ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

大雪の朝

2015-11-30 20:27:12 | Weblog



 11月30日

 一週間前のこのブログに書いていたように、その天気予報通りに、次の日には雪が降った。
 翌日、朝の積雪は、15cm~20cmで、雪の少ない十勝地方の11月としては、かなり多い積雪量であり、表の道まで50mほどあるのだが、雪スコップで道を開けるための雪かき(北海道では雪はねとも言う)に、1時間半ほどかかかった。
 さすがに汗びっしょりかいて、もっともそれだから、その後に家に戻って、暖かいストーヴのそばで一休みするのが、楽しみになる。

 しかし、その次の日もまた雪になって、夜になってもまだ降り続いていた。
 夜中にかけて、家の周りのあちこちで、”ドシン、ドシン”という音が響いていた。
 ”なまはげ”姿の冬の大鬼たちが、家の周りを歩き回っているような・・・。
 ”悪い大人は、いねかー。ぐうたらで、無精者の大人は、いねかー。” とふれまわっているような・・・。
 そこで思い出したのは、宮沢賢治の詩の一編。

 「今日は一日あかるくてにぎやかなゆきふりです。
  ひるすぎてから
  わたしのうちのまわりを
  巨(おお)きな重いあしおとが
  幾度ともなく行きすぎました。

  わたしはそのたびごとに
  もう一年も返事を書かない
  あなたがたずねてきたのだと
  じぶんでじぶんに教えたのです。

  そしてまったく
  それはあなたのまたわれわれの足音でした。

  なぜならそれは
  いっぱいに積んだ梢(こずえ)の雪が
  地面の雪に落ちるのでしたから。」

 (宮沢賢治 作品第1004番)

 翌日の朝、窓を開けて見た朝の光景。また新たな雪が50cmほども積もっていた。(写真上)

 それは、2シーズン続けて、冬の間もここにいた時の、春先の大雪の光景に似ていた。
 二日間、併せて70cmほどの湿った雪が降って、木々の枝先がしなっていた。
 何より、急こう配の屋根から少しづつ滑り落ちてきた雪が、目の前に垂れ下がり、そしてその軒下に溜まり積もって、1m以上もの高さになっていた。

 午後になって日が差してきて、それでも気温はやっと+2度までしか上がらない。
 まず玄関から車庫まで、さらに表の道までの雪かきを始めたのだが、深さ50cm~70cmもある湿った雪を、雪スコップですくいとって放り投げていくのは、やはり重労働であり、前日に珍しく腹に来る風邪にかかっていたこともあって、体調が今一つだった私には、そう無理はできない状況だった。
 1時間余り、全体の3分の1ほどを終えたところで、残りは明日に、体調を見てからにしようと思った。
 ということは、家への道が空いていないことになり、明日までは誰も家には来られないということだ。
 そこには、大雪で家に閉じこもることの、不安感と妙な安心感があるのだが・・・。

 そして次の日は、朝から快晴で、雪の日高山脈が”モルゲンロート”の朝焼けに映えていて、急いでカメラを持って外に出た。昨日除雪していなかったことを悔やんだが、仕方ない、後は冬山ふうに雪をかきわけ”ラッセル”して行くだけのことだ。
 ところが、車庫からの道は、表の道までまっすぐに開いていた。
 誰かが、除雪してくれていたのだ。



 何とありがたいことだろう。
 おそらくは隣の農家の人が、夕方にかけて(4時前に陽が沈むから、もう夜なのかもしれないが)、トラクターを乗り入れて、きれいに除雪してくれていたのだ。
 
 私はその時、テレビを見ていて、外で少しトラクターの走って行く音がしたのを聞いたような気はしたのだが、家に入ってくる道を除雪してくれているとは思わなかったのだ。その時にすぐに出て行って、礼を言うべきだったのに・・・。
 私が、2シーズン続けての冬を過ごした時にも、こうした大雪の時には、彼がトラクターで来てくれて、あっという間に道を開けてくれて、どれほど助かったことだろう。
 もっとも今年の場合は、こんなに雪が積もるとは思わずに、ぐずぐずとここから出発できずにいた私が悪いのだが、それでも彼はまだ私がいることを気にしていてくれて、困らないようにと、何も言わずにまず道を開けてくれたのだ。
 北海道の男たちは、いつでも黙って、”高倉健さん”なのだ。

 私はその時、家の中にいて、あのフィギュアスケート長野大会の男子フリーの模様を、テレビを見ていたのだ。
 それも、羽生弓弦選手の圧倒的な滑りと演技に(アナウンサーが思わず”別次元”の世界ですと叫んだように)、かたずをのんで見守っていたのだが、いつしかもう彼の作り出す世界に引き込まれていたのだ。
 そして、4回転ジャンプを終えた後での、ステップシークエンスで、日本映画『陰陽師(おんみょうじ)』(2001年)からの音楽(梅林茂作曲)に乗って、(その日本的な音楽にこだわった彼の思い)、なめらかにあやしく、ただひたすらに滑る姿は、まさに見ている私の胸に迫りくるほどだった。
 それはまた、あの2006年のトリノ五輪で、荒川静香選手が、プッチーニのオペラ『トゥーランドット』の中の有名なアリアからの演奏に乗って、滑らかに美しく、ただひたむきに滑る姿に(その時、母の死から間もないこともあって、私は、不覚にも涙したのだが)重なって、思い出してしまったのだ。
 ひたむきな姿は、誰の心をも打つものなのだ。
 羽生選手の世界最高得点というのも、まさにそうして感じていた人々の想いの結果だったのだろう。
 
 しかし、その時、外でトラクターに乗って除雪作業をしていた彼は、オンタイムでこの時の羽生選手のテレビは見られなかったのだ。
 隣の、哀れなじいさんのために、除雪しておいてやろうとだけ思って、ひたすらに・・・。 

 さて、私は様々な思いに駆られながらも、その除雪された道を歩いて、表通りに出た。
 それは、素晴らしい快晴の朝だった。中空にかかる残月の下に、雪に彩られた日高山脈の山々が、朝の赤い光を浴びて立ち並んでいた。(写真下)



 こんなに晴れた日には、この”モルゲンロート”の朝焼けの楽しみの後にも、まだまだ雪の雪原歩きの楽しみがある。
 朝食をすませてしばらくのんびりした後、私は冬用長靴にスノーシューをつけて、林を抜けて、丘のほうへとゆるやかに登って行った。
 (この時の、丘陵地帯への”ワンダリング”、さまよい歩きについては、また別な日に書くことにする。)

 ともかく私は、ここにいてこそ味わえる冬の雪景色の一端を、先取りする形で楽しむことができたのだ。
 それも前回書いたように、九州への出発を、事情があって先延ばしせざる得なかった代わりに得た、実にありがたいひと時だったのだ。
 確かに悪いことがあれば、良いこともあるし、さらにそのままでは終わらずに、まるで連関していくように、また悪いことも起きるのだ。
 それは、この十勝地方には珍しい11月の大雪に対して、私は何らの対策も立てずに、もう九州に戻るのだからと、少しのんびりと構えていたがゆえに、不都合な真実が起きたのである。
 もちろん、それは雪かきに始まるのだが、その雪が最初は湿った雪だったものが、寒さが厳しくて、毎日-5度から-10度ぐらいにまで下がるものだから、屋根に積もった雪がそのまま厚く凍りついて、垂れ下がっているのだ。
 まだいろいろと他の仕事があり、こんな時期から、軒下にうず高く積もった雪のそばを通らなければならない私には、極めて危険な状態になっていたのだ。(北海道では、毎年のようにこの屋根からの落雪で死者が出ているくらいなのだ。)

 そして数日前、上に書いたようにお腹にくる風邪をひいていた私は、夜に突然の腹痛でトイレに(というより便所だが、それは自分で作った小屋の一角にある簡易便所と呼んだほうがふさわしい所なのだが)、あわてて駆け込みたくなったのだ。
 そして急いで玄関のドアを開け、さらに軒下の乱れ固まった雪のそばを通って、便所にまで行かなければならない距離の遠さ・・・身をよじりながら、ああ、もう出る出る、生まれるー。
 ぎりぎりがまんすることのマゾヒスティックな苦しみの喜悦(きえつ)と、すべてをこのまま吐き出してしまいたい、あの開放感の悦(よろこ)びへの狭間(はざま)にあって、私は果たして、無事にたどり着くことができたのだろうか・・・。ああ、無情!
 
 ともかく、九州への出発を延ばしたことで、美しい雪景色には出会えたけれども、こうしてトイレに行くのが大問題になるし、まだまだ他にも、雪の中での井戸ポンプの取り外し作業や、そのための溜め置き水での洗い物、他の小屋の打ち付け封鎖作業に、生ごみ処理など、いろいろと余計な手間がかかることになってしまったのだ。
 それらのことは、冬を通してずっといるつもりだったのなら、それ相応の準備をしていて、それほど大変な作業にはならなかったのだろうが。
 人は予期しなかったことに出会うと、いつもうろたえ慌てるものだが、かといって、日ごろからすべてのものへの対応に気を配っておくというのも、またそれはそれで落ち着かなく気ぜわしいものだ。

 つまり、日常の毎日で、ある程度は予測していても結局はいつも予測できないことが起こり、結局は行き当たりばったりになり、よく言えば臨機応変(りんきおうへん)ということになるのだろうが、ともかくその日暮らしで生きているというのが、本当の所ではないのだろうか。
 偶然も運命も、幸運も不運も、すべて込みでのその人の人生なのだし、ただその幸運を、疑いもなく満面の笑みで迎えるのか、あるいは微笑を浮かべながら、不運の芽がひそんでいるかもしれないことにいつも身構えておくのか、あるいは不運に出会って、嘆き恨んでばかりいるのか、それともそこに小さな幸運の芽があることを見つけようとするのか、そのことで、人生の楽しみ方に差が出てくるのかもしれない。

 今回、九州に帰るに帰れなくなっている私には、あらめて自然の脅威を思い知らされたこともあり、まだまだ学ぶべきこともあったのだが、一方では、もちろんあの雪の山々の姿を目の当たりにできたことにもなり、それがここにいたがゆえの、大自然からのありがたい贈り物だったのだろう。
 私には、それで十分である。
 
 また、明日にかけて雪が降るとのことだが・・・。 

 


夕焼け空からの回想

2015-11-23 22:52:12 | Weblog



 11月23日

 ずいぶん寒くなってきた。朝の気温-7度、晴れているのに日中の気温も2度くらいまでしか上がらない。
 天気予報では、明日は一日中雪のマークがついていて、終日マイナスの真冬日になるかもしれないとのこと。
 北海道の中央部にある旭川では、昨日の積雪が21cm。
 こうして、北海道の北部から中央部にかけては、今の時期から雪が降り積もり始めるのだが、それでも例年と比べて遅いくらいで、まして、太平洋側東部の十勝地方では、まだ雪の季節にはなっていないのだが、明日の雪で景色が一変するのかもしれない。

 それでも、北海道の他の地域と比べても十勝地方の雪は少ないほうだし、一般的に言えば、冬の季節には、西高東低の冬型の気圧配置になると、西側の日高山脈と北側の大雪山などの中央高地の山々が、押し寄せる雪雲のほとんどををせき止めてくれて、雪が少なる代わりに、底冷えのする寒さになって、一方では、快晴の青空が続く天気にもなるのだが。

 まさに、私のような”お天気屋”でかつ”能天気”な人間にとっては、おあつらえ向きな季節の到来ということになるのだ。
 もっとも、一年中”脳内天気”な私にとっては、いつも頭の中を、ちょうちょうがヒラヒラと飛んでいるような状態だから、別に天気だからという問題ではないのかもしれない。

 この秋は、内地への山行計画を立てていて、もっと早くここを離れて九州に戻るつもりだったのだけれども、事情があって、しばらく滞在を伸ばすことになってしまった。
 もっとも、北海道が好きでこの地を選んで、ひとりで家を建てたくらいだから、もともと季節に関係なく、本当はずっとここにいたいのだけれども、九州の古い家も放置しておくわけにもいかず、やむを得ず行き来しているのだが。
 それも、多くの人から見れば、まるで別荘生活暮らしの贅沢三昧(ぜいたくざんまい)に見えるかもしれないけれど、二つの家併せての維持費なんて、東京で部屋を借りているほどにはかからないし、生活費はもとより都会と比べればずっと安上がりだし、私自身が、生来の倹約家で、もちろん借金は一切しないし(お金がなければ買わないだけの話で)、母親ゆずりの安いものを買うことに喜びを感じるケチな性分なうえに、こうして田舎に引っ込んでいればお金を使うこともないのだから。
 しかし、田舎だからの不便さは、うんざりするほどあるのだが、要はどちらを選ぶかで田舎に住めるかどうかということになってくるのだろう。

 都会のように数分おきに来る電車などないし、クルマがなければ、バス停まで歩いて30分近くかかり、2時間に一本のバスに乗るしかなく、それも行く先は一つだけ。
 封切り映画やコンサート、美術展、さらには様々な内外の催し物など、夢の向こうの世界でしかない。
 大きな本屋や輸入CDショップで、本やCDを選びながら買う楽しみもなく、AKB出演のテレビのいくつかは見ることもできない。
 離れた街に出かけるのは、1週間から10日に一回のまとめ買いのためで、日持ちしない食料品などは買い置きしても気になってしまう。 
 このように、すべてに及んで、今すぐ必要なものがすぐ手に入らないのが、田舎暮らしなのだ。
 しかし、その不自由さに見合うだけのもの、それ以上に心を豊かな気持ちにさせてくれるものがあるから、好きな人は不便な田舎暮らしを選ぶのだろう。
 大きな自然がそばにあること、静かなこと・・・そして、周りの人々との心穏やかなふれあいがあること。

 そうなのだけれども、さすがに年寄りの私には、つらくなってきたこともある。毎度ここにも書いていることだが、今年も井戸水が枯れて1か月もの間、水に不自由したし、外の小屋にあるトイレ(昔風な田舎の便所)に出て行くこともつらくなってきたのだ。
 だからそのこともあって、この秋の内地遠征登山計画と併せて、早くここを出て行くつもりでいたのだが、どうしてもここにいなければならない事情があって、いつも通りの冬になってしまったのだ。

 仕方がない、そうできなかったのなら、こうして北海道にいられることに感謝しようじゃないか。
 秋の終わり、カラマツの葉が、辺り一面に黄色い雪のように降りしきりって、庭にも家や小屋の屋根にも、厚く降り積もった。
 私は、屋根のカラマツの葉を、梯子(はしご)をかけて上り、長く伸ばした熊手で寄せかき集めて、払い落とした。軒下には、まるで降り積もった雪が落ちたような畝(うね)ができていた。
 林内の葉が落ちた木々の間からは、夏の間は見えなかった日高山脈の山々が、雪を頂いて連なっていた。
 林の中の道は、枯葉を踏む音がするだけで、鳥たちの気配すらなかった。

 林を抜けると、その先に収穫の終わった小豆(あずき)畑が広がっていて、そこに林の木々の影が長く伸びていた。(写真上)
 青空を区切って、向こうの林の、冬枯れの木々が並んでいた。
 やがて、もう溶けることのない、本当の冬の雪が降り積もることだろう。
 私が、冬の間もいた時には、この雪の畑地に一人だけの足跡をつけて、ずっと向こうの丘まで歩いて行ったものだった。
 
 家に戻れば、ストーヴの薪(まき)が燃えていて、冷えた体をすぐに温めてくれる。
 薪が燃えているのを見ているだけでも、ただ何も考えずにその炎が揺れ動くさまを見ているだけなのだが、見あきることはない。
 薪ストーヴの家は、私のような一人暮らしにこそふさわしいのかもしれない。
 この秋に、予定していた山には行けなかったけれども、こうして、初冬の薪ストーヴの暮らしを味わえたことで、十分に埋め合わせはついたというものだ。
 (九州の家には、ポータブルの灯油ストーヴと電気コタツしかなく、そのうえ古い家だからスキマ風が入ってきて、外が-20度にもなっても温かい北海道の丸太づくり家よりも、ずっと寒く感じるのだ。)

 ともかく、悪いことが起きても、それでもどこかに良いことの”きざはし”を見つけたいものだし、良いことがあれば、どこかに悪いことの影が潜んでいるのかもと、思っておいたほうがいいのかもしれない。

 さらに、薪のための丸太を何本か運んで、ストーヴの中に入れる長さに切り分けて、あるいは太すぎるものは薪割りをして、余分にここにいることになった分の薪作りをする。(すでに一冬分の薪はあるのだが。)
 そうして、一日が過ぎていく。

 まだ4時前なのに、日高山脈の向こうに陽が沈んでいく。
 カラマツの幹と枝を透かして、夕映えの名残が、雲が並ぶ山々の上に映える。(写真下)



 ストーヴで暖かい家の中にいて、電気もつけずに、揺り椅子に座って、その光景を眺めている。

 このカラマツの木々は、少し前までは、黄金色の黄葉に覆われていたし、夏の間は確固とした強い緑の葉色だったし、春先には、萌黄色(もえぎいろ)の新緑が陽に映えて、なんともすがすがしい色合いだった。
 こうして1年という歳月を、自らの体に刻みつけて、彼らはじっとたたずみながらも、生き続けていくのだろう。
 この自然界を作り上げた神様は、この樹々たちが、他の生き物たちのように飛んだり走ったりできない代わりに、つまり自らが根づいたところから一歩も動けずにいる代わりに、条件がそろえば何千年もの間という、生物界最大の長寿をお与えになったのだ。

 そこで思い出したのは、前にもここで引用したことのある、ルナール(1864~1910)の『博物誌』からの一編、「樹々の一家」である。

「・・・。
 彼らは一家をなして生活している。一番年長のものを真ん中に、子供たち、やっと最初の葉が生えたばかりの子供たちは、ただなんとなくあたり一面に並び、決して離れあうことなく生活している。
 彼らはゆっくりと時間をかけて死んで行く。そして死んでからも、塵(ちり)となって崩れ落ちるまでは、突っ立ったまま、皆から見張りをされている。
 ・・・。
 私は、彼らこそ自分の本当の家族でなければならぬという気がする。もう一つの家族などは、すぐ忘れてしまえるだろう。この樹木たちも、次第に私を家族として遇(ぐう)してくれるようになるだろう。その資格ができるように、私は、自分の知らなければならぬことを学んでいる━━。

 私はもう、過ぎ行く雲を眺めることを知っている。
 私はまた、ひとところにじっとしていることもできる。
 そして、黙っていることも、まずまず心得ている。」

(ルナール『博物誌』 岸田国士訳 新潮文庫)

 こうして、木立ち越しに見る夕景が、木々たちの若々しい春のたたずまいから、錦秋(きんしゅう)の秋の姿に至るまでを思い出させてくれるように、またそれは、私の人生と重なっての回想へとつながる。
 若いころは、現在から未来への思いにあふれていて、そこでは過去は、少し前の子供の頃の思い出でしかなかったのだが、年寄りになると、もう残り少ない現在を強く意識して、さらには長く蓄積された過去の思いにあふれていて、そこで未来などは、見ることのできない霧の中にしかないのだ。
 だから年寄りたちは、今を生きるためにこそ、ていねいに一つ一つの自分の良き過去の思い出を掘り返していくのだろう。

 今までに登ってきた山々の姿、オーストラリア、ヨーロッパ、北海道、文学、音楽、映画、絵画・・・何一つ、深く掘り下げ研究したわけではなく、スペシャリストにもなれなかったけれども、悪く言えば、何にでも興味本位で首を突っ込んだけの野次馬根性だけで、よく言えばその昔にはやった”百科全書派”ふうに、ただ薄っぺらな自己満足だけを味わうことはできたと思うし、それが自分の人生を肯定的に見ることのできる、唯一の点だと思う。
 つまり逆に言えば、そのことを除けば、自分の好き勝手に生きてきただけの、因果応報(いんがおうほう)の惨憺(さんたん)たる人生だったのかもしれないが。
 かと言って、年を取るにつれて、何事もあまりむつかしくは考えなくなった”脳天気”な私にとって、今は良き思い出だけをたどる、安らぎのひと時の中にいたいだけなのだ。
 そうすると、一番長く私の好きなものであり続けた、山々とともにあった日々をはじめとして、上にあげた様々な私の好きなものの思い出があふれてくる。
 よし、この自分の良き思い出の数々を、今ひとたび、この年寄りのいやらしくくどい粘着質のしつこさで、味わい尽くしてやろう。

 朽ち木に巣食い、誰のためにもならず、誰の迷惑にもならず、朽ち木を食べていくだけの、小さな一匹の虫にも、”一寸の虫にも五分の魂”があるように、それぞれの生ある時を生きているということなのだろう。

 だとすると、そんな私にとって、自分だけの今と過去を向いている私にとって、この2年ほどの間にすっかりファンになってしまった、AKBとはいったい何なのだろうか。
 若いファンたちのように、自分の未来を重ね合わせて見ているのでもなければ、まして過去に私とともにあった、女の子たちをしのぶ”よすが”となるものでもないし、とすれば、現在あるもの、つまり歌詞が心地よく頭に入り、音楽のリズムに体が反応し、歌い踊っている若い娘たちを眺めるという、視覚の満足が合わさってのことなのだろうか。
 それならば、なぜそれまでに、他のアイドルたちや美しい女優たちに強くあこがれることはなかったのだろうか。 
 
 ・・・2年半前、ミャオが死んでいる。

 ここまで、ぐだぐだと本題も定まらないまま書いてきて、この最後の疑問に行き当たり、まさに今、その答えになるかもしれないものに気づいたのだが・・・。
 ”ミャオの死”がすべての終わりであり、始まりであったのかどうかは、それが正しい答えであるかどうかは分からないが、私の頭の中で冷たく暗く凍りついていたものの一部分が、今になって氷解して流れ出していくような・・・。
 そうだったのかもしれない。人はいくつになっても誰かに想いを・・・それが初めから仮想のものであったとしても・・・。

 AKBとは、私にとっての、ミャオに代わるものかもしれない・・・。 

  総選挙1位のHKT指原莉乃(さっしー)が最近ネコを飼い始めて、その写真が指原自身の手によってネットにアップされていて、ファンの間では、マンチカンというネコの種類から、”かんたろう”と呼ばれて人気になっているのだ。
 確かにかわいい。もう一度ネコを飼いたいとさえ思ってしまう。そうしたら、私のAKB熱も収まるのだろうか。

 先日、大阪読売テレビの歌謡祭で、AKBが登場した。
 卒業を控えた高橋みなみ(たかみな)がセンターで歌う新曲「唇にBe My Baby」は、歌詞曲ともにもう一つな気がしたが、中ほどで登場した乃木坂46の「話したい誰かがいる」は、作詞作曲ともに、乃木坂らしく上品に洗練された曲調で聞かせてくれたのだが、その後に続いて登場したのは、なんと全員が着物姿のAKB48の選抜メンバーたちであり、その彼女たちが歌う「365日の紙飛行機」が素晴らしかった。
 今までにも、この曲についてはいろいろと書いてきたし、NHKの朝のドラマの『あさが来た』の主題歌として毎日聞いていたのだが、やはりAKB選抜メンバーたちが(選挙による選抜メンバーではなく、運営サイドが選んだ理にかなった選抜メンバーで)、ずらりと並んだ着物姿は、まるで成長した孫娘を見るようで、振り付け動作もいくらかは日本舞踊ふうにおしとやかな感じで、今までの時として一歩間違えばどぎつい安っぽさが見えるような衣装や振り付けからは、一転しての”大和撫子(なでしこ)”ふうで、それもこの時代劇ドラマに合わせてのことであったのだろうが、やさしく心いやされるひと時だった。
 あえて言えば、今年の紅白の”トリ”にしてもいいくらいだと思ったのだが。
 
 今までの私が見たAKBの作品の中で、あの「UZA(うざ)」のミュージック・ビデオがベストであることに変わりはないが、この歌謡祭での「365日の紙飛行機」を、対照的ではあるが、それに次ぐものとしてあげたいくらいだ。
 この時の放送はもちろん録画していて、短く編集して、今は、この乃木坂とAKBの2曲だけを毎日聞いている。
 いい曲だなあ、ミャオ・・・。
 
   


偶然の良し悪し

2015-11-16 21:03:47 | Weblog



 11月16日

 さらに雪が降って、最高気温が5度にもならないような寒い日もあり、今日のように朝から空気がやわらかく、日中の暖かい日差しで、久しぶりに15度を超える日もあるのだが。
 こうして、行きつ戻りつを繰り返しながら、少しずつ季節は冬に向かっているのだろう。
 数日前の雪の後、冷たい雨が降り続いた翌朝、起きてみると、窓の外に、葉の落ちた木々の間から赤い色の連なりが見えていた。
 身支度をして外に出る。気温-3度、まだそう寒くはない。
 少し歩いた所まで行って、全山が赤く染まった日高山脈を眺める。
 (写真は、左から1823m峰、ピラミッド峰、カムイエクウチカウシ山、1903m峰)

 私の好きな季節がやってきたのだ。
 朝、晴れていれば、こうして白雪に覆われた山波の、モルゲンロート(日の出の赤色)に染められた連なりを見ることができるのだ。

 私にとって、生きることというのは、つまりこうして季節ごとに、山々が見せるその時だけの姿を、一瞬の至福の時として見ることにあるのかもしれない。
 年を取ればとるほどに、その思いは深くなり、長年の経験と、今ここにいることの感情が合わさって、それまでの山とともにあった日々の、その時々の景観の思い出があふれくるのだ。
 十勝幌尻岳(1846m)からのカムイエクウチカウシ山(1980m)、ヤオロマップ岳(1794m)からのカムイエク、札内JP(ジャンクション・ピーク1869m)からのカムイエクと日高幌尻岳(2053m)、そして、カムイ岳(1756m)からの日高幌、1967m鞍部からの日高幌、イドンナップ岳(1752m)からの日高幌など、他にもそれぞれの日高の山々の上から眺めた、モルゲンロートの光景があり、さらには大雪の山々の、その他の北海道の山々の朝日に輝く姿がある。
 遠征の山々としては、北アルプスの山々のモルゲンロートの姿が忘れられない、剣・立山、白馬、五竜・鹿島槍、槍・穂高、そして南アルプス、中央アルプス、八ヶ岳・・・最後に、北海道の山々とともに、私が最も親しんだ九州は九重の山々も・・・。
 それぞれの山のその時だけの、一瞬の光景。
 それらはすべて、私がめぐり会えた良き偶然の瞬間だったのだ。

 前にも、偶然については少しだけ考えたこともあるのだが(『偶然性と運命』 木田元 岩波新書参照)、しかしそれが、あのフランスの哲学者サルトルが言うように、人間存在の不条理さからくるものなのか、あるいは、ドイツの哲学者ヘーゲルが言うように、あくまでも一時的な無意味な現象に過ぎないものなのか、などと深く突き詰めて考えていくだけの知識を私は持ち合わせていないから、ただそれを、”たまたま出会ったこと”ぐらいにしか考えていないし、そうした意味で使っているだけのことなのだが。
 思うに、その朝の見事な光景に出会った偶然は、全く予期していなかった驚くべき山々の姿というではなくて、多分に期待を込めて、そうなるかもしれないと思ったうえでの結果ではあるのだが、しかしそうはならないこともあるのだから、良い結果になった偶然に出くわしたと言うべきなのかもしれない。

 こんなことを書いているのは、”良い偶然”であったこの朝の美しい山々の眺めとは、あまり関係のないことかもしれないが、私にとっては、もう一つの”悪い偶然”とでもいうべき出来事があったからでもある。
 二日前のこと、雨上がりの朝、外に出てみると、辺りは風と雨で落ちてきたカラマツの葉が一面に散り敷いていて、庭も小屋も家も、すべてはカラマツの黄色い葉に覆い尽くされていて、むしろ今までの庭の景色から見れば、ずいぶん明るく感じられる眺めだった。
 ふと窓の下を見ると、そこに置いてある長い足場板の上に、何か灰色の小さなかたまりが見えた。
 最初は、前にも庭で死んでいた小さなネズミ(エゾヤチネズミ)かとも思ったが、近づいてみるとそれは一羽の鳥だった。
 ゴジュウカラだ。(写真下)

 

 体はもう温かみもなく、硬直していた。
 しかし、背中にかけての灰青色の羽と腹にかけての白い羽は、まだつやつやと豊かにふくらんでいて、冬にかけての寒さにに耐えられるようになっていた。
 この冬もこのあたりの林で、まだまだ元気にエサ探しに、木々の間を飛び回り走り回るはずだったろう、このゴジュウカラ・・・。
 一月以上も前のこと、秋になって、シジュウカラやヒガラなどの、カラ類の混群が庭木などにやってくるようになると、このゴジュウカラの姿もよく見かけるようになっていて、そのフイフイという鳴き声とともに、木の幹を下に向かって駆け下りていく姿を見かけていたのだが。
 その時に見た、同じ個体であるかどうかは分からないけれど。

 死因は、窓の下近くの所に落ちていたから、おそらく窓ガラスに勢いよくぶつかってしまったのだろう。
 今までにも、数羽の鳥が、このガラス窓にぶつかって、命を落としている。
 アオジ、センダイムシクイ、シジュウカラなどであり、そしてあの大きなキジバトでさえぶつかったことがあるくらいだから、その時には家の中にいて、音がして気がついて外に出てみると、バタバタしていたが、それほどひどい傷を受けたわけではないらしく、家の中に戻りしばらくして見た時には、もうその姿はなくどこかへ飛び去っていた。
 鳥の方から見れば、この二重窓の窓ガラスが、手前の広々とした庭の景色を映していて、向こうへ飛びぬけられると思ったのだろう。

 鳥たちがぶつかるのを、防ぐ手立てはあるのか。
 窓ガラスをなくしてしまうわけにはいかないから、これが窓ガラスであることを鳥たちに教えるしかない。
 それには、窓ガラスにいろいろなシールをベタベタと貼り付けることだろうが、それは家の中から見れば暗くなるし、外から見ても、どうもごちゃごちゃとして品がない。
 ということで、確か日本野鳥の会などでは、そんな野鳥たちの衝突事故を防ぐために、小鳥たちが嫌うワシ・タカの姿をした、窓用シールを売っていたはずだが。
 もっとも、そうしたものは今の時代、パソコンとプリンターで簡単に作れるものだろうが、私はどうも窓にシールを貼るということ自体が気になっていて、そのまま窓ガラスには何の対策も施(ほどこ)してはいなかったのだ。

 そのために、また一羽の鳥の命を奪うことになってしまった。
 この場合、人間側の法律でいう、刑法上の”未必の故意(みひつのこい)”の条項があてはめられるかもしれない。
 何もしないことは、計画的な意図、つまり故意の意識がなかったとしても、”起こりうるかもしれない最悪の事態”を予測意識していたにもかかわらず、何らそれを防ぐ手立てを講じなかった、ということになるのだろう。

 まだ死ななくてもよかった、ゴジュウカラの命が、ここで一つ失われたということ。
 私はそのことで、何の”とが”を受けるわけではないけれども、小さな生き物の命が、私の不作為のせいで失われたのかもしれないという、心の”とが”を受けることになったのだ。
 ごめんなさい。私は、林の中のハウチワカエデの根元に、小さな穴を掘り、そのゴジュウカラを埋めてやった。

 3年前に九州の家で死んだ、このブログの名前にもなっている飼い猫の”ミャオ”は、その庭のカツラの木の根元に穴を掘り埋めてやった。
 あの時に書いた(2012年5月)ブログ記事は、いまだに読み返す気にはならない。
 もちろん、ミャオが死んだという事実はしっかりと受け止めてはいるのだが、あの時のつらい思いを、繰り返し追体験したくはないのだ。
 それよりは、むしろ元気でいたころのミャオの写真を見たり、ここでのブログ記事を読んでいたほうがいい。
 そこでは、ミャオはまだ生きているからだ。

 さて話を元に戻して、偶然のことについてだけれども、私が期待していた、”モルゲンロート”に輝く山々の姿を見られたことを、”良い偶然”だとすれば、このゴジュウカラの場合は、それが意図的に意識していたものではないとしても、可能性がどこかに残っていた”悪い偶然”だったといえるだろう。
 そして、この”良い偶然”と”悪い偶然”は、両者が重なり合い混然となる時もあるのだ。
 その場合、私たちは、自分の”悪い偶然”が一瞬の後に”良い偶然”に変わった時のことを、いくつも覚えているものなのだ。
 
 子供のころ、川で溺れて、それでも周りのお兄さんたちによって何とか助けられたこと、中学生のころ、パキンパキンと音が聞こえるくらいの骨折をしたこと、オーストラリアの砂漠の道をバイクで高速で走っていた時に、転倒事故を起こしたこと、日高山脈単独行で、何度もあわやという危険な目にあったこと、今までに、何度かの交通事故にあったことなどなど・・・それでも悪運強くというべきか、命にかかわる事故にはならず、ここまで生きながらえてきたこと・・・つまり、思い返せば、誰でもがそうであったように、自分の人生がいかに多くの”幸運”に支えられていたか、と気づくことにもなるのだ。
 しかし中には、こうした”悪い偶然”がさらに重なって、最悪の事態を引き起こし、命を落とすことにもなるのだろう。
 それも与えられた人生を十分に生き切らないうちに、子供のうちに、青年時代に、家族ある働き盛りの時に、そしてまだ私のような年寄りになる前に、突然の事件事故によって、命を失うことにもなるのだ。
 4年前の東日本大震災で津波に飲み込まれた石巻の大川小学校の生徒たち、このたびのパリのテロ事件によって殺されたロック・コンサートに来ていたフランスの若者たち、30年前のあの御巣鷹山日航機墜落事故で、亡くなったサラリーマンたちが機内で書き残したメモ、などなど・・・。
 つまり言い換えれば、上にあげたサルトルが言うように、「人間は自由の刑に処せられている」ということになるし、さらに”人間は、いかに偶然という自由の中に放り込まれているのか”ということにもなるのだろうが。

 日々こうして、幾多の命が生まれ、また幾多の命が失われていく中で、私たちは、そんな天文学的な数字が並ぶ、自然界の奇跡的な偶然の中で、ひとり生かされ、生きているのだ。
 そう考えてくれば、日々身の回りに起きるわずらわしいことや悩みなど、取るに足りないことだと思えてくるし、つまり、すべては脳天気に考えて、”生きていればめっけもん”だと思えばいいのだ。
 先のことなど、”明日は明日の風が吹く”、”神様も知らない”ことなのだから。

 秋の名残の、カラマツの葉が、時には強い風に吹かれて、時には雨に打たれて、時にはかすかなそよぎで、小雪のようにハラハラと散り落ちて、辺り一面をすべて黄色く染めてしまった。
 それまでの、春から夏へと続いた緑の履歴(りれき)を、すべて大地の記憶として閉じ込めてしまうかのように、カラマツの葉は、たださらさらと、さらさらと降り積もっていくのでした。(写真下)

 「・・・。
 さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
 淡(あわ)い、それでいてくっきりとした
 影を落としているのでした。

 やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
 今まで流れてもいなかった川床に、水は
 さらさらと、さらさらと流れているのでありました・・・・・・」

(中原中也 『永訣(えいけつ)の秋』より 「一つのメルヘン」 現代日本の文学17 学習研究社)
 
 

 
  


冬が来る前に

2015-11-09 22:23:11 | Weblog



 11月9日

 数日前に、久しぶりに山に行ってきた。
 冬が来る前に、平地に雪が降る前に、秋のなごりの山と、冬の雪山の姿に会うために、山に登りたかったのだ。
 天気は、全国的にも晴れの予報だったが、北海道から見れば、高気圧がやや南にあり、少し等圧線の間隔が狭くなっていて、それが気がかりだった。
 朝起きて外に出ると、ともかく日高山脈はくっきりと並んで見えていた。ただ、どうも北の方には低い雲がかかっているようだった。
 
 年寄りになった今では、もう峠越えをしての、十勝岳連峰(’10.10.23の項参照)や、大雪山(’08.10.24の項参照)などの初冬の雪山に登る元気はなくなってしまって、最近はもっぱら時間のかからない、同じ十勝管内の手軽な山に向かうことが多くなっている。
 それもぐうたらな、このタヌキおやじにはありがちなことで、なるべく楽をして登り、初冬の山の眺めを楽しもうという魂胆(こんたん)なのだ。
 去年は、日高山脈が高度を減じて北に延び続ける主稜線上の最北端の山、佐幌岳(1060m、’14.11.24の項参照)に、その前の年は同じ日高山脈の支稜線の山、剣山(1205m、’13.11.18の項参照)に、といったぐあいだ。
 
 出かける前から決めていたのは、そんな低い北部日高の山である、オダッシュ山(1098m)に行くつもりでいたのだが、どうもモヤか雲がかかっているようで、そのあたりの山々が見えていないのだ。
 それは、南にかたよった気圧配置の等圧線のせいではないのかと、やはり気になっていた。西風が強く吹いていて、尾根筋に雲がかかっているのではないのか。
 せっかくの全道的な快晴の日に、雲がかかって展望がきかないような山に登りたくはない。
 目の前には、黄葉のカラマツ防風林の上に、妙敷山(1731m)から伏見岳(1792m)、そしてピパイロ岳(1917m)、1967峰へと続く日高主稜線の山々がくっきりと見えていた。(写真上)
 何よりも、晴れた日の山にまさるものはないし、今の時期に何度も登ってはいるが、何と言っても日高山脈核心部の山々の眺めが素晴らしい、伏見岳にするか、ただしオダッシュ山よりは倍近い時間がかかることになるだろうがと、しばし、どうしようかと迷ったのだ・・・。

 しかし、いつものぐうたらでずるがしこい、黒い角と黒い翼を持った私の心の中の”わるきー”が、ささやくのだ。
 ”そんなに苦労して何時間もかかって登ることはない。もう今までに何度も登っているのだから、年寄りなのだから、楽して登れる山にすべきだよ。あーヨイヨイと。” 
 (ちなみに、この”わるきー”は、AKBグループNMBの渡辺美優紀”みるきー”が、自分の心の中の小悪魔”わるきー”の衣装姿で歌うのだが、何ともかわいいのだ。AKBの柏木由紀”ゆきりん”が歌う場合は、”わるりん”となる。二つとも、You Tube参照。
 もっとも、メタボ体のタヌキおやじの私が、”わるきー”の衣装姿で舞台に現れたなら、会場はシーンとして”どんびき”、中には下を向いて”おえーっ”と吐く人もいるだろうから、あくまでも自分だけの想像の範囲内ということにしたい。)
 
 ということで、ともかく最初の目的通りに、オダッシュ山に向かったのだが、行ってみると、やはりその辺りだけに漂っていたモヤ霧の低い雲だった。新得町に近づくにつれて、北部日高の、低い山々の連なりが青空の下に続いていた。
 新得の町の中で、国道から分かれて山側に一直線にゆるやかに上がって行く。
 高速道路の道東道の下をくぐって少し行ったところから、オダッシュ山の登山道は始まる。
 もう9時近い時間なのに、先ほどの駐車エリアにも登山口周辺にも一台のクルマもなかった。
 それもそのはず、連休後の平日に、こんな有名でもない低い北部日高の山に、登ろうという人なんかいるわけはないのだ。
 そこが、いつもは巣穴にこもってばかりの、ぐうたらタヌキおやじの、山に出かける時のねらい目なのだから。ニヒニヒとひとり笑いの不気味さ。 

 しかし、一人で行って、巣ごもり前のヒグマが怖くはないのかと言われれば、7年前の剣山の時のように(’08.11.14の項参照)、偶然に出くわすことは十分にありうるのだが、この山でのヒグマとの遭遇はあまり聞いたことがないし、その植生から言っても、そうヒグマのエサになるようなものはないし、上部にはミズナラの木が多いが、ドングリの時期は過ぎているはずだし、あと考えられるのは、剣山で出会った時のように、ヒグマが沢から沢へと稜線を越える時だろうが、まあ鈴を鳴らして行けば大丈夫だろうと自分に言い聞かせた。

 ところで、この”オダッシュ”という名前は、他の多くの北海道の山と同じく、アイヌ語起源のものであり、”川下にシラカバが多いところ”あるいは”川砂のあるところ”の意味とのこだが。
 さて、小さな沢沿いにゆるやかに上がって行き、水場の標識のある所でその沢を渡り、樹林帯の丸い尾根の山腹をたどり、やがて急な斜面の登りになり、それが終わるころには、明るいシラカバ、ダケカンバの林の中をたどる道になる。
 振り返ると、まばらな木々の間に、十勝平野北西部の広がりを隔てて、広大な青空の下に、東大雪の山々、石狩連峰から二ペソツ、丸山、ウペペサンケ、そして然別の山々と続いている。
 なだらかになった尾根の南面をたどる道の途中、前峰の高みが見える辺りで、腰を下ろして休んだ。
 
 先ほどまで聞こえていた、多分に耳ざわりな、あの高速道路の車の走る音はもう聞こえなかった。
 ただ、高く青い空の上で、風の音がしているだけだった。
 何という、穏やかなひと時だろう。どこからか、生きていることとは、こういうことなんだよと聞こえてくるような。
 そこは、低いササの斜面につけられた前後に見通しがきいた道の途中で、葉の落ちた一本のダケカンバの陰になった所に、私は座っていた。
 (このオダッシュ山の登山道は、きれいに刈り払いがされていて、地元新得町民に親しまれている山であることがよくわかる。)
 長袖のアンダーの上に、厚手の長袖のシャツを着ているだけだったが、ずっと続く登りで汗をかいていたし、暑い日差しをよけられる木陰を選んだのだ。
 まだ、登り始めてから1時間余り、道半ばだったが、何の気がかりなこともなかった。
 あと同じくらいの時間で頂上には着くだろうし、木々の間からは白くなった十勝岳連峰と大雪に東大雪の山々も見えていたし、上空は晴れ渡っていて、雲がかかるだろう心配もなかった。

 オダッシュ山に登るのは、これで二度目になるが、最初に登ったのは、なんともう20年以上も前のことである。
 その時のことは、フィルムでわずかに10枚撮っただけの写真を見ながら、ようやく断片的にいくつかの光景を思い出すくらいでしかなく、まさに20年ひと昔も前のことと言えるだろう。
 時期は今と同じ11月で、天気も快晴で誰もいなくて、頂上からの大展望を心ゆくまで楽しむことができて、それほどまでの完璧な登山だったから、もう再度登る必要もないほどで、それよりも、当時はまだ数多く残っていた、他の日高の山に登ることのほうが重要であり、長い間、行こうとも思わなかった山の一つだったのだ。
 しかし、今や、かつての日高山脈の道なき道を、ひとり跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)して歩き回った元気はなくなり、最近では、ただひたすらに低山歩きばかりになっていて、それで、この山にも順番が回ってきたのだ。

 去年、このオダッシュの北に位置する佐幌岳に登って、そういえばもう長い間、あの山には登っていないと思い、先日久しぶりにわが家を訪ねてきた山好きな知人夫婦が、オダッシュ山に行ってきたと言うのを聞いて、そういえばと行ってみる気になったのだ。
 なあに、すべての物事のきっかけなんて、いつも偶然の重なりで始まるようなものなのだ。
 
 腰を上げて、再び急坂になった道を登って行くと、右手の尾根の北側に回り込み、ミズナラの林の日陰になったなだらかな道をたどって行く。
 先ほどから所々に残っていた雪は、もう消えることなく白い帯の道となって続いていた。
 勾配が増すと、凍りついている足跡の所が滑りやすく、これでは下りではアイゼンが必要になると思わせるほどだった。
 さらに前峰が近づくにつれて、すぐ上の所を風が音を立てて通り過ぎて行った。
 大岩のある前峰に着くと、強い風が吹きつけてきて寒く、すぐにウインドブレイカーを着込んだ。

 しかしここからは、私も憶えている快適な尾根歩きが続くのだ。
 それは、前峰から本峰へと続く、20分余りの、低いササとダケカンバが織りなす天上のプロムナード(遊歩道)だった。(写真下)

 

 そのゆるやかな道をたどって行くと、南面が大きく開けてきて、遠く剣山から芽室岳方面が雄大に見えてきた。
 最後は、それでもピークらしい急な登りになって、小さな草の丘になった頂上に着いた。
 コースタイムよりは長く、2時間半ほどもかかったが、写真を撮ったりして、いつものようにゆっくり歩いてきた年寄りとしては、十分な時間だった。
 風は少し強いけれども、この青空の下、周囲に大展望が広がり、そして誰もいなかった。
 ただ、20年前と比べて北側にあったそのダケカンバの枝が伸びていて、最大の見ものである十勝岳連峰から大雪山への眺めが少し見えにくくなっていた。
 そこで、腰以上に伸びたササをかき分けて北に続く尾根を少し行くと、ようやくそこからは、すっきりと一つ一つの峰が見えて、左から富良野岳(1912m)、三峰山(1866m)、上ホロカメットク山(1920m)、十勝岳(2077m)、美瑛岳(2052m)と並び、手前に重なって境山(1837m)と富士山型の下ホロカメットク山(1668m)が見え、美瑛からは石垣山(1822m)にオプタテシケ山(2013m)と連なる、白い十勝岳連峰の姿があった。(写真下)


 

 さらに白い帯は、オプタテシケから大雪山へと続き、手前に大きくトムラウシ山(2141m)があり、その左後ろにすそ野を広げる旭岳(2290m)、右後ろににはこぶしのように盛り上がる白雲岳(2230m)が見える。
 戻って、先ほどから東側に見えていた、東大雪の山々をあらためて見直してみる。石狩岳(1967m)連峰から二ペソツ山(2013m、ただし今の時期としては雪が少なく黒い山肌が目立つ)、丸山(1692m)、ウペペサンケ山(1835m)そして凸凹の盛り上がりを繰り返す然別の山々と続き、さらに遠く、雄阿寒岳(1370m)、雌阿寒岳(1499m)、阿寒富士(1476m)と並ぶ阿寒の山々も見ることができた。

 同じ日高山脈は、南側に縦位置になりこの山が低いために、多くは見えないが、剣山から久山岳(1412m)、芽室岳(1754m)、西芽室岳(1746m)、そして手前にペケレベツ岳(1532m)と続いてきて、この主稜線から離れた支稜線上の山として双珠別岳(1383m)と狩振岳(1323m)が近くに高く見えていた。
 そして20年前には、西側にもっとすっきりと見えていた気がするが、芦別岳(1727m)と夕張岳(1668m)も、ダケカンバの木々の枝の間にかろうじて見ることができた。

 山々の展望と青空と、吹きつける風の中、他に誰もいない頂上、そこに私は1時間近くもいた。
 この山だったら、年寄りの私でさえ、また来ることもできるだろう。そう思って頂上を後にした。
 
 帰りの、尾根のプロムナードもまた逆方向から眺めることになり、なかなかに良かった。
 さて、前峰からの雪道の下りだが、アイゼンは持ってきてはいたが取り付けるのは面倒だ。
 そこで、道の両側の、凍った足跡がついていない雪面に靴をおいて、慎重に下って行った。20分足らずでその緊張の時間も終わった。
 ミズナラの林から、明るいダケカンバの斜面へといい気分で下って行く。
 思わず、口をついて出てくる歌。

 ”思い通りにならない日は、明日がんばろう・・・人生は紙飛行機、願い乗せて飛んでいくよ・・・365日、飛んでいけ、飛んでみよう・・・”
 (NHK朝ドラ『あさが来た』主題歌「365日の紙飛行機」 作詞秋元康)

 タイトルには、AKBの歌とあるけれども、実際はAKBグループNMBの山本彩(さやねえ)がリードボーカルになって歌う歌であり、AKBファンの私だからというよりは、やはりいつものことながら、秋元康の歌詞と、わかりやすい曲調にひかれて、ついつい口ずさんでしまうことになるのだ。
 またドラマ自体も、今までにもここで書いてきたとおりに、現在、時代劇をしっかりと作ることのできる唯一のテレビ局であると言ってもいい、NHK時代劇班の力も合わさって、脚本もよく考えられているし、近年では最も見ごたえのある朝ドラではないかとさえ思う。
 といっても、今までNHKの他の朝ドラを、ちゃんと通して見たことはあまりないから、大きなことは言えないが、主演のきれいな姉妹役はもちろんのこと、わき役陣の人物像がそれぞれにしっかり描かれていて、それがまた、このドラマの充実ぶりを表しているともいえるだろう。

 とかなんとか偉そうなことを言っている割には、この日はこのドラマが放送されている時には山にいて、録画予約も忘れて見逃してしまったのだが、翌日その続きを見ても、一本見逃した違和感はあまり感じなかったから、まあ私の関心もそのくらいのものなのだろうが。
 ついでに先週見たテレビの中で、興味深かったのは、NHK・Eテレ『ミュージック・ポートレイト』という番組での、秋元康と元宝塚出身の女優黒木瞳の、音楽や歌に対する対談であり、その前の週からの、二回に分けての放送だったのだが、思わず二人の話にひきこまれてしまった。
 お互いに50代半ばに達していて(何という黒木瞳の若さ)、その二人のその時々で影響を受けた音楽が、二人の人生と表裏一体になっていて、実に興味深い話だった。

 二人があげた歌や曲は、全部というわけではないが、秋元康の『スーダラ節』『戦争を知らない子供たち』『大阪で生まれた女』『川の流れのように』『イマージン』『旅人よ』 などであり、一方の黒木瞳が選んだのは、『真実一路のマーチ』『風と共に去りぬ~タラのテーマ』『時の流れに身をまかせ』『ベルサイユのばら~愛あればこそ』『水に流して(エディット・ピアフ)』『(子供時代に練習した)ショパンのピアノ協奏曲1番』などであり、私から見れば年は離れているが、世代が近いと思わせる、二人の思い出に残る歌や音楽のそれぞれは、私が知っているものばかりだし、同じように選びたい曲もあるくらいなのだ。

 大人になって経験を積んでからでないと語れないことは、いろいろとあるのだ。
 若者には、若者の歌が、大人には大人の歌が、年寄りには年寄りの歌が、死にゆくものには死にゆく者の歌が・・・。

 さて、山からの下りは、急いだつもりはないのだが、それでも2時間もかからないくらいで下りてきた。
 休み時間を含めても、併せて5時間ほどの、今の私にはちょうど良い山歩きだった。
 いつもの、芽室町新嵐山の安くて入れる風呂で汗を流した。
 暖かいお湯につかって、心地よい体の疲れを感じながら、良い天気の日の、良い山の思い出を振り返ることができた。
 残り少ないだろう私の人生の、山の思い出は、これからもこうありたいものだ。
 
 冬が来る前に、雪が降る前に、登る山としてはそれで良かったのだが、昨日ついに、ここでも雪が降り積もった。
 初雪は前回書いたように、夜中だったらしくて見ることはできなかったし、朝、積もってもいなかったが、昨日の雪は、未明に降り始めて見る間に2cmほど積もって、辺り一面が真っ白になってしまった。冬が来たのだ。(写真下)
 その後、昼前には冷たい小雨に変わり、一日中降り続いた。朝の気温-2度、日中も+2度までしか上がらず、暖かい真冬の時期のようだった。
 今日、雨は明け方までには止んで、雪もすっかり消えてしまった。

 外に出てみると、まだ細かい雪が降っているようで・・・しかし、それはいっせいに散り始めたカラマツの葉だった。
 辺りはすべて、その黄色い葉に覆われてゆく・・・。
 秋が終わろうとしているのだ。
 いつも今頃になると思い出す、詩一編。

 「ささやかな地異(ちい)は そのかたみに
 灰を降らした この村に ひとしきりに
 灰は悲しい追憶のように 音たてて
 樹木の梢(こずえ)に 家々の屋根に 降りしきった
 ・・・。」
  
 (立原道造詩集より 「はじめてのものに」 『現代日本の文学』17 学習研究社)


 


ゆく秋を

2015-11-02 21:49:36 | Weblog



 11月2日

 極彩色の秋が、ゆこうとしている。(写真上) 
 モミジ、カエデが散り始めて、そして北海道の秋の色の掉尾(とうび)を飾る、あのカラマツ林の黄葉が始まっている。

 そこで、ささやかな思いの一句。

 「ゆく秋を 北国(きたぐに)人と 惜しみける」 

 これからの長い冬を、白い雪一色の中に閉じ込められる、北国の人たちにとって、それだからこそ、今の残り少ない秋の彩りは、何にもまして鮮やかに見えるのだろう。
 それはまた、冬の間、じっと立ちすくむだけの木々たちにとっても、今ひと時の思いに満ちた、狂おしいばかりに身を焼き尽くす、秋の色合いなのかもしれない。
 やがては南に戻っていく、渡り鳥の私の、思いを残した一句として。
 もちろんこれは、言うまでもなく、芭蕉の句からとったものであるが。

 「行く春を 近江(おうみ)の人と 惜しみける」

 この一句を思い出して、そのままの形で言い換えただけなのだが、もちろんのこと、そうして真似をしたにもかかわらず、あの芭蕉の情緒をあふれる名句の、足元にも及びつかぬものにしかならなくて・・・。
 一応説明しておけば、このあまりにも有名な句は、芭蕉が近江の国(今の滋賀県)の石山寺を訪れた際に詠んだものであり、前文の但し書きに”望湖水惜春(湖水を望みて春を惜しむ)”とあり、近江の国在住の蕉門(しょうもん)の弟子たちとともに、春霞(はるがすみ)の中の琵琶湖を眺めての、一句とされている。
 それにしても、やがて暑い夏が来る前の、うっすらと霞がかかり、うらうらと広がる海と見まごうばかりの琵琶湖の、その晩春の湖水光景を、何と見事に活写していることだろう。
 ただし、この句には有名な逸話があって、同じ蕉門(しょうもん)の弟子であった江左尚白(えさしょうはく)が向井去来(むかいきょらい)に対して、この芭蕉の句の、”行く春”を”行く歳”に、”近江”を”丹波”に置き換えてもいいのではないかと言ったのに対して、去来は、琵琶湖の春霞こそ趣のあるものであり、年の瀬の丹波では趣も感じられないとしたのだが、その解釈の仕方を、いにしえの時代から歌に詠まれてきた近江ならではのことだからと、芭蕉にほめられたというのだが。

 ただ、私は一時期、この句が持つもう一つの側面、それはもちろん芭蕉自身が意図したものではないのだろうけれども、わずかばかりの”おかしみ”を含んだ、いわゆる”川柳(せんりゅう)”的なユーモアを併せ持つ句として、解釈していたのだ。
 もちろんこれは、芭蕉の句から遠く隔たった、邪道としての理解の仕方だと断ったうえでのことなのだが。
 近江と言えば、昔から有名な近江商人が思い浮かぶが、その合理的な商売の仕方が、一方では悪く取られて、ケチな人間の代表として名指しされることもあったくらいなのだ。
 これは近江だけではなく、日本のどこでもよく使われている言葉だが、”〇〇の人が通った後には草も生えない” と、ケチな人をたとえて揶揄(やゆ)することがあるが、そのことを併せて思いつき、この句の解釈を、私なりに、勝手に思い浮かべてみたのだ。
 ”旅の途中で、風に吹かれて桜が散るのを見ていて、たまたまそばにいた同じ旅姿の近江商人が、思わず、ああもったいないとつぶやくような”、そんな春の光景を・・・。
 そこはかとない、春の終わりの情緒と、少しばかりのユーモアを込めて・・・。

 こうして芸術作品は、作者の手を離れた瞬間から、受け取り手側の読者や観客の手によって、いかようにも解釈されるようになりうるということだ。
 この芭蕉の句から始まって、考えてみたのだが、私がこれまで見知ってきた数多くの芸術作品のすべてが、古典、文学、絵画、音楽、映画などについて、結局はその時その時の、私なりの解釈によって受け止めては、勝手に理解していた気になっていたのではないのか、作者の意図とは大きくへだたったものとして・・・。

 というのも、そうした問題の一端として、最近、BS放送での映画を録画していて、気づいたことがあったからだ。
 鬼才と呼ばれたスタンリー・キューブリック(1928~1999)監督の名作『2001年宇宙の旅』(1968年)と、ニューヨーク派の才人ウッディー・アレン(1935~)監督の名作『アニー・ホール』(1977年)が放映されることになって、それらはすでにDVDとして以前に録画してはいたのだが、やはり高画質のBR(ブルーレイ)で録画しておこうとセットしていて、翌日それが何と日本語吹き替え版だと分かり、そのまますぐに消去してしまったのだ。

 この外国映画の、日本語吹き替え問題については、しばらく前に、ある映画評論家の話が新聞に載っていて、外国ではいわゆる母国語以外の外国映画の、ほとんどが吹き替えで公開されているとして、いまだに字幕が主流である日本公開の外国映画に関しては、早急に日本語吹き替えにすべきだと主張していた。 
 そんな彼らの、吹き替え派の理由が分からないわけではない。
 字幕では、映画で話しているすべてのセリフを字幕として書き込めないこと、それだから、字幕だけでは、映画が伝えていることのすべてを理解したことにはならないということ。
 さらには、諸外国のほとんどでは、吹き替えのほうが多いということも、確かだろう。

 しかし、当時の近未来の宇宙船での様子を描いた、あの『2001年宇宙の旅』で流れてくるセリフが、日本語であるという何とも場違いな違和感、さらに、『アニー・ホール』で吹き替えられた、ウッディー・アレンのまさに日本アニメ的な日本語のセリフ・・・映画を芸術作品として見ようという人たちにとって、とても耐えられるものではないだろう。(娯楽的なテレビ・ドラマ作品では、それでもいいのだろうが。)
 確かに、映画の中で話されている英語は、少しだけは理解できる私でも、幾つかの言葉がはぶかれて字幕に書かれていると分かる時もあり、しかしそうしたマイナス面があるとしても、その映画で話されている俳優たちの個性ある話しぶりが、そのままの声と言葉であるほうが、映画全体から見れば、より重要な理解の手助けになるだろう。
 つまり、影響のない一言二言が字幕ではぶかれたとしても、映画の評価に大きな影響を与えるものではないということだ。

 むしろ日本語の吹き替えで、外国の役者たちの個性ある味わいが失われることのほうが、その映画にとっては致命的な欠陥になる場合もある。
(余談だが、その昔サイレント”無声”映画の時代に、花形スターであった女優が、音も出るようになったトーキーの時代になって、彼女の悪声が表に出ることになり、たちまち人気を失ったということもあったくらいだから。) 
 さらに諸外国ではというけれども、そうした国々ではいまだに識字率が低く、読み書きが十分にできない人々もいて、そうした人々のために吹き替えられているということでもあり、外国の多くが吹き替え版だから、日本でもという理屈にはならないだろう。(日本は識字率がほぼ100パーセントの国なのだから。) 
 さらに言えば、中学高校と6年にもわたって英語の教育が行われているのに、英語が分からない話せないという人がほとんどの日本では、今ようやく、英語教育の在り方が見直されるようになっているのに、英語セリフを吹き替えた日本語版の映画では、さらに英語会話から遠ざけてしまうような、それこそ時代を逆行するものになりかねないだろう。

 私は、話せるほどではないし、ほんの幾つかの単語を知っているだけだが、ドイツ語とフランス語が少し分かるから、字幕によるドイツ映画やフランス映画を見ていて、時々その知っている言葉が出てきたり、さらには話している言葉のイントネーションを聞くだけでも、いくらかの理解の助けになっていると思うのだが、それはまた、映画だけではなく、その国のことを人々のことを知る何らかのきっかけにもなるだろうし。
 しかし、今回のテレビ放映の外国名作映画でさえ、日本語吹き替版になっているのを見て、もう時の趨勢(すうせい)は変えられないものだと思ったのだ。
 つまりは、今の人々がそう望んでいるのであれば、それでいいのだろうし、私たち年寄りが、あれこれ言うほどのことではないのかもしれない。
 ただ、もう残り少ない人生しかない私が、今になってしみじみと思うのは、いい時代に生まれて、いい時代の文化に育てられ、そうして、多くの良き思い出の引き出しを持つことができたことである。

 もし、私の敬愛するイングマール・ベルイマン(1918~2007)やエリック・ロメール(1920~2010)、フランソワ・トリュフォー(1932~1984)などの映画が、日本語吹き替え版でテレビ放送されたとしても、私はそれを、DVDなどで持っていなくて、久しぶりにあるいは初めて見るものであっても、録画しようとは思わないだろう。
 『風と共に去りぬ』(1939年)のスカーレット(ヴィヴィアン・リー)の声を、『駅馬車』(1939年)のリンゴー・キッド(ジョン・ウェイン)の声を、『カサブランカ』(1943年)のリック(ハンフリー・ボガート)の声を、『アラビアのロレンス』(1962年)のオレンス(アラビア語風呼び名、ピーター・オトゥール)の声を、日本語の吹き替えで聞きたいだろうか、また、あのフランス映画『禁じられた遊び』(1952年)の終わりで、幼いポーレットが雑踏の中で叫ぶ”ミシェール”の声がいつしかママと呼ぶ声になっていくラスト・シーン、またはイタリア映画『刑事』(1959年)のラスト・シーン、警察の車に乗せられていく恋人の後を追いかけて叫ぶアッスンタ(クラウディア・カルディナーレ)の声”ディオメデ”を、どうやって日本語の響きに吹き替えることができるというのか。

 私たちが子供のころは、クラスにお金持ちの子はほんの二三人いるくらいで、みんなだれでも貧しい家の子だった。
 やがて、誰でもが少し無理をすれば大学にまで行けるような時代になり、都会の自堕落な生活の中でも、友情とロマンスの夢を追い求めることができた。
 社会人になっても、自分に課した仕事を懸命にやり、時間を切り売りすれば、それなりに報われた時代だった。 
 いい時代に生まれて、いい時代に育てられ、いい時代だったと思いながら死んでいければ、それで十分ではないのかという気もしてくる。
 だから、今さら表舞台に出ていこうなどとは考えないし、このまま、”森の生活”を続けていければ、それで十分だと思うのだ。
 欲を出さなければ、いつも自分とともにある、小さな幸せに気づくのだから・・・。

 今日の最低気温は-2度で、曇り空のまま気温は上がらず、6度止まり。一日中ストーヴの薪を燃やしていた。

 昨日は晴れて、穏やかな一日だった。
 こうした天気の続く秋の日は、ストーヴで使う薪(まき)造りに適している。
 去年、林の中から運び出せる長さに切り分けて、1年ほど乾燥させていたカラマツやミズナラの丸太を20本ほど、電気チェーンソーを使って薪の長さに切って、傍らに積み上げていく。
 今は、ここで冬を越さないので、用意する薪は、来年の春先と秋の分だけでいいから、もう一度、2,30本の丸太を切ればいいだろう。
 冬ここにいれば、その4、5倍の量が必要となるから、今の時期は毎日薪造りの仕事になるのだが。
 ところで、この薪造りとともに、その時に出る切りクズも大切なものである。それは、自宅用バイオ・トイレに使う大切な木クズになる。肥料袋いっぱいで、半年は使える。

 この木クズでまぶしたトイレ内容物と、野菜果物の切りクズを混ぜて1年も置いておけば、立派な有機肥料になる。
 たまに家に立ち寄る街に住む友達は、それを話すと、私の家の畑でできる、イチゴや野菜などを食べようとはしないけれども。
 自分で出したものを、また自分の口に入れる。私にしかできない楽しみだ。
 そうして、ゆったりと秋の一日が過ぎていく。

 朝、空を見上げた時、すっかり色づいたカラマツ林の上に、下弦(かげん)の月が見えていた。(写真下)