ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

オニユリと『戦場にかける橋』

2012-08-26 17:20:58 | Weblog
 

 8月26日

 前回書いたように、北海道では珍しい、お盆過ぎての30度超えの暑い日が4日も続いた後、この4日ほどは、ようやく夏日から抜け出して25度以下の涼しい日に戻った。本来はこのくらいの温度なのに、今年はいつまでも暑かったと思ってしまう。それは、その年その年の自然現象や天候状態にはよく起こりうる誤差でしかないのに。

 その小さな誤差を、私たちは目前の大変化のごとくに、一喜一憂しながら受け取るのだ。去年と比べて、あるいは昔と比べてと・・・。(もっとも長いスパンの年代で比べれば、地球温暖化の傾向があるのだろうが。)
 ところが、私たち以上に、日々の天候の差を感じているだろう植物たちは、その差をものともせずに、1年という大きなくくりの中で、その四季の移ろいを敏感に感じながら生きているのだ。
 もうそろそろ芽を出すころだ。もう花を咲かせるころだ。もう葉を落とすころだと・・・。

 そうして、今年も家の道端にあるオニユリの花が開いたのだ。(写真)
 いつも決まって8月の下旬に、その大きくて鮮やかなな色合いの花を咲かせるオニユリ。私が球根を植えたわけではない。
 いつのころからか芽を出して、年ごとに大きくなり、今では私の背丈をはるかに超えて2m以上もの高さになり、ひとつの株から分かれて伸びた茎は10本もあり、それぞれに10から20ものつぼみをつけているのだ。
 4年前のこのブログの記事(’08.8.19)と比べてみても、年ごとに大きくなっているのが分かる。

 しかし今では、遠くから見れば、まるで大きな飾り提灯(ちょうちん)のようにも見えるこのオニユリのことが、逆に心配になってきた。
 ユリ科の花であり、球根があれば、宿根草のようにいつまでも花を咲かせてくれるのだろうが、しかしいったんその球根が衰え、病にかかってしまえば、消えてなくなるのも早いはずだ。
 たとえば数年前、庭の端の畑の片隅に、増えすぎたチューリップの球根を数十個ほど植え替えておいたのだが、それは一時的に増えた後、今では逆に元の半分ほどになってしまった。
 それは、花が咲いた後の球根を掘り上げて、小屋の中に貯蔵しておき、春に新たに植えなおすという作業をしなくなった、私の怠慢(たいまん)によるものでもあるのだが。
 ただ幸いにも、このオニユリはコオニユリと違って、茎にたくさんのムカゴがついているから、それを採って新たな場所に植えて発芽させ、育て上げていくように考えなければならない。 

 こうした植物や、花々の種の保存、種の継承ということを考えていると、つい我が身を振り返り思うこともある。しかし、それはたとえて言えば、見晴らしがいいだけの小石混じりの岩尾根に、ただひとり根づいた名もなき草のような生き方を、自ら好んで選んだ私なのだから、自業自得の結果でもあるのだ。
 後悔する言葉など、それは言わない約束でしょう、という声が聞こえてくる。

 子供のころ見るのが楽しみだった、あの日曜日の名物バラエティー番組『しゃぼん玉ホリデー』の中でのコントの一場面。
 ヴァイオリンが悲しく響き、貧しいあばら家でハナ肇(はじめ)扮する老いた父親が病床についていて、そこにザ・ピーナッツ扮する双子の娘が食事を運んでくる。

 「お父さん、おかゆができたわよ。」

 父親は不自由な手を揺らせながら、涙ながらに。
 「いつも、すまねーな。俺がこんな体になってしまって・・・。せめて、かあさんが生きていてくれたらなあ。」

 娘二人はやさしく言うのだ。
 「お父さん、それは言わない約束でしょう。」

 そこに、破れ障子(しょうじ)をがらりとあけて、小松政夫扮する悪役親分がやってきて、借金のかたに娘たちを引っ立てて行こうとする。
 そのドタバタの愁嘆場(しゅうたんば)に、何をカン違いしたのか植木等扮する一人の男が入ってきて、まあまあと両者の間に割って入り、その場を丸く収めようとする。
 がしかし、自分ひとりでしゃべりまくっているうちに、自分のカン違いだと気づいて、きょとんとしている人々の前で、頭を下げて言うのだ。

 「お呼びでない?お呼びでない。・・・こりゃまた、失礼しました。」

 その場にいた全員は、ハラヒリホレハレー・・・とか言いながら、皆ずっこけてしまうのだ。それで、終わり。

 今にして思えば、それは前回書いた『北の国から』とは別な意味で、日本人の心を映し出すようなシーンだったのだ。

 私は、このハナ肇率いるボードビリアン、クレージー・キャッツのコント・ギャグが大好きだった。
 今でも忘れられないのは、トイレに駆け込んできた男(植木等)が、ドアをノックして入ろうとするが、一つ二つと使用中で、三つ目四つ目もだめで・・・それを、なかなかの腕前のジャズ・ミュージシャンでもあったメンバーたちが、楽器で表現していくのだ。
 そして体をよじりこらえる、植木等の表情・・・まさに秀逸な自虐(じぎゃく)ネタの一場面だった。
 それは思えば、伝統ある西洋の道化師(どうけし)のパントマイムを思い起こさせるものでもあったのだ。

 しかし、その絶頂のクレージー・キャッツも、ひとり植木等だけが売れっ子となって溝ができ、さらに他のメンバーの離脱などもあって、ちぐはぐな状態になり、やがて、新興の同じボードビリアンの、ザ・ドリフターズの勢いに取って代わられることになったのだ。
 しかし、当時テレビのゴールデン帯の子供向け番組で、絶大な人気を誇ったこのドリフターズのコントに、私はあまりなじめなかった。
 それは一言でいえば、舞台装置の仕掛けで笑いを誘い、さらに悪いのは、ひとりの子をみんなでいじめて笑いを取ろうとするコントが多かったことである。
 さらに言えば、これは他のお笑い番組だったと思うが、『ナオコばあちゃんの縁側日記』とかいうコーナーで、毎回、その年を取って記憶があいまいになったおばあちゃんを、皆で馬鹿にするコント・シーンがあったことだ。

 私は、そのことが今日、深く陰湿に広がっている学校でのいじめ問題の、根底にある要因の一つであるかもしれないなどと言うつもりもないし、また年寄りをねらった振り込め詐欺の基には、年寄りを単なる都合の良い金づるとしか考えていない、若者たちがいるからであり、もちろん、それが単純に昔のお笑い番組による影響だなどとは言えるわけもない。
 そうなったのは家庭や親が悪い、学校が悪い、あるいは犯罪に手を染める若者が悪いというのは簡単だが、それでことが解決するわけでもない。
 ただこうした様々な映像画像文化に影響を受けて、表向きには見えない個人の深い心理の中ではぐくまれていく、現代人の道徳倫理観が、さらに今後ともまた様々に変化していくことだろう。

 私たちの時代は、強きをくじき弱きを助けるものこそが、男らしい英雄だった。そうした映画やテレビ番組を見て、本や雑誌を読んでいた。
 しかし、今の時代そうした態度をとれば、カッコつけてと物笑いのタネになるだけだ。何でもありの価値観多様化の時代、変わったことをする人こそがもてはやされる時代なのだ。
 それでも私は、前にもこのブログで書いた(’11.11.6の項参照)モンゴルの大草原に生きる子供たちの、あるいはブータンの小さな村に住む子供たちの、くったくのない笑顔にひかれるのだ。それはまた、少し前の時代の子供たちの笑顔であり、『北の国から』の純と蛍、『大草原の少女』のみゆきちゃんにもつながるものである。

 もう昔のことを言うのはやめよう、そんなことを考えるのは年寄りだけだ。世の中のむつかしい問題などは、それぞれの専門の方々に任せておけばいいことだ。
 私は、この荒れ果てた石ころだらけの高みの上で、しかし素晴らしい山脈(やまなみ)を見渡せる場所で、静かにひとりで生きていくことができればそれで十分なのだ。
 何を余分なことに悩み、余分な望みにとらわれることがあろうか。石の間に根を下ろし、自分ひとりだけで、雨風に打たれて、水の恵みを受け、また太陽の恵みを受けて、茎や葉を伸ばして生きていければそれだけでいい。
 私のすべてが枯れ果ててしまうその日その時まで、風が吹くのに任せて、呼吸のごとくに繰り返し・・・。

 オニユリの話から、今の自分のおぼつかない思いのままに、すっかり余分なことまで書きつづってしまった。それは、今の私の不安な心の反映なのだろう。つまり、最近、いつも真夜中にトイレに起きて、その前後に長い夢を二度見るようになってきたからだ。
 亡くなった母や、世話になったおじさん、もうずっと会っていない昔の友達、彼女たち、ミャオ・・・それぞれに若いころの顔かたちだが、後姿だったり、少し離れていたり・・・、亡くなった母がその前によく言っていた、毎晩、昔の人の夢を見るようになってと・・・。

 だめだ、夢の中の彼らの呼びかけに答えてはいけない。私には、まだやるべきことがいくつも残されている。そのすべてをとは言わないが、せめて半分くらいはぜひ実行したいと思う。
 誰に見てもらうつもりも、見せるつもりもない。ただ、自分で納得できることをやり遂げられれば、満足してやがてのその時も迎えられるだろう・・・。

 最近のニュースから一つ、イギリスで脳卒中に倒れて体の自由を奪われた人が、覚悟を決めて病院に尊厳死の処置を施すように求めたのだが、法律上のこともあって拒否されて、裁判に訴えたものの退けられて、そこで彼は食事をとることをやめ点滴を受けることも拒否して、死を選んだのだ。
 このことは、前にもふれた(3月31日の項)問題と全く同じであり、人間として生きることがテーマだった。

 病院のベットに縛り付けられて、チューブにつながれて苦痛の中で生きるよりも、人として生きるための死を選んだ、彼の生きるための勇気。
 私には、あのデイヴィッド・リーン監督の名作『戦場にかける橋』(1957年)の、誇りあるテーマ曲が、あの口笛のメロディーが聞こえてくるのだ。

 何という誇りあるイギリス男の生き方だろう。彼は、誰よりも強く生きることを望んだのだ。
 死ではない、誇りある生の道を歩いて行こうとしたのだ。

 あの口笛を吹きながら・・・聞こえてくる・・・ピィユ、ピィピィピィピィッピィッピィー・・・。
 
 

キツリフネソウとヘルマン・ヘッセ

2012-08-21 18:15:36 | Weblog
 

 8月21日

 今、家の周りでは、秋の花が咲き始めている。すべて黄色い色だ。オオハンゴンソウにキヌガサギク、そして夏の間ずっと咲いていたキツリフネソウである(写真)。
 この花は、数年前までは我が家の周りで、ほんの少しだけしか見られない希少種だったのに、この二三年のうちにその繁殖範囲を爆発的に増やして、今や他の花を脅(おびや)かし、小うるさいほどになってきて、幾つかは刈り払うほどになっているのだ。
 この花については前にも詳しく書いているので(’08.8.16の項参照)、ここでは触れないけれども、もともとどちらかと言えば湿り気のある土地を好む植物であり、昔と比べれば、家の前に農地灌漑(かんがい)用の排水路が作られて、むしろ家の周りは大分水はけがよくなって乾燥してきたのに、その大繁殖の原因はわからない。
 
 あの外来種の雑草、セイタカアワダチソウなどは見つけ次第引き抜いているのに、それでも増え続けるばかりだが、一方このキツリフネソウは、在来種の上に、何と言ってもその吊り下げた花の形がかわいらしくて、増え続けるそのままにしているのだ。
 色からいえば、赤い色のツリフネソウのほうが見栄えがするのだが、九州に戻った時に山の周りではよく見かけるのに、北海道のこの家の周りでは見かけないのが少し残念ではある。

 ところで、前回書いた、北海道は涼しいという言葉を早くも撤回しなければならなくなった。
 今日も晴れていて28度もあり、暑いのだが、とくに昨日は、どこか空気が重く蒸している感じで、気温が朝から19度もあった。その前の二日間は、朝の気温が13度14度と長袖でないと外に出るのは、寒いくらいだったのに。
 さらに、昨日は朝からの太陽が照りつける感じで、気温はぐんぐんと上がり、昼頃にはもう32度にもなってしまった。あの7月終わりの数日続いた暑い日と同じくらいの暑さだ。
 北海道の夏は、お盆までと言われていて、小中学校の夏休みも終わり、3学期が始まったばかりなのに。 

 それにしても、その前の日の涼しいうちに、庭の芝刈り作業を終えていてよかった。                         
 前にも書いたように、道路わきの草と、伸びすぎた庭の芝生などの草を、すべて草刈り鎌による手作業で、少しずつ2週間もかかってようやく刈り終えたのだが、それで家庭用の芝刈り器でも刈ることができる長さになって、改めてその芝刈り器で全体を均一に刈り込み終えたところだったのだ。
 もしその時までに刈りそろえていなければ、とてもこの暑さでは外に出る気もしないから、しばらくは庭仕事もできずに草は伸び放題になっていただろう。

 暑いとはいっても、内地の猛暑とは比べられないが、日ごろが涼しいだけに、このむっと来る暑さには、もうそれだけで外に出る気がしなくなってしまう。
 ただ我が家は、断熱効果が良い家だから、窓を閉めて家の中にいれば涼しいのだ、というより肌寒いくらいなのだ。熱気を入れないように締め切った室内の温度は、22度。外と比べて10度も違うから、効きすぎたクーラーの室内にいるようなもので、少し風邪気味になっているくらいだ。

 そこで、一日中部屋の中にいて、ぐうーたらしているのだ。少し前までは、こんな時期には沢登りに出かけていたのに、今はその元気もない。
 しかし、夏にあまり動きたくないのは誰でも同じであり、たとえば、あの昔のドイツの作家ヘルマン・ヘッセでさえ、あれほど庭仕事が好きだったのに、夏の暑い日には私と同じように庭仕事はせずに家の中にいたのだ。(3月4日の項で書いている、京都の山里にいるベニシアさんも、同じことだろう。)

 「二三週間前から私たちを攻め立てる法外な夏の暑さのために、私はめったに外に出ない。いくつかの部屋の中で鎧戸(よろいど)を閉めきって暮らしている。」

 しかし、もちろんのことながら、彼は私と同じように無駄な時を過ごしているわけではない。庭にある大きな(モクレン科の)タイサンボクと盆栽に植えられた小さなイトスギを見ては、思いを馳(は)せるのだ。世の中の楽観主義者と悲観主義者に対して、とくにあの第一次大戦を引き起こした、”いわゆるとても健康な楽観主義”について。

 「この絶妙な対照をなす二本の木は、自然界のすべての事物のように、この対立に無頓着に、それぞれが自分自身と、自分の権利を確信して、それぞれがしっかりと、粘り強く立っている。タイサンボクはみずみずしくふくらみ、その花はむせかえるような香りを送ってくる。そして盆栽の木はその分だけいっそう深く自分自身の中に引きこもっている。」

 (以上、『庭仕事の愉しみ』 ヘルマン・ヘッセ著、ミヒュルス編 岡田朝雄訳 草思社)

 ヘルマン・ヘッセ(1877~1962)は、『郷愁』『車輪の下』などで有名なドイツの小説家であり、モラリストでもあったが、この『庭仕事の愉しみ』は、彼がそれまでに様々な機会に書き綴ってきた、自然に対する思いや庭についての話などのエッセイや詩文集を一つにまとめたものであり、その中には自身の水彩画や写真なども掲載されていて、ヘッセ・ファンならずとも興味深い一冊である。(近年文庫本にもなっている。)
 そのヘッセが、ここではいつの世も変わらぬ、対照的な二つの生き方や考え方があることを認めたうえで、歴史としての人間の過ちを冷静に見つめているのだ。
 併せて、私たちは今日、日本が抱える様々な国内問題や国際問題を考えないわけにはいかないのだが、はたして私などには、何の手立てがあるわけではなく、ただ安穏(あんのん)とその日その日を送っているだけなのだが・・・。

 さて、我が家の庭には、もう見上げるほどに大きく育ったキタコブシの木と、買った時のまま余り成長していない小さなドウダンツツジの木が立っている。キタコブシは春先に花を咲かせ、夏の間は大きな日陰を作るが、秋にかけての落ち葉は掃いても掃いても次から次におびただしい数になって落ちてくる。
 一方のドウダンツツジは、花も咲かないし日陰を作るほどでもないが、秋の終わりにその小さな葉が鮮やかに色づいて、その時になってそこにあったことに気づくのだ。
 そして、今は暑い日差しの中、それぞれに最初に植えられたその場所に、変わらずに立っているのだ。

 私は家の中にいて、ただ本を読んだり、音楽を聴いたり、テレビで録画していた番組をを見たり、全く結構な身分ではある。
 そんな中から、気になったものについて幾つかかあげれば、まずは登山関係の番組だが。

 8月18日 NHK・BS 『グレート・サミッツ 8000m全山登頂 登山家 竹内洋岳』
 彼の最後の8000m峰14座目となる、ヒマラヤ、ダウラギリ峰(8167m)への無酸素・単独登頂のドキュメンタリー番組である。
 私たちはすでに彼がこの5月に、日本人初となる14座登頂果たしたことを、テレビ新聞等のニュースで知っているのだが、その時の様子を映像として見るのは初めてのことである。
 それは同時中継などがなかった昔のオリンピックで、日本選手が勝ったニュースを知ってはいても、初めてその映像を見る時の喜びと似ていて、成功したことは分かっていても、同時進行の映像の中では、はらはらドキドキしてしまうのだ。
 それにしても、空から撮られたダウラギリの、その名の通りの”白い山”の大きさ美しさはどうだろう。まだ測量されていなかったその昔、世界最高峰だとされていたのもうなづける気がする。

 4500mのベース・キャンプから、シェルパなどの力を借りずに、仲間のカメラマンと二人で、第2キャンプ、第3キャンプと前進キャンプを設営しながら、いったんベース・キャンプに戻り、日本にいる気象予報士と密な連絡を取りながら、晴れて風が強くないという条件のアタックの日をねらって、じっと待機し続けるのだ。
 そして、運命の5月26日に向けてのゴーサインが出るが、仲間のカメラマンは体調不良で第3キャンプ前で戻ることになり、彼はひとり第3キャンプのテントに泊まり、翌日、山頂に向かうのだ。
 そして15時間もの単独・無酸素による登行の苦闘の後、夕方5時に山頂にたどり着き、すぐに下山にかかるのだが、夜の闇の中ルートを見失い、途中でビヴァーク(緊急露営)することになる。空気が薄い8000m近い岩稜帯で、それもマイナス40度の寒さの中ひとりで。
 翌朝、薄明るくなってきてルートを見つけ下山してくる彼、途中まで迎えに行く仲間のカメラマン。この山で、あるいは他の山で亡くなった昔の山仲間のために、ひざまづき頭を下げる彼の姿・・・。
 すべてが、誰かによって書かれたストーリーものではない、筋書きのない、優れたドキュメンタリー・ドラマだった。

 さらに奇しくも同じ日に放映されたドキュメンタリーであるが、NHK・BS『体感 グレート・ネイチャー 極寒シベリア 一瞬の夏のスペクタクル』も、私のような地理学ファンにとっては素晴らしい番組だった。
 シベリア中央部を、バイカル湖から4500キロ(日本全土の1.5倍)もの長さで北極海へと注ぐ大河、レナ川。半年もの冬期間の間、凍結している川が、5月になって解氷時期を迎え、川幅一面に張っていた氷が割れて、一気に流れ出し、川岸を削り乗り上げうず高く重なっていくそのすさまじさは、まさに初めて見る驚きの光景だった。

 それは、あの北海道はオホーツク海側の流氷の接岸時を、早送りの画像で見せられているようなものだったし、さらにあの目に見えないゆっくりとした動きの山岳氷河の流れを、早回し映像で見ているようにも思えた。
 なるほど、こうして氷は土や岩を削っていくのかと、まさに”百聞(ひゃくぶん)は一見にしかず”の光景だった。
 そして、川がこれらの氷の破片で埋まって水がせき止められ、あたりに氾濫(はんらん)してしばらくは水浸しになるのに、2週間後には水が引き、青草が伸びてきて、辺りは見事な一面の草原になるのだ。
 自然災害としか思えない、その川の氾濫を心待ちにして、営々と受け継いできた牧畜業に生きる地元の人々・・・。私たちはこの世界を、自然のことをどれだけ知っているといえるだろうか。

 さらにそのレナ川流域に広がる、タイガ(大原生林)の成り立ちが興味深かった。
 年間250mmほどしか雨が降らない、乾燥地帯なのに、なぜ、シベリア・カラマツやダケカンバの森になっているのか。
 それは、その地下にある永久凍土の存在のためであり、地表に近い部分だけが溶けて苔の多い湿地帯になり、木々に水分を与えるのだ。だからその部分が森林火災などで焼失すると、今まで木々によって守られていた日陰の地表部分が、日光にさらされることになり、永久凍土が溶けだしてしまい、沼や草原に変わってしまうのだ。

 (北海道の高山地帯でも、年間を通じて溶けることのない永久凍土が何か所も確認されているが、それとは別に、我が家でもプチ・永久凍土が溶ける現象が見られるのだ。
 春先、それまで積もっていた雪が解けだしていき、地表面が見えるようになってきても、いつまでも水たまりのまま残っている場所がある。水はけが悪いこともあるのだが、水たまりのまま1週間、2週間と続くのだ。
 そこに穴を掘ってみて、初めて分かった。少し掘ると、シャベルの歯がカチンとあたり掘り進めなくなるのだ。つまり地下はまだ凍っていて、水を通さずにその上にたまっているということなのだ。)

 ともかく、こうした地球上の変容ぶりは、最近の地球温暖化でさらに広がっているといわれていて、近年の森林地帯の消失は、このシベリアだけでなく、アマゾンの貴重な熱帯雨林地帯でさえ、人間の手による伐採開発、焼き畑農法などで失われつつあるのだ。
 昨日発表されていた北極海の氷の範囲が小さくなっていることなどと併せて考えれば、間違いなく、自然なる神の領域が徐々に失われていると言えるだろう。
 自分を産み、育(はぐく)んでくれた母なる自然に対する、人間の何という仕打ちだろうか・・・。

 最後に一つ、余り否定的な気持ちで書きたくはないのだが、山好きに評判らしいドラマ、『サマー・レスキュー 天空の診療所』について。
 確かに、いろいろな山岳風景が見られるのはいいけれども(北アルプス各地域、さらに南アルプスなどの風景がごちゃまぜでつなぎあわされていて、製作者が十分に山を知らないようにも思えるが)、ともかくドラマの内容がその雄大な風景に比べて余りにも通俗的で、ありきたりのドラマ設定のままで、さらに都会の舞台と同じような大げさな演技が目についてしまう。
 厳しく言えば、脚本、演出が今一つであるということもいえるが、それ以上に自然を舞台にしたリアルなドラマにするのか、単なる借り物の自然を背景にしたリアルな舞台にするのか、という視点があいまいなままであり、人気俳優を寄せ集めて作った安易なドラマにしか見えないのだ。
 日ごろからテレビのドラマは見ない私だが、これからもドラマを見ることはないだろうという思いを強くした。上にあげた、登場人物の少ないドキュメンタリー『ダウラギリ登頂』の方がどれほど人間ドラマの核心をついていたことか。

 今の日本のテレビ・ドラマは、やはりこんなものなのかと考えずにはいられなかった。
 そんなドラマを放送するくらいならば、むしろ、ゴールデン帯にあの『北の国から』の再放送をやったらどうだろう。
 あの長年にわたって続いてきたたシリーズ・ドラマには、年代の枠を超えて心打つ何かがあったし、30数年たった今でも、あの話は今を生きる若い人たちにも共感できることだろうし、われわれ年代が残すことのできる確かな日本人としての『遺言』になるものなのだが・・・。

 (ちなみに『遺言』はこの『北の国から』ドラマ・シリーズの最後の一編である。)
 

アツモリソウと烏帽子岳

2012-08-16 18:17:57 | Weblog
 

 8月16日

 猛暑続きの内地と比べて、この北海道の何と涼しいことか。今日は雨が降った後の曇り日ということもあって、最高気温がやっと20度を超えるくらいなのだ。
 昨日の朝の外の気温は12度、久しぶりに快晴の空が広がっていた。目の前に連なる日高山脈の、青いスカイラインがなつかしい気さえする。日中の気温も、太陽が照りつけているにもかかわらず、24度くらいまでしか上がらなかった。梢(こずえ)を揺らす風がさわやかに吹き渡っていった。
 小さな秋が、これで一つ二つ三つ・・・と、こうして夏が終わり、秋が近づいてくるのだ。

 あの心に残る南アルプスの山旅から、もう3週間もたってしまったのに、私は、その少しずつ色あせていく記憶を、その時の写真を見ながら思い起こしては、自分だけの絵巻物としてここに書きつづっている。あの時に、あの素晴らしい山々の頂にいたのだという、喜びを繰り返し思いながら・・・。

 前回からの続きは、これで四日目の話になる。南アルプスは広河原から入って、北岳、間ノ岳、塩見岳へと縦走してきた私は、三伏峠の小屋に泊まって、翌朝を迎えた。
 その日の行程は、登山口のバス停まで下りるだけの2時間ほどだから、時間は十分にある。まず、この二日食べていなかった、小屋での朝食をちゃんと食べることにした。
 早立ちしなければ、こうして温かいご飯に味噌汁をおいしくいただくことができるのだ。それぞれ、二杯ずつお代わりをして、がっつりと食べた。
 さらに、昨日の長丁場で心配していた脚の調子も、幾らかの筋肉痛はあるものの悪くはない。これなら、一登りして、南アルプスの山々をもう一度見ることができるだろう。幸いにも、今日も朝から晴れているし。

 日の出前に起きて、ご来光を見に行くという手もあったが、昨日、目的の塩見岳を心ゆくまで眺められたという満足感があって、もうそうしてまでもという、貪欲(どんよく)さはなくなっていたのだ。それでも時間がある限りは、歩きたい。

 競馬のために育てられた競走馬は、本能的に走るために生きているのであって、たとえ年を取ってレースから引退したとしても、落ち着き先の牧場で、変わることなく走り回っているはずだ。
 それは、海の魚のマグロたちも同じだ。彼らは、泳ぎ続けるべく作られた体で、一生休むことなく世界の海を周遊して回っている。そして、自分が泳げなくなった時が、彼らの終わりの時なのだ。その日までは、ただひたすらに泳ぐだけだ。
 私には、彼らと同じように、一生山を歩き回るべく定められた脚があるというわけではない。ただ、歩き着く先の何かを期待して、山に向かい歩きたくなるのだ。

 私は部屋の布団を片付けて、小屋を出た。峠から東に、さらに続く南アルプス主稜線の縦走路へと歩いて行く。
 十数年前、私はこの縦走路をたどって、次の烏帽子岳(2726m)から小河内岳(2801m)、そして荒川三山(3141m他)から赤石岳(3120m)、さらに兎岳(2818m)を経て聖岳(ひじりだけ、3013m)に登り、伊那谷側の易老渡(いろうと)へと下りたのだった。
 その三日間は素晴らしい晴天続きであり、念願の荒川三山、赤石、聖の巨峰群をそれぞれに目の前に眺めることができて、山登りの感激に浸ったものだった。
 その中でも、荒川三山側から、そして反対側の聖岳から眺めた赤石岳、そこに鎮座する巨大な山の姿こそ、まさに赤石山脈の盟主(めいしゅ)たるにふさわしかった。

 そんな青空の下での完璧な思い出があるから、何もまた鳥帽子岳からの眺めを繰り返すこともなかったのだが、初日での脚の痛みもいつしか忘れて、むしろ日ごとに快調になっていく自分の脚力に自信を持って、私は競馬の馬のごとくに、あるいはマグロのごとくに、その苦しさ以上に歩く楽しさを覚えて、こうして次の山を目指すことにしたのだ。

 峠から樹林帯の中を下って行くと、すぐに明るく開けた所に出た。逆光のシルエットになって塩見岳が見えている。
 周りに広がるのは、有名な三伏峠のお花畑である。ただし、まだ夜が明けたばかりで、山影の中にあり、多くの花々は花びらを閉じていた。それよりも驚いたのは、両側に続く背たけほどもある金網である。
 こんな所までもと思わずにはいられなかったが、それほどまでに害獣による植物類への食害が広がっているということだろう。
 こうした高山植物を食い荒らすのは、北海道でも問題になっているシカだけではなく、この南北アルプスなどでは、頂上付近にまで上がってくるサルの群れがいるのだ。
 昨日も塩見岳の頂上付近で、崖に咲く草花を食べている数匹のサルを見たし、北アルプスでは、行くたびにいつも一度はサルの群れに出会うほどである。

 それは、登山者が登山道を離れて草花の中に足を踏み入れた程度ではすまないほどの、深刻な事態を引き起こしているのだ。何しろ、せっかく花を咲かせた貴重な高山植物をむしり取ってしまうのだから。
 こうしたサルやシカの食害を防ぐ手立てはあるのだろうか。前にも書いたように、北海道の我が家の近くでも、シカやヒグマの食害に悩む農家の対策として、電気牧柵などが導入されている。
 同じように、このなだらかな山裾にある三伏峠のお花畑なら、こうして金網で囲ってサルやシカの侵入を防ぐこともできるだろうが、険しい山頂や稜線付近では、それもできない。
 あの塩見岳の東側の肩では、植生保持のためにネットで一面が覆いかぶされていたし、さらに北岳山荘付近でも道の両側に低いネットが張られていた。

 登山者が増えすぎたことによる、いわゆるオーバーユースの問題で、登山道付近のそれ以上の土壌流失を防ぎ、併せて周囲の植生回復のためにと、地面にネットが敷かれている例は、北アルプスの太郎兵衛平や丹沢の塔ノ岳や鳥取の大山などでの取り組みがよく知られている。 
 しかし、そうした工事によってすべての所が回復しているわけでもない。その間にも地球温暖化などと相まって、日本各地の山々で、こうした高山植物の植生地が荒らされ、いつしか裸地になり、やがては土壌流失して崩壊斜面になっていくのだ。
 私はそうした問題について詳しいわけでもないから、サルやシカが悪い、登山者が悪い、さらにはこんな地球環境にした人間自体が悪いなどと、単純に決めつけることもできずに、それを防ぐ方法も考えつかないから、ただの傍観者として哀しい思いで眺めているだけなのだが・・・。

 実は今回の、南アルプス縦走の山旅の中で、もちろん塩見岳を見るということが第一の目的であったのだが、他にも心ひそかに抱いている思いがあったのだ。それはもう一度、あのアツモリソウに出会いたいということであった。
 前にも書いたように、私は十数年前に同じコースを歩いたことがあり、その時は、吹きつける雲やガスの中で、殆んど山々の眺めを得ることができなかった。しかしその中で、山々の眺めにも劣らぬものを見つけて、飛び上がらんばかりに喜んだのだ。
 その時の思い出は、晴れ渡った日の山の頂上と同じくらいに、鮮やかな思い出となって、今も私の心に残っている。

 辺りが何も見えないガスの中、私は休もうと思って、登山道から離れた草むらのそばの石の上に腰を下ろした。そして辺りを見回した時に、ぼーっと霧でかすんだ緑の草ぐさの中に、何か場違いな鮮やかな色合いの一群を見たのだ。
 それは、数株にまとまった、アツモリソウ(ホテイアツモリソウ)の花だった。(写真)

 

 私は、それまでに、礼文島でレブンアツモリソウの薄黄色の花は見たことがあったが、その希少価値はともかく、それ以上に鮮やかな赤紫色の花を咲かせる、野生種のアツモリソウを見たのは初めてだった。それも、事前の期待もなく、偶然にも腰を下ろしたこんな所で・・・。
 思えばそれは、それまで誰に会うこともなく霧の山道をひとり黙々と歩き続けてきた私への、自然なる神の小さな思し召しの一つだったのかもしれない。
 あの鮮烈な出会いの時を思うと、私の胸は高まり、切ないほどの思いが込み上げてくるのだ。

 このアツモリソウとの出会いとは関係ないのだが、こうした時に思うのはあのデイヴィッド・リーン監督の1945年の名作『逢びき』の画面の背後に流れていた名曲、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の、有名な旋律である。
 互いの気持ちを抑えつつも燃え上っていく思い・・・。それは、私の若き日の幾つかの恋の始まりの時を思い起こさせた。しかし、その時の私は、霧がつつむ山の中にただひとり、花を見つめていただけなのだが・・・。

 そして今回、私は晴れた山道をたどりながら、まるで昔の恋人に会うかのように胸の高まりを覚えつつ、いそいそとその場所に近づいて行ったのだ。
 果たしてその場所には・・・しかし、そこにはただ一面に緑の草が茂っているだけだった。
 時間をかけて辺りを探したいとも思ったが、今日は時間に追われての長丁場の行程なのだ。私は、いさぎよくあきらめた。初恋の思い出が鮮烈であるほど、それはただ良き思い出として、私の胸の中にひそかにしまっておけばいいことなのだと・・・。
 塩見岳の素晴らしい姿を見て、さらに色鮮やかなアツモリソウにまた出会うなんて、余りにも虫が良すぎる。物事はいつも、幸運不運、五分五分なのだ。

 そして後日、山旅から戻って調べてみたところ、やはり動物たちの食害によって今は全滅状態とのことだったが、ただ気になるのはあのラン科の花や葉や球根を、彼らが食べるのだろうかと・・・。

 さて、三伏峠のお花畑の保護の問題から、いろいろと考えてしまった。先を急ごう。
 お花畑の上の展望台から、尾根道をたどりダケカンバの林の中に入る。上から降りてくる人たちがいた。恐らくご来光を見に頂上まで行ってきたのだろう。さらに上の所では、テント装備らしい大きなザックの人が道の傍で休んでいた。
 小さなコブに登ると、前方になだらかな山頂部とその手前の、おそらく山名の由来になっただろう烏帽子(えぼし)の形をした岩峰が見えていた。
 朝の涼しい空気の中での登りは、心地よくさえあった。その岩峰の崖状部分を左に巻いて、ハイマツの尾根に出ると展望が開けて、もうすぐそこが烏帽子岳の山頂だった。小屋からは45分ほどだった。誰もいなかった。
 あのブルックナーの『ロマンティック』の冒頭の、ホルンの音がまたもかすかに聞こえてきた。

 十数年前に、南の聖岳までの縦走を続けた時にも、同じ三伏峠の小屋に泊まり朝一番でこの烏帽子岳に登ったのだ。その時も、今日と同じように見事に晴れ渡っていた。そして同じように誰もいなかった。その時の思い出が、今日のことのように重なっている。
 北側正面には大きなシルエットになって、塩見岳があり、その左手に重なるように農鳥岳、そして間ノ岳、北岳と続き、甲斐駒と仙丈も見えている(写真上)。さらに遠くに北アルプスが続き、西側には中央アルプスの峰々が並んでいる。

 一転して南を見れば、逆光のシルエットとなって富士山が大きく、そしてこの尾根が続く先に小河内岳があり、その上に荒川三山が並び、わずかに赤石と聖が顔をのぞかせている。(写真下)

 

 前に見た時と全く同じ光景だとはいえ、さわやかな朝の空気の中、こうして山々の姿を眺めているのは気持ちがいいものだ。
 やがて登ってきたテント装備の同年輩の人と、少し話をして、彼は荒川岳まで行くのだと言っていたが、頂上を後にした。しかし、この晴れ渡った空に名残り惜しい気もして、途中で何度も立ち止まり、あたりの山々を見回しながら下りて行った。

 三伏峠のお花畑に戻ってくると、日の当たる斜面のシナノキンバイなどの花々が開いていてきれいだった。あのテント場にテントを張っていたらしい、男女の中学生たち、数十人が登ってきた。
 にぎやかな笑い声の彼らが通り過ぎるのを待って、峠までゆるやかに登り返し、そして小屋の前からは、鳥倉登山口に向かって下りて行くだけだった。

 小屋から塩見岳に向かう登山者たちも、あるいは私と同じように鳥倉に下りる人たちも、もうとっくに出発しており、森林帯の急な斜面にジグザグに作られた道では、時々登ってくる人たちにも出会ったが、静かだった。
 所々で、シラビソやダケカンバの樹林帯の木々が切れて、塩見岳や仙丈ヶ岳の姿が見えた。
 その展望地点を過ぎると、後はひたすら樹林帯の中の道を下って行くだけだった。途中で、冷たい水が出ている水場があった。所々で休んでいる人たちもいた。道はおおむね日陰になっていて、暑くはなかったのだが、それでも汗は流れるし、下るにつれて蒸し暑い空気も漂っていた。
 そして鳥倉林道登山口の広場に着いた。許可車両が数台停まっていて、その車の陰で、なるべく人様に見えないように、すっぽんぽんの姿になり、ぬれタオルで体中の汗を拭きとり、さっぱりした体で、ポロシャツとズボンに着かえた。

 やがて、日に2往復だけの、小型のバスがエンジン音を響かせて上がってきた。これから登ろうとする人々が十人余り下りた後、今度は下山する私たち数人が乗り込んだ。
 南アルプスの深い谷の山腹につけられた道を、バスはゆっくりと下りて行った。林道ゲートの駐車場とその先にまで、40台余りものクルマが停まっていた。それは最初の日の、夜叉神(やしゃじん)峠ゲート前と同じ光景だった。
 バスなどの交通の便があまりない、北海道の山はともかくとして、内地の山々でも、やはり今は自分の都合を考えて、クルマで行くのが主流になっているのだ。

 終点の高速道インターまで行くバスを、ひとつ前の伊那大島の駅で降りた。周りに店一つなかった。気温は33度くらいあり、すぐに汗が噴き出してきた。
 その駅舎で1時間近く待って、飯田線の電車に乗り、岡谷で乗り換えて出発点の甲府に戻り、そこで泊まって、翌日東京に出て飛行機に乗って北海道に戻った。

 降り立った帯広空港の温度は、33度だった。あの伊那大島での気温と同じだ。しかし、クルマを走らせる窓から入ってくる風は、内地のべとついた空気ではなく、暑いけれどもどこか違うさわやかな北の空気が感じられた。
 黄金色に色づいた小麦畑と、緑色の豆やビート畑、そして薄緑の穂が揺れるトウモロコシ畑が、彼方にまで広がっていた。私はやっと、この北海道に帰ってきたのだ。
 南アルプスの山旅の思い出を、後ろのトランクに入れてあるザックの中いっぱいに詰めて・・・。


 (以上4回にも分けて、この夏の南アルプスの山の思い出を書きつづってきたが、こうして思い出しながら書いていくことによって、あの時の喜びが再びよみがえり、それはより強い印象となって、私の記憶に残ることだろう。
 今年は、私にとって、オリンピックの年というよりも、南アルプスの年だったというべきなのかもしれない。
 ありがとう南アルプスの山々、ありがとうかあさん、ありがとうミャオ。)

イブキジャコウソウと塩見岳

2012-08-10 21:56:35 | Weblog
 

 8月10日

 あの7月下旬に、数日ほど暑い夏の日があったけれど、それからもう10日以上も、毎日、曇り空で時々雨という肌寒い日々が続いている。2日前の朝、さらに空気が冷たく感じられ、北風が林の木々を揺らし、シジュウカラ類の混成群が鳴きながら木々を渡り歩いていた。それは、小さな秋の気配だった。

 その日は、昼前までのほんの二三時間、久しぶりに青空が広がっていた。午後になって、さらに残りの草刈りに取り掛かり始めたところ、すぐに雨が降り出してきて、それ以上作業を続けることはできなかった。
 7月の初めに、私がここを離れて九州に行く前に刈っていた芝生の草は、そのままでもう一月もたっていて、ほかの雑草とともに緑の波のうねりのようになってしまっていた。
 若いころなら、そんな目の前の乱雑な眺めに耐えられずに、アブや蚊に刺されようと雨が降ろうとも、ただがむしゃらに仕事を続けて、片づけてしまったものだが・・・。今やすっかり年を取ってしまった私は、すべてに物憂(ものう)く、ぐうたらな生き物に成り下がってしまったのだ。
 なるほど、こうして緊張感を持たずにひとりで生きていくということは、つまり年寄りになっていくということは、ただ目の前の怠惰(たいだ)の海におぼれゆくままに、来るべき死のその日に向かっての、疑似体験をしようとしているのかもしれない。

 眠たい・・・。うとうととした彼方から、母の顔とミャオの鳴き声が聞こえてきた。手招きをして・・・。
 そこに、湧き上がる歓声が聞こえてきた・・・。私はソファの上で目を覚まし、目の前のテレビ画面を見つめた。女子サッカーの準決勝の二試合、日本対フランス、アメリカ対カナダ、そして女子バレー日本対中国の、いずれも死闘と呼ぶにふさわしい試合・・・。
 なぜにそうしてまで闘うのか。彼女たちの体の中に湧き上がるすさまじい生へのエネルギーの前に、言葉はいらないのだ。ただ、今を生きるだけ・・・。(それぞれ次の試合に負けたことは、結果でしかない。)

 それに引き換えて何と情けないことか、この自分の体(てい)たらくは・・・。もっとも、人は自分に足りないものがあるからこそ、対極にある輝かしき実例にひかれるのだ・・・自分にも何かができるかもしれないと・・・。

 未明の暗闇の中、私は誰かが動き回る音で目を覚ました。山小屋ではなかなか眠れない私だが、さすがに昨日からの睡眠不足で、数時間は眠り込んでいたらしい。

 前回からの続きだが、私はこの夏、南アルプス北部縦走を計画して、広河原から大樺沢雪渓を経由して北岳山荘に泊まり、次の日に北岳、間ノ岳と縦走し、水平道を経て熊ノ平小屋に泊まったのだ。
 そして今日、同じように塩見岳から三伏峠(さんぷくとうげ)まで行く人が、私を含めて数人いた。コースタイムは10時間20分、初日に脚を痛めた私にはそう簡単な距離ではない。ともかく、早立ちすることだ。同じ思いの人が二三人、入口の戸を開けて、まだ真っ暗な外に出て行った。

 私も、朝起きたらすぐに出かけられるように用意をしていた。すぐに布団を抜け出し、外に出た。暗い道の先に、ヘッドライトの明かりが一つ、そして離れてもう一つ。
 私も頭にライトを取り付けて歩きだした。しかし今日は長丁場だ。まず出だしこそあわてずにゆっくりと登って行かなければ、と自分に言い聞かせた。
 ただありがたいことに、樹林帯の尾根の左側につけられている道は、ゆるやかな水平道に近く、暗い木々の間のさらに先の方には、次第に遠のいていくヘッドライトの明かりが見えていた。
 しかし、何も彼らのペースに合わせて急ぐことはない。目的は、穏やかな気持ちで、塩見岳を眺めることにあるのだから。

 次第に薄明るくなってきた空の中に、黒々としたシルエットの間ノ岳と西農鳥岳が見えていた。やがて、そのシルエットの背後に赤みがさして、次第に鮮やかな朝焼けの空になってきた。ただ残念なことには、いまだに樹林帯の中にいて、写真を撮るチャンスがなかったことである。
 昨日も、山影になっていて直接日の出を見ることはできなかったし、まあ、朝焼けや夕焼けなどは、自分の家にいていつも見ていることだからと、自分を慰めた。
 しかし、その先でようやく少し開けた斜面に出たが、もうその時には、すっかり赤みが取れた空にシルエットの山の姿が見えるだけだった。

 やがて木々の梢(こずえ)が低くなり、ひと登りすると岩稜(がんりょう)の尾根に出た。はるかに続く尾根の彼方に、目指す塩見岳が見えていた。振り返ると、間ノ岳から西農鳥岳、農鳥岳へと続く巨大なシルエットがあり、その左手には、中央アルプスから乗鞍岳、さらには北アルプスの山なみさえもくっきりと見えていた。
 声をあげたい気分だった。上空には少し雲があるものの、見事に晴れている。青空、これこそが私の眺める山々の背景にあるべきものなのだから。

 その展望の良い岩稜の尾根が終わると、再び樹林帯に入るが、すぐにダケカンバの疎林(そりん)や小さな草原がある明るい道になって、その先には塩見岳の姿が見えている。
 そして、ゆるやかな登りが続いて木々の梢が低くなっていき、突然あたりの視界が取り払われたように開けて、眼前に急峻な谷を刻みつけた山稜がそびえ立っていた。

 今まで、その手前の部分をさえぎっていた尾根の連なりが左側に寄っていき、眼下には、恐るべき崩壊地となって崩れ落ちる三峰川右股南荒川の沢を隔てて、1000m余りもの標高差でそそり立つ塩見岳(3052m)の姿・・・私は、背中のザックを下ろすのも忘れてその姿に見入っていた。
 十数年前に同じ道を縦走した時には、吹きつけるガスの中で何も見えなかったあの北荒川岳(2698m)の山頂に、今、私は立っているのだ。

 私の頭の中では、大編成のオーケストラの音が鳴り響いていた。前回書いた、あのブルックナーの交響曲、それもたとえて言うならば、最も有名な第4番変ホ長調の交響曲「ロマンティック」の冒頭の音だ。
 その少し前から、道を登りながら、私の期待する展望への思いは、小さなトレモロ(弦楽器による連続する小刻みな音)からはじまり、ホルンの音の高まりに続いて、この頂上に着いて、一気にオーケストラのユニゾン、つまり同じ音階の音ですべての楽器が鳴り響く、瞬時のクライマックスへと駆け上がっていったのだ。

 私は、ようやく我に帰り、写真を撮ってから、初めて背中のザックを外して岩の上に腰を下ろした。
 昨日今日と、早立ちしたので山小屋での朝食は食べずに、今日も折詰(おりづめ)弁当にしてもらっていて、そこで初めて朝食を食べた。(ちなみに、山小屋の食事も弁当も、昔から比べれば比較にならないほどおいしくなっている。)
 先に行った二人とはもうずいぶん離れているのだろうし、小屋での朝食を食べて後から出発した人とは、まだ大分差があるはずだ。ここには、誰も来なかった。
 そよ風が吹くだけの北荒川岳の山頂に、私はただひとり、十数年越しの夢であった塩見岳と対面していて幸せだった。

 ここは山頂とはいっても、吹きさらしの風衝(ふうしょう)地の砂礫地の尾根が続いているだけの、小さな高みだったが、目の前の荒々しく谷を削り込んだ塩見岳の姿とは、まさに対照的な、一対の光景になっていた。

 再び立ち上がり、そのなだらかな尾根をたどって行くと、その平坦な砂礫地の二三カ所に、そこだけが盛り上がって、赤紫色のイブキジャコウソウが群がり咲いていた。
 このシソ科の小さな花は別に取り立てて珍しい花ではなく、南北アルプスでもよく見かける花なのだが、こうして単独に群れ広がり咲いている姿は、余り見たことがない。
 荒々しい山の姿を背景にした、イブキジャコウソウの花のある風景は、あのトラバース道からのシナノキンバイの花を前景にした間ノ岳の姿とともに(前回参照)、いつまでも私の心に残ることだろう。(写真上)

 この光景を先ほどのブルックナーの交響曲の中にたとえて言うならば、良く知られているブルックナー・パウゼ(オーケストラの総休止符)の沈黙の後の、小さな音の流れに似ている。
 雄々しい山の姿を見て、あれほど高らかに鳴り渡ったユニゾンの音が急に鳴りやんで、一瞬の静寂の後、小さな音がちりばめられるパートへと移り変わっていくところ、つまりそれは、傍(かたわ)らに咲く野の草花へと向かう、視点の変化のようにも思えるのだ。

 さて、再び尾根の左側斜面のダケカンバの林の中に入り、草原の間を抜けてさらに登ると、ハイマツの尾根に出て、振り返る後ろには、右手に離れて富士山のシルエット姿があり、日が当たり始めた間ノ岳や農鳥岳の左には甲斐駒ヶ岳、仙丈ヶ岳と見え、さらにその左には長々と山なみを伸ばして北アルプスが連なり、残雪を豊かにつけた穂高・槍の姿もはっきりと分かるほどだった。
 今日こうして、日本アルプスなどの山々に登った人々は誰でも、青空の下の大展望に歓声をあげていることだろう。

 すさまじいばかりの塩見岳北壁の崩壊面を間近に見ながら、ついに北俣岳分岐の尾根への急なザレ場の登りが始まる。日差しが強くなってきたが、一歩ごとに高度が上がり風が吹き上げてきて、振り返る後ろの展望はさらに開けてくる。
 上から降りてくる人がいた。今日初めて出会う人だ。朝、三伏峠の小屋を出たとのことで、私とは逆コースのお互いの中間点になる。もちろん若い彼のほうが私よりは早いけれども。

 その上で分岐点の尾根上にたどり着いた。そこから南側の景色が開けてきて、蝙蝠岳(こうもりだけ)から笊ヶ岳(ざるがたけ)、そして荒川三山の姿も見えてくるが、何より眼前に大きく盛り上がり立ちはだかる、塩見岳頂上部の姿が素晴らしかった。(写真)

 

 この塩見岳を、今日私は縦走路の途中から次第に近づいてくる姿として眺め、今また眼前に悠然たる姿でそびえ立つ頂上部を見て、これはまさに名山と呼ぶにふさわしい山であると確信した。
 それもこの南アルプスでも、北部の北岳や甲斐駒ヶ岳、そして南部の赤石岳や聖岳にも劣らぬ私の名山として、記憶し続けるだろう。

 私は自分なりに、名山と呼ぶにふさわしい山に対する評価基準を持っている。それは深田久弥氏の言う『百名山』の規格とは少し異なっている。
 私は、彼の山の著作物にはほとんど目を通しているほどの愛読者だし、あの偽作と言われる『津軽の野づら』の本さえも持っているくらいなのだが、こと山の評価基準といった点になると、殆んどの所では共感できるものの、歴史のある山や人々とのかかわりのある山が名山だと言われると、何か釈然(しゃくぜん)としない思いになるのだ。
 もちろんそれは、古い文献をひも解き学術的に調べ上げた深田氏のほうが正しいのに決まっているのだが、これはあくまでも個人的な思いとしての私の見解なのだ。

 つまり、私の山の価値基準は、四季の装いに彩られた姿を含めた山の外見にあり、つまり自然としての山の形がすべてであると思っているのだ。もちろんその他に、植生の状況や自然景観等などの特筆すべき点があるとしても、それらは付帯条件でしかない。
 単純に言えば、かっこいい山が好きということであり、それはK・ポップのイケメン・スターに騒ぐ若いおねえちゃんたちの思いと大差はないのだ。我ながら、何というミーハー感覚だろうか。
 さらにひらきなおって言えば、自然の造形物である山なのだから、歴史上の記録や古来からの人々との関わり合いなどを、山の価値として考えたくはないのだ。
 たとえば、歴史上の名山として万葉集などにもその名前が出てくる筑波山や、そして庶民に親しまれてきた赤城山など、さらに頂上まで車道が通じていたり、電波中継等などの人工構造物がある山、例えば伊吹山や荒島岳、極端に言えば、あの巨大なレーダー棟があった昔の富士山でさえ、私は登りたいとは思わなかったのだ。
 
 (そこでそれらの山の代わりに、私の百名山の一つとしてぜひ入れたいのは、我が日高山脈の中から、少なくともカムイエクウチカウシ山と十勝幌尻岳の2座、できるなら他にも、エサオマントッタベツ岳、1839峰、ペテガリ岳、楽古岳などもいれたいほどである。日高山脈は南北アルプスと同じくらいの広大な山域があるからだ。そしてこの北海道で他に絶対にはずせないのは、あの東大雪のニペソツ山である。しかしこれらの山が、深田”百名山”からもれたことは、幸せなことだったのだ。静寂のままの姿でいられて・・・。)

 中学時代から始まった、私の長い登山歴の中で、私は名山に登りたいとは思ったけれども、『百名山』のすべてに登りたいとは今でも思っていない。
 そんな、名山とは思えない山に登るくらいなら、こうして一度登ってはいても展望のきかなかった山に晴れた日に再び登ることの方が、私にとってははるかに大切なことなのだ。
 繰り返すけれども、これは私だけの名山歩きであり、人それぞれ思うところの名山があってしかるべきなのだ。

 すっかり余分な話まで書いてしまったが、さて私は最後の登りに息を切らして、やっとの思いで塩見岳東峰(3052m)の頂上に着いた。
 ほんの200mほど先には、三角点のある西峰(3047m)の高みが見えている。この位置関係には、十数年前に登った時に、一部ガスが切れて見た覚えがあるのだ。
 頂上には、先ほどまで人の姿が見えていたのに、今はありがたいことに誰もいなかった。岩の上に腰を下ろして、周囲の山々を眺め回した。
 たどってきた北岳(3192m)と間ノ岳(3189m)に、他の南アルプス北部の山々、西農鳥と農鳥岳(3026m)、甲斐駒ヶ岳(2967m)に仙丈ヶ岳(3033m)(以上の写真下)があり、そして左手にはこの南アルプスと並行して走る中央アルプスの山なみが続いている。その上に頭を出す木曽御嶽(おんたけ)。北に離れて、北アルプスの連なり・・・。

  

 一転して南に目を向ければ、富士山に南アルプス南部の山々、蝙蝠岳(2865m)に笊ヶ岳(2629m)、悪沢岳(3141m)と荒川岳(3083m)、その上に顔をのぞかせる赤石岳(3120m)と聖岳(3013m)(写真下)。私の長年の思いは、ここにかなえられたのだ。

 

 
 時間は9時を過ぎたところで、予想以上に早く着いたのだ。これなら三伏峠まで、早いうちに着けるだろう。
 しばらくして西峰に向かい、そこでもゆっくりと山々を眺めてから、あわせて40分余りもいた頂上を後にした。
 三峰川の谷間から吹き上げてくる涼しい風が心地よい。尾根道を下りて行くと、またしてもライチョウの親子がいた。分布範囲から見れば、北アルプスと変わらないくらいの個体数がいるのではないだろうか。

 さて、危険なガレ場の下りに差しかかるところで、それぞれ10人ほどのツアー・パーティーが二組登ってきた。
 それをやり過ごして、慎重に岩場を下りて行くと、日差しが暑く感じられるなだらかな尾根道になり、例の予約制の塩見小屋に着いた。
 足がつるのを予防するためのスポーツ・ドリンク補給のためにも立ち寄ったのだが、そこで予約制のことを聞いてみると、「夕方に着いたお客さんまでは断れないから、泊めるけれども、待遇に差がつきます」との答えだった。
 なるほど避難小屋としての責務は、しっかり保ってはいるのだ。

 すぐにハイマツの道は終わり、樹林帯の中の道となる。これで直射日光に当たらずに歩けてありがたい。ただし、所々で立ち枯れの木がある展望が開けた場所に出て、塩見岳南面の姿を見ることができた。
 しかし、この長い三伏峠への尾根道はつらかった。登り下りが多くてというよりは、むしろ登りのほうが多いと感じるほどで、もう下りだけだと思っていた体にはこたえたのだ。
 後は小屋までで時間の余裕もあるしと、途中で何度も休んでしまった。本谷山(2658m)さらに三伏山へと登り返し、そこから峠への下りになって、見覚えのある小さな草原に出てようやく救われた気がした。

 やっとの思いで、三伏峠(2560m)の小屋に着いた。1時半だった。コースタイムほどに時間はかからなかった。それでも休みを入れて、9時間半。私にはもういっぱいいっぱいの時間だった。
 ともかく、念願の塩見岳の姿を見るためにたどってきた、縦走の山旅の核心部は無事に終わったのだ。”案ずるより産むがやすし”のことわざ通りに。

 小屋は思ったほどには混んでいなくて、数十人が泊まってはいたが、後ろのテント場には、中学生の集団登山なども含めて30張りほどものテントが並んでいた。
 夕方にかけては、上空は雲に覆われて、時々ガスもかかり、とても離れたところにある展望所まで行く気にもならなかったし、結局夕焼けの光景を見ることもできなかった。
 夕食は、この三日間の山小屋でのように、どんぶり飯二杯に味噌汁も二杯お代わりして、がつがつと料金分を食べた。(なんというけちな根性だろう。おかげで、メタボの体重を減らそうと期待していたのに、大した減量にはならなかった。)

 その後は布団の中で横になり、今日も濡れタオルで脚を冷やしながら、明日のことを考えた。
 朝にゆっくりここを出ても、登山口のバスの時間までには十分すぎるほどの時間があるし、もし天気も良く、脚の状態も悪くなければ近くの山に登って、最後の展望を楽しみたいとも思った。 
 しかしいつもの山小屋の常で、なかなか眠れないのだ。周りからいびきの音や、止まらないせきの音が聞こえてきた。
 楽しいことを思い出そうと、今日の縦走路からの塩見岳の姿や、北アルプスの槍や穂高の姿、北岳や富士山の姿、そしてあの水平道などのことを・・・思い返した。
 ライチョウの母鳥が一羽、ヒナが一羽、ヒナが二羽・・・いつしか眠りに落ちていった。

 さらに話は次回へと続く。  

 
 

ライチョウと水平道

2012-08-05 19:07:52 | Weblog
 

 8月5日

 小雨が降っている。朝の外の気温は13度。この数日は、その前の30度前後もあった暑い日々から一転して、20度くらいまでしか上がらない肌寒い日が続いている。今日は、いつものフリースを着込んだだけではなく、ついに足に靴下もはいた。
 この寒さは、農業王国、十勝地方の農作物の生育には気がかりな点になるが、個人的にはありがたいことのほうが多い。暑さが苦手な私には、この寒いくらいの気温が一番体に合っているから、家の中にいても外にいても仕事がはかどるというものだ。といって大したことをしているわけではないのだが。

 この3日間で、ようやく全体の3分の1位の草刈を終えた。草刈り鎌と長い鎌を使い分けて、家に通じる道の両側を刈り払っでいく。
 いくら涼しいとはいえ、周りにはアブや蚊がいるから長袖、首巻タオルのスタイルで、10分ほど草刈りをしていれば汗が噴き出してくる。1時間半ほど、ひたすら鎌を動かした後で区切りをつけて休みにして、びしょ濡れになった衣類を脱いで外に干す。すっぽんぽんになると、さすがに汗が一気に乾くほどに肌寒い。

 家の中に入り、新しいパンツとTシャツに着かえて、オリンピックの映像を見ながら、スイカを食べる。
 全く、こたえられんのー。
 一仕事した満足感、汗を流した後の爽快感、口の中に入って行くスイカのおいしさ(それは決して、志村けんがスイカを食べる時の犬のような食べ方ではなく、一噛みごとに口の中に果汁があふれ喉がうるおうのを楽しみながら)、そしてテレビで日本選手の活躍を見て喜ぶ。
 まあ、それが人生というものだし、それだからこそ毎日はありがたいのだ。

 さて、午前中の仕事はそれだけにして(たったそれだけ)、次はパソコンの前に座り、登ってきた山々の写真を眺めては楽しむのだ。
 若い時の楽しみ方は、その瞬間に絶頂に達するような喜びにあふれ、あとはすぐに覚めてしまうのかもしれないが、年寄りの楽しみ方は、一つの喜びをねちねちともてあそび、心ゆくまで楽しむのだ。
 ローソク片手にムチを手に、なめまわすような目で、それが妄想だとしても、何という年寄りのいやらしさ、えげつなー。

 というふうに、私は前回からの南アルプスの山行記録を、まだまだ長々と書いていくつもりなのだ。日々少しずつ失われていく過去の思い出にしがみつくように、少しでも長くとどめておくようにと。

 さて私は、南アルプスは広河原から大樺沢雪渓を登り、足がつるという障害に見舞われながらも、なんとか北岳山荘にたどり着いたのだが、その翌日。
 未明、4時前から部屋の中では早立ちの人たちが動き始めていた。窓の外には星が輝いている。私も起きて、外に出た。目の前の薄明の空に、わずかなシルエットとなって北岳の姿が見えている。
 私は、昨夜考えた幾つかのルートの中から一番いいと思う道へと、つまり昨日登らなかった北岳に向かって歩き出した。

 最初の予定では、まだ晴れた日の景色を見ていない農鳥岳に登るつもりだった。しかし昨日、脚がつったことで、自分の脚力が心配になり、まずは脚の状態を試すべく昨日登れなかった北岳に登り、さらにあのトラバース道の晴れた日のお花畑を見て行くことにして、そこで、足がまだ痛みをひきずっているようなら、昨日のコースを戻って山を終えるしかないし、調子が良ければ、念願の塩見岳(3052m)に向かうべく熊ノ平の小屋まで行けばいいのだ。
 ここでは、そうした他の幾つかのコースを考えることができるのだ。山は計画通りに実行することが重要なのではなく、自分のその日の体力、天気等に合わせて、コースや行程を決めることの方が重要なのだ。
(後で触れるけれども、山小屋の完全予約制については、そうした側面から見ると問題となる点もあるのだが。)
 
 夜明け前の道は、まだ暗くてライトが必要だったが、険しい道でもなく頭にヘッド・ランプを取り付けるほどではなかった。次第に空が白み始めていき、その薄明の中から周囲に黒い山影が現れ始めた。
 静かに、あのブルックナーの交響曲の第一楽章の、トレモロ(弦楽器の小刻みな音の連続)の音が聞こえてきた。やがて岩稜の道の行く手に、山の端が赤く染め上げられていく。そこでは、山影で直接の日の出は見られなかったのだが、周りの山々が赤く染まり始めていたのだ。

 振り返る先に間ノ岳と農鳥岳、その左手に富士山、そして右手には仙丈ヶ岳に中央アルプスの山々・・・オーケストラが一斉に壮大な山の音を響かせている。
 教会の大伽藍(だいがらん)の中に響きあうパイプオルガンの音のように、山は夜明けを迎えたのだ。私は岩角に腰を下ろして、その山々の音を聞き姿を見つめていた。
 それらの山々の中でも、南東の広大に開けた中空の中に、ひとり富士山の姿だけが余りにも高く、一際鮮やかだった(写真上)。深田久弥が”偉大なる通俗”と呼んだあの富士山にも、いつか登らなければならないだろう。
 オーケストラの音の響きは次第におさまっていき、夜明けの赤い色はさわやかな朝色に変わっていった。周りには誰もいなくて、静かだった。

 立ち上がって、最後のガレ場から山稜に出て、北岳山頂へと歩いて行った。もうご来光の時間を終えていて、頂上(3192m)には二人しかいなかった。
 朝の澄んだ空気の中、展望は見事に開けていて、、この北岳の山体をぐるりとめぐる野呂川の谷を隔てた山々、鳳凰(ほうおう)三山(2840m)に甲斐駒ヶ岳(2967m)、仙丈ヶ岳(3033m)、そして農鳥岳(3026m)に間ノ岳(3189m)などの姿が素晴らしく、その後ろには目指す塩見岳が顔を出している。
 北側には遠く北アルプスに八ヶ岳、上信国境の山々に秩父なども見えている。

 脚の痛みは、筋肉痛があるものの、昨日のあのつるような痛みは出ていなかった。すぐに頂上を降りて、登って来た道を分岐まで戻り、昨日のトラバース道を再びたどって行く。
 朝日を浴びた花々は、生き生きとして見えた。もう一度、それぞれの花を撮り直したいとも思ったが、そんな時間はない。ただ目的の一つでもあった、お花畑を入れての間ノ岳の写真を撮ることができて(写真)、それは(芸術的な山岳写真からは程遠い)まさに絵葉書的なお絵かき写真の構図ではあったが、私はそれだけで幸せな気分になれた。

 

 小屋に戻り、置いていたザックを背にして今度は、間ノ岳へと向かう。もう殆んどの人がとっくに出た後だから、前後に離れてひとりずつ歩いているくらいで、静かな尾根道だった、中白根(3055m)の山頂では、もう間ノ岳を往復して戻る人たちがいてにぎやかだった。
 そこからゆるやかな稜線の登りが続き、後ろに北岳、前に間ノ岳山頂、そして左手に富士山の姿を眺めながら歩いて行った。
 
 所々に、ミヤマシオガマやハクサンイチゲなどの花が咲いていて、ふと左手の吹きさらしのザレ場の稜線を見ると、薄赤の小さな花の姿があった。
 形から見ると、北海道のキクバクワガタやヒメクワガタに似ているし、北アルプスでもよく見るミヤマクワガタにしても、クワガタの仲間はすべて薄紫色のはずだが。(この時に写真を撮って、後で調べてみると、何とこのミヤマクワガタは、南アルプスでは薄赤色をしているとのことだった。ちなみに、ミヤマクワガタという名前には、同名のクワガタ虫もある。)

 さらに稜線をたどった頂上直下の所では、三羽のヒナを連れたライチョウに出会った。人なれしていて、近づいてもすぐに逃げはしないけれども、ある程度の距離は必要なのだ、母鳥はヒナたちの動きに絶えず注意して、低く鳴いていた。(写真)

 

 間ノ岳山頂に着くと、南側の展望が大きく開けて、荒川三山(3141mの悪沢岳に荒川中岳、前岳)に塩見岳が見えている。
 しかしすぐ前にある農鳥岳の稜線には雲がかかり始めていた、もう朝のうちに北岳に登ってきたから、どのみちこれから農鳥岳に登るには遅すぎる。そこで間ノ岳から西農鳥岳との鞍部にある農鳥小屋方面に下りて行き、その手前から、右にこの間ノ岳のまき道になる水平道へと入って行った。
 
 最初は、岩くずのガレ場を下りそして登ると、後は上り下りの少ない、つまり快適な礫地(れきち)の水平道になっている。この道は、農鳥小屋と熊ノ平小屋とを結ぶ、間ノ岳のまき道なのだが、思ったほどに森林帯まで下るわけではなく、展望の開けた岩礫の山腹に沿って道が作られている。
 今回、ガスがかかり始めた農鳥岳に登らなかった代わりに、ぜひともこの道をたどりたいと思ったのだ。ずいぶん前から気になっていて、いつかは歩きたいと思っていたルートの一つに、今こうして歩いていることの幸せな気持ちを感じながら・・・。
 その2時間余りの行程の中で、向こうから来た単独行者に一人ずつ、二人に出会っただけで、同じ方向に人影はなく、実に静かな道だった。

 そのうえに谷川から風が吹き上げていて、木陰一つない斜面の割には、暑くはなかった。
 所々にチシマギキョウやタカネツメクサが咲いている道端に、何度も腰を下ろした。疲れたからではなく、ゆっくりと景色を眺めていたかったからだ。
 大井川東俣、最上流部三国沢右股の沢を隔ててせり上がる西農鳥岳(3051m)の迫力ある姿が素晴らしいし、右手には目指す塩見岳の姿も見えている。

 穏やかな気持ちで歩いていると、道端から一羽のライチョウが出てきた。先ほど出会ったメスではなく、単独の雄のライチョウだった。まるで道の先導をするように、私の前をいつまでも歩いて行く。
 もちろんライチョウからすれば、私から離れたくて先に歩いているのだろうが、その上飛ぶのはあまり得意ではないから、歩きやすいところを選んでつい道の所になってしまうのだ。50mほども一緒に歩いて、ようやくハイマツの下に潜り込んで行った。

 道がカール状の谷の形にそって大きく湾曲するあたりに、水が湧き出していた。手を入れると、切れるように冷たい。おそらくは雪渓の雪解け水の伏流水なのだろう。
 さらに行くと今度は、この沢の本流、つまり大井川源流である三国沢の左俣の流れの所に出た。
 南面に開けて左に西農鳥岳、右に遠く塩見岳が見えている(写真)。遠くでルリビタキとウグイスの声が聞こえている。後は沢の水の流れの音だけ・・・。

 

 そこでは、あのブルックナーの交響曲の続きの音が聞こえてきた。緩徐楽章の静かな音の流れ・・・。

 19世紀オーストリアの作曲家アントン・ブルックナー(1824~96)は、教会オルガニストとして、そして大学教授として実直な生活を送り、独身のままその生涯を終えた(’09.6.21の項参照)。
 彼の頭の中で鳴り響いていたのは、神の啓示でもあるオルガンの音と、同じく神の啓示でもある自然界の音だけだったのかもしれない。信じることの幸せ・・・。
 彼は0番と呼ばれるものも含めて、全部で10曲もの長大なる交響曲を作曲した。もちろんそれぞれに、はっきりとした違いのある交響曲なのだが、彼の交響曲を聞きなれていない人には、おそらくすべての10曲を区別することは難しいだろう。
 つまり極論すれば、その曲調からして、彼は一曲の交響曲を書いて、それぞれ新たに9曲の交響曲に編曲したと言えないこともないからだ。

 そんなブルックナーの音楽は別にして、もしできることなら、こんな所にテントを張って朝を迎えたいものだ。北海道の山のようにヒグマの影におびえることなく、安らかに・・・。

 さて、長い間そこで休んでいて、上空の雲も増えてきたので、後は小屋を目指して急ぐことにした。残雪のあるカール状のガレ場を渡り。ダケカンバの林のそばを抜けて少し登って行くと、再びハイマツ帯に入り、三国平に着いた。
 右手には間ノ岳から続いてきた尾根が三峰岳の岩峰となってそびえ立っている。あの岩峰からの分岐を北にたどれば仙塩尾根を経て仙丈ヶ岳へとつながっているのだ。

 ゆるやかなハイマツの尾根から、雪の重みで曲がったダケカンバの林に入り、下りきった所が崩壊地のある井川越えであり、その先の山腹の林の中に熊ノ平小屋はある。
 今日のコースタイム8時間の所をゆっくり歩いて休み、10時間かかっているが、そう疲れてはいないし、何より脚が昨日のように痛まなかったことがありがたかった。
 十数年前に来た時と同じように、小屋のそばには水が豊かに流れていて、濡れたタオルで汗ばんだ体をふいてさっぱりとした後、さらに明日に備えて、昨日と同じように再び脚の周りを濡れタオルで巻いて冷やすことにした。

 明日の行程は、塩見小屋までの7時間と考えていたのだが、同じ部屋に泊まった逆コースで来た人たちから、塩見小屋は完全予約制で予約しないと泊まれないと聞いたのだ。げっ!
 そこで泊まれなければ、その先の三伏峠小屋までさらに3時間も歩かなければならないのだ。体力が落ちているうえに脚を痛めた私には、余りにもつらい情報だった。もっとも明日小屋で聞くよりは、先に聞いていてよかったともいえるのだが。

 小屋の予約制については、ヨーロッパやアメリカの山小屋のように、それが当たり前に定着している所はともかく、日本の北アルプスや南アルプスのように、縦走トレッキングが主な登山スタイルである所では、緊急避難小屋の役割も兼ねていて、すべての山小屋が予約化されてホテル化されいくことには少なからずの違和感をおぼえてしまう。
 もちろん営業小屋を運営していく側からすれば、安定した客数で行き届いたサービスができるし、一枚の布団に三人などという宿泊者にとっても耐え難い大混雑などを避けることもできるのだ。
 
 つまりそれは、登山者のことを考えての処置かもしれないが、その日の天気の悪化や個々人の体調不良などに備えての大切な避難小屋、という意味合いはどうなるのかと考えてしまうのだ。
 また、予約をしたから、あるいはキャンセル料を取られるからと、無理をする場合が出てくるかもしれないし、それは、決められた日程通りに悪天候の中を行動した、あのトムラウシ山ツアー登山の遭難事件をあげるまでもないのだが。
 日程をきちんと守って行動することが大切なのか、その日の天気体力等にあわせて臨機応変に計画を変えることが必要なのか。

 そこで私なりの結論を出せば、それは答えにはならない不可能なことだと知ったうえで言いたいのだが、すべての山小屋を営業小屋ではなく、北海道や東北の山小屋のように避難小屋にして、管理人は置くとしても、食事寝具の提供をしない自炊小屋にするということだ。
 すべては登山者が、それぞれにザックに入れて運び上げてくるべきであり、それができない人は日帰りができる山だけにすることである。
 つまり、前回の北海道は大雪山の山旅(’12.7.2,9の項参照)や、一昨年の飯豊連峰縦走(’10.7.28~8.4の項参照)をあげるまでもないことだが。
 もっともそれは、何も本格的登山者だけのための選民意識からというわけではない。つまりそれが、本格的なクライマーやトレッカーとハイキング客を区別して、安易な登山や遭難を防ごうとする、欧米流の山登りに対する厳しい見方の一つにもなるからである。

 と、まあ言っては見たものの、すっかり体力が弱り、やっとのことで山を歩いている私は、営業小屋で二食付きの宿泊のお世話になってこそ、どうにか山旅を楽しむことができているのが現実だ。
 すみません、小屋の皆様方、前言をすべて取り消します。これからは事前によく調べて、予約することにしますから、どうぞ泊めてください。
 代官様、それを取られたら、もう私どもは生きていけません。後生ですからお助けください。
 その裏で、「越後屋、お前も悪よのう。いえいえ代官様あっての、この私ですから。ぐふふふふ・・・。」 とかいう会話などされていないから、念のため。

 ともかく明日は、念願の塩見岳だ。早立ちして、何としても10時間の山道を、三伏峠まで歩くしかないのだ。
 ああ、母さん、ミャオ様、どうかお助けください。

 (とここまで話を引っ張って、さらに次回へと続ける、年寄りのあくどさ。アインシュタインの舌、べろーん。)