ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

心を広く遊ばしめ

2020-07-27 21:20:35 | Weblog



 7月27日

 怠け者になるのは簡単だが、そこから抜け出すのは難しい。
 年を重ねるごとに、事を行うにあたっては、すべて”易(やす)きに流れる”ままに、難しいことをやらずにすむようにと、波風を立てずに、ぬるま湯につかるがごとくに生きていける道を選ぶことになる。
 そして、これが年寄りの生きる道だと自分に言い聞かせ、かくしてぐうたらな年寄りは、”もうろくじじい”の道を歩き始めるのだ。
 ”そうです。私が変なじいさんです。”

 その笑い顔が、いつしかひきつって悲しみに代わり、やがては恐れおののくようになる。
 コロナ禍の今の世界、これほどの事態になっていても、日々発表される数字を見てそう思うだけで、それほど深刻には考えていない人が多いのだろうか、社会は表向き何も変わっていないように見える。
 もっとも、それでいいのかもしれない。あのアフリカのサバンナにいるヌーの群れが、大集団になって彼方の草原を目指すように、人々は今ある流れに従って進むことしかできないのだし、途中の激流で多くの仲間を失ったとしても、己の歩みを止めることはできないのだ。

 その到達地がどういうところなのか、もう年老いた私には見届けることはできないが、そうまでして長生きしたいとも思わないし、これまで歩いてきた道のりだけでもう十分だとも思っている。いい旅路だったのだから。
 これからは、内外への旅ができなくなくなってしまい、例えばあのスイス・アルプスの再訪がかなわなくても、日本のいくつかの山を登り残したままだとしても、それほど残念なことだとは思わない。
 極端な言い方をすれば、コロナ禍のために思うような山旅ができなくなったおかげで、それまでに自分が思うままに登ってきた山々の思い出が、よりひときわ光り輝いて見えるからだ。
 年寄りには、これから先の予定がないにせよ、今まで貯えてきた思い出の財産を、一つ一つねちねちと、自分だけの愉しみとして味わい尽くすことはできる。

 思えば人生の中で、そうした”幸不幸”相半ばする思い出が数多くあることこそが、他人に見せるものではない自分が生きてきた証(あかし)であり、自分だけに分かる宝物なのだ。
 あの激動と混乱の幼青壮年の時代こそ、実は、自分の老後の生きるよすがとなる、思い出を残すための大切なひと時だったのだ。学ぶこと習うことの本当の大切さは、その時が過ぎ去って、初めて気づくものだ。
 だから、思い出のひとつひとつが、誇らしげな喜びと歓喜に満ちたものであれ、あるいは哀しみと悔恨に打ち沈んだものであれ、それらは等しく私が歩いてきた道に残した、思い出の痕跡(こんせき)なのだ。

 自分の人生が、緩急(かんきゅう)や強弱からなる起承転結への推移の結果だと考えていけば、今この穏やかなひと時の中に在ることは、ありがたき天の差配であり、何と巧みに書かれた結末だろうかと思うのだ。
 以下の言葉は、このブログでも何度か書いたものだが、同じことばかりを繰り返し言う年寄りの常で、こうした時にはいつも思い出してしまうのだ。 

”(人間には)死と同じように避けられないものがある。それは生きることだ。”

 (これは映画『ライムライト』(1952年)の中で、失意の若い踊り子を励ますために、チャップリン扮する老喜劇役者カルべロの言った言葉だが、さらに、その踊り子への淡い思いを断ち切って、彼女と若者との恋を祝福することにした彼は言うのだ。)

” 時は偉大な作家だ。いつも完璧な結末を書いてくれる。”

 そして、映画のエンド・タイトルで流れていた、哀切極まるテーマ曲が胸を打つ。
 さらには、あの映画評論家淀川長治さんの言葉を思い出す。

”若い時に、たくさんいいものを見ておきなさい。”

 さて、前置きがすっかり長くなったが、山の話を書いておかなければならない。
 それは、もう1か月も前の話しだからタイムリーな記事としての価値はなく、単なる個人的な備忘録(びぼうろく)としての意味合いしかないのだが、この時も、その前の2回のミヤマキリシマ鑑賞登山と同じように、いい山歩きだった。
 それはいつもの通りの九重であり、それもあきることなく繰り返す牧ノ戸峠(1330m)からのハイキングコースである。
 8時前に牧ノ戸に着いたが、ミヤマキリシマの花は終わっているというのに、駐車場には7割程度のクルマが並んでいた。

 何と言っても、青空が広がっているのが嬉しい。
 花は、名残りのミヤマキリシマが一つ二つとあるものの、ほとんどがベニドウダンの薄紅や赤い花だけである。
 沓掛山の前峰からは、今日ははっきりとカルデラの中に阿蘇山(1592m)が見えている。
 尾根通しに沓掛山本峰(1503m)へと向かい、彼方にどっしりと鎮座した三俣山(1745m)を眺めて、いつもの定番の写真を撮る。
 ゆるやかな高原状の尾根道をたどり、扇ヶ鼻分岐へと向かう。(写真上、分岐下より星生山とベニドウダン)
 私を抜いて行く人、戻ってくる人などが、たまにいるくらいで、グループの声が聞こえなくて静かなのがいい。 
 コロナ対策のマスク姿の人は、一月前の時には、何人か見かけたのだが、今ではもうほとんど見ることはなかったし、私もつけていなかったが。はたして山では感染しないのだろうか。

 分岐にからは、久住山などへ行くメインルートとは離れて左手にそれていき、火口跡の小さな池塘を経て、星生山の急な南尾根に取り付く。
 低い樹林帯を抜けると左右の展望が開けて、山腹斜面の登りになり、冬は霧氷がきれいな所であり、所々にハイマツの代わりにミヤマビャクシンが地を這っていて、高山帯らしい気がする。西の肩に着き、最後の一登りで星生山(1762m)頂上に着く。
 ここからの、星生崎へと続く稜線の連なりが、九重のミニ・アルプスとでも呼びたい所だ。厳冬期にはアイゼン必携の岩稜帯になり、それだけに展望も素晴らしい。
 少し前の、あのミヤマキリシマが盛りのころには、この南斜面が赤紫色に染められて壮観な眺めになるのだが、今はただ一つ二つの花の株が残るだけだった。(写真下、右から久住山、稲星山、天狗ヶ城、中岳)



 一休みして展望を楽しみ、岩稜の縦走路をたどって行くが、年寄りのふらつく脚では慎重にならないと。
 そこを過ぎると、白ザク(花崗岩ではなく火山性の砕石)の道になり、岩稜帯通しにも行けるが、右に上下するトラバース道をたどり、岩峰がある星生崎(1720m)に着く。

 そこから、直接星生崎下のコルに出る道もあるのだが行き過ぎてしまい、遠回りになるが、眼下の避難小屋(工事中)まで下りて、コルまで登り直し、そこで昼休みの大休止をとる。
 目の前に大きくそびえ立つ、久住山(1787m)は、九重の山の中ではやはりその迫力ある鋭い山体は際立っていて、九州本土一の高さを中岳(1791m)に譲るとしても、九重の山を代表する名峰であることに変わりはない。

 岩塊帯の道をトラバース気味に下り、平たんな西千里浜に出て、名残りのミヤマキリシマを前景にして、久住山と星生崎の岩峰を振り返り眺めながら歩いて行く。(写真下)



 後はゆるやかに来た道を戻るだけだが、ひざは痛くならなかったものの、長時間歩行でやはり疲れてしまった。
 牧ノ戸の駐車場に着いたのは、2時を過ぎていたから、コースタイムでは3時間半足らずの所を、この年寄りの脚では、休みを多くとったにせよ、6時間半に近い時間がかかっているのだ。
 もって”肝に銘ずべし”、無理はしないようにしなければとはいえ、山野を歩き回ることは、私が生きていることそのものでもあるのだから、やめられないのだ。

 前にも何度かここにあげたことのある、あの江戸時代の医師であり儒学者でもあった貝原益軒(かいばらえきけん、1630~1714)の『養生訓(ようじょうくん)』の中からの言葉。

”天気和暖(かだん)の日は、園圃(えんぽ)に出、高き所に上がり、心を広く遊ばしめ、鬱滞(うつたい)を開くべし。時々花木を愛し、遊賞(ゆうしょう)せしめて、其の意を快(こころよ)くすべし。・・・。”

(『養生訓』貝原益軒 石川謙校訂 岩波文庫)

 今年の九州北部の、6月11日ごろの梅雨入りというのは、例年よりは遅いそうだが、それでも5月からの好天の多い日がそのまま続いていて、いつもの年ならば梅雨の時期と重なり、なかなかいい条件の下でのミヤマキリシマ鑑賞とはいかないのだが、前回にもあげたように、今年は晴天と満開の時期が重なって、多くの人が花を楽しめたのではないのだろうか。
 しかし、その後はあいにく九州は豪雨被害に見舞われ、その後も曇りと雨のうっとうしい日々が続いている。まさに”wet season"と呼ぶにふさわしい日々だった。

 もっとも、いいこともあった。暖かい空気と冷たい空気が押し合いして作られる前線の位置が、南側に少し下がる時が多くて、そのために北の冷たい空気が流れ込んできて、涼しい日が多かったのだ。
 一昨日など、最高気温が24℃までしか上がらず、長そではもとより、靴下をはいたくらいだった。
 確かその前の気象庁の長期予報では、7月からは暑い夏になるとのことだったのだが、その予報が外れて大歓迎だし、九州や本州の夏の暑さに耐えられないから、北の地に行っていたのに、あのヘビ、水枯渇、風呂なし外トイレという四重苦の北海道の家に帰るくらいなら、こうして涼しいのだから、水道があり、トイレと風呂も家の中にあり、さらにクーラー(まだ二三回使っただけだが)もあるこの九州の家にいたほうがましだし、その上にコロナ禍とくれば、ますますここでおとなしくして、昔の思い出にふけっていたほうがいいと思ってしまうのだ。

 こうして北と南に逃げ場を作っていて、ぜいたくだと思われるのかもしれないが、様々な問題はそれぞれの家で起きるし、煩雑(はんざつ)さは2倍になるし、誰か私に代わってギリギリの費用で同じ生活をできるかというと、おそらく誰にもできないというよりは、耐えられないと思う。
 だから今は、私がこの家にいることを、十分に楽しめばいいのだ。

 庭には、いつものクチナシの花が次から次に咲いていて、その甘い香りがいつも漂っている。
 今年のウメの実はわずか20数個だけだったが、スーパーで一袋買い足して、何とか自分で使う一年分の2ビンは作って確保したし、その他にもヤマモモのジャムを1ビン作ったが、いずれもいつもの年なら、台所で大汗かいて作るのだが、今年は涼しさの中で少し汗ばんだくらいで、作業を終えることができた。
 何事も、”コロナ禍”で悪いことばかりではないのだよ、と自分に言い聞かせることにしている。

 前回、他にもいろいろと書きたいことはあったのだが、2回分の山の話を書いてそれだけでいっぱいになり、テレビ番組やオペラや映画や本の話など書けなくなってしまったが、それならその分を今回書き足すというわけにもいかず、つまり書きたいと思った時に書いておかないと、その意欲がそがれてしまうからだ。
 それでも、自分の備忘録ということからすれば、簡単にでも書き残しておく必要があるだろう。

 いつも見る「ブラタモリ」や「日本人のおなまえっ!」や「ポツン一軒家」などは相変わらず再放送や編集ものが多いけれど、半ば忘れていたものもあり、やはり面白く見ることができたし、当時の彼らの言葉を今さらながらに、なるほどと理解できることもあった。
 テレビ・コンサートでは、あのタリススコラーズのヴィクトリアの「レクイエム」は清澄な響きが素晴らしかったし、リヒャルト・シュトラウスのオペラ「影のない女」はまだ少ししか見ていないが、その見事なオーケストラの響きの中で応えあう歌が素晴らしく、どうしてもかつての名ソプラノ、シュヴァルツコップの歌う「四つの最後の歌」を思い出してしまうのだ。

 さらにこれはドキュメンタリー・フィルムからだけれども、あのロック・ポピュラー音楽史上最大の出来事だった「ウッドストック」(1969年)で、次々に登場するスターたちの顔ぶれのものすごさ。ただ最後の”ジミヘン”の超絶ギター・シーンだけはもっと長く見せてほしかったが、さらにそのミュージック・フェスの終了後、広大な農地を演奏会場として貸したその農場主の、若者たちに呼びかけるシーンは感動的だった。
 さらに、もう一つのロック・ポピュラー音楽の事件、アフリカ・エチオピア難民を救うために企画された「we are the world」(1985年)、その録音時に集まったスターたち、あのハリー・べラフォンテからマイケル・ジャクソンに至るまでの歌手たちが、ジャズの巨匠クィンシー・ジョーンズの指揮の下で歌いハモリあっていた、その和気あいあいたる仲間意識。
 今ひとたび、今回は”コロナウィルスと闘うために、こうした有名アーティストたちが再度集まれるチャンスはあるのだろうか。

 そしてこれはテレビで見た映画だが、『フリーソロ』(2018年アメリカ)。この映画のこともクライマーのアレックス・オノルドの名前も知ってはいたが、初めて映像で見て震え上がってしまった。普通岩壁を登るには、ヘルメットをかぶりザイルとカラビナやハーケン、ボルトなどをを駆使して取り付くのだが、彼は今流行りの室内競技であるボルダリングのスタイルで、つまり丸腰のフリーソロで、ヨセミテのハーフドームとともに有名な、同じように巨大な一枚岩のあのエル・キャピタン(2307m、岩壁は900m)に登ってしまったのだ。それまでの記録を大幅に破って。映画というよりは、ドキュメンタリー・フィルムなのだが、このジャンルではベスト1にあげたいくらいであり、後日機会があればこの映画については詳しく書いてみたい。

 そして最後に今読んでいる本の中から、相変わらず『新古今和歌集』上巻(角川ソフィア文庫)は進行中だが、その途中なのにふと読みたくなって『宇治拾遺(うじしゅうい)物語』(角川ソフィア文庫)からの一編を寝る前に読み、さらにはものの考え方を整理するためにと、時々『DEATH 死とは何か』(シェリー・ケーガン 柴田裕之役 交響社、分厚い本だが訳文が読みやすい)を読んでいるのだが、ここまで書いてきただけでも、何と支離滅裂で、分裂症気味な性格だろう、と我ながら思わないわけにはいかないのだ。
 あの有名な画家ゴーギャンの言葉を、一部分だけ”我々”から”私”に変えてみれば・・・。

” 私はどこから来たのか、私は何者なのか、私はどこに行くのか。”


夏なき年とぞ思いぬる

2020-07-08 22:53:33 | Weblog



 7月8日

 まだまだ、雨が降り続いている。
 以下の記事を書き終えたところで、熊本大水害に続いて北部九州の大雨災害が起きて、テレビニュースでも、被災地の惨憺(さんたん)たる被害状況が映し出されていて、とてもそんな状況下で、自分がのんびりと楽しんできた山の記事などを、このタイミングでブログに掲載するわけにもいかず・・・全く今の世は、都会の町ではコロナ禍に戦々恐々として、かといって田舎ではこうした災害が起きやすいし、いつも例えに言うように、アフリカのサバンナで、一頭のヌーがライオンに捕まり食べられているのを、仲間のヌーたちが遠巻きに見ているようなものなのかもしれない・・・同情を込めて見守りつつ、しかし、自分でなくてよかったと思いながら。

 そのニュースの中で、被災者のおかみさんらしい人が、記者のインタビューに涙ながらに答えていたが、”ここまで(コロナ禍休業などを)我慢してがんばってきたのに、この水害でもう・・・”。
 私たちにできること・・・10万円給付金があるのだが。
 そして、いまだに飛行機・バスの減便や運休は続き、新型コロナは勢いを盛り返していて、北海道はさらに遠くなってしまった。

 しかし、今は自分なりに、この地での日常の仕事に戻るしかはないのだろう。
 またしても、前回よりは2週間以上もの間が空いてしまった。(結局はまたも3週間。)
 当初はこのブログを、自分のもう一つの日記として、そこはかとなく起きる日々の身辺雑記について、記録しておこうと思っていたのだが、相次いだ周りの人の不幸によって、無常の世を嘆く思いにとりつかれ、今ではいささか手前勝手な観念論と、テレビ野次馬のひとりごとと、そして山の記述を書くばかりになってしまった。

 それでも、そうした独断と偏見をここに記していくことこそが、私としての生存確認の作業なのかもしれない。
 ただ、私が記事を載せない間にも、毎日数十人もの人々たちがこのブログを訪れてくれていて、こんなじじいの世迷いごとを何とありがたいことかと思いながらも、反面いぶかしくもあり、ともかく昔に比べて、すっかり記事掲載の間隔があいてしまうようになっているのは、読んでくださる皆様には申し訳ないとも思っております。
 しかし、そこはそれ、もはやあの世の世界へと漕ぎ出したこのじいさんのボロ舟にも、こうしてよたよたと白い航跡がついておりまして、それは彼方におぼろげに見える”死の島”へと向かう、あのベックリンの描く船のようでもありますし、またはその水面に残る航跡は、あの『万葉集』の中の有名な一首で、このブログでも度々あげている、沙弥満誓(さみのまんせい)の、”世の中を 何に譬(たと)えむ 朝開き 漕ぎ去(いに)し船の 跡なきごとし”、の情景にも重なるのではありますが。

 それにしても今回、もう一か月も前の山の記録を今さらここにあげるのは、日記の記録としてはいささかはばかられるのだけれども、こうして写真を見直してみても、自分の山の記録としては十分に価値あるものだということには変わりなく、記事として書き残すことにしたのだが、ただ前回も同じようなことを書いていたようで、どうも年寄りは同じ弁解を繰り返すようで、今さら治らぬしみついた悪癖の一つではありますが、お許しくだされ。

 さて、6月初めのその日は予報通りの快晴の空が広がっていて、時期的にまだミヤマキリシマツツジの花の盛りには早かったのだが、満開時期の駐車場や登山道での混雑を考えれば、むしろ山を楽しむにはこのころがちょうどいいのだろうが。
 とは言っても、いつもの牧ノ戸峠(1330m)の駐車場は、8時前にすでにクルマがいっぱいで9割ほど埋まっていたが、何とか停められて一安心。

 勾配のある舗装された遊歩道を、ゆっくりと歩いて行く。
 朝の冷気と見上げる青空、やはり山はいいなと思う瞬間だ。
 何人もの人に抜かれたが、こうして後からくる人たちのために、足の遅い年寄りが脇によって道を譲るのは、もう習慣にさえなっていて、むしろその方が私にとってもいいことなのだ。
 それだけ長く山を周りを見ることができるのだし、やはりゆっくりが基本だから、いくらかは疲れもたまりにくいのではないのだろうか。
 もっとも前回の登山でヒザを痛めていたから、余計に無理は禁物で、今回も痛みを感じたら、その時点で引き返すつもりでいた。
 目的は、この牧ノ戸コースでは最短の扇ヶ鼻(1698m)までであり、とてもその先の久住山や中岳にまで行くつもりはなかった。それも、標高が高いところほど、まだツツジの花は咲いていないはずだからなのだが。

 30分ほどで沓掛山(くつかけやま1503m)前峰に着いたが、薄い霧状の雲が下界を覆っていて、かすかに阿蘇山高岳(1592m)の頭だけが見えていて、反対側の由布岳(1583m)もかすんでいた。
 もちろん、道の途中所々にツツジも咲いてはいたが、まだ半分ほどで、むしろアセビの明るい新緑がもこもこと続いていて、それだけでも十分に見ごたえがあった。(写真上は、帰りの時の縦走路より沓掛山、少しミヤマキリシマも見える。)

 その先のなだらかな高原歩きのような尾根歩きの後、主峰久住山(1787m)方面へのメインルートとは離れて、扇ヶ鼻への登りとなる分岐点に着く。
 ツツジが満開のころであれば、見上げる北斜面が、明るい赤紫のカーペットのようになって広がっているのだが、もちろんまだ早くて、幾つか咲いている株があるくらいだった。
 急勾配の道を登って台地上の広がりに出るが、ここは満開の時には、花々の上に遠く祖母・傾の連山に阿蘇山が見えて実にいい所なのだが、今はさらに薄雲も広がっていて、それらの山々も見えない。
 ただ足元には、イワカガミの小さな花や、背の低いベニドウダンの花がかわいらしく咲いている。
 ゆるやかに道をたどり岩が集まり盛り上がった頂上に着くが、人々が数人いたので、いつものように少し離れた西の肩の所へ行ってみる。
 そこで、南側の景色を見下ろして気がついた。
 ここから熊本県側の瀬の本に下りていく途中の、岩井川岳(いわいごだけ、1522m)岳の南斜面に、ミヤマキリシマの株が点々と咲いていたのだ。

 今までは、この時期に登ったことがなかったから、知らなかった。
 この岩井川岳は、扇ヶ鼻や隣の肥前ヶ城と同じ溶岩台地であり、他の九重の主峰群の粘り気の強い溶岩でできた、いわゆるトロイデ状のこぶ状の山体とは違い、流れやすい溶岩でできた平頂峰であり、目立った個性のある山でもないから、登山者にあまり注目されることもない。
 私はこの山を二度通ったことがあるが、いずれも夏の暑い時期に、久住高原から滝がほとんどない小田川を詰めていく沢登りで、楽に扇ヶ鼻の頂上に出ることができたのだが、いずれも午後のにわか雨に出会い、岩井川岳はただ通り過ぎただけの山だった。

 扇ヶ鼻西の肩からツツジやアセビの灌木帯に入り、やがてリョウブやノリウツギなど低い樹林帯の急斜面を下っていくと、30分余りで明るいクマザサの台地に出た。
 あの”ビフォアーアフター”のナレーション風に言えば、”まあ何と言うことでしょう。そこにはまるで庭園に植えこまれたような低いクマザサの平地に、点々と、あの明るい赤紫色のミヤマキリシマの花の株がならんでいたのです。” (写真、岩井川岳の台地と扇ヶ鼻)



 もちろんそれは、山の台地や斜面全部を埋め尽くす、あの扇ヶ鼻や平治岳の絶景にはとても及ばないけれども、下草のクマザサの中にまばらに咲いている、ツツジの株の配置具合がなんとも絶妙の構図を作っていて、しばらくは立ち尽くして眺めているばかりだった。
 九重に何十年も登っていて、恥ずかしながら、初めて出会う光景だった。
 このクマザサの平原の中には、細い道が幾つかつけられていて、三角点の山名表示を過ぎて、さらにゆるやかに下っていくと、その先にはもう一段下に同じようなミヤマキリシマの群落があって(写真下)、さわやかな風に吹かれて私は、花の中を夢心地でさ迷い歩いたのだ。
 


 1km 四方ぐらいに広がる、私の知らなかったもう一つ九重のミヤマキリシマ群生地だった。
 扇ヶ鼻が花の盛りのころには、ここの花はもう終わっているだろうし、今回もたまたま扇ヶ鼻がまだ二三分咲だったために、ちょうど今が盛りのこの岩井川岳のツツジに出会うことができたのだ。
 それも二人づれと行き交っただけで、あとは誰もいない、静かな明るい高原の風景の中に、私はひとりでいることができたのだ。
 良くないことがあれば良いこともあるし、人生の日常の運不運などあってないようなもので、受け取り手の考え方次第なのだろう。

 さて登り返しはさすがに息が切れて途中で一休みし、戻って来た扇ヶ鼻からは、また人々のにぎやかな声を聞きながら下りて行った。
 幸いにもひざは痛くなかったが、再発しないようにと急な下りではそろりそろりと足をおろして下ってきた、牧ノ戸の駐車場に着いたのは、もう2時半にもなっていて、コースタイムの五割増しの時間がかかっていたが、私はあの岩井川岳のツツジを見ただけで十分に満足していた。ああ、いい山だった。

(蛇足ながら、岩井川岳をどうして”いわいご”と読ませるのだろう。川や河、江などを、”ごう”と読ませる例は全国に幾つもある。私が思いつくだけでも、例えば島根県の江の川(ごうのかわ)や、近江の国の別名は江州(ごうしゅう)だし、何よりも同じ九州というところでは、屋久島にある高層湿原の花ノ江河(はなのえごう)が一番最初に思い出されるところだが、他にも気になるのが上高地(かみこうち)で、もともと神垣内と呼ばれ穂高神社が祀られているのだが、憶測を広げれば神江地(かみごうち)とも書くことができるのではないのかと。しかし、この九重の岩井川岳にはそうした川や湿原はない。それはなぜなのだろうか。
 あのNHKの「日本人のお名前っ!」ではないけれど、日本の地名人名は面白い。前回の番組では、依頼を受けて伊家(いいえ)という名前の由来を調べていくと、それは何と、あの伊賀一族が分かれ棲んでいた所からきているのではないかというのだ。つまり昔の人たちが自分たちの出自を隠し、一方では、誇りある一族の名前を残すために、その地名や姓として残したのではないのかというのだ。伊賀一族の”伊の家”つまり、”いけ”から”いが”として読める名前として・・・前回にもここにあげた、あの出牛(でうし)が隠れキリシタンの”デウス”から来ているのではないかという話とともに、まさに鳥肌ものの一瞬だった。)

 さて余分な話で長くなったが、その数日後、私はまた九重に行ってきた。
 今までに何度も見てきてはいるのだが、九重のミヤマキリシマの中でも一番だと言われている平治岳(ひいじだけ1643m)は、おそらく日本の草木類の山の花の中でも、その単一種が占める広さと色合いの華やかさを含めて、他に比較できるところがないほどの景勝地だと思っている。
 繰り返すが、歳とともに足腰が弱ってきたことを実感しないわけにはいかないから、年寄りの悪あがきで、私が今のうちにもう一度と見ておきたいと思うのは、無理からぬことなのだろうが。

 そして、山の花の話を続ければ、私が今まで見てきた高山植物のお花畑の中では、北アルプスや南アルプスのお花畑は、花の種類も色とりどりできれいなのだが規模が小さいく思えるし、ただその中でも記憶に残るのは、あの黒部五郎岳のコバイケイソウの大群落(2012.8.23の項参照)だが、他には霧ヶ峰、日光さらに見たことはないが佐渡ヶ島、そして東北の山々のそれぞれのニッコウキスゲの群生地(飯豊山2010.7.30の項参照)、さらに大雪山はいたるところがお花畑なのだが、とりわけ裾合(すそあい)平のチングルマの大群は圧倒的である。同じ大雪山の広大な五色が原もはずせないけれども、最近では部分的にササの侵入が目立つようになってしまった。)
 もちろん山で出会う高山植物は、ただ一つだけであっても、長年憧れていたものであれば感動するものだが、例えばその昔、南アルプスは北荒川岳(2698m)近くに咲いていたあの紫色のアツモリソウの花もそのひとつだが、8年程前に再訪した時(2012.8.16の項参照)にはもう見つからなかった。

 さて、その日は九重のミヤマキリシマが最盛のころであり、そして予報は快晴であり、もっとも人気の高い平治岳とくれば、混雑は覚悟の上で、私としては前回よりは少し早めの7時には、男池の駐車場に着いたのだが、さすがにここももう8割ほどのクルマで埋まっていた。
 しかし何といっても、上空には青空が広がっているし、久しぶりにあのミヤマキリシマの流れ落ちるような大きなうねりを見られるのかと思うと、やはり少し心浮き立つ気分になる。
 前回、ツツジを見るために平治岳に登ったのは、もう10年も前のことで、あの頃はまだ元気があって、ついでにと黒岳にも登っているのだ。(2010.6.10の項参照)

 さて、静かな自然林帯から小尾根に取り付いて、ソババッケのくぼ地に降りて、そこからの北大船と平治岳の裾が合わさる沢状の登りの所がきつかった。
 後ろから登ってくる人にはすべて道を譲って、私はのろのろと歩を進めるだけだった。
 ようやく上部で、いつものヒメシャラやリョウブなどの明るい低木林のなだらかな斜面を抜けると、人々の声が聞こえ、何十人もの人が憩う大戸越えの鞍部に出た。

 目の前にそびえる平治岳の花の斜面、その間を登り下る人々が点々と見えている。
 ここからは、もうカメラのシャッターを押しっぱなしというくらいに、花の写真を撮り続けた。
(この日だけで、160枚余りも撮ってしまった。フィルム時代なら36枚撮り一本だけだったのだが、まあ”下手な鉄砲も数打ちゃあたる方式で”撮っているだけで、アマチュア・カメラマンの域にも達しない、ただのカメラ好きじじいに過ぎないのではありますが。)
 この狭い道でも、後ろからくる人に道を開けて立ち止まり、息を切らしてやっと平治岳南峰にたどり着く。何度も見ている光景とはいえ、ここから本峰との間の斜面を埋める花の波が素晴らしい。(写真下)



 あちこちに人の姿が見えるが、もうこの花の景色が見えていればあまり気にもならなくなって、ただ写真を撮りまくった。
 そこから狭い道を人々とすれ違いながら、ゆるやかに下って人々でいっぱいの鞍部に下り、最後の一登りで頂上に着く。民放のテレビ局のスタッフがドローンを飛ばして撮影していた。
 さらに、頂上から西側へとゆるやかに花の間の道を下り、大きな露岩の所でやっと腰を下ろした。
 いつもの大展望が広がっていた。坊がつるの湿原と三俣山(1745m)を背景に入れたツツジの斜面の写真は、おなじみのものだが、どうしても何枚も撮ってしまう。(写真下)



 ここまでくると人も少なくなって、しばらくの間は花の大展望を楽しんだ。
 頂上に戻る途中も、頂上と南峰との鞍部の所に黒岳が見えていて、周りは花に埋まっているいつもの光景(写真下)だが、やはり何枚も撮りたくなってしまう。



 この平治岳、登りも下りも写真を撮りたくなるところが多くて、ゆっくり登り下る私にはかえって都合がいいくらいだ。
 そして大戸越えの鞍部に戻り、あとは樹林帯の下りだが、前々回の鶴見岳でのひざの痛みが怖くて、15分に一度は腰を下ろして、脚を休ませ、男池の駐車場に戻って来たのはもう4時に近くになっていて、朝からの行動時間は何と8時間半にもなっていた。
 コースタイムは5時間ぐらいだから、私の足の遅さがわかるというものだ。ただ確かに疲労困憊(こんぱい)ではあったが、ともかくひざが今回も痛まなかったのがありがたく、何よりも”冥土の土産(めいどのみやげ)”になるべく、ミヤマキリシマを目に焼き付けられたことが一番だった。
 しかし、この10日後にまた山に行ってきたのだが、それは次回に。

 今日(7月4日)のNHKスペシャルで、おなじみのタモリと山中伸弥教授が出演して、有史以前から続く”人体×ウィルス”の免疫の闘いについて話をしていたが、タモリのふとした疑問、”ウィルスは一体人体に何をしたいんですかね、自分たちが増殖すれば人の死で自分たちも死んでしまうのに”。山中伸弥教授の答え、”彼らはただ増えたい増殖したいだけなんですよ、人の死なんて頭にもないんです。”
 
 今回の平治岳登山で、いつも男池登山口から30分ほどで”かくし水”の水場に着くのだが、行きも帰りも必ずその水を飲んで一休みするのが、私の愉(たの)しみの一つでもあるのだが、若いころは足を止めることなく通り過ぎていたのに、今ではひと時の”命の愉しみ”を味わう場所になっている。


  ”松の木陰に立ち寄りて 岩漏(も)る水を掬(むす)ぶ間に 扇の風も忘られて 夏なき年とぞ思いぬる”

(「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」四句神歌より 新間進一・外村南都子校註訳、小学館版「日本の古典」)