ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(87)

2009-02-28 18:15:04 | Weblog



2月28日
 今日もまだ曇り空が続いている。朝の気温は3度、日が差してくれば、もう少し暖かくなるのだろうが、この肌寒さでは、ストーヴの前から離れられない。
 昨日は、一日中、シトシトと雨が降っていて、家にいるしかなかった。いくら、雨の降る日のネコは、寝てばかりいる(2月25日の項)といっても、さすがに退屈してしまう。
 飼い主と、オフザケの噛みつき合いをしたところで、ほんの少しの間の気晴らしでしかない。そこで、ニャーと鳴いていると、何を思ったのか、飼い主が私を抱えて、高いタンスの上にあげた。
 ワタシが日頃、家じゅうのあちこちを探検して、もぐり込むという習性を見ていて、飼い主が思いついたのだろうが、冗談じゃない。
 若いころならともかく、もう年をとった今では、とてもじゃないが、今まで上がったこともなかった、こんな所はと、ビビってしまい、不安の鳴き声をあげた。そして、再び抱え下ろされる時に、怖さで、思わず少し、チビってしまった。
 飼い主が何やら言って、ワタシに謝っていたようだが、まったく、もう少し、ネコのデリカシーな気持ちを分かってほしいものだ。 
 そのワタシがチビったシッコを、ティッシューでふいた後、飼い主が、「くっせー」と言って、それをワタシの鼻先に突きつけた。ばっかじゃないの。

 「さて、前回は、一休宗純(1394~1481)のことについて、あの有名な肖像画や、生い立ち、修行の日々などを書いてきたが、今回は、彼の残された著作集から、その考えの道筋をたどりたいと思う。
 一休は、62歳の時に、兄弟子、養叟(ようそう)に対する、宗教上の批判文とされる『自戒集』を出しているが、その二年後に、公(おおやけ)にされたのが『一休骸骨(がいこつ)』という、絵入り仮名法話集である。
 これは、一般の人々向けの、仏教布教書とでもいうべきもので、他にも、幾つかの法話集が残されている。
 私も、『一休骸骨』の名前は知っていたが、その絵入りの本文を初めて見たのは、前回、参照の項であげた『一休』(栗田勇著、祥伝社)を読んだ時である。(さらに、今ではネット上でも、その全文を見ることができるようになった。)

 一人の僧が、墓場で三体の骸骨たちと会い、その彼らがたどってきた道を、つまり日常の生活から、死の床に伏して、葬式、火葬などに至る有様を、骸骨の姿のままで描いて、そこに分かりやすく、仮名文字による説明文や、歌が書いてある。
 まずは、楽しげな宴会の模様が描かれていて、骸骨たちが車座になって、囃子(はやし)たて、一体の骸骨が舞っている。
 次の場面では(写真)、二体の骸骨が抱き合う様が描かれ、そこには、歌が二首と、その思いが書かれている。

 我ありと 思う心を 捨てよ ただ
 身の浮雲の 風にまかせて

 世の中は まどろまで見る 夢のうち
 見てや驚く 人のはかなさ      


 こちらに、お寄りあそばせ、いつまでも、同じように長生きしたい
 ものでございます。まことに、そうお考えになるに違いありませ  
 ん。どこまでも、同じ心でございます。

 その下には、病に伏した骸骨を他の骸骨たちが見守っている様子が描かれている。そこに書かれている言葉は。

 永劫(えいごう)に生きることなど、祈り甲斐のないことでございます。一大事(一切を空と悟ること)よりほかは、人間は、何もお心にかけないで頂きとうございます。人間は、不定[ふじょう)でございますから、今さらあわてるほどの、何ごともございませぬ。(以上、柳田聖山訳)


 次には、死んだ骸骨(というのも変だが)を、野辺(のべ)送りするための骸骨たちの葬列の絵が描かれ、やがて火葬にされた後の、卒塔婆(そとうば)が立っているだけの、鳥辺野(とりべの)の情景が描かれて、終わっている。そこに書かれている歌の中から、三つ。
 
 誰もみな 生きるも知らず 住み家なし
 彼らはもとの 土になるべし


 世を憂(う)しと 思い鳥辺野 夕けむり
 よその哀れと いつまでか見ん

 焼けば灰 埋めば土と なるものを
 何か残りて 罪となるらん


 そして、最後の一首。                   

 何事も みな偽(いつわ)りの 世なりけり
 死ぬるということも 真(まこと)ならねば


 なんという無常観だろう。これが、あの『とんち話』で有名な、一休和尚の言葉だろうか。これが、仏教の法話集と言えるのだろうか。
 しかし、ここに至った、一休自身の生い立ちと経歴、さらに当時の時代背景を考えてみると、新たに見えてくるものがある。
 天皇の御落胤(ごらくいん)の子供とはいえ、わずか6歳で、母親と離されて、寺に預けられ、それからは、苦難の道を、一人で生きていかなければならなかった一休。
 時代は、南北朝から室町時代へ、やがては、足利氏の盛衰を経て、戦国時代に向かう、混乱の世の中だった。
 一休の生きた87年の間に、たびたび天変地異による、全国的な大飢饉(ききん)が襲い、それにつれて、数年に一回の割合で農民たちの一揆(いっき)が起こり、さらに権力争いからの応仁の乱(1467年)などで、京の都は疲弊(ひへい)し、混乱していた。
 死体が累々(るいるい)と重なり、骸骨が野ざらしになっている光景は、彼らにとって、そう珍しいものでもなかったのだ。そんな世の中で、明るい来たるべき来世などを、誰に言い聞かせることができただろうか。

 数百万の人々が死んだ太平洋戦争から、すでに64年もの歳月が流れている。あの悲惨な戦場や、爆撃されて死体が折り重なる市街地の光景を、目の当たりにした人々は少なくなり、その体験談も語られることはなくなってきた。
 平和な時代が続くのは、素晴らしいことなのだが・・・。
 先日、NHK『クローズ・アップ現代』で、『おくりびと』がアカデミー賞に輝き、小説の『悼(いた)む人』が、注目を浴びていて、これらは、日本人が、個人の死を考えるいいきっかけになるし、その時が来ている、といったことが話されていた。
 私は、その映画を見ていないし、小説を読んでもいない。だけれども、それとは別に、この『一休骸骨』は、強く私の胸に訴えかけてきた。
 一休の無常観の彼方にあるもの、そのかすかな光に・・・。」


ワタシはネコである(86)

2009-02-25 16:05:26 | Weblog


 2月25日


 天気予報通りに、三日間、天気の悪い日が続いている。昨日、今日と、シトシトと雨が降り続いていたが、午後になって、ようやく雨も上がってきた。
 気温は、2月だというのに、朝から10度近くもあって、その後気温は上がらなかったのだが。ともかく、寒いというほどではないのだが、飼い主につけてもらった小さな電気ストーヴの前で、ずっと寝ている。
 そういえば、前に飼い主から聞いたことがあるが、「雨の日のネコはとことん眠い」(PHP文庫)という本があって、「雨の中では、ネズミも鳥も出てこないし、腹を空かして動きまわるより、寝ていたほうが、ネコたちにとっては得策なのだ。・・・」、というようなことが書いてあったとのことだが、確かにそれはある。
 さらに、ネコは、雨に濡れるのがキライだとも言われているが、それも、人間たちと一緒に、家の中で暮らすようになったからだ。本来は、ヤマネコたちのように、雨の中でも変わりなく行動していたのだ。半年の間、飼い主がいなくなり、半ノラになってしまうワタシが、そうであるように。
 つまり、ワタシたちネコが、雨の降る日には、ぐうたらになって寝てばかりいるのは、環境に応じて、進化とは言わないが、適応してきたという証拠なのだ。
 ともかく、雨が上がれば、いつものように飼い主を促して、散歩に出かけることにしよう。


 「2月22日は、何と、『猫の日』だったそうで。どおりで、YouTubeには、ネコたちの動画サイトが、ずらりと並んでいたわけだ。
 そのうちの何本かを見てみたが、最もダイアル・アップ接続のため、切れ切れで、時間も、3、4倍かかるありさまだが、ともかく、いずれのネコちゃんたちも、立派な種類のおネコ様たちばかりで、上品な可愛いらしさにあふれていた。
 それにひきかえ、今、だらしなく寝ている家のミャオは、シャム猫の母親からの色合いを少しとどめているだけで、殆どは日本ノラネコの父親の血筋を色濃くひいている。
 そのうえ、もう年で、動きも緩慢(かんまん)になってきたし、瞼(まぶた)のあたりが、すっかりおばあさんネコに見える。とても動画サイトなんかに、出せたものではない。
 とはいっても、ミャオは、若いころは、うるさく鳴いて、顔も神経質なキツネ顔で、それほど可愛いネコではなかったのに、さまざまな辛い経験を経て(’08.2.10~11、4.14~23の項など)、今では穏やかなタヌキ顔になったし、無駄鳴きはしないし、無駄な行動もしない。
 長い間の、単独行動に慣れたミャオが、ただ私とだけは、いつも一緒に、行動を共にしようとしている。今、目の前で、タヌキのように、ぐうたらに眠り込んでいるミャオだが、私にはオマエが、一番だ。


 さて、冒頭の写真は、誰でも一度は見たことのある、あの有名な『一休和尚像』(15世紀、東京国立博物館蔵、重要文化財)である。
 この絵の作者は、墨斎(ぼくさい)筆とされているが、もう一点の、同じ上半身で全身坐像を描いた、京田辺の酬恩庵(しゅうおんあん)一休寺にある、曽我蛇足(そがのだそく)筆とされる絵(こちらも重要文化財)とともに、はっきりと作者が確定している訳ではない。
 それにしても、とても数百年も前に書かれた絵とは思えない、精緻なデッサンによる表現で、それは、鎌倉時代の『源頼朝像』(最近では疑いが持たれているが)以来、受け継がれてきた写実的な肖像画であり、その後の『聖一国師像』などと同じく、日本中世期を代表する肖像画の一つであるといえるだろう。
 その後の、戦国時代から江戸時代にかけて、日本の肖像画は、幾つか写実風なものが見られるものの、類型化され、意匠化されて、浮世絵風なものに変わってしまう。それだけに、この時代の、『一休和尚像』のリアルさが際立って見えるのだ。
 (もっとも、江戸時代末期には、あの渡辺崋山が現れて、西洋画の陰影法を取り入れて、『鷹見泉石像』、『市河米庵像』などのすぐれた作品を残している。)
 ところで、一休像に戻って、仔細に見てみると、確かに眼前で描いたように、生々しくリアルな描写なのだが、これがあの高名を馳せた一休宗純和尚なのだろうかと思ってしまう。
 悪く言えば、日本のどこにでもいるような隣のおじさん、大阪の下町で、手拭い鉢巻をして、客を呼び込んでいるオッサンにも見えてしまうのだ。
 しかし、彼は、当時の後小松天皇の御落胤(ごらくいん)であり、臨済宗(りんざいしゅう)、大徳寺派の第四十七代の住持を務めた、稀代の禅僧なのである。
 私たちが知っている『屏風に描かれた虎を捕まえる』などの、『とんち話』の一休さんは、もちろん彼の子供時代の、秀才ぶりを伝える話に起因しているのだろうが、そのもととなる、『一休咄(はなし)』が世に出たのは、彼の死後、二百年も後の、江戸時代は元禄の頃である。


 さて、この室町時代に生きた一休宗純(1394~1481)の生涯については、そのすべてが分かっている訳ではない。文献によれば、後小松天皇の側室であった藤原家の家系につながる母が、洛西の嵯峨に下り、そこで一休(幼名、千菊丸)を生んだとされている。
 その後、6歳にして、京都安国寺に預けられ、周建という名をもらい、13歳にして、すでに周囲の人々をうならせるほどの、漢詩を作っていた。『一休とんち話』のもとになった話は、すべての真偽のほどはともかく、この前後の頃のものとされている。
 やがて、彼は安国寺を出て、小さな庵の西金寺(さいこんじ)に入り、17歳の頃には、そこで仕えた師の謙翁宗為(けんおうそうい)から、宗純(そうじゅん)という名前をもらったが、21歳の時に、その師も亡くなり、途方に暮れることになる。
 入水自殺を図るほどに悩んだ後、琵琶湖畔の堅田にあった、大徳寺派、祥瑞寺(しょうずいじ)の華叟宗曇(かそうそうどん)に弟子入りすることになる。そこでの厳しい修業の中で、師から『一休』の号をもらい、さらに、27歳の時、岸辺の小舟で座禅を組んでいた夏の夜、辺りの静寂を破る、カラスの一声で、悟りを得たといわれている。
 その後、一休は、兄弟子でもある養叟(ようそう)との確執もあって、祥瑞寺を離れ、京都から畿内各地へと、諸国放浪の旅を続け、小庵を転々と移り変わっている。
 そして、一休、62歳の時、世俗におもねり、お金集めに走る兄弟子、養叟を非難し、(養叟にとっては、大徳寺の再興のために必要だったのであるが)、さらに禅宗全体に対する警告の意味を込めて、二百編からなる漢詩文集『自戒集』を出した。
 さらに、その二年後、一休64歳の時に、法語『一休骸骨』(いっきゅうがいこつ)が出されるのだ。


 実はこの本のことについて、書きたかったのだが、その前置きのために、一休の生涯をたどる説明が長くなってしまった。次回は、本題の『一休骸骨』について・・・。」


(参照)  『一休』(栗田勇著、祥伝社)、  『中世的人間像』(西田正  好著、河出書房新社)、  『狂雲集』(柳田聖山訳、中央公論社)


 


 


 


 


 


 


ワタシはネコである(85)

2009-02-21 19:49:57 | Weblog
2月21日
 快晴の空が広がっている。黄砂の予報が出ていたが、それほど空がかすんでいるという風でもなかった。
 霧氷の付いた山々も見えている。気温は、朝は-5℃まで冷え込んだが、日中は10度位まで上がる。日向は暖かいのだが、まだ風が冷たい。
 いつものように、今日も飼い主と散歩に出て、飼い主は先に帰って行ったが、ワタシはその後を追って、すぐに家に戻ってきた。
 飼い主は、ワタシの顔を見て、いつものオーヨシヨシをしてくれた。内心のところは、ワタシがいない間に、掃除などいろいろと片付けたかったらしく、少し迷惑そうでもあったが。
 とは言っても、やはり暖かくなってくると、やはり洗濯物の干された家のベランダで、日向ぼっこをして寝て過ごすのが、ワタシのような年寄りネコには、似合っているのだ。
 時折、近くにやってくる、小鳥たちの羽音に聞き耳をたて、飼い主の足音に、その動静をうかがう。そうして、一日が過ぎていくのだ。
 
 「天気予報も一日晴れだったから、今日は久しぶりに山に行きたかったのだが、朝起きて見ると、山にはそれほど雪は降っていないし、まして、人の多い土曜日に行くこともないと、とりあえず、家の仕事を済ませることにした。明日から一週間、天気が悪いとのことだから。
 今日、ミャオといつもの散歩に出た時、斜面のところに、幾つものフキノトウが出ているのを見つけた(写真)。その一つを取って、香りをかいでみる。
 春の草の匂いの中に、小さくツンとくるあのフキノトウの香りがする。酢味噌和えにして、温かいご飯の上にかけて食べることを想像しただけで、口いっぱいにその香りが広がってくる。
 春なのだ。その、心をなごやかにする喜びとともに、一方では、ある寂しさも感じてしまう。(今、北海道では、大雪が降っているということだが。)寒い冬が去ると、もうこの九州では、白い雪に覆われた山々に登ることはできなくなるのだ。

 季節は、移り変わり、時は流れる。自然は、時に従い、その繰り返しを続けていく。生きとし生けるものの上に、すべて等しく。
 ある物を見て感興を覚えて、考えをまとめようとすると、その基になったもののことが気にかかり、結論が出ないまま、また新たに考えてしまう。遡(さかのぼ)って行けばきりがない。
 私の貧弱な思考力では、その時々に、時間と空間を区切って考えていくしかないのだろうが。
 こんなことを書いているのは、前回少しふれた大和絵師、岩佐又兵衛(1578~1650)について、その時代背景を調べてみて、また新たな思いが湧いてきたからでもある。
 それは、前回書いた、グルジアの画家、ピロスマニのの番組を見て感じた私の思いとは、その意味合いを異にしている。つまり、その岩佐又兵衛の番組の中の『山中常盤』を見て、私は、作者である彼の人生と、その背後にある時代を知りたくなったのだ。
 あの織田信長から、豊臣秀吉、徳川家康への時代へと、慌ただしく移っていった、戦国時代。その波乱の時代を生き延びた、一人の画家、岩佐又兵衛の生い立ち・・・。
 私は、ちょうどひと月ほど前に、一休禅師(1394~1481)についての本を読み終えたばかりだった。そこに書かれていた一休の、風狂の情念を、思い出さずにはいられなかったのだ。
 二人は生きた時代も違えば、その名を残した分野でも異なっているし、直接に結び付けるものは何もない。ただ、少し飛躍した考えかもしれないけれど、私が感じたのは、二人の凄まじいばかりの、怨念の昇華である。
 誰にでもある、負の思いは、積み重なることで、予期せぬほどのエネルギーとなって、内なるものから、外なるものへとほとばしり出ていく。それが、価値ある創造物として、偉大なる芸術作品になるのだろう。
 私にも、若き日に、そんなエネルギーを内に抱えていた時代があったのに、悲しいかな、その時を無駄に使い、怠惰(たいだ)に過ごしてきてしまった。『少年老い易く、学成り難し・・・』の言葉どおりに。
 ともかく、次回から、この二人について、少し考えてみたいと思う。それは、私が今、ひとりで生きていく上での、一つのよすがになるかもしれないから・・・。
 世の中には、そんなことなど考えなくても済むような人たちの方が多いのだろうが、そう考えざるを得ない私を、不幸だなどとは思わない。
 永遠に答えは出ないのかもしれないけれど、そこには、考えることの楽しみというのもある。生きていて良かったと気づく・・・。」
  

ワタシはネコである(84)

2009-02-17 17:33:42 | Weblog
2月17日 
 二日前の、20度という、二月半ばとしては信じられないほどの暖かさから一転、今日は、朝から雪が降っていて、見る間に積もってしまった。朝の気温は-4度で、日中やっと1度まで上がる。
 これでは、散歩にも出られない。この数日、コタツだけだった飼い主も、さすがに今日は、ずっとストーヴをつけている。ワタシも、今日は仕方なく、一日寝ていることにしよう。
 このところの、春本番かと思う暖かさで、久しぶりに、高い所に駆け上がったりするほど、活発に動き回っていたワタシだが、全くこのネコ騒がせな、急な天候の変わり方には、ワタシたちネコの目でさえ、追いついていかないほどだ。
 まあ、とかく、暑ければ暑いと文句を言い、寒ければ寒いと文句を言う、人間たちと違って、ワタシたち動物は、植物たちもそうだけれど、ただ何事も言わずに、日々の天気に従うだけだ。
 そういうことなのだ、人間と他の生き物たちとの違いは、文句を言うか言わないかなのだ。

 「ミャオが言う通りだと思うけれども、それでも、心ある人間たちは、昔から言っているのだ。それぞれに、意味するところは少し違うけれども、『沈黙は金なり』(トーマス・カーライル)、『剛毅木訥(ごうきぼくとつ)、仁に近し』(孔子)、『物言えば、唇寒し秋の風』(芭蕉)などと。
 その中でも、私の好きな詩人、フランシス・ジャム(7月8日、10日、13日の項参照)の詩集『明けの鐘から暮れの鐘まで』の中の一編、『人は言う・・・』という詩の中にある一節から。
  ・・・
  ロバと子牛は このようなことは なにも言わない。
  理由は 彼らが心貧しいからだ。
  また彼らが おおよその真実は 必ずしも語るに適しないこと 
  言わぬ方がよいことを 心得ているからだ。
  ・・・                  (堀口大学訳)
 この詩の中で言う、”心貧しい”は、聖書の中でよく言われる『心貧しい人たちは幸である』(マタイによる福音書・第5章)のように、まだ魂が純朴であり、信仰に十分に帰依していない、ことを意味するのだろうが。

 少し前の話になるが、1月25日、NHK教育の『新日曜美術館』で、グルジアの画家、ニコ・ピロスマニ(1862~1918)を取り上げていた。実はこのピロスマニは、長い間私の気になっている画家の一人であり、興味深く、その番組を見せてもらったのだが、十分に納得のできる内容とはいえなかった。それは私の期待の方が大きすぎたせいでもある。
 私が、ピロスマニの名前を知ったのは、映画『ピロスマニ』(ゲオルギー・シェンゲラーヤ監督、1969年制作、1978年日本公開)を見てからであるが、その時には、初めて見たピロスマニの絵以上に、映画そのものに感動してしまった。
 誰にでも、映画が終わり、座席から立ち上がることができないほどの、感動に打ちのめされた経験があると思うけれど、私にとって『ピロスマニ』は、そんな映画の一つであった。
 今から30年ほども前のことで、私も若かったのだが、この映画『ピロスマニ』は、その全編を通じて、ただただ感心して、ため息まじりに見続けるばかりだった。
 家族を亡くして、首都トビリシに出てきたピロスマニは、幾つかの仕事を転々とした後、ひとりで絵を描くようになり、その彼の絵を買ってくれる人がいて、時には、一杯のワインと引き換えに絵を描いて、やがて50代半ばにして、その孤独な流浪の生涯を終えるのである。
 そのストーリーを、映画は、少ないセリフの静謐(せいひつ)な流れの中で、淡々と描いていく。一場面一場面が、それぞれに、絵だと言ってよいほどに、見事な構図の中で描かれ、モノクロ的な色彩がさらにその情緒を深めていた。
 当時まだ若かった私は、これは映画の持つ、芸術的な一つの極地ではないかとさえ思ったくらいだった。劇中、あの有名な『百万本のバラ』の歌のもとになった、女優マルガリータ(写真)への恋物語もあるけれども、やはりそれ以上に胸打たれたのは、時々、映し出される彼の絵であった。
 決して、上手い絵ではない。絵画学校に通い、デッサンから勉強したというわけではないから、むしろ稚拙な感じすらあるけれども(あのフランスのルソーなどとともに、プリミティヴ派とかナイーフ派とか言われている)、その寒色系の色彩と、大胆な構図で描かれた人々や動物たちからは、それぞれにひとりであるがゆえの、寂しくしかし強い、心の哀歓を感じることができるのだ。
 この映画と相前後して、池袋の西武百貨店にあった西武美術館で、なんと『ピロスマニ展』が開かれていたのだが、あいにく私は、その時に日本を離れていて、帰国後、そのことを知った。
 せめてカタログでもと、美術館に連絡を取ると、すべて売り切れていて、代わりによろしければ、大きなピロスマニの絵のカレンダーを送ってくれた。そのうちの一枚は、今も、額に入れて家の部屋の壁に飾ってある。(去年、ようやく日本でも『ピロスマニ画集』が発売された。)
 そんな、ピロスマニの絵だから、番組でも、もっとしっかり、いろいろと見せてほしかった。しかし、現在、ロシアとの紛争のただなかにある、グルジアの画家ということで、どうしても国民画家としての視点の方に、重きが置かれたようだった。
 確かに、芸術作品の背景となる、作家の人生、当時の時代模様、ならびに現在の視点なども重要なことだろうが、私が知りたいのは、ただその作品の、生身の姿である。
 映画については、その後もう一度見たいと思いつつ、その思いを果たせずにいたが、調べると、十数年前にNHK・BSで、さらに去年、BS11で放映されたとのことだった。知らなかった私には、何という残念な、それ以上に悲しいことだろう。
 それは、この映画のDVDが現在、廃盤になっていて、簡単には見ることができないからでもある。オークションに出ている、2万5千円もするものを買って、見たいとは思わない。
 力ずくという言葉があるが、私は、金ずくで手に入れたくはない。もっとも、ただ、私が貧乏なだけではあるが。生きている間に、何とか見ることができれば良い。恋い焦がれているものは、そのくらいの価値があるものだから。
 
 今日は、実は二日前に放送された『新日曜美術館』の、岩佐又兵衛についていろいろと書きたかったのだが、ミャオの話から、つい今まで気になっていた、ピロスマニについて書いてしまった。もっとも、まだ書き足りないところがあるのだが、駄文が長々と続く私の悪い癖は、この辺りで終わりにすることにしよう。」
 
(追記 3月22日まで埼玉県立美術館で、ピロスマニの絵を含む「青春のロシア・アヴァンギャルド」展が開かれている。見には行けないけれど・・・。)
 

ワタシはネコである(83)

2009-02-14 18:58:51 | Weblog
2月14日
 全く、何という暖かさだろう、まだ2月の半ばだというのに。朝の気温が、すでに9度もあり、終日快晴の日中には、20度近くまで上がったのだ。
 いつもなら今頃、あの九重山の長者原では、「氷の祭典」が開かれ、いくつもの雪像が作られているというのに・・・。その近くにあるスキー場でさえ、かろうじて営業できるほどの雪しかないのだ。
 ワタシたち、寒がりのネコにとっては、暖かくなるのは嬉しいことなのだが、何事にも順序というものがある。
 午前中に、飼い主と一緒に、散歩に出たワタシは、この暑さで体もだらけてしまい、まあしばらくあちこちで、横になったりして過ごし、この天気なら、夕方になって帰っても十分だろう。
 今年はまあ、天気の良い日が多く、寒い日が少なく、年寄りネコ向きの冬だったが、ともかく2月に20度になるなんて、私が生まれてこのかた経験したことのない暖かさで、何事も、急な変化は良くない。
 飼い主と毎日一緒にいると、大体お互いのやることは分かっているから、同じパターンで日が過ぎていけば、年寄りネコにとっては、それが一番楽なのだ。
 ところが昨日の夕方、ワタシがサカナを食べた後、コタツの傍で寝ていたところ、横にいた飼い主が突然、体を上下左右にゆすり始めて、その眼はトローンとしている。
 アチャー、えらいことだ。ワタシより先に、ヨイヨイになってしまうなんて。とてもワタシひとりで、人間としても、デカイ体格をした飼い主を、介護するなんてできない。
 私の脳裏に、横になった飼い主のオシメを、ワタシが口にくわえてはずし、取り替えてやっている姿が目に浮かんだ。イカン、そんなことに、なってもらっては。
 カッと目を見開いているワタシを見て、飼い主が笑って言った。「馬鹿だな、ミャオ、テレビの音楽にノリノリなだけよ。」
 全く、人騒がせ、いやネコ騒がせな、紛らわしいことなんかしないでほしい。いい年をして。

 「昨日の真夜中は、春の嵐だったようだが、それ以外は、このところずっと天気が良くて、暖かすぎる日が続いている。
 冬に、気温が高いのは、私にとっても楽なのだが、好きな山のことが気になる。冬の雪が少ないと、春から夏のかけての、高い山々の姿が、迫力に欠けたものになるからだ。
 何といっても、春先に、山に出かけて嬉しいのは、『目に青葉、残雪白く、青い空』だもの。
 しかし、北海道では、寒い日が続き、雪もしっかり積もっているようだ。野生のラッコが、北海道では南の方になる釧路に現れるくらいだから。
 こちらでも寒い時は、北海道とそう変わらない時もあるが、今日なんかは、20度以上もの差があるのだろう。
 
 昨日の夕方、ふとテレビをつけたら、NHK・BSでサンタナのコンサートをやっていた。
 ちょうど、あの名曲『ブラック・マジック・ウーマン』が始まるところだった。ラテン・リズムに乗って、サンタナのエレキ・ギターが、官能に満ちた哀切な歌をかき鳴らす。
 コンサート会場の、総立ちの観衆の波が揺れる。テレビを見ていた私の体の中から、昔の思い出が呼びかけてきた。懐かしい、サンタナのあのリズムだ。
 ミャオが、急に体をゆすり始めた私を見て、目を見開いた。無理もない、いい歳の鬼瓦顔のオヤジが、ロックのリズムの合わせて、踊りだすのだもの。
 
 カルロス・サンタナは1947年、メキシコ生まれのロック・ギタリストで、ラテンのリズムとロック、さらにジャズの要素も取り入れて、一時代を画し、人気を博した。
 『ブラック・マジック・ウーマン』を含むアルバム『天の守護神・サンタナ』(1970年・写真)から、翌年の『キャラヴァン・サライ』、そしてジョン・マクラフリンとの『魂の兄弟たち』(1973年)、私も行った東京ライヴの『ロータスの伝説』(1974年)あたりまでが、その絶頂だと思っていた。
 しかし、私の好みはそのころから、ジャズやロック音楽から、並行して聞いていたクラッシック音楽へと、全面的に移行していくことになる。
 しかし、サンタナはその後も、『哀愁のヨーロッパ』(1976年)のヒットを飛ばし、さらに1987年と、1999年にはあのグラミー賞を受賞しているのだ。
 昨日、テレビで放映されていたのは、2000年の東京でのコンサートの模様だった。サンタナ自身はまだまだ元気そうだったが、ギター・テクニックは、若いころと比べれば、明らかにその切れ味が衰えている。
 しかし、サンタナはやはり、サンタナだ。バンドの皆と盛り上げる、いわゆるサンタナ・サウンドは変わることなく、私でさえ、ノセられるほどだったのだ。
 若き日には、良く聞いていた、ロック・ミュージック。その中でも、エレキ・ギターは何といっても、あのジョン・マクラフリンの超絶テクニックが一番だ。『内に秘めた炎』(’71)、『火の鳥』(’72)、サンタナのところであげた『魂の兄弟たち』、そして『エメラルドの伝説』(’74)などがあり、ジャズ・フュージョンに近い響きは魅力的だった。
 さらにもう一人、あの伝説のギタリスト、ジミ・ヘンドリックスの流れをくむ、ロビン・トロワーがいる。その彼の『ロビン・トロワー』(’73)、『魂のギター』(’74)、『遥かなる大地』(’75)などで聴くテクニックは素晴らしかった。
 他にも、プログレッシヴ系のジェスロ・タルやイエス、カントリー・ブルース系のオールマン・ブラザースやレナード・スキナード等もよく聞いていた。
 その時に持っていた数多くのポピュラーやロックのレコードも、今では、数十枚があるだけで、上記のギタリストのアルバムは、それぞれ一枚ずつが残るだけだが、それで十分だ。これからも、めったに聞くことはないだろうから。
 そして、今にして思えば、恥ずかしながら、この鬼瓦権三、当時、一時的ながら、肩まで伸びる長髪だったのであります。(ニャ、ニャ、ニャ、ニャ、ニャーオ。)ミャオ、隣で、笑うんじゃない。誰にでも、若気の至りという時代があったのだから。
 
 ともかく、若い時に夢中になった体験というものは、年をとってから、良くも悪くも、心地よく思い出せるものなのだ。歳月は、無駄に過ぎてはいない。」

ワタシはネコである(82)

2009-02-11 18:28:43 | Weblog
2月11日 
 晴れているけれども、雲が多く、風は冷たい。しかし、気温は10度まで上がり、相変わらずに暖かい日が続いている。
 昨日、散歩に出た後、夕方前に家に戻ってみると、飼い主がいない。やがて、日は沈んで行き、夕闇が迫ってきた。こんな時間まで、飼い主が帰ってこなかったことはない。
 心配は、二つ。毎日の、お約束のサカナ一匹を、今日はもらえなくなるのではないか。そして、さらなる恐れは、飼い主がワタシを残して、もう北海道に行ってしまったのではないか。
 ワタシはひたすらに、ベランダに座ったまま、飼い主を待っていた。そこに、聞き覚えのあるクルマの音。
 良かった、飼い主だ。ワタシはニャーニャー鳴いて、今までの寂しさを訴える。飼い主は、いつものムツゴローさん可愛がりで、ワタシをなでまわす。
 そして、サカナ一匹では足りずに、もう一匹おねだりする。長い間、不安な思いでいると、お腹がすいて、ともかく何かを食べたくなるのだ。ワタシには、ダイエットしなければならない体になってしまった、女の人の気持ちがよく分かる。
 二匹目もガシガシ食べて、さすがに頭のところは残したが、ともかくおなかいっぱいになり、ようやく気持ちも落ち着いて、ストーヴの前でゆっくりと毛づくろいをする。ヤレヤレだ。
 
 「昨日は、仕事の都合でいろいろと用事が重なり、遠くの町まで行ってきたのだが、帰りが遅くなり、ミャオのことが気になっていた。
 このところ、ミャオのサカナは、冬場だということもあって、早めに4時頃にやっていたのだが、その時間を2時間も過ぎてしまったのだ。
 家の前に着き、クルマのドアを開けると、もう目の前で、ミャオが待って鳴いていた。こんな時に、飼い主たちは、いつも胸キュンとなるのだろう。
 サラリーマンのお父さんが、仕事や付き合いで遅くなり、寝静まった我が家に帰ってきた時に、飼い犬のシロや、あるいはネコのタマだけが迎えてくれる、その気持ちはよく分かる。
 サカナを二匹食べた後でも、ミャオはしきりに私に甘えた。いい歳の、おばあさんネコなのに。しかし、ミャオの気持ちも分かるし、2か月先になるだろう、ミャオのとの別れが、今から心配になるほどだ。
 しかし、日々の計画でさえ、まともにに達成できないのに、先のことを今から思い悩んでも始まらない。その時に十分に考えて、対処するしかないのだ。
 この冬に、しっかり勉強しようと思っていた幾つかのことや、何としても行かなければと思っているヨーロッパ再訪などなど・・・。
 人は弱いもので、どうしても毎日の、目の前の雑事にとらわれてしまう。それらのことを、日々取り繕うだけでいっぱいになり、積み重ねていくべき計画など二の次になってしまうのだ。
 そのヨーロッパの文化を味わうためにと、自分への言い訳を考えながら、録画しておいたシェイクスピア劇を見た。
 2月7日にNHK・BShiで放送された『リア王』(写真)である。このことは、1月31日の項でも書いていたのだが、物語は、リア王とその三人の娘との愛憎劇で、さらに周りの忠臣たちや、裏切りの兄弟愛などが絡んで、壮絶な終幕へと向かう、シェイクスピアの四大悲劇作品の一つである。
 これは、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの舞台公演を、スタジオ・セットに移し替えて、映画として撮ったもので、リア王役のイアン・マッケランをはじめとした俳優たちの熱演は、さすがにシェイクスピア役者として、見事なものであったが、一方では、演出などで多少の不満も残った。
 あのミュージカル『レ・ミゼラブル』や『キャッツ』等で有名な、トレバー・ナンの演出は、さすがに長い間、一座とともにあったことを思わせ、息のあったところを見せているが、私には、演劇と映画の区別が、少し曖昧(あいまい)にも思えた。
 この問題は、簡単にはかたずけられない難しいものだが・・・。まして、シェイクスピア劇となると、我々日本人とっては、演劇として見るよりは、まずは翻訳された脚本として、有名なシェイクスピア作品を、読むことの方が先になるだろうから。
 つまり、厳しく言えば、まず前提として、翻訳という問題があり、次に、その脚本を読んでしまうこと、そして実際の舞台を見ること、さらに、映画として映像を見ることの、それぞれについての意義と問題があるわけだから。
 それは、シェイクスピア(1564~1616)の劇が上演された、当時のグローブ座のような劇場の観客たちは、ただ評判だけを聞いて、その出し物を見に行き、そして、涙を流し、怒り、笑いながら、芝居を楽しんだに違いないからだ。
 
 昔、東京に住んでいたころ、舞台を見るのが好きだった母に付き添って、良く劇場に行ったものだ。歌舞伎から、新派、新国劇、現代劇に至るまで、いろいろな出し物を見てきた。
 当時、まだ若かった私は、中にはあまり気の進まないものもあったが、今にして思えば、やはり当時の一流の役者たちの芝居を見ることができて良かったと思う。淀川長治さんの言葉(1月31日の項)が、身にしみるところだ。
 その中の一つ、もうずいぶん昔のことだが、あれは確か、有楽町の芸術座ではなかったかと思うが、山本周五郎原作、小幡欣二演出の『おたふく物語』を見に行った時のことだ。
 劇中、主人公のおふく(十朱幸代)が苦労しながら、家族を支えて働いているのに、遊びものの兄が、なけなしの金目のものまで奪っていく。そんな時に、場内の観客のおばさん達が、涙声になりながら、その兄を演じる役者に向かって、『この親不孝者が』と罵(ののし)ったのだ。
 つまり、この映画『リア王』が終わった後で、主役のイアン・マッケランが言っているように、舞台での、役者たちと観客たちが作り上げる一体感こそが、演劇の一つの醍醐味なのだろう。
 映画では、しかし、あの『ニュー・シネマ・パラダイス』(1月28日の項)のような、昔の映画館ならば、芝居小屋に近い雰囲気だっただろうが、現在の、ビデオやテレビが主流となった個人的な観劇方法においては、もちろん今でも映画館で映画を見ている人は多くいるわけだが、一人だけの場であるがゆえに、より冷静な鑑賞、判断をすることができるとも言えるのだが。
 演劇、映画のいずれかが良い悪いという問題ではなく、演劇は演劇としての特質を生かし、映画は映画ならではのものを、良識に沿って作り上げ、我々観客に見せてほしいものだ。
 
 シェイクスピア劇は、その作品の多くが、何度となく映画化されている。私は、それらのうちの幾つかを見たにすぎないが、舞台劇により近く納得できたのは、あのローレンス・オリビエの『ハムレット』(1948年)であったし、映画として忘れられないものは、フランコ・ゼフィレッリの『ロミオとジュリエット』(1968年)であった。
 評判になった『リチャード3世』(1995年)は、時代を変えた設定とはいえ、私には、戦車が出てくるシーンなどは見るに耐えられないし、『恋に落ちたシェイクスピア』(1998年)も、良くはできているが、主人公の現代的な性格付けには、違和感を感じてしまう。
 とかく、個人の好みや思い入れの深い映画・演劇の話は、難しいものだ。

 ところで、もう5時に近いというのに、まだミャオが帰ってこない。探しに行かなければ・・・。
 ・・・長い間外にいて、すっかり野生の目になっていたミャオを見つけて、連れて帰った。今は、サカナを食べ、ストーヴの前で寝ている。そして、今日の一日が終わる。」 

ワタシはネコである(81)

2009-02-07 19:00:33 | Weblog
2月7日
 何という、暖かい日だろう。これは、もう春が来たのだろうか。朝の気温は-3度だったが、日中は12度まで上がる。青空が広がり、春霞の中に山が見えている。
 このところ、晴れて暖かい日が続き、毎日、飼い主と一緒に、昼間の散歩に出かける。ワタシは、もう年寄りネコだから、ゆっくりと歩く。1年前くらいまでは、目の前に手ごろな木があると、ダダッと駆け上って見せたものだが、いまでは、そんな無駄なことはしない。
 飼い主も、ワタシと同じように年をとって、物分かりが良くなったのだろう。そんなワタシが、ゆっくりと歩き、あちこちで爪とぎをして、周りの臭いを確かめ、物音に耳を澄まし、草を食べ、トイレを済ませるのを、気長に見守ってくれる。
 その時、羽音がして、近くの木に鳥がとまった。ワタシはじっと見つめる(写真)。若いころなら、物陰に隠れて、辛抱強く待ち続け、飛びかかり、獲物をしとめたものだ。
 そして、ワタシがあまりも長い間、座り込んでいると、さすがに飼い主もあきらめて、一人で先に帰ってしまう。それでいい、そしてワタシは数時間を過ごして、日が陰る頃には、サカナをもらうために家に帰るのだ。
 それから、ストーヴの前で、あるいはコタツの中で、寝る・・・そんな毎日が続いてくれれば、それで十分だ。他に何も、要らない。
 
 「ミャオを見ていると、学ぶことが色々とある。犬や猫は、飼い主に似るというけれど、私は、むしろ飼い猫に、ミャオに似てきたような気がする。
 ・・・そういえば、ヒゲも生えているし、猫なで声も出すし、夜は出歩かないし、普通に食べて生きていければ、それで十分だと思うし。
 それは、もちろんミャオから教わっただけではない。それまでに、私が出会った人や、本や、テレビ、映画などからも様々なことを学んだはずだ。
 その一つに、この何年もの間、九州と北海道を往復する度に、その待ち時間を利用して、読んできた何冊かの文庫本がある。
 文春文庫として出ている、中野孝次氏の一連のエッセイ・シリーズだ。
 中野孝次氏については、それまでに、あの16世紀のオランダの画家の作品について書きつづった『ブリューゲルへの旅』や、愛犬物語として有名な『ハラスのいた日々』を読んでいたものの、もっとも有名なベストセラーになった『清貧の思想』を読むまでには、少し時間がかかった。
 それは、その題名からくる私の穿(うが)った先入観からだったのだが。つまり、清貧という言葉は、たとえば、ある高潔(こうけつ)の士を、他人が見て、・・・あの人は、己の志を貫くために、清貧の生活に甘んじていた・・・、などと使う言葉であって、清貧の思想と名づけて、大上段に振りかぶって使う言葉ではないと思っていたからだ。
 しかし、何年後かに、その本を読んで、私は自分の狭量な考えに、浅学さゆえに恥じ入り、改めて、著者の深い思いに感慨を覚えたのだった。彼は、私にとっては一世代前の人なのだが、共通する倫理観に、まるで志を同じくする同志、いや先輩に出会ったような気がしたのだ。
 『・・・富んで慳貪(けんどん)である者を軽蔑し、貧しくとも清く美しく生きる者を愛する気風は、つい先ごろまでわれわれの国において一般的でした。』(本文より)
 昔、『名もなく貧しく美しく』(1961年、松山善三監督、小林佳樹、高峰秀子主演)という映画があって、大ヒットし、キネ旬のベスト5位と評価されたが、今の若者たちは、見たいとさえ思わないだろう。
 一体いつから、この国では、高級マンションに住み、ベンツに乗って、ブランド物で身を飾る人たちが、賛嘆されるようになったのだろう。もっともそう思うのは、持たざる者、努力しない者のやっかみであり、負け犬の遠吠えにすぎないかもしれないのだが。
 それはともかく、この本で中野孝次氏の考え方に共感した私は、先にあげた文庫本シリーズから、一冊、又一冊と読むことになった。そして、それらの本の中に書かれていた、あの良寛と、さらに一休についても、より詳しく知りたくなったのだ。同じ価値観を持つつながりとして。
 調べていくと、江戸時代の良寛と室町時代の一休、この二人の禅師の前に、鎌倉時代の『徒然草』の兼好法師、『方丈記』の鴨長明がいて、さらに平安時代のあの漂泊の歌人、西行に至る流れが見えてくる。
 それは、日本的な無常観を学ぶべき一つの系譜であり、ひとりで生きていくことを潔(いさぎよ)しとし、彼らなりの安住の地を見つけるべく、苦闘した人々の思いを知ることでもある。
 さらには、彼らの背後にある仏教思想を、つまり親鸞(しんらん)や道元、一遍(いっぺん)にまでさかのぼって、学ぶ必要があるのだろうが、とても今の私の手には負えない。何時かは取りかかろうと思っても、その本を手にしないのは、まさしく私のアレキサンドル(1月28日の項)的な、ぐうたらさゆえだ。
 ところが、一方で、先月に少し書いたあの万葉集については(1月2日の項)、その後も読み返していて、彼ら万葉人たちの、率直にして感情豊かな歌の数々に、すっかり夢中になってしまった。
 そして、その中にあった一首、『世のなかを 何にたとえむ 朝開き 漕ぎいにし船の 跡なきごとし(朝すぐに出ていった船の跡が、もうどこにも見えない。世の中とはそんなものなのかもしれない。)』(沙弥満誓)。
 さらに、この歌を受けて、あの鴨長明がその『方丈記の(十)境涯』の中で、『・・・行きかう船を眺めて満沙弥が風情をぬすみ・・・』と書いているのだ。(以上、角川文庫・万葉集上下巻、日本の古典・万葉集、小学館・日本古典文学全集・方丈記参照)
 つまり、日本的な無常観を伝える系譜は、なにも仏教思想によるものだけではなく、万葉の時代から、さらに言えば、時代に、国に限らず、人間の普遍的な性情の一つとして、誰にでもありえるものではないのかと・・・。
 あの画家ゴーギャンの言葉のように、『我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへ行くのか』と考えれば、まず私が日本人であることを知らなければならない。
 そのためにも、世界に誇る日本の古典の数々を読むことは、必要なことであり、また私にとっては、今や楽しみの一つとさえなってしまったのだ。
 時代遅れとか、古臭い、ダサイと言われようとも、人に迷惑さえかけなければ、気にしなければいいのだ、そのまま己の道を生きていけば。ミャオ、そうだよな。生まれた時からの、一張羅(いっちょうら)の毛皮だけを着て、安全な所で食べてさえいければ、どんな所にいてもいいんだものな。」 
 

ワタシはネコである(80)

2009-02-03 19:31:29 | Weblog
2月3日
 今日は、一日中雨が降っている。朝の気温、3度からずっと変わらないので、やはり寒く感じる。
 ワタシは人のいない家の軒下で、ずっと寒さに震えていた。そこにようやく飼い主の、私を呼ぶ声がして、やっと来てくれたのかと思う。
 そして雨の中、ワタシを抱えた飼い主の50mダッシュの繰り返しで、ようやく今、家に戻り(飼い主はゼイゼイいっている)、コタツの中にもぐりこんだところだ。
 昨日は、快晴の良い天気だった。ところが、飼い主は朝から出かけてしまい、午後2時ころになってようやく戻ってきた。顔が少し、例の赤鼻のトナカイになっているところを見ると、また山に行ってきたらしい。
 ワタシは、ずっと家の中にいて知らなかったのだけれども、飼い主が開けてくれたベランダは、12度まで気温が上がり、暖かい春に日差しに満ちていた。
 久しぶりに、そのベランダで日の光を浴びて過ごして、夕方にサカナをもらった後、その日は、まだ散歩に行っていなかったので、飼い主を促して外に出た。
 そして、途中でワタシが草を食べたりして、ノンビリしていると、飼い主は先に帰ってしまった。やがて日が沈み、夕闇が迫ってきた。ワタシは帰れなくなってしまったのだ。
 それは、ワタシが年を取って、より用心深くなったこともあるが、夜になると、他の動物たちが出てきて魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世界になるし、おまけにワタシたちのサカリの時期でもあり、他のノラのオスネコたちの声が聞こえてくるからでもある。
 去年の、あの恐ろしい出来事(4月14日から23日の項)を、ワタシは決して忘れてはいない。あんなことは、もう二度とゴメンだ。
 それでそのまま家に帰れなくなって、人のいない家の軒下に隠れて夜を過ごし、そして、今日は朝から雨で、帰るに帰れなくなってしまったというわけなのだ。

 「ミャオが、まる一日近く帰ってこなかった。心配で、気持ちが落ち着かなかった。今までには、もっと長い間、帰ってこないこともあったから、それほど気にすることはないのだが。
 昨日の夜に探しに行って、今日の朝に行っても見つからず、恐らくはこの雨の中、帰れなかったのだろうと思ってはいても、ミャオのいないがらんとした部屋を見るのは、寂しかった。
 そして、午後になってまた探しに行き、やっとミャオの鳴き声を聞いた時は、嬉しかった。
 人は誰でも、普通に一緒に暮らしている時は分からないけれども、いなくなってから初めて、その人の、あるいはペットがいてくれたときの有難さが分かるのだ。
 若いころに、一緒に暮らしていた彼女がいなくなり(私の方が出て行けと言ってしまったのだ、何と情けない)、寒々とした一人っきりの部屋に、戻ってきた時の寂しさ。そして、一緒にいた母を亡くして、自責と後悔の念にかられながら、一人いること・・・人はそうした幾つかの試練を経て、それでもしっかりと生きていくのだろう。
 少し、しんみりとした話になってしまったが、ともかく、今また、ミャオとのいつもの暮らしが続くことになって、一安心ではある。

 ところで、終日快晴の良い天気だった昨日、山に登ってきた。前回(1月17日の項)から、2週間以上間が空いてしまった。その上、私の好きな雪に覆われた山というわけでもなかったのだが、これからしばらくは雪の降る寒さにはならないとのことで、やむなく、頂上付近が白いだけの山に登ることにしたのだ。
 朝は-5度と冷え込んでいて、8時前の登山口の駐車場には、まだ2台だけしか停まっていなかった。目の前に、由布岳(1583m)の双耳峰の頂が見えている。
 この由布岳は、九重山に次いで、私がよく行く山であるが、登って良し、眺めて良しの独立峰で、天下に誇る名山であると思う、百名山なんかには入っていなくても、万葉集にその名が載るほどの名山なのだ。
 由布院盆地に入る四方向の、いずれの道からも、盆地に入ると目の前に、すっくと立つ山の姿を見て、誰もが歓声をあげるだろう。しっかりとした土台の山腹の上に、まさしく双耳峰(そうじほう)の典型と言ってもよいほどに、見事な二つの耳をそばだたせている。
 他にも、双耳峰として有名な山は、鹿島槍ヶ岳とか雨飾山とかあるけれども、その拮抗する形から見ても、日本一の双耳峰だと思う。
 これほど個性的な山が、百名山に選ばれなかったのは、逆に山にとっては幸せだったのかもしれない。
 登山口から、東西いずれかの頂上までの標高差は800mほどで、わずか2時間ほどで登り着くことができて、年間を通じて、多くの登山者に親しまれている。
 さて、霜柱に先行者の足跡が残る山腹の道を、ジグザグに二十曲がりほど登って行く。上の方には、雪が残っていて、マタエと呼ばれる、東西峰の分岐に着いて見ると、火口壁を取り囲む内側は、びっしりと白い霧氷に覆われていた。
 そこから、鎖のある岩場(日が差さないときは、凍りついていることもあり危険)を通って、西峰に着く。ここまでは、普通の人も登ってくるが、それから先の道は人が少なくなる。この日も、他には、人の姿は見えなかった。
 道を覆いかぶさる霧氷の木々を払いながら、北側へとずんずん下っていく。緩やかな草地になったところで、その先は、今なお崩れ続けて立ち入り禁止の大崩壊地になる。
 道はその手前から下り、そして岩稜の連なるスリリングな地帯になる(写真は、その御鉢の岩稜と東峰)。この辺りからは、全くの冬山になる。アイゼンを持ってきていなかったので、少し危険ではあるが、なんとか、手がかりや足がかりになる木の枝や岩をつかんで、攀(よ)じ登っていく。道は所々、凍りついていて、その上に落ちてきた霧氷の破片が散らばっている。
 北端の剣ヶ峰に登り着くと、一安心だ。後は、さらに霧氷の道をたどり、東峰に登る。そして、マタエに降りて、すっかり暖かくなった山腹のジグザグ道をたどり、登山口に戻る。休みを入れて5時間ほどの行程だが、岩場の上り下りで少し疲れてしまった。やはり、年だ。
 家に戻ると、ミャオが迎えてくれた。ベランダの温かい日差しが、冷えた体を温めてくれる。青空を見ながら、一面の霧氷に覆われていた山を思い返す。
 やはり、山は、いいよなー、山は。」