ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

残るもみじも散るもみじ

2018-11-26 22:01:16 | Weblog




 11月26日

 帰ってきた九州のわが家の庭には、落ち葉が降り積もっていた。(写真上)
 それは、枯葉というよりは、まだその紅葉(黄葉)の色合いを十分に残している、落ちたばかりの葉だった。
 モミジ、カエデ、ユリノキなどで、その下には、もう茶色になったサクラやウメの枯葉ものぞいていた。
 いつもの年なら、この里山周辺では、まだ今頃までは十分に紅葉が楽しめるのだが、周りの人に聞いてみると、山々での紅葉が早かったように、平地の紅葉も早かったとのことだった。
 わが家の庭の紅葉も、ほとんどが終わっていて、わずかに若いモミジの木に紅葉が残るだけで、あとは冬枯れの装いに変わっていた。
 いつもは北海道との季節の差を見るかのように、まだまだこれからが九州の紅葉の盛りで、紅葉の景色を二度眺めることができたのだが。
 もっとも、この秋は北海道のわが家での紅葉を、あれほどまでに、心ゆくまで楽しむことができたのだから(10月29日、11月5日の項参照)、さらに九州の紅葉までもというのは、いくら何でもムシが良すぎるだろう。

 さて、こうした庭の落ち葉を掃き集めて、すでに一度目の”落ち葉焚(た)き”はすませたのだが、まだ他の枝葉などもあることだし、もう二三度はあちこち掃き集めて燃やさねばならないだろう。
 ところが、この一週間は、庭仕事どころではなかった。
 前回書いたように、風邪をひいてしまったからだ。 
 思えば、風邪薬を飲むほどの風邪をひいたのは、もう10年ぶりぐらいのことで、それまで軽い風邪気味の時は、前にもここで書いたこと月あるように、小さいカイロをタオルに包んで、頭なり首筋に巻いておけば、一日もたたずに治ったものだから、今回も甘く見ていたのだが。 
 しかし、今回の症状はそれらとはいささか違っていて、いつもの頭痛よりは、ともかく鼻水鼻づまりで体がだるく熱っぽいから、身動きするのもおっくうなくらいだった。 
 思えば、その前の日から鼻の奥が乾燥した感じで、それはいつもの鼻風邪の前兆に似ていたのだが、ともかく生垣の剪定(せんてい)をした後に、ぬれ落ち葉になる前に枯葉を掃き集めておこうと、庭仕事をしていて大汗かいたというのが良くなかったのだ。 
 ほぼ一週間たった今、大体治ったところだが、いやなセキが残っていて、人に会いに行く用事がいくつかあるのだが、マスクしてというのも変だし、人にうつさなくなるまでは、もう少しは家でおとなしくしているほうがいいだろう。

 今まで、持って生まれた”おつむてんてん”脳天気な私だから、ここまで大きな病気ひとつしなくて、風邪などもめったにひくことがなく、若いころ会社で働いていた時に、風邪でたびたび休む人がいて、若い健康な体の私から見れば”ずる休み”ではないかと疑っていたものだが、今にして思えば当然のことだが、風邪をひきやすい体質の人もいるわけで、やむを得ない欠勤だったのだとわかるのだが。
 そこで思ったのだが、昨日のテレビニュースの特集であげられていたことだが、今公開されているアメリカ映画『いろとりどりの親子』が評判になっているそうで、その女性監督の来日と併せて、その映画が取り上げられていたのだが、それは社会的マイノリティー(少数派)である、自閉症、ダウン症、低身長症などの障害を持つ子供と、それを見守る親たちのたちの日常を記録したドキュメンタリーということだった。

 その中で、障がい者の子供と親たちは、様々な困難に立ち向かい、時には挫折し時には克服しては感動の涙を流すのだが、そこで語られていたのは、”幸せの形は無限にあり、幸せとはいろとりどりの形なのだ”ということだった。
 低身長症の男が、まるでダルマさんのような格好で電動車いすに乗って街中を走っていた時、たまたま通り合わせた男から、”おれがそんな姿になったら、おれは自殺するね”と言われたそうだ。

 そんな彼も、同じ病気の彼女とめぐり逢い、二人は結婚して、今その彼女のお腹には、二人の子供が宿っているという。
 それを知った二人だけでなく、その両親たちも喜びにあふれて二人を抱きしめていた・・・二人だけの幸せのかたち。


 さらにもう一つ思い出したのは、同じ日に放送されたいつもの「ポツンと一軒家」(テレビ朝日系列)の番組の中の一つの話だが、それは九州の山の中に造られた、大きなダム湖のさらに先にある一軒家の話だった。
 55年前、大規模なダム建設で、その谷あいにあった300世帯もの人が住んでいた集落が、湖底に沈むことになって、多くの人は遠く離れた所へ引っ越して行ったが、そのうちのいくつかの世帯は、同じ谷の上に作られた代替地に住むことになって、そこで新しい集落を作ったが、そんな集落とは離れた、ダムの最奥地の所に水没を免れた一軒の家があって、そこには今も人が住んでいるという。

 その家に一人で住んでいるという60代半ばになる彼は、人懐っこく取材陣を迎え入れてもてなし話をしてくれた。
 もともと自分は、他の家の子供だったのだが、この家に養子にもらわれてきたのだという。
 この家は水没から免れたものの、離れた一軒家になったために、元の持ち主は引っ越してしまい、空き家になっていたものを彼の養親が譲り受けて一部建て直し、以後ずっと数十年来住んでいるとのことだった。
 その養父は20年前に亡くなり、養母も2年前に亡くなり、今ではこうして一人で暮らしているのだが、「養父からは、林業のことについていろいろと教えてもらい、養母からもよくしてもらって、今こうしてここにいられるのも二人のおかげであり、私は本当に幸せだと思う。」と明るい顔で話していた・・・彼の幸せのかたちがそこにはあったのだ。

 2年前、あの神奈川県の知的障碍者施設「津久井やまゆり園」で起きた19人殺害の惨劇。
 犯人の元施設従業員の若い彼の話によれば、社会に迷惑をかけるだけの障がい者たちだからという理由だけで・・・その彼が決めつけた幸せのかたちとは。
 もともと、いわれなき差別化、迫害の歴史は、子供時代の”いじめ”から始まって、いつの時代にもあったことなのだが。

 今、私には、自分の小さな安らぎの中にいることのできる、幸せがある。
 こうして、年を取り、病気で横になっていた時を過ごしてから、余計に何ごともない時の、小さな幸せを思ってしまうのだ。

 もう、一か月以上も山に登っていない、九重も地元の山も、ただ冬枯れの木立の中にあり、次に強い冬の寒気が押し寄せてきて冬景色に変わるまでは、あまり山に行きたいとは思わないのだ。
 しかし、素晴らしい天気が続いたこの連休の間、ライブカメラで見る九重の牧ノ戸峠駐車場は、連日クルマでいっぱいだった。
 考えてみれば、山に何らかのきらびやかな季節の衣装を求めて行く私と比べれば、ただ山の中を歩くことを目的とする彼らのほうが、より正しい山への接し方なのかもしれない。

 話は変わるが、この23日は、満月だった。
 それに合わせるかのように、その前後の日を含めて、夜の空は晴れ上がり、満月はひときわ大きく、照り輝いてた。   
 ちょうど1000年前のこの日、平安時代の藤原氏の絶頂の時代を築き上げた、あの摂政太政大臣(せっしょう、だじょうだいじん)の藤原道長(みちなが、966~1028)が宴のさ中に読んだとされる、あまりにも有名な歌・・・。

「この世をば わが世とぞ思う 望月(もちづき)の 欠けたることも なしと思えば」の一首が思い出されるが。

 そこで思いつくのは、自分の栄耀栄華を満月になぞらえたとしても、思うに彼が見た満月は、雲の間にようやく見え隠れしていたものではなく、この数日私が見たような快晴の天気の日が続き、夜空はくまなく晴れ渡り、今日も昨日も、さらには明日にも見られるであろう満月の姿だったのだろうと思われるのだ。 
 さらにこの時の道長の年齢は52歳、昔の短命な時代の人のことを思えば、すでに高齢に近く、彼が亡くなったのはその10年後のことである。
 つまり、若い時に権力の座にあった喜びとは違う、ある種の年寄りならではの感慨が含まれていて、兄弟との争いや天皇家との対立などを乗り越えて、やっとここまできたという思いがあったからだと思う。 
 若い時の喜びは、短急に絶頂に駆け上がった喜びであるが、年を経て経験を積んで勝ち得た喜びは、それまでの自分の足跡をも振り返り見ることのできる、感慨深い喜びになるのだ。
 その後、彼は三人の娘を天皇家に嫁がせ、長男頼通(よりみち)に自分の職位を譲った後、剃髪(ていはつ)して仏門に入るが、ほどなく病に倒れ62歳で亡くなっている。(以上Wikipediaより)

 さて、こちらに戻ってきた時に、家の庭でいまだに残っていたモミジの木は、まだ盛りの華やかさだったのだが、朝夕の冷え込みで少しずつ枯れ落ちていって、もうわずかな枚数を残すだけになってしまった。(写真下)

 ”散るもみじ 残る紅葉(もみじ)も 散るもみじ”

(元の句は、良寛辞世の句とされる「散る桜 残る桜も 散る桜」より)



  


ハイ・プレッシャー

2018-11-19 21:33:48 | Weblog




 11月19日

 数日前、九州に戻ってきた。
 天気予報では、その日は全国的に晴れのマークが多くついていて、久しぶりに飛行機からの眺めを楽しめるはずだったのだが、結果的には、すべての地上の眺めを楽しめるほどの天気にはならなかった。
 それは、高気圧に覆われていたとは言っても、所によっては、その位置が少し南にずれていて、その等圧線のやや混んだあたりから、冷たい空気が入り込んでいて、雲ができて地表を覆っていたからだ。

 まずは、十勝帯広空港を離陸した飛行機の窓から、雪のついた日高山脈の山々を見るのを楽しみにしていたのだが、残念ながら中央部の山々の稜線には雲がかかっていて、ようやく南日高あたりですっきりと晴れてきて、楽古岳(1472m)をはじめとする山々が、まだほとんど雪はついてはいないものの、見事に彫琢(ちょうたく)されたレリーフ模型のように見えていた。
 地理学マニアとしては、こうして微に入り細に入り稜線谷筋に刻み込まれた、立体地形図の景観ほど興奮するものはないのだ。
 ”そんなものを見て喜んでいるなんて、ヘンタイ!だ”とのそしりを免れないかもしれないのだが、大体が世の中の愛好家、好事家(こうずか)と呼ばれる人たちには、多かれ少なかれ、そうしたヘンタイ気質が存在するものであり、それだけにマニアという言葉のほうがふさわしいのかもしれない。
 若いころには、自分の興味がいろいろと際限なくふくらんでいき、自分は一つのことに集中できないで、心移りしがちな落ち着きのない人間だと思っていたのだが、こうして年を取ってきて、ひとりの時間を自由に使えるようになってくると、むしろ退屈どころか、若いころからあれこれ首を突っ込んで少しでも調べては学んでいたことが、あの小さく小分けされて入れてある、昔の漢方薬の箪笥(たんす)のように、今となっては、その時々でその引き出しを選んで開けて、自分で楽しむことができるようになって、人生を味わい尽くすべく生きるには、これもまた一つの方策だったのかと思うのだが。

 前にもここで取り上げたことがあるが、あのトーマス・マンが書いた大作『魔の山』で、若い主人公が結核療養のために訪れたサナトリュウム(療養施設)で、当時もてはやされていたいわゆる”百科全書派”の博識な男に出会い、狭い閉ざされた空間、社会だけでなく、世の中には様々な価値観を持った人々がいるわけだから、若いうちにそうした経験を積むべきだと教えられ諭(さと)されていたのを思い出す。

 もちろん私は、今どき流行りもしない”百科全書派”の弁護などをするつもりはなく、ただそうした広く浅い知識を持っていることが、残りの人生をより豊かなものにしてくれるかもしれないと思っただけのことで、まともに考えれば、生涯ひとつのことに向かい、人間社会のために何事かの寄与をした人のほうが、はるかに有意義の人生を送ったことになるのだろうが、何の成果も残さずに、自分のうちだけで人生を送った人も、自ら納得できていれば、これもまたその人にとっては十分に満足できる人生だったのだろうと思うのだが。
 すべての人が満足できるような生き方はないし、またすべての人が不幸せな人生を送るわけでもない。
 つまりは、それぞれの人生のそれぞれの感じ方や評価の仕方にあり、それを何事もいい方向に進むためのものだと考えるほうが、解決できないことを悪い方向へと関連付けて気に病むよりは、はるかにいいことのように思えるのだ。
 もちろんそこには、それはただ、人生での大きな問題をいつも避けて通っているだけのことで、何の問題解決にもならないと批判する人もいるだろうが。 
 それでは、そういう人が真剣に悩んだ末に、いつも最上の解決策を生み出してきただろうか。
 つまるところは、いつも堂々巡りの心配事が増えただけではなかったのか。
 つまり時には、自分の中にある多くの引き出しを見比べながら、時の流れに任せていくのもいいことではないのかと思うのだ。

 今までもこのブログでたびたび取り上げてきた、貝原益軒(かいばらえきけん、1630~1714)の『養生訓(ようじょうくん)』からの一節である。

” 養生の術はまず心気を養うべし。心を和(やわらか)にし、気を平らかにし。怒りと慾とをおさえ、うれい思いを少なくし、心を苦しめず、気をそこなわず、これ心気を養う要道なり。” 

(『養生訓』貝原益軒 石川謙校訂 岩波文庫)

 さて、いつものように話がそれてしまったが、さらに飛行機からの眺めの話を続けよう。
 飛行機は太平洋上に出て、東北地方上空に入り南下していくのだが、確かに太平洋側内陸部には雲が切れているところもあるのだが、ほとんどは西側日本海側から押し寄せる雲に覆われていて、山々は全く見えなかった。 
 特に、この秋の遠征登山で登った栗駒山(くりこまやま、1627m、10月1日、8日の項参照)、をしげしげと眺めて見たかったという思いがあっただけに残念だった。
 しかし、東北の山が見えなかった代わりに、英語名の”ハイ・プレッシャー”そのままに、高気圧の中心に近い関東から中部地方にかけては、申し分なく晴れていて、機長がこんな見通しのきく日はめったにないと話していたというほどの晴れ方だった。
 那須の山々を横に見て、関東地方に入るころから、行く手前方には、関東平野の果てに、ひとり高く、白い雪を頂いた富士山が見えていた。 
 さらにその右手奥には、所々雪に白く輝く北アルプスの峰々さえも連なってた。
 富士山は、羽田空港に降りたその滑走路からも、見ることができた。
 となるとこの天気なら、乗り換えての九州便の飛行機からは、間近に富士山や南アルプスを見ることができるはずだ。

 しかし、たまたま接続便が途切れていて出発時間も遅れて、待ち時間が2時間半、さらにバス便も接続が悪く1時間半の待ち時間があり、都合4時間近くを待つ羽目になったが、まあそれも私に本を読む時間を与えてくれたと思えばいいのだが、都合12時間にも及ぶ長旅は、年寄りにはつらいものだった。
 ともかくそうこうしているうちに飛行機は飛び立って、東京湾を半回転した後、すぐに待望の富士山上空に。
 しかし、飛行機はほぼ富士山の真上よりの航路を取っていて、中腰になって窓ギリギリにカメラを構えて、やっとファンインダーの中に富士山の姿をとらえられた。(冒頭の写真) 
 いつもはもう少し甲府側に寄って飛んでいるから、もっと優美な姿の山の全体像を見ることができるのだが、今回はほぼ真上だから、お鉢火口から周囲になだれ落ちるカラマツの黄葉のすそ野や、周りから押し寄せる雲がその裾野の辺りまで押し寄せて、その先には行けない気象学的な景観も眺められて、これはこれでいつもの眺めと違い、実に素晴らしかった。
 ただ惜しむらくは、窓ガラスのふちのぎりぎりで画質が悪くなり、もう少し北側に寄っていれば、窓の中央で見られたのにと思うが。

 そして今度は、反対側の南アルプスの眺めだが、あいにく飛行機は満席に近く右窓側の席は空いていなくて、仕方なく飛行機最後尾にある小さな非常用ののぞき窓から写真を撮ることになって、位置的には悪くはなかったのだが、何しろ小さな窓を通して撮るものだから、画質が格段に落ちてしまった。
 それでも、白根山脈を縦位置に、手前から広河内岳(2895m)、西農鳥岳(3026m)、農鳥岳(3050m)、間ノ岳(3189m)、北岳(3193m)、そしてそれらの山々とT字型に相対する早川尾根の最奥に、一人離れて甲斐駒ヶ岳(2967m)が大きいが、その山頂付近が白く見えるのは、雪ではなくて花崗岩の砂利であり、北岳と間ノ岳山頂付近が少し白いのは雪である。(写真下)





 飛行機の窓からの景色は、少しずつではあるが,かなりの速さで変わっていく。
 音速まではいかないまでも、800km/h位のスピードは出しているはずだから、山が見え始めたらすぐにシャッターを押し続けなけれならない、写真のうまい下手の技術は別としても。

 そして白根山脈と並行して、南アルプス脊梁(せきりょう)の山々が連なっている。
 中央部のなだらかな尾根の中では、塩見岳(3047m)がひとり高く、やがて南アルプス中南部の巨人たちが見えてくる。(写真下)




 左に荒川岳前岳(3068m)と中岳(3083m)、右に悪沢岳(わるさわだけ、3141m)。
 何度も言うことだが、沢や谷筋に沿って一部氷蝕され浸食され彫琢された壮年期地形の山肌は、見ていて飽きることはない。

 さらに伊那谷を隔てて、中央アルプスの山々が並び、こうして飛行機からの眺めの至福のひとときが終わるのだ。
 その先に高い山はないが、夕方近い伊勢湾や大阪湾の照り返しを眺めながら、最後の大きな島である九州に舞い下りて行く。
 もうあと何回こうした景色を見られることだろうか、日本列島縦断の飛行機からの眺め。
 いつも言うことだが、北アルプス中央部を横断する飛行機乗って、もう一度、厳冬期の山々を見てみたいのだが。
 その昔、母を連れて東北を旅したとき、乗り継ぎが大阪伊丹空港になり、そこからの便で北アルプスの山々を見たことがあったのだが、その日は早春の快晴の日で、眼下に純白の山々がうち重なり続いていた光景は、忘れられないものだった。
 あの眺めをもう一度と思うのだが。

 さて帰ってきた九州は、北海道と変わらずに、意外に寒かった。
 埋もれるほどに降り積もった落ち葉をかき集めて燃やし、昔はそこに、すぐに飼い猫のミャオが寄ってきて、一緒にたき火で温まったものだが。
 さらに、あちこちの生垣などの剪定(世んてい)などをしなければならない。
 まだまだ枯葉があちこちにたまっているし、こうした庭仕事だけでも今月いっぱいはかかるだろう。
 小さな庭だけれど、長い間放置していた私が悪いのだが、毎年北海道と往復しながら、小さいとはいえ、二軒の家を二度手間をかけてとも思うが、何事もそれだけの価値があると思うし、それだから、相応の仕事が増えるというだけのことだが。
 しかしそれでいい、もう長年続けてきたこの一年のサイクルを繰り返すことが、今の私の人生なのだから。
 
 ほとんどが落葉している庭の木々の中で、一本だけ、まだそれほど大きくはないモミジの木があり、その鮮烈な紅葉がひときわ目を引く・・・ありがとね。

 めったに風邪をひかない私が、とうとう風邪をひいてしまった。このブログ書くのも一苦労で。
 原因は、数日前、人々で混雑する羽田空港ビルに、2時間半もいたこと。そして帰ってきた家の庭の掃除などで大汗をかいて、体を冷やしてしまったためなのだろうが。
 セキは出ないのだが、あまりに鼻風邪がひどく、体もだるいので、仕方なくそう簡単には服用しない風邪薬を飲むことにした。
 そこで手持ちの風邪薬をと取り出してみると、有効期限は8年前に切れていて、缶詰などならば数年過ぎていたくらいでは、開けて食べてしまうのだが、さすがに8年前の飲み薬は・・・ムリ。
 今夜もこの風邪の症状で眠れないだろうが、明日、町の薬屋に行かなければ。あーあ、年取ってからの病気はツライ。
 


さらさらと音をたて

2018-11-12 20:45:25 | Weblog




 11月12日

 暖かい秋の日が続いている。
 いつもの年ならば、もう道内各地で初雪が降り、日本海側から道央にかけては20㎝30㎝の雪が積もっていることもあるというのに。
 もちろん、この十勝地方は、北に大雪山系、西に日高山脈という二大高地に区切られているから、もともと初雪も遅く、年内にまだ雪が積もっていないこともあるくらいなのだが。

 それにしても今年は暖かい。
 このところ毎回書いている紅葉も、もうモミジやカエデの葉はほとんど散ってしまったものの、林内ではまだ残りの紅葉が見られるくらいであり、今は最後の黄葉である、ツツジやハマナス、そしてキタコブシの葉が散り始めたが、何よりもさらに秋の終わりを感じさせるのは、カラマツの落葉である。(写真上)
 カラマツは落葉松とも書かれるから、その名の通りなのだが、薄緑から黄色、小麦色へと色を変え、ある時、晴れて少し風のある日に・・・。
 さらさらと音を立てて、カラマツの落葉の時が始まるのだ。
 まだ緑を残すササの葉のうえに、他の枯葉の上に、まるで小雨が降り始めた時のように、音を立てて降りしきるのだ。
 そのカラマツの落葉を最後に、林の中はすべて見通しの良い、縦じま模様の世界になり、あとは雪が降るのを待つだけの、静寂の世界になる。

” 冬が又来て天と地とを清楚(せいそ)にする。
 冬が洗い出すのは万物の木地。

 天はやっぱり高く遠く
 樹木は思い切って潔(きよ)らかだ。
 ・・・。”

(高村光太郎 詩集『猛獣篇』より「冬の言葉」 日本文学全集 集英社)

 今は、冬のための支度をしなければいけないのだが、夏から秋にかけてのぐうたらに過ごした毎日がツケのようにたまっていて、あれこれとやらなければならないことが多く、あわただしい毎日を送っているのだ。
 林内の伐採作業や薪づくりなどは一応の区切りはつけたのだが、まだまだ家の内外でいろいろな仕事がある。
 まずは、キツツキ対策補修作業である。
 キツツキの被害に関しては、前にも書いたことがあるが、今年はその被害箇所が、今になって気づいた所もあって数か所余りに及び、今までで最大の補修をやる羽目になってしまったのだ。
 被害箇所は、丸太本体ではなく、今までと同じように、小屋裏と呼ばれる屋根のひさしが突き出た裏側の、羽目板を張った所である。(写真下、その一例として屋根の棟下の部分の被害箇所、長さ20㎝余り)





 どうするのか。
 問題は高さである。屋根の上まで6mあまり。
 この春、九州の家で立てかけた2m余りの梯子から落ちて、ひどい傷を負い(4月23日の項参照)、北海道に戻ってくるのが遅れたほどだったのに、それより高い所に上がるなんて、とてもできない。 
 この家を建てたころには、このすべりやすいカラートタンの屋根の上に上がって、テレビ・アンテナを立てたり、一部補修のためのペンキ塗り直しをしたものだが、今ではとても無理だ。 
 冬雪が屋根に積もった時に、ひとりでに滑り落ちるように、普通よりはずっと傾斜をつけて専門の屋根屋さんにふいてもらったのだが。
 確かに、それで冬にいた時にも、雪は見事にひとりでに滑り落ちてくれたのだが、今となっては年齢のせいで、傾斜のある高い所に上がるのが心配になって来たのだ。
 それは山登りでもいえることだが、若い時に比べてバランス感覚が衰え鈍くなってきたと感じるからだ。
 ”君子危うきに近寄らず”の例えどおりに、というよりは、今ではもう高い所への恐怖心の方が強くなっているのだ。

 しかし、今回のキツツキ被害部分の補修は、ハシゴをかけても届かない先にあり、そこから棒を伸ばしての作業をするにしてももうまくはいかないし、思い切ってその玄関上の小屋根に上ることにした。
 反対側から太めのロープをかけて命綱として、ハシゴから屋根に移ってその上に立って、穴に断熱材を丸めて入れて、その上にコールタールを塗って固着させた。
 そして、再び命綱をたぐってハシゴの上に移り、無事地上に降り立ったのだが、そんなことまでも書いてしまうほどに年寄りには危険な作業だったのだ。

 もちろんこれが、最後ではないし、来年もまたキツツキ穴補修のために高い所での作業が必要になるだろうが。 
 しかし、この穴を突き叩いて掘って、その中にいる虫を食べようとした、オオアカゲラやアカゲラを責める気にはならないし、曲りなりとも日本野鳥の会に所属する私としては、ただ補修することしかできないのだ。

 さらにこの小屋裏の穴は、実は家の中側の小屋裏(二階ロフトの屋根裏)にもかかわっていて、今回併せてこちらのすき間もふさぐことにしたのだ。
 というのも、これまたしばらく前に書いたことだが、家の中にへビが出て、その原因としての棟の換気口穴をふさいだのだが、それだけでなく、こうしたキツツキたちのあけた穴からもヘビは侵入できると思ったからだ。(9月3日の項参照)
 そして実際、二階ロフトの屋根裏のすき間からは、何とヘビの抜け殻が見つかって、間違いなくヘビたちがここを通っていたことが証明されたわけで、ともかく家の内側からのすき間も、同じように断熱材を詰め込んでふさぎはしたのだが、果たして今後どうなることやら。
 アオダイショウだから、実害はないにしても、ヘビと同居というのはあまり気持ちのいい話ではない。

 この家を建てた時には、予算が十分になく、すべてを節約したものだから、細かい部分まで行き届かずに、簡単な仕上げのままで、例えば、羽目板を張りつけただけで(本来は”あいじゃくり”加工された屋根板などを使うべきところ)、隙間の多い屋根裏になり、ハエも侵入してくるし、先日苦労してとりあえず作り直した自作の天窓のように、やはり金をかけて施行しておかなければ、結局は後になって問題が出てくるものなのだ。
 しかし、基礎と丸太組み自体に問題があるわけではなく、今までの何度かあった大きな地震にも耐えてはいるから、素人大工としての自分の仕事は、まあまあなものだったと思っているのだが。

 さて、今週もまた例の『ポツンと一軒家』(テレビ朝日系列)を、全部ではないが見てしまったのだけれど、そのうちの二つの話には、またまた考えさせられて見入ってしまった。
 満州で軍人だった父親のもとに生まれ、今年75歳になるというそのおやじさんは、終戦後まだ2歳の子供のころに何も憶えていないというが、家族ともども日本に引き上げてきたのだが、親の故郷の群馬の山の中の家はなくなっていて、ただそこに在ったみすぼらしい作業小屋で一家は暮らすことになったという。
 その後、父親が木挽(こび)き職人の手を借りて周りの木を切り倒し、自分で家を建てたのだが、今ではその父親も亡くなってしまい、一人になった母親を下の町に連れてきて面倒を見ているけれども、この家は母親や兄弟たちの愛着があるから、自分が週に一度はやって来て手入れをし続けているのだと言った。
 彼は、死んだ父親が写っている満州時代の写真を見せてくれたが、生きている間に父親がその写真を自分に見せてくれたことはなく、戦争の話をすることもなかったという。
 思うのは、東京から戻って来た兄の肺結核がうつり、家族に追い出されるように、満州にまで行った私の母親が、私に当時のことを断片的に話したことはあっても、とうとう最後まで詳しい話はしなかったように・・・。

 さらにもう一つ、山形県の山奥で、150年前に建てられたという古い”曲がり屋”の形を残す、今どき珍しいかやぶき屋根の家に暮らす老夫婦の話で、そのおばあさんの方は脚が悪くなり、家事全般のことを含めて今年89歳になるおじいさんがやっているとのことだったが、そのおじいさんの今一番の仕事は、昔牛を飼っていたころの名残である、ブロック造りのサイロ(干し草倉庫)の解体作業にあるとのことで、小さなハンマー一丁だけで、そのサイロの壁を少しずつ壊していた。 
 前回書いた、あの解体屋さんの重機なら1時間もかからないだろう建物を、おじいさんは何日もかかってハンマーで叩いていたのだ。その横には同じように、独力で壊したという、昔の牛舎の土間だけが残されていた。
 「自分が作ったものは、自分でカタをつけておかねばな。」と彼は言うのだが。

 余談ながら、この番組は今、高視聴率をあげているそうだが、もちろん若い層にウケているわけではなく、私たち中高年のおやじさんおじいさんたちに人気があるのだろうことは分かるのだが、今回見ていてつくづく感じたのは、この『ポツンと一軒家』に住む人たちのすべてに言えることかもしれないのだが、それぞれの生き方と家族の歴史が、まさに典型的な”日本人の原風景”とつながっているからなのだろう。
 おばあさんが、ぽつりと言った一言・・・”命と意地だよ”。

 そうなのだ。
 何があっても、誰もが生きていくのは、そうした思いがあるからであり、誰もがこれからも生きて行こうと思うのは、まさに誰にでもある、そうした思いがあるからこそなのである。

 庭の、ハマナスの灌木(かんぼく)が黄葉して、そこに赤い実が二つ残っていた。(写真下)
 秋が、逝きます・・・。


 


ブラームスはお好き

2018-11-05 21:34:56 | Weblog




 11月5日

 今日は、朝から暗く曇っていて、冬に向かう寒さが身に染みる。
 最高気温でも、8℃くらいまでしか上がらない。
 その忍び寄る冷たさが、あたたかい思い出を呼び覚ます。

 ”「いとしいお方」とお前は言った。
  「いとしいお前」と僕は答えた。
  「雪が降っています」とお前が言った。
  「雪が降っている」と僕が答えた。
 ・・・。
  (それは広々とした秋の、ある華やかな夕日の時だった。)
  僕は答えた、「くりかえしておくれ・・・もう一度・・・。」”

 (『ジャム詩集』「哀歌第十四」より尾崎喜八訳 彌生書房)

 ストーヴの薪(まき)のはじける音が聞こえる。
 こういう日には、ブラームスの室内楽のソナタを聞きたいと思う。 
 例えば、ヴァイオリン・ソナタ第1番ト長調「雨の歌」。  
 今日は雨が降っているわけではないけれど、こういう日にふさわしい音楽だ。

 その昔、秋から初冬のころの時期にかけて、私は、表側からの(旭川側)からの大雪山や十勝岳連峰によく登っていたものだが、その麓にある宿に泊まっては、翌日早朝に出かけて山に登っていた。
 その山登りの起点になっていた一つが、クラッシック音楽が好きなご夫婦が経営されている宿だった。
 小雨がそぼ降るある肌寒い日に、宿に着いてドアを開けると、すぐに暖かい薪ストーヴのぬくもりに包まれて、音響の良い小さなホールから、もの悲しいヴァイオリンの音色が聞こえてきた。
 私は、キッチンにいた彼を見て、「ブラームスの”雨の歌”?」と尋ねた。
 彼は、私を見返して、「今日のような日にふさわしいかと」と答えた。

(昔のことだが、フランソワーズ・サガンの原作『ブラームスはお好き』をもとに作られた映画があって、その題名『さようならをもう一度』(1961年)は、いかにも当時のアメリカ映画らしく、イングリッド・バーグマン(スウェーデン)にイヴ・モンタン(フランス)、アンソニー・パーキンス(アメリカ)といった豪華な顔ぶれだった。)

 いい日々だった。
 山も宿も。 
 今では、すっかり足も遠のいて、思い出を繰り返すだけになってしまったが。

 それでも、今この家に居て、日高山脈の山々を見ながら、周りの木々の紅葉を見ているだけでも、十分に幸せな気持ちになることができるのだ。 
 若い時の、何かに追われるかのような、あわただしい気持ちではなく、そのころの思い出をいとおしみながらも、今自分のまわりにある光景を、四季折々に移りゆく景色を眺めては、ゆったりとした気持ちでいられること。
 それぞれの時代に、それぞれの思い出があり、今年また一つ、この北海道のわが家の紅葉を見ながら、いい秋だったと思うのだろう。ああ、あの時はよかったな、と。 
 なあに、考えてみれば、若い時よりは、様々な思い出の蓄積の上で、今を見つめることのできる年寄りの時代こそ、実は人生の中で最も輝かしい日々なのかもしれない。

 さて、この4日間、文句のつけようがないほどの快晴の日が続いていた。 
 終日ほとんど雲がなく、日高山脈の山々も終日見えていて、さらに強い北風もなく、そよ風があるくらいの穏やかな日のままに、そんなまれにしかない快晴の天気の日が、何日も続いたのだ。
 さすがに昨日の夕暮れ時には、それまでのシルエットの山なみとは違って、山々の稜線に雲が連なってはいたが。

 特に最初の日には、朝の気温が-1度まで冷え込んで霜が降りていて、日高山脈全山が雪に覆われていた。 
 もちろんすでに、先月の半ばころには、日高山脈最高峰の日高幌尻(ぽろしり)岳(2052m)周辺や、カムイエクウチカウシ山(1979m)周辺の山々の山頂付近に、初冠雪の雪を見たことはあったのだが、今回の雪は、もう山々の根雪となる、確かな冬の雪だった。
 冒頭の写真は、日高山脈南端に並ぶ楽古岳(1472m)と広尾十勝岳(1457m)の遠望の写真であるが、手前の牧草地には霜が降りていて、奥には収穫の終わったビート(砂糖大根)畑が続いている。
 この日はさらに、昼前に近くの丘陵地帯を歩き回り、広大な秋空の下の日高山脈の眺めを十分に楽しんだ。 
 (写真下、左から1823峰、ピラミッド峰、カムイエクウチカウシ山、1903峰、1917峰、春別岳と連なり、手前の十勝平野には幾重にも、今が黄葉の盛りにあるカラマツの防風林が続いていた。)





 その時、牧草地のそばで、ひらひらと二匹のチョウが飛んでいるのに気づいた。
 気温がマイナスまで下がる晩秋の季節なのに、と思いながら見ていると、これまた今どきにまだ咲いているクローバー(シロツメクサ)の花にとまって、花蜜を吸引しているようだった。
 黄色っぽい下地に、黒点があり、何より全体的に輝くような桃色に縁どられた、その羽全体の色合いが素晴らしい。
 私は最初、シジミチョウの仲間かと思ったほどだったのだが、よく見るとモンキチョウのようであり、あるいはふつうに見られるモンシロチョウの秋型なのだろうかとも思ったが、形が小さいし、たまにしか見たことのないエゾヒメシロチョウのようでもあり、とてもマニアでもない”にわかチョウ観察者”にすぎない私には、何とも判別はできなかったが、今の時期に、きれいな小さなチョウが飛んでいるのを見ただけでも、何か幸せな気持ちになることができたのだ。(写真下)

 


 そうして、丘歩きを終えて家に帰ってくると、遠目にもわが家の紅葉が鮮やかに見えていた。
 この10月中旬から11月の初旬に至るまで、今年ほど、紅葉が私の目を楽しませてくれた年はなかったようにも思う。
 前回、前々回は家のそばのモミジ、カエデの紅葉の写真を載せたのだが、他にも家の林の中にはまだ10本ほどのモミジの木があり、その中の数本は見上げる高さの大きな木になっていて、これもまた単独にではあるが、毎年紅葉を見るのを楽しみにしている。
 ただし、今年はそのほとんどが、ところどころに赤い葉もあるのだが、全体的には、紅葉ならぬ黄葉で埋め尽くされていた。(写真下)




 家の周りのモミジの木が、ほとんどが錦織りなす紅葉なのに比べて、このそれぞれに単独で生えているモミジの葉がすべて赤ではなくて黄色なのはなぜなのだろうか。
 Wikipedia(ウィキペディア)によれば、秋になって光合成をやめた木が、自分を守るための活動の一つとして、植物としての色素を作り出し、そのうちのアントシアニンが赤い葉になり、カロテノイドが黄色い葉のもととなり、その差は、気温、湿度、紫外線などの影響で左右されるとのことだが。
 確かに、同じ一本の木の中でも赤と黄色が同居したりとか、まだまだ分からないことがあるのだろう。

 それに加わうるに、前回書いたように、山の紅葉は年毎の差が大きく、家の庭木の紅葉の差がそれほどないのはなぜだろうかと・・・。
 しかし、それは思うに、確かにその年での色彩の違いはあるのだろうが、大きいのは、それを眺める個人的な視点の違いにあるのではないのか。 
 つまり、山に登って紅葉を眺めるのは、ほとんどの人が日帰りだろうし、逗留(とうりゅう)しても二三日くらいのものだろうから、多くの人はその日その時だけに眺めた紅葉が、今年の山の紅葉ということになるのだろう。

 一方で、自分の家の紅葉ならば、その色づきが始まった時から茶色に変色して落ちていくまでを見ることになるから、それぞれの時間でベストであった時の色合いが記憶の中で積み重なって、ああ今年の紅葉も良かったということになるのではないのだろうか。
 ことほど左様に、人間はその時の自分の視点だけでしか見ていないわけだから、いつも全体のほんの一部を見ているだけに過ぎないということになる。
 それは地球上に生きる、”生きとし生けるもの”の性(さが)なのだから、それによって失敗もすることにもなるだろうし、学ぶことにもなるわけなのだが。
 ただ言えることは、いつも自分の視点は個人的なものにすぎないのだ、という謙虚な心を持っておくことが必要なのだろう。

 さて、そうした決して自分の人生だけではない、さまざまな人生の姿があることを、私たちは日々知らされ、ある時は大きな反省とともに、年寄りになってもまだまだ学ぶべきことが多いことに気づくのだ。 
 私は、テレビではまずほとんどドラマは見ないし、多くのクイズ形式バラエティー番組なども余り見ないのだが、いつも言うように、すべてが事実を映し出しているとは限らないにしても、ドキュメンタリー番組はつい見てしまうことが多い。
 いつもここに書くことの多い『ブラタモリ』(NHK)や『日本人のお名前っ!』(NHK)はバラエティー番組なのだろうが、ある種の謎解きドキュメンタリーとも言えるし、そのほかにもこの秋からレギュラー番組になった『ポツンと一軒家』(テレビ朝日)も、昨日の放送では、まず宮崎県の山奥に、自分でモトクロス・コースを作り、併せてライダーハウスも作ったバイク屋のおやじさんの話で、もう一本は、栃木県の山奥でイノシシの被害に遭わないためにイノシシが食べない唐ガラシの栽培をしている老夫婦の話で、年に2回、こんな山奥の実家に、兄弟、子供たち、その孫たちまでもが集まるから、いつまでもやめられないと話していた。
 さらに、これはふと見たのだが、『ニチファミ!空き家をつぶす、ワケあり物件』では、若い時にギャル生活をしていた女の子が、妹の出産を機に心を入れ替えて、建物解体業界に入り3年の経験を積んで、今年26才になるというその美人解体士が、重機を上手に操って、狭い土地に建つ民家を解体していく様子が映し出されていたし、さらにもう一つは銭湯の解体専門業者が、あの23mもある風呂屋の煙突を、周りに破片が落ちないように、全く日本人の繊細さで壊し解体していく様子を映し出していた。 

 こうして、昨日見たテレビの中だけでも様々な人々がいて、当然のごとくそこには様々な人生があり、様々な形で生きている人たちがいるのだ。 
 あの子供の歌ではないけれど、”僕らはみんな生きている”と実感させる人間賛歌のエピソードに満ちていたのだ。

 今日は様々なことを、この一回の記事に詰め込んで書いてしまったような気がする。
 見るにしろ、反省するにしろ、学ぶにしろ、今私が見る光景は・・・沈む夕日は早いのだから。