが弱かったということです。」

 そこで、前にもあげたことのある、フランスの哲学者コント=スポンヴィル(1952~)の言葉から。

「謙虚は控えめな徳である。それはおのれが徳であることさえ疑う。自分が謙虚だと自慢するものは、自分に謙虚さが欠けていることを示しているにすぎない。
 私たちはいかなる徳をも自慢すべきではないし、誇るべきでさえない。これこそが謙虚の教えである。
 謙虚はあらゆる徳を、自分が徳であることに気がつかぬほどに、ほとんど認めることさえないないほどに目立たないものにする。」

(参照:『ささやかながら、徳について』著者 アンドレ・コント=スポンヴィル、訳者 中村昇・小須田健・C・カンタン 紀伊国屋書店)
 


分相応の知恵

2019-03-18 22:54:15 | Weblog




 3月18日

 1月から2月にかけては、明らかな暖冬だと思われるほどに、雪が降った日が少なく、気温も高めに経過していたのだが、この3月は、それまでの暖冬の流れを受けてさらにとはいかずに、むしろ寒の戻りという日もあって、季節はそのまま足踏み状態のような気がしているのだが。 
 ユスラウメの花は1月に開き、ブンゴウメの花も2月には開いてしまったのだが、その後に来るはずの、あの光満ち溢れた春の暖かさには遠く及ばず、庭のシャクナゲの花のツボミも、まだまだ小さく硬いままだ。(写真上)
 数日前には、家の樹々の奥から、もどかしげに鳴くウグイスの声が、二声三声聞こえていたが、その後、とかんがえてみる。樹々の繁みは静かに黙したままだ。

 とはいうものの、時は確実に進んでいき、毎日の日付も変わっていくし、自分さえもがそうした日々に流されていることを感じるだけだ。
 年をとれば、誰でも体のあちこちに具合の悪いところの一つ二つは持っているものであり、人によっては片手の指では足りないほどだという人もいるだろうし、そういう私も、気になる箇所があちこちと出てきていて、いやでも自分の自分の人生の終末について考えざるを得ないようになるのだ。
 もちろん、それは感傷的な 悲観論としての死ではなく、限りある生をそれなりに過ごすべき手立てについて考え、しっかりと生きていくことにもなるのだが。

 今までにも、ここで何度も取り上げてきたように、あのローマ時代の政治家であり哲学者でもあったキケロー(BC106~43)が言っているように、”哲学することは死に備えることにほかならない”のであり、むしろ死についての恐怖を抱きつつ、いつもは無関心であることを装い続けることの方が、いかに悲劇的な愁嘆場(しゅうたんば)を迎えることになるのか、と思うからでもあるのだが。
 私自身が、自分の人生のすべてを強い信念をもって生きてきたというわけではないのだから、いつも周りの状況に惑わされながら、行き当たりばったりで生きてきたというところも多分にあるのだから、そのぶんこうして老年に至り、いくらかは自分の周りのことを冷静に見ることができるようになって、それだからこそ、誰にでも訪れる自分の人生の終着点について考えておくことは、決して無駄なことにはならないはずだと思っているのだ。 
 私は、多くの未練を残して、後悔にさいなまれながら死んでいきたくはないのだ。

 フランスの倫理学者モラリストであるモンテーニュ(1533~1592)の言葉から。

” 死はどこでわれわれを待っているかわからないから、いたるところでそれを待ち受けよう。
  あらかじめ死を考えておくことは自由を考えることである。
  死ぬことを学んだ者は奴隷(どれい)であることを忘れた者である。
  死の習得はわれわれをあらゆる隷属(れいぞく)と拘束から解放する。
  生命の喪失がいささかも不幸ではないことを悟った者にとってはこの世に何の不幸もない。”

(”世界文学全集11”『エセー』モンテーニュ 原二郎訳 筑摩書房)

 こうした考え方は、思うに洋の東西を問わず時代を問わず存在してきたものだから、別にあらためて拝聴するべきほどのことではないのかもしれないが、日々、世事に忙殺されている人々にとっては、心に留めておきたい言葉でもある。

 例のごとく、あの『徒然草(つれづれぐさ)』からの一節も上げておく。

” 死期は序(ついで)を待たず。
  死は、前よりも来たらず、かねて後ろに迫れり。 
  人皆死あることを知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来たる。
  沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し。”

(『徒然草』吉田兼好 岩波文庫)

 ただし、モンテーニュは、”哲学的な探求と思索はわれわれの好奇心を育てることにしか役立たない。”と警告することも忘れてはいないのだ。

” 自然はわれわれに歩くための足を与えてくれたように、人生に処していくための知恵を与えてくれた。
  もっとも、哲学者が考え出したような巧妙な、頑丈な大げさなものではなくて、分相応の平易な健康な知恵である。
  純朴に正しく生きることを、言い換えれば自然に生きることを知っている人にとっては、哲学者の知恵が口先だけで言うことを、立派に果たしてくれる知恵である。
 もっとも単純に身を任せることはもっとも懸命な任せ方である。
 ああ、無知と単純とはよくできた頭を休めるには何と柔く、快い、健康な枕であろう。”

(前掲『エセー』より)

 しかし、こうしたモンテーニュの考え方は、後年パスカル(1623~62)などから、”彼の死についての意見は、畏(おそ)れもなく悔いもなく、救いに対する無関心さを吹き込むことにになる”などと言われて、キリスト教徒としての批判にさらされることになるのだが。 
 しかし、このパスカルや、近代哲学への道を開いたあのデカルト(1596~1632)などよりも、さらに昔の時代に生きた、哲学者というよりは倫理学者でありモラリストであった、モンテーニュの方に心惹(ひ)かれてしまうのは、山が好きで自然の中にいることが好きな私としては、当然のことかもしれないが。

 昨日たまたま見た『ナニコレ珍百景』(テレビ朝日系列)に出ていた二人のおばあちゃんに、感心することしきりだった。
 一人は、九州は筑豊地方添田(そえだ)町に住む今年88歳(あの三浦雄一郎さんの三つ年上)にもなるというおばあちゃんが、近くの山に毎日登っているというのだ。
 岩石山(がんじゃくざん、454m)は、戦国時代には山城が築かれていて、今もその跡が残っていて山頂部には立派な祠(ほこら)も祭られているのだが、その城跡に至るまでの途中には、花崗岩の岩があちこちに露頭していて、さすが難攻不落を誇った山城だったのだろうと思わせるのだが、そんな山に、自宅から登山口まで20分、そこから頂上まで1時間かかり、往復で約3時間の道のりのところを、とても御高齢とは思えぬ足取りで、所々険しいところもある山道を毎日つえをついて登っているのだ。 

 それも、雨が降ろうが雪が降ろうが、法事の日を除いてこの48年間、毎日欠かさず登っているとのことで、時間があれば毎日2回往復しているが、多いときには3回往復することもあるというのだ。(計算すると、この山に登ったのは、なんと3万回にもなるそうだが。)
 さらにスタッフの問いに答えて言うには、富士山には若いころ3度登ったことがあるが、大変じゃななかったと言っていたけれども、彼女の毎日山に登る足取りからすれば、あながち威勢だけだとは思えなかった。
 「元気をもらうために山に登っています」という言葉の中に、おばあちゃんの自然に対する謙虚な感謝の気持ちが表れていた。

 そんなおばあちゃんから見れば、まだ鼻たれ小僧にもならない私が、なだらかな九重の山ごときで弱音を吐いてる姿なんぞ、とても見られたもんじゃない。
 はい、深く反省しております。”謝るだけならサルでもできる。”

 もう一人のおばあちゃんは96歳で、北海道は弟子屈(てしかが)町で、今なお昔から続く古い小さな商店を一人でやっているのだが、足が痛くなってきて毎年店を止めようと思っているのだが、周りの人が毎日”ばあちゃん”と訪ねてくるのでやめるわけにもいかないし、顔の肌つやも若々しく、早口の話し言葉とともにとてもその年には見えないほどで、ただ店を少しでも長く続けるためにと、毎日家の周りを痛む足で散歩していた。

 再び『エセー』からの言葉をあげておく。

” 自然はやさしい案内者である。だが、それに劣らず、賢明で公正な案内者である。”

 先週の『ブラタモリ』、前回からの引き続き徳島県であり、その中で讃岐山脈と四国山脈の間に挟まれた、吉野川流域の、中央構造線の地形が実地説明されていて、番組で喜んでいたタモリさんならずとも、地理地質学ファンならだれでも、図面としては理解していた、あの西日本の中央部を地質学的に分断する断層線を見ることができて、実に興味深かったはずだ。 
 この冬に放送されたNHKの『ジオ・ジャパン~絶景列島を行く~』第1集の九州から、第4集の東北・北海道までの4回のシリーズの放送は、今まで書籍や地図帳でしか見ていなかったものが、実写の映像やコンピューター・グラフィック画面として目の当たりに映し出されていて、これまたファンとしては十分に興奮する企画だった。

 まだまだ、知識欲に顔の皮までつっぱったこのじじい、そうやすやすと死んでたまるかと思っているのではありますが。

(上記以外の参考文献:『老年について』キケロー 中務哲郎訳 岩波文庫、『生の短さについて』セネカ 大西英文訳 岩波文庫、『死の思索』松浪信三郎 岩波新書、『いのちの作法』中野孝次 青春新書)


それぞれの田舎暮らし

2019-03-11 22:10:53 | Weblog




 3月11日

 ”3.11.”・・・今は、8年前に起きたあの未曽有の災害について、頭(こうべ)を垂れて黙とうすることしかできないけれど、”ニューヨーク 9.11”とともに、私が今までニュース映像として見て来たものの中で、信じられないほどに、最も衝撃的なものであった。
 もちろんこの世の中には、さらに言えば映像が残っていない昔の時代まで入れれば、さらに信じられないほどの、様々な出来事、事件が起きたのであろうが・・・ただ私たちはそれらの出来事を知らないままに、安穏(あんのん)と自分の毎日を送っていただけなのだろうが・・・。
 そういうことなのだろう。かの地を思いやることはできても、今、自分の眼の間にある日常は、季節どおりに過ぎていくだけのことなのだから。

 例年と比べれば、明らかに暖かい冬の季節が通り過ぎて、しかしまだ寒い日もあって、数日前、九重は牧ノ戸峠のライブカメラには、雪化粧した山の姿が映っていた。
 一瞬、不意を突かれた寒波の戻りによる冬景色を見て、しかし今から出かけるには遅すぎるし、何より前回に登った時と同じような、あの春先の泥水ぬかるみの道を思うととても出かけて行く気にはならなかった。
 もう次に行くのは、春の花の季節、黄色のマンサクや白や薄紅のアセビの花が咲くころになるのだろうが。
 こうして、自分で理屈をつけては、日々、山から足が遠のいていくことになるのだ。
 あのボーボワールの『第二の性』からの受け売りになるかもしれないけれど、”人間はいつしか年寄りになるのではない、自らを年寄り扱いにして年寄りになって行くのだ”ということなのかもしれない。
 しかし、繰り返し言うことになるけれども、年寄りになっていくことが決して悪いことではないのだ。

 ” そして敗北感を味わうのではなくて、優越感をもって私たちが年をとってそのような(若いころ年寄りたちを馬鹿にしたような)年代を卒業し、ちょっぴり賢くなり、辛抱強くなったと考えよう。”

(『人は成熟するにつれて若くなる』ヘルマン・ヘッセ 岡田朝雄訳 草思社文庫)

 庭のウメの花も、満開から盛りを過ぎて、今はもう半分ほどが散ってしまい、あの香りだけが残っている。
 すべてにおいて、例年よりは早めに春が近づいてきていて、次のサクラの花を待つころになってしまった。 
 他にも、ツバキの花が咲き始め(冒頭にあげた写真は直径10㎝ほどもある大ぶりのヤエツバキの花)、あの香りかぐわしいジンチョウゲの花も、そのいくつかがほころびはじめてきている。
 まだマイナスになる日もあるけれども、季節はもう、疑いもなく春の初めからさらに進みつつあるのだ。

 さて、いつものように先週のテレビ番組からだけれども、『ブラタモリ』の今回は徳島の話しだが、名物の”阿波踊り”が、地元の”藍(あい)染め染料生産の隆盛とともにあったというのは、実に興味深い話しだったのだが、この番組の冒頭で、彼が”これで国内すべての都道府県を訪れたことになる”と言っていたことや、『日本人のおなまえっ』でも、今回は日本の昔話にある名前の話しだったのだが、まだまだなるほどとうなづくことばかりで、ただその前の回の放送では、”日本人の名前のほとんどが、町民農民にも、江戸時代前にはすでに名づけられていた”という、総論的な話でまとめられていたことを考え合わせると、これは、もう両番組の放送が終わりに近いのではないのかとも思われてしまい・・・”ひじょうに、きびしー”とはあの財津一郎の古いギャグだが(若い人は知らないだろうが)、それにちなんで言えば、”ひじょうに、さびしいー”ことになるやも知れず。

 それでも、まだ毎週楽しみにしている番組が残っている。いつもここで取り上げている『ポツンと一軒家』である。
 この1時間枠の番組内に、普通は二つの話が入っているのだが、今回は和歌山県の話だけの一本だけだったが、それだけでも十分なほどに素晴らしい家族の話になっていた。
 今から9年前、まだ30代だった若い夫婦が、人里離れた田舎暮らしを始めようと、和歌山県の山奥にある一軒家とその周りの土地を合わせて手に入れて、まだ小さい子供たち二人を連れて移住してきたのだ。
 家の周りにある田んぼや畑で、自分たちの食べるコメや野菜を作り、草刈りの手間がかからぬようにと三頭のヤギ(白いヤギの両親から黒いヤギの子供が生まれたとニュースになったそうだ)と一頭のブタを飼い、放し飼いのニワトリは毎日タマゴを生み、人慣れしていない犬はよく吠えて、イノシシ、シカなどの害獣へのよい番犬になっていたし、前の持ち主がしっかりと建てていた家には、大きな薪(まき)ストーヴがあり、雪が積もる冬でもこれ一つあるだけで十分だと言っていた。
 風呂は、こうした田舎暮らしには定番の薪による五右衛門風呂ががあって、いつも一人で下の学校に通っている小学生の息子は、この風呂が大好きだと言っていたし、夏になって家の前に流れるきれいな川で遊ぶのが楽しみだと言っていた。
 たまたま戻ってきていた上の姉は、高校生になって下の町のおばあさんのもとで学校に通っているが、近くを通る電車の音が気になると言っていたし、大きくなってからも、こうした静かな田舎で暮らしたい、少しセミや虫たちの音がうるさいけれどもと笑いながら話していた。

 まだ40代半ばの父親は、都会での他人を相手の勤め人の暮らしができなくて、一人で何でもできるしやらなければならない田舎暮らしをしたくて、ここにやってきたのとのことだが、一人で炭焼き窯(かま)を作り、今ではウバメガシから作る立派な備長炭(びんちょうたん)を近隣の料理店に出荷しているのだと言っていた。
 彼より少し年上の奥さんの方は、近くの森林組合の圃場(ほじょう)に手伝いに行っているとのことだが、自分で染色から手縫いまでもやって衣類を作り、娘の子供時代の服は全部作っていたのだそうで、娘が好きだったというピンク色の服が並んでいた。
 そして、この家にはテレビがなくて、奥さんは一緒に働いている女の人たちから『ポツンと一軒家』という番組があることを知らされたそうだ。
 今や、この『ポツンと一軒家』は、全国の過疎地域での”輝く期待の星”的な番組になっていて、地元民の話題の中心になっているほどの番組だから、毎回取り上げられた人たちは、”ついにわが家にも来たか”と思うそうだが、そんなことも知らない、純朴な田舎暮らしを楽しむこの一家は、むしろカントリーライフを楽しむ一家と呼んだほうがいいような、新世代の『ポツンと一軒家』を見せられたような気がして、なんともうれしい気持ちになったものだ。

 もちろん、今までこの番組で放送されてきた、それぞれに古くから続く山奥の一軒家の話も、各家ごとにに歴史があり事情があって、毎回興味深いものばかりだったのだが、それぞれに高齢になった彼らの生活を考えると、今後はどうなるのだろうかという心配があったのだが、今回の夫婦はまだ若く、今学校に通っている子供たちのこれからを含めて、どうなっていくのだろうかという興味もわいてくるのだが。
 もし今回の家族の話が、彼らがこの地に移住してきたころからの映像として撮られていたら、それはまた別の優れたドキュメンタリー・ドラマになっていたのにと思ったりもするのだが。
 というのも、私の北海道の友だち知人たちには、そうした田舎暮らしやカントリーライフを求めて移住してきた人たちが多くて、私もその端くれの一人だったのだが、今の生活事情も含めて、その裏側にある多くの困難ごとにも思いをはせるていくと、とても他人事には思えなかったのだ。

 思えば、昔の『北の国から』のドラマに始まって、不定期なドキュメンタリーとして放送されていた『大草原の少女みゆきちゃん』、さらには方向性は違うが、北海道の『ムツゴロウ動物王国』や、子だくさんの大家族の日常をドラマ的なドキュメンタリーとして撮影していた『ビッグダディ』シリーズ、さらには田舎暮らしをテーマにした、あの”いかりや長介”が初代ナレーターだったころから続く長寿番組の『人生の楽園』などなどを思い出してしまったのだ。

 いつの世にも、都会や町中にしか住めない人と田舎にしか住めない人がいて、その割合は100対1にもならないのだろうが、実はそのはざまで心揺れ動く人たちが大勢いて、この番組が同時間帯のテレビ視聴率1位になっているというのも、そうした”隠れ田舎ファン”が多いということを証明しているのではないのだろうか。 
 古い昔の言葉だが、アメリカの地理学者センプルが言ったように、”人間は地球を母として生まれてきたその子供なのだから・・・”、いつでもその内懐(うちふところ)へ戻りたいという気持ちがあるのも、これまた当然のことなのだ。 
 ただ、便利な都会に住み続けるという日常が、いつしか慣れや慣習となって、自然という存在をただ遠くにあるものとしてしか見ないようになることを、私は一番恐れているのだ。
 ある面では都会の便利さに頼りつつも、田舎の静穏さも味わうことのできるようなことが、つまり、両者に敬意を払うような生き方はできないのだろうか、とも考えてみるのだが。               

 未開民族たちの中に受け継がれてきた、すべての物事の中に魂が宿っているとする宗教心は、アニミズムと呼ばれてきたのだが、それは自然界の物事を畏怖(いふ)する心というよりは、自分たち人間と対等にある生物たちへの、尊敬の気持ちから生まれてきたものではなかったのか。
 一緒に暮らす家族はもとより、犬もヒツジもブタもニワトリも、鳥や虫たちも稲穂も野菜も、ウバメガシの木も、同じ大切な仲間たちなのだ。

 そうした思いを持つ人々が、へき地の人里離れた場所に住むということは、たんに都会での息苦しさや田舎へのあこがれというものだけで、実行できるものではない。
 そこで、あのアメリカでの山奥での移住生活を描いた名著『森の生活』の一節から。

”  私が森へ行ったのは、思慮深く生き、人生の本質的な事実のみに直面し、人生が教えてくれるものを自分が学び取れるかどうか確かめてみたかったからである。
 死ぬときになって、自分が生きてはいなかったことを発見するようなはめにおちいりたくなかったからである。
 人生とはいえないような人生は生きたくなかった。生きるということはそんなにもたいせつなのだから。”

(『森の生活(ウォールデン)』H.D.ソロー著 飯田実訳 岩波文庫)

 ともかく、今回の『ポツンと一軒家』の和歌山編での家族の生き方は、この時のプロデューサーの意向もあったのだろうが、今までとは違う別な切り口として、番組に新しい光を与えてくれたような気がするし、私の立場から見ても、若いころの私と今の自分を考えさせてくれることにもなったのだと思う。
 良くも悪しくも、私は若かったのだ。
 ありがとう。


昔の写真から

2019-03-04 22:38:03 | Weblog




 3月4日

 前回、家のウメの花が咲いている写真を載せたのだが、そのウメも今では満開になっていて、チュルチュルと甘い鳴き声をあげてメジロの群れがやって来る。
 向こうのカヤ原の方からは、ホオジロのさえずりも聞こえている。
 まさに春本番の光景だが、意外に気温は上がらず、雨や曇りのぐずついた日々が続いている。
 もちろん、3月になったからといって、急に春の陽気いっぱいの、ぽかぽか天気になるというわけでもないのだが、今年は冬が短かっただけに、余計にそう思えてしまうのだ。

 まあ、季節の初めはそうしたものだろうが、去年に続いて今年も、今頃になると何かやり残しているような、後ろめたい気がするのだ。
 というのも、長い間、冬の間の自分の恒例の山登り行事になっていた、北アルプスや東北の山々への雪山行脚(あんぎゃ)の旅に、今年も出かけなかったからだ。
 原因は、簡単なことだ。
 年寄りになってきて、本来私の中に在る”ぐうたら”ぶりが、さらに勢いを増してきたというべきか。
 遠征登山に出かける時、途中どうしても越えて行かなければならない、あの都会の雑踏や、宿泊先、交通便などを調べて手配することなどが思い浮かんできて、すっかりおっくうになってしまうのだ。
 
 あの小津安二郎の不朽の名作『東京物語』(1953年)で、尾道に住む(笠智衆と東山千栄子演じる)老夫婦が、東京の息子や娘たちのもとへと訪ねて来たのだが、それぞれの子供たちのあわただしい家庭の事情を知ることになり、そのまま疲れ果てた旅を終えて尾道に戻ってきたのだが、その帰りの汽車の中で妻の具合が悪くなり寝込んでしまい、その知らせを受けた子供たちが尾道に駆けつけたのだが、彼女はそのまま亡くなってしまう。
 葬式の後、それぞれに仕事のある子供たちは、あわただしく東京に戻って行ってしまったが、その後も最後まで残っていろいろ手伝ってくれた、戦争で死んだ次男の嫁である原節子に、義理の父親である笠智衆が、「東京に行った時から、実の子供たちよりはいわば他人であるあなたに一番世話になって」と言いながら妻の形見だとして、彼女に懐中時計を渡すのだが、それを聞いて目に涙いっぱい浮かべて両手で顔を覆い泣く原節子・・・、その彼女も東京に戻って行ってしまい、海峡の海を眺める家に一人ぽつねんと座る彼の姿・・・。

 全く、心に残る見事なラストシーンだった。

 若いころにはさほど気にはならなかった映画でも、年を重ねていくとともに、じわりじわりと心に響いてくるようになる、ということはよくあることだが。
 それは映画だけに及ばず、もちろん小説や散文、詩歌、絵画、音楽などにも言えることだし、大きく広げて言えば、人生におけるすべてのことについても言えることなのかもしれない。
 私がここにいつも書くことだが、”若いころに戻りたくはない、年寄りになった今が一番いい”と思うのは、何も強がりや体裁をつけて言っているわけではなく、まさに今の年になってからこそ、すべての物事が、ぼんやりとではあるが、定まった形で見えてくるような気がしているからだ。
 それは、単純なことだ。
 物事は、いつも多面的な側面を持っていて、今見えている正面だけではなく、見えていない様々な形や意味を含めての姿であるということ。
 それを長年の実体験によって、自分の中で積みかさねられてきたものが、より確かな総合的判断力になって、今あるものの見方に影響を及ぼしているのではないのかと思うのだ。

 もちろんそれで、世の中のことすべてが分かったなどと大それた口を利くつもりなどはないし、まだまだ自分が、経験値を重ねていく途上にあることは間違いないのだが、ただ少なくとも言えることは、感覚や感情に大きく支配されて、正面からしかものを見られなかった若いころと比べれば、年寄りになってからは、少なくとも一歩下がっての、時間はかかるにしても、昔よりは多少とも冷静な判断ができるようになったのではないかということだ。
 だから、じいさんになった今の自分が好き!八丈島のきょん!(マンガ”こまわりくん”での意味のない感嘆詞)

 それで、前回書いた十数年前の中央アルプスは宝剣岳での話だが、この時、無理をして千畳敷(せんじょうじき)の高額なホテルに泊まって、それだけに朝夕に素晴らしい光景を見ることができたのだが、この時の山旅の印象は、目的の木曽駒ヶ岳や宝剣岳の印象以上に、この千畳敷からの朝夕の南アルプスの眺めにあったのだ。
 その時の、写真を二枚。(上、南アルプス北岳と間ノ岳の夕映え。下、同じ場所からの富士山を間にしての南アルプス北岳から塩見岳までの朝焼け。いずれも中判カメラによるフィルム写真よりデジタルスキャン。)




 さてここで書いておかなければならないことがあるのだが、それはこの時の宝剣岳の話は、YouTubeからの一般の人の投稿画像を見ての話しだったのだが、実はYouTubeでは、一度自分でその項目を検索して見ると、次回からそれに関連付けた項目がリストアップされていて、まあネットの広告方法としては当然のことなのだが、そこには、この動画の作者であるKen Fujimotoさん制作の他の作品、岩登りや沢登りなどの動画が何本も表示されていたのだ。
 パソコン画面に並んでいたこの動画のサイトに、山好きな私が食いつかないわけがない。
 すぐに3本を見たのだが(制限付きのWiFiだから無制限には見られない)、それらはすべて岩稜登攀(とうはん)の映像であり、夏の剱岳三の窓雪渓から北方稜線、夏の西穂高岳からジャンダルム・奥穂高岳、そして冬の八ヶ岳中山尾根横岳西壁などで、どこかの総理大臣の土俵上での言葉ではないけれど、それは感心したといえるほどに、うまく編集された山の登攀動画の番組になっていたのだ。
 まずはGoPro社製の、ヘルメット装着小型カメラの映像がいい仕事をしていて、ルート上の危険個所が目に見えてよくわかること、さらにはこの登攀前後のふもとに着くまでや帰りの時の彼らの話が、前回は邪魔だとも思っていたのだが、よく聞いてみると関西の掛け合い漫才を見ているようで面白いこと。 
 これらの動画シリーズからわかってくるのは、今40代初めになった作者のfujimotoさんが、大阪のある山岳会に所属していて、その仲間たちとのクライミングや沢登りなどが撮られていて、その会の仲間数人で写っていることもあれば、仲の良い先輩のHさんと二人きりの時もあり、この時の二人のテントやクルマの中での掛け合い話が面白くて、もっと聞いていたいと思うほどなのだ。

 それは、何よりも彼の親しみやすい人柄と、時々外人に間違われるという彼のハンサムな外見もあって(登山道を歩いていて、彼のYouTubを見ていると声をかけられていたくらいだから)、どうしてなかなかの人気者なのだ。 
 さらに、これも言っておきたいのだが、彼の動画編集技術も大したものであり、始めと終わりに流れる音楽のセンスも、全くの素人とは思えないし、もしかしたらそうした会社に勤めているのかもと思ってしまうほどである。 
 ちなみに、この動画にも大手のCMが流れていたから、今ではもう立派なスポンサーがついているのかもしれない。

 ただこの八ヶ岳の時の映像においても、同じように不満な点があるのだが、私は前回の話で、頂上からの展望映像がないことが残念だったと書いていたのだが、それはこの八ヶ岳の時も同じだった。
 今回の横岳西壁、中山尾根登攀はともかくとして、それを終えて縦走路に出た後、そのまま横岳にも赤岳にも登らずに、地蔵尾根からの登山道で下山したことだ。
 その日の天気は素晴らしく、富士山、南アルプス、北アルプスなどが見えていたにもかかわらず、それらをちゃんと撮った映像がなかったことだ。

 つまり、彼らはロッククライマーとしての岩稜氷壁登攀や、シャワー・クライミングで滝などを登る沢登り屋であって、ハイキングやトレッキングをして眺めを楽しむ普通の登山者ではないということだ、まあそれらの要素が少しずつ組み合わさった、私のような人間もいるのだが。
 ともかく、前回書いたように山登りというものは実に多岐にわたっているし、ロッククライマーの先には、オリンピック競技にもなった人工壁への速さとルートを競うスポーツ・クライミングやボルダリングなどの世界があるし、バリエーション・ルートをたどるアルピニストの先には、ヒマラヤ未登峰未登ルートなどの登攀などがあるのだろうし、それらは、私たち山歩きを主とするトレッカーたちとは全く違う世界であり、今では競技としてのトレイルラン(山岳マラソン)に参加する人も多いし、他にも山スキーを楽しむ人もいるし、沢登りだけが好きだという人もいるし、すべて一抱えにして登山というには無理があるような多様化の時代になったのだろうが。

 ところで、彼らは次の日に赤岳の主稜尾根に取り付いていたのだが、悪天候で断念して、登山口の美濃戸(みのと)から下の駐車場がある美濃戸口まで歩いて行くことになるのだが(私も下山時に歩いていて車に乗せてもらったことがあるが)、その時に二人の間で”百名山”の話になり、先輩のほうが”あんなじいさんが一人で作った百名山なんてくだらない”といって彼に話を振ったが、彼は”はなからそんなもん興味ありません”と答えていた。

 私は今までも書いてきたように、”百名山”にこだわって登るくらいなら、好きな山に二度三度登るほうがましだと思っているし、世の中には知られていない名山が数多くあるし、私が長い間、北海道の日高山脈に集中して登ってきたのも、そんな思いからであるが、一方では、深田久弥氏自体の山への考え方は、尊敬するに値するものだと思うし、彼が書いた山の本を私は何冊も持っているくらいだが、こと“百名山”の選定においては、彼があまりにも歴史的にという項目に重きを置いているために、私の考える名山基準からは外れるものが多く、彼の”百名山”の選定には異を唱えたくなる一人なのだが。

 ただ、こうして彼らから悪(あ)しざまに深田氏のことを悪く言われると、私の反骨精神が起き上がってくるのだ。
 若いころは、岩への技術が楽しい岩稜登攀だけにはまっていても、それはそれでいいことだが、そうしたクライミングの技術は果たして幾つまでやれるものだろうか、さらには、一時期夢中になっただけで、若くしてクライマーの世界から離れてしまう人が数多くいて、彼らは山登りからも遠ざかってしまうことが多いようだ。
 しかしそうではなくて、危険要素の少ない普通の山歩きから山登りを楽しんでいれば、それは年をとっても自分が歩ける間は、いつまでも山を楽しめるのにと思ってしまうのだが。
 要するに、岩登りという冒険の中に自分の身を置くのが好きだということと、大自然である山の中に身を置くのが好き、というものの違いではないのだろうか。
 それは、どうこう言うべき良し悪しのものではなく、ただ自分の好み性向の差に過ぎないのだろうが。
 それでも私は山が好き、八丈島のきょん!

 今回もまたしても山の話で、長々と書いてきてしまったが、例のごとく、「ポツンと一軒家」からのお話を。
 まずは前々回の番組から、岐阜県の山奥に住む昔は豪農だっという家の、三男坊だった今年93歳になるというおじいさんの話しで、昔はこの家に両親祖父母そして11兄弟の子供たち含めて15人で住んでいたというが、今では自分たち老夫婦とその娘の60代の夫婦の4人で住んでいるとのこと。
 しかし、このおじいちゃんは見た目も若く足腰もしっかりしていて、ちゃんとした足取りで二階の階段にも上がっていた。
 そして、この家の庭先から見える光景がまた素晴らしかった・・・木曽川が流れ下ってきていて、遠く拳(こぶし)を伏せたような形の恵那山の姿も見えていた。(左手遠く連嶺の形で見えていたのはあの木曽御嶽山では。)
 何回か前にここにも書いていた、あの宮崎の山奥の一軒家に住む夫婦も、谷間の先にある眺めがあるからいやされると言っていたが。 

 そして、昨日放送されたものは、宮崎県と広島県の山奥にある一軒家であり、それぞれに似たような話で、昔は集落があって人々が住んでいたが、今はすべての家から人々が離れて行ってしまい誰もいなくなり、ただ自分だけがシイタケのほだ木作りのために、あるいは野菜を作るために時々来ているとのことで、そして一年に一度集まる昔の集落の人たちが帰ってこられるように、道の整備をして、あるいは孫たちがいつでも遊びに来られるように家の手入れなどをしているのだと言っていたが、それぞれに73歳と76歳にもなるおじいちゃんたちが、あと何年できることだろうかと思ってしまうのだが。
 周りにある、朽ちかけて倒壊しかかっている集落の他の家と同じように、今あるこの家もやがては朽ち果ててしまうのだろうが。
 そこに、昔から続いてきた日本の山奥の集落の、栄枯盛衰の歴史を見る思いがして・・・これも時の流れかと思うのだが。

 何よりも、人は”今を生きる”ことが、もっとも大切なことなのだから。