ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

飼い主よりミャオへ(68)

2009-07-31 21:25:53 | Weblog



7月31日
 拝啓 ミャオ様

 もう長年にわたって続いている、私の恒例の夏の旅行は、残雪と高山植物の花々に彩られた、本州の高い山に登ることになっているのだが、今年は、当初の計画から、二転三転して、加賀の白山(はくさん)に行くことになってしまった。

 私が白山に登りたいと思ったのは、深田久弥の名著『日本百名山』に選ばれている山であったからではない。確かに名山と呼ばれるにふさわしい山ではあるだろうが、ずっと前から、写真やテレビで何度もその姿を見ていて、いつかは登りたいと思っていた山の一つだったのだ。
 それまでに、北アルプスの山々の頂から、晴れていれば、いつも西の方に、一塊になった大きな山群が、雲の上に浮かんでいるのを、何度となく見ていた。
 そして、白山の最高峰、御前峰(ごぜんがみね)の2702mという高さは、日本では、一際高い富士山は別格として、3000mを越える南北の日本アルプス、そして木曾の御嶽山(おんたけさん)、そして3000mを切る中央アルプスと、八ヶ岳連峰につぐものである。
  私は、いわゆる『百名山』信者ではないから、そこで選ばれている、すべての山に登りたいとは思わない。『百名山』に選ばれていなくても、日本全国に良い山は幾つもあるからだ。
 しかし、白山は、そういった肩書きはともかくとして、映像や写真で見る高山としての雰囲気や、豊かな高山植物群にもひかれて 、いつかは登らなければと思っていた山だったのだ。
 しかしこの白山は、北海道から東京を経由して行くには、遠く離れていて、なかなか、行く気にならなかった山なのだが、今回の梅雨空の天気こそが、私を、その山の麓、金沢へと連れてきたのかもしれない。

 さて、金沢の宿に泊まった次の日の朝、外は曇り空だったが、朝一番の天気予報では、昨日と変わらず、曇り時々日も差すでしょうとのこと。 
 駅前5時30分発の、白山別当出合(べっとうであい)行きバスには、私と同じ中高年の人たちが十数人。彼らと、話好きな若い車掌との掛け合いで、車内に笑い声が広がっていた。
 「田舎のバスは、おんぼろグルマ、でこぼこ道を、ガタゴト走る・・・」とかいう、コミカルな歌を、昔聴いた覚えがある。今では、そんな歌など歌われることもないだろうが。
 しかし、金沢の町を離れて、山間部に入っていく頃から、そんな乗客の明るい気持ちにこたえてくれるように、少し日が差してきて、2時間後の終点につくころには、すっかり青空が広がっていた。
 なんと、ありがたいことだ。計画の変更に変更を重ねて、たどり着いたこの白山で、やっと晴れてくれたのだ。雨を止めてくれた八大竜王(7月19日の項)に感謝し、私をいつも見守ってくれた母に、そしてミャオに感謝するばかりだった。

 別当出合の広場には、バスから降りた私たちのほかに、下の市ノ瀬にマイカーを停めて、シャトル・バスで上がってきた人や、チャーター・バスで来た人たちで、結構な賑わいだった。
 私は、その人ごみを避けるように、左側にある観光新道の入り口の方へ、歩いて行った。幸いなことに、殆どの人は、右手に架かる大きな吊り橋を渡って、そこから対岸の尾根へと取り付く、砂防新道の方へ向かうようだった。
 ガイドブックにも、砂防新道の方が、時間も短くて室堂に着くし、観光新道の方は、下りの帰り道として使われることが多いと書いてあった。
 その名前は、砂防ダムの工事のための道だったから、砂防新道と名づけられ、一方の観光新道も、見通しの良い尾根道に取り付くので、そのように呼ばれるようになったとか。
 しかし、それにしても、今ひとつの味気ない名前だ。例えば花の名前をつけるとかしたら、もっとやさしい響きになっただろうにと思う。

 小さなブナの林の急坂を上ると、すぐに尾根に出て、朝もやの彼方に、別山(2399m)を頂点にして、チブリ尾根が長々と、市ノ瀬へと下っているのが見える。三日目には、あの尾根を通って、降りてくるつもりだった。
 緩やかな尾根道と、そして急な登り坂の繰り返しが続く。後から来た人たち、三人に抜かれてしまった。その背中を見ると、デイパック(日帰り用のザック)の軽装だった。
 私は、南アルプスの縦走に合わせて、色々と緊急時のための装備を詰め込んでいて、少し重ためのザックになってしまっていた。まあ、それは自分への言い訳で、明らかに年齢のために、体力が弱ってきているということなのだろう。

 2時間ほどで、今まで登ってきた支尾根は、市ノ瀬から上がってきた尾根に合流する。そこにつけられた山道は、越前禅定道(ぜんじょうどう)と呼ばれていて、その昔から白山信仰登山で使われてきた道であり、今も白山登山のコースの一つとして残っている。
 さらに展望は開けてきて、尾根道の斜面は、ニッコウキスゲの群落で黄色く染まっている。と、上の方から、黒い服の一行が降りてくる。近づいてきた彼らは、何と、黒い作務衣(さむえ)などを着た、若い僧侶たちの一団だった。

 すれ違う時に、彼らは普通の登山者たちと同じように、挨拶したけれど、半分ほどは、私の前で手をあわせていた。その20人ほどの列の中には、年配の袈裟(けさ)衣を着た人も二三人混じっている。
 そのうちの、若い修行僧の一人に、どちらのお寺ですかと声をかけると、彼は明るい顔で、私を見て言った。「永平寺からです。」
 私は、小さな感動で、一瞬、胸を熱くした。私もその昔、母と一緒に訪れたことのある、行く年来る年の除夜の鐘の中継でもよく知られている、あの越前の名刹(めいさつ)永平寺。その厳しい戒律で有名な、曹洞(そうとう)宗の禅寺で修行する、頭を丸めた若い僧たちの面々。
 そして、あの永平寺の元貫主、宮崎奕保(えきほ)禅師の言葉を思い出す(’08.12.30の項、参照)。
 ただ過ぎ行く時の中、この世には、様々の人生があり、様々な思いを抱えた、老若の人々が生きているのだ、当たり前のことだけれども・・・。
 
 さらに、私はあえぎながら、尾根道をゆっくりと登って行った。前回の登山から日が開いていたためか、日ごろの恥ずべきぐうたらな生活のためか、すっかり疲れて、バテてしまった。
 その辛さを慰めてくれたのは、尾根道沿いに咲いていた、高山植物の花々たちである。なかでも、ハクサンフウロの紅紫の鮮やかな、しかしどぎつくはない、さえざえとした色合いの素晴らしさ。私は時々立ち止まっては、その花々を見つめた(写真)。
 それまでに、北アルプスの山々で、何度も見たことのある花で、格別に意識することはなかったのだけれども、その名前のもとになった、この白山で見る花の色は、今まで見た色とは違い、一際鮮やかに見えたのだ。

 5時間もかかり、バテバテの状態で、やっとのことで昼半ばに、室堂の山小屋に着いた。山上にはすっかり雲が湧き上がってきていた。一休みして、それでも、その日のうちにと、さらに往復1時間余りかかって最高峰の、御前峰に登ってきた。
 幸いなことに、頂上では、一瞬雲が取れて、周りの幾つかの池に、剣ヶ峰と大汝峰の姿も見ることができた。しかし、私が下りてきたその後は、山々は深い霧に包まれてしまった。
 大勢の登山者でにぎわう山小屋の中、その中の一人である私も、皆と一緒に食堂で食事をすませて、まだ明るさの残る夕方には、狭い布団の上で体を縮めて、寝ていた。
 明日の予報は、曇りだけど、なんとか、天気が良くなってくれるようにと祈りながら・・・。(次回に続く。)

                     飼い主より 敬具


飼い主よりミャオへ(67)

2009-07-29 18:02:13 | Weblog



7月29日
 拝啓 ミャオ様

 ミャオ、長い間、近況を知らせずにいて、申し訳なかったと思っている。その間に、九州では、豪雨の被害が相次ぎ、心配はしていたのだが、ただ歳の割には、すばしこいオマエのことだから、何とかしのいでいるのだろうが。
 しかし、降り続く雨の中、一日中、雨宿りの物陰で、ただじっと座っているのは、つらいことに違いない。飼い主として、本当に申し訳ないと思っている。
 これほどまでに、長引いた梅雨も、いつかは明ける時が来るだろうから、それまで辛抱しておくれ。

 10日前に知らせていたように、この一週間の間、私は、いつもの、本州の夏山に登る旅に出ていた。本来の計画は、まだ行ったことのない、東北南部の飯豊連峰を縦走することだった。しかし、本州に張り付いたままの梅雨前線のために、それをあきらめ、梅雨明けが発表されたばかりの、関東甲信越地方、それも、より前線から離れている、南アルプスへと変えるべく、出発の二日前に計画を立て直した。
 それでも、依然として天気への不安を抱えたまま、北海道を飛び立って、東京へと向かい、そこから高速バスに乗り換えて、甲府へ、そこで泊まって、朝一番の4時のバスで、南アルプスの北岳に、向かうつもりだった。
 ところが、前日の曇り時々晴れの予報は、前線の南下で、曇り時々雨に変わり、週間予報では、その後も曇りや雨が続くとのこと。雨の中を歩きたくはないから、さらに計画を変更し、幾らか日も差すという、八ヶ岳か北アルプスへ行くしかないと考えた。
 しかし、翌日の朝の天気予報では、長野県全域で曇り時々雨へと変わる。梅雨前線は、再び北上していて、晴れ間が出るのは、北陸地方だけだった。その日は、あの南西諸島での、皆既日食の日でもあったのだが。
 ただ、私にとっては、その一生に一度見られるかどうかという皆既日食よりは、目指す山々の姿を、晴れた青空の下に見たいだけだ。
 そして、決心した。晴れているところへ行こう。そうだ、あの加賀の白山に登ろう。甲府から松本へ、そして篠ノ井線で長野に出て(大糸線の方が近いのだが、連絡が悪い)、長野から信越本線で直江津へ、そこで北陸本線の特急に乗り換え、ようやく金沢に着いた。
 費用も時間も、余分にかかってしまったが、すべては一期一会(いちごいちえ)の山のためだ。駅の観光案内所のやさしいおねえさんに、安くて新しいビジネスホテルを紹介してもらい、荷物を置いて、街に出る。

 金沢は、その昔、母を連れての、中部・北陸への旅の時に、兼六園などに立ち寄った思い出がある。その時にも、さすがに加賀百万石の伝統を受け継ぐ、良い町だと思ったのだが、その思いは、今回も変わらなかった。
 白山の地図を買うために、近代的な建物が立ち並ぶ駅前から、整備されたメインストリートを歩いて、武蔵ヶ辻から、ついでに香林坊、片町へと足を伸ばした。
 クルマが行きかう賑やかな通りの並木からは、その雑踏に負けないくらいに、セミの鳴き声が聞こえていた。さらに、裏通りに入って行くと、もう車の音も聞こえない、土壁に囲まれた静かな一角があった。長町の武家屋敷跡である(写真)。
 気温は27度くらいで、それでも涼しいのだろうが、北海道から来た私には、汗が流れてくるほどの蒸し暑さだった。
 しかし、その武家屋敷の長い塀に沿って歩いていると、いつしか、昔の家の静かなたたずまいに、同化され、私は何か、物語の一つの情景の中にいるかのようで、それまでの暑さも忘れ、思わず辺りの冷気に身震いしてしまった。
 思えばここは、私の好きな作家の一人でもある、あの泉鏡花の生まれ育った町でもあったのだ。凛(りん)とした、品格ある冷気をたたえた、鏡花のその作品の幾つかを思い返してみた。『照葉狂言(てりはきょうげん)』『雛(ひな)がたり』『由縁(ゆかり)の女』・・・。

 宿に戻ってきて、さっそく明日の天気予報を見る。曇り空で、時々晴れ間も出るでしょう・・・とのことだが。さらに、その後の週間予報にも、はっきりとした晴れの日はない。それでも、もう他に行く所はないし、明日からは、この三日間の山歩きに出かけるだけだ。
 さて、何度も山登りの計画を変え、金沢くんだりまでやって来た、この鬼瓦熊三(おにがわらくまぞう)の、明日はどうなるのだろう。続きは次回に。

 それにしても、ミャオと別れて一ヶ月・・・。ああ、会いたいなあ、ゴロンと横になったミャオの体をなでたいなあ、ミャオが美味しそうに魚を食べている所を見たいなあ、ミャオと一緒に散歩をしたいなあ・・・。


                     飼い主より 敬具


飼い主よりミャオへ(66)

2009-07-19 16:45:25 | Weblog



7月19日
 拝啓 ミャオ様

 昨日今日と、止むこともなく、雨が降り続いている。その前の日に、庭の草刈は終えていたので、よかったのだが、やはりこうして、天気の悪い暗い日が続くと、心もいつしか重たくなってしまう。
 気温は終日、15度以下で、涼しいというよりは、少し肌寒いくらいだ。家の中での仕事も色々あるのだが、本来のグウタラな性分ゆえに、なかなかはかどらない。

 全国の週間天気予報では、梅雨明けはさらに伸びて、来週の終わり以降にずれ込むとか。ゲッ! これでは、今年、予定していた山には行けない、ということで、この二三日は、改めて他の地域の山に登るべく、計画を立てなおしていたのだが。
 すでに一ヶ月前に、安い飛行機の切符を購入していて、いまさら変更はできない。つまり梅雨が明けていない中、山登りに出かけることになるのだ。雨の中歩くのはイヤだ。では、どうするか。
 
 前回にも書いたのだが、毎年、大雪の山々には、この花の時期だけでも、三度位は行っているのに、もう10日も前に一度行ったきりなのだ。
 テントか山小屋泊まりのための、2日続く天気の日を待っていたのだが、天気が今ひとつ良くなく、行く機会がなくて(どこかのツアー・パーティーのように、悪天候の中、出かける勇気はない)、ついに、本州の山に登りに行く時が、来てしまったのだ。
 つまり、大雪の山には行けず、さらに本州の山に行くにしても、雨の中と、最悪の状況を迎えているのだ。

 ふてくされて、しかたなくこの二日間、新しいテレビの前でゴロ寝して、バカバカしいバラエティー番組でも見て、ひとりで笑い声を上げていて、ふと気づいたのだ。そこで、はっと座りなおして、考えた。
 これは、私が最近、余りにもテレビの良さばかりを吹聴(ふいちょう)して、のめりこんでいたから、それが、神様の逆鱗(げきりん)に触れ、天候の異変となって現れたのではないのだろうか。
 そして、神様の、怒りに震(ふる)えた声が聞こえてきたのだ。

 「なんのこしゃくな、取るに足りない鬼瓦(おにがわら)顔の、馬鹿な中年男めが、生意気にも、日ごろからえらそうに、自然を賛美しているくせに、近代文明の悪しき道具の一つである、新しいテレビなんぞを手に入れたからといって、いい気になりおって、一番大事な、自然の生活から離れて、人間文明の利器である、テレビのことばかり話しおって、第一、お前のもっとも大切な家族である、あのミャオ猫のことも、遠く離れた九州に放り出しているくせして、けしからん、当分、山に入ってはならん。」


 まさしく、仰せの通りでありますと、私としては、首をうなだれ反省するしかないのだ。「ああ、八大竜王(はちだいりゅうおう)、雨やめたまえ。」(幸田露伴、『五重塔』より)
 しかし、哀れでけちな人間である私は、飛行機の切符を無駄にするわけにはいかない。飛行機には乗るが、しかし、晴れるまで、山の下で待つことにしよう。何とか神様の怒りが収まり、そのお恵みで、二三日の晴れ間が出てくれるまで。
 去年の、北アルプス白馬岳から唐松岳の山旅(去年の7月29日、31日、8月2日の項参照)も、天気が悪くて今ひとつ楽しめなかったが、代わりに、それなりの別な喜びを見つけたように、山の麓にいても、何かがあるかもしれないし、自分で何かを見つければよいのだ。
 
 まあ、この年になると、物事をそう深刻には考えなくなるものだ。すべてを悪く考えても始まらない。
 いつも例に挙げる、アランの『幸福論』(集英社文庫)だが、その中の一節、「最大の不幸とは、物事を悪く考えることではないのか・・・人が想像する不幸は、いつも実際よりは誇張されているものだ・・・」。
 何か起きたら、まずは、あせらないことだ。一日思い悩んだとしても、翌日には、それほどのことではないのが分かる。目の前に進む道が閉ざされたとしても、幾つかの逃げ道はあるはずだし、最悪の場合でも、死んだふりをして生きていれば、いつか元の道に戻れるはずだ。
 それは、前回、書いた、映画『まぼろしの市街戦』で、私が学んだことでもあるのだ。

 人は誰でも、生まれながらの哲学者であり、誰でも、自分で書いた本を持っている。その本には、それぞれの歳の数だけの、ページ数があるはずだ。何かが起きたら、そのページを、丹念にめくってみればよい。
 まあ、早く言えば、歳を取れば、純粋に悩むことはしなくなり、ごまかし方を覚えるだけなのかもしれないが。

 話は変わるけれども、歳を取るということで思いついたのだが、今、家の林の中のあちこちで、オオウバユリ(エゾウバユリ)の花が咲き始めている。(写真)
 東北や北海道に見られる花で、他の本州や九州などで見られる薄紅色のウバユリと比べると、草丈が高く、花の数も多い。ウバユリの名は、花の咲く頃には、ユリ科の花には珍しい、幅広の下葉(歯)が枯れ始めることから、姥(うば)と名づけられたと言われている。
 今の季節に咲き、かすかに甘いユリの香りがして、暗い林の中の、その辺りが明るくなる。その名よりは、ずっと若々しく、華やかな花の姿だ。
 家の林でも、始めは、一、二本見つけただけのものが、いつの間にか増えてきて、今では、あちこちにもう、二十株余りはあるだろう。中年男の私に合わせて、たくさんの姥の仲間が増えたということか。

 そういえば、この林の中の道には、もう花期は終わったのだが、6月の頃に、一輪咲きの白い花をつけた、たくさんのツマトリソウの花が咲いていた。
 まるで、いつまでも一人でいる、私を揶揄(やゆ)するように、と思っていたら、その名前の由来は、妻とり草ではなくて、つまどり(ふちどり)草の意味だったのだ。
 恥ずかしい勘違いはよくあることだが、年取ってからの勘違いは、哀れである。

 そうして、ますます、引きこもりになってしまう。というよりも、私が、ひとりで山の中の家に住んでいること自体が、世間から見れば、すでに引きこもりなのだろう。
 しかし、実は、この自然の中の家に君臨する者こそ、あの『まぼろしの市街戦』のハートの王のように、あえて街を捨て、見えない鉄格子に囲まれた、自分だけの帝国に移り住んだ、心の王である、不肖(ふしょう)、鬼瓦熊三(おにがわらくまぞう)の私自身なのだ。 

  自画自賛の、馬鹿な裸の王様は、そうして、鬼瓦顔のまま、大都会を通って、離れた遠い所にある、高い山々に登りに行くのであります。
 夜半、ミャオーンと、鳴く声が聞こえて、私は目を覚ます。ああ、ミャオ、元気でいるか。これから私は、山登りに行くけれど、心配しないでくれ。
 私はオマエと同じで、山の中では臆病(おくびょう)だから、今までもそうだったが、風雨の中、無理に歩いて行くようなことはない。去年の北アルプス登山でも、天気が悪くて、三日間も山小屋で、じっとしていたのだから。
 帰ってきたら、また、山の話をしてあげるからね。


                     飼い主より 敬具
 
 


飼い主よりミャオへ(65)

2009-07-14 21:28:39 | Weblog



7月14日
 拝啓 ミャオ様

 このところ、雨の日の後には、晴れた日になり、晴れた後には雨になる。はっきりとした、天気の変化の繰り返しだ。
 それでも、雨の日は、涼しくて過ごしやすく、長袖シャツでちょうど良いくらいであり、決して蒸し暑くはならない。
 しかし、今日は晴れて、暑くなった。温度は一気に前日より10度ほど高くなり、26度位まで上がった。ただし、汗はかいても、日陰に入れば涼しいのだ。
 来週には、私の恒例の、本州の山への遠征があるから、何としても今週中に、もう一度、大雪の山に花を見に行きたいと思っていた。しかし、今日は、晴れていたがすぐに山には雲がかかってしまい、私の山登りには適さない日だった。この先の予報でも、一日中、晴れてくれる天気の日はないのだが・・・。

 家の前には、花の咲き始めたジャガイモ畑が広がり、その彼方に見える、南日高の山々も、残雪は殆ど消えてしまい、すっかり木々の緑に被われて、夏山の姿になっている(写真)。
 若い頃には、さあこれからは沢登りの季節だと、意気込んで、どこを登ろうかと楽しみにしていた。しかし、私も年を取ってきたから、これからは、もうのんびり登山にしたいのだ。そうすると、どうしても一人で行く沢登りの、危険さの方を、先に考えてしまう。
 しかし、もっと暑くなれば、やはり沢登りに行きたい、と思うようになるかもしれない。
 冷たい流れに足を浸して歩いてゆき、水しぶきを浴びながら滝を登り、自分でルートを判断しながら、最後はヤブをこいで頂上に達する。その心地よさと、小さな危険を乗り越えていく楽しさの後には、自分なりの達成感もある。
 昔は、こうした、日本の山におけるワンダリングの仕方こそが、まさに夏の山登りにふさわしい、基本的なスタイルだったのだ。               


 しかし、今ではその元気もなく、天気が悪いこともあって、最近は、すっかり、新しいテレビと仲良くなっているのだ。近くにいる友達に、オレはひきこもりになってしまって、病気ではないだろうかと言ったら、もともと、山の中に一人で住んでいて、何が引きこもりだと笑われた。


 最近放送されて、録画しておいたフランス映画を、二本、見た。『まぼろしの市街戦』(1967年)、と『ロバと王女』(1970年)である。
 『まぼろしの市街戦』は、あのジャン・ポール・ベルモンド主演の『リオの男』などの、数々の喜劇風アクション映画を作った、フィリップ・ド・ブロカ(1933~2004)の監督による作品である。
 話は、第一次大戦末期の北フランスのとある町、敗色濃いドイツ軍が撤退するにあたり、進軍してくるイギリス軍に一矢を報いるべく、時限爆弾を仕掛けていった。
  その情報を受けて、フランス語が堪能(たんのう)な一人の伝書鳩通信兵(アラン・ベイツ)に、潜入命令が下される。彼が侵入したのは、爆破計画を知った住民たちのすべてが逃げ出した後の、少数のドイツ兵たちだけが残っている町だった。
 しかし、一ヵ所だけ、人々のいる所があった。町外れの、精神病院である。ドイツ兵に追われた彼は、そこに逃げ込み、カード遊びに加わり、たまたま持っていたカードから、”ハートの王(キング)”(フランス語の原題、”LE ROI DE COEUR") だと呼ばれ、彼らの王にまつりあげられる。
 患者たちは、誰もいない町に繰り出し、それぞれに衣装を探し出して身につけ、そこに、彼らだけの楽しい王国が出現するのだ。

 自らを、ヒナギク枢機卿(すうききょう)だと名乗る男(ジュリアン・ギマール)は、ハートの王の戴冠式(たいかんしき)のセレモニーの時に、皆を前に話すのだ。
 「人生は悲しみに満ちている。
  泣きながら生を受け、
  悲しみの中で生を終える。
  創造主である神が、
  我々に悲しみを望むだろうか。
  我らが王国は違う、
  ここは喜びに満ちている。
  天国は鉄格子に被われた王国である。」

 そうして、彼らは喜びに満ちた、ひと時の時間を楽しむのだ。やがて戦争が終わり、爆破を免れた町に、本来の住民たちが帰ってくる。つかの間の王国の住民たちは、衣装を脱ぎ捨てて、鉄格子の中の精神病院へと戻っていくのだ。そして、あの通信兵も・・・。
 
 公開後、何年かたった後で、この映画を都内の名画座で見たが、なにぶん若い頃のことで、十分に理解していたとはいえないが、それでも、フランス映画らしい、ウィットに富んだ反戦映画だと思っていた。
 今回見直して、これは反戦映画ではあるだろうが、と言うよりは、むしろ当時の、フランス人のある意味で享楽(きょうらく)的な人生観や、哲学観(つまり、自由、平等、博愛)を、高らかに掲げ宣言した、映画ではないのかと思ったのだ。
 王国の住民である彼らの回りに、ユーモアと皮肉をこめて、ドイツ軍兵士とイギリス軍兵士を配して、さらに、逃げ出した一般住民とも対比させている。洗練とウィットに縁取られた、フランス人の楽しい人生を、映画の中に歌い上げるべく、作られた物語、それは大人のための童話だったのだ。

 フィリップ・ド・ブロカの作品は、この映画の前後に作られたベルモンド主演の、ドタバタ活劇調のものが有名であり、この映画でもその一端は見えるが、なによりも、ここでは、哲学的風刺が、一際効いているのだ。
 精神病院の中と外、どちらが正しいのだろうと・・・。

 そして アラン・ベイツやギマール他の俳優陣も素晴らしい。特に、ピエール・ブラッスール、ジャン・クロード・ブリアリ、ジュヌヴィエーヴ・ビュジョルト、ミシュリーヌ・プレールなどのフランスの役者たちは、いずれも芸達者である。

 もう一本の『ロバと王女』は、確か日本未公開だったと思うけれども、物語は、シャルル・ペローの童話『ロバの皮(PAU D'ANE、映画の原題)』によるもので、実の父親である、王に求婚された王女が、お城を出て、ロバの皮をかぶった娘におちぶれるが、最後には、隣の国の王子様と、めでたく結ばれるというお話である。つまりは、大人のための子供の童話なのだ。
 当時のヨーロッパの童話劇の舞台ふうに、設定をしつらえて、童話の教訓劇を演じていく。その中でも、妖精の女王の家に電話があったり、最後の祝宴の場には、国王夫妻が、ヘリコプターで降りてきたりと、今の時代の舞台劇であることを示している。
 さらに、あの全編が歌のセリフによる『シェルブールの雨傘』の監督でもある、ジャック・ドゥミらしく、幾つかの歌も挿入(そうにゅう)して、楽しませてくれる。


 しかし何といってもこの映画の魅力は、王女役のカトリーヌ・ドヌーヴにある。同じ年に公開された『哀しみのトリスターナ』の薄幸(はっこう)の少女の、哀しい美しさとは違う、王女様の美しさだ。
 この映画の時のドヌーヴは、27歳、今年でもう66歳になる彼女は、近況を見せてくれる画面でも、相変わらずに美しい。いつの時代にも、様々な役を巧みにこなし、その時の年齢なりに演じている。彼女の出演している映画に、駄作はないといえるかもしれない。

 これからは、もう私は、こんな田舎にいて、映画を見に行けないなどと、不平を言うことはないだろう。大画面のテレビで見る映画に、すっかり感心してしまったからだ。
 残りの人生で、今まで見てきた映画を、再びこのテレビの大画面で、見直していくという楽しみも出てきたわけだし。
 さらにこの所、私は町に出るたびに、リサイクルショップに立ち寄っては、信じられないほど安い値段で売られている、中古本を買い集めてきた。それは、若き日の憧れに思いをはせ、今の自分を律するためにも、どうしても読み返さなければならない、数々の本である。
 他にも、聴くべき大量のクラッシックCDがあり、そして、まだまだ登りたい山々がある。
 私が、心の王である王国は、今ようやく姿を現したばかりだ。とてもそう簡単に、死ぬわけにはいかないのだ。
 こんな、神をも恐れぬ、ごうつくばりの鬼瓦権三(おにがわらごんぞう)に、明日はあるのか・・・。

 ニャーオーン。おー、そうだった。ミャオがいたんだったな。心配しなくっても、オマエのことは忘れていないから、なんとか戻るまで、元気でいてくれ。


                     飼い主より 敬具


飼い主よりミャオへ(64)

2009-07-10 11:19:27 | Weblog



7月10日
 拝啓 ミャオ様

 すっかり、間が開いてしまって、申し訳ない。別に、新しいテレビに夢中だったわけでもない。山にも登ってきたが、それは後で書くとして、まあ一人で暮らしていても、色々と細かい仕事があって、パソコンの前に座る時間がなかったということだ。

 ところで、梅雨のうっとおしい天気が続く中で、ミャオは元気に暮らしているのだろうか。
 最近のニュースによれば、ある国では、猫が食用として、食べられていて、野良猫だけでなく、家の飼い猫までもが、大量に捕まえられていて、問題になったということだ。
 まさか、その魔の手が、九州の山の中にまで、及ぶとは思えないが、くれぐれも注意してくれ。もっとも、他の人やクルマを恐れるオマエには、そんな心配はないだろうが。
 普通のネコなら、飼い主がいなくなり、家に誰もいなくなったら、どこか他の家にネコなで声で入り込み、その家のネコになったりするものだが、その点、オマエはえらい、ひたすらに私の帰りを待っていてくれるもの。

 飼い主を追って、何ヶ月もの間、何百キロもの道のりをかけて、帰ってきたイヌ(まれにはネコも)の話などはよく聞く事だが、(一方では、飼い主のもとにたどり着けずに、途中で死んでしまったイヌやネコたちもいるのだろうが)、オマエは、そんな無駄な危険は冒さずに、ただじっと、飼い主が帰ってくる日を待っている。
 ああ、私は思うのだ。オマエたち動物たちの、そうした忍耐強さを、我々人間が持ち合わせていたら、世の中は、もっと穏やかなものになっていただろう。
 そういう私自身が、より良いものを求めて、北と南を行ったり来たりして、落ち着きのない、慌ただしい生活を送っているのだから。そうして、分かっていても、続けざるをえないという所が、人間の情けない業(ごう)なのかもしれない。
 
 その私の、やめられないものの一つ、ネコのオマエから見れば無益のことに思えるだろうが、例のごとく、また山歩きに行ってきた、三日前のことだ。
 実は、その前の日から行きたかったのだが、ネットで調べると、午後になってにわか雨の区域予報が出ていて、小屋泊まりの計画をあきらめて、一日晴れの予報が出ていた翌日に、日帰りで行くことにしたのだ。

 朝4時に家を出て、3時間かかって、大雪山は層雲峡に着く。ここからロープウェイとリフトに乗り継ぎ、30分ほどで七合目まで行くと、後はもう一時間余りの登りで、大雪山の一峰、黒岳(1984m)山頂に立つことができる。
 思えば、私が、初めて北海道の山に登ったのも、この黒岳だった。

 その頃、東京の会社に勤めていた私は、9月の始めに夏休みをとり、バイクに乗って、毎年、北海道に行っていた。もちろんそれは、広大な北海道の風景を見て回る旅だったのだが、山の好きな私は、初めて見るの北の山々からも目が離せなかった。
 その中でも大雪山には、どうしても登りたかった。まず表側の勇駒別(ゆこまんべつ、旭岳温泉の旧名)から姿見まで、ロープウェイで上がったのだが、天気が良くなかったので、旭岳(2290m)には登らなかった。そして裏側の層雲峡に回った時に、快晴の天気になったのだ。
 ライダー・スタイルのブーツをはいたまま、皮ジャンを手にして、頂上に登り着いた私の目の前には、まるで別天地と呼ぶにふさわしい、素晴らしい山上の光景があった。 
 まだ蒸し暑い、夏空の下の東京と比べて、この山の上には、すでに爽やかな秋の空が広がっていた。周りに立ち並ぶ穏やかな北の山々には、赤く色づきはじめたウラシマツツジやチングルマの紅葉が鮮やかだった。それは、傍らのハイマツの緑と、さらにまだあちこちに残る、残雪の白からなる、見事な三色の色彩模様になっていた。
 それが私の、幸せな大雪山との出会いだった。その後、もう一つ知ることになる日高山脈の山々と伴に、この二つの山群には、以降、何回となく登ることになるのだ。

 まだ登山道に雪が残り、朝早いこともあって、道の前後には誰もいなかった。夏から秋にかけてのこの時期、いつものハイキング客でにぎわう山とは思えないほどの、静かなたたずまいだった。
 黄色い花が鮮やかなチシマノキンバイソウの、小さなお花畑の斜面を上がり、黒岳の山頂に登りつく。その期待通りの、美しい残雪模様の山々を眺めた後は、すぐに縦走路へと下って行く。
 黒岳石室(いしむろ)付近は、北海岳(2149m)の残雪模様を背景にして、点在するキバナシャクナゲの間に、赤いエゾコザクラが咲いていて(写真)、大雪山の夏の訪れを告げていた。
 そこから、左へと御鉢一周のコースをたどり、御鉢平(おはちだいら)の雪解け水を集める、赤石川の沢へと下る。分厚い残雪の下から、雪解け水が、ほとばしり流れ出している。その雪渓の先では、雪の壁は、まだ10mほどの高さもあった。
 雪渓をたどり、白いウラジロナナカマドの花や、黄色いウコンウツギの花が咲く潅木地帯を抜け、さらに登っていく。見晴らしが開け、御鉢平をはさんでそびえ立つ、北鎮岳(2244m)を背景にして、登山道の斜面には、キバナシャクナゲの他に、赤いエゾツガザクラや黄色のミヤマキンバイ、メアカンキンバイ、白いイワウメも咲いている。
 北海岳の山頂からは、さらに西へと向かう縦走路の先に、まるで巨大なシャチの体のような、黒白の残雪模様の、旭岳の姿があり、はるか南には、一際高くあのトムラウシ山、(2141m)が見えていた。
 次の、間宮岳(2185m)との間には、楽しみにしていたタカネスミレの一大群生地がある。九州の阿蘇九重火山帯に、広く群生するキスミレを除けば、私は他に、これほどのスミレの群生地を見たことはない。ただ、昔と比べて、株の数が、少なくなってきたような気もするが。
 さて、間宮岳にさしかかる頃から、あれほど爽やかに晴れていた空も、あちこちで雲が湧き上がってきて、周りの山々の見通しも、少し霞んできていた。
 行きかう人も増えてきて、団体ツアーの人影でにぎわう北鎮岳は、今回は割愛(かつあい)して、少し長い雪面を下り、その先で、雲の平の左右に広がる、チングルマ、キバナシャクナゲの群落を眺めながら、黒岳へと登り返す。
 後は、上り下りのハイキング客と行きかいながら、リフト乗り場へと戻った。


 疲れた体を、層雲峡のお湯でいやして、また3時間もかかって帰路に着く。往復6時間のクルマ運転と、7時間余りの登山。若い頃には、こうして遠く離れた山に行くのにも、日帰りは苦痛ではなかったのに、年を取ってくると、同じ行程でも、余計に疲れを感じてしまう。
 せっかく、良い山の一日だったのに、疲労困憊(ひろうこんぱい)では、楽しさも半減するし、何より危険でもある。今後は、年相応に、もっとゆっくりと、ゆとりを持って、歩いていける山旅にしなければと思う。

 私、不肖(ふしょう)、鬼瓦権三(おにがわらごんぞう)、考えてみれば、ただでさえ恐い顔が、山登りの苦しさにあえいで醜くゆがんでいるとしたら、それは誰が見ても恐ろしく、公共良俗違反になるかもしれない。
 たとえば、『恐ろしくて、臭くって、美味しいものなんだ』、という子供のなぞなぞに対しては、普通には、『それは、鬼がトイレでまんじゅう食っている所だ』、と答えるのだろうが、ふと、それは、『私が、山に登ってまんじゅうを食べている所』、ではないのかと思いたくなる。
 だから、これからはそんな顔にならぬよう、ゆっくりと登ることにしよう。口元には、微笑(ほほえみ)を浮かべて・・・それもかえって不気味で、気持ち悪いか。
 
 今日は、昨日の夜からの雨が降り続いている。朝の気温は13度で、日中も15度位までしか上がらないだろうとのこと。昨日は晴れて、28度まで気温が上がったのに。しかしこの暑い日ばかりが続かない、寒暖の差が激しい気候こそ、私の好きな北海道なのだ。
 こんな日には家にいる。そして、前回書いたように、新しいテレビの素晴らしい画面に見入る。カメラをテレビにつなげて見る画像に、ただあぜんとするばかりだ。今までこんな大画面で、自分の写した写真を見たことがなかったからだ。

 しかし一方では、化学物質汚染による環境破壊を恐れ、自然環境を憂うる私が、なんと、科学発達による電子機器の恩恵をうけているのだ・・・。
 それは、二律背反の性(さが)を背負う、人間の悲しさだが、ミャオたち動物は、神の意のままに、そこに行く前に進化を止めたのではないのか、とさえ思ってしまう。
 つまり、神の意に反して、科学の力を手に入れ、思うがままにふるまっている、我々現代人を除くと、神に祝福されるべき人間は、未だに未開の原始的生活を送る、ごく少数の人々しかいないのだ。
 我々は、あのイカロスのように、自ら作り上げた羽が焼かれることも知らずに、太陽に向かって、余りにも近づきすぎたのではないのだろうか。
 今も、神の祝福の手の内にある、すべての動植物たちは、その進化の過程で、穏やかな太陽の光を受けられる所に、とどまっていたというのに・・・。

 そう考えてくると、ミャオ、オマエは本当にえらい、と私は思うのだ。
                    
                     飼い主より 敬具


飼い主よりミャオへ(63)

2009-07-05 18:54:57 | Weblog



7月5日
 拝啓 ミャオ様

 九州でも、梅雨の晴れ間の、青空が広がっているということだが、ミャオは元気で暮らしているだろうか。
 暑い日中は避けて、涼しくてなって余り車も通らない、朝早くと夕方に、おじさんの家に行って、エサをもらう時だけが、オマエの楽しみの時間なのだろう。おじさんも、少しはオマエをなでてはくれるかもしれないが、私といる時ほどに、心からくつろぐことはできないだろう。
 そんな、オマエのことを思うと、やはり心苦しいし、さらに、申し訳なく思うのは、私だけが、こちらでしっかりと自分の毎日を楽しんでいるからだ。

 と言うのも、一週間余りもかかった、草刈り、草取り作業が終わって、のんびりしていたからというではない。むしろ、細かい作業が色々とあって、忙しいほどだったのだ。実は、ついに、液晶テレビを買ってしまったのだ。ジャーン。
 それは、名前ばかりのエコ・ポイントとかにつられて、買ってしまったというわけではない。今まで、時々、大きな町の大型家電店に行っては、大きな液晶画面に見入っていたのだ、あの画面を家で見たいと思いながら。
 オマエも知っている通り、私の好きなものは、クラッシック音楽、絵画、写真、映画、山登りなどであるが、それらの番組を、液晶大型テレビで見てみたかったのだ。


 そして決心した。今は健康で良いけれども、いつまで生きられるか分からない、中年男の私、不肖(ふしょう)、鬼瓦熊三(おにがわらくまぞう)、独り身ゆえに、誰に迷惑をかけるわけでもない。(ただ、ミャオには申し訳ないが。)ともかく、今の自分のために、お金を使おうと、決断したのであります。バン、バン(講談調になる。)
 ご承知の通りの、不景気な折から、人影も少ない家電店に乗り込んだ熊三は、バンバン、ただでさえ恐ろしげなあの顔で、ヒゲヅラを撫で回しては、若い店員をにらみつけ、ひとえに値下げを迫りたて、ついには、店長決済と言うことで、最安値にて、目指すテレビを獲得し、さらに、リサイクル、ショップに立ち寄っては、チョー安い、見事なテレビ台もゲットン(ニシキゴイ、ゲットン)、それらをクルマに積み込んでは、帰途に着く、その熊三の、薄笑いを浮かべた顔の恐ろしさ、ああ、亡き母が、見たならば、わが子ながら、何と浅ましいと嘆いたであろう・・・熊三、町に行くの巻、この辺りで、バンバン、一件落着に御座いまする。


 という購入時の顛末(てんまつ)はともかく、その後の、テレビ設置、配線、アンテナ位置調整、部屋の片付けなどで丸一日かかってしまい、テレビの映像をじっくりと見たのは、二日後のことである。
 感想は、どこかの国の総理大臣の言葉ではないが、全く、ただ一言、”感動した”し、生きていて良かったとさえ思った。
 ブラウン管テレビからパソコン画面にいたるまで、24インチの広さが最大だったので、30インチを越える大きな画面の迫力に、まず圧倒された。驚天動地(きょうてんどうち)の思いで見つめ、まさに欣喜雀躍(きんきじゃくやく)の喜びだったのである。さらに、そんな大型画面であるにもかかわらず、何と色鮮やかで、繊細な映りであることか。
 ちょうど、放映されていた『アラスカを飛ぶ』とかいう、空撮のドキュメンタリー番組に、ただ茫然と見入ってしまった。普通の番組はもとよりのこと、さらに、のめりこんで見てしまったのは、映画、そしてオペラ公演の番組である。
 それも、いつかこの大型画面で見ようと、1年前に買っておいたDVDレコーダーの、ハイビジョン画質で録画しておいたDVDで見たのである。


 今年の1月に放送され、さらに6月2日に再放送されたヴェルディのオペラ『リゴレット』、その2時間半近くを、ただテレビの前を離れることなく見続けた。(演出が近頃はやりの、世紀末現代風で、あくどすぎる感じだったが。)
 ルチッチ(Br)、ダムラウ(S)、フローレス(T)という顔合わせも魅力的だったが、とりわけ、あのダムラウは、去年買ったCD(1月10日の項)の中でも少し触れていたのだが、そのジャケット写真に見る飛び切りの容姿は、舞台においても見栄えがして、少し小柄ながらも存在感のある立ち姿だった。
 そして、その容姿と伴に素晴らしい歌声を聞くと、確かに彼女が、来るべきオペラ界を担う一人であることが分かる。今後、彼女がヒロインになったヴェルディのオペラを、他にも色々と聴いてみたい。
 オペラ歌手は、本当に難しいものだと思う。優れた歌唱力だけでなく、ふさわしい演技力や容姿さえ求められる。さらに舞台を続けられる体力も必要だ。それなのに花の盛りは短いのだ。
 最近、ダムラウが病気のために、リヒャルト・シュトラウスの『無口な女』を降板した、というニュースも流れてきて、気がかりではあるが、私としては、次のテレビ放映をただひたすら待つほかはない。


 というわけで、私はここ数日、テレビ人間と化していたが、それではいけない。周りの景色も、夏へと向かって、日々変わってきているし、そろそろ山にも行きたい。
 写真は、帯広市郊外、旧グリュック王国(二年前に閉鎖)付近の光景である。青々と実る小麦畑の向こうに、残されたままの、グリュック王国の城が見えている。
 それは、若い頃、ヨーロッパを旅したときに見た、あのバイエルン州の田舎の景色に似ていた。破滅の国王、ルートヴィヒの居城、ノイシュヴァンシュテインに向かう時であった・・・あれから、歳月は流れ、私は、今、ひとりここにいる・・・。

                     飼い主より 敬具


飼い主よりミャオへ(62)

2009-07-01 18:05:58 | Weblog



7月1日
 拝啓 ミャオ様

 九州では、大雨が降り続いているという。ミャオは、どうしているだろうか。
 つい1週間前までは、オマエは、家に帰って来さえすれば、待っていた飼い主がぬれた体をふいてくれ、後はふかふかの布団の上で、ぐっすりと安心して眠ることができたのに。
 今では、他のネコの来ない空き家や、物置小屋の隙間の、固い床の上で体を縮めて横になり、それでも他の物音が気になり、いつもウトウトとしか寝ることはできないのだろう。
 そして、朝夕、おじさんのところへ行って、同じキャットフードを食べるだけだ。
 といって私が、おじさんに、オマエの大好物の生魚をやってくれるようにと、あらかじめ頼んでおくわけにはいかないのだ。
 あのアジコは、どこの店にでも売っているわけではないし、冷蔵庫に入れておけば臭いもするようになるし、大きすぎるものは、年寄りネコのオマエのために、食べやすいように、包丁で切ってやらなければならない。そう気安く、人に頼めることではないのだ。

 しかし、ものは考えようだ。一年のうちの半分近くを、ノラで暮らさなければならないオマエは、こうした緊張と安心の生活の繰り返しのために、体が活性化され、年齢よりは若く見えるのかもしれない。
 飼い主である私にしろ、北と南の家を行ったりきたりして、その前後には、オマエのことや家のこと、その他のもろもろのことで、気の休まる暇がない。時々、なんて気ぜわしい、バカなことを続けているのだろう、と思うことさえある。
 しかし、その緊張感があるためか、私もオマエと同じように、年よりは若く見えると言われることがある。
 ”ウーム、マンダム”といって、思わずヒゲ面の頬をなでてみる。まあ若い人は知らない、古い男性化粧品のコマーシャルだけど、安いので、いまだに私は使っている。
 「ケッ、鬼瓦顔のクセして、そんなもの使ったって、夏の瓦に塗っているようなものだろうに。」と、ミャオの声が聞こえてきそうだが。

 そういえば、昨日、テレビのニュース話題として、大阪のある動物園での、飼育の取り組み方を紹介していた。
 サル山のサルたちが、動物園側のエサのやりすぎや、観客たちが投げ入れる余分な食べ物のために、体重は二倍以上になり、すっかりメタボ・ザルになってしまって、胸から腹にかけて垂れ下がった肉は、とても見られないほどひどかった。
 それが、外からエサを投げいられないように、金網を高く張り巡らし、エサも制限して、さらにあの旭山動物園式に、遊具も増やしたら、効果はてきめん、体重は激減したという。もっとも、まだ腹の肉は垂れ下がってはいたが。
 動物たちにエサをやりすぎるのは、ある意味で、動物虐待(ぎゃくたい)になるから、と話す飼育員の言葉が印象的だった。
 
 つまり、私は良き飼い主として、ミャオの体のことを考え、精神的にも鍛(きた)えて、さらに食事制限をしているのだ・・・とは、いえないが、(自分の都合で北海道に来ているわけであり)、結果的にそれが、ミャオにとっても私にとっても、良いことなのかもしれない。

  ところで、昨日今日と、一日中、霧雨ふうの雨が降り続いている。気温は、その前に、28度位もあった暑い日々から一転、朝12度で、日中も14度までしか上がらない肌寒さだ。
 最も家の中では、これが丸太造りの家の良い所だが、それまでの暖かさがしっかり残っていて、20度位の快適な温度である。
 さすがに、こんな天気では、外での仕事はできないが、それまでの数日間で、草取り草刈作業もはかどり、もうあと一日分が残っているだけだ。

 しかし、考えてみれば、人間という敵のために引き抜かれ、刈り取られる草の方は、とんだ迷惑なのだ。つまり動物と植物は、互いに依存し助け合うことがあるけれども、敵対することもあるのだ。
 さらに、動物たちが生死をかけて争うように、植物同士でさえ、互いの種の生存をかけて争っているのだ。
 そんな状況は、環境の厳しい、高山帯の植物の分布状況を見ると良く分かる。日当たりの良い草原に咲いていた花々が、いつしかササの進入に負けてしまい、稜線のハイマツの傍に咲いていた花が、いつしか、ハイマツの繁茂に負けてしまい、姿を消してしまうことなどである。

 家の庭でさえ、そこに住む主(あるじ)である私の意向によって、新たな花が植えられたり、種をまかれて増やされたり、さらに自然に生えた花々がそのまま根付いたり、それぞれに選別されている。
 どこからか入ってきて、自然に増えたものは、白いフランスギク、カモミール、黄色いオオハンゴンソウ、ハナガサギク、赤いムシトリナデシコ、コウリンタンポポなどがあるけれど、一番私が気に入っているのが、上の写真に写っている栽培種らしいナデシコの花である。
  小さな草が生えたかと思うと、シバザクラのように広がっていく、そんな株が、庭のあちこちに幾つもある。
 シバザクラの終わった後に、同じような鮮やかな、赤い小さな花を咲かせる。原種である、カワラナデシコや高山のタカネナデシコほどに花弁の先がこまかく切れ込んではいないし、かといってツボミなどを見ると、同属であるカーネーションなどと同じ、ナデシコ科の花であることは分かるのだが、名前は分からない。


 まあ、ともかく、どこから来たか分からないものでも、条件が折り合えば、その地に根付くことになる。九州に生まれた私が、東京を経て、北海道に住むことになるように。
 それぞれの、出自(しゅつじ)なんて、何代目か前まで遡(さかのぼ)れば、もう分からなくなる。もともと、人間の出現自体が、旧約聖書や、古事記に書いてあるように、なにもない闇の中から、つまり混沌の中から生まれたものに過ぎないのだから。
 海の微生物の中から生まれてきたという、学問的な話はともかくとして、生き物自体にとっては、そのルーツを探ることが大切なのではなく、今いるその個体が、生存本能に従い生きることが、最も重要なことなのだ。


 ミャオにとっても、ワタクシにとっても、毎日をしっかりと生きてゆくこと・・・。生きていられる日は、そう長くはないのだから。

                     飼い主より 敬具