5月25日
あまりにも長い間、ブログ記事を書いていなかったので、そのキーボードで打つ書き始めの手はずにさえとまどってしまった。
物事をおし進めていくには、いかに習慣化された行動が必要か、ということを今さらながらに思い知らされたのだ。
もっともそれは逆に言えば、習慣化された悪癖を、なかなかやめることができないというこにもなり、昨今のコロナ禍における世間の、様々な出来事を見ればわかることでもある。
ただこうしてキーを押して、言葉が文章になっていくのを見ることは、いかばかりかの達成感も感じられて、自分だけの小さな満足感に浸ることもできるのだが。
さて、東京方面は晴れた日の少ない曇り空の日が続いているそうだが、一転この九州では、曇り空や雨の降った日は数えるくらいで、いかにも皐月(さつき)の空と呼ぶにふさわしい五月晴れの日が続いていて、毎日新緑の山を眺めることできる(冒頭の写真)。
もちろん、家にじっとしていることのできない私は、何度となく山野歩きを楽しんできた。
その多くは、家からの1時間半余りのいつもの長距離散歩であり、さらには別な山道を結んでの2時間半余りのトレッキング、つまり山野歩きなのだが、さらにクルマで少し離れた山にも一度だけ行ってきた。
もちろんこの緊急事態宣言下では、人の多い人気の山などに行くわけにはいかないし、おなじみの九重では、連休後半からあの牧ノ戸峠の駐車場が閉鎖されていたこともあって、仕方なく地元の山野を歩き回っていたのだが、幸いにも合計で数回は歩いた山野歩きでは、誰に会うこともなく、私なりの山歩きを楽しむことができた。
さわやかな風の吹く青空の元、新緑の中を歩き回り、時々立ち止まっては、木々の姿や遠くの山々の眺めを楽しんで、ひと汗かいて家に帰り着くのだ。(写真下、今はどこの山麓でも目立つミズキの花であるが、前回5月5日掲載のフジの花と同じ場所で写したものである。)
こうした山歩きが、年寄りにはちょうどいいころ合いの、疲れすぎない時間での運動(エクササイズとかいうそうだが)にもなるのだろう。
ともかく、こんな時期まで九州の家にいるのは久し振りのことなのだ。
十数年前に母が亡くなった時に、百箇日の服喪期間の間、家にいた時以来のことであり、あの時はただただこみ上げてくる辛い思いから逃れるべく、三日と空けずに、家の周りのいくつもの小さな川の上流部の沢に出かけては、沢登りに没頭していたのだが。
もっともそれは、高い山ではないから、滝一つない小沢歩きに過ぎなかったのだが、そうすることによって、自分のいたたまれない思いを、少しでも紛らわしたかったからなのだろうが。
昨日ふと見たテレビ番組の中で、離婚後の喪失感に苦しんでいた人が、耐えきれずにある人に相談したところ、その人は事故で娘をなくしていたのだが、月日がたった今言えることは、”忘れること”だと言ったそうだ。
もちろんそれは、すべてを忘れてしまい記憶の中からなくすということではなく、日常の仕事に紛らわして、そのことばかりを考えなくてすむようにするということなのだろうが。
”よそなれど おなじ心ぞ 通うべき 誰も思いの ひとつならねば”
(『新古今和歌集』巻第八 小野宮右大臣)
この歌の作者の小野宮(おののみや)中納言は北の方を亡くしていて、同じく妻を亡くしたばかりの藤原為頼朝臣(ふじわらのためよりあそん)へ慰めの歌を贈ったのだ。
”他人ではありますが、同じように妻を亡くした思いはよくわかります。他の人たちが思うよりはずっと。”
ともかくそうして山野歩きをすることで、日ごとに木々の芽吹きから新緑の葉や花が開いて行くさまを、じっくりと眺めることができたりして、それは今まで分からなかった樹々の見きわめにもなったのだから、外出自粛で北海道に行くことができなくなったとしても、私にとっては、そう悪いことばかりでもなかったのだと思いたい。
さらにもともと、”引きこもり老人”の傾向がある私には、こうした緊急事態宣言下でも、それほどうろたえ困ることはなかったのだ。
一週間分の食糧を買い込んできて、それで毎日粗末な食事を作って食べるという、今まで通りの生活だから、そこにさしたる不満があるわけでもない。
子供のころの貧しい生活や、青年時代の四畳半一間の暮らし、バックパックでの長期にわたる貧乏外国旅行、それに長期間の山歩きでのテント泊食事などを体験してきているから、さらにはもともといわゆるグルメ志向などではないし、食べられればそれでいいという、貧乏根性が身についているから、今の簡単な食生活でも何の不便もないのだ。
もっとも、この時期北海道にいれば、アイヌネギ(ギョウジャニンニク)、タラノメ、ウド、ヨモギ、ヤチブキ(エゾノリュウキンカ)、ニリンソウなどと山菜だらけの毎日なのだが。
ともかく今の状態では、飛行機の減便、空港までのバス便中止や減便などで、北海道まで行けるかどうかもわからないし、他県をまたいでの移動自粛とあれば、もう”どもならん”状態なのだ。
今年も、国内遠征の登山を二つくらいはと計画していたのだが、とても行けそうになく、それ以上に体力の限界が迫ってきていて、年寄りにとっては”山は逃げていく”ということなのだろう。
せめてもとすがる思いは、昔登った山々、北アルプス、南アルプス、八ヶ岳、富士山、屋久島、東北・北海道の山々などを登った時の写真を見ることであり、特に一番最近の遠征登山だった、あの去年秋の東北の焼石岳(2019.10.8~22の項参照)は、今さらながらに何という見事とな青空と紅葉だったことだろうと思い返し、モニター画面に映る映像を何度見直しても見あきることはないのだ。
さらに思い出したのは、富士山。
このところ、テレビ番組では再放送が多くなっているのだが、そう悪いことでもないと思っている。
あの『ブラタモリ』でも前回の”清水寺”といい、今回の”富士山”といい、前に一度見ているのだが、また新たな感興を呼び起こされて、すっかり見入ってしまったのだ。確かに、あの富士山の宝永火口の壮大さを見ていてよかったと思う。(2012.9.9の項参照)
その他のテレビでの再放送番組などにふれていくときりがないが、例の『ポツンと一軒家』など何度見ても面白いし、追加の近況報告があるのがうれしい。
さらに映画も二本見たが、やはり良い映画は何度見てもいいものだと納得した。
黒澤明(1910~1998)の名作『羅生門』(1950年)はもう何度も見ているのだが、見るたびに感心してしまう。
特に、映像のすばらしさ(撮影宮川一夫)、白黒画面の中で木漏れ日がキラキラ輝くさまや、検非違使(けびいし)の御裁(おさば)きの白洲での、それぞれの人物を仰ぎ見るように撮られた表情は、あの映画史初期の名作、カール・ドライヤー(1889~1968)監督の『裁かるるジャンヌ』(1928年サイレント)の影響を受けたものかもしれないが、ここでもそのモノクロフィルムの特質がよく出ているし、主役三人の演技がそれぞれに真に迫っていて見事であり、黒澤映画はこの『羅生門』とあの『七人の侍』に尽きると思うし、世界の映画作品ベスト10の中の一つにも入れたいくらいだ。
ただあえて一つ、自分の意にそわないものがあるとすれば、この作品は芥川龍之介の短編小説「藪の中」と「羅生門」の二つ(ともに日本の古典「今昔物語」が出典)を組み合わせて作られているのだが、特に映画の最初と終わりに組み入れられた「羅生門」(原作はもっと陰惨で不気味な人間の生の原罪を感じさせるものだが)でのシーンが、やや異質なものに感じられたということだ。
もっともそのあえて挿入した話である、捨て子を拾いあげ育てるというヒューマニズムこそは、敬愛すべき黒澤明の本質のひとつなのだろうが、あの原作「藪の中」の登場人物たちのそれぞれの立場での思い込みの声と、殺された男の冥界(めいかい)からの怨念(おんねん)の声で終わる原作のほうが、より人間の本質に迫っているような思いがしたのだが。
つまりそれは、例えばあのスウェーデンの名匠イングマール・ベルイマン(1918~2007、「第七の封印」「沈黙」「叫びとささやき」など)のように、人間誰しもが持つ心理的残虐性の醜さを暴き立てて、見る側に考えさせるという問題提示の仕方もあるわけであり、そこが黒澤明との違いにも思えるのだが、もちろんどちらかに優劣の差があるというわけではなく、すべては同じテーマである、”人間とは何者なのか、我々はどこから来て、どこに行くのか”と言うあの画家ゴーギャンの絵に書き込まれた言葉に集約されるのだろうが。
ついテーマが重たくなってしまったが、もう一本の映画は、昔のアメリカ映画、娯楽西部劇の一つの典型でもあるハワード・ホークス監督の『リオ・ブラボー』(1959年)である。
話は、悪者牧場主一家と町を守る保安官とその助手たちとの、戦いというお定まりのテーマだが、何しろ主演の保安官のジョン・ウェインと酔いどれ保安官助手にディーン・マーティン(歌手でもあり、当時のフランク・シナトラ一家の筆頭メンバー)、そこに当時売り出し中の美脚自慢のアンジー・ディッキンソンが酒場を渡り歩く女ギャンブラーとして華を添え、他に老いぼれ保安官助手として『赤い河』(1948年)でもジョン・ウェインと共演していたウォルター・ブレナン、さらには当時まだ19歳のアイドル・シンガーだったリッキー・ネルソン(「トラベリンマン」「ハロー・メリールー」などのヒット曲)という豪華俳優陣で、決闘シーンもよく考えられていたが、当時見た時から印象に残っていたのは、保安官事務所でのひと時の休息の時に、長椅子に横になったディーン・マーティンが、リッキー・ネルソンのギターに合わせて歌う「ライフルと愛馬」、さらにもウォルター・ブレナンも加わって三人で歌う「シンディ」、それをやさしい笑みを浮かべて見守るジョン・ウェイン・・・ああ、いい時代だった。
しかし、今ではこの映画に出ていた人たちはみんな死んでしまった・・・今回調べてみると、あのリッキー・ネルソンは1985年に45歳という若さで亡くなっていた。
さらに最後の決闘を前に、酒場の楽団が演奏していた、トランペットの響きが印象的な『皆殺しの歌』は、翌年ジョン・ウェインによって主演製作された『アラモ』(砦を守るデイビー・クロケット以下のアメリカ軍が全滅した史実の事件)でも、攻め込むメキシコ軍のテーマ曲として流されていた。
これでもまだ、それぞれの映画については書き足りないくらいなのだが、もう長くなりすぎたので、最後に一つ、あのパリ・バスティーユ・オペラによるバロック時代の作曲家ラモー(1683~1764)の『みやびな(優雅な)インドの国々』について、これは最近私も何度かここでも触れてきたように、Youtubeでのオペラ舞台を見ていたから楽しみにしていたのだが、しかしそれは、何と私が見たいとも思わない最近のヨーロッパ・オペラの風潮である、昔の音楽を忠実にたどりながら、舞台は近現代の演劇になっていて、音楽との断絶感がひどいと思うのだが、この『みやびなインドの国々』でも同じシチュエイションになっていて、現代劇の上にヒップホップのブレイクダンスを取り入れた、現代バレーの踊りで構成されていて、とても最後まで見ることはできなかった(映像では終演時には観客たちのブラボーの歓声が飛び交っていたが)。
それにひきかえ、演技舞踏に和楽や舞台演出という伝統を、しっかりと父祖代々のものとして守りつつ、新しいものも少しずつ取り入れては、今日まで公演され続けてきた、日本の歌舞伎をむしろ誇りにさえ思うのだが。
さて最後に、10日ほど前のことだが、少し離れた所にある山に登ってきた。
細い林道を通って、道のそばの駐車スぺースにクルマを停めて、ひとり歩き出した。
空は晴れていたが、東風が強く吹きつけていた。
しかし、尾根を越えて西側の山腹をめぐる林道跡に出ると、風はうそのように収まり、道は静かな新緑の林の中をゆるやかに上っていた。
途中で何本かのサイゴクミツバツツジの花が咲いていて、そこだけが華やかな情景を作り出していた。
草付きの急斜面を登りきると、頂上だった。遠くに九重の山波が見えていた。
ひとりきりの山頂でしばらく休んで、帰りはササ原をたどり、途中には今日見た中でも最大のサイゴクミツバツツジがあって、しばらくはその見事な花の周りをめぐって何枚も写真を撮った。(写真下)
最後に、急斜面の灌木樹林帯を下り(昔はここは草付きのノイバラの多い斜面だったのだが)、クルマを停めた所に戻って来た。
誰にも会わない、4時間足らずの静かな山歩きだった。
こうして、およそコロナ禍とは縁のない山歩きをしているのだが、それでも時々は町中に出かけて行かなければならず、どこにいても、感染の可能性がないとは言えないのだ。
ただ自分は年寄りだから、もしか感染して死んだとしても(コロナ孤独死も報じられてはいるが)、それは順送りのこの世の習いで、仕方のないことではあるが。
そういえば、先日いつもの山野歩きを楽しんでいたところ、林の中の林道から舗装道に出る手前の所で、悪臭が漂い、見ると動物の骨があり、それも大きいものと小さい頭蓋骨が残っていて、周りにはイノシシのものらしい毛が散らばっていた。
その時、私は自分の死のこと考えながら歩いていて、どのみち死ぬのなら、病院や自宅で死ぬよりは、こうした野山の道外れの所にある、誰からも見つけられないくぼみの中に身を横たえて、などと考えていたのだが、そうしてもこのイノシシの親子みたいに、死ねば他の獣たちやカラスたちに食い荒らされることになるのだろうが、もっとも、それもまた介在者を介して自然に還(かえ)ることになるのかもしれない。
先日のNHKの「ドキュメント72時間」も再放送の番組だったのだが、それは樹木葬の墓地を訪れる人たちの話で、そこで、ある女の人が自分の墓石をなでながら言っていた、”だって生きている今しか、自分の死のことについては考えられないでしょう”。
前回と同じように、今読んでいる『新古今和歌集』の中から、第八巻の冒頭の歌を二つ。
”末の露 本の雫(しずく)や 世の中の おくれ先立つ ためしなるらむ” 僧正遍昭(そうじょうへんじょう)
”あわれなり わが身のはてや あさ緑 ついには野辺の 霞(かすみ)と思えば“ 小野小町(おののこまち)
いつものように私なりに解釈すれば、最初の歌は、”葉先にとどまるつゆも、その木の根元に落ちるしずくも、世の中の逝(い)き遅れや先立つ死と同じようなことで、遅かれ早かれ、その無常の時が訪れるものなのだ。”
次の歌は、あの絶世の美女とうたわれた小野小町が詠んだ歌だから、なおさらに無常感が漂うのだが・・・”われながらあわれなものだと思う。私が死んだら荼毘(だび)にふされて、あさ緑の煙になって立ち昇り、ついにはそこに漂う霞になってしまうのかと思えば。”
(蛇足ながら付け加えれば、この遍昭と小野小町にはいくつかの歌でのやり取りがあり、恋愛関係にあったとか言われている。)
いつも強がりを言っている私でも、こうした八方ふさがりの状態では、先が見通せずに、今回は、ついつい世をはかなんだ歌に目が行ってしまったのだが、果たして、このじいさんの、”明日はどっちだ”。
(参照文献:『新古今和歌集』久保田淳訳注 角川ソフィア文庫、「外国映画・テレビ大鑑」 スクリーン1975年版 近代映画社、Wikipediaより)