ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

冬の詩

2012-11-25 16:33:48 | Weblog
 

 11月25日

 前回書いたように、1週間ほど前に初雪が降り、その後も、うっすら積もるくらいの雪が降ったが、三日前には、今の時期としては少し多めの、20cmもの雪が積もった。
 夜にかけて降り積もった雪は、さらにその日の午前中まで、細かいさざめ雪となって暗い空から舞い落ちていた。(写真上)

 「・・・雪はアイルランド全土にわたっていた。それは暗い中央の平原のあらゆる地域の上に、木のない丘々の上に降り、アレンの沼地にひっそりと降り・・・。
 それは吹き流され、ゆがんだ十字架や墓石の上に、小さな門の尖塔の上に、実を結ばないイバラの上に厚く積もっていた。
 彼の魂は、全宇宙にひそやかに降り続く、そして来たるべき最期が降りくるのに似て、すべての生者と死者の上に、ひそやかに降り続く雪を聞きながら、ゆっくりと意識を失っていった。」 

 (ジェイムズ・ジョイス著 『ダブリン市民』”死者たち”最終章より)

 1週間ほど前に病床にあった私は、半覚醒(かくせい)状態の中で、とりとめもない様々なことを思い浮かべたりを繰り返していた。その中の一つが、映画『ザ・デッド ”ダブリン市民”より』のラスト・シーンにかぶさって流れる、この原作の朗読の言葉だった。
 (手元に映画のDVDもないし、本もないので、その時に聞いた正確な言葉はわからないが、ここでは、公開和訳”プロジェクト杉田玄白”のものをあげておいた。)

 この映画の監督、ジョン・ヒューストン(1906~87)は、アメリカ映画の名匠の一人ではあるが、私にとっては、『マルタの鷹』(’41)『黄金』(’48)『アフリカの女王』(’51)『白鯨』(’56)『許されざる者』(’59)などで見てきたように、過去に活躍した監督であったから、1987年にこの映画が公開された時、それは監督の遺作ともなったのだが、様々な思いがよみがえってきてはぜひともその映画を見たいと思った。
 そして、東京に立ち寄った時に、タイミングよく見ることができたが、それは期待にたがわぬ名作になっていた。はるかなる祖先の地、アイルランドへの思いと、さらには自分もたどるであろう死者たちへと続く道に思いを込めて・・・。

 窓の外に降る雪を眺めながら、私もそうしてひそやかに降り続く雪を見ながら死んでいくのかと、思ったりもした。
 しんしんと降りしきる雪・・・もう寒くもない、もうどこも痛くもない・・・ただ静かな雪の降る音を聞きながら・・・眠たくなっていくだけ・・・。

 そうした、”死の舞踏(ぶとう)”の思いに駆られるままにいつしか眠り、再び目を覚ました時、一転して、雪原の彼方の空は晴れ渡っていた。(写真下)
 これからこの十勝地方は、いつもの西高東低の冬型の気圧配置が続くようになり、冷え込むけれども、晴れた日が多くなるのだ。お天気屋の私にとって、何とおあつらえ向きの季節だろう。
 病もいえて、元気になった私は、すぐに外に出たくなる。まずは表の道まで、50mほどの雪かきだ。今の時期の雪は、少し湿っていて、九州の雪に似ている。その仕事は、わずか30分ほどですんでしまった。
 「いやー、たいへんだったねー。」「なあんもだー。」こうしてひとりごとを言うようになったのも、じじいになった証拠だ。
 
 次の日は、薪(まき)割りだ。軒下に並べて乾燥させていた、一昨年に切り倒した直径20~30cmの胴切りのカラマツ丸太を10個ほど、斧(おの)で割っていく。ストーヴの長さに合わせて、少し長めにチェーンソーで切っているから、斧を上下数回ずつは振り下ろさなければ割れない。
 もちろん、丸太を短くすれば割りやすいのはわかっているのだが、長さがちょうどいいからと変なところに意地を張って、わざわざ苦労して丸太を割りをして薪を作っているのだ。
 しかし寄る年波には勝てず、いつかは短い丸太で割るようになるだろう。さらには、その斧でさえ持ち上げられなくなる日が・・・。
 
 てやんでえー、こちとら伊達(だて)や酔狂(すいきょう)で、何十年もこんな山の中で暮らしてきたんじゃねえ。その時になりゃ、その時までのことよ。ぎりぎりまで仕事をやって、自分の家のこの林の中で、ぶっ倒れてしまえば、あとは野となれ山となれとくらあ。

 と、生来の脳天気な私は、青空見上げてかようにうそぶいては、動き回るのだ。ついこないだまで、えらそうなゴタク並べて、死ぬの生きるのとわめいていたのはどこのどいつだい。はい、私です。

 ともかく、今はただ、この一面の雪景色と青空があればいいのだ。

「 冬だ、冬だ、何処(どこ)もかも冬だ

  見渡すかぎり冬だ

  その中を僕はゆく

  たった一人で・・・ 」(高村光太郎 『冬の詩』より)

 私はさわやかな気分になって、ひたすらに丸太を割り続ける。冬をここで過ごすわけではないから、すでにある3カ月分くらいの他に、とりあえずでいいのだが、何よりこれは、なまった体の良い運動にもなる。
 すっかり汗をかいて、家の中に戻る。ストーヴの熱気で暑いくらいだ。
 下着を着かえて、ゆり椅子に座り、トゥーレックの弾くバッハのパルティータを聞きながら、外の雪景色を眺める。
 これだけで十分じゃないか、とあらためて思うのだ。
 

「 ・・・事を知り、世を知れれば、願わず、わしらず、ただ静かなるを望み、憂(うれ)い無きを楽しみとす。

  ・・・それ三界はただ一つなり。心もし安からずば象馬七珍(ぞうばしっちん)もよしなく、宮殿楼閣(きゅうでんろうかく)も望みなし。今、さびしき住まい、一間(いっけん)の庵(いおり)、みづからこれをあいす。

  ・・・鳥は林をねがう。鳥にあらざればその心を知らず、閑居(かんきょ)の気味もまた同じ、住まずして誰かさとらむ。 」

 (鴨長明 『方丈記』十三段より)

 今朝、昨日の朝と二日続けてー10度まで冷え込んだ。日中もやっとプラスになるくらいの温度で、辺りは雪景色のままだ。
 そんな中、窓辺に寄って夕暮れの空を眺めていた私の目の前を、一匹の小さな蛾がひらひらと飛んで行った。
 もう外の気温は、マイナスになっているというのに。外には暖かい場所もなく、咲いている花などないというのに・・・。

 ”蛾にあらざれば、その心を知らず、冬の寒さの中、ひとり飛ばずして、誰かさとらむ。”

 

 

  

日は昇りまた沈む、落葉松林

2012-11-19 18:57:09 | Weblog
 

 11月19日

 初冬の北アルプスの雪景色を求めて、私は北海道から飛行機で東京に向かい、電車バスと乗り継いで、翌日、中房温泉登山口から2700m稜線の山小屋、燕山荘(えんざんそう)に上がり、次の日に大天井岳(おてんしょうだけ、2922m)を往復して、そこで二日目の朝を迎えようとしていた。

 夜中に何度か目が覚めかけたが、いつもは気になる周りからのイビキなどの音も聞こえず、そのまま再び寝入って、腕時計のアラーム音で目が覚めた。すぐに防寒用のジャケットを着込み耳あて帽子をかぶり、手袋とカメラを持って、静かに部屋を出た。
 今日は天気が下り坂になるのはわかっていたが、問題はこの朝の間だけでももってくれるかどうか、つまり昨日の夕方の雲の状態から、全天が雲に覆われて日の出が見えないことを心配していたのだ。

 5時半過ぎ、外はあまり風もなく、昨日と比べれば暖かい感じだった。こういう時は天気が悪くなる。
 見上げる薄暗い空は、一面の雲に覆われていたが、ありがたいことに、見事に西の空にだけすき間が空いていて、そのあたりが赤くなっていた。これはもしかしたら、素晴らしい朝焼けが期待できるかもしれない。

 展望台兼ヘリポートには、昨日はなかったシートに覆われた小山が二つ。ヘリコプターによる荷下ろし用のものだろう。私はその陰で、風を避けながら時を待った。
 昨日と同じように、浅間山、八ヶ岳、富士山、南アルプスの山々のシルエットが見えている。
 ただし昨日は雲がなかったから、日の出の時に近づくにつれて、西の地平からグラデェーションになって、赤から紫そして闇へと移行する色合いを楽しめたのだが、今日はそのすき間となった西の地平だけが、塗られたような赤に染まっているだけだった。
 しかしどう変わるかは、その後、日が昇り雲に照り映える時だ・・・。

 そしてその時が来た。私は板張りの展望台の上で腹ばいになって、カメラを固定させ、その日の出の時の、鮮やかに照らし出された光景に向かってシャッターを押し続けた。
 それは、少しだけ空いたすき間から太陽が見えているわずかな時間、その短い一刻にだけ、東の空の雲の広がり全体を見事に染め上げてくれたのだ。

 まだ夜明け前の薄明の中に、きらきらと輝く安曇野の街の明かり、そしてシルエットになって浮かび上がる八ヶ岳、富士山、南アルプスの山々、その後ろから絶大なる赤光の輝きをもって、あたりを照らし出す太陽・・・。(写真上)

 日は昇り、また沈む・・・そして繰り返していく・・・。
 他の動物たちが見つめることもない、この朝夕の光景に、私たち人間がこだわり見つめ続けるのはなぜだろうか。

 ヘミングウェイの名作『日はまた昇る』の題名のいわれともなった言葉として。

 旧約聖書、伝道の書、第一章から。

「 空(くう)の空(くう)、空の空、いっさいは空である。

 日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるのか。

 世は去り、世は来る。しかし、地は永遠に変わらない。

 日は出で、日は没し、その出たところに急ぎ行く。

 ・・・。」

 聖書の言葉の中では、むしろ異質とさえ思えるこの虚無的な言葉に、私たちは仏教の空(くう)に近い思いを抱くのだ。
 今までたびたびこのブログの中でも取り上げてきた、『方丈記』や『徒然草』の世界観にも通じるところの、無常観さえも見えてくる。

 しかし思えば、その歩みとどまるところを知らぬ有為転変(ういてんぺん)の世の中にあるからこそ、人は変わらぬ世界にあこがれるのだろうか。
 自分の出自(しゅつじ)の時を思わせるようなるような東の空と、消え行く時の彼岸(ひがん)でもあるかのような西の空の、それぞれが鮮やかに光り輝くときにこそ、人は生きている自分を強く感じることができるからだろうか。

 それは、東の空のすき間がわずかしか空いていなかった分、それだけの短い時間だった。昨日はあれほど長く照り映えていた槍・穂高の山々も、一瞬の後には、雲の上にあがり隠れた太陽とともに、その鮮やかな色合いを失っていた。

 展望台には、ヘリコプターでの荷下ろしの準備をする山小屋の係りの男の人たちの他に、ご来光を見に来た人が数人いただけで、昨日の雑踏と比べれば、これが普通なのだろう。
 そのうち誰かの言葉で、皆が下の斜面にカメラを向けていた。
 ほとんど白い冬羽に変わりつつある、ライチョウが三羽。一羽が親鳥で二羽が幼鳥かとも思ったが、小屋の人たちは三羽ともまだ子供だろうと言っていた。
 こんな過酷な環境の中でも、下の方にまで降りることもなく、雪山にとどまり続けるライチョウ。
 最近とみに問題になってきた、それまでの生活地域を越えて高山地帯まで侵入してきている、サルやシカたちの問題が頭をよぎった。
 その時々の環境に順応して生きるものと、いくら環境が変わろうとも、かたくなに自分の生活地域を変えようとはしないものたち・・・人間の社会にも見られるような・・・。

 さて、その鮮やかな朝焼けの舞台が終わり、ライチョウ・ショーも見終えて、小屋の玄関先に戻ってきたが、そこからは上空の灰色の雲の下に、一際白くはっきりと映える山々の姿が立ち並んでいた。
 実は気にはなっていたのだが、もう一つの朝焼けの舞台になったであろう山々を見逃していたのだ。展望台からは死角になって見えない裏銀座方面の山々である。

 それらは、暗い曇り空を背景に、色あせた朝日の後の白光を浴びて、くっきりと浮き上がるような姿で立ち並んでいた。
 言うならば、あの泉鏡花(いずみきょうか)の『高野聖(こうやひじり)』に出てくるような、謎めいた妖艶(ようえん)な美女がその白いえりあしを見せて、明け方の闇の中に立っているような、ぞくっとするほどの美しさだった。
 山々のその姿がきれいなのは、何も華やかな茜色(あかねいろ)に染め上げられ、上気した顔で嫣然(えんぜん)と微笑みかけている時ばかりではない。こうした闇に近い光の中だからこそ、凄味(すごみ)のある白い肌が引き立って見えるのだ。

 

 写真は左から水晶岳(2986m)と野口五郎岳(2924m)である。
 私はそれらの山の頂を二三度行き来したことがある。裏銀座の縦走コースをたどり、あるいは雲の平から赤牛岳、黒部湖へと向かう山旅の途中で、それぞれの頂に立ち、幸いにもその時には誰もいなくて、私ひとりだけの山頂で幸せなひとときを過ごした思い出がある。
 またいつか、あの眺めに出会うことはあるのだろうか。

 外から帰って来ると、温かい小屋の朝食が待っていた。昨日の夕食も、冷えた体にはありがたい鍋料理がついていたし、こうして各小屋の食事が昔と比べれば見違えるほどに良くなったことで、またそこが多少高くとも小屋泊まりをしたくなる理由の一つにもなるのだ。

 この三日間、予想以上の山々の眺めの眼福(がんぷく)を得て、食べることにも満足して、天気さえもこうしてもってくれて、後はただ山を下りるだけだった。
 私は小屋を出て、さらに立ち去り難い気持ちで、展望台でひとときを過ごした。
 それは、明け方、あれほど全天を覆い尽くしていた雲がすべて東の方へ動いて行き、西の空にはかなりの青空が広がってきていたからである。
 そしてそんな晴れ間から差し込む光を受けて、再び輝き始めた山々の姿・・・常念、大天井、穂高、槍・・・。
 それは、名残(なごり)の別れを告げるには十分な時間だった。8時半、私は意を決して山道を下りて行った。

 一昨日と比べれば、確かに幾らか雪は溶けていたが、道は凍りついていて、先に降りた人たちのアイゼン跡が残っていた。しかし、大した雪ではないし、まして危険な稜線の道でもない。そんな中で昨日からしっくりと来ないアイゼンをつけるのは気がすすまなかった。
 凍りついた雪道は、結局かなり下の第2ベンチ付近まで続いていた。しかし、私は半ば意地になって、その滑りやすい凍った道を、アイゼンなしのまま下って行った。
 道の中央部は人の通った後が溶けて凍ってはいるが、道の両端には最初に降った時のまま、雪がサクッとした感じで残っていて、そこに足を置けばいいのだ。
 それでも、何度も滑りそうになったが、そんなときにはやはり片手ストックと、片手は空けて枝や岩につかまれるようにしておいたので、結局一度も滑り転ぶことなく下りてくることができた。
 とはいえ、やはりアイゼンをつけて下るべき道であり、とても他の人に勧められる方法ではない。

 さてそんな中、天気が下り坂に向かうというのに、まだこれから登ってくる人たちが数パーティもいて、10人余りもの人と出会った。
 彼らも、何も好き好んで天気が悪くなる日を選んだわけではなく、取れる休みの関係でやむを得なかったのだろう。彼らのためにも、まだ山々が見えているこの天気が、せめて今日いっぱいもってくれればと思うばかりだった。

 まだ東の方には青空も残っていて、そこからの明るい日差しが黄金色の落葉松(からまつ)林を照らし出し、その後ろには木々に覆われて雪の見えない有明山が高くそびえ立っていた。(写真)

 

 
 第1ベンチを過ぎて、もうあとはわずかばかりの下りだった。道の雪もなくなり、ようやく足元の不安が解消されて、後は落葉松の明るい色に包まれて、下から聞こえてくる谷川の流れの音を聞きながら、穏やかな気持ちで歩いて行った。

「からまつの林を過ぎて、

 からまつをしみじみと見き。

 からまつはさびしかりけり。

 たびゆくはさびしかりけり。

 からまつの林を出でて、

 からまつの林に入りぬ。

 からまつの林に入りて、

 まだ細く道は続けり。

 ・・・。」(北原白秋)


 家のカラマツ林はどうしているのだろうか。

 登山口にたどり着いたのは、11時半前だった。ここでは何とか、コースタイム通りに下りてくることができた。アイゼンなしでゆっくりと、景色を眺めながら各ベンチごとに休んで下りてきた私にとっては、もう早すぎるほどの時間だった。
 昔は中房温泉本館で風呂に入れたが、今では登山口傍の新しい別棟露天風呂になっていた。
 その休憩室には、あの昨日からのテント装備の彼が笑顔で座っていた。7時半に小屋を出て、わずか2時間余りで降りてきて、ゆっくり温泉に入り、もう長い間ここにいるということだった。

 二人で12時のマイクロ・バスに乗った。他に観光客らしい中年ご婦人が3人。
 そこで、さらなる見せ場が待っていた。この中房川の渓谷を下りて行く途中からの光景である。行くときには気がつかなかった、山の斜面と谷あいを彩る、赤や黄色の紅葉の木々の眺めの素晴らしさ。それだけでも、今年の紅葉見物としては十分なものだった。

 電車を待っていた穂高の駅のプラットホームから、すっかり曇り空になった空の下に、燕岳方面の稜線がかろうじて見えていた。
 松本に向かう電車の窓からは、あの常念岳が、はじめは二つに分かれた姿で、最後には一つのすっきりとしたピラミダルな形になって、雲に隠れ始めていた他の山々からは離れて、ただひとりそびえ立っていた。
 深田久弥氏の『日本百名山』の中の一節、小学校の校長が窓の外を指さして、いつも言っていたという言葉が思い浮かんでくる。
 「常念を見よ!」

 その山の姿が、今回の私の幸せな山旅の終わりだった。


 ただし、何事にも必ず、いいことと悪いことが相半ばしてついて回るものだ。良き思い出になったその山旅の代わりに、私は数日前に寝込んでしまい、病の床に伏せていたのだ。
 朝起きた時から食欲が全くなく、腹がふくらみ、吐き気がして、倦怠感、頭痛、腰痛で立ち上がることも、まして寝ていても苦しくつらく、布団の上であぐら座りをしたり、横になったりうつ伏せになったり、それでもつらくてうとうとしては目が覚め、よく眠れないままに一日を過ごし、その後、何ということか、あの『エクソシスト』のリンダ・ブレアみたいに、小さなポリバケツ3分の一ほどもの嘔吐物(おうとぶつ)が出て、やっと幾らか楽になり、痛み止めや風邪薬を飲んで次第に回復し、ようやく四日目の昨日にしていつも通りの毎日に戻れたのだ。

 思えば、ひとり布団の中でうなされ苦しんでいる時ほど、惨めな気持ちになる時はない。
 近くの友達の家に電話をしようか救急車を呼ぼうか、病院に行けばお金の工面もしなければ、もしこのまま死んだら、人様には迷惑なガラクタだらけで溢れた家はどうするのか、母の墓へは、ミャオの墓へは、とりとめもなくさまざまな気がかりが浮かび上がってくる。
 人は誰でも日頃から、縁起でもない死出への支度など考えはしないものだ。だがこうして、その場に近づくと、慌てふためいてしまうのだ。これを忘れていた、あれはこうしておくべきだったなどと。

 しかし、さらに病状がひどくなってくると、もうろうとした頭の中でもうそんなことはどうでもよくなってくる。ただ目の前のこの苦しみからどうして抜け出すか、ということだけが頭の中を駆けめぐるのだ。
 死ぬことへの恐れというよりは、死に至るまでこの痛みが続くかもしれないということへの不安、それは耐え難いことなのだ。
 亡くなる間際まで看取った母の姿、そしてミャオの姿が目に浮かぶ。
 ただ、二人ともじたばたと慌てふためくこともなく、自分の生を全うして、立派に覚悟を決めて彼岸の地へと旅立っていったのだ。

 昨日、午後になって、急に風が強くなり、そして一瞬にして北風に乗って雪が降り始め、わずかな時間の間に辺りは白くなってしまった。今年の初雪だった。
 (この十勝地方では、いつもの頃の初雪なのだか、全道的に気温が高めな日が続いていたから、道内各地での初雪が遅れて、特に、同じ昨日が初雪だった旭川では、平年より一月近く遅く去年よりは46日も遅い、記録破りの初雪になったとのことだ。)

 私は、その降りしきる雪を、部屋の中から見ていた。
 カラマツの葉が散り敷いた黄色い庭に、白い雪が積もっていく・・・。
 久しぶりに見る、降りしきる雪。
 そこを、”庭かけめぐり”たいような思いが溢れ来る一方で、もうしばらくすると、”コタツで丸くなる”ミャオもいない家に帰らなければならないという、寂しさと・・・。

 確かなことは、雪が降るのが早くなろうが、遅くなろうが、もう冬になるということだ。

 
 

 
 
 
 

大天井岳と雪のトラヴァース道

2012-11-12 19:00:49 | Weblog
 

 11月12日

  3時過ぎ、星空を撮りに行くと言っていた隣の若い男が起き上がり、外に出て行った。真夜中には風の音が強かったが、それも収まってきているようだった。夜明けまでには、まだ時間はある。
 一昨日北海道を出て、昨日この燕山荘(えんざんそう)の山小屋まで登ってきた私にとって、今日はこの山旅で一番大切な日だった。今日一日晴れてくれるなら、前後の日は小屋までの登り下りだけだから、天気が悪くても構わないとさえ思っていたのだ。
 それが昨日から晴れていて、そして今日もおそらくは晴れるだろう・・・私は寝返りを打って、体を縮めた。もう2時間ほど寝ていることができる。

 私の山登りは、いつも出かける決心をするまでが大変なのだ。行きたい山は決めているから、それで迷うことはないのだが、問題はいつ行くかなのだ。
 こうして年を取ってくると、無駄な山登りはしたくないのだ。天気が悪かったり、登山者で大混雑したりとかいう山には登りたくないのだ。
 若いうちには悪天候の登山もまた、もしもの時に備えての良い経験になるのだろうが、老い先短い、じじいになりつつあり私にとっては、いったいこれからどれほどあるかも分からない将来のためになど、そのための経験になどなるのだろうか。
 ただヒマだけは十分にある私は、晴れた日に行けばいいだけのことだ。

 年を取れば山は逃げていく。そこをごうつくばりじじいの根性で、いかに姑息(こそく)な手段を使い、なるべく楽に安全に山に登る手立てを考えるかなのだ。
 そうして山登りを楽しみ、いざお迎えが来た日には、これらの山の思い出を胸いっぱいにため込んで、満ち足りた思いで、地獄にでも下りて行っても構わない。

 ・・・ここは生前、この世で悪行を重ねてきた罪ある人々が引き回され登らされる地獄の山・・・、その前で私は閻魔大王(えんまだいおう)に申し述べるだろう。

 「私は、娑婆(しゃば)におりましたころから、数多くの登山の経験がありますゆえ、山登りは得手(えて)でありまして、むしろ、これは大王様の私への粋なるご配慮かと、感謝いたしております。」

 その地獄をも恐れぬ私の答えに、閻魔大王は思わず、カンラカラカラと大笑い。そして笑いを止めて、私の顔をじろりとにらみ、怒鳴りつけたのだ。

 「たわけ、ここをどこだと思っておる。地獄の中でも有名な針の山だぞ。おまえは生前、多くの女たちをゆえなく泣かせてきたな。その女たちの恨みによってここに送られてきたのだ。
 娑婆での、物見遊山(ものみゆさん)の経験がなんの役に立つと思っているのだ。ならば、これから続く針の山の難行苦行(なんぎょうくぎょう)をとくと味わってみるがよい。
 おまえが立っていても歩いていても座っていても、そこは針だらけという恐ろしい山なのだ。このたわけめが。」

 いやな夢を見ながら、時計のアラーム音で私は目が覚めた。
 今日は、針の山ならぬ雪で凍てついた山稜を歩いて行かなければならないのに、縁起(えんぎ)でもない。

 さてとりあえずご来光を迎えるために、冬山手袋に耳あて帽子、冬山用ジャケットの防寒スタイルで、外に出た。
 日の出前のまだ暗い空の中に、西の空の一線だけが、すでに赤く彩(いろど)られていた。小屋裏のヘリポート兼展望台にはもう三人ほどの人影があった。風は吹いていたが、次第に収まってきていた。

 そこから見ると、浅間山から八ヶ岳、富士山、南アルプスの山々が、日の出前の見事な茜色(あかねいろ)の空にシルエットとなって並んでいた。
 いつしか展望台の上は人々でいっぱいになっていた。そして浅間山と八ヶ岳の間から、朝日が昇ってくる。その輝かしきご来光に向かって、人々の声が上がる。

 三脚にカメラを構えていた人たちは、反対側のこの北アルプスの山々にカメラを向けていた。
 朝の赤い光が、今まで未明の薄暗い中に沈んでいた山々を鮮やかに映し出していく。一番高い穂高連峰や槍ヶ岳の頂きの辺りから次第に下へと降りていく。
 そして、これら名だたる山々の姿があまねくこのモルゲンロート(朝の赤い色、ドイツ語)に染められるころ・・・。

 なんという至福のひとときだろう。周りに人々がいることも忘れて、輝く山々を眺めていた。この時のために、私は山に登るのだ。
 何回もカメラのシャッターを押し続けて撮った写真、それぞれにそれほどの差はないし、ただ写しただけの写真だが、その一枚を上にあげてみた。
 (写真上 今日たどる大天井岳へと続く尾根の上に、右から槍ヶ岳、大喰岳、中岳、南岳と並んでいる。)

 厳冬期の冬山になる前のこの時期、いわゆる初冬期の雪山の姿を求めて、私はこのところ、内地遠征の山旅を繰り返している。そして、幸いにもそのほとんどで、朝夕の赤光に染まる素晴らしい山々の姿を見ることができたのだ。
 たとえば、天狗池経由南岳~槍ヶ岳、八方尾根から唐松岳、常念岳~蝶ヶ岳、立山連峰~剣御前など今でも目の前に浮かんでくる。
 もちろん、その他にも、地元の北海道の日高や大雪の山々、さらにもっと若いころから登っていた北・南・中央の日本アルプスや八ヶ岳の山々などの、その時その時に違う赤く染まった姿をいくらかは憶えてはいるけれど、しかし人間の記憶は、どうしても歳月とともに薄れていくものなのだ。
 記憶は新しいものほど、まだ鮮やかに残っている。

 ある登山家が、一番好きな山はと問われて、いつもこの前に登ってきたばかりの山だと答えたというが、その気持ちが正直なところだろう。
 事実、今回のこの登山も、山から下に降りてきた時は、山々のそれぞれの姿だけでなく、生々しい風の冷たさや雪の感触までもまだ憶えていたのだが、日がたつにつれわずかずつその記憶は薄らいでいってしまうのだ。
 それでもこうして写真を見ることによって、あの時の光景が再びいくらかはよみがえっては来るのだが、いずれにしても、時が私たちの記憶を追い越していくことだけは確かだ。
 だから私は、繰り返し、好きな山のベストな時の姿を求めて登りたくなるのだ。

 しかし一般的には、百名山を追い求めるとか、一つの山に登り続けるという登山の在り方もあるわけだし、人それぞれの思いによる登り方があってしかるべきなのだ。

 前にも書いたように、確かに深田久弥氏による『日本百名山』は、日本山岳書の中での名著の一つであり、彼の山を愛する深い思いから、いにしえの文献をひも解き調べ上げた上での、百名山の選定であって、大体において昔からの人々と山との結びつきに重きが置かれている。
 それはそれで十分に敬意を払うべきものだとは思うけれども、ただ私の場合には、自然が作り上げた山の姿形に最大の視点を置いての評価だから、それが百名山に選定されている山でも、例えばあまりにも標高が低かったり、山頂に人工物が乱立するような山は名山とは思えないし、あえて登りたいとも思わないのだ。

 それよりも、これまでに私が登った山でさえ、それぞれの季節ごとの衣をまとった姿を見てみたいと思うし、さらにはまだ登りたい山も日本中に幾つも残っているるのだ。
 さらに言えば、私が最も素晴らしい山の姿だと思うのは、もちろん雪に覆われている時の姿である。

 さて私は、こうして雪の山々の朝日に照ら出された姿を十分に堪能(たんのう)してから小屋に戻り、今朝も多くの登山者たちと一緒に朝食をすませた。
 そして、大天井岳(おてんしょうだけ、2922m)に向かってひとり出発することにした。
 カメラと温かいお茶と昼食とそれだけをデイパックに入れて行けば楽だとも思ったが、天気がいいとはいえ雪道だ、いざという時のためには、いろいろと緊急対応できるものを入れたザックを持って行くべきだと考えて、昨日から余り軽くはなっていないザックをそのまま背にして小屋を出た。

 ゆるやかに下っていく縦走路の雪道の上には、先行者たちのトレース(踏み跡)がついていて、靴跡やアイゼンの跡が残っていた。はっきりと道がわかる夏山に比べて、雪で道が隠されてしまう積雪期には、こうしたトレースがついていることはありがたいことなのだ。

 もっとも、今までよく登ってきた北海道の日高山脈の山々での、積雪期の登山では、もともと夏道もついていない所を登ることが多く、その場合は2万5千の地図をよく見て、雪崩(なだれ)の起きにくい尾根通しに雪庇(せっぴ)に気をつけながら、まっさらの深い雪をかき分けラッセルをして、あるいは春先の固雪(かたゆき)の頃はツボ足で、時には山スキーで登っていくしかないのだ。(’09.5.17~21、’10.4.28の項参照)
 しかしよく登られている内地の山では、誰かしらの歩いた跡があって、そうした苦労が軽減させられることが多いのは確かである。
 もっとも、足跡もない純白の処女雪の上をひとり歩いて行くという、爽快感はなくなるのだが。

 それにしてもなんという展望だろう。そよ吹く風の快晴の空の下に、ぐるりと白銀の峰々が並び立っている。
 小屋からは見えなかった、後立山(うしろたてやま)連峰の針ノ木岳(2821m)の姿が、立山(3015m)・剣(2999m)と燕岳(つばくろだけ、2763m)の間に見えてきた。

 道は比較的ゆるやかに尾根の右斜面に水平道として作られてはいるが、所々雪が多かったり滑りやすい所があったりで、30分ほど歩いた蛙岩(げえろいわ)の辺りで、先行者たちにならってアイゼンをつけることにした。
 しかしその後、何度もアイゼンが外れて、付け直さざるを得なかった。そのためにずいぶんと余分な時間をくってしまったのだ。
 問題は靴とアイゼンの相性が悪いのだ。この靴との組み合わせで前にも苦労したことがあるのに、それを分かったうえで持ってきた私が悪いのだ。

 この靴は、もう十数年前に有名登山用品店の通販バーゲンで買ったものだが、防水、断熱に優れた重トレッキング用のものらしく、靴底が分厚く幅広で、安定感があり、こうした初冬の山用に愛用しているのだが、いかんせんあまりアイゼン装着については考えていないらしくて、何とかフリースタイルのアイゼンをつけることができるのだが、ぴったりとは合わずに歩いているとどうしてもゆるみができてきて、さらには外れてしまうのだ。
 厳冬期や残雪期には、プラスティック・ブーツにワンタッチ・アイゼンの組み合わせで、全く問題なくやってきたのだが、やはりこの初冬期に合わせて新しい靴を買う必要があるだろう。(ちなみに私は厳冬期・残雪期用に2足、この初冬期用の1足、夏山用の3足という態勢である。)

 そうした足元のわずらわしさとは別に、上に着ているものはむしろ暑く感じるほどで、長袖下着に厚手の長袖シャツで十分であり、手袋さえも脱ぐほどだった。
 天気は全く申し分なく、何といっても周りを山々に囲まれて誰もいない山稜をひとり歩いて行くのは、気持ちが良かった。
 そのゆるやかな尾根道は、標高差100m余りの大下りの頭にさしかかり、前方の展望が開けて、山稜の先に目指す大天井岳(おてんしょうだけ、2922m)が立ちはだかっていた。(写真)

 

 
 その南面の大下りでは、雪がなく砂利が露出していたが、コル(鞍部)まで下った東面には吹き溜まりの雪が続いていた。
 登り返すと、再びゆるやかな水平道になり、アイゼンを直していると向こうから若者が一人さらにしばらくして二人がやってきた。話を聞くと、朝早くテント場を出て大天井岳まで行って戻るところで、今日中に下に降りると言っていた。
 そうなのだ、若者たちにとってはこの初冬の大天井岳へのコースは、一泊二日で十分なのだ。それにひきかえ、このぐうたらおじさんは、山小屋二泊でぬくぬくと過ごし、半日コースに丸一日をかけてのよたよた歩きなのだ。
 とはいえ、年相応に自分で楽しんでいればそれでいいじゃないかと、自らを慰めるのだ。何と言ってもこの天気と山々の姿だ・・・。

 その大天井岳が、もう大きな山塊となって眼前に立ちはだかるように近づいてきた。切通し岩のキレットになった鎖場(くさりば)を越えると、いよいよ北側の尾根に取りついてのジグザグの登りになる。改めてアイゼンを締めなおした。
 先ほど会った彼らのアイゼン跡がついている斜面を登って行く。クラストした斜面にアイゼンの爪が気持ちよく効いている。ピッケルも持ってきてはいたが、雪面が凍りついているわけではなく、まだストックで十分だった。

 急な岩礫(がんれき)の尾根をあえぎながらジグザグに登り続け、少し右に巻いて上がると頂上だった。12時少し前で、何と4時間以上もかかっていた。
 頂上には、テント装備の大きなザックの男が一人いた。彼は常念のテント場からやって来て、これからもう閉まっている下の大天荘(だいてんそう)の小屋に戻り、トラヴァースのまき道を経て下るとのことだった。
 私も下りはその道を取るつもりだったが、途中から見る限りわずか一人のものらしいトレースの足跡がついているだけだった。彼はすぐに下りて行った。

 それから40分近く、頂上には私ひとりだけだった。さすがに山の頂きだから、少し風はあったが、寒くはなかった。それよりも、このぐるりと見回す周囲の山々の大展望はどうだろう。それらはすべて、今までに私が登った山々ばかりだった。
 まずはこの山なみの南に常念岳(2857m)があり、眼下のニノ股谷はそのまま南下して梓川(あずさがわ)となり上高地へと回り込んでいて、その川の流れから立ち上がった穂高連峰が前穂(3090m)・奥穂(3190m)・北穂(3106m)と連なり、そして手前に槍ヶ岳(3180m)が北鎌尾根から天上沢への切れ込みを見せてそびえ立っている。(写真)

 

 その右手遠くには、加賀の白山(2702m)が見え、その手前に笠ヶ岳(2898m)、そして裏銀座の山々、双六岳(すごろくだけ、2860m)、三俣蓮華岳(みつまたれんげだけ、2841m)、鷲羽岳(わしばだけ、2924m)、水晶岳(2986m)、野口五郎岳(2924m)さらに立山・剣に針ノ木、鹿島槍、白馬と続き、その下に鮮やかな色の黒部湖が見える。(写真下)
 さらに富士山、南アルプス、八ヶ岳、浅間山、妙高・火打などの山々・・・。

 ちょうどお昼頃の光線だから、山々は平面的に見えて、写真としては陰影に乏しい感じになってしまうが、私は写真よりも何より、今の初冬の時期に北アルプスの山々に囲まれて、ただひとりでいることの、何物にも代えがたい満足感に浸っていた。
 
 ただ一面に広がる空、純白の雪に覆われた山々、それらの中に包まれて、私は今ここに生きているのだ・・・。
 その自然を畏怖(いふ)する思いが、いつしか神なるものの存在へと近づいていくような・・・。

 私は去りがたい気持ちで、頂上を後にした。
 雪がまだらに残るなだらかな尾根道を下って行くと、すぐに冬季閉鎖の山小屋大天荘に着く。
 そこは十字路になっていて、そのまま先へ行けば常念岳へと向かい、右にトラヴァース気味に下れば、喜作新道の続きである西岳から槍ヶ岳に向かう道となり、左にトラヴァースして山腹をまけば、先ほどの切通し岩上の尾根分岐へと戻ることができる。
 夏の時期に、その道は二度ほど通ったことがある。

 しかし、その入り口がわからない。先を行くはずの彼の足跡がついていないのだ。
 しばらく行ったり来たりしたが、心を決めて、ロープが張られて立ち入り禁止ふうになったところから、下りて行くことにした。傍には大きなケルンが二つあり、最後に通ったのはもう十年以上前になるが、確かそのケルンのそばを通ったはずだ。
 今ロープが張られているのは、おそらく冬季には雪崩(なだれ)の危険があるからだろう。
 しかし今、雪は深いところで1m位で、その上に乾いた新雪が降り積もっているというわけでもない。雪崩の心配はまずないだろうと覚悟を決めて、その東斜面の山腹を下りて行くことにした。

 始めのうちには、ずいぶん前のものらしい足跡がついていたが、すぐに吹き溜まりの斜面に消されてしまっていた。
 しっかりと雪山用のストックを雪面に差し込み、アイゼンを下まで踏み込んで効かせて、慎重に斜め下へと降りて行く。
 左上の雪の斜面をちらりと見て、なるべく急いでその雪に埋まった小さいルンゼを渡らなければならない。それが三カ所あり、やっとそこを抜けて、岩礫(がんれき)が見えている斜面に出た時は、ほっとした気持ちだった。

 短い距離だったけれど、それだけで太ももにきて、例のごとく足がつってしまった。それをなだめなだめゆっくりと降りて行く。 
 切通し岩上の尾根道分岐付近にも、彼の足跡はなかった。どこに行ったのだろう。
 ただ万一、道迷いや滑落したとしてもこの山の周りにはそう危険な所はないはずだし、ましてテント装備の彼のことだから、どこにでもビヴァーグ(緊急露営)できるはずだし、それほど心配することはないと思った。

 ただ自分のことだが、先ほどのトラヴァース斜面ですっかり体力を使い疲れた上に、それから時々足がつるようになってしまっていた。
 しかし幸いなことに、雲は増えてきていたが相変わらず穏やかな晴れの空が広がっていた。私は30分に一度は休み、腰を下ろしてゆっくりと周りの景色を眺めた後、再び立ち上がり、見た目には疲れてのろのろと歩いて行った。

 そして、もう夕暮れの空に変わる頃、4時半近くになって、私は小屋にたどり着いた。
 行く先を告げておいた小屋の人から、ずいぶん時間がかかりましたねと言われた。さもありなん。コースタイムで大体6時間、休みを入れて雪道を考えても7時間位の所を、何と8時間半もかかっていたのだ。
 それには途中での何度ものアイゼン付け直しに時間がかかったことと、大天荘分岐付近で行ったり来たり道を探し、雪のトラヴァース道を慎重に下ったことなどによるのだろうが。
 もっとも私としては、かかった時間の割には疲労困憊(ひろうこんぱい)とまでに疲れてはいなかったのだが。

 荷物を部屋に置いて、すぐにまた外に出て、夕映えの山の写真を撮ろうと思ったけれど、もう西から広がってきた高い雲がすっかり広がってきていて、日没の5時前後に赤く染まることはなかった。
 そして休日の昨日の混雑と比べれば、わずか12名だけというがらがらに空いた小屋の、二人区画の所をひとりで占領できて寝転がり、今日のデジカメ写真を見ては、ひとり思い返しニヒニヒとしていたところ、階段の方で音がして、大きなザックを抱えた一人の男がやってきた。
 時計を見ると5時半過ぎで、今頃着くなんてと思い顔を見ると、なんと大天井岳頂上で出会った彼だったのだ。
 遅くなってテントはあきらめ、小屋泊まりにしたということだった。

 彼の話を聞いて、どこに消えたのかという私が抱いていた疑問が解けたのだ。
 彼はあの後、私が無理して行ったロープが張られている所で引き返し、ひどく遠回りになるが地図に載っているもう一つの道へと、西岳方面への道へと下り、ぐるりと反転して、1mもの斜面の雪の道を苦労してラッセルしながら、尾根道分岐から切通し岩へと抜ける道に出たのだ。

 それは地図を見ればすぐに分かることだが、文章で書けば、つまり正三角錐(せいさんかくすい)を思い浮かべればいい。もちろん頂点が大天井岳の頂上である。
 その頂点から北側に引いて下りた線が私が登ってきた尾根道である。そして南東側に引いて下りた線が大天荘の分岐であり、私はその底辺の北西に向かう道を取って、尾根道分岐に戻ってきた。
 しかし彼は、大天荘分岐から、西へ向かう底辺をたどり、今度は120度反転して北東に向かい尾根道分岐に出たのだ。正三角形の二辺が他の一辺の二倍あることは言うまでもない。

 ここに、テレビ・ドラマのような山でのミステリーが解決して、私たちはお互いに納得し合ったのだ。
 つまり二人とも、地図には載っていないが冬道ルートである、頂上への直接の尾根道を素直に戻り、あるいはたどればよかったのだ。
 もちろんもっと雪が深くなる厳冬期なら、むしろ迷わず尾根ルートを行ったのだろうが、実は私があのトラヴァース道をたどったのは、何か雪の斜面にいい写真の被写体があるかもしれないと思っていたからであり、しかし実際は、慎重に下ることだけに気を取られて、カメラを構える余裕もなかったのだ。

 今日の稜線歩きは、穏やかな天気のもとだったからよかったものの、アイゼン不具合とともに反省するべきところの多い一日だった。
 古い話だけれども、反省ザルのポーズを取り、頭を下げる他はない。

 それにしても今の時期に、一日いい雪山歩きができたことに感謝したい。ありがとう、母さん、ミャオ。
 もう明日は、天気が崩れようとも問題ではない。ただ中房温泉に下るだけの、短い行程だけだからだ。

 いつも山小屋では眠れないのだが、今日は隣に誰もいないし、私は疲れもあってか、早々に眠りについた。もう羊も、ふたこぶラクダも出てこなかった・・・ただ今日見た、白い山々の姿だけが・・・。

(さらに、次回へと続く。お楽しみは、長く伸ばして思い返したいのだ。)

  
 


 

 

落ち葉と新雪の北アルプス

2012-11-08 19:00:53 | Weblog
 

 11月8日

 五日ぶりに家に帰ってきた、一昨日も雨が降っていたが、さらに昨日は一日中、強い雨と風が吹き荒れていた。いつもの季節なら、道北方面での大雪になるところだが、今年はずっと気温が高めで経緯していて、季節はずれの大雨になったのだ。
 やっと雨が止んだ今朝、外に出てみると、至る所に水たまりができていて、庭の周りは、紅葉の落ち葉で埋めつくされていた。(写真)
 モミジの赤、カエデの黄色、さらには今が盛りのカラマツの黄金色の葉もかなり散り落ちていた。毎年楽しみにしている、わが家の周りの林の紅葉も、今年は十分には見ることができなかったのだ。(’11.10.30、’09.10.24の項参照)

 毎年変わらぬ、季節の錦綾(にしきあや)なす光景を、今年に限って見逃したのは残念ではあるが、しかし私はその代わりに、青空のもとに白く競い立つ、新雪の北アルプスの山々を見ることができたのだ。
 限られた時の中で、二つとも首尾よく同時に手に入れることなどむずかしいものだ。まして、二兎(にと)を追っていて、そのどちらとも得られないことの方が多いものなのだから、一つだけでも、それも飛び切りに美しい山の光景に出会えたたことに、私はただただ、感謝するばかりである。

 それは、三日間もの晴れの日が続いた、素晴らしい初冬の山旅だった。
 しかし、すべてが偶然に訪れたものではなかった。しばらく前から、私はいつものように、新雪の山々を眺めに行くべき日をうかがっていたのだ。
 10月24日、ネットのライブカメラで見ると槍ヶ岳が新雪に輝いていて、さらに白馬連峰も雪に覆われていた。そして次の日も天気が続いて、山の姿が映し出されていた。残念にも、それを予測できずに出かけなかった自分が情けなく思えた。
 ああこうして、何事にも慎重になっていき、多少のことでは重たい腰を上げなくなるから、年を取っていくのだ。

 しかし、その後も毎日ライブカメラや天気予報を見続けていたのだが、数日後の予報なのにもう天気予報の確率がAランクの晴れになっていて、それが3日間も続いていた。確率がAランクというのはよぽどの自信がないと出せない数値だ。
 もう行くしかない。ただ問題は、それが土曜日曜と重なっていることだ。

 つまり、山好きな日本の勤労者諸君にとっては、日ごろの刻苦勉励(こっくべんれい)の当然なるごほうびとしての、休日の好天なのであり、喜ぶべきところなのだろうが、一方、もはや隠居(いんきょ)の身であり、金はないが時間が自由に使えて、それだけにわがまま偏屈(へんくつ)なじじいである私の思いとしては、舌打ちせざるを得ない休日と天気のめぐり合わせだったのだ。
 それは、日ごろから土日の登山の混雑を避けて、静かな山歩きを楽しむ私にとっては、まさに悩ましい選択だった。
 しかし、様々な事情から行くことができる期間はもうあまりないし、ともかく天気が一番だと心を決めた。
 目的は、新雪の北アルプスの山々を眺めるために、燕岳(つばくろだけ、2763m)から大天井岳(おてんしょうだけ、2922m)まで行くことであった。

 すべての準備を整えて家を後にして、飛行機に乗り、電車、高速バスと乗り継いで松本に着き、そこで一晩泊まった。夕暮れの空に、雲に囲まれながらも常念岳の姿が見えていた。
 低気圧が去り、高気圧が張り出してきていたが、等圧線が密なままで、寒気が入り込みまだ風が強いのだ。しかし明日からの天気は回復して、明後日には高気圧が日本の中央部にやってくることだろう。私は、何の心配もなく眠りについた。

 翌日、早い電車で穂高駅に向かった。車窓からはまだ薄暗い中、朝霧の下に霜で凍りついた田畑が薄明るく見えていた。
 中房(なかふさ)温泉行のマイクロバスに乗ったのは、5人だけだった。連休だというのにこんなものなのかと、混雑の心配は杞憂(きゆう)に終わったのだと喜んでいた。
 そして途中の山間の道からは、期待通りに、青空の下に真っ白な山なみが見えていた。気分は高まってくる。

 しかし、終点近くの駐車場にはかなりの数のクルマが停まっていて、降り立った登山口(1450m)は三十人近い登山者でにぎわっていた。
 今では、多くの登山者がマイカーで来るようになったのだ。それは、私たちが北海道の山に登る時に、ほとんどが自分のクルマで行くのと同じことだ。
 道が良くなり、一家に一二台の車がある時代だからの、当然のことである。
 
 その昔、若い私が東京にいた頃、みんなが新宿発23:55の鈍行に乗り込んで北アルプスに向かっていた。あの頃と比べて、すっかり時代は変わったのだ。座席の下のあり得ない3等寝台と呼ばれた場所が、どれほどありがたい特等席のベッドになってくれたことか。
 年寄りはこうした昔話を自慢げにして、若者たちから嫌われるのだ。あーあ、”もの言えば唇寒し秋の風”だ。

 さて、7時半過ぎ、急なジグザグ道を登り始める。すぐにうっすらとササに雪が積もったカラマツ林の斜面になった。カラマツの葉はここでは、私の家の林と変わらないくらいに黄葉していて、青空に映えてきれいだった。
 前後には、にぎやかなグループや二三人のパーティーなどがいて、追い抜かれたり、追い抜いたりを繰り返す。
 途中には、30分間隔ぐらいに、丸太ベンチが置かれた休息ポイントがあって、皆が休んでいた。もう道通しに雪が積もっていて、昼間に溶けた雪が凍って滑りやすくなっていたから、第2ベンチでは、多くの人が靴に6本爪などの簡易アイゼンをつけていた。
 私は、冬用の10本爪を持ってきていたが、つける手間も面倒だしと、結局、そのまま最後まで登って行くことにした。

 いったんゆるやかな尾根道になったが、再び急な斜面の日陰の滑りやすい雪道になる。下りは大変だが、登りは危険な尾根道やガレ場ではない限り、この燕岳の合戦尾根(かっせんおね)のように比較的安全な道では、注意して登って行けばいいのだし、まだ土や岩の所もあるからやはりアイゼンなしの靴のままの方が楽なのだ。
 ともかく他の登山者に抜かれることの方が多かったが、まだ明日のこともあるからとゆっくりと歩きながら合戦小屋(かっせんごや)に着いた。ベンチには、先を登っていた男の人と、後から速足で登ってきた若い娘がいた。
 彼女は、明日は仕事があるから日帰りとのことだったが、さすがに若いからだろうが、北アルプスの初冬の山でも、この燕岳などはアプローチが良く、十分に日帰りができる山なのだ。

 今までも、木々の間から、真っ白になった大天井岳が見えていたが、少しずつそれが木々の上に見えるようになって見晴らしが開けてきた。
 右手には森林に覆われて雪の稜線が少しだけ続く餓鬼岳(がきだけ、2647m)と唐沢岳(からさわだけ、2642m)も見えてきて、振り返れば登山口傍から反対側にある有明山(2268m)がずっと下になっていた。
 30cmほど積もったゆるやかな雪道の先には、目指す燕山荘(えんざんそう)の山小屋が小さく見えてきて、そこから燕岳、北燕岳へとそれぞれのピークが連なっていた。(写真)

 

 そして小さな急斜面を登りきると、今や左手にはさえぎるものもなく大きく大天井岳と、その右手には槍ヶ岳が見えてきた。
 一登りして、さらに鎖場(くさりば)を過ぎると最後の小屋への登りになるが、息も脚も続かない。上の方からは、日帰り登山の若者たちが次々に下りてくる。
 彼らの元気さをうらやましく思うよりは、こうして山に来ている若者たちが多いことをうれしく思った。
 一時は中高年登山者だけになってしまうのかと思われた日本の山々に、山の愉しみを知った若者たちが増えてくるのは素晴らしいことだ。それぞれの年代を経て、自然や山を愛する人々の連なりが受け継がれていくのだ。

 さらに私を喜ばせたのは、西風を受けて少し雲をまとわりつかせながらも、槍ヶ岳(3180m)・奥穂高岳(3190m)・大天井岳(2922m)・常念岳(2857m)と続く雪の山なみが青空の下に広がっていたことだ。まさに、山に来てよかったと思う瞬間だ。
 
 滑りやすい溝状の道を登りきると、後は雪がついていない花崗岩の砂地の斜面だけだった。
 登り切って、東側の吹き溜まりの部分だけが雪に埋もれかかった燕山荘(2704m)に、ようやくのことで着いたのだ。

 コースタイム4時間10分位の所を、5時間もかけて登ってきたことになる。それは、アイゼンもつけずに滑らないようにゆっくりと登ってきたからでもあるだろうが、一方ではいつもの脚がつることもなかったし、それほど疲れてはいなかった。
 もし日帰り装備の、デイパックの荷物だけならもう少し早く登れただろうが、しかし10キロほどのザックくらいで、急坂でねをあげている私には、このくらいの時間がいいところだろう。

 この合戦尾根からの道は、あの鹿島槍ヶ岳(2889m)の赤岩尾根や裏銀座(うらぎんざ)コースの起点となる烏帽子岳(2628m)へのブナ立尾根とともに、北アルプス三大急登の一つと言われていて、私には二度目の久しぶりコースなのだが、さほどの登りとは思えなかった。
 むしろ広く日本アルプスの三大急登と考えれば、早月尾根からの剣岳(2999m)や笠新道からの笠ヶ岳(2898m)、黒戸尾根からの甲斐駒ヶ岳(2967m)の方が、時間も含めての急登と呼ぶにふさわしいように思える。

小屋に荷物を置いて、さっそく目の前に見える燕岳に向かうことにする。まだまだ日帰り組の連中も降りてきていた。
 燕岳は、特に際立った山容や高さやがあるわけではないのだけれども、この山の一帯に露出している花崗岩の形が、それぞれに芸術的なフォルムに見えて面白く、また夏にはその砂地の斜面にコマクサの大群落の花が咲き、手軽な北アルプス入門の山として親しまれているのだ。
 さらに、この燕岳を起点として、喜作新道(きさくしんどう)と呼ばれる道を南下して行き、大天井岳から西岳に至り、転じて東鎌尾根を経由して槍ヶ岳に至る縦走路は、昔から人気のあるコースとして、表銀座(おもてぎんざ)コースと呼ばれている。

 私は、この表銀座コースという名前に恐れをなして、そのコースをたどったことは一度しかなく、他に霞沢岳(かすみざわだけ、2646m)から唐沢岳までの常念山脈縦走の時に、この燕岳を経由しているので、今度で三度目でしかない。

 それでも、40分ほどの道の途中で何度も立ち止まり、周りの景色を楽しみながら写真を撮り、ゆるやかな尾根道を楽な空身(からみ)で歩いてゆくのは楽しかった。もう前後には登山者の姿もあまり見えなかった。(写真)

 

 風の強い頂上の岩陰には、一人がいるだけだった。
 そして今まで隠れていた、北燕岳から、剣ズリ、餓鬼岳へと続く山々が見えていたが、その背後の後立山(うしろたてやま)連峰に立山・剣、さらにこの表銀座コースと並行して長々と連なる裏銀座の山々の稜線には、雲がまとわりついていた。
 その山なみは、冬の季節風を止めて北海道の十勝平野に晴天の日をもたらす、あの日高山脈と同じ役目を果たしていて、だからこの燕岳周辺が晴れているのだろう。下の安曇野(あづみの)はもちろんのこと。

 小屋に戻って、一マス区切り4人の所にいっぱいの4人で寝ることになったのだが、それでも狭い布団一枚に一人だからまだいいが、混みあってきたら、そこに6人入りますからと小屋の人に言われた。
 結果、そのまま4人で良かったのだが、今の初冬の山の時期に開いている小屋が少ない中、この山小屋には連休だということもあってか、この日には何と80人近くもの人が泊まったのだ。
 私たちのマスの他の三人は、まだ30代位の若者たちだったが、それぞれの思いを抱いて一人で山に来ていて、思えば日ごろかかわる機会もない世界にいるそんな彼らと長い時間話して、なかなかに興味ぶかいものがあった。
 思えば、私は彼らと同じ年代の頃、東京を離れることを決意していたのだ。

 山小屋の良さは、そんなところにあるのかもしれない。今いる立場に関係なく、年代に関係なく、その知らない相手と話をして、何かを教えられ何かを伝えて、そのまま別れていくだけのことだが。
 東京にいた昔、街の銭湯に通っていたのだが、そこで出会ったおやじさんたちにどれだけ多くのことを教えられたことだろう。 
 裸の姿しか知らなかった人が、警察官だったり、有名店のコック(今ではシェフというらしいが)だったりと。
 数年前に『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』というベストセラーがあったが、意味合いは少し違うけれども、私の場合は『人生に必要な多くのことを街の銭湯で学んだ』ということになるのだろう。

 夕方、風の吹きつける寒い中、完全装備で外に出たが、夕焼けはあまり赤くならなった。しかし、槍・穂高連峰の山なみが、見事なシルエットになって夕暮れの闇の中に少しずつ溶け込んでいった。明日は晴れることだろう。

 私は、雪の尾根道をたどり大天井岳まで行くつもりだった。明日で休みは終わりだから、小屋に泊まっている人の殆んどは下りて行くらしかった。 明日、その雪の尾根道をただひとり歩いて行く・・・行く手には槍ヶ岳の雄姿が近づいてくる・・・。
 目を閉じていたが、いつものようになかなか眠りにつけなかった。
 
 尾根をたどって行くと、コブが一つ、先にまた一つ、また一つ・・・。一匹のヒツジではなく、白いふたこぶラクダだろうか・・・ああ眠れない。
 

 (この山旅は次回へと続く。)