ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

新緑の山と”まぼろしの樹”

2016-04-25 21:16:45 | Weblog



 4月25日

 眠たい。
 半日くらいは、いつもウトウトしているような状態だ。 
 しかし、考えてみれば、今まででさえ、すべてをいい加減に成り行き任せにしていた、脳天気な私にとっては、ぼーっと過ごす毎日など、何ら変わったことではないのかもしれないが。
 それまでのように、夜10時ころには寝て、明け方の5時過ぎに起きればいいのだが、真夜中に目が覚めトイレに行って、そのまま眠れずに、本読んだり、パソコンしたりで朝になり、朝食後眠たくなりひと眠り、それが午後にかけてひと眠りさらにまたひと眠りで、結局は寝すぎてしまい、それでまた夜中に目が覚めてしまうことになるのだ。

 きっかけの一つは、間違いなく一週間前の、あの真夜中の震度6の地震からであり、その後も続く大きな余震の揺れのたびに、目が覚めていたからだろう。
 もっとも、それよりもさらにひどい揺れに襲われた熊本の人々のことを思うと、私の受けた被害など、微々たるものに過ぎないのだろうが。
 確かにここでも、余震の回数は目に見えて減ってきたし、何ら普通の生活を送るのに不便はないのだが、日にちがたつにつれ、さらに家の周りで見聞きする被害も増えてきた。
 張り出した独立基礎が傾いたり、家屋の一部損壊、道路の亀裂、斜面の幾筋もの地割れなどがあって、自宅室内外での物の散乱破損など、まだまだ軽いほうだったのだと思う。

 はい、ありがとうございます、こんな年寄りのために、命を長らえさせてもらって・・・ご迷惑でなければもう少し、神様からいただいたこの私の命を、できる限りは全うさせたいと思っておりますので・・・ああ、蝶々がひらひらと、新緑の木々の上を越えて、山の方に・・・。

 思えば、もう一月以上も山に登っていないのだ。
 前回登ったのは、まだ冬のさ中の風雪が作り上げた樹氷を見るために、遠路はるばる出かけて行ったあの八甲田の山であり、それもロープウエイからの周辺をワンダリングしただけの、雪山ハイクでしかなかったのだ。(3月14日の項参照) 

 さらには、最近思わしくないひざの痛み(じん帯の損傷)もあって、今一つ出かけていく気にもならなかったのだ。
 しかし花は咲き、新緑の芽吹きが目にもさわやかに映ずるこの季節、それなのに地震の揺れにおびえる毎日では、どうにもやりきれない。
 そうだ、山に行こう。
 というわけで、こういう時には便利で手軽ないつもの裏山に登ることにした。
 もちろん、岩場が多いような他の山、由布岳・鶴見岳、祖母山・傾山などの山々には、登山禁止勧告の通知が出ているようだが、それでなくとも登山道の損壊や落石など気がかりな点があって、行く気にはならないのだが、それに比べれば、いつも気楽に登っている裏の草山には、岩場はないし、急勾配の気になるような斜面もない。

 いつもは、自宅からクルマの通れる道を歩いて、登山道が始まる登り口の所まで行くのだが、今はヒザの心配があるのでそこまでクルマで行くことにした。
 こうした時にクルマはありがたいもので、歩いて40分余りもかかるところを、わずか数分余りで私を登山口の所まで連れて行ってくれる。

 そして、歩き出す。やがて林の中のゆるやかな登り道になる。
 青空を背景に、開き始めたばかりの、木々の新緑が目にさわやかに映る。(写真上)
 前回書いたように、私が刹那(せつな)の時間の中で感じる美しさの一つが、今ここにあるのだ。
 モミジ、カエデ、コナラ、ミズキ、リョウブ、ノリウツギ、ヒメシャラなど、所々で立ち止まり、こうした新緑の木々の写真を撮りながら、ひとりゆっくりと登って行く。
 少し離れたところで、夏の渡り鳥であるオオルリが鳴いている。
 一転、暗い杉の林の中に入って行く。斜めに差し込む光に照らし出された、根元に広がる苔の緑が美しい。
 小さな涸沢を渡り、再び明るい林の中をたどって行くと、明るく開けたササとカヤの斜面に出る。
 その山腹をジグザグに登って行くと、遠く九重の山々が並んでいて、下には先ほど登ってきた林が広がっている。
 その中では、ヤマザクラの薄紅色の花と橙色(だいだいいろ)の新緑の葉が目立っているが、その中に左のほうに、真っ白な樹形の樹が一本見える。

 

 この小さな草山には、長い間登ってきているのだが、春に、あの林の中に白い花が咲く樹があったなんて、今まで知らなかった。
 それも小さな木ではない。ここからでも樹形の大きさがわかるほどの大きな樹なのに、どうして今まで見ていなかったのだろうか。
 春に、あれほど白くいっぱいの花を咲かせる樹は、モクレンかコブシ、タムシバくらいしかない。
 その中でも、モクレンは花弁が大きくてひときわ華やかであり、ここから見えているくらいだからとモクレンかなとも思ったが、本来は中国原産の植栽種であり、こんな山の中にあるはずもないし、コブシはあの千昌夫の「北国の春」でも知られているように、日本海側から東北・北海道にかけて見られるものだし、となるとタムシバなのか。
 それにしても、あれほどに目立ついっぱいの白い花をつけた大木のようだから、ぜひとも帰り道には、登山道から離れても寄ってみようと思った。

 なだらかな尾根道を行くと、道端のササやカヤの生え際には、所々にキスミレが咲いている。
 今の時期は、阿蘇から九重の高原、そして由布岳付近の裾野など、野焼き後の黒焦げが残る野原の一面が、このキスミレに覆われてしまうほどになるのだ。
 他に、アセビの花はもう終わっていて、これからは一月もたたないうちに、あのミヤマキリシマの赤いツツジの花に彩られることだろう。
 下から、1時間半ほどで頂きに着いた。
 途中、地震の影響による地割れ、崩壊などの部分もなかったし、その間余震の揺れを感じることもなかった。もちろんこんな時期だから誰にも会わなかった。
 ヒザはさほど気にはならなかったが、下りではさすがに少し響いて、注意して下りて行った。

 そして、いよいよあの白い花の樹の所へと、心ははやる。
 上から見て検討をつけていた、松の木のあたりから、登山道を離れて林の中に入って行く。ありがたいことに、ササの下草や灌木などもなく、楽に歩いて行ける。
 トラバース気味に山腹を回っては、あの大きな白い樹はないかと探すが、ところどころにヤマザクラの白い花びらが咲いているくらいで、あの白い花をつけた樹は見当たらない。
 そして、今度は沢斜面の山腹側を降りて行くが、見つからない。
 果たしてあれほどの大きな樹なのに、私は幻影を見たのか。
 もう探しようもなく、あきらめて登山道に戻り、それでも気持ちの良い新緑の林の中を通って、登山口付近に停めたクルマの所に戻った。
 
 それでも、最初の二つの目的は達成できたわけだから、つまり新緑の山を歩くことと、最近気になるヒザがどのくらいもつのか、それは穏やかな山道の2,3時間くらいには十分耐えられるけれども、もちろん北アルプス岩稜ルートなどには、耐えられないだろうということだ。
 そして、やはり気になるのは、あの白い花でいっぱいだった樹の存在だ。
 周りの木と比べても大きく、輝かしい白い花びらを全身にまとい、悠然と高くそびえたつ一本の樹が・・・スタジオ・ジブリの描く画面にある一本の大きな樹のように、私の脳裏から離れなかった。
 
 翌日は、雨だった。
 そして、次の日は、朝から晴れていた。
 私は、あの草山の頂きを目指すのではなく、あの幻の白い花の樹を求めて山に行くことにした。
 山の頂きに立つことを、その山登りの第一の目的にしている私が、まるで何ものかに操られるかのように、”まぼろしの樹”を求めて、出かけて行くのだ・・・何か不思議な気分だった、若いころのいくつかの冒険の旅を思い起こさせるかのような・・・。

 私には、昔フランス人の友達がいた。
 私たちは、それぞれに、オーストラリアの砂漠をオートバイで走ったことがあった。(’14.4.7の項参照)
 彼は日本に来て、その後日本の娘と結婚した。
 私は、その祝いの席に招かれ、依頼されて、少しだけ彼とのことについて話した、

  ”僕らは、二人とも冒険者でした。そして今でも、冒険者であり続けています。
 私は今、北海道でひとりで家を建てています。彼は、私以外に知り合いもいなかった日本の東京という砂漠の中で、自分なりの会社を立ち上げていこうとしています。
 彼は私以上に、熱意を持った冒険者です。これからの皆様方のさまざまな手助けが、彼をさらに勇気づけることになるでしょう。”

 あのころの、何かに向かおうとする冒険心を、私は思い出したのだ。
 年寄りになっても、こうして他人にとってはどうでもいいようなことが、それが一文の得にもならないとわかっていても、何ものかにつかれたかのように、ひたすらな思いにかきたてられてしまうこと。
 それはまた、若いころの恋する想いに似て、あの娘に一目会いたいと想うように、ふくれ上がり募ってゆく思い・・・。
 年寄りの私に、そうした気持ちがまだ残っていたとは。
 
 そこで、二日前と同じように、登山口までクルマで行って、そこから新緑の林の中の道を歩き始めた。
 わずか二日しかたっていないけれども、特に昨日の雨がさらに新緑の葉を伸ばしては、輝かせているように思えた。
 しかし、写真を撮っている余裕はない。ともかく今回は、あの樹を何としてでも見つけ出すことだ。 
 前回と同じように、山腹斜面の林の中に入って行き、今回はさらに先の上の方までも探した。
 ヒザが少し気になるほどの斜面を、木の枝をつかみながら、もう一つ向こうの小尾根の所までも行ってみたが、見つからない。

 本当にあの樹はあるのだろうか。もう一度確かめるために、その山腹急斜面の林から強引に登って行って、ササとカヤの草原斜面の見晴らしのきく所まで上がってみた。
 確かに、そこからは、あの白い大きな樹が見えていた。
 よし、と思いながらも、この時になって初めて、磁石を持ってくればこれほど苦労しなかったのにと思った。 
 それでも今いるところと、あの白い花の樹と、その上遠くに見える特徴のある山を頭に入れて、その直線上の方角に急な山腹を下って行った。
 密生した枯れたササの間には、シカのけもの道が行く筋もについていて、先ほどから、そのシカの鋭い警戒音が何度も聞こえていた。
 あの白い樹は見えなくなったが、遠くの目印の山とその間の目印の木を決めて、そのまま下って行くと、二日前の時に探したゆるやかな林の斜面の所に出た。
 このあたりにはなかったはずだし、もっと下の方かなと思いながら下って行くと、足元に白い花びらが散乱していた。
 見上げると、そこに白い花の咲いている樹があった。(写真下)

 それは、私が思い描いていた姿とは、大きく違っていた。
 見つけたことの喜びと、期待していたものとは違う失望で、複雑な思いになってその樹を見上げていた。
 それでも、四方からその木を眺めては、何枚もの写真を撮って、気持ちが落ち着いてきた。
 多分、タムシバだろうと思われるその木の花の盛りは、おそらくはあの二日前の時だったのだろう。

 その時にも、花弁の一つや二つが落ちていたかもしれないが、気がつかなかったのだ。そのうえに、あの日の午後の時間帯には薄雲が広がってきていて、下から見上げると、白い空と同化してしまい、白い花が咲いているのがわからなかったのだ。
   さらには、私は、この木が森の中の王者の木のように、ひとり高くそびえ立っているものだと思っていたのだ。
 だから、そうした自分の先入観の思いだけで、木を探していたものだから、見つからなかったのだ。

 このタムシバの木は、この林が二次林(原生林を切った後に、自然に生えてきた木々が形成している林)や三次林なのだろうから、ここに根付いた木々はそれぞれに、日光の恩恵にあずかろうと、必死で上に伸びては自分の枝葉を広げてきたのだ。
 だから、このタムシバも樹高の三分の二の所までには花がなく、その上の三分の一ほどだけが、余り他の木々と競合することもなく枝葉を伸ばして、今花を咲かせることができているのだ。
 それを、私は上の山腹斜面から見下ろして、まるでこの樹の全体に花が咲いているように錯覚してしまったのだ。
 つまりは、磁石で方向を確認しなかったこと、その木を俯瞰(ふかん)的に見てしまったこと、白い雲の背景で白い花の木を見てしまったことによるのだ。

 もうずいぶん前のことだが、日高山脈はあのカムイエクウチカウシ山(1979m)の三度目の登山の時、日高きっての難峰と言われていたこの山にも慣れてきていて、いつもの八ノ沢から八ノ沢カール、頂上という往復ルートが物足りなくて、その時はカムエク三山の隣の1903峰(カムエクの眺めが絶品)と1917峰にも登っていて、帰りは1903峰から派生している小尾根を下って、八ノ沢の二股に直接降りようと思ったのだが、なかなか手ごわいブッシュ続きで方向を見失い、右側の谷寄りの斜面を下っていて足元が見えない中、突然ストンと2mほどの岩壁を滑り落ちてしまった。 
 幸いにも擦り傷だけですんだけれども、あれがもっと高い崖だったらと思うと、その時のヒグマの恐怖以上に、今でも背筋が寒くなる。
 そんな、あと一歩であわやという経験をしたことは、誰にでもあるはずであり、つまりこうして私たちは、幸運にもこの世に生かされてきて、また自らの意志で生きているのだ。

 それなのに、あの時の経験からも、磁石と地図の読み合わせは、道迷いの時など絶対に必要なものだとわかっていたはずなのに、こうして”のど元過ぎれば熱さを忘れて” の例え通りに、私たちは自分の命にかかわるその時まで気がつかない、こりない性分なのかもしれない。

 そうして考えてくると、人間はあのアフリカにすむヌーの群れと同じようなものであり、何事も自分の身に降りかかって初めて気がつく、哀れな生きものなのかもしれない。
 いつしか、神戸の大震災を忘れ、三陸の大津波を忘れ、さらには、この熊本大地震も忘れて・・・そして、いつかはその日がやってくるのだ。

 前回あげた、あのネット、投稿の一文、”年寄りが9人死んだくらいで何”と書いた彼の、年寄りになった時の言葉を聞きたいものだが。


  

 


 
 
  


新緑の候と”おおなえ”

2016-04-18 21:46:28 | Weblog



 4月18日

 春らしい、良い季節になったものだ。
 さわやかな青空が広がり、吹く風は心地よく、枯れ木の林の中に新緑の木が一本、鮮やかに見える。
 私は、ゆっくりと歩き、坂道を上って行く。

 相変わらずに、痛めたひざの様子が気にはなるのだが、それでも歩いたほうが良いとのことなのだ、ひざのためにも、自分の心のためにも。

 ヤマザクラの花びらは散ってしまい、代わって、濃い桃色のヤエザクラの時期になっていた。
 足元には、黄色いタンポポやニガナの花が咲き始め、地面をはうようにして、キランソウの紫の小さな花も咲いているし、生け垣に植えられている、ドウダンツツジには、びっしりと白い花がついている。
 今まで枯れ草色だった斜面には、はっきりと緑の草が目立ち始めていて、その向こう側の葉を落とした枯れ木の林にも、いつしか鮮やかな新緑の木々が増えてきていた。
 確かに、春が来たのだ。
 誰の言葉だったか、今、”春の山は笑っている” のだ。

 遠くに杉林があり、その境の所に、新緑の赤茶色の葉が目立つヤマザクラの木があり、そこから続くまだ枯れ木のままのコナラ、カシワ、ブナなどの林の中には、モミジ、カエデ、カツラ、ハルニレ、サワグルミなどの木々があって、何とも鮮やかな新緑の葉をつけている。(写真上)

 そして、どこかの枝先から、早くも夏鳥であるオオルリの澄んだ鳴き声も聞こえてきた。 
 私は、傍らの石の上に腰を下ろして、ぼんやりと時を過ごした。
 
 前回書いた、あの何人もの人たちの”最期の言葉”が、脈絡もなく浮かんでは消えていった。
 生きているということは、確かに”存在と時間”の関係の中でこそ、より強く意識されるものかもしれないが、流れゆくことをやめない”永遠持続的な時間”の中で、私たちは、決して永遠でも持続的でもあり得ず、結局は記憶の断片として残る時間の中で、刹那(せつな)的に生きるほかはないのだろう。
 とすれば、動物的な、本能に近い直観的な刹那への行動は、それこそが生きるということなのかもしれない。
 もちろんそれは、己の欲望のままに野放図(のほうず)に許されるものではない。
 動物たちに群れのルールがあるように、たとえ一匹にでも種族の掟(おきて)があるように、まして社会の中の一人である私たちは、その公序良俗を守る社会規範の中で、それぞれに自分なりの楽しみを見つけては、そのために行動を起こし、”刹那”の喜びを求めて生きているのだろう。

 それが、自分のためであれ、他人のためであれ・・・。

 4月14日、午後9時半、熊本で大地震が起きて、その震源地からは遠く離れたわが家周辺でも大きく揺れて、震度4。
 それで終わりだと思っていたのに、4月16日、午前1時半。
 暗闇の中、すべてのものが大きく揺れていた。私は、半分はまだ夢の中にいるように、周りのものが倒れ、あるいは動いている音を聞いていた。
 今までに経験したことのない、家ごとに大きく揺れている感じで、やっとそれが大きな地震だとわかり、目を開けることもなく、寝たままでぼう然としては、激しい揺れの中で、もうこのままでいいとさえ思っていた。なるようにしかならないのだから・・・。
 
 さしもの揺れも、ほぼ30秒くらいで収まった。 
 枕もとのスタンドのスイッチを押すと、ありがたいことに停電していなくて灯りがついた。
 自分の部屋とは思えないくらいで、床が見えないほどに物が散乱していた。
 本棚、棚など家のすべての戸棚類は、もうずいぶん前から固定金具をつけて留めてあり、それらが倒れることはなかったのだが、その代わりに、中に入っていたものの多くが飛び出してきては、あたり一面にぶちまけられていたのだ。
 何とか足の踏み場を見つけて立ち上がり、部屋から出ようとするが、ドアが少ししか開かない。
 大きな揺れで、上の棚がせり出してきて、ドアの前をふさいでいたからだ。
 何とか体が通れるだけ開けて、居間や他の部屋や台所などを見て回るが、棚などは倒れていないにしても、その開き戸などが開いて、中のものがすべて飛び出してきていたのだ。
 コンロの上にのせておいた、水の入ったやかんが倒れてあたりは水浸しになっていたし、さらに陶器類やガラス鍋のいくつかが壊れ、長く愛用していた魔法瓶の内部が粉々に割れては転がっていて、電子レンジの耐熱強化ガラスの中皿も飛び出しては、真っ二つに割れていた。
 さらに冷蔵庫も勝手に扉が開いて、中のものが飛び出していて、ここでも台所のドアにひっかっかて、その冷蔵庫のドアが閉められずに、警報音が鳴りっぱなしだった。
 ただありがたいことに、まだ電気は来ていたからテレビをつけてみると、”熊本益城町で震度6強、マグニチュード7.3”(14日の地震の8倍の大きさで、気象庁は後になって、こちらが本震だと訂正した)、そして、その震源地からはずっと遠く離れたわが家の周辺でも震度6との表示が出ていた。

 (またしても、以下の文章で、誤って他のキーを押してしまい勝手に字体が変換されてしまった。元に戻す方法も分からず、そのまま書き続けることにしたが、別に他の意図はない。) 

 さらに、その後も震度4以上の余震が繰り返し起きては、そのたびごとに身構えたりして、心落ち着かずに、しばらくはテレビニュースを見続けていたが、停電になってようやくテレビのそばを離れた。
 わずか3時間足らずしか眠っていないこともあって、とりあえず寝ることにしたが、その前にまだ水道の水が出ていたので、大きなペットボトルとやかんに水を入れて備えておき、枕もとにライトとラジオを用意して、服を着たままベッドで横になった。 

 そうして寝たのは4時過ぎだったが、それからも家がギシギシと揺れる震度3以上の余震が何度も続いて、さらには震度4以上の余震も起きて、とうとう目をつぶっていただけで一睡もできないまま、7時半ころにはあきらめてまた起きてしまった。
 睡眠不足のぼんやりとした頭で、停電から回復していたテレビで、地震情報を見続けていた。
 ただ、日ごろから買い置きしている食料品はたっぷりとあり、それで簡単な食事をとっては、夕方までかかって家の中を片づけた。

 その間、ずっと家がガタガタ揺れる震度3くらいの余震は、ほぼ絶え間なく起きていて、ウトウトしていてもすぐに目が覚めるほどだった。
 今回の地震で何がつらいと言っても、本震のあの強烈な揺れはともかく、この間断なく起きる震度3以上の余震の揺れほど、心落ち着かなくなるものはない。

 今まで、あの中越地震や、有名な松代の群発地震のニュースなどを見ては、大変だろうとは思っていても、現実に自分の身の周りで起きていることではないし、どこか他人事のようにして見ていたことが、今になってわかってくる。
 つまり、事件に遭遇して危険が自分の身に及んで初めて、その恐怖におののき、その大きな被害に気づくのだ、物質的なものだけではなく、それ以上に精神的な被害をも。
 いつも書いていることだが、アフリカの草原で、一頭のヌーがライオンに襲われ食べられているのを、遠巻きにして見ているヌーの群れのようなものなのだ。
 何度見聞きしても、結局は自分の身に降りかかって初めて事の深刻さに気づくものなのだ。
 生きものとして動物としての一個体である以上、それは当たり前のことであり、理性ある人間として、悲観するほどのことではないのかもしれないが。
 
 さらに1日たっても、まだ突き上げ揺さぶるような震度3以上の余震が続いていたが、ようやく午後以降にはその数が少なくなり、2日目の今日は、思い出したように震度2から3にかけての揺れがあるくらいで、だいぶん落ち着いては来たのだが、とは言っても、ペットボトルやヤカンに水をためていた分はすぐ使い切ってしまい、水道はその後で断水したまま復旧していないし、近所の井戸水を分けてもらって何とかやりくりしているが、もちろん風呂にも入れないし、こんなことになるのなら、あの不便な北海道の家と何も変わらないではないかとも思う。
 そして隣近所の家の被害もわかってきたが、中には、大きなガラス戸が割れたところもあるし、屋根瓦が動いているところもあり、傾斜地に作っていた駐車場が壊れかかっているところもあるし、さらには大きな直径1mもある石垣の石が道路の真ん中に崩れ落ちてきている所もあり、幸いにも人やクルマが通らない真夜中で良かったと思う。

 18日現在で死者42人、重傷者だけでも500人以上、全壊家屋950戸被災家屋3000戸、避難者10万人以上。

 かくも壮絶を極めている地震だけれども、昔から日本ではこの地震の被害について、繰り返し語り継がれてきたことでもあり、様々に記録として書き残されているが、このブログでも取り上げることの多い、あの鴨長明の『方丈記』の中にも詳しく描かれていて、その平安時代は1185年の大地震についての一節から。

「・・・おびただしく大地震(おおなえ)振ること侍(はべ)りき。
 そのさま、よのつねならず。山は崩れて河を埋(うづ)み、海は傾きて陸地をひたせり。土裂けて水湧き出で、巌(いわお)割れて谷にまろびいる。
 ・・・在々所々、堂舎塔廟(どうしゃとうみょう)一つとして全(また)からず。或は崩れ、或は倒れぬ。・・・家の内におれば、たちまちにひしげなんとす。走り出づれば、地割れ裂く。・・・。
 かく、おびただしく振ることは、しばしにて止みにしかども、そのなごり、しばしは絶えず。世の常、驚くほどの地震(なえ)、二三十度振らぬ日はなし。
 ・・・。なお、このたびにはしかずとぞ。すなはちは、人皆あぢきなき事を述べて、いささか心の濁りも薄らぐと見えしかど、月日かさなり、年経にし後は、ことばにかけて言い出づる人だになし。」

 (鴨長明 『方丈記』 日本古典文学全集 小学館)
 

 まあ、そんな日々だからこそ、かわいい孫娘AKBの子たちの姿をテレビで見たくなるし、歌声を聞きたくもなるというものだ。そこでいつものAKB関連の話だが。
 テレ朝の”ミュージック・ステーション”で、博多HKTが「47億分の1の君へ」という新曲を披露していて、その前に熊本出身のメンバーの子が、地震についてファンの皆様へと挨拶していた。
 さらには、16日の大地震が起きる前の深夜には、いつもの”AKB48SHOW”の代わりに、久しぶりに”乃木坂46SHOW”があって、深川麻衣の卒業曲「ハルジオンの咲くころ」と、妹分のグループで今人気急上昇中の”欅坂(けやきざか)46”のデビュー曲「サイレント・マジョリティー」が歌われていた。
 AKBグループの総合プロデューサーであり、作詞家でもあるこの秋元康の歌詞については、今までここで何度も書いてきているが(2月22日の項参照)、AKBのあの前総監督高橋みなみの卒業曲「Be My Baby」や、その次の”さくら”をセンターにした「君はメロディー」にしろ、このHKTの「47億分の1の君へ」にしろ、あまり深い内容はないアイドル曲にしか思えないのだが、一方で”乃木坂”の「ハルジオン」とさらにこの”欅坂”の「サイレント」には、こういう言い方は良くないのかもしれないが、この二つのグループに対する時の、彼の作詞に向き合う姿の違いが感じられるのだ。
 この新曲CDの売れ行きが良いから言うのではないが、この欅坂の「サイレント・マジョリティー」の歌詞には、その裏に(18歳選挙権への)メッセージ性までも込めていて、久しぶりの力作だという気がするし、このまま紅白で歌われても恥ずかしくない曲だと思う。

 そして、相変わらずAKBの情報サイトを見ているのだが、その中にこんなスレッドが立ち上げられていた。

 「4月15日、22:55(以下原文のまま)

 ”死者9人程度の地震でどうこういう偽善メンバーが嫌い”
 ”日本では一日当たり15人が交通事故で死に100人が自殺し1000人がガンで死んでいるんだが、いまだに木造建築に住んでいるような老人が9人死んだから何”」

 そして、このスレッドにたいしては、大きな反響があって、多くの書き込みがされていたが、その中には”正論だし、言っていることはよくわかる”といったたぐいの、共感する書き込みが多くあったということだ。
 さらに、しばらく前のことで、ここでも取り上げたことがあるが、高齢の夫が、認知症の妻の介護に疲れて殺した、という事件が相次いで起きていたのに(2月29日の項参照)、ネットの”ヤフー・ニュース”では、”老人天国に若者の自殺増加”という記事が載っていた。

 私はそうした若者たちの意見に、今さら何かを言い返すつもりはない。君たちの時代なのだから、好きにやればいい。
 ただ私は、残りの余生を、このまま彼らの目の届かない田舎に住み続けては、彼らの目の届かないような所で死んでいきたいと思っているので、どうかお目こぼしをとお願いするばかりなのだ。
 今になって思い返すのは、当時、他にも数多くの諸悪はあったとしても、私たちは、正義が大声で叫ばれて尊ばれてきた、古き時代の香りを残す、良き時代に生まれ育ったということだ。


「 ・・・。

 私は私の道を行きます、

 子供たちに冷笑されながら、

 頭を下げて通る重荷を背負った驢馬(ろば)のように。

 あなたの御都合のよい時、

 私はあなたのみ心のままのところへまいります。


 寺の鐘が鳴りまする。」

(フランシス・ジャム 『ジャム詩集』より 堀口大学訳 新潮文庫)


 このブログを書いているさなか、午後8時40分、またしても震度5.どうなるのだろう。
  

 
  

  


  


春の花舞台

2016-04-11 22:39:45 | Weblog



 4月11日

 今日は久しぶりに肌寒い日になったけれども、それまでは、いよいよ春本番かと思うほどの暖かい毎日が続いていた。
 朝の最低気温が10度以上もあり、生暖かく感じるほどで、さらに最高気温に至っては、これまた20度を超えて、いかにも春の肌合いを感じさせる空気が漂っていた。 

 そのせいだろうか、前回書いていた庭のヤエツバキは、もうかなりの花びらを地上にまき散らしながら、まだまだ咲き続けている。
 そして、ついに家のヤマザクラの花が咲き始めて、見る間に、四日ほどで満開になり、もう昨日からは散り始めている。
 それから今は、わが家の庭の最大の、華やかな花舞台が始まっている。それまでの緑の固いツボミだった中から、赤い花が見えてきたかと思うと、まるで高速度カメラで早送りしたかのように、あっという間にツクシシャクナゲの花が咲いてしまった。

 上の写真は、五日前に、つぼみが大きくふくらんだ頃に撮った写真だが、それが昨日には、もう七分咲きだと言っていいほどに花開いているのだ。(写真下)

 

 たかだか2m余りの一本の木で、大した手入れもしていないのに、これほどまでのいっぱいの花を咲かせていいのだろうかと心配にさえなってくる。
 あの北海道の家の庭で、いつも私の目を楽しませてくれるこれまた豪華な色合いのレンゲツツジの場合は、いつもそこにカラスアゲハなどのチョウが集まってきて、そのチョウたちとの色の対比もまた素晴らしいし、ツツジのほうでもそれぞれの花が他の花粉を受けて、結実しては種を作ることができるから、種の保存伝承の役目は果たせるわけだが、このシャクナゲの場合、私はまだ今までにほとんどチョウが止まっているのを見たことがないし、ということは他の小さな昆虫たちが来ているのだろうが、それもまた余り目につかないしと不思議に思ってしまう。
 もっとも、チョウやハチなどの昆虫たちが飛び回るには、今日のようにまだ寒い時もあり、まだ早すぎるのかもしれないが。 

 それにしても、これは毎年の嬉しい春の花舞台であり、家の中からガラス戸越しに見ても、外に出てベランダから見ても、一日に何度見てもやはりため息が出るほどに素晴らしい。
 ふと、死ぬこととは、こうした花々の咲くのを見られなくなることだと思ってしまう。
 さらにそれは、花が咲くのを待つ間のじれったい心楽しさも、散り行く後のしみじみとしたはかなさも、併せて味わえなくなるということであり・・・だからこそ、私は、今のこのシャクナゲの花の生き生きとした色の鮮やかさに、見入ってしまうのだろう。

 人は誰も、こうしてそれぞれの、自分の嗜好(しこう)ごとの美しいものへのあこがれを持っていて、そのために生き続けていくものなのかもしれない。
 私にとっての、花々や草木、山々の姿、海、空、雲、朝夕の日の光、月夜、星空・・・昆虫、鳥たち、動物たち・・・人間界、AKBの娘たち、クラッッシック音楽、オペラ、歌舞伎、すべての歌声・・・書籍読み物、絵画、映画・・・と続いてくると、何というまとまりのない支離滅裂な対象だろうとも思う。
 しかしこうして、興味の及ぶ範囲が多岐にわたることこそ、他の動物たち以上に複雑な脳組織を発達させ、好奇心の広がりを追い求めてきたてきた、人間という生き物の本質なのではないのだろうか。

 つまり、、そうして考えてくると、人の一生などというものは、それぞれに自分の憧れや思いをいかに充足させるかに、費やされているのではないのかとさえ思えてくるのだ。 
 平安時代に書かれたと言われる、あの有名な『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』の中の有名な一句、「遊びをせんとや生まれけむ」になぞらえて言えば、まさに人間は、「楽しまんとや生まれけむ」存在なのかもしれない。
 そしてその楽しみは、人それぞれに同じように分け与えられ、適宜(てきぎ)に得られるようになっているのだが、そこに不公平さが感じられるのは、それぞれの人の取り組み方や感じ方の違いが、目の前の物事を、満足できるものとできないものとに、一方的に自分だけで善し悪しの判断をつけてしまうからなのだろう。
 当然にお金持ちの人と、貧しい人との、人生における満足感は違ってくるのかもしれないが、見方によればそうとも言えないのだが。
 あの中島敦の有名な小説『李陵(りりょう)』の中から、その白眉(はくび)の場面ともいえる二人の対面の一節から・・・。

 時は中国、漢の武帝(ぶてい)の時代、匈奴(きょうど)に捕らえられて、その時の誤解から武帝の怒りをかい、戻るに戻れずやむを得ずに結局は匈奴側に寝返る形となり、今は匈奴の右校王(うこうおう)になっていた李陵は、ある時、それまでに同じように匈奴に捕らわれて、それでも己の義を通して、困苦の捕囚生活を送っていた漢の将校蘇武に対面することになった。
 二十年来の旧知の仲でもある二人は、始めは時を忘れて語り合ったが、そのうち李陵は、蘇武が、はっきりしたあからさまな態度ではないものの、己の優越を知ったうえで、相手に寛大であろうとするような態度が見え隠れしていることに気づくのだ。

 「・・・襤褸(らんる、ぼろ布)をまとう蘇武の目の中に、時として浮かぶかすかな憐憫(れんびん、あわれみ)の色を、豪奢(ごうしゃ)な貂裘(てんきゅう、テンの皮ごろも)をまとうた右校王李陵は何よりも恐れた。・・・。」

(中島敦 『李陵』より 現代日本の文学 学習研究社) 

 この『李陵』におけるような情景は、この場合の例としてはあまりふさわしくはないのかもしれないけれど、言えることは、ぼろ布を身につけて極寒の地で暮らしている蘇武には、それでもいつの日にかという己の思いとあこがれをもって生きているけれども、一方の李陵は、右校王としての恵まれた地位にあり、豪華な毛皮を着ているけれども、蘇武を見るたびに、義を通すことのできなかった自分への悔いが残り、何か満たされない思いになっていたのだ。
 つまり私が言いたいのは、様々に違った地位や環境の中にいても、それぞれの考え方次第で、受け止め方次第で、何とでも良くも悪くも生きていくことができるのではないのかということだ。
 それは敗者の言い訳に、自分慰めの言葉に聞こえるかもしれないが、そう思いたい他人にはそう思わしておけばいい。彼らこそが、そう考えている限り、いつまでも自分では幸せな思いにはならないだろうから。
 そうではなくて、今の自分の周りだけで、あるいは少し手を伸ばせば届く範囲内で、自分の楽しみを見つけていけばいいし、その方が短い自分の人生の中で、少しでも長く幸せな気持ちでいられるからだ。

 こんなことを、長々とここまで書き綴って来たのは、最近、今さらながらに自分の体の一部の劣化に気づいてきて、早く言えば年寄りの体になって来たなと実感したからだ。
 それは最近、急になったものではなく、もう何年も前からうすうす感じていたものであり、ここでもことあるごとに書いてきてはいたのだが、それは、ひざ関節の悪化だ。
 普通に立ち歩いている分にはあまり気づかないのだが、急坂や階段を下る時には、力が入らずに踏ん張れなくなってしまうのだ。
 去年の、北アルプスは鹿島槍ヶ岳から五竜岳縦走(’15.8.4―17の項参照)の山旅に出かける前から、ひざの状態は不安だったのに、何とか悪化することもなく歩きとおして一安心だったのだが、ただ体力的には、最後には疲れ果てた山旅で終わり、自分の脚力のなさを痛感させられたりもしたのだ。
 その後も、数回の登山を繰り返してきて、確かに無理はしなかったこともあって、ひざにそうひどいダメージを受けることはなかったのだが、最近になって、二つの良くない出来事が。

 一つには、身内の法事があって、少し気にはなっていたがそのまま30分余りも正座して、ひざの痛みがひどくなったこと。
 もう一つは、いやな夢を見てベッドから落ちてひざを打ったこと。
 というのも、最近うなされてひとりごとを言ったり(あの八甲田の宿で、二段ベッドの下の人から教えてもらった)、こうしてベッドから落ちたり(二度目)、若いころは仰向けに寝てはそのまま朝まで寝ていたのに、今はベッドの上で何度も寝返りを打っているようで・・・いつも脳天気に、楽天的に生きているとここに書いてはいるものの、そうした穏やかな毎日だからこそ、小さなことが実は気になっていて、ノン・レム睡眠の無意識の中で、何かが立ち現われてくるのだろうか・・・ああ、いやだ。 
 
 話がそれたので元に戻すと、こうした最近の小さな二つの事故でひざの調子が急に悪くなってきたのだ。
 まずは、ネットなどで調べてみると、老化からくる変形性関節症・・・そして半月板損傷と靭帯(じんたい)損傷・・・外科手術とリハビリが必要になってくるとのこと。

 まったく”なんてこった”、と思ってしまう。
 もうこれ以上良くなることはないだろうし、山に登れなくなったらどうしようと考えたのだが、いつも私の頭の中の半分以上は、山のことで占められているのに、その山に登られなくなったら・・・とそう考えてくると、ただこれからは覚悟して次なることも頭に入れておかなければならないだろう。
 
 長時間の山歩きはできなくても、今までのような山登りはできなくても、短い時間の高原の散策ぐらいはできるだろう。
 バスやロープウエイなどを使って、上高地や立山室堂や乗鞍そして大雪山姿見の池などに上がることはできるし、冬でもあの蔵王や八甲田にもロープウエイで上がって雪景色を楽しむことはできるだろうし、逆に言えば、そのぶん今までの単独行の危険な山歩きが減って、むしろいいのではないのか。
 そして、さらにはクルマで写真撮りにだけ行くことができるようになるし、さらに他の趣味にも力を入れることができるようになるし、なあに、たった山に登れなくなったくらいで自分の人生が終わるわけではあるまいし、また別な好奇心の地平が新たに開けてくると思えばいいのだ。
 と、自分で決めた結論を出すことにしたのだ。

 日ごろから、自分が大切にしている物事にとって、他に代わるべきものはないのかもしれないが、もしそれが失われた時には、少しでもそれに近いものに代えて、あるいはまったく別なものに転嫁して、別の楽しみを見つけることはできるはずだし、私たちは誰でも、そうして、何度も自分の中でそれなりに埋め合わせてきたのだ。
 たかが山に登れなくなるくらいで、そう考え込む必要もないし、他にも楽しみはあるのだと結論づければ、ひざの痛みも楽になってくるだろう。

 午前中は曇り空で、ずっと肌寒い感じだったが、午後になって少しずつ晴れてきてまた暖かくなってきた。
 家のヤマザクラは、葉が先に出ることもなく、青空に、まるでヤエザクラのような塊になって咲いている(写真下)、中段にはヤエツバキ、そして下段にはシャクナゲの花と、何と豪華な春の花舞台だろう。
 ひざが悪いぐらいで嘆く前に、どうだい、このそれぞれの見事な花々を見ることができて、これだけでも十分ではないのか。

  

 ここまで、自分のことだけを書いてきたので、この先は最近のテレビからの、楽しい話題を、まずはもちろんAKBの話からだが。
 少し前に、あのNHKの朝ドラ『あさが来た』の主題歌「365日の紙飛行機」について書いていたのだが(3月21日の項参照)、何とその私の思い通りに、というより皆も同じように思っていたらしく、数字知前の”N響の記念番組”の中で、渡辺麻友(まゆゆ)がソロで歌ったのだ。
 それも何と、NHK交響楽団をバックに、さらに女子大生の合唱団を伴って・・・。
 確かに、フルオーケストラをバックに歌うには、マイクでも彼女の声量が足りなく思えたし、その後で彼女自らがツイッターに書いていたように、最初のほうで声が上ずって不安定なところが二三か所あったけれども、彼女のクセのない透き通った声は、まさにこの歌に良く合っていて、今後も童謡などの歌唱で彼女の歌声をもっと聞きたいと思ったくらいだ。
 
 さらに、もう一人、AKBからNMBに移籍しそこで卒業を迎えることになった、梅田彩佳(うめだあやか)が、最後にあの”AKB48SHOW”で歌っていたが、素晴らしかった。
 彼女は古参と言われるAKB2期生であり、AKBチームBのキャプテンを務めたこともあり、さらにはミュージカルの舞台に主演したこともあり、その”うめちゃん”が、10歳近くも年下で仲の良い同じNMBの元気娘、藪下柊”しゅう”のピアノ伴奏で歌う姿は、見る人によっては万感胸に迫るものがあっただろう。
 あれほどの歌声と切れの良い踊りを持っていても、大きな脚光を浴び続けることもなく、こうしてAKBアイドル人生を終えてしまう娘もいるのだ。

 次は絵画の話だが、上野の国立西洋美術館で開かれている、十数年ぶりの『カラヴァッジョ展』。
 何といっても、最大の見ものは、2年前に再発見されて世界的なニュースになった、行方不明だった「法悦のマグダラのマリア」である。
 テレビの画像を見ただけでも、そこに集中した画家自身の心が伝ってくるようで、この一点を見るためにも、東京に行かなければと思うほどだが、今は外人観光客が増えて、東京は宿不足の状態だというし、大混雑するのも目に見えているし、どうしようか。
 この『カラヴァッジョ展』については、テレビではNHK・BSとBS日テレの”ぶらぶら美術”との二番組で紹介されていて、NHKの方はあの私が行けなかった(2月8日の項参照)、ローマでのカラヴァッジョの絵を見て回っていたし、今回の「法悦のマグダらのマリア」も紹介していたが、NHKにありがちな旅番組風な仕上げで、女性作家と男性俳優が案内していくという必要性もわからないし、アナウンサーの説明だけで十分なのにと思ってしまう、
 絵画番組では、絵が主役であり、余分な個人的感想などは聞きたくないのだ。

 もう一つの”ぶらぶら美術”のほうは、今回の”カラヴァッジョ展”だけについての案内であり、それはそれでいいのだが、何しろこの番組を見ていつも思うのだが、余りにも饒舌(じょうぜつ)すぎてしゃべりすぎであり、”たまには静かに絵を見せてくれ”とも言いたくなるほどだ。
 今回この二本とも録画したのだが、繰り返し見る時には音声を消すことにしよう。
 
 最後の番組は、たまたま見たNHKの”SWITCHインタビュー達人達”であり、女性作家が獣医師の斉藤慶輔氏と対談するという形をとっていて、最後まで見てしまった。
 斉藤氏は、釧路に地盤を置く、日本には珍しい”野生動物専門の獣医師”であり、特に”猛禽類(もうきんるい、ワシタカ類)”の治療等に関しては第一人者と言われている人物である。
 彼がボランティア精神で続けているという、傷ついた猛禽類の保護や手術治療等の実態の話はあまりにも生々しく、特に最近話題になっている、使用中止されたはずの銃弾による鳥たちの鉛中毒死が、いまだに続いているという話で、特に国の天然記念物であり、希少動植物種でもあるオオワシやオジロワシの死体がずらりと並べられたシーンを見て、思わず慄然(りつぜん)としてしまった。

 都会から来たハンターたちによる、趣味のための”シカ撃ち”で、シカを仕留め必要な一部だけを切り取って、他はそのまま片づけることもなく野ざらしにして置いていく、その死肉をあさってヒグマが集まることになり、さらに悪いことには、えさの少ない時期にはワシなどが集まってきて、その中かでも一番大きくて強いオオワシなどが最初に、鉛の銃弾破片が入っているシカの肉を食べ、結局それがもとで、オオワシは鉛中毒になり死んでしまう。
 そこでさらに問題なのは、一番強いものが最初に食べて、余計に多く鉛中毒の被害を受けるということ、つまりその種の中で一番強いものから順に死んでいくという、進化の過程の歴史の中では考えられなかったことが、今の時代になって起きているという事実・・・。

 その昔、私は住んでいる十勝から雪の峠を幾つも越えて、網走は能取湖(のとろこ)そして能取岬にまで、オオワシとオジロワシを見に行ったことがあった。
 クルマを停めて、草むらの中の道を歩いていた時、なぜか上空の日が陰ったように見えて空を見上げた時、音もなく、2m以上にもなる肩の白い翼を広げて、大きな鳥が飛び去って行ったのだ。
 それは一瞬の出来事であり、恐怖を感じる間もなく、感動で目を見開く間もなく、カメラを構える気さえもしなかった。
 ただ私の上を、大自然の一つでもある、大きな鳥が飛んで行ったのだった。
 そして、ようやく私は、身を震わせた。
 それが、オオワシとの初めての対面だった。  

 


それぞれの悟り方

2016-04-04 22:05:47 | Weblog



 4月4日

 あれほどまでに長く続いた晴れの日の後に、こうして曇り空に雨の日の毎日が続いている。
 そうなると、人は勝手なもので、それならばあんなに空気が澄んで山々の眺めが良かった日に、時期的にはまだ早く、花もない枯れ草色の山肌だったとしても、どこでもいいから山に登っておけばよかったのにと思ってしまうのだ。
 都会と比べれば、ここは田舎の山間部の集落だから、日ごろから多くの木々や草の原などに囲まれてはいるのだが、それなのにわざわざ山に登りたくなるのは、より大きな自然の中に入り込んで行けば、またそのさらなる広がりを体感できるからだ。
 生き物の世界では、敵対するものに対しては、自分を大きく見せることが必要になるのかもしれないが、比較できないほどの大きなものの内懐に入り込むときには、むしろ小さな自分であろうとすることが、その広大なものの中でやさしく抱かれているような、安らぎや安心感にもなるということだろう。

 日本各地から、桜満開の知らせが届いてい中で、まだ家のヤマザクラはようやくつぼみがふくらみ始めたところであり、その代わりにヤエツバキの赤い花(写真上)とコブシの白い花が咲いている。
 このヤエツバキは、その昔、亡き母が鉢植えで育てていたものを、大きくなって庭に移し替えたのだが、栄養分の少ないこんな山土の土壌が性に合ったのか、今ではもう5m以上もの高さの木になっていて、いつも今の時期には満艦飾(まんかんしょく)でいっぱいの花を咲かせてくれるのだ。
 それにしても、このツバキの周りには、先日、花を咲かせたあのブンゴウメと、これから花が咲くヤマザクラの木があり、つまり直径3mほどの所にこれら3本もの大きな木があるというのに、まあそんな中でも自分なりに日々大きくなろうとしていて、それは計画性のない無能な庭造りしかできない家主のせいでもあるのに、それぞれがそこで深く根を下ろし、毎年いっぱいの花を咲かせ、さらにそれぞれに実をつけているのだ。
 大きなウメの実がなるのはもとより、サクラには小さな食べられないサクランボがつき、ツバキにはツバキの固い実がなるのだ。

 それなのに、よくあることだ。
 人の世では、たまたま恵まれない場所にいる時に、それをすぐに他人のせいにしたり、その時の周りの環境のせいにしたりして、自らの努力をおろそかにしてしまうことがある。
 しかし、他の地球上の生き物たちは、果たして、自分が窮地に陥った時に、それを他の生き物たちのせいにして、うらみつらみを言うだけで、自分では何の努力せずに生き続けていくなどということができるだろうか。
 生きることとは、そんな余裕のある、他人任せのものではないはずだ。
 愚痴を言う前に、うらみ言を言う前に、否応なしに、まずは自分が生きるための次なる一手に取り掛からなければならないからだ。

 地球上の生態系の頂点にいる人間たちでさえ、実はこうして物言わぬ、他の地球上の生き物、動植物たちの生き方に教えられることが多いのだ。
 私は、今までのどれほど多くのことを、彼らに学んできたことだろう。
 庭の草花から木々は言うに及ばず、広大に広がる山野の草木類から、そこに生息する昆虫類から魚類に動物たちに至るまでが、それぞれに私の目の前で、生と死の一瞬一瞬を見せてくれたのだ。

 とりわけ、私が子供のころから、小さな友として一緒に暮らしてきた、代々にわたる数匹のイヌやネコたち、中でも最後の一匹になった(その後はとても生き物を飼う気にならないのだが)、あのミャオから、私は、親兄弟や友人恩師たちに勝るとも劣らないような、様々なことを学んできたような気がする。
 そもそも、このブログを書き始めたのも、題名通りに、ミャオとともにいることに感謝して書き始めたようなものだから(’07.12.28の項参照)、それはこのブログを最初から読んでもらえればわかることでもあるが(そんな暇のある奇特な人などいないだろうが)、ともかく母がいなくなった後に、生きていることの感謝の思いを誰かに伝えるべき相手が、ミャオだったのだというべきだろう。
 最近よく聞いているAKBの歌で、前に何度も書いてはいるのだが、あの「やさしくありたい」の中に出てくるように、今の私には”やさしさが余ってる”のかもしれない。(2月15日の項参照)
 ミャオ!

 ところで、ここで取り上げている話は、この1週間にあったことの中から、どこか気になったことなどを、日記に書くように、自分に言い聞かせては書き綴ってきただけのものなのだが、とは言っても、1週間の間には様々な知見や出来事があり、そのいくつかは書いておかなければと思っていても、筆の進み具合によってはわずか一つ二つの話だけで終わってしまうことも多い。
 それはそれで仕方のないことなのだが、その他にも書いておくべき大切なことがあったのにと思うこともあり、私が気になるのは、こうしてブログなり日記なりに書いて残したものと、そうしなかったものとの間には、その後に大きな記憶の差ができてしまい、実は記憶されるべき重要なものが、これらの整理過程の中で漏れ落ち欠落してしまうということになるのではないかということだ。
 それは、ときどきふと思い出す事柄が、たいして重要ではないことであったり、夢の中に出てくるものが、どうでもよいような取るに足りないものだったりするからだ。
 私たちは、果たして一つ一つの物事に対し、鼎の軽重(かなえのけいちょう)問いかけて、取捨選択して、自分の記憶をコントロールして保存操作できるものなのだろうか。

 とここまで、他人にはわけのわからないような話を書いてきたのは、実は前回、あの事を書くつもりだったと後悔しても、もうタイムリーな話題ではないからと、自ら取り下げてしまうことが多々あるからなのだ。
 その中には、私の考え方や生き方に影響を与えるほどのものがあったというのに。
 例えば、もう一か月近くも前のことになるが、今年で5年目になる3.11の震災の日に、テレビで何本かの特集番組を見て、深く考えさせられることがあったのに、その時ここには他のことを書いていて、とうとう震災関連のことは書かずに終わってしまったのだが・・・その中には5年たってようやく、初めて自分の体験を語る気になったという人の話もあって。

 そうしたことを踏まえて、私は残すべき自分の記憶のためにも、時期が遅れたとしても、ここに書き残しておくべきだと思ったのだ。
 これもまた、もう一月以上も前のことなのだが、私はある雑誌の記事を読んでいて、いろいろと思い当たるところがあって、これは書いておかなければと思ったのに、それは前回にも書けなかったことであり、もうこれ以上は延ばせないと思って、今回ここで自分の話題の一つにして考えてみることにしたのだ。

 若いころは、あの月刊誌”文芸春秋”を、その芥川賞発表のたびごとに買ってきては、それらの作品を読んでいたものだったが、ある時期から、もうそうした作品が、私の肌合いや嗜好(しこう)に合わなく感じられてきて、もう長い間この雑誌を読むことはなくなっていた。
 ただ、読書家だった母の要望でもあり、興味ある特集記事がある時にだけ買ってきて、母と比べれば私は、それでも少し拾い読みするくらいだった。
 その母がいなくなって、もう10年以上にもなり、ずっとこの”文芸春秋”誌を買ってはいなかったのだが、今回芥川賞発表号の新聞広告欄に、併せて他の特集記事も載っていて、それを見て、実に久しぶりに買ってみる気になったのだ。
 そして、気がついたのは、値段が少し上がっていたことと、表紙がビニール表装になって、豪華な感じになったことである。(長く続いた、あの少しざらっぽい表紙の感覚が、ある意味では”野人ふうな”、創刊者菊池寛の思いをとどめていたなどと言うつもりはないが。)
 
 その特集記事とは、”88人の「最期の言葉」”である。
 もっとも、こうした類のアンケートやエッセイの特集記事は、何もこの”文芸春秋”誌だけではなく、今まで様々な雑誌書籍で企画編集されていて、特に気になったものとして覚えているのは、あの”新潮45”誌による『死ぬための生き方』であり、それは後年一冊の本にまとめられて(1988年)、さらには文庫本(新潮文庫)にもなっている。
 もちろん、ここでの”最期の言葉”というのは、実際に”いまはのきわ”につぶやき話された言葉というのではなく、(昔、社会思想社から出ていた、世界の有名人たちの”最期の言葉”を集めた『人の最期の言葉』という文庫本があったのだが)、生前本人がまだ元気だったころに、周りの人に伝えたり書いたりしていたものであり、中にはあまりにも死に至るまでの間に年数があり、”最期の”という名前をつけるには、いささかためらわれるものなのにと思ってしまうものもあるが、前出の『死ぬための生き方』のように、生前にその人が文章として発表していた、彼なりに行きついた”死生観”だと解釈すれば、とりあえずは”最期の言葉”だと言うこともできるのだろう。

 今回の文春の特集で語られている、88人の言葉には、それぞれにその人となりをうかがわせて、興味深く考えさせられてしまうのだが、今回は、字数の制限上、その中の一人だけをあげることにする。
 それは、あのノーベル賞を期待されていたのに、がんの宣告を受けた後、惜しまれながら66歳で亡くなった物理学者の戸塚洋二氏の言葉であり、死の少し前、闘病生活のさ中に、前にも書いたことのある『臨死体験』(文春文庫)で有名な、評論家の立花隆氏(’14.9.22の項参照)と対談された時の記事が載せられている。

 「・・・死を前にした正岡子規(まさおかしき)がこんなこと言っているんですよ。
 ”悟りという事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思っていたのは間違いで、悟りという事は如何なる場合にも平気で生きていることであった。”
 ・・・平気な顔をして死ぬのもすごいことですが、平気で生きているという事もすごい。でも、結局それしかないのかなと思います。」

 正岡子規(1867~1902)は、四国松山の出身で、東京で学び、明治初期のころの当時の沈滞した日本歌壇を批判して、”古今集”以降の華美な和歌を批判して、”万葉集”の時代の写実の世界に立ち返るべきだとし、俳句の世界でも芭蕉を批判し蕪村の写生を高く評価したが、その流れはやがて、短歌の”アララギ派”、俳句の”ホトトギス派”となって結実していくが、自身は若くして、結核にかかり、さらに脊椎カリエスの病床生活を余儀なくされて、わずか35歳でその生涯を閉じている。
 思えば、後年の短歌の石川啄木(1886~1912)の26歳、小説の芥川龍之介(1892~1927)35歳など、余りにも早すぎる才能ある人々の早逝(そうせい)には、ただただ胸が痛むばかりだが・・・。

 話を元に戻せば、正岡子規のこの言葉は、闘病生活の毎日の中で書かれたあの『病牀六尺(びょうしょうろくしゃく)』に出てくる言葉として有名であり、私も昔読んで知ってはいたのだが、久しぶりに思い出して、またこの戸塚氏の死に際しての言葉として読むと、さらに深く胸に響いてくるのだ。
 改めてここで、その原文の一節を記しておくことにする。

「  二十一

 余は今まで禅宗(ぜんしゅう)のいわゆる悟りという事を誤解していた。悟りという事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思っていたのは間違いで、悟りという事は如何なる場合にも平気で生きていることであった。
 ・・・。 」

 (正岡子規 『病牀六尺』 岩波文庫)

 死を宣告されたにも等しい、それぞれの病床にあって、考えていたこと・・・。
 平気で生きることとは、迫りくる死の前にあっても、その時までいつものようにただ生きるための意思を持ち続けること・・・。

 例えばだが、部屋の中に入って来たアリを見つけて、指先でつぶそうとすると、アリは自分の命の脅威に気づいて、必死になって逃げまわるだろう。
 何も考えないで、ただ生きるために、どこにでもいいから逃げることだけを思って・・・。
 そんなアリを、つぶせるかね?

 前回、弱って飛べなくなったヒヨドリのことを書いていたのだが、その後見えなくなって、てっきり家の周りにいるキツネ、タヌキ、テンなどにを襲われてしまったのだろうと思っていた。
 そして、それで話は終わったと思っていたのだが、そのブログ記事を書いた翌日、何と家から表に続く小さな道の上に、一羽のヒヨドリが死んでいたのだ。(写真下)
 毎日、私が行き来する小道の上に、鳥が死んでいるのを見たのは初めてだった。
 体は固く硬直していて、もう冷たくなっていた。
 まず思ったのは、あの同じヒヨドリではないということだ。翼には何の異常も見られないのだ。
 とすれば他のヒヨドリなのか、それにしてもなぜにここで。体には、他に傷らしいものは見当たらなかった。

 私は、それまで長い間、ベランダのエサ台にミカンやリンゴくずなどを出してやって、そこに小鳥たちが来るのを楽しみにしていたし、ミャオも若いころには、様子をうかがって鳥たちに跳びかかるのを楽しみにしていた。
 ヒヨドリのほかに、シロハラ、ツグミ、メジロ、キクイタダキなどが来ていたが、ある時からカラスがエサ台を狙うようになり、それで小鳥たちは来なくなるし、エサが取り散らかされることもあって、一年前の冬からとうとうエサ台を取り外してしまったのだ。
 そこで、いつも毎日のように来ていたヒヨドリは、それでもやってきてはしきりにグゼって鳴いていて、申し訳ない気もあったのだが、時には腐りかけたミカンやリンゴが出ることもあって、たまにはそれをウメの木の枝などに刺してやっていたのだ。
 そうして家の庭に来ていた、あのヒヨドリが、ついに年老いて病に倒れ、一番親しんだ家の庭で、道のそばで命を終えたのだろうか。
 そのくちばしの根元は、黄色くなっていたが、死ぬ前まで近くのツバキやウメなどの花の蜜を吸っていたのだろう。

 あの、飛べなくなっていたヒヨドリと同じ個体だとは思えないが、ともかくヒヨドリが一羽、家の道で死んでいたのだ。
 私は、木の根元に穴を掘って埋めてやった。

 死にゆく命と、また生まれ来る命と。そうして、また春が来るのだ。