ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(203)

2011-11-27 20:12:04 | Weblog


11月27日

 今では、いつも飼い主がそばにいる生活にすっかり慣れてしまった。だから、もうミルクを皿ごと抱えてガブガブ飲んだり、魚を一日何回も催促して、腹に詰め込んだりする必要もなくなったのだ。
 飼い主が戻ってきてしばらくは、まだひとりでいたころの飢えの恐怖がどこかにあって、ガツガツしていたのだが、こうして毎日を安心して送れることが分かると、心も体も穏やかな気持ちになってくる。今では、少しのミルクと夕方の一匹の魚で十分である。
 天気のいい日は、部屋からベランダに出て、夕方まで外で過ごす。その間に、飼い主がいつものガーガーとうるさい器具を使って、部屋中を動き回っている。その後、飼い主は少し湿っぽいコタツ布団などを運んできて、ベランダの手すりに干している。夕方ワタシが魚を食べてコタツに潜り込むと、その中はワタシの臭いが大分消えていて、洗剤の匂いが強く残っているが、まあ出たり入ったりすればそのうち気にならなくなってくるだろう。

 つまり、人間には人間のやり方があるのだろうし、だから飼い主のやり方に従って、おとなしくしてワタシも慣れていけばいいのだ。そういうことは、若いネコの時には分からなかったことだ。年寄りネコになって、穏やかに暮らすことのありがたさがしみじみと分かってくる。
 秋になって、木々の緑の葉が、少しずつ色づいて赤い色に染まっていくように、生きることとは、なにも春から夏の明るい緑色の葉の時ばかりではないのだ。むしろ、そんな若い時、生き生きと動きまわっていた時こそが、実はワタシにとっては、様々な嵐に襲われた命の危機の時でもあったのだし。そして、今あるこの紅葉の盛りの時こそが、実はワタシのネコ生の中では、最も喜ばしき実りの時なのかもしれない。

 『昨日?そんな昔のことは憶えていないよ。明日?そんな先のことなど分からないね。』
 ワタシは、前に飼い主のそばで見た映画『カサブランカ』のハンフリー・ボガートのように、トレンチコートのエリを立て、斜めにかぶった帽子の下から他のノラネコたち見ながら、そう言っていた。われながら、なんとかっこいい言葉だろう。独り言で、ニャオーンと鳴いて、目が覚めた。
 ワタシは、部屋のストーヴの前で寝ていた。窓から、日が差し込んでいる。飼い主の呼ぶ声がする。どーれ、ワタシは背伸びをして、日の当たるベランダへと歩いて行った。


 「昨日、今日と晴れて次第に暖かくなってきた。気温も18度くらいにまで上がってきた。それまで、-2、3度まで下がり、強い霜の降りる日が二日もあったから、余計に暖かく感じられるのだろう。今日は風もなく、朝のうちの薄雲も取れて、穏やかな一日だった。

 私は、左官工事に精を出した。それは、1年近くも前から続いていた水漏れによる配管工事(1月15日の項参照)を、ついに業者の人に頼んでやってもらったからである。その工事の後の清掃と、外にある水まき用の水栓蛇口周りを、きれいにモルタルで固めて小さな小石のタイル張りにしたのだ。
 それにしても、1年余りも、もっともその三分の一ぐらいしかこの家にはいなかったのだが、その間もずっと場所不明の水漏れが続いていたから、使う時だけ表の水道元栓を開けていた。もちろんそれは、われながらよくそれでガマンしていたなと思うほどに不便だったのだが。
 しかし、なぜこんなに長い間放って置いたのかと言うと、元来の私のケチさはもとよりのこと、春から秋にかけてはこの家にいる期間が短く、その上に北海道の家でも井戸水が枯れて不自由していた経験があるし、まして山の上でテント泊する時などいつもわずかの水で何とかやりくりしていたので、ともかく水が使えないわけでもないこの状態を、それほど大変なことだとは思っていなかったからでもある。
 しかし、この冬にかけてまでガマンすることはできない。大きな出費になるのを覚悟して水道屋さんに頼むことにしたのだ。

 一人で来た彼は、1日がかりで手際良くすべてを終わらせた。私もそばにいて、少しは手伝ったのだが、それは彼の仕事を見て、いくらかでも配管作業を憶えるためでもあった。北海道の家の新たな配管工事を、いつかはやらなければならないからだ。
 長く引き回された古い鉛管の配管が、コンクリートの道などの下になっているために、水漏れ個所を見つけるのは、不可能に近く、新たに別の道で配管したほうがかえって手間もかからないし、まして今の保温材を巻きつけた塩ビパイプなら、凍結を心配してそう深く掘り下げて埋設する必要もないから早くすむはずだ。
 ともかく工事が終わり、私はその日から、水を自由に使えるようになった。もう、18Lポリタンクに水を溜めておいて使わなくってもすむのだ。蛇口を回せばすぐに水が出る。何とありがたいことか。何と幸せなことか。

 最近放送されていた、NHK教育の『100分で名著』のシリーズは、今回はフランスの哲学者、アラン(1868~1951)の『幸福論』についての話だった。この本に書かれている言葉については、今までにもこのブログでもたびたび触れてきたのだが(’09.5.31、7.19などの項参照)、今回もまたそのテレビ放送を見て新たに気づくことがあって、さらにひとつあげることにした。
 彼はそこで、今、生きていることの意味を幸福としてとらえたうえで言うのだ。

 『悲観主義は気分のものであり、楽観主義は意思のものである。』(『幸福論』93章)

 つまり、自分が悲しみという感情のさなかにある時は、とても楽観的には物事を考えられずに悲観的になるものだ。だからこそ、自分がいつも幸福になろうとする楽観的な思考こそが必要であり、それは、まさに自分の積極的な意思によるものなのだ。
 このブログの’09.7.19の項でも触れていたのだが、あの雨降りの日のたとえのように、悪い状況の中でも幸せだと思う気持ちが、心の安らぎを生み新たな幸せを呼ぶということになる。
 水道がいつでも蛇口をひねれば使えるということ、それが今の私のささやかな幸福なのだ。いつまでもその思いが続かないとしても、とりあえず今だけの小さな幸せだとしても。

 前回、九重山系黒岳の淡い色彩の紅葉の美しさについて書いたのだけれども、先日、NHK・BSの『アインシュタインの眼』で『紅葉 穂高連峰』というタイトルで、涸沢(からさわ)の紅葉を科学的にとらえていて、紅葉の美しさは、よく日に当たり十分な紫外線を受けていること、さらに適度な気温の低下によるものだと説明されていた。
 なるほどそれで、あの黒岳山麓の低い木々の紅葉の色合いが少し薄く見えていたのかと、納得がいくけれども、山好きな立場から言わせてもらえれば、余分なタレントや司会者の話などどうでもよく、それよりももっと紅葉風景などを映してほしかったのだが。

 ちなみに、この時の出演者は、あの元ヤクルトの名捕手、古田敦也(ふるたあつや)氏だった。私はプロ野球も好きだし、テレビで良く見ている。
 私は今まで、いつも当時住んでいた地元の球団のファンだった。今では、九州と北海道に分かれて住んでいて、どちらを選ぶか苦しいところだが、一応ファイターズということにしている。しかし、その思いは、昔ほどには熱くはならなくなってきた。つまり球団の勝ち負けよりは、野球の試合そのものを楽しむようになってきたからだ。
 その意味からいえば、今年の中日・ソフトバンクの日本シリーズほど面白いものはなかった。両チームともに投手陣が素晴らしいから試合が引き締まり、少ない点差の緊迫した試合を心ゆくまで楽しむことができた。
 その中でも白眉(はくび)のシーンは、やはり第4戦、6回表中日無死満塁のピンチにマウンドに立ったソフトバンク森福の11球の投球に尽きるだろう。

 実はこんなことまで書いてきたのは、数年前、今話題になっているあの大球団会長の独断的な一リーグ制提唱の時、体を張って涙をまじえて訴え阻止したのは、当時のプロ野球選手会長、古田敦也氏だったのだ。
 私は、そのことを忘れはしない。今年のセパ両リーグの覇者による、素晴らしい日本シリーズが見れたのも、一つには古田敦也氏のあの涙の抗議があったからなのだ。
 御高齢の方に失礼を承知で言わせてもらえれば、引退すべき歳にありながら、いまだに権力の座に居続けようとする人間と、それに何も言えない取り巻きの人々。大王製紙にしろ、オリンパスにしろ、この大球団の内紛にしろ、根っこにあるものはみな同じなのだ、悲しいかな・・・。

 傍に話し相手がいないから、私の話は乱れ飛んでしまう。つまり、あの北アルプスは涸沢の紅葉の番組に、そんな山の紅葉などには興味もないタレントをあてがってしまう、制作者の適材適所の配慮がなかったことを言いたかったのだ。だからもちろんのことだが、今のプロ野球界の恩人のひとりでもある、古田敦也氏を悪く言うつもりなど毛頭ない。
 ただこうした、司会者、タレントによる番組進行のスタイルをやめてほしいと思う。それは経費節減にもなるし、この類の番組は、ドキュメンタリー形式にしてアナウンサーのナレーションを入れるだけで十分であり、あとは映像がすべてを雄弁に語ってくれると思うのだが。


 二三日前の、あのマイナスにまで下がった寒さが来るまでは、家の周りのあちこちのモミジ、カエデの紅葉が盛りになっていて、そんな暖かい晴れた日に、私はそうした華やかな木々を見て回った。(写真)
 青空の下にざわめきが聞こえてくるような豪華絢爛(ごうかけんらん)たる色彩絵巻、それは思えば古(いにしえ)の絵巻物の色彩に、そして能や歌舞伎の舞台衣装の中に見ることができるものであり、さらには歌や物語に読み込まれた鮮やかな色合いだったのだ。
 この鮮烈な赤は、日本だからこその色合いなのか・・・あの岩佐又兵衛(いわさまたべえ、1578~1650)による絵巻物語『山中常盤(やまなかときわ)』(’09.4.4の項参照)の残虐(ざんぎゃく)な殺戮(さつりく)場面、そして数日前のNHK・BSでの『蝶々夫人は悲劇ではない~オペラ歌手岡村喬夫80歳イタリアへの挑戦』でのラスト・シーンの演出、桜の下、二人の血の海が広がってゆく・・・。

 前回に書いた、淡い色彩の紅葉と静寂の中のひと時。私はどこへ行こうとするのだろうか。」

 

ワタシはネコである(202)

2011-11-20 14:13:54 | Weblog


11月20日

 昨日まで雨が降っていた。一昨日は一日中、雨が降り続いていた。ワタシは寝ているしかなく、起きるのは、居間の隅のエサ場に置いてあるミルクをなめに行くか、魚を食べる時だけだ。とはいってもそれまでは、毎日晴れていたが、ストーヴをつけてもらった部屋で横になって寝ていることが多かった。

 数日前のそんなある日、ストーヴの前の座布団の上で寝ていたワタシは、窓辺から差し込むさらに暖かい日差しに、いい気持ちになり、下のほうがゆるんで、大きなシミをつくるおもらしをしてしまった、それも二度も。ワタシは飼い主を見てニャーと鳴いた。
 飼い主は、座布団の上から下りたワタシの目の前に、シッコでぬれた座布団を突きつけた。その声は穏やかだったが、すぐに私を抱え上げて、玄関のドアからワタシを外に出した。ワタシは、しばらく玄関前にいて、その後、庭に出てトイレをすませて、ベランダのほうに回って部屋に戻ってきた。
 ニャーと鳴くと、そこには別の座布団が置いてあった。ワタシはその臭いをかぎ、飼い主の臭いなどがするのを確かめて上にあがり、再び横になった。
 一昨日は、雨の降る中、朝と夜に、同じようにして外に出され、ワタシは仕方なく雨に濡れながら庭に出て、トイレをすませて家に戻った。ニャーと鳴いて帰ったことを知らせると、飼い主がそばに寄ってきて、濡れた私の体をタオルでふいてくれた。

 ワタシは思うのだ。動物たるものはすべて、日々まずは目の前にある事柄だけに追われるようにして生きている。確かにそうだからこそ、その出来事にいかに的確に対処していくかが、大切になってくる。しかしもう一つ、さらに重要なことがある。それは、そうしたらどうなるかを予測することである。
 この二つの決断のバランスこそが、野生の中で生きていく上で最も重要なことなのだ。勇敢さは、自分をさらにたくましくしてくれるだろうし、しかし行き過ぎれば、思慮の足りない無謀さとなり、自らの命取りともなりかねない。一方で、熟慮し自重することは、確かに危険を避けることにもなるだろうが、いつまでも自立成長できない臆病な心と体のまま、命尽きてしまうということにもなりかねないのだ。

 飼い主の話によれば、昔の中国にいた偉い人で、孔子(こうし)とかいう人が、「中庸(ちゅうよう)の徳たる、それ至れるかな。」と言っていたそうだ。
 つまり、何事もほど良い所にとどまれば、それが一番よい生き方なのだということなのだろう。今の世の中の人間たちは、そうした昔の人の言葉を知らないようにも思える。すべての混乱の源にあるのは、自分だけは、自分たちだけはという欲望から出たものであり、昔からその尽きることないお互いの欲をめぐって、今もなお絶えることなく争い続けているのだ。

 ワタシは、年寄りネコになったからこそ思うのだ。今はただ、体の中から聞こえる自然の本能の声に従い、生きていくことであり、一日でも長く生き延びること、それが一番大切なことだと。そして、そのために必要なことは、何事もほどほどにすることにあると。
 体が衰えてきて、昔通りにはいかないけれど、飼い主が求めるような暮らしをするように努力すること、それは、二人で暮らしているからこその、お互いさまのことなのだ。


 「前回書いたように、ミャオがシッコをしなくなったと喜んでいたのに、やはりミャオはもらしてしまった。それは、あの夏にかけての反抗的な、わざと私の目の前でしたシッコではなかったからまだ救いはあった。つまり、座布団カバーを洗濯して、シミのついた座布団にスプレーをして外に干しただけですんだからだ。
 しかし、いつまた本格的なシッコをするかもわからない。私は、ホームセンターに行って、少し厚めのメーター売りのビニールを買ってきて、コタツ布団の下とさらに座布団とカバーの間にも敷いた。いつも洗濯しなければならないのは覚悟して、あとはそれでシッコが座布団や畳敷きの床にしみこむことを防ぐことができればいいのだ。
 ミャオは今、安らかに寝ている。そうした姿を見るだけで、私の気持ちも穏やかになるのだから。

 一昨日からまる一日半もの間降り続いた雨が、昨日の午後になってようやくあがり、今日にかけて青空も広がってきた。その暑いほどの日差しは、11月とは思えないほどで、昨日の気温は20度を超えていた。
 その雨が降る前までに、庭仕事のいくつかはすませておいた。植え込みの剪定(せんてい)と掃き集めた落ち葉焚(た)きなどである。
 家の庭には、さまざまな木があって、この時期はあのレレレのおじさんではないけれど、何度も庭掃除をしなければならなくなる。ウメやサクラ、カキ、カツラなどの落ち葉がうずたかく積もるからだ。しかし、庭の紅葉はまだ終わったわけではなく、主役たるべきモミジとサトウカエデの紅葉や黄葉が半ばほど進んだところである。

 晴れた日が続いた今週だったが、その一日を選んで、私は久しぶりに山に行ってきた。山登りは、前回の槍ヶ岳登山(10月16日、22日の項)からは、1カ月もの間があいている。それだから体力的にも無理をしない所へ、と言っても九州の山はそれほど高くないから、どこに登っても北アルプスや日高山脈ほどのハードな登山にはならないのだが、その上、今の時期の山頂からの眺めは、もちろん冬景色には程遠く、味気ない冬枯れの景色が広がっているだけだから、それならば、まだ紅葉が残っているかもしれない山麓めぐりのトレッキングにしようと思った。それもあまり人が来ない所に。

 九重山系、黒岳(1587m)の登山口にある男池(おいけ)駐車場に着いたのは、8時半くらいだった。クルマは他に数台が停まっているだけだ。初夏のミヤマキリシマの花の季節には、ここの二つの駐車場があふれるほどになり、道端にも車の列ができるほどなのだが、今は閑散としていて私には全く喜ばしいばかりである。それも当然だ、途中から見えた山麓の林も紅葉の時期はとっくに過ぎていて、冬枯れの景色しか残っていなかったからだ。

 ところが、登山口からすぐの二次林(原生林が切られた後に自然に生えてきた木々の林)の中を歩いて行くと、すっかり葉を落とした高い木々の下には背の低いモミジやカエデがあって、まだ十分にきれいな紅葉のままで残っていた。それは朝の光が当たらない山影になっていた林の中で、色もまた原色系の鮮やかな色ではなく、少し淡い感じの色合いであり、全体的に薄いベールをかけられたような陰影のない秋の光景だった(写真)。
 これまで私が好んで求めてきた山での秋の色合いは、青空に映える、劇的なまでの赤の色彩、まるで張り絵のような色彩の対比であったのだが、今この淡い秋の色彩を目の前にして、私はしばしの間立ち尽くしてしまった。高い空の上では、風の音がしていたが、この山影の林の中は静かだった。周りには、だれもいなかった。鳥の声一つ聞こえなかった。
 
 あのグスタフ・クリムト(1862~1918)の白樺林の絵のような、落ち葉が散り敷いた木々の間に、薄紅や黄色や薄緑の葉が見え隠れしている陰影のない光景。ウィーン世紀末を象徴するような官能的な女性美を描いて一世を風靡(ふうび)したクリムトが、それだけではなく幾つかの白樺林の風景画を残したように、原色的などぎつい色彩の秋の盛りの光景ではなく、すべてをやわらかく包み込むような、秋の終わりの淡き紅葉の風景を前に、私は、さらなる自然界の景観について考えさせられたのだ。
 それは、アポロン的なものとデュオニソス的なもの(ニーチェの『悲劇の誕生』における芸術類型の区分)と言うほどまでに明確な区別ではないにせよ、私には今までそれほど気に留めたこともないような、ほのかな光の中の光景だったのだ。
 もちろん、私の登山は晴れた日ばかりではなく、周りが見えない霧に包まれた中を歩いた時もあり、その霧の風景を趣(おもむき)があると感じたこともあったのだが、それでもできることなら晴れた日の明瞭な光景を切望していたのだ。
 今回の紅葉の風景も、もう縮んだり黒くなったりした葉の上のほうに、終わりの紅葉が残っているという光景を想像していたのに、林の高い木々に守られて今が盛りの紅葉もあるということを、それも十分な日光を受けていないからだろうか、少し淡い色になって、そのつつましやかな色合いとともに私の心に響いてきたのだ。

 しかし、紅葉の林はそこで終わりだった。あとは枯れた落ち葉が散り敷く、ブナやケヤキ、クヌギなどの木々の冬枯れの道が続いていた。平治岳から大船山と続く山なみとこの黒岳との狭間(はざま)にある苔むした岩塊帯をたどり、黒岳の登り口になる風穴に着いた。途中で二人を抜き、向こうから来る一人に出会っただけだった。
 この道のりには展望が開けるところはなく、葉を落とした木々の間から、右手に大船山、左手に黒岳天狗塚が見えているだけだったが、私にはこの静かな晩秋の山歩きだけで十分だった。一休みした後、岳麓寺(がくろくじ)に行く道と分かれて、左に上峠へと向かうトラバース道に入って行く。
 あまり人が通らない道の上に、枯葉が降り積もっていて、道かどうか判別しにくいところばかりだった。ただ所々古いペンキ印やテープがあって、何とか迷わずに歩いて行けた。
 そこは登り下りも結構あって、単なる水平道ではなかったが、南面の暖かく穏やかな道で、その一面の冬枯れの木々の間に、時折、辺りの中での唯一の紅葉が見えていた。おそらくはあのニシキギ科のマユミだろうが、薄紅色の紅葉が薄水色の空に映えて見あきることはなかった。

 急な下りで上峠に着き、そこから白水鉱泉へと降りて行くが、少し下った辺りでこのトレッキング・コース最大の見ものが待っていた。モミジ、カエデの紅葉と黄葉の林である。それは、行きに見たあの男池付近の二次林と同じで、細い木が多く大木はなかったし、色鮮やかというのではなく、まして群生するというほどでもなかったが、他の樹が混じる林の中で、何とも楽しくなるほどの点描画の色合いの競演だった(写真)。



 この黒岳の全山が、華やかな紅葉に彩られるという10月中下旬からは、ずいぶん遅れた紅葉見物だったが、私は十分に満ち足りた思いで、白水鉱泉へと下りて行った。そしてラムネ水で有名な鉱泉からは、たまたま通りかかったクルマに手をあげて、男池駐車場まで乗せてもらった。
 最近はヒッチハイクをやる人が少ないようだが、私は、この白水鉱泉からの道でも2度目だし、若いころの外国旅行の時からずっと、近くは、あの5か月前の屋久島旅行(6月17日、20日、25日の項)の時にもヒッチハイクをしたが、必要な時にはしり込みせずにクルマに手をあげることにしている。
 ただし問題は、私の恐ろしげな外観だ。ただでさえ怖いヒゲヅラの大きな男の私が、道端に立っていても、そう簡単にクルマは停まってはくれない。ほとんどはよけて通り過ぎて行く。
 そこで大切なのは、普通は見せたこともないとびっきりの明るい笑顔だ。ミャオ、笑うんじゃない。私だって、満面の笑顔になる時もあるんだから。そして、根気だ。とはいっても、今まで30分も待ったことはほとんどない。
 そして降りる時にはもちろん十分に礼を言い、時に応じてはジュース代にでもと小銭を置いていき、それは、あの『北の国から』の名シーンのように、泥のついたお札を渡すほどではないし、また女の人のクルマなら、彼女のほっぺにチューしたいところだが、それまでの勇気は私にはないというより、恐怖の叫び声をあげられるだろうから試みたことはないが、ともかく心からの感謝の言葉を伝えることだ。

 つまり、私は今回も、45分ほどかかる道を歩かずにすんだし、そこまでの5時間半ほどの一人っきりの山麓をめぐるトレッキングも、まさに静かな晩秋の山を楽しむのにふさわしかったし、全く幸せな一日だった。そして、このように最初から頂上を目指さない山歩きというのは、実は私にとっては初めてのことでもあったのだ。(ちなみに、出発点の男池の標高は860mであり、このコースの最高点の風穴付近の標高は1260mである。)
 私の山登りの何かが変わってきたのか、それとも変えようとしているのか。

 家に帰ると、ミャオがベランダにいて、私が戻ってきたのを見て、まだ夕方前なのにサカナをくれと鳴いた。またこうして次の一日へと続いて行くのだ。」


ワタシはネコである(201)

2011-11-13 18:21:33 | Weblog


11月13日

 ニャオン、ニャオーンと、ワタシは鳴き続けていた。
 数日前のことだ。誰かが家の中に入ってきて、今まで閉まっていたベランダのドアを開けて、二三度鳴いていた。その後、庭に下りてきて、あたりを歩き回っては、まだ鳴いていた。 
 ワタシは、ベランダに置いてあるネコ小屋には入らずに、その傍にあるカバーをかけられたマッサージチェアーの裏側に潜り込んでいた。ここなら、寒さもしのげるし、他のネコが簡単には入ってこられないからだ。
 ワタシは、最初は新たな外敵が侵入してきたのではないのかと、身を固くしてじっとしていた。しかし、何度も鳴いている男の声に、ワタシの心の中で何かかがよみがえってきて、はじけた。飼い主の声だ。
 庭のほうから、家の中に戻ってきた飼い主とワタシは、互いに鳴きかわしながらかけ寄り、ひしと抱き合い、ただオイオイと泣くばかりだった。

 というのは言い過ぎだが、人間たちの久しぶりの対面でいえばそういうふうになるのだろう。しかし、2カ月もの間、ひとり置いてゆかれたワタシからすれば、オーバーな表現でもなく、今までのつらい思いの日々から解放された瞬間でもあったのだ。
 ワタシはニャオニャオと鳴きながらも、皿いっぱいのミルクを飲み続けた。かはー、たまらない味だ。
 確かにおじさんは、毎日ちゃんとキャットフードのエサをくれたけれども、ミルクはくれなかった。

 ワタシたち動物は、年寄りになるにつれて、どうしてもカルシウムなどが不足しがちになる。骨粗鬆症(こつそしょうしょう)にならないためにも、その補給のためにもミルクは、有効な食品の一つなのだ。
 さらに加えて、ほんのり甘くまろやかな味が、何ともこの年寄りネコのワタシの口に合うのだ。

 そういえば昔のことだが、まだワタシが若くて一緒に住んでいたあのおばあちゃんが元気でいたころ、ワタシが包み紙の音に耳をたて何か食べているのならワタシにもと、鳴きながらおばあちゃんのそばに寄って行ったところ、おばあちゃんはワタシをなでながら話してくれたのだ。
 『私の田舎のおばあちゃんは、はちみつの入ったビンを隠していて、孫たちには決してやらずに、時々取り出しては一人でこっそりなめていたのを見たことがあるけれど、今になって分かるよ。私もこうして甘いものが欲しくなるんだからね。オマエには食べられないだろうがね。』

 本来、ワタシたちネコは、例えばクマたちみたいに甘いものが好きだというわけではないのだけれども、年をとってきてから、ますますこの牛乳の持つほのかな甘みを好むようになってきたのだ。だから、飼い主が帰ってきて、やはり一番うれしいのは、生魚もあるけれどやはりこの牛乳なのだ。

 そして、その日以来、ワタシはまた前のように、飼い主がそばにいてくれて、安全な家の中で、いつもの牛乳を飲んで生魚を食べて、時々優しい言葉をかけられながら体をなでてもらったり、という毎日を送っている。一年のうちに何度か繰り返される、ワタシの生活の劇的な変化、それをワタシは受け入れながら、今日まで生きてきたのだ。
 ある時、飼い主が、音程はずれのだみ声で小さく歌っていた、吉田タクローとかいう歌い手の歌のように・・・ワタシは今日まで生きてきました。時には誰かの力を借りて。そして明日からも、こうして生きていくだろうと。


 「私は、ずっと心配していた。この夏のことからいっても(6.30~7.27,9.3の項参照)、ミャオはひどく衰えているのではないのかと、あるいはもしや死んではいないだろうかと。
 そのことが気がかりで、いつもよりはさらに早めに帰ってきたのだ。寒がりのミャオは、昔ならば、あのポンプ小屋に行って暖かい配管にくっついて、冬の寒さもしのぐことはできただろうが、今では家の周りを歩き回るだけで、とても遠く離れたポンプ小屋まで行くこともできないし、途中には、ミャオが何度もやられて深手を負った他のノラネコたちががうろついているのだ。
 ミャオはただ、飼い主のいない家にいるしかないのだ。『イヌは人につき、ネコは人のいる家につく』と言われているが、この東北の大震災大津波で生き残ったイヌやネコたちは、それでも誰もいない家の中で、飼い主が来るのを待っていたのだ。
 そして、ミャオもまた、いつ帰ってくるともわからない飼い主の私を、手のひらの肉球を開いては数えて待っていたのだ。それもちゃんと毛布を敷いたネコ小屋にではなく、シートをかぶせたマッサージチェアーの物陰に隠れては、毎日夜を過ごしていたのだ。

 そこから出てきたミャオは、私といた時よりもかえって元気だったし、丸々と太っていた。毎日エサをやってくれていたおじさんには、ただただ感謝するほかはなく、いつもの鮭のトバ(干物)と花畑牧場のお菓子ぐらいのお土産では申し訳ないくらいだった。
 そのおじさんに聞くと、ミャオには、ただキャットフードをやっていただけだとのことだった。それはつまり、私といる時には、毎日生魚を食べミルクを飲み、時にカツオブシやノリを食べるくらいで、ほとんどキャットフードを食べてくれないのだが、実はキャットフードのほうが栄養バランスに優れていて、ミャオの体にはいいということなのだろうか。
 
 その上に、さらに予想外のことで嬉しかったことがある。夏にいた時に、今まで書いてきたように、あれほどあちこちにシッコをもらしていて、恐らく私が帰ってからのこの冬の間は、ミャオのシッコまみれの部屋で暮らすことになるだろうと覚悟して、ミャオのいるコタツのある部屋全体にシートを張って、その上にコタツを置き、毎日、シッコをもらすだろうコタツ布団や座布団を洗うほかはないと覚悟していたのに、つまり要介護老人との同居生活を覚悟していたのに・・・。
 ミャオはえらい、まだ一度も部屋でシッコはしていないのだ。前のように、ちゃんと一日2回は外に出て、トイレの用をすませているのだ。
 ということは、あの夏の狂乱シッコ状態は、他のネコに襲われひどい傷を負ったことによる、一時的な精神錯乱状態から来るものだったということなのだろうか。

 ともかく、ミャオが元気でいてくれたこと、さらには部屋でシッコをしていないことは、私にとっては実にありがたいことなのだが、それはそうなったで欲も出てしまう。つまりそれなら、もっと北海道にいてもよかったのではないかと。せめて、去年と同じあと10日くらい先に帰ってきてももよかったのではないのかと、そうすれば、初冬の装いの雪の大雪山・十勝連峰の山に行けたのにと。
 というのも、私が、十勝の家を離れた朝、前日からの寒波の襲来で、気温はマイナス4度まで下がり(それくらいで平年並みなのだが)、日高山脈の中央部は完全に白くなっていて、ライブカメラで見る大雪山・旭岳にも新たに雪が積もっていた。

 残念だが、物事はすべてが、うまく運ぶとは限らない。何はともあれミャオが元気でいたこと、それだけでも十分であり、感謝すべきことなのだ。そしてこれから、いいことも悪いことも含めて、ミャオと一緒に春までの長い日々の暮らしが始まるのだ。
 ここにいるからこそ、できることもいろいろとある。それらの日々に何をなすべきかを、しっかりと心に定めて・・・。」
 
 癒(いや)しの仏教詩人と言われた坂村真民(さかむらしんみん、1904~2006)の、詩の一節から。

 『 今 』
 「 大切なのは かつてでもなく これからでもなく
   一呼吸 一呼吸の 今である」

 (坂村真民詩集 大東出版社)


 
 

飼い主よりミャオへ(153)

2011-11-06 14:48:32 | Weblog


11月6日

 拝啓 ミャオ様
 
 昨日今日と肌寒い曇り空で、気温も10度を下回ったけれど、これでようやく平年並みになったわけであり、それまでは、毎日晴れて穏やかな晩秋の日々が続いていた。
 最低気温は2度から5度くらいで、最高気温は15度前後と、寒暖計を見なくてもわかるような、余り変化のない暖かい毎日が続いていた。10月からこの11月に入ったことも、家の周りの紅葉が散りゆくことでそれと気づくくらいなのだ。
 部屋の温度は、暖房を入れなくても15度くらいはあるから、どうしてもストーヴをつけなければというほどではない。部屋の寒さに弱い北海道の人に比べれば、幾らかは寒さに強い私としては、少し厚着をすればすむことだと思っている。とはいうものの、実は、このところ毎日ストーヴの薪(まき)に火をつけているのだ。
 それは薪が燃えているのを見る楽しみと、いつでも焼きいもを食べれるようになることと、さらにガスコンロを使わなくてもお湯を沸かせるようになることなどのためにと、さらにもう一つ、もうこの家にいられるのも残り少なくなってきて、今の時期のストーヴのある暮らしを、その名残を惜しむためでもあるからだ。

 母が九州の家にいた頃は、私は12月に入ってから帰っていた。母が亡くなり、それから続けて2年は、ここで冬を過ごした。しかし、冬の間、九州の家に私がいないことで、ひとり残されたミャオがいかに悲惨な毎日を送っていたか、それを私は春先に戻って初めて知った。それ以来、私は11月の終わり頃までには、ミャオのもとへ帰ることにしていた。
 しかし、今年のミャオの体調の変化を見て(6.30~7.27の項、9.3の項参照)、高齢化による介護の必要性を感じ、さらにもっと早めに帰ることにしたのだ。いくら近くに、エサをやってくれるおじさんがいるからとしても、年寄りネコのミャオには、とても冬の寒さは耐えられないだろう。
 見捨てるわけにはいかないのだ。それは今まで、わがままいっぱいに生きてきた私のできる、ほんのささやかなことでしかないのだが。


 だから、今のこの穏やかな小春日和の日々を、そしてやがては訪れるあの雪の降る季節へと思いをはせながら、私はどこにも出かけず、家に居て静かに暮らすことにしたのだ。ストーヴの薪のはじける音、小さく流れるチェンバロの音、窓辺に座り本を読むこと・・・ああ、今、これ以上の幸せがどこにあるだろうか。   
 ふと窓の外に目をやると、低い木の枝に、うす赤い腹を見せて、一羽のベニマシコがとまっていた。彼方には、青空の下に、うっすらと日高山脈の山なみが見えていた。
 
 思えば、山登りには、あの槍ヶ岳への山旅(10.16,22の項)以来どこにも行っていない。というより、今年は山行回数自体が減っているのだ。それだから、今まで足しげく通っていた、日高、大雪の山々へもすっかり行かなくなってしまった。そのわけはといえば幾つかあるのだが、簡単に言えば、私もまたミャオと同じように年をとってしまったからなのだ。
 それは、体力的な衰えというよりは、精神的な衰えなのだ。すべてが面倒になっていくこと。若い頃には、年寄りのだらしなさが目についてイヤに思えたのに、今や自分がその老齢へと向かいつつあり、同じ道を歩もうとしているのだ。
 そうならないためには、逆説的ではあるが、人目につかないように引きこもればいいのだ。鬼の住処(すみか)のようなこの家に、鬼瓦のような顔をした、むさいオヤジがひとり住んでいたところで、誰の迷惑にもならないだろう。それはまさに、健康な中高年のための、自分だけの天国創設のための引きこもりのすすめなのだ。

 ただしそうはいっても、山登り自体に飽きたというわけではない。今年の槍ヶ岳山行の計画を立てたように、まだまだ日本のいろいろな山々を見に行きたいし登りたい、ヨーロッパ・アルプス再訪も必ずや実現させたい。
 この北海道でも、いつもの年なら、すでに冬型季節配置のはしりが来ていて、強い北西の風に乗って雪が降り、旭川などではかなりの降雪があり、次の日に晴れれば、山の上では、風紋やエビノシッポ、シュカブラなどの冬の雪模様が見られるはずなのだ。
 ところが、今年の秋は始めに書いたように、北海道は気温が高く、いったん降った山の雪も残雪状態でしかなく、恐らくは中途半端な山の風景しか見られないだろう。
 それは、例えば、去年の美瑛岳(’10.10.23の項)、一昨年の十勝岳(’09.11.9の項)、さらにその前の年の旭岳(’08.10.24,26の項)などで、これ以上はない初冬の雪山の一大景観を目の当たりにしてきているから、なおさら気が進まないことになる。
 
 それだから、たいした雪も積もっていないだろう山々に、片道3時間以上もクルマを走らせて行く気にはならないのだ。それは今までに、もう十分なまでに、良い時の山々への思い出を持っている男の、実にゼイタクなそしてわがままな、山へ行かないことへの決断だったのだ。
 それはそれでよいとしても、家でただじっとしてはいられない。薪割りはもうこれ以上しなくてもいいのだが、さらに来年以降のためにと、林の中の木を切って回った。切り倒していた直径30cmもある丸太を、薪用にコマぎれに切ったり、邪魔になるミズナラなどの木を切ったりして、それらを幾つも運び出し汗をかいた。さらに、裏山の牧草地にも、度々散歩がてらに歩き回った。
 そこで、前にも書いたことのある、畑や牧草地を守るために張り巡らされた、あのシカ除け用の高いネット牧柵に、シカが一頭引っかかっていた。何度もネットに体当たりしたのだろう。角にネットが絡みついて、シカはそこに座り込み息絶えていた。後は昆虫や鳥や獣たちの巨大なエサ場になっていた。頭から上はきれいなまま残っていて、目を見開いてこちらを見ていた。
 
 それは、農作物への被害が大きい周りの農家だけでなく、このわが家の庭の植木でさえ、何本もシカにかじられて立ち枯れしてしまったほどだから、牧柵が作られたことに異論を唱えるつもりはないのだが、こうして目の前で、自分の意に反して命を絶たれた生き物の姿を見るのはつらいことだ。
 数年ほど前に、私のクルマにシカがぶつかった。バンパーがRV車用の頑丈なものだから、わずかな車体の被害ですんだのだが、その後でヨロヨロと歩いて道端の藪に消えて行ったシカは、友達の話では、どこかを骨折していて、もう自然の中では生きていけないだろうとのことだった。
 毎年北海道では、こうした動物たちとクルマや列車との衝突事故が何件も起きている。今年も、列車にはねられて死んだクマだけでなく、道に現れたクマをよけようとした車が路外に飛び出し助手席の同乗者が死んだりと、人間側の被害も多いのだ。
 とはいえ、それは、もともとあった自然界に進出してきた人間たちが悪いからだと、環境保護論者的に一方的に決めつけられる問題でもない。つまり、長い間定住して生活基盤が定まった中では、どちらももう他へ出て行くことなどできないからだ。それはあのパレスチナとイスラエルの関係に似て、どちらが良い悪いの問題ではなくなってしまうのだが・・・。

 先日、1週間ほど前に録画していた映画を一本見た。『天空の草原ナンサ』(2005年)。それは、ドイツの資本制作により、地元モンゴルの映画監督が、草原に暮らす遊牧民の一家の生活をドキュメンタリー風にまとめあげて作った映画であり、なかなかに素朴な詩情溢れる良い作品になっていた。

 移動住居のゲルに住む、若い夫婦と子供たちのもとに、町の小学校に寄宿していた長女であるナンサが学校休みで帰ってくる。周りには誰もいない広い平原の中で、一家は羊やヤクを飼い、自給自足に近い生活の毎日を送っている。ナンサは、まだ6歳だが立派な働き手の一人であり、馬に乗っては羊たちを追い、家の内外では、まだ幼い妹や弟たちの面倒も見なければならない。
 いつもその姉妹弟の3人だけで遊び、空を見上げては、雲の形が動物に似ていると笑い合うのだ。そんな時に、ナンサは洞窟(どうくつ)に隠れていた一匹の犬と出会い、ツォーホルと名づけて可愛がるのだが、父親はオオカミの群れに混じっていた犬かもしれないから家では飼えない、捨ててこいと言う。
 落ち込んだナンサを見て、母親は話しかける。「手のひらを噛(か)んでごらん。できないでしょう。思い通りにならないこともあるの。」
 やがて夏も終わり、彼らはその夏の場所を離れて、冬の居住地へと移動して行く。(その時のゲルの解体の仕方などを、順を追って撮影していて、チーズつくりなどとともに実に興味深いシーンだった。)そして、その牛車の車列の中から、まだヨチヨチ歩きの弟が転落して行方不明になる。周りにハゲタカが巣くう草原で、夏の居住地跡に残された弟とあの犬の運命はどうなるのか。

 この辺りのストーリーの設定で、なるほど映画のために作られたのだと分かるのだが、それまでの映画の流れはまるでドキュメンタリーとしか思えないようなシーンが続いていて、若い夫婦と小さな子供たちの何気ない会話や行動も、そのまま日常的な光景に見えるほどである。
 さらにあの中央アジアの広大なステップ帯に広がる、緑の草原と穏やかな草山の織り成す風景の素晴らしさ。
 西側先進国のドイツの制作サイドは、一方では、モンゴルの首都ウランバートルのマンホールで暮らす悲惨なストリートチルドレンのことも知っていたのに違いない、だからこそこの映画を制作したのだ。

 私が見たい映画は、こうした人間的なもの、それはヒューマン的なものだけではなく、人間の愛憎心理などを含めてのことだが、そうしたものをメッセージとして訴えかけてくる映画である。
 それだから、どこかの国の大々的に宣伝された、今流行りの映像合成技術を駆使して、観客うけをねらい、金を稼げるために作られた映画などを見たくはないのだ。昔から言われる映画の3S、スピード、スリル、セックスだけで大衆をあおり立てていく文明とは、一体何のためなのだろうか。

 今回のギリシャ危機に端を発した、ECの、ヨーロッパの、そして世界を巻き込んでの経済危機は、あらためて私たちに、その経済的な成り立ちの基盤が何であるか、高度文明の経済社会がどうして成り立っているのかを、警告の意味を含めて教えてくれたのだ。
 問題は、株式、債券などのように、実体のない明日の予測の数字へと、ありもしないものに値段をつけては、その売買によって架空の経済領域を広げたことにあるのだ。誰がそうしているのか、言うまでもないことだが。
 世界経済は、今までに何と狡猾(こうかつ)で巧みな仕組みを作り上げてきたことだろうか。それは上に書いた、自然界と人間との関係、あるいはパレスチナとイスラエルとの関係に似て、私たちは、今の世界では解決できない、巨大な陥穽(かんせい)の中にいるのかもしれない。

 映画『天空の草原ナンサ』を見て、聞こえてくるのは、青空の下のナンサの声、羊たちの声、静かに流れ来るホーミー(モンゴルの喉歌)の歌声である。
 
 ずいぶん昔のことだが、民放で数回ほど放映された『大草原の少女みゆきちゃん』という優れたドキュメンタリー番組があった。(調べてみると、それは私がこの家を建てて住み始めたころの1985年の、TBS制作になる番組であり、現在DVDでも発売中とのことだ。さらに、みゆきちゃんの父親である久保俊治さんは、最近『羆撃ち』というなかなか興味深い本を出している。)

 北海道は知床の南の山麓で、酪農業を営む両親の元に、長女として生まれたみゆきちゃんは、小さな妹の面倒を見ながら、牛の世話などの手伝いをしては、4キロもの道を毎日ひとりで歩いて小学校に通っていた。冬になって雪が降れば、まるで冬山のラッセルと同じ状態になり、あわせてヒグマも出るような山道だから、父親はみゆきちゃんに乗馬の訓練をして、馬に乗って学校に通わせるようにしたのだ。
 父親や母親の厳しくもやさしい思いと、たくましく明るく育っていくみゆきちゃんの姿を見て、私は何度涙を流したことか。(鬼瓦の目にも涙。)恐らく、あのころあの番組を見ていた日本中の人はみんな、わが娘を見るような思いで、みゆきちゃんを見ていたことだろう。

 今度、『天空の草原ナンサ』を見ていて、そのナンサの顔にみゆきちゃんの顔が重なって見えてきたのだ。そして、私が思ったのは、子供たちのかわいさや風景の素晴らしさや日々の出来事などではなく、ただ毎日の生活の中にある、生きていることの素晴らしさであった。

 私は、裏山の牧草地の中を歩いていた。牧柵のシカの所からはもう遠く離れていた。ゆるやかにうねる牧草地の向こうに黄色く色づいたカラマツの林が並び、広大に広がる秋の空に、ゆっくりと雲が流れていた。(写真)
 私は、立ち止まり、両手を広げた。私の両手の中にあって、さらのその私が包まれているものの中へ・・・。

 ミャオ、もうすぐにオマエのところへ戻るからね。

                         飼い主より 敬具