ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

しとしとぴっちゃん

2019-09-23 21:51:30 | Weblog




 9月23日

 台風が近づいてきている。  
 数日、続いた晴れた日は終わり、朝から雨が降っている。 
 しかし、これはちょうど良いころあいだ。
 軒下に並べたバケツに雨音が聞こえる。
 ”しとしとぴっちゃん、しーとぴっちゃん”
 相変わらず、井戸ポンプが動かないから、もらい水を続けていて、手洗いや洗いものなどの生活用水は、この雨水に頼っていて、適度なころあいで降ってくれる雨は、私にはありがたい。

 一方、台風による強風被害を受けた、千葉県全域に及ぶ惨状はと言えば。 
 広域停電が2週間にも及び、家屋破損だけでなく、さらに断水、電話不通、そして最初のうちは30℃を超える酷暑が続いていて、それは想像するに余りある不自由さだったのだろうと思う。
 というのも、一年前、北海道日高地方の地震のために、全道的なブラックアウト状態が起きて、家でもその停電の状態が丸一日も続いて、その不便さたるや、一日中不気味な沈黙の中でただ待つことしかできないというつらさは、日常がいかに電気”パワー”に頼り切っているかを教えてくれたものだったのだが、そんな状態が長い所で2週間も続くとは・・・。
” のど元過ぎれば熱さを忘れ”のことわざがあるように、人はそのつらい出来事が終わってしまえば、時がたつとともに忘れてしまうものなのだろうが。
 もっとも被害に遭わなかった、他の首都圏の地域の人は、幸運だったというだけで、通常の毎日の暮らしを続けられていたわけだから、被害を受けた千葉県民のつらい現実を、同じように受け止めることなどできなかったのだろうが。
 いつもあげる例え話だが、アフリカのサバンナで、ヌー(ウシ科)の大群の中から一頭だけがライオンに襲われて食べられてしまい、それを遠巻きにして眺めているだけのヌーたち・・・。
 この地球上に生を受けたすべての”生きとし生けるもの”、生き物たちはすべて、そういう運不運を甘受すべく生きるさだめなのかもしれないが。

 さて、それでも季節は小さな足踏みを繰り返しながらも、確かな足取りで次の季節へと進んでいる。
 数日前には、北海道の山々に初雪が降り、あの”イトナンリルゥ”によれば、山の上ではひざ下までも積もっていたとのことで、少し前までなら何はともあれ、雪と紅葉のコントラストを求めて、大雪の山々に向かったものだが。

 わが家の庭でも、ハマナスの花が終わり、さらにはオオハンゴンソウやアラゲハンゴンソウたちの黄色い花が残り少なくなり、ユウゼンギクも盛りのころを過ぎ(冒頭の写真)、日向に咲いているものは鮮やかな紫色だが、これは日陰に咲いているので色あせて白に近い色であり、余計に季節のうつろいが感じられる。
 この数日は、朝は7℃くらいまで下がり、昼間晴れていても20℃に届かないくらいで、すっかい秋めいてきた感じがして、そうなると自然に外に出たくなる。 
 まだヤブ蚊が少しいるが、あの夏の盛りのころの、うるさいアブやサシバエの類がいなくなっただけでもありがたい。 
 家の林の中を歩き回ると、いつものラクヨウタケが出ている。数は少ないが、酢醤油につけておいて二三度食べる分には十分だ。

 そして今日は、朝から雨が降っていて肌寒く、最高気温も13℃くらいまでしか上がらない。夜半にかけて、台風本体の雨雲がやって来て、風雨ともに強くなるとのことだが。
 その前に、屋根の軒下に、バケツを4個並べて置いているて、その屋根からの雨水が”しとしとぴっちゃん”と落ちて来てはバケツに溜まり、昼過ぎにはもう一杯になってしまう。これで、1週間くらいの生活用水には十分だ。
 田舎暮らしをしていても、電気水道ガスなどのライフラインが来ていれば、さほど不便には感じないもので、現にわが家ではそれ以上に、水道がなく、ガスもプロパンガスボンベだが、何より電気が来ていて、あと買い物と近くの温泉に出かけるための足として、つまりクルマさえあれば、まあ何とか生きて行けるものなのだ。
 冬の寒さは、ともかく家の中は薪ストーヴ一台で十分に温められるし、補助的にポータブルの灯油ストーブと小さな電気ストーヴがあれば、今日の雨の日のように10℃くらいの肌寒い日には、つけたり消したりで足元だけでも温められる。
 つまり極端に言えば、電気とクルマがあれば、どんな山の中にいても、まあ何とか生活はできるものだし、それは私だけでなく、毎週テレビで見る、あのテレビ番組”ポツンと一軒家”が教えてくれることでもある。
 先週、ここでもあげたあの映画「ライムライト」の中でチャップリンが言った言葉ふうに言えば、田舎暮らしに必要なことは、電気が来ていることとクルマがあること、そして少しばかりの自分の夢があればいいのかもしれない。

 その自分にとっての、夢とは、望みとは・・・若き日のいくつもの憧れと希望の残滓(ざんし)の中で、それでも今沈む夕日を眺めながら、心に持ち続けてきたものとは、それは、私が私で在り続けられたものにほかならないのだが・・・そうして今まで生きてこられたことを、ただただありがたく思うだけだ。

 私は思い出す。
 周りの歓声の中、ゴール間近のスクラムが崩れて、モール状態になり、そのかたまりの中からナンバー8の彼が私にボールをパスした。
 私は、敵陣の人垣が途切れたところをねらって、ただ飛び込むだけだった。
 体ごとインゴールに倒れ込むと、敵味方が重なって私の上に倒れ込んできた。 
 レフリーの笛が鳴った。”トライ”。
 後にも先にない、私の生涯ただ一度だけのトライの瞬間だった。
 若き日の、ラグビーの試合での大切な思い出である。

 昨日は、W杯ラグビーのアイルランド対スコットランド戦が行われており、同じ時間帯で大相撲千秋楽の優勝をかけた取り組みも放送されていた。
 外国ラグビーのテレビ放送は、今までNHK・BSでたまに放送されるくらいで、あまりいつも見られるというスポーツ番組ではなかったのだが、今回は日本での、4年に一度の”ワールドカップ”ということで、多くの試合がNHKと民放の地上波で中継録画されていて、私はそのいくつかを見たのだが、もちろん日本の初戦ロシアとの闘いや、優勝候補同士のニュージーランド対南アフリカ、そして昨日のアイルランド対スコットランドと見ごたえのある試合ばかりだった。

 もちろん、世界ランク10位の日本と優勝候補に挙げられているチームとの差は、ここまで見てきた中でも、はっきりとあるし、目標であるベスト8でさえ容易ではないだろうと思うけれども、動かないヤマはないのだから、大相撲が明らかに白鵬の時代から次の時代へと変わろうとしているように、まだ中位レベルの日本が、上位チームを倒す日が来ることを期待したい。
 それにしても、百戦錬磨のヨーロッパのテレビ中継スタッフの撮る画像の素晴らしいこと。
 まだまだ日本は、ラグビー・チームとしても、それを撮るテレビ・チームとしても学ぶべきことは多いはずだ。

 その昔、大学ラグビーが全盛を極めていたころ、毎年早稲田と明治の早明戦で歴史に残る名勝負が数多く生まれ、その学生の覇者が、社会人ラグビーの勝者と闘って、日本一にもなった時代があったというのに、以後学生と社会人との差は大きく離れてしまい、ただ新日鉄釜石と神戸製鋼さらには三洋電機やサントリーの名前が残るだけになってしまった。

 思うのは、それらのスポーツがこれからも、様々な形で発展していくだろうということである。
 戦争で国と国が戦うのではなく、スポーツで国と国が闘うのは、実に良いことだと思うし。
 私が子供のころには、スポーツと言えば、相撲と野球だけだったのに、今やサッカー、ラグビーだけでなく数多くのスポーツ競技がテレビ放送されていて、様々な形で人々の間に広く浸透していっている。
 殺し合いをする戦争よりは、はるかに良いことだ。

 しかし、世界には、それだけでは解決できない、不安定な多くの危険要素をはらんだ諸問題があることも確かだ。
 そして、これらのことは、手練手管(てれんてくだ)にたけた年寄りたちの外交交渉で、これまで何とか解決されてきたのだろうが。
 しかし、そこからは、現状を変えなければならない大きな変革への決断は生まれない。
 これからの世界を地球規模で考えるためには、これからの時代を生きて行く若い人たちが、自ら向かう方向を示すべきだと思う。
 だからこそ、今、地球温暖化防止のために世界中の若者たちが立ち上がり声をあげているのは、至極当然なことだと思えるのだが。
 
 まあ、人それぞれの性格もあって一筋縄ではいかないし、老人と若者との間の経験や理解力の差もあるのだけれども、年寄り自らが身を引いて、若者の活躍の場を作ってやるのも、人間としての責務の一つではないのだろうか。
 併せて、その年寄りが、余生を静かに生きて行くのは、自分の時間を大切に使うことにもなると思うのだが。

” だが、時間を残らず自分の用のためだけに使い、一日一日を、あたかも最期の日でもあるかのようにして管理する者は、明日を待ち望むこともなく、明日を恐れることもない。
 実際、いつか将来のひと時がもたらしてくれるかもしれない楽しみとは、いったい何なのか、彼にはすべて既知(きち)のもであり、すべてはすでに飽きるまで堪能(たんのう)したものである。
 それ以外の未来のことは、望むがまま、時の運に決めさせてやればよい。”

(『生の短さについて』セネカ著 大西英文訳 岩波文庫)


紅葉の草原

2019-09-16 21:50:38 | Weblog




 9月13日

 数日前に、久しぶりに山に行ってきた。
 前回、あの鳥海山での、悪天候遭難の恐れすらあった失敗登山(8月5日の項)からもう、一月半もたっている。
 もう絶対に天気が悪い時の登山などしたくもないから、天気予報と休日のめぐりあわせを頭に入れて、やっと平日の好天の日に行くことができた。 
 もっとも今回は、無理はしたくなかったから、登山というよりは、山上のハイキング、草原歩きといった軽い山歩きだったのだが、それでも私の山好きの思いは十分に満たされたのだ。 
 それはやはり、何よりも青空の広がる下で、山道を歩くことができたからだ。
 まったく、山は晴天の日に行くに限るのだ。

 ようやく紅葉の季節が始まったばかりの、北海道は大雪山の山々、いつもあげるあの大雪山の山歩きのブログ「イトナンリルゥ」によれば、山上の稜線部分はだいぶん色づいていて、反対側の黒岳側から登った美ケ原の、例の標本木のナナカマドの繁みも真っ赤に色づいていた。 
 しかし、どうも表側の旭岳姿見平付近の色合いは、ライブカメラで見ても、今一つ鮮やかな色彩にはなっていなかったようだったが、それは今月初めとさらにその数日後に暑くなって、30℃を越えたりして、その後にはまた10℃ぐらいまで冷え込んだ日があったりしたから、色づきが悪く枯れてしまったのではないか。
 しかしそれでも、私には出かけなければならないもう一つの理由があった。
 
 というのも、私の良く知っている宿の御主人が1年前に亡くなっていて、私はそのまま不義理をして、ご挨拶にもうかがっていなかったからだ。
 その宿には、母がおばさんと二人で北海道に来たく時には、二度も泊めさせてもらってお世話になっていたから、当然すぐにも行くべきだったのだが、そこにいくには、私の家から数時間もかかるし、その距離の長さに二の足を踏んでいたのだ。(もっとも若いころには、この表側から山に登って、例えば安足間岳(あんたろまだけ)まで足を延ばして、日帰りで家に戻ったこともあったのだが。)
 しかし、残された奥さんは、周りの知人たちの協力もあって、けな気に宿を続けられているとのことで、何としても直接お目にかかり、遅ればせながらのお悔やみの言葉を伝えたかったからだ。

 その日、日の出過ぎのころに家を出て、旭岳ロープウエイ駅舎に着いたのはもう10時に近かった。
 紅葉時の大混雑とまでは行かないにしても、手前の駐車場は満車になっていて、仕方なく駅舎前の有料駐車場にクルマを停めざるを得なかった。
 9時45分のロープウエイは、意外にそう混雑してはいなかった。
 駅舎から出てすぐ前に見える、おなじみの旭岳の姿は、紅葉の色がまだ少し早く色づきも良くはなかったのだが、それでも十分に見ごたえのある眺めだった。何よりも背景の青空が素晴らしい。山は、季節を問わず、青空に限る。

 そこから、にぎやかな観光客たちとともに、左回りに散策路を歩いて行く。
 冒頭の写真は、夫婦池から見た、旭岳の姿だが、やはりここでは色づきがまだという感じだった。(2015.9.21の項参照)

 ただ、すぐに気がついたのは、白い水蒸気を噴き出す噴気孔の数が、明らかに増えていることで、どうしても2015年秋の、あの木曽御嶽山(きそおんたけさん、3067m)の爆発的噴火事件のことを思い出してしまう。
 私が、2013年夏にその木曽御嶽山に登った時も、噴火口の噴気は、今見る旭岳の噴気よりは小さなものだったのだが、その2年後に、あの58名もの登山者が亡くなった大噴火が起きているのだ・・・。
 ともかく、大雪山では有史以降の噴火記録がないのだから、噴気孔はあっても、噴火の恐れはあまりないのだろうが、こうして目の前の噴気孔の数が増えているのを見るのは、あまりいい気持ではない。

 さて、姿見の池をめぐる周遊コースと別れて、裾合平(すそあいだいら)への山腹トラヴァースの道を行く。
 天気は良く、青空が広がり、そよ風が吹いていて、いい山歩き日和(ひより)で、人も少なく結構なのだが、所々にあるナナカマドの灌木は、残念ながらせいぜい橙色(だいだいいろ)になっているぐらいで、その上に縮んで葉が落ちているものも多く、いつもの紅葉を楽しむまでには至らなかった。
 それでも究極の選択ではないけれど、天気の悪い日の見事な紅葉と、快晴の日の今一つの色具合の黄葉のどちらがいいかとなれば、頭の中が単純でお天気屋の私としては、もちろん後者の晴天の日を選ぶのだが。

 大雪山の花暦(はなごよみ)の最後を飾る、濃い紫のエゾオヤマノリンドウが、ところどころにまとまって咲いていて、あとは白い実をつけるシラタマノキと黄色のミヤマアキノキリンソウがあるくらいで、もう花目当ての季節ではないのだろう。
 旭岳の噴気が見えなくなり、山の西側のすそ野を回り込むようにして、当麻乗越(とうまのっこし)方面との分岐まで来ると、そこから裾合平に入って行き、木道が続く中、ほどなく四方をチングルマの一大群落に囲まれた、広い草原に出る。ここが裾合平だ。
 おそらくここは、日本一だと思われるチングルマの一大群生地である。
 夏に秋にと、もう何度も来ているのだけれども、ほとんどは旭岳周遊や、黒岳縦走、当麻乗越などのついでに訪れることが多いのだが、今回はここに来ることだけを目的にしていたから、年寄りになった自分の足でも、比較的に楽に来ることができるコースなのだ(片道2時間半)。

 行き交う人も多くなり、さらには若い外国人たちが多かったのだけれども、多くの人が”コンニチハ”と声をかけてくれた。
 余談だが、若い時にヨーロッパを旅した時に、当然アルプスのトレッキングも楽しんだのだが、スイス、オーストリアを含む南ドイツ語圏のトレッカーたちは、”グリュスゴット”と声をかけてくれたのを思い出した(Gruess Gott,神の御加護をの意味だが、こんにちはの意味で使う)。

 さて私は、この裾合平の端まで行って、同じ光景の写真を飽きもせずに何枚も撮った。
 前回行った鳥海山では、初めて行った山であり二日間の山旅だったの山にもかかわらず、悪天候でわずか数十枚撮っただけだったのに。
 今回の裾合平への山歩きでは、何度も行っているにもかかわらず、百数十枚もの写真を撮ってしまった。(写真下、裾合平より左から大塚に重なって安足間岳(あんたろまだけ、2194m)があり、その斜面から比布岳(ぴっぷだけ、2197m)がのぞいていて、右手の三角錐の山が北鎮岳である(ほくちんだけ、2244m)である。


 
 下手な写真でも、自分で楽しむためのものだから、ここぞとばかりに写しまくったのだ。
 ”八丈島のきょん!” (漫画「がきデカ」の意味のない感嘆詞)

 下の写真は、裾合平から見た旭岳(2290m)で、そのすそ野を埋めるチングルマの綿毛がいくつもの波のように続いている。さらにその下の写真は、裾合平から順光に照らし出されたチングルマの紅葉風景で、背景は熊ヶ岳(2108m)である。







 
 木道のわきに腰を下ろして、軽い昼食をとり、しばらく休んでいると行き交う人も少なくなり、戻ることにした。
 帰り道は同じ道を戻るだけだが、先ほどの分岐のところで、そのまま当麻乗越方面へと少し行ってみることにした。
 いつも足を止める日本式庭園の様な小さな沼の所まで行ってみるが、やはりここも色づきが物足りなかった。
 分岐に戻り、後は行きと同じ旭岳山腹をめぐる道を歩いていく。
 ただし、例えば安足間岳方面まで行けば長距離コースになってしまい、このトラヴァース道がこたえるようになるのだが。 
 というのも、この裾野をたどる道は水平動のように見えるが、大小の枯れ沢の登り下りが十数回もあって、それで疲れてしまうからだ。 
 しかし、この時のように裾合平往復だけだと楽なもので、やがて観光客のにぎやかな声が聞こえてきて、姿見平周回路との分岐に近づいてきて、辺りのお花畑が半逆光になっていて、クロマメノキ(ブルーベリーの実がついている)にチングルマの黄葉と綿毛、キバナシャクナゲの緑の葉などが、縞模様になって美しく見える。(写真下)

 しかし、天気は予報ほどには良くなくて、戻ってくる途中から旭岳には雲がかかり始めて、ロープウエイ駅に着くころには、上空はすっかり雲に覆われてしまったが、まあ一番いい所で晴れていてくれたから、山歩きを十分に楽しむことができたのだ。

 さて、ロープウエイで下まで降りて来てクルマに乗って、始めに書いていた知り合いの宿を訪ねた。
 奥さんは、もう1年たったからと明るく話してくれたが、やはり初めのころは毎日涙が出てきてというが、それもよくわかる。
 何よりも、ずっと同居している肉親や親子や夫婦で、お互いに相手に先立たれるのはつらいものだ。
 私の場合でも、母が亡くなってもう15年にもなるのだが、いまだに母の遺品には手をつけられずにいるいし、さらに日記など、とてもつらくて読む気にはならないほどだ。
 ましてや、おしどり夫婦で小さな食堂時代を含めて、長年この宿をやって来た奥さんにしてみれば、まだ死ぬ歳ではなかったのに、ひとり遺されてしまったつらさは、推し量るに余りある。

 さらに、前回少し触れた、自分の手で自分の人生の結末をつけた、あの私と同い年だった彼の話も聞いた。
 なぜにどうしてと、知りたい気もするが、しかし、それは彼自身の人生なのだし、もうこれ以上は知らなくていいのだとも思うし。
 私は、残り少ない自分の人生の中でも、まだまだ登りたい眺めたい山がいくつもあり、読みたい本が何冊も残っているし、まだまだ繰り返し見たい絵画や、聞きたい音楽も幾つもあるし、しぶとく命永らえて、それらの思いを一つでも多くかなえたいと思っているのだが。
 そういえば、奥さんの話によれば、何と知らなかったのだが、彼はバッハが大好きで、そのリュート曲を自らギターで弾いていたとのことだった。

 今、彼をしのんで、そのバッハのレコードやCDの中から、一枚を選んでかけるとすれば、あのドンボアがSEONレーベル残した名演奏、バッハの「リュート組曲」からのト短調の一曲なのだが、今そのCDは手元にないので、代わりにここにあるのはジュリアン・ブルームのギターによるものだが、それをかけながら、彼がギターで弾いている姿を思い浮かべてみることにしよう。合掌。

 


 


夕焼け空の向こう

2019-09-09 21:54:48 | Weblog




 9月9日

 今日は”重陽(ちょうよう)の節句”。
 仏教徒が多くを占める日本には、昔から、端午の節句(5月5日)、七夕の節句(7月7日)、そしてこの重陽の節句(9月9日)などがあり、さらには、お釈迦(しゃか)の生まれた日を祝う、灌仏会(かんぶつえ、別名”花祭り”があるのだが、今では、それらが大々的な行事として催されることはなくなってしまった。せいぜい幼稚園での行事として、残っているぐらいで。
 大まかに言えば仏教徒であるわれわれ日本人が、異教徒であるキリストの誕生日を、クリスマスという形で大々的に祝って、仏教の始祖である釈迦の誕生日が忘れ去られようとしているのは、寂しいことである。

 おそらくは、心情的キリスト教徒である、日本の若者たちには、より大事な行事になっている、クリスマスやバレンタインデーの方がピンとくるのだろうし、そして近年では、”ハロウィン”などの仮装行列のお祭りの方に、血道をあげては大騒ぎをするようになってしまったのだ。
 魔女やゾンビの仮装行列ではなく、日本式の化け猫やお岩さんなどによる仮装行列を、お盆の日にやってみたらどうだろうか、もっとも、今の若者たちは”だせーマジひくわ”と却下されることだろうが。
 ともかくこうした西洋起源のお祭りは、さらに増え続けて行くだろうし、クリスマスだけでなく、ハロウィンも定着しつつあるし、そのうち、イースター(復活祭)も盛大に祝うようになるのかもしれない。
 世界は一つへと、グローバル化していくのはいいことだと思うけれど、昔から続いてきた行事、習慣はそれなりに意味を持っているはずだから、次の世代へとつなげていってほしいものだ。

 これは、別な問題だけれども、例の「日本人のおなまえっ!」で地名の由来が説明されていて、せっかく古来からつけられていた地名が、今の時代にはそぐわないからと、平凡な名前に変えられてしまうことが多いのが現実なのだ。
 さらに、これもまた定番の生きもの番組「ダーウインが来た!」からだが、今回は大都会の東京で、外来種のワカケホンセイインコが、かごぬけや放鳥されたりして、そのまま見事に都会に適応して大繁殖しているとの話だったのだが、取材班が原産地の一つセイロンを訪ねてみると、野生のインコが田舎の耕作地近くの林に群れで棲んでいて、農民が刈り取ったばかりの稲の粒をついばんでいたが、そのことについて聞いてみると、そこにいたおばあさんが答えていた。

 ” インコも同じ生き物だから、追い払ったり駆除したりはしない”と答えていた。

 " 無駄な殺生(せっしょう)”はしないという、仏教徒の誇るべき教えを目の当たりにした思いがした。

 最近、幼児の虐待死のニュースが多いけれども、こうした事件は個人の倫理観以下の問題ではあるが、4歳の娘に拙い字で、”ごめんなさい”とまで書かせて、さらに死には至るまでの虐待を続ける親とは、いったい・・・。 

 まあそれでいいのかもしれない。私ごときが、日々の出来事に、あれこれ口出しすることではないのかもしれない。
 そうした物事は、それなりの意味を含めてこれからもさらに起きていくのだろうし、やがてはネズミの集団がある日突然、群れを成して川に飛び込んで、全部が滅びるように、人類にもそんな日が来るのかもしれない。

 こんな暗い話の出だしになったのは、久しぶりに来た友達から、衝撃的な出来事を聞いたからだ。
 私と同じ年の、友達とまでは言えない知り合いの男が、亡くなったというのだ、それも自ら。
 彼は、私と同じ九州から来た男で、スキーが好きで、思い切り滑れるからと自衛隊に入隊していたが、その後自然環境スポーツを企画・実行する会社に入り、そこでずっとインストラクターなどとして活動していたから、まさか彼自身がこうした結論を出してしまうとはと、考え込んでしまったのだ。

 原因は、その友達から聞いただけでは、確かな何かがあったかどうかも分からないが、私は、彼の考え方の良し悪しとしての詮索はしたくないし、ただ死ぬ前に、ボロボロの姿になって山から下りてきて、山すそにある友達の宿に寄って行ったことがあったそうで、それが何を意味するのか知る由もないし、ただ今となっては、彼の無念の気持ちを推し量ることしかできないが・・・。

” 自殺とは選択の手段なのだ。
 これは真理に違いないなどと思ってしまいそうな、非常に強いある種の精神的感覚と闘うことへの恐怖、ある意味で万人共通の恐怖を、拒絶するものが自殺するのだ。
 この精神的感覚のみが、何よりも明らかに正当で確かな解決策を、すなわち自殺を受け入れるのだ。"

(『最期のことば』刈田元司・植松靖夫著訳より、ルネ・クルヴェル[1900~1935]のことば、教養文庫、フランスのシュールレアリスムの作家であり、若くして死んでいる。)そんな彼と、もう年寄りになっている私の知人の彼とくらべても、その意図も違うのだろうから、今回の事件とはあまり関係はないと思うのだが、ふとこの言葉を思い出してしまったのだ。)

 私には、それが彼の思いだったのだろうから、あれこれと言うつもりはないが、同じ時代に北海道に移り住んできて、ここまで生きてきたある種の仲間だったから、彼の人生のことを思ってしまうのだ。
 私には、幸いにも、生きて行くことをためらうほどの問題に、まだ遭遇していないし、さらには、脳天気のおつむてんてんのアホな性格だから、多少の問題は気にしないことにしているのだが、そうしたぐうたらな私に、この事件は、小さな冷たい雨の一滴が落ちてきたような感じで、人生には、誰にでもあるような逢魔ヶ時(おうまがとき)のひと時があるものだと教えてくれたのだ。 

 さて、まだ書きたいことはいろいろとあるのだが、その一つ、これもいつもの私の定番番組である、あの「ポツンと一軒家」から昨日の分だが、61歳になるという建築業の男は、自分の出身地でもある茨城の山奥にある、使われなくなった県の研修施設を買い取り、自分好みの山上庭園にするために、マツやサクラにモミジにツツジなど1万本近くの苗を、ひとりで植え続けていた。
 もう一つの話は、山形の83歳になるおじいさんで、若いころから山登りが好きで、ふた山もある広大な山林を買い取っては、そこから山頂に通じる登山道を作り、79歳になる妻や支援者たちとその登山道の整備に汗しているとのことだったが、その整備作業が終わって、仲間同士で飲むビールが一番だと笑顔にあふれていた。
 
 こうした話は一昔前までなら、単なる隠居じいさんの道楽だと片づけられていたものだが、今や日本全土のあちこちで、そうした山林が外国人たちに買い漁られているとなると、事はそう単純な話ではなくなって来る。
 つまり、水源地でもあるそれらの山林の将来は、と危ぶむ声も出てくるのだが、一方で、こうした個人の努力で自然環境が保たれているとするならば、それを見習って、売りに出ているこれらの山林を、クラウドファンディング(ネットなどによる不特定多数の人々への募金集め)によって資金を募り、小さくてもいいから誰でもが参加できて、山仕事を楽しめる保護区を作ったらどうかと思うのだが。

 私は、山林の土地を買って、そこに自分で家を建てて、こうして住んでいるのだが、ここにある木々や草花から、どれほど多くのことを学ばせてもらったことか。 
 今、全国には、山林や耕作放棄地がいくらでもある。
 広い土地を買えなくても、週末だけの畑や山林手入れ作業を楽しむためには、ほんの小さな山林があればいいし、そしてそこに住みつくためには、貧乏に耐える我慢づよさと、夢を実現させる気力があり、あとは少しだけのお金があればいいのだ。
 
” 人生は恐れなければとても素晴らしいものなんだよ。
 人生に必要なもの。
 それは勇気と創造力、それに少しのお金だ。”

 (映画『ライムライト』(日本公開1953年)の中で、チャップリン扮する老喜劇役者が、自殺しようとしていた踊り子テリーを慰め励ますためにかけた言葉であり、あの胸に残るテーマ音楽とともに、チャップリン珠玉の一作である。)

 こうして、自分の好きな自然の中で暮らすことによって、いつしか自分が”黄金の日々”の中にいることに気づくだろう。
 今回の二つの”ポツン一軒家”は、ぐうたらに今の生活を続けているだけの私とは違い、そうした自分の思いをいまだに持ち続けている人達の話であり、考えさせられる事が多かった。

 さて、昨日から、台風が引き連れてきた湿った暑い空気が、北海道にも入り込んでいて、今日はここでも31℃まで上がり、この数日少しづつやっていた庭の草刈りも、中断せざるを得ない暑さになってしまった。
 今日は、北海道各地で34℃を越えていて、日差しが照りつけて、とても北海道の涼しい9月とは思えないほどで、平年に比べて7,8℃も高いとのことだった。
 しかし、その前は時々秋空が広がり、朝夕の日の出日の入りのころの、赤い幕の天体ショーを見られるようになっていたのだ。

 冒頭の写真は、日高山脈がシルエットなった夕焼けの写真であり、下の写真は、今日の日の出のころの、小さなうろこ雲が薄赤く染まった時の写真である。
 こうして秋は、一歩一歩と確実に近づいてくるのだ。

 冒頭に、重陽の節句のことを書いたけれど、今から数十年前の重陽の節句の次の日に、私は自分の夢をかけて、オートバイで砂漠を走るべく、オーストラリアに向かったのだ。 
 そして今、私はまだ、生きている。

 ”I’m still alive " 
 映画『パピヨン』(1973年)は伝記による作品であり、理不尽な罪で、劣悪な環境にある終身刑の牢獄に入れられた、スティーヴ・マックイーンふんする主人公が、脱獄に成功して、小舟の中でひとり、こぶしを振り上げて空に向かって叫ぶ、ラストシーンが忘れられない。

 今はもうこの世にいない、向こう岸の彼方に去ってしまった彼に贈る言葉というよりは、恐らくは自分自身に・・・。



ハマナスの実がなったよ

2019-09-02 20:53:09 | Weblog




 9月2日

 ”ハマナスの花が咲いたよ。
  赤い赤い花だよ。

  ハマナスの花は匂うよ。
  あまいあまい香りだよ。

  ハマナスの実がなったよ。
  赤い赤い実だよ。

  ハマナスのトゲは多いよ。
  痛い痛いトゲだよ。"

(元詩は「からたちの花」北原白秋作詞 山田耕筰作曲)

 6月のころにも書いていたハマナスの花が、まだ咲いている。(写真上)
 そして、そのハマナスの実が、あちこちにいっぱいなっている。(写真下)




 ずいぶん前のことになるが、このハマナスの実を集めて、ハマナスのジャムを作っていたことがある。
 果実系の実の中では、ビタミンCの含有率が一番だとかいうので、ジャムにしたのだが、問題はその手間暇のかかる作り方にあるのだ。 
 ともかく種の数が多く、それを取り出すのに一苦労するから、ジャムにする前の下処理の段階で、多くの時間がかかってしまうのだ。
 その上に、他の寒冷地系の灌木果実、例えばコケモモ、ガンコウラン、クロマメノキ、コクワ、ヤマブドウ、ヤマモモなどと比べても、このハマナスの実はどうしてもジャムにした味覚が今一つで、数年間作っただけで、すぐにそのジャムづくりはやめてしまった。
 というか、もう10年ほど前から、これらのジャムづくりのほとんどは止めてしまったのだ。
 今では、九州の家の庭にあるウメのジャムづくりだけなのだが、それも2,3年前からウメの実が少なくなり、今年はついに10個足らずになってしまい、そのウメジャムも作れなくなってしまったのだ。

 若いころには、毎年数種類のジャムを作り、果実の”ジャムセッション”(ジャズ音楽において他のグループとの即興的なかけ合い演奏)だと、ひとり悦(えつ)に入っていたというのに、ああ今ではすっかり、”ぐうたらなじじい”に成り下がってしまって。
 さらに言えば、この二日は、それまでの長い曇りや雨のうっとうしい天気から、青空が再び広がってきてくれたことはうれしいけれど、また夏の終わりの暑い日が戻ってきて、最高気温は25度近くまで上がり、またTシャツ一枚の服装に戻ってしまった。
 一気に、秋のさわやかな日々になってくれるというわけにはいかないようだ。

 そうした中でも、退屈することはない。私は自分の記憶を呼び覚まし、若いころの思い出にふけり、子供のころの”エリザベートの物語を織った”のだ。

” ささやかな地異は そのかたみに
 灰を降らした この村に ひとしきり
 灰はかなしい追憶のように 音を立てて
 樹木の梢(こずえ)に 家々の屋根に 降りしきった

(中略)

 ・・・また幾夜さかは 果たして夢に
 その夜習ったエリーザベトの物語を織った

(中略)

 私の夢は どこにめぐるのであらう
 ひそかに しかしいたいたしく
 その日もあの日も 賢いしずかさにて

(後略)

(立原道造『萱草に寄す』より「はじめてのものに」抜粋 手元に本がないためネット上のwikipediaより)

 子供のころの思い出だが、親戚のお姉さんが、家の陰でひそかに島倉千代子の「からたち日記」を歌っていた。

” こころで好きと叫んでも
 口では言えず ただあの人と
 ・・・
 小径(こみち)に白い ほのかな
 からたちからたち からたちの花”

(「からたち日記」西沢爽作詞 遠藤実作曲 島倉千代子歌 1958年)

 かすかに流れ来るその歌声に、少年の私の心はときめを覚えたものだった。
 その島倉千代子(1938~2013)の歌声が最も輝いていたのは、世間一般に知られているような、後年の「人生いろいろ」のころにあるのではなく、若いころの「この世の花」や「りんどう峠」(同じ1955年)、そしてこの「からたち日記」のころにあったのだと思う。

 日本の歌手の中で、最高の女性歌手が美空ひばり(1937~1989)であることに、疑いはないけれども、声の美しさ清らかな声色から言えば、この島倉千代子に由紀さおり(1948~,「夜明けのスキャット」’69)、そして岩崎宏美(1958~,「ロマンス」’75)の3人だと思うのだが、調べてみて初めて気がついたのは、この3人が生まれたのは、期せずして10年ごとになっているということだ。美空ひばりは別格として、3人は十年に一人の歌手ということなのか。

 そこで、もう一人あげたかったのは、薬師丸ひろ子であるが、実は二三日前、三陸鉄道全線開通の小さな駅の式典で、そこでの地元民だけのコンサートに彼女が招かれていて、あのNHK朝ドラ「あまちゃん」の主題歌を歌っていたのだが、そのきれいななめらかな歌声を聞いて、今も変わらない彼女の声に涙ぐんでしまったのだが。
 何といっても、彼女があの映画『セーラー服と機関銃』の主題歌「夢の途中」を歌った頃は素晴らしかった。
 今でもyoutubeで、高校生くらいの彼女が、当時の名物歌番組「夜のヒットスタジオ」で歌っているのを見ることができる。

 残念なのは、彼女が若いころには、俳優の仕事もあり大学にも通っていて、あまり歌手として専念できなかったことだ。
 もし、彼女が当時、もっと良いタイミングで音楽プロデュースされて、歌に専念できていたらと思わずにはいられない。それほどの歌声の持ち主だったのだ。
 今にして思えば、当時は、あまりにも角川映画女優の肩書が強過ぎたような気がするのだが。
 彼女は、一度結婚してすぐに離婚し、今年でもう50歳にもなるというのだが。
 同じく結婚しては離婚して、さらに莫大な借金の肩代わりをして、それでも歌一筋に生きてきた、あの島倉千代子の人生をも思ってしまう。

 そうした波乱万丈の人生でもなく、ただ名もなく、貧しく、好き勝手なことをして、ぐうたらなまま一生を送ってきた私は、案外幸せなのかもしれないと思ったりもするのだが。
 まあ、本人がそう思い込んでいればいいだけの話で。
 それでいいのだ。