ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシの飼い主(10)

2008-03-21 18:45:40 | Weblog
3月21日 一面に梅の花の香りが漂い、快晴の空が広がる。朝は、-2度と冷え込んだものの、昼間は15度まで上がり、うらうらと春の日差しがあふれている。ワタシはベランダのあっちこっちに行って、一日寝てすごす。猫日和(ねこびより)という言葉があれば、こんな日のことを言うのだろう。
 しかし、その前の二日は、雨や曇り空で寒く、まだまだワタシはストーヴの世話になっていた。昨日、そんなふうにしてワタシが寝ている傍で、飼い主が半日もの間、テレビに見入っていた。例の、お気に入りの音楽が流れ、飼い主は時々、感心したような声を漏らしていた。
 まあワタシとしては、飼い主がこうして傍にいてくれれば、何をしていようが構わないのだけれど、ようやくその番組が終わり、ワタシはニャーと鳴いて、飼い主に聞いてみると、おーヨシヨシといって話してくれた。
 「オマエには、猫に小判の話かもしれないけれど、オレにとっては、まあ金の小判並みに嬉しい出来事だった。NHKのBSハイビジョンで、午後1時から8時までの7時間にわたって、あのベルリン・フィル(ウィーン・フィルと供に世界の二大クラッシック・オーケストラといわれる)の特集番組をやったのだ。
 オレは別に、NHKに関係があるわけではないけれど、教養・芸術関係の放送については、いつも感心させられる。前にも、放送される映画について、良心的な名作主義の方向を良く守っていると、ほめたことがあるけれど、今回のベルリン・フィルの特集番組ついても同じことが言える。他の民放のどこが、興味本位のクイズ番組なんかではなく、そんな良心的な映画や、芸術としてのクラシック音楽をとりあげてくれるだろうか。
 ところで、この7時間にも及ぶ放送を、全部見たわけではない。ドキュメンタリーとしてのベルリン・フィル団員、元団員の話も面白かったけれども、なんといっても名指揮者たちによるコンサート映像が素晴らしかった。
 ガンの手術を受けて復帰したばかりのクラウディオ・アバドが指揮したヴェルディのレクイエムの終曲・・・鬼気迫る表情で指揮するアバドに応えるソプラノのゲオルギュウ、合唱団員、ベルリン・フィル・・・曲が終わり、余韻の中、頭をたれるアバド・・・長い沈黙のときが過ぎ、そして聴衆の拍手が波のように広がっていく・・・なんという曲と演奏者、そして聴衆による三位一体の理解のひと時だったことだろう。
 そしてギュンター・ヴァントによるブルックナーの交響曲第9番・・・八十数歳のヴァントが一時間もの間、タクトを振って、指揮台に立ち続ける、それも暗譜(そらで楽譜を覚えること)で・・・深遠なブルックナーの響きが流れる。
 最後の小沢征爾によるチャイコフスキーの「悲愴」交響曲・・・あのカラヤン追悼コンサートで見せたウィーン・フィル指揮者でもある世界の小沢の真髄・・・通俗名曲のきらいもある「悲愴」をあれほど聴かせてくれるとは・・・。
「正しく、良いもの、一流のものを若いうちに、しっかりと見ておきなさい。」いつもの事ながら、あの映画評論家、淀川長冶さんの言葉が思い浮かんでくる。若い時にクラッシク音楽を知ることができて、本当に良かったと思う。それもきっかけはある映画のテーマ曲が好きになったことからだった。それは「みじかくも美しく燃え」という悲劇の恋物語の映画だったのだが、そこで流れたモーツァルトの「ピアノ協奏曲第21番」第二楽章アンダンテのメロディーにしびれたのだ。そのおかげでクラッシックの世界に入っていくことができて、感謝したいぐらいだ。
 思えば、映画が好きだったことで、なんと多くのことにその興味が広がっていったことだろう。クラッシック音楽、絵画、建築、宗教・・・ヨーロッパ、世界そして日本へと回帰していく。良いものを知ることのできる喜び・・・これもまた生きていることの幸せの一つなのだ。
 ミャオ、オマエから見れば、人間って、しょーもないことに興味もってと思うかもしれないけれど、それはオマエが他の動物や鳥や虫たちの動きをじっと見ているのと同じことなんだ。将来役に立つからなどと意識してではなく、それらのことが、生きていくうえで大事な、自分の知識の蓄えになっていたことに、いつか気づくようなものだからだ。
 ミャオもひとり、オレもひとり。おたがいにしっかりと生きていくしかないのだからな。」
 あーあ、また最後は説教ですか。ネコの耳に念仏。それよっか、そろそろサカナと散歩の時間ですよ。


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