ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

梅雨と「植物は知っている」

2013-06-24 20:14:49 | Weblog
  

 6月24日

 雨が降っていた。そして、今、雨が降っている。さらに、これからも雨が降り続くだろう。
 雨は、降る、降る・・・。

 数日前に九州の家に戻ってきた。以来、雨の降らなかった日は1日もない。重たい曇り空か雨模様の空の毎日で、北海道から続いてずいぶん長い間、青空の色を見ていない気がする。
 この二三日の気温は朝の15度からあまり上がらない。暖房とまではいかないが、あまりに肌寒いので、フリース・ジャージの上下を着ているほどだ。

 まったく、今年はカラ梅雨気味だといわれていたのに、私の移動に合わせるかのように、梅雨らしい雨の季節になってしまったのだ。
 庭の、茂り放題の植え込みや草花の手入れすらできない。毎日が雨の日だ。

 つゆとは、梅雨という漢字をあてるが、”梅の熟すころに降る雨”の意味の通りに、庭の梅の木には、熟れはじめてきた実が幾つか見えている。(写真)
 今回帰ってきた理由の一つは、この梅の実を収穫して、それでジャムを作るためでもある。
 去年から今年にかけて、ほとんど風邪もひかずに過ごせたのは、その梅ジャムのおかげだと実感しているからであり、それほどまでしても作る価値があると思っているからだ。

 もっとも、梅雨のもう一つの意味でもある、黴(かび)が生える時期の雨、つまり黴雨(ばいう)から、巧みな当て字の梅雨へと変わったという説の通りに、長らく留守にしていた家の内外の手入れをするためでもあるのだ。

 ここで話は飛ぶが、つゆがなぜ梅雨と呼ばれるのか、ネットで調べてみると、雨露(つゆ)の多く見られるようになる季節だからというものと、その梅の実が、熟して潰(つぶ)れる、つまり潰(つい)える、潰(つ)ゆすることからきているという説などが記してあった。

 その大きな豊後梅(ぶんごうめ)の実は、去年は、大きなザルに数回分も採れて、半分は捨ててしまうほどだったのに、しかし今年は、その私の期待に反して、ザル一杯分でも採れればいいほうだろう。
 それは、確かに今までも経験してきたように、実がなる木には、豊作の年と裏作の年があるということなのだろう。

 それでも、こうして梅の実がついているわけだから、もう少し熟すのを待って、虫がつき始める前に収穫して一気にジャムを作ることにしよう。
 そして雨の日が続く中、外での仕事もできず、おとなしく家にいて、本を読んだり、録画しておいたままになっていた番組のいくつかを見たりした。

 この九州に戻る旅の途中で、大きな本屋さんに立ち寄ることができて、それまで新聞の書評欄で見て、気になっていた本を二冊買うことができた。その一冊が、『植物はそこまで知っている』(ダニエル・チャモビッツ著、矢野真千子訳 河出書房新社)である。

 私たちは、日ごろから自分たちの身の周りにいる木々や草花たちに対して、ある時には、私たち人間の仲間であるかのように、擬人化(ぎじんか)して考えがちである。彼らが、動物である人間とは違う仕組み構造であるとわかっていても、その成長や衰退の途中で世話をしては、思わず言葉をかけてしまうほどだ。
 「ああ、よく咲いてくれたね」とか、「今、水をやるからね」とか、「ああこんなに弱って、今から虫を退治してあげるからね、周りの草を取ってやるからね」とか言いながら。
 そして、こうした人間からの働きかけに応えてくれる木々や草花たちが、感覚や意志をつかさどる脳を持っている人間とは違うのだとわかってはいても、とても彼らが、全くの意志や感覚を持たない植物にすぎないものだとは思えないのだ。

 そんな、私の疑問に答えてくれたのが、この一冊である。
 その内容は、近年の新しい生物学実験などであきらかにされた実証例や論文などをまとめて、一般の私たちにわかりやすく説明したものともいえるだろう。
 それにしても、DNA記号名や細胞受容体名などの、初めて知るような単語も数多く出てくるのだが、読み続ける中でその言葉の一つ一つを全部覚えていなくても、彼がそれらの実証例から導き出そうとしている、植物たちの意外な能力の事実は、十分に理解することができるのだ。
 それは、以下の各章ごとにつけられたタイトルにあるように、植物たちの驚くべき能力を示しているのだ。

「1.植物は見ている」
「2.植物は匂いを嗅いでいる」
「3.植物は接触を感じている」
「4.植物は聞いている」
「5.植物は位置を感じている」
「6.植物は憶えている」

 それらは要約すると、以下に語られている通りだ。

「植物は光や色の微妙な違いを知っており、赤色と青色、遠赤色、紫外線を見分け、それぞれに反応する。
 植物は周囲に漂う香りを知っており、空中にある微量の揮発性物質に反応する。
 植物は何かに接触した時それを知り、感触の違いを区別できる。
 重力の方向も知っていて、芽を上に、根を下に伸ばすように姿勢を変えることができる。
 過去のことも知っている。以前に感染した病気や耐え忍んだ気候を憶えていて、それをもとに現在の生理作用を修正する。」

 自ら移動することができない植物たちが、長い進化の過程の中でかようにして獲得してきた能力は、しかし人間と同じようなものではない。
 つまり、ここではっきりと認識しておかなければならないことは、「同じ言葉ではあっても、植物とヒトでは質的に違う」ということであり、「植物には脳がないことをいつも思い出して、植物を安易に擬人化して表現することを戒めなければならない」ということだ。

 しかし、最後に彼は、まさに人間らしい言葉で締めくくっているのだ。

 「植物とヒトは共に、外的現実を感じ、知る能力を持っている。だが、それぞれの進化の道筋は、人にしかない能力を与えてきた。植物にはない能力、それは知恵を超えた『思いやる』という心だ。」

 私は、改めてあの残雪の芽室岳での、ダケカンバの立ち姿や、家の周りの木々や、草花たちのことを思い、さらに、そんな木々や草花の茂る家の庭を歩いていた母の姿や、ミャオの姿を思い浮かべたのだ。

 一昨日、ここでも何度か取り上げたことのある、あのNHK・BSの『岩合光昭の世界のネコ歩き』のスペシャル番組があり、今まで放映された世界の猫たちとの場面の映像が流れ、さらにゲストの四人の猫好きミュージシャンそれぞれとの、猫についての話が面白かった。

(余分なことだが、そのロケシーンの中で、彼がかぶっていた野球帽は、あのクリバーンのネコのエンブレムが付けられていた。私も欲しーい。)
 さてそのミュージシャン四人との話の中で、彼が繰り返し言っていたのは、「猫の低い目線になって見て、猫の気持ちになって考える」ということ。

 つまりそれはまた、植物の話に戻るけれども、「低い草花の視線になって、あるいは高い木の視線になって考える」ことなのかもしれない。

 最後にもう一つ、今までの話とは全く関係はないのだが、三日前にNHK・Eテレの『にっぽんの芸能』で文楽(人形浄瑠璃、にんぎょうじょうるり)の「新版歌祭文(しんぱんうたざいもん)、野崎村の段」をやっていた。
 五月の国立文楽劇場公演のもので、吉田蓑助(みのすけ)、竹本住太夫(すみだゆう)という名人二人の組み合わせで、話はあの有名な”お染久松もの”である。
 レギュラー番組1時間の枠の中で、解説などの長い話他が含まれているから、実演映像はわずか30分足らず・・・ああ、お願いだから全幕放送してくださいと言いたくなる。
 前回にもあげた、『こけら落とし4月大歌舞伎』の出し物もすべてがダイジェスト版だった。何とか一つの演目だけでもいいから、通して放映してくれないものだろうか。

 しかしそこはそれ、そんな短い時間だったけれども、さすがに名人たちの見事な掛け合いであり、お染と久松に、育ての親の久作といいなずけのおみつ、四者それぞれの思いと立場が演じられていて、素晴らしかった。 
 できることなら、まだ行ったこともないあの大阪の文楽劇場で見たかったと思うばかりで・・・。

 前回触れた、誇るべき日本の古典芸能の中には、もちろんあの歌舞伎だけでなく、この文楽や能楽なども含まれるけれども、興味深いのはこの三者ともに、相近しい関係にあったということだ。それらについて、文献ネットなどで調べた限りでのことだが、以下、大まかなあらましとして言えば。

 平安時代末期のその昔から、あの『平家物語』の栄枯盛衰の物語が、琵琶法師(びわほうし)によって哀調切々と語り伝えられていた。(それは”平曲”と呼ばれて、今日でもかろうじて残っている。)
 その後、鎌倉室町の時代になると、『浄瑠璃姫物語』などの”御伽草子(おとぎぞうし)”による物語が、新たに作られた三味線によって弾き語りされるようになり、その題材の名前から取られて”浄瑠璃”と呼ばれるようになる。
 それは、さらに昔からあった人形芝居と結びついて、”人形浄瑠璃”となり、今日ではその公演劇場の名を取って”文楽”と言われるようになっている。

 一方土俗的なものも含めて古くから存在した”猿楽(さるがく)”は、あの観阿弥(かんあみ)、世阿弥(ぜあみ)などの力によって芸術的な領域へと高められ、明治の時期になって、”能”と呼ばれるようになり、また”狂言”などと合わせて”能楽”とされるようになった。
 さらにもう一つの、本来これまた土俗的な踊りであったものが、出雲阿国(いずものおくに)によって始められた”傾奇者(かぶきもの)の踊り”として、一大変身を遂げて、またたく間に庶民の間で大人気になり、能の舞台へと上がるようになり、さらには人形浄瑠璃の話とも結びついて、江戸時代初期には”歌舞伎”として成立していたといわれている。

 つまり、歌舞伎や文楽、能楽などの日本の古典芸能は、本来あった土俗的な語り、謡(うた)い、踊り、見世物が、昔からの日本人の思いを伝えてきた古典文学の数々や、あらたに時代に即して書かれたれた様々な物語などの力によって、さらに磨き上げられて芸術として昇華して行ったということなのだろう。

 年を取るごとにいや増してくる、私の日本の古典への思いは、考えてみれば、先祖がえりへの思いであり、さらに言えば”輪廻転生(りんねてんしょう)”へのひそかな願いなのかもしれない・・・。
 それは、昔の時代の人の姿なのか、あるいは犬畜生の、ミャオの世界なのか、あるいは高い山で、風雪の中、生き続けているダケカンバの姿なのか・・・。
 

雨の日のセミとレンゲツツジ

2013-06-17 17:08:53 | Weblog
 

 6月17日

 二日前に久しぶりに雨が降った。
 長い間雨がなく、少し日照り気味だった十勝地方の農作物には、まさしく恵みの雨だったに違いない。
 それは、小さな畑と庭があるだけのわが家でも、植えつけて育ち始めたばかりの、ジャガイモやキャベツやトマト、タマネギやイチゴたちにとってもそうだったろうし、庭の草花たちにとっても花を咲かせて茂っていくための大切な雨だったのだ。
 さらに、いつも井戸の水量が気になる私にとっても、同じようにありがたい雨だった。

 そうして、一日中降り続いた雨の後、次の日はすっかり晴れわたって青空が広がり、辺りを見回すと、明らかに周りの緑が濃くなっていて、そこかしこに草や木がいっぱいに茂りふくらんでいるような気がした。
 林に面した家の窓は、昼間でも薄暗く感じるようになってしまった。すべての木々の葉が、残された日の当たる空間を求めて、出来る限りの背伸びをしているからだ。
 それは、上から見るとよくわかる。前に、森林地帯の空撮の映像を見たことがあるが、それは下の地面や草花が全く見えなくなるほどに、木々たちは互いに枝葉を伸ばして、自分たちに日が当たるように領域を広げていたのだ。

 つまり、彼らはそれぞれに精いっぱいに自分の命を伸ばしているということなのだ。
 そこには、人間界で言われる競争として、相手を倒し優劣をつけるための闘いや、動物界でのいわゆる弱肉強食、食うか食われるかといった争いの意味合いはない。
 ただそこに根づいて、そこで一途に生きているというだけのことだ。木々の下では、いつしかあまり日が当たらなくてもよい植物が、これまた場所を得て繁茂していくだけの話だ。
 だから、草花や樹木を見る時に、私は植物の間の競争などという言葉は使いたくない。彼らは、そこに根づいて、その環境に合わせて、自分なりに力の限り生きているだけのことだ。

 あの残雪の尾根で、幹や枝を曲がりくねらせながらも、しっかりと立っていたダケカンバの木。
 秋に黄葉を落として長い冬を耐え、春に新しく芽吹いて、ただひたすらにまっすぐと伸び続けるカラマツ。
 春先にいち早く花を咲かせたフクジュソウやカタクリは、今や周りに茂る草たちの下で、他の誰かと競い合うこともなく、それでも緑の葉を保ち続けているのだ。
 つまり、きれいな花をつけている時に人間の目に留まるだけの話であり、彼らはいつも自分の立ち位置を理解して、自然の時の流れに応じて生き続けているのだ。
 ああ、それにひきかえ、何と人間たちの不満の多いことか。誰かと比較しては、嘆き悲しみ、ねたみうらやみ、悩み続けているのだ。

 そうしてまで悩むなんて、すべては無駄なことだ。心穏やかに生きるためには、その草花や木々の生き方を学べばいいだけのことだ。
 簡単なことだ。ただ自分を、そうした草花や木々が緑豊かに生きている自然の中に、おけばいいだけのこと。
 自然の中で、時の流れに応じて生きること。人間社会でしか役に立たない余分な宝や地位や功名が、そこでは一体何の役に立つというのだろうか。
 大切なことは、自然の中で生きる一匹の動物としての知恵であり、経験だけなのだ。そして、心ゆるやかにあきらめを知ること・・・。
 そうして、自らに説教するがごとくに言い聞かせるのだ。


「あたりまえな事だから

 あたりまえの事をするのだ。

 空を見るとせいせいするから

 崖へ出て空を見るのだ。

 太陽を見るとうれしくなるから

 たらいのようなまっかな日輪を林中に見るのだ。

 山へ行くと清潔になるから

 山や谷の木魂(こだま)と口をきくのだ。

 ・・・。」

(高村光太郎 「当然事」より 日本文学全集 集英社)


 一昨日に、未明のころから降り出した雨は強く降り続き、朝には水たまりを作るほどだったが、その後は小雨が降ったりやんだりという空模様になっていた。
 しかしそんな中でも、前回にも書いたあのエゾハルゼミ(写真上)たちが、時々鳴き続けていた。晴れた日のように、一斉に鳴いていたわけではないのだが。

 もともと、このセミは晴れた日には鳴くのだが、空が暗い時、朝夕の薄暮時や、曇りや雨の時にはあまり鳴かない。たとえば、晴れた日に、うるさいほどに鳴いていたセミたちが、急に”一転にわかにかき曇り”雨が降り出しそうになると、一匹残らずその鳴き声を止めてしまうのだ。
 今日は、そんな雨模様の一日だったのに、そんなセミたちの一部が、時々鳴いていた。最初は遠慮がちに、やがて何匹かがまとまって鳴き出し、しかし大多数は、押し黙ったままだ。
 あの鳴いていたセミたちは、やがて雨も止んで日が差してくることを予期していたのだろうか、それとも地中から這い上がって成虫になったばかりの、そのエネルギーあふれる第一日目の日だったからだろうか、それとも自分の限られた命の、最後の一日になると知っていたからだろうか・・・。

 私は、鳴くべきなのだろうか・・・。

 庭や林では、さらに花々たちが盛りを迎えていた。
 赤いヤマツツジは散り始めたが、レンゲツツジはその橙色(だいだいいろ)の花が満開になり、黄色の花の方も大分咲き始めている。その足元手前には、今や一大群落となりさらに増え続けているチゴユリの花が咲いていて、その隙間から一本のノボリフジ(ルピナス)の花頭が姿を見せていた。(写真下)
 さらには、庭の生け垣には、夏の花でもあるハマナスの深紅の花も咲き始めていた。

 思えば今の時期は、九州の家に帰っていることの方が多かった。それは、ひとり待っている母やミャオに会いに行くためであり、ちょうどそのころ盛りになる、あの九重連山をいろどるミヤマキリシマの花を見に行くためでもあった。
 しかし、人間とは全くわがままなものであり、毎年のごちそうも、長年続けばいささか食傷気味になる。
 もちろんまた山に登って、その花々を目の前に見れば、やはり素晴らしいものだと得心するに違いないが、もうその前の段階で、ぜひとも行きたいとは思わなくなってきたのだ。
 もう今まで何度も見てきたことだし、あの鮮やかなミヤマキリシマの思い出の貯金は、すでにたっぷりあるのだからと。
 そして何より、今あの家には私を待っていてくれる母も、ミャオさえもいないのだから。

 とはいっても、今の時期にこの家にいたおかげで、また改めて気づくことも多かったのだ。
 今が盛りの、目もくらむようなレンゲツツジの花々、チゴユリの一大群落、あたり一面に香りを漂わせるスズラン、そして満開のライラック(ムラサキハシドイ)の花・・・ただ何と言っても、驚いたのは前回の写真のあのクロユリである。まさしくそれは、あの『あまちゃん』のように、じぇじぇじぇーと言いたくなる一瞬だったのだ。
 いつもこの時期にいなかった私は、もしかして今までもずっと咲いていたこのクロユリを、見逃していたのではないか。そこで、クロユリについて、あらためてネット上で調べてみることにした。

 まずその花について、花が咲くまでに十年近くかかり、最初に開いた花は一輪だけで、オシベがなく、その次の年からメシベ、オシベとそろった花が二三輪ずつ咲くようになるということ。(その花の臭いは、ハエをおびき寄せるために悪臭がするのだということ。)
 実は、写真を撮ったその一輪の花のそばには、少し位置が悪くて写さなかった二輪咲きの株が二つあったのだ。ということは、やはり今年になって初めて咲いたわけではなく、その時期に私がいなくて知らなかっただけのことなのか。

 その色合いについては、確かに本州の高山地帯に咲く花は色が浅く、ミヤマクロユリと名づけられていて、それは私も見たあの白山に群生している事から、石川県の県花にさえなっているということであり、さらに花弁の内側が黄色く見えるものは、キバナクロユリと呼ばれているということ。
 そして本来の北海道に咲くクロユリは、別種のエゾクロユリと名づけられているのだ。

 そんなネットに掲載されている何枚ものミヤマクロユリの写真と比べて、この北海道に咲くエゾクロユリの、深い黒紫色のいさぎよい姿が、何と北の地にふさわしいものかと思えてきた 。

 さらに、そのクロユリの花言葉は、”秘められた恋”であり、なるほどそれで前回少しいぶかしく思っていたあの「黒百合の歌」の歌詞にも、あらためて納得がいくというものだ。
 まさしく、その花言葉は、こんな北海道の山の中でくすぶっていながらも、ひそかな想いを抱き続ける私にこそ、ふさわしいものかもしれない・・・てへっ、と照れていると、空の上のミャオからの一言。
 「あなたにふさわしいのは、そのくさい臭いの方でないの」・・・チョン、チョン。お粗末なオチの一席でした。

 もう一つ付け加えて言えば、クロユリにはもう一つの花言葉があって、”呪(のろ)い”とか”復讐(ふくしゅう)”とかいった、穏やかならぬ意味があり、今回ネットで調べた時にも、今公開中とかいう、その『黒百合団地』という映画の項目がずらりと並んでいたのだ。
 それは日本のホラー映画であり、元AKBのあっちゃんが主演だということだった。

 映画と言えば、最近のニュースの一つだが、あのアメリカとEUの自由貿易交渉の中で、フランスが自国の文化を守るべく、映像等の自由化は認められないと、ガンとして主張し続けているとのことだ。
 そこには、娯楽大作映画が主流のアメリカ映画の大きな波から、自国の芸術文化としての映画を守り抜くのだという強い姿勢があり、まさに伝統的芸術の国フランスの、国家としての意地を見る思いがするのだ。
 それは、まさに”判官(はんがん)びいき”というか、あるいは「やせがえる負けるな一茶ここにあり」という私の思いでもある。

 わが国には、そんな伝統ある民族芸術の一つとして、歌舞伎がある。
 5月に放送されたNHK教育『古典芸能への招待』では、あの「こけら落とし4月大歌舞伎」公演の模様を伝えていた。すべてが、ダイジェスト版の形だったけれども、すでに知っている有名な演目ばかりで、そのさわりの部分だけでも十分に楽しむことができた。
 坂田藤十郎の舞踊・「鶴寿千歳(かくじゅせんざい)」に始まり、三津五郎と中村屋一門の「お祭り」、吉衛門の「熊谷陣屋」、玉三郎の「将門(まさかど)」、菊五郎の「弁天娘」、仁左衛門の「盛綱陣屋」、幸四郎の「勧進帳(かんじんちょう)」という、息つく暇もない豪華さだった。(そこに、相次いで亡くなった勘三郎と団十郎の名前がないのは、やはりさびしいけれど・・・。)

 その中でも、「熊谷陣屋」での吉衛門は、主君に使える侍であるがゆえにわが子の首を差し出すことになり、その苦しみから無常さを悟り、頭を丸め出家しての旅立ちの時に、舞台の幕が引かれた花道で、三味線一本との掛け合いで、切ない心情が溢れ出るさまを演じていた・・・さらに「将門」で、亡き将門の娘である怨念(おんねん)に満ちた玉三郎演じる滝夜叉(たきやしゃ)姫が、これまた花道で、ろうそく二本に照らし出されてせり上がり現れる時の、この世のものとは思えぬ幽遠な美しさ・・・。

 歌舞伎は、江戸の昔から、今のような照明もない時代から、ローソクの光に照らし出されての、舞台の配置や色合いを考えて、役者はそれぞれに自分の演技に思いを凝らして芝居を作り上げ、明治維新の一大変革や、太平洋戦争の破壊殺戮(さつりく)の荒波を潜り抜けて、その民俗芸能の伝統を守り伝えてきたのだ。
 それも国家としての大きな支援もなく、ただ市井の人々の人気支援だけを頼りに、民間興行としてその伝統芸能の命脈を保ち続けてきたのだ。
 それをいつでも見ることができて、心ゆくまで楽しみ味わえる日本人としての幸せ・・・。

 さらにまたもう一つ、日本の誇るべき古典文化遺産がある。それは、千三百年近く前に編まれたあの『万葉集』や、千年も前に書かれた紫式部の『源氏物語』に代表される、古典文学の数々である。
 『万葉集』については何度か目を通していて、このブログでもたびたび触れてきたが、一方の『源氏物語』については、いまだ全巻通読の途上にあるのだが、それでもさまざまな人間関係の中で、今も昔も変わらぬ人の思い、その揺れる心と残る思いのはかなさは痛いほどに感じとることができる。

 今月初めに、BS-TBSで放送された特別番組、『瀬戸内寂聴とドナルド・キーンの私の源氏物語』(司会は、何とあの中江有里さんだった)、その中でお互いに90歳を越えたお二人の、源氏物語に寄せる思いのほどもさることながら、それぞれのよどむことのない弁舌にも感じ入ってしまった。あの、エベレストの三浦雄一郎さんの80歳という年齢がかすんでしまうほどだ。
 生きていくということは・・・。

 昨日は久しぶりに、家のゴエモン風呂をわかして入った。いい気分だった。
 その掘っ立て小屋のただ開けただけの窓から、今が盛りの、レンゲツツジの橙色と黄色の花々が、大きく盛り上がるように見えていた。
 その後ろには、長年の雨風、塵埃(じんあい)に耐えて、今や黒ずんだばかりになってしまった私の山小屋が見える。
 夕暮れの曇り空の下、セミの鳴き声もすっかり収まってしまい、林の中ではただひとり、ほがらかなキビタキのさえずりだけが聞こえていた。

 「あたりまえの事だから、あたり前のことをするのだ・・・。


 
 

クロユリとミヤマカラスアゲハと残雪の山々

2013-06-11 17:47:54 | Weblog

 

 6月11日

 さわやかに晴れ渡った日々が続いている。朝の気温は10度位だが、日中は上がっても25度まではいかないほどで、吹く風が涼しい。
 こんな日には、家の中にいてパソコンの前なんかには座っていられない。
 それは、天気のいい日には誰でもが外に出たくなるように、まして緑に囲まれたわが家ではなおのことだ。

 というよりは、この暖かさで一気に爆発的な春がやって来たからだ。それは夏というよりは、まさしく冬の名残の寒さが去った後の、疑いもなく春の躍動繁殖の時だったのだ。生物界のすべてが見る見るうちにあちこちに姿を現し、ふくれ上がっていったのだ。

 庭に咲く赤と黄色のチューリップの花に始まり、シバザクラの白と桃色の花の集まり、赤いエゾヤマツツジに橙色(だいだいいろ)のレンゲツツジ、さらにスモモやリンゴの白い花に、ライラックの紫の花、そして林のふちには、白いチゴユリの群落、さらには甘い香りと可憐な姿のスズランと、林の中にはベニバナイチヤクソウの群落も赤い花をつけはじめている・・・。
 そんな中で、ナナカマドの木の幹のそばに、数輪の黒い花が咲いているのを見つけた。
 なんと、それはクロユリだった。(写真上)

 北海道では、それほど珍しい花でもなく、原野などでよく見られるのだが、家の林の近辺で見たのは、これが初めてだった。
 実は数年前から、そこに何かユリ科かラン科のような葉をつけた植物があったのは知っていたし、草刈の時などにもそこは残しておいたのだが、それは何と嬉しいことにクロユリだったのだ。

 私は、この花をむしろ山で見ていることの方が多い、北アルプスの後立山連峰や南アルプスの北岳や兎岳(うさぎだけ)、そして4年前の白山(はくさん)でも見たのだが、あの時の花は、むしろこげ茶に近い色に見えたし、それと比べると、こちらの方が黒に近い黒紫といった感じだった。
 まだこの周りには、他にも何株もあるから、年ごとに増えていきそうである。
 しかし不思議なのは、どうしてクロユリの種がそこに運ばれたかである。もちろん私が移植した覚えはない。とすると、鳥が運んだのか、周りにいる動物たちが残したフンの中にあったのか、あるいは春の山菜取りの時に、アイヌネギやウドなどについていたものなのか・・・。

 ところで、このクロユリと言えば、その昔、NHKの”懐かしのメロディー”で、何度か聞いたことがある歌なのだが、アイヌ音楽風な太鼓の響きに始まり、確か「クロユリは恋の花、愛する人に捧げれば、二人はいつかは結ばれる・・・」とかいった歌詞だったように憶えている。
 (後で調べてみると、これは織井茂子の歌う『黒百合の歌』(昭和28年)であり、何と映画『君の名は』第2部の主題歌だったとのことである。)
 そうした話はともかく、実のところこの花の匂いは、そばに寄って嗅いでみると、何ともイヤな汗臭い感じの臭いがするのだ。
 それは、あのロマンティックな歌詞の意味するところからは、かけ離れた臭いであることは間違いない。歌の世界は別なのだ。

 ただし当時は、このアイヌ文化的な日本辺境エキゾティシズムが流行っていた時代だったのだ。
 あの有名な、伊藤久男の歌う『イヨマンテの夜』(昭和24年、これもまた『黒百合の歌』と同じ菊田一夫作詞・古関裕而作曲によるもの)や『オロチョンの火祭り』(昭和27年)などが、まさしくその代表的なものだし、文学作品で言えば、アイヌの文化と自然を背景にした一大ロマンである武田泰淳の『森と湖のまつり』(昭和33年)が思い起こされる。
 今はとても読み返す元気はないが、あの石坂洋次郎の『若い人』(昭和12年)とともに、当時は人気の恋愛小説だったのだ。

 ああ、あのころ、まだ学生だった私は、あの『若い人』の主人公、江波恵子のような、どこか陰のある利発な美しい娘に恋をしていたのだ。
 叶うはずもない美女と野獣の恋・・・てへー、そんななれの果てが、流れ流れて、いや好き好んで、もともとはアイヌの大地である北海道に移り住んでは長年暮らしていて、そこでクロユリの花に出会うという、まさに支離滅裂なしかしどこかつながりのある話で、そのお粗末な一席は、このあたりで幕引きとさせていただきまーす・・・・チョン、チョン、チョンと。

 またしても話がそれてしまったが、さて、北海道ではこのクロユリのように、本州などでは高山植物として珍しがられている花が、平地に普通に咲いているのだ。
 もうずいぶん前のことだが、近くにある日当たりのよい雑木林が伐採されて、トドマツの植林地になってしまった。
 そこはスズランなどの群生地でもあり、あのハクサンチドリまでもが咲いていた所だったのだが、それらの花もやがては、うっそうと茂るトドマツの樹林帯の下で消えゆくことになるのだろう。
 そこで私は、そのハクサンチドリの二株を採って、家の林のふちに移植することにした。(もちろん私には高山植物などを採ってきて育てるなどという趣味は全くないのだが、この場合は、緊急避難としての移植だった。)
 しかしそれは、二三年は根づいていたものの、花が咲かなくなり、いつしかその姿がなくなってしまった。
 やはり、野山の花は咲くも散るもそのままに、”やはり野におけ、レンゲ草”ということなのだろう。

 さて、庭仕事はいろいろとある。芝生の草取り、移植補修、そして芝刈り。道の周りのセイヨウタンポポやセイタカアワダチソウなどを抜いていき、さらに草刈ガマで刈っていく。
 その汗まみれの私を目指して、喜びの声をあげて寄ってくるものがいる。蚊とハエだ。しつこい蚊もうるさいが、何よりいやなのはサシバエだ。
 親からもらったもち肌のにの腕に、5ミリほどの丸い赤い刺し跡が残り、しばらくすると猛烈にかゆくなり、はれ上がり、昔のツベルクリン注射後のように何日もその跡が残り、痛がゆいのだ。
 彼らにとっても、繁殖のための絶好の時であり、私としても多少の献血への協力は仕方ないとしても、かゆくて痛いのは願い下げである。

 一方では、この数日、家の林全体から、エゾハルゼミのすさまじいまでの鳴き声が聞こえている。
 ”セミしぐれ”などといった情緒のかけらもない、地響きをあげるかと思うほどの、セミたちの声だが、不思議なことに、庭仕事に夢中になっている時には、その声に慣れて忘れてしまい、一休みした時に空を見上げて、そのうるさいまでのセミの大群の声に気がつくのだ。

 緑豊かな北海道の大地には、すべて合わせると何匹のエゾハルセミがいるのだろうか。
 セミの抜けがらが、一本の木に数個以上はついているから、この土地の面積が約1ヘクタール(約3000坪)あり、そこに木が数百本位あるから、少なくとも2千5百匹・・・ということは、北海道の面積の約70%が森林に占められていて、そのおおよそ550万ヘクタールのうち、高山帯の木々を除いた残り半分ほどの、森林地域で鳴いているエゾハルゼミの数だけでも、ものすごい数字になる・・・。

 やめよう、それは夢の中に際限なく出てくるヒツジの数を数えるようなものだ。
 ともかく北海道には、たくさんのエゾハルゼミがいるのだ。彼らはそれぞれに、長い幼虫の期間を土の中で過ごした後、セミとなって地上に現れて、1週間余り鳴いては交尾して子孫を残し死んでゆく。太古の時代から繰り返されてきた生と死のサイクルを、己の短い生涯の中で果たしているだけのこと。
 それぞれの優劣の差などは、全体にとっては大したことではない。
 水族館の大きな水槽の中で見る、あのイワシの群れの巨大な流れのようなものだ。個ではなく、全体としてあり、なおかつそれぞれ個として必死に生きているのだ。

 視線を庭に戻すと、シバザクラの小さな花の一つ一つを渡り歩いて、小刻みに羽を動かしているチョウがいた。
 これまた毎年、同じように現れる、ミヤマカラスアゲハだ。(写真)

 


 いわゆる春型のオスということになるのだろうが、カラスの濡れ羽色のような地色に、青緑色の後ろ羽とふちに並ぶ緋色の斑点模様・・・思わずしばらく見続けてしまう、これもまた季節の贈り物の一つなのだ。

 そうして庭仕事などをしていたのだが、こうも天気の日が続くと、いつしかこれでいいのか、山に行かなくていいのかという思いが湧き上がってくる。
 前回の登山から、もうすっかり体力は回復しているのだが、何しろ最近、輪をかけてぐうたらになってきたこのタヌキオヤジのケツを叩いて、朝早く出かけさせるなんてことは、もう至難の業(わざ)になってきているのだ。
 しかし、この初夏らしいさわやかな空の下で、終日残雪の山々が見えていると、さすがのぐずぐずオヤジも、じっとしてはいられなくなるのだ。

 午前中だけでも、あちこちから山々を見て回るべく、クルマで出かけたのだ。
 クルマの窓ガラスを開けて、新緑の香りと牛の堆肥(たいひ)の臭いを併せた初夏を感じながら、走って行く。窓の外には、一面の菜の花畑の彼方に、残雪の日高山脈が見えている。(写真下)
 さらに山に近づくと、雪解け水を集めて菁白色に流れる川を前景にして、十勝幌尻岳やカムイエクそしてペテガリ岳などの残雪の山々が大きく見えてくる。
 展望台へと遊歩道を登ると、ぐるりと開けた四方に十勝平野の広がりと反対側に立ち並ぶ日高山脈の山々・・・これでいいのだ。
 山に登らなくても、この緑に囲まれた丘の上から山々を見ているだけでも、それはまたいつか歩けなくなった時のための、事前演習でもあるのだから。

 こうして無理なく、年寄りらしい日々を送ることと、一方では、自分に最大限の負荷をかけて、エヴェレストにまで登ろうとする人との差は・・・。
 昨日のNHK『クローズアップ現代』では、あの三浦雄一郎さんの、とても80歳とは思えない体力と気力の秘密に迫っていた。
 両足に5㎏の重りをつけ、背中に20㎏のリュックを背負い、毎日歩き続けること、ただエヴェレストに登るという一念だけで。
 彼の体を診察して、感嘆の声を上げた医師のまとめの言葉。
 人生に確かな目的を持つこと、気力を込めてその目標に向かうこと・・・。

 さらに三日ほど前の、テレ朝の『人生の楽園』での話だが、60歳を過ぎて夫に先立たれた妻は、毎日を泣き明かし続けていたのだが、ある時ふと気づいてこのままではだめになると思い、夫のものをすべて袋に入れて処分し、心機一転、自分の趣味でもあるキルトを展示したカフェを開いたのだった。

 私はというと、情けないことにいまだ母の死と、ミャオの死を十分に受け入れることができずに、二人の思い出の中に埋もれて、うだうだと、くすぶり続けているのだ。
 今さら若い時のように、何かを期待して待っているわけではないのだけれども、ともかく自分で一歩を踏み出さなければ・・・それは環境を変えることなのか、考え方を変えることなのか、それとも穏やかに暮らすことだけで十分だと思う今のままでいいのか・・・。

 

 


ダケカンバと老子の言葉

2013-06-03 21:56:22 | Weblog
 

 6月3日

 数日前のことである。雨が降った後の翌日の天気予報は、全道的に晴れのマークがついていた。これでは、もう山に行くしかないでしょう。
 手近なところで日高山脈の山に登るとしても、キツイ登りはイヤだが、今の時期には低い山ではもう雪が大分溶けていて、残雪の山歩きの楽しみが十分には味わえないだろうから、それなりの山に行かなければと。

 そこで久しぶりに、日高山脈中部の十勝幌尻岳(とかちぽろしりだけ、1846m)か、それとも南部の楽古岳(らっこだけ、1472m)に登ろうかとも考えたが、この融雪期の雨で、沢は水があふれているに違いない。
 勝幌(通称かちぽろ)の方は、登山口の少し先にある沢に架けられている二か所の丸木橋が、あまりにも心もとないものだから、もし流されていれば少し上の所から、靴を脱いで渡らなければならないし、楽古の方も、いつもは靴でも渡れる渡渉(としょう)点が、おそらくは長靴でもダメでここでも靴を脱いで渡らなければならないかもしれない。

 それぞれの山で、そんな経験が一二度あるから、ついおっくうに思ってしまうのだ。沢登りの場合は、最初から水の中に入るのが楽しみの一つでもあるからいいのだが、今はまだ雪が残っていて冷たいし水量も多く、そんな時期ではない。
 それならばと、北部の芽室岳(1754m)に行くことにした。あそこの丸木橋は、直径30cm近くもあるような大きな丸太が三本並べられたしっかりしたものだから、心配はないはずだ。

 上空には、衛星写真で見たように、南北にのびる前線の雲がまだ十勝地方全体にかかっていた。しかし、その西側には青空が広がり、日高山脈の山々も、雲の影になりながらもくっきりと見えていた。
 清水町の広大な丸山牧場を抜けて、しばらく砂利道の林道を走ると、小さな山小屋のある登山口に着く。もう7時前にもなっていたが、広い駐車場は空いたままでがらんとしていた。
 登山口の目の前に、そのしっかりした丸木橋が架かっていた。沢は川幅いっぱいに水があふれていて、うねり高まってしぶきを上げ、激しい音を立てて流れていた。もしこの橋がなければ、とても渡渉することは不可能であり、諦めて戻るしかないほどの流れだった。

 ありがたく感謝しながら橋を渡ると、道のそばに小さな赤い花が群れ咲いている。オオサクラソウの群落である。今の時期には、この日高山脈の山々の沢沿いの道では、どこでもこのオオサクラソウを見ることができる。
 中でもあの楽古岳では、登り始めの山腹の道の両側に列をなすように咲いていて、今回は、それを見るためにも楽古岳に行きたいと思ったのだが、それが少し残念ではある。
 まあしかし、山に登ってその頂上からの眺めをいえば、楽古岳からは目の前にでんと十勝岳が見えるだけで、北に続く山々の幾つかが隠されてしまう。むしろその十勝岳からの眺めの方が、南に楽古、北に日高主稜線の連なりが見えて、私としては好きなのだが。

 小さな台地に上がり、アカエゾマツの林を抜けると明るいササの斜面に出る。
 見上げる空は今や、青一色になっていて、右手の木々の間からは、白い稜線が続くウエンザル岳(1576m)が見えていた。実はこの山にはまだ登っていなくて、道がないから、冬から残雪期の今の時期か、それとも夏の沢登りでしか登れないのだが、今一つその気にならずに、いつも後回しになってしまっている・・・。

 さて問題は、そのササの斜面の道だ。それまで長い間、雪に覆われていたので、押しつぶされて道の上に覆いかぶさる形になり、さらにササの葉が枯れているうえに雪解け後のごみがついているから、かき分けるごとにそのホコリがすごくて、うかつにも首から下げていたカメラがほこりまみれになってしまった。
 ただでさえホコリに弱いデジタル・カメラだから、これはヤバイと、タオルでホコリを払っては見たが、それで見た目は何ともないのだが、後になって画像にホコリが点々と写りこむようになるのではないのか、予期しないというべきか、単なる自分の不注意というべきか・・・。
 教訓・・・思っても見ないことが起きるのは、その人が思っても見なかったから悪いのである。決して何かのせいではなく、まして運命などではないのだ。

 大きなジグザグを切って登って行った後、少し勾配はゆるくなったが、まだササかぶりの道は続いている。私はずっと左側に目を向けて探していたが、やっとその白い連なりが見えてきた。待望の雪堤(せきてい)である。
 冬の北西の卓越風によって、尾根の東側に吹き寄せられて、堤状に積もった雪の道であり、前回の双珠別岳(そうじゅべつだけ、1389m)の時(5月20日の項)と同じように、この残雪時期の山歩きの楽しみである。
 この芽室岳には、今まで4回登っていて、紅葉の時期に一度の他は、いつもこの時期の前後である。
 もっと早い時期だと、登山口の橋を渡ってすぐに雪道が始まるのだが、その時はその時でまだ雪が安定していなくて、所々踏み抜いたりはまったりするし、厳冬期は雪が柔らかいからワカンのラッセルが大変で、山スキーに頼るしかないだろうし、夏は暑くていやだし、どんな時でも一長一短があるのだ。

 ともかく雪の上に出て、あのササかぶりの道からは解放されたのだ。そこで一休みをした後、その雪堤の上をたどって行く。
 昨日の雨のためか、それまでにつけられていたはずの足跡さえも見分けにくい。雪はもう凍ってもいないし、クサッてぐちゃぐちゃでもないし、歩きやすい固さだった。
 靴は夏山用レザー靴で、その上から雪山用のスパッツをつけているだけで、アイゼンもワカンも持ってこなかった。
 しかし、しばらく歩くとその雪堤は途切れて、右手の夏道に戻ったが、その道の所々に薄くなった雪が残り、かえって歩きにくかった。そして再び雪堤が現れ、今度は広く厚くしっかりとした形で、上までずっと続いていた。

 青空とはるか上にまで続く白い雪堤。静かだった。下の沢の方から一羽のルリビタキの声が聞こえていた。
 もう、夏が近いのだ。私は長そでのシャツを脱いで、Tシャツ一枚になっていた。(この日、帯広の最高気温は28度にまでなったのだ。)

 ヒグマよけの鈴は、下の登山口の辺りで鳴らしただけだった。
 ヒグマが、夜間に尾根を越えるために通ることはあっても、こんなに晴れた日の明るい時間に、深い雪に覆われて食べ物もない尾根に現れるとは思えないから、その心配がないだけでも今は心穏やかに歩いて行くことができるのだ。
 (とはいえ、この登る時には見逃していた、かすかに残っていたヒグマの足跡を、下りの時に見つけた。それは西側の谷から尾根を越えて東側の谷へと横切っていたのだ。)

 振り返ると、歩いてきた雪堤が続きハイマツとダケカンバがその間を区切り、青空には前線の名残の白い雲がたなびいていた。(写真上)
 何という、穏やかなひとときだろう。
 前回の双珠別岳の時と同じように・・・おおらかな白い広がりに包まれて、ひとり、静かにいることの幸せ・・・。

  「おお、神様、

  私があなたの所へ参ります日は、

  晴れて、白い山々が良く見える日にしてください。

  昼間でも星の出ている天国へ参りますには、

  この世にいる時に私がしたように、

  私の気の向いた山道から行くようにしたいものです。

  私は手にストックを持って、雪の道から参りましょう。

  私のかけがえのない友だったミャオに会えるように、

  ひたすらに登り続けるでしょうから、

  私をいつの日か、その手にすくいあげて、

  ミャオの星と並べておいてください、

  毎日、あなた様に祈りをささげますれば・・・。」

 (フランシス・ジャム「驢馬と連れ立って天国へ行くための祈り」からの変奏詩)

 やがて、行く手の左側がすっきりと開けて、たおやかに山稜を伸ばす芽室岳の山頂が見えてきた。(写真)

 

 さらに右手に続く夏道のある尾根は、ダケカンバが低くなりハイマツが目立ってきて、その後ろには芽室岳西峰(パンケヌーシ岳、1746m)の雄々しい姿も見えてきた。(写真)

 

 私はその写真を撮るために、雪堤からハイマツの尾根に戻り、一休みした後そのまま夏道をたどり、1690m分岐点コブへの最後の急な斜面を登り続けた。
 ところが何としたことか、急に息が乱れ始めて、脚にも疲れがたまって思うように前に進まなくなったのだ。
 数歩、歩いては立ち止まりの状態で、これ以上体に負担をかけては本当に危ないことになる。心筋梗塞(しんきんこうそく)、脳梗塞(のうこうそく)という文字がちらちらと見え、誰もいないこんな山の上で倒れたら・・・ああ神様、私はまだ天国に(地獄かもしれないが)召されたくはないのですと祈り、一方ではこれこそ先ほどのジャム的な願いにかなうことではないのかと、思いはちぢに乱れて、それでも不思議な義務感からか、よたよたの脚は本能的に動き続けるのだった。
 おそらく、この斜面だけでも倍の時間がかかったのだろうが、フラフラとしながら登り続けていると、ようやく終わりに近づいて夏道は、左に続く雪堤の急な斜面に消えていた。

 場面は変わったのだ。その急斜面をキックステップでつま先をけりこんで登ると、後は頂上とのコル(鞍部)に向かって斜面を横切るトラバースになり、ようやく先が見えたのだ。
 コルからは左右が開けたなだらかなハイマツの尾根をたどり、ようやくのことで周囲の大展望が広がる山頂にたどり着いた。
 なんと登山口からは4時間半、コースタイムよりは1時間も余分にかかったことになるのだ。

 これを、年のせいだと思うべきか。つまり、天国へのお迎えが近づいてきているとみるべきか。
 これからは、いつも遺書をふところに忍ばせて、他の人に迷惑をかけぬように遭難費用だけは残しておいて、山に登るべきなのかもしれない。
 ああ、それにしてもいつ突然死ぬかもしれないという、何という切迫感あふれた単独行者のスリルだろうか・・・あへー。
 しかし、こんなことで死ぬの生きるのなどとわめいている私は、あの老人の星、三浦雄一郎さんのエヴェレストと比べて、何と恐ろしく次元の低い山登りをしていることだろう。
 まあ、アリにはアリの、ゾウにはゾウの時間があるわけだから・・・。

 やめよう、そんなことを考えるよりは、今はただこの山々の展望の中に、ひとりいることに感謝すべきなのだ。
 上空には変わらずに青空が広がっていた。山々の上には、その姿を隠すほどではないが、点々と雲が出ていた。
 風も余りなく、上に厚手の長袖シャツを着ているだけで十分だった。

 東側に広がる十勝平野の大平原に身を乗り出すように、十勝幌尻岳(1846m)があり、それは札内岳(1896m)、エサオマントッタベツ岳(1902m)へと続き、その上にわずかに頭をのぞかせているのはカムイエクウチカウシ山(1980m)であり、エサオマンの手前に印象的な北面を見せているのは伏見岳(1792m)だ。エサオマンから続く尾根には私の好きな1760峰があり、伏見岳からの稜線はピパイロ岳(1917m)へとせり上がり、日高第3位の1967峰のドームが高い。そして、ピパイロの後ろに少し頭を見せているのは日高幌尻岳(2053m)である。(写真下)

 

 この日高幌(ひだかぽろ)は西峰の方からだと、すっきりと見えるのだが、その分エサオマンなどが少し隠れてしまう。この芽室岳と西峰のそれぞれの展望は、互いに一長一短があるのだ。
 さて、その西峰の後ろにはペンケヌーシ岳(1750m)のこれまた東西二つの峰があり、さらに西峰から続く北部の日高山脈は、ウエンザル岳からペケレベツ岳、先日の双珠別岳からさらにはサホロ岳へと続いているのが見えるが、あの2週間前と比べてすっかり雪が少なくなったのがわかる。
 その後ろに少しかすんで白い山なみが見える。十勝岳連峰から、大雪山、石狩、ニペソツ、ウペペサンケと続く東大雪の山々である。

 登りに時間がかかりすぎたので、下りが心配になる。いつもは頂上に1時間近くいるのに、30分ほどで切り上げて、下りて行くことにした。
 ハイマツのゆるやかな尾根を下り、分岐の所から、登りに苦しんだ急な夏道を下らずに、そのまま雪堤通しに下って行くことにした。
 しかし、先では、45度に近い急勾配になってしまうのだ。アイゼンなしの、キックステップだから、慎重に足場を確かめて、しかし所々、固く凍ったままの斜面があり、二三度、かかとが踏み込めずに滑りそうになってひやりとした。それもストックだけでピッケルも持ってきてはいないからなおさらのことだ。そこで、横に二三歩トラバースして、足場をもぐりこませてから下りて行く。

 やがて急勾配の斜面も終わり、後はずんずんと下りて行けるようになった。
 右手の雪の斜面の下には、何本ものダケカンバがそれぞれの形でしっかりと立ち並んでいる。

 吹きすさぶ風に耐え、冬の雪崩(なだれ)に耐え、さらにはこれからの雪堤崩壊の雪崩に耐えて、そのたびごとに枝幹を曲げながらも生きていく、たくましいダケカンバ。
 それらの季節を過ぎれば、この暖かい日差しの下、降り積もった雪は今度はダケカンバたちの命の水となり、やがては若葉を茂らせて、鈴なりの花をつけて、花粉を飛ばしては、互いに求め合いながら、次の世代への用意も怠りなく、ひたすらに生きていくのだ。
 ”柳に風と受け流し”というたとえがあるけれども、こうした高山環境の中で生きのびていくダケカンバたちのことを、”ダケカンバに雪と受け流し”と言い換えたいくらいなのだ。

 自分の弱さを知ったうえで、それ以上のものには逆らわず柔らかく受け流し、何としてでも生き抜いていくこと。
 自分に必要なものだけあれば、それだけで十分であり、その生き方は足るを知ることにあるのだ。
 そのダケカンバの姿こそが、実は今までにも何度もこのブログでも取り上げてきた、中国の老子の教える生き方に似てはいないか。
 道(タオ)の理(ことわり)に従い、水の流れのごとくに生きること・・・。

 先日、これも今まで何度も取り上げたことのある番組なのだが、NHK・Eテレ(教育)の”100分de名著”で、先月取り上げられていたのは、その『老子』だった。
 2000年以上も前に木簡(もっかん)に書き残されていたという、中国春秋戦国時代のこの本については、あの『徒然草』と同じように読み直すたびに新たな発見があり、こうしてテレビで放送されれば、やはり見てみたくなるのだ。

 この名著シリーズは、その番組を案内するキャスターとタレントの組み合わせが、しばらく前から変わってしまい、それは番組をより親しみやすくするために考えられたものだろうが、ただでさえうるさくしゃべりすぎるタレントと、バラエティー番組向けの演技が気になるキャスターの組み合わせで、せっかくの名著の格調の高ささえも崩れてしまう。
 この「老子」でも、もっと担当の先生の話を聞きたかったのにと、消化しきれなかったもどかしさが残るのだ。
 まさしく、万人向けに作られた番組は、決してそれぞれの人に合うようには作られてはいないのだ。
 こうしたバラエティー向きキャスターとタレントにしたおかげで、新たに見るようになったという人がどれだけいるのだろうか、逆に私のようにいやな思いを残した人もいて、様々なプラスマイナスもあるのだろうが。

 決して声が届くこともないだろう、あくまでも私の希望だが、出来るなら、前の「日曜美術館」の森田美由紀キャスターに、タレントは「日めくり万葉集」の壇ふみか「週刊ブックレビュー」の中江有里あたりにして、じっくりと番組を進めてもらいたいものだ。

 話がそれてしまったが、その後も、私の大好きなダケカンバと雪堤と青空の組み合わせの中を、快調に下り続けて夏道に戻り、あの登りの時に苦労したたササの斜面に出たが、ササは下りでは順目になり、それほど気にならずに下りて行くことができた。
 登山口には、私のクルマ一台だけが待っていた。
 下りの時間は、登りの半分もかからなかった。休みも含めて合計7時間余り、今の私にはさほどの疲れも感じることなく、適度な山行になったのだ。

 などと言ってるが、登りの途中で死にそうだとねを上げていたのは、どこのどいつだいと言いたくもなる。
 全く、人生は”のど元過ぎれば熱さを忘れ”の繰り返しで、いつもその場限りの反省だけなのかもしれない。

 クルマに乗って来た道を戻り、近くの国民宿舎の風呂(260円)に入って、さっぱりして、雲の下に並んでいる山々を見ながら、家に向かった。
 ああ、いい一日だった。そんなふうに言える日々が、あと何日あるのだろうか。

 しかし、それほどまでに印象的ではなかったにせよ、何事もなかった普通の一日だったにせよ、実はその人の生きていた中での、素晴らしき日々の一日だったのかもしれないのだ。後になって思えば・・・。