ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

人間の不条理

2022-03-13 21:17:46 | Weblog



 3月13日

 3月になってやっと、庭のユスラウメの花が咲き始めた。(写真は満開に近い2日前のものに差し替え)
 何と、平年と比べて、1か月以上も遅い。
 私の記憶している限り、一番早い時では、12月中に咲いた時もあるくらいなのに。

 特別に、この冬が寒かったわけではない。
 年末年始の寒波と、2月中旬の寒波によって、北海道・東北・北陸では大雪だったそうではあるが、九州のわが家周辺では、今年もまた雪かきをせずにすんだのだ。
 薄くふりかけたような雪が、三四度降っただけで、道に積もった雪はほとんどその日のうちに消えてしまった。

 多い年では、30~50cm の雪が積もり、数十メートルはある表の通りまで、一時間余り汗だくになって除雪作業していたというのに、もうこの数年は、雪かきと呼べるほどの仕事はしていないのだ。
 年寄りの体から言えば、楽になってありがたいのだが、冬場の適度な運動として、ほどほどに雪は降ってくれた方がいいし、とか言うと、数メートル降り積もり、屋根の雪下ろしや道路の確保で、重労働を強いられる雪国の人たちには、文句を言われそうだが。
 もっとも、同じ日本でも、雪が降り積もるのを見たことがない人や、スタッドレス・タイヤを知らない人もいるくらいだから、何事も自分の身にふりかかって、初めて気がつくことなのだろう。

 年ごとに、地球規模での気象変動のことが、声高に警告されるようになってきた昨今だが、こうして田舎に住んでいるから、いつも自然が傍にあるからこそ、温暖化へと向かう気象状況を、敏感に感じるようになるのだろう。
 そして、あげくの果てに、差し迫った災害がいつ来てもおかしくないとさえ思ってしまう。
 私たち人間の、利便さを求める飽くことなき貪欲さが、子孫が受け継ぐ時代に、大きな負の遺産を残すことになろうとは・・・”悔い改めよ、終わりの日は近い”と天からの声が聞こえてくるような・・・。

 そこで思い出したのは、1963年のスウェーデン映画、私の敬愛する映画監督であるイングマール・ベルイマンによる『冬の光』である。
 それは彼の他の作品でも度々描かれている、キリスト教の教区牧師の信仰の苦悩の話しなのだが、劇中、当時の中国の核実験のニュースにおびえて、自ら命を絶つある漁師の話しが出てくるのだが、私は当時この映画を見た時には、そんな遠く離れた国でのことなのに、と不思議に思うほどだったのだが。
 しかし、今にして思えば、地球温暖化の問題と同様に、核実験による放射能汚染も、同じ地球規模の大問題ではあるし、遠く離れた自然豊かな国に暮らしているからこそ、自分の身に降りかかる問題として、そのことを、深刻に考えてしまったのだろう。

 とここまで、10日前に以上のことを書いてきて、さらに続けて今回は、日本の中世の隠者たちの話しや、久しぶりに行った九重の霧氷風景のことなどを書こうと思っていたのだが。
 その後突然、世界を揺るがす大事件が起きた。ロシア軍のウクライナ侵攻が始まり、日々、悲惨な戦場の様子が、ニュース画面に映しだされていた。
 とてもそんな状況の下で、隠棲(いんせい)する個人の生き方の問題など、あまりにも異次元の世界に思えて、それ以上は書き進めることが出来なくなってしまったのである。

 しかし、ここで筆を止めてしまえば、何とか”つれづれなるままに”書き連ねてきた、私の日記ブログが停滞してしまい、悪癖は悪癖を誘い、ぐうたらな怠け者の生態があからさまになり、終末の憂き目を見ることにもなりかねないし。
 私は、今までの自分の人生に満足しているし、あえてそう思うようにもしているのだが、さらにこれからも、年寄りとしてもう少しばかりは、人生の余韻を楽しんでいたいと思っている。
 
 ウクライナの人々も何とか、戦時下の悲惨な状況下に耐えて、生き延びてほしいと思う・・・私たちは生きるために生まれてきた命なのだから。

・・・大勢の人々と駅で列車を待っていた、少年の瞳に涙があふれてきて、”死ぬのが怖かった。ぼくはまだ生きていたいんだ”、とやっとの思いで話していた。
・・・避難シェルター代わりの、地下鉄の駅で大きなおなかを抱えた若い女性が叫ぶ、”今は21世紀にもなるというのに。この状況は何!
・・・母親と二人で逃げていた10歳の少女は、その母親を砲撃で失い、彼女は避難民の中ひとりになって、誰にも頼ることができずに、(喉が渇いたとも言えずに)ひとり脱水症状で死んでいった。

 第2次大戦中のドイツ軍侵入下のフランス、南に逃れようとするパリからの避難民の車列に、容赦(ようしゃ)ないドイツ戦闘機の機銃掃射(そうしゃ)があって、瞬時に殺された両親の間で、一人生き残った5歳の少女ポーレットは、近くの貧しい農家の少年ミシェルに助けられて、その家で生活することになるが・・・ラストシーン、孤児院に引き取らることになったポーレットが、駅の群衆の中で、誰かが”ミシェル”と呼ぶ声に、思わずあの農家の少年のことを思い出し、ミシェルと口に出しながら立ち上がり、その言葉はいつしかママと呼ぶ声になって、雑踏の中に消えていく・・・昔の小汚い名画座での再上映のスクリーンを見ながら、私は口を押えて、涙を流し続けた。
 映画『禁じられた遊び』、フランスのルネ・クレマン監督による1952年の作品である。

 小学校1年生になったばかりのころ、私は遠い町の親戚のうちに預けらていて、遠くの大きな町で住み込みの下働きをして働いていた母が、一か月に一度私に会いに来てくれていた。
 一晩泊まった翌日、母はバス代を倹約するために、鉄道の駅まで30分以上をかけて歩いて行ったのだが、私は離れたくなくて、途中まで一緒について行った。
 そんな時、とある橋の上まで来た時、母は私の手を取って、名前を呼んで”死のう”と言った。
 私は泣きながら、後ずさりをした。
 暑い日差しが照りつける日のことだった。
 何十年も前のことだが、いまだにその時の情景が目に浮かんでくる。
 もうそのこと知っている人は、誰もいない。母が亡くなって、やがて私も死んでいくし・・・。

 この度のウクライナ戦争で、どちらが悪いかは一目瞭然(りょうぜん)なのだが、何と言っても、あの妊婦の彼女が言った言葉に尽きるだろう。”今は21世紀にもなるというのに”。
 二度の世界大戦を経て、さらに今でも世界各地での争いが絶え間なく続き、人類は何も学ぶことなく、互いの殺戮(さつりく)を繰りかえす、人間社会の不条理。

 今でも記憶に残る戦争映画のうちから、上にあげた『禁じられた遊び』の他に、幾つかをあげておきたい。
 『戦艦ポチョムキン』モンタージュ(フィルム編集)理論を確立させた歴史的名作。エイゼンシュタイン監督1925年のソ連映画。ロシア革命における今のウクライナはオデッサでの、広場の階段を乳母車が滑り落ちていく有名なシーン。
 『西部戦線異状なし』レマルクの原作を先に読んでいて、京橋のフィルムセンターで初めて見たのだが、それでも映画化されたラストシーンの鉄兜(かぶと)と蝶々の映像は、今でも忘れられない。ルイ・マイルストーン監督作の1930年のアメリカ映画。
 『大いなる幻影』1937年フランス映画、ジャン・ルノアール監督(画家ルノアールの次男)。第一次世界大戦でドイツ軍の捕虜収容所からフランス兵が脱走する話だが、もう一つの視点としての、ともに貴族出身の、ドイツ軍収容所所長と捕虜側のフランス軍隊長との、騎士道的な精神で心通い合う二人の、敵味方の悲劇。
 『シベールの日曜日』1970年フランスのブールギニヨン監督作品。モノクロ映画の映像美。当時のフランス領インドシナで、戦闘機のパイロットが攻撃中に墜落し、助かったのだが記憶喪失になり、帰国して療養中に、孤児院にいる少女と出会う・・・その子の瞳に墜落の寸前に見た現地の子供の瞳が重なって見えたからだ。
 『ジョニーは戦場へ行った』1939年に小説として発表し、それを1971年に自ら製作し監督した、ダルトン・トランボの執念。戦場で四肢を失った若者の、それでも生きようとする思いと決別の時・・・。余りにも辛くなる映画で、感銘は受けるけれども、何度も見たいと思う映画ではない。
 『戦場のピアニスト』2002年、ポーランド・仏・独・英の合同制作。ポーランド出身のロマン・ポランスキー監督の実話にもとづく映画。あるユダヤ人ピアニストの第二次大戦中の苦難の日々。その中でも、クラッシック音楽を理解するドイツ軍将校を前に弾くショパン・・・劇中、ショパンの夜想曲20番19番はじめ、ワルツやバラード、”アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ”などが流れる。

 そして、戦争を起こす人々を徹底的に笑いのめし、そして戦慄(せんりつ)におとしいれた2作品。
 『チャップリンの独裁者』1940年、アメリカ映画。ヒトラーが全盛期のころにあえて制作し、笑いにくるめて世界に独裁者の暴挙を知らしめた、チャップリンの勇気と天才。
 『博士の異常な愛情』1963年、アメリカ映画。狂った科学者の博士、イギリス大佐、アメリカ大統領の三役を演じたピーター・セラーズと鬼才スタンリー・キューブリック監督による、恐るべきブラックユーモア。爆撃機から放たれた核弾頭にまたがり、奇声をあげて落下していく、カーボーイハットをかぶったB-52の機長。

 他に、スケールの大きな戦争活劇としては、『史上最大の作戦』ケン・アナキン監督他による1962年のアメリカ映画、『地獄の黙示録』フランシス・コッポラ監督による1979年のアメリカ映画、『プライベート・ライアン』スピルバーグ監督による1998年のアメリカ映画などがある。

 日本映画はあまり見ていないのだが、先日NHKの「ブラタモリ」で”小豆島特集”をやっていて、そこに”二十四の瞳”記念碑があって、思い出したのだが、子供のころ母に連れられて映画館で見た記憶があり、さらに大人になってちゃんと再上映の映画館で見たのだが、涙もろい私には、また涙という映画だった。
 『二十四の瞳』1954年、木下恵介監督。分教場に赴任(ふにん)してきた、若い女先生と12人の生徒たちの姿を描いている。
 時代はやがて、日中戦争から太平洋戦争へと広がっていき、子供たちも青年になって兵隊検査を受け、戦地におもむくことになる。
 その時女先生は、その男の子の耳元でささやくのだ。”死んではだめ、生きて帰って来るのよ”。(与謝野晶子の有名な歌、”君死にたまふことなかれ”を思い起こさせる。)
 その後、先生は結婚することになり島を離れ、子供も生まれる。
 戦後、先生は島に戻って昔の教え子たちに再会するが、そのうちの何人かは、兵隊になって戦死していたり、負傷失明したり、病気になって死んでいたり、家が傾いて行方知らずになっていたり、とそれぞれの人生があったのだ。
 先生役の高峰秀子が適役で、さらに地元の子供たちの演技が、素直に自然に撮られていた。

 考えてみれば、すべての映画には、どこか遠い時代に戦争の影響を受けているという伏線があって、もともと人間の歴史、世界史こそが、太古の昔から戦いの歴史であり、殺戮(さつりく)の歴史ではなかったのだろうか。
 私たち年寄り世代は、戦争が終わった時代に育ってきて、実際には戦争を知らない世代として、死んでゆくことになるのだろうが、実に幸運な世代に生まれて、生きてきたことになるのだと思う。
 こうしてコロナだ、悪性腫瘍(しゅよう)だと騒いでいるだけで、なんとありがたく、この年まで生きながらえさせてもらったことか。
 悪運尽きるその日まで、おいしい生のひと時を、味わい尽くさねば・・・とこのじじいは、薄気味悪く、にたりと笑うのでした。続く・・・。