ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

飼い主よりミャオへ(59)

2009-05-31 17:28:43 | Weblog



5月31日
 拝啓 ミャオ様

 昨日の霧雨が、雨に変わり、今日は一日中、降り続いている。天上からの、ありがたい恵みの雨だ。もう長い間、ほんのお湿りほどの、雨はあったものの、これほどまとまった雨は降っていなかった。
 トタン屋根に、絶え間なく当たる、雨の音を聞くのは、久しぶりのことだ。窓の外には、軒下(のきした)から落ちる雨だれの向こう、樹々の葉もまた、雨粒に揺れている(写真)。離れた所で、かすかに、鳥の声が聞こえる。

 雨は、降り続く・・・乾ききった大地に。根を張る植物たちの、潤(うるお)いの源であり、生きる糧(かて)となる水は、すべてのものの上に、降り注ぐ。じっと耳をすましていると、聞こえるかも知れない。
 静かに、地中深く、水が浸み渡っていく音、そして、植物たちの、喜びのざわめき・・・。

 そんな日には、私も、家の中に居て、雨の音を聞くことにしよう。本を読むのに疲れて、窓辺に目をやると、緑の木々や草花の上に、なおも雨は降り続いている。
 そうして、一日が過ぎていく。
 この穏やかさこそ、年を重ねて、初めて見えてくるものなのかもしれない。若き日の、激しいきらめきの代わりに、年を経て、得ることのできるもの、それは、若い頃には、見ようともしなかった、心の緑野(りょくや)なのだ。

 前にもあげた(5月24日)、アランの『幸福論』の中に、雨について書かれている一節がある。
  『小雨が降っているとする。あなたは表に出たら、傘を広げる。それでじゅうぶんだ。「またいやな雨だ!」などと言ったところで、なんの役に立とう。雨のしずくも、雲も、風も、どうなるわけでもない。「ああ、結構なおしめりだ」と、なぜ言わないのか。・・・そのほうがあなたにとってよいことだろう。』(白井健三郎訳、集英社文庫)

 アラン(1868~1951)は、フランスの高等中学校の、有名な教師として哲学を教え、多数の著作物があり、実践的人間哲学の分野を広めたとも言われている。
 彼の説く哲学は、難しい形而上(けいじじょう)の問題というよりは、モンテーニュ(1533~1592、『エセー』)やデカルト(1596~1650、『情念論』)などの、モラリストとしての流れを受け継ぐものであり、現実の人生諸問題に即応した話は、彼自身の言う”語録(プロポ)”によって、まとめられている。
 西洋哲学史の流れの中では、アランの地位は、さして大きなものではないけれど、その現実的な対処法は、誰にでも分かりやすく、哲学のあるべき姿の一つでもある。
 アランの言葉は、中国の老荘の思想、ひいては日本の宗教思想にさえ、近しいものを感じる。もっともそこには、フランス人らしい、エスプリや小さなユーモアも含まれてはいるが。
 彼の書いた本を、なにも、勢い込んで読む必要はない。時に応じて、適当に、あるいは、興味のあるページを開けばよいのだ。

 この三日ほど、天気は良くなく、肌寒い曇り空、そして、雨の日と続いている。前の二日も、朝は、薪ストーヴの火をつけたほどだったのだが、今日の気温は、日中も10度以下のままで、ずっと薪を燃やしていた。
 これでは、日高山脈や大雪の山々には、雪が降っているのかもしれない。この雨が上がり、青空が戻ったら、もしかしたら、山々は、さらに降り積もった白い雪で、輝いて見えるかもしれない・・・。
 しかし、私には、もう山に登るだけの、余分な日にちはない。九州に戻らなければならないのだ。
 山々のことが気になる以上に、ミャオのことが気がかりだ。ミャオ、オマエは元気で居てくれるだろうか。


                     飼い主より 敬具
  


飼い主よりミャオへ(58)

2009-05-28 18:14:20 | Weblog



5月28日
 拝啓 ミャオ様

 今日は、曇り空で肌寒く、午後になって、ようやく一瞬だけ、薄日が差してきたが、晴れることもなく、気温は10度を少し越えただけ。
 もう、あのオホーツク海高気圧が、北から張り出してくる季節になったのだろうか。そういえば昨日も、海側からの風が冷たかったが、外で仕事をするには、暑くもなく寒くもなく、ちょうど良い、庭仕事日和(びより)だった。
 田舎暮らしを楽しめば、家の周りの植物たちへの手入れは、毎日の仕事になる。雑草を取って、芝生を刈り込み、さらに表までの、道の傍の草やササを、カマで刈っていく、二三日がかりの仕事になる。それで、一月に、少なくとも二回は、草刈をしなければならないが、次の日には、腰が痛くなる。
 というわけで、今日は天気も悪いし、昨日の労働の後の、休養日だからと、ぐうたらを決め込んでいる。そしてそんな日には、例のごとく、山の写真を、液晶画面に大きく写して、楽しんでいるのだ。

 それはつまり、二日前に、また山に登ってきたからだ。その日の早朝は、快晴の空の下に、残雪の日高山脈の山々がくっきりと見えていた。
 その山のどれかに、行きたかったが、色々と他の事情もあり、少し離れたところにある、東大雪の山に登ることにした。
 オホーツク海側の地方の天気が、今ひとつ良くないのが気になったが、やはり行ってみると、北見方面との境にある山々には、雲がかかっていた。
 糠平湖の辺りからは、ウペペサンケ山(1848m)もニペソツ山(2013m)も、青空の下に、見事な残雪の山容を見せていた。それなら、これらの山の見える所へと、考えて、ホロカ山に行くことにした。

 このホロカ山(1166m)は、標高も低く、取り立てていうべきほどの特徴もなく、ただの樹林帯に被われた低山に過ぎない。
 近くの糠平(ぬかびら)湖西岸側には、いわゆる溶岩円頂丘と呼ばれる、同じような形の山々がポコポコと目につく。それはウペペサンケ山の寄生火山群なのだが、このホロカ山は、幌加(ほろか)川を挟んで、そのウペペサンケ山群とは少し離れているから、むしろ、背後のニペソツ山群に属するのかもしれない。
 しかし、何よりも、その山頂には三角点があり、ちゃんと名前までつけられているのだ。糠平から十勝三股に向かう、国道の傍に、音更川の流れから、標高差600mで、聳(そび)え立っている。
 大雪の山々に向かうたびに、その傍を通り、いつかは登りたいと思っていた。もちろん、ガイドブックなどに載るような山ではないし、道もない。
 それで、数年前、私が、冬の間も北海道にいた時のことだが。(ミャオは憶えているか、あのオマエを可愛がってくれたおばさんに、面倒を見てくれるように頼んでいた時だ。)雪のある時ならば登れるだろうと、まず、厳寒の2月に下見をした後、3月中旬に、その北東尾根をたどることにした。
 しかし、まだ深く柔らかい雪のために、ラッセルで疲れ果て、頂上までもう少しという所で、引き返した。それは一つには、目的でもあったニペソツ山の冬の東壁を、途中ですでにしっかりと見て、もう満足していたからだ。
 しかし、頂上にたどり着いてはいない、ということが気になっていた。それで、このホロカ山に登ることにしたのだ。

 国道から林道に入り、すぐに下の砂防ダムへと降りる。車を停めて、そこから歩き出す。沢を渡り、広い林道跡の道を歩き出す。
  この林道跡をたどる道は、前回、失敗して戻る時に見つけたもので、これならば、雪のある時よりは、むしろない時に、この林道を利用して上まであがり、後はヤブを分けて頂上を目指そうと、考えたのである。
 緩やかな林道をジグザグに上がる。途中、子グマか若いクマのものだろう、比較的新しいフンが落ちていた。余り良い気分はしない。
 去年のこともあるし(11月14日の項)、時々持って来た鈴を鳴らしながら登っていく。細い伐採作業道になった上の方は、もうササに被われたり、倒木が重なったりと歩きにくくなる。
 そして、ころあいを見はかり、作業道跡から離れて、右手の急な斜面に取り付く。細いエゾマツやトドマツ(皆伐の後、まだ大して年月がたっていないのだろう)にすがり、ササを掻き分けて、ようやく尾根に出る。
 木々の間から、残雪のニペソツ山と雲の取れてきた石狩連峰の姿が見えた。尾根に出てからもヤブは続いたが、人の踏み跡もある。
 やがて、緩やかになり、左側に残雪があり、木々に被われた頂上に着いた。ササに囲まれた中に、三角点標石があったが、その角は、あちこちが欠け取られていた。マニアの仕業だろうが、情けないことだ。
 展望は、南東の糠平湖側が見えるだけで、これでは意味がない。南西面に向かって、木々の間を下ってみると、こちら側は、伐採されなかった原生林のままで、一本の大きな木が倒れた跡が、開けて、良い展望台になっていた。


 南から、ウペペサンケ山、東丸山(1666m)、丸山(1682m)、そしてニペソツ山と天狗岳(1868m)と続いている。(北西の方向の石狩、音更連峰は、帰りの尾根の途中で、よく見ることができた。)
 ニペソツ山も見事なのだが、東壁の岩肌がもう黒々と露(あらわ)になっていて、やはり全体が雪をまとった、冬に比べると、今ひとつ迫力に欠けている。
 左手から、ウペペサンケから東丸山、丸山と続く眺め(写真)は、私には新鮮だった。ウペペサンケ山は2年前にも登っている。東丸山からは、そのウペペとニペソツの姿が見事だったし、丸山からは、ニペソツの颯爽(さっそう)として聳(そびえ)え立つ姿が、これまた素晴らしいのだ。もちろん、あの有名な、天狗から見た、アルペン的なニペソツの姿が一番だとは思うけれど。
 休みを入れても、往復で5時間ほどのラクな山である。しかし、初心者やハイキングには適さないヤブ山でもある。ただ、上手く場所を見つけられれば、展望の名山だと私は思っている。

 これで、北海道に戻ってきてから三回続けて、道のない、誰とも会わない、ひとりだけの山に登ってきた。それぞれに良い山だった。
 しかし、年齢と伴に、一人歩きは、少しずつ危険なものに変わってゆくのだ。心しておかねばと思うけれども、山が見えると、登りたくなってしまう。そして、その向こうには、まだ見ていない何かが・・・。

 今朝早く、BS・HI「クラッシク倶楽部」で、クラウディオ・モンテヴェルディ(1567~1643)の『倫理的、宗教的な森』からの、抜粋(ばっすい)された数曲が演奏されていた。
 なかなかに見事な演奏だった。ラ・ベネシアーナという声楽アンサンブルに、エンリコ・ガッティのヴァイオリンを含めた、日本人の古楽合奏アンサンブル。指揮は、カウンター・テナーでもあるクラウディオ・カヴィーナ。
 このモンテヴェルディの名曲は、レコードの時代から何度も聴いているのだが、やはり当然のことながら、演奏しているところを見て聴いたほうが良い。
 特に、ソプラノの二人のデュオは素晴らしかった。あのエマ・カークビーとイヴリン・タブの、モンテヴェルディ二重唱曲集(旧Carlton,現在はRegisの廉価盤)を思い起こさせるほどだった。
 2007年6月、東京カテドラル(聖マリア大聖堂)での演奏会で、この放映も、何度目かの再放送だということである。
 できることなら、全演奏を聞きたかったし、さらに言うなら、その東京での演奏会に行きたかった。しかし、それは、田舎に住んでいると、できないことの一つである。
 とはいえ、やはり私は、緑溢れる自然に囲まれて暮らしていたい。いつも、どちらか一つなのだが。

 最後に、その演奏会の歌の中の一節から。
 ・・・智の始まりは、神を畏(おそ)れることである・・・。


                     飼い主より 敬具
 
 


飼い主よりミャオへ(57)

2009-05-24 17:26:19 | Weblog



5月24日
 拝啓 ミャオ様

 この三日ほど、小雨模様の日が続いているが、乾ききった大地を、十分に潤(うるお)すほどの雨は降っていない。気温は、朝8度、日中、15度位で、ストーヴをつけるほどではないが、かといって肌寒いし、といった毎日だ。


 それでも季節は、進んでいく。シバザクラの花の、甘い香りが漂ってくる中、庭のリンゴの木には、いっぱいの白い花が咲いているし、ライラックの花のツボミも、日ごとに大きくなっている。
 一方で、チューリップは、花期の終わったものから順に、花の摘み取りをしなければならない。裏の林の中で、長く咲き続けて、私の目を楽しませてくれた、オオバナノエンレイソウの花も、ついに枯れはじめてきた。

 昨日、霧雨の降る、庭の草の上に、一匹のエゾハルゼミがいた。寒さで弱っていて、私が手を伸ばしても、逃げようとはしない。捕まえて、近くのシラカバの木に、とまらせてみた(写真)。
 そこから少し上に上がったが、またじっと、とまったままだった。私には、他に何もしてやれなかった。
 今朝、そういえばと、気がついて、シラカバの木を見てみたが、もうセミの姿はなかった。
 弱っていたから、夜のうちに木から落ちて、キタキツネやノラネコたちに食べられてしまったのかもしれない。もし、どこかに飛んでいったとしても、この寒さの中、生き延びていくのは容易なことではない。
 彼は、四日前に、ただ一匹で鳴いていたあのセミかもしれない。その前に続いた暖かい日々に、つい誘われて、羽化するのが、早すぎたのだ。まだ、仲間たちは、どこにもいなかったのに、ひとりで鳴いていたのだ。
 地中で数年を暮らした後、やっと地上に出てきて、繁殖の時を迎え、鳴き始めたのに、仲間がいないなんて。そして、わずか一週間ほどしかない彼の寿命に、今はもう、一日二日しか残っていないのだ。
 天気予報では、明日から晴れの日が続くというのに・・・。

 しかし、おまえ、エゾハルゼミよ。私は、おまえのために、嘆きはしない。
 時の運不運は、誰にしもあること。後戻りできない、不運を嘆くより、ここまで生きてきた運に、感謝しよう。
 このまま、冷たい骸(むくろ)になったとしても、それは、他の生き物たちの命の糧(かて)となり、あるいは、大地の肥やしになるだろう。
 お前が生まれてきたことは、無駄ではなかったのだ。そもそも、この地球上の、様々な生命流転の仕組みの中に、無駄なものなど、何もないのだ。
 短く生きようが、長く生きようが、あるいは生まれてこなくても、その兆(きざ)し、萌芽(ほうが)だけでさえも、この地球では、意味あることなのだ。
 おまえ、エゾハルゼミよ。私は、ただおまえが、そうしてひとりで、黙って死んでいったことに、感動するのだ。
 それは、人間たちが、さも賢(さか)しげに、悟(さと)りなどと名づけた言葉より、はるかに、自然の神の心に近いものだ。
 あるがままに・・・。私も、そうありたいと思うけれど。

 フランスの哲学者、アランの宿命についての言葉より。
 「・・・みんな歩いているし、どの道もまちがっていない。生きるすべは、なによりもまず、自分のした決心や自分のやっている職業について、決してみずから文句を言わないことにある。・・・」(アラン『幸福論』、白井健三郎訳、集英社文庫)

 NHK Hiの、『白い魔境 冬富士』という番組を見た。今日も、再放送していたけれど、私は、その前の放送の時に録画していたものを、ようやく、三日ほど前に見たのだ。
 なかなかに面白かったが、あえていえば、少し中途半端な番組になっていたと言えなくもない。つまり、日本最高峰の冬山の厳しい世界を、他の季節の情景も交えながら、映像として前面に押し出してほしかったという思いと、なかなかに興味深い、人との係わり合いを、もっとじっくり描いてほしかったという思いを、合わせて感じたのだ。
 つまり、番組そのものが、総花(そうばな)的に、二つの違ったジャンルの話を、一つの特集番組としてまとめていたからだ。
 できることなら、『冬富士(1)自然編』と『冬富士(2)人間編』と分けてほしかったくらいだ。それほどに、どちらのジャンルも、興味深いテーマだったのだ。
 三十年にわたり、富士山の写真を撮り続けているという、写真家、大山行男氏の富士にかける思い、79歳にして、いまだに一年を通して富士山に登り続け、その数、520回にもなるという、大貫金吾氏・・・。
 前回、書いたように、日高山脈の春山に登ったくらいで、泣きごとを言っていた自分に、深く恥じ入るばかりである。
 さらに、これはニュース番組の特集として見たのだが、あの新田次郎著『剣岳・点の記』が、名キャメラマンでもある木村大作氏によって、自身の初監督作品として、映画化されたとのことだ。
 これは、あの『冬富士』の番組とは違い、映画として、人間ドラマとして、描かれているのだろうが、70歳にもなる木村氏は、現地の剣岳の現場にまで登って行って、撮影しているのである。
 いずれも、私よりははるかに年上の、高齢者でありながら、今なお元気な諸先輩方には、ただただ、頭が下がる思いである。

 思えば、ミャオの面倒でさえ、ちゃんと見ることのできない私のふがいなさ、山に登っては、弱音をはき、家に居てはぐうたらに過ごし、全く、あのエゾハルゼミの、本能としての使命感すらない、私の情けなさ。
 呵責(かしゃく)の念に、さいなまれ、ひとり泣く(鳴く)心は、それでも、しかーだないさ。(注、しかーだ、Cicada=セミ)

 どうも、しょうもない話で、失礼しました。
                     飼い主より 敬具



 


飼い主よりミャオへ(56)

2009-05-21 19:12:21 | Weblog



5月21日
 拝啓 ミャオ様

 天気の良い日が、続いている。気温は、25度を越えるほどで、すっかり暖かくなった。というよりは、それ以上に、日差しが暑い季節になったのだ。
 家の林の方から、今年初めての、エゾハルゼミの鳴き声が聞こえてきた。もう10日もすれば、大群になって、耳鳴りと間違えるほどに、鳴き続けるだろう。
 しかし、このセミの声を聞くと、初夏になったのだなと思うし、もう、霜が降りるほど冷え込むこともなく、家の畑にも、安心して、トマトの苗を植えることができるようになるのだ。
 そんな時に、寒い雪山でのことを書くのは、何かそぐわないような気もするが、これは前回からの続きであり、私にとっての、今年一番良かった登山について、反省を含めて、自分の記録としても、どうしても書いておかなければならないのだ。


 さて、戸蔦別(トッタベツ)川林道から、カムイ岳北東尾根に取り付いた私は、7時間余りをかけて頂上に登り、テントを張った。ところが、ガス・バーナーの故障で、食事も作れず、雪を溶かして水もつくれない、という状況に陥ってしまった。
 さてどうするか。その原因結果などを考えるよりは、今は、どうして、お湯を沸かすかだ。その時、幾つかの、小さな幸運の偶然があった。
 現在販売されている殆どの小型バーナーには、着火装置がついていて、タバコを吸わない私には、マッチやライターは必要ではないのだが、いつもライターを持ってきていた。
 というのは、もう15年余りも使っているこのバーナーは、その着火装置が壊れていて、ずっとライターで火をつけていたからだ。もっとも、山に登る時には、非常時のために、いつもライターやマッチを持っていくのが、常識ではあるのだが。
 そして、燃やすものはといえば、割りばしが二つとティッシュペーパーだけ。辺りを見回すと、一面雪に被われた中にハイマツだけが出ている。
 むやみに、そのハイマツを燃やすわけにはいかない。高山帯の保護樹木であるし、なによりも生木では燃えにくいだろう。しかし、下のほうを見ると、良かった、枯れている部分がある。
 それを、指の長さほどに何本か折り取って、食器のフタの上で燃やし、その上に、水を入れた食器をかざした。それで、なんとか、お湯が沸いてくれて、簡単な食事をとることができた。
 次は、水だ。雪を溶かして水にするには、強い火力が必要だが、時間もかかるだろうし、なにより、それだけの枯れハイマツもない。ポリ水筒に残っていた水に、雪を入れる。もう外はマイナスの気温になっていて、振ったくらいでは、簡単に溶けてはくれない。
 そこで、水筒にタオルを巻いて、多めに持ってきていたカイロを貼り付けた。後は、それを抱いて、寝袋の中で寝るだけだ。

 上空一面を覆ってしまった雲のために、楽しみにしていた夕映えの山の姿は見られなかった。それどころか、次第に風が強くなり、テントを大きくゆすり始めた。
 天気図によれば、上空には高気圧があるはずで、低気圧や発達した前線が通るときの、テントが吹き飛ばされるほどの風にはならないだろうが、やはり気がかりだ。
 そしてそれ以上に、寒さが忍び寄ってきた。雨具も着込んで、カイロを三つつけて寝袋に入り、さらに、膝から下はザックに突っ込んで、横になっていたのだが、やはり寒い。
 もとより、そんな状態はいつものことと、予測していて、山の上で眠れるとは思っていない。不肖、鬼瓦熊三(おにがわらくまぞう)、恐ろしげな外見の割には、純粋で傷つきやすい、繊細な心の持ち主ゆえに(ミャオ、プッと吹き出すんではない)、枕が変わると、もう眠れなくなるのだ。
 今回は、山上一泊だけだから、今日眠れなくても、明日家に戻ってぐっすり眠れば良いのだ。ヒグマの心配はといえば、冬眠明けの今の時期、沢を遡(さかのぼ)って反対側の谷へと、鞍部などの稜線を越えていくことはあるが、まず、頂上を目指すクマなどはいない。


 うつらうつらとしながら、未明には風も止み、この寒さの中でも、1時間ほどは眠っただろうか、時計を見ると3時半だ。テントの入り口を少し開けて顔を出す。
 東の地平に赤みが差していて、雲ひとつない暗い空に月があり、その下に、カールを抱えた白銀のエサオマントッタベツ岳の姿があった。
 簡単に朝食をすませて、テントを撤収(てっしゅう)し、ザックに詰め直したりしていると、すぐに時間はたってしまう。そして、5時半、サブザックにカメラと水、食料などを入れて、出発する。
 雪の稜線が続く向こうに、めざす1780m峰があり、その後には幌尻(ぽろしり)岳の大きな山容が見える。昨日ほどに、澄んだ空ではないが、それでも快晴の空の下、周りを取り囲む山々の眺めが素晴らしい。
 雪堤になった稜線を西に向かって下っていく。朝のうちは、雪もしまり、アイゼンが効いて、余り雪にはまり込むこともない。たまに聞こえる鳥の声と、そよ風の音がするだけで、他に誰もいない。雪の山々だけに囲まれて、何と快適な山歩きだろう。
 とはいっても、雪堤の北側に張り出した雪庇(せっぴ)には、気を使うし、ふたつのコブへの登りは楽ではない。しかし、その二つ目のコブ、1753m点に着いたとき、ついに大きく幌尻岳が見えてきた。そして1780m峰への最後の登りだ。
 見覚えのある、雪の溶けた小さな草地の頂上に出た。風が吹き上げてきて、と同時に、目の前に、私がどうしても見たかった、あの光景が広がっていた。
 こみ上げてくる思いに、私の胸はいっぱいになり、その景色がうるんで見えた。ついに、またここに来ることができたのだ。
 なんという、幌尻岳(2052m)の雄大な姿だろう(写真)。
 頂上から南(左)にかけて、三つのカールがはっきりと分かり、その底にはモレーン(削られた後の砕石帯)も見える。特に左端の二段になったカールが、その下で、氷河谷になって下る様が素晴らしい。さらに、頂上の北にある肩の下にも、小さなカールが認められ、それらのカールが複合的に削り上げたこの東カール全体の姿は、まさに雄大そのものである。
 ただあえて言えば、前回の時の方が、もっと雪が溶けていて、カールや氷河谷と、山肌の部分が明確に区別されて見え、それはまさに、現存する氷河を思わせるような眺めだったのだ。
 しかし、青空の下の、この一大景観を前に、他に何を言うことがあるだろうか。カール群はさらに北側へと、戸蔦別(とったべつ)岳(1959m)との間に、あの有名な七つ沼カールとなって続いている。
 稜線は、その戸蔦別岳から、北戸蔦別、1968m、ピパイロ、伏見、妙敷と、半円状に続き、一方、幌尻岳から南には、少し離れてイドンナップ岳(1748m)が見え、さらに眼下の新冠川の谷を隔てて、私が唯一、登っていないカールのあるナメワッカ岳(1799m)があり、その奥に、1903m峰と1917m峰との間には、あのカムイエクウチカウシ山(1979m)が一際高い。
 そして、手前に、エサオマントッタベツ岳と札内岳、その後に十勝幌尻岳が見えている。
 つまりこの1780m峰は、夏道がなく、登山者には、殆ど知られてはいないけれど、日高山脈の主峰群を眺めるためには、絶好の展望台なのだ。

 30分ほど展望を楽しんだ後、私は、もう二度と来ることはないだろうこの頂に、そして幌尻岳の眺めに、子供のように大きな声を出して、別れを告げた。
 帰りの道は、もう雪が緩んでいて、歩きにくく、登り返しのコブを越えていくのに、疲れてしまった。往復に3時間ほどかかって、カムイ岳に戻り、一休みした後、北東尾根を降りていく。
 緩んだ雪が、アイゼンについてポックリ下駄のようになり、すべりやすくなる。度々、ストックなどで叩き落しながら歩いていく。
 小さな登り返しにさえ、立ち止まるほどに疲れてしまった。そんな、バテバテ状態でも、いざ雪堤の下りになると、やはり楽だ。ズンズンと下り、所々で尻セード(お尻で雪面を滑り降りること)をして楽しみ、登りは辛かった雪渓も一気に下り、ようやく尾根取り付き点に出る。
 しかし、そこからのわずか30分ほどの、林道歩きが辛かった。余り重さの変わらないザックのためではなく、プラスティック・ブーツの中の足が、こすれて悲鳴を上げていたからだ。
 カムイ岳の頂上から4時間近くかかって、やっとの思いで、ゲートのある駐車場に着いた。振り返る、新緑の谷あいの上には、まだ変わらずに、青空が広がっていた。


 天気も眺めも、期待通りに良かったのだけれども、他にも、小さなミスもあり、反省すべき点も多かった。なにより、たったこれくらいの山行で、疲れ果ててしまったのだ。
 もう、年だ。あんな、きつい山登りはやめよう。これからは、年相応に、のんびりと生きていこう。・・・と、筋肉痛に足を引きずりながら、その時は、思っていたのだが。

 あれから1週間、再び、晴れた空の下に、立ち並ぶ日高山脈の白い山並みを見ていると、・・・きっと来るー、きっと来るー、と歌うような声が聞こえ、哀れな私、鬼瓦熊三は、そのよれよれの姿で立ち上がり、よたよたと窓辺に近づいては、つぶやいているのだ・・・よし、来週晴れたら、また山へいこう。
 「喉元(のどもと)と過ぎれば熱さを忘れ」、「馬鹿は、死ななきゃー、なおらーないー」・・・とくらあ。まったく、なんのこっちゃ。

 ミャオ、と言うわけで、私は元気にしている。オマエも元気でいてくれ。
                     飼い主より 敬具


飼い主よりミャオへ(55)

2009-05-19 17:49:53 | Weblog



5月19日
 拝啓 ミャオ様

 昨日今日と、晴れてはいるが、風が強い。特に今日は、一日中、風速15m位の風が吹き荒れ(広尾町では最大瞬間風速29m)、耕され苗を植えつけられたばかりの、畑の土が舞い上がり、十勝平野じゅうが、黄砂のような砂塵(さじん)に被われている。これでは、おそらく、風による農作物への被害が出るだろう。朝から、気温は10度以上もあり、日中も20度を越えて上がっているというのに。
 
 しかし、四日前、私が居た雪山の上では、マイナス5度位にまで下がっていた。寒さに震えながら、私はひとり、風に揺れるテントの中で寝ていたのだ。
 前回からの続きを、順を追って、話していこう。その日は、朝5時過ぎに、家を出た。行く手には、朝の光に照らし出されて、日高山脈の白い峰々が立ち並んでいた。
 しかし、昨日の夜までは、天気予報での、午後からの曇り空が気になっていた。それに加えて、自分の年齢から来る体力の不安が重なり、私の心の隅にあるナマケぐせが、山に行かないで、家での安逸な一日を呼びかけていた。
 いつも山に行く前には、映画のタイトルではないけれど、自分の心の中で、こうした、天使と悪魔の争いが繰り返されるのだが。しかし、その日の朝、起きて外に出ると、快晴の空の下に、日高山脈の山々がはっきりと見えていて、天使の群れが飛んでいたのだ。もう、行くしかない。

 戸蔦別(とったべつ)川林道に入り、途中、十勝幌尻(とかちぽろしり)岳や札内(さつない)岳への林道分岐を過ぎていくと、大正の沢の砂防ダムの所に、ゲートがあって、そこから先は通行止めだった。
 昔は、さらに上流へと、3キロほどは入れたのだが、といっても、今回の登路になる、尾根の取り付き付近までは、2キロほどで大した距離ではない。
 まだエゾヤマザクラが咲いている、新緑の谷沿いの道を、歩き始める。すぐに、道は残雪に被われ、さらに危険な崖崩れによって、一部分は、岩礫(がんれき)で埋まっていた。
 エサオマン川との分岐の橋を渡り、すぐの所にあるヤブ尾根取り付き点から、500mほど先で、11年前の時と同じように、伐採道をたどって支尾根に取り付くつもりだったが、すぐ傍の沢に赤いテープの目印がある。上の方を見ると、ずっと残雪の雪渓が続いている。そこから登ることにした。

 このカムイ岳(1756m)北東尾根には、はっきりとした登山道があるわけではなく、冬から春の積雪期に、主にエサオマントッタベツ岳(1902m)へのルートとして利用されている。逆方向へは、その先の、1803m峰付近のハイマツがひどいということだが、戸蔦別岳(1959m)方面へと続く、主稜線ルートとして利用されている。
 私の今回のルートは、あの11年前の時と同じように、この北東尾根を登って、カムイ岳まで行き、そこにテントを張って、翌日、目的の1780m峰へ往復するという計画である。

 ダケカンバなどの樹がまばらに生える、この広い雪渓には、さらに前の日に降った新雪が、うっすらと積もっていて、あの連休期間中に登ったかもしれない、登山者の足跡を隠していた。もちろん、他の動物、ヒグマなどの足跡も、どこにも見えない。
 急斜面の雪渓を、ズンズンと登って行く。振り返ると、戸蔦別川の谷を隔てて、妙敷山(おしきやま、1731m)と伏見岳(1792m)が、青空の下に並んでいる。
 谷をつめて、尾根に出ると、後は、南東側に大きく発達した、雪堤をたどって登って行く。まばらな樹木の間から、まず右手に、妙敷、伏見から続いて、ピパイロ岳(1917m)、1967m峰と見えてきて、反対側には、大きく札内岳(1896m)がそびえ立ち、ついには、エサオマントッタベツ岳が現れてくる。

 こうして、上に登るにつれて、山々の姿が見えてくる時ほど、心浮き立つものはない。頂上目指して、さあ登り続けようという、元気もわいてくるのだ。
 やがて、すっきりと両側の見通しが開けてきた。思わず、何度も立ち止まりたくなるほどの、山々の眺めである。
 今年は雪が多く、いつもの連休の頃と同じ位の、雪の量が残っているし、何よりも、それが古くなって、黄砂などで汚れた雪ではなく、新雪に被われた、白い雪山の姿なのが嬉しい。
 その行く手には、この北東尾根の頭(1670m)の白い頂が見えている。
 しっかりと、アイゼンを効かせて、その細くなった稜線を、注意して登って行く。右手は、眼下のカタルップ沢へと落ちる、広大な雪の斜面だ。張り出した雪庇(せっぴ)を回り込んで、ついに北東尾根の頭に出る。
 そこには、ただ、さえぎることなく、エサオマントッタベツ岳の姿があるだけだった(写真)。この瞬間こそが、何物にも代えがたい山での喜びなのだ。

 やはり、何度見ても、素晴らしい山だ。左側のJ.P(ジャンクション・ピーク、分岐点の峰)との間の東カールと、頂上北面の北カールの二つによって、削られた山稜の見事さ。
 若い頃、東京にいた私は、ある日、何かの雑誌に載っていた、これと同じような、エサオマントッタベツ岳の写真を見た。それは、衝撃だった。
 氷河地形の名残であるカール(圏谷、けんこく)は、北アルプスの槍・穂高、立山、薬師、黒部五郎などで見てはいたものの、それらのいずれとも違う、それも北アルプスよりは1000mも低い、まだ見たこともない北国の山に、こんな見事な形でカールが存在していたとは・・・。
 この写真を見たことが、私の北海道移住への、きっかけの一つになったことは確かである。
 それにしても、なんという美しいカールだろう。お椀(わん)状に開いた北カールの底には、モレーン(氷河が削り取った砕石帯)の模様が、その氷期の違いによって、一段、二段と確認することができるし、一方の東カールには、カールから流れ下った氷河谷が、山腹を削った跡を見ることができる。

 今、私の前には、ルートとなる雪庇の発達した稜線が、そのエサオマンの頂上に向かって続いている。一瞬、行ってみたい欲望に駆られたが、新雪に被われて足跡一つ残っていない、危険な雪庇の道をたどらなければならないし、何よりも、今回の目的は、さらに雄大なカール群の眺めが待っている、あの1780m峰なのだ。
 このエサオマンには、10年ほど前に、まだ残雪の豊富な6月に、沢をつめて東カールから、J.Pを経て頂上に着き、そこで一夜を過ごしたことがある。
  ちなみに、エサオマントッタベツ岳という山名は、もちろんアイヌの人たちが川の呼び名としてつけたもので、「曲がりくねっていて、両側が崖になっている川」という意味があるそうだが、詳しくは分からない。(このアイヌ語による、様々な北海道の地名は、調べるほどに興味深いものである。)

 ところで、下からこの北東尾根の頭まで、6時間もかかっている。自分の体力を考えて、軽量化しても、ザックの重さは16kgほどあり、中高年の私には、こたえるのだ。その疲れた体を奮い立たせて、そこから、同じように雪庇の発達した雪堤をたどり、1時間ほどで、カムイ岳に着く。これで今日の行程は終わり、やれやれだ。
 しかし、このカムイ岳からは、さらに展望が良くなり、幌尻岳(2052m)が高く大きく、その傍には、付き従うように戸蔦別岳(1959m)も見えている。
 ちなみに、このカムイ(神威)という名前は、北海道の各地にあり、それは、良く知られているように、神様、あるいは山の神様、つまりヒグマのことも意味している。山名としては、この日高山脈の南日高には、同名の有名な神威岳(1600m)があり、その山と区別するために、こちらの山を、カムイ岳と表記している。


 さて、この三角点のある頂上の、南側に面した所が、ちょうど手ごろな幕営(ばくえい)地になっていて、そこにテントを張った。しかし天気は、予報通りに、曇ってきて、楽しみにしていた、夕映えの山々の姿も見ることができなかった。
 ところが、それ以上に大変なことになってしまった。さて夕食の支度にと、ガス・バーナーを取り付けようとしたが、どうしても、ボンベに取り付けられないのだ。行く前には、ちゃんと取り付けて、火もつけてみていたのに・・・。
 持って来た、インスタントや乾燥フーズの食料は、いずれも、お湯で戻すものばかりだ。そして、いかに周囲が雪ばかりだとはいえ、飲み水を作るには、溶かすための火力が必要だ。
 それなのに、火が使えない。周りの何キロ先の彼方にも、他の登山者の姿さえなく、寒い雪山の上に、ただひとり・・・。
 さらに、暮れかかる空からは、ゴーゴーと音を立て、風が出てきて、テントを揺らし始めた。

 ミャオ、我ながら、なんて馬鹿なことをしているんだろうと思う。九州の家で、オマエと二人、仲良く、穏やかに暮らしていれば良いものを・・・。ともかく、続きは次回に。
                       飼い主より 敬具


飼い主よりミャオへ(54)

2009-05-17 18:15:37 | Weblog



5月17日
 拝啓 ミャオ様

 午前中までは、日高山脈の白い山なみが見えていて、昨日までの良い天気が続いているかのようだった。午後になると、一面の曇り空になり、やがて雨が降ってきた。
 それで良い。乾燥した大地のために、緑なす草木のためにも、家の哀れな井戸のためにも、もっと雨が降ってほしい。
 今日は、朝から、筋肉痛で痛む足を引きずって、山で汚れた道具を洗ったり、干したりして、今ようやく片付け終わったところだ。この二日の間、山に行ってきたからだ。

 それは、今年の雪山での目標の山だった。日高山脈、主稜線上の、戸蔦別岳(とったべつだけ、1959m)とエサオマントッタベツ岳(1902m)との間にある、カムイ岳(1756m)の西、戸蔦別岳側寄りの山で、無名峰のピークである。
 地形図から判断すると、その高さは1780m余り。ということで、他の日高の山の、無名峰の呼び名で使われているように、ここでは、1780m峰と呼ぶことにする。
 この山の姿を見て、始めて意識するようになったのは、いつの頃からだろうか。それは、多分、十数年前の伏見岳(1792m)からピパイロ岳(1917m)への縦走の時だったように思う。
 すぐ南側に、戸蔦別川の谷を隔てて、戸蔦別岳からエサオマンへと主稜線のやまなみが続いている。その中で、山名があるのはカムイ岳のみで、その西に続く1780m峰と、その先にある1803m峰にも、名前はない。
 しかし、山にしてみれば、人間のつけた名前などは、どうでも良いことに違いない。山にとっての歴史というのは、それは、あくまでも人間側からの働きかけによる歴史であって、山そのものの、自然生成の歴史は、山自身が知るのみである。
 今日の名山選びの風潮に、逆らうことになるかも知れないけれど、歴史的に宗教的に良く知られている山が、私にとっての良い山としての、条件ではない。
 重要なことは、あくまでも、その山の姿かたちに特徴があり、美しいと思えるものであり、あるいは、その山の自然としての植生環境に、例えば、お花畑や草原、森林帯などの見るべきものがある山である。
 ところで、この1780m峰は、北側から見ると、隣のカムイ岳よりは高さも高く、はるかに立派な山容であり、ピラミダルな山頂を、すっきりと立ち上げて、その北面に、鮮やかな残雪のY字谷を刻んでいる。(写真、’07.5.28.伏見岳より1780m峰、左はカムイ岳) それは、昔登った、上越の谷川岳(1963m)の茂倉尾根(しげくらおね)から見た、万太郎山(1954m)の姿を思わせる。
 この伏見~ピパイロの縦走の後も、その後度々登ることになった、伏見岳の頂上から、1780m峰を見るたびに、私は、あの山には、いつか登らなければならないと思っていた。

 その思いを果たしたのは、今から11年前、奇しくも、今回と同じ、5月15、16日のことであった。
 エサオマントッタベツ岳の積雪期のルートとして知られる、カムイ岳北東尾根を経由して、カムイ岳山頂に至り、そこにテントを張って、翌日、1780m峰を目指した。
 途切れがちな雪堤と、ハイマツに苦労しながら、やっとのことで、長年の憧れ、1780mの頂上に達することができた。
 そこに広がっていた光景・・・私は、こみ上げてくる思いに、涙を流した。何という、日高山脈の大自然の眺めだろう。
 それは、様々な恐怖感を超えた後の、ある種の放心に似た恍惚(こうこつ)状態であったのかもしれない。私は、快晴の空の下、1780mの頂上で、ただひとり、日高山脈の主峰、幌尻岳(ぽろしりだけ、2052m)と対座していた。
 その雄大な山容を、やわらかくえぐり、削り取る氷河地形の見事さ・・・私は、若い頃に行った、あのヨーロッパ・アルプスの氷河の眺めを思い出していた。
 フルーアルプ奥の、登山道のない岩塊帯をたどり、プフールヴェ(3314m)に登り、そこから、快晴の空の下、そよ風が吹く中で、私はひとり、モンテローザ(4634m)とリスカム(4527m)を背景にして、流れ下るフィンデルン氷河の、広大なうねりを見ていた。
 もちろん、この1780m峰からの眺めは、あのヨーロッパ・アルプスの雄大さには比べるべくもないし、今の日本の山には恒久的な氷河は存在しないが、その氷河を思い起こさせるほどだったのだ。
 この幌尻岳を、形良く見るのには、二ヶ所の好展望台がある。北に位置するヌカビラ岳(1808m)と、この1780m峰である。前者は、北カールを擁(よう)する幌尻岳の姿が素晴らしく、この1780m峰からは、それ以上に、東カールと七つ沼カールを抱える姿が雄大である。
 幌尻岳への一般的な登山路になっている、額平(ぬかびら)川から、北カールの尾根をたどり、頂上に往復するだけでは、この幌尻岳の大きさは十分には味わえない。せめて、戸蔦別岳へと回って下れば、1881mのコブで、その雄大な姿を、見ることができるのだが。

 ともかく、あれから11年、あの時のカメラは、フィルム・カメラだった。繰り返し言うことになるが、今の私の楽しみの一つは、デジカメで撮った山の写真を、大きな液晶画面に写して、ひとり、ニタニタと笑みを浮かべながら見て、悦(えつ)に入ることである。(ブキミー、ヘンターイと言われようが。)
  そのためにも、中高年として体力の衰えてきた今、最後の、あの幌尻岳の姿を見に行かなければならない。それを老後の楽しみとするために、デジタル画像として残し、繰り返し味わうためにも・・・。
 そして、天候をうかがいながら、待ち続けて、ついに出発するべき日は来たのだ。5月15日、快晴の朝は、久しぶりに冷え込んで、気温は-3度。
 5時すぎ、クルマにザックを乗せて、家を出る。行く手には、日高山脈、全山の長々と続く白い山なみが、横たわっている。


 母さん、ミャオ、相変わらず、危ない馬鹿なことばりやっていて、ごめんなさい、それでも、しっかり生きていますから。
 山の話の続きは、次回に。
                         飼い主より 敬具


飼い主よりミャオへ(53)

2009-05-13 21:51:34 | Weblog



5月13日
 拝啓 ミャオ様

 昨日は一日中、雨がしとしとと降り続いていた。気温は、8度までしか上がらず、久しぶりに薪ストーヴに火をつけるほどだった。
 実に、2週間ぶりの雨で(前回は雪だったが)、乾ききった大地に生きる新緑の木々や草花にとっては、まさに待望の雨だったに違いない。
 ただ、私とすれば、もう少し雨の量がほしかった。それでも、危うい水位に達していた家の井戸水が、まだ安心はできないものの、これで一息つけることになる。

 周りのキタコブシにエゾヤマザクラ、そしてエゾムラサキツツジなどの花は終わったけれど、代わりに小さな八重咲きのシベリアザクラの花と、白いスモモの花が咲き出した。
 今日、再びの、いっぱいの日差しをあびて、庭のあちこちには、もう百本ほどにもなるチューリップの花が色鮮やかに咲いている。秋の堀上げもせずに、たいした肥料もやっていないのに、毎年増え続け、全く、エライものだと思う。
 裏の林の中では、10日ほど前から、あのオオバナノエンレイソウが咲いている(写真は数日前のもの)。やわらかい大きな緑の葉の上に、清楚な白い花を開いて、立ち並んでいる。
 北海道の、春の花の中でも、とりわけ私の好きな花であり、毎年、どうしても、この花の写真を撮りたくなるほどだ(’08.5.18の項)。ただ、その白い花びらの形には差異があるようで、写真のように広いものから、細いものまである。 同種のエンレイソウの方は、数が少なく、クロユリの花の色に似た、こげ茶色の小さな花をつける。
 このオオバナノエンレイソウは、北海道の丘陵地の林の中で、よく見られる花である。帯広市内にある自然公園では、その一大群生地になっているほどだ。
 家の近くの、沢沿いの斜面の一面にも、群生していたのだが、いつの間にかササが進入してきて、めっきりその数が少なくなってしまった。
 このササの繁殖ぶりは、近年、北海道の高山でも、目立つようになってきていて、特に、私も毎年通っている、あの日本有数のお花畑である大雪山、五色ヶ原の一部では、このササの進入で、次第にその花の面積が少なくなってきているのだ。
 ここでも言われているのが、地球温暖化であり、先日、新聞の書評欄に載っていたスティーヴン・ファリスの『壊れゆく地球』では、もう警告の域を越えて、すべてが遅すぎる状態にあり、残された時間はもうない、とまで宣言されているそうである。
 かつて、あのレイチェル・カーソンの『沈黙の春』を読んだ時に受けた衝撃を思ってしまう。人間が作り出した化学物質の及ぼす害悪を、いち早く予言した彼女の言葉通りになりつつある今の地球、そして、さらに、この地球上を覆い続ける、新たな温室効果ガスの及ぼす、壊滅的な環境破壊が、現在進行中なのだ・・・。
 核兵器による、世界戦争の恐怖を、長年にわたりそのまま解決できずに、さらなる恐るべき、両刃(もろは)の剣ともいうべき科学発展を目指してきた人類社会・・・。しかし、ついに、その最後の審判の日が近づいてきていて、あの怒りの日の、ラッパの音が聞こえてくるのかも知れない。
 ハリウッドの作る、どんなミステリー映画やSF(サイエンス・フィクション)映画よりも、恐怖に満ちたドキュメンタリー・ドラマが、今まさに、地球上に公開されようとしているのだ。
 私たち、中高年世代はまだいい。しかし、豊かなる人生の果実を、十分に味わい尽くしていない若い世代、子供たちのことを思うと、胸が痛む。
 単純なる解決策は一つ。すべての富を捨てよ、ということだろうが、地球上の生き物の中で、最も強欲な人間たちに、そんなことができるわけがない。
 だから、どのみち、終末は近いのかもしれない。ただ哀れなのは、そんな人間たちの、悪行の巻き添えになるものたちだ。
 今何も知らずに、春の息吹の中、緑の葉を茂らせ、花を咲かせている植物たちや、そして春の巣作りに精を出す小鳥たち、山野を跳ね回るシカやキツネやウサギや・・・そして、人間の子供たちも、なんの咎(とが)もない、すべての無垢なるものたち・・・。
  昔の話だが、核戦争が危惧されていた時代に、『渚にて』(スタンリー・クレイマー監督、1959年)という映画を、公開されたずっと後になって、見たことがある。死の灰が地球上を覆い、最後に残されたオーストラリアで、人々は、それぞれに最後の時を迎えるのだ。人々は、自然のなかでキャンプをして、渓流におどるマス釣りを楽しみ、皆で『ワルツィング・マチルダ』を歌っていた・・・なんという、明るい悲しみだったことだろう。
 そんな日が、現実となって来るのだろうか。目の前にある、この自然の姿を、季節の移り変わりを、日々見守っていくことが、今の私にも、大きな楽しみになっているのだが・・・いつか訪れる終末の日まではと。

 それにしても、なんという大きな矛盾を抱えた存在なのだろうか、人間とは。宗教の教義としてではなく、ただその存在自体が、すでに、自然界に対する大きな原罪を背負っているのだから。
 しかし、だからこそ、日々生きることのありがたさが、身にしみて感じられるのだ。残りの日まで、しっかりと生きること。人は、病になって、あるいは死を前にして、初めて、あの健康でいたことを、何事もなく暮らしていた日々のことを思い、その何もないことのありがたさが分かるのだ。
 そして、これは絶望することではなく、溢れる思いに満ちた日々を目指しての、一日一日になるべきなのだ。
 思えば、叡智ある人間たちは、これまで、幾多の歴史上の難問を解決してきたのではないのか・・・そうあることを信じたいのだ。
 花のことを書いていたら、なんだか難しい話になってしまった。ともかく、そんな日々として考えれば、ミャオと一緒にいることも、大事なことなのだ。なるべくオマエと長く居られるようにするからね。待っていてくれ。 
                     飼い主より 敬具 
 


飼い主よりミャオへ(52)

2009-05-10 17:05:34 | Weblog



5月10日
 拝啓 ミャオ様

 その後、北海道では、相変わらずの、晴れて暖かい日が続いている。今日は、午後から久しぶりの曇り空になったけれど、あの先月の27日の雪の後、もう2週間も雨が降っていない。
 晴れ大好き人間の私には、ありがたいことだが、そうばかりも言ってはいられない、困ったことにもなるのだ。

 植えつけたばかりの、野菜苗や、新しい植木などの水やりは欠かせないし、例の小汚いゴエモン風呂(私には極楽の湯だが)にも入りたい、とすれば、この渇水期には、何よりも、家の浅井戸の水位が気にかかる。もとより、ひとり暮らしだから、それほど大量の水は使わないけれど、出なくなると、もらい水に行かなければならなくなるし、さらに不便になる(’08.5.21の項)。
 それならば、別に深井戸を掘りなおすか、あるいは前の道には通っている水道を引くかだが、費用のことを考えると、小さな車一台分位かかるかもしれないから、まあ、ガマンすればすむことだしと思ってしまう。
 つまりは、考え方次第なのだ。悪くとれば、不満だらけの泣き寝入りになるのだろうが、もともと、そんな不便なところを承知の上で、家を建てたのだから、文句を言うべきではないのだ。
 朝な夕なに、大好きな日高山脈の山を見て、静かな林の中の家で暮らしていけるだけで、もう十分に、満足なはずなのだ。
 ところが、人は、月日がたつと、最初のころの、その幸せな思いを忘れがちになるものなのだ。もっと他のどこかに、別の幸せがあるはずだなどと、欲深い人間の性(さが)に惑わされ、さ迷い歩くことになる。
 その間違いに気がつくのは、その探しの旅に出て、見つけられずに、自分が傷ついた時であり、その時になって初めて、やはり、安らぐべきところは、元の我が家にあったのだと思うのだ。

 そんなことを考えたのは、晴れの日が続いているのに、もう2週間近くも、山登りに出かけていないからだ。理由は、空模様、つまり、ゼイタクな極上の天気の日を求めるからなのだが。
 山の上でテントを張るので、二日続いての文句なしの好天の日がほしい。しかし、連休の頃から、山が霞んで見えにくい日が多く、やっと良く見えるようになったかと思うと、午後にかけて、雨が降ることはないのだが、小さな前線が通ったりと、なかなか出発の決断がつかなかったのだ。
 日帰りで行っていれば、いや二日の予定でも、結果的には、十分満足できる天気だったのに・・・行かなかったのだ。
 そんな時ほどつらいことはない。決断力のない自分を責めるからだ。しかし、行かなかったことは事実だし、あれこれ悩んでも仕方ない。
 というわけで、家の近くの山野を歩き回り、青空の下に広がる山々の姿を眺めては、プチ山登りの気分になる。写真は、近く牧草地の丘から見た、南日高のピリカヌプリ(1631m)、ソエマツ岳(1625m)、神威岳(かむいだけ、1600m)。
  さらに、いつものところで、タラノメを袋いっぱいに採ってきて、他に、ヨモギやアイヌネギ(ギョウジャニンニク)などと伴に、テンプラにして食べる。
 クー、たまらんのー、生きてて良かったと思い、山登りに行けなかったことなどは忘れてしまって、バカなテレビ番組を見て、ひとりゲラゲラと笑う。
 我ながら、何という生き方だろうとも思うが、もうここまで来たからには、開き直るしかない。不肖(ふしょう)、私、鬼瓦熊三(おにがわらくまぞう)は、こんな毎日ではあるけれど、しぶとく、ダンゴムシのように、はいずりまわってでも、生きていくつもりであります。

 母の日・・・お母さん、あなたがいなくなってからも、相変わらずのバカ息子で、すみません。ミャオも、ごめんなさい。

                      飼い主より 敬具


 


飼い主よりミャオへ(51)

2009-05-06 17:57:12 | Weblog



5月6日
 拝啓 ミャオ様

 もう2週間になるけれど、ミャオはひとりで元気に暮らしているだろうか。この連休の間、あの静かな九州の山の中にも、たくさんの人がやって来たに違いない。
 クルマも人も嫌いなオマエは、じっとどこかに隠れて過ごし、空腹に耐え切れなくなると、あのおじさんの所に行って、エサをもらっていたのだろうが・・・。
 本当に、苦労をかけて申し訳ないと思う。しばらくの間、辛抱してくれ。

 私もこの連休の間、家に居た。オマエと同じように、混雑したクルマや人々の中に居るのは、イヤなのだ。私が、ミャオに似たのか、ミャオが私に似たのか・・・。
 しかし、私には、やるべき仕事がいっぱいあった。まず、冬の間に、たくさんの枯れ枝などが落ちている、林内を片付け、そして雪の重みで曲がったまだ背の低い樹に、支柱を取り付け、さらに新たに、カラマツやシラカバなどの小さな苗を、あちこちに植えつけていく。
 庭木に巻きつけていた、荒縄を取り外す。これは、冬の間に、樹の皮を食べに来るエゾシカ対策のためのものだ。
 そして、わが家の小さな畑の、雑草を取り除き、畑起しをして、石灰をまいた後、自家製の堆肥と肥料を入れて、苗床を作り、野菜苗やジャガイモを植えていく。やれやれ、まだまだ色々と細かい作業が残っているが、一休みといった具合だ。
 今年は、私が帰ってきた時に、チラリと冬将軍が姿を見せたが、その後は、すぐに入れ替わって、明るい春娘の一人舞台だった。
 この一週間は、毎日、初夏なみの20度を越える晴れた日が続いて、あっという間に、新緑の、花の季節になってしまった。
 ついこの間まで、冬の枯れ枝のままだったカラマツは、いっせいに新緑のツボミを開いて、緑の樹に変わってしまった。
 エゾムラサキツツジの後にキタコブシの花が咲き、昨日はついに、家のエゾヤマザクラの花も開いた。庭のチューリップのツボミも出揃って、今日はもうその幾つかの花が開いている。シバザクラの小さな花も、チラホラと咲き始めた。
 家の仕事の合間に、近くの野山を歩いてみる。ヤチ(谷地)と呼ばれる湿地には、点々とミズバショウの清楚な白い花が咲いている(写真)。
 さらに、水の流れる沢沿いには、黄色いエゾリュウキンカ(ヤチブキ)の群落が、連なって咲いている。その斜面には、エレガントな紫の小さな花をつけるエゾエンゴサクや、あのオオバナノエンレイソウの白い花も見える。
 今日は、そんな山歩きをして、いつものところで、春の山菜採りの楽しみの一つ、アイヌネギ(ギョウジャニンニク)を、袋いっぱいになるほど採ってきた。傷みやすい下のハカマの部分を取り除いて(手間のかかる仕事だが)、そろえて、小分けにして、袋につめる。その幾つかは、冷凍で保存しておく。何もない時に、貴重な野菜として、取り出して食べるためである。
 さらに、これからは、タラノメ、ヨモギ、ウド、コゴミ、フキ、ワラビなどと、忙しい山菜採りの日々が続くのだ。

 連休の間の好天続きと、高い気温のために、遠くの見通しがきかず、すっかり霞んでしまい見えなかった日高山脈の山々も、今日になって、気温が16度にまで下がり(それでも平年以上)、やっと、その姿がはっきりと見えてきた。
 長々と続く稜線付近は、まだまだびっしりと雪に被われていて、美しい冬山の姿のままだ。その姿を、間近で見るために、連休を過ぎて、再び静かになった山々に登りに行きたいのだが、そのためには、絶好の天気になってくれないと・・・。
                        敬具 飼い主より


飼い主よりミャオへ(50)

2009-05-03 17:43:48 | Weblog



5月3日
 拝啓 ミャオ様

 あの4月26,27日の、45cmもの大雪の後、今度は一転、毎日20度を越える、初夏なみの、暖かすぎるほどの天気の日が続いている。こうした天気の激変は、地球環境がとやかく言われている今日、気になることではあるのだが。
 とはいっても、この数日の高い気温のおかげで、周りの景色も、また一気に春の装いへと変わり、その様子を眺めているのは、楽しいものだ。
 庭の、エゾムラサキツツジの花が咲きそろい、キタコブシの花も咲き始め、まだ葉だけだったチューリップのツボミが、一気に伸びてきた。屋根から落ちて、60cmも積もっていた雪が、あっという間に溶けて、枯れ草色の芝生は、見る間に緑色になってしまった。
 北国の春は、もう次の来るべき冬を知っていて、忙しく走り回るのだ。周りの畑では、あちこちで、農家のトラクターが行き来している。

 そんな、誰もが忙しくしている中、私は山に登ってきた。4日前のことだ。
 その日は、休日だったから、いくら人の少ない日高山脈の山とはいえ、良く登られているコースには人が来るだろうからと敬遠して、まず誰も登らないだろう山を目指した。
 今の時期は、あの二日前の大雪がなかったとしても、まだ完全な雪山の状態だから、登山コースといっても、夏道は全く雪の下に隠れているし、登るべき尾根を判断して、雪の上に自分のトレース(足跡)をつけて、たどっていく他はないのだ。
 その山は、札内川右岸側の、トムラウシ川源頭にある1278mのピークである。(ちなみに、このトムラウシ川という名前は、あの有名な大雪山系のトムラウシ山とは関係がない。北海道の地名は、アイヌの人たちが、自分たちの生活にちなんで名づけたものが多く、このトムラウシという名前も、全道のあちこちにある。)
 この1278m峰に登りたいと思ったのは、4年前の今の季節に、このトムラウシ川の谷を隔てて、北側に相対する1263m峰に登ってからである。その頂上からは、ペテガリ岳(1736m)とヤオロマップ岳(1794m)の姿が見事に見えたけれども、木々が少し邪魔していたし、天気も薄曇りに変わり、余り良くはなかった。
 しかし、南側に見える1278m峰の頂上付近は、少し木々が切れて雪の頂きのように見えた。あそこからなら、これらの中部日高の山々の姿を、もっと良く見ることができるだろう、と思ったのだ。

 ピョウタンの滝・札内川園地横のゲートは開いていて、少し先の札内ダムのところまで、クルマで入れる。(その先の七ノ沢出会いまでの道は、6月20日開通予定とのこと。)
 その手前のところに、除雪スペースを見つけて、クルマをとめる。そして、すぐに目の前の尾根に取り付いた。この時期は、雪崩の危険があるので、沢には決して入らない。
 さすがに、二日前のあの雪の後だけに、ヒザ下までもぐりこんで歩きにくい。ところで、私は手にストックを持ち、足元は、プラスティック・ブーツ(スキー靴ふうの冬山用登山靴)に冬山用スパッツといういでたちである。
 この雪の深さなら、スノーシューかワカン(かんじき)をつけるべきだろうが、この日高山脈の急斜面のヤブ尾根では、余り有効とはいえないのだ。むしろ、雪の下で滑らないように、アイゼンをつけたほうが良い場合もある。
 しかしそれにしても、雪の状態が悪すぎた。歩きやすくなる固雪になるにはまだ早く、その上、湿った雪が積もったばかりで、ヒザ上までもぐりこむ。急斜面で滑るから、26cmの靴先分さえ進めない。
 所々、体を前に投げ出し、四つのひじで這い上がり、木の枝をつかんで、よじ登ると言う有様だ。二人だと、先頭を交代しながら、ラッセルしてゆけるのだが、そこが一人のつらいところだ。
 ただ慰みは、少しづつ標高が上がり、木々の間からは、見事な青空の下、純白の雪に被われた山々を垣間(かいま)見ることができることだ。(写真は1823m峰)
 体力を消耗するばかりで、何度か、引き返そうとは思ったけれど、せめて、この尾根の終わりの高みには、たどり着きたい。
 やっとのことで、少し固くなった雪堤に出たが、それもつかの間、再びグズグズの雪の斜面だ。しかし、頭上の木々の上には、もう斜面はなく、青空があるだけだった。
 5時間半近い苦闘の後、ようやく1016mのコブに着く。木々の間から、目指す1278mのピークが見えていた。しかし、あと2時間はかかるだろう、とても無理だ。
 私は、雪の上にザックをおいて、そこに腰を下ろした。木々に囲まれた静かな頂上だった。梢の上で風の音がしていた。
 下りは、自分の足跡がどれほど役に立つことか、足場が確かだから、ズンズンと下って行けるのだ。
 立ち止まると、白い雪の谷から、何と夏鳥である、ルリビタキのさえずりの声が聞こえてきた。冬に見える景色の中でも、彼らは、春から初夏の季節を感じ取っているのだろうか。(この時、下の町では18度位にもなっていた。)
 尾根の下の方の、雪の溶けた南斜面には、もうアイヌネギ(ギョウジャニンニク)が幾つも芽を出していた。あれほど時間がかかった登りだったのに、クルマのところに戻りつくまでに、2時間とかからなかった。
 
 めざす1278mの頂きには立てなかったが、静かな雪の山に、苦労しながらも登れたことは良かった。これは、次なる本格的な登山のための、予行演習にもなるものなのだから。
 しかし、いつも思うのは、誰も登らないような山に一人で行って、もしものことがあったら・・・ということだ。といっても、心配し出したらキリがない。
 あくまでも、私は、天気の良い日に、安全な登山を心がけて、登っているつもりだ。そして、私は、しっかりと生きていたいから、その生きる喜びのために、山に登っているのだ・・・。


                      飼い主より 敬具