4月6日
またしても、一か月近くの時を空けてしまった。
私はちゃんと生きているし、きわめて元気に暮らしてはいるのだが、生来のぐうたらぶりがコロナ騒動と相まって、もう辺りかまわずに横溢(おういつ)していて、山に登るのはもとより、外に出るのでさえおっくうになってしまったのだ。
”慣れ”というものは、時により方便なもので、いかなる意味合いにも利用することができるし、併せてその弊害を受けることにもなる。
つまり、日常が日々平穏に過ぎてゆきそれに慣れてしまえば、いざという時の変化にはついていけなくなるし、逆につらい日常が続き苦しんでいても、それに慣れてしまえば、つらい日常でもいつしか平穏な日々に見えてくる。
人の一生とは、その繰り返しということになるのだろうか。
あたり前のことだが、辺りを照らしていた太陽が夕方に沈んでしまえば、闇になるし、またその暗い夜もずっと続くわけではなく、”明けない夜はない”ということになるのだろう。
温かい春の日が続いている。
前回、2月の雪の九重の写真をあげたけれども、その時に書いていた通りに、その後はもう雪を降らせるような寒波は来なかった。(昔は3月いっぱいまで雪の九重を見ることができたのに。)
毎年暖かくなっていくことは、寒さの厳しい九州の山間部に住む、この年寄りにとっては、ありがたいことだけれども、それだけに冬の雪景色が見られなくなっていくのは残念なことでもある。
なにぶん、年末にはもうユスラウメの花が咲き、サザンカの花が咲き、ブンゴウメは、いつもより早く3月初めには咲きはじめ、ジンチョウゲ、ヤエツバキ、コブシと続いて、今では満開のサクラの花がもう花吹雪のように散り始めていて、そしてわが家の春の花の掉尾(とうび)を飾る、あの艶(あで)やかなツクシシャクナゲの花が明るく庭を彩っている。
まさに花の宴(うたげ)のさ中にあるのだ。
(上の写真は、百年近い老木の幹から芽吹いて、小枝に咲いたヤマザクラの花。下の写真は、まだこれから咲く赤いツボミがある時のツクシシャクナゲの花。)
ついこの前までは、日本の四季の中で、雪景色を見ることのできる冬が一番好きだなどとうそぶいてはいたが、歳をとってくると、目の前の生き生きとしたものに目をひかれて、春の芽吹きや花々に心奪われるようになってきたのだが、それもゆえからぬことだと思う。
少し前までは、雪山こそわが憧れと、内地遠征登山はもとより、早春の北海道の山々の雪景色を見るためにと早めに北海道に戻り、様々な山に挑んできたのだが、最近では体力の衰えを感じていて、さらにコロナ禍も併せて、自宅周りの自然を楽しむだけになってしまったのだ。
もっともそれでも、都会のひしめき合う市街地に住んでいるよりは、はるかにましなことなのだろうが。
前回にも書いたことだが、今回の全世界を覆う新型コロナのパンデミック現象は、人類に大きな課題を突き付けているようにも思えるのだが、その都市過密化と世界のグローバル化という、ウィルス伝播力を拡大させる二つの大きな問題には、いまだに決定的な解決方向も見いだせずに(地方移住、在宅ワークが掛け声だけに終わらねばいいが)、今はただワクチンに頼り、嵐が過ぎ去るのを待つだけのように見えるのだが、もちろんそうした事柄についても、やがて消えゆく私たち年寄りがとやかく口出しすることではないのかもしれない。
ものごとは時とともに流れ変化していくものであり、私たちが選べるのは、その時にどの船に乗るかだけなのだから。
さて、私はそうした世界の思いとは遠く隔たった、山の中で暮らしているのだが、誰がどうこうしてどこがどうこうなってと望むのではなく、ひとり平穏に暮らすことだけを目的にしているから、今のところさしたる不平不満もなく、いつか変異株コロナに襲われ命を落としたとしても、もうこの年ではそれが定めだと思うことができるし(じたばたはするだろうが)、ただ今はこうして年相応の生活を送ることができていて、それだけでもありがたいことだ思っている。
もちろん、新聞テレビで世の中の大体の動きは把握できるし、なるほどそういうことかということぐらいのことは理解しているつもりだが、年寄りにはそれくらいの情報量で十分だと思う。
何よりも大切なことは、もう人生の残りの時間が少ないことであり、そのためには自分の好きなことを、細々と楽しんでいくことができればいいのだと思っている。
野山歩きのひと時に心を解き放ち、自分だけの過去の記憶の糸を手繰り寄せ、それぞれの場面を繰り返し思い返しては愉しみ悔やみ、さらには最近すっかり夢中になっている日本の古典文学を読んでは、日本人としての自分の来し方に思いをはせること・・・そうして、ひとりささやかに生きているだけのことだが。
最近、読み続けていた『新古今和歌集(上下)』(久保田淳 訳注、角川ソフィア文庫)をようやく読み終えることができた。
毎日寝る前に、その中の和歌十首余りを読んでは、そのていねいな訳注と合わせて読み直し、納得し考えさせられることが多々あって、それだけになかなか前に進まなかったこともあるのだが。
それでも寝る前の30分余りの、この読書のひとときが、私の愉しみにもなっていた。
もちろん、この和歌集もまた単純な”花鳥風月”の世界だけではなく、むしろ今も昔も変わらぬ人間の様々な感情の披歴の場であり、愛憎相半ばしてその思いを心のうちに抱えたまま、生きていくことの喜びやはかなさやが、切々と伝わってくるような和歌が多かったように思える。
白鳳天平の奈良時代の『万葉集』から、平安時代の『古今和歌集』、そして鎌倉時代初期に編まれた『新古今和歌集』へと、日本の誇るべき和歌文学の大まかな流れを見てきて思うことは、長い間幸いにも外敵に侵略されることもなく、この孤立した島国の中で、独自の社会文化を築き上げ、その中で切磋琢磨して育んできた、濃密な人間関係と自然観照である。
そして、それらの思いの背後にいつもあったのは、”世に背(そむ)く”こと、つまりその貴族社会から離れて世俗を捨て出家するという、切り札となる解決策を併せ持っていたことだが・・・。
もちろんこれらの日本の古典は、私のような浅学の徒が、あれこれと口をさし挟み、偉そうに推測できるような世界ではなく、あくまでもそれらのほんの一端をかすめ読んで感じた、個人的な想いでしかないのだが。
しかし、この年になってようやくというよりは、むしろこの年になってこそ読むことのできた、日本の古典文学の数々に感謝するばかりである。
この『新古今和歌集』は、鎌倉時代に後鳥羽院の勅旨により、藤原定家他6人の選者によって編まれて、元久二年(1205年)には成立しているのだが、源実朝(さねとも)の暗殺(1219年)後の混乱の中で起きた、承久の乱(1221年)をへて、後鳥羽上皇は隠岐の島に流され、院はそこでも、自らが手を入れて『新古今』の隠岐本と呼ばれる異本を出している。ともに独自の歌才がある後鳥羽院と藤原定家の対立などの波乱も織り込んで、これらの歴史的背景も知っておく必要があるだろう。
これら三大歌集の中で、『万葉集』がその数(約4500首)において、さらにはその内容において(天皇から防人さきもり、一般庶民に至るまでの階級を含んでいて、その勇壮なあるいは純朴な思いが写実的に描かれていて感動的ですらあり)、ひときわ高く抜きんでてそびえ立っていることは、誰でもが認めるところだろう。
しかし、紀貫之(きのつらゆき)らが編纂した『古今集』(約1100首)には宮廷文化の香りを立ち昇らせるかのような優美、繊細さがあり、『新古今集』(約1900首)には定家らの唱える幽玄から有心体に至る境地に向かう技巧の粋が見られる。
(以上の参考文献、新編国語便覧』秋山虔編 昭和52年版 中央図書)
さらに、あの有名な正岡子規(1867~1902)の『古今集』『新古今集』批判であるが、彼の書いた有名な『歌読みにあたふる書』からその一部をあげてみよう。(ネット上の「青空文庫」より)
”・・・貫之は下手な歌読みにて『古今集』はくだらぬ集に有之候。
”・・・『古今集』以後にては『新古今』やや優れたりと相見之候。
”・・・定家といふ人は上手か下手か訳のわからぬ人にて・・・。”
まさしく彼が舌鋒鋭く、二大歌集を批判したのは、当時の歌壇がそれらの歌集の伝統を受け継ぐ、旧派と呼ばれる人々に占められていて、それに対する批判でもあったのだろうし、『万葉集』や源実朝の『金槐(きんかい)和歌集』を称賛し、写実、写生歌論を唱える彼にとっては、技巧に偏った『古今集』『新古今集』などがどうしても許せなかったのだろう。(それだけに病床にある自分の症状をありのままにつづった、『病牀六尺(びょうしょうろくしゃく)』や『仰臥漫録(ぎょうがまんろく)』(いずれもネット上での青空文庫で読むことができる)などは読むのがつらくなるとともに、あまりに平然と自分の症状を書きつづる彼の姿に、私たちも無心の観客になっていくような不思議な感覚にとらわれるのだが。)
土曜日の新聞の特別版に、ある女性作家の随筆が載っていた。
彼女は、2年前に同じ作家である夫を亡くしていた。
二人は作家同士のおしどり夫婦と呼ばれていただけに、彼女の夫を亡くした喪失感は深く、その寂しさをことあるごとに書いていた。
そして、今回の彼女の随筆を読んだのだが。
”若いころ私は、人は老いるにしたがっていろいろなことが楽になっていくに違いない、と思っていた。・・・。だがそれはとんでもない誤解であった。老年期と思春期の、いったいどこに違いがあろうか。・・・。老年期の落ち着きは、たぶん、ほとんどの場合、見せかけのものに過ぎず、たいていの人は思春期だった時と変わらぬ、どうにもしがたい感受性と日々、闘って生きている。・・・。”(朝日新聞土曜版より”月夜の森の梟(ふくろう)”小池真理子)
確かに、日ごろから生活を共にしている人に先立たれることほどつらいものはなく、その喪失感は時として耐え難いものになる。しかし残された者の、人としての使命は生きることにあり、それには月日とともにしっかりと生きながらえて、つらい境遇に慣れていくことにある。十年後、彼女はその慣れの中で、自分だけの新たな領域を見つけているだろうし、その時に初めて、若い時とは違う年寄りとしての落ち着いた目で、ものごとを見るようになるのだろうが。
問題は、時間をかけて、その人がいないことに慣れることだと思う。繰り返すが、”慣れも方便”なのだ。
さて話が横道にそれて、読み終えたばかりの『新古今和歌集』から大きく離れてしまったが、ここで話を元に戻してみよう。
確かに正岡子規が言うように、私のような短歌初心者から見ても、『古今』『新古今』には、技巧を尽くした感が見てとれるような歌もあり、子規の批判も半ばうなづけるのだが、第十六巻の雑歌(ぞうか)上に入るころからいくらか変化が見えてきて、第十七巻雑歌中や第十八巻の雑歌下のころからがぜん興味わいてくるようになる。
その第十八巻の冒頭を飾るのは、讒言(ざんげん)によって九州の太宰府に左遷幽閉(ゆうへい)させられた、あの菅原道真(みちざね)の歌が12首連なり、その無念さが切々と伝わってくる。その中からの一首。
”流れ木と 立つ白波と 焼く塩と いずれかからき わたつみの底”
(前記久保田淳氏の訳によって・・・”海に漂う流木と、海の水面に立つ白波と、海水を沸かし焼いて作る塩とどれが最も塩辛いだろうか、海の底に沈んでいるわが身と比べて・・・” )
他にもこの雑歌としてまとめられたものの中には、幾つも気になる歌があるのだが、際限なくなってしまうので、この『新古今集』の中でも94首と最も歌数の多い、西行(さいぎょう)法師の歌を一つだけ。
“年月を いかでわが身に 送りけむ きのうの人も きょうはなき世に”
(私なりに訳してみれば・・・”つい先日まで元気でいた人も、今日は亡くなってしまったという知らせを聞くような、この無常の世の中で、どうして私だけが長い年月を生きながらえさせてもらえたのだろうか。”)
さてこの『新古今和歌集』は、雑歌集の後に第十九巻の神祇歌が続き、次の第二十巻の釈経歌で閉じられることになるのだが、その中から、藤原定成の娘の肥後(白河院の皇女令子内親王の女房)の歌を一つ。
「涅槃(ねはん)経を読んでいた時に、夢の中で、風が吹いて花が散り、池の氷もとけていく。そこで夜の空と歌題を出されて、夢の中で歌を返した・・・」”谷川の 流れし清く 澄みぬれば くまなき月の 影も浮かびぬ”
訳注の解説では、散る花は涅槃に入る釈迦(しゃか)、池の氷がとけるのは衆生(しゅじょう)が目覚めたことを意味し、くまなき月の影は釈迦の教えをあらわしているとのことだが、私は単純に写生歌としてとらえてみた。
月明かりのもと、谷あいの流れの中に小さな淵があり、そこに月がかすかに揺らめき映っている情景として。
”山秀水清(山秀で水清し)” これは深田久弥の昭和31年刊行の単行本の題名であるが、この『新古今集』の肥後の歌を詠んだ時に、すぐに私の脳裏に思い浮かんだ言葉である。
ともかく若いころに、これらの抜粋歌集などを読んだ時の淡白な印象と比べて、今回三大歌集を読みなおしてみて思ったのは、それも浅学の徒でしかない自分なりに解釈したことではあるが、これらの和歌が彼らの愛憎半ばしたその時々の感情の発露の場として、あるいはひとりうちにこもって嘆き感傷にふける、生身の人間の言葉として響いてきたことである。
長い時を経て、定型化され成立した和歌は、日本の誇るべき文芸作品であり、ある時は声高の叫びになって、またある時は声を押し殺したうめきになって、発せられた言葉による真剣な歌遊びでもあったのだと思うのだが。
併せて同じ時期に読んだ、『藤原定家「明月記」の世界 (村井康彦 岩波新書)』についてだが、「明月記」はいかに世評高い作品とは言え、漢文で書かれた定家の日記であり、おいそれと手が出せるものではないので、そこでとりあえず解説本だけでも読んでみたいと思ったのであるが。
しかし、その中に定家の歌はほとんど出てこなくて、当然ではあるが日記「明月記」の見事なまでの研究解説書になっていた。
そこでは、和歌の才人であり『新古今和歌集』の編者の一人であった定家の姿というよりは、上流貴族の下辺部に位置する定家の日々の奔走苦悩ぶりが生々しく記録されていて、それと同時に定家関連の資料を調べ上げた著者の執念には敬意を払うしかなく、学者が生涯をかけて研究する成果の一端を見せつけられたような気がして、あらためて、私たちがその他大勢のディレッタント(しろうとの趣味人)に過ぎないかを思い知らされたのだ。(時代と国は違うが、同じように17世紀イギリスの役所勤めのある官吏の日常を描いた本があったことを思い出した。「ピープス氏の秘められた日記」岩波新書)
ついでに最近読んで面白かった新書版は、あの『怖い絵』シリーズで有名な中野京子の『欲望の名画』(文春新書)であるが、これは月刊誌『文藝春秋』に連載されていたとのことだが、絵に描かれた人間の様々な欲望を、分かりやすく解き明かし解説していくスタイルは変わらずで、これまた寝る前に読むには最適な本だった。
なお紹介された二十数点の絵のうちの三点(ほぼ同時代のジェローム、カリエール、エッグの作品)は、若き日のヨーロッパ旅行での美術館巡りや、様々な画集などでも見たことのない初めて見るものだったが、それだけに新鮮な目で見ることができたし、ともかく絵画の世界は、まだまだ広く深いのだとあらためて思い知らされたのだ。
この1か月の間のことで、書くべきことはいろいろとあったのだが、もう十分に長くなりすぎたので、この辺りで終わりにする。
さしあたっての今の問題は、新型コロナのワクチンを打つか打たないかだが。私の知り合いの医者夫婦は、二人そろって打たなかったとのことだが・・・。