3月31日
なんという寒い日が、こうも続くのだろうか。この一週間、朝は0度前後で、日中でさえ10度までも上がらないのだ。
ついこの前までの何日かは、余りの暖かさに、飼い主はストーヴを消していたのだが、今では、冬と同じように、日が差さない時は一日中、ストーヴをつけていて、ワタシはその前でぬくぬくと寝ている。
まあ、こうした天候の変化は、春先にはよくあることだ。それほど、あわてふためくことでもない。その日の天候に合わせて行動すれば良いだけのことだ。
思えば、ワタシたち動物に、神様が与えてくれた、全身を覆う毛皮は、体の内部を守るためとともに、夏の暑さよりは、冬の寒さに備えてのものなのだ。
その毛皮も、毎日の手入れを怠ったり、十分な栄養を保っていないと、例えばノラになったりすると、ツヤもなくゴワゴワとした感じになり、それに寄る年波が加わると、見る影もなくなってしまう。
そういうふうに、ワタシ自身を含めて、すべてはうつろい変わりゆくものだけれども、だからといって、何も感傷的になることはない。
ワタシにとって大事なことは、昨日の一日ではなく、明日の一日でもない。さらに、今日の一日でさえない。ただ、目の前の今こそが、最も大切な時なのだ。
「今年は、暖冬の影響もあり、桜の花の開花も、また記録的な早さだった。
しかし、一転して、この一週間ほどは、”花冷え”の寒さが、続いている。それまでの、暖かい日々の後に、これほどに長い、寒の戻りがあるとは・・・。
青空に向けて花を開いていた、庭のスイセンやボケの花も、うつむいてしまい、ヤマザクラもツボミのままだ。
花に嵐のたとえのように、物事は、常に絶えざる変化の中にあり、うつろい変わっていくものなのだ。まして、人の世においては、なおさらのこと。
今回の、私の書きたい主題でもある、岩佐又兵衛勝似(いわさまたべえ・かつもち)もまた、己の意のままにならぬ運命に、翻弄(ほんろう)された人生を送った一人である。
時は戦国時代、織田信長が上洛を果たし、新たに築いた安土城に、居を構えていた1578年、又兵衛は、摂津の国、伊丹の有岡城主、荒木村重の側室の子として生まれた。
天下統一の途上にあった信長の、次なる戦いの目的は、西の大国、毛利であった。しかし荒木村重は、その二つの強者の狭間(はざま)で悩み、最後には、信長に反旗を翻(ひるがえ)すことになった。
怒りに燃えた信長は、すぐに有岡城を攻め滅ぼして、寸前に城を落ちのびた荒木村重以外の、城内に残っていた荒木一族郎党のすべてを、京都に引き回しの上、子供に至るまでも、斬首(ざんしゅ)の刑に処したといわれている。
その時、わずか2歳であった又兵衛は、乳母の手に抱かれて、奇跡的に、城外へと逃げ出すことができた。
その後、又兵衛は、京都の本願寺にかくまわれて育てられ、母方の姓の岩佐を名乗るようになった。2年後に、その信長は、本能寺で明智光秀に討たれ、そして豊臣秀吉の時代になる。
彼は、その秀吉の配下となった信長の子、織田信雄(のぶかつ)に小姓として仕え、あの有名な北野大茶会にも参列し、関白二条昭実の館にも出入りするようになった。 このころ、狩野派や土佐派の大和絵を学んだといわれている。
1600年の関ヶ原の戦いの後、徳川家康によって江戸幕府が開かれ、そして1615年には、大阪夏の陣で、豊臣家は滅び、徳川時代が名実ともに確立することになる(秀忠の時代、家康は翌年亡くなる)。
この時、38歳の又兵衛は京都を離れて、越前、北之庄(福井)に移り、家康の孫である城主、松平忠直(菊池寛の評伝小説に『忠直卿行状記』)と、次の代の忠晶の時代の、二十年の間、福井城下の町絵師として、さまざまの名画を描き残すことになる。
その名声は、本家筋である江戸、徳川家の知るところとなり、命を受けて、又兵衛は妻子を福井に残したまま、京都を経由して江戸へと旅立つ。又兵衛、すでに60歳。
そのまま、江戸で有名絵師としての忙しい日々を送り、福井へと戻ることもできないまま、1650年、73歳で亡くなる。その遺骨は、かねてからの彼の望みどおりに、福井に運ばれて、ゆかりある興宗寺で、弔(とむら)われたという。
岩佐又兵衛の描き残した作品については(彼の下にあった画工たちの手になる物を含めて)、未だにそのすべてが確定されている訳ではなく、大まかに、三つの時代に分けてあげるとすれば。
京都時代の、『洛中洛外図屏風(舟木屏風)』(六曲一双で各162cm×340cm)、『豊国(ほうこく)祭礼図屏風』(六曲一双で各166cm×345cm)などは、いずれも、当時の人々の暮らしや風俗が、詳細に、そして圧倒的な群集の姿として、見事に描かれている。(六曲一双とは、六つに折れ曲がった屏風の一対のこと。)
福井時代には、『三十六歌仙図』、『金谷屏風』、『池田屏風』、『和漢故事人物図鑑』などもあるけれども、なんといっても、素晴らしいのは、あの長大な絵巻の数々・・・『山中常盤(やまなかときわ)物語絵巻』、『堀江物語絵巻』、『上瑠璃(じょうるり)物語絵巻』、『小栗判官(おぐりはんがん)絵巻』などであり、いずれも、30数cmの幅ながら、なんと100mから300mにも達するという、極めて膨大な絵巻物なのである。
とても一人で描けるはずもなく、それゆえに又兵衛の配下にある画工、工房が存在したとされているのだ。
江戸時代の作品としては、幾つかの『三十六歌仙図』、『四季耕作図屏風』、『月見西行図』、『楊貴妃図』などが知られているが、いわゆる浮世絵の元祖、通称”浮世又兵衛”としての、それらしい風俗画の作品は、『婦女遊楽図屏風』、『湯女図』(浮世又兵衛の名に恥じない素晴らしい絵である)などくらいのもので、寂しい限りである。
福井に帰ることさえままならぬほどに、多忙を極めた有名絵師としては、余りにもその数が少ない。おそらくは、同時代の、未だに誰の絵か分からないものの中に、又兵衛の手によるものがあるのではないか、とさえ思えるのだが。
ともあれ、そのまま江戸で亡くなった又兵衛が、もう帰れないことを覚悟して、国元の妻子宛てに贈ったとされる絵がある(写真)。『伝岩佐又兵衛自画像』(MOA美術館)である。
この絵が、自らの筆によるものか、それとも工房の弟子の手になるものかはわからないし、絵の傷みも激しいけれども、上等な着物を着て、こころもち目を伏せ、竹の杖を持ち、竹細工の椅子に座る又兵衛の姿に、彼の数奇な人生の終わりを見る思いがする。
岩佐又兵衛の『山中常盤』について書く前に、どうしても、彼の生涯と、作品の概要について、書いておかなければならなかった。
それは、あのグルジアの画家、ピロスマニの作品について書いた(2月17日の項)時の私の思いとは、全くその意味合いを異にする。
つまり、ある一枚の絵を前にして、私たちは、それをどう見るべきか、という決められた方法などは、ないということなのだ。
つまるところは、己の経験と人生を反映させて、絵を見るしかないのだ。それが、作者の意図したものにかなっているのか、正しいのか、間違っているのかは、ともかくとして、それは、自分の見る絵として、そこにあるからだ。
先送りになった本題の、『山中常盤』については次回に。」
参照、『岩佐又兵衛』(新潮日本美術文庫・藤浦正行)、『奇想の系譜』(ちくま学芸文庫・辻惟雄)、『岩佐又兵衛』(文春新書・辻惟雄)、ウィキペディア他のウェブ・サイト。