ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

タラの芽とホタルイカ

2013-05-27 22:15:03 | Weblog
 

 5月27日

 朝、周りの風景は深い霧の中にあった。しかし、その白い空の彼方には、何かしら明るい兆(きざ)しが感じられた。
 その白い明るさが広がり、やがて霧が引いていき、林が見え、ゆるやかにうねり続く畑が現れ、そして白い空のあちこちから、青い空が広がってきた。
 彼方には、日高山脈の残雪の山なみがかすんで見えている。

 今日は、全北海道的に、晴れの予報だった。さらに帯広の予想気温は、何と前日よりは一気に10度以上も高くなって30度になるという。
 そんな好天の日なのに、私は、山に行くつもりはなかった。
 昨日から天気が良くなって、気温が上がり始めていたから、たとえ晴れ渡っても、山はかすんでしまいぼんやりとしか見えないだろう。
 今まで、何度もそんな経験をしてきている。せっかく晴れた日に山に登ったのに、上からの山々の眺めがかすんでいては、眺望(ちょうぼう)が第一という私の楽しみが失われてしまう。それは、雲の多い日の登山と同じであって、全くの期待はずれになると思うからだ。

 私が山に登る日は、できることなら見通しのきいた空の下、周りの山々がくっきりと見えるような日であってほしいのだ。
 前回ブログ記事に書いた双珠別岳からは、もう10日余りもたつのだが、あの爽快な雪原歩きの思い出が、今でもよみがえってくる・・・。
 年を取ったがゆえのわがままで、あるいは残り少ない日々のためにも、これからの山歩きは、その最上の天気の日を選んで、出かけたいと思っているのだ。

 ・・・というのは、実は自分への言い訳であり、今では体力的な意味も含めてすっかりぐうたらになり、それほど山にガツガツしなくなったというのが本音のところだろう。
 その分、家の周りにある木々や草花については、より詳しく観察して見守るようになってきたのだ。私と一緒に生きているものとして。

 つい数日前まで寒くて、薪(まき)スト-ヴを燃やしていたというのに、その後、晴れて気温が上がり始めると、一気に春の盛りになってしまった。まさしく、あちこちで爆発的に緑が満ち溢れ、草花が咲き、木いっぱいに緑の葉が増えてきたのだ。
 なんという、北国の春の勢い。
 あのストラヴィンスキー(1882~1971)の名曲『春の祭典』での、フル・オーケストラのきらめき響き合う音の流れのように、生き生きとうごめく草花たち・・・。
 思えばそれは、北国ロシアの出身である彼だからこそ表現することのできた、すさまじい躍動感にあふれた春の音だったのだ。

 前回あげたように、林の中ではオオサクラソウやオオバナノエンレイソウが、今も咲いているのだが、庭ではようやくシバザクラが咲き始めて、さらにはそれまで大きな葉だけだったチューリップも、そのツボミが伸びてきたと思う間もなく、鮮やかな原色の花びらがあちこちで開き始めたのだ、その数、数十本。 
 エゾヤマザクラやキタコブシの花はもう終わりだが、周りの木々の新緑もあっという間だった。シラカバ、ナナカマド、ミズナラなどの若々しい葉が風に吹かれてきらめいている。その上には芽吹いたばかりのカラマツが立ち並んでいる・・・そして青空。

 林の中に入れば、日当たりのよい斜面にはタラの芽が出ている。(写真上)
 「おいしいものにはトゲがあるのだから」とひとりつぶやきながら、そのトゲだらけの枝を曲げて先端の芽を採っていく。
 すぐにレジ袋いっぱいになってしまう。それをその日のうちに、天ぷらに揚げて食べる。
 天つゆにさっとつけてから、その一口めの、さくっとやわらかいおいしさといったら・・・このひとり暮らしのよれよれのオヤジは、それだけでも、ああ生きていてよかったと思うのであります、はい。

 ところで今年は、長く寒さが続いた後で、一気に春が来たために、山菜もみんな同時に出てしまい、大忙しで取りにいかなけれならなくなったのだ。
 そのタラの芽の他に、ウドにワラビにフキにコゴミ(’10.5.24の項)があり、他にも、ヨモギは他の野菜と一緒にかき揚げにして食べるとうまいし、またタンポポの若葉も悪くない。
 食べるものは、探せば野山にいくらでもあるのだ。それが、春の恵みのありがたさだ。

 純白の雪の山の姿はきれいだし、冬の季節が一番いいと、日ごろからほざいてはいても、こうして春になって季節のいろどりで衣替えをした姿を見れば、それは、あのルネッサンスの画家ボッティチェッリ(1445~1510)の名作『春』の中の、花の衣装を着たあでやかな女神をほうふつとさせる姿であり、ああやっぱり、春はいいなと思ってしまうのだ。

 その純白の雪山の姿と言えば、前回、富山平野から雪の剣・立山連峰を見てみたいと書いたのだが、タイミングよくその後に、BS朝日で『ボクらの地球、日本唯一の氷河から奇跡の深海、富山湾』という2時間番組が放送されたのだ。
 まあ概していえば、こうした番組によくありがちな、科学的な興味と旅番組を合わせて盛り込んだ構成になっていて、ずっと通して見続けるには退屈な、どうでもいいような場面も幾つかはあったのだが、そこは録画だったので早送りにして・・・いつも思うのだ、すべての人が楽しめるように作った番組は、すべての人にとってぴったり当てはまるような番組にはならないということだ。

 たとえば、これは昨日放送されたのだが、NHK教育の『日曜美術館』では、今東京で開催されている、あの有名な15世紀ごろのタぺストリー(タピスリー、壁掛け織物)『貴婦人と一角獣』をテーマにして、その作品の全貌(ぜんぼう)が紹介され、この織物にまつわる謎についてなどが話し合われていたが、なかなかに興味深い番組だった。 
 それは、もともと美術に幾らかの興味があり、さらに日ごろから中世・ルネッサンス時代の音楽をよく聞いている私だからなおさらのことだろうが、つまりはそうしたマニアックな人たち向けの番組だったとも言えるのだが。

 紀元前の古代ギリシャの時代から、どこかにいると信じられていた一角獣の話が、中世の時代まで途切れることなく伝わっていて、その時代の人々の願いと教訓を込めて、巨大なタペストリーとして作られていた6枚もの連作。
 この織物の写真は、ずいぶん前にどこかで見た憶えがあり、さらに私にとっては、主に中世・ルネッサンスなどが専門のアメリカの女性ボーカル・グループ、アノニマス4(フォー)の、1993年発売のCD、『愛の幻影』のジャケット写真としてもおなじみのものだったからだ。(写真)

 

 アカペラで歌う彼女らの歌声は、一度聴いたらその声の響きの虜(とりこ)になるほどに魅力的であり、私は3枚のCDを持っているのだが、今にして思えば多分に録音技術的に作られたところもあって、今ではたまにしか聞かなくなっていたのだが、その中でも、あのモンペリエ写本と呼ばれる13世紀の歌曲集を集めた1枚は、その一角獣のジャケット写真とともに、私には忘れがたいCDでもあったのだ。

 さて、その6枚のタぺストリーは、人間の五感、味覚、聴覚、視覚、嗅覚、触覚を表していて、その最後の1枚、”我が唯一の望み”という言葉が織り込まれているタペストリーの意味するところが、いまだ不明であり、様々な学説があるということである。
 番組では、中世時代史の専門家の話も交えて、解明していくのだ。織物の絵の中に書き込まれた紋章から、その依頼主の貴族を探り当て、その夫婦二人の名前の頭文字があることも、そして・・・、しかしまだ謎は続いていく、あの『ダヴィンチ・コード』ほどではないにしろ。
 もともと西洋の絵画には、その絵のもう一つの主題でもある幾つかの寓意(ぐうい)も組み込まれている場合が多く、その上質な謎を秘めて描かれた絵だからこその魅力もあるのだが、同じことがこのタぺストリーにもいえるのだろう。

 いつものことだが、話がすっかりそれてしまった。富山湾の番組の話から、一角獣の話へと、全く関係もないところに及んでしまったが、私が言いたかったのは、テレビ番組について、その制作意図、対象視聴者をどこまで含めるかで、的確なあるいはあいまいな仕上がりになってしまうということである。
 もっとも、NHK『日曜美術館』という番組自体が、ごく少数の人たち向けの趣味的なものであり、その中の中世美術というさらに限られた分野での一作品というテーマであったから、もちろん私のような少し変わった好みの人間には、まさにうってつけの番組だったのだろうが、大多数の人にとっては、おそらく見る気もしないような番組だったに違いない。

 一方、『富山湾』の方は、標高3000mの立山から、さらに1000mもの深さで切れ落ちる、海洋地形の構造によって、それは山からの地下水が地上で湧き出すだけでなく、その海底にも湧き出していて、多くの種類の魚たちをはぐくむような豊かな漁場になり、さらにはその水で古代の海底林も保存され、その海岸では蜃気楼(しんきろう)が見られ、一方の山の上には氷河が存在する、という幾つのものテーマが寄せ集められていて、それを一人の若い俳優がリポーターとして、地元の人々とのふれあいなども交えて紹介するという番組構成になっていた。
 つまり、NHK教育の『サイエンスZER0』のような科学的ドキュメンタリーと、これまたNHKの人気番組である『鶴瓶の家族に乾杯』的な地元の人とのふれあい番組、さらに旅グルメ番組を併せてのごっちゃ煮になっていて、人によってはまとまりがないと感じるだろう。

 といって、いわゆるバラエティー番組のおふざけ調なところはなく、至って真面目に作られたいい番組だったことは確かである。
 この番組で、私が興味があったのは、もちろん時々映し出された富山平野から見た剣・立山連峰の姿にあったのだが、番組の意図はそこにないから、さっと映し出されていただけにすぎなかった。
 さらに、別な番組でも見てはいたが、氷河の現地調査のシーンはなかなかに興味深かった。
 さらにこれは、思いがけなく興味を引いたシーンなのだが、毎年テレビのニュースにもなる、例の浜辺に打ち上げられるホタルイカを、”集団身投げするホタルイカ”と名づけて、その謎に迫っていたところである。

 これは、人間以外の動物は、自殺をするのかという問題にも関連してくるのだ。
 私たちは、長い間、つい最近まで、子供の頃に見た絵本などで、ネズミたちが群れをなして自ら海に飛び込み死んでゆくさまを知っていたし、それは増えすぎた集団の数を減らすための、自らの自殺行為だと思っていた。

 しかしその話は、北極圏ツンドラ帯に住むレミングの、集団行動によるものが、その話のもとになっていて、そうした集団死は、実は個体数が増えすぎて、そのための集団移転の際の事故によるものであって、今まで言われていたような、種の保存のために、自分たちが選んで死に至るというのではないということがわかってきたのである。
 これは、繁殖力の高い他の昆虫や魚類などにも見られるそうであるが、そこで前にテレビで見たのだが、あのアフリカのヌーの大群が、エサになる草を求めて毎年同じルートで、途中、ワニも待ち構える激流渦巻く川を渡るのだが、あの川岸の崖を雪崩(なだれ)を打ってかけ下りて行くさまは壮絶であり、そこで何頭ものヌーが仲間に踏まれて、あるいはワニに襲われて犠牲になるのだが、その時のことが思い起こされるのだ。
 つまりいずれも、自分が生き残るための必死の行動が、事故としての死につながってしまうということだろう。

 ホタルイカの場合は幾つかの、仮説が立てられているが、いずれも、あのイルカの浜辺への集団打ち上げと同じように、いまだにはっきりと解明されてはいないのだ。帰るべき道に迷ってか、方向感覚を失ってか、それとも沿岸逆流の流れによってか・・・。

 前にも書いたことのある、あの日高敏隆氏の『利己としての死』の本能を信じるならば、生き物は決して自らの利益なくして死を選ぶことはないと思われるのだが、自殺することを選ぶ唯一の例外である人間は、果たして、利己としての生きるための意義を、生まれてきた義務としての生を、自分だけのものとして守るべく考えているのだろうか。

 人間社会に生きる倫理観はしっかりと持って、その上で、生きていくことに関してはひたむきであり、貪欲(どんよく)であり、強欲であることは、個である人間にとしては、まさに地球上の生命観にかなったものではないのか。
 80歳でエヴェレストの頂きに立った、三浦雄一郎氏のことを思う。
 

春の雪原歩きの楽しみ 

2013-05-20 21:25:45 | Weblog
 

 5月20日

 今日は、朝から冷たい雨が降り続き、昨日も寒い曇り空の1日で、そんな10度以下の気温では、まだまだ薪(まき)ストーヴの暖かさが頼りになる。

 ただ、その前の2日間は、久しぶりに青空が広がり、気温も20度近くまで上がって、こちらに戻ってきてからの、1カ月も続いた薪ストーヴとの日々も、ようやく終わったと思えるほどの、まさに春本番になった感じがしていた。
 そして、それまでが寒かっただけに、その2日間の道内は、明るい春のニュースにあふれていた。帯広ではエゾヤマザクラが満開になり、旭川でもようやく平年より2週間遅れでの開花ということだった。

 道南の松前などを除いてはソメイヨシノが育たない北海道では、代わりに赤みの強いエゾヤマザクラが各地の標本木になっている。
 ソメイヨシノのように、木全体にあふれんばかりに花が咲く豪華絢爛(けんらん)さはないけれども、一つ一つの花びらが濃く鮮やかであり、北国の春を告げるにふさわしいサクラなのだ。

 家の林の中でも、遅れていたオオバナノエンレイソウやオオサクラソウなどの花が咲き始めた。
 そして、家の小さな畑にも、ジャガイモのタネイモとキャベツの苗を植え付けた。イチゴ畑では、去年新たに増えた苗も植えなおした。
 そうした仕事をすませた後、次の晴れた日の朝、山に登ることにした。

 それも、今の自分の体力気力を考えると、もう長い時間クルマを運転して遠くの山を目指す気にはならないし、かといって近くの日高山脈でも高い山に挑む(’09.5.17~21の項参照)ような元気もない。
 しかし今の時期ならではの、もう固雪になった尾根歩きを楽しみたいと思って、そこで考えたのが、たおやかに続く日高山脈の北部の山なみである。

 この時期にはいつも、南日高の山々にばかり行っていたのだが(’11.5.7の項参照)、標高が低い割には結構時間がかかるし、寄る年波には勝てずに、新たな挑戦なども考えられなくなった今の私には、やはり無理なく安心できる山歩きができればそれでいいのだ。
 3度目のエヴェレスト登頂を目指す、80歳の三浦さんの今だ旺盛(おうせい)なる行動力に比べると、自分の無気力さが情けない気もするが、そこはそれ、ゾウにはゾウの時間があり、私のようなちっぽけな存在でしかないネズミには、そのネズミなりの時間があるのだ。毎回、馬鹿の一つ憶えで繰り返すが、つまり誰にでも、”I'm still here"(「おれはまだ生きているぞ」前回参照)と、叫ぶことのできる所があるはずなのだ。

 さてその日高山脈は、南北の日本アルプスと並ぶ長さがある日本有数の大山脈であるが、一番高い日高幌尻(ぽろしり)岳でもやっと2000mを超える高さに過ぎない。
 しかし、高緯度にある自然環境の厳しさから、本土の3000m級の山岳地形と変わらない景観が広がっているのだ。
 たとえば、日本で山岳氷河の名残であるカール地形(氷河圏谷)が見られるのは、南、北、中央の日本アルプスとこの日高山脈だけなのである。

 余分な話だが、もし日高山脈があと1000m高かったなら、最近話題になった剣・立山の氷河以上に、確かな氷河が今でも谷を削り続けているかもしれないし、何より、この十勝平野から高度3000mの高さで立ち並ぶ山々を見られることになるのだ。
 ちなみに、日本で高度3000mの標高差を実際に眺めることができるのは、富士山を見上げるその周囲の地域は言うまでもないことだが、残るのは、わずか1か所、あの富山平野からの剣・立山連峰だけである。(安曇野からの北アルプスの眺めは美しいが、標高差は2000mを超えるくらいにしかならない。)
 冬の晴れた日に、かの地に立って、その剣・立山を見ること・・・死ぬまでには果たしたい私の望みの一つではある。

 話がわき道にそれてしまったが、日高山脈に話を戻そう。
 その壮年期地形の急峻な谷を刻み付けた山々は、中央部の日高幌尻岳(2053m)やカムイエクウチカウシ山(1980m)を中心にして、南は、楽古岳(1472m)か少し先の広尾岳(1230m)から庶野(しょや)の海岸に落ちるまで、北は芽室岳(1754m)辺りまでか、あるいはさらに伸ばして日勝峠傍のペケレベツ岳(1532m)まで辺りがいいところだろう。
 その日勝峠以北の山々は山容が穏やかになり、高度を減じながらなだらかに連なり、熊見山(1328m)から1289mJ・P(ジャンクション・ピーク)、オダッシュ山(1098m)そして狩勝峠に下り、再び上がって佐幌(さほろ)岳(1059m)から最後の高みになる椎空知山(しいそらちやま、943m)にまで続いている。
 そして、これらの日勝峠から狩勝峠周辺の山々には、今までにも何度か登っている。
 ペケレベツ岳、日勝ピーク(1445m)、沙流岳(1422m)、熊見山、狩振岳(1323m)、オダッシュ山、佐幌岳などであり、それらのいくつかには夏道登山道もついているが、私が登ったのはほとんどが雪のある時期である。
 そして、いずれも頂上往復の行程であり、これらの山々をつないで縦走したことはない。

 そこで今回目指したのは、熊見山から1289mJ・Pを経て、双珠別岳(そうじゅべつだけ、1389m)までの縦走である。
 実は熊見山までは、7年前に、クロスカントリーが得意な友人とスキーをかついで登ったことがあるのだが、下りは転んでばかりで雪まみれになってしまった。
 これなら歩いて下った方が早いし、危険なこともない。私は山スキーに向いていないと思って、以後はもっぱらツボ足(靴やアイゼンのまま)で登るようになり、雪の状態が悪くツボ足では無理な時には、前回のひょうたん山の時のように、ワカンかスノーシューをつけて登ることにしているのだ。
 今回の山は、前回ほどの急斜面ではないからと、スノーシューを持ってきたのだが、予想以上に雪の状態が良くて、とうとうプラスティック・ブーツだけで快適に歩き通すことができたのだ。

 清水町から、国道を日勝峠に向かって上っていく。青空の下にずらりと並ぶ白い山々は、いつもの連休の頃と同じくらいの雪の量があった。
 この春の寒さと、その後も続いた雪の日を思えば、いつもの年の2週間くらい前の雪の深さがあるというのも納得できる。
 峠のトンネルを出て、次の三国沢シェルター(防雪囲い)を抜けたすぐの所に数台分の駐車スペースがあり、そこにクルマを停めてから出発したのだが、朝ゆっくり家を出たこともあって、もう8時近くにもなっていた。

 シェルターわきから上がり、ゆるやかに広がる雪の尾根に取りつく。トドマツにダケカンバがまばらにまじる斜面には、少し前の日のものらしいスキーの跡がついていた。
 熊見山から南に下りてきたこのなだらかな広い尾根は、初心者の山スキーの練習にはうってつけなのだが、私はそんな練習しているヒマがあったらそのまま雪の山に登って行った方がいいと思うくらいだから、いっこうに山スキーはうまくならないのだ。
 スキーをしたい時には、近くのゲレンデですべればいいのだから。
 思えば前回、珍しく友人の一人と一緒に山に登った時にも、本当は熊見山までではなく、ずっと先の双珠別岳まで行きたかったのだが、彼は山スキーをするために来たのだし、私も山スキーの練習をしようと思っていたのだから、熊見山まで登ってすぐに下りて来てしまったのだ。
 もっともその時、私は”ダルマさんが転んだ”状態の繰り返しで、何の進歩もなかったのだが。

 この雪のルートは、高い標高点(950m)からすぐ山に取りつけるのがいいのだが、何しろ国道の長い防雪シェルターを見下ろしながら登っていくために、風向きによっては排気ガスが臭ってくるし、車の走る音も聞こえてくる。
 こうした高所までクルマで上がれる道があるのは便利だが、一方で大自然の中で、そうした弊害(へいがい)の部分も感じながら登って行かなければならないのだ。

 とはいっても、頭上に広がる青空、曲がりくねった枝を広げるダケカンバ、アカハラの鳴く声、そして足元の適度に締まった雪の斜面、その中を歩いて行く心地よさ。
 誰もいない山の中をひとり、雪面に下ろす自分の靴音を聞きながら、ただひたすらに登って行く。
 すると、まばらなダケカンバの木もなくなり、東側が上部まですっきりと続く広い尾根に出る。振り返ると、ぐるりと大蛇のように曲がって続く防雪シェルターがはるか下に見え、その上に日勝峠以南の日高山脈の山々も見えている。(写真上、芽室岳、ペケレベツ岳、ペンケヌーシ岳、沙流岳など。)

 ゆるやかになった雪面を上がって行くと、前方に新たに北側の展望が広がってきた。
 然別(しかりべつ)の山々から、ウペペサンケ山、ニペソツ山、丸山、石狩岳連峰などの東大雪の山々が続き、そして、最後に見えてきたのは、大雪山トムラウシ山からさらに十勝岳連峰の白雪の山なみである。
 この快晴の日の山々を見るために、私は登ってきたのだ。見慣れた山たちの姿だが、何度見ても見あきることはない。
 特に、鋭い三角形の姿で天を突くニペソツ山(2013m)の姿が、ひときわ素晴らしい。(写真、右は丸山)

 

 ニペソツは、確かにあの天狗のコルから見る姿が一番いいけれども、少し離れてその南北に位置する所から見る姿もやはり素晴らしい。
 それは、石狩岳シュナイダー・コース登山道の途中から、あるいは丸山に向かう幌加六の沢の尾根に上がった辺りから見るのがいいし、こうして遠く離れた所から見ても見事である。

 やがて、雪の上にハイマツが少し出ている熊見山の頂上(1328m)に着いた。下からは1時間半ほどかかっているが、今の私としてはまずまずの時間だった。
 ただこの頂上では、今まではあまり感じなかった風が強く吹いていて、汗ばんだ長袖シャツの上にすぐに厚手のフリースを着込んだが、それでも結局、以降もこれだけで十分だった。(この日、地元の新得の気温は20度を超えていた。)

 少し休んだだけで頂上を後にして、先を急ぐことにした。北側に回り込んで、ただの雪の斜面か、あるいは広い雪堤になっているのが分からないような尾根を、ゆるやかに下って行く。
 雪の状態は悪くはない。時にズボっとはまることもあるが、おおむね表面が少しゆるんでいるだけの固雪で、これなら何もつけずにプラスティック・ブーツだけで歩いて行ける。
 まばらなにあったダケカンバがなくなり、後は広大な雪堤が1289mJ・Pへと連なり、さらにその先にたおやかにそびえる双珠別岳が見えていた。(写真)

 

 私は雪面にザッザッと音を立てながら、雪堤の斜面を下って行った。右側には雪庇(せっぴ)が張り出し少し崩れている所もあったが、それを気にしなくてもいいほどの、2~30mもある広大な雪堤だった。
 もうスキーの跡もついていなくて、ただ風が作った紋様だけが波のように続いていた。ヒグマの足跡はもちろんのこと、エゾシカやキツネの足跡さえもついていなかった。
 いつもはヒグマを気にして、鈴を鳴らしたりするのだが、その心配はなかった。夜の間にこの雪の尾根を越えることはあるかもしれないが、今の時期、エサもないような昼間の山の上にヒグマが出てくるはずもないからだ。
 用心はするべきだが、必要以上に恐れることもない。(もっとも、同じ時期に、南部のオムシャヌプリで、尾根を越えた真新しいヒグマの足跡を見たことがあるのだが、足跡の小さなまだ若いヒグマのようだった。もっとも、そこから谷に下りるまでは鈴を鳴らし続けたのだが。)

 ともかく、今ここではヒグマの心配もなく、周りには人影もなく、私ひとりが青空の下、左右の雪の山々を見ながら歩いているだけだ。コル(鞍部)付近にかけて風もなく、全くいい気分だった。
 大自然の中に包まれてひとりでいる時ほど、心安らかに幸せな気分になれることはない。

 私は、山開きの日に大勢の人々と一緒に山に登りたいとは思わない。
 私は、トレイル・ランのように、他の皆と競いながら山道を走りたいとは思わない。
 私は、スキーのクロス・カントリーの大会に参加したいとは思わない。
 私は、マラソン大会に出たいとは思わない。
 私は、皇居の周りを皆と一緒に走りたいとは思わない。
 私は、きっとスカイツリーには行かないだろう。
 私は、ディズニーランドに行くこともないだろう。

 私は、今、ミャオがそばにいてくれたらと思う・・・。

 こうしてただひとり、母なる大自然の中にあって、一歩一歩と自分の足で歩いていることの心地よさ。
 どんな取るに足りない小さな虫でも、花でも、鳥たちでも、木々でも、まずは自分たちの命のために生きているのだ。
 ありがたいことだ。そよ吹く風、青空、薄く流れゆく雲、白い雪に覆われた山々、遠くで鳴く鳥の声・・・私が感じることのできる、これらのものにただただ感謝するばかりだ。

 1289mJ・Pから左に分かれて、その先にある小さなコブを二つ越えて、最後の双珠別岳への登りにかかる。
 ただ白一色の、豊かに広がる斜面を登って行く。さすがに息が切れて、時々立ち止まりながら、ようやくのことで頂上に着いた。私の脚では予想通りというべきか、シェルター傍の登山口から3時間半近くかかっていた。
 頂上らしい所はハイマツに覆われていて、そこを強引にかき分けて一番の高みに上がると、そこからは、今まで見えなかった北西面が一気に開けていた。
 狩振岳が大きく見え、その後ろにはスキー・コースが目立つトマム山(1239m)があり、さらに遠く離れて、夕張岳(1668m)から芦別岳(1727m)などに至る夕張山地の白い連なりも見えていた。
 そしてここからは、あのJ・Pから北上する日高山脈主脈となる山なみが、オダッシュ山、佐幌岳と続き、そしてその先の椎空知(しいそらち)山で終焉(しゅうえん)を迎える様子が、よくわかるのだ。
 つまり、この日勝峠以北の日高山脈では、この最も高いこの双珠別岳こそが、それぞれの位置関係を確かめるための重要な位置にあるのだ。

 ところでこの双珠別岳(1389m)は、もう一つ西側に離れて同じ名前の山(1347m)がある。
 ここからも見えるその姿は、ピラミダルな形で独立峰のおもむきもあり、営林署関係では、この双珠別川流域にある西側の山を、先に双珠別岳と呼んでいたらしい。
 ただし、日本の山名では、川の名前とその源流にある山の名前が同じであるように名づけられることが多いから、その後、双珠別川の源流にある、より高いこの山の方に、後になって山岳関係者が双珠別岳と名づけたのだろう。
 (熊見山にしても、地図上では日勝峠そばの1175mコブにその名前がつけられているが、最近では、近くにあるより高い1328m三角点のある無名峰が熊見山と呼ばれるようになったのだ。)

 日本の山の名前については、あの『日本百名山』の中で、深田久弥氏がいろいろと調べてはそのいきさつも書かれているから、信頼できる参考資料にもなるのだが、日本の場合には、ただでさえ表記音や漢字の音訓による違い、そしてこの源流表記などもあり、それが北海道の場合には、そのほとんどをアイヌの人たちが名づけたアイヌ語表記の山名、地名、川の名前などからきていることが多いから、さらに山名を解明するのは難しくなる。
 ちなみに、この双珠別(そうしゅべつ)の意味は、”滝のある川”だということである。(占冠村資料より)

 もっともこうした山名にこだわるのは人間たちだけだろう。ヒグマもシカもキツネも鳥たちも、山は位置と高さと形がわかりさえすれば十分なのだ。
 その言い分からすれば、私は無機質に思えるかもしれない標高点だけの呼び名も悪くはないと思っているのだ。
 特に多いのはこの日高山脈の山々だ・・・1726m峰、1967m峰、1780m峰、1917峰、1823m峰、1839m峰など、そうして名前をあげていくだけでも、山の姿が思い浮かぶ素晴らしい山たちである。
 要は、名前ではないのだ。そこに在ることの、意義、特徴こそが、その山の価値を高めるのだ。
 そういうことからすれば、どちらが双珠別だと騒ぎ立てる必要もないだろう。
 この山は素晴らしい展望の山であり、日高山脈の北部支稜上の1389m峰と呼ばれるだけでも十分なのだ。

 さて、同じコースを自分の足跡を頼りに戻ることにしたが、途中のJ・Pからはその標高点のある1289m点まで行ってみた。
 そこから見る熊見山への雪庇に雪堤が続く眺めもなかなかに良かった。その後ろには、まだ青空の下に、芽室岳方面の山々が折り重なるように見えていた。(写真下)

 その熊見山の登り返しでは、さすがに疲れて、数歩ごとに立ち止るありさまだったが、頂上に着いた後はもう下るだけでいいのだ。 
 大股でずんずんと下って行き、わずか30分足らずで下まで降りて来てしまった。もっとも、スキーなら数分もかからないところだろうが、こうして自分の脚だけで景色を見ながら余裕で下れるのだから、何も転び続けながらスキーで降りて来るよりはましだと思ってしまうのだ。
 これで、私はまた山スキーからは遠ざかってしまうことになるのだろう。

 全行程、6時間半余りかかったことになるが、今の私にはちょうどいい雪山歩きだった。
 それにしても、青空の下、広大な雪原をただひとり、周囲の山々を眺めながら歩いて行った、あの至福のひととき・・・。
 この喜びのために、なんとか体力を維持して、あの三浦さんの80歳までもとはいかないまでも、少しでも長く山を歩きたいという、ごうつくばりな思いが溢れてくる・・・自分自身に向かって”おれは、まだ生きているぞ”と叫びたいのだ。

 後日談・・・この山行でのふくらはぎの筋肉痛が、三日間も続いた。歩くのもやっとの状態で、これでは今年計画している遠征の山旅も心配になってくる・・・わがままなこのぐうたらオヤジにムチを当てて、トレーニングをしなければと思うのだが。
 そのトレーニングをするなら、なるべく早く、今でしょ・・・いやムリ。明日からでしょ、それもムリ。いつかやればいいでしょう・・・かくして何一つ教訓を学ぶこともない、メタボオヤジの自堕落(じだらく)な毎日が、これからもだらだらと続いて行くのであります。すんません。

  

a 

ブッダのことばとあきらめること

2013-05-13 17:52:55 | Weblog
 

 5月13日

 この十勝の家に帰ってきてから、もう一カ月近くになるというのに、毎日、薪(まき)ストーヴを燃やしている。
 昨日は、朝早いころ、雨が雪に変わって、見る間に白く積もった。
 今日も重たい曇り空のままで、朝の気温の3度からあまり上がらず、日中も5度までがやっとだった。
 内地では各地で30度を超える真夏日になり、暑いと言っているくらいなのに。

 もっとも昨日の雪は、春の淡雪だからすぐに溶けてしまったが、それにしてもこの寒さはいつまで続くのだろうか。
 家の小さな畑の植え付け作業をするのにも、ためらわれるくらいだ。
 普通の家庭菜園をやっている家では、この寒さくらいは予定の中に折り込みずみで、ちゃんとした野菜用のハウスがあるから心配ないのだろうが、何事にも大ざっぱで、おてんとうさま任せの露天栽培しか知らない私には、ともかく天気次第になってしまうのだ。

 もう一つの、天気次第である山については、これまた何とも寒々しい経過をたどっているのだが。
 前回の雪山ハイキングからもう3週間にもなるというのに、天気がさっぱり良くならないのだ。もっとも二日ほど、青空の下に白雪の山なみが見えた日があったのだが、いずれも朝のうちだけで、その後、稜線は雲に隠れてしまった。
 しかし、そうして山がきれいに見える日に家にいて、山登りに行かなかったことほどつらい気持ちになることはない。朝早く出かけていれば今頃、あの白い稜線に向かって雪の中を登り続けている頃だと思ったりして。

 そして、今私は情けないことに、家の中でぐうたらな姿で横になってテレビを見ているだけだ。
 これではいかんと、むっくりと起き上がり、身支度を整えて外に出る。
 ヒバリやクロツグミそして、少しさわがしいオオジシギの風切り音を聞きながら、畑や林の横を通る砂利道を歩いて、牧草地が広がる裏山の丘に上って行く。
 広大に広がる空の下に、まだ白雪に覆われた日高山脈の山々が、連綿としてつながっている。(写真は左手のヤオロマップからコイカクシュサツナイ、1823峰、カムイエク、1917峰、春別岳へと続いている。)

 この山々の眺めがあるからこそ、私はこの北の大地を目指してやって来たのだ。
 もう何十年にもわたって見続けている光景だが、今も決して見あきることはない。
 だからもし、こうした天気のいい日に山に行きそこなったとしても、悔やむことはないのだ。間近に眼前に迫る迫力はなくとも、遠くに見えるこの光景もまた、私の好きな山々の眺めなのだから。
 ましてこれから年を取っていった先には、山歩きも出くなくなるような日が来るだろうから、そうなった時でも少し歩いて行くだけで山を見ることはできるし、それさえできなくなったとしても、家の中から木々の間に山々を見ることもできるのだから・・・。
 それはこの地で、”願わくば、雪の上にて冬死なむ、その如月(きさらぎ)の三日月のころ”(西行の歌にちなんで)とまで思うほどだから・・・。

 私は、その青草が伸び始めた牧草地の彼方に見える、白雪の山々の姿に感嘆の声を上げながらも、思ったのだ。
 ものは、考えようなのだと。
 物事をすべて悪くとり、悲観的に考えてばかりいても、先は見えない。ただそうした悪いことの責(せき)を、他人のせいにしたり、運命だと決めつけてしまえば簡単だろうが、それでふさいだ気分が休まるわけでもない。
 そうではなく、悪い出来事はそれとして認めたうえで、あきらめてしまうことだ。そして、早く次なる代わりのものを見つけたほうがいい。
 それは、私みたいなオヤジ年寄りの世代の人たちにだけに言えることであって、何もこれからの人生があって、何度でも挑戦し続けることができる若者たちに当てはまることではない。
 若いうちに、夢に向かっての挫折と再挑戦を繰り返すことこそが、彼らの人生の将来を生き抜くための、心と体を作ることになるのだから。

 しかし私たち、オヤジ年寄り世代にはそうした余裕ある時間は残されていないのだ。
 いつ来るともしれない死というものに、いたずらにおびえることはないが、ただ考えの中に入れておく必要はある。
 いつか突然、生の時間が打ち切られるようになることを覚悟して、そのことを意識しながらも、自分にとって残された時間をいとおしみながら過ごしていくこと・・・。
 ”この世も名残(なご)り夜も名残り”(近松門左衛門『曽根崎心中』より)・・・”死は暗く、人生もまた暗い”(マーラー『大地の歌』より)と、いざその時になって嘆かぬように、自分の人生をまっとうすること・・・。

 そのためには、幾つかの良くない出来事などは、小さなことと見下すことだ。どう見ても、人生の終わりの方が近い自分には、そんな些細(ささい)なことにかかわり合っている暇はないのだ。
 ただ毎日を感謝しながら、天から受けた命の日々をありがたくいただくことだ。たとえそれが、ぐうたらに過ごしただけの一日だとしても、何よりも心静かに過ごせたことだけでもありがたいことではないか。

 そのための、条件の一つとしては、余分な願いや欲望を抱かぬことだ。あきらめること、これほど有効な決断はないだろう。
 それはつまり、若い時の、未練がましく後に引くような、泣く泣くいやいやあきらめることではない。すっぱりと、もうなかったものとして、明るい気持ちであきらめることだ。
 すると、残り少ない人生ながらも、新しい地平が見えてくるはずだ。”よく生きよ”(ハイデガー『時間と存在』より)との声が聞こえてくる。
 しかし、たとえ新たな地平に、新た何かを見つけられないとしても構わない。
 それぞれの人生の中で、必ずや”よく生きた”時があったはずだ。その思い出の中に帰って行けばいいだけの話だ。

 若いころ、私はオヤジさんや年寄りたちの話に、その昔は良かったという多分に誇張された話をいささかうんざりしながら聞いていたのだが、今になって思えば、それは彼らが、若者たちに聞かせるよりは、自分に言い聞かせていた”よく生きた”時代に戻るための話だったのだ。
 あの時のおやじさんたちは、残り少ない自分たちの時間を精いっぱい生きていたのだ。
 ああ、何といういとおしさにあふれた、生きるという日々だろうか。

 余分なものはあきらめる、という気持ちさえ持てばいいのだ。
 つまり、”欲なければ一切(いっさい)足り、求むるありて万事(ばんじ)窮(きゅう)す”(良寛漢詩集より)ということにつきる。
 欲しがらないこと、ねたまないこと、そしてやさしいあきらめの気持ちを受け入れること・・・それで得ることのできる、心の平穏に勝(まさ)るものが他にあるだろうか・・・。

 穏やかな気持ちになってあきらめることは、むつかしい言葉で言えば、諦観(ていかん)ということになるのだろうか。それは、辞書をひもとけば、「悟りあきらめて、超然(ちょうぜん)とした態度をとること」と書いてある。
 もちろん今の私は相変わらずに、様々な煩悩(ぼんのう)にとらわれていて、それらのすべてを消し去ることはできないし、とても悟りの境地などとはほど遠いところにあるのだが、その言わんとするところの意味が少しは分かってきたような気もするのだ。

 この諦観は仏教用語では、”たいかん”と呼ばれて、「全体を見通し、事の本質を極めること」の意味として使われているのだが、そもそも諦という言葉には、私たちが普通に使う、”諦(あきら)める”という意味の他に、”諦(あきら)かにする”と意味があるのだ。
 つまり、前にも取り上げたことのある(’11.10.1の項参照)あの 『ブッダ 真理のことば』(佐々木閑著 NHK出版)の中で言われている”四諦(しだい)”がそれである。

 ブッダが、恵まれた王子の地位を捨て、現世を捨ててひとり修行の道に入ったのは、すべての人々は老病死がついて回る苦しみだらけの世の中に生きていて、そんな世の中で、悪しき輪廻(りんね)を断ち切り、苦しみから離れて心の平穏を得て救われるためにはどうしたら良いかと考えたからである。
 そしてブッダは、この世に生きていくうえでの四つの真理、つまり苦諦(くたい)、集諦(じったい)、減諦(めったい)、道諦(どうたい)の四つを順に説くことによって、その苦しみからの解脱の方法を示したのだ。

 つまり、平たく言えば、「生きていることは苦であり、その原因は煩悩(ぼんのう)にあり、その煩悩を消し、悟りを得るべきである」ということになり、そのためには八正道(はっしょうどう)を守って修行しなければならないとしたのだ。
 その八正道とは、”正しいものの見方をして、正しい考え方を持ち、正しい言葉で語る・・・”などと、とても迷いの多い私ごときに勤まるはずもない行いの数々なのだが、注目すべきは、この世の苦しみを、外の世界や他人によるもののせいではなく、あくまでも自分の心のうちの問題だとした点にあるのだ。

 そして、そのブッダの教えは、殆んどの日本人がそうであるように、ただの冠婚葬祭(かんこんそうさい)時の仏教徒でしかない私の心の中にも、気がつくといつしか深く根を下ろしていたのだ。
 悪いのは、この世の中でもまして他人のせいでもない、すべては自分が悪いのだと・・・そこから見えてくる、ある種の諦観とひとときの心の安らぎ・・・そこには、集団心理へと移行する不安もひそんでいるのだろうが、自分だけが救われようとするのではなく、何より、他人に迷惑をかけないという、日本人の村落共同体の深層心理さえもかいま見える気がするのだが・・・。

 もっとも、戦後以降の西洋文明の輝かしい自由主義の空気をいっぱいに吸って生きてきた若者たちにとっては、そんな旧態然たるじいさんばあさんたちの世代の思いなど、知ったことではないのだ。
 今の時代に生きる彼らには、まさしく彼らだけの十分な言い分があり、これから先の世の中は彼ら自身が決めて行けばいいのだから。

 ただ私は、そんな新しい世代の生き方と同じにようにして、生きて行こうとは思はない。これからも、穏やかなあきらめの気持ちを持って、”よく生きた”時代をしのびながら、残された時をいとおしみつつ生きて行けばいいのだと思っている。
 そのためにも、たとえば今の私が日常的に続けている、小さな一つの仕事がある。前にも書いたことだが、古い写真フィルムを一本一本、デジタル・スキャンして、モニター画面に映していくことであり、単純な機械的作業にすぎないのだが、何十年ぶりに見る写真の、たとえ色褪せてはいても、何と心にも鮮やかによみがえって来ることか。
 あの時の私がいて、あの時の山々があり、あの時の彼女が微笑んでいる・・・。

 これほどまでに、懐古(かいこ)趣味的な後ろ向きの日々を送っていた所で、誰に迷惑をかけるわけではなく、まして私自身が生きることに後ろ向きなわけではなく、否(いな)、それ以上に、今まで生きてきたことに、今も一日一日と生きていることに感謝せずにはいられないのだ。
 これからこそが、ようやく私の輝かしい世界が続いて行くのだから・・・。

 ”老兵は死なず。ただ消え去るのみ。”(元日本占領軍司令官マッカーサーの言葉)だとしても・・・”おれはまだ生きて、ここにいるぞ”(映画『パピヨン』ラスト・シーンの言葉)という思いなのだ。

 

またしても雪景色

2013-05-06 21:32:52 | Weblog
  
 
 5月6日

 暦(こよみ)の上では、もう立夏(りっか)になり、内地のあちこちでは25度以上の夏日になって、中には30度になった所もあるというのに。
 ここ北海道の十勝地方では、今日は一日中、雪が降っていた。朝の気温は-1度、日中も2度までしか上がらなかった。

 湿った雪だから、積もった先から少しずつ溶けていくが、それでも積雪10cmにもなるのだ。
 今時に雪が降ることは、別に珍しいことでもないが、それにしても、私が戻ってきて3週間ほどの間、ずっと寒い日が続き、最高気温は10度前後までにしか上がらず、そのうえに、5㎝以上の雪が積もったのはこれで4度目になる。

 物音が途絶えて、空の彼方から、ただ雪だけが静かに舞い降りてくる・・・部屋では、ストーヴの薪(まき)のはじける音がしている。
 やがて、時折どすんどすんという音が聞こえてくる。屋根からすべり落ちる雪の音だ。
 まるで、私の好きな冬の雪の季節のただ中にいるようで。
 私はゆり椅子に座って、そうして雪が降るのをずっと見ている。(写真上)

 「天使の群れで空はいっぱい
  一人は士官の服を着て
  一人はコックの服を着て
  他の皆は歌いだす
  ・・・
  ああ、雪がふる、雪がふる
  それにつけても思い出す
  かわいい娘はなぜ去った」

 (『アポリネール詩集』堀口大学訳 新潮文庫より)

 この日の朝、北海道は3つの天気の区域に分かれていた。札幌は雨、この十勝は雪、そして道北の稚内(わっかない)は快晴で、青い海の上にまだ全部が真っ白の利尻岳が見えていた。北海道は広いのだ。

 それにしても、この連休中の北海道の天気は良くなかった。札幌では毎日、雪や雨の降水量を記録して、気温も10度を超える日がなかったとのことである。
 それに比べれば、まだこの十勝地方の天気はさほど悪くはなかったのだ。確かに、日高山脈全山が見えるほどの天気ではなかったけれども、時々晴れては、少し暖かく感じられる時もあったからだ。
 しかし、ビートやジャガイモの植え付けが始まったばかりの、周りの農家の畑が心配だ。寒さはともかく、作業日程に大きな影響が出てしまうだろう。

 そんな天気が落ち着かない中、晴れ間を見つけては、近くの裏山を歩き回ってきた。
 湿地では、ミズバショウの花が咲いていたが、ただ何度かの寒さにあったためか、葉先が茶色くなってしまう被害を受けていた。
 他には、エゾエンゴサクの薄紫色の花が咲き、水辺にはエゾノリュウキンカ(ヤチブキ)の黄金色の花が咲いていた。
 もちろんそんな花々を見る楽しみもあったのだが、もう一つの大事な目的はいつものアイヌネギ(ギョウジャニンニク)を採りに行くためでもあった。
 時々ヒグマの足跡が残っているような、いつもの谷に分け入って行くと、今年もいつもの所に、特徴ある緑の葉が出ていてくれた。(写真)

 

 小一時間かかって、レジ袋いっぱいのアイヌネギを採ることができた。半分は、毎年楽しみに待っていてくれる友達にわけてやるためでもある。
 毎年のこうした山菜採りで、いつも悩まされるのが、衣服や頭に取りついてくるダニである。しかし、何と今年はまだ一匹も見つけていない。
 それは、こうした20何年ぶりという春先の寒さで、ダニが出てくるのが遅れているからだろう。
 つまりは、毎日寒いことは、何も悪いことばかりではないのだ。
 そして、気になっていたあの九州中国地方での、伝染性のダニにかまれての死に至る病気は、ありがたいことにここ北海道のダニとは別の種類であり、今のところその心配はないということだ。

 さて、北海道の山菜取りが好きな人たちは誰でも、自分だけの秘密の場所を持っていて、その領域で節度ある採り方をしていて、決して根こそぎ持っていくようなことはしない。
 アイヌネギは、一株から二つ三つ出るので、そのうち一つだけを地上部分から切り取って、決して地下の球根の部分は取らないで、次の年のために残しておくのだ。
 もちろん、内地での春の山菜として有名なノビルと同じように、球根の部分がおいしいのは言うまでもないことなのだが。

 ともかくそうして採ってきたアイヌネギだが、下処理にも手間がかかる。
 まず傷みやすい茎の外側の袴(はかま)の部分を取っていくが、ギョウジャニンニクと呼ばれるだけあって、指先からしばらく匂いが取れなくなるほどに臭くなる。
 それを水できれいに洗って、すぐに食べるものと冷凍保存するものに分けて、ポリ袋に入れていく。それらの作業だけで小1時間はかかってしまうが、それもおいしい山菜をいただくための大切な工程なのだ。

 そしてそれを、うどんやラーメンに入れると色合いもよく食べてもおいしいが、さっと熱湯を通しておひたしにして、カツブシにしょうゆをかけて、熱いご飯に乗せていただくのが一番だ。
 金はなくとも、一緒に食べる相手がいなくても、ただこうして自分で歩き回って採ってきて、季節ごとの味覚を味わえることのありがたさ、さらに5月6月へと山菜の季節は続いていくのだ・・・あー、今年も生きていてよかった。

 連休の間は、どこにも出かけずに、家にいた。
 本州の山々は、絶好の春山日和(びより)らしかったが、北海道の山の天気は、ずっと良くなかった。
 私が2週間前に、あの日高山脈の低山ひょうたん山に登った時(前回参照)のように、日高山脈が全山見えるような天気のいい日は一度もなかったのだ。

 それで家にいたのだが、退屈することはなかった。
 上に書いたように、山菜取りなどで近くの裏山を歩き回り、自宅林内での山仕事があり、畑仕事があり、ゴエモン風呂に入るための(2時間半もかかる)仕事があり、後は得意なぐうたらオヤジのごろ寝の他は、本を読みテレビを見ていた。

 そして、録画しておいた日本の時代劇映画を二本見た。
 いずれもあの、藤沢周平原作によるものであり、秀作と呼ぶにふさわしかった。
 一つは、山田洋次監督による時代劇三部作の最初の一本である『たそがれ清兵衛』(2002年)である。

 長患(ながわずら)いの妻に先立たれて、返しきれないほどの治療費だけが残り、幼い娘二人を抱えて、身なりも構わないほどの清貧暮らしに甘んじていた、下級武士の清兵衛は、お城でのお勤めの後の同僚からの誘いも断って、子供たちと内職の仕事が待つ我が家へと急ぎ、その同僚たちからは、”たそがれどきまでの清兵衛”と裏口を叩かれていた。
 しかし実はこの清兵衛、小太刀の達人であり、それが幼なじみの武士仲間の妹でもある、出戻りの娘への思いもからんで、彼女の元夫との果し合いする羽目になり、その時の鮮やかな手際が城内に知れてしまい、ついには、藩の意向に背(そむ)いたお役付きの腕の立つ藩士の討伐を命じられることになる。
 その相手が立てこもる、閉門(へいもん)中の屋敷内で対決することになるが、彼は傷を受けながらも相手を倒し、今は思いを通じ合う彼女が幼い娘二人とともに待つ家へと帰って行くのだ。

 あの時代小説の名手である、藤沢周平の”情”の部分をしっかりと描きながらも、息詰まる対決の場面のリアルさもまた出色の素晴らしさだった。
 それは、日本人であることの誇り、つまり昔の日本の侍たちの中にも、こうした誇りを秘めて、目立たずに正しくひっそりと生きていた人たちがいたのだということを、その姿を描きだすことによって、今の世の中へのある種の警句としたかったのではないのか。
 つまりそれは、山田洋次監督が”寅さん”という実は真面目な道化(どうけ)の姿を借りて、彼が発してきた現代社会批判への言葉の続きでもあったのだ。
 真田広之、宮沢りえ他の出演者たち、キャメラ、小道具などについては、あの『武士の一分』(2006年、’12.12.29の項参照)と同じように、よく考えられていて十分に納得できるものだった。

 ただ惜しむらくは、最後に明治の御代になって、清兵衛の娘があの頃のことを振り返るという設定で、その場面が付け加えられていたが、あれは明らかに余分なものであった。
 映画と小説は違うものであり、何も原作通りに作ることが映画芸術の本質ではないのだ。

 観客たちは、映画が終わった後も長く続く深い余韻(よいん)に浸り、静かにひとり考えることこそが、思索する映画の一つの愉しみでもあるのに。

 私の好きなヨーロッパ映画の名作などは、別に一般受けすることをねらったわけではなく、監督の芸術作品創造への強い創作意欲によって作られていることが多く、それに比べて日本映画の場合は、大衆向けに作られてきた長年の伝統が、いまだに残っているのではないかと思えるほどに、すべての人に分かってもらえるようにと、ともかく余分なセリフや説明が多すぎるし、同じ説明を繰り返しすぎるのだ。
 さらに付け加えて言えば、エンドタイトルに流れる井上陽水の歌も、せっかくの映画の時代の中に引き込まれていた気分を、現代の今に戻してしまい、これまた余分なものであると言わざるを得ないのだ。(井上陽水は、私の好きな歌手の一人でもあるのに。)
 観客たちは、それほど繰り返し説明されなければわからないほどに、馬鹿ではないのだ。万人向けのものは、逆に誰のため向けでもないということだ。

 日本の大監督の作品を、たかが私ごとき素人が批評してよいものかとも思うが、これもわずか百人ほどの人が読みとばしているだけの、知られることもない私的なブログであるから、それは何の影響もない”大海の一滴”として許されることだろう。
 そのお目こぼしを期待して、さらなるもう一本についても書いておきたい。それは、平山秀幸監督による『必死剣 鳥刺し』(2010年)である。

 舞台は上にあげた作品群と同じように、原作者藤沢周平の故郷でもある山形県庄内地方にある架空の小藩での話である。
 剣の名手でもあるお役目付きの藩士三左衛門は、藩政の乱れが殿の側室による無理難題の要求によるものであると知り、思い余って殿中でその側室を亡き者とすべく刃傷(にんじょう)に及ぶ。しかし事件の後、下された御沙汰(ごさた)は、以外にも蟄居閉門(ちっきょへいもん)一年という軽いものであった。
 いうまでもなく、そこにはその時の殿の怒りを抑えた、家老の深慮遠謀(しんりょえんぼう)の思惑が入っていたのだ。彼らの利益と相いれない藩主別家(べっけ)の存在を疎(うと)ましく思っていた家老は、いつか役に立つ時が来ると三左衛門を助けておいて、いざ別家の謀反(むほん)の気を察した時に、腕の立つ別家相手に三左衛門を対決させたのだ。
 そして、三左衛門がその別家を討ち果たした時、家老は豹変(ひょうへん)して、顔色も変えずに、殿中で刃傷沙汰(にんじょうざた)を起こした三左衛門を討ち取るべく、周りの伴侍(ともざむらい)たちに命じるのだ。
 そこから、陰惨(いんさん)を極めた三左衛門の死闘が繰り広げられるが、多勢に無勢(たぜいにぶぜい)で彼は満身創痍(まんしんそうい)になりながら死に果てた・・・と思った瞬間、近づいてきた家老に向かって、最後の”必死剣 鳥刺し”の一撃を・・・。

 それまでの、セリフの少ない静謐(せいひつ)な画面、主人公を演じる豊川悦司の抑えた演技や相手役の池脇千鶴の所作ふるまい、それに脇役たちの芸達者さ、そして最後の壮絶な城内での切り合いの場面に至るまでが、緊迫感にあふれていて見事だった。
 つまり、謀(はかりごと)に巻き込まれていった一人の実直な藩士の悲劇は、十分に描かれていたと思うのだが、もう一つの情の部分が、いささか中途半端にも思えた。
 亡くなった妻の代わりに、手伝いとして来ていた義理の姪(めい)である出戻りの娘との、ひそかな恋慕の情は、もどかしくそれだけに心に響くのだが、いざお互いの気持ちが通じ合い結ばれる場面は、余りにも今の時代と変わらぬ交情シーンになっていて、明らかに異質だった。それまでの落ち着いた風情のある映像の流れからすれば、もっと淡く象徴的な映像でもよかったのではないか。
 さらに細かい所をあげれば、蟄居閉門明けの三左衛門の体があまりにも小太りで、やつれた所が見られないこと、最期の壮絶な立ち回りのシーンや”必死剣 鳥刺し”の技に無理があること、さらにこれもまたエンド・タイトルで、今の時代の歌が歌われていたことなど・・・。

 しかし一時の娯楽的時代劇と比べれば、この二本の作品は、極めてリアルに描かれていて、それだけに映画というよりは人間の生き方そのものに引き込まれる思いがするのだが、上にも書いたように、まだまだ気になるところが散見される。
 あと一歩突き抜けたところでの、日本的な時代劇の、上質な芸術作品を見たいのだが・・・。

 私が、今まで見てきた日本の時代劇映画の中で、納得することのできたものは三つ。
 黒沢明の『羅生門』(1950年)と『七人の侍』(1954年)、そして溝口健二の『雨月物語』(1953年)である。

 しかし、あえて言えばその三本さえも、わずかだけれども、気になるところがあるのだが・・・いや、これほどまでに世界的評価の高い作品に、どこがどうだとかは、私ごとき取るに足りないただのぐうたらオヤジがこれ以上言う資格はないのだ・・・はい、わかっております。

 雪の降る前の日に、カラマツの葉が降り積もった庭の一隅で、弱々しく飛んできた一匹の小さなチョウ(写真下)・・・恐らくは羽化して間もないエゾスジグロシロチョウだろうが、この雪の中、あの若いチョウは、どこかで生きのびてくれていればいいのだが・・・。