ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

格式と体裁、あるいは威厳と芝居

2014-03-24 21:13:23 | Weblog
 

 3月24日

 三寒四温のたとえ通り、寒い日と温かい日が数日足らずで繰り返している。
 昨日今日と、穏やかに晴れて4月中旬の暖かさだったとのことだが、3日前には、雪が降って、咲き始めたばかりのブンゴウメの花に蕾(つぼみ)の上にと積もっていた。(写真)
 見た目には、梅に雪と風情ある姿だが、こうして開花したばかりの花が寒さにやられてしまうと、花の色があせてしまうだけでなく、夏の梅の実の出来にも差し障りが出てくる。

 しかし、梅の花が開花している時期は長く、色あせて茶色く変色しながらもしぶとく枝先についている。
 咲いたかと思うと、あわただしくすぐに散ってしまう桜の花とは、大きな違いがある。
 梅の花と桜の花のどちらが好きかと問われれば、ほとんどの人は桜の花と答えるだろう。
 しかし、古来、数多く歌に詠まれてきたのは、春の最初に花を咲かせる梅の花だったのだ。
 
 「難波津(なにわず)の 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」

 (『古今和歌集』仮名序 伝王仁 古典名歌集 河出書房)

 まだ冬の名残がある時期に咲き始めて、桜の花の時期にまで長くしぶとく咲いて、その花をもたせようとする梅と、梅の花が盛りを過ぎたころに、いっせいに花開いては、いさぎよくすぐに散ってしまう桜・・・。

 あの一休宗純の作だとされている有名な言葉・・・。

「花は桜木 人は武士 柱は檜(ひのき) 魚は鯛 小袖はもみじ 花はみよしの(御吉野)」

 つまり、一休の生きた鎌倉時代のころには、もう梅よりは桜のほうがもてはやされるようになっていたのだ。
 確かに、”一目千両”の桜の花の眺めと、春の初めの香り立つ梅の花では、比べてもせんなきことかもしれないが、しかし、桜には桜の、明日をも知れぬ豪奢(ごうしゃ)さゆえの哀しみがあり、梅には梅の、さきがけへの怖れがあり長きに耐える力も必要になる。 
 しょせんこの世は、むつかしい。

 最近、私の好きなヨーロッパ映画を続けて三本見た。
 もちろん、それは劇場で見たのではなく、NHK・BSで放映されたものを録画して見たのだが、家の42インチのテレビの液晶画面に、少し近づいて見れば、もうそこは小さな試写室であり・・・あの映画配給会社でのプレス関係への試写会と同じように、その最前列で見ているような感じで、周りに雑音もなく、目の前の映画だけに集中してじっくりと見ることができる。
 それだから、今ではもう映画館に行くことはなくなってしまったのだ。

 もちろん、テレビでは新しい映画を見ることはできないし、劇場公開された映画がテレビで放映されるのは、少なくとも3年後位になってしまうのだが、映画芸術に新しい古いはなく、むしろ評価の定まったものであれば、絵画などと同じように、それは時代に変わらぬ芸術的価値をいつまでも持ち続けているものなのだ。

 私が見た三本は、当時の歴史的事件にもかかわる話であり、そこでは映画のために多くのことが想像され脚色されてはいるが、しかしそのことで返って、いろいろと歴史的事実への興味がかきたてられることにもなる。

 一本目は、2007年のフランス制作による『モリエール 恋こそ喜劇』。
 モリエール、本名ジャン=バティスト・ポクラン(1622~72)はあの有名な17世紀フランスの喜劇作家である。
 作品には、『タルチュフ』『ドン・ジュアン』『人間嫌い』『守銭奴』『町人貴族』『病は気から』などがあり、それらは舞台劇としてだけでなく、オペラの台本としても知られている。
 私も、その幾つかの作品はオペラとして見てはいるものの、ちゃんと一冊の脚本、本として読んだことがあるのは、一番有名な『人間嫌い』(内藤濯訳 新潮文庫)だけである。

 もちろん、モリエール自身が主人公になっているこの映画のストーリーは、新たに今回映画脚本として書かれたものであるから、彼の作品の映画化というわけではないけれども、当然のことながら、多分にそれら喜劇の内容が盛り込まれている。
 だから、このモリエールをよく知っているフランス人たちが、この映画を見れば、当時のブルボン王朝ルイ13世、14世の時代を背景に書かれた、いろいろな名作喜劇の数々を思い出すことだろう。(フランス国内ではこの映画が大ヒットしたとのこと。)
 私たち日本人には、それほどまでの知識はないけれども、そうした映画の背景にあるもの、フランスの歴史の幾つかでも知っていれば、さらにその映画の楽しみが増すことだろう。
 
 話は、座長兼脚本家、俳優のモリエール率いる一座が、長年の地方公演を終えてパリに戻るところから始まる。
 
 思えば彼は若いころ、劇団経営による多額の借金のために、ある豪商の館に招かれ、そこで貴族階級のサロンの若い女主人”セリメーヌ”(『人間嫌い』の女主人公の名前と同じ)に横恋慕する、主人ジュルダンの恋の寸劇の手伝いをすることになる。
 彼は、娘の家庭教師として司祭”タルチュフ”の名前をかたり、館に住みこむことになるが、芸術を解するジュルダンの妻エルミールと、いつしか深い中になる。(写真、左からモリエール、エルミール、ジュルダン)

 

 そんな事とはつゆ知らず、ただ自分の分不相応な恋の思いに突き進む、俗物根性丸出しのジュルダンの思いは、上流階級のサロンではそのぶざまな態度で失笑を買うだけに終わり、それは、セリメーヌとの間を取り持ってくれる友人と思っていた侯爵に、まんまと欺かれたせいでもあることを知る。
 さらには、自分の娘を貴族に嫁がせようとした”町人貴族”の願いも、娘の平民との恋で失敗に終わり、すべてをあきらめてモリエールを彼の劇団へと戻してやり、一件落着となる。
 
 そして、彼ら一座は地方公演の長い旅に出たのだ。そこで、その後の話として、最初のシ-ンに戻るのだ。
 巡業の旅から戻ってきた彼らが見た、その変わることなき石畳が続くパリの下町の光景・・・その中で、バケツに入れた瀉血(しゃけつ)を溝に捨てる下女の姿。
 呼び止められた彼は、ある家に招き入れられて部屋に通される・・・そこには明日をも知れぬ病に伏せるあの夫人、エルミールの姿があった。

 こうして映画では、若き日のモリエールの恋の結末までもが語られているけれども、それは架空の話だとしても、映画全体に組み込まれた彼の喜劇作品の数々に、そこここで思い当たり、笑い納得することで、今の時代に生きる自分たちへの警句にもなっていることを知るのだ。

 監督は、あのいかにもフランス的な子供映画『プチ・ニコラ』(’09)のロラン・ティラールであり、脚本、撮影、衣装などとともに、手堅いフランス映画の伝統を感じさせる。
 主演のモリエールを演じたロマン・デュリスは、少しあくの強い顔だが、実際の肖像画(ウィキペディア参照)を見ればそれも納得できる。
 そして、ジュルダンという滑稽(こっけい)役を見事に演じたファブリス・ルキーニこそ、この映画でのもう一人の主役でもあったのだ。
 彼は、私の最も好きなフランス映画監督の一人である、あのエリック・ロメールの作品の常連であり、彼の顔を見るといつもフランス映画の何か温かいおかしみを感じてしまうのだ。
 
 彼が出演したロメール作品は、調べてみると、『クレールの膝』(’70)『聖杯伝説』(’78)『満月の夜』(’84)『木と市長と文化会館』(’92)などがあり、いずれも忘れがたい印象が残っている。(中でも『聖杯伝説』での、風変わりな舞台劇の王子役は秀逸であった。)

 芸術を愛する国フランスの、自国の芸術を誇りに思う心が、こうした文芸ロマン映画の秀作を生み出すことになるのだろう。
 そういえば、7年ほど前にあの文豪モーパッサンの短編集が、オムニバス・シリーズとしてテレビ・ドラマ化されて、視聴者に好評をはくしたということであり、それがありがたいことに、翌年BS日テレで放映されたのだ。
 その一話一話の、何と素晴らしかったこと。

 そういった、いつの世にも変わることのない、人々の喜怒哀楽を描いた劇作への思いは、わが国にも伝統芸能や歌舞伎という形で残っているけれども、モリエールと同じ時代の日本には、同じようにあの偉大なる劇作家井原西鶴などがいたわけであり、何とか日本映画として、そうした時代の文芸映画を作ってはくれないものだろうか。

 さて次は、2008年のイギリス映画『ブーリン家の姉妹』である。
 これはいうまでもなく、時のイングランド王ヘンリー8世(1491~1547)に寵愛(ちょうあい)された、アンとメアリーというブーリン家の二人の姉妹(アンが妹だとする説もある)の話である。(写真)

 
 
 ヘンリー8世には、婚姻後すぐに兄アーサーに先立たれて、彼に嫁ぐことになったスペイン、アラゴン王家のキャサリン王妃がいるのだが、彼女はメアリー王女を産んだ後、世継ぎの男の子に恵まれず、次第に疎遠になり、彼はキャサリンの侍女であったメアリー・ブーリンに手を出して二人の子を作るが、彼女はその時すでに貴族の妻であり、当時のローマ法王下のイングランドのカトリック教徒(離婚できない)でもあって、子供たちは王から認知されることはなかった。
 さらに彼は、メアリー・ブーリンの姉であったアン・ブーリンに言い寄るが、アンは妹の二の舞は踏みたくないから、結婚という形を取らなければいやだと、彼の求愛を拒否する。
 そこでヘンリー8世は、キャサリン王妃と離婚するために、カトリックからの離脱を決めて新たにイングランド国教会を起こして、その教会のもとでキャサリンと離婚し、晴れてアンと結婚する。
 
 しかしアンは、エリザベス王女を産んだ後に男の子を流産してしまい、ヘンリーの心は次にアンの侍女だったジェーン・シーモアに移り、アンは突然、実兄を含む5人の男と姦通したという罪をかぶせられて、ロンドン塔に幽閉(ゆうへい)された後、結婚後わずか3年足らずで”1000日のアン”となって、処刑されてしまう(2月3日の項参照)、・・・その最後のあまりにも残酷なシーン、広場の片隅で立ち会うことになり思わず顔をそむけたアンの妹、メアリー、しかし彼女は目の前の現実を見据えて、子供を胸に抱いて宮廷を去って行く・・・田園の風景の中で、家族とともに暮らす彼女の姿にかぶって、エンドタイトルの言葉が流れる・・・。

「メアリーは(平民の)スタッフォードと結婚し、宮廷から遠く離れたところで残りの生涯を送った。
 力強い後継ぎがいないというヘンリーの不安は、杞憂(きゆう)に終わった。
 継承者は、イングランドを45年間統治した。
 それは彼が望んだ息子ではなく、アンが遺した赤毛の娘――エリザベス。」

(エリザベス女王の治世下、イギリスはスペイン無敵艦隊を破り、東インド会社が設立され一大隆盛の時を迎えるのだ。)

 何度も映画化され語りつくされてきた、イギリス人なら誰もが知っている話を、さらにブーリン姉妹とその家族の思惑などへと、切り口を変えて展開していく鮮やかさ、その監督(ジャスティン・チャドウィック)や原作の手際よさ以上に、この映画で際立っていたのは、特に城館の中での光と影を巧みに描き分けたカメラの見事さであり、それに衣装の重みのある色合いが映えていた。
 まるで絵画を見ているようで、というより、当時の絵画に十分な素養のあるカメラマンが、レンズを通して作り上げた一枚一枚の絵のようにさえ見えたのだ。
 音楽は初めは、当時のルネッサンス調の音の流れが好ましかったのだが、先に行くに従い、やや今風な音楽の量自体が増えてしまった感は否めない。
 
 出演者では、アンを演じたナタリー・ポートマンとメアリー役のスカーレット・ヨハンソンという、二人のアメリカ人女優の熱演に尽きるともいえるが、ヘンリー8世役のエリック・バナは、あの有名な肖像画(ウィキペディア参照)から見れば、余りにもハンサムにすぎるし神経質にさえ見えて少し違和感を感じた。
 このヘンリー8世役について言えば、ずいぶん前の映画になるが、あのフレッド・ジンネマン監督、ポール・スコフィールド主演による映画『わが命つきるとも』(’66)で、ヘンリー8世を演じていたロバート・ショウのふてぶてしい顔つきが忘れられない。
 その映画は、カトリックからイングランド国教会へというヘンリー8世の宗教改革に反対して、刑死することになったあのトーマス・モアについて描いている名作であった。
 昔は、まさに良心的というにふさわしい映画がいくつも作られていたのだ。

 さてこの映画に戻れば、史実の細部で異なる点はともかく、おおむね有名な話に基づいて書かれたしっかりした原作があり、芸達者な二人の美人女優が見事なカメラワークで撮られていて、大きな文句のつけようのない映画ではあるが、最後のエンドロールの言葉に見られるように、できすぎたお話だととられなくもない。
 つまり映画はその終わり方によって、深い余韻を残すものともなるのだが・・・。
 
 もう一つこの映画で、私が感じ入ったのは、さしたる場面ではないのかもしれないのだが、ヘンリーがアン・ブーリンと結婚するために、カトリックからイングランド国教会へと宗派替えをして、自分の妻キャサリンを宗教法廷の場で裁く、その前の場面である。
 キャサリンは、その場へと歩いて行く時、廊下に並んだブーリン姉妹を見つけて、二人を強い目で射すくめるように見て言うのだ。

「そこにいるのはブーリン娼婦姉妹ね、二人とも私の侍女だったのに。

 私は、キャサリン。イングランドの王妃。
 王の正統なる妻であり、王位継承者の母。
 国民に愛され、王に愛されし妃(きさき)。
 
 あなたは王をたぶらかした。」

 と言い捨てると、彼女は背すじを張って、尋問(じんもん)の場へと歩いて行くのだ。

 何と言う、王妃としての誇りだろうか。
 あのりんとしたたたずまいと自信あふれる王妃の表情から、私が感じたのは、犯すべからざる人間の格式と威厳だったのだ。

 それは、上にあげた『モリエール』での、あの金持ち町人貴族ジュルダンの、体裁と芝居に対する対句になるものとしても・・・。

(ちなみに、ここで王妃キャサリンを演じていたのは、スペインの女優アナ・トレントであり、彼女のあまりにも見事なイギリス英語は、吹き替えだったのだろうか。そしてもう一つ、彼女はあの『みつばちのささやき』(’73)の少女だったのだ。)

 誰もの心の中にあって、しかし決して同じものではなくその時々で異なるもの、こうした人の心の陰影を、丹念に描き上げていくヨーロッパ映画の伝統に、私は、いつも強くひかれるのだ。
 ハリウッド調の、善悪が決まりきった現実にはありえないコンピューター描写の活劇ではなく、いつの世にも変わらない人間の清濁併(せいだくあわ)せ飲む苦悩の姿こそが、実はそれこそが人間の真実の姿なのかもしれないのだ。
 善きことの中に、あまたの邪悪の影がひそみ、悪しきことの中に、きらりと光る正しき真実があったりと・・・とかくこの世はむつかしい。
 
 さらに引き続いてもう一本、あの『英国王のスピーチ』についても、関連付けて書いておきたかったのだが、ここまでですっかり長い文章になってしまったし、年寄りゆえに疲れてしまったので、もう終わることにしよう。
 
 素晴らしい青空の天気が、まるまる二日も続いた。
 ブンゴウメの花が、ここぞとばかりに咲いて、あたりがその花あかりで明るくなった。
 気温17度・・・春だなあ。

私の好きな山とグールドのバッハ

2014-03-18 17:45:46 | Weblog
 

 3月18日

 先日所用があって、久しぶりに、湯布院から塚原そして別府へと抜ける道をクルマで通った。
 素晴らしい天気の日で、遠くには九重の山々が白く輝き、そして何より、雪を頂いた由布岳(1583m)が間近にそびえ立っているのを見ることができた。(写真)

 今まで何度となく書いてきたように、由布岳は”日本百名山”などに選ばれていなくとも、間違いなく天下の名山である。日本中探しても、あれほど見事な双耳峰(そうじほう)の山は他にない。
 それは、天気の良い日に、鉄道と国道の通う西側や南側から由布院の盆地に入って行くとよく分かる。
 標高400mほどの盆地から、一気に1600m近い高さにまで盛り上がる由布岳の姿・・・まったく”耳をそろえて”という言葉通りに、同じような形の頂きを二つ並べてそびえ立つその姿を見れば、恐らくは誰もがある種の感動を覚えることだろう。
 
 日本国内には数多くの双耳峰があり、たとえばその高さやアルペン的な険しい山の姿からいえば、まず第一にあの北アルプスの鹿島槍ヶ岳(2889m)の北峰と南峰が相並ぶ姿を思い浮かべるけれども、ただしあえて言えば、その二つの耳の間がやや離れ過ぎているようにも見える。
 もっとも、南側北側それぞれの縦走路から近づいて行く時には、そのやや冗長な稜線が省略されて、二つの頂が相並んだ形に見えるし、ましてそれが雪をつけている時ならば、さらに厳かな山岳光景となって眼前に現れる。
 つまり、鹿島槍は例えて言えば、いつも辺りをうかがうあのオオカミの雪まみれの耳のようであり、一方この由布岳は、山全部が丸くやわらかく、まるで日本猫の顔のようでもある。
 ぴんと耳を立てたネコの顔、ああ、ミャオ。菜の花畑の中を歩いていたミャオを思い出す・・・。
(写真、由布院盆地より見た由布岳)
 
 
 
 ところで最初にあげた写真は、北側から湯布院に入る裏道でもあり、別府から市街地を北の山側に抜け、塚原高原を通って下りて行く道の途中から撮ったものである。
 塚原高原からは、由布岳の浸食崩壊しつつある暗い北面の姿が眼前に迫ってくるのだが、そこからの由布岳の二つ耳は形が少しいびつで、何度もの争いを繰り返して、傷を負った耳のようにも見える。

 写真では、片方の耳(西峰)だけしか見えないが、しかしこれはこれで岩峰の山として、なかなかに迫力のある姿である。
 さらに反対側には、別府鶴見岳ロープウェイ方面から、やまなみハイウェイと呼ばれる県道を通って湯布院に入る道があり、その途中の志高湖(しだかこ)付近や、さらに遠く離れた大分市方面から見ると、東峰だけの頂きになったコニーデ(成層火山)型に見えて、まさに豊後富士と呼ばれるにふさわしい姿をしている。

 山は、見る方角によってさまざまに姿を変える。
 去年登ったあの大山(1729m、’13.3.12,19参照)などはそのいい例であり、西側から見れば、伯耆(ほうき)富士と呼ばれる秀麗な姿なのに、北側や南側から見れば、特に雪をつけた時にはその北壁や南壁の姿は、まさにアルペン的であり、とても同じ山とは思えないほどだ。
 そういったコニーデ型火山の典型は、言うまでもなくあの富士山や北海道の後方羊蹄山(こうほうようていざん、正しくは、しりべしやま、1898m)や、さらに薩摩の開聞岳(かいもんだけ、924m)などがあげられるが、それでも完全な円錐形ではなく、その方向によって微妙に形が違っているのが分かる。
 そうした火山でできた以外のその他の山々、つまり地層の隆起や褶曲などでできた山々は、さまざまな方向からの力を受けて不規則な形になっている場合が多いから、見える山の形は方角によってさらに一層変化あるものとなる。

 たとえば、北アルプスの白馬岳(しろうまだけ、2932m)は東西方向から見れば、ゆるやかな稜線の平凡な山の頂上にしか見えないが、南側の杓子(しゃくし)岳方面から見れば、右にキッと頭を持ち上げた颯爽(さっそう)たる姿になって何とも素晴らしい。
 そして、南アルプスでも同じような例をあげれば、あの北岳(3193m)も、西側の仙丈ヶ岳(3033m)から続く仙塩(せんじお)尾根や、反対側の東側の夜叉神(やしゃじん)峠方面から見れば、隣の間ノ岳(3189m)へと続くなだらかな尾根の高まりの頂にしか見えないが、それに対して北側の鳳凰三山を過ぎたあたりの高嶺(2779m)付近からがベストの位置に思えるのだが、そのあたりから見たバットレスを抱えた北岳の姿は、さすがに南アルプスの盟主と呼ばれるにふさわしいものだ。
 さらに反対側になる、南側の間ノ岳方面から見た北岳の姿は、その両側から急峻に反りあがったピナクルの形になって、これまた見事である。
 
 私にとっての良い山とは、まず第一に眺めてよい山でなければならないから、こうして山の姿の例をあげていくと、際限なくあれやこれやと書いていきたくなる。
 それは、盆栽(ぼんさい)愛好家の人たちが、それぞれに木々の枝ぶりを見てほめたたえる思いと変わりなく、またモデルたちから最高のポーズを引き出そうとする、写真家の思いと似たようなものである。
 つまりそうして、山々のそれぞれの方向から見た最高の姿を求めて、実際に行って見るだけでなく、それはテレビ映像や雑誌写真で見ても判断できるものであるから、私の終生変わらぬ大切な山の楽しみ方の一つにもなっているのだ。

 あなたの好きな山はと問われれば、私は様々な山の姿を思い浮かべては、考え込んでしまうだろう・・・あまりにも好きな山が多すぎるのだ。
 それでも、まず剱岳(つるぎだけ、2998m)と穂高岳(ほたかだけ、3190m)を選び、少し考えて富士山(3776m)を加えてベスト3にするとしても、それに続く山はと言えば、あとはすべて同列で、50,100いや200ぐらいの山の名前は、たちどころにあげることができるだろう。
 その中にはまだ登っていない山も幾つかあるが、それらは映像だけでもある程度は判断できるとして、ほとんどの山はもちろん今までに私が登り眺めてきた山たちだ。

 それらの多くは、標高が高くアルペン的な景観が素晴らしい日本アルプスの山々になるのだが、しかしそれ以外にも、どうしても私の名山リストには入れておきたい山々がある。
 最近は年のせいで、少し足が遠のきつつあるのだが、私のホームグラウンドであった日高山脈の山々である。
 それは2000m前後の高さしかない山々なのだが、その秘境性と、日本アルプス以外ではここだけにしかないあの山岳氷河の名残であるカール地形があちこちに残っていて、緯度の高さからくる高山性を併せて考えれば、日本アルプの他の山々に引けを取らぬ山々が、少なくとも10座以上はあげられる。
 それらの山々の中でも、ひときわ秀でた二つの山がある。日高幌尻岳(ひだかぽろしりだけ、2052m、写真、’09.5.17~21の項参照))とカムイエクウチカウシ山(1979m)である。
 雪をつけた時期の、カールを抱えたその姿には、はるか遠い北国の、神秘的な雰囲気さえも漂っていて・・・。

 

 極論すれば、これは暴論に近いとは思うが、剣に穂高に富士山、そしてこの幌尻を入れて、泣く泣くカムイエクを落として代わりに北岳を入れれば、それで私の日本の山のベスト5は、もう変わることはないだろう。

 もちろん、この五つの山は私のいわゆる”鉄板(てっぱん)”の山ではあるが、上にあげたようにそれ以外にも好きな山は幾つもある。
 わかりやすく、あのAKBにたとえて言えば、マリコ様がお辞めになる前までの、いわゆる”神7(セブン)”の存在は絶対的なものだったが、他にも”かわいこたちがいるんだもん”というわけで、他のメンバーの子たちもなかなかいいじゃないかと思うような気持なのだ。
 しょせん男なんぞは、浮気ごころの塊(かたまり)みたいなものよ・・・はいすみません。
 というわけで、その他の好きな山はと尋ねられれば、まずは最近登ってきた順にあげていくことになり、冬の蔵王、冬の九重、冬の由布岳、初冬の日高山脈剣山、秋の大雪山、夏の北アルプス水晶岳に黒部五郎岳・・・などときりがない。
 
 ここであえて、山の名前の前に季節を入れたのは、山の姿がその季節によって、全く別な山かと思うほどに変わるからである。
 つまり山の姿は、その方角から見て違うだけでなく、季節によっても大きく変わるから、それらを総合的に見てから、その山を判断しなければならないのだ。
 山は、ただ一度その頂上を踏んだくらいでは、その山を知ったことにはならないということである。
 さらに何度その山に登ったところで、登山道やルートは限られているから、その山の何キロ何十キロメートル四方にも及ぶ巨大な山塊の中の、わずか1mほどの登山道の幅で頂上までをたどっただけのことだから、まさしく私たちは、遥かなる天空のかなたにそびえる山々を征服した気でいて、実はそれがお釈迦様の掌(てのひら)の上だったと分かった時の、あの孫悟空の気持ちを知ることになるのだ。

 こんなことを書こうと思うきっかけになったのは、やはりあの前々回前回と書き綴ってきた、冬の蔵王の素晴らしさに目を開かれたからである。
 私は、若いころに一度、蔵王には登っているのだが、その時にもさすがに、あの鮮やかな緑色の宝石のような御釜の色には、感心したものの、どこが頂上かわからないような熊野岳などには、大した感興は覚えなかった。
 しかしこの度、樹氷見たさに登った冬の蔵王で私が見たのは、その樹氷だけでなく、それ以上に広大に続くシュカブラの雪原であり、そこに冬の蔵王の、名山と呼ぶにふさわしい壮麗な姿を見たからだった。
 もし私が、あの秋の刈田岳と熊野岳の登山だけで、それだけで蔵王を知ったのだと思っていたら・・・。恥ずべきことだ。

 私は最近、特に一つの山でも、そうした四季折々の姿を、またさまざまな方角から見たその山の姿を、それぞれに見てみたい、写真に収めたいと思うようになっていたから、まさにこの度の冬の蔵王への山旅は、その思いをさらに一層強くするものになったのだ。
 もちろん、国内だけでもまだ知らない山や、ぜひとも登りたい山はいくつもある。
 いつも書いているように、私は”日本百名山”などにこだわる気は毛頭ないし、むしろその百名山の中の幾つかは私の名山の範疇(はんちゅう)には入っていないから、これからも登るつもりはないし、むしろ百名山に選ばれてはいなくても、私には名山だと思える山がいくつもあって、それらの山を先に登りたいと思っている。

 こうして山を異なった方向から見ることは、また物事を多層な観点から見ることにもつながっている。
 年を取ればとるほどに、経験と知識が増えて、ものの見方に広がりが出てくる。
 熟考する時間が必要になり、それに見合う確かな判断ができるようになる。
 若いころには、年を取ることがこれほどに視界が広がり、面白くなるものだとは思ってもいなかった。
 あのころは、年寄りなど、古くさくのろく口うるさく面倒な存在でしかなかったのに、今自分がその年齢に差し掛かって思うのは、当時の、あんなに生意気でピリピリと張りつめていた若いころになんか、決して戻りたくはないということだ。
 私が年を取るとともに知った言葉・・・”平穏”、これほどまでに生きている中で幸せに響く言葉はないだろう。

 私はだからと言って、早く年寄りになるのがいいと言っているのではない。当然のこと、若い時には若い時の、年寄りなんかには決してない、輝きと躍動がある。
 AKBの娘たちを見ているのは楽しいし、ヤンキースのマー君が投げる姿を見ては胸が高鳴る思いがする。
 つまり、その年代、その時代なりに、それぞれに確かな生のひと時があるということであり、それが自分の生きているしるしなのだろう。後になって気づくことだが。
 なあに、心配しなくても、世界は回り、時は正しく流れていくのだから・・・。先のことを考えることは必要だけれども、おびえていたって仕方のないこと、まずは今を生きていくことだと、自分に言い聞かせてみるのだ。
 
 今年は雪の期間が長かった。3週間もの間雪が溶けずに残っていた。
 それでも確かに気温が少しずつ上がってきて、日差しに春のぬくもりを感じるようになってきた。いつもは2月の終わりのまだ寒い時に咲く、ユスラウメの花が、ようやく1週間前くらいから咲き始めた。
 四国では、桜の開花宣言が出されている。
 わが家の庭でも、これから間もなくブンゴウメの花が咲き、ヤマザクラが咲き、コブシの花が咲き、そして色鮮やかなシャクナゲの花が咲くことだろう・・・私が、やがていなくなっても、年ごとに春が来て花が咲き、花は散り、葉が枯れ落ちて、冬の雪が積もり、やがて雪が溶けて、新しい芽がふくらんできて、また花が咲く・・・。

 昨日、所用があって遠く離れた大きな街まで行ってきて、そこで用事をすませた後ついでにCDを買ってきた。
 あのグレン・グールド(1932~1982)の弾くバッハである。(写真)

 

 もちろん、グールドのバッハのCDはほとんど持っているので、改めて買う必要などないのだが、「ゴールドベルク変奏曲」に「平均律クラヴィーア曲集」2巻を合わせての5枚組で、なんと2000円を切る値段だったから、思わず買ってしまったのだ。
 その昔、20数年ほども前には、その「ゴールドベルク」の国内盤が3000円もしていて、まさに隔世(かくせい)の感がある。
 他にも理由があって、当時買った「平均律」は3枚組のCD(6600円)なのに厚いプラスティック・ケースに収められていて、今度の5枚入りの厚紙ケースの倍以上はあり、他のプラ・ケースとともに場所を取ってじゃまになっているからだ。
 
 レコードの時代、実は私はあまりグールドのピアノを聴いてはいなかったのだ。
 初めて「ゴールドベルク」のレコードを買ったのは、当時のエラートの廉価版で出ていた、ピヒト=アクセンフェルトのチェンバロ演奏によるものだった。
 そして、そのドイツ系の彼女の弾く穏やかな「ゴールドベルク」が、私の聴く標準になってしまい、その後買ったあのヴァルハやリヒターでさえ、少し刺激的に聞こえたくらいであり、ましてピアノによる猛烈な速さのグールドの旧盤の演奏など論外だった。

 その後CDの時代になり、私は自分の理想に合う「ゴールドベルク」を求めて、次から次にCDを買い求めた。その数、今に至るまで20枚余り。
 そしてたどり着いたのは、いずれもピアノによるものだが、ニコラーエワの92年の新盤とトゥーレックのモノラルの旧盤である。
 それで、グールドはというと、それもベートーヴェンのソナタを聴いて以来、あれほど忌み嫌っていたグールドのピアノを聞いてみる気になったのは、世間の高い評価も気になっていたし、さらに私のバッハ演奏観も変わりつつあったからである。

 初めて聴いたグールドのバッハは、しばらく前に発売されて評判になっていた、81年録音の「ゴールドベルク」の新盤である。
 そして聴いてみて、私の心の中で何かが、グールドの弾くバッハの音に呼応するのを感じた。
 そこから、グールドのバッハを次々に聴いていくことになったのだ。
 そして「平均律」も「イギリス組曲」も「フランス組曲」も悪くはなかったし、あの「パルティータ」に至っては、トゥーレック盤と並ぶ、私の愛聴盤にさえなったのだ。

 そして今回、5枚組のバッハを買って、久しぶりに聴いてみた。
 まず、「ゴールドベルク」。その遅いテンポで弾かれている音の、途切れがちなつながりの中に、それをつなぎとめる生の息づかいを聴いたような気がした。
 バッハの心にあり、グールドの心にあり、さらに私の心の中にもあるもの・・・思わず涙ぐみそうにさえなった。
 彼の弾くバッハは、確かに緩急の差が大きいから、テンポを勝手に揺らしているようにも思えるのだが、そうではなく楽章ごとのほとんどの部分では、テンポはしっかりとあのバッハのイン・テンポの中にあり、心急いだ感情あふれる楽章の後に訪れる、ゆるやかに弾かれる楽章での、自らを省みるようなひと時こそが、わが身にも切々と語りかけてくるのだ。

 それは、あの一大センセーショナルを巻き起こした55年録音の快速の旧盤と比較すると、確かに大きく違った演奏になっているとは思うが、それをある評論家がこう評していた。

「才気煥発なデビュー盤とは別の精神、別の人物が新盤を弾いていた。この間、グールドの人生には何があったのか。それは他人にはうかがいしれないものだろう。」

(文藝別冊『グレン・グールド』河出書房新社)

 しかし私には、この二十数年の歳月が流れた旧盤と新盤との間の、演奏の差がいくらか理解できるようにも思えた。
 23歳の若い彼と、死の前年49歳の彼の思いが変わらぬはずはない。
 歳月とともに人は変わるものだから、ましてひとりであることの自由な広がりを知り、またひとりであることの奈落の深淵をのぞいたであろう彼ならば、なおのこと、20数年後の演奏に差が出るのは当然のことであり、すべてを含めてグールドという人間が生きた一つのしるしなのだ。

 家族に囲まれて幸せな人生を送る人は、幸いなるかな。
 しかしそんな彼らには、孤独を生きる人の自由さと言い知れぬ哀しみなどわかるはずもないのだ。
 東日本大震災の被害にいまだに苦しむ人々が、何十万人にもいるのに、遠く離れて暮らす私たちは、いくら同情しいくらかの援助をしたところで、決して彼らの受けた苦しみのすべてを理解することはできないのだ。
 人間が個体で成り立つ個人である限り、すべては他人ごとになってしまう。

 ただし、そこですべてを理解不能なものだと断ち切ってしまうのではなく、人間はそうしたものだと理解したうえでできる限りのことをするべきなのだろう。
 それほど大したことではないのだが、私はあれほど嫌っていたグールドに近づいてみることで、今はむしろグールドの弾くバッハに親近感さえ覚えるようになったのだ。
 今、とうとう5枚目の「平均律」のCDを聴き終えようとしている。
 私に再び、ひとりで生きることを考えさせてくれた、グレン・グールドのバッハ・・・買ってきてよかったのだ。

 昨日、用事があって遠くの街まで出かけ、ついでにこのグールドのCDを買うことはできたのだが、そのためにブログを書くことができなくなった。
 前の日までは、ようやく咲いたユスラウメのことなどについて書こうと思っていたのだが、話はすっかり別な話題へとそれて行ってしまった。

 そういうものなのだ、人生と同じように小さなきっかけで、あっちへゆらゆら、こっちへゆらゆらと・・・。

山形蔵王への冬の旅(2)

2014-03-10 20:14:38 | Weblog
 

 3月10日

 冬の蔵王に行ってから、もう2週間にもなろうとしている。
 しかし、あの時の青空の下に広がっていた、凍てついた白雪の山々の光景は、いまだにやさしく冷たく鮮やかによみがえってくる。
 いい冬の山旅だった。

 そしてさらによみがえるもう一つの思い出・・・。
 いい娘だった。
 
 まだ私が若いころ、東京に向かう寝台列車に乗り込んだ時、その6人掛けのコンパートメントには、ひとりの若い娘がすでに座っていた。
 その時に初めて見た、彼女の目鼻立ちのはっきりとした顔立ち以上に、私が憶えているのは、彼女が着ていた落ち着いた紺色のスーツだった。
 それは、色の白い彼女に似合って、いやあの紺色が、彼女の色白な肌をさらに浮き立たせたのかもしれないのだが・・・。
 私は、ひと目で恋をしてしまったのだ。

 その後、何とか彼女の連絡先を聞きだして、何度かのデートの後で、二人で東京郊外の高尾山から陣馬山へのハイキングに行くことにした。
 それは、ようやくツツジが咲き始めたばかりのころで、そんな春の山道を、二人で話しながら楽しく歩いた。
 そして、下りの少し急な坂道で、彼女に手を差し出した。
 ドキドキしていた。
 彼女が、私のところへ下りてきた瞬間、抱きしめたいとさえ思ったが、できなかった。
 
 その時に持って行ったカメラで、何枚かの写真を撮っていた。
 町の写真屋で現像してもらい、出来上がった写真に彼女は写っていた。
 彼女にはたまにしか会えなかったから、私はその写真の彼女の顔を、いつもうっとりと眺めていた。

 そして今、私はまだ帰ってきて間もない冬の蔵王の山の写真を、うっとりとした思いで眺めている。
 そうなのだ。山に行きたいという思いは、もしかしたら私の恋をしたいという気持ちの現われなのかもしれないのだ、この年になっても。
 そして、実際に山に行って憧れの山と感激の対面のひと時を過ごし、家に戻ってからもそのなごりの思いは続き、写真を眺めながら、その時のことをうっとりと思い返すのだ。

 あの憧れの山とともにあったひと時を、写真がすべて写し出しているとは思わないが、少なくともあの時のことを思い起こすのに、数多くの写真が役に立っていることだけは確かだ。
 私は、快晴の天気に恵まれた日に蔵王の山の上に9時間余りもいて、何と300枚以上(オート・ブラケティング連写なしで)もの写真を撮ってきたのだ。
 家に戻ってから、それを一枚一枚見てはねちねちと楽しみ、ある時はスライド・ショーにして楽しむ・・・。
 それほど熱心に、液晶画面に映った蔵王の写真を見続けるのは、次に行く山までの間だけかもしれないが、1年たち2年たっても、いつまでも変わらずに私だけの思い出として、時々はその写真を見たくなるだろう。

 一方で、山で写真ばかり撮っていると、眼前の今の景色をその本当の姿を見逃すことになるから、写真よりは心の目に写し撮るべきだという人がいるが、果たして人の記憶は、一瞬のその時の記憶ならともかく、たとえば私が子供のころ持っていたあのゾウのおもちゃの記憶映像や、寝台列車の座席に座っていた紺色のスーツを着た娘の姿だけなら、写真がなくてもいつでも思い返すことができるのだが、その前後の細かいことまでも、しっかりと憶えているのだろうか。
 いや、その一瞬の光景とその他の小さな断片以外のことは、何も記憶に残っていないのが普通なのだ。

 つまり記憶は、断片化されたものとしては残っているかもしれないが、それは決してスライド・ショー的に連続的に映し出されるものではなく、まして動画ふうに時間ととも記憶されているものではないということだ。
 だから私は、自分の登った好きな山の思い出を、欲張りにもできるだけ長い時間の記憶として残すために、数多くの写真を撮っているのだ。

 まして今回の冬の蔵王は、私にとってそれだけの記憶を残すにふさわしい天気であり山であったのだ。
 
 さて、前置きが長くなってしまったが、前回書いたようにロープウェイに乗って霧氷を眺めながら山頂駅(1661m)に着いた後、目の前の三宝荒神山(1703m)とさらに地蔵山(1736m)に登って、樹氷群の眺めを楽しんだ後、私は蔵王山群の最高峰である熊野岳(1841m)に向かって歩き始めた。
 これからは、西側に荒々しい爆裂火口跡のような浸食崩壊壁を見せる熊野岳の傍を、そのモビイ・ディック(白鯨)のように横たわる山体に沿って歩いて行くことになる。
 なだらかに続く地蔵山の東の肩から少し下り、あとはトラヴァース気味に熊野岳の東端稜線へと登って行く。

 そこには吹雪の時に迷わないようにと、10mごと位に高い木の杭が立てられているが、それらもすべて先ほどの樹氷のように白雪に覆われて凍りついている。
 しかし、アオモリトドマツの木でない限り、私はこれを樹氷とは呼びたくない。それは、同じように巨大な”エビのしっぽ”の集まり、シュカブラではあるが、生きている木ではなく人工的に設置された道標なのだから。
 それが点々と、稜線の肩に向かって続いているのだ。

 いや、そんなことよりも私がずっと気にかけていたのは、地蔵山から続く、それも広大な平地斜面を問わずに、湿った雪と冬の冷たい季節風によって形づくられた無数のシュカブラの姿である。
 ある時は大きな塊(かたまり)になり、ある時は階段状の岩棚のように、ある時は小さな筋となって果てしなく続いているのだ。
 左右にその様々な形のシュカブラの波が続き、背景にはあのモビイ・ディックのような、熊野岳の長い頂稜が横たわっていて、私は何度も立ち止り、カメラのシャッターを押していた。(写真上)
 登山者はまばらに一人二人と歩いているくらいで、写真を撮る邪魔にもならなかった。

 そして熊野岳の頂上稜線に上がると風が吹きつけてきて、それまで厚い長そで下着にフリースを着ただけだったが、さすがに寒くなり上に冬用ジャケットをはおり、さらにネックウォーマーを耳のところまで引き上げた。
 いくら快晴の比較的風の弱い暖かい日だとはいえ、こうして風の当たる所では、冬山の寒さが身にしみるのだ。
 もしこれで、今の時期の吹雪の中にいるとしたら、さらにジャケットの中にもう一枚ダウンを着込み、手袋も厚手の二枚重ねの上にさらにオーバー手袋をつけて、眼にはスキー用のゴーグルが必要なことだろう。
 今日は、幸いにもそれほどの寒さではなく、それらの品々は使うことなくザックの中に入れたままだった。

 靴は、今ではあまり使われなくなったが、プラスティック・ブーツをはいている。
 それは、突然割れることがあり危険だからと(メーカーによるのだろうが)、一時期大問題になったのだが、しかし私の靴にその気配はなく、雪濡れに強い利点は何物にも代えがたく、もう20年近くにもなるのだが、数年前に買い足した同じメーカーのもう一足とともに、いまだに雪山で使い続けているのだ。
 

 さて、長い平らな頂稜をたどって、熊野岳頂上に着いた。
 周りのなだらかに続くシュカブラの氷原の上に、地蔵山でも見た四方の山々が、安達太良、吾妻、飯豊、朝日、月山、鳥海とさらにさえぎることなく、それぞれの形で雲海の上に姿を現している。
 そして今まで見えなかった、刈田岳(かっただけ、1758m)の後ろには、南蔵王の杉ヶ峰(1745m)や屏風岳(びょうぶだけ、1817m)などの山々がゆるやかに連なっている。

 大きなシュカブラの塊のようになった、本来あるはずの祠(ほこら)の陰などで7,8人の人たちが休んでいた。
 私は一通りの写真を撮り終えると、再び来た道を先ほどの分岐まで戻った。
 その先には、雪に埋もれてかろうじて入り口のドアだけがのぞいている避難小屋があったが、そこからも例のシュカブラ化した高い道標が、刈田岳の方へと続いていて、その道に数人の人たちが点々と離れて歩いているのが見えた。
 私はその道と離れて、トラヴァース気味にシュカブラの斜面を横切って、あの御釜(おかま)が見える高みのところまで行って、そこでようやく腰を下ろした。もうお昼に近かった。

 五色岳噴火口跡である御釜の水は、さすがに今ではあの鮮やかな緑色をしのぶよすがもなく、冬の氷と雪で白一色になっていた。
 その向こうには、刈田岳からさらに南に続く、樹氷ツアースキーで有名な南蔵王のなだらかな山々が続いていて、頭を戻した右手には、今たどってきた熊野岳の大きな山体が横たわっていて、刈田岳とをつなぐ回廊は、馬の背と呼ばれるなだらかな尾根道になっている。
 その馬の背の上には、相変わらずにに吾妻連峰と飯豊連峰が見えていた。

 そこでは、再び着ていた冬用ジャケットを脱いでもいいくらいであり、穏やかであまり風もなかった。
 朝からの快晴の空は続いていて、私は幸せな気持ちだった。
 時間はたっぷりとある。私は夕日に輝く樹氷群を見るために、今日の一日をこの山の上で過ごすつもりでいた。
 もし天気が悪くなったり、風が強くなってブリザードになれば、あのロープウェイの駅舎に戻って、そこで夕方まで粘るつもりでいたのに、それも厳冬期の東北の山だというのに、何というやさしさで私を迎えてくれたことだろうか。

 もちろん今までの経験から言っても、冬山の厳しさを百も承知でいたから、若い時ならそれも覚悟で日を選ばずに山に入っていたのだが、年を取った今は、こうした微風快晴の雪山を楽しむべく、ぜいたくにもただその日が来るのをひたすら待っていたのだ。
 思えば最近、初冬から厳冬期にかけての雪山を目指して、計画を立て実行してきたもののすべてが、幸いにも私の思い通りになっていたのだ。
 今年の蔵王、去年の伯耆大山(’13.3.12,19の項参照)、その前の燕から大天井、八方尾根から唐松、立山連峰、中央アルプス駒ヶ岳、八ヶ岳などなどすべてが、もう二度と行かなくてもいいと思えるほどの、それぞれのベスト山行になったのだ。

 思えば私は、もう老い先短い年寄りだから、あーゴホゴホ、さらに家族を亡くしミャオを亡くして、いまだにその痛手から立ち直ることができずにいるから、神様は一年に何度か、私に素晴らしい山々の眺めをプレゼントしてくれるのだろう。
 私は、少女マンガのヒロインたちのような輝く目をして、胸に手を合わせて、神様に祈るのだ。
 大自然の神様、ありがとうございますと。

 私はそこでゆっくりと休んだ後、馬の背へと降りて行った。
 踏み固められた道でない所でも、雪はシュカブラなどで固く締まっていて、踏み抜いても20cm位のもので大したことはなかった。
 そこからの吹きさらしのなだらかな尾根道も、相変わらずにシュカブラの織りなす白雪の芸術が見事だった。
 左側には、いまだに活火山の兆しを見せている五色岳が見え、その地熱のためか所々地肌をむき出しにしていて、しかしその御釜の凍りついた白さに変わりはなかった。(写真)

 

 (写真の地平を区切る黒い層は、後で知ったことだが、当日の中国の大気汚染の影響だと考えられる、あのPM2.5の汚れた大気の層だったのだ。)

 ゆるやかに下った後は、右手に冬季休業の雪に埋もれたレスト・ハウスを見ながら、最後の刈田岳の登りにかかる。
 スキーで降りて行く人の姿が、二人さらに一人、もう一人と見えている。
 そして刈田岳の山頂に着くと、そこには巨大な”エビのしっぽ”化したシュカブラと雪に埋もれた、刈田嶺神社とその鳥居があって、そばには数人が休んでいた。

 頂上付近には、他にも山スキーの人が二人と、さらにお年を召したご夫婦がいて、その足元は取り回しがいいからとショート・スキーだった。
 熊野岳ではたった一人だった山スキーヤーが、この刈田岳では、私がいた間だけでも10人近くのスキーヤーを見かけたのだ。
 それはこの山が、山形蔵王の坊平(ぼうだいら)からと、宮城蔵王のスキー場からといずれも取りつきやすいからなのだろう。
 雪国の人は降り積もる雪に日々苦労するのだろうけれども、こうしてその気になれば、手軽に雪と山の楽しみも味わうことができるのだ。

 ところが九州に住む私たちは、普通にはそれほどの雪に苦しめられることはないけれども(今年は例年にない30㎝もの雪で農業などに大きな被害が出たけれども)、山に関して言えば、人工降雪機を併用した幾つかのスキー場はあるものの、とても山スキーやツアースキー(長距離縦走スキー)などを楽しめる山などどこにもないのだ。
 つまりどこに住んでも、便利不便利は相半ばしていて、その土地ならではの一長一短があるということなのだろう。
 
 頂上の東側にはシュカブラの大きな株が並んでいて、そこから見える南蔵王の山々が、今や西から吹きつける薄い雲のために少しかすんでいた。(写真)
 
 

 やがてあの雲が広がって来るかもしれないと、刈田岳を後にすることにした。
 再び馬の背を戻ってゆるやかに登って行くと、もうあたりに人影は少なく、二人三人と見えるくらいだった。
 行きに通った道だけれども、帰りにはそれらのシュカブラ模様がまた変わった紋様に見えて、またまた何度も立ち止り写真を撮ることになる。
 そして、シュカブラに覆われた道標の道から離れて、先ほど休んだ御釜がよく見えるポイントからさらにそのまま登って行って、熊野岳の長い頂稜がゆるやかに終わる東端、つまりこの白鯨の尻尾のあたりまで行って、そこにあった大きな岩のシュカブラのそばで休むことにした。

 さすがに少し風があり、ジャケットを着込んだが、それほど寒くはなかった。
 ザックを下に腰を下ろして、そこで穏やかな冬山のひと時を楽しんだ。
 あたりに人影は見えず、青空と山々と私がいるだけだった。
 心配した南蔵王の山々の上の薄い雲は、いつの間にか消えていて、再び全天は一色の青空に戻っていた。

 北の地平を区切る暗い色の大気の上に、北蔵王の雁戸山(がんとやま、1486m、南雁戸と北雁戸の双耳峰)に神室岳(かむろだけ、1356m)、大東岳(1366m)などのはっきりと盛り上がった形の山々が浮かんでいた。
 それらの山々は、朝から暗い大気の中に沈んでいて、かすんで見えてはいたのだが、ここにきて午後になって、ようやくその姿をはっきりと確認できるようになったのだ。

 私が今日たどって来たのは、蔵王連峰の中心部の一部だけでしかない。まだまだ蔵王には、あの広大な樹林帯が続く南蔵王の山々やプチ・アルペン的な北蔵王の山々もあって、冬場だけでも、山スキー、ツアースキー、スノーシュー・トレッキング、冬山縦走といろいろなスタイルで雪山を楽しむことができるはずだ。
 まして他の季節も、春夏秋と考えれば、この蔵王の山の楽しみはさらにふくれあがることになるのだろう。

 さてと、立ち上がって歩き出す。避難小屋の分岐から、地蔵山へとゆるやかに下って行く。
 ところが、この下りでもたびたび立ち止まり写真を撮りたくなったのだ。
 午後の光が、午前中とは違う陰影の強い青い山肌に変えていたからだ。同じ山の姿なのに、また別な顔を見せてくれる。

 歩いている時よりは、立ち止まっていることの方が多くなってきて、ようやく地蔵山の頂に戻ってきた。
 まだ4時過ぎだったが、私と同じように夕日の光景を写真に撮りたい人たちが数人、三脚を構えて準備していた。
 私は、もともとが山屋(山登り専門)であり、写真はあくまでも記録用として撮っているのであり、これは芸術的な写真を撮れないからの負け惜しみでもあるが、ともかくカメラに多少こだわるくらいで、ただ素早く撮ることだけが重要で、技術的なことには一切目をつぶっているのだ。

 だからもちろん、手間のかかる三脚は使わずに、いつもシャッター・スピードを速くしての手持ち撮影が基本であり、ブレそうな時にはストックを一脚代わりに使ったり、岩の上などにカメラを固定したりして撮っているのだ。
 だから、大きな液晶画面サイズくらいまでは、何とかブレも目立たず見ることができるのだが、もちろんそれ以上に、等倍2倍に、そして全紙印刷などすればとてもブレが目立って、使える写真は一枚もないだろう。
 それでいいのだ。私は、プロではないし、投稿したり人に見せるためのいい写真を撮るつもりはないのだから。
 あくまでも、その時私の目の前にあった光景とほぼ同じように、写真に撮れればいいと思っているのだ。
 
 だから、自分の見た目と違うPLフィルターなどは使いたくないし、まして実際には見られない滝などの白い布のような流れを表現するために、遅いシャッターで撮ることなどはしたくないのだ。
 そうした、風景写真の定石を学ぶこともなく、いつも決まったF値と高速シャッターの馬鹿の一つ覚えで写真を撮っているから、決してうまくはならないし、それに加えて、あのえらい写真家の先生からは軽蔑されるけれども、私にとって山の写真を撮るのに一番大切なことは、ただ一面の青空の下で”絵葉書写真”や”お絵描き”写真を撮ることだと、かたくなに信じているから、いまさらその”頑固じじい”の思いを変えることなどとてもできないのだ。

 地蔵山の広い頂上の、あちこちに場所を変えて、最後にやはり熊野岳を大きくを眺める所で腰を下ろして、落日のその時を待ちながら、風紋を前景に入れて何枚もシャッターを切った。(写真)

 
 
 本当はここで、熊野岳の西面が夕日に赤く照らされるのを待ちたかった。しかし、初めて見に来たあの樹氷群が、赤い夕陽に染まるのも見たかった。さあ、さあ、さあ・・・どうする。

 私は覚悟を決めて、地蔵山の斜面を下りて行った。
 途中の樹氷群が夕日に染まるところを撮ろうとしたが、いい位置にならない。
 それ以上に、朝あれほどに丸々と太っていた樹氷が、今や日中の日の光で溶け出して、すっかりやせ細り、中には枝葉がむき出しに見えているものさえあったのだ。

 駅舎付近まで下りてきた時に、太陽が沈んでいった。
 私は駅舎のそばから、あかね色に染まる空を背景に、朝日連峰と(中央奥に私の憧れでもあるあの祝瓶(いわいがめ)山の鋭峰が見えている)、少しだけライトアップが始まったばかりの、樹氷群の一部を写しただけだった。(写真下)

 後になって分かったのだが、このあたりでベストな場所は、やはりロープウエイ駅舎の屋上だったのだ。
 さて夕闇が迫り、周りの樹氷群のあちこちで夜間ライトアップが始まり、夕景とは違う空間を作り上げていて、さらにロープウエイからの人々が続々と上がってきていた。
 私は、そんな都会と変わらない色合いに興味はなかった。ガラガラに空いた下りのロープウエイに乗って下に降り、ぎりぎりの時間で宿の夕食に間に合った。
 そのおいしい食事をいただき、温泉にゆっくりつかり、温かい広い部屋に一人で寝て、今日の青空の下の山々の姿を思い返していた。

 何と言う、恵まれた幸せな雪山の一日だったことだろう。
 ただ私は、この蔵王に樹氷を見るためにやってきたのに、結局はその樹氷よりは、シュカブラにすっかり魅せられてしまったのだ。
 今まで経験してきた雪山の中で、これほどまでのものはなかったし、ともかく様々な形のあのシュカブラを、最大規模の形でそして広範囲にわたって見ることができたのだ。
 その自然が作り上げた芸術を、心ゆくまで堪能(たんのう)できたことに、今はただただ感謝するほかはない。

 もちろん、私が今回知ったのは、冬の蔵王のほんの一部でしかない。
 ゲレンデ・スキーなら滑れるから、今度はあの山頂駅からの樹氷帯のコースを何度も滑り降りてみたいし、何とかもう少し山スキーが滑れるようになって、あの静かな南蔵王の山々をたどってみたいとは思うのだが・・・。
 
 その夜、寝入りばなのころ、私は両足がつってその痛みですっかり目が覚めてしまった。
 それは繰り返し来て、もう声をあげたいほどの痛みだったが、あちこち横になる位置を変えたりして20分余り、何とかおさまってくれたのだが、当然そのことで自分に思い当たるふしはあったのだ。
 まず第一に、いくらそれほど寒くはなかったとはいえ、久しぶりに朝から夕方いっぱいまで、9時間余りもの間冷たい雪山にいて、知らぬ間に足を冷やしていたこと。
 次に、ついつい写真ばかりに夢中になり、きつい登りがあったわけでもないからあまり休みも取らずに、十分な水分補給をしなかったことにある。

 足がつることについては、2年前のあの南アルプス初日の途中で歩けないほどになって(’12.7.31の項参照)以来、気にはかけていたのだが、その後もこうして家に戻ってきた後で足がつることがあったのに、最近短い登山ばかりで、すっかり忘れていたのだ。
 そういえば最近、ある医学バラエティー番組で見たことがある。「夜中に足がつるのは、脳梗塞(のうこうそく)の恐れがあります。」  
 げっ、突然脳梗塞で倒れて死ぬのはともかく、半身不随などの後遺症が残ったとしたら、もう山へは行けないどころか・・・。
 こうして、神様はいつも半分半分の幸と不幸とを垣間見せてくれるものなのだ。
 冬の蔵王の素晴らしさと、自分の体への不安と・・・。

 「もう私は年寄りで誰かお助けを」などとは、やせても枯れてもこの鬼瓦権三(おにがわらごんぞう)決して言いたくはないのだが。


 そして忘れてはならないこと、3.11東日本大震災に合掌。

 

山形蔵王への冬の旅(1)

2014-03-03 22:02:19 | Weblog
 

 3月3日

 この冬の間、特に厳冬期の1月下旬から2月にかけて蔵王に行くために、ずっと山形の週間天気予報を注意して見ていた。

 山形は、東北地方を縦に二つに分ける奥羽山脈の西側にあり、盆地地形とはいえ、裏日本型と呼ばれる日本海側の天気の影響を強く受けて、冬の間は天気に恵まれることは少ない。
 それでも、一日や二日、雪が止み風が止み、青空が広がる日があるはずだ。
 晴れのマークが半分の日では、山では天気の急変が考えられるから、安心はできない。ぜいたくを言えば、一日快晴であってくれるような日があればいいのだが。
 そんな晴れの日が続くような、大きな高気圧がやってくるその日を、私は待ち望んでいた。

 長い間、私はあの巨大な”アイス・モンスター”と呼ばれる樹氷を見てみたいと思っていた。
 有名なのは、八甲田と八幡平(はちまんたい)と蔵王であるが、交通の便が良く行きやすいのはやはり蔵王である。
 まず山の地図を買い、テレビで冬の蔵王の番組を見たり、さらにネットでいろいろと調べては、その日が来るのを待っていた。
 できれば、樹氷の最盛期である2月中旬までには行きたかったが、しかしここまで晴れマークが出てもせいぜい半日でしかなかった。
 月日は過ぎゆき、もう樹氷も終わりに近づき、今年は諦めるしかないのかと思っていた。
 ところが、この2月の下旬に、ともかく三日続いての晴れマーク(前後は小さい晴れマーク)が出たのだ。
 西から張り出してきた高気圧が、上を通って行くのだ。キャッホー。

 前日まで待って、天気予報が変わらないことを確かめて、次には宿の予約を取らなければならない。
 いつも一人で行くから、宿取りには苦労するのだ。宿にしてみれば、一部屋に一人という効率の悪い一人客なんか、あまり泊めたくはないのも当然だ。
 幾つかの宿をネットで調べてみたが、すべて満室であり、仕方なく山形市内などのビジネス・ホテルなども探してみたのだが、平日なのにすべて満室。なんじゃ、こりゃー・・・。
 そこで、蔵王温泉の観光協会に電話してみると、何と日曜日まで蔵王で冬季国体が開かれていて、おそらくはその関係者たちがまだ滞在している影響ではないかとのこと。
 ともかくどこでもいいからと宿を頼むと、いつも私が泊まるような安宿ではなく、少し高い価格設定だけれども二軒紹介してくれて、そのうちの安いほうを選んで電話して、やっと予約を取ることができた。やれやれだ。


 出発の日の朝、翌日の山形の天気予報は、一日晴れの大きなお日様マークがつけられていた。もうこれ以上、何を望むことがあろうか。
 ただし、すべてが思い通りになるとは限らない。楽しみにしていた福岡―仙台便の飛行機からの眺めが、確かに中部地方の天気予報は良くなかったのだが、その通りに下界は雲に覆われていて北アルプスも南アルプスも富士山も見えなかったのだ。
 わずかに、去年登ったあの伯耆大山(ほうきだいせん、’13.3.12,19の項参照)と、仙台に近づいたころに雲の間に、飯豊連峰の一角が少し見えたのがせめてもの慰みだった。
 
 飛行機は、仙台空港へ海側から入って行く。その海岸線に残る、あの大津波の跡・・・。私には手を合わせることぐらいしかできないのだが・・・。
 そして、仙台空港線の電車に乗ってわずか30分余りで仙台に着く。
 乗り換えの時間があったので、駅前に出てみると、久しぶりに見たのだが、高層ビル街が続いていて、震災にも負けない拠点都市としての力強い賑わいぶりを感じた。
 それは、東京に名古屋そして大阪といったいわゆる三大都市圏の他に、さらに離れた地方にある北海道の札幌やこの東北の仙台さらには中国地方の広島に九州の福岡などの、こうした地方拠点都市の発展ぶりを見ていると、長期低落傾向の日本などと言われてはいるが、依然変わらぬ日本経済のたくましさも感じてしまうのだ。
 私は、こんな大都会には住めないけれど、何か巨大なエネルギーを感じる都市の街並みを見るのは、なかなかに興味深いものがある。
 
 仙台から仙山(せんざん)線に乗り換えて、山形へと向かう。
 仙台の街中でも、まだ道路わきには雪が残っていたのだが、電車が奥羽山脈に向かうにつれてさらに雪は深くなってきて、1mから2m近くもあった。その雪は、面白山(おもしろやま)のトンネルを抜けて山形側に出ても変わらない。
 国境の長いトンネルを抜けても、雪国は続いていたのだ。

 しかし、先ほどから気になっていることがあった。家の屋根の形である。
 前回、雪国の屋根の形について書いたのだが、ところがこのあたりの家は、軒を接した街中でもないのに、雪をいっぱいに乗せた勾配のゆるい屋根が多いのだ。
 もちろん三角屋根の家もあるのだが、新しい家なのに、なぜにこんなに勾配がゆるいのか。

 ふと気づいたのは、その雪を乗せたその屋根の姿である・・・そうだ、雪の断熱効果を逆利用しているのではないか。
 このあたりでは、北陸・東北の日本海側の豪雪地帯ほどには数メートルもの雪にはならないから、せいぜい1mぐらいまでだとすれば雪おろしをする必要はない。
 だから雪を乗せておいてもいいのではないか、雪が積もっているおかげでそれが断熱材の役目も果たして、屋根から逃げる熱が抑えられて、むき出しの屋根の家より家の中は温かくなるのではないか。
 
 昔から写真や絵でよく見た、北国の光景だが・・・丸くふかふかの雪が、家の麦わら屋根や木々の上に降り積もっている。
 つまり、家がしっかり雪を支えられるように作ってあれば、雪はそう邪魔なものではなく、むしろ家の中の熱を逃がさないものとして逆利用できるのだ。
 それは、冬山で雪洞(せつどう)を掘って、その中で寝泊りすれば、外にテント張るよりも暖かいのと同じような理屈だ。

 ところで後日談なのだが、建築関係の仕事をする私としてはいささか興味深いところであり、山から戻って改めて北国の屋根について調べたところ、これはそう言えば昔からあったのだが、平坦な屋根や、ゆるやかなV字屋根にして、熱で溶かす無落雪屋根から、最近では新しく屋根の形状に変化をつけて、棟の部分に仕切り板をつけて雪を滑り落としやすくしたものや、カラートタンの屋根を横方向に葺(ふ)いていって、その境目が段差になり、溶けた水の通り道になり、つららができにくくなり、さらには雪おろしの時の足がかりとなって滑りにくくなるというものまで、様々な屋根の形があることが分かった。
 雪国の人は、屋根に降り積もる雪の対策を、いつも考えているのだ。

 さて山形駅に着いて電車を降り、次に蔵王温泉行のバスに乗る。
 このバスは、スキーヤーや観光客のためだけではなく、山形の町へと通勤通学や買い物などで日々往復する人たちの大切なバスでもあるのだ。
 バスは山へと一気に上っていくのではなく、ゆるやかに上がって行くから分からなかったのだが、しばらくすると車窓遠くには、ずっと下になった山形盆地の広がりが見えていた。
 道はきれいに除雪されていて、道の上に雪はなかったが、両側に続く雪の壁は1m以上にもなり、雪深い地に来たことが感じられる。

 終点の蔵王バス・ターミナルに着き、反対側からスキーやスノーボードを抱えた人たちがやってきてすれ違い、さらに雪がちらつく中を宿まで歩いて行った。
 安宿泊りの私としては、いささかぜいたくな宿であり、おいしい夕食をいただき、乳白色の温泉につかり、暖房のよく聞いた10畳もある広い部屋に一人寝て、いい気分だった。ただ明日の天気だけを期待して。

 
 翌朝、日の出前の6時には起きて外を見たが、何と曇っている。
 朝焼けの光景は、どのみちここからはちょうど反対側になっていて見られないのだが、それはいいとしても、気がかりは空模様だ。
 ロープウエイの始発時間は8時半だが、8時に行ってみると、もう駐車場はいっぱいで、切符売り場に人が並んでいた。
 こうして天気が良くて、待っている人が多い時は早めに、ロープウエイを動かすそうだ。
 おかげで2便目の8時10分くらいには、そのぎゅうぎゅう詰めのゴンドラに乗ることができた。スキー板を持っている人は少なく、ほとんどは軽装の観光客か私のようなトレッキング客だった。

 心配した雲は、低い所にかかっているものばかりで、上空には掛け値なしの見事な青空が広がっていた。
 この瞬間ほど、私の期待の胸がふくらむ時はない。

 ブナ林の霧氷がきれいな樹氷高原駅で降りて、次には十数人が座れるゴンドラに乗り換えてさらに上がって行く。
 斜面に立ち並ぶクリスマスツリー風になった、アオモリトドマツの林が、やがて少しずつ、氷雪の塊になったアイス・モンスターに、樹氷へと姿を変えていく。
 逆光の朝の光線の中で、輪郭のはっきりした氷雪の群像が立ち並ぶさま・・・それは思わず立ち上がり、声をあげてしまうほどの、大自然の力が作り上げた壮大な眺めだった。(写真下)

 

 実は後になって思い返してみると、このロープウエイからの眺めこそが、そして地蔵山頂駅の駅舎屋上からの光景とともに、山形蔵王側の樹氷群を見るにはベストな場所だったのかもしれない。

 その山頂駅に着き、アイゼンをつけて歩き出す。
 今回の冬の蔵王を歩くについて、一番いいのは山スキーなのかもしれないが、私にはまだまだ初心者の腕前でしかなく無理だから、それならスノーシューかワカンで行けばいいのだろうが、私はコースを外れて歩き回るつもりはなかったし、人々が多く歩くトレッキング・コースならむしろ固くなっているだろうからと、アイゼンだけを持ってきたのだが、それで正解だった。

 山スキーは、この後たどって行った刈田岳(かっただけ、1758m)では10人位もいたのだが、この地蔵山から熊野岳までは一人見かけただけだった。
 つまり、この地蔵山から熊野岳さらに刈田岳までの冬山トレッキング・コースでは、スノーシューやアイゼンの登山者が殆どだということだ。
 私は出かける前までは、山スキー・ツアーの人たちばかりで、歩きだけの人は少なく、少し肩身の狭い思いをするのかと思っていたのだが、それは杞憂(きゆう)にすぎなかったのだ。
 
 人々は、目の前に樹氷が立ち並ぶ地蔵山(1736m)斜面へと点々と登り始めていたが、私はまず反対側にある三宝荒神山(さんぽうこうじんやま、1703m)へと向かった。
 こちらには二三人が見えるだけだった。固くて歩きやすいシュカブラだらけの斜面を登って行くと、10分足らずで頂上に着いた。
 そこからは、地蔵山から背後の蔵王の主峰である熊野岳(1841m)へと続く、広大な雪の光景が広がっていた。(写真上)

 目立った頂きはないけれども、このおおらかな山容の広がりは、いつも私たちをのびやかな気持ちにさせてくれる。
 同じ東北の山では、吾妻(あづま)連峰や安達太良山(あだたらやま)そして月山(がっさん)に八幡平(はちまんたい)などがそんな雰囲気を持った山々であり、他方、火山独立峰の山としては、鳥海山、岩手山、岩木山、磐梯山などがあり、さらには長大な山脈系の山として、飯豊連峰と朝日連峰がある。
 
 そんな東北の山々の、すべてを知っているわけではないし、まだ登りたい山は二つ三つ残っている。何とか生きているうちに登っておきたいとは思うのだが。
 この蔵王には、東京にいた若いころに一度登っていて、あのお釜の神秘的な緑色は忘れがたいものだったが、熊野岳を含む山容には、余り心ひかれなかった。
 それに引き替え、今、眼前に広がるこの雪の光景、その見事な冬の山容・・・まったく、雪のない時との何たる違いだろうか。
 そして何よりも、頭上に広がる一面の青空が、これらの白雪の山々を輝かせていたのだ。
 他に誰もいない静かな小さな頂上だったが、長年の夢の一つがかなえられて、私は胸に手を当てて感謝したい思いだった。

 すぐに下に戻り、今度は皆の後から、右手に樹氷を見ながら地蔵山へと登って行く。
 その樹氷は高さ2m以上はあって、中のアオモリトドマツの枝葉が見えないほどに、氷雪に覆われていて、それらが群生して立ち並んでいる姿は、さすがに素晴らしい。(写真)

 

 その樹氷それぞれには、二つと同じものはなく、あるものは人間の姿にまたあるものは動物の姿に見えて、一つ一つの形が面白いのだ。
 しかし、私は写真を撮って行きながらも、ここではあまり長居はしたくなかった。 

 つまり、そんな樹氷の形を芸術的なフォルムとしてとらえ、一枚の絵画のような写真として写すためには、この樹林帯の中に入って行くべきなのだろうが、もともと芸術的センスのない私には、それはとうてい無理な話であったのだ。
 そして、何よりも元来が山登り屋の私には、ここにとどまって、山の限られた小さな一部分でしかない樹氷の写真を撮っているよりは、こんな天気のいい日には、これから先に続く白き山々へと向かうほうがはるかに興味あることだったのだ。
 もちろん、見たいと思っていた樹氷群が、まだ最盛期に近い見事な形で立ち並んでいたことは、大きな喜びにはなったのだけれども・・・。
 
 いやもっと正直に言えば、私はこれらの樹氷を初めて見た割には、思っていたほどには感激したというわけでもなかったのだ。
 今まで私は、幾つもの山に登ってきて、中にはそれまで憧れ続けていた山の頂に初めてたどり着いて、そこでひとり感動の涙を流したことが何度もあったというのに。
 もちろん山頂と、樹氷群とでは対象があまりにも違いすぎるし、むしろあの一面に広がるお花畑などの植生と比較するべきものなのかもしれないが、さらに今までさんざん、テレビや写真などの画像で樹氷を見続けてきて、その姿を知りすぎていたから、それだけ驚きの感動が薄まったのかもしれない。
 物事によっては、知らないでいることのほうが良い時もあるのだ。
 
 さて、次第にその樹氷が少なくなり、やがて吹きさらしのなだらかな台地上の地蔵山頂上に着いた。
 そこで私を待っていたものは、山形盆地を覆う暗い雲海の上に顔を出した、東北の名山たちである。
 今一つ、空気の透明感がないような気がしたが、それでも快晴の大きな空の下、それぞれの姿で白く輝いていたのだ。
 南には、安達太良(あだたら)山が小さく見え、続いて白い稜線から下の森林帯の濃い色が目立つ吾妻連峰、そして長々と連なる白い飯豊連峰、さらに山形盆地を隔てた西側には、飯豊よりは短いが主峰の大朝日岳がひときわ目を引く朝日連峰、そして北に月山と遠く鳥海山までもが見えている・・・。
 
 飯豊連峰と朝日連峰は、いずれも私の好きな山脈の形として、切れ込んだ谷筋を見せながら立ち並んでいる姿が見事なのだが、さらにもう一つの新たな発見は、月山(がっさん)の山の形だった。
 月山は、2000m近い標高を持ちながらも、山容がアスピーテ(盾状火山)と呼ばれるなだらかな山容であり、ふもとの庄内平野から見ても、あるいは飛行機の上から見てももっそりとした感じなのだが、この時私は初めて、この山の神々しいばかりの姿に気づいたのだ。

 暗い雲海上から、雪に覆われた白い上半身の姿を、大きく浮かび上がらせていて、それはまさしく、白く輝く満月が、山の端から出てくる、その輝かしい瞬間のようにも見えたのだ。(写真)

 

 月山の名前の由来は、あの『日本百名山』の深田久弥氏によると、地元の人々が農業の神である、月読命(つきよみのみこと)を祀(まつ)ったからであるとのことだが、その後に続けて、彼はこうも書いているのだ。

「しかし、その心の底には、やはり月のようにやさしい山という感じがあったに相違ない。」

(『日本百名山』深田久弥著 新潮社より)

 私は、さらに思いをふくらませる。
 昔の人々は、冬に向かう峠道で、あるいは雪解けの春先の峠道で、月のように白い月山の姿を何度も見ていたことだろう。
 ”月読命”からその名が来たのなら、さらに”月のようにやさしい山”からその名が来たのなら、”がっさん”ではなく、芭蕉が俳句に読んだように、”つき(月)のやま”と呼ぶべきではなかったのか。

 (参照:「雲の峯 幾つ崩て 月の山」”おくのほそ道”より)

 月を”がつ”と発音するのは、昔の言葉で思いつくのはあの”月光菩薩(がっこうぼさつ)”である。
 ウィキペディアによると、「月光菩薩とは、日光菩薩とともに薬師如来(やくしにょらい)の脇侍(わきざむらい)を務めていて、月の光を象徴する菩薩である。」
 
 私は夢想するのだ。その昔、月明かりの中、ひとり峠道を越えてきた旅人がふと振り向くと、月に輝く白い月山が見えて、思わず手を合わせたのではないかと。

「ああ、月光(がっこう)菩薩様!月山(がっさん)菩薩様!」

 これは何の裏付けの資料もない、私の勝手な妄想であり、あの”名言家”タモリの言葉ではないが、私もまた“妄想族(もうそうぞく)”と呼ばれる一人なのだろう。
 
 さて、地蔵山から南へと向かう。
 西側に荒々しい爆裂火口跡を見せて、シュカブラの波のかなたに、熊野岳の大きな姿が横たわっていた。
 私の、蔵王の雪山の旅は、この熊野岳を越えて、さらに刈田岳へと続いて行くのだ。
 
(次回へと続く。)