ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

枯葉・秋の歌

2016-11-28 21:18:43 | Weblog



 11月28日

 ”秋の日の ヴィオロン(ヴァイオリン)のためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲し。”

 確か、高校の国語の教科書に載っていたように記憶しているが、秋についての一篇の詩をといえば、すぐに思い浮かぶのが、この一節である。
 今までにも、秋が過ぎ行くころになると、このブログでもたびたび取り上げてきたのだが、今回は上にあげた冒頭の第一節目だけではなく、続く残りの二節についても併せて載せておくことにする。

  "鐘のおとに 胸ふたぎ 色かえて涙ぐむ 過ぎし日のおもいでや。

   げにわれは うらぶれて ここかしこ さだめなく とび散らう 落葉かな。”

 (WEB上の”青空文庫” 上田敏「海潮音」より)

 誰でもが聞いたことのあるだろう、この有名な詩は、フランスの詩人、ヴェルレーヌ(1844~96)によるものであり、それを明治時代から大正時代初期にかけての文学者、上田敏(うえだびん、1874~1916)が和訳して、「落葉」という題名をつけたものである。
 その後、あの堀口大学(1892~1981)による、訳詩集もあり(新潮文庫)、他の現代語訳もあるようだが、私にとっては、この古い韻を含んだ古典文体の訳文が、一番しっくりと口になじむ気がするのだ。
 今ではもう、”伝統芸能”の舞台以外では使われることもない、”古典文体”・・・しかし、そんな古めかしい文体になじんでいる私たちだから、年寄り趣味だと言われるのでもあろうが、しかしこのまま、文学研究者や愛好者たちだけのもので、一般には理解されないまま、いつしか時の流れの中で埋もれてしまうのは、あまりにも惜しい気がする。 

 思えば、飛鳥・奈良の”万葉集”の時代から、培(つちか)われ進化してきた日本語の文体が、あの『平家物語』の有名な冒頭部分、”祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり・・・”に見られるように、早くもその時代には一つの頂点を築き上げ(琵琶の弾き語りという、聞かせるための口伝”くでん”文章であったことにもよるのだろうが)、さらに時代とともに生まれた幾多の名文の数々を経て、近世の町方文化の洗練の極みとしての、浄瑠璃(じょうるり)文があり、その台本作者としての、近松門左衛門の『曾根崎心中』の出だしの、これまた名文の一つである、「この世の名残(なごり)、夜も名残、死に行く身をたとふれば・・・」の名調子の一節へと昇華してゆくのだ。

 さらにその後、日本文化そのものが近代化されていくようになる明治時代に入ってもなお、尾崎紅葉、幸田露伴、樋口一葉などの古典・擬古典文体作家が活躍していたのだが、次第に言文一致体への切り替えが進み、今にある現代文の世界になっていったのだが、確かにその変化は、誰にでもわかる現代文の普及という点では大成功を収めたのかもしれないが、その一方では、昔の古文体が持つ、韻を含んだなめらかな文章の流れ、あの心地よく耳に響く音の流れが、失われてしまったような気もするのだが。 

 私たち年寄り世代は、かろうじて、その古典文の世界の名残りを、読み知っていた最後の世代だったのかもしれない。
 それだから、こうして昔の詩に出会うと、その詩に初めて接した時代の訳文に、どうしても目が行ってしまうのだ。
 例えとしては、正しいかどうかはわかないけれど、鳥類によく見られる、いわゆる”刷り込み(すりこみ)”現象によく似ていて、つまり生まれて目が開いて歩き回れるようになった時に、すぐそばにいたものを親だと思ってしまう、ヒナ鳥の経験とよく似たもので、古い古典文体で習っていれば、それが原典だと思ってしまうのだ。

 付け加えて、この上田敏による「落葉」という訳は、原文と異なっており、正しいフランス語訳は、堀口大学訳にある通り「秋の歌」である。
 もっとも、彼が「落葉」と和訳したのも、わからないわけではなく、特に最後の一節を見れば、この詩の主題が、”落葉のような自分のゆくえ”になっているからだ。
 
 それにしても、上田敏は、この「落葉」を含む訳詩集としての『海潮音』の作者として有名であり、近代日本文学の扉を開く一つのきっかけを作った、西洋文学の紹介者でもあったのだが、そのことが今さらながらにして、この詩を読むと実感できるし、ただ惜しいことには、彼は42歳という、あまりにも早すぎる年齢でこの世を去っているのだ。
 思えば、樋口一葉24歳、尾崎紅葉36歳、石川啄木26歳、正岡子規35歳、芥川龍之介35歳、中原中也30歳などなど、あまりにも痛ましく、惜しみて余りある短い生涯である。
 それに引きかえ、彼らの二倍もの年数を、まさに駄馬(だば)に等しき無芸大食のまま、いたずらに馬齢(ばれい)を重ねて、今日まで生き延びてきた、このじじいの私・・・全くこの世は不公平なことばかりで、もっとも、それが天命なのだと割り切るほかはないのだろうが・・・結局、人には人それぞれの、自分だけの人生があるだけなのだからと。

 冒頭に掲げた写真から、話を始めようとしていたのだが、その本意から外れて、いつの間にか、日本文学の話にまでふくらんでしまい、これ以上には、とても浅学菲才のわが身に負える事柄ではなくなってきたので、このあたりで尻尾を巻いて退散することにする。

 さて、上の写真は自宅の庭に散り敷いた落ち葉であるが、私が一月前に戻ってきたころには、もうサクラの葉がだいぶ散っていたし、それに続いてウメやカキの葉も落ちて、カツラやサルスベリ、ウツギなども散り、春からずっと紅葉色のヨシダモミジも散ってしまい、それらの上にウリハダカエデの黄色い大きな葉が落ちていて、最後になるだろう、コナラの葉が赤色から枯れた茶色に変ってしまった。
 それらの落ち葉たちが、上にあげた詩に書いてあるように、風に吹かれて、ゆくえもわからず、かさこそと音を立てている。
 その庭の枯葉や枯れ枝を集めて、もう二度も”落ち葉たき”をしたのだが、まだ後二回は必要だろう。
 そうして、私が落ち葉を燃やしているのを、母がベランダから眺め、ミャオがその焚火のそばに寄ってきていた。そうした日々もあったのだ。(’10.11.24の項参照)
 急に寒くなり、気温が零下にまで下がる日が続き、もう秋は終わったのだ。

 それでも、まだ私の思いの中には、秋の色合いが多分に残っている。
 それは、いつものことだが、私はパソコンのモニター画面の背景に、いつも行ってきたばかりの山の写真を、長時間間隔のスライドショーにして映し出していて、パソコン画面をつけるたびに繰り返し、その行ってきたばかりの、秋の山の景色を見ているからだ。
 それは、一回の山行で、いつも百数十枚ほどの写真を撮っているから、それだけの枚数があるスライドショーになり、あきることはない。
 話は少し変わるが、二三日前のテレビで、山の自然ガイドをしている彼女が、自分の好きな場所からの山の姿を、朝霧の中から山々の姿が立ち現れてくる様を、一つ一つよく憶えていて、だから写真にとる必要はないのだと言っていた。

 他にも、山では、カメラで景色を写すことに気をつかうよりは、じっくりと山を眺めて”心眼”に刻み付けておいたほうがいいという人もいる。
 彼らの言うことはよくわかるし、山に対面する立場としては、そのほうが正しいのだろうが、しかし私は、長年の自分の体験から、そうではないのかもしれないと思い始めていて、今では、なるべく多くの写真を撮るようにしているのだ。

 それは、古い山の写真フィルムを整理していて、スキャナーにかけて、デジタル化して、パソコン・モニター画面でも見られるようにしているのだが、その時に気づいたことは、その一枚一枚の写真を見ると、その時々の思い出はよみがえってくるのに、その写真と次の写真との間の景色が、はっきりしていなくて、全く思い出せない時もあるということだ。
 つまり、5年10年位前のことなら、写真がなくてもまだ憶えているのかもしれないが、20年30年前のことまで、その時々の光景を覚えているかというと、わずか幾つかのシーンはよみがえってくるかもしれないが、多くの見てきたはずのシーンはもう思い出すこともできないだろう。
 しかし写真があれば、少なくとも、その場所でのことは思い出すことができるかもしれない。

 つまり、写真は、複雑にして千変万化の人間の脳の記憶状態を刺激して、その時の記憶を引き出す手助けになると思うのだ。
 私は、数十年に及ぶ山登りで、そのほとんどを写真にして撮っているし、さらには、若き日のオーストラリアやヨーロッパへの旅でも、かなりの量の写真を撮ってきたし、そのことが、私の昔の記憶を豊かなものにしていることは確かだ。

 ちなみに、私には、ごく最初のころの山登りの写真がないのだが、当然のごとくその時のことは、今でも断片的な情景の記憶としてはあるが、景色などは全く浮かんでこないし、さらには北海道に移ってからでも、一度だけだが、その山行で写した写真フィルムを取り出す時に、うかつにも巻き戻しをせずに、カメラの裏ぶたを開けてしまい、すっかりだめにしてしまったことがある。
 それは、晴れた日の三度目になるトムラウシ山の写真だったのだが、あまりの悔しさにあきらめきれずに、その日のうちに、必死になって思い返しては、20枚くらいのシーンに分けて、画用紙にスケッチして、色付けをして、何とか見られるような画像に仕上げた。
 それは、つたない絵ではあるが、今でも、その時の記憶を引き出す大きな手掛かりにはなっている。
 
 さらには若き日のオーストラリアや、ヨーロッパでも、同じようなミスをして、それぞれ36枚撮りフィルムの1本をダメにしたことがあるが、今でもその部分での私の記憶は、半ば欠落したままである。
 その場所に行ったことは憶えているのだが、明確なシーンとして浮かんでこないのだ。
 もし1枚の写真があれば、その時の光景を、鮮明な写真画像のように思い出すのだろうが。
 私は、何も科学万能崇拝者ではないのだが、少なくとも、写真の有り無しが、その時の記憶の呼び戻しに大きな影響を与えることだけは確かだと思っている。
 それだから、写真なしで、”心の眼”に写し取っておけばいいという、話には同意しかねるのだ。

 私がこの年になっても、相変わらず写真を撮り続けているのは、残りの短い人生を考えれば、無駄なことなのかもしれないが、こうして日々、モニター画面に映して見ることができる山々の姿は、まさに写真があってからこそのことであり、さらに言えば、デジタルカメラになったことで、今までカメラにメモリーカードを含めて、一度の失敗もないし、何より気のすむまで、枚数を気にせずに写せるようになったことが、何よりもありがたいのだ。
 ”下手な鉄砲でも数打ちゃ当たる”の例えではないけれども、かといって、人様に見せるためのものではなく、あくまでも自分で満足するために撮っているだけだから、一向に写真術とやらは上達しないのだが。

 ここで、前回の紅葉見物の登山の時の写真を、もう一枚だけ載せておくことにする。
 それは紅葉の写真ではなく、足元の枯葉で埋まった斜面をゆるやかに上がって行く、登山道での光景だったのだが、斜め上からの光が立ち木と枯葉の影をつけて、何ともまた、秋らしい雰囲気が漂っていた。(写真下)
 おそらく、この写真などは、もし写真がなかったら、何年後かには私の記憶から消えてしまうことだろうが、この一枚があるおかげで、私は見るたびにこの時のことを思い出すだろう。
 私は、思うほどに精神主義者でもないし、思うほどに科学信奉主義者でもなく、ただ毎日に従うだけの、現実主義者にしか過ぎないのだ。

 今回は、前回少し触れた、イギリスの詩人、ワーズワースのことや、最近放送された山の番組などについて書くつもりだったのだが、わき道にそれて戻れなくなってしまった。
 それらについては、次回以降に書くことにしたい。

 今日は、昨日の雨を引き継いでの曇り空で、肌寒く、気温も8度くらいまでしか上がらなかった。
 明日は天気になる予報だが、私の(能天気ではなく)脳天気な頭の中にも、チョウチョウが飛ぶのだろうか。
 あーした天気になーれ。

 

  

 


続々・紅葉の山

2016-11-21 21:50:35 | Weblog



 11月21日

 またまた、紅葉の山の話。

 数日前、さらに紅葉の山歩きをしてきた。
 一か月前に九州に戻ってきて以来、今回でもう4回も山に行ったことになる。 
 しかし、普通の登山と呼べるのは、九重黒岳の一度だけで、あとはすべて紅葉を求めての、トレッキングや低山歩きの、物見遊山(ものみゆさん)の山旅だったのだが。
 それにしても、今年の6月の終わりから10月終わりまでの4か月もの間、ヒザのじん帯を痛めて、山に行くこともできずに、悶々(もんもん)としていた日々を送っていたころと比べれば、大変な変わりようで、一月に4回というペースは、10年前までの、まだ私が元気だったころの回数と変わらない。

 ということは、最近、自分の体力が衰えてとか、さらにはヒザを痛めたからとか、こぼしてばかりいたこの”じじい”が、どうして、こんなにも目ざましい回復を遂げたのか。
 それは、”赤マムシドリンク”を飲んだからなのか、あるいは”スッポンの生き血”をすすったからなのか、それとも”オットセイ”のナニの乾燥させたものをすりつぶして、粉末の薬にしたものを飲んだからなのか。
 いえいえ、そうではありません。

 ”山に行かない山好きは、裏のお山に捨てましょか。
 いえいえそれはなりませぬ。
 山を忘れた山好きは、赤いモミジに青い空、静かな山に連れてけば、忘れた山を思い出す。”

 (以上、童謡「唄を忘れたカナリヤ」(西条八十作詞)よりの替え歌として。)

 そうなのだ。つまりのところ、ヒザの悪化を恐れるあまり、山道はもう歩けないとしり込みしていた私だが、このたび、山の紅葉を見るためにという理屈をつけて、早く九州に戻ってきたこともあって、さらなる貧乏根性も重なって、短い紅葉時期は値千金(あたいせんきん)のひと時だから、今すぐに登っておかなければと、意気込んでは繰り返し出かけて行ったからなのだ。
 ローソクの下で、金勘定(かんじょう)をする、あのディケンズが書いた小説(何度も映画化された)『クリスマス・キャロル』のスクルージじいさんのように、長くはない自分の寿命と、刻一刻と過ぎ行く短い紅葉時期に、あと何度見られることかと,おぞましいばかりの”法界悋気(ほうかいりんき)”のけちな思いが沸き上がり、居ても立ってもいられずに、山に行ってきたというのが、正直なところだ。
 そして、今回の山登りでは、その最後の30分余りに、幸せな結末が待っていたのだ。

 それまでに、九重をはじめとして、三度も行ってきた紅葉の山歩きは、それなりに、私を満足させる秋の山の光景を見せてくれたのだが、それでもまだ、山の紅葉の時期は続いていて、しかしもう終わりに近く、私としては、空模様を眺めての、じれったい気持ちの毎日だったのだ。
 もちろん今では、標高の高い所から、山の中腹あたりまでの紅葉は終わってしまい、残りは山麓か、それとも風のあまり当たらない暖かい谷筋のあたりだけだろうし、それも自然林が多く残っている所にと、あれこれ行くべき山を考えていたのだ。
 もちろん、家から遠く離れてクルマで2時間以上もかかるような所へは、いくら紅葉の名所だといわれていても、行く気にはならないし、はなからその元気もないのだが、そこで思いついたのは、前にも霧氷や雪景色を見るために何度か足を運んだことのある、1000mほどの低い山だ。

 その山は、登山者が少なく、自然林が多くて、半分は沢筋を登って行く道だし、頂上からはすっきりと周りの山を眺められる。
 しかし、あえてこうした名もない山に行くよりは、まだ他にもいろいろと紅葉で有名な山があるのだろうが、私が山で最も避けたいことは、悪天候と混雑だから、いくら有名な山でもそうした条件下では行く気にもならないし、それよりは、今まで紅葉時期以外に何度か登っていて、その山の植生をよく分かっていて、広葉落葉樹の多い自然林がある所ならば、必ず見るべき紅葉の樹々もあるだろうと考えたからだった。

 その日の朝は、前日の天気予報通りに、快晴の空が広がっていて、結局、終日その天気が続いた。
 これだけでも、もう私の山歩きは、満足すべきものになるはずだったのだが、さらに付け加えることに、そこには私の望む紅葉の樹々たちが待っていてくれたのだ。
 山から下りていく、最後のひと時に、静かで、厳粛(げんしゅく)な色彩の舞台をしつらえていてくれたのだ。

 日に当たる紅葉を見るためだから、早くから出て行く必要はない。
 朝食を食べた後も、のんびり構えて支度をして、クルマに乗って家を出た。
 山あいの道を走って行く途中、周りの山々の様子はどうかと見ていたが、さすがに山々の中腹以上の樹々は葉を落としていて、灰色の山肌になっていた。
 それでも、山すそから少し上のあたりまでは、紅葉(黄葉)の色合いが残っている。
 登山口には、わずかばかりの駐車スペースがあるだけだが、そこにクルマを停めて歩き出した。
 もう10時近くになっていたが、谷間に光が差し込む状態も、紅葉を見るにはいいころあいだ。
 
 林道を20分余り歩いて、まだ暗い沢沿いの道に入って行く。
 あったあった。南側が山陰になっていて、まだ光が当たっていないから、さほどには見えないけれど、その沢沿いには、たくさんの紅葉の木々が立ち並んでいた。
 今はこれでよい。ともかく、日が高くなる、帰り道が楽しみだ。
 涸れ沢を何度か渡った先のほうには、それから上には日が当たっていて、周りの木々の葉は落ちているのに、一か所だけがスポットライトを浴びたように赤々と輝いていた。
 あれは、間近で見なければならない。私は、テープ印が頼りの踏み跡道を離れて、その小尾根の斜面を登って行った。
 無理をしてヒザに力を入れると、少し痛みが走ったが、ひどくなる気配はなかった、悪くなればすぐに引き返すつもりでもいたし。

 少しの登りでたどり着くと、灰色の周囲の木々の中で、そこだけに、数本のオオヤマモミジがあって、濃い赤から緋色までの色合いを見せながら、紅葉の盛りにあった。(写真上)
 民家の庭に植えられているものとは違う、野放図(のほうず)なままの枝ぶりの勢いがあったが、それだけに、周りの木々が邪魔して、写真を撮るにも一苦労だった。
 しかし、青空の下、山中の静寂の中、ひときわ目に染みる色合いだった 

 さて、また下まで降りるのも、面倒だったので、そのまま斜面を上がって行けば、左上にあるはずの道に出るだろうと考えて、急斜面を這い上がって行ったのだが、これが大きな間違いだった。 
 ヤブならまだしも、何かとつかむものがあるからいいが、滑りやすい枯葉の積もった斜面で、ただ何とか表面に浮き上がっている木の根だけをつかんで登って行くが、先には崩壊地もあって、回り込み、手掛かりになる木が多そうな小尾根に取り付きさらに登って行くと、上のほうでゆるやかになり、ようやく左から来た元の道に出会った。
 とても、ヒザの悪いじじいが取るべきバリエーション・ルートではないと、痛く反省した次第。

 その先で、高い山のほうから来た道との分岐になり、そのあたりに、これまた、見事な紅梅色に染まった紅葉の木があり、いっぱいに広がるその葉の今が満開の時のように、華やかに辺りを彩(いろど)っていた。
 おそらくは、この独特な色合いと葉の形から、メグスリノキだと思われるのだが・・・。(写真下)

 

 後は、静かな林の中をゆるやかにたどり、小さなコブを越えて、明るい山頂に着いた。
 快晴の空が一面に広がり、遠くの山までよく見えていた。
 ただ、今までこの山に来た時には、人に会ったこともない山頂だったのだが、その日は昼近くで、3人の明るい声が聞こえていた。
 私は、離れた所で軽い昼食を取っただけで、そさくさと頂上を後にした。
 彼らは、おそらくはそのまま反対側のメイン・ルートのほうに降りて行くのだろうし、こちらの道に来ることはないだろう。登山口には私のクルマしかなかったのだから。
 ゆるやかな林の中の道を戻って行きながら、私は口笛でも吹きたい気分だった。

 昔は、そんな時口をついて出るのは、クラッシック音楽の一節ばかりだったというのに・・・しかし最近、私の口をついて出るのは、AKBの曲のメロディーの一節なのだ。
 今回の山登り中に、繰り返し口笛でハミングしていたのは、「金の愛か、銀の愛か。おまえがなくした愛はどれだ。」というフレーズであり、この歌は、AKBグループの一つ名古屋SKEの最近の歌「金の愛 銀の愛」からの一節であり、もちろんこれは、イソップ童話の「金の斧(おの)銀の斧」の話になぞらえて秋元康が作詞したもので、私としては、最近のAKBの歌の中では、最も聞きごたえのある歌詞だと思っていたのだが。

 しかし、こうした短調の暗い沈んだ曲調は、AKBのファンにはあまり受けないらしくて、さほどのヒット曲にはなっていないようだった。
 むしろそれとは逆の、明るいダンス曲調で作られた、AKBの新曲「ハイ・テンション」のほうが話題になっていて、初めて聞いた時には、これはあの”つんく”の作ったモーニング娘の曲かと思ったくらいなのだが、”ぱるる”こと島崎遥香の卒業記念曲ということもあいまって、相変わらずの100万枚を超すヒット曲になっているのだ。

 まあ、人の好みは様々だから、と思いながらも、私は斜面の道をジグザグに下り、沢沿いの踏み跡道をテープ印に注意しながら下って行った。 
 自分に聞こえるぐらいの口笛で、「金の愛か、銀の愛か。おまえがなくした愛はどれだ・・・。」と、繰り返しながら。
 やがて、今までは灰色のほうが多かった谷沿いの林の色が、次第ににぎやかになってきた。
 昼過ぎの、真上からの日の光を浴びて、すべての木々が輝いていた。
 時々立ち止まっては、写真に撮りながら、左岸、右岸と踏み跡道をたどり、最後の右岸斜面に移ったころには、もう辺りの紅葉の光景は、すっかり秋色のさ中にあった。(写真下)


 
 それは、真っ赤な紅葉一色に染められた、圧倒的に威圧するかのごとき豪奢(ごうしゃ)な色というのではなかった。
 自然のままに、そこに根づいた樹々が、それぞれに枝葉を伸ばして、自分たちだけの色合いをさらけ出しながら、円形舞台に立ち並んでいる光景だった。
 どの樹も、自分が主役たるべく姿を備えていた。観客は私一人だったが、心からの拍手を送りたい気分だった。
 黄色、橙(だいだい)色、紅梅色、朱色、赤色・・・様々な色の紅葉と、何よりそこに、まだ春先の明るい葉のような萌黄(もえぎ)色の葉が混じっていることで、周りの葉の色がさらに引き立つ相乗効果を生んでいたのだ。
 クヌギ、コナラ、ヤマザクラ、イタヤカエデ、ウリハダカエデ、コミネカエデ、ミツデカエデ(あるいはメグスリノキ)、オオモミジなどが作る世界・・・。

 私は、傍らにあった、岩の上に腰を下ろし、青空の下の木々が区切る紅葉の大伽藍(だいがらん)の中にいたのだ。
 上空で風の声が聞こえ、少しだけ、高い梢(こずえ)の葉が揺れていた。
 他に、人の来る気配もなかった。
 朝、聞こえていたシカの声も聞こえなかった。

 それは、前にも書いたように、数年前の晩秋の、九重黒岳周遊の時に感じた思いとよく似ていた。(11月7日の項参照)
 このまま、紅葉が降りかかる色とりどりの光の海に包まれていて、一瞬気が遠くなっていくような。
 それは、惧(おそ)れのない、安堵(あんど)の中の彼岸の光に似て・・・。

 30分余り、私はその岩の上で、ひとり座っていた。 
 最後に、写真をもう一枚と、私は、真上を見上げて、黄緑と橙色が織りなす天上の光景を撮って(写真下)、その場を後にした。
 ゆるやかに林道を下って行きながら、私は、今年の山の紅葉に、もう思い残すことはなかった。
 
 私が、このたびの山歩きで見てきた紅葉は、もっと多く様々な山の紅葉を知っている人たちにとっては、たいしたこともない、小さな秋の光景の一つにすぎないのかもしれないが、考えてみれば、それぞれの人の胸には、それぞれの時の紅葉の思い出が残っているわけだし、それは別に比べるものではないと思うからだ。 
 
 最後に、有名なイギリスの詩人、ワーズワース(1770~1850)の詩からの一節。

「 いかなれば、ここにただひとり、

 この古びし灰色の石にすわりつつ、

 いたずらに、時を夢み暮らすと問うを止めよ、

 われ、大自然と語り合うかも知れざれば。」

(『ワーズワース詩集』 「諫告(かんこく)と返答」より 田部重治訳 岩波文庫、新しい現代語訳もあるが、この古い訳のほうが私には好ましい。)


 

 
  


  


紅葉の伽藍(がらん)

2016-11-14 21:13:42 | Weblog



 11月14日

 この週末にかけて、晴れた天気の日が続いていた。
 特に、土曜日は、終日快晴の青空が広がり、風も穏やかで暖かく、晩秋の紅葉を眺めての山歩きには、もってこいの日だった。
 それなのに、いつものように、休日の山での雑踏を避けたいと思っている私は、さらにはまだヒザの状態が思わしくないこともあって、一日中家にいて、洗濯をし、掃除をし、こたつ布団を干しては、ベランダでゆっくりと新聞を読んだりして、のんびりと時間を過ごした。
 もちろん、こんな天気のいい日に山に行けないなんてと、歯ぎしりしている自分がいたのも確かだが、もう行かないと決めたからには、家にいてできることを楽しんだほうがいい。
 小春日和の暖かい日差しを浴びながら、庭仕事をしたり、そのついでにと、少し歩いた所にある、今は誰もいない家の庭に植えられている、モミジ・カエデ(以下モミジで表記)の紅葉を見に行ってきた。

 確かに山好きな私にとっては、山で見る、自然に生えているモミジのほうがいいのだけれども、こうして家の庭の周りに植えられている、数本の良く茂った植栽用のモミジを見ると、やはり、その圧倒的な数の紅葉の葉がおりなす色艶(あで)やかさに、思わずひきこまれてしまったのだ。
 そのモミジの樹々の下に行って見上げれば、そこは極彩色の伽藍(がらん)の中であり、陶然(とうぜん)とした気分のまま、動けなくなってしまうほどだった。(写真上)

 どこかで同じような、体験をした記憶があるのだが・・・それは若いころに行った、ヨーロッパ周遊旅行の中で初めて見た、教会聖堂のステンドグラスの輝きだった。
 フランスはパリの、サント・シャペルとノートルダム、そしてシャルトルの大聖堂、ドイツのケルンの大聖堂、イタリアはミラノのドゥオーモなど、たちどころにいくつかの名前が思い浮かんでくるが、考えてみれば、それぞれの国で見たそれぞれの教会には、大きさ形こそ違え、そびえ立つ高い伽藍の内部には、どこでも、その高みから神の光が下りてくるような、様々な色合いのステンドグラスが飾られていたのだ。
 そこで話を元に戻せば、私が見た家の近くのモミジの紅葉は、高い樹々の伽藍の中で、輝かしい光の反映に満ち満ちていて、これもまた自然という、神の恩寵(おんちょう)の”しるし”としての、光だったのかもしれない。

 紅葉にも、姿かたち、数などからなる様々な美しさがあって、それぞれに独特の個性があり、一概に比べられないものなのかもしれない。 
 山の中の一本のモミジの紅葉の美しさと、民家の周りに植えられた数本のモミジの紅葉の美しさとは、それぞれに意味合いが違うように、それはまた、春の新緑の山の中に、ただひとり咲く一本のヤマザクラと、枝もたわわに花を咲かせる、数十本や数百本ものソメイヨシノの並木道の眺めとを、比べ物にはできないように・・・つまり、それは当然のことながら、いずれの場合にも、それぞれの、鑑賞すべき美しさがあるということだ。

 さて私は、先週の絶好の天気の日にも山に行かなかったと書いたが、確かに週末の混雑を恐れていたこともあるが、それ以上に、ヒザがこれ以上悪化してはという心配のほうが強かったのだ。
 実は、前回書いたように、九重山は黒岳の登山で少し無理をして、ヒザ裏が痛くなっていたままで、それはその前の週のことだったのが、その後も続く晴天にガマンできなくなり、午後から出かけて、いつも行く家の裏山に登ってきたのだ。
 その慣れ親しんだ山には、家から登山口になる所までも、歩いて登ることにしているのだが、今回はひざの不安もあって、登山口まではクルマで行ったのだが、それからはゆるやかな登りが続いて、ヒザの負担も少ないだろうと思って歩き続け、結局は上り下り同じ時間がかかって、3時間もの登山になってしまった。
 その時から、もう1週間以上もたつのに、夏から続くじん帯損傷によるヒザ裏の痛みが、いまだによくならないのだ。
 このたびの九重黒岳登山で無理をして、しばらくおとなしくしていればいいものを、この秋早めに戻ってきたのは、九州の山の紅葉を見るためだったのだからと自分に言い聞かせいて、それだからこそ、九州の山の”ゆく秋”にいてもたってもいられずに、無理を通しての登山になってしまったのだし、まさに自業自得ではあるのだが。

 その上、この山は標高の低い里山であり、もともと昔から里の人たちによる伐採の手が入っていて、他の日本中の低山帯がそうであるように、スギ・ヒノキの植林地か、伐採後の二次林の広葉樹林帯があるだけで、自然林の紅葉は数少ないのが実情である。(前回登った黒岳は、九州の山では珍しく、山麓近くから自然林に覆われている。)
 それでも谷沿いには、多くの紅葉・黄葉の木々があるのだが、いかんせん標高が低い分、まだ色づき始めたばかりだった。
 上の尾根のあたりには、ミヤヤマキリシマの株がいくつかあるのだが、その一つには、いっぱいに季節外れの花が咲いていた(もう枯れた花が多かったが)。
 
 帰りは、もと来た道を戻るべきだったのだが、この時期に登るのは初めてだし、もう一つの尾根の紅葉はどうだろうかと、南尾根を下ることにした。
 しかし、この道は今ではもうほとんど人が登らず手入れもされていないから、ほとんど廃道の状態に近くて、カヤやササがかぶさって足元が見えずに危険だし、また反対側の登り口からの道も、もともと両側にササが高く茂る道だったのだが、今ではそのササ被りの上に倒木などもあって、元の道が全く分からない状態になっている。
 その上、私は途中にあった、見事に黄葉した木を見に行くために、さらなるヤブこぎをして近づいて行って、そのエノキの立派な姿を目の前に眺めることはできたのだが(写真下)、さて、その今まで何とかたどってきた道がどこなのかわからない。
 右に左に高いササをこいで足元にあるだろう道を探すのだが、見つからなくて、強引に、今まで何度もたどったことのある登山口のほうへと向かい、先のほうで、ようやく道に合流することができたのだ。
 そのあたりは比較的ゆるやかな所で、天気も良くて、周りの山腹の高低の状況も見えていたからよかったようなものの、とても年寄りが踏み入るような道ではなかったのだ。



 ただし、そのヤブこぎの苦労あってか、見事なエノキの黄葉を見ることができたし、少し薄くなったササヤブの所には、なんと今の時期に、それもこんな所にと思うような、一輪の花が咲いていたのだ。
 その時は一瞬、わが目を疑ったほどだが、しゃがみこんで見ると、それは薄紫の小さな花の集まりが一房になった、たぶんアサツキやネギの仲間だろうと思ったのだが、他にもう一輪あっただけで、群生というほどではなかったし、ただ、あの北アルプスは白馬岳周辺に咲く、シロウマアサツキの花を思わせた。

 さっそく、家に戻って調べてみると、珍しくもない、ヤマラッキョウの花ということだった。
 それでも私としては、道を迷ったがゆえに見つけた、エノキの黄葉とヤマラッキョウの花だったのだ。
 こうして、思わぬ出会いに喜んだのもつかの間、私はその後、持病のヒザがさらに悪化するという代償を負ったのだ。

 そして、さらに天気の良い日が続いても、私は家にて、近くの紅葉を見に行くくらいで、山に登ることもなく、穏やかな日々を送っていた。
 そこで、前にもここであげたことのある、『ラ・ロシュフコー箴言(しんげん)集』 (二宮フサ訳 岩波文庫)からの幾つかの言葉を。
 ちなみに、この本の作者であるラ・ロシュフコー公爵(1613~80)は、フランスの17世紀ブルボン王朝ルイ13世と14世の時代に生きた、当時の有力貴族の一人でもあった。

 「人は決して今思っているほど不幸でもなく、かつて願っていたほど幸福でもない」

 「われわれに起きる幸不幸は、それ自体の大きさによってではなく、われわれの感受性に従って大きくも小さくも感じられる。」

 さらにこれは、若き日の自分には言えることでもあるが、思い返せば、その頃の自分がかつてそうであったように、哀れにも、あるいはほほえましくも思われるのだが。
 
 「人はしばしば、自分が不幸に見えることに、ある種の喜びを感じることによって、不幸である自分を慰める。」 


 それにしても、最近はさらにぐうたらになってきて、せっかく予約録画した、大好きだったロッシーニのオペラ『セビリアの理髪師』はおろか、他のクラッシク番組に、幾つもの山の番組、美術番組、歌舞伎、映画などなどと録画がたまるばかりで、一向に見る気にならないのだ。
 
 かといって、すべてのテレビ番組に興味がなくなったわけではない、たまに見た民放のバラエティー番組でも思わず見続けてしまうものもあるし、ただ、あのNHKの『ブラタモリ』だけは、放送があるたびに欠かさず見ているし、なんといっても歴史から地理、地形、地学などの分野にまで手を広げた、ある種の教養的な謎解き番組であることが面白く、そこにタモリならではのユーモアを加味してという、今までになかったスタイルの旅番組というのが素晴らしい。相方の近江アナウンサーも、九州福岡局在任時と比べると、すっかりアカ抜けしてきれいになっているし、初々しさと慣れの加減がちょうどいい。
 
 さらにもう一つ、欠かさず録画して見ているのは、NHK・BSの『AKB48SHOW』である。
 相変わらずのAKBファンである私は、先月末の長時間歌番組、『ハロウィン音楽祭』はもちろん録画して、AKB・乃木坂グループの歌のところだけだけをまとめて、20分ぐらいに編集していて、ことあるごとにその孫娘たちの歌い踊るさまを見ては、心楽しい気分になって、このじじいめのささやかな癒(いや)しになっているのです、はい。

 というように、部分的な熱意は残っているのだから、すべてに興味がなくなったわけではなく、ただ前にも書いたように、ロックにジャズ、クラッシクと聞いてきた私が、今ではアイドル・グループAKBの歌を多く聞くようになったということは、前にも書いたように、年を取り、次第に”幼児帰り”をしていてゆくという予兆なのかもしれない。
 とすれば、そのうちに、あの有名な映画『E・T』のラストシーンのように、乳母車付きの自転車に乗せられて、今日のスーパームーンのような月の向こうに、運ばれて行くのではないだろうか・・・。
 


 

   


遥かなる山の呼び声

2016-11-07 23:03:29 | Weblog



 11月7日

 今日は、終日快晴の一日で、風も穏やかで、暖かく、秋の山歩きにはもってこいの一日だった。
 しかし、ヒザの調子が思わしくなく、これ以上悪くなって、少し前のあの夏の時のように、三か月もの間、階段の上り下りにも差しつかえるようになってはと、山に行くのはあきらめることにした。

 前回の、九重山は扇ヶ鼻(1698m)へのハイキング登山は、実に三か月もの間を空けての、久しぶりの山歩きだったのだが、5時間足らずという時間もあってか、ヒザ痛、筋肉痛ともに大したことがなかっただけに、一安心していたのだが。
 さらに天気の日が続いて、大体がお調子者でお天気屋の私としては、じっとしていられなくなり、次なる目的の山に行きたくなったのだ。
 扇ヶ鼻で出会った人から、”今年の紅葉はよくない”などと漏れ聞いていたから、あの時の扇ヶ鼻、星生山の紅葉具合を見ても、これなら山頂稜線付近の紅葉はどのみちもう遅いのかもしれず、それならば、この九重山系の中でも標高も低く、樹林帯におおわれた黒岳ならばまだ間に合うだろうと思い、行くことにしたのだ。

 前回書いたように、秋の黒岳へは、もちろん紅葉の盛りの時には行ったことがなく、数年前に、やっと晩秋の黒岳山麓周遊のトレッキングをしただけなのだが、その時の、紅葉がまばらに残っているだけの山歩きが、今でも思い返すほどの良い思い出になっているのだ。(’11.11.20の項参照)
 今日のような、穏やかな秋の日で、青空の下、わずかばかりの紅葉を眺めながら、誰にも会わない静かな山道を、一人歩いたのだ。
 ただ、日ごろから登山者が歩いているような道ではなくて、小さな古い標識がたまにあるだけで、枯葉に埋もれた踏み跡道を探していかなければならなかったが。
 それだからこそ、そうした静かな山歩きが楽しめたのだし、時間に関係なく、所々で腰を下ろしては、晩秋の山の陽だまりを楽しんだのだ。

 かすかに、梢(こずえ)に吹きつける風の音が聞こえ、遠くでシジュウカラやヤマガラの鳴く声が聞こえていた。
 あの時、あのまま、腰をおろしていた石の上で、もしこと切れて、それが私の最後だったとしても、あの陽だまりの中、遠のいていく意識、青空が見え紅葉の木が見え・・・、それでも、後悔することは何もなく、私はそのまま目を閉じていただろう。

 若いころにはそうした、いかにもヒマな年寄りが好みそうな、”じじくさい”山歩きなど、馬鹿にしていたくらいなのだが、人はいつしか自分の年とともに、自分の体に合わせた山登りをするようになるものなのだ。
 この十数年の間、私はずっとそのことを意識して山登りを続けてきた。

 昔、登った北アルプスや南アルプスの山々に、今再び、そして最後になるかもしれないという思いで、山旅を続けてきたのだ。
 あの北アルプスは黒部五郎岳の、カール底の水場での憩いのひと時、斜面を埋めるコバイケイソウの大群落・・・。(’13.8.23の項参照)
 長年の念願の一つだった南アルプスは塩見岳への再登頂、その手前北荒川岳からの、深い谷を隔ててせり上がりそびえ立つ塩見岳の”天下一品”の姿。(’12.8.10の項参照)
 雪のある初冬から厳冬期にかけての山々、剣御前からの剣岳、八方尾根からの白馬三山、燕(つばくろ)岳からの朝日に染まる槍ヶ岳、中国地方きっての名山、大山(だいせん)の頂上稜線、雪の芸術を堪能した蔵王と八甲田(はっこうだ)、白山(はくさん)や木曾御嶽(きそおんたけ)の火口湖の神秘的な輝き、富士山のまさに”通俗的な”偉大さと宝永火口の見事さ・・・などなど思い出は数限りなく、まるで走馬燈(そうまとう)のように次から次に 湧き上がってくる・・・まだ私が元気なころに、いずれも私が強い思いを抱いて登った山々たちであり、その条件はただ一つ、ともかくすべては、山々を見るための晴れた日の登山だったのだ。
 (もっとも例外的な一つもあって、頂上周辺では晴れたものの、行程の半分は雲や小雨の中だったあの屋久島山行は、逆にそのことで、この大きな島が水にあふれた豊かな自然の中にあることも実感したのだが。’11.6.17-25の項参照)

 今までもたびたび書いてきたことだが、私にしてみれば、展望が見えない日の山に登ったところで、その山の景観としての評価ができないからだ。
 上にあげた山々は、いずれも、晴れた日のほぼ快晴の日の登山であり、きわめて満足度の高い、一回性の意味合いの強い登山だったのだ。
 もちろん登山の満足度など、人それぞれの思いで違うものであり、雨の日だからかえって良かったという人もいれば、グループでおしゃべりしながらの登山で楽しかったという人もいるし、もちろん日本百名山踏破をめざしていて、天気はともあれ、その頂に立つことだけが目的の人もいるし、他の山には目もくれず、例えば富士山だけに登り続けている人もいるし、写真が目的の人も、あるいは花や昆虫、鳥に動物たちを見るのが目的の人もいる。
 さらには近年目立つようになった、”トレイル・ラン”いわゆる山岳マラソンの人々さえいて、それらの人すべてが、大きなひとくくりの中での登山者であり、山登りをする人たちなのである。
 だから私のように、ぜいたくにも、快晴の日に、静かな山に、一人で登りたいなどとほざいている人間がいても、やはりただの登山者の一人でしかないのだ。

 ここまで、簡単にすませるつもりだった前置きが、この時の気分のままにキーボードを叩いては、すっかり長くなってしまった。
 つまり、前回の九重は扇ヶ鼻への登山の時でも、いくらかは人のいない静かなひと時を持てたのだが、今回も、黒岳への登山では、あの”九重銀座”ともいわれる、牧ノ戸峠から久住山に向かうメインルートほどのにぎやかさはないだろうし、まして頂上付近までずっと林の中の道だから、折々紅葉も楽しめるだろうと考えたのだ。
 ただし、ヒザの不安はあるし、黒岳山頂への急坂の分岐になる、風穴(かざあな、ふうけつ、地下の冷気が噴出している所で、富士山や北アルプス穂高岳などが有名)まで行って戻ってくるだけでもいいと思っていた。
 最近まで、山は周囲の景色が見える山頂に登ってこそ、価値あるものであると、かたくなに思い続けていた私が、上に書いたように、数年前の黒岳周遊トレッキングで、山頂に登らない山歩きの楽しさに目覚めて以来、今では年相応の山麓歩きの計画を立てるほどになったのだ。

 その日は天気予報とは違って、朝から快晴の空が広がっていた。
 急いで支度をして、クルマで走って名水百選で有名な男池(おいけ)駐車場に着くと、平日とはいえ、紅葉シーズンのさ中なのに、クルマは数台ほどで、前回の牧ノ戸峠の数十台とは比較にならない静けさだった。ありがたい。
 いつもの時間よりはずっと遅く、9時過ぎに、ゲート入り口で協力金100円を払い、静かな清流の流れる男池園地に入って行く。
 だれもいない静かな林の中を、こぼれ日を浴びながら歩いて行くが、まだこの辺りは、何本かの木が色づき始めているだけだった。
 ゆるやかな道の先には、いくつかの紅葉した木々があり、”隠し水”の水場を過ぎるころから、色合いもぎやかになってきた。コミネカエデの赤、ヌルデのあずき色、カエデ、コナラ、リョウブなどの黄色と、まだ緑色の木々も多く、それらが混然一体になって、色彩の音階を奏(かな)でているようだった。(写真上)

 やはり山の紅葉の見ごろは、ほとんどが色づいた極彩色の盛りの時よりは(もう枯れてしまった葉などもあるから)、むしろまだ色づいていない葉が多いくらいの時のほうが、それぞれの色彩の細かな変化が見られて、それなりに楽しめるのかもしれない。
 小尾根に取りついて、少し勾配のある道を登って行く。
 まだ紅葉は、全体的にはこれからだと思えるのに、道の上には、すでに赤いモミジや黄色いカエデの葉が落ちている。
 そういうことだと思う。紅葉の時期なんて、あの桜の花時のように、真っ盛りの時からいっせいに散るというのではなく、それぞれの木がそれぞれのタイミングで色づき葉を落とすのだから、上に書いた、11月中旬の黒岳周遊の山歩きの時でさえ、まだ紅葉を楽しめたくらいで、大まかな期間で言えば、この九重山域では、おそらく10月から11月いっぱいまで、どこかでそれなりの紅葉を見ることができるのではないのだろうか。
 それぞれに、自分が見た時の紅葉風景を楽しめばいいのだろう。

 西側にそびえる、あのミヤマキリシマで有名な平治岳(ひいじだけ、1642m)との間のくぼ地になっっている、ソババッケの紅葉にはまだ早かった。
 さらに、そこから、右手に平治岳へと向かう道と分かれて、大船山と黒岳に挟まれた数か所のくぼ地が連続する、ゆるやかな登り道になる。
 その所々は岩塊地帯になっていて、足元が気になるが、明らかにそのあたりから、見事な紅葉の木々が増えてきて、あたりが明るく照り映え、木々の間からは、全山紅葉し始めた黒岳前衛の山も見えていた。(写真下)



 さらに先では、同じように木々の間から、黒岳の二つの頂である高塚と天狗岩が見え隠れしている。
 にぎやかな声で先を歩いていた中高年グループを抜いて、風穴に着き、そこから急坂の登りになる。
 ここまででもコースタイム以上の時間がかかっていたが、ヒザの調子もまだ悪くはなっていないし、彼らから離れるためにもと、さらに登り始めた。
 少し登ったところで、遠く離れた下の町から、お昼のサイレンの音が聞こえてきた。私は、そこに座り込んで一休みをした。
 頭上には、コミネカエデなどの紅葉があり、それらの木々の向こうに大きく大船山(だいせんざん、1786m)が見えていた。
 再び登り始めるが、なかなかの急坂で、息は切れるし、足は疲れるし、空は曇ってきたしと思っていると、後ろから来た若者が一気に私を抜いて行った。

 ”それでいい。若者よ、若さは何よりも頼もしいものだ、君は思いのままに、金の翼で翔(と)んでゆけばいい。
  さて、私は、しばし憩うことにしよう。ありがたい命の、金のしずくを味わいながら。” 

 さしもの急坂も一段落ついて、中腹の段丘のところに出て、このあたりは木々の紅葉がきれいだったのだが、いかんせん周りに重なり合う緑の木々が多すぎて、十分に眺めることはできなかった。
 再び急坂になり、上から一人二人と降りてきたが、朝早く出ていればそれくらいの時間になるだろうに、私は、はじめは風穴までのつもりで来たものだから。
 そして、坂道もようやくゆるやかになり、行く手に空が低く見えてきて、ミイクボと呼ばれる火口原のふちの分岐点に出た。
 右に行けば、標高は少し低くなるが、大きな岩の上からの展望が楽しめる天狗岩(1556m)への道であり、左は高塚(1587m)へと向かい、北側の由布岳方面の展望が少しままならないところもあるが、大船山、三俣山、平治岳と並んだ姿はこちらのほうが素晴らしい。
 いつもは、両方に登るのだが、今回は時間も遅く、高塚のほうに登ることにした。
 低い木々の下をゆるやかに登り、ミヤマキリシマの株が出てくると、展望が開けてきて、紅葉の火口原の向こう側に、天狗岩の尖峰と左に荒神森(登山道はない)が見えている。(写真下)

 少し先の岩の上で腰を下ろし、簡単な昼食をとった。
 先ほどから晴れてきて、周りの紅葉も光に映えて、鮮やかな色合いになってきた。
 ここからの眺めは、なんといっても、左に大きなすそ野を引いた大船山と、その頂から続く米窪(こめくぼ)と呼ばれる火口とそれに続く段原(だんばる)の火口原の連なり、そして三俣山、平治岳の眺めだろう。
 そこに、別の中高年のにぎやかなグループがやってきて、私は早々と下りて行くことにした。
 これからは、再び見通しがきかなくなる道を戻るので、最後にもう一枚と、紅葉の大船山を撮った。
 左手の雲海の上には、遠くまだ祖母山(そぼさん、1756m)も見えていた。(写真下) 
 
 もう思い残すことはなかった。あとはヒザの痛みが出ないように祈るばかりだ。
 急坂の下りを、登りと同じ時間でゆっくりと下りて行った。
 相変わらず所々での紅葉はきれいだったが、下りきった風穴から先も、気を使う岩塊帯の小さな登り下りがあり、やっと着いたソババッケの登り返しから、あとは下りだけの道のりだったが、それまでに二三度滑っていたし、もうすっかり疲れ果てていて、やっと男池園地の林の中に出て一安心し、ようやく、クルマを停めていた駐車場に戻った。もう4時半に近かった。
 
 翌日、筋肉痛は大したことはなったのだが、例のヒザ痛はヒザの裏側に出て、その後の家の庭での、脚立(きゃたつ)に立っての刈り込み作業などで、おぼつかない足元になってしまった。
 今ではあまり使われない言葉だが、いわゆる”足萎(な)え”の状態で、ひざに力が入らなくてふるえる感じなのだ。

 余談だが、この言葉は、今では”気持ちが萎える”とか言う意味で使われてはいるが、”足萎え”の意味では、あまり使われてはいない。
 方言かもしれないが、昔、”足萎えのおじいちゃんの面倒見るために”とか言っているのを聞いたような気がするが、私もとうとうその年になってしまったのか。
 もっともこの”萎える”という言葉は古くから使われてきた言葉らしく、ここでも何度も取り上げてきたあの鴨長明による『方丈記』の中でも、”おおなゐ(い)”、つまり大地震のことについて書かれているのだが、私は長い間、この地震の〝なゐ(い)”のことを、”萎え”からきた言葉だと思っていたのだが、なんと、これは全く別な言葉だったのだ。
 つまり、”なゐ(い)”とは、古い言葉としては”大地”を意味していて、動詞は”なふる”であり、地盤がふるい動く”こと、つまり”地震する”という意味であることを、最近になって知ったのだ。(「広辞林新訂版」 三省堂 昭和11年発行)

 思い返せば、小学校の唱歌の一つだった「ふるさと」の出だしの部分、”うさぎおいしかのやま”のところを、私は恥ずかしながら、ずっと高校生になるくらいまで,”ウサギの肉が美味しい、かのという名前の山”だとばかり思っていたのだ。
 まあ、人の思い込みというものは、ことほどさように、誤解や曲解に満ち満ちているというわけであり、いまさらながらに浅学軽薄なわが身を嘆くのであります。

 そんな反省はともかく、今回の黒岳登山には、往復7時間余りもかかってしまい、前回の扇ヶ鼻登山の5時間足らずの時間を考えれば、やはり無理があったと言わざるを得ない。
 つまり、ヒザの痛みを抱えた”病み上がり”登山には、明らかに長すぎる行程であり、いまだに続くヒザ裏の痛みが出たのも当然のことであり、じん帯の損傷は何度も再発するのだということを、改めて身にしみて知った次第である。
 これからの、年寄りの登山は、それなりに余裕を持った、短い距離の山歩きにすることだ。
 ただそう考えてくると、失うことになるものも多く、例えば、この夏にでもと思っていた、あの東北の朝日連峰、以東岳から大朝日岳への縦走ができなくなったのが、何よりも心残りになる。

 しかし、足が動かないわけではないから、簡単に登ることのできる山に行くことはできるし、林の中の小道を歩くこともできるだろう。
 山に登れないなら、それなら、海に行くかといった単純な話ではない。
 私の心の中では、いつも、”遥かなる山の呼び声”が聞こえているのだ。
 ”シェー、カムバッーク!”

 違うこれでは、昔の漫画、赤塚不二夫作の『おそ松くん』に出てくる、イヤミ先生の”シェーー”になってしまう。
 正しくは、あの西部劇映画の名作、『シェーン』のラストシーン・・・アメリカはワイオミングの岩山を背景にして、一匹狼の流れ者、アラン・ラッドふんするシェーンが馬にまたがって去っていくシーンであり、そのシェーンに助けてもらった、開拓農家の坊やが叫ぶラストシーンなのだ。
 "SHANE COME BACK"
   その声がこだまして・・・やがて、あの有名なメインテーマ曲「遥かなる山の呼び声」が流れてくるのだ・・・あふれんばかりの余情を残して、”THE END”タイトルで消えていくスクリーン・・・。
  映画の主人公が、正義の味方であり、いつも最後には勝っていた、いい時代だったのだ。