ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

たっぷりの自然の中

2015-05-25 21:21:27 | Weblog



 5月25日

 晴れた日が続いている。
 今朝の気温、3度と冷え込んだけれども、ありがたいことに霜は下りていなかった。
 昨日の最高気温は25度と、日向では暑いくらいなのだが、ともかくやらなければならない仕事がいっぱいあった。
 いつものように、雪が溶けるころに、ようやく春が始まったころに帰ってきていれば、これほど慌ただしいことはなかったのだが、今回は北国の春の勢いが爆発的に広まっていく、そのさ中に戻ってきたものだから、今まで九州で、のうのうとぐうたらに暮らしていた私も、さすがにのんびりとはできずに、人が変わったように働き動き回るほかはなかったのだ。
 人は誰でも、生まれつきの”ぐうたら、ものぐさ”というわけではなく、それらは環境がなせる業(わざ)であり、”火の車”を引かなければならないハメになった時には、誰でも理屈を言う前に、必死になって駆け出すしかないのだ。

 前回書いたように、まずは家の周りの、雪の重みで倒れ曲がった木々を切り片づけて、次に三か所に分けた小さな畑の草取りゴミ片づけをして、シャベルで掘り返し、野菜畑にはストーブの灰をまいて、自分のトイレと生ごみを混ぜて2年以上たった堆肥を入れて、畝を作り、そこに買ってきた野菜苗やジャガイモを植え付けていく。
 ひとりで食べるだけあればいいだけだから、このくらいの小さな畑でいいし、あとはほとんど放任栽培で、お義理にもおいしいとは言えない収穫でしかないが、それで十分。
 次に、家から表の道までの通路に生える雑草の草取りがある。雑草といっても、そのほとんどは、今は見た目にもきれいな黄色のタンポポであり、その砂利道深く根を張ったタンポポを一つずつ掘り起こしていく。
 さらに、オオバコとセイタカアワダチソウは、小さいものでも見つけ次第引き抜いていく。
 この三種類は、放っておけばあっという前に増えて、辺りを埋めつくしてしまうことになるからだ。

 さらには庭の草取りが待っている。こちらは、小さなスカンポ(スイバ)がほとんどで、毎年繰り返し取ってはいるのだが・・・。
 このスカンポは酸性の土壌を好むから、この芝地にもアルカリ性のストーヴの灰や、食品の乾燥材として入っている消石灰などをまいてはいるのだが、一向になくなる気配はない。 
 周りが野原だから、他にもさまざまな雑草の芽が出てきて、一つずつ引き抜いていかなければならない。
 その間にも、芝生は伸びてきて種をつけた稲穂状になってきて、横に根を伸ばし広がるよりは縦に伸びるばかりだかりだから、相変わらずのだんだら模様でハゲちょろけの情けないグランド状態なのだ。
 ともかく何とか草取りを早く終わらせて、芝生の刈りこみをしなければいけないのだが、もう長く伸びすぎていて、持っている電気芝刈機ではすぐに巻き込んでしまって、仕事がはかどらずに、仕方なく草刈りガマで刈っていく他はないのだ。
 そうこうしているうちに、もう道の草刈りもしなければならなくなるし、とにもかくにも雪が来るまでの間、庭仕事が終わることはない。

 と書いてくると、単なる草取りのための単純労働の日々のようだけれども、もちろんそれだけの繰り返しだと思っていたら、ここまでやってはいられない。
 そこには、緑に囲まれた場所ならではの愉(たの)しみもあるのだ。 

 「いずれにしても自然は好意的で、結局は無精者の庭にも、ひと畝(うね)のホウレンソウ、ひと畝のレタス、少しばかりの果物と、目を慰めてくれる喜ばしい、あふれるばかりの夏の花々が育つであろう。・・・すぐ近くでは、ひとなつこくツグミがさえずり、シジュウカラがおしゃべりしている。灌木(かんぼく)や樹木は元気に冬を越した。・・・一刻一刻すべてのものが私たちに親しいものになってくる。」

(『庭仕事の愉しみ』 ヘルマン・ヘッセ 岡田朝雄訳 草思社)

 私は、座り込んで庭の草取りをする。
 林の中からは、出てきたばかりのエゾハルゼミの鳴く声が聞こえ、遠くでカッコウもこだまするように鳴いているし、家の前の牧草地からは、ひばりの気ぜわしく上下する声も聞こえている。
 見上げる青空の下には、ライラックの紫の花と、リンゴの白い花が風に揺れている・・・いい季節だ、たっぷりの自然の中で。
 そんな時に、私は今までの無精者の生活を後悔しては心に誓うのだ。

 「そして、勤勉で、平和な生活をしようと思い、このよい決心を実行しようという気持ちになってくる。」

 (同上) 

 あれほど九州でのぐうたらな生活に慣れて、北海道での不便な生活を嫌がっていた私が、いざ来てみれば、やはり自分が決めて長年生活してきた所だけのことはあるし、いや、むしろあのままだらだらと九州の家で暮らしていなくてよかったとさえ思うのだ。
 水には不便するし、仕事で汗をかいても毎日風呂に入れるわけでもないし、トイレはいちいち外に出てすまさなければならないし、と面倒なことばかりだが、それもすべては、時間と慣れが解決してくれるものなのだ。
 水を十分に使えないことで、台所の洗い物を簡単にしようと、食事の手はずも簡単になるし、後片付けも少なくなる。 
 洗濯はできないし、風呂にも入れないから、一週間に一度は街の銭湯に行って、体にしみわたるお湯のありがたさを感じ、コインランドリーでは、時に店のおねえさんとお話しできる楽しみもある。
 トイレは外でするしかないが、誰もいない野原で、自分のヒナ鳥ちゃんと一緒に日高山脈を見ながら、木の根元に栄養水をかけてやるのは、実に気分のいいことだ。
 さらに、九州にいた時には、夜中に一度は目が覚めてトイレに行っていたのに、こちらに戻ってきてもう十日余りになるというのに、真夜中にトイレで起きたのは一度だけで、あとは夜明け(4時過ぎ)のころまで、ぐっすりと寝ているのだ。
 つまりは、毎日汗をかくほどに仕事をして、快適な睡眠へと向かうべく9時には眠たくなるし、膀胱(ぼうこう)括約筋も正しい状態に働いているからだろうか。
 なあに、すべて”案ずるより産むがやすし”ということわざどおりなのだ、と納得しては、ひとり、カンラ、カラカラと笑う、お調子者のジジイではありました・・・。

 家の周りの林の中も歩き回って、冬の間に落ちていたカラマツの枯れ枝などを片付ける。
 今は、下草のササに負けじと、群落になっているベニバナイチヤクソウが咲き始め、ツマトリソウも点々と、白い小さな花を咲かせている。
 何よりもうれしいのは、一昨年去年と咲いてくれたクロユリ(’13.6.11、’14.6・2)が今年もまた数を増やして、五株十輪もの花を咲かせてくれたことだ。
 それも前回ここに書いた、二つに折れたあのナナカマドの木の根元の所で、よく巻き添えを食わなかったものだと、感謝して手を合わせたくなる。
 北アルプスで南アルプスでそして白山でと、いろいろと見てきたクロユリの花だが、それらの少し淡いこげ茶の色合いよりは、よりクロユリの名前にふさわしい、北海道産のつややかな黒こげ茶色の花びらを見せて咲いているのだ。(写真上) 

 こうして、本州では高山植物として見られている花が、この北海道の平地や丘陵部では、普通に咲いているのだ。
 このクロユリだけでなく、ベニバナイチヤクソウやツマトリソウもそうだし、他にもハクサンチドリ、コケモモ、ガンコウランなどもあり、あのハイマツでさえ海岸線に生えているくらいなのだ。
 つまり、北海道は、本州の高山環境以上の、苛酷(かこく)で冷涼な気候帯にあるという訳だし、それだけに、冬を耐えて、春から短い夏に向けての生育期間に、一気に花を咲かせることになるのだろう。
 それはともかく、わが家の庭のそばに、おそらくは鳥たちが運んだであろう種から、クロユリが咲くことになるとは、まるで”掌中の珠(しょうちゅうのたま)”を手にしたごとくに、今や私のいとおしさあふれる喜びの一つになったのだ。

 眺める楽しみは、この花たちだけでなく、この十勝平野の彼方に連なる日高山脈の山々もそうであり・・・まだ残雪が豊かに残る今の時期に、登りたいのだが・・・。
 そして今日は、まさにそんな素晴らしい登山日和(びより)の一日だったのに、私はこうして一日家にいて、ブログ書きのキーボードを叩いているのだ。
 上に書いたように、朝は3度と冷え込んだが、日中は暑かった昨日よりは8度余りも低い17度くらいで、さわやかな風が吹き渡り、快晴の一日だったのに・・・。

 行かなかった理由の一つには、このところの天気続きで気温が上がるだけでなく、空気も暖められてモヤのようにかすんでしまい、昨日は山も見えないくらいだったから、これでは展望もあまりきかないだろうし、行っても仕方がないと思っていたのだが、今朝早くは確かに山もどこかまだかすんで見えていたのだが、それが時間を追うごとにヴェールを脱ぐように、くっきりはっきりと山が見えるようになってきたのだ。山に行くべきだった。
 思えばその兆候(ちょうこう)といえるものは、昨日の天気予報での最高気温の低下にあったのだ。天気は晴れのままなのに、気温がぐんと下がる。つまり暖かい空気に代わって、澄んだ冷たい空気が入ってきたということだったのだ。
 その変化を読めなかった私が悪い、明日から天気は下り坂とのことだし。
 
 さらに自分に言い訳をすれば、月曜日にはこのブログを書かなければという、誰のためでもなく自分だけに課した、大した意味もない義務感みたいなものがあって。
 そして付け加えれば、家から日帰りで行ける山のほとんどには登っているし、どうしても今登りたいという山があるというわけでもなかったからなのだが。

 さて、こうしてブログを書いている間の一休みの時には、花と山だけではない、もう一つの眺める楽しみでもある、AKBの番組を見ていた。
 昨日録画したばかりの、いつものNHK・BSの『AKB48SHOW』。
 今月の新曲「僕たちは戦わない」は、2週間後の総選挙投票券との抱き合わせとはいえ、今の日本音楽界では他には考えられない、一桁違う145万枚という初日売り上げ枚数があったとのことであり、その32人選抜による歌とダンスは、壮観だと言えなくもないが、いまだに踊りにばらつきが目立つし、その上に今までの歌のように気安く口ずさめるような歌でないことだけは確かだ。この歌が、今の世界へのメッセージであるという気持ちはわかるが。

 そんな中でも今回面白かったのは、博多のHKT4人によるコーヒーショップのコントだ。
 ”はるっぴ、もりぽ(まどか)、める、らぶたん” (今では呼び名までも憶えてしまった)その4人が、それぞれ息もぴったりにお客を相手に繰り広げる寸劇、中でも舌足らずなセリフでボケる”はるっぴ”のおかしさ、少し前まではどこかぎこちなさの残っていたHKTメンバーたちの演技やセリフが、なんとそれぞれ自信に満ちて自然な演技に見えることか。
 この録画時期がいつだったのかは分からないけれども、どうしてもひと月前のあの東京明治座での、”指原梨乃座長、HKT公演”の、大きな成果の一つだろうと考えてしまうのだ。

 このHKTの成長ぶりを見れば、あの大阪のNMBはもともと吉本所属だし、もっと難波花月などの舞台に立ってほしいし、名古屋のSKEにしても、あの御園座での公演ができるようになればいいのにと思う。もちろん、AKB本店には、もともとミュージカル仕立ての公演があるし。
 となると、AKBグループは、歌と踊りのアイドル・グループというだけでなく、ミュージカル、演劇舞台、お笑い舞台などにまで道が広がるのだろうか・・・そのためにはもっと、宝塚並みとは言わないにしても、プロとしての訓練が必要だし、いやいや、その前にAKB自体が衰退してしまうことも・・・。

 昇る朝日に、沈む夕日・・・物事の始まりと終わり・・・次に昇ってくる朝日は、繰り返しての同じ朝日ではなく、その時々での次なる別な朝日なのだ。
 昨日、日中にはかすんで見えなかった日高の山なみが、落日の時には、それと分かるシルエットになって見えていた。
 沈みゆく太陽を、丸いカサが囲んでいた。(写真下)


 
  

  


空からの眺めと地上の眺め

2015-05-18 21:38:13 | Weblog



 5月18日

 
 高度1万メートル、通常の旅客機が飛ぶ、巡航高度である。
 北アルプスが見え、御嶽山(おんたけさん)、乗鞍岳が並び、中央アルプスから南アルプスの山々が連なり、さらにひときわ高く、残雪の筋模様になった富士山が見えている。
 その日は、全国的には晴れていたのだが、やや春がすみの空で、くっきりとした眺めではなかったのだけれど、まずはこうして旧知の山々に出会うことができただけでも、ありがたいことなのだ。
 私は、半年ぶりに、飛行機に乗った。
 感謝するべきだろう、この年まで生きながらえて、その上にこうして大好きな空からの眺めを楽しむことができるなんて・・・。
 
 やがて富士山が少しずつ遠のいていき、高度が下がってきて、もうすぐ下には房総半島の海岸線が見えてきた。
 安房勝浦(あわかつうら)付近の海岸線だろうか、明るい紺色の海と、白波寄せる磯浜、そして何よりも私の目を引いたのは、あの見事に彩色された地形図のレリーフ画像のように、谷筋に連なる街並みとはっきりと区別された、新緑の里山模様であり、その広葉樹林帯の明るい輝きだった。(写真上)

 ・・・高度2千メートル。私は、飛行機の扉を開けて、身を躍らせて空中に飛び出す・・・海の青い色が、白波が、小さな家々が、そして緑の里山のふくらみが近づいてくる。激しく風切る音が聞こえ、喜びとも恐怖ともつかぬ声が、私の口をついて出てくる。スカイダイバーのように手足を広げて、落下していく。背中にはパラシュートもなく。すべての景色が近づいてくる。あの緑の中へ。カウントダウンの数字が頭の中に鳴り響く。10.9.8.7・・・。
 そこで、夢が覚める。奈落(ならく)からの生還。それは、生きているからこそ見る夢なのかもしれない。

 羽田で乗り換えた次の帯広行の便でも、さらに東北の山々の眺めを楽しむことができた。
 日光、塩原、会津の山々、飯豊連峰に朝日連峰、月山に栗駒、焼石山などの残雪の山々が、まるで島のように浮かんでいる。
 (鳥海山は遠くかすんでいて、岩手山はすっぽりと笠雲に包まれて見えなかった。)
 それらの山々の中でも、地形学的な意味からも特に目についたのは、栗駒山(1627m)である。(写真下)



 この栗駒山は、今までに登山地図や地形図などを見ていても、噴火口のある火山だとは分からなかったのだが、それが今回、空からの眺めで、それも残雪期であっただけに、よりはっきりと火山としての姿を見ることができたのだ。
 つまり南面(写真下部)に向けての、広大な火口壁を擁(よう)した爆裂火口跡を、北西の卓越風で東側に吹き寄せ集められた残雪の帯として、容易に見て取れたからだ。
 もっとも、それは中央部の丸い火口ができた後から、さらに噴出した側火口が並んでいるだけなのか、それとも単なる長い溶岩流の流れかもしれないのだが、素人地形学ファンには、そうして想像してみることが楽しみでもあるのだ。

 さて、この栗駒山は、それほど目立った急峻な山ではないし、さほど高い山でもないが、テレビや写真で見ると、その穏やかな高原状の山容は、いかにも東北の山らしい味わいが感じられるし、地元の人たちにとっては、四季を通じて、四方に通じた登山路を組み合わせて様々なルートて登ることができる、親しみ深い山なのだというのもうなずけるし、私としても、死ぬまでに何としても登りたい山の一つである。
 栗駒山は、いわゆる”深田百名山”には選ばれていないけれども、いつも書いているように、私は百名山などにこだわる気はさらさらないし、その中の幾つかの百名山には、これからも登るつもりはない。
 そんな百名山に登るくらいなら、自分の好きな山に二度三度登った方がましだとさえ思っているのだ。
 ただ気になるのは、自分だけの名山リストに選んでいても、この栗駒山のように、まだ登っていない山が幾つも残っているということ。
 それだから今は、ヒマラヤ、アンデス、カナダなどのまだ知らない外国の山を見に行くよりは(外国の山は、若いころに行ったヨーロッパ・アルプスの素晴らしさだけでも十分だと思っていて)、今は、この残された日本の山々に何とかして登らなければと考えているのだ。

 今にして思えば、私は、自分の人生の多くの時間を山登りにさいてきたわけだし、そうした時間の過ごし方の是非はともかく、若いころに漠然と考えていた、日本全国の山に登ってやろうなどという思いは、もうこの年になっては、今さらかなえられそうにもないことになったし・・・。
 その程度の山の経験しかないのに、誰でもがそうであるように、山登りについては一家言を持っていて、ここで偉そうにあれやこれやと書いてきてはいるものの、結局のところ、今までに私がちゃんと登ってきたのは、北海道の山と、南北・中央の日本アルプスの山々くらいなものなのだ。
 特に、四国や近畿地方の山には、全く登っていないし、上信越国境と東北にしても、登りたいと思っている山の半分以上がまだ残っている有様だ。
 もっとも、そうしてこの年寄りを責めたところで、今さらどうにもならないし、ただあとは、最近とみにあちこち動くのがいやになっている、ぐうたらジジイのやる気を起こさせ、ここまで来たら、最後までわがままに自分の好きなことを貫徹させるべきだと、それがあちらで待っている人たちへの、”冥途(めいど)の土産(みやげ)話”になるのだから、と自らに言い聞かせてはいるのだ。

 さて、そうして数日前に、北海道に戻って来た。
 今は、もう5月の半ば、いつもよりは一月遅れで帰ってきた私の目の前には、すっかり春になった十勝平野の光景が広がっていた。
 ビート(砂糖大根)の苗やジャガイモの種イモの植え付けが終わり、秋まき小麦や牧草地は緑の草原になって続いていて、青空の下のシラカバ林の新緑が、目にまぶしかった。
 そうした草や木や、遠くに見える日高山脈までもが、みんなでこんなに遅くなって帰ってきた私を見ているようで、気恥ずかしい気さえした。

 家に続く道には、もう草取りをするほどに草が生い茂っていた。
 あのエゾヤマザクラの花はとうの昔に散っていて、今はコブシとスモモの花が咲き、リンゴの花もいっぱいにつぼみをつけていた。
 庭のハゲた所が目立つ芝生にも、今や新しい芽が伸びてきていて、シバザクラの小さな花も咲き始め、それ以上に庭のあちこちに植えてある、チューリップの大輪の花が色鮮やかに並んでいた。
 それなのに、そのチューリップ畑の上には、何と折れた太い木の枝が折り重なっていたのだ。
 そこだけではない。見回すと、家を取り囲む林のあちこちで木々の枝が大きくしなって曲り、あるいは折れていた。
 春先の、重いドカ雪にやられてしまったのだ。昔はこれほどの被害は受けなかったのだが、ここ数年で何本もの木の被害が出るようになって。
 一般人である私が、何の確たる資料もないのに、これは地球温暖化のせいだと騒ぐのは、性急に過ぎるのかもしれないが、今年の早い台風といい、何かの迫りくる足音に聞こえなくもないのだか・・・。 

 そんな倒木を片付けるよりも、先にやるべき仕事が幾らでもあった。
 まずは家に入って、すべての窓を開けて空気を入れ替え、越冬バエなどの死んだ虫が散らばる床の掃除などは後回しにして、水を抜いて家の中に入れておいた井戸ポンプを出して、外の井戸土管の上に据え付け、取り外しておいた、数メートルもの長さの、取り入れ口と吐き出し口のパイプをボルトでつなぎとめるのだが、このボルトのねじ山が浅くなかなか入らないし、ようやくつなぎ終わって、迎え水を入れて動かしてみるが、つなぎ目のパッキンがあまくて水が噴き出して、またやり直しと、結局1時間余りもかかり、それでもようやく水が出てくれて、これで水と電気はあるから、何とかこれから生活できるメドはついたのだと一安心する。
 大げさなようだけれど、すべてがスイッチ一つでオン・オフできる都会と比べて、こうしたライフラインがすべて整ってはいない田舎で暮らすには、不便さに慣れて何でも自分で解決していく覚悟がいるのだ。
 
 まして私のように、季節が変るたびに行き来している人間にとって、その度ごとのセット・オンやオフ作業の数々には、寄る年波とともに、その根気が続かずに面倒に思えてくるのだ。
 とりあえず、水は出ても、浅井戸だからいつ水が枯れるかわからない、だからジャブジャブと水は使えないし、つまり洗濯はたまにしかできないし、風呂にもたまにしか入れない。水が使えないからもちろん水洗トイレではないし、外に作った自家製のトイレで用を足すしかなく、特に年を取って夜中にトイレに起きるようになった私には、寝ぼけまなこで外に出るのはつらいことだ。もしヒグマが待ち構えていて、寒空に突き出した私の先っちょをがぶっとかじったらどうする。そう思っただけで、ドキドキして、目は覚めてしまうし、先っちょからの出は悪くなるし・・・。

 まあ冗談はともかく、そうした水にまつわる、洗濯、風呂、トイレの三重苦が、年寄りになった私にとって、北海道への足を遠のかせるようになった原因の一つでもある。
 若いころには、この家をたった一人で建てたように、元気に満ち溢れていて、そんな水に関する不自由さなど苦にもならずに、いろいろと工夫していくことで、むしろ面白く楽しくさえ思えたのだが。
 
 さて帰ったその日は、ポンプ据え付けの後、家の中をあれこれ掃除しては、長旅の疲れもあって夜9時過ぎには寝てしまった。
 翌日、分かってはいることだけれども、窓の外を見ては、枝木が倒れて広がっている光景にただ茫然としてしまうのだ。
 それでも、不幸中の幸いというべきか、木の枝が家の屋根や壁などを直撃しているわけではなく、その手前で倒れているだけなのだ。チューリップの何本かが、その下敷きになってはいるが。(写真下)

 

 高さ十数メートル余りにもなっていたナナカマドの木が、すぐ上の所で二股に枝分かれしていて、その片方の大枝が根元から折れていて、さらに先の方で何本にも枝分かれしていて、それをチェーンソーで切り分けていく。
 さらに、隣のゴヨウマツの折れ曲がった太い枝も切り分けていく。
 この日は、いかにも北海道らしく、前の日は暖かくて18度もあったのに、朝の気温2度からあまり上がらず、最高気温6度という肌寒さだった。
 それなのに、この倒木片づけ作業だけで数時間もかかり、さらには大汗をかいてしまった。
 家の中に入って一休みする。下着を着かえてさっぱりして、久しぶりの、薪ストーヴの暖かさが心地よい。
 労働があってこその、一休みの心地よさなのだ。今までにここで何度も取り上げた、ヘーシオドスの『仕事と日(労働と日々)』の一節を思い起こす。

「また働くことでいっそう神々に愛されもする。」 (松平千秋訳 岩波文庫)

 思えば、わが家の周りの、この林の景色、たたずまいに、春夏秋冬とどれほど心いやされて喜ばしく思ったことだろう。このくらいの木々の手入れ片づけ作業など、その楽しみのために必要な準備作業にすぎないのだ。
 何事も、”労なくしては、真にわが物とは成り得ず”ということなのだろうか。
 さらに翌日も、残りの倒れ曲がった木々を、その中には花をつけていたコブシや、新緑の若葉が美しいモミジにシラカバなどがあったのだが、仕方なくその部分も切り落としては片づけた。
 
 そして、遅すぎるとは思うけれども、いつものダニに取りつかれるのを覚悟で、山菜取りへと出かけたのだが、やはりヤチブキ(エゾノリュウキンカ)の花はもうすっかり終わっていたし、タラノメはすべて開いてただのタラの木の葉になっていたし、かろうじて、アイヌネギ(ギョウジャニンニク)だけが、葉が大きくなりすぎて茎も固くなりかけてはいたが、何とか食べられる状態で袋いっぱいに採ってきて、あとは家の周りに出ているコゴミを採れば、ここ当分は野菜を買う必要はないのだ。
 そして家のそば、林のふちには、いつも咲く赤いオオサクラソウが一輪だけと、あのオオバナノエンレイソウの白い花が、今年もまた同じ数で咲いていた。(写真下)



 3週間ほど前に、九州は九重山系の黒岳山麓で見た、あのムラサキエンレイソウを思い出す。(4月27日の項参照)
 私の記憶の中だけで、積み重なっていく花の思い出。
  ひとりでいるからこそ、出会えるものもあるのだ。
 その思い出は、自分だけのものであり、いつかは私とともに消え去っていくもの。

 この花たちのように、時の流れの中でも永遠に繰りかえし、咲き続けていくものがあるからこそ、束の間の命に生きる永遠ではない人間たちは、刹那(せつな)の美しさに酔うのだろう。
 めぐりゆくもの、永劫輪廻(えいごうりんね)の世界があるのだと思いながら。

「老いぬと知らば、何ぞ、閑(しず)かに居て、身を安く(やすらかに)せざる。・・・」

(吉田兼好 『徒然草』 第百三十四段より 岩波文庫) 

 
  


新緑の赤い葉

2015-05-11 21:42:30 | Weblog



 5月11日

 まだ、北海道に行かずに、この九州にいて、新緑の季節を楽しんでいる。
 今が、一番いい時だもの、余り動きたくはないのだ。
 年を取ってきて、最近とみに強く思うようになってきたのは、外には出かけたくないということ。
 一週間に一度、離れた大きな町にあるスーパーに行って、食料品や生活雑貨などを買う以外、外食などの大した用もないのに、わざわざクルマに乗って町に出かけて行くなんてことはないし、もちろん夜遊びなどははなからやらないし。
 ただし、私も社会の中の一員として生きているから、いろいろと”よんどころない”理由で、町に出かけなければならないこともあるのだが。
 それでも基本的に、私はぐうたらなだけの男であり、何日も一人きりで家の中にいても、やりたいことはいろいろとあるし、退屈だと感じたことはないのだ。

 もし私が、あのカフカ(1883~1924)の小説『審判』(1925)にあるように、ある日突然無実の罪で逮捕されて、刑務所の独房に収容されたとしても、その時に一冊の本でも差し入れしてもらえれば、それを読みながらあとは三食付きの静かな部屋で、今までのように何事もなく暮らしていけるのではないかとさえ思う。
 もっとも、事はそう単純ではなく、毎日わけのわからない取り調べを受けて、精神的苦痛は限界に達し、今までの一人暮らしのわがままはきかないし、いろいろな不自由さも重なって、ついには気がふれてしまうことになるのかもしれないが。

 ただ他の人と比べれば、今がそうであるように、一人でいることをあまり辛いことだとは思わないのだ。
 しかし、こうして毎日ぐうたらな暮らしていると、ある朝、起きてみたら、自分の体が巨大な毒虫になっていた、というようなことが起きないとも限らない。
 先日、テレビで世界のニュースを見ていたら、今までアメリカでは深刻な問題になっている肥満病が、あのイギリスでも話題になっていて、過食からくる肥満病で、300kgを超える体重になって、自分では身動きもできずに、クレーン車で釣り上げられ、病院に運ばれたという人の映像が流されていた。
 その時に私は、あのカフカの小説『変身』(1916)を思い出したのだ。
 突然巨大な毒虫へと変身したのは、ストレスだらけの社会に対する嫌悪感からくる、出かけたくないという強い思いと、ぐうたらに暮らしたいという今まで眠っていた欲求が一気に膨れあがり、劇的な変化を遂げたということなのだろうが、その代わりに代償として科せられたのは、動くことさえままならぬ醜い姿であったということ、つまりすでにあの当時から、現代(飽食)社会が併せ持つ弊害の一つを、的確に予言していたということになるのかもしれない。
 さらに上にあげた『審判』でもまた、国家という強い規範の中で、その統制された社会の一員たるべく位置づけられた個人が、ある日、全く不可解な理由で逮捕されて裁判にかけられてしまうという、恐怖の出来事が描かれているように、この現代社会の中でもいまだに起こりうる”冤罪(えんざい)”事件に見られるように、一方では、不条理なことがまかり通る、統制国家になりうることを警告していたのかもしれない。

 と、まあ話がそれてカフカの小説にまでなってしまったのだが、言いたかったことは、日頃からぐうたらにしているとロクなことにはならないと、自省の意味も込めて考えてみただけのことだが、もっとも人間は誰でも、時には人々の集まる街中や、あるいは自然の中へと出かけたくなるものだから、まして私には、子供のころからもう何十年にもわたって続けてきた、山登りや野山歩きという習慣化された放浪癖があるものだから、じっとしてはいられずかといって遠出するのは嫌だし、そこでクルマでわざわざ出かけなくてもすむ、いつもの自分の家から歩いて登れる山に行こうと思ったのだ。 
 家からは、舗装された車道を通らずに、谷沿いの急な山道を通って再び車道に出るが、クルマにはたまにしか合わないし、そのまま歩いて1時間ほどで登山口に着く。
 後は、ゆっくり登っても頂上までは1時間半足らずという低い山であり、今までに数十回は登っているが、それも平日だけだから、他の登山者に出会うのもまれで今まで併せても数人だけであり、まさしく静かな山歩きを楽しめる、私だけの山なのだ。
 夏は暑くて早朝に登るしかできないが、やはり一番いいのは冬の雪の降ったすぐ後であり(1月5日の項参照)、さらにはこうした新緑の季節もいいけれども、ただ残念なことには紅葉の時期にはいつも北海道にいてここにいないので、どのくらいの紅葉になるかは分からないが、後に述べるように、山腹には広葉樹林帯が大きく広がっていて、モミジやヤマザクラ、ブナ、ミズキ、ノリウツギなどの木々もあるので、そこそこの紅葉を楽しむことはできるのだろう。
 
 さて、こうして朝の空気の中を歩いて行くのは、気持ちがいい。木々の上には快晴の空が広がっている。
 しかし谷沿いの道は急勾配で、胸が痛くなるほどに息が切れる。
 そのうちには、呼吸も慣れてきて、足取りも定まり、登山口に着く。
 前回はここから少し上まで行って、新緑の林を楽しんだのだが、あの時は午後遅く、今の朝の光とは違っていて、林の木々はまた別の姿を見せていた。
 歩き出すと、前と同じように、少し離れてオオルリが鳴いていたが、別の所では、ルリビタキのさえずりも聞こえていた。
 ルリビタキと言えば、いつも私はあの北海道は大雪山の初夏を思い出す。
 あのカール壁のようなカルデラ壁に囲まれた、高原温泉からの登りで、エゾトドマツの針葉樹林帯からダケカンバ帯に入るころ、展望も開けてきて周りの緑の山腹から、何羽ものルリビタキのさえずりが聞こえていた。上空に広がる青空・・・ああ、あのまだ雪が多く残り、稜線に花が咲き始めるころの大雪山にまた行きたくなった。
 もう今では、撮るべき写真もないくらい、何度となく登った大雪山なのに、こうして私の思いの中に繰り返し出てくるほどに、何度でも行きたくなる山なのだ。

 そうしたことからいえば、今登っている故郷の里山もまた、撮るべき写真がないほどに登ってはいるのだが、意味は違え、また私にとっては、何度でも登りたくなる山なのだ。
 陰影の強い木立を眺めながら、ゆるやかに山道をたどり、その先のスギ林の中へと入って行く。
 汗ばんだ体を、暗い林の中の静けさが包み込む。
 さわやかな明るい林から、涼しく暗い林に入り、また明るい林の中を歩いて行く。
 下草のササなどがあまりないから、先の方まで林の見通しがきいて、気持ちの良い山腹斜面をゆるやかに登って行く。
 少しずつ明るくなってきて、木々が途切れがちになると、まだ枯れたままのカヤに新緑の茎が伸び始めた尾根に出る。
 そこから、今まで歩いてきた広葉樹林帯の林を見下ろすことができる。
 それはまさに、木々たちだけの緑のサンクチュアリ(神聖な場所)だった。(写真上)

 一本のコナラの木の上で、ホオジロがしきりにさえずり鳴いていた。
 灌木(かんぼく)まじりの稜線に上がると、小さな株にミヤマキリシマの赤いツツジの花が数輪ほど咲いてはいたが、何よりも目を引いたのは、花が終わった後のアセビの木が、薄赤い新緑の葉を陽光に輝かせながら、一株ごとに盛り上がるように山腹に続いている光景だった。(写真下)



 
 新緑は、”緑”と書くけれども、何も緑ばかりではなく、赤い葉の新緑もあるのだ。
 例えば、民家の生け垣などに良く見られる、アカメガシ(ベニカナメモチ)はいうまでもなく、こうした山の中で見られるアセビやヤマザクラにヤマモミジなど、若葉のころに赤くなりやがて緑の葉に変わっていくものが幾つかあって、周りに比べる緑の葉の木がなくて一本だけで立っている時には、まるで秋の紅葉かと見間違えそうなほどである。
 なぜに新緑で赤い若葉なのか、ネットで調べてみると。
 それは確定的ではないにしても、赤い色素のアントシアニンが、害虫などを遠ざけ、さらには強い紫外線から守っているのではないかということだった。
 つまり、成長を早めるために早くから若葉を出せば、その分寒さにやられたり虫たちに食べられるリスクも大きくなるから、わが身を守るために赤い色素を出すようにして、徐々にそれを葉緑素を含む緑色へと変えていく仕組みを作り、、他方では、十分に気温が上がってから若葉を出す木々は、その分の遅れを取り戻すために、最初から成長活動に取り掛かれるように、十分な葉緑素を備えた緑の葉にしたのだろうと、考えてみた。

 地球上の生き物の頂点に立つ人間だけが、思うようにふるまってはいるけれども、この地球上には人類の何百万倍にもあたる無数の生物たち、動植物から菌類に至るまでもが、それぞれのやり方で、生物の食物連鎖の掟(おきて)に従って、必死になって生きていることを忘れてはならないのだが・・・。
 とはいえ、人は誰も、わが身のことを第一に考えて生きていく他はないし、今までここで何度も取り上げてきた『利己としての死』(日高敏孝著 弘文堂)に書かれているように、生物としての個は、死に至るまで、あくまでも自分の遺伝子を残すために生きているのではあろうが。
 しかし、と考えること自体が、人間だけが持つセンチメンタリズムだと言われれば、もうそこで返す言葉はなくなってしまう・・・。
 少なくとも、今、目の前に広がるこの光景自体を楽しむことは、自らが生まれ出でた母体である自然への、先祖回帰の思いであり、それは人間もまた生物としての一種なるがゆえの思いなのかもしれない。

 とかなんとか、理屈っぽいことを考えるよりは、今はこのさわやかな春の風に吹かれて、山の尾根道を歩いていることだけで十分なのだ。
 いつもの頂上に着いて、ひと時、周りの景色を楽しみ、下りはもう一つの尾根につけられた道を下って行く。
 その途中の南側の斜面には、数は少ないが、所々にミヤマキリシマが咲いていた。(写真下)




 6月の初めに、あの九重山は平治岳の上部を覆い尽くさんばかりに彩(いろど)る、ミヤマキリシマの大群落(’09.6.10の項参照)に比べれば、ここでは、比較するほどもない小さな株が数えるほどにしかないけれども、何と言っても九重山の花の盛りの時期に先立つこと一か月も前に、ひとり山に登った私に見せてくれるかのように、こうして咲いていることがうれしいではないか。
 私はその数少ないミヤマキリシマの花を、位置を変えて何枚も写真に撮った。
 青空の下の春の山、赤いアセビの新緑とミヤマキリシマの赤紫の花。私にはそれだけでもう十分だった。
 時々、AKBの歌を口ずさみながら山を下りて行き、脚も痛くならずに意外に早く家に帰り着いた。
 5時間余りの、他に誰とも会わない、さわやかな春のハイキング・コースだった。
 
 すぐに、汗でぬれた衣類を脱いで洗濯して外に干したが、それは夕方までには乾いてしまった。
 ベランダに椅子を出して、ノン・アルコール・ビールを片手に、新聞を読んだ。
 3年前までは、足元にミャオがいて、寝転がっていたのに。
 庭の新緑の木々が、風に揺れていた。
 いつか、母やミャオがそうであったように、その時が来るまで、こうして一日が過ぎていくのだろう。

 人は、それぞれ自分の生き方でしか生きていけないし、嫌ならば、リスクを承知で現状を変えるベく戦うか、あるいは嫌なことに見えても、実はそうではなくて素晴らしいものなのだと、視点を変えるしかない。
 『僕たちは戦わない』、このAKBの新曲をようやく何度かテレビで見ては、自分なりの判断をつけられるようになってきた。
 いつも言うように、私はAKBグループの曲を、彼女たちの曲というよりは、作詞家兼プロデューサーである、秋元康のメッセージ・ソングだと思っている。
 それは、自分の生徒たちでもあるAKBの娘たちへの、そして日本の若者たちへのメッセージであるとともに、あるいは彼と同じ私たち中高年の同世代に伝える、今の彼の思いなのかもしれない。

 「僕たちは戦わない 愛を信じてる。

  振り上げたその拳(こぶし) 振り下ろす日が来るよ。
 
  憎しみは連鎖する だから今 断ち切るんだ。・・・」  (秋元康 作詞)

 これだけの、反戦的なメッセージを、今のアイドルたちに歌わせるだけの作詞家が、あるいはプロデューサーが他にいるだろうか。
 もっとも一方では、私たち中高年世代が若者であったころに、世界を席巻(せっけん)していた”ラブ・ピース”マークに代表されるヒッピー文化の、今にして思えば生硬な理想主義だったのかもしれないが、そのころの匂いが感じられなくもない。
 ただあの東北大震災に関連して、彼が立て続け書き上げた曲、『風は吹いている』や『掌(てのひら)が語ること』などでは 、彼の使命感溢れるヒューマニズムの一端を知ることができるし、AKBの曲として見ても、いずれもなかなかにいい曲だと思う。

 さらにこの新曲で、”ぱるる”島崎遙香をセンターに配したのも、次世代に向かっての布陣であり、新鮮味が感じられるし、何より若手メンバーが増えて来て、今や”お姉さん”としての立場になり、AKBを代表するべく”ぱるる”自身の自覚が、彼女のその外観にも表れてきたように見えるのだが。
 ただ、昨日のNHK・BS『AKB48SHOW』での、32名選抜による群舞ダンスは、今までのステップよりは、はやりのヒップホップ系の手先の動きの面白さにポイントを置いた振り付けであり、どこか違和感を感じるというのが正直な感想だ。
 リズムに合わせた、ヒップホップ系のダンスなら少人数でかっちりとやるべきだし、ふりのそろわない大人数なら、もっとゆるやかな振り付けにするべきだったと思うのだが。
 ともかくAKBグループそれぞれの新曲の中で、振り付けと曲調の二つで納得できたのは、NMBの『DON’T LOOK BACK』とHKTの『12秒』だけで、このAKBの『僕たちは戦わない』と、乃木坂の『命は美しい』に関しては、秋元康の作詞に問題点はないとしても、どうも少し振付がそぐわない気もするのだが。

 さらに前々回書いていた、”まゆゆ”渡辺麻友主演のドラマ『戦う書店ガール!』は、1回目こそ可愛い”まゆゆ”の一生懸命な演技と、今まであまり扱われなかった書店ものということで面白く見たのだが、2回目からありきたりの恋愛ゲームになってしまって、ただでさえテレビドラマを見ない私は、その後も続いて見る気にはならなかった。
 それに比べれば、元AKBの大島優子主演の『ヤメゴク』は、ヤクザたちの”足ぬけ”を手伝う、警視庁の”コールセンター”が舞台という物珍しさもあって、多分に漫画チックな脚本演出とともに、現代版”ゲゲゲの鬼太郎”ばりの、大島優子の過去を隠した不気味な表情が興味をつのらせるし、ドラマとしては、『戦う書店ガール』のような低予算的な匂いはしないし、しっかりとお金をかけて作られたドラマという感じがする。
 それにしても、4%や6%という低視聴率の数字は、AKBファンの一人としては、それがメンバーたちの将来へのドラマ女優への道を切り開いて行くためのものとしては、まことに残念な思いもするが、一つにはやはり歌以外でのAKBの知名度が低いことと、アニメは見てもドラマは見ないという、いやテレビそのものを見ないで、スマホにかかりっきりだという今の若者たちの現状を、あらためて思い知らされたような気がするのだ。
 
 テレビ大好きだった私から見ても、最近一日に見る時間が急激に減ってきて、ニュース番組を中心にして、朝昼晩の30分から1時間がいいところで、特に夜の7時からのゴールデン帯の番組など、クイズかグルメ、面白事件等のバラエティーばかりで、見る気もしないし、それならネットでAKB情報でも見てた方がましだと思うくらいなのだ。
 年寄りの私でさえ、テレビ離れがすすんでいるというのに、今の若者たちにとってはなおさらのこと、やがて民放は、お買いもの情報サイトの一つになってしまうのかもしれない。
 その時のために、私は、今までにDVDやBRに録画しておいたたくさんの映画やドキュメンタリー番組、そしてAKBの番組などを、ちびりちびりと取り出しては、ひとり楽しむことにしよう。
 今までの私の登山記録である、山の写真をモニター画面に映し出しては、ひとり薄笑いを浮かべながら楽しむように・・・。
 「一枚・・・、二枚・・・、三枚・・・。」

 その一枚二枚と言えば、幼い子供のころ母親に連れられて見に行った映画『番町皿屋敷』 の恐ろしさを、今でも憶えているが、その時のお化けになって出てくる女優が、当時の美人女優だった入江たか子だったような気がしたが、ネットで調べてみると津島恵子であり(相手役は長谷川一夫)、つまり当時”化け猫役者”としてもあまりにも有名だった入江たか子の、幽霊役者ぶりが、私の記憶に強く残っていたためでもあろう。
 
 ああ、こんなことまで書いてしまうのではなかった。今夜、夢に出てくるのではないのか・・・いい年をしたじいさんが、幽霊の姿にうなされて夜中に目を見開いて起き上がるなんて、そっちの方がよっぽど怖い・・・。
 今日は何のことを書いたのやら、もう眠たくなってきて・・・一枚、二枚・・・。  
  


緑の中へ、聞こえてくる歌声

2015-05-04 21:33:28 | Weblog



 5月4日

 昨日は、一日中、雨模様の天気だったが、その前の日は、またとない天気の日だった。
 前日の天気予報画面では、日本地図のすべてに、雲マークのつかないお日様マークだけが並んでいた。
 今まで山登りに出かける時のくせから、いつも天気予報だけは毎日気にして見ているのだが、そんな私でもこれほどまでに見事に、まるで小さな子供たちのお絵描きのように、晴れマークが並んでいたのは見たことがなかった。
 明日、何かをするという予定もないのだが、その晴れマークだらけのテレビ画面を見て、何か偶然に幸運なことに巡り合えたかのように、うれしくなった。
 そして次の日の朝、確かに空はさわやかに晴れ渡っていた。

 私は洗濯をして、ベランダいっぱいに干してから、次に庭に出て、小さな畑の土地を掘り返し、さらにプランターに肥料を入れて、そこに花の種をまいた。
 そして午後になって、身支度をして外に出た。
 もちろんこの連休のさ中、クルマに乗ってどこかに出かける気などさらさらなかった。
 そのために、連休に入る前に、いつも行く大きなスーパーで、しっかりと食料品の買いだめをしておいたし、連休の間は、ともかく混雑する外には出かけなくていいようにしたのだ。
 こうして普通に家にいて、後は食べ物さえあれば、しばらくは生きていくことができるということだ。

 それでも、人は外に出かけたくなるものだ。
 そこで私は、いつもの坂道歩きから、さらに続く先の山の林の方へ、つまり今の季節ならではの、”緑の中へ”と歩いてみることにした。
 この日は、日本全国でも気温が上がり、30度を超える真夏日を記録した地点が、何か所もあったとのことだが、こうした山の中にあるわが家周辺でも、25度を超える夏日になっていた。
 今までの長袖から着換えて、Tシャツ一枚でちょうどいいし、それでも坂道歩きではかなり汗をかいてしまうほどだった。
 緑の並木で日陰になった静かな坂道を歩いて行く・・・遠くで、ホオジロの声と途切れがちなウグイスの声。
 木々が途切れたあたりから、視界が開けて、谷を隔てた向こう側に、湧き上がるような新緑に包まれた山が見えていた。(写真上)
 谷側から風が吹き上げてきて、思わずその涼しさを取り込むように、両手を広げてひと時、目を閉じた。
 これがいいのだ、そしてこれでいいのだ、と。

 ほどよく心地よいもの・・・それは、そのためにと追い求める、瞬時の陶酔を含む快楽を意味するのではなく、日常の中にごく普通にあるものに、ふと気づく安らぎなのかもしれない。
 もともとあった変わらぬ山の形と、そこに生い茂る木々の織り成す光景を、たまたま通りかかった私が、新緑の自然の姿として、心地よいものとして感じただけのこと。
 そしてそれはまた、他の人から見れば、別に何も感じるところもない、ただクルマで通り過ぎる風景の一つでしかないのだろう。
 そんな彼らの行く着く先には、おいしい食べ物と、みんなでにぎやかに楽しく遊べる場所が待っているのだから。
 人それぞれに、物事に対する感じ方は違うのだし、どれが正しくどれが間違っているとは言えないけれど、ただこの連休のさ中に、私が行きたかった所は、こうしてしばらく歩いて行けば見られるだけの、どこにでもある静かな里山の風景だったのだ。

 「・・・そうなったのは、中国の達人たちの生活記録や荘子(そうし、そうじ)の比喩(ひゆ)を産む地盤となった知恵、静かで、目立たず、控えめで、いつも少し嘲笑(ちょうしょう)的な性質の知恵に親しんでから後のことである。」

 (ヘルマン・ヘッセ 『幸福論』 高橋健二訳 新潮文庫)

 人は誰でもそれぞれに、こうした”心地よいところ”を心のどこかに持っているのだろう。
 それは、もちろん風景に限らず、何かを楽しめる場所であったり、見ることであったり、聞くことであったり、さらには心の中で思うことだったりと様々にあるのだろう。
 私は今あるように、四季によって移り変わる自然の風景を眺めるのが好きだし、山に登るのはそのための究極の楽しみになるし、本を読むのも絵画を見るのも映画を見るのもテレビでよい番組を見るのも好きだし、クラッシック音楽を聴くのも好きだし、AKBも好きだし、亡くなった母やミャオやその他の人たちのことをよく思い返すし、死にゆく時のことを考えて生きている今のありがたさを思いもする。
 つまりは、”静かで、目立たず、控えめで”風変わりな年寄りにすぎないのだが、そんな”じじい”がAKBを好きだというのはなぜか。
 前にも書いたことがあるが、NHKの『鶴瓶に乾杯!』か何かの番組で出てきた、牛飼いの70幾つかになるじいさんが、これから町にAKBの新曲CDを買いに行くところでと、そわそわしていたのを思い出すが、私にはその気持ちが分からないでもない。

 つまり、日ごろはとてもお目にかかれないような、若い娘たちの集団が、それぞれ笑顔で歌いながら同じ振り付けで踊るさまは、赤ちゃんの笑顔を見て誰でもがほほ笑むように、じいさんたちもまた、若い子の笑顔を見ては楽しい気分になれるからだろう。
 むしろ”オタク”と呼ばれる若いファンほどに、ぎらついた目で彼女たちを見てはいないし、ただ孫娘たちの活躍を楽しく見守るだけの、”老人ファンクラブ”と言った方がいいだろう。

 それならば、他にもアイドル・グループや若い歌手女優タレントなど大勢いるのに、なぜにAKBだったのかということだが、そこにも今にして思えば私なりの理由があったのだ。
 たとえば、一時期はAKBよりも爆発的な人気があった五人娘からなる”ももくろ”、つまり”ももいろクローバーZ”になぜに惹(ひ)かれなかったのかというと、簡単に言えば、彼女たちはただ若さあふれる元気な娘たちというだけであって、メンバーの変わらない彼女たちは、年を取っていけばその限界が見えてくるだろうし、なにより彼女たちが歌う曲そのもの、歌詞の言葉にあまり魅力を感じなかったということでもある。
 さらに、AKBよりは先輩になる”モーニング娘”だが、確かに初期から少しずつメンバーを入れ替えてきて、相変わらず若いままのグループであり、最近では”モーニング娘’15”と、年ごとに数字を入れてその新しさをうたっているし、厳しい訓練を受けてのダンスや歌には確かに見るべきところも多いのだが、私とすれば、あの”つんく”のプロデュース作詞作曲による曲が、年寄りの感覚としては今一つ肌合いが違う感じなのだ。
 
 子供のころから、長い間日本の歌や歌謡曲を聞いてきた私は、その聞き手としての、多くの場数を踏んできた経験から言わせてもらえれば、今の若い人たちが歌うJポップスと呼ばれる曲には、ついていけないというよりは、むしろ同じような言葉とその歌詞の単純な内容に、もう聞き続ける気をなくしてしまうのだ。
 もっとも、若い人たちからは圧倒的支持を集めている、Jポップスやアニメ・ソングのファンたちからすれば、同じようにAKBと聞いただけで、ジャリ・アイドルの歌う理屈っぽい歌なんか、聞く気もしないということなのだろうが。
 つまりAKBにはそれだけ、おやじ世代やじいさん世代の、カッコよく言えば”シニア世代”のファンが多くて、あのAKB劇場で”シニア限定”の日が設けられているのもそのためなのだろう。
 
 しかし、私は、AKBの新曲CDやDVDを買いに行くつもりはないし(中古の105円CDを買ったことはあるが)、まして握手会やAKB劇場やコンサート、さらには総選挙の投票などにも参加するつもりはなく、つまり誰か特別な”おしめん(推しメンバー)”がいるわけでもなく、ただテレビを通して見ているだけの、AKBグループ全部が好きな消極的ファンにしかすぎないということだが、それだけにAKBグループ全体をなぜに好きなのか分かるような気もする。

 前回にも少しふれたように、乃木坂46を含めてのAKBグループ(他にSKE,NMB,HKT)に共通しているのはただ一つ、創設者でもある秋元康によるプロデュースであるということと、さらにはほとんどの曲の作詞を彼一人で(超人的!)手がけているということだ。
 特に私にとって大きいのは、歌として聞いた時に、日本語としてまず心に響く、彼が書いた歌詞の言葉に納得できることが多いからでもある。
 ”最初に物事が作られていく時には、たった一人のDICTATOR(独裁者)が必要である。” という、歴史上の事例をあげるまでもないことだが。
 危険な部分を含む、事の良し悪しはともかくとして。 
 
 彼の手になるAKBの歌の歌詞については、今まで何度も触れてきたので(’14.10.20や’13.12.16の項参照)、またあらためて詳しく書くつもりはないけれども、ともかく理にかなった歌の詞(詩)になっていることが、私たち人生経験豊かな年寄り世代までも納得させる、大きな要因の一つであるとも言えるだろう。
 さらに”釣り師” としての、彼の巧みなプロデュース力で、私たちはさらにAKBグループにひきつけられてしまうのだ。(今年の4月13日の項参照)
 こうして私は、ネット上での”オタク”に”アンチ”入り乱れての、見るにたえない書き込みなどに加わることもなく、ただの”隠れAKBファン” から、静かな”AKBオタク”になりつつあるのかもしれない。 

 さて、前置きがすっかり長くなって、本論の”乃木坂46”について書くのが、遅くなってしまったが、書きたいことは二つ。
 まず3月に発売された「命は美しい」、この曲は前回山に登った時にも、歩きながら思わず口にしたほどのいい曲なのだが、ピアノの前奏を受けての静かな出だし部分には、しびれてしまう。 

 「月の雫(しずく)を背に受けて、一枚の葉が風に揺れる。
 その手離せば楽なのに、しがみつくのはなぜだろう・・・」  (秋元康作詞)

 この一行目の言葉は、夜の光の中に、その鮮やかな光景が目に浮かぶようで、まさに詩と呼ぶにふさわしい。
 さらには、あの有名なO・ヘンリ(あるいはヘンリー)の短編『最後の一葉(一枚の葉) 』 (新潮文庫、岩波文庫、宝島社DVD BOOKなど)の、一シーンさえも思い起こさせる。
 そして、次のフレーズから、歌の題名にもなる”命の美しさ、大切さ”を語りかけていくのだが、以下の歌詞についてここでは割愛するが、まだまだ幾つもいい言葉がある。

 ともかくこの歌でも、今までもそうであったように、自分の生徒たちでもある、乃木坂他のAKBグループの少女たちへの、秋元康校長からの、心を込めたお話、訓示にもなっているのだと思う。(前回にも書いた、あの峯岸みなみの言葉のように、それをちゃんと受け止めている子も多いということだ。)
 そして、もちろんそれは生き急ぐ、今の社会に生きる若者たちに対してのメッセージでもあるのだろうが、併せてその思いは、誰しも昔の弱者としての傷を負った大人たちにも響いてくることだろう。
 付け加えて言うべきは、作曲者のHiroki Sagawaの曲調作りも見事であり、出だしの言葉を生かしたソロの歌い出しは秀逸である。
 それにしてもいつも思うのは、秋元康の詞がいいのはともかく、それに合わせて、ピタリとはまる曲を作り出す、有能な作曲家陣の多彩さである。

 ただ、一つだけ難点をあげるとすれば、なぜこの静謐(せいひつ)さのただよう名曲に、あのような乃木坂としては激しすぎるようなダンスを振りつけたのかということ。
 AKBの5月の新曲「僕たちは戦わない」が、同じように激しい踊りの振り付けになっていて、さらにその前のSKE、NMBの新曲でも、曲調からでもあろうが、身ぶりの激しい動きのダンスになっていた。
 前にも書いたように、ダンスならあの”Eガールズ”には及ぶベくもないし、さらに訓練を重ねた”モーニング娘’15”でさえも、さすがにと思うほどだったのだが。

 乃木坂は、他のAKBグループと違って専用劇場を持たないし、それだけに定期的な公演がファンにとっては貴重なものだろうし、今までの曲調の流れからして、何も他のアイドル・グループと同じような振り付けをする必要があるのだろうか。
 乃木坂の曲の中では、第一の名曲だと思う「君の名は希望」でも、やさしく体を揺らしてリズムをとるぐらいの振り付けだったからこそ、あの詞の内容も素直に心に響いてきたのだ。
 だから、今回も詞の内容からいえば、もっと簡単な振り付けでよかったし、あえて言えば、むしろエレガンスな色合いの乃木坂にふさわしい、簡単なバレー風な振り付けでもよかったのではないかとさえ思うくらいだ。

 次に、これはどうしても書いておきたいことだが、乃木坂46の合唱能力の高さについてである。つまり彼女たちは、素人アイドル集団のような他のAKBグループの歌とは違って、生歌でさえ、見事に”ハモって”歌うことができるのだ。
 それはそういうふうな、ボイス・トレーニングを受けているからなのか、それとも音大に通いピアノの弾き語りまでもできるほどの、あの”いくちゃん”生田絵梨花などが中心となって、日ごろから”ハモる”歌い方をしているのか。

 その違いは、あの”YouTube(ユーチューブ)"の、「君の名は希望」でのいくつかのバージョン映像録音で、聴き比べることができる。
 最初に乃木坂公式MV(ミュージック・ビデオ)の映像音声を聞けば、さすがに編曲の巧みさで、弦楽セクションも厚みがあるし、インテンポで続く伴奏のドラムスの音が小気味よく、後半の希望溢れる詞の内容と曲の推進力が合わさって、感動的ですらある。
 ここでの歌声は、それぞれのメンバーたちの歌割り当てはあるものの、合唱の部分はそのまま何人かの声を中心に重ねただけのものである。
 そして次は、最初の映像での伴奏として使われていた、弦楽奏やリズムセクションとしてのドラムスなどを使わずに、生田絵梨花のピアノによる伴奏だけで、16人のメンバーたちがライブのスタジオ録音として歌っている映像録音なのだが、そこでは全員の合唱部分で、メロディー部と低音部パートに分けて、”ハモって”歌っているのだ。
 そこでさらに気になって、YouTubeで調べてみると、やはり他にもあったのだ。
 それは、録音された曲の中から、デジタル音質調整をして、楽器演奏部分を取り除き、歌声だけを取り出したものが新たに作られていたのだが。
 素晴らしい!
 
 そこでは、”ハモリ抽出”として、乃木坂の曲の中から、「君の名は希望」と「バレッタ」の一部だけが取り上げられていたのだが、おそらくはデジタル音声操作の出来る音楽愛好家の手になるものだろうが(音声ソフトもあるし)、それにしても、いいものを聞かせてもらってと感謝したいくらいだ。
 ということは、それほど生歌での合唱能力を持っている乃木坂ならば、できることなら、無伴奏(アカペラ)もしくはあの”いくちゃん”のピアノだけでの、”ハモリ”歌をもっと聞かて欲しいと思う。
 もちろん、あの”ブルガリアン・ヴォイス”の驚異的な歌声などとは比較するべくもないが、日本にはあのゴスペラーズをはじめ、素人たちでさえ見事な”ハモリ”を聞かせるグループはいくらでもいるし、そこまでとはいかなくとも、せめてAKBグループの一員として、その能力の一端を世間に見せてほしいものだ。

 と、ここまで素人意見で勝手なことを書き綴(つづ)ってきたのだが、音楽門外漢の私がこうしたことを書くのは余計なことという気もするが、それでも、まだまだその音楽性が低く見られがちなAKBグループにも、十分にその歌声の能力があるということを知ってもらえればという、親心ならぬファン心から書いたものだと、多少の思い違いを含めてあわせて理解していただければ幸いである。
 さらに、この乃木坂以外のAKBグループの生歌や合唱能力が低いからと言って、彼女たちの歌のすべてがだめだというわけではなく、むしろそれを補って余りある何かを彼女たちが持っているからこそ、私は変わらずAKBファンでいられるのだし、そしてあの4月13日付けブログ記事の時点では、まだ聞いていなかったHKTの新曲「12秒」は、テレビでさらに二度ほど見て、まさに若いHKTの今の勢いを伝えるような、楽しい曲に仕上がっていて、うれしくなったほどだ。

 AKBグループ総選挙まで、後一月余り、誰が一位になってほしいとか誰が選抜に入ってほしいとかという特別な思いはないけれど、その時々の悲喜こもごもの彼女たちの思いとともに、しばしささやかな一体感を持てることが、このじじいの孫娘たちにしてやれるすべてのことなのだ。
 さて長々と、AKB乃木坂のことなどについて書いてきたが、まだまだAKBグループやメンバーたちのことについても思うことがあって、さらに書きたい気もあるのだがまた別な機会に譲ることにしよう。

 それよりも先ほどの、坂道歩きの長距離散歩がまだ途中のままだったので、先を続けることにしよう。
 ともかくこれほどさわやかないい天気なのに、いつもと同じ道を行くだけではもったいないと、山へと登る道に入っていった。
 午後も遅い時間だったから、これから山頂まで行く気はなかったし、ただ途中までの新緑の広葉樹の林を楽しみたいと思っていた。

 もちろん誰ひとりもいなかったし、まだ午後の光を浴びて照り輝いている明るい林の向こうでは、少しゆっくりとしたオオルリのきれいな鳴き声が聞こえていたが、私が林の中の道を登って行くと、すぐに谷側の方へと飛んで行ってしまったが、しかしそこでもまだ鳴いていた。
 林は、クヌギ、コナラ、ブナ、ヒメシャラ、カエデ、ミズキなどの広葉樹林帯にあって、二次林だから幹は細いけれども、下草も少なく低いササが所々にあるくらいで、道を外れてもそう歩きにくくはなかった。杉林に入る所で戻ることにして、下りは道を使わずに谷沿いに下って行った。
 まだ続く青空の下、何度も立ち止っては、新緑の木々の写真を撮った。(写真下)
 そして大回りになる道を通って、人家の庭先に咲く鮮やかな色のツツジなどを見ながら家に戻った。
 いつもの坂道歩きの散歩と比べて、倍以上の2時間半近くもかかったけれども、連休のさ中に家にいて、心地よい疲れを感じるいいトレッキング歩きになった。

 昨日は、ミャオの命日だった。庭の隅にある、岩を置いただけのお墓の前で手を合わせた。
 3年前のあの時のことを書いた、このブログのページを、いまだに見られないでいる。ああ、ミャオ。
 思い出は、残された人の胸に、いつまでも色あせることなく残っているものだから・・・。