7月27日
怠け者になるのは簡単だが、そこから抜け出すのは難しい。
年を重ねるごとに、事を行うにあたっては、すべて”易(やす)きに流れる”ままに、難しいことをやらずにすむようにと、波風を立てずに、ぬるま湯につかるがごとくに生きていける道を選ぶことになる。
そして、これが年寄りの生きる道だと自分に言い聞かせ、かくしてぐうたらな年寄りは、”もうろくじじい”の道を歩き始めるのだ。
”そうです。私が変なじいさんです。”
その笑い顔が、いつしかひきつって悲しみに代わり、やがては恐れおののくようになる。
コロナ禍の今の世界、これほどの事態になっていても、日々発表される数字を見てそう思うだけで、それほど深刻には考えていない人が多いのだろうか、社会は表向き何も変わっていないように見える。
もっとも、それでいいのかもしれない。あのアフリカのサバンナにいるヌーの群れが、大集団になって彼方の草原を目指すように、人々は今ある流れに従って進むことしかできないのだし、途中の激流で多くの仲間を失ったとしても、己の歩みを止めることはできないのだ。
その到達地がどういうところなのか、もう年老いた私には見届けることはできないが、そうまでして長生きしたいとも思わないし、これまで歩いてきた道のりだけでもう十分だとも思っている。いい旅路だったのだから。
これからは、内外への旅ができなくなくなってしまい、例えばあのスイス・アルプスの再訪がかなわなくても、日本のいくつかの山を登り残したままだとしても、それほど残念なことだとは思わない。
極端な言い方をすれば、コロナ禍のために思うような山旅ができなくなったおかげで、それまでに自分が思うままに登ってきた山々の思い出が、よりひときわ光り輝いて見えるからだ。
年寄りには、これから先の予定がないにせよ、今まで貯えてきた思い出の財産を、一つ一つねちねちと、自分だけの愉しみとして味わい尽くすことはできる。
思えば人生の中で、そうした”幸不幸”相半ばする思い出が数多くあることこそが、他人に見せるものではない自分が生きてきた証(あかし)であり、自分だけに分かる宝物なのだ。
あの激動と混乱の幼青壮年の時代こそ、実は、自分の老後の生きるよすがとなる、思い出を残すための大切なひと時だったのだ。学ぶこと習うことの本当の大切さは、その時が過ぎ去って、初めて気づくものだ。
だから、思い出のひとつひとつが、誇らしげな喜びと歓喜に満ちたものであれ、あるいは哀しみと悔恨に打ち沈んだものであれ、それらは等しく私が歩いてきた道に残した、思い出の痕跡(こんせき)なのだ。
自分の人生が、緩急(かんきゅう)や強弱からなる起承転結への推移の結果だと考えていけば、今この穏やかなひと時の中に在ることは、ありがたき天の差配であり、何と巧みに書かれた結末だろうかと思うのだ。
以下の言葉は、このブログでも何度か書いたものだが、同じことばかりを繰り返し言う年寄りの常で、こうした時にはいつも思い出してしまうのだ。
”(人間には)死と同じように避けられないものがある。それは生きることだ。”
(これは映画『ライムライト』(1952年)の中で、失意の若い踊り子を励ますために、チャップリン扮する老喜劇役者カルべロの言った言葉だが、さらに、その踊り子への淡い思いを断ち切って、彼女と若者との恋を祝福することにした彼は言うのだ。)
” 時は偉大な作家だ。いつも完璧な結末を書いてくれる。”
そして、映画のエンド・タイトルで流れていた、哀切極まるテーマ曲が胸を打つ。
さらには、あの映画評論家淀川長治さんの言葉を思い出す。
”若い時に、たくさんいいものを見ておきなさい。”
さて、前置きがすっかり長くなったが、山の話を書いておかなければならない。
それは、もう1か月も前の話しだからタイムリーな記事としての価値はなく、単なる個人的な備忘録(びぼうろく)としての意味合いしかないのだが、この時も、その前の2回のミヤマキリシマ鑑賞登山と同じように、いい山歩きだった。
それはいつもの通りの九重であり、それもあきることなく繰り返す牧ノ戸峠(1330m)からのハイキングコースである。
8時前に牧ノ戸に着いたが、ミヤマキリシマの花は終わっているというのに、駐車場には7割程度のクルマが並んでいた。
何と言っても、青空が広がっているのが嬉しい。
花は、名残りのミヤマキリシマが一つ二つとあるものの、ほとんどがベニドウダンの薄紅や赤い花だけである。
沓掛山の前峰からは、今日ははっきりとカルデラの中に阿蘇山(1592m)が見えている。
尾根通しに沓掛山本峰(1503m)へと向かい、彼方にどっしりと鎮座した三俣山(1745m)を眺めて、いつもの定番の写真を撮る。
ゆるやかな高原状の尾根道をたどり、扇ヶ鼻分岐へと向かう。(写真上、分岐下より星生山とベニドウダン)
私を抜いて行く人、戻ってくる人などが、たまにいるくらいで、グループの声が聞こえなくて静かなのがいい。
コロナ対策のマスク姿の人は、一月前の時には、何人か見かけたのだが、今ではもうほとんど見ることはなかったし、私もつけていなかったが。はたして山では感染しないのだろうか。
分岐にからは、久住山などへ行くメインルートとは離れて左手にそれていき、火口跡の小さな池塘を経て、星生山の急な南尾根に取り付く。
低い樹林帯を抜けると左右の展望が開けて、山腹斜面の登りになり、冬は霧氷がきれいな所であり、所々にハイマツの代わりにミヤマビャクシンが地を這っていて、高山帯らしい気がする。西の肩に着き、最後の一登りで星生山(1762m)頂上に着く。
ここからの、星生崎へと続く稜線の連なりが、九重のミニ・アルプスとでも呼びたい所だ。厳冬期にはアイゼン必携の岩稜帯になり、それだけに展望も素晴らしい。
少し前の、あのミヤマキリシマが盛りのころには、この南斜面が赤紫色に染められて壮観な眺めになるのだが、今はただ一つ二つの花の株が残るだけだった。(写真下、右から久住山、稲星山、天狗ヶ城、中岳)
一休みして展望を楽しみ、岩稜の縦走路をたどって行くが、年寄りのふらつく脚では慎重にならないと。
そこを過ぎると、白ザク(花崗岩ではなく火山性の砕石)の道になり、岩稜帯通しにも行けるが、右に上下するトラバース道をたどり、岩峰がある星生崎(1720m)に着く。
そこから、直接星生崎下のコルに出る道もあるのだが行き過ぎてしまい、遠回りになるが、眼下の避難小屋(工事中)まで下りて、コルまで登り直し、そこで昼休みの大休止をとる。
目の前に大きくそびえ立つ、久住山(1787m)は、九重の山の中ではやはりその迫力ある鋭い山体は際立っていて、九州本土一の高さを中岳(1791m)に譲るとしても、九重の山を代表する名峰であることに変わりはない。
岩塊帯の道をトラバース気味に下り、平たんな西千里浜に出て、名残りのミヤマキリシマを前景にして、久住山と星生崎の岩峰を振り返り眺めながら歩いて行く。(写真下)
後はゆるやかに来た道を戻るだけだが、ひざは痛くならなかったものの、長時間歩行でやはり疲れてしまった。
牧ノ戸の駐車場に着いたのは、2時を過ぎていたから、コースタイムでは3時間半足らずの所を、この年寄りの脚では、休みを多くとったにせよ、6時間半に近い時間がかかっているのだ。
もって”肝に銘ずべし”、無理はしないようにしなければとはいえ、山野を歩き回ることは、私が生きていることそのものでもあるのだから、やめられないのだ。
前にも何度かここにあげたことのある、あの江戸時代の医師であり儒学者でもあった貝原益軒(かいばらえきけん、1630~1714)の『養生訓(ようじょうくん)』の中からの言葉。
”天気和暖(かだん)の日は、園圃(えんぽ)に出、高き所に上がり、心を広く遊ばしめ、鬱滞(うつたい)を開くべし。時々花木を愛し、遊賞(ゆうしょう)せしめて、其の意を快(こころよ)くすべし。・・・。”
(『養生訓』貝原益軒 石川謙校訂 岩波文庫)
今年の九州北部の、6月11日ごろの梅雨入りというのは、例年よりは遅いそうだが、それでも5月からの好天の多い日がそのまま続いていて、いつもの年ならば梅雨の時期と重なり、なかなかいい条件の下でのミヤマキリシマ鑑賞とはいかないのだが、前回にもあげたように、今年は晴天と満開の時期が重なって、多くの人が花を楽しめたのではないのだろうか。
しかし、その後はあいにく九州は豪雨被害に見舞われ、その後も曇りと雨のうっとうしい日々が続いている。まさに”wet season"と呼ぶにふさわしい日々だった。
もっとも、いいこともあった。暖かい空気と冷たい空気が押し合いして作られる前線の位置が、南側に少し下がる時が多くて、そのために北の冷たい空気が流れ込んできて、涼しい日が多かったのだ。
一昨日など、最高気温が24℃までしか上がらず、長そではもとより、靴下をはいたくらいだった。
確かその前の気象庁の長期予報では、7月からは暑い夏になるとのことだったのだが、その予報が外れて大歓迎だし、九州や本州の夏の暑さに耐えられないから、北の地に行っていたのに、あのヘビ、水枯渇、風呂なし外トイレという四重苦の北海道の家に帰るくらいなら、こうして涼しいのだから、水道があり、トイレと風呂も家の中にあり、さらにクーラー(まだ二三回使っただけだが)もあるこの九州の家にいたほうがましだし、その上にコロナ禍とくれば、ますますここでおとなしくして、昔の思い出にふけっていたほうがいいと思ってしまうのだ。
こうして北と南に逃げ場を作っていて、ぜいたくだと思われるのかもしれないが、様々な問題はそれぞれの家で起きるし、煩雑(はんざつ)さは2倍になるし、誰か私に代わってギリギリの費用で同じ生活をできるかというと、おそらく誰にもできないというよりは、耐えられないと思う。
だから今は、私がこの家にいることを、十分に楽しめばいいのだ。
庭には、いつものクチナシの花が次から次に咲いていて、その甘い香りがいつも漂っている。
今年のウメの実はわずか20数個だけだったが、スーパーで一袋買い足して、何とか自分で使う一年分の2ビンは作って確保したし、その他にもヤマモモのジャムを1ビン作ったが、いずれもいつもの年なら、台所で大汗かいて作るのだが、今年は涼しさの中で少し汗ばんだくらいで、作業を終えることができた。
何事も、”コロナ禍”で悪いことばかりではないのだよ、と自分に言い聞かせることにしている。
前回、他にもいろいろと書きたいことはあったのだが、2回分の山の話を書いてそれだけでいっぱいになり、テレビ番組やオペラや映画や本の話など書けなくなってしまったが、それならその分を今回書き足すというわけにもいかず、つまり書きたいと思った時に書いておかないと、その意欲がそがれてしまうからだ。
それでも、自分の備忘録ということからすれば、簡単にでも書き残しておく必要があるだろう。
いつも見る「ブラタモリ」や「日本人のおなまえっ!」や「ポツン一軒家」などは相変わらず再放送や編集ものが多いけれど、半ば忘れていたものもあり、やはり面白く見ることができたし、当時の彼らの言葉を今さらながらに、なるほどと理解できることもあった。
テレビ・コンサートでは、あのタリススコラーズのヴィクトリアの「レクイエム」は清澄な響きが素晴らしかったし、リヒャルト・シュトラウスのオペラ「影のない女」はまだ少ししか見ていないが、その見事なオーケストラの響きの中で応えあう歌が素晴らしく、どうしてもかつての名ソプラノ、シュヴァルツコップの歌う「四つの最後の歌」を思い出してしまうのだ。
さらにこれはドキュメンタリー・フィルムからだけれども、あのロック・ポピュラー音楽史上最大の出来事だった「ウッドストック」(1969年)で、次々に登場するスターたちの顔ぶれのものすごさ。ただ最後の”ジミヘン”の超絶ギター・シーンだけはもっと長く見せてほしかったが、さらにそのミュージック・フェスの終了後、広大な農地を演奏会場として貸したその農場主の、若者たちに呼びかけるシーンは感動的だった。
さらに、もう一つのロック・ポピュラー音楽の事件、アフリカ・エチオピア難民を救うために企画された「we are the world」(1985年)、その録音時に集まったスターたち、あのハリー・べラフォンテからマイケル・ジャクソンに至るまでの歌手たちが、ジャズの巨匠クィンシー・ジョーンズの指揮の下で歌いハモリあっていた、その和気あいあいたる仲間意識。
今ひとたび、今回は”コロナウィルスと闘うために、こうした有名アーティストたちが再度集まれるチャンスはあるのだろうか。
そしてこれはテレビで見た映画だが、『フリーソロ』(2018年アメリカ)。この映画のこともクライマーのアレックス・オノルドの名前も知ってはいたが、初めて映像で見て震え上がってしまった。普通岩壁を登るには、ヘルメットをかぶりザイルとカラビナやハーケン、ボルトなどをを駆使して取り付くのだが、彼は今流行りの室内競技であるボルダリングのスタイルで、つまり丸腰のフリーソロで、ヨセミテのハーフドームとともに有名な、同じように巨大な一枚岩のあのエル・キャピタン(2307m、岩壁は900m)に登ってしまったのだ。それまでの記録を大幅に破って。映画というよりは、ドキュメンタリー・フィルムなのだが、このジャンルではベスト1にあげたいくらいであり、後日機会があればこの映画については詳しく書いてみたい。
そして最後に今読んでいる本の中から、相変わらず『新古今和歌集』上巻(角川ソフィア文庫)は進行中だが、その途中なのにふと読みたくなって『宇治拾遺(うじしゅうい)物語』(角川ソフィア文庫)からの一編を寝る前に読み、さらにはものの考え方を整理するためにと、時々『DEATH 死とは何か』(シェリー・ケーガン 柴田裕之役 交響社、分厚い本だが訳文が読みやすい)を読んでいるのだが、ここまで書いてきただけでも、何と支離滅裂で、分裂症気味な性格だろう、と我ながら思わないわけにはいかないのだ。
あの有名な画家ゴーギャンの言葉を、一部分だけ”我々”から”私”に変えてみれば・・・。
” 私はどこから来たのか、私は何者なのか、私はどこに行くのか。”