ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(216)

2012-02-26 20:53:22 | Weblog


2月26日

 春が、もうそこまで近づいてきている。しかし季節は急には変わらない。冬は名残惜しげに少しづつ離れて行き、春は思わせぶりに見え隠れしながら近づいてくる。ワタシは、そんな季節の変わり目のころが好きだ。
 二三日前、まるで春を思わせる暖かい日が二日続いた。飼い主と一緒に散歩に出かけて、飼い主が先に戻った後、ワタシはしばらくその春の日差しの中で、まどろんでいたのだ。
 今までの思い出を引きずりながらも、来るべき時への思いが溢れてくる。神様は、なんて素敵なめぐりめぐる季節をおつくりになったことだろう。

 今朝、飼い主が見ていたテレビを、ワタシもそばで見ていたのだが、そこには北国の雪深い山里の風景が映し出されていた。
 木々の間に何か動くものがいる。サルの群れだ。体中の毛をいっぱいにふくらませて、枝の上で体を寄せ合っていた。動いているサルたちは、枝先の冬芽や木の皮を食べていた。
 少し離れた雪の斜面では、ニホンカモシカが、深い雪の中をやっとの思いで歩いていた。これもまた、神様が強く生きよとお与え下さった試練なのであり、やがて来る恵みの春への、小さな前触れなのだ。
 ああかくして、生き物たちは生きていくのだ。厳しさと、喜び溢れる恵みの永遠のつながりの中で・・・。

 ワタシもいつしか、飼い主の口調に似てきてしまった。こうして年寄り同士、毎日一緒に暮らしていれば、それも仕方のないことだろう。
 昨日からまた寒くなり、今はまた暖かいストーヴの前で寝ている。あのサルやシカたちのことを思えば、ワタシは何と幸せなことだろう。一年のうち何回かくる、あの飼い主のいない半ノラの日々・・・そんなことなど、今から思い悩んでも仕方のないこと。
 今は、こうしてぐうたらに寝ていて、その楽しみの中にいることだけで十分だ・・・。

 
 「今朝は、アラレが降っていた。その前には、気温が15度近くまで上がった春のような日があって、さらに一週間前には雪が降っていた。とはいうものの、確かにもう冬は終わりつつある。
 一週間前、今まで繰り返していた、雪が降った後の土日が晴れるという周期が、少しだけずれてくれた。月曜の朝、外は快晴だった。山に行くべき日だった。
 ただし、それまで私は、北西の強い風でできたシュカブラなどの雪の造形を見るために行くのだ、と自らに言い聞かせていたのだが、残念ながら、今回の降雪もまたそんな期待の持てる降り方ではなかったのだ。今年は去年と同じように、とうとう私の望む景観に出会えるチャンスを逃してしまったことになる。
 まあ今までに何度も、見事な九重の雪山を見てきているから(’10.1,18、’09.1.17の項参照)、それほどの残念な思いにはならないのだが、というのもその日の雪山登山が、一日快晴の空の下の山歩きだったからでもある。

 いつも繰り返してここに書いてきたことだが、私の山旅の選択は、どんな素晴らしい雪の景観が見られたとしても、また高山植物の花たちが咲き乱れる時だとしても、さらにまたどんな美しい紅葉の盛りだとしても、青空の見えない天気の悪い日には行きたくはない。
 私は、あまり深く物事を考えることのできない単純な性格のためか、それはただぐうたらな脳天気な性情ゆえでもあるのだろうが、晴れてくれさえいればそれでいいのだ。もちろんそのうえに、雪山景観がベストの時に、あるいは花や紅葉が真っ盛りのころであれば言うことはないのだが、ともかく私の山登りは、第一に青空優先なのだ。

 それだから、何十年と山の写真を撮っていても、私のカメラ技術に進歩はないのだ。雲の間に見え隠れする動きのあるような山岳写真が、芸術的で素晴らしいのは分かっている。しかし、私が自分のために喜んで見たいのは、それが私のその美しい山への思い出になるような、頂上までがすっきりと見えている、鮮やかな山の写真である。
 それは言いかえれば、ある有名な山岳写真家が悪い作例だとして言う“お絵描き写真”あるいは“絵はがき写真”こそが、私の最高の目標なのだ。つまりそれは、あくまでも自分のためだけの写真なのだから。

 話は変わるけれども、今月の初めにニコンが、ハイ・アマチュア向けの新しいフルサイズ一眼レフ・カメラを発表した。ネットのカメラ・クチコミ欄の、マニアたちの興奮ぶりは見ものだったし、また学ぶところもあった。
 その分野の機種では、キャノンの方が一歩先んじていたから、その性能をはるかに上回るニコン機の登場に、みんなが驚いたのだ。風景写真には最適だとされるその高画素機を、私も店頭でまずは手にしてみたいし、手に入れたい気もするが、だとしても手ごろな値段になるためには、一二年は待たなければならないだろう。
 日ごろから、自然環境だ節約生活だと言っておいて、たかが自分の趣味だけのものなのに、目新しい技術を満載したものが出てくると、思わず目がいってしまうのだ。あの去年の12月25日の項で書いたスタッドレス・タイヤの時といい、とても達観した生活なんぞにはほど遠い、私の哀しい性(さが)なのだろうか。
 しかし、カメラよりは、まず今のうちに山に登ることの方が、大切なことは言うまでもない。

 さて、家を出て九重に向かう山道をクルマで走って行く。前回通った時の、全線圧雪アイスバーン状態(1月29日の項)から比べると、全く拍子抜けするほどで、所々わずかに薄い雪が残っているだけだった。しかし、牧ノ戸峠(1330m)の駐車場はもう車でいっぱいになりつつあった。
 9時前に出発する。展望台までの遊歩道の道は、踏み固められていたが、周りの木々には雪が降り積もっているだけで霧氷はできていなかった。しかし、何よりも天気が素晴らしい。雲一つない快晴の空だ。風も弱く、気温もー5度くらいだった。
 沓掛山(1503m)に上がると展望が開けて、まず阿蘇山(1592m)が見えてくる。さらに扇ヶ鼻(1698m)から久住山(1787m)、星生山(1762m)、三俣山(1745m)へと広がる雪の山々の眺めが素晴らしい。特に三俣山の左、下の長者原の雪の草原の上遠くには、由布岳(1583m)までもがくっきりと見えている(写真)。天気が良くて、遠くまで眺望がきくこと、私にとってのまさに願ったりの山登りの日だった。

 上の方から、もう日の出の頃の山の写真を撮り終えた人たちが、何人か下りてくる。私の前後には、二三人が見えるだけだ。
 ゆるやかな尾根道を歩き、扇ヶ鼻分岐辺りに来ると、ようやく灌木群がきれいな樹氷におおわれていた。樹氷と霧氷の区別は、シュカブラやエビのしっぽなどと同じように、枝や樹に雪が吹きつけてできたものと、空気中の水分が冷やされ吹きつけられてできたものの差、つまり雪氷体と氷体の差だと、私は理解しているが。1月29日の写真参照。)

 さて分岐からは、いつものコースである星生山南尾根に取りつく。雪は10~20cm位。もう誰もこの道の方へとは来ないから、静かになってほっと一息をつく。しかし驚いたことに、目の前の道には、何人かが通ったトレース(足跡道)がついている。昨日が日曜日だったからだろうか、それに今日のものらしいアイゼンを付けて下ってきた靴跡もある。
 いつもなら誰も通っていなくて、少しラッセル気味に自分で足跡をつけながら、風が吹きすさぶ中を登って行き、それがなんともいえずに冬山らしくていい気分になる所なのだが、今回は、すでに道がちゃんとつけられていて、風もあまりなく、私は楽に星生山の頂に立った。
 頂上は予想通りに、シュカブラやエビのしっぽもない残念な景観だったが、しかしその展望は、空気が澄んでいて遠くまで見えて素晴らしかった。まずは北側の硫黄山の噴煙の後ろに大きな三俣山が見え、離れてミヤマキリシマの花で有名な平治岳(1643m)と大船山(1787m)があり、天狗ヶ城(1780m)、中岳(1791m)、稲星山(1774m)と並び、そしてひときわ大きく久住山がそびえ立ち(写真)、その右手には、祖母(1756m)・傾連山からさらに遠く国見山(1739m)や尾鈴の山までもが見えていた。



 九重の山の中で、最も姿形が良いのは三俣山か久住山だろうが、最も頂上からの眺めがいいのは、この星生山か天狗ヶ城だろう。
 この1500m以上の山々を十数座も集める九重の山々は、本当に良い山だと思う。標高は低いが火山系の山群だから、森林限界が低く高山帯の趣があるし、春の高原歩きから初夏のミヤマキリシマ、秋の紅葉、そして手軽に楽しめる冬の雪山。私が年寄りになっても、この九重の山々に登ることはできるだろう。まさしく九重は、“近くて良き山”なのだ。九州で、もしこの九重山がなかったら、私はここに住んではいなかっただろう。

 そして、その天狗へと向かうべく、私は星生山を後にして、雪の岩稜尾根を通って久住分かれへと下り、ゆるやかに御池への道をたどる。そこは、氷結した池を目にした人たちの声で賑わっていたが、私はそのまま天狗への斜面を登って行った。風が強く吹きつけてきたが、やはり周りにはエビのしっぽもあまり出来てはいなかった。
 天狗ヶ城頂上での眺めも、風のためにすぐに切り上げて、中岳へは向かわずに、ぐるりと回って御池に降り立った。完全に氷結していて、中央部には御神渡りとは呼べないまでも亀裂が走っていた。
 後はひたすら、来た道を戻って行った。晴れてはいたが気温がそれほど上がらなかったためか、道は溶けた所でもシャーベット状のままで、春にかけて多い雪解けのぬかるみにはなっていなかった。

 さて、わずか6時間足らずの、雪山トレッキングだったが、何より天気が素晴らしく十分に山歩きを楽しむことができた。
 そうなのだ。考えてみれば、今自分には、小さな冒険としての山に登ることの楽しみがあり、それが私の生きていることの喜びの一つにもなっているのだ。もうそれは何十年もの間続く、放浪者としての私の趣好にかなう行動でもあるのだが。

数日前の朝日新聞に、今年78歳になるヨット・マン、斎藤実氏が植村直己冒険賞を受賞したという記事が載っていた。
 去年9月に8度目の単独世界一周の旅を終えて横浜に帰り着いた斎藤氏は、東京生まれで、生まれつき心臓が弱く、それにまけないように体を鍛えようと、小学生の時から始めた毎朝の筋トレを今も続けているという。高校を卒業して家業のガソリン・スタンドの仕事を継いで大きく発展させて、50歳で引退し、それからはヨット一筋の人生を送り、いまだに独身。問われて、“冒険とは命を賭して危険を冒すこと”と答えたとのこと。
 前にも書いたことのある、毎日富士山に登り続ける人(’11.9.10の項)や、単独行者の先駆者でもある加藤文太郎に植村直己たち(’11.12.4,11の項)の足跡の偉大さと、そこに等しく貫いている、日常から己を厳しく律する単独者たちの姿勢。

 単独行者としては、とてもその末席にさえも並び得ない私だけれども、そこへ向かう気持ちや繰り返す行動には、何か同じものを見る思いがするのだ。神さま、わたしに星をとりにやらせて下さいと(2月12日の項参照)・・・。
 
 それはまた、最近読み終えた鴨長明の『発心(ほっしん)集』への思いにも似ている。長明が志した、仏道へと発心してからのひとりだけでの道のりは、不安に満ちていたのに違いない。そこで、今までに自分が伝え聞いていた、発心し修行してきた人たちの話を書くことで、自分への励まし、心のよりどころにしたかったのではないのだろうかと・・・。
 人間は誰しも、ひとりでは不安なのだが、それでもある時に、ひとりでやる思いに駆り立てられ、あるいはひとりでやるしかなくなって行動に移す。その成否はともかく、次なる企て、さらに次なる企てと続いていく時に、ふとよぎるさらなる不安に、なにかしらの心のよりどころを求めたくなるのだ。自分と同じようにひとりで、同じ道を歩いた人たちのことを知りたいと思うようになるのだ。
 
 しかし、単独行者たちは、普通に社会生活を送る人々からは遠く離れた異端者たちであるに違いない。ただいつの時代にも、複雑怪奇な世の中では、果たして誰が正しく、誰が間違っているとか、誰が異常であり、誰がまともであるかなどと、すべての人を正確には指摘できないのではないのだろうか、神の眼以外には。つまり、答えはないということだ。ただだからこそ、誰でも自分の信じる領分の中で生きていくほかはないのだ。
  
 『私とともに、いくたびか艱難(かんなん)を越えてきた勇士らよ。今は酒に憂いを払え。明日はまた大海原を漕いでゆくのだ。』

(ホラティウス、モンテーニュ『エセー』より、原二郎訳 筑摩書房世界文学全集)

 登山関連でもう一つ。先日、NHK・BSの『グレート・サミッツ』シリーズで、台湾の玉山(ぎょくざん、旧日本統治時代は新高山、にいたかやま、3997m)が紹介されていた。今まで写真で見たことはあったのだが、初めて映像で見るその姿に見惚れてしまった。特に北峰から見た、新雪をつけた北壁バットレスを擁した王者の姿は、あの南アルプスの北岳や塩見岳の姿を思い起こさせ、それ以上の迫力だった。
 さらに驚いたのは、その玉山に刻まれた長大深遠な渓谷である。沙里仙渓(しゃりせんけい)と名付けられた深くえぐられた谷の素晴らしさ。似たような景観では、九州の由布川渓谷があるけれども、とても比較にはならない。
 その狭い切り立った谷を、それは谷の全行程の何分の一にしかならない距離なのだが、途中でテントに泊まりながら遡行(そこう)して行くのだ。そこでは、最大難度の沢登り技術が要求され、その先頭切ってのガイド役を、地元台湾山岳会の有志たちが勤め果たしていた。
 
 私など、日高山脈や九州祖母山系のやさしい沢を、十数度ほど単独で登り下りしただけだから、大きなことは言えないが、それでも沢登りの危険さと、その楽しさについては良く分かる。この番組もそんな思いで、じっと見入ってしまった。
 ただ残念だったのは、この台湾最高峰の玉山だけでなく、3000mを越える山が200以上もあると言われる台湾の他の山々の姿を、せめてあの玉山頂上からじっくりと映し出すか、あるいは他の”グレート・サミッツ”での放送の時のように、ヘリコプターからの撮影で見せてほしかった。

 それにしても、私も、残りの人生の中で登るべき山々について、しっかりと考え定めていかなければならない。あれもこれもと範囲を広げて欲ばるのではなく、今の私の思いにかなう山々たちを目指して・・・それが、私が生きていくことでもあるのだから。」
  
 

ワタシはネコである(215)

2012-02-19 20:59:08 | Weblog


 2月19日

 外はまた雪が降っている。そして寒い。ワタシはただ、ストーヴの前で寝ているだけだ。トイレの時に仕方なく外に出て、おなかがすいたらエサ皿のキャット・フードを食べ、また寝る。退屈してくると、ニャーと鳴いてひと時の間、飼い主に遊び相手になってもらう。そしてまた寝る。

 人間から見れば、そんなワタシの寝てばかりいる姿を見て、無駄な人生、いや猫生の過ごし方だというかもしれない。
 確かに人間は、彼らが地上に現れて以来、その原始的な狩猟や採集生活の中で、自らを弱い動物の一つだと自覚していたから、危険な夜には出歩かないようにしていたのだろう。そして、夜の間は隠れひそみ寝ていたので、その時からの本能的な習慣になったのだろう。
 もっとも今では、彼らが自然の摂理に逆らって作り上げた現代文明の中では、昼と夜が逆転した生活を送っている人たちもいるというが、ただほとんどの人間たちが寝ているのは、相変わらずに夜の間だけなのだ。たまに見られる昼間の小さな居眠りをのぞいて。

 しかし、そんな人間たちと違って、ワタシが昼間から寝ているのは、決して無駄なことではない。一つには、余分なエネルギーの消費を抑えて、いざという時に備え、またはその分長く生き延びるためでもあるのだが、それ以上に大切なことは、ワタシは好きで寝ているということだ。
 物の本には、猫が寝ているのは、やることがないからだと書いてあるというけれども、それは人間側から見ただけの単純な考え方だ。言いたかないけれど、どうしてこうも人間が書いた動物の本には、ひとりよがりのものが多いのだろう。
 『ギヨエテとはおれのことかとゲーテ言い』(明治当時の翻訳の混乱を風刺した川柳)なんていうことがあるくらいだから。

 人間たちは、その長い歴史の中で、自分たちの頭脳を発達させて一大文明を築き上げてきた。それだから、どこかでいろいろと憂さを晴らすこともできて、何も退屈することなどないのだろう。コンピューター機器で遊び、テレビを見てはバカ笑いして、うまいものを食べてはトドのように寝ている、誰かさんのように。
 しかし、ワタシたちは、そんな広範囲な感覚の世界に対応するだけの頭脳を持ってはいない。つまり、大まかに言えば、食う寝るだけの世界であり、あえてそこに安住しているのだ。単純に、食べられるものを食べ、眠りたい時に寝る。それこそが最大の快楽でもあるからだ。

 寝ることは楽しい。危険のないところで、安心して夢の世界の中で遊ぶことができるからだ。そこでは、他の小さな生き物たちを追いかけ、飼い主と一緒に散歩に行き、そしてふざけあいをして遊び、たまにしかもらえないマグロの刺身を食べ、そして暖かい陽が降り注ぐベランダで寝るのだ・・・夢の中で。
 人間から見ればそれだけのことかと思うだろうが、選択肢の少ない数限りある楽しみだからこそ、その一つ一つの喜びがありがたく思えるのだ。人間のように、あらゆるものに興味を持ち、あらゆるところに楽しみを持つ、そんな貪欲(どんよく)なまでの欲望の塊のような生き物とは違って、ワタシたちは節度ある生活の中で、その小さな楽しみだけがあれば十分なのだ。
 
 昨日、飼い主が珍しく夜遅くまでテレビを見ていた。”究極の選択”とかいうタイトルだったが、それは余りにも楽しみを広げ過ぎた人間たちのジレンマ、欲望の果ての悩みの報いのようにも思えた。
 ワタシたちの究極の選択は、単純なものだ。逃げるか闘うか。食べるか食べないか、寝るか寝ないかだけだ。
 さて、そんな眠りの楽しみの中で、ワタシは青い夢の大海原へと漕ぎ出していくのだ。遠くで、飼い主がワタシを呼んでいるような・・・。


 「今日は、朝の気温は―8度で日中もマイナスのままの真冬日だった。雪が降ったり晴れ間がのぞいたりという天気で、思ったほどには雪は積もらず、道の雪はあらかた溶けてしまった。
 あの北陸・東北・北海道などでの記録的な大雪と比べると、ここでは雪の少ない冬だった。それでも久しぶりに―15度までも下がった日もあったくらいで、寒い日が多かったから、ミャオに寒い思いをさせられないこともあって、ストーヴの灯油使用量は去年より多くなってしまった。
 できればここでも、家じゅうが暖かくなる薪(まき)ストーヴにしたいのだが、北海道のように自分の林があるわけではないから、必要なだけ自分で切り出すというわけにもいかない。つまり、小さく切り分けられて薪として売られているものを買いに行って、運んで、せまい家の敷地内に運び入れなければならない。
 つまり、今、限りある化石燃料を使い続けていることへの幾らかの後ろめたさと、かといってここで薪を買ってまで薪ストーヴにするにはと思って、何とも結論を出しにくいのが現状なのだ。

 ふと外を見ると、ベランダの手すりに置いてある簡単なエサ台に、いつものヒヨドリが来ている。(写真)
 エサ台には、決まったものを毎日出しているわけではない。私の食べ残しのリンゴの芯周りや、傷んだミカンなどを、生ゴミとして捨てるよりはと、前回に書いたたとえ”シーザーのものはシーザーに”ではないけれど、自然のものは自然へ返そうと置いてやっているだけなのだが・・・。
 今は、まだ大好きな花の蜜の季節の前で、一番エサの少ない時期だからなのだろうか、そのヒヨドリは、私が2mも離れていない家の窓から見ていても、逃げることなくリンゴをついばんでいた。雪が降る中、羽をいっぱいにふくらませながら、長い間そこにいた。
 足元の、ストーヴの前ではミャオが寝ていた。私は部屋の中に立って、ヒヨドリとミャオを見ていた。生きているということ・・・。

 二週間ほど前に放送され、録画しておいた映画を見た。NHK・BS『いつか晴れた日に』(1995年、アメリカ=イギリス)。私は、2時間20分ほどの間、その映画を見続けた。
 いつも映画を見終わった後には、私の頭の中には様々な思いが溢れてくる。まずおおまかに、いい映画だったなとか、もうひとつだったなあとか感じた後に、その映画の細かい場面がよみがえり、時には深く共感し、時には疑問を感じたりもする。
 なるべく先入観を持たないで映画は見たいから(絵画展の絵などもそうだが)、いつも私は、見終わった後になっていろいろと調べたくなり、そこでそれぞれの場面に納得するのだ。

 私は、この映画を、他の映画によくあるようなふと感じる些細な疑問に惑わされることなく、話の巧みさのままに、まるで面白い小説を読むように、一気に見てしまった。
 それは、途中からすぐに気づいたことなのだが、2年ほど前に見たあの『プライドと偏見』(’05制作、’09.8.18の項参照)と似たような舞台と筋書きに、私は少し前に会った人に再び出会ったような、何か心地よい懐かしさを感じていたのだ。
 原作者は、『プライドと偏見』(小説名は『高慢と偏見』あるいは『自負と偏見』)を書いたあのジェーン・オースティン(1775~1817)であり、この『いつか晴れた日に』が、実は小説の『分別と多感』であることに気づいたからでもある。

 (話はそれるけれども、たとえば上にあげたゲーテの例のように、日本語では、いつも原語からの翻訳の言葉が問題になる、特に映画での場合に。
 『プライドと偏見』は、その小説名の『高慢と偏見』はともかく、原語では”Pride and Prejudice"であり、そしてこの『いつか晴れた日に』という映画の題名は論外だとしても、小説名の『分別と多感』の原題は”Sense and Sensibility"であり、頭文字は前者がPとP、そしてこの場合はSとSといった具合に、作者が言葉の並びを意識して名づけたのは明らかだ。
 外国語からの日本語翻訳は難しい問題ではあるのだが、この『いつか晴れた日に』には、それが主人公の姉妹の性格を表わす意味があっただけに、題名への配慮が欲しかった。ただ、日本の配給会社は、興行的なキャッチ・コピーとしての題名にこだわっただけなのだろうが。)



 この映画のストーリーは、それほど入り組んでいるわけではない。19世紀のイギリスで、貴族の夫に先立たれて、後妻であった妻と三人姉妹の子供たちは屋敷を出ていくことになり、離れた土地の古いコテージに移り住み、中流階級の暮らしを送ることになる(写真)。そんな家族の生活と、上の二人の姉妹の紆余曲折(うよきょくせつ)を経ての恋愛模様を、時間を追って描いているだけであるが、その話の巧みさは、原作に負うところが大きく、前に見た『プライドと偏見』の面白さに通じるものがある。
 
 このジェーン・オースティンについては、後にあの同じイギリスの文豪、サマーセット・モームが、『大した事件が起こらないのに、ページをめくらずにはいられない。』と語り、イギリスに留学したこともある夏目漱石は、『写実の泰斗(たいと)なり。平凡にして活躍せる文字を草して、技神に入る』とほめたたえたが、一方では、あのマーク・トウェイン(1835~1910、『トム・ソーヤの冒険』)やローレンス(1885~1930、『チャタレー夫人の恋人』)などは、この小説に否定的だったとも言われている。(Wikipediaより)
 このように評価が分かれるということは、もちろん原作に忠実なこの映画の評価も分かれるということだ。

 映画の主人公である三姉妹の”分別”ある長女を演じていたエマ・トンプソンは、何とこの映画の脚本も書いていて、この映画の制作時点から深くかかわっていたらしく、他のイギリス人キャストの選出も自ら彼女がやったとされている。
 エマは、ケンブリッジ大学出身の才媛であり、ケネス・プラナーの舞台に参加し、そのプラナーの映画『ヘンリー5世』(’89)の他、『日の名残り』(’93)や『ハリー・ポッター』シリーズなどに出演している。
 余分な話だが、彼女は、あのイタリア・ルネッサンスの画家ボッティチェリの有名な絵『春』に描かれた花の女神、フローラに似ているのだ。私生活では、『ヘンリー5世』の監督のプラナーと結婚、離婚の後、この映画では妹の恋人役であり結局は憎まれ役になる、貴族の青年役のグレッグ・ワイズと再婚している。
 
 さて、この映画で”多感”な妹役を演じたのは、あの『タイタニック』(’97)のヒロインを演じたケイト・ウィンスレットであり、彼女はその後、『エターナル・サンシャイン』(’04)などでも好演して、『愛を読む人』(’08)でアカデミー主演女優賞を受けている。
 この二人の姉妹役の熱演こそが、この映画の成功に大きく寄与したのは間違いない。

 しかし、さらに忘れてはならないのが、この映画の監督、台湾出身のアン・リー(李安、1954~)である。もとより台湾には、『悲情城市』(’89)で有名な侯孝賢(ホウ・シャオシェン)などの名監督がいるのだけれども、このアン・リーは台湾を出て、アメリカに渡り、ニューヨークの大学で映画を学び、まずは中小の独立プロからデビューしている。
 この映画の後にも、『グリーン・デスティニー』(’00)、『ブロークバック・マウンテン』(’05)、『ラスト・コーション』(’07)などの名作を作り続けているのだ。
 その台湾人である彼が、イギリスに乗りこんで作り上げた映画は、まさしくイギリス映画そのものである。(日ごろからハリウッド・アメリカ映画は余り見ない私だけれども、これは制作資本がアメリカだということにせよ、まさしくヨーロッパ映画の一つであるに違いない。)
 
 少し落ちぶれたりとはいえども、イギリス貴族階級の一員であることの誇りを失わずに生きていく女だけの家族を、アン・リーは確かな演出でていねいに描いていく。
 そんな映画の中で、一つだけあげるとすれば、終り近くの一シーン。姉の恋人だった男が久しぶりに彼女の家を訪れ、二人きりで対面する時の、お互いの高ぶる感情を抑えながらの、何ともぎこちない微妙な感情の間合いの素晴らしさ・・・来るべき感情の発露(はつろ)を抑えての・・・それは、まさしく監督の演出の技を感じるシーンだった。
 思えば、『プライドと偏見』や『眺めのいい部屋』(’86)のラストシーンさえもよみがえってくるような。

 しかし私はこの映画のすべてのシーンに納得したわけではない。特にラストの結婚式のシーンは、すべての人が悪い人ではないという、ハッピーエンドの原作の意図がそうであったにせよ、もう少し控え目なカメラを引いたシーンにしても良かったし、映画としてはむしろ省略しても差しつかえなかったのだが・・・。

 余分なことまで書いて長くなってしまったので、最後に一つ、妹が貴族の青年と恋に落ちるきっかけになった詩の朗読は、ウィリアム・シェイクスピア(1564~1616)の『ソネット集』(岩波文庫あり)116番からの一節である。
 『状況に流されて心変わりするのは 愛ではない 不動の愛は 嵐にあっても決して揺るがない・・・』

 (”ソネット”とは韻(いん)を含んだ14行詩のことであり、こうした昔の詩をそらんじていることは、当時の貴族階級の常識だったのだ。日本で、あの『百人一首』の歌をすぐに口ずさめたように。)
 
 付け加えてさらに一つ。話は変わるけれども、昨夜NHKで、マイケル・サンデルの白熱教室シリーズの続編の第4回目が放送された。副題は『究極の選択 お金で買えるもの買えないもの』。
 日本のスタジオでの著名人やタレントたちと、衛星回線でつないだアメリカ・中国・日本の学生たちを含めての討論という形をとっていて、テーマは消防の民営化から、学業優秀者への賞金、妊娠代行・代理母、金で買う徴兵逃れ、などの賛否を問いかけるものだった。
 そこで、それぞれの国の事情や、学生と大人で意見が分かれるのは当然のこととして、この場の講師であり司会者であるサンデル教授の、対立点を強調させる巧みな質問の仕方が見事であり、何より最後に締めくくった言葉、このまま市場原理主義の世界を続けるのか、あるいは美徳を柱にした世界を求めるのかという問いかけに、彼の思いが溢れていた。
 彼はまさに、大学で教える者としての、今の世を憂うる良心的な哲学者なのだ。

 私にできること。私ができないこと。・・・若くはないこと。ミャオがそばにいること。」


 


 
 

ワタシはネコである(214)

2012-02-12 20:25:14 | Weblog


 2月12日

 寒いけれども、晴れて日が当たる所は暖かい。良い天気が二日も続いた。ワタシはいつもの飼い主との散歩の途中で、つい座り込んでしまった。飼い主はしびれを切らして帰ってしまった。それでいい。ワタシはしばらく、この冬の寒さの中の小さな陽だまりの中で、まどろんでいたいのだ。

 昔々、あるところに、二匹のノラネコが住んでいました。一匹のネコは、普通のノラネコで、それも年寄りのネコでした。もう一匹の方は、大きな体のふてぶてしい態度をしたネコでした。そのネコは、いつも年寄りのネコに対して、エラそうにがみがみがみがみ小言を言っていました。
 しかし年寄りネコは、その大きなネコがいつもどこからか二人分のエサを見つけては運んできてくれるので、言い合いになるのを避けて、黙って聞いていては、いつも下を向いてニャーと小さく鳴くばかりでした。

 そんなある日、家のそばで他のネコの鳴き声が聞こえて、次第に近づいてきました。年寄りネコは低く身構えて、うなり声をあげました。しかし、その白黒模様のネコは近くにある皿のエサの臭いにひかれたのでしょうか、忍び足でワタシの傍まで来ました。
 お互いのうなり声が、最高に高まったその一瞬、一緒にいる仲間の大ネコが出てきて、大声をあげて何かを投げつけました。そのノラネコは、一目散にはるか遠くまで逃げて行きました。

 ワタシは、その大ネコにニャーと鳴きかけました。するとその大ネコは、おーよしよしと言って、ワタシをなでてくれました。そうなんです。その大ネコは、飼い主だったのです。余り長い間、ワタシは他のネコを見たこともなく、つい一緒にいる飼い主をワタシの仲間のネコだと思いこんでいたのです。

 そういえば、前にも飼い主が、外国の誰かの言葉だとかいって話してくれたことがありました。

 『夢を長いあいだ見つめる者は、彼自身の影に似てくる。』(マラバールの諺、アンドレ・マルロー『王道』小松清訳 筑摩書房版より)
 
 (注: インド南西部マラバール地方では古くからコショウの栽培で有名)


 「今日は、冬場には珍しく、素晴らしい快晴の青空が、一日中続いていた。昨日も、少し雲はあったものの晴れていた。その前の日までは雪が降っていたから、雪の九重の山に行くにはいい日だった。しかし、私は行かなかった。
 休日の土曜日のうえに、下の長者原では、九州では珍しい雪像や氷像が並ぶ“氷まつり”が開かれていて、さらに近くにはスキー場もあるし、山も道も混んでいるだろうと思ったからだ。

 今日はさらに風も弱く、快晴の一日だったが、日曜日のうえに、雪も溶け始めているだろうからもともと行くつもりもなかったのだが、元来が貧乏性なうえに、変なところで自分を責めるタイプだから、この青空を見ては、あの雪山の景色を見そこなったのではと、悔むことしきりだった。
 思えば、先週も天気が良くなったのは土日だった。つまり、神様は、ぜいたくにもいつでもヒマな私なんかよりは、日ごろから汗水流して働いている勤労者諸子たちのことを考え、彼らの休日に合わせて、晴天の日をお恵みになったのだ。
 特に土日を山で過ごした人々にとっては、昨日の夕方の夕映えから今朝の朝焼けに至るまで、山上での素晴らしい景観を堪能(たんのう)することができたことだろう。

 昨日、私は、その夕映えに染まっていくだろう山々を思いながら居ても立ってもいられなくなり、せめてもとクルマを走らせて湯布院の町まで行き、ようやくそこで赤く染まっていく由布岳(1583m、1月2日の項参照)の姿を見ることができた。(写真)

 この夕映えの山の美しさは、雪がある時ならではのものだから、できるならば山の上で、その目指す山と対峙(たいじ)する形で見たいものだ。
 思い起こせば、たとえば中央アルプス千畳敷からの宝剣岳、八ヶ岳硫黄岳からの赤岳、北アルプス蝶ヶ岳からの穂高連峰、みくりが池からの立山、剣御前からの剣岳、八方尾根からの白馬三山、北海道は大雪山白雲岳からの旭岳、日高山脈カムイ岳からの幌尻岳、十勝幌尻岳からのカムイエクウチカウシ山、コイカクシュサツナイ岳からの1839峰、天狗のコルからのニペソツ山などの山々の姿が、脳裏をよぎっていく。

 しかし、この九重の山々はもとより、まだまだどうしても見てみたい夕映えの山は数限りなくある。生きている間にすべてを見られるはずもなく、ましてエベレストなどのヒマラヤの山々はもとよりのこと、マッキンリーやアンデスでさえ到底無理だろうが、あの若き日に見たヨーロッパ・アルプスの、マッターホルン、ユングフラウ、モンブランなどの夕日に染まる姿をせめてもう一度は見てみたいと思う。
 
 『神さま、わたしに星をとりにやらせて下さい。
  そういたしましたら、病気のわたしの心が、少しは静まるかもしれません・・・。
  ・・・・・・
  神さま、わたしはよろけながら歩いている、驢馬(ろば)のようなものです・・・。
  あなたが一度わたしたちに下さったものを、おとりあげになる時のことを考えると、
  怖ろしくなります。
  ・・・・・・
  (神さま)、わたしがあなたさまのために致したことを、
  少し返して下さることはできないでしょうか。
  そしてもしそれが、わたしの病気の心を治すことができるとお思いでしたら、
  神さま、わたしのために星を一つ下さることができないでしょうか。
  わたしにはそれが必要なのでございます。
  今夜わたしのこの冷たいうつろの、黒い心臓の上にのせて眠るために。』

(『ジャム詩集』堀口大学訳 新潮文庫 、フランシス・ジャムについては’08.7.8~13の項参照)

 しかし、現実のできごとは、こうした個人的な夢物語で作られていくのではない。もっと厳しく、しかも劇的なものだ。
 つまり、週末が休日である大多数の人たちたちが、偶然のめぐりあわせもあって晴天の日の雪山を楽しむことができたように、すべての物事は、繰り返される法則と、予測不能な偶然によって、既視(きし)感としてあったもののごとくに、結局は落ち着くところへと結論づけられていくのだ。
 私たちが今いるこの時代だけでなく、人類がこの地上に現れて以降のすべての人々はだれでも、それぞれに一生懸命に生きてきたのだ。ただ、今だからこそのその姿を、私たちは、自分たちの目の前に生き生きと見ることができるのだ。

 昨日、あるドキュメンタリ―番組が放送された。NHKスペシャル『魚の町は守れるか』密着、信用金庫200日。

 話は、このたびの巨大津波によって工場のすべてを流された、ある町の有名なフカヒレ製造業者の再起にあたって、再建資金を何とか調達したい業者側と、大きな負債を抱えた上に何の担保もないその業者に融資できるのかと悩む地元の信用金庫との関係が、ドキュメンタリーの映像を通して生々しく描かれていた。 
 町の復興には、まずもとからあった漁業関連の企業が復活することであり、そこから副次的に様々な町の産業に波及していくだろうということなのだが、その他に別の地元銀行や政府系金融機関との複雑な絡みもあって、終始、先を見とおせないまま事態は推移していくのだ。

 下手なドラマの比ではなく、その緊迫感あふれる映像が、事の重大さを私たち番組を見る者に感じさせてくれるし、芝居臭さの少ないドキュメンタリーの映像だからこそ、それだけ深く私たちの胸に響いてくるのだ。
 それは、ドラマにありがちな演技者が泣き叫ぶから、その場面が悲しく見えるというわけではない。むしろ、静かに感情を抑えているからこそ、その悲しみや思いの深さが伝わってくるのだ。

 たとえば小さなことなのだが、刑事ドラマや経済もののドラマで、主人公が担当部署に帰ってくると、部屋にいるみんながいっせいに注目して話を聞くなんてことは、現実の仕事場ではありえないことだ。それぞれ皆は、今手持ちの別な案件にかかわっていて、他の仕事に携わる人の話を聞いているヒマはないのだ。
 そんな誰もが日常的にそれぞれに忙しい、信用金庫の部屋の様子が映し出されていて、現実感があり、登場人物は、決して見栄えの良い俳優たちではなく、むしろ風采の上がらないようなオジさんオバさんたちばかりで、それだからこそドキュメンタリーならではの現実のスゴ味が出ていたのだ。

 そして、信用金庫の質素な応接室に呼び出された、業者側の二人、フカヒレ製造の品質に絶対の自信を持つ社長と、若い専務は、担当者から政府系金融機関からの融資決定を知らされる。若い専務は、その話を聞きながら、顔をうつむいて静かに涙をこぼしていた。それは思うに、今までの苦労と、これから何とかやっていけるのだという安堵感からだったのだろうが・・・。
 決して、ドラマにあるように、テーブルに突っ伏したり、担当者に抱きついたりして泣きはしないのだ。

 しかしその後さらに、今までその債務を抱えた業者を冷たくあしらっていた銀行が、政府系からの融資を知って、手のひらを返したように、こちらがメインバンクなのだからと迫ってくるなど、まるでドラマさながらの筋立てになっていくのだ。
 もちろん、このたびの大震災がらみの問題だけに、これは取材を始めた時点で、良い結果になるだろうという見通しもあったのだろうし、さらに制作し続けていく中で、業者側の悲劇に終わらせてはいけないという思いが、信金側にもあり、さらには政府系金融機関さえも動かしたのかもしれない。
 ただし、番組の最後に、ナレーターが話していたのは、大津波による被災企業3000社のうち融資が決まったのは、わずか200社にすぎないということ・・・。

 それはともかく、こうしたテレビ番組によって、今まで良くは知られていなかった、震災がらみの経済の社会の一面を浮かび上がらせたことで、一般の人々にもよく分かるようになり、そうしたことこそが、現代のマス・メディアの一媒体としてのテレビの使命にふさわしいものだ、と思われるのだけれども・・・。
 
 ひるがえって見るに、私は、近年のマス・メディアの報道ぶりにはいくらかの危惧の念をもっているのだが、特に下劣な言葉使いで大衆をあおりたて、ただ売れることだけが狙いの一部メディアには、もうただ情けないばかりである。
 規制をしろというのではない、もっと品格を持って論じてほしいと思うだけなのだが。自由と放任とは同じ意味ではないし、自由には、必ず責任があるものなのだ、自分に対しても、また他人に対しても。
 ほめることが人を育てるとまでは言わないけれども、一般大衆の代弁者とばかりに、すべての分野に悪口雑言の限りを尽くすことが、決して言論の自由なんかではないのだし、政治までもがその言動におびえて、すべての人々の不満に耳を貸さなければならず、何も決定できなくなりつつあるということは、まさしく衆愚(しゅうぐ)政治の始まりになるのではないのだろうか。
 思えば、民主政治の始まりともいわれる古代ギリシャの都市国家アテネでは、衆愚政治によってその勢力が衰えていくことになり、時を経て現代のギリシャでも、今ではその衆愚政治のつけを払わなければならない事態に陥っているし、古代ギリシャに続くあのローマ帝国が滅んだのも、一つにはこの衆愚政治があったからだともいわれているが。
 
 もっとも、なにもここで私が熱くなったところで、何の益もない無駄なことでもあるが、ただ時には、日ごろから思いためている”ものいわぬは腹ふくるる”ことを、このブログで書き連ねてみたくなるのは、負け犬の遠吠えというよりは、私自身のストレスをためないという、健康上の方針にも合うことなのだ。
 それはまた、もう長い間、誰かとじっくり話したことなどないからでもあるが。
 
 毎日ミャオとふたりだけで暮らしていると、上にあげた”マラバールの諺”ではないけれど、いつしか私の影には、耳が二つということにならねばよいが・・・。」



 
 


ワタシはネコである(213)

2012-02-05 18:43:23 | Weblog


2月5日

 うーっ、寒い。しかしどんなに寒くっとも。外に、トイレに行かなければならない。
 飼い主に玄関のドアを開けてもらったのだが、家の中のストーヴの前の暖かさとは一変、外は真っ白な雪の世界で、さらに風に乗って雪も吹きつけてくる。あーあ。

 このところの私の体の異変、しっこが出なくなるあの痛がゆいツラサからは、何とか解放されて、また元通りにちゃんとシッコはできるようになったのだが、それにしても、寒い時のまして外が雪の時のトイレは、毎年のこととはいえいやになる。
 この外に出るまでが大変なのだ。少なくとも朝昼晩の三回は、しなければならない。暖かい時なら、外に出るのも苦痛ではないのだが、こうも寒い時には気が重い。そうしてがまんしているから、しっこが出なくなるんだと、飼い主が言っていたが、いやなものはいやなのだ。

 ストーヴの前で寝ていて、少しそのきざしがあり、ニャーと鳴く。しばらくして、はっきりともよおしてくる。飼い主を見て、ニャーニャー鳴く。飼い主が行きたいのかと言って、ワタシを部屋の外に出そうとする。ドアを開けた薄暗い居間の方から冷たい風がどっと入ってくる。アヘー、冗談じゃないよ。ワタシは小走りでストーヴの前に戻る。飼い主がぶつくさ言っている。
 またしばらくたって、いよいよ我慢できなくなって、玄関のドアを開けてもらうことになる。それでも、さらに寒い風を受けて、また戻ることもあるのだが、いつもはそのまま、雪の吹きすさぶ中に下りて行く。そして植え込みの木陰で、手早く浅く地面をひっかいて用をすませ、臭いをかいで確かめ、そこに雪と一緒に木の葉などをかぶせて、あとは一目散に家に戻る。
 そこで飼い主に体を拭いてもらって、ニャーオと鳴き、キャットフードをひと食べして、スト-ヴの前の座布団の上に座り、ひとしきり毛づくろいをしてから、やっと横になる。やれやれ、いい夢でも見よう。

 飼い主が、先ほどから何か言っている。それほど外に行くのがいやなら、家の中に置いてある砂場ですればいいじゃないか、といったことをあい変わらずくどくどと話しているのだ。まったく、小姑(こじゅうと)じゃあるまいし、同じことを何度も言わせるなつーの。ワタシはノラネコ上がりだから、家の中の砂場なんかでトイレはしたくないのだ。
 自分だって、北海道の家では、すべて外でしていて、広々とした景色を見ながらするのはたまらんぞ、とかワタシに言っていたくせに。
 大体、昔からのコトワザにあるように、『シーザーのものはシーザーに』であり、自然のものは自然に還(かえ)すべきなのだ。他の生き物がすべてそうなのに、人間だけが水で流してそれでおしまい、というもの考え方がわからん。トイレに神様がいるなら、それはうわべだけをきれいにする、人間だけの邪教の神様ではないのかと言いたい。
 などといろいろ頭の中を駆け巡ったが、それを言ったところで、たかがネコごときのワタシにと考えて、今は眠ることにした。悩みは引きずらないし、持ち込まない。寝る時は楽しいことを夢見て寝るだけだ。


 「前回、今年の寒さは大したことがないと書いたとたん、日本列島全体がこの冬一番の寒波に襲われて、自宅の外に置いてある寒暖計も、マイナス14度まで下がった。長い間見たことがなかった数字でもあり、窓ガラスが内側から、結晶模様に凍りつき、去年手直ししたばかりのお湯の配管もまた凍りついてしまった。その日はもちろん、日中もマイナスのままの真冬日であり、二日前に降った雪は、まるで北海道の雪のようにさらさらだった。
 積もった雪は15cmくらいだったが、表通りに出るまでの家からの道50m余りを雪かきした。1時間近くかかり、すっかり汗をかいてしまった。

 北海道の私の家では、除雪される表通りまではここと同じく50mほどあって、1m近く積もった時の雪はね(北海道では雪かきのことを雪はねとも言うが、正しい語感である)に、一人で丸一日かかったが、この冬の日本海側の東北北陸の2mや3mという数字はもう私の想像をはるかに超えたものである。
 そして家の屋根も、急勾配のトタンぶきにしてあるから、積もった雪はそのたびごとに滑り落ちてしまって、屋根の雪下ろしの心配は全くないのだが、この東北北陸の、特に屋根に積もる巨大な重さの雪は何とかならないものだろうか。
 いずれ溶けて消えるものだけど、毎年繰り返される、多くの犠牲と莫大な費用、何とか知恵を集めての対策方法を考えないと。
 
 さて上に書いたように、家の雪かきをした次の日は恐ろしく冷え込んで、油断して水抜きをしていなかったので、お湯用のパイプが凍ってしまった。
 そこで、夜だったので外には出られず、まず家の中の蛇口にタオルを巻き、少しづつお湯をかけたがやはりダメだった。次の日の午後に外に出て、去年やりなおしたばかりの、コーキングで塗り固めていた外の配管のカバーを外し、ウレタン巻きなど全部取り外して、その上で裸の鉛管にタオルを巻き、少しずつお湯をかけてやっと溶けて流れ出した。
 要は、当然のことながら、冷え込む前の夜には、ちゃんと外のバルブを締めて(北海道では蛇口のそばにつけられた止水栓を下ろして)、水抜きをしておくべきなのだ。
 まさかこれほど冷え込むとは、という私の思いは、いつもの災害のたびに繰り返される誰もの思いと変わるところはない。

 昨日は、ようやく寒さもいくらかゆるんできて、ミャオと散歩をした。雪の残る道を歩いて(写真上)、少し離れた空き地で、ミャオは大も小もすませた。いつもは、それからさらに上の山道の方へ行ったりもするのだが、ミャオは座り込んで動かなかった。行きたくないのだ。
 仕方なく私だけ、小さなトレーニングのつもりで、先へと登って下りてと繰り返した。ミャオはそんな私をじっと見ていた。私は、ほんの10分ほどで疲れてしまい、戻ることにした。ミャオは、先に立って速足で家のほうに歩き出した。

 空は晴れて、少し雲が多かったが、この雪と寒さで山の雪景色を見に行くにはいいチャンスだった。しかし、行かなかった。ネットのライブ・カメラで見ると、前回行った時と同じように雲が多く、さらに土曜日で、九重の牧ノ戸峠の駐車場は車でいっぱいになっていた。とても出かける気にはならない。
 家に戻って、パソコンに入れてある昔の雪山登山の写真を見ながら、セクエンティアのCDを聴いた。それは、去年から私がもっともよく聴いているCDである。

 そういえば、毎年、ここに書きだしている例の去年度のCDベスト10(’11.1.28、’10.1.30の項参照)を書かなければならない。
 しかし考えてみれば、年ごとに私のCD購入枚数は減っていて、去年は何と10点だけなのだ。もっとも箱もののセットCDがほとんどだから、枚数的には数十枚になるのだが、12月11日の項で書いたように、むしろ今までため込んできたものを減らしたいくらいなので、こうして毎年購入数が減っていくのは、私のためにも良いことなのだ。
 というわけで、今年は今までのベスト10から、ベスト5にして、以下、時代順にここに書き出してみる。



 1.”Hildegard von Bingen ” ヒルデガルド・フォン・ビンゲン(1098~1179) 演奏セクエンティア、ドイツ・ハルモニア・ムンディ(DHM)・レーベル 8枚組 2290円 (写真上右)
 (中世ドイツのベネディクト派女性修道院長であり、神秘体験著述家であり、作曲者であり、薬草学の大家でもあるヒルデガルト・フォン・ビンゲンの一大全集である。それを、中世時代の音楽のスペシャリストであるセクエンティア・アンサンブルが演奏していて、その深く清明な響きに魅了される。その上に、この値段の安さは信じられない。ただ、少し前に一世を風靡した”アノニマス4”に似た、少し録音に手を加えたような音づくりに、どこか現代的な洗練さも感じるが。それにしても、何と美しいモノフォニー、単旋律の響きだろう。死の床にある時に、聞いていたいような・・・。)

 2.”VICTORIA Sacred Works”トマス・ルイス・デ・ビクトリア(1548~1611)宗教作品集 演奏アンサンブル・プルス・ウルトラ アルヒーフ・レーベル 10枚組 6890円 (写真上左)
 (ルネッサンス期スペインの宗教音楽の大家、ビクトリアの一大全集であり、今までその中の幾つかの曲を聴いてはいたが、こうしてその全貌に近い全集として聞ける喜び。マイケル・ヌーン指揮のアンサンブル・プルス・ウルトラの演奏も無理がなく、モノフォニーから複旋律のポリフォニーへ向かう時代の、ホモフォニー的な素直な響きが心地よい。新しい録音で、この価格と言うのはありがたい。)

 3.”CANTUS COLLN”カントゥス・ケルン全集、演奏コンラート・ユングヘーネル指揮カントゥス・ケルン ドイツ・ハルモニア・ムンディ・レーベル 10枚組 3190円 (写真下左)
 (ずいぶん前から活躍している古楽器リュート奏者、ユングヘーネル率いるカントゥス・ケルンの集大成ともいえる全集であり、モンテヴェルディからシュッツ、バッハなどのバロック時代の音楽家たちのオムニバス集であり、ポリフォニーの音の響きを小編成のアンサンブルで楽しませてくれる。これもまたDHMの破格の値段が嬉しい。)

 4.”FREIBURGER BAROCKORCHESTER”フライブルグ・バロック・オーケストラ ドイツ・ハルモニア・ムンディ・レーベル 10枚組 3190円 (写真下右)
 (バッハ、テレマン、パーセル、ロカテッリなどのバロック時代の管弦楽曲が収められていて、指揮者は今をときめくトマス・ヘンゲルブロック指揮のものだけでなく、フォン・デル・ゴルツ指揮のものも含まれているが、ともかく古楽オーケストラの響きを楽しむには十分である。これもまたDHMの廉価版価格である。)
 
 5.”NURIA RIAL”ヌリア・リアル テレマン・オペラ・アリア集 ドイツ・ハルモニア・ムンディ・レーベル
1枚もの 1590円
 (久しぶりに新譜1枚を買った。美しい瞳でこちらを見つめる無垢な少女のような、スペインのソプラノ歌手リアルのジャケット写真を見て、心のどこかに昔の少年の思いを宿しているおじさんとしては、買わないわけにはいかなかったのだ。それもバロックの作曲家テレマンのオペラ・アリア集だなんて・・・夢見心地の一枚でした。)

 以上5点だけをあげたのだが、その中でベストはと言われれば、やはり今でもまだ聴いている、1.のセクエンティアのものだろう。そろそろ私にもお迎えが来るのではなかろうか、こんなに昔の知らない時代の歌声にひかれるというのは。
 ミャオと私、ふたり、背中に羽根を付けて、このヒルデガルドの作った歌を聞きながら、天国へと登っていく・・・。といい気持ちになったところで、もう一つにぎやかな音楽が聞こえてくる・・・。 

 『天国よいとこ、一度はおいで。酒はうまいし、ねえちゃんはきれいだ。ブンチャカブンチャカ・・・』(『帰ってきたヨッパライ』より)
 あーあ、雑念が多すぎて、とても、今読んでいる『発心集』に書かれた仏教の往生極楽(おうじょうごくらく)どころか、キリスト教の天国へさえいけるかどうか・・・。」