ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

末の露と本の雫

2020-05-25 22:08:32 | Weblog



 5月25日

 あまりにも長い間、ブログ記事を書いていなかったので、そのキーボードで打つ書き始めの手はずにさえとまどってしまった。
 物事をおし進めていくには、いかに習慣化された行動が必要か、ということを今さらながらに思い知らされたのだ。
 もっともそれは逆に言えば、習慣化された悪癖を、なかなかやめることができないというこにもなり、昨今のコロナ禍における世間の、様々な出来事を見ればわかることでもある。
 ただこうしてキーを押して、言葉が文章になっていくのを見ることは、いかばかりかの達成感も感じられて、自分だけの小さな満足感に浸ることもできるのだが。

 さて、東京方面は晴れた日の少ない曇り空の日が続いているそうだが、一転この九州では、曇り空や雨の降った日は数えるくらいで、いかにも皐月(さつき)の空と呼ぶにふさわしい五月晴れの日が続いていて、毎日新緑の山を眺めることできる(冒頭の写真)。
 もちろん、家にじっとしていることのできない私は、何度となく山野歩きを楽しんできた。
 その多くは、家からの1時間半余りのいつもの長距離散歩であり、さらには別な山道を結んでの2時間半余りのトレッキング、つまり山野歩きなのだが、さらにクルマで少し離れた山にも一度だけ行ってきた。

 もちろんこの緊急事態宣言下では、人の多い人気の山などに行くわけにはいかないし、おなじみの九重では、連休後半からあの牧ノ戸峠の駐車場が閉鎖されていたこともあって、仕方なく地元の山野を歩き回っていたのだが、幸いにも合計で数回は歩いた山野歩きでは、誰に会うこともなく、私なりの山歩きを楽しむことができた。
 さわやかな風の吹く青空の元、新緑の中を歩き回り、時々立ち止まっては、木々の姿や遠くの山々の眺めを楽しんで、ひと汗かいて家に帰り着くのだ。(写真下、今はどこの山麓でも目立つミズキの花であるが、前回5月5日掲載のフジの花と同じ場所で写したものである。)



 こうした山歩きが、年寄りにはちょうどいいころ合いの、疲れすぎない時間での運動(エクササイズとかいうそうだが)にもなるのだろう。

 ともかく、こんな時期まで九州の家にいるのは久し振りのことなのだ。
 十数年前に母が亡くなった時に、百箇日の服喪期間の間、家にいた時以来のことであり、あの時はただただこみ上げてくる辛い思いから逃れるべく、三日と空けずに、家の周りのいくつもの小さな川の上流部の沢に出かけては、沢登りに没頭していたのだが。
 もっともそれは、高い山ではないから、滝一つない小沢歩きに過ぎなかったのだが、そうすることによって、自分のいたたまれない思いを、少しでも紛らわしたかったからなのだろうが。

 昨日ふと見たテレビ番組の中で、離婚後の喪失感に苦しんでいた人が、耐えきれずにある人に相談したところ、その人は事故で娘をなくしていたのだが、月日がたった今言えることは、”忘れること”だと言ったそうだ。
 もちろんそれは、すべてを忘れてしまい記憶の中からなくすということではなく、日常の仕事に紛らわして、そのことばかりを考えなくてすむようにするということなのだろうが。

”よそなれど おなじ心ぞ 通うべき 誰も思いの ひとつならねば”

(『新古今和歌集』巻第八 小野宮右大臣)

 この歌の作者の小野宮(おののみや)中納言は北の方を亡くしていて、同じく妻を亡くしたばかりの藤原為頼朝臣(ふじわらのためよりあそん)へ慰めの歌を贈ったのだ。
 ”他人ではありますが、同じように妻を亡くした思いはよくわかります。他の人たちが思うよりはずっと。”

 ともかくそうして山野歩きをすることで、日ごとに木々の芽吹きから新緑の葉や花が開いて行くさまを、じっくりと眺めることができたりして、それは今まで分からなかった樹々の見きわめにもなったのだから、外出自粛で北海道に行くことができなくなったとしても、私にとっては、そう悪いことばかりでもなかったのだと思いたい。

 さらにもともと、”引きこもり老人”の傾向がある私には、こうした緊急事態宣言下でも、それほどうろたえ困ることはなかったのだ。
 一週間分の食糧を買い込んできて、それで毎日粗末な食事を作って食べるという、今まで通りの生活だから、そこにさしたる不満があるわけでもない。
 子供のころの貧しい生活や、青年時代の四畳半一間の暮らし、バックパックでの長期にわたる貧乏外国旅行、それに長期間の山歩きでのテント泊食事などを体験してきているから、さらにはもともといわゆるグルメ志向などではないし、食べられればそれでいいという、貧乏根性が身についているから、今の簡単な食生活でも何の不便もないのだ。

 もっとも、この時期北海道にいれば、アイヌネギ(ギョウジャニンニク)、タラノメ、ウド、ヨモギ、ヤチブキ(エゾノリュウキンカ)、ニリンソウなどと山菜だらけの毎日なのだが。
 ともかく今の状態では、飛行機の減便、空港までのバス便中止や減便などで、北海道まで行けるかどうかもわからないし、他県をまたいでの移動自粛とあれば、もう”どもならん”状態なのだ。

 今年も、国内遠征の登山を二つくらいはと計画していたのだが、とても行けそうになく、それ以上に体力の限界が迫ってきていて、年寄りにとっては”山は逃げていく”ということなのだろう。
 せめてもとすがる思いは、昔登った山々、北アルプス、南アルプス、八ヶ岳、富士山、屋久島、東北・北海道の山々などを登った時の写真を見ることであり、特に一番最近の遠征登山だった、あの去年秋の東北の焼石岳(2019.10.8~22の項参照)は、今さらながらに何という見事とな青空と紅葉だったことだろうと思い返し、モニター画面に映る映像を何度見直しても見あきることはないのだ。
 さらに思い出したのは、富士山。
 このところ、テレビ番組では再放送が多くなっているのだが、そう悪いことでもないと思っている。
 あの『ブラタモリ』でも前回の”清水寺”といい、今回の”富士山”といい、前に一度見ているのだが、また新たな感興を呼び起こされて、すっかり見入ってしまったのだ。確かに、あの富士山の宝永火口の壮大さを見ていてよかったと思う。(2012.9.9の項参照)

 その他のテレビでの再放送番組などにふれていくときりがないが、例の『ポツンと一軒家』など何度見ても面白いし、追加の近況報告があるのがうれしい。
 さらに映画も二本見たが、やはり良い映画は何度見てもいいものだと納得した。
 黒澤明(1910~1998)の名作『羅生門』(1950年)はもう何度も見ているのだが、見るたびに感心してしまう。
 特に、映像のすばらしさ(撮影宮川一夫)、白黒画面の中で木漏れ日がキラキラ輝くさまや、検非違使(けびいし)の御裁(おさば)きの白洲での、それぞれの人物を仰ぎ見るように撮られた表情は、あの映画史初期の名作、カール・ドライヤー(1889~1968)監督の『裁かるるジャンヌ』(1928年サイレント)の影響を受けたものかもしれないが、ここでもそのモノクロフィルムの特質がよく出ているし、主役三人の演技がそれぞれに真に迫っていて見事であり、黒澤映画はこの『羅生門』とあの『七人の侍』に尽きると思うし、世界の映画作品ベスト10の中の一つにも入れたいくらいだ。

 ただあえて一つ、自分の意にそわないものがあるとすれば、この作品は芥川龍之介の短編小説「藪の中」と「羅生門」の二つ(ともに日本の古典「今昔物語」が出典)を組み合わせて作られているのだが、特に映画の最初と終わりに組み入れられた「羅生門」(原作はもっと陰惨で不気味な人間の生の原罪を感じさせるものだが)でのシーンが、やや異質なものに感じられたということだ。
 もっともそのあえて挿入した話である、捨て子を拾いあげ育てるというヒューマニズムこそは、敬愛すべき黒澤明の本質のひとつなのだろうが、あの原作「藪の中」の登場人物たちのそれぞれの立場での思い込みの声と、殺された男の冥界(めいかい)からの怨念(おんねん)の声で終わる原作のほうが、より人間の本質に迫っているような思いがしたのだが。
 つまりそれは、例えばあのスウェーデンの名匠イングマール・ベルイマン(1918~2007、「第七の封印」「沈黙」「叫びとささやき」など)のように、人間誰しもが持つ心理的残虐性の醜さを暴き立てて、見る側に考えさせるという問題提示の仕方もあるわけであり、そこが黒澤明との違いにも思えるのだが、もちろんどちらかに優劣の差があるというわけではなく、すべては同じテーマである、”人間とは何者なのか、我々はどこから来て、どこに行くのか”と言うあの画家ゴーギャンの絵に書き込まれた言葉に集約されるのだろうが。

 ついテーマが重たくなってしまったが、もう一本の映画は、昔のアメリカ映画、娯楽西部劇の一つの典型でもあるハワード・ホークス監督の『リオ・ブラボー』(1959年)である。

 話は、悪者牧場主一家と町を守る保安官とその助手たちとの、戦いというお定まりのテーマだが、何しろ主演の保安官のジョン・ウェインと酔いどれ保安官助手にディーン・マーティン(歌手でもあり、当時のフランク・シナトラ一家の筆頭メンバー)、そこに当時売り出し中の美脚自慢のアンジー・ディッキンソンが酒場を渡り歩く女ギャンブラーとして華を添え、他に老いぼれ保安官助手として『赤い河』(1948年)でもジョン・ウェインと共演していたウォルター・ブレナン、さらには当時まだ19歳のアイドル・シンガーだったリッキー・ネルソン(「トラベリンマン」「ハロー・メリールー」などのヒット曲)という豪華俳優陣で、決闘シーンもよく考えられていたが、当時見た時から印象に残っていたのは、保安官事務所でのひと時の休息の時に、長椅子に横になったディーン・マーティンが、リッキー・ネルソンのギターに合わせて歌う「ライフルと愛馬」、さらにもウォルター・ブレナンも加わって三人で歌う「シンディ」、それをやさしい笑みを浮かべて見守るジョン・ウェイン・・・ああ、いい時代だった。
 しかし、今ではこの映画に出ていた人たちはみんな死んでしまった・・・今回調べてみると、あのリッキー・ネルソンは1985年に45歳という若さで亡くなっていた。
 さらに最後の決闘を前に、酒場の楽団が演奏していた、トランペットの響きが印象的な『皆殺しの歌』は、翌年ジョン・ウェインによって主演製作された『アラモ』(砦を守るデイビー・クロケット以下のアメリカ軍が全滅した史実の事件)でも、攻め込むメキシコ軍のテーマ曲として流されていた。

 これでもまだ、それぞれの映画については書き足りないくらいなのだが、もう長くなりすぎたので、最後に一つ、あのパリ・バスティーユ・オペラによるバロック時代の作曲家ラモー(1683~1764)の『みやびな(優雅な)インドの国々』について、これは最近私も何度かここでも触れてきたように、Youtubeでのオペラ舞台を見ていたから楽しみにしていたのだが、しかしそれは、何と私が見たいとも思わない最近のヨーロッパ・オペラの風潮である、昔の音楽を忠実にたどりながら、舞台は近現代の演劇になっていて、音楽との断絶感がひどいと思うのだが、この『みやびなインドの国々』でも同じシチュエイションになっていて、現代劇の上にヒップホップのブレイクダンスを取り入れた、現代バレーの踊りで構成されていて、とても最後まで見ることはできなかった(映像では終演時には観客たちのブラボーの歓声が飛び交っていたが)。

 それにひきかえ、演技舞踏に和楽や舞台演出という伝統を、しっかりと父祖代々のものとして守りつつ、新しいものも少しずつ取り入れては、今日まで公演され続けてきた、日本の歌舞伎をむしろ誇りにさえ思うのだが。

 さて最後に、10日ほど前のことだが、少し離れた所にある山に登ってきた。
 細い林道を通って、道のそばの駐車スぺースにクルマを停めて、ひとり歩き出した。
 空は晴れていたが、東風が強く吹きつけていた。
 しかし、尾根を越えて西側の山腹をめぐる林道跡に出ると、風はうそのように収まり、道は静かな新緑の林の中をゆるやかに上っていた。
 途中で何本かのサイゴクミツバツツジの花が咲いていて、そこだけが華やかな情景を作り出していた。
 草付きの急斜面を登りきると、頂上だった。遠くに九重の山波が見えていた。
 ひとりきりの山頂でしばらく休んで、帰りはササ原をたどり、途中には今日見た中でも最大のサイゴクミツバツツジがあって、しばらくはその見事な花の周りをめぐって何枚も写真を撮った。(写真下)



 最後に、急斜面の灌木樹林帯を下り(昔はここは草付きのノイバラの多い斜面だったのだが)、クルマを停めた所に戻って来た。
 誰にも会わない、4時間足らずの静かな山歩きだった。

 こうして、およそコロナ禍とは縁のない山歩きをしているのだが、それでも時々は町中に出かけて行かなければならず、どこにいても、感染の可能性がないとは言えないのだ。
 ただ自分は年寄りだから、もしか感染して死んだとしても(コロナ孤独死も報じられてはいるが)、それは順送りのこの世の習いで、仕方のないことではあるが。
 
 そういえば、先日いつもの山野歩きを楽しんでいたところ、林の中の林道から舗装道に出る手前の所で、悪臭が漂い、見ると動物の骨があり、それも大きいものと小さい頭蓋骨が残っていて、周りにはイノシシのものらしい毛が散らばっていた。
 その時、私は自分の死のこと考えながら歩いていて、どのみち死ぬのなら、病院や自宅で死ぬよりは、こうした野山の道外れの所にある、誰からも見つけられないくぼみの中に身を横たえて、などと考えていたのだが、そうしてもこのイノシシの親子みたいに、死ねば他の獣たちやカラスたちに食い荒らされることになるのだろうが、もっとも、それもまた介在者を介して自然に還(かえ)ることになるのかもしれない。

 先日のNHKの「ドキュメント72時間」も再放送の番組だったのだが、それは樹木葬の墓地を訪れる人たちの話で、そこで、ある女の人が自分の墓石をなでながら言っていた、”だって生きている今しか、自分の死のことについては考えられないでしょう”。

 前回と同じように、今読んでいる『新古今和歌集』の中から、第八巻の冒頭の歌を二つ。

”末の露 本の雫(しずく)や 世の中の おくれ先立つ ためしなるらむ”  僧正遍昭(そうじょうへんじょう)

”あわれなり わが身のはてや あさ緑 ついには野辺の 霞(かすみ)と思えば“  小野小町(おののこまち)

 いつものように私なりに解釈すれば、最初の歌は、”葉先にとどまるつゆも、その木の根元に落ちるしずくも、世の中の逝(い)き遅れや先立つ死と同じようなことで、遅かれ早かれ、その無常の時が訪れるものなのだ。”
 次の歌は、あの絶世の美女とうたわれた小野小町が詠んだ歌だから、なおさらに無常感が漂うのだが・・・”われながらあわれなものだと思う。私が死んだら荼毘(だび)にふされて、あさ緑の煙になって立ち昇り、ついにはそこに漂う霞になってしまうのかと思えば。”
 (蛇足ながら付け加えれば、この遍昭と小野小町にはいくつかの歌でのやり取りがあり、恋愛関係にあったとか言われている。)

 いつも強がりを言っている私でも、こうした八方ふさがりの状態では、先が見通せずに、今回は、ついつい世をはかなんだ歌に目が行ってしまったのだが、果たして、このじいさんの、”明日はどっちだ”。

(参照文献:『新古今和歌集』久保田淳訳注 角川ソフィア文庫、「外国映画・テレビ大鑑」 スクリーン1975年版 近代映画社、Wikipediaより)


心を安くせんこそ

2020-05-05 21:29:46 | Weblog



5月5日

 何とさわやかな日々が続くことだろう。
 晴れ渡った青空の中に、いくつかの雲が浮かんでいる。
 その空の下を、私は歩いて行く。
 こうした時節だから、有名な山に行くわけにはいかない。
 そこで、いつもの裏山をめぐる、2時間余りの山野歩きを楽しんできた。数日前のことだが。
 それは、年寄りの私には、ひと汗かくぐらいのちょうどいい運動にもなったのだ。

 もちろん、誰に会うこともない山道を、静かに歩いて行くことの愉しみもあるのだが、今の時季は、それ以上に様々な木々の芽吹きを眺められる喜びがある。
 春の青空と新緑の組み合わせは、夏の雪渓と緑の山肌、さらには秋の紅葉に冬の雪景色などにも、勝るとも劣らない美しさがある。
 振り返ってみれば、私の数十年にも及ぶ山旅は、そうした山々が季節とともに見せてくれる、その時だけの美しさに出会うためにあったのだと思う。
 それは、研ぎ澄まされた芸術的な鑑賞眼からとかいうのではなく、自分の身の丈に合った世俗的な鑑賞眼から選んだ山々であって、卑近な例でいえば、下町の銭湯の壁に描かれた富士山の絵を美しいと思うような、言い換えればありふれた絵葉書写真のような、単純に私の目を引くだけの風景が組み込まれている山々たちだったのだ。
 それだから、峩々(がが)たる山稜を連ねた北アルプスの剱岳(つるぎだけ)や穂高岳(ほたかだけ)の荘厳(そうごん)な姿だけでなく、たおやかにうねり続く草山や、木々に覆われた低い山々の、穏やかな姿にも目がいくようになったのだ。

 さて、家を出て少し舗装道路を歩いて、その先で林道跡の山道に入って行く。
 そこですぐに目につくのは、今の時期ならではの、樹々の中に見える紫色のフジの花だ。
 人の手によって手入れされている植林地よりは、自然林の新緑の樹々の中で、その幹にまとわりついてツルを伸ばしていくフジ、今の時期には、その薄紫と木々の新緑の葉の色の対比がなんとも絶妙で、まるで一幅の絵として見事に収まっているように見える。(写真上)
 確かに、人家の庭先などに、藤棚として育てられ枝を誘引されて張り巡らされた、フジの花は壮観だし、誰しも見とれるほどの美しさだが、私はこうした自然の山野で生きているフジの花の方に心惹(ひ)かれるのだ。
 ”やはり野に置け蓮華草(れんげそう)”というところか。

 そこから続く林道跡の道は、深く切れ込んだ沢に下りて行くが、今年は雨の日が少なくて水量も少なく、簡単に対岸に渡り、見上げると、新緑の樹々が日の光を浴びて輝いている。(写真下)



 木々の種類は、おおまかにいえば針葉樹と広葉樹という区切りで呼ばれるのだが、その中でも広葉樹は常緑広葉樹と落葉広葉樹に分けられていて、その常緑広葉樹の中で、照りのある厚い葉をもつ温帯樹林帯の樹々が、照葉樹と呼ばれていて、シイ・カシ類にクスノキやツバキなどがその主な木々である。
 しかし、新緑のころになると、冬枯れの野山の樹々の先につぼみがふくらみ、モミジ、カエデ、コナラ、クリ、ヒメシャラ、ハゼノキなどもいっせいに明るく照り映える葉を開き出してきて、それを見ていると、むしろこの落葉広葉樹たちの新緑のころの姿こそ、照葉の樹だと言いたくなってしまう。

 そして対岸の山腹を巻きながら登り返し、コナラの林を抜けると、まだ冬枯れのカヤが残る草原に出て、周囲の展望が広がる爽快な高原歩きになる。
 この日は全九州的にも気温が高くなっていて、30℃近くまで上がった所もあったそうだが、ここでは山の高さもあってか、そう暑くは感じなかったが、夏が近づいてきていることを思わせる南風が吹きつけていた。
 再び涼しい林の中に入り、この林の中でも芽吹き始めた樹々の葉が明るく透けて見えていて、そこに一本のヤシャブシの木があり、たくさんの黄色い花穂をぶら下げていた。(写真下)



 ぐるっと回って来て、車道に出て人家の前を通った時、そこに派手な赤い小さな花が群がるように咲いているのを見つけた、花弁はあの黄色いマンサクの花の形に似ているが、今までに見たこともなく、何という木かは分からなかったので、写真に撮って家に戻ってパソコンで調べてみると、何とベニバナ(トキワ)マンサクという鑑賞用の木だということが分かった。
 無理もない、いつもの時期ならもうとっくに北海道に行っていて、この道を今の時期に通ることなどなかったから気づかなかったのだ。

 確かに、今、この世界中を覆う”コロナ禍”の問題は、現代の人間社会に大きな傷をつけ、過大な問題を残したのだが、悲観的な思いにふけっていても仕方がないし、一方では、悪いことばかりではなかったのだとも考えたい。
 その一つの例が、”コロナ禍”によって、世界規模で現代の人間の経済活動が大きく抑えられた結果、問題になっていたCO2 (二酸化炭素)の排出量が大幅に抑えられることになったそうであり、自分の周りで患者が出ていないから、現実感が伴わずに傍観者の立場になってしまい、不謹慎な言い方になるのかもしれないが、こうした人間社会の”コロナ騒動”のてんまつを、地球上の他の動物や植物は、手をたたいて大喜びしているのかもしれない。
 それは、形を変えて言えば、現代文明社会作り上げた人間たちへの、自然界から大きな警告の声だったのかもしれないのだが、果たして私たちはそれをどう受け止めればいいのだろうか。

 そして言えば、この”コロナ禍”で一番危険な年寄りでもある、とうの私自身が、いつコロナウィルスによる病にかかるかもしれないのだが、それは、順送りの世の習いからすれば当然のことであり、私は従容(しょうよう)としてその運命を受け入れるつもりではあるのだが、何しろ、この一筋縄ではいかぬタヌキおやじ、死神におびえて、天上から下りてくる一本の”蜘蛛の糸”(芥川龍之介の短編小説)にしがみついて、最後まであさましき悪あがきをするのかもしれない。
 すべては、”神のみぞ知る”ことなのだろうが。

 前回も書いたように、相変わらず、日本文学の古典ばかりを読んでいる私であるが、こうした”コロナ禍”の大騒動をを見ていて思うことが多々あり、そこで、私の敬愛する二人の大先達(せんだつ)からの言葉を、自分のために言い聞かせるようにここに書いておきたいと思う。

 まずは、ここでもたびたび取り上げてきた、兼好(けんこう)法師(1283~1350)による『徒然草(つれづれぐさ)』の第七十五段からの言葉であるが、彼は当時の都の神官の子でありながら、一時は北面の武士になり、その後出家して、京都郊外の山里に隠棲(いんせい)して、鎌倉時代末期から南北朝時代の混乱の世を、歌人としても生きた人である。

”つれづれわぶる人は、いかなる心ならん。まぎるる方なく、ただひとりあるのみこそよけれ。
・・・。
 人に戯(たわむ)れ、物に争い、一度は恨み、一度は喜ぶ。そのこと定まれることなし。
・・・。
 いまだ誠(まこと)の道を知らずとも、縁(えん)を離れて、身を閑(しずか)にし、ことにあずからずして、心を安くせんこそ、暫(しばら)く楽しぶとも言いつべけれ。”

(『日本古典文学全集』「徒然草」吉田兼好(兼好法師)永積安明校註・訳 小学館)

 自分なりに訳すれば・・・。
 ”ひまになって、なすこともなく時を過ごして、困っている人は、どうしてそう思うようになったのだろうか。人や物とのかかわりがなくなって、のんびりと一人でいることが一番いいことなのに。”・・・。
 ”他の人たちと、楽しくたわむれ遊んでいる時はいいが、物をめぐって言い争うようになり、そのことで恨みに思ったりもするだろうし、また仲直りしてうまくいけばうれしくなる。そうしたふうに人と付き合えば、気持ちの浮き沈みがあって、いつも心が落ち着かなくなるものだ。”・・・。
 ”私はいまだに仏の道を悟ったとは言えないが、世の中の様々な因縁(いんねん)を離れて、静かな所に住んで、世俗のことにはかかわらず、心穏やかにして過ごすことで、それが、しばしの間でも、人生を楽しむことになっているとは言えないだろうか。”

 もう一つは、これもここで度々あげてきた、良寛(りょうかん、1758~1831)の手紙の言葉である。
 良寛は、江戸時代の末期に越後に生まれ、全国行脚の後に故郷の近くの国上山(くがみやま、313m)にある粗末な庵(いおり)に住んで、寺に入らず弟子も持たず、托鉢僧(たくはつそう)として清貧に甘んじて一人暮らしていたが、最期は近くの庇護者のもとに引き取られてそこで生涯を終えた。

 その手紙は、江戸時代文政十一年(1828)、越後三条付近で起きた死者1600人倒壊家屋13000戸を出すほどの大地震が起きて、その時に良寛は歩いて現地まで行ってその惨状を目の当たりにしているが、近くに住む友人の一人であった山田杜皐(とこう)あてに書かれた見舞いの手紙の中にその有名な一節があり、(それは杜皐の災難をうまく逃れる方法はないものか、と尋ねられての返信であったともいわれているのだが)、そこで彼は以下のように書いている。

 ”しかし災難に逢(あう)時節には災難に逢がよく候(そうろう) 死ぬ時節には死ぬがよく候 是(これ)災難をのがるる妙法(みょうほう)にて候”

(『人と思想 良寛』山崎昇著 清水書院、『別冊太陽 良寛』平凡社)

 受け取り方によっては、冷たく突き放した文言にも聞こえるかもしれないが、そこは歌会で顔を合わせるほどの間柄だから、おそらく杜皐は誤解することなく、この良寛の達観した思いを肝に銘じたことであろう。

 私はと言えば、相変わらずのぐうたらな”デクノボー”(宮沢賢治の言葉)であり、コロナがさらに蔓延(まんえん)し地獄絵図の如くなれば、もしかしたら、われ先に”蜘蛛の糸”を目指す輩(やから)の一人になるかも知れないのだが、まあ、”明日は明日の風が吹く”し、やがては”散る桜 残る桜も 散る桜”なのだから(良寛の辞世の句ともいわれる)・・・。

 それにしても、眼科での治療は完治までにさらに時間がかかるとのことであり、それでなくともコロナ緊急事態宣言は続いていて、今年は北海道には戻れないのかもしれない、となると、あのたださえヘビの多い家では(2019.6.10の項参照)、ヘビたちだけの"stay home "状態になっていて、お祭り状態の”ヘビ(蛇)ーメタル”の音楽祭が開かれているかも、それにしてもここでも何度も取り上げてきた、”ベビーメタル”の海外でのコンサート、いまだに一月に一度は”Youtube"で聴きたくなるのだが・・・元気になれる気がして。