ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

青空と泥濘と

2020-03-20 21:40:22 | Weblog



 3月20日

 一週間ほど前、久しぶりに山に行ってきた。
 去年の10月の初めに、東北の焼石岳に行って以来のことだから、数えてみれば5か月半ぶりのことになる。
 私の登山歴の中で、これほど間が空いたことは、めったにあることではない。
 それも、寄る年波には勝てずというべきか、去年の秋から相次いで、体のあちこちで体調を崩したことにある。
 もって肝(きも)に銘ずることは、孔子のいうように、”心の欲するところに従えども、矩(のり)をこえず(自分の思うままにやっても限度をわきまえる)”ということか。

 その日は、前日の天気予報から、全九州的に晴れるということであり、これは出かけなければと決めていた。
 九州の山としてはもう雪山の時期が終わり、新緑には早すぎるし、時期的には、あまりよい季節ではないけれども、天気が良いことは、そうしたもろもろの負の条件さえも凌駕(りょうが)してしまうほどの魅力があるのだ。
 ”バカと何とかは上に昇りたがる”と言う言葉があるが、まさに”脳天気(能天気ではない)”な私には、晴れた日でさえあれば、おのずからいい気分になりご機嫌になるのだ。
 さらには、体力的には、まだ相次いで起きた三つの病気の回復途上ではあるが、これ以上間が空くと、山歩きに出かけることがさらに遠いものになってしまいそうで、ここいらで一つ足慣らしの山歩きをしておかなければと思っていたのだ。

 行ったのは、おなじみの九重山であり、もう何十回足を運んだのかわからないけれども、全体的にはなだらかな高原尾根歩きが多く、何時間も続くような急坂が少ないから、年寄り子供に至るまで、比較的安全に登れる山なのだ。
 ましてや、ヨレヨレの年寄りになりつつある私にとって、最近は、本当に”九重”はいい山だと思えるようになってきたのだ。
 しかし、九重に行くのも一年ぶりになる、前回九重に登ったのは、一年前の2月に、2回続けて行って以来のことだ。
 年によっては、3月半ばくらいまでは雪山を楽しめる年もあるのだが、今年の記録的な暖冬では、あの2月半ばに降った雪が最初で最後の雪山になったのだろう。(数日前、家の周りでは1㎝ほどの雪が積もっていたが、見る間に溶けてしまった。牧ノ戸峠のライブカメラで見ても、雲の取れなかったその日はまだしも、翌日にはもう雪もほとんど溶けていた。)
 それはともかく、その日は、久しぶりの明るい九重の山歩きだと思うと心がはずみ、この年寄りでさえ楽しくなるものだ、るんるん気分で。
 快晴の牧ノ戸峠の駐車場に着いたのは9時前で、平日だということもあって、楽にクルマを停めることができた。(この駐車場は九重登山口の最高所(1330m)にあり、さらに本峰へも最短距離の位置にあるという便利さから、初夏のミヤマキリシマの花の時期は毎日のように、さらに秋の紅葉と冬の雪山に霧氷の時期も、普通の週末休日でも、朝早くから満車になることが多いほどの人気の場所なのだ。)

 さて、まずいつもの沓掛山前峰(1480m)までの舗装された遊歩道を歩き出す。
 まだ周りのノリウツギなどの灌木は、灰白の冬枝のままで、その日の朝は家でもー3℃まで冷え込んでいたのに、ここでも霧氷はついていなかった。
 久しぶりの階段状の登りで、もう足が疲れてしまい、一度二度と立ち止まってしまう。
 やっと、東屋(あずまや)のある展望台に上がり、周囲の展望が開けてくる。
 見事な快晴の空の下、昨日までの強風も収まっていて、視界が遠くまできいて周りの九重の山々はもとより、由布岳、英彦山、雲仙までもがくっきりと見えていた。
 さらに、この時期の楽しみである、春一番に咲くマンサクの黄色い花が、これから登るこの沓掛山の北斜面に、点々と見えていた。
 確かにそれは、周りが灰白色の冬枝の樹々の中で、唯一山に春を呼ぶ色だった。

 そしてまだまだ続く遊歩道の登りで、ようやく沓掛山前峰に着くと、南側が大きく開けて、阿蘇五岳(高岳1592m)の山々が並んでいて、とりわけ中岳の噴煙が、濃く立ち昇り、1600m位の所から東側に流れていた。
 ここから、岩場混じりの尾根道を行き、沓掛山山頂(1503m)に至り、その岩場を下りきると、ゆるやかな高原状の尾根歩きになるのだが、今の季節はしかたないのだろうが、先ほどから所々ぬかるみが出てきていて、午後に戻ってくる時にはもっとひどくなっていることだろう。
 面白いのは、道の両側に残る霜柱で、日が当たり溶け始めてきた所は、その一柱ごとに崩れ散乱していて、かき氷のようになっていた。(写真上、後ろの山は三俣山)

 平日でこの時期だから、人が少ないのはありがたい。
 そこで目立ったのは、若い人や、親に連れられて一緒に登っている子供たちの姿だ。
 春休みやコロナウィルス休校のためだろうが、ただ家の中に閉じこもりゲームをするくらいならと、その子供たちを誘い出し山登りに連れてきた親たちはさすがだと思う。
 中にはその両親が平日で休めないために、私のようなおじいさんと孫娘の姿もあったが。

 分岐の所で、ほとんどの人々は、本峰である久住山(1787m)や最高点の中岳(1791m)方面を目指して行くのだが、病み上がりの私にはそれは遠すぎて、今回は、そこからすぐの所にある扇ヶ鼻(1698m)まで行くことにしていた。
 まだらに古い雪が残っている、少しの急な登りの後、溶岩台地状になった上部に出て、まずは手前の西端にある見晴らし地点の所まで行く。
 途中には、全体がすっかり凍りついた霧氷に覆われている、大きなミヤマキリシマの灌木があって、青空を背景にしてそこだけに冬の名残があった。(写真下、星生山と霧氷、霧氷には大きく二種類があって、その時の気温や風の状態で、氷霜状のものと透明な氷からなるものに生成されるのだが、ともかくこれもまた、青空と太陽の光を浴びて輝く雪山の芸術作品なのだ。)

 その西端にある岩の上に腰を下ろして、九重山の主峰群を眺める。
 この扇ヶ鼻は、少し離れた所にある頂上よりは、この西の肩のほうが眺めがよく、私はここまで来て引き返すこともあるくらいだ。
 戻って、ミヤマキリシマの灌木の間につけられた、ゆるやかな道をたどって頂上まで行った。
 岩陰で、子供連れの親子3人がバーナーで昼食を作っていた。
 少し東側の岩井川岳への道をたどり、ここでも岩の上で腰を下ろし、眺めを楽しんだ後、戻ることにした。

 その帰り道は、予想していた通りにぬかるみだらけだった。
 朝のうちはまだ凍りついて所も、すっかり溶けて、水を通さない粘土層の上の、火山灰腐植土が、水と泥まぜになっているのだ。(写真下)



 そして、これからまだ登ってくる人も、下りてゆく人も、その足元は泥だらけになっていた。
 特にスニーカーで登って来る、若い人たちの足元は悲惨な状態だった。
 火山の登山道がすべてこうした道と言うわけではなく、火山礫(れき)の堆積した道ならば、水は浸透してしまうから、水はけのよい道になり快適に上り下りができるのだが。(例えば富士山須走ルートや御嶽山や浅間山や阿蘇山などのように、新しい火山やいまだ噴火活動が続いている山などに多い。)

 ともかく逃げ場のない道で、そのぬかるみの中を注意して歩いて行くしかないのだが、私はそれほど嫌な思いはしなかった。
 というのも、この泥だらけの道も、所々にある水たまりには、青空が映し出されていたからだ。
 それは、”いつまでも続くぬかるみの道はない”と教えてくれる青空の色に思えて、ふと小説の題名のような言葉が口をついて出た。”青空と泥濘(でいねい)と””。
 さらに沓掛山の稜線で、行きは逆光気味でよくわからなかったマンサクの花が、青空に薄く模様を描くすじ雲を背景に、色鮮やかに咲いていた。
 色彩感の乏しいこの季節だけに、何とも見事な配色の風景だった。



 往復4時間半、コースタイムでは往復2時間半くらいなのだけれど、病み上がりの年寄りが歩くには、適当な距離だし、それ相応の時間だったのだろう。
 今年の雪山は、ついに一度も登れなかったけれども、こうして晴れた日に、ゆっくりと自分なりの山歩きができたことで、私は十分に満足した。

 山登りは、他人と競い比べるのではなく、あくまでも自分だけの時間の中で、自然の中にいることを楽しむものだ、と思っているからだ。
 そうなのだ、自分の人生は、決して他人と比べるものではなく、自分が今ここにこうして生きていることに、感謝する道のりとしてあるものなのだ。

 あの『日本百名山』の著者深田久弥氏の言葉に、”百の頂には百の喜びがある”(出典はゲーテ)という有名な言葉があるように、それぞれの人々にそれぞれの人生がある。
 どれ一つとして同じではない、喜びと悲しみ、それらが混じりあって自分だけの道として、織り綴られてきたのだから、自分の唯一のものとして誇りに思っていいのだろう。

 相変わらず毎週、テレビ番組の『ポツンと一軒家』を見ているけれども、それぞれに自分だけの人生史があり、そこには自分だけの様々な理由と哀歓が込められていて、同じように見えても、それぞれに異なった人生の中で、彼らが必死に生きてきた歴史が見えてくるから、どうしても見たくなってしまうのだろう。

 彼は、九州は福岡の中心街で、ホテルの朝食ビュッフェ兼夜の居酒屋を営んでいたのだが、休みもなく一年中働きづめで、55歳になった時、ふとこんな人生でいいのかと考え、前から好きだった山の中で暮らすべく、山間地の谷あいの土地を買い求めて、周りの人の力も借りながら、重機を使って土地を切り開き平地にならして、家を建て畑を作り、造園の仕事もしていて、ピザ窯、焼き物の窯、燻製窯、炭焼き窯とその趣味は多岐にわたっていて、72歳になった今でも、昔の店の調理師の腕前を生かして、奥さんのために料理を作り洗い物の片づけまでしていた。
 そんな話を聞かされた取材スタッフから、”町中から山奥に行くと言われて嫌ではなかったですか”と質問された奥さんは、”こんなに何でもしてくれる人と一緒になって幸せです、どこまでもついてゆきたい”と答えていた。

 まだまだ、この『ポツンと一軒家』の番組から教えられることは多いのだが、他にも書いていくときりがないので、とりあえず今回はこの一件だけにして、もう一つは、これも私のごひいき番組『ブラタモリ』から、今回は”天草・島原編””で、2年間4代目アシスタントを務めてきた林田アナウンサーの最終回でもあったのだが、彼女が音大出身で自身”絶対音感”があるとかいうことで、一度番組でドビュッシーほんの一小節をピアノで弾いたことがあったのだが、それはさすがと思えるものだった。
 さらに、今回”潜伏キリシタン”の話で、ある教会に復元された古いヴァージナル(チェンバロやクラビアの原型)が置いてあって、弾いてみてと促された彼女は、椅子に腰を下ろして、右手だけであのバッハの「平均律クラヴィア曲集」から、有名な冒頭のプレリュードに続くフーガの、ほんの一節だけを弾いてくれたのだが、音楽番組ではないのでそこまでだったのだが、できることならそこから左手が入ってきて演奏される、わずか2分半ほどのそのフーガの部分だけでも弾いてほしかったのだが・・・。
 それでも、本来長崎生まれでNHK長崎局勤務の経験もある彼女のことだから、今回の放送内容に関してはおそらくタモリ以上によく知っていたとは思うのだが、何しろこの番組は一つには、地学や歴史に関するタモリのうんちくを聞くことがメインなのだから、いつものように多くは口をさしはさまなかったのだが、今回も得意な鍵盤を前にしても、そのほんのひとさわりを弾いただけだったのだ・・・あの音の余韻が今も残っている。

 それから、実はもう一つ書いておきたいことがあって、九重は扇ヶ鼻に登ってその帰り道の所で、何と一匹のチョウチョウがひらひらと飛んできて、私の目の前の石の前にとまったのだ。
 それは、キタテハだった。(写真下)
 ほとんどのチョウは卵やさなぎの形でしか越冬できないが、このタテハチョウの仲間のいくつかは越冬して、次の春を迎えることができる。春に私の北海道の家に戻り小屋の扉を開けると、越冬したチョウがパタパタと羽ばたいて出てくることがあるので、そう驚きはしないのだが。
 それも九州の山の上で、何もこんな寒い高い所(標高1600m位)で越冬しなくてもいいように思うのだが、そのうえに羽がきれいな形だったから秋に羽化(うか)したものだろうが(春に羽化したものは一冬越すと羽がボロボロになっているものが多い。)

 私たちは、自分の人生は分かっていても、他の人や生きものたちの、これまで生きてきた道のりなど何も知らないのだ。
 それだからこそ、一匹のキタテハに感心し、『ポツンと一軒家』のそれぞれの話しに感動するのだろう。




 


手術

2020-03-02 21:03:12 | Weblog




 3月2日

 それは、極彩色で動めき回る物の、映像を見ているようだった。
 目を閉じたまぶたの裏で、白ではない灰色がかった背景の中で、赤や黄色の不規則な形をした物体が、絶え間なく動き続けていた。

 それは、昔見たアヴァンギャルド風な近未来を描いた映画の幻影のような、さらには、あのスペインの名映画監督、ルイス・ブニュエルの『アンダルシアの犬』(1928年)の中の一シーン・・・椅子に座った女性の後ろに立っている男が、カミソリの刃を立てて、彼女の瞳を薄く切り裂いていく・・・という衝撃的なシーンまでも思い出したのだ。

 しかし、現実的に手術台に横たわる私にとって、それは、まぶたの裏を、つまり眼球の表面をかき回されているような感じで、小さなピリリとした痛みも伴っていたが、“無事に終わりましたよ”という医者の声で、ようやく今ある自分に戻ることができた。
 分厚い眼帯を目に張り付けられて、病室で一晩を過ごし、夜中にトイレに起きた以外は、その個室になっているベッドでよく眠ることができた。

 翌朝、下の診療検査室に行って、そこで看護婦さんがやさしく眼帯を取り外してくれて、”目を開けてもいいですよ”と言ってくれた。
 その時、私の目の前に広がった光景・・・私はこの手術の前に、何度も検査のために訪れていて、見慣れた部屋だったのだが、全く違った景色に見えたのだ。
 ”明るく、鮮やかにすべてが見えている”。
 数台並んだ検査台も、それぞれの検眼表も、忙しく立ち働く数人の看護婦さんたちも、そして窓から部屋に入って来る朝の光も、家並みも、遠くに見える山々も、すべてがくっきりと見え、やさしく私を迎え入れてくれているようだった。
 私は思わず涙ぐみ、大げさだがひざまづいて祈りたい気持ちだった。

 私は保護メガネをかけて、タクシーと電車を乗り継いで、その間、車窓から見える田園風景と山々の姿を見あきることなく眺め続けて、1時間余りかけて家に戻った。

 それが、数日前のことである。
 その手術の2週間前、私は右目のほうの手術を受けていて、その時でも十分にその成果を感じていたのだが、いかんせん左目のほうは、まだそのままで、それは薄い黄土色のベールをかけられたような状態で、その違いは歴然としていた。
 この手術の後に、医者が、その前と後の私の眼球写真を見せてくれたのだが、そこには、全くあぜんとするほどの差があった。
 手術前の眼は、白い幕に覆われていたのだが、それが手術後には、すっかり取りのぞかれていて、私の瞳がはっきりと映っていたのだ。

 医者が言うには、”よくこれほどひどくなるまで放っておきましたね”、と言うぐらいの病状の進行状態だったのだが、ただ本人からすれば、少しずつの進み方だから進行具合がわかりづらくて気づかなかったのだ。
 とは言っても、免許の更新の際には何度も視力の低下を指摘され、夕方や夜間でのクルマの運転が見えづらく、光がまぶしくて見えなかったりと、自覚症状はあったのだ。
 それは、例えば、レースのカーテンがあっても近づいて外を見れば見えるのだが、外側から離れて見ると白いカーテンの中は見えないということと同じで、暗くなればなおさらのことだ。

 ともかく、それらの眼の不具合が、両目の手術が行われたことによって、見事にぬぐい去られて、新たにはっきりと見えるようになったのだ。
 それは、当然のこと、外の景色や家の中だけにとどまらず、テレビの画面からパソコン画面にまで及んでいるのだ。
 私は、カメラで撮る山の写真を、フィルム写真からデジタル写真に代えて、10数年になるのだが、特に目の状態が悪化してきたと思われる10年程前の写真を見て、はっとするほどの景色だったことに気づいたのだ。
 あの時の山々の姿は、これほどまでにきれいだったのかと。
 私は、むさぼるようにそれらの写真を見続けたのだが、その喜びとは別に、逆に言えば、私は今まで、何という景色を見ていたのかと思ったのだ。あの、かすんだ黄土色のベールをかぶったままの景観を、それが現実にある山の姿だと、何の疑いもなく見ていたのだ。
 もちろん、今さらそれらの山々のすべてを登りなおすことなどできないが、それだけにこれからは、この新しくもらった目で、限りある私の山登り人生をじっくりと楽しみ味わっていきたいと思っている。

 つまり、新たに眺める山旅の楽しみが、また一つ加わったような・・・まだまだ、そう簡単にくたばるわけにはいかないのだ・・・あの山々たちを見るためにも。
 時代劇で、往生際(おうじょうぎわ)の悪い悪代官が、成敗(せいばい)されて、”くそー、まだ俺は死なんぞー”と画面いっぱいに形相が映し出されるように・・・これからも、風変わりな年寄りのよそ者として生きてやるぞー。

 とは言っても、去年の秋にあの東北の焼石岳(’19.10.8~22の項参照)に登って以来、何ともう5か月も山に行っていないのだ。
 もちろん、それは、その後立て続けに起きた体調の異変と目の手術のために、山に行くことができなかったからなのだが。
 ただその代わりに、一月に二三回は、1時間半ほどかけて坂道の上り下りをしているのだが、果たしてそれで山で同じように歩けるだろうかとも思う。
 もちろん、短い距離でも疲れたら戻ればいいが、心配なのはバランス感覚とふらつきなのだ。
 最初は、歩きなれた九重の山に行くのがいいのだろうが、いつもは人がいないことを喜ぶ私だが、病み上がりの体では、私の異変に気付いてくれるような、人の多い山のほうが良いのではないのかと思っている。

 ともかく、今までは、九重には雪の降った時を狙って、冬の間だけでも三四回は行っていたのだが、今年はかつてないほどの暖冬で、牧ノ戸峠のライブカメラで見る限り、しっかりとした雪山になったのは2週間ほど前の一度だけで、それでも平日にかかわらず、駐車場が満杯になっていた。
 みんな、この日を待ちわびていたのだろうが、おそらく今年は、それが最初で最後の、九重の雪山になるだろう。
 まあ私にしてみれば、今までに撮りだめてきた九重の雪山の写真が何枚もあることだし、それよりは、これから何とかして、春から夏にかけて、遠征登山のできる身体に戻さなければならないのだが、何ともこのぐうたらオヤジときたら、いつもの脳天気で・・・。

 上の写真は、1週間ほど前の、庭のウメの花だが、今は満開になっていて、もう散り始めている。
 いつもの年よりは、2週間ほど早いが、果たして今年はそのウメの実がなってくれるだろうか。
 そのウメの実で作るウメジャムは、私を風邪をひきにくい体質にして、免疫力をつけてくれる特効薬なのだが、今流行りのコロナウイルスに効くかどうかは分からない。

 他に書くべきことは、この2,3週間のことでいろいろとあったのだが、残念ながら割愛することにして、いつものことながら、私の”日本の古典文学”愛好癖から、いつもの短歌をあげることにする。
 今は『万葉集』『古今和歌集』に続く、『新古今和歌集』を読み始めたのだが、後代の批判は、”技巧的に過ぎる”などと言われることが多いのだが、私は、中世の人々が歌の中に様々に読み込んでいたものに、むしろ現代人以上に繊細な思いと感覚を知って、ある種の親しみさえも覚えてしまうのだ。
 ここではまだ読み始めなので、初めのほうの歌の中からあげることにする。

”沢に生ふる 若葉ならねど いたづらに 年をつむにも 袖は濡れけり”
(皇太后宮大夫俊成、自分なりに訳すると:沢辺に生える若菜をつんでいるからではないのだけれど、いたずらに年を重ねてきてと思うと、袖が自分の涙で濡れていた。)

”わが心 春の山辺に あくがれて ながながし日を けふも暮らしつ”
(紀貫之、自分なりに訳すると:私は春の野山に心ひかれて、長い長い一日を思い暮らしている。)

(以上:『新古今和歌集』巻第一 春歌上 久保田淳 訳注 角川ソフィア文庫)