ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(96)

2009-03-31 17:10:27 | Weblog



3月31日
 なんという寒い日が、こうも続くのだろうか。この一週間、朝は0度前後で、日中でさえ10度までも上がらないのだ。
 ついこの前までの何日かは、余りの暖かさに、飼い主はストーヴを消していたのだが、今では、冬と同じように、日が差さない時は一日中、ストーヴをつけていて、ワタシはその前でぬくぬくと寝ている。
 まあ、こうした天候の変化は、春先にはよくあることだ。それほど、あわてふためくことでもない。その日の天候に合わせて行動すれば良いだけのことだ。
 思えば、ワタシたち動物に、神様が与えてくれた、全身を覆う毛皮は、体の内部を守るためとともに、夏の暑さよりは、冬の寒さに備えてのものなのだ。
 その毛皮も、毎日の手入れを怠ったり、十分な栄養を保っていないと、例えばノラになったりすると、ツヤもなくゴワゴワとした感じになり、それに寄る年波が加わると、見る影もなくなってしまう。
 そういうふうに、ワタシ自身を含めて、すべてはうつろい変わりゆくものだけれども、だからといって、何も感傷的になることはない。
 ワタシにとって大事なことは、昨日の一日ではなく、明日の一日でもない。さらに、今日の一日でさえない。ただ、目の前の今こそが、最も大切な時なのだ。


 「今年は、暖冬の影響もあり、桜の花の開花も、また記録的な早さだった。
 しかし、一転して、この一週間ほどは、”花冷え”の寒さが、続いている。それまでの、暖かい日々の後に、これほどに長い、寒の戻りがあるとは・・・。
  青空に向けて花を開いていた、庭のスイセンやボケの花も、うつむいてしまい、ヤマザクラもツボミのままだ。
 花に嵐のたとえのように、物事は、常に絶えざる変化の中にあり、うつろい変わっていくものなのだ。まして、人の世においては、なおさらのこと。


 今回の、私の書きたい主題でもある、岩佐又兵衛勝似(いわさまたべえ・かつもち)もまた、己の意のままにならぬ運命に、翻弄(ほんろう)された人生を送った一人である。
 時は戦国時代、織田信長が上洛を果たし、新たに築いた安土城に、居を構えていた1578年、又兵衛は、摂津の国、伊丹の有岡城主、荒木村重の側室の子として生まれた。
 天下統一の途上にあった信長の、次なる戦いの目的は、西の大国、毛利であった。しかし荒木村重は、その二つの強者の狭間(はざま)で悩み、最後には、信長に反旗を翻(ひるがえ)すことになった。
 怒りに燃えた信長は、すぐに有岡城を攻め滅ぼして、寸前に城を落ちのびた荒木村重以外の、城内に残っていた荒木一族郎党のすべてを、京都に引き回しの上、子供に至るまでも、斬首(ざんしゅ)の刑に処したといわれている。
 その時、わずか2歳であった又兵衛は、乳母の手に抱かれて、奇跡的に、城外へと逃げ出すことができた。

 その後、又兵衛は、京都の本願寺にかくまわれて育てられ、母方の姓の岩佐を名乗るようになった。2年後に、その信長は、本能寺で明智光秀に討たれ、そして豊臣秀吉の時代になる。
 彼は、その秀吉の配下となった信長の子、織田信雄(のぶかつ)に小姓として仕え、あの有名な北野大茶会にも参列し、関白二条昭実の館にも出入りするようになった。 このころ、狩野派や土佐派の大和絵を学んだといわれている。
 1600年の関ヶ原の戦いの後、徳川家康によって江戸幕府が開かれ、そして1615年には、大阪夏の陣で、豊臣家は滅び、徳川時代が名実ともに確立することになる(秀忠の時代、家康は翌年亡くなる)。

 この時、38歳の又兵衛は京都を離れて、越前、北之庄(福井)に移り、家康の孫である城主、松平忠直(菊池寛の評伝小説に『忠直卿行状記』)と、次の代の忠晶の時代の、二十年の間、福井城下の町絵師として、さまざまの名画を描き残すことになる。
 その名声は、本家筋である江戸、徳川家の知るところとなり、命を受けて、又兵衛は妻子を福井に残したまま、京都を経由して江戸へと旅立つ。又兵衛、すでに60歳。
 そのまま、江戸で有名絵師としての忙しい日々を送り、福井へと戻ることもできないまま、1650年、73歳で亡くなる。その遺骨は、かねてからの彼の望みどおりに、福井に運ばれて、ゆかりある興宗寺で、弔(とむら)われたという。


 岩佐又兵衛の描き残した作品については(彼の下にあった画工たちの手になる物を含めて)、未だにそのすべてが確定されている訳ではなく、大まかに、三つの時代に分けてあげるとすれば。
 京都時代の、『洛中洛外図屏風(舟木屏風)』(六曲一双で各162cm×340cm)、『豊国(ほうこく)祭礼図屏風』(六曲一双で各166cm×345cm)などは、いずれも、当時の人々の暮らしや風俗が、詳細に、そして圧倒的な群集の姿として、見事に描かれている。(六曲一双とは、六つに折れ曲がった屏風の一対のこと。)
 福井時代には、『三十六歌仙図』、『金谷屏風』、『池田屏風』、『和漢故事人物図鑑』などもあるけれども、なんといっても、素晴らしいのは、あの長大な絵巻の数々・・・『山中常盤(やまなかときわ)物語絵巻』、『堀江物語絵巻』、『上瑠璃(じょうるり)物語絵巻』、『小栗判官(おぐりはんがん)絵巻』などであり、いずれも、30数cmの幅ながら、なんと100mから300mにも達するという、極めて膨大な絵巻物なのである。
 とても一人で描けるはずもなく、それゆえに又兵衛の配下にある画工、工房が存在したとされているのだ。
 江戸時代の作品としては、幾つかの『三十六歌仙図』、『四季耕作図屏風』、『月見西行図』、『楊貴妃図』などが知られているが、いわゆる浮世絵の元祖、通称”浮世又兵衛”としての、それらしい風俗画の作品は、『婦女遊楽図屏風』、『湯女図』(浮世又兵衛の名に恥じない素晴らしい絵である)などくらいのもので、寂しい限りである。
 福井に帰ることさえままならぬほどに、多忙を極めた有名絵師としては、余りにもその数が少ない。おそらくは、同時代の、未だに誰の絵か分からないものの中に、又兵衛の手によるものがあるのではないか、とさえ思えるのだが。

 ともあれ、そのまま江戸で亡くなった又兵衛が、もう帰れないことを覚悟して、国元の妻子宛てに贈ったとされる絵がある(写真)。『伝岩佐又兵衛自画像』(MOA美術館)である。
 この絵が、自らの筆によるものか、それとも工房の弟子の手になるものかはわからないし、絵の傷みも激しいけれども、上等な着物を着て、こころもち目を伏せ、竹の杖を持ち、竹細工の椅子に座る又兵衛の姿に、彼の数奇な人生の終わりを見る思いがする。
 
 岩佐又兵衛の『山中常盤』について書く前に、どうしても、彼の生涯と、作品の概要について、書いておかなければならなかった。
 それは、あのグルジアの画家、ピロスマニの作品について書いた(2月17日の項)時の私の思いとは、全くその意味合いを異にする。
 つまり、ある一枚の絵を前にして、私たちは、それをどう見るべきか、という決められた方法などは、ないということなのだ。
 つまるところは、己の経験と人生を反映させて、絵を見るしかないのだ。それが、作者の意図したものにかなっているのか、正しいのか、間違っているのかは、ともかくとして、それは、自分の見る絵として、そこにあるからだ。
 先送りになった本題の、『山中常盤』については次回に。」

参照、『岩佐又兵衛』(新潮日本美術文庫・藤浦正行)、『奇想の系譜』(ちくま学芸文庫・辻惟雄)、『岩佐又兵衛』(文春新書・辻惟雄)、ウィキペディア他のウェブ・サイト。


ワタシはネコである(95)

2009-03-28 18:24:29 | Weblog



3月28日
 この三日ほど、寒くなって、冬に戻った感じだが、ワタシはすっかり、春の活動態勢になっている。もう昼間は、一人で外に出ていることが多い。
 今朝は、ストーヴの前で寝ていたら、突然、黒い着物を着た人が、飼い主と一緒に、部屋に入ってきた。ワタシは、他の人間には慣れていないから、驚いて部屋を飛び出した。
 その後、部屋のほうからは、鐘の音がして、重々しい呪文のような言葉が聞こえてきた。ワタシは、ベランダから外に出た。
 家から少し離れた所にいたのだが、しばらくして、その男の人のクルマの音がして、帰っていったようだった。すると、飼い主が迎えにきた。
 ニャーと鳴いて出ていくと、飼い主がワタシをなでて説明してくれた。
 「オマエを可愛がってくれた、あのおばあちゃんが亡くなった命日なんだ。もう5年にもなる。」
 ワタシはニャーと返事して、それでも、このまま飼い主と、散歩に出たかったので、それで、ワタシが先になって、いつものコースを歩いて行った。
 するとなんと、後ろから他のネコが一匹ついてきた。先日のパンダネコ(3月18日の項)や、その子分のシロネコとも違う、去年も今頃に会ったことのある(’08.3月11日の項)、あのネコだ。
 飼い主が心配して、手で追い払おうとするが、少し離れるだけで、あまり逃げようとはしない。体も大きく、毛並みも良いし、どこかの家の飼い猫なのだろう。
 飼い主が、小さな石を軽く投げたが、遠くへは逃げていかない。ワタシは、その飼い主の後ろで、うなり声をあげる。そこで、飼い主が足音を立てて追い払うと、やっと逃げて行った。
 そのあと、飼い主といつものコースを歩いて、戻る時、ワタシは、まだ帰るのがイヤだった。久しぶりの、他のネコたちとの、少しスリルある対面を楽しみたいものだ。
 飼い主は、先に帰って行った。


「すっかり、冬に戻ってしまった。この三日間、最低気温はマイナスという、冬日が続いている。
 晴れてくれれば、それでも日差しは暖かいのだが、今日のような曇り空では、肌寒いままで、気温も6度位までしか上がらない。
 しかし今は、九州の各地では、どこでも、桜の花が満開である。山の上にある、わが家のまわりでは、ようやくヤマザクラが、ちらほらと咲き始めたころなのだが。

 その桜の花が大好きだった母は、家のヤマザクラが満開になる前に、亡くなってしまった。今の季節になると、思い出してしまう。
 『願わくば、花の下にて春死なん、その如月(きさらぎ)の望月(もちづき)のころ』という、西行法師の歌とともに。
 思えば、決して幸せだとは言えなかった母の一生。その母の思い出が、幼い頃、他所に預けられて寂しい思いをしてきた、私の思い出と重なる。
 『家なき子』、『母をたずねて三千里』などの、子供向けの物語は、まさに他人事ではなかったのだ。
 晩年、穏やかに、二人して暮らすことができたのだが、果たして十分に幸せであったかどうか・・・。

 ところで、時代はさかのぼる。1578年、戦国時代の世に生まれ、物心つく前に、生みの母親と別れ、お寺に預けられ育てられて、後になって、その母の悲劇的な最期を知らされることになる、その男、岩佐又兵衛勝似(いわさまたべえ・かつもち)。
 彼は、その後、大和絵師になり、その思いのたけを、長大な絵巻物の中に描いていく。
 
 岩佐又兵衛の手になるといわれている、あの有名な『山中常盤(やまなかときわ)物語絵巻』、その図版の一部分を、私はどこかで見た覚えはあるのだが、その時は、深く気にも留めていなかった。
 別な機会に、他の絵巻物を調べていて、この『山中常盤』に出会い、まさにただ茫然と、見入ってしまったのだ。そして、本などでいろいろと調べている時に、タイミング良く、NHK教育・新日曜美術館で『驚異の極彩絵巻・岩佐又兵衛』(2月15日)が放映された。

 話はそれるけれども、NHKの芸術分野における各テーマの、取り上げ方やその取り組み方については、異論もあると思うけれども、民法他社には代えがたい、貴重な放送であることに間違いはない。感謝するばかりだ。

 その番組を、息をのむ思いで見た私だったが、惜しむらくは、岩佐又兵衛研究家として有名な、あの辻惟男(つじただお)氏の話を、もっと聞きたかった。
 一般的な視聴者のための番組という性格上、それは無理だったのかもしれないが、何冊もの岩佐又兵衛に関する本を著わしている辻氏ならではの、専門的な話が聞きたかった。
 というのも、一年ほど前の最新の著書、『岩佐又兵衛』(文春新書)の中で、彼は長年主張し続けてきた『舟木屏風(ふなきびょうぶ)』に関する自説を、誤りだと認めて、素直に謝っているのだ。

 世の中には、多くの人から誤りだと指摘されても、頑として自説を曲げない人もいる。もちろん、後になって、その人の方が、正しかったということもあるのだが。
 最近では、あの政府の規制緩和審議会のメンバーの一員として、構造改革を推し進めた、経済学者の中谷巌氏が、このアメリカに端を発する世界的経済恐慌で、それまでの自説の誤りを認める論調を発表した。
 世間では、それを転向と呼んでいるけれども、あの太平洋戦争前後の、思想信条に関する転向とは、意味合いも違うと思うのだけれども・・・。

 話がそれてしまったけれども、ともかく、あの『岩佐又兵衛』の番組で見たことと、他の資料を合わせて、私なりに、岩佐又兵衛の『山中常盤』について考えてみたい。
 詳しくは、次回に書くとして、写真は、その物語、牛若丸伝説にもとづく仇討物語の、主人公の姿である。」


ワタシはネコである(94)

2009-03-25 17:27:47 | Weblog



3月25日
 昨日、今日と朝の気温は2度と冷え込み、晴れてはいるが風が冷たい。
 ワタシは、朝と夜は、まだストーヴの前にいるが、日中はベランダや、家の周りの、日当たりの良い所で過ごしている。
 特に昨日は、飼い主が部屋のテレビの前から離れず、一人で何か叫んだり、手を叩いたりしていていた。ワタシが散歩に連れて行ってほしいと鳴いても、知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいて、テコでも動かぬ風情、・・・。
 全く人間というのは、自分が直接かかわってもいないくせに、テレビ画面での、遠く離れた土地でのことに、何故にああも興奮するのだろう。

 私たち動物は、親離れをした後は、基本的には、ひとりで生きてゆくから、すべては自己責任において、ひとりで行動し、ひとりで対処する。グループ、集団を組むとしても、家族的な関係としてであり、時に移動や外敵から身を守るために、大集団になることもあるが、あくまでも一時的なものだ。
 まして、ワタシたち動物は、人間たちのように、敵対する相手集団と優劣をつけるために、お互いに多数の死者という犠牲者を出してまで、戦うなどというバカなことはしない。ワタシたちが襲うのは、大切な食料としての、一匹の相手だけである。
 まあつまりは、戦争を含めて、相手を殺したいという隠れた狂気の本能を持つ人間たちが、自らを自制するために考え出したもの、それが、あのギリシア時代のオリンピアに始まる、競技会としてのスポーツだったのだろう。
 まあワタシたち動物からすれば、なんて回りくどいことを、最初から、戦争なんてしなければとも思うが、スポーツ競技などでの、お互いの競争ということによって、地球上の戦争がなくなり、人々が平和に暮らし、ワタシたちにバカな人間たちの争いの悪影響が及ばなければ、それで良いのだけれど。
 思えば、ワタシの飼い主は、他人と争い競い合うなどということが嫌いらしくて、いつも一人で行動していて、そのあたりの性向は、ネコであるワタシと似ている点があるのだけれども、テレビでのスポーツ競技で、興奮しているところを見れば、やはり人の子だと思ってしまう。
 まあそれでも、その後は、いつもの飼い主に戻ってくれるから、ワタシはそれで一安心なのだ。
 昨日は、夕方前に、サカナをもらった後、一緒に散歩に行った。久しぶりに、少し離れた所まで行ったので、ワタシがあちこち臭いを嗅ぎまわっていて、飼い主は待ち切れずに、先に一人で帰ってしまった。
 日が暮れて薄暗くなり、ワタシが帰りにくくなっていた頃、飼い主がやってきて、しきりにワタシの名前を呼んだ。ミャーと応えて、飼い主のもとに走り寄ると、飼い主は言った。「明日は、きっと冷え込むから、外で寝るのはツライぞ。」
 ワタシはニャーと鳴いて、飼い主の顔を見上げた。そして、一緒に家に帰った。

 「昨日は、WBCの野球を見た後、ミャオに特別に大きめのサカナを、それも早めにやってから、散歩に出た。
 風が冷たいけれども、これでいつもの春先の気温だ。今までが暖かすぎたのだ。
 ミャオが食べる草も、あちこちで背丈も伸びて、青々と茂っていて、それを、ミャオは頭を傾けて、横から噛みちぎって食べている。
 近くには、ハクモクレンの大きな木があり、いっぱいに咲いた乳白色の花が、青空に見事に映えている。ふと下を見ると、セイヨウアマナ(ハナニラ)の花が咲いていた(写真)。
 まだあまり、他の草花が咲いていない今の時期、春先に見かける花の中では、アマナとともに、目立つ花であり、日当たりの良い斜面の、いつもの同じ場所で、今年も見ることができた。
 うす紫の清楚(せいそ)な花で、英語名で、スプリング・スター・フラワー(spring star flower)と呼ばれるのにふさわしい。別名、”ベツレヘムの星”とも言うそうだが、もちろん、それはキリストが生まれたベツレヘムのことであり、あのクリスマス・ツリーの一番上に輝く星の意味でもあるとうことだ。
 しかし、花をよく見ると、私はその色からも、“ダビデの星”のほうを思い出してしまう。それは、正三角形を二つ、上下逆に組み合わせた形で、イスラエルの国旗にも使われているが、また悲しいことには、あのナチスによるユダヤ人のホロコースト(大虐殺)では、目印としても利用されていた。
 しかし、この形は、日本でも古くから、篭目文(かごめもん)と呼ばれる家紋の、一つとして使われていたということだが、そういえば、前に、その紋どころがついている着物を見て、不思議に思った憶えがある。
 写真の花は、左側のものには、なぜか7枚の花弁があり、らしくはないが、真ん中のものがその星の形に見える。
 このアマナと呼ばれる花は、ユリ科に属していて、他にアマナと名前がつくもので有名なのは、高山植物のチシマアマナだろう。
 私も、日本アルプスや北海道の山で、その稜線の道を歩いていて、何度も見かけたことがある。緑の細長い葉と、それぞれに少し高く伸びた白い花が、何本かまとまって咲いていて、他の花と間違えることはない。
 写真のセイヨウアマナほどに、花は大きくなく、花弁は余り開かず、下界に咲くアマナに似て、白い花びらに包まれた感じで、中にある少し大きめの黄色い子房が目立つ。

 ところで、紋様と言えば、ミャオの額にある白斑について、前にも書いたことがあるが(’08.1月31日の項)、四白流星というのは、調べてみると、名馬の一つの理想的な色合いと言われているもので、四本の脚の先が白くなっていて、額には流星の白い紋様があること、となっている。
 額の白斑には、星型と流星型、さらに流星鼻梁美白(つまり額から鼻の先まで白い)ものがあるとのことだ。
 ミャオの場合、額の白斑は、細いけれども確かに流星型である。しかし、4本の脚先は、本来、シャム猫の脚先は、顔やしっぽと同じような焦げ茶色であるべきなのだが、ミャオは幸か不幸か、ノラネコの父親の、胴長短足の体型を受け継ぎ、さらに、ほんの少しその色合いも受け継いでいて、右側の二本の脚先は白だけれども、左側の二本は焦げ茶色という、極めて面白い色に仕上がっているのだ。
 ゆえに、残念ながら、四白流星の名馬の型とはいえないのである。
 ・・・ミャーゴ、ミャウ、ミャウ、ミャーオ、ミャーオ。
 『なに、ワタシはネコだから、そんな名馬の条件なんかどうでもよいことです。それよっか、早く、いつものサカナ下さいよ。』ってか。こりゃまた、失礼しました。
 ともかく、オマエがどうであれ、私にとっては、ただ一匹の可愛いネコちゃんだから。ほら、サカナだぞ。」


ワタシはネコである(93)

2009-03-21 17:40:26 | Weblog



3月21日
 暖かい春の日が続いている。気温は、20度近くまで上がり、吹く風が、何といっても春らしく、やわらかいのだ。
 飼い主と一緒に、散歩に行って、途中で置いて行かれたら、今までの寒い冬の時だったならば、小さくニャーニャー鳴きながら、急いでその後を追って、すぐに家まで戻ったものだった。
 しかし、すっかり暖かくなった今は、もうそんなに慌てて帰ることはないのだ。ゆっくりと、近くの家の軒先で休んだり、枯草の斜面で寝ていたりして、のんびりと過ごす。

 三日前のことだ。夜になっても帰ってこない、そんなワタシを心配して、飼い主のワタシを呼ぶ声がしていた。しかし、遠く離れていたし、あまり大声で鳴き返すのもなんだし、そのまま、人の住んでいない家の軒下で、一晩を過ごしてしまった。
 もっともそれは、サカナを食べた後での散歩だったし、その上、夜も暖かかったし、久しぶりに外で寝て、あのノラ時代の張りつめた緊張感のままいて、野生の夜の匂いがなつかしかった。
 朝になってまた、飼い主がワタシの名前を呼んで、探しに来た。近くに来た時、二声三声、鳴いて知らせ、そして一緒に帰ってきた。
 その日は、ベランダで過ごして、夜になると、久しぶりに、飼い主の布団の中にもぐり込んで、朝まで一緒に寝ていた。もっとも、飼い主は、あまり寝返りも打てずに、よく眠れなかったみたいだけれど。


 「本当に、春らしい毎日になった。ストーヴをつけなくてすむ暖かさになると、夕方までは窓を開けたままで、気持ちが良い。
 そこに、庭の花の香りが流れ込んでくる。ウメの花は、今もハラハラと散っていて、もう終わりだし、香りもしなくなった。そのウメに代わって、ジンチョウゲの花が咲き始め(写真)、あの強い香りが、庭一面に漂っているのだ。
 このジンチョウゲは、家の庭のあちこちに、数株ほどあるが、それらは、亡くなった母が、一枝を挿し木にして、それから増やしたものだ。母は、季節の移り変わりを教えてくれる、その時々の花々が好きだった。


 ジンチョウゲ(沈丁花)は、調べてみると、英語名で、ウィンター・ダフネ(winter daphne 、学名 daphne odora) と呼ばれている。
 ダフネは、ギリシア神話に出てくる有名なニンフ(妖精)であるが、ギリシア語では、その話にちなんで、月桂樹を意味するという。つまり、ジンチョウゲの葉が、月桂樹の葉に似ていることから、ダフネの名前が付けられたのだ。

 ギリシア神話は、その時代の、あくまでも人間らしい神々の話だけに、今の私たちが読んでも、興味深いものがある。
 去年の夏、北アルプスの山に登った時に、天気が悪く、小屋にとどまり、読みふけった時の、一冊(7月31日の項)でもあった。
 さて、このギリシア神話からの、アポロンとダフネとの話である。

 『主神ゼウスの子である、アポロン(太陽神であり、音楽と詩、さらに医学を司る神)は、ある時、エロース(キューピッド)を、子供のくせに弓矢なんか持って、とからかい半分に咎(とが)めた。
 怒ったエロースは、すべての恋をはねつける鉛の矢を、河の神ペーネイオスの美しい娘で、ニンフのダフネの胸に、そして、誰でも恋におちてしまう黄金の矢で、アポロンの胸を射抜いた。
 すると、アポロンは、恋心に駆られて居ても立ってもいられず、ダフネを追いかけまわし、一方、森の中の妖精であるダフネは、その厭(いと)うべき相手から、ひたすら逃げようとした。・・・アポロンは恋の翼にのり、ダフネは恐怖の翼にのって・・・。
 しかし、ついにアポロンに追いつかれて、捕まりかけた時に、ダフネは、父親である河の神ペーネイオスに祈り、助けを求めた。
 すると、次の瞬間、彼女の体は、足元から次第にこわばっていき、ついには緑の葉が茂る一本の月桂樹になってしまったのだ。
 アポロンは、そこであきらめて、ダフネの思い出である、永遠に緑(青春)の色を失わない、その枝葉で作った月桂冠を、自分の頭に載(の)せることにした。』
 (以後、この話は、絵画に、彫刻に、音楽になど、さまざまな芸術の分野で、描かれている。)

 数々の女性との間の恋を実らせた、名家出身のイケメン王子のアポロンだったが、聖処女ダフネからは嫌われて、思いを果たすことができなかった。しかし、彼は、その恋の思いを一生忘れることはなかった、というお話。 アポロンは、その後、さまざまな恋の経験を経て、教訓を学び、次のように言ったという。
 『自分自身を知れ。何事も度をすごすな。』


 稀代(きだい)の色男にして、このような自分を戒める言葉があったとすれば、ただの男たちは、どう考えればよいのだろうか。
 自分自身を見ろ、・・・はい、鬼瓦顔のただのオヤジです。
 何事にも手を出すな、・・・はい、そうしています。
 これじゃあ、せっかく一休和尚の話のところで抱きかけた、ささやかな夢(3月10日の項)が、ただの、春の夢に・・・。
 ミャーオ。おーよしよし、オマエは、分かってくれるか。」


参照 『ギリシア・ローマ神話』(トマス・ブルフィンチ 大久保博訳、角川文庫)、『ギリシア神話』(R・グレーヴス 高杉一郎訳、紀伊国屋書店)

 


 


ワタシはネコである(92)

2009-03-18 17:10:16 | Weblog



3月19日
 最近は、天気も良く、暖かいネコ日和(びより)の日が続いている。朝のうちはまだ、飼い主につけてもらっているストーヴの前で、寝ているが、ベランダに、十分に日が差し込んでくるようになると、飼い主がワタシを起こして、外へと追いやる。
 背伸びをした後、大あくびをしながら、ベランダに出てみると、いやあ、やはり春だなあ。いい気分だ。とりあえず、辺りの臭いを確かめた後、日差しの当たる、見通しの良いところで、座り込む。
 しばらくは、庭の気配に耳をすませて、鳥たちの動きを目で追う。他のノラネコが来ないか、見張りもしなければいけない。部屋のほうでは、なにやら、飼い主がパソコンに向かって指を動かしている音が聞こえている。ああ静かだなあ、次第に眠たくなる。
 いつだったか、冬の寒い夜のこと、ストーヴの前で寝ていたのだが、退屈した飼い主が、ワタシをなでた後、じっとワタシを見ていた。
 ワタシは、そんな飼い主の顔から、目をそらすのも悪い気がして、その鬼瓦顔をガマンして見ていると、何を思ったのか、飼い主は、ワタシの目の前に、自分の人差し指を突き出して、ぐるぐるとまわし始めた。何かを言っている。
 「オマエは眠くなる、だんだん眠くなる。」
 バッカじゃないのと思ったが、ワタシは、顔をそむけるのも悪くて、しばらく指の動きを追った後、いつまでも相手はしていられないから、眠るように瞼(まぶた)を閉じてしまった。
 「クッ、クッ、クッ」と、低く笑っている飼い主の声が聞こえた。全く、人間は単純なのだから。
 その後も、飼い主は時々、寝ようとしているワタシの前で、指をクルクル回すようになった。あーあ、飼いネコはつらいよ。

 「この三日間、気温は、15度から20度近くまで上がり、すっかり春めいてきた。
 九州の各地からは、相次いで、平年より一週間以上早い、サクラの開花が告げられている。山の中にある、わが家のヤマザクラが咲くのは、まだずっと先のこと。
 それでも、今は満開のウメの花がきれいだし、サクラにはない、ウメのあの良い香りが、辺り一面に漂っている。ベランダには、ミャオが寝ている。それだけで、いいなあ、と思う。
 しかし、とはいっても、私には私の苦労があり、ミャオにはミャオの苦労があるのだ。

 一週間ほど前のことだ。そのころ、私は例の、一休和尚のことを書くのに夢中になっていた。ベランダの下のほうから、ネコの声がする。ベランダにいるミャオの声にしては、少し甲高(かんだか)いがと思い、気になって、外に出てみた。
 例の、甘く切ない鳴き声をたどると、何とあのノラ仲間の、白黒のパンダネコだった。
 私がいない間、ミャオにエサをあげてくれているおじさんの話によれば、あのポンプ小屋にエサを持っていくと、先に、このパンダネコが食べに来て、ミャオは離れたところで見ているだけだったので、追い払って、ミャオに食べさせていたとのことだった。
 私も、このネコは何度か見かけているが、ノラだから、すぐに逃げ出していた。そのパンダネコなのだ。
 そして、次の瞬間、私がベランダに来たことで勢いを得たのか、ミャオはベランダから庭に下りて、パンダネコに近づいて行った。そして、微妙な距離で立ち止まり、お互いに目を合わさずに、鳴き始めた。
 私が見ているのに気づいたパンダネコは、非常にゆっくりとした動作で、ミャオの前から離れようとしていた(上の写真はその時のもの)。
 思えば去年の今頃、ネコのサカリの時期だからと、ミャオとあのマイケルとを仲良くさせてやろうとしていたのに(去年の2月15日、17日の項)、実は、二匹のなわばり争いであって、結果的に、ミャオは手ひどい傷を受け、回復するのに長い時間がかかってしまった(去年の4月14日から23日にかけての項)。
 もう、ミャオをそんな目にはあわせない。物を投げつけるふりをして、ベランダで音を立てると、パンダネコは脱兎(だっと)の如く逃げ出した。そのあとを、ミャオは信じられない速さで追いかける。
 私も、急いで玄関から外に出る。二匹は、溝の所で、すさまじい声を上げて取っ組み合った。私は、これは危ないと、近づくと、パンダネコが、また先に逃げ出した。ミャオが後を追う。
 遠く離れたところで、まだ、二匹の鳴き合う声が聞こえていた。しばらくたってから、ミャオが戻ってきた。
 あちこち、体を調べてみる。良かった、どこにもケガはない。無理をしてはダメだよと声をかけると、ミャオは目を細めて、ニャーオと鳴いた。         
 
 去年、ミャオを治療してくれた動物病院の先生が言っていた。避妊手術をしてあるメスネコは、もうオスネコと同じで、なわばり争いで、ケガをすることがあるからと。
 今回、私がたまたま傍にいたから良かったものの、つまり後ろ盾があるから、小さなミャオは、(私が怖くて)逃げる大きな相手を追いかけられたのだ。
 しかし、私がいない間、ポンプ小屋をネグラとして、あのパンダネコたちと、一緒に暮らしていかなければならない、ミャオのことを考えると、そう喜んでばかりもいられないのだ。
 見た目は、飼い主である私と同じように、若く見えるけれども、本当は、あちこちガタがきて、年寄りになりつつあるミャオ。

 お互いに、しっかり元気でいなければ・・・。オマエには、DHAを多く含むアオザカナを、毎日ちゃんとやり、時々ヨーグルトも食べさせているから、今のところはいいと思うけれど。
 高いネコ缶詰や、グルメなぜいたく品を食べさせないのは、オマエのことを考えているからだ。・・・ミャオ、そう、疑わしそうな目でオレを見るな。」
 


ワタシはネコである(91)

2009-03-14 18:59:15 | Weblog



3月14日
 昨日は一日中、雨が降っていたが、暖かく、気温は10度位もあった。しかし、夜半には、強い風の吹きつける音が聞こえていた。
 朝、起きてきた飼い主と一緒に、ベランダに出てみると、何と、一面に白く雪が積もっていた。ワタシは、ぶるっと身震いをして、部屋に走り戻った。
 春めいた暖かい日が続いたと思ったら、これだもの。ワタシみたいに、家つきのネコなら良いけれど、ノラネコの連中は、やはり大変だと思う。
 あのポンプ小屋には、ノラの仲間が、温かい配管の上にしがみついていることだろう。年寄りネコであるワタシには、今の時期のこうした急激な気温の変化には、ノラのままだったら、とても耐えられない。
 冬の間、飼い主が、ずっと傍に居てくれることはありがたいが、しかし、本当に暖かくなると、ワタシを残して、北海道へ行ってしまう。 それがいつなのかは、ワタシにはわからないが、それだけに、今は、少し飼い主の姿が見えないだけで心配になり、ニャーニャーと鳴いて、ついて回るのだ。

 「昨日は、福岡で平年よりは二週間も早く、サクラの花が咲いたというのに、今日は一転して、冷たい風が吹きつけて、-3度と寒くなり、2cmほどの雪が積もっている。
 せっかく咲いた、庭の可憐な梅の花が、まるでボタンザクラのように、ぼったりとして重たく見える。
 あの有名な、『花に嵐のたとえもあるさ サヨナラだけが人生だ』(井伏鱒二訳による唐詩)というのなら、ともかく、幾らかの風情もあるのだが、雪が降る寒さというのは、まだ十分に咲き切っていない梅の花にとっては、辛いことだろう。
 花芯の部分が、寒さでやられると、梅の実のつきが悪くなり、梅酒用の実の収穫が心配になる。
 
 とはいっても、今年は、全国的な暖冬で、近くの九重スキー場も早々と、先週で営業を終えてしまい、もっとも、まともに滑れたのは二月上旬位までだったとかで、私も、ついに今年はスキーに行く機会を逃してしまった。
 それだから、冬の九重の山々も、雪が少なく、十分には楽しめなかった。そこに、私の年来のぐうたらグセが重なって、このところの山登りは、何と一カ月に一度という、最悪のペースだ。
 これでは、ただひたすらに、メタボおじさんの道を歩み、先には、年寄りネコのミャオと、どちらかが、老々介護になるやもしれず、これではイカン、体を鍛えねばと、やっとのことで、重たい腰をあげて九重の山へ向かったのが、四日前のことだ。

 8時すぎ、牧ノ戸峠手前にある、駐車場にクルマを止めて、雪の道を歩いて行く。5cmほどの雪の上には、まだ足跡もついていない。
 アセビの大きな株が並ぶ、ゆるやかな道をたどる。見晴らしが開けてきて、行く手には、目指す三俣山(1745m)が大きく見える。
 快晴の朝、誰もいない草原の道や、あるいは林の中の道を、山に向かって歩いて行く時の、気分は格別だ。ああ、山に来て良かったな、といつも思うのだ。小さな動物たちの足跡が点々とついている。遠くで、鳥の声も聞こえる。
 人が、こうした自然の中に、ひとりいて、心安らぐ気持ちになるのはなぜだろう。もちろん、自然はいつも優しいわけではない。時には、多くの雨や雪を降らせ、強い風を吹き付けては、生き物たちを慄(おのの)かせる。
 しかし、穏やかな晴れた日には、この上もない安らぎの場所になり、まるで、天上の世界かとさえ思う時がある。
 それは、私にとっては、山登りという、ほんの少しばかりの苦行(くぎょう)の後に得られる、お手軽な浄土世界体験、とでも言うべきものである。
 前回まで書いてきた、一休禅師などのように、長い苦行の修行を経て、ようやくたどり着くことのできた、悟りの境地などとは比べるべくもない、あくまでも、個人的な安らぎのひと時なのだが。
 岩塊帯の斜面を登り切ると、スガモリ越えに着く。三俣山と星生山(1762m)との狭間になっていて、風が強く、いつの間にか、雲も吹きつけてきた。そのまま、三俣山南面の登りにかかる。
 そして上へと登るごとに、振り向くと、九重の核心部の山々が、雪をまとい、立ち並んでいるのが見えてくる。
 稜線に上がり、ゆるかにたどると、雲も取れて、吹きさらしの西峰(前峰、1678m)頂上である。なんといっても、ここからの展望が素晴らしい。
 写真に見るように、星生山とその尾根にある硫黄山の噴煙、そして久住山(1787m)の姿。さらに左(東側)に、天狗ヶ城(1780m)、中岳(1791m)、白口岳と連なり、眼下の北千里浜、さらに坊ヶツルを隔てた向こうに大船山(1787m)が見えている。
 そこからゆるやかに下り、登り返して、なだらかな三俣山頂上へと向かう。雪は、3月でも、多い時には、吹き溜まりで1m位ということもあるが、今回は深いところでも、15cmほどで、苦労することもなかった。
 頂上からは、北側の展望が広がる。眼下には、大鍋(おおなべ)と呼ばれる噴火口跡があり、そこに北峰の火口壁がつながっている。ミヤマキリシマやツクシシャクナゲの花の時期には、よく歩かれるコースになる。
 さらに、東側にある南峰(1743m)に向かい、そこで一休みして、大きく下って、先ほどの、西峰へと戻り、ぐるりと一周のコースとなる。
 途中で数人のグループに出会うが、後は、スガモリ越えへ降りて、すっかり雪のとけたアセビの原を通って、駐車場に戻る、5時間足らずの山歩きだった。
 前回の登山(2月3日の項)からは、一カ月以上、間があいてしまい、さらにその前の九重登山(1月17日の項)ほどの、雪山の景観もなかったが、それなりに、ひとりだけの山歩きを、楽しむことができたと思う。
 山に登っているときは、あまり何も考えないのだが、時には、ふと何かを思いつくこともある。最初の所で書いたように、自然の中にいる安らぎ、これが私にとっての、現世での浄土世界であるし、その幸せのために、山に登り続けているのかもしれない。

 このところ、録りためていた映画の中から、二本を見た。『海を飛ぶ夢』(2004年、スペイン)では、人間の尊厳死(そんげんし)について、現代人としての、あるいは宗教がらみで、感情的になりがちな問題を、それでも小さなユーモアも交えて、真剣に人間の生と死を考え、そして・・・。
 さらに、同じスペイン映画ながら、『あなたになら言える秘密のこと』(2005年)は、イギリスでの話で、前者が、語り続けることによって、行き着く先を目指すとすれば、こちらは、語らないことで、結末に興味を持たせる。それだけに、彼女が語り始めた時の衝撃(私たちが余り知らない、あの旧ユーゴスラヴィア内戦)は、大きい。
 いずれにしても、観客に考えさせる、ヨーロッパ映画の秀作だった。時々、こうした良い映画が放映されるから、毎日のように、BS番組表を確かめるのが、習慣になってしまった。
 今は、悪いことが多い時代だと言われるけれども、一方では、良い時代になったとも言えるのではないだろうか。ありがたや、ありがたや。」


ワタシはネコである(90)

2009-03-10 17:46:29 | Weblog



3月10日
 今日は久しぶりに、朝から晴れていた。風が強く、雲も出ているけれど、暖かく、気温は12度まで上がった。
 しかし、朝はまだ寒く、1度位まで冷え込む。ストーヴの前で、ぐっすりと寝ていたワタシは、夢うつつの中で、何か、ガチャガチャと音がしているのを聞いていた。
 その後、しばらくして、ストーヴが消えてしまった。少しずつ寒さが忍び寄る。ニャーオと鳴いて、飼い主を呼びに行く。しかしどこにもいない。そうか、またどこかに出かけたんだな。仕方がない、まあ天気はいいし、ベランダで寝ていよう。
 庭の梅の花が、もう五分咲きくらいで、一面に咲いていて、周りが明るくなるくらいだ。そこへ、チャーチャーと鳴いて、メジロがやってくる。とても、ワタシが捕まえられないくらいに、高い枝の上だ(写真)。
 そして、午後になって、クルマの音がして、飼い主が帰ってきた。ニャーニャーと鳴いて、その顔を見ると、例のごとく、赤鼻のトナカイ状態だ。また山に行ってきたんだな。
 ともかく、ワタシは、夕方になって、サカナをもらい、飼い主と一緒に散歩に出かけて、一緒に帰ってくる、それで良いのだ。

 「今日は、久しぶりに山登りに行ってきた。天気もまずまずで、良い山歩きができたのだが、そのことについては、次回に書くとして、今回もまた、4回に渡って書いてきたあの一休についてである。
 何事も、『おぼしき事言わぬは、腹ふくるるわざなれば、筆にまかせつつ、あじきなきすさびにて・・・』(『徒然草』第十九段)の言葉通り、さらに、拙(つたな)き駄文を続けることになる。
 一休和尚、つまり一休宗純(1394~1481)についての話は、前回で終えるつもりだったのだが、まだ、いろいろと言うべきことが残っている。前言(3月7日の項)を翻(ひるがえ)すことになるが、それを承知の上で、書いてみることにした。

 それは、一休64歳の時に書かれた、あの法話集『一休骸骨(がいこつ)』が、無常なるこの世への警告の書でもあったのに比べて、死の前年の85歳の時に出された、『狂雲集』の末尾を飾る、盲目の女奏楽者、森女(しんじょ)へ捧げられた一連の漢詩が、なぜに一転しての、人生讃歌になったのか。どうして、彼の世界観が、こうにも劇的に変化したのか。
 そのことについて、前回は、臨済宗(りんざいしゅう)の教条的な言葉で、『随処(ずいしょ)に主と作れば、立処(たちどころ)に真なり』として、説明したのだが、それだけだと、余りにも仏教義的な説明にしかならない。さらに具体的に、一休についての幾つかのことを、補足しておく必要があるだろう。
 
 まず第一には、臨済宗の僧侶である一休が、その宗派を超えて、一時的にせよ、浄土真宗(じょうどしんしゅう)の教えに帰依(きえ)していたという事実がある。
 浄土宗の始祖、法然(ほうねん、1133~1212)の教えを受け継ぎ、親鸞(しんらん、1173~1263)によって広められた浄土真宗は、当時、蓮如(れんにょ、1415~1499)による、本願寺派の浄土真宗として、再興の時を迎えていた。
 1461年、一休(67歳)は、親鸞上人二百回忌大法会に、自ら参列し、その後も、蓮如との交友を続けたとされる。
 『狂雲集』にも、『法然上人を賛す』という一編と、『禅門最上乗を離却(りきゃく)して、衣をかえる浄土、一宗の僧』と題された一編が収められている。
 一休の元来の宗派である、禅宗、臨済宗大徳寺派(前々回の項、参照)の教えとは異なり、浄土真宗は、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)の念仏を唱え、他力の信心を持つことで、阿弥陀如来(あみだにょらい)の助けをかりて、浄土へと成仏(じょうぶつ)することができると説いている。
 さらに、浄土真宗は、当時の仏教宗派の中で、唯一、僧侶の肉食(にくじき)、妻帯をも認めていた。他の宗派の女犯(にょぼん)にあたる婚姻を認めたのは、生き物の不殺生のための肉食を許したのと同じように、あくまでも、在家の信徒たちを救済するためであったといわれている。
 ちなみに、開祖である親鸞は、恵信尼(けいしんに)との間に、7人の子供をもうけ、蓮如に至っては、度重なる妻との死別のために、五度の婚姻をして、都合27人の子供をなしたとされている。
 ともかく、風狂の道を歩み、飲酒、肉食、姦淫(かんいん)の戒律を破っていた一休にとって、そんな自分でも救ってくれるという浄土真宗の教えに、何か近しいものを感じていたのではないか。
 その後、老年に至って、森女と運命的に出会い、深い交情で結ばれたことは、今までの、『一休骸骨』の虚空の無常世界から抜け出して、新たなる喜びにあふれる、現実の浄土の世界に入ることだったのだ。
 それだからこそ、死の床でも、『死にたくない』ともらすほどに、森女と共にいること、その輝くばかりの、今ある世界に生きていたかったのだろう。

 考えてみれば、前回の写真として挙げた『一休と森女像』は、当時の感覚としても、極めてまれな絵であったに違いない。仏教界の高僧が、囲い者(かこいもの)の女と一緒に、描かれるなんて。
 ということは、周りの人たちが進んで描いたというよりは、一休本人が、描いてくれるように望んだのではないか。森女との末長い浄土世界を願って・・・。
 一休は、すでに生前に、酬恩庵(しゅうおんあん)一休寺に、自分の墓である寿塔(じゅとう)を建てているし、さらに、死の年には自分の木像を彫らせて、その頭部には、自分の髪の毛と髭(ひげ)を植え付けたとされている。
 ここまで来ると、あの古代エジプトの王たちの、ミイラではないけれど、一休のすさまじいばかりの、生への執念を感じるのだ。当時としては、極めて稀な高齢にもかかわらず・・・。
 孤独の修行時代と、風狂の日々、それらの後の虚空の無常観。それだけに最晩年に訪れた、輝くばかりの、人としての喜びに溢れたこの世から、彼は離れたくはなかったのだ。
 一休は、元来の高貴なる身分から外れて、禅の世界に悩み、仏教徒としての世界に悩み、人の世に悩み、そして、同じように人を愛したからこそ、近寄りがたい高僧、聖者としてではなく、民衆の側にいる僧侶として、当時の人々に慕われ、尊敬されたのではないだろうか。

 現代人と同じように、孤独な苦闘の中で、試行錯誤しては、一喜一憂しながら、それでも人としてあるべき道を、宗教家という枠にとらわれないで、求め続けた人、一休、というのが私なりの結論である。

 こうして書いてきたことによって、私の気持ちは、楽になり、残り少ない未来だけれども、何かが見えてきたような気がする。それが、たとえ誤った解釈であるとしても、『知らぬが仏』の例え通りに、信じる者は幸いなのである。
 その時、ふと私は、つぶらな二つの瞳が、私を見つめているのに気づいた。
 ミャーオ。・・・ゲッ、まさか、オマエが、私にとっての、森女なのか。ミャオ、ミャーオ。こ、これは、ネコ神様のたたりでは・・・。」


(参照文献は、2月25日の項に同じ、他にウェブ上のウィキペディアなど。)


ワタシはネコである(89)

2009-03-07 16:24:54 | Weblog



3月7日
 ようやく、晴れ間が戻ってきたけれど、雲が多く、肌寒い天気だ。朝は、-1度と冷え込み、まだまだストーヴの前から離れられない。
 雨の合間を見ては、飼い主と一緒に散歩に行くのだが、今ではもう、ひとりで残されるのはイヤなので、途中で、自分からくるりと戻って、ニャーと鳴き、家に帰ろうと促す。
 飼い主は、そんなワタシを見て、おかしそうに笑い、しかしその後、心配そうな顔をして言うのだ。
 「いつもいつも、オレの傍から離れないで、どうするんだ。オレが北海道へ行ったら、オマエはひとりになってしまうんだぞ。」
 しかし、そんな先のことを、今から考え悩んだところで、何になるというのだろう。ワタシにとって、一番大事なことは、目の前の、毎日だけなのだから。
 暖かい所で寝て、時々飼い主に体をなでてもらい、しっかりとエサをいただく、このネコ三原則があれば、他に何もいらない。それだけで十分なのだ。

 「庭にある、大きな豊後(ぶんご)梅の花が咲き始めた。まだ三分咲きほどである。薄紅色の花びらもきれいだけれど、枝先まで、小さく連なる、より濃い色をした蕾の姿が可愛らしい。
 青空を背景にして、梅の花が咲いているのを見ると、やはり春が来たのだと思う。数日前には、もう気の早いウグイスの一鳴きが聞こえていた。

 さて、前回まで、一休宗純(1394~1481)の、絵入り法話集『一休骸骨』について、自分なりに解釈してみたのだが、もちろん、そのくらいで、一休のすべてが分かるはずもない。
 さらに、一休を知る上で、最も重要だとされているのが、一休の死の一年前、86歳の時に出された『狂雲集』である。
 弟子たちが、それまでに一休が書きためていた、漢詩や散文などを集め、編集して、一休がそれらに目を通して、完成したものだとされている。
 原文は、返り点も打ってない漢詩文だから、読みなれている人でないと、理解するのは難しい。そこで、前に参照として挙げていた本(中公クラシックス『狂雲集』)などを、頼りにして、読んでいくことにする。
 そこに収められた559編は、おおまかな分け方がされているものの、それぞれの詩文の、作成年月も分からず、時代順というわけでもないが、一休の修行、諸国放浪の時代から、晩年にいたるまでのものが、網羅されていて、彼の思想とその心境を知る上でも、欠くべからざる資料となっている。
 一休の、生い立ちから、師である華叟(かそう)のもとを離れ、三十代半ばまでの修行時代、そして、絵入り法話集『一休骸骨』を出す頃までのことは、前に書いてきた(2月25日の項)が、その頃の時代のものだと思われるものを、『狂雲集』から挙げてみれば。

 『骨身に沁みるほどの、飢えと寒さの中での修行が、もう六年にもなる。しかし、その苦行こそが、仏の道への深い教えである。生れながらにして釈迦になったわけではないと、道は説いているのに、どの僧侶も、ただ食べることばかり考えている。』
 しかし、その苦行の合間に、町に下りた時には、さすがの一休も、巷(ちまた)の欲望に負けてしまうのだ。
 『今日は、山中で修行していても、明日になると、町に下りて、いかがわしいことをして、酔いつぶれてしまう。そして、いつも後悔するのだ。こんな私が、棒を使って、他の人に喝(かつ)など入れてよいものか。』(まるで、あの種田山頭火の世界ではないか。)
 自ら、『狂雲』と名のり、風狂の世界に遊び、僧侶の戒律である飲酒、肉食、姦淫(かんいん)までも破って、堺の町を練り歩いていた一休だが、他方では、純粋な禅の道を求めるだけに、金銭にまみれた生活を送る、当時の僧侶たちについて、厳しく非難している。

 その後の一休について、残されている年表をたどると。
 62歳の時、臨済宗の先師、大応国師(だいおうこくし)ゆかりの妙勝寺を再建し、酬恩庵(しゅうおんあん)と名づけた。(現在の京田辺市にあり、後の一休寺である。)この酬恩庵はその後、能、狂言、連歌、茶道などの、室町文化を担う人々の、集まりの場ともなった。
 しかし、73歳の時に、『応仁の乱』(1467年)が起きて、京都から酬恩庵に逃れるが、戦火は広がり、さらに各地を転々とする。
 76歳、大阪、住吉の薬師堂で、盲目の奏楽者であり、巫女(みこ)だともいわれる、森女(しんじょ、あるいは森侍者、しんじしゃ)に出会う。(写真、一休寺に伝わる『一休宗純像並森盲女像』、正木美術館蔵)
 その時のことについて、一休は、日付までも入れて、一編の漢詩を作っているのだ。そして、翌年の春、再会した二人は結ばれる。その時、一休、77歳、森女は30歳位だろうと言われている。

 『森女は、私の高僧としての評判だけでなく、皇族の血脈につながることをも聞き知っていて、会いたがっていたし、私も、薬師堂で彼女の姿を見て、その歌を聞いて、もう一度会いたいと思っていた。』
 さらに、その後の仲むつまじき二人の姿を、一休は、なんら恥じることもなく、そのままに歌いあげる。
 『盲女である森女を輿(こし)に乗せて、私たちは花見に行く。寺をめぐるさまざまな問題で、うんざりしている私には、良い気晴らしになるのだ。見ている人たちから、何と言われようとかまわない。森女は、本当にきれいだし、いとおしい気持ちになってしまう。』

 全くこれが、あの一休和尚の言葉か、77歳にもなる僧侶の言うセリフかと、思ってしまう。しかし考えてみれば、それを、単なる年寄りの女狂いだと、片づけることはできないのだ。
 つまり、苦難と放埓(ほうらつ)の修業時代を乗り越えて、すべてのものは、虚空に帰り、天地に戻るとして、いわゆる涅槃寂静(ねはんじゃくせい)の境地に達したかと思われた一休だが、現実に生きているこの身はと考え、さらに生きていくことに忠実であろうと考えれば、それは、臨済の教えにある、『随処に主と作れば、立ち処に皆真なり。』(何においても、ただひたむきに行えば、それは成し遂げられて、まことのものになる。)ということの、証しではなかったのか。
 もし、それを悪く解釈したとしても、老人の性を直視すれば、晩年にして、一休が理想の女性(にょしょう)像としての森女に出会えたことを、むしろ喜んであげたい気さえするのだ。
 老いてもなお、女性の姿そのものを愛し、美の化身としてあがめて、自己の製作意欲へと昇華させた芸術家たちは、たとえば、小説の谷崎潤一郎にしろ、絵画のルノアールにしろ、枚挙(まいきょ)にいとまがないほどなのだ。つまり、人は幾つになっても、己の美の姿を追い求めるものなのだ

 『狂雲集』には、さらに続いて、一休の森女に対する、愛と讃嘆の漢詩が幾つも捧げられていて、最後の一編までもが、森女に対する感謝の言葉で締めくくられている。
 『緑の木の葉がしぼみ、枯れ落ちても、春になると、昔からの約束のように、また再び芽吹いてきて、やがて、その緑の葉の間から、花が咲きだすのだ。私が、森女に出会えた、その深い恩を、ひと時でも忘れたとすれば、未来永劫(えいごう)の畜生道(ちくしょうどう)に、堕(お)ちてしまうだろう。』
 この言葉を聞いて、もう私はただ涙する他はない。それは、一人で生きてきた盲目の女奏楽者と、同じように、男女の愛に対する盲者であった年老いた僧侶との、あまりにも遅すぎる、しかし純粋な思いに溢れた、奇跡的な邂逅(かいこう)であったことかと・・・。
 
 その後の一休は、森女との交情を深めながらも、臨済宗の高僧としての務めを果たしていく。
 80歳、天皇の勅命により、大徳寺の第四十八代住持となる。(しかし、一休はその大境内の中に、安住しようとはしなかった。)
 86歳、酬恩庵にて、亡くなる。(前年に『狂雲集』完成。)


 一休の死の床には、恐らく森女の姿もあっただろう。そして『本阿弥行状記』には、『一休和尚臨終の時、死にとうないと弟子にのたまいける・・・。』との記述が残されている。
 (以上の漢詩等の訳文はは、2月25日の項であげた参照文献をふまえての、自分なりの解釈である。)

 一休のことについて、まだまだ書くべきことがいろいろとあるのだが、拙(つたな)い文章を長々と続けても、何の益にもならないだろうから、4回にもわたって続けてきた話は、このあたりで終わることにしたい。
 ただ、一休のことを調べていて気づいたのは、この日本の、平安時代末から鎌倉時代、南北朝時代を経て、室町時代にいたるまでの三百年程の間、戦乱に明け暮れた中世という時代に、何と多くの、名僧たちが、現れていたのかということである。
 法然(1133~1212)、浄土宗の開祖
 栄西(1141~1215)、臨済宗の日本における開祖
 道元(1199~1253)、曹洞宗の開祖
 親鸞(1173~1263)、浄土真宗の開祖
 日蓮(1222~1282)、法華宗(日蓮宗)の開祖
 少し時代をあけて、
 一休(1394~1481)、臨済宗大徳寺派
 蓮如(1415~1499)、浄土真宗本願寺派
 さらに時代を下がると、良寛(1758~1831)の名が見えるだけで、その後の仏教界では、この時代ほどに、数多くの傑出した僧侶を、輩出(はいしゅつ)することはなかったのである。


 無信仰の私ではあるが、また別な機会に、これらの日本の名僧たちについて、考えてみたいと思っている。古来からの宗教が、顧(かえり)みられない今の時代だから、こそなのだが。」


ワタシはネコである(88)

2009-03-04 16:26:55 | Weblog



3月4日
 昨日は、朝、雪が積もっていたが、その後の雨で、すぐに溶けてしまった。今日も、朝から雨模様で、気温も3度と肌寒く、まだまだ、ストーヴの前で寝ているしかない。
 ところが、最近、ワタシの体の中で、何かがむくむくと起きてきた。春になると、いつも、こうして元気になってくる。それはワタシたち動物への、本能の呼びかけでもあるのだ。
 冬の間、なるべく体を消耗(しょうもう)しないようにと、静かに潜んで生きていたワタシたちは、まず植物たちが眼ざめ、それに合わせて昆虫たちが動き出し、さらに小動物たちが徘徊(はいかい)し始めるころになると、ついに出番が来るのだ。
 いつか、飼い主が聴いていた、クラッシック音楽にも、そんな雰囲気を感じさせるものがあった。確か、ストラヴィンスキーの「春の祭典」とかいう名前だったと思うが、初めの部分の、冬の眠りから覚めて、すべての生き物が動き始める音の連なりを聞いていると、ワタシでさえも、何かこう動きたくなる感じだった。
 午後になると、ワタシは天気が悪くてもベランダに出て、そこから辺りの物音や動静をうかがう。鳥たちはもとより、他のノラネコたちが来ないかなどと見張っているのだ。
 さらに家の中に戻っては、飼い主を相手に見立てて、ダダーッと走り回ったりもする。そんなワタシを見ていた飼い主が言う。
 「全く、オマエは、冬の間、ネコかぶってたな。とても、70幾つの、おばあさんネコには見えないぞ。」
 とはいっても、これは春先だけのカラ元気、本当は年相応に、あちこち弱ってきていて、アーゴホゴホ、飼い主のあなたが傍にいてくれないと、とてもやってはいけません、はい。


 「前回の、一休宗純(1399~1481)の『一休骸骨(がいこつ)』について、さらに考えていきたいと思う。(写真はその一部分、前回の続き。)
 まずこれは、一般庶民のための仏教法話集なのに、なぜに、あの不気味な骸骨(少しユーモラスではあるが)の姿を借りてまで、この世の無常を訴える必要があったのか。そのためには、彼の属した禅宗、臨済宗(りんざいしゅう)について、少し知る必要がある。

 禅の教えは、インドから中国に渡ったあの有名な達磨(だるま)大師(?~532)によって始められ、その教えを受け継いだ臨済(?~867)によって臨済宗が起こされた。日本での開祖は、鎌倉時代の栄西(1141~1215)だとされている。
 同じ禅宗でも、曹洞宗(そうとうしゅう)が、黙照禅(もくしょうぜん)といわれ、座禅することによっての悟りを目指すのに対し、臨済宗は、看話禅(かんわぜん)といわれ、公案(こうあん)提示による、禅問答によっての悟りを目指す、という違いがあるとされる。
 本来の仏教の教えには、人生の苦悩に対しては、『諸行無常』、『諸法無我』、『一切皆苦』などの世界から、『涅槃寂静(ねはんじゃくせい)』の境地へと達する過程が、示されている。
 さらに、臨済宗の教えとして、『一無位の真人』(身分や位にとらわれない人)で、『随所に主と作れば、立ち所に皆真なり』(すべて全力でやれば、それが真実になる)、そして『無事是貴人』(無心のままいることができれば、それが立派な人である)という言葉がある。(以上、ウエブ・サイト『禅の教え』より)

 つまり、一休は、一般民衆に、これらの難しい仏教法話を、聞かせるよりは、わかりやすく、しかし多少ショッキングな骸骨を描くことによって、ユーモラスに皮肉をこめて、説明しようとしたのだ。毎日、浮かれ騒いで暮していても、死は、その辺りに転がっている骸骨のように、いつ訪れるか分からないと。
 昔、一休は、しゃれこうべを竹笹にさした姿で、『ご用心、ご用心』と言いながら、正月元旦の堺の町を歩いて回っていたとのことだが、人に、なぜ正月にと問われた一休は、目の所が暗く空いた、しゃれこうべを指して、目、出たいからだと答えたという。
 この『一休骸骨』の、序文に書かれている言葉が興味深い。

 『一切のもの、ひとたび空しくならずということなし。空しくなるを、本分の所へ帰るとは言うなり。』
 『そもそも、いづれの時か、夢の中にあらざる、いずれの人、骸骨にあらざるべし。それを五色の皮につつみて、持て扱うほどこそ、男女の色もあれ。息絶え、身の皮破れぬれば、その色もなし。上下の姿もわかず。・・・』
 そして極めつけの言葉、『身は死ぬとも魂は死なぬは、大なる誤りなり。・・・仏というも虚空のことなり。天地国土、一切の本分の田地に帰るべし。』

 仏教に帰依(きえ)する一僧侶が語る、なんという言葉だろう、それも、中世の日本という時代に。もし、仏という字を、主に変えてみれば、・・・とても、キリスト教では、許されない言葉だろう。
 それは、仏教という宗教の、懐(ふところ)の深さを知らしめるとともに、一休という禅僧がたどりついた、近代の実存主義的な思考を、さえ思わせるのだ。
 この『一休骸骨』の絵は、どこかユーモラスな骸骨の姿として、描かれているところが救いだが、それにしても余りにも、悲観的な、無常観を現わしている文章の羅列で、救いへの道のりは示されていない。ただ、ご用心と言うばかりだ。
 しかし、その無常観の後ろに見えるものは、誰でも等しく、同じ所にたどり着く、虚空であり、天地の世界である。
 この法話集は、戦乱の世の、明日をも知れぬ人のために書かれたものである。今の平和な時代の、幸せな人たちが読むべきものではないだろう。
 しかし、時に恵まれずに、一人で苦しみ悩んでいる人にとっては、何らかの救いになるかもしれない。
 つまり、今が良かろうが悪かろうが、行き着く先はみな同じだということ、だからくよくよせずに、日々の仕事に努め、余分な欲望に走らず、心静かにいるべきであるということを、教えてくれるからだ。


 以上は、あくまでも、私自身の勝手な解釈であるし、臨済宗の門徒でもないから、十分に理解できずに、一休が意図したところと異なっているかもしれない。しかし私は、ともかく、一休の本を読むことによって、そこから自分なりの利点に気づくことができて、良かったと思っている。
 はい、馬も鹿も、それなりに、一生懸命に考えるものでございますから。」
 
 (参照文献は、2月25日の項に同じ。)