ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

幸福の実践 雪の九重

2014-01-27 20:27:35 | Weblog
 

 1月27日

 
 この冬は、東北、北陸、山陰の日本海側では、平年よりも雪が多くて大変だというのに、私のいる九州の山間部では、雪が少ないのだ。
 いつもなら、何度かは10~20㎝の雪が積もって、もう二三回は雪かきしているところなのだが。
 もちろん、今までに何日も雪の日はあったのだが、いつもうっすら積もっただけですぐに消えてしまい、ただ一度だけ、それもほんの数cmの雪をホウキで掃いたことがあるだけだ。

 雪が少ないのは、それだけ暖かいということだし、雪かきしなくていいし、クルマで走るにもラクだし、普通の人ならそう思うだろうが、どっこい、このへそまがりオヤジには、そううれしいことばかりでもないのだ。
 雪かきをしなくていいから、ただでさえ食っちゃ寝のぐうたらオヤジが、ひたすらにだらしなく太っていくだけになるのだ。
 あの北海道で冬を過ごした時には、50㎝~1mも積もった雪のために、ただ一人、雪スコップ一丁で数時間かかって、50mほどもある表の道までを、汗だくになって雪はね(雪かき)していたのに。

 それなのに今、寒い寒いと石油ストーヴの前から離れずに、テレビのお笑い番組を見ては一人、ニヒニヒと薄笑いを浮かべている、ヨレヨレジジイの情けなさ。
 あの”いにしえ”の清少納言(せいしょうなごん)が見たならば、こう言ったことだろう。

 「おそろしげなるもの。歳ふりたる男のひとりずまい。あかじみたる衣。ひげのばしたる顔。髪すくなき男の洗いてほすほど。」

 (参照:『枕草子』第一四七段より 日本古典文学大系 岩波書店)

 これではいけない。雪が積もらなければ、体はなまるし、雪景色も見られないし、そうだ山へ行こう。
 そこで、雪の九重(くじゅう)へ行ってきた、それも二日続けて。

 今年は山の雪も少なく、まして雪の後の晴れの日が少なかったので、雪山に行きそびれていたし、しかも行った時には前々回に書いた由布岳(1月13日の項)の時のように、厳しい条件下になってしまっていたのだ。
 しかし、九州の雪山を楽しむためには、天気が快晴の日になるまで待ってはいられない。
 それはすぐに雪が溶けてしまうからで、その前に、雪が降ったすぐ後のまだきれいな雪景色が見られる時に、山に行くしかないのだ。

 数日前のこと、数センチの雪が積もった日の朝に、私はいくつかの九重のライブカメラを見ながら、しばらくは天気の回復を待っていたのだが、そうした焦る思いもあって、じりじりとしてついに我慢できずに、晴れた日にしか登らないという私自身の取り決めを破って、雲が多い空のもと家を出たのだ。
 道路はほとんどが圧雪状態で一部アイスバーンだったが、もう日が高くなっていて、日向では溶けだしている所もあった。
 いつもの牧ノ戸峠(1330m)の駐車場には、曇り空で時々日が当たるくらいの天気なのに、さらにはこれほどの雪があるのに、すでに20数台ほどの車が停まっていた。みんな雪山が好きなのだ。
 
 この峠付近ではまだマイナス5度位まで冷え込んでいて、おかげで積もっている雪は粉状のサラサラ雪で、歩きやすく踏み固められていた。
 何より、この沓掛山(1503m)に至る遊歩道の両側の、余り背の高くないノリウツギなどに、びっしりとついた白い樹氷の並木が見事だった。
 ただ惜しむらくは、曇り空のこの天気だ。もし快晴の空が広がっていれば、見上げる青空と織りなす白い樹氷の枝が、どれほどきれいなことか、おそらく私は何度も立ち止りカメラを構えたことだろう。

 それでも今、こうして白い樹氷並木を見られただけでもありがたいことなのだ。もう11時に近い時間だというのに。
 遅く家を出たのも、もう一つ私には考えがあって、つまり天気図からいっても、冬型がゆるんで西から高気圧が張り出してきているから、天気が良くなるだろうことは確かだし、それならば、去年もそうであったように(’13.1.19,2.20の項参照)、しばらく山にいて、夕日の時間まで待とうと思っていたからでもある。
 日の入りは今は5時過ぎだから、まだ6時間ほどもあるのだが。
 
 とはいっても、今この曇り空の下でも、左右の雪景色を見ながら、いつもの縦走コースを歩いて行くのは楽しい気分だった。
 そして途中の、鍋谷(なべだに)を見下ろすコルのあたりでは、その樹氷の木々の集まりが、その昔母と見た、あの吉野の山の山桜を思わせるほどに見事だった。(写真上)
 
 しかし曇り空の勢いは増してきて、西の方からは低い重たい感じの雲が近づいてきていた。
 これでは、そう簡単に天気が良くなるとも思えない。とりあえず、一番近い所にある扇ヶ鼻(1698m)に登ることにした。
 ありがたいことに、先行者のトレースがついていて、斜面の雪はひざぐらいまであって、そのうえスパッツもつけてこなかったからなおのことだ。
 さらに、稜線にかけて西風が強くなり、寒さが一気に押し寄せてきた。

 しかし登る途中では、シュカブラなどの雪が作る造形模様が見事だった。これを見たいがために、雪山に行くのだ。
 一瞬青空がのぞき、日の光が走った。私はあわてて、カメラのシャッターを押した。(写真)

 

 後で家に帰って、その時の写真を大きな画面で見てみると、カメラの絞りとピントの範囲が十分ではなかった。
 思えば、私の山の写真はこうしたものが多いのだ。
 つまり、その地点にとどまって、三脚にカメラを据えてシャッターチャンスを待ち、目の前の光景を意図したとおりの作品に仕上げるという心構えなどなくて、いつも歩いている時にふと目にした光景に心ひかれて、その場に立ち止り、手持ちのままシャッターを押しているという場合が殆どなのだ。
 
 だから、数十年も撮っている山の写真だが、大きく引き伸ばしてよく見れば、多くの場合ブレてピントが甘くなっているのだ。
 まるで私の人生がそうであったように、今までいつもブレた写真を撮ってきたのだ。
 さらに始末に負えないのは、そうしたブレている写真を承知の上で、なおも改めることなく、十年一日のごとくに、ピントの甘い下手な写真を撮り続けていることだ。

 それには、私に初めから写真芸術家としての素質も意識もないことに加えて、ある場所にとどまって一作品を作り上げるよりは、まだまだ先に幾つもあるだろう、見事な山の光景を、貪欲(どんよく)に見て回りたいという思いがあるからだ。ただこんな所にずっといて、山での貴重な時間を失いたくないというだけのことで。
 つまり私は、根っからの貧乏人体質なのだ。せっかく来たのに一つだけでは物足りないと思い、まだ他にもあるからとあわてふためく、ケチな根性がしみついているのかも知れない。

 前回、いくつかのテレビ番組を少し批判した時に、余りにもいろいろな話題を入れすぎて、一番訴えたい大事なことまでもがわきにやられてしまい、番組の品質を落とすことにもなりかねない、などと言ったりしたのだが、恥ずかしいかな、それはそっくり私の人生そのものにも言えることなのだ、写真を撮る時だけではなくて。
 いつもその時の感情のままに刹那(せつな)的に動いて、当然のごとくに何の成果も得られずに、それでも飽きることなく同じことを繰り返す・・・あの浪花節(なにわぶし)「森の石松」の一節とおなじように、”バカは死ななきゃ治らない~”とくらぁ。

 ところで、前回書ききれなかった、年末からこの1月にかけて見たテレビ番組について、ついでにここで触れておきたい。
 一つは、BS朝日の『滝川クリステルのフィレンツェ紀行』であり、そのサブタイトル”ダ・ヴィンチの謎”にひかれて、絵画ファンとしては見ておきたいと思ったのだが、他にもあの”おもてなし”の彼女の美しい容姿をも楽しみたいという、下心も少しはあったのだが。
 結果、上に書いたように、この番組には余りにもいろいろなことが詰め込まれていて、つまりフィレンツェの町案内なのか、土産物案内なのか、食べ物料理案内なのか、ダ・ヴィンチの生涯と絵画についてなのか、すべてが中途半端で、最後のダ・ヴィンチの新発見の絵さえなんとも怪しげな話で、むしろこんな番組を見なければよかったのに、と思ったほどだった。
 
 それに引き替え、おなじBS朝日の『世界の名画』シリーズでの特別編「幻惑のフェルメール・ミステリー」、これは良かった。2時間もの間、退屈することはなかった。
 もともと、この番組の美術監修者の脚本とナレーター要潤(かなめじゅん)の語り口がいいこともあって、何度も録画しているほどなのだが、今回は私の好きなフェルメールということもあって、しかし今までそのフェルメールの番組は散々見てきたのに、何度総括して見てもいいものであり、ともかく安心して見ることができた番組だった。
 
 実は、こうしたドキュメンタリー番組では、ナレーターの役割は重要であり、NHK・BSの『遥かなるアルゼンチン・タンゴ』では、これは再放送だったのだが(10年も前、私はまだハイビジョンを見るテレビを持っていなかったからなのだが)、ナレーターをつとめた杉本るみの、都会的な感じの、落ち着いた大人の女の声が小気味よかった。
 と同時に、アルゼンチン・タンゴのペアの踊りの見事さ・・・ブエノスアイレスの街の、夜の路地の石畳の上で、タンゴのリズムの乗って踊る若い二人・・・。(何の説明もつけずに、カメラだけが二人を追う。)
 ああ、もし私に映画監督の才能があったならば、ここで一つの短編映画を作れただろうに・・・。
 
 このタンゴについては、前にポルトガルのファドについて書いた時にも少しふれたように(’13.12.23の項参照)、他にシャンソン、カンツォーネ、フラメンコなどとともに私の好きな世界の民衆歌謡であり、若いころに東京で雑誌編集者として働いていた時には、ヨーロッパのコンチネンタル・タンゴとともに、このアルゼンチン・タンゴの名曲も数多く聞いていて、久しぶりに出会えたようななつかしさだった。
 

 さて、話がすっかり飛んでしまったが、元の山の話に戻ろう。
 吹きすさぶ地吹雪の中、扇ヶ鼻本峰へは行かずに手前の前峰の方へ向かい、そこから九重主峰群を眺めたのだが、曇り空の下では精彩がないし、そのうえついに雲が低く垂れこめてきて、周りの山々の頂きも見えなくなってしまった。
 それでも、西の空に青空が少しでもあればと思ったのだが、重たい暗い雲が広がっているだけで、これではもうあきらめて戻るしかなかった。
 手足ともに寒さでじんじんとしていたが、風も弱い縦走路に戻って行く途中からは、もうポカポカと温かくなってきた。
 あの由布岳の時の指先は、やはり異常な感覚だったのだ。(1月13日の項)
 
 これでは夕映えの山の姿も期待できない。わずか4時間の山歩きで、駐車場に戻り、すっかり雪の溶けた道路をクルマで走って家に戻った。
 
 ところがである。夕方のニュース天気予報を見ると、なんと明日は全九州的に、お日様マークだらけなのだ。
 そして、翌日の朝になると、確かに快晴の空が広がっていた。
 これでは、山に行くしかないでしょ。(こんなことができるのも、ヒマな年寄りで、そして九重に近い所に住んでいるからなのだが。お仕事なさっているみなさんごめんなさい。)
 それでも山が好き。・・・あふりか象が好き!八丈島のきょん!(昔の漫画『がきデカ』こまわり君の意味のない感嘆詞。)

 牧ノ戸峠の駐車場には、8時過ぎなのにもう40台余りのクルマが停まっていた。みんな待ちかねていたのだ。(帰る時には満杯の100台くらいはあっただろうか。)
 ただし、昨日あれほどきれいだった樹氷の白い枝は、もうほとんどが落ちて枯れ枝色のままになっていた。
 それでも何と言っても、快晴の空だ。白い山の姿が、青空に映えている。
 『あまちゃん』の、きょんきょん!・・・(これも意味のない、私の感嘆詞。)

 昨日の扇ヶ鼻にも未練はあったが、なんといっても雪の九重で私の一番好きなコース、南尾根経由の星生山(ほっしょうざん、1762m)、そして岩稜がある東尾根通しで星生崎へと至る、プチ・アルパインルートである。
 (とはいっても、かなりの降雪と岩がすべて凍りつくほどの寒波に襲われた時でないと、とてもアルパインルートとは言えない短い縦走路なのだが、毎年一度は通るコースだ。’12.2.20の項参照)

 そこで、久住山(1787m)や中岳(1791m)へのメイン縦走路から離れて、左に星生南尾根へと取りついて行く。
 昨日の足跡とさらには今日も一人の足跡がついているから、幾らかは楽だが、やはりできれば足跡のない雪が積もったままの上を歩いて行きたい。
 灌木帯(かんぼくたい)を抜けると、周囲の山々への展望が開けてくる。
 そして吹きさらしの南西斜面になる。ここから頂上まで、シュカブラや風紋など雪の造形を楽しめる所だ。
 風は少しあるが、それほど寒いわけではない。
 頭上の一面の青空、周りの白雪の山々・・・他に何を言うことがあろう。
 
 途中で何度もカメラを構えながら立ち止まり、星生山の頂上に着いた。
 いつもは今の時期、余り人には出会わないのだが、今日は数人の人たちが頂上にいた。
 南の方には、今登ってきた南尾根の先に扇ヶ鼻が長く続き、その右手遠くには雲仙も見えている。左手に見える久住本峰にかけての間には、阿蘇山(1592m)、祖母山(1756m)、遠く九州脊梁(せきりょう)山地の国見岳(1739m)なども見えている。さらに西へ、久住山から稲星(1774m)、中岳、天狗(1780m)と群れ集まり、離れてミヤマキリシマなどの灌木帯に覆われた大船(1786m)、平治(1643m)とつながり、北側には硫黄山の噴煙の向こうに三俣山(1745m)、その後ろ遠くには、特徴的な双耳峰の由布岳(1583m)も見えている。
 そこで、尾根が続く先の久住山の写真を撮った。何度撮ってもあきることのない眺めだ。(写真)

 

 一休みした後、アイゼンをつけてその岩稜帯をたどって行くが、それほど凍りついてはいなかった。
 途中なだらかな尾根になり、心おきなく広大な眺めを楽しむことができる。(写真下、肥前ヶ城越しに煙たなびく阿蘇山)

 そして星生崎からは、途中から縦走路へと降りる道があるのだが、今はトレースもなく、急斜面のひざ上までもある雪をラッセルして行くのがイヤだったから、仕方なくトレースがつけられた久住別れまで下りて、そこから登り返して星生崎下に上がり、あとは西千里浜から久住山の姿を振り返り見ながら、ひたすら歩いて、牧ノ戸峠の駐車場に戻った。
 今日は5時間余りの雪山トレッキングで、二日間合わせて、合わせ技一本という冬山歩きだった。
 できればこんな天気のいい日には、夕日のころまで居たかったのだが、夕方前には些細な用事が一つあって、家に戻らなければならなかったのだ。

 一日目は、雪が降ったすぐ後の山の姿をと焦ってしまい、十分に楽しめなかったのだが、二日目はその分を取り返そうとまたも出かけて行って、青空と雪山の姿を心おきなく見ることができたのだ。
 前回書いた”幸福論”について、あのアランが言っていた言葉を思い出していた。

「幸福になろうと欲しないならば、幸福になることは不可能だということである。それゆえ、自分の幸福を欲し、それをつくらなければならない。」
 
(『幸福論』アラン、白井健三郎訳 集英社文庫)

 私は、雪の山を歩いたその日はもちろんのこと、次の日も、その次の日も、何かをやり遂げたような小さな満足感に満たされていて、何か心うれしく、その時の思い出がまだ私の頭の中に鮮やかに残っていて、その小さな幸せの中にいたのだ・・・。


 

 

北尾根1147m標高点とわたしの青い鳥

2014-01-20 22:00:45 | Weblog
 

 1月20日

 今から、もう10年近くも前のことになる。
 一緒に暮らしていた母が亡くなって、私は九州の家を離れて、北海道の家で2シーズン冬を越した。
 その時に、何度か厳冬期の日高山脈の山に登った。

 上の写真は、その時の山行の一つであり、1月の中旬、野塚岳(1353m)への冬季ルートである北尾根途中からの眺めである。
 左側から楽古岳(1472m)、中央に十勝岳(1457m)、その右にオムシャヌプリ東峰(1363m)と続いている。

 この時登ろうと思ったのは、もう何度も登っている野塚岳ではなく、その北尾根の分岐点(1147m)から、さらに北に伸びていく尾根の先にある、1225m標高点のピークだった。
 しかし、上の写真を撮ったその分岐点に着いたのは、もう12時半を過ぎていた。
 朝にはなかった雲が、主稜線上の山々の上に出てきていたし、何よりこの北に続く尾根の先にある1225mのピークまでは、まだ長い下りと登り返しがあり、それも凍った雪の上にサラサラの深い雪が積もった、トレースもない尾根をたどることになるのだ。
 その長いラッセルを考えて、私はあきらめることにした。(この1225mピークにはその後登ることになる。’11.5.7の項)

 ともかく朝家を出るのが遅かったのだ。
 朝の気温は-12度位で、その時期としてはそれほど冷え込んでもいなかったのだが、さすがに野塚トンネルわきの駐車場付近(600m)は、全面磨かれたアイスバーンになっていた。
 すぐに始まる北尾根の登りでは、急斜面のためにあまりスノーシューは役に立たずに、途中からアイゼンに付け替えて登って行ったのだが、雪がやわらかく下は凍っていて、足場が定まらず登りにくい。
 年始年末には何人か登った人もいたのだろうが、今はその足跡もほとんど消えていて、ひとりでラッセルをしながら登って行くしかないのだ。

 ただ天気は良くて、もちろん誰もいないし、遠く風の音だけが聞こえていた。
 途中で、何度も雪の上に座り込んで休んだが、枝を伸ばした木々の間から、青空を背景にした山々の姿がよく見えていた。
 何よりも、その静かな雪の尾根にひとりでいることが心地よく、何か大きなものに包まれているような気がして、思わずうとうととしたくなるほどだった。
 そんな調子だから、普通なら2時間ほどしかからない1147m分岐点までに、3時間もかかってしまったのだ。
 
 しかし、目的のピークまでは行けなくても、この展望の良い分岐点まででも、私は十分に満足していた。
 ひとり山々を眺めながら、ゆっくりと休んだ後、下りていくことにした。
 いつの間にか、山脈の山々の上には雲が大きく広がってきていて、トヨニ岳(1493m、本峰1529m)が最後の光を受けていた。(写真下)

 

 この時の山行は、目的の山にたどり着けなかった失敗登山かもしれないが、私の心の中では、他の頂上まで登った時と同じように、美しい山々を眺めることのできた思い出として残っているのだ。
 あの幸せなひとときとして・・・。


 ところで、年末からこの新年にかけて、テレビでは様々な特別番組が放送されていて、その幾つかを録画して、まだ全部は見終わってていないのだが、当然のことだが、それぞれに良し悪しがあった。
 オペラでは、恒例のミラノ・スカラ座のもので、バレンボイム指揮のワーグナーの二本、あの亡くなったパトリス・シェローが演出した舞台でワルトラウト・マイヤーが歌っている『トリスタンとイゾルデ』に『神々の黄昏(たそがれ)』という重量級の二本の楽劇があった。
 しかし、この年寄りには胃がもたれそうでまだ見ていないのだが、正直に言えば、それはオペラの時にいつも書いているように、現代劇ふうに演出された舞台を見ることに、なかなか食指がわかないからでもある。

 となると、残りの二本のヴェルディのオペラはどうしても見なければならない。
 それはいずれも、さすがに手慣れたダニエレ・ガッティ指揮による、『ナブッコ』と『椿姫』であり、前者はいまだに元気なあのレオ・ヌッチが歌い、演出はあの名指揮者クラウディオ・アバドの息子であるダニエレ・アバドというだけでも興味がわく。
 そして、確かにヴェルディのオペラの楽しさは十分に伝えてくれたのだが、やはりレオ・ヌッチの声の衰えは隠すべくもないのだ。
 もう一つの『椿姫』のほうも、過去に幾多の名演があり、それをあのダムラウが歌い、それもまだ2週間位しかたっていないスカラ座公演のものをと、楽しみにしていたのだが、彼女の明るい容姿や歌声には、悲劇のヒロイン、ヴィオレッタを歌うには、やはり少し違和感を感じてしまうのだが。
 それぞれ、それなりに面白くはあったのだが、どうしても年寄りになると、いろいろと知っている分、辛口になってしまうのだろうか。

 次は、日本の歌芝居、歌舞伎の放送から、まずは暮れの京都南座顔見世大歌舞伎、襲名披露(しゅうめいひろう)の演目から、『元禄忠臣蔵』「御浜御殿綱豊卿(おはまごてんつなとよきょう)の場」から。
 私の好きな役者の一人である中村梅玉(ばいぎょく、’10.3.27の項参照)の綱豊卿は、さすがに見事な落ち着きと品があり、いつものことながら安心して見られるのだが、それに引きかえ、相手役助右衛門の市川中車の所作口跡(しょさこうせき)がいささか、場違いに感じられてしまうのだ。
 他の出演者たち、我富や孝太郎、時蔵と比べても、異彩を放つ現代的な演技ではあったのだが。

 あの高視聴率ドラマ『半沢直樹』での熱演ぶりをあげるまでもなく、俳優香川照之としての演技力の確かさは誰も疑うところがないほどだが、歌舞伎役者としては、こんな形で舞台に上がれるのかと疑問に感じないわけにはいかないのだ。
 幼いころから、踊りやセリフ回しの修行を積んで、飽くことなく自分の役者としての型を求め修練し続けて、生涯、歌舞伎役者であり続けるような人々の間で、いかに現代劇での舞台での名俳優とはいえ、幼いころからの歌舞伎の素養があるわけでもない男が、父親(猿翁、えんおう)の威光のもと、伝統ある名跡(みょうせき)をいとも簡単に継いでしまうとは・・・。
 先代の、あの市川中車の確かな芸風を思い出してしまうのだ・・・。
 
 今の歌舞伎界の大名跡が、親から子に継がれていくのは、もっともなことであり、何の異論もないのだが、今度の襲名披露の場合は基本的な歌舞伎役者としての問題であり、日本の歌舞伎を愛するものとしては、あえて苦言を呈したくもなるのだ。
 もし彼が、これからも歌舞伎界でやっていく気なら、その数十年の遅れを取り返すべく、他の俳優仕事のすべてをやめて、歌舞伎修行に励んでほしいと思うし、しかし、得難い味のある俳優香川照之も捨てがたい。
 それならば、再び俳優に戻って、日本の演劇界でのさらに存在感のある俳優を目指してほしいとも思うのだが・・・。

 話は飛ぶが、わが北海道日本ハム・ファイターズの大谷翔平の場合、投手、打者としての二刀流は、私の思いからすれば、早くどちらか一本に絞って、そのポジションだけで励んでくれたらと思う。
 ”二兎を追うものは一兎を得ず”のたとえ通り、年寄りになった今だから、私自身も心に思い当たるふしがあるのだが・・・。

 さてそれ以外の歌舞伎では、同じ襲名披露の『義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)』から。市川猿之助演じるあの狐忠信(きつねただのぶ)で有名な「川連法眼舘(かわづれほうがんやかた)の場」も、さすがに亀治郎の時から芸達者な若手の一人と言われていた通りに、見事に先代猿之助のあたり役をこなしていたが、欲を言えば、もう少し親狐を慕う子狐の悲しみを出してほしかったと思う。
(これまた余談だが、役者は誰だったか忘れたが、この場面で私が思わず涙したこともあったぐらいだから。)

 他に同じ南座から、『児雷也(じらいや)』。
 私が子供のころには、まだ江戸時代の香りを残した時代劇マンガ本がかろうじて残っていて、子供心にも、大きなガマの上に乗って印を結ぶ(石川五右衛門のような)児雷也の姿を、いまだに覚えている。
 だから歌舞伎でも、こうした筋書などはたいして重要ではない、ただ見せるための絵姿としての芝居があってもいいのだと思う。
 中村梅玉、尾上松緑(しょうろく)、片岡愛之助さらに市川笑也(えみや)と並んだ、見えを切った立ち姿の素晴らしさ・・・それはまさに、鮮やかな浮世絵の世界、錦絵の世界だったのだ。(写真)

 

 こうした立ち姿に、その昔、江戸時代の小屋掛けの中の座席のあちこちからからも、声がかかったことだろう。
 そしてその中にいる、髪の毛の少なくなったまげを結い、むさくるしい顔をした隠居じじいの私も、きっと声をかけていることだろう・・・。
 
 「いよっー、高砂屋・・・いよっー、音羽屋。」

 さらには正月二日の日に、歌舞伎座他からの初芝居中継があって、それぞれの演目をちらりと見ることができたが、あの作家、井上ひさし原作による『東慶寺(とうけいじ)花だより』が、歌舞伎の脚本として書き上げられて、市川染五郎らによるその初披露の舞台が中継されていて、なかなかに興味深かった。
 もちろんそこには、踊りや見えといった歌舞伎の所作はないのだが、舞台も役者のセリフ回しも、確かに歌舞伎のものであり、かつてもう一つの歌舞伎劇団である前進座がシリーズにして好評だった、山本周五郎の時代劇人情話の現代風舞台劇とはまた違った、歌舞伎らしい舞台だったのだ。
 他にも、あちこちの劇場からさわりのシーンが見られたが、玉三郎は相変わらずきれいだし、海老蔵はいつもエネルギーにあふれているし、団十郎や勘三郎を失っても、これからも変わらずに歌舞伎界が続いていくことを願わずにはいられない、年の初めだった。
 
 さてテレビで放送された舞台の話で、オペラ、歌舞伎とすっかり長くなってしまったが、本題に入ろう。
 上で書いように、雪山で自分だけのひと時の幸せを感じたのだが、実は取り上げたいのはその”幸福”についてである。

 というのも、この年始年末の番組の中で、もっとも私が引き込まれた番組が二本あったのだが、その一本が、前にもふれたことがあるNHK・Eテレで放送されている『100分de(で)名著』シリーズの、今回は別に特別編として作られた、『100分de(で)もっと幸福論』である。
 それまでに、すでにあのアランの『幸福論』が4回にわたって放送されていたのだが、それとは別に、特別番組ということで各界の先生たち四人が集まって、それぞれの分野からの一冊をあげて”幸福”について語るという構成になっていた。
 そこでまず作家の先生は、井原西鶴の『好色一代男』と『好色一代女』をあげ、経済学者の先生はアダムス・スミスの『国富論』をあげ、さらに哲学ではヘーゲルの『精神現象学』を、心理学ではフロイトの『精神分析入門』をあげて説明していたが、司会者の結論としての”幸福とは”という問いに答えて、それぞれに”断念したあとの悟り””ひとの痛みをわかること””ほんとうを確かめあうこと””愛する人の幸福を願うこと”という言葉を書いて見せていた。
 さらに最後に、四人の先生たちは、一人一人が書いた言葉は違うけれども、意味するところは同じだと結論づけていたのだが・・・。

 番組の構成はともかく、この番組を通じて前から気になっているのは、大声をあげて話すタレントと、これまたいかにもNHKバラエティー風に、盛り上げようとするアナウンサーの二人が、少しうるさく感じらるのが残念だった。
 できるならあの上品で落ち着いた森田美由紀アナウンサーか、せめてあのNHKの歴史ものの対談司会をやっていた、元民放の渡辺真理アナウンサーぐらいにしてもらいたかったのだが。
 私たちが聞きたいのは、タレントの声を張りあげての話よりは、先生たちのそれぞれの話だけなのだから。
 何でもわかりやすく、バラエティー化しようとする意図が、実は番組の品質を下げてしまうことにもなるのだ。
 
 それは、同じNHK・BS『グレートネイチャー奇跡の絶景』でも、出演者たちタレントの顔をしきりに出したり、彼らがその場にいるかのような画面上の小細工をしてみたり、私たちが見たいのは、タレントたちの驚き喜ぶ顔ではなく、画面から伝わる圧倒的な自然の姿だけなのに。
 この番組も録画しておいたのに最初のほうを見ただけで、すぐに消去してしまったほどだ。

 またも話がそれたけれども、ともかくこの番組では、先生たちがそれぞれの分野で説明する”幸福”についてのとらえ方が、例えて言えば、様々な側面から光を当てられた”幸福”の姿が見えてきて、実に面白かった。
 もっとも、100分という時間では、時間が短すぎて十分な対談にはならなかったし、さらに根本的なことを言わせてもらえれば、”幸福論”というテーマ自体があまりにも大きすぎるし、そんなテーマのまとめとして、最後に画一論的に結論づけされたのが少し残念ではあったのだが、・・・。

 私たちの世代は、多分に戦後ニヒリズムの影響を受けて育ってきたから、若い時にはとても”幸福”などという言葉を、口に出したり、討論の俎上(そじょう)にあげることさえためらわれたのだが、こうして年を取ってきた今、様々な経験を経てきて、自分の人生を形作ってきた一因として、どこか懐かしい思いで、”幸福”というテーマを振り返り考えてみたくなったのだ。
 
 ただ言えることは、今幸せな人は、まず”幸福論”などを考えることもないだろうし、今不幸のどん底にいる人は”幸福論”なんて考える気にもならないだろう。
 つまり、”幸福”について考えるのは、今ほんの少しだけ幸せな人たちと、今ちょっぴり不幸せだと思っている人たちだけである。

 まして、彼らの幸せは、上の先生たちがあげたような、対人関係だけの思いにあるというわけでもないのだろうし。 
 つまりそれは、ひとりでいることに幸せを感じる場合もあるし、たとえば猫をかわいがるときに幸せを感じることもあるし、また猫も幸せを感じているのかもしれないし、さらには、自然界に生きる動植物たちの最大の幸せは、自分たちに害悪を及ぼす人類がこの地球上からいなくなることかもしれないし。
 
 ”幸福”とは、ひとりだけの思いなのか、それとも対人関係としての思いなのか、あるいは対集団に対してなのか、さらには集団対集団に対する思いなのか。
 それは、それぞれの立場において考えなければならないのだろうが、私にはその問題に対応できるだけの知識も能力もない。
 かろうじて分かるのは、自分が居心地良く思う空間にいる時に感じる、ほのかな幸せだけである。
 と言って、私が他人に、対集団に薄情というのではない。同情すること、それは人間である限り誰もが持っている感情であり、思いであるからだ。
 
 「こうして同情とは、私たち人類全体にばかりでなく、すべての生けるものたちへ、あるいは少なくともすべての苦しんでいるものへと開く特殊な徳なのだ。」

(『ささやかながら徳について』アンドレ・コント=スポンヴィル著 中村昇他訳 紀伊國屋書店)

 つまり、そう考えてくると、人々を前に見えを切った博愛や慈善の行為だけが尊ばれるのではなく、まずは自らが幸せであることが何よりも必要ではないかと、先にあげた『幸福論』の著者、アランは言っているのだ。

 「私が考えているこの幸福となる方法のうちに、悪い天気をうまく使う方法についての有益な忠告を加えておこう。・・・雨が降っている。・・・あなたが不平を言ったからと言ってどうともなるものではない。・・・ところが雨降りの時こそ、晴れ晴れとした顔が見たいものだ。それゆえ、悪い天気の時には、いい顔をするものだ。

 ・・・幸福になろうと欲しないならば、幸福になることは不可能だということである。それゆえ、自分の幸福を欲し、それを作らなければならない。

 悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する。・・・最後に念のため、あらゆる物悲しい考えを欺瞞(ぎまん)的なものとみなさなければならない。私たちは何もしないでいると、たちまち、ひとりでに不幸を作ることになるから、ぜひともそうしなければならない。」

(『幸福論』アラン著 白井健三郎訳 集英社文庫) 
 
 以上、誰のためにでもない、自分のための励ましの言葉でもあるのだが。
 
 この”幸福論”については、今までにも何度も書いてきたのだが(’12.5.13、’11.11.27の項参照)、まだまだ書くべきことはいろいろとあるし、この一カ月余りに見たその他の番組についてももう少し書きたかったのだが、一日でここに書く量としては、もう私の限界を超えているから、このあたりで終わりにしたい。

 もっともこうして、物事の表層だけを考えて、すべてをすませた気分になるから、私の話はいつでもまとまりのない結論の出ない、まるで私の人生そのもののような答えになるのかもしれない。

 「クッククーク、クッククーク。わたしの青い鳥・・・。」
 

アイゼン、ピッケルなしのアイスバーン

2014-01-13 22:09:48 | Weblog
 

 1月13日

 数日前、全く久しぶりに山に行ってきた。
 前回登ったのが、あの日高山脈の剣山(’13.11.18の項)だったから、何と二か月近くも間が空いたことになる。
 もちろんそのことは分かっていたし、何とか山に行かねばという自分への義務感のようなものがあり、さらにはこれほど山から離れていると、山を歩きたいという思いが体の中にうずいていたことも確かだった。

 冬型の気圧配置がゆるんできて、西側から高気圧が張り出してくるという日に、ただし晴れの天気予報も各社によって多少違いがあることが少し気になってはいたが、曇り空の朝からずっとネットで、山のライブカメラの様子をうかがっていた。
 画面では、九重山・牧ノ戸峠の天気は相変わらず雲が多かったが、由布岳方面は大きく青空が広がってきている。
 よしと決めて、由布岳に登ることにした。

 九重山(1791m)と由布岳(1583m)は、家から比較的に近いこともあって、九州では私が最もよく登っている山域である。
 数えたことはないが、九重はおそらく数十回、由布岳でも20回近くは登っているだろう。 
 そして、その両者とも冬と6月のミヤマキリシマの花の時期だけであり、特に由布岳のほうは、もっぱら冬の雪や霧氷のある時だけに登っているのだ。(前回は約1年前の’12,12.27の項参照)

 その中でも、由布岳の東西両峰をぐるりと回る、雪に彩られたコースがなんといっても素晴らしいのだ。
 今回も雪の状態次第だが、そのお鉢一周のコースをたどるつもりでいた。
 ところが、私の状況判断の過ちで、というより何度も登っている九州の冬山を、あんなものだからとたかをくくっていて、その結果手ひどい試練を受けることになったのだ。
 
 冬の雪がある時期に、東西両峰のどちらかだけに登るだけなら、若いころには3時間余りで、ゆっくりと登っても4時間ほどで往復できたのに、ましてお鉢一周コースでも5時間ほどで戻って来られるのに、今回は東岳の方にしか登っていないのに、何と6時間もかかってしまったのだ。
 今でもまだ、脚の太ももにひどい筋肉痛が残っているし、さらに胸の筋肉までもが痛いのだ。
 そういえば、今回の太ももの筋肉痛は、山からの急な下り道を歩いてきた時などによくあったことなのだが、一方で胸が筋肉痛になるのは、たとえば沢登りや岩登りをした後などによくあって、さらに足のすねの方の筋肉にも痛みが残ることが多かったのだが。

 それはともかく、今回の山での失敗は、私の登山歴の中でも恥ずべきお粗末な登山だったことは間違いないし、そんな結果を招いたのは、ひとえに私が、低い九州の冬山をなめきっていたからなのだ。
 
 さて、私が由布岳の正面登山口を出発したのは、家を出たのが遅かったのもあって、もう9時半を過ぎていた。
 しかし枯れ草色のカヤの草原の向こうには、正面に由布岳も大きく見えて、青空も広がっていた。
 ただ、冬型の気圧配置がまだゆるんではいないのか、まだ風が強く、その北東の風に乗って雲が生まれては、頂上付近に少しまとわりついていた。

 下の登山口駐車場には、数台のクルマが並んでいたが、もう朝早く出たのだろうか、前後には人の姿も見えなかった。
 草原の道から、林の中の枯葉に埋まった道をひとり歩いて行く。
 鳥の声ひとつ聞こえず、ただ高い空で吹きすさぶ風の音だけが聞こえていた。
 いつの間にか、後ろから男の人がひとり速足で来ていて、私を抜いて行った。ザックには、ピッケルが差してあった。

 私は、ピッケルはおろか、アイゼンさえも持ってきてはいなかった。
 クルマのトランクには積んであるのだが、クルマでここまで上がって来る途中、いつものように狭霧台で停まって由布岳の写真を撮ったのだが、少し拍子抜けするほどに雪が少なかった。(写真上)
 わずかに、マタエ分岐点付近から上の東西両峰だけが白くなっているだけである。
 昨日から、この冬一番の寒波が押し寄せて来ているとはいえ、正月があれほど暖かかったし、その前の寒い時に何度か降った雪もすっかり溶けてしまったのだろうと思っていた。

 もっと雪が多く、手前のカヤト色の山、飯盛ヶ城(1067m)までが真っ白になっている時にも登ったこともあるが、その時でさえアイゼンなしで、岩稜が続くお鉢一周をしたことがあるくらいだし、頂上付近まで灌木帯があるこの由布岳では、ましてピッケルなどを使うところはないとさえ思っていたのだ。
 靴はシンシュレイトを織り込んだ厚い冬用のものであり、しっかりとした深い溝のソールだからグリップ力は十分であり、あとはいつものように、雪山用のリングと石突きを出したストックがあれば、このくらいの雪ならばお鉢一周でも、アイゼンなしでも十分だと思っていた。
 
 うっすらと雪の積もったなだらかにたどる林の道から、合野越(ごうやご)えに着き、そこからは山腹につけられたジグザグの道が始まる。
 火山であるこの由布岳の勾配のある山腹に、ゆるやかな道としてつけられた九十九(つづら)折れの道。
 後ろから足早な若者二人がやって来て、すぐに私を抜いてゆき、その話声もいつしか離れていった。
 相変わらず上空で風の音が聞こえていた。頂上ではかなりの風が吹いていることだろう。

 気圧配置としては、西からの高気圧が張り出している天気図だったのだけれども、九州北部には海上風警報が出ているのが気になってはいた。
 しかし、もう道の前後には人もいなくて、久しぶりに静かな山道を歩いて行くのが楽しかった。
 ただ、相変わらずの風による雲が、この山腹にも少しだけかかってきて、時々雪がちらついていた。
 それは、木々に積もっていた雪が、風に吹かれて落ちてきていたのかもしれないが、日が差し込む中に、まるであの氷点下20度以下で見られる北海道のダイヤモンド・ダストのように、きらきらと光りながら舞っていた。
 
 私は立ち止まって、しばらくの間、その移りゆくきらめきを眺めていた。
 写真に撮ることはできないけれど、映像という形あるものとしても残せないけれど、必ずやこうした光景の一瞬は、私の心にいつでも思い返すことのできる記憶として残ることだろう。
 
 記憶については、前回にも書いたように、写真・映像などの媒体(ばいたい)によって再び思い出されるものと、意識的にであれ無意識的にであれ、つまり、この光景は絶対忘れないぞと思い込んだり、あるいは衝撃的な光景として自分の心に強くきざみつけられるものなどがあるのだろうが。
 その時に、自分が美しいと感じて強く記憶にとどめておけば、その後も何度も繰り返して、自分の頭の中で思い返すことができるものだから、つらい気持ちの中にある時には、いつもそれらのことを思い浮かべて、少しは幸せな気持ちになれるのではないか。

 たとえば前々回に書いた、雪山の斜面を走り流れていった小雪の波、その雪面にアイゼンの靴を踏みしめて歩いていた私・・・さらに場面は変わって、岸から離れた沖合の向こうに、小さな波を抱えてさらに広がっていた海、その海の水に包まれてひとり泳いでいた私・・・などのように。
 
 一方では、今ではどこか甘い恐怖の思い出として残っているものもある・・・誰も通らない日高山脈の奥深い谷の雪渓をたどっていた時、不注意にもクレバスに落ち込み、一瞬の後、あおむけになった私が見た、雪の穴の上に見えた青空の色・・・さらに場面は変わって、子供のころ、まだ泳げなかった私が田舎の川でおぼれた時の光景、青く濁った水の色と生暖かい夏の午後の空気・・・などのように。
 記憶は、繰り返す・・・。
 
 さて、何度目かのジグザグの後に、ようやく林を抜けて開けた灌木とカヤの明るい斜面に出た。辺りの低い木の枝には、透明に輝く霧氷がついている。
 さらに続くジグザグの道は、西に向かって上がる道では、春先のように雪が溶けているものの、反対側の東に向かって上がる道には、寒い冬の季節そのままにいっぱいに雪が残っていた。
 
 そして上から、朝早く登っただろう人たちが下りてきた。
 あいさつして一人の人が行き過ぎ、次の二人目の人に声をかけてみた。
 気になる風のことを尋ねてみると、頂上では体ごと飛ばされそうだったし、ともかく上は全面アイスバーンで、4本爪のアイゼンでは怖いくらいで、長年登っているがこれほど凍りついているのを見たのは初めてだと言っていた。

 私は先ほどから、固く凍った雪道が出てきていたので、注意はしていたのだが、心の中でアイゼンを持ってくるべきだったという思いと、まあ行けるところまで行ってみればいいと、それほど気にはしていなかったのだが、彼の言葉で少し不安になってきた。

 やがて、ジグザグの道から最後のマタエの登りとなって、今までの透明の周りの霧氷が、白い雪氷となった樹氷に代わってきていて、道の心配よりは、その眺めに気をとられていた。
 その時、さらに上からアイゼンの音を立てて降りてきた中高年の三人が、私がアイゼンをつけていないのを見ると驚いて、上はもうツルツルで無理ですよと忠告してくれた。
 
 私は、何度もアイゼンなしでの経験があるからと答えて、意地を張ってでも頂上まで行こうと思った。
 さらに登るにつれて、今やほとんどが凍りついた道になり、両側の灌木の枝や岩をつかむのはもとより、靴を置く場所にさえ苦労するようになってきて、やっとのことで吹きさらしのマタエに着いた。
 その鞍部(あんぶ)は、もう完全にアイスバーンになっていて、わずかに出ている小石や岩の陰に足を置いてようやく立てるありさまだった。
  
 もちろん、もうお鉢一周コースなどは論外だし、普通ならば、当然のこととしてここであきらめて山を下りるべきだった。
 しかし、今や天気は完全に回復していて、左に西峰、右に東峰とが白い樹氷に覆われて輝いていた。
 ここが北アルプスや北海道の高い山だったら、吹きさらしの斜面や稜線ばかりだから、まず登る前に諦めるだろうが、この山にはそんな斜面はないし、少しずつ曲がりくねっている道の両側には灌木や岩があって、足場がないわけではないしと自分に言い聞かせて、登って行くことにした。
 
 しかし、登り始めるとそれは一瞬たりと気のぬけない、大変な登行だった。
 吹きつける冷たい風の中、絶対に滑らないために、一歩一歩確かめて、道の両側の氷面のないわずかばかりの草や灌木の根元や、あるいは乾いた岩の上に靴を置き、ストックの先の金属製の石突きを、ピッケル代わりに氷の上に立てて支点を作り、勾配の急な氷結した道を少しずつ登って行くのだ。

 クルマの中に置いてあるあの10本爪のアイゼンを持ってきていれば、あるいは氷の道にステップを刻むことのできるピッケルを持ってきていればと、まさに”後悔、先に立たず”。
 それでも、登る気になっていたのは、残りはもうあと少しだけだし、普通ならばわずか15分足らずの距離でしかないのだと、いざとなれば下りは緊急避難的に、結氷していない灌木帯のヤブの急斜面を下ることもできる、と思っていたからでもある。

 やがて頂上直下の、少し開けた平坦地に着いたが、もちろんそこはまるで小さな池のように全面結氷していて、今までの傾斜している道よりはかえって滑りやすく歩きにくかった。
 その頂上から、下の林の道で私を抜いて行った男の人が、アイゼンの音を立てて手にピッケルを持ちながら下りて行った。

 しかし、それでも周りの樹氷の光景は見事だった。(写真)

 

 風は強かったが、吹き飛ばされるほどではなかった。
 頭上には変わらずに青空が広がっていた。
 私はさらに難しくなってくる凍りついた道を、必死の思いで登ってゆき、ようやく頂上にたどり着いた。
 マタエからのいつもなら15分の道のりを30分かけて登ってきたことになる。
 誰もいなかった。
 その三角点のもとに行くまでも、下はすべて凍りついたミラーバーンになっていて、最後は四つん這いになってようやくたどり着いたほどだった。(写真下)

 展望は、東側が開けて、隣の鶴見岳(1375m)の山並みと別府湾の広がりが見えていたが、南側の九重も祖母・傾も雲の中だった。
 まだ風が強く、こんなところで休むことはできなかった。
 すぐに下りることにして、慎重に下って行って先ほどの平たん地が始まる手前の、風の当たらない岩陰に腰を下ろした。
 靴ひもを結びなおすために、手袋を脱ぐと、なんと左手の指先が白くなっていて、まったく感覚がない。

 前にも見覚えがあるが、小さな凍傷の始まりだ。
 急いで持ってきていたボトルのコップに温かい紅茶を注いで、指をつけた。
 昔は、凍傷は少しずつ温めるのがよいとされていたが、今では熱くないほどのお湯ですぐに温めるのがよいとされているのだ。
 二度ほど繰り返してお湯につけて、さらにもみほぐして、ようやく少しずつ感覚が戻ってきた。

 情けない。こんな九州の低い山で、凍傷にかかりそうになるなんて。
 原因は分かっている。アイゼンやピッケルと同じことで、九州の冬山をなめていたせいだ。
 というのも、私は少し厚手のフリースの手袋だけで、上に冬山用の防水の効いた手袋を二重にはめてはいなかったからだ。
 滑る道だからと、下の道を登る時から木の枝をつかみ雪にまみれて、指先がすっかり濡れていた上に、さらに風がずっと吹きつけていて、指先だけが冷やされ続けて、凍傷手前の血行不良になったということなのだろう。
 
 この先も、登る時よりもさらに難しい、氷結した道の下りが待ち構えている。
 絶対滑らない覚悟で、足場を見つけて、それでも見つからないときは体ごと氷の道の上に投げ出して、先の足場を探り見つけて降りて行く。

 その時下から登ってくる人のアイゼンの音と、ピッケルの足場を刻む音が聞こえてきた。
 完全装備なのに、慎重に登って来る人だなと思っていたのだが、私と間が数メートル位になった時、なんと若い彼は今度は下り始めたのだ。
 その後も、腰を下ろしてゆっくりと足場を探しながらいく私とは離れてゆき、彼の姿はいつの間にか見えなくなってしまった。
 彼は、どうしたかったのだろう。
 
 考えられるのは、先に西峰に登ってマタエに戻り、今度はこの東峰に登ろうとして、しかし余りにも凍りついていたので、諦めて戻ることにしたのか、それもアイゼンをつけて、ピッケルまでも持っているのに。
 もう一つは、マタエのあたりで先に降りてきた人に、アイゼンなしで登っている人がいると聞かされて、助けてあげようと思い、ピッケルで足場を作ってくれていたのか、それならば、私に向かってだいじょうぶですか、とでも声をかけてくれればよかったのに。
 それとも別の他の理由があったのか、わからない。真相は”藪の中”なのだが。

 その後も時間をかけて、慎重に下りていた私だが、一瞬腰を下ろしていた時につるりと1mほど滑ってしまったが、そのまま滑り落ちることもなく止まってくれて一安心だった。(家に戻って風呂に入った時、手首のところに少し大きな擦り傷があったことに気づいた。)
 
 そうして、何とかマタエにたどり着いたのだが、この頂上からの下りだけで、いつもなら10分足らずの所を何と40分もかけて降りてきたことになる。
 やれやれこれで何とか、頭を打って死なないですんだことになる。
 母さん、ミャオ、天から見守っていてくれてありがとう、と言いたい気分だった。

 ここからは、行きに凍りついていた所も少しゆるんできていたりして、幾らかは楽な気持ちになる。
 それでも下りだから、まだまだ滑りやすい所はずっと続いていて、気をゆるめることはできない。
 本当に一安心して休めたのは、もう雪もない合野越えのベンチに腰を下ろした時だった。
 そして林の中の道を下り、枯れ草色の草原に出て、登山口の駐車場に戻ったのは、出発した時からもう6時間もたった午後の3時半にもなっていた。
 振り返ってみる由布岳には、また雲がまとわりついていた。
 
 無事に家に帰り着いても、反省することしきりの山行だった。
 ともかく、年の割に無茶なことをして、ケガしなかったからよかったものの、冬山をなめた軽率な行動であったことは確かだ。
 そしてどうして、そういうことをしたのかと問われれば、私自身にもよくわからないのだ。
 誰かに意地を張ったわけでも、見せつけたわけでもないのだ、あんなみじめな姿を。
 それならば何だったのか。
 
 あの時、私の目の前に見えていたもの。
 何かが、私を頂上へと向かわせようとしたのだ。
 それはオーストラリアの旅の時と、ヨーロッパの旅の時と、北海道移住の時と、幾たびか繰り返してきた日高山脈単独行の時と、それだけでなくその後も続く様々な山を目指した時と、すべてに共通するものかもしれない。

 私の心の中に無意識に巣くう、破滅と隣り合わせの熱狂・・・。
 それだからこそ、時々訪れるその嵐のひとときがあるからこそ、私は、日々の静寂を何よりも望むのかもしれない。

 なぜに、そうするのか。
 それは、つまり平たく言えば、繰り返し引き出すことのできるより良き記憶を、自分の中に作り上げていくためではないのか。
 ハイデッガーの言う”存在と時間”の中で、より良き時間を生きるということを、少しだけ考えてはみたのだが・・・。

(追記:今回の由布岳がなぜあれほどまでに凍りついていたのか、それは前日や当日の気温が低かったためではない。
 ちなみに、当日の、由布岳のふもと湯布院の気温を調べてみると、最低が-4.5度で最高は2.3度とある。それに標高による気温の逓減(ていげん)率を考えてみれば、あの日の頂上付近は、夜明け前の一番下がる時で、おおよそ-11度、昼間で-4度くらいになる。
 過去にそれ以上に気温の低い時に、由布岳に登った経験があるけれども、あれほどまでに全面的に凍りついてはいなかった。

 そこで私なりの推測だが、一つには年末前までに何度かの雪が降っていて、湯布院の町を通った時にそこから見える由布岳の姿が、中腹以上、飯盛ヶ城も含めて白くなっていたから、かなりの雪が積もっていたことになる。
 そこに、気温が高かった年始年末に、大勢の登山客が登っていれば、雪は踏み固められて、夜に凍ってしまい、昼間さらに表面が溶けて、それが夜にまた凍ってと繰り返し、まるでスケートリンクを作るみたいな、ミラーバーン(鏡のような氷の表面)状態になってしまったのではないのか。
 その人々が通る登山道と比べれば、周りの灌木帯の斜面では、表面はパリッと薄く凍っていたが、その下はサラサラの雪だったのだ。
 つまり、あの全面アイスバーンは、様々な要因が絡んだ、ある意味で言えばきわめて珍しい現象でもあったのだ。)

 
 
  

記憶、その遠ざかりゆくもの

2014-01-06 18:39:45 | Weblog
 

 1月6日

 なんという、暖かい正月だったことだろう。
 前回書いたように、年末まではあれほど寒かったのに、一転、天気の良い暖かい日が数日も続いたのだ。
 おかげで昼間は、石油ストーヴを消していることができた。
 気温は春先の3月頃と変わらない、10度を超えるくらいにまで上がり、日差しがいっぱいだったので、洗濯や布団干しが何度もできたのだ。

 かといって、混雑する街中に出かけるのはイヤだから、いつものようにずっと家にいた。
 そして少し体を動かしたくなると、家の周りを散歩した。
 いつもは20分ぐらいなのだが、時には山道を30分余りも登っては、往復1時間くらいの、すっかり体が汗ばんでしまうほどのいい運動になった。
 
 まだ枯葉がついたままの、コナラやカシワの林の向こうには、穏やかな山が続いていて、その上には青空にいく筋かの雲が浮かんでいた。(写真上)
 しかし立ち止まって、その写真のような光景を見ていると、実は雲は意外に早く、西から東のほうへと動いているのだった。
 一瞬、目をやるごとに、それぞれのワン・カットとして眺められる風景が、実は1秒たりともとどまることなく、動き変わっているものなのだ。
 さらに、微動だにしない大地の上に立ってそれらの景色を見ている私が、実はその大地ごと地球ごとに自転しながら、動き続けているというわけなのだが・・・。

 そうしてまた新たな年を迎えては、あの松尾芭蕉(ばしょう)の、余りにも有名な『おくのほそ道』の序文の言葉が思い起こされる。

 「月日は百代の過客(かかく)にして、行かふ年も又旅人也。」

 このところ、時間や記憶について、何かと気になっている私だが、自分の思い出をたどることによって、あの時にそこにいたはずの自分に会えるような気がしているのだ。
 それは、単なる”昔は良かった”ふうな、若い時への青春賛歌ではなくて、確かにそのころの行動力には今にして驚くところもあるのだが、むしろそれらのこと以上に、当時の自分勝手でわがままで恥知らずで生意気だったかもしれない、若き日の自分を、今になって冷静な眼差しで見直すためでもあるのだ。
 あのころは、ただ自分の思い込みだけに酔っていたのだ。何という青臭い若者だったことだろうか、あの時の私は・・・。

 というのもこの正月の間、私はずっと家にいて、幾つかのテレビ番組を見たり、買ってきていたクラッシック音楽CDを聴いてみたり、毎年の1月号だけを買っている雑誌を読んだり、デジタル写真の整理をしたりして、つまりいつもと変わらない毎日を過ごしただけのことなのだが。
 (1月号だけを買うのは、どうしても欲しい付録がついているからだ。『アサヒカメラ』(岩合光昭の”猫にまた旅”カレンダー)、『山と渓谷』(山の便利帳)、『レコード芸術』(レコード・イヤーブック)。

 さて、そのパソコンでの写真の整理の時に、前にも書いたように、私には膨大(ぼうだい)な量の、単なる自分だけの記録用のフィルム写真があり、最近ではその中でも、とりあえず中判カメラや35ミリ・カメラで撮ったポジ(スライド)・フィルムだけでも、デジタル化しておこうと、時々思いたってはそれらのフィルム・スキャンに取り組んでいるのだ。
 そして、北海道の山々のフィルムに取り掛かっていたのだが、この冬に残りを終わらせてしまおうと思っていたのに、うっかり忘れて北海道の家に置いてきてしまったのだ。あちゃー。
 
 そこで気がついたのは、この九州の家に保管していた、若いころに行った海外旅行のフィルムである。
 前回少し書いた、あのヨーロッパ旅行だけでなく、その10年ほど前に行ったオーストラリア旅行での、写真フィルムがごっそり(数十本約1500コマにも及ぶポジ・スライドと約20本の白黒ネガ)とあって、それらは出版用にスライド用にと撮っていたので、ほとんどはプリントせずにいたものだった。
 
 いつかは、書き留めておいた日記記録とともに、自分のためにきちんとまとめておかねばと思っていたものなのだが、昔からのぐうたらな性格と、最近のより深みにはまった山行写真のために、すっかり後回しになっていたものである。
 しかしよく考えてみれば、あのオーストラリアこそは、その後の私のさまざまな冒険的な、後先考えない無茶な行動の原点になったものであり、そろそろ自分の人生の幕引きを考えなければならない年に近づいてきた今、多分に自らに気恥ずかしくもあるが、生意気盛りの若い私がたどった道のりを、少しずつ思い出しながらたどってみるべきだと、まずはこのフィルム・スキャンに取り掛かることにしたのだ。

 この1週間ほど、半ば面白くなって長い時間をかけて作業整理してきたおかげで、ポジフィルムの5分の1ほどをスキャンし終えた。
 これならこの冬の間に、何とか全部終わって写真だけはまとめあげることができるかもしれない。

 そして、気づいたことが一つある。
 スキャンして、パソコン画面に表れてくる画像は、意外に新鮮で初めて見るような感じさえするのだが、それはつまり写真の一枚一枚の場面を、よくは憶えていないということなのだ。
 さらにじっと詳しく見ていると、かすかながらその時の思い出がよみがえってくるものもあれば、まったくなぜこんな写真を撮ったのだろうと思うものまである。
 
 つまりその写真が、雑誌に載ったり、あるいは何枚かを自分用に引き伸ばしてプリントしたものなどは、その前後のことなども含めてはっきりと憶えているのだが、多くの写真には、私の記憶が残っていないのだ。
 それは、前にも経験がある。
 高校生の頃に登った山の写真を見た時も、同じように多くの場面を覚えていなかったのだ。
(だからいくらその山の登頂経験があるといっても、数十年もたっていれば、記憶が薄れていてあまり意味がない。つまり登りなおすべきなのだろうが。)
 
 しかし、その写真から幾つかの記憶が引き出せたとすれば、それはまさにその写真を見たためであって、見ていなければ、さらに私の記憶は薄まってしまい、いつしかは完全に私の頭の中から消え去ってしまうものなのだろう。

 ネット上のウィキペディアで調べてみると、”記憶の過程”は”記銘、保持、想起(再生、再認、再構成)、忘却”という形をとっていき、最後の”忘却”は、”減衰(げんすい)”や”干渉”によるとされている。
 なるほどそれで、私のオーストラリア旅行での記憶の度合いがわかるというものだ。
 しかし、前にも書いたことがあるのだが、わからないこともある。

 セピア色に変色した一枚の白黒写真がある。
 まだ若い母に抱かれた、子供のころ私の写真だ。
 おむつをしているところから見ても、1歳になるかならぬかのころだろう。
 こちらを見つめるつぶらな瞳がかわいい、自分で言うのもなんだが。
 (今の自分、年寄りのこの鬼瓦権三(おにがわらごんぞう)のていたらくぶりからは想像もできないほど、つまり子供の時は、みんなかわいいのだ。)

 さて、その子供の私が、手におもちゃを持っている。
 そして、この時のまだ若い母の顔や、自分の着ていた服などはもとより、この写真を撮った所など、当然のことながら何一つ記憶にないのに、あの手にしているゾウのおもちゃのことだけは、いまだにはっきりと憶えているのだ。
 
 それは、木でできたゾウのおもちゃだった。
 足の所が歯車になっていて、前に後ろに動かすことができた。
 そして、ゾウの鼻や耳のところを含めて、体全体は淡い水色に塗られていて、ところどころに桃色のぼかし模様(サクラだったかもしれない)が入っていた。
 そして、そのおもちゃを小学校に上がるくらいまで持っていたことも憶えているのだ。

 「かあさん、ぼくのあのゾウのおもちゃ、どうしたんでしょうね。ええ、あの一緒に写っていた写真の中でぼくが手に握っていたあのゾウのおもちゃですよ。・・・Mama, do you rememmber・・・。」


 さて、話をオーストラリアの旅に戻そう。
 飛行機の乗り換えのために一日を過ごした、香港から始まる私の旅の思い出は、予期せぬ出来事でシドニーにしばらくとどまることになったのだが、ようやく準備万端整えて、いざ北へ(南半球だから暖かい方へ)と向かう日が、本当の私の冒険の旅の始まりとなったのだ。
 ゴールドコーストを経てブリスベーン、さらに北上してタウンズビルへ。
 その途中、海に面した小さな町で、たまたま研修で海に来ていた地元の高校生の一団に取り囲まれた。(写真)

 

 私は全く久しぶりにこの写真を見て、少しだけその時のことを思い出した。
 そう言えば、そういうことがあったと。

 当時、日本でバイクに乗っていた私たちにとっては、トライアンフやノートンやBMWなどはあこがれの外車だったのに、オーストラリアでは、むしろホンダをはじめとしてヤマハ、カワサキなどの日本車が断然の人気であり、中でもホンダのCBナナハン(750㏄)は、私たちが外車にあこがれる以上に、彼らにとっては垂涎の的(すいぜんのまと)であったのだ。
 私が乗っていたのは、オフロードも考えてマフラーの位置を上げたCL350というタイプのバイクだったから、まだオーストラリアでもほとんど見かけたこともないタイプであり、まして日本人がということもあって、バイクに乗りたい盛りの高校生たちに囲まれ質問攻めにあったというわけだ。
 
 憶えているのはそのくらいのことで、町の名前も(日記を見れば書いてあるだろうが)、場所も、ましてや写真を見ても、彼らの顔の一人として憶えていなくて、写真を見て、ああこういう連中だったのかと思ったくらいなのだ。
 そして写真を見ていて、つくづく思ったのだ。

 今では彼らも、いい年のオヤジになっていることだろう。
 そのまま地元に残って、牧場をやっていたりあるいは漁師になったり、またはクルマ屋を経営していたり、果物屋のオヤジになっていたり、もしくは町を離れて、ブリスベーンやシドニーにいたり、さらにはイギリスやアメリカに渡ったり、中にはもう病気や事故で亡くなっていたり・・・さまざまな人生の形があったことだろう。
 そしてもう誰もが、高校生の時にバイクに乗った日本人に会ったことなど憶えてはいないだろう。
 
 もし、この写真を持ってあの町を訪れてみれば、誰かがこの写真の中の一人を知っていて、それからその友達たちの輪は広がっていき、それぞれに誰が今どうしているのか教えてくれるだろう・・・しかし、思うのはそこまでだ。
 自分の思い出のために、遠い昔の一瞬の出会いをそれほどまでに、探り当てる必要があるだろうか。
 思い出はその人だけの思い出のままに、自分のうちだけで、小さく輝いていればいいだけのことだ。
 
 数日前の、新聞の読者投稿欄に、70過ぎの老人が、高校生時代の初恋の同級生に会いたいという思いを綴(つづ)っていた。 
 懐かしく思う気持ちはわからないではないが、会うことでどうなるというのか。
 二人が会っていなかった互いに知らなかった数十年という年月、それらの現実をその場で消し去ることができるというのか。
 多くの場合は、片方だけの思い込みというのが多いのだろうが、例えもし互いがずっと思い合っていたとしても、その二人はいいのかもしれないが、現実に長い間一緒だった互いの連れ合いの立場はどうなるというのだ。
 
 記憶というものは、ことほど左様に人々を戸惑わせることになるのかもしれない。
 もちろん記憶は、多くの場合有意義に使われて、人々の関係を円滑にするものであるし、さらに芸術的に昇華(しょうか)される場合も多いのだが。
 
 ギリシア神話にあるミューズ(ムーサ)の一人に、ムネーモシュネー(ムネモシュネ)と呼ばれる”記憶の女神”がいる。
 彼女はゼウスとの間に、九柱(はしら)のミューズ(女神)を産んだ。
 この娘たちは、歌をつかさどり、また記憶を助けた。

 つまりカリオペーは叙事詩を、クレイオーは歴史を、エウテルペーは抒情詩を、メルポメネーは悲劇を、テルプシコラーは合唱と踊りを、エラトーは恋愛詩を、ポリヒュムニアーは賛歌を、ウラニアーは天文を、そしてタレイアーは喜劇を、それぞれにつかさどっていた。
 (『ギリシア・ローマ神話』トマス・ブルフィンチ 大久保博訳 角川文庫より)

 (余談だが、この中のカリオペやエラートやウラニアなどは、ヨーロッパのレコード・レーベル名に使われている。)