ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

年年歳歳

2018-10-29 21:47:54 | Weblog




 10月29日

 三日前さらに今日と、風雨を伴った低気圧が二度にわたって北海道を通過して、大荒れの天気になっていた。 
 悪い時に、嵐がやってきたものだ。
 何しろ今は、平地の木々の紅葉の時期なのだ。
 それなのに、と思う。

 というのも、去年、一昨年と私は今頃には九州に戻っていたのだ。 
 それも長年、北海道や本州の山々の紅葉巡礼にかかりっきりになっていて、もともとの地元である九州の山々の紅葉風景を見逃していたからだ。 
 そこでじっくり腰を落ち着けて、九州の山の紅葉を見て回ろうと、幾つかの山に登ったのだが、特に九重の大船山は期待していただけに、その年の色づきがあまりよくなくて、さらには時期的に少し遅かったこともあって、十分に満足できるものではなかったのだが、一応の紅葉風景は見ることができたと思っていたのだ。
 そこで、今年は同じ時期に重なるが、自宅の林の紅葉をゆっくりと楽しもうと、待ち構えていたのだ。

 もともと、最初にこの地にやってきた時に、林にはモミジの木が二三本あっただけだったのだが、隣接する林が開墾(かいこん)される事になって、その前にと、その林の中のモミジ、カエデの木を数本移植したのだが、それらの木も大きくなってきて、さらには種子が発芽して自然に増えてきたものもあって(林内には、そうした小さな苗がまだ何十本も育ってきていて)、自宅の紅葉は年毎に見ごたえのある景観になってきたのだ。

 そういえば、話は変わるけれども、私は少し前までは、大きなくくりの大雪山系の山々の中では、地味な山々が連なる、東大雪と呼ばれる山域の中で、特に石狩岳(1967m)・音更山(1932m)・ユニ石狩岳(1756m)と連なる山なみが好きで、稜線が鮮やかに彩られる秋の時期には、足しげく通ったものである。
 というのも、この山域は日高山脈主稜線の山々に似た感じがあって、展望の良い稜線歩きができるうえに、登山者が少なく、まさに私のような静寂登山派の人間にとっては、うってつけの山歩きのできる山なみだったのである。
 といっても、春夏秋冬を通じてすべてが広く明るく美しい、表大雪の山々(一般的に大雪山と呼ばれている山域)の魅力には抗しがたく、多くの場合にはその大雪山へと足を向けたのだが。

 さて、まずはこの山々の東端にあるユニ石狩岳に登るとすれば、その稜線上のコルになる十石峠から取り付くことになるのだが、南北に二つある登山道の中では、単調な樹林帯の中を行く十勝三股側よりは、変化に富んで勾配も楽なユニ石狩沢からの道を選ぶことが多かった。
 そして、今では信じられないことだが、若くて元気なころには、その十石峠からのコースを、その日のうちに音更山から石狩岳へと足を延ばし往復して戻ってきたことがあるくらいだったが、今ではとても音更山にさえ行けないだろう。

 さてある時、そのユニ石狩沢コースからユニ石狩岳に登った私は、その頂上から北東の留辺蘂(るべしべ)方面に、低い山々がうねり続いていて、その一角が赤い魚の背のように染まっていて、あれは何だろうかと思ったのだが、すぐにそれが木々の紅葉のうねりだと気づいたのだ。 
 おそらくは、エゾ・トドマツ林が伐採されて裸地になった後の、二次林としてのモミジの木が、そのヘリコプターの羽根のような実を飛ばして増えたものだろう、と推測しては見たが、その場所に行ってみたいとは思っても、山に登るわけでもないのに、営林署管轄の林道に簡単には入れないだろうしと、見に行くことはあきらめたのだった。
 その後、何年かたってユニ石狩に登った時に、あの紅葉のうねりはどこだったのかと探してみたが、見つけることはできなかった。
 今ではもう、あれから何十年もたち、おそらくあの伐採跡には新たなエゾ・トドマツなどの苗が植えられていて、邪魔になるモミジの木などは、草苅りの時に切り倒されてしまっただろうし。 
 私が見たあの時の赤い山のうねりは、幻の紅葉だったのかもしれない。(その時の写真は残っているのだが。)

 こうして、話がわき道にそれたのは、自宅林内のモミジの木の増え方と小さな苗を見て、つい昔の山でのことを思い出したからなのだが。
 さて、自宅の紅葉に戻ろう。

 もちろん庭木ならば、きちんと樹々の配列を考え整備すべきなのだろうが、私としては、なるべくならば最低限の剪定(せんてい)作業だけで、その自然な勢いのままに任せるようにしているから、林の樹々は折り重なって勝手に枝葉を伸ばし、家にまで覆いかぶさっているほどであり、とても写真的な風景だとは言いがたいのだ。
 最も、私は今の、樹々が織りなす豪奢(ごうしゃ)な色合いを楽しんでいるだけなのだから、このままでいいのだとも思っている。(写真上と下)



 ただ、上に書いたように、三日前と今日の強い風で、この紅葉が吹き散らされてしまうのではと心配していたのだが、ハウチワカエデとヤマモミジの紅葉は赤くなりたての所で、ほとんどの葉は残ってくれたのだが、ただイタヤカエデの大きな黄色い葉が、何枚も落ちていた。
 今までわが家の林の紅葉は、年ごとの大きな変化がなく、いつも写真に撮りたくなるほどに、青空に生える赤い色をしているのだが、一方では、山の紅葉が年ごとにその色合いが大きく変わるのは、どうしてなのだろうか。 
 つまりは、人里の紅葉は、いつも人に見られて恥ずかしいからぼうっと赤くなっているのだと、軽口をたたいては見るのだが。
 ”年々歳々、紅葉相似たり。歳々年々、人同じからず。”

 ただ、こうして家の紅葉を、その始まりの緑の葉に赤いサシが入る頃(写真下)から、少しずつ全体的に赤や黄色になって行くまでを、日々観察できるのは、家の樹々ならではのことだし、晴れた日の紅葉と比べて、曇り空や雨の日の紅葉風景は、陰影部分のどぎつさがなくなる分、色合いだけの変化をよく見ることができて、こんな日に見るのもまた悪くはないのだと気づかされたりもするのだ。



 ただ正直に言えば、今年の九重の山の紅葉は、ネットにあげられた写真で見る限り、去年私がわざわざ早く帰って山に登って見たもの(2017.10.30の項参照)と比べると、明らかに鮮やかな赤の色が多くて、やはり悔しく思ってしまうのだ。
 一か月前に見てきたばかりのあの栗駒山の紅葉は、十分に満足できるものだったが、遠く離れた山に行く遠征登山での紅葉は、例えば北アルプス穂高連峰の、涸沢(からさわ)の紅葉を見に行った時のように、時期が少し早すぎた場合もあるし、または、あの槍沢・天狗池を見に行った時のように色自体が明らかによくなかった時もあり、なかなか紅葉最盛期の時に巡り合うことは難しいようだ。
 とは言っても、この年齢になるまで、毎年欠かさず見続けてきている大雪山の紅葉は、それぞれの登山口から登って行った所に有名なポイントがあるし、今までにそのいずれもで、満足できる色合いの時に出合ってはいるのだが。 
 つまりは、同じ山での回数を重ねれば、いつかは満足できる山の紅葉を見ることができるのだ、ということになるのかもしれない。

 誰でも、何に対しても、まずは期待して、あてにして事に当たるものだが、多くの場合には、その期待にそぐわないものだったり、あてが外れて失望したりするものだが、まさに山の紅葉にも同じようなことが言えるだろう。 
 そこで思い出したのは、いつもここにあげるあの兼好法師(吉田兼好)の『徒然草(つれづれぐさ)』からの一節なのだが。

 ”万(よろず)の事は頼むべからず。愚(おろ)かなる人は、深く物を頼む故(ゆえ)に、恨(うら)み、怒る事あり。勢いありとて、頼むべからず。強(こわ)き者まず滅ぶ。財(たから)多しとて、頼むべからず。時の間に失い易(やす)し。才ありとて、頼むべからず。・・・。 
 身をも人をも頼まざれば、是(ぜ)なる時は喜び、非なる時は恨みず。左右広ければ、障(さわ)らず、前後遠ければ、塞がらず。・・・。  
 人は天地の霊なり。天地は限る所なし。人の性(しょう)何ぞ異ならん。寛大にして極(きわ)まらざる時は、喜怒これに障(さわ)らずして、物のために煩(わずら)わず。”

(『徒然草』二百十一段より 西尾実・安良岡康作校注 岩波文庫)

 漢・唐代の詩文にも精通していた吉田兼好ならではの一節であるが、私なりに意訳してみると。

”何事に対しても、最初から期待してあてにしてはならない。浅はかな人は、ひたすらに物を頼み込むから、それがかなわなかった時には、怒り恨むことになるのだ。相手が今を時めく実力者だからといって、あてにして頼ってはならない。権勢を誇るものがまず先に消え去るものだから。金持ちだからといって、あてにして頼ってはならない。いつ相手が失敗して財産を失うかもしれないのだから。相手が頭のいい人だからと、あてにして頼ってはならない。・・・。 
 自分自身のことを過信したり、他人を頼みにしたりしないことだ。そうすれば、結果が良ければそのことだけを喜び、うまくいかなかった時にも、自分や誰かを恨むことはなくなるはずだ。・・・。 
 いつも自分の思いに幅があり余裕があれば、障害となるものはないはずだし、進むことも退くこともできるはずだ。・・・。 
 人は天地が生み出したその申し子なのだから、天のように深く受け容れられる心があるはずだ。すべての物事に寛大な心で接すれば、一つ一つのことに大きく動揺することもなく、自分を失うこともないし、物欲のために執着することもなくなるだろう。"


 これまた、ここで前々回にもあげていたように、”老荘(ろうそう、老子・荘子)の思想”そのものの世界であって、とても私ごとき迷いの多いおいぼれじじいが、到達することのできない、彼方に輝く神のおつげのようで、・・・ただただ、ありがたや、ありがたや。

 


紅葉堪能

2018-10-22 21:57:15 | Weblog




 10月22日

 一昨日から昨日にかけての、天気予報画面は素晴らしかった。
 日本列島、北海道から九州までの主要都市全部に、お天気の晴れマークだけがついていたからだ。
 ”お天気屋”の私としては、その天気予報のテレビ画面を、カメラで撮っておきたいぐらいだった。
 年に、一度か二度かあるくらいの、実に爽快な、ひとりでに楽しくなるような予報画面だった。

 もちろん、休日で人が多い所に出かけて行くのが嫌な私は、ずっと家に居たのだが。
 というよりは、前回も書いていたように、ここ数日は家の仕事がたまっていて、それにかかりきりだったからである。
 自作天窓の、強化プラスティックの透明板が割れて、そこから雨漏りするようになっていたから、作り替えざるを得ない状況になっていて、数日間考えたあげく、結局は一番安易なふた型で決着した。 
 最初、この家を建てたころは、寝ていて星空が見えるようにと、まだ青い若者気取りのロマンティックな思いから、天窓を作ったのだが、この年になると、星を見るどころか、ともかく雨漏りせずに、時たま換気口の役目を果たしてくれればいいと、この年寄りは夢を捨てて妥協してしまったのだ。

 次に、車庫の掘立小屋の柱は、やはり掘り返してみると土中の部分が腐っていて、その傍に補強丸太を入れてカスガイで止めたのだが、まあこうしておけば、私が生きている間くらいはもつだろう。
 そして、いつもの林内作業だが、倒れ傾いていたカラマツの木を4本、チェーンソーで切り倒し(周りの木に倒れかかっていて危険な作業だが)、そして大体の寸法に切り分けて、とりあえず一所にまとめて置いておくのだが、直径2,30㎝の長さ1.8mぐらいに切り分けた丸太を運ぶのが、実はこれまた大変な作業であり、200㎏近い丸太の端を何とか持ち上げて、尺取虫方式で持ち上げ倒しの作業を繰り返すのだが、汗は噴き出し、重さが腰に来て腰を痛めたりで、一本運ぶごとに息をついて休みたくなるほどだ。
 といって、その後それらの丸太をすべて活用しているか言えば、半分以上はしかたなくそのまま放置して、林内で朽ちるがままにしているのだ。

 しかし、ただでさえぐうたらでわがままなこの年寄りなのに、果たしてこれからも、そうしたキツイ仕事を続けられるものだろうか。
 まあ人間として、日々仕事をしているということは、それがやめられないということは、いまだに店先に立ち続けたり、会社で仕事を続けたりしている同年配の友達たちと同じように、そうして働いていることのすべてが、生きているということになるのだろうが。
 あの”柴又の寅さん”が言うように、”死んだらおしまい、お客さんよ”ということなのだろうか。
 たとえ大きな病にかかって、自分の余命が少ないとわかっていても、歌うたいは歌をうたい続け、役者は舞台に立ち続け、医者は患者を診(み)続け、ボランティアおじさんは被災地に通い続け、市井(いちい)の人たちはそれぞれに自分の目の前の仕事をこなしていき・・・そうした社会的な生き物である人間たちの、ゆるい義務感と諦観(ていかん)が、この日本を形作ってきたような気がするのだが・・・ただ、日ごろからぐうたらでわがままなこのじじいには、果たして。

 さて、そうした仕事の合間に、晴れた日の半日、近くの山に紅葉を見に行ってきた。
 いつもよく登っている、帯広近郊の山、岩内仙境(いわないせんきょう)の金竜山(466m)である。
 数日前のことだが、その日も全道的に晴れのマーク予報が出ていて、ライブカメラで見ると、北海道最高峰の旭岳(2290m)だけでなくその下の姿見平も、一面白雪に覆われた冬の姿になっていた。
 しばらく前までは、この姿を見たいがために、前の日から麓の宿に泊まり、朝一番のロープウエイに乗って山に登るべく、出かけて行ったものである。(2008.10.24の項参照)

 そうした思いも少しはあったが、近年、年寄りになってからは、いつもの”ものぐさ太郎”ぶりがひどくなって、絶好の山登り日和(びより)の日に家に居ても、山に行けずに悔しいという思いが余りしなくなってきたのである。
 前回書いたように、時間とともに”慣れ”ることは、悲しみや苦しみから逃れる一番の方法であるとも書いたけれども、逆に言えば、”慣れる”ことは逆に、自分の悪癖(あくへき)を治すことのできない最大の障害ともなるのだ。
 まあ、この年になってくると、どちらに転んでも、もともとタヌキ顔のじじいのツラの皮が厚くなっただけのことであって、”笛吹けど踊らず”のぐうたらな俗人の一人でしかないことが、改めて露呈しただけのことなのだから。

 さて、家から近いことだし急ぐことはないと、朝ゆっくり過ごした後に出かけて行って、いつもの岩内近郊から、日高山脈を間近に眺めた。(写真下、中央にカムイエクウチカウシ山、左にピラミッド峰、右に1903峰と1917峰が重なって見える。)

 日高山脈は、大雪山系の山々よりはずっと南にあり、標高も低いから(最高の日高幌尻岳でさえ2000mをわずかに超えるくらいで)、この秋になって、山の上では何度か雪が降ったこともあったのだろうが、今年はまだ、十勝平野から眺める日高の山々が白く雪に覆われているのを見たことはなかった。
 それでも、秋まき小麦の畑の向こうに、晩秋の日高の山々が見える光景はいいものだ。
 そういえば、今年はついに一度も日高山脈主稜線の山に登らなかった。
 日高山脈の山々が好きになって、この北海道は十勝平野に移り住んできたというのに、今ではもうこの体力ではと、すっかり遠ざかるようになってしまったのだ。
 それでも、その美しい山々の姿は変わらないし、今こうして眺めていられるだけでも、幸せだと思いたい。

 さて、岩内仙境の広い園地には、もみじ祭り”が終わった後の平日ということもあって、クルマが3台停まっているだけで静かだった。 
 深い峡谷にかけられた吊り橋の辺りには、真新しい”ヒグマ出没注意”の立札が何本も立てられていた。
(忘れられない事件だが、数年前、この岩内から近い同じ帯広郊外の広野地区の平地の山林で、山菜取りの女の人がヒグマに襲われて命を落としている。)
 私は鈴は持ってきていなかったが、いつものストックを手にして、足元の石などに当てて音を立てながら歩いて行った。 
 何度も書くことになるが、あの剣山(つるぎさん)でのヒグマとの遭遇の一件があったからである。(2008.11.14の項参照)

 人気のない園地を先の方まで歩いて行くと、右手に林道跡の登山道が別れている。金竜山への登山口である。
 今まで何度も登っているが、ほとんど人に会ったことはなく静かな山登りが楽しめる。
 北面の山腹を、ところどころジグザグを切って道は続き、少し勾配もあり、ひと汗もふた汗もかくところだが、お目当ての紅葉は、まだ午前中の日陰の中にあったが、日が差し込んでいる山路の光景はいつ見ても素晴らしく、ああ、来てよかったと思う一瞬だ。(写真下)




 こうして今年の山の紅葉は、9月中旬に大雪山黒岳周辺の稜線を彩る紅葉を眺め(9月17日、24日の項参照)、下旬には、東北は栗駒山の、灌木帯斜面が織りなす紅葉を眺め(10月1日、8日の項参照)、そして今回、スケールは小さいけれど、紅葉が盛りの山の林の中を歩いて行くことができて、今年は、いい具合にバランスの取れた山の紅葉見物になったのだ。

 さらに一登りして、稜線の山道になり、南側は、モミジ、カエデ、ミズナラ、シラカバなどの紅葉や黄葉が入り混じって、今が見ごろの時になっていた。(写真下)




 駐車場から歩いて、ゆっくり写真を撮りながら50分ほどかかって頂上に着いた。
 南面が切り開かれていて、十勝平野南部の広がりが見えるが、日高山脈側は木々の間から、木の間隠れに十勝幌尻岳にカムイエクなどが見えるだけで、山好きな私としては、この山側の光景こそ見たいのだが、地元の人たちにとっては、自分たちの祖先が苦労して切り開いてきた、この十勝野の眺めこそ誇らしいものだったのだろう。
 一休みして、下りて行くと、登りの時とは違う角度で日が差し込んでいて、また新たな眺めとして、紅葉風景を楽しむことができた。(写真下)





 途中、何度も立ち止まっては写真を撮りまくり、ゆっくりと山路を下って行った。
 余談だが、フィルム写真から、デジタル写真の時代になって、その画質などの状態の良し悪しは別としても、何よりありがたかったのは、私のような、素人写真愛好家が、フィルム時代のように枚数を気兼ねすることなく、気が向けばその数だけシャッターを押して、写真を撮ることができるようになったことだ。
 もちろん、それで写真撮影技術が上達したかというと、むしろ逆で、露出やトリミングの失敗などは、あとから修正出来るからと、フィルム時代ほどに緊張感をもって写真を撮ることがなくなり、機械任せで、私のようなただの写真愛好家には、芸術的な写真からはかけ離れた、撮って出しのそっけない写真になってしまったようにも思えるのだが、逆に言えば、絵葉書写真、お絵かき写真が目標の私には、デジタル写真ほどありがたいものはないと思っているのだが。

 今日は、何よりも、だれとも会うこともなく(もちろんヒグマとも出逢うことなく)、青空の下、紅葉の彩りに包まれながら、静かな山歩きができてありがたかった。
 帰りは、普通の人なら2,30分で戻ってくるところを、おおよそ1時間ほどもかかっていたが、それほどまでに、紅葉を堪能(たんのう)できた、これも立派な山登りだったのだ。

 前回、若者には若者なりの生き方があり、年寄りには年寄りにふさわしい考え方があると書いたのだが、それはこうした低い山での山歩きでもいえることだろう。
 若いころには、今の時季には、鮮烈な冬山の情景を味わうことのできる、大雪山系の山へと足を向けるのが常だったのだが、年を取った今の私には、現在の自分の身の丈にふさわしい、地元の低山の秋山歩きだけで十分だし、そこでも自分なりに山の楽しさを味わうことはできるのだから。

 これは数日前に見たいつもの「日本人のおなまえっ!」(NHK)に続いての流れで、そのまま見た番組「所さん大変ですよ!」からの一つの話だが。
 今、離島移住ブームが起きているとかで、今回は鹿児島県十島村の中の一つ、宝島での移住者たちが取り上げられていて、その中の一人で、東京の会社で事務職として働いていた女の人が、単身、この宝島に移り住んできて、今はこの島の牧場で放牧牛たちの管理をして暮らしているというのだ。
 そのきっかけが、まるでテレビドラマの一シーンのように彼女の口から語られていた。
 ”ある時、渋谷のあの交差点で、大勢の人の中で信号待ちをしていた時に、四方のビルの壁にある巨大スクリーンに、様々な広告が映し出されていて、私はその時、いつもこうして多すぎる情報の中にいるのだと、このままではいけないと思ったのです。”
 ”この島に居て何がいいのかといえば、周りの人はやさしいし、村からの手厚い就業支援もあるし、いつも見える海はきれいだし、何より空が広くて。”

 もちろん彼女は、移住することについて、あの渋谷の交差点で突然思い立ったのではなくて、その前から、時々少しずつ感じてはいたことなのだろうが、あの林立するビル壁に映し出された、あまりにも都会的なセンスあふれた影像に、場違いな自分を強く感じたからなのだろう。
 それでいい、渡り鳥たちの渡りの時のように、本能的に気づいた時に飛び立つのが一番なのだ、”思いたったが吉日”の例えのように。
 かつて、私も同じように決意して、東京から北海道に移り住んだのだが、自分で決意して自分で実行したことに、後悔することなど何一つもないのだ。
 彼女の将来に、幸あれ!と祈るばかりだ。

 一方で、その後見た民放のバラエティー番組で、同じように移住した人たちのことを取り上げていたのだが、それは長崎県の五島列島での話で、司会者たちの3人だけでなく、ひな壇タレントたちも、都会で生きていて、テレビの世界で生きている人たちなのだからか、半ば面白おかしく彼らの話を取り上げていた。
 住む世界が違うとしても、何もこうした番組で、自分に興味のないことだからと、テレビ受けする小ばかにしたコメントを言ったりする必要があるだろうか。

 まあこの世は、”ごったまぜの人間鍋”の世界ですから、と言ってしまえばそれまでだが。

 


求めないこと

2018-10-15 21:35:42 | Weblog



 10月15日

 少しずつ、少しずつ、周りの草花に、樹々に、吹く風に、空の雲にと秋の季節が深まってくる。
 上の写真は、家の近くの高みから見た、朝もやたなびく十勝平野と、秋色濃い日高山脈の山なみである。気温4度。
 数日前、家の庭を雪虫が飛んでいた。 
 話によれば、”雪虫を見た二三週間以内には雪が降る”とのことだが。

 雨が少し降った後、晴れた天気の日が続いていて、さらにあと一週間位はこの天気が続くだろうとのことで、まさにありがたい、秋の”十勝晴れ”の日々である。
 しかし、雪を前にして、家の仕事が山積みに溜まっていて、さすがにこの”ぐうたら”おやじも、その重い腰をあげて、ひとがんばりしなければならない時が来たようだ。

 折しも、ライブカメラで見る大雪山は、頂上から山腹にかけて雪に覆われていて、青空の下ひときわ鮮やかに見える。
 若いころには、さあこれからが人も少なくなって雪山を楽しむ季節だと、今日は大雪、明日は日高と、雪の巡礼者を決め込んでは、登りめぐっていたというのに・・・はい、歳月というのは時に怖ろしいものでございまして、紅顔の微(び)青年もどきが、あっという間に、足腰よたよたの白髪のじいさんに変り果て、唯一口だけは達者で、その昔、若いころには、日高や大雪をあっという間に縦走したものよと、自慢話をしては周りをけむにまいてはいたのだが、家に帰れば、哀しい独居老人の独り言になってしまい、枕もとには夜な夜な今は亡き人々たちが現れて、昔の思い出話しにつきあわされて、もう今では、私自身が生きているのか死んでいるのかもわからず、夢遊病者のごとき日々を送るのではありますが、はい。

 とは申しましても、生きている日々の暮らしも続けていかなければならず、まず屋根の天窓から雨漏りするようになり(それが安上がりの自作窓の結局は手間のかかるところで)、やむなく再び作り直さざるを得なくなり、さらにはこれも自作の、掘っ立て作りの車庫の丸太柱が痛んできて、その傍に補強丸太を立てなければならないし、さらには、林の中の傾いたり倒れたりしているカラマツも数本あって、今のうちにチェーンソーで切っておかなければならないし、さらには、来年分のための、薪(まき)作りもしなければならないし、さらにはいろいろと細かい仕事もあり、今までのように、のんべんだらりとした毎日を送っているわけにはいかなくなってきたのだ。
 それならば、もっと前から少しずつでもやっておけばよかったのにと言われそうだが、そこは根がぐうたらなものだから、思えば私の人生、いつも切羽詰まった所から、ようやく動き出して、それで何とか間に合わせてきたことばかりで、人様に自慢できるものは何一つとしてないのだ。
 ”ムチひとつ やっと動かす 荷馬車かな” (詠み人しらず)

 ところで、相変わらず家の井戸は枯れたままで、5月に戻って来てからずっとその井戸の水は使えず、もう半年近くも、もらい水とペットボトル水だけで、何とかここまでやりくりしてきたわけだが、当初の絶望的な気持ちからすれば、こうして蛇口から水が出ないことが当たり前のことになって、飲み水はもとより、洗い物用の水もけちけち使うようになり、それが日常化すると、もう今ではたいした苦行(くぎょう)とは思えなくなってきて、その不便な状態が連続し日常化すると、それがいつの間にか、毎日のこととして受け入れられるようになってくるのだ。 
 前にも書いたことがあるが、こうした苦難のさなかにある時、もっとも大切なことは、あのテレサ・テンの歌の題名にもあるように”時の流れに身をまかせ”、今ある状況に”慣れる”ことなのだろう。

 私は今まで、状況が変わって、人や物を失くした時、その時は失意のただ中にあって、自分ほど不幸な人間はいないと世をはかなんだりしたものだが、しかしいつしか時は流れゆき、時間はその最悪の状況を少しずつ変えていってくれるのだ。
 つまり、それが無いこと、いないことが、日常化してゆき、そのことに”慣れ”てゆけば、そのことが新たないつもの日常として、普通に受け入れられるようになるものだ。
 かくして、不幸も不運も時の流れの中に埋められてゆき、記憶は残るとしても、今あることだけが新たな日常として上書きされていくのだろう。
 私は今まで、そうして、時の過ぎ行くままに、自分の心のうちだけで、凶事たるべきものをなだめては、日常に転化させていったような気がするのだが。
 もっとも、それは私がまだ本当に絶望的な不幸に出会っていないからかもしれないのだが・・・。
 
 ところで、今までも書いてきたように、自宅の井戸水が使えないこともあって、定期的に街に出かけて行っては、コインランドリーで洗濯をしているのだが、その合間に近くのリサイクルショップ、平たく言えば中古品屋に寄って、その古本部門で安い本を探すのを楽しみにしているのだが、その時は、あの加島祥造(かじましょうぞう)の詩集というか、単独長編詩の『求めない』(小学館)が、新品のまま定価の数分の一もしない値段で売られていて、すぐに買ったのだが。

 この加島祥造(1923~2015)という人は、もともとアメリカ文学者であり、あのフォークナーやマーク・トウェインなどに多くの翻訳書があるが、彼自身が語るところによれば、たまたま英訳されていた『老子』を読んで、同じように平易な日本語に訳することができないかと試み、その結果として、多くの『老子』についての本が書かれることになったとのことだが、私が初めて、彼の名前を知ったのは、あの『清貧の思想』(草思社、文春文庫)で有名な中野孝次(1925~2004)の随筆集『足るを知る』(朝日文庫)を読んで、その中に彼の名前が出てきたからである。 
 そうした経緯があって、この加島祥造の随筆集である有名な『伊那谷の老子』(朝日文庫)を読んだのだが、そこでこのアメリカ文学者とドイツ文学者の二人が、お互いの人生の老境の中で、いかに老子の思想に心酔していたかがよくわかったのだが、それはまた私にとっても、”同好の士”と呼ぶにはあまりにも畏(おそ)れ多い、尊敬すべき人生の先達(せんだつ)たちでもあったのだ。(そうした人たちに出会えることこそが、本を読むことの愉しみでもあるのだが。)

 さて、私が買ったこの小さな正方形変型判の本は、一ページに一行だけという所もあって、恐ろしく効率の悪い本だが(詩集などにはよくあることで)、わずか200ページ足らずだから、ものの10分もあれば読めてしまうような本だった。
 とりあえず、その冒頭の、4ページほどをあげてみよう。

" 求めない──
 すると
 簡素な暮らしになる

 求めない──
 すると
 いまじゅうぶんに持っていると気づく

 求めない──
 すると
 いま持っているものが
 いきいきとしてくる

 求めない──
 すると
 それでも案外
 生きてゆけると知る "

 思うに、日ごろから物が足りない田舎にいて、都会の豊かな物に囲まれた暮らしからは、かけ離れた生活をしている私のような人間にとっては、どれほど励ましになる言葉だろうか。 
 今こうして暮らしていることが、実は間違いではないのだと言われているようで。
 
 もともと、私はこの地に移り住むにあたって、前提となる一つの条件を除いては、多くのことを望まなかったし、そのことが、私をこの地に数十年住み続けさせてきた理由にもなるのだが。 
 それは、”日高山脈の見える十勝平野に住む”ということだけであり、ここに至るまで、もちろん多くの困難もあったのだが、私ははそんな時いつも考えたのだ、”十勝に住むこと”ができているのだから、他のことはがまんすればいいじゃないかと。
 人は生きていく中で、どうしても譲れない一線があり、そのために繰り返し強く思うのだろう。
 もちろんそこには、それらの前提となるもの、”生きてさえいれば”というのが、すべての基本条件にあるのは言うまでもないことだが。
 もちろんそれは、緊急救命時に生命維持装置をつけたり、胃ろうを施してもらってまで生き延びたいとは思わないし、何事も自然な命の続くまままに、在りたいと願うだけのことなのだが・・・。

 ところで私は、こうした老子(ろうし)、荘子(そうし、そうじ)などの自然思想に近い考え方が、すべての人のための考え方だと思っているわけではない。
 例えば、上にあげた加島祥造の、老子の思想に基づく数々の言葉にしても、これを若い人たちがそのまま信奉していたとしたら、それは、あきらかな間違いだと言いたくなる。 
 むしろ、私は、”若い時には求めよ”と言いたい。
 成功の甘い蜜も失敗の苦い汁も、清濁併せ飲んでこその人生であり、両者の違いを学んでこその人生なのだから。 
 若い時には、競い合うべきだ。
 他人とも、自分とも。

 あの若い時の、成功の甘いひと時に比べうる喜びはないだろう・・・世界はすべて私のものになるからだ。
 しかし、失敗し敗北したとしても、その苦しみの絶望の淵から見上げる暗夜の彼方に、輝く星を見ることはできるはずだし、それが明日を夢みることにもなるのだ。
 若者よ、挑み、傷ついたとしても、今は繰り返し立ち上がることだ、必ず夜は明けるのだから、来たるべき明日を夢み続けることだ。

 そして一方では、この”老荘の思想”は、私たち年寄りにこそふさわしいものなのだと思う。
 若者には若者にふさわしい思想があり、年寄りには年寄りにふさわしい思想があるものなのだ。
 今まで、私たち年よりは十分に経験し、多くのものを所有しては、多くのものを失ってきた。
 これ以上、今さら、何を求めるというのだ。
 長い自分の人生の中で、経験してきた、おびただしい思い出の数々だけで十分ではないのか。
 これから必要なことは、”求めない”ことであり、その後に広がる静寂の世界に、たゆとう大海に身をゆだねてゆけばいいだけのことなのだから。

 ああ、喜びも悲しみも十分に満ち溢れていた、いい人生だったと、自分に言い聞かせながら・・・いつしか夢の世界の大海原へと・・・。


錦繍(きんしゅう)の山(2)

2018-10-08 21:45:49 | Weblog



 10月8日

 10日ほど前に、東北の栗駒山(1626m)に登って来た。
 今回は、その登山記の前回からの続きである。

 しかし、その時、頂上には人が多すぎた。
 いつも、静かな頂上で憩いのひと時を過ごすことにしている私には、明るい声の喧騒が、どうにも居心地が悪かった。
 ほんの10分ほど休んだだけで、西に向かう頂上稜線をたどって行くことにした。
 もちろん、こちらも行き交う人が多くて、にぎやかな登山道だった。
 無理もない、東北一とされる栗駒山の紅葉が今盛りを迎えているのに、このところ天気が余り良くはない日々が続いていて、そうした中で晴れの天気予報が出れば、人々が今行かなければと思うのは当然のことだ。

 その日の天気は、予報通りに雲の多い天気だったが、次第に良くはなってきているようで、先ほどの東栗駒山では頂上付近の雲が取れなかったのだが、今では頂上付近に雲がかかることもなく青空も見えていて、天気がさらに回復してきているいることは確かだった。
 そして、そこからの稜線をたどる道の両側は、深紅のコミネカエデに鮮やかに彩(いろど)られていた。
 時折、ガスが吹きつけてきて、行く手がぼんやりとした景色になっていたけれども、むしろその時は、その邪魔な霧さえもが、乳白色の中から浮かび上がる紅葉の色合いを、かえって色鮮やかに際立たさせているようにも見えた。

 あの泉鏡花(いずみきょうか)の描く、幻想世界の中に現れるような、深紅の長襦袢(じゅばん)をまとったなまめかしい女性がそこにいて、こちらに手招きをしているかのような・・・。
 ・・・私は、いつしかその鮮やかな色に導かれて、一歩また一歩と霧の中へ、その藪の繁みへと足を踏み入れて行き、気がつくと足元は崖になっていて、叫び声をあげる間もなく、暗黒の奈落の底へと落ちていく・・・ああ夢だったのか。

 風が吹きつける中、再び霧が取れて、紅葉の道が続いている。
 振り返ると、栗駒山の山頂が見えていた。(冒頭の写真)
 栗駒山は、古い時代に噴火活動した火山とのことであるが、南に面しては崖になっていて、その障壁のようにめぐっている姿は、火口壁のようにも見えるが、その稜線からのむき出しになった傾斜地の表面は、レンガ色の火山礫(かざんれき)に覆われていて、この山が火山によって生成された証でもある。(写真の手前の火山礫からカヤ・スゲ類の草モミジ、黄緑のササにハイマツの緑、そして紅葉のドウダンツツジやミネカエデといった色分けが見られる。)

 そして少し下った、天狗岩と呼ばれる大岩の辺りから、その下に広がる天狗平にかけては、まるで錦のじゅうたんのような光景が広がっていた。(写真下)

 

 そこは、写真中央左端に見える高い道標で示されるような十字路になっていて、そのうちの一本、写真中央上に西側へと続く道は、秣岳(まぐさだけ、1424m)への縦走路になっていて、さらに写真左手に行けば御沢・世界谷地(せかいやち)コースへと続き、そして手前のこの栗駒山から下りてきた道を、右手に(写真右手)に下って行けば須川温泉に至り、それぞれの登山コースの要衝の分岐点になっていたのだ。
 こういう所でゆっくりと休みたかったが、やはり多くの人々が腰を下ろして休んでいて、仕方なくそのまま通り過ぎ、予定通りの須川温泉への下山路をたどることにした。

 この栗駒山は、それほど大きく高い山ではないのに、いくつもの登山コースが開かれていて、地図上で確認するだけでも、主なものだけでも、6本もあり、それだけ地元の人に親しまれている山だとも言えるのだが、私は今回、初めての栗駒山登山で、二本のコースをつなぐ道を選んで歩いてきたのだが、それは、この山への初見参(はつけんざん)にふさわしい道だったのだと、今さらながらに思っている。
 それは思うに、まず前半の東栗駒山からの紅葉の眺めにあり、そして後半は、ここから須川温泉に至る道での、栗駒山北面の眺めにあったからだ。

 ただし、懸念もあった。
 何しろ、道が良くないのだ。
 あのいわかがみ平から東栗駒山への道のように、粘土状の小沢の中を歩いていくような道で、ここまで何とかテープを巻いただけで歩いてきた靴底のはがれた登山靴で、これから下まで歩いて行けるのだろうかと。
 さらには灌木樹林帯の中の狭い道だから、すれ違いだけでなく、団体の足の遅いグループと若い元気な人たち年の差が出てきて、渋滞ができてしまっていた。
 しばらくは、私も足の速い人たちの列についていたが、何もこんなところで若者ぶってがんばることはない、しばらく必死になって前を追って歩いた後、いつもの年寄りペースに戻して、その足元が悪い小沢のような道を下って行った。

 そしてその合間に振り返り、あるいは右手を見ると、それまで山腹から見ていた頂上稜線の山体が、いつしか斜め後ろに鈍重なしかし柔らかな大きな山として見えてきて、その山体のすべてが、見事な紅葉に覆われていたのだ。(写真下)





 黄色と朱色を主体にしてところどころに緑を混ぜた、まさに錦織なす光景だった。
 この眺めだけでも、このコースを選んで良かったと思わせるほどの景観であり、岩手県側の須川温泉側から見たこの山が須川岳(すかわだけ)と呼ばれているのも、十分にうなづけるものだった。
 ただし、あえてひとこと言えば、この時の天気が、青空も見えてはいたものの、いかんせん雲が多くて、山のすべてを照らし出しているわけではなく、まだら模様の光に照らし出されてムラになっていたことだ。
 単純な”絵葉書写真”を撮りたいと思っている私は、やはり背景が、ベタ一面の青空で、すべてが光に照らし出されているところを見たかったのだが・・・まあそれはぜいたくというもので、これほどまでに雲が取れていて、紅葉の盛りにある山の姿を見られただけでも、幸運だったと感謝すべきだろう。
 この下りの道の途中どこでもが、撮影ポイントになっていて、そのたびごとに立ち止まり、写真を撮って行った。
 そして山が真後ろになり、しばらく見えなくなるだろうその手前の所で、青空を背景にして光に照らし出された、栗駒山山頂斜面を撮ることができたのだ。
 それは、まさに”錦繍(きんしゅう)”の山と呼ぶにふさわしい姿だった。(写真下)





 そしてそれは、この時の私の栗駒山登山の象徴ともなるべき、掉尾(とうび)を飾るにふさわしい眺めでもあったのだ。
 これだけでも、私がわざわざ不便な交通機関を乗り継いで、この山のためだけに、東北にまで出かけて行って登った甲斐があったというものだ。

 その後の道のりは、もう振り返る道すがらでは山に雲がかかったりして見えなくなり、その上にわか雨にあったりして足早に須川温泉にまで下って来た(今日の行程は6時間ほどであまり疲れてはいなかったが)。
 そこで、運が悪いのか良かったのかわからないけれども、ここまで一関(いちのせき)から客を乗せて来て空身で下るというタクシーに出会い、安い料金で乗せてもらったのだ。
 バスを待つことなく、すぐに安い料金のタクシーに乗れた幸運と、天下の名湯である須川温泉に入ることができなかった不運とで・・・。 

 しかし、私とは一世代離れた運転手と二人、1時間ほどもよもやま話をしては、朝来る時のくりこま高原駅からのタクシー運転手と同じように、実に有意義な話の時間を過ごすことができたのだ。
 一関駅に着いて、今から新幹線に乗って東京まで行って、羽田から帯広行きの夜の便に乗れば、今日のうちには家に帰ることもできるのだが、そうまでして何も見えない夜に旅行したくはなかった。 
 そこで、くりこま高原駅まで行って、昨日泊まった宿にもう一晩泊まることにした。
 ただし、これならば、須川温泉のお湯に入ることもできたのに、とも思ったのだが、物事すべてがうまくいくとは限らない。ただ当初の目的であった、紅葉の栗駒山の姿を見ることができただけでも、十分にありがたいことだったのだから。

 さて、今日の登山だけで、秋の栗駒山を知ったことにはならない。 
 一番有名な中央コースからの、火口壁のごとく連なる南側からの栗駒山の姿は見られなかったし、ましては秣岳(まぐさだけ)のコースや御沢・世界谷地コースなども歩くことができなかったし、朝のうちの東栗駒山からの眺めも,半ば雲に隠れていて今一つ残念だったし、さらに欲を言えば、秋以外の冬の雪のある時期や、初夏の高山植物も見てみたい気がする(今回は、時期的なこともあってかオヤマノリンドウとシラタマノキを見ただけだったが、イワカガミ平と名づけられている所があるように、この山にはいたるところでイワカガミの葉が見ることができたのだが)。
 ともかく今回、私はこの栗駒山の初歩的な山歩きをしただけにすぎなかったのだが、何と言っても、この栗駒山の紅葉が、名だたる日本の山の紅葉の一つに数えられる景観であることを、目にすることができただけでも、十分に幸せなことだったのだ。

 さらに言えば、この栗駒山からの他の東北の名山たちが見えなかったことも、残念ではある。
 近くの焼石岳(やけいしだけ、1548m)や神室山(かむろさん、1365m)などの山影は見えたものの、岩手山に早池峰山、鳥海山に月山、蔵王などの山々が見えなかったことは残念ではあるが、空気の澄んだ冬に雪の栗駒に登れば、その思いは叶うのだろうが。
 それにしても、東北には、まだまだ登りたい山がいくつもあって、上信越の山々とともに、私の大きな課題となる地域ではあるが、はたして生きているうちにその幾つに登ることができるのだろうか。

 ところで、先週の「日本人のおなまえっ!」(NHK)でも興味深い名前が取り上げられていた。 
 山の名前とは関係ないが、まず最初は、”毒島”さんであるが、これは”ぶすじま”と呼び、その姓の家に生まれた相談者の母親が、”ブス”と呼ばれたりして子供ころは嫌でたまらなかった、と言っていたのを気にかけていて、調べてもらったのだが、結果は江戸時代の堺の豪商が大元にあり、魚問屋の他に漢方薬も取り扱っていて、あの猛毒で知られるトリカブトの種子は、実は有効な漢方薬として使われるものであり、”附子(ぶし)”と呼ばれていて、それを取り扱っている店だから、”毒島(ぶしじま)”という姓を与えられたとのことであり、つまり恥ずかしい名前ではなく、実に誇り高い名門の名前だったのだ。
 そのことを知った相談者の婦人は、涙を流しながら母が元気なうちに教えてあげたかったと言って、それでも墓前で手を合わせて報告していたのだった。 

 さらには、この毒島(ぶすじま)という呼び名の姓は、実は私も見覚えがあったのだ。
 というのも、子供のころから野球大好き少年であった私は、少年雑誌の付録としてついていた、プロ野球記録年鑑か何かで、その中に確か昔の東映フライヤーズの選手で、毒島という選手がいて、何かの記録保持者としてその年鑑に載っていたことを憶えていたからだ。もちろん、その選手がプレーしていることなど見たこともなかったのだが、子供心にも変な名前だなと思っていたことは覚えている。
 さらにもう一つ、毒島に関して、その語源となる”附子(ぶし)”という呼び名は、実は植物に詳しい人ならだれでもが思いつくように、実はトリカブト属の名前として付けられていて、リシリブシやカラフトブシとして図鑑に載っていて、私は今まで同じトリカブトの種類なのに、どうして呼び名が違うのだろうと思っていたのだが、ここでやっと合点(がてん)がいって、”ガッテン”とこぶしを叩くことができたのだ。
 
 さらに今回の「日本人のおなまえっ!」(NHK)では、さらにもう一つ、今回の栗駒山登山に関係することだが、番組では、”禿(かむろ)”という姓を取り上げていて、それは当然”はげ”とも呼ぶから、その姓の人たちには嫌がる人もいたのだが、実はあの”親鸞上人(しんらんしょうにん)”が、自分のことをいつまでも迷いの消えない”愚禿(ぐとう)親鸞”と、卑下(ひげ)して名のった言葉からとられたそうである。 

 ところで、そのことと関係があるかどうかは分からないが、上に記したように、栗駒山から見える山で、同じ二百名山にも選ばれているほどの山、神室山(かむろさん、1365m)があり、さらにその南には同じ呼び名の禿岳(かむろだけ、1262m)があり、その語源は定かではないが、写真で見ると、低い山の割には頂上が草に覆われていることから、他の森林に覆われた山と比べれば、”はげた山”であるから名づけられたのだろうか。 
 この「日本人のおなまえっ!」(NHK)では、こうした山の名前や植物の名前、昆虫の名前などにもその語源探索の域を広げてほしいものだ。

 この二週間、栗駒山の話ばかり書いてきて、このブログの主たる目的である、日記的な私的備忘録の役目が果たされたとは言い難いが、年寄りは一つのことしかできないから、それも仕方のないことだろうとは思うのだが。

 最近少しは我慢していたのだが、今日いつもの年よりは遅く、薪(まき)ストーヴに火をつけた。 
 家の林の中の、樹々の色づきが始まり、足早に紅葉の季節がやって来て、やがて、雪の降る冬が来るのだ。


 


錦繍(きんしゅう)の山(1)

2018-10-01 21:12:53 | Weblog




 10月1日

 数日前、東北の山に行ってきた。
 今回目指したのは、東北の宮城、岩手、秋田の三つの県境にまたがってそびえている栗駒山(くりこまやま、1626m)である。

 もちろん、紅葉の時期をねらってのことなのだが。
 しかし、天気が安定せずに、今年は紅葉が一週間早いという情報とともに、じりじりとした思いで晴れの予報が出るのを待っていたのだが、ようやく平日に天気予報で晴れマークがついた日があって、それに合わせて出かけることにしたのだ。
 というのも、その後に台風が来ることが予想されていて、強風が山の紅葉を散らす前に、何としてもその紅葉が盛りの山に登りたいと思っていたからだ。

 しかし、そうした私の思いとは裏腹に、天気予報も安定はしなかった。
 数日前の、一日だけの晴れマークの予報から、次の日には、快晴マークの後に次の日も晴れマークが続く二日続いての好天の予報に変わり、思わず声をあげて喜んだのに、出かける前日には、一日だけの雲の多い天気マークになってしまったのだ。
 普通なら、そのぐらいの予報では出かけないのだが、それでも、飛行機、宿の予約を含めて、今さら変えるわけにはいかない。
 もう後は、運を天に任せる他はないのだ。

  ”南無観音大菩薩(なむかんのんだいぼさつ)様、並びに八大竜王(はちだいりゅうおう)様(幸田露伴『五重塔』参照)なにとぞ雨降りだけはおやめください”と祈るばかりだった。

 というのも、私の数十年近くにも及ぶ、長い山行歴の中では、それは"百名山”などを意識して登って来たわけではなくて、その時その時に自分が行くことのできる山に登ってきただけのことであるから、かなり偏った志向になっていて、九州の九重山、本州の北アルプスに北海道の大雪山、日高山脈が主な領域であって、それぞれに二三十回は登っているだろうが、もちろん日本の山はそれだけではなく、多様な山岳景観に満ち溢れているのだからと、ある時、今さらながらに気づいて、まずは、まだ登ったことのない世評に高い名山と呼ばれる山々に、登っていくことにしようと思ったのである。
 そこで遠征して登って来た山は、このブログで書いてきたように、富士山、屋久島、白山、御嶽山(おんたけさん)、飯豊連峰などであり、もちろんそれは、深田久弥氏の”百名山”に選ばれた山だからという山選びではなく、今までテレビ雑誌などで見てきたものを、あくまでも、自分なりの基準に当てはめた上で選んだ山々である。

 そして、実際に登って来たそれらの山々は、確かにすべて名山に値する山ばかりで、私はこれからも自分の年齢を重ねていきながら、さらには老いゆくと体力の衰えを感じながらも、次なる遠征の山旅を続けていきたいと思っている。
 さらには、まだ登っていない名山と呼ばれる山々だけでなく、前に登ったことがあっても、季節を違えて、特に積雪期を意識して行った山がいくつもあり、これもこのブログで書いてきたことだが、八ヶ岳、立山、唐松岳、燕岳(つばくろだけ)大天井岳、伯耆大山(ほうきだいせん)、蔵王山、八甲田山などは、まさにその雪の景観を眺めるために出かけて行ったのだ。
 そして、それらのすべては、天気のいい日を選んで出かけて行ったからこそ、晴天の空の下での、美しい山々の姿を眺めることができたわけであり、併せて私の登山の第一の目的である、周囲の展望にも恵まれて他の山々の姿も見ることができたのだ。
 
 もちろん、それまでの長い登山経験の中には、悪天候の中、登った山もあったけれども、年を取るにつれて考えるようになってきたのだ、せっかく山に登るのに、天気の悪い時に登っては意味がないと。
 雲に包まれて山頂からの展望がない、何も見えない天気の悪い日に登っただけでは、その山の良さを正しく評価をできるはずがないし、心から山を楽しむこともできないのだから。
 若い時ならば、それが悪天候時の訓練にもなるのだからと言えるのだろうが、年寄りになった今、そんな山の景観もろくに楽しめないような天気の悪い日に行って、これが山行の訓練になるのだからと、のんびりと構えていられるだろうか、もう大した余生もないというのに。

 こういうところに、自分のごうつくばりじじいの本性が現れるのだろうが。
 ともかくここで、ハイデッガーの『存在と時間』をあげるのは飛躍しすぎかもしれないが、”残りの時間を意識して生きる”ことが、まさに”人間として生まれた自分のための、時間を享受する”ことになるのではないのだろうか。
 私が、年を取るにつれ、山登りにぜいたくな注文を付けるようになったのは、一つには”ぐうたら”で”欲深い”性格があるからかもしれないが、一つにはその残り少ない”存在と時間”を意識しているからでもあるのだが。

 今回、栗駒山を選んだのは、それまでに、たとえば東北の冬の山は、樹氷で有名な蔵王と八甲田にはぜひとも行かなければと思っていたから、それぞれに好天の日を選んで、その氷雪の芸術の世界を満喫することができたし、次に紅葉の時期にはと言えば、他にもいろいろ有名な山はあるが、まずは世評にも高い栗駒山の紅葉をと思っていたからである。

 しかし、今回は、天気予報が定かではなく、雨は降らないにしても雲の多い天気になるのではと、かなり出かけるのをためらったのだが、雨の確率は低いし、曇り空のままならば、今回の山行が、山々の展望というよりは、紅葉景観がその最大の目的であるのだから、”えーい、ままよ”と運を天に任せて、家を後にしたのである。

 ところで、私たち北海道の道東に住んでいる人間にとって、実は東北に行くのには、かなり不便な思いをしなければならないのだ。 
 つまり、飛行機で行くには直通便がないから、まず東京に出て、そこから東北新幹線に乗って半分ほど戻らなければならないし。 
 それ以外の方法では、列車で行くにしても、在来線特急を乗り次いでやっと函館北斗駅まで行って、そこで新幹線に乗り換えるということになり、運賃が高くなるのはともかく、時間が12時間以上もかかってしまうことになるし、一番安上がりなクルマで行くにしても、苫小牧まで行ってフェリーに乗って八戸か仙台まで行き、そこから目的地の登山口まで行くことになるが、それだけでも疲れるうえに、一日以上もかかるし、さらにそこから山に登るとしても、山頂往復しかできずに、山頂をつないでの縦走などはできないし、全く不便極まりないのだ。
 
 結局、東京集中の日本の交通体系では、どこの山に行くにせよ、地元の人はともかくとして、東京に住んでいる人たちが、一番交通の便がいいということになるのだろう。
(余談だが、昨日の台風の影響で首都圏の電車などが大混雑していて、各駅で渋滞の行列ができているニュース映像が流れていたが、もし大きな災害が起きて、何日も交通機関がストップしたら、この大都会はどうなるのかと心配してしまうのだが。便利さと不便さは、どこにいても付きまとう”もろ刃の剣”なのかもしれない。)
 
 さて、乗り込んだ飛行機は、通路側の席だったうえに、ずっと雲と上空の青空との境目辺りを飛んでいて、外の景色どころか、乗ってる時間の半分以上は、下の悪天候に合わせて機体が大きく揺れ続けていた。
 羽田から東京に向かい、そこで東北新幹線に乗って、夕方前には、小雨の降り続く宮城県の”くりこま高原駅”に着いた。

 近くにあるビジネスホテルに泊まって、翌朝早く起きて外を見ると、雲が多く、目指す栗駒山の姿も山腹辺りまでしか見えなかった。
 ただ、東西の方向には青空が見えていて、昨日よりはずっと良く、天気が回復しつつあるように思えた。
 ともかくそこで、タクシーを呼んでもらって、宮城県側の栗駒山登山口である”いわかがみ平”まで行ってもらうことにした。バスは土日にしか走っていないし、レンタカーで行けば、山への往復コースしか取れないし、ということで高い運賃を覚悟でタクシーで行くことにしたのだ。

 しかし楽しみもある、着くまでの1時間余りを運転手と二人でずっと話していたからだ。
 年が近いこともあって、お互いの人生模様が、いくらか垣間見えて、さらには、彼はこの山の周辺で大きな被害を出した宮城内陸地震(2008年)と、東日本大震災(2011年)被害の当事者でもあって、今年、北海道胆振(いぶり)東部地震によって大停電の被害を受け、その前には九州での熊本地震の揺れを経験した私としても、他人事ではなかったのだ。
 そして彼は、着くずっと前の所でメーターを倒してくれた。ありがとう。
 いわかがみ平(1100m)の駐車場には、かなりのクルマが停まっていた。
 明日からは、この下の駐車場からのシャトルバス運行になるし、さらには、この後台風が来ることを知っているからこそ、みんな今が盛りの紅葉を見るために、今日という日にやってきたのだろうが。

 頂上へのコースは、すぐの所で二つに分かれている、一つはメイン・ルートの中央コース、もう一つは東栗駒コースであり、前者は、スニーカーでも登れるほどに登山道が整備されていて、コースタイムも1時間半と短い登りで頂上に着くことができるが、もう一つのコースは、ほぼ小沢の中を行くので道は悪く、時間も2時間かかるが、ただし東栗駒周辺の紅葉が素晴らしいとのことで、私はためらうことなく、後者の道を選んだ。

 それは、確かに道というよりは、粘土状の小さな沢ともいうべき所で(ズボンのすそが汚れるのでスパッツ必携)、始めは、両側にブナやミズナラやシラカバなどの木が生い繁っている、ゆるやかにたどる流れの道だったのだが、先に行くにつれて梢が低くなり、少しずつ展望が開けてきて、振り返って見ると南側の方にはかなりの青空が広がっていた。 
 いいぞいいぞ、と心の中で繰り返す。
 わずか1時間足らずの道で、もう数人の若い人たちに抜かれてしまったが、気にすることはない、初めての山だもの、じっくりと楽しんで登って行けばいいのだからと、年寄りの負け惜しみの言葉を自分に言いきかせる。

 そこで道は少し下り、はっきりとした沢(新湯沢)に出て、見事なナメ滝がゆるやかに流れ落ちている。
 それは日高山脈、エサオマントッタベツ岳(1902m)への登山路となる沢のナメ滝の登りを思わせた。
 沢靴を履いて、ナメ滝の浅い水の流れの中をひとり歩いていく楽しさ・・・もっとも当時は周りにいるだろう、ヒグマの気配が気になってそれどころではなかったが・・・。
 ナメ滝の歩行はほんの100mほどで終わり、張られたロープに導かれて対岸に渡り、その灌木帯を抜けると、四方の展望が一気に開けてきた。
 素晴らしい、紅葉風景だった。
 すぐ隣り合わせにある、中央コースの尾根の東斜面が、今を盛りの紅葉に覆われていたのだ。(冒頭の写真)

 何枚もの写真を撮り終えて、さて眼前に見えている東栗駒山の登りに向かおうとした次の瞬間、左足の靴の下がペタついた音を立てていた。
 見ると、登山靴のゴム底が半分はがれていたのだ。
 今まで、山の雑誌などで、そうした事故例がいくつも起きていることは知っていたのだが、まさか自分の靴で起きるとは思っていなかったから、一瞬うろたえてしまった。

 いつもなら、中型ザックの裏に応急用のガムテープを張り付けたり、緊急用の細いロープを持ってきていたりするのだが、今回は時間も短いしと、ハイキング用のデイパックだけで来ていたから、それらを持ってきてはいなかったのだ。
 ただ、打ち身捻挫用の貼り薬は何枚か持ってきていたから、それで代用しようとしていたところ、ちょうど上の方から下りてくる人がいて、声をかかけてみると、彼は心配して立ち止まってくれて、すぐに自分のストックに巻いていた(いいアイデアだ)ガムテープを差し出してくれた上に、持っていた粘着性の強い医療用のテープ一巻きまでも、これを使ってと差し出してくれた。
 彼は、自分も同じように登山靴のゴム底がはがれたことがあり、以後いつもテープを準備して持って行くことにしているのだと言っていた。
 山スキーが好きで、蔵王も八甲田も好きだという彼は、私になるべく早く下山してくださいと言い残して、足早に下りて行った。
 うかつにも名前を聞くことを忘れてしまい、何のお礼もすることはできなかったが、30代半ばくらいの好青年だった。
 もし、今私に嫁入り前の娘がいたなら、ぜひうちの娘の婿になってくれと言いたくなるような・・・。

 さて、”地獄に仏”の見知らぬ登山者のありがたみを感じながら、テープを巻いて補修した靴で再び歩き始めた。
 低い灌木帯には、サラサドウダンツツジ、コメツツジ、ウラジロコヨウラク、ウラジロハナヒリノキなどの赤色に、ミネカエデの橙色、ミネヤナギの黄色、ハイマツの緑と彩られて続いていた。
 そして、すぐ先に小さな岩頭の東栗駒山(1439m)の頂きが近づいてきた。(写真下)



 その、東栗駒山の山頂では風が吹きつけていて、私は着ていたフリースの上に雨具のジャケットを羽織った。
 そして、そこから先の道は、栗駒山本峰基部までゆるやかに続いていて、まさに紅葉の中の楽しいプロムナードになっていた。
 そして何よりもありがたいことに、行く手には雲の取れてきた栗駒山の頂きが見えていたのだ。(写真下)




 道をゆるやかにたどり小さな沢を渡り(先ほどの新湯沢の源頭部)、最後の栗駒山の登りにかかる。
 ところどころ日が差していて、東栗駒山の斜面が一面、紅葉のモザイク模様になって光を浴びていた。(写真下)
 上空には、ヘリコプター一機が飛んできて、繰り返し東栗駒山の紅葉斜面を撮っているようだった。
 やがて、整備された階段状の道になり、すぐに左手から上がって来た中央コースの整備された道と一緒になり、もう頂上に立つ人々の姿が間近に見え始めて、最後の一登りにかかり、ようやく頂上(1626m)に着いた。

 登山口からのコースタイムで2時間のところを、3時間余りもかかっていたが、道はゆるやかだったし、たいして疲れてはいなかった。
 頂上は三、四十人ほどの人でにぎわっていた。 
 いつもの中高年登山者がいるのは当然のことだが、うれしいことには、半分以上が若い人たちだった。あの石川の白山登山の時も感じたことだが、こうして若い人たちが地元の山に登っているのは何ともうれしいことだ。
 苦しさに耐えて、自分に打ち克ち、さらには自然の大きな懐の中で安らぐことができる場所として、山は偉大なる教師であるとともに、偉大なる母でもあるのだから。”(前々回に書いた地理学者センプルの言葉から)

 ここまでで、すっかり長くなったので、後半は次回に書くことにする.
 ともかく、栗駒山の紅葉は、世評にたがわずに素晴らしいものだった。
 そのさまざまな色が織りなす色合いといい、その途切れなくえんえんと続く広さといい・・・。