ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

伐採作業

2016-09-26 23:24:56 | Weblog



 9月26日

 ようやく長雨の日々は終わり、夕焼けの空が見られるような季節になってきた。
 はっきりと、秋が来たなと思う。
 上の写真は、数日前の夕方の空だが、確かに、こうして写真に撮りたくなるほどの、それなりの夕景ではあったが、まだ日高山脈がシルエットになって、その背後の空が赤く染まるまでの、壮大な光景にはなってはいなかった・・・。
 朝から見えていた山々の稜線には、すぐに雲がかかり、そのまま夕暮れになって、その上に広がる西の空だけが黄金色に染まっていったのだ。

 決して、同じ色と形の光景にはなりえない、夕焼け空の・・・そんな写真を、私は今までに何枚撮ってきたことだろう。
 それらの写真をまとめて、スライドショーにして、このパソコンのモニター画面で見られるようにして、背後に小さく音楽を流すとすれば。 
 それには、私の好きなバッハの器楽曲なら何でもいいのだが、それを何百枚もの写真の分だけ、延々と繰り返しエンドレスにして流すのなら、ありきたりの選択になってはしまうけれども、やはりあの「平均律クラヴィーア曲集」からの第1曲や「ゴールドベルク変奏曲」の出だしの”アリア”などがすぐに思いつくのだが、あるいは、まさに天国的な安らぎに誘う、あの「管弦楽組曲」第3番の有名な”アリア”にするのも悪くはないし・・・つまるところ、終わりへといざなうような音の流れは、やはり聞きなれた静かな曲こそが、ふさわしいということだろう。

 ただし、ここで話している音楽は、何も私が死んだ後の葬式で流れる音楽のことについてではない。
 死んだ後のことなど、私のだらしない体がたとえ野ざらしになり、獣たちに食い荒らされ鳥たちについばまれようと、知ったことではない。
 まして、もう私の死後に聞こえることもない音楽のことなど、論外だ。
 つまり、ここで私が言っているのは、死にゆくときに、まさに臨死体験へと向かい、まだ耳が聞こえるときに、どこからか流れてくる音楽についてのことであり、そうであったらいいなと思う願望でしかないのだが・・・。

 そうした、年寄りが死にゆく際の音楽とは逆に、この世に生まれいづるシーンに流れる音楽はといえば、すぐに思い出すのが、名作『2001年宇宙の旅』(1968年)である。
 宇宙の神秘に触れるような、壮大な宇宙空間の影像の中で、月の地平の彼方から青い地球が昇ってくるシーンが映し出され、その背後に聞こえてきたのは、リヒャルト・シュトラウス(1864~1949)の管弦楽曲「ツァラトゥストラはかく語りき」であり、あの音の響きほど、この映像詩の世界にふさわしいものはなかったのだ。
 よくある”世界の名作映画ベスト”などでは、いつも上位に選ばれることの多い、この映画の名作たるゆえんは、もちろん原作以上に、鬼才スタンリー・キューブリック監督の手腕によるところが大きいのだが、一つには、それまでに見たこともないような宇宙空間での映像美(50年近くも前の映画とは思えない)と、それにふさわしい、今となっては他の音楽など考えられないような、古いクラッシック音楽のこの映画での新鮮な使い方にあったからだと言えるだろう。

 映画と音楽のかかわりについて書いていけば、もうきりがなくなってしまう、ましてその昔、映画の中で使われた主題歌やメイン・テーマその他の音楽を集めて、一枚のレコード・アルバムにしたほどの、いわゆる”サウンドトラック(サントラ)盤”が全盛のころには、名画に名主題歌の組み合わせが多く、当時のポピュラー音楽ベスト10をにぎわせたものだった。
 有名な作曲家をあげていけば、アメリカ大作映画時代のミクロス・ローザ(『ベン・ハー』『エル・シド』など)、モーリス・ジャール(『アラビアのロレンス』『ドクトル・ジバゴ』など)から、ヘンリー・マンシーニ(『ティファニーで朝食を』『ひまわり』など)、フランシス・レイ(『男と女』『白い恋人たち』など)、カルロ・ルスティケリ(『鉄道員』『刑事』など)、ニーノ・ロータ(『ロミオとジュリエット』『太陽がいっぱい』など)・・・次から次に、その映画の名シーンと音楽が聞こえてくる。

 新しい映画を見なくなって、もうかなりの年数がたつので、最近の映画音楽事情にはすっかりうとくなってしまったのだが、しかし私には、まだ若く多情多感な時代に見た、映画の音楽の思い出がいくつもあるから、それだけで、新しい映画を見なくても、もう十分だと思えるのだ。
 今の時代に生きる若い人たちは、スタジオ・ジブリやディズニー映画、そして絶賛上映中の『君の名は』などのアニメ映画とその音楽に夢中になっているようだし、再び私ぐらいの年になってまた、あの頃にはいい映画やいい映画音楽があったねと思い出すことだろうし、そうして時代は、人々の生きた時代の思いとともに流れていくのだろう。

 話が、すっかり横道にそれてしまったが、今回は映画『2001年宇宙の旅』で使われた音楽「ツァラトゥストラはかく語りき(こう言った)」から、もともとのニーチェ(1844~1900)著作物である『ツァラトゥストラはかく語りき』について、ほんの少しだけでも、ここで触れておきたいと思ったからでもある。
 20世紀の偉大な哲学者・思想家として時代を越えて屹立(きつりつ)する、このニーチェについて、私はここで論じられるほどの知識を持ち合わせてはいないし、その有名な著作物の幾つかを読んだだけにすぎないから、あまり断定的なことは言えないのだが、個人的な好みから言えば、その彼の考え方のすべてに納得できるわけではなく(人間はだれしも相手に対してすべての点において同意できるわけではないから)、その著作物を読むときには、いつも愛憎半(あいぞうなか)ばする思いでそのページをめくることになるのだ。

 その彼の作品の中でも、最も有名であり高い評価を受けているのが、この『ツァラトゥストラはかく語りき』であり、その中でも私が昔から納得し深く同意していた箇所があり、今回ふと気がついて、再びページをめくる気になったのだが・・・。
 この本の話は、簡略して言えば、山の中でひとり修業していたツアラトゥストラ(ゾロアスターのドイツ語読みだが、ゾロアスター教を意図したものではない)が、そこで研鑽(けんさん)を積んで得た知識は、自分一人のためのものではなく、人々に知らしめてこそのものだと気づいて、山を下りて人々に教え広めようとするが、人々はいまだ頑迷(がんめい)に宗教を信じていて誰も話を聞いてくれない。
 この近代の世の中では、様々のことが解明されているというのに、すでに”神が死んだ”ということさえも知らないでいる、そんな人々に絶望して、彼は再び山に戻るが、そこで様々な賢人たちと出会い、彼らとの交流の後、再び思い直して山を下りて行くという話だが、そこには、ひねりのきいた皮肉めいた警句(けいく)が、さまざまにちりばめられていて、さらに超人思想や永劫回帰(えいごうかいき)などの重要なテーマが含まれていて、とても簡潔にまとめてその全容を書くことなどできはしないのだが、それでも私なりに納得し理解できたように思える箇所がいくつかあり、以下に掲げるのはその中からの一節である。

「万物の上にかかるのは、偶然の天、無罪過の天、無為の天、驕(おご)りの天である。」
「ほんのわずかの知恵は、確かに可能である。だが、わたしが万物において見いだした確実な幸福は、万物がむしろ、偶然の足で__踊ることを好む、ということにある。」
「おお、わたしの頭上の天空よ、清浄(せいじょう)そのものよ!高貴なるものよ!永遠の理法などという蜘蛛(くも)もいないし、その蜘蛛の巣もないということ、これこそわたしの言う、あなたの清浄さだ。」

 (『ツアラトゥストラはこう言った』(上、下) ニーチェ著 水上英廣訳 岩波文庫より)

 以上の言葉から私なりに解釈したのは・・・”すべての物事は、人間たちの知識によるいくらかの関連付けによる説明はなされるのだろうが、本来、すべての物事は偶然から生み出されているものであり、それは『永劫回帰』というサイクルの中で必然化されていくのではないのか・・・つまり、私たちは物事をまずあるがままの形で受け入れ、幸も不幸も良きことも悪しききことも、偶然のそのままの形として在るものであり、それ以上のものでもなければそれ以下のものでもない”ということ。
 さらに、それを自分の立場として考えてゆけば、少し良いことがあった時に、それを勝手にそれ以上に(余計な知恵入れをして)、ふくらませていけば、後で失望することになるし、良くないことが起きた場合にも、それがさらなる悲惨な状況を生み出すかもしれないと、深読み心配したところでどうなるものでもないし、すべからくすべての物事は、偶然から生まれたものであり、それを必然だと受け止められるようになるのは、また再び巡りくる生の中でしかないということなのだろう。
 つまり、すべての物事に対して、楽観的でありすぎてもいけないし、また悲観的過ぎてもいけないということを、自分の戒(いまし)めの言葉にしたのだ・・・それは、ニーチェの意図した思いとは遠く離れて、自分なりの勝手な解釈でしかないのだが。

 年寄りになると、自分の長い経験から、すべての物事に対してますます疑り深くなり、話は黙ってよく聞くものの、今までの自分の信念をくつがえすようなものは頑(がん)として聞き入れず、新たに取り入れる知識はさらに少なくなってしまい、ますます時代から遅れていくことになるし、それが”がんこジジイ”と呼ばれる所以(ゆえん)でもあるのだろうが。

 そんな”がんこジジイ”だからこそ、他人に頼むのではなく、ひとりで、何としてもやってしまわなければならない仕事が増えてくるのだ。
 前回書いたように、この9月の三度に及ぶ台風襲来で、自宅林内の50年以上にもなるカラマツの大木が、根元から折れ、倒れあるいは傾いて、それらの木の伐採作業しなければならなくなったからだ。
 今日までに9本の木を完全に倒して。切り分け作業をした。(写真下)
 
 年寄りになったことも考えて、一日あたりでは、体力集中力が続く2時間余りの作業時間にした。
 一人でやるには、相当に危険な作業であることに変わりはなく,大げさではなく、まさに死と隣り合わせの仕事でもある。
 統計によれば、毎年40件前後の伐採作業時の死亡事故が起きていて、そのうちの数件は作業車による車両事故なのだが、後はほとんどが、伐採中の木の跳ね返りなどによる死亡事故である。

 家の林の場合、数本ほど完全に倒れている木もあり、それらは比較的楽にチェーンソーによる切り分け作業ができるのだが、問題は先の方で他の木に倒れかかったまま大きく傾いているものや、今でも倒れそうになっているものなどを切り倒す時である。
 根元から切っただけでは倒れず、といって鳶口(とびぐち)やロープなどの道具を使ったぐらいでは動かすことができず、さらに上の方へと切り分けていくしかないが、目の上の高さになるとさすがに危険極まりないし、何より木の反発力が強く、反動で木が跳ね返り落ちてきて、下敷きになり死ぬこともあるくらいなのだ。
 他の木に倒れかかったままの木を、下に倒すまで、さらに上の方まで切ったりロープや鳶口で引っ張ったりで、1時間以上かかることもある。
 ところが、ようやく下に倒した木を切り分けて枝はらいをしていく時にも、まだまだ危険が多く、その時のチェーンソーのキックバック(跳ね返り)によって、最悪の場合だが、本人ののど元に当たっての死亡事故もあるぐらいであり、まして脚切断などの重傷事故も数多く起きているほどであり、前にもこのブログに書いたことがあるが、顔なじみだった友達の奥さんのお兄さんが、私と同じように実家の林内の伐採作業をしていて、事故を起こし亡くなっているのだ。

 それでも、止めるわけにはいかない。放っておけば、他の周りの木に被害が及ぶことになるだけでなく、隣の畑や道路に倒れて迷惑をかけることになるから、何とか雪が来るまでには見通しをつけておきたいし、まだまだ気を許せない日々が続くことになるだろう。
 さらにその後も、手作業で切り分けた木を集め運び(大きいもので200kgはある)、枝葉類を片付けてしまわなければならないが、とてもこの秋までには終わらないだろうし。

 もっともこのところ、ぐうたらに過ごしてきたじじいにとっては、きつい仕事だがいい運動にはなるし、何より汗だくになった体で沸かした五右衛門風呂に入るのは、何とも言えない楽しみになるし、良くここまでやってきたものだと、我ながら感心するひと時にもなるのだ。
 
 相変わらず続くヒザの不安から、もう山には3カ月も行っていない。
 今年の大雪山の紅葉はと、人気ブログ・サイトの”イトナンリルゥ”を見てみると、稜線付近では今が盛りのようだが、あいにく三国峠先の高原大橋の復旧が遅れているようで、今でも通行できないから、といって旭川経由で大回りをして、数時間以上もかけてい行く気にはならないし、今年の山の紅葉はあきらめるしかないのだろうか。
 毎年、付録目当ての正月号と他にも特集記事にひかれてもう一冊ぐらいは買うことのある山の雑誌だが、今年はもう4冊も買ってしまった。
 登ることのできない山を、雑誌の写真を見て、記事を読んで楽しむしかない、しがない”山屋”になってしまったのだろうか、私は。
 
 それでも、家の前には、夕焼け空にシルエットになって見える日高山脈の山々があるし、やがては、それぞれの山々が雪に覆われて、白い一筋の稜線となって青空の下に見えるようになるのだろう・・・今、生きているということ。


   


  


小さな秋

2016-09-19 21:49:46 | Weblog



 9月19日

 つい先日まで、今年はどうしてこんな時期まで暑いのだろうと思っていたのだが、さすがに季節の歩みは間違いなく、確かに近づいてくる。
 庭木の、サクラやスモモやナナカマドなどの紅葉が、少しずつ始まっっている。
 天気の悪い日が多くて、いつも薄暗い感じの林内の中に、ぽつんと、一つの黄色が浮かび上がっている。(写真上)
 イタヤカエデの葉の中で、どうしたわけか、他の葉はまだ濃い緑のままなのに、一枚だけ黄葉が始まっているのだ。

 「誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが みつけた。
  ちいさい秋、ちいさい秋、ちいさい秋みつけた。
  ・・・。」 
 (「小さい秋みつけた」 サトウハチロー作詞 中田喜直作曲)

 と、それは、思わず口ずさみたくなるような光景だった。

 気温も、朝10度前後にまで下り、今までのTシャツの上に長袖フリースを着こみ、素足だったのに靴下をはくような毎日になってきたのだ。
 それは、外仕事をしても、もうTシャツがびしょ濡れになるほどの汗をかかなくてすむということだし、何よりイヤなアブやサシバエ、蚊などがめっきり減って、気持ちよく仕事ができるいい季節になってきたということなのだ。

 確かに、しばらく前から、アブやサシバエはいなくなっていたのだが、蚊はまだうるさく私をつけまわしている。
 下はジャージの長ズボンだからいいけれど、上はTシャツだから首筋や腕の裏側をねらって襲ってくる。
 たかだか、外での立ちションのわずかな時でさえ、奴らはすぐに察知して、集まってくるのだ。
 さすがに、年寄りのみすぼらしい出し物の本体を刺すことはないが、支えている手の甲に止まっては刺してくる。
 まあそれで、とんだ修羅場(しゅらば)が繰り広げられることになるのだ。
 まさに放出しているさ中だけに、腰を少し動かすぐらいでは蚊は逃げて行かずに、仕方なく片手を離して、支えている手のひらをぴしゃりと叩くのだが、蚊には逃げられてしまい、ただ叩かれたその手がぶれて、途中で止めるわけにもいかずに、そのしぶきがあちこちにかかる始末。
 全く、このありさまを動画に映して、”Youtube”に投稿したいぐらいだが、余りの”ゲスのきわみじいさん”のバカバカしい体たらくに、即削除になることだろう。
 毎度同じような、”どもならん”下ネタはこのくらいにするにしても、それでもいつも感心するのは、蚊の、自分の生死をかけての攻撃心である。

 殺虫剤スプレーは、なるべく使いたくはないから、蚊が体に止まったところを見計らって、ピシャリと叩きつぶしているのだが、それでも奴らは、しつこく体の露出した部分を探しては、繰り返し襲ってくるのだ。
 もちろんそれは、自分たちの子孫を残すための行為であり、雌の蚊が卵を生み出すためには、どうしても栄養分たっぷりの生き物たちの生き血を吸い取ることが必要であり、すべからく、生物界の生死をかけた本能に従っているだけのことなのだが、刺される側としてはとうてい看過(かんか)できない不快感を伴う小さな闘いになるし、それには今流行りの”ジカ熱”を含めた感染症の恐れもあるのだから(もっともこんな北国にはそんな心配はないのだろうが)。

 ただいつも思うのは、この雌の蚊たちの、死さえも恐れぬ勇猛果敢な攻撃心である。
 人間を含む動物界では、子供たちを守る母親たちの必死な姿がよく知られていて、その母性愛が称賛されているけれども(昨日のNHK『ダーウィンが来た』では、自分の何倍もの大きさのカラスやトビを相手に闘うタゲリの姿が印象的だった)、しかし、蚊の雌たちは、たまり水に産み付けた卵から子供のボウフラが生まれ、成虫になって行くまでの間を育てているわけではないけれども、自分の卵を産むために、自らの死を恐れずに、巨大な生き物である人間に向かっていく姿こそ、実は形こそ違え、彼らの母性愛あふれる姿ではないのかと・・・。

 前回、前々回と、あの”万葉集”からの歌をいくつかあげてきたうえで、さらに今回もまたというのは、いささか面映(おもは)ゆい気もするが、前回あげたのと同じ第十六巻に、実は動物たちの”痛み”について、書かれたいくつかの歌があるのだ。
 例えば、”右の歌一首は、鹿のために痛みを述べて作る”という、添え書きが付けられている長歌があり、ここでは長いので引用できないのだが(第十六巻3907参照のこと)。
 その内容はといえば、しつらえられた狩場に入ってきた雄鹿が言うには、”お役に立てるのであれば、この命をお大君のために差し上げましょう。ただし私の角から爪や胆(きも)に至るまで、すべてをちゃんと使い切ってください”と。

 さらにもう一つ、”右の歌一首は、蟹(かに)のために痛みを述べて作る”という歌もあるのだ。(第十六巻3908参照)
 それはおおまかに訳すれば、”難波(なにわ)の入り江に隠れ住んでいた私が、大君に召されて、管弦の演者になるのかと思ったら、天日に干され、碾き臼(ひきうす)にひかれて、塩辛(しおから)にされたよ。”といった意味になるのだろうか。

 今から1200年以上も前の、あの飛鳥(あすか)奈良の時代に、すでにというかむしろ今以上に、食料となる動物への、生き物たちへの憐みの思いがあり、その命をありがたく感謝していただいていたということであり、それが、私たち日本人の心根だというふうに信じたいのだが・・・。
 考えて見れば、言葉を持たなかったアイヌの人々が、自分たちの伝統や儀式を不文律のしきたりとして、子孫末代に至るまでしっかりと守り通してきたこと、つまりそれは、狩猟によってクマを捕らえた時に行う”熊祭り(イヨマンテ)”の儀式や、あるいは鮭が川をのぼってくる前に行う”鮭祭り(カムイチェップ)”などの儀式などでもわかるように、神の恵みとしての獲物に感謝し、また痛みを与え命を奪うことになる彼らを、安らかな天国に送るためにと、こうした神聖な命の儀式が生み出されたのだろう。
 (今、話題の築地市場についてのテレビ番組の中で見たのだが、そこでは今も”マグロ供養(くよう)”の儀式が行われているとのことだし、他の日本各地でも、”何々供養”という形で、その昔から食べ物に感謝する風習が残され続けられているのだ。)
 
 さらに考えて、世界にその源流を探して行けば、一万年以上も前の石器時代に、あのスペインの”アルタミラの洞窟”に描かれた野牛、イノシシ、トナカイなどの姿や、オーストラリアの”アウトバック”や”アーネムランド”周辺の洞窟壁面に、アボリジニーたちが描いたといわれる、数万年前のカンガルーやゴアンナ、エミウなどの姿は、これもまた獲物たちに対する感謝の思いからだったのかもしれない。

 しかし、そうした古代人からの思いがある一方では、今や人間だけが、自然環境とは全く異なる自分たちだけの文明による生活空間を作り上げたことで、神(自然)が作り上げた食物連鎖の図式が、ゆがめられたものになってきているともいえるのではないのか。
 一般的に言えばの話だが、今の時代に生きる私たちは、家畜たる動物たちや、自然界にあるものとして当然のごとく食べている魚介類などへの感謝の思いが、昔の時代と比べて希薄になってきているのではと考えてしまう。

 宗教の世界では、キリスト教にしろ仏教にしろ、自らの身を挺(てい)して犠牲になる話は称賛されてはいるのだが、かと言って、私には自らが犠牲になるなどという殊勝な考えなどは全くないし、それどころか、蚊に刺されてほんの微量の血を吸われるくらいのことで、大騒ぎしている始末なのだから・・・。
 それなら、病院に行って献血をして、その時にいくらかの自分の血を小皿に分けてもらい、それを小鳥のエサ台よろしく、蚊のエサ台として庭に置くというのはどうだろうかと、全く、しょーもない馬鹿なことを考えては一日を過ごしているのであります。


 蚊の話から、すっかりわき道にそれて、余分なものまで書いてきたのだが、今回は、実はちゃんと私も働いているのだということを書いておきたかったのだ。はい、全く久しぶりに、林業仕事に精を出したのであります。
 9月に入ってからの長雨による、家周りや床下浸水の水も引いて、ようやく一日晴れの日があって、早速林内をくまなく調べてみたところ、何と完全な倒木や大きく傾いて切るしかないカラマツの木が、併せて何と26本(うち二本は去年の倒木をそのままにしておいたものだが)、とてもこの秋ですべてを切り分けて、その全部の丸太を運び集めるなんて、とてもできやしないだろう。

 しかし、ともかく少しずつでもと、まず完全に倒れている木を、チェーンソーで切り分けていくのだが、直径35cm、高さ20cmもある木だから、そう簡単にはいかない。
 根元から折れへしまがった木の、根元の部分を、少し短く50cm位の長さで切り分けていたところ、倒れて横になったままの左右の張力の関係で、チェーンソーのバーごと切っている丸太の間に挟まれて、動かなくなってしまった。
 もちろん、そんなことは今までに何度もあったことであり、バールをその間に差し込んでこじ開けようとしたのだが、押しても引いても動かないし、そこで、その時は故障していた古いチェーンソーを使っていたのだが、前回書いていたように、新たにネット通販で買ったもう一台の新しいチェーンソーがあるから、それで反対側から切っていって、ようやくその古いチェーンソーを抜き取ることができたのだ。
 しかし、途中で無理をして何度も引っ張ったので、チェーンのコマの一つがねじ曲がっていて、もう元には戻せないから、チェーンを新しく買い換えるほかはなく、さらには何と、プラスチック製のスロットルレバーまでもが折れてしまっていたのだ。
 このチェーンソーは、バーゲンで15年ほど前に買ったもので、つまりは17,8年前の製品ということになり、もう部品もなく、この一週間前に修理してもらったばかりではあるが、あきらめるしかなかった。

 ともかく、この新しいチェーンソーを買っておいてよかった。少し小型軽量にはなるが、最新式の十分なパワーと新しいチェーンの切れ味のよさもあって、残りの部分の枝はらいと、本体を1.8mの長さの丸太に切り分けていく作業は順調に進み、今日の仕事は、その2本の倒木の切り分けなどを、1時間ほどかけて終了したのだが(写真下)、それも久しぶりの仕事で無理をしないようにとの配慮からであり、若いころとは違うのだからと自分に言い聞かせた。
 その後で、これも久しぶりに、家の五右衛門風呂を沸かして、その温かいお湯につかったのだ。あー極楽、極楽と。
 こうして田舎暮らしのじいさんの、久しぶりの仕事の一日は終わったのであります。
 
 今日は、このブログを書かなければいけないし、そのうえ、北海道日ハムの試合はあるわ、長時間歌番組でいつAKBが歌うかわからないわ、全くヒマなじいさんの割には、あわただしい、”秋の日はツルベ落とし”の、一日ではありました。 
 ”敬老の日”、今気づいたのだが、そこで、ワオーン、ワンワンと遠吠えを一つ。


 

   


潮干(しおひ)の山

2016-09-12 23:03:36 | Weblog



 9月12日

 先日の、連続してやって来た台風で、北海道内各地は、特に南富良野町や清水町などでは、大きな水害の被害を受けたのだが、わが家でも、ほぼ床下浸水といってもいい状態で、家の周りが水浸しになっていた。
 その後、雨も上がって、おそらく2週間ぶりくらいにもなるだろうが、一日中晴れていた日もあって、ようやく家の周りの水も引き始めて、車庫の中を流れていた小川の流れもなくなり、久しぶりに外での仕事に取り掛かれると思っていたのに・・・また次の台風がやってきた。
 それは、九州上陸後に温帯低気圧になり、台風としての勢力は衰えたのだが、それなのに台風の名残として生み出す強い雨域は残っていて、一気に100ミリを超える雨が降っては、再び家の周りは水浸しになり、車庫の中の小川の流れもまた復活して、今も流れ続けている。

 ちなみに、どうして車庫の中を水が流れるのかというと、まずこの家を建てた時に、基礎も自分で作ったから、大型のミキサー車で運んでもらったその生コン量が、ちゃんと計算したつもりではいたのに多すぎて、その分をいつも車を停めていた場所に流し込んでもらって、それをコテでならして、ちゃんとした駐車スペースの駐車場にしたのだ。
 しかし、そのままでは、やはり野ざらし駐車であることには変わりなく、冬場にはクルマの上に雪が降り積もるままになってしまう。
 そこで、ちゃんとした車庫を作ろうと、家の林のカラマツの木を十数本切り倒し、皮をむいて二年ほど乾燥させて、それを掘っ立て小屋の8本の柱として立ち上げ、それらの柱をつなぐ7本の桁(けた)と4本の丸太の梁(はり)を渡し、その梁の上に、束(つか)を立てて、その上に通しの長い棟(むね)丸太を乗せて、そこを頂点にして、軒下に届く根太を打ちつけていき、その上にコンパネを貼って、さらにカラー鉄板を打ちつけて、それで屋根の形になり、残りは、周りは簡単には安い波板鉄板と塩ビ波板を貼っただけの、簡素なつくりの車庫が出来上がったというわけだ。
 その程度のものなのに、この家の敷地全体が風の当たらない、林の中にあるためでもあるのだろうが、いまだに何の破損個所もなく使うことができて、ありがたいことだ。
 ただし、あくまでも周囲をちゃんと区切って、壁を立ち上げているわけではないから、地表面との間に隙間があって、その上にちょうど裏山から流れてくる水の通り道にもなっているから、大雨の時には、こうして車庫の中を流れているというわけなのだ。

 それでも、私の家では周囲が水浸しというぐらいだからいいようなものの、周りの農家の畑の被害は、いまだにトラクターで畑に入れない状態の所もあり、出来秋の収穫が気がかりではある。
 さらに前回も書いたことだが、札幌方面と道東の十勝・釧路をつなぐ国道の峠道が、一時はいずれも土砂崩れなどで寸断されて、残りの命綱の路線は、高速道路一本というありさまだったのだが、南の日高への天馬街道と北の三国峠の道はすぐに復旧し、さらに今日になって、狩勝峠の道も開通したとのことだが、最重要の国道である、日勝(にっしょう)峠への道が、橋梁の流失などで寸断され、今年中に復旧できるのかどうかもわからない状態で、同じような深刻な被害を受けている、札幌ー帯広・釧路間の鉄道と相まって、道東への物流の混乱がいまだに続いているというありさまだ。
 さらに言えば、今までにわかっているだけでも、道路の橋の流失が、十勝、南富良野周辺だけでも40か所を超えているということであり、それはさらに、登山ルートという点から考えてみれば、日高山脈への林道や登山道については、いまだに調査の手が及ばず、登山者が少ないこともあって、何も詳しいことは分からないままで、今後被害が明るみになっていくことを思うと、空恐ろしい気がする。
 まあ私としては、今までに、日高山脈のほとんどの山には登っているからいいようなものの。

 自然の災害も人の病気も、被害を受けた形になって初めて、元の穏やかな自然の姿や、健康な体のありがたさに気がつくということだろう。
 それでも、そのことを肌身にしみて強く感じるのは、被害にあった当事者たちだけであり、その他の人たちにとっては、同情こそすれ、やはり他人事でしかなく、いつもこのブログで書いていることだが、アフリカのサバンナで、仲間の一頭がライオンに襲われてしまい、それを遠巻きにしてじっと見つめるだけのヌーの大群のようなものだ・・・自分でなくてよかった、これからは気をつけようと。

 人の世は、今も昔も変わらない。あの有名な「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。・・・」という書き出しで始まる、鴨長明の『方丈記』には、その人の世の”無常”さを教え示すかのように、都を襲った大火と辻風(台風)に飢饉(ききん)などの惨状が、事細かに書かれているのだが、こうして作者が、都を離れて田舎に隠棲(いんせい)するようになったのは、わずらわしい人間関係などの個人的な事情があったことが主たる原因でもあろうが、一方では、都での自然災害のすさまじさ見知ったことが、その一因になったことも確かであろう。
 そうした、人里離れた場所での暮らしの中から、自分なりに気がついたことどもを書き綴った随筆集が、後世に言う”隠者文学”として大きな一ジャンルを占めることにもなったのだが、それは『方丈記』の鴨長明(1155~1216)や『徒然草』の兼好法師(1283~1352)の生きた中世期という時代だからというわけではなく、その”無常観”の思いは、さらにさかのぼる古代の、”万葉集”の時代(7世紀後半~8世紀後半)にも、すでにあったことなのだ。

 前回、『万葉集』からの歌をあげたついでに、今回も、その第十六巻に収められているものの中から、読み人しらずの歌を二首。

    世の中の無常を厭(いと)う歌二首
 
 「 生き死にの 二つの海を 厭(いと)はしみ 潮干(しおひ)の山を 思いつるかも」

 「世間(よのなか)の 繁(しげ)き 仮蘆(かりいお)に 住み住みて 至らむ国の たづき知らずも」 

 この二つの歌を自分なりに訳すれば、”この世に生きていても、死んであの世に行くとしても、これからも苦しいことだらけの大海原が広がっているだけであり、それが嫌になって、そんな苦海の潮の満ち干も及ばないような、あの須弥山(しゅみせん、理想郷)の山のことを思ってしまうのだ。”
 ”わずらわしいことの多いこの世で、しょせんは仮の宿に過ぎない家に住んでいるだけだからと思ってはみても、かといって、あの世の極楽浄土へと行くことのできる、手がかりすらもないのだが。”ということになるだろうか。

 さらに思い出したのは、同じこの”万葉集”の第五巻の冒頭にある、あの有名な大伴旅人(おおとものたびと)の歌である。

 「世間(よのなか)は 空(むな)しきものと知る時し いよいよますます悲しかりける 」

 この歌は、作者(大伴旅人)が,自分の身の回りの人々を次々に失い、悲嘆にくれる様子を詠(うた)ったものであり、誰の身の上にも起きうることであり、そうしてこの第五巻には、都を遠く離れた任官の地、太宰府にあった、この大伴旅人や山上憶良(やまのうえのおくら)の、情感あふれる歌が多く取り上げられているのだが、それだけに、この歌が冒頭の歌として掲げられたのもわかるような気がする。
 さらに言えば、この歌は、近代になってからの明治時代に生きて、その夭折(ようせつ)の才能を惜しまれた歌人、あの石川啄木(1886~1912)の歌だとしても、不思議ではないと思えるほどの、時代を越えての、普遍的な悲しみの歌なのだとも言えるだろう。

 この歌の後に続いて、山上憶良の詩とそれに続く歌が載せられているのだが、この漢詩からなる挽歌(ばんか)詩もまた興味深く、その全体をあげたいところだが、ここではとりあえず、今回の”無常の世の中”を嘆く歌の流れから考えて、その最初の部分だけを抜き書きしてみる。

 「・・・、四生(ししょう)の起滅(きめつ)は、夢のみな空しきがごとく、三界(さんがい)の漂流は環(わ)の息(とど)まらぬがごとし。このゆえに、維摩大士(ゆいまだいじ)も方丈(ほうじょう)に在りて染疾(ぜんしつ)の患(うれ)いを嘆くことあり、釈迦能仁(しゃかのうにん)も双林(そうりん)に座して泥洹(ないおん)の苦しびを免れることなし、と。・・・」 

 これを大まかに訳すれば、”すべての生き物が、生まれ消えていく様子は、空しい夢のようであって、欲・色・空からなる世界の輪の中を、いつまでもぐるぐると回っているようなものだ。長者でありながらも、方丈(約四畳半)ほどの狭い部屋で在家修業をした、あの維摩大士でさえ病気を心配したし、お釈迦さまでさえ、沙羅双樹(さらそうじゅ)の下で悟りを開いても、死の苦しみから逃れることはできなかったのだ、と” 

  (以上参照:『万葉集』 伊藤博 校注 角川文庫)

 話が、やや仏教色の強いものになってきたが、私が最初に意図して書いてきたことに戻れば、つまり人は、自分の身の回りに災難が起きてはじめて、この世の”無常”を知るようになるものだということである。
 そしてそのことは、私がここでもたびたび取り上げてきた、『方丈記』や『徒然草』の作者である、鴨長明や兼好法師の世界観は、戦乱や天災が相次いだ、平安時代末期から鎌倉時代の中世という時代背景があったゆえに、生まれてきたものだとも言われているが、確かにそれもその通りではあろうが、上にあげた”万葉集”の歌からもわかるとおりに、仏教伝来(538年)間もない上代の時代にも、既に存在していた感情であって、それは、それまで誰もが持っていた、”漠然たる不安感”が仏教世界の教えという形に乗って、さらなる”無常観”の世界として確立されていったのではないのか・・・。

 さらに言えば、仏教が入ってくる前から、古代の人々でさえ、誰しも受ける災いのたびに、ある種の”無常観”を感じていたのではないのか。
 つまり、人という生き物は、自己と他者を感情をもって区別するがゆえに、集団の中においてでさえ、常なる孤独の存在であることを意識せざるを得ないし、そこでは、一人ではどうにもならないことがあると自覚しては、ある種の無力感を抱き、”無常なる世界”から離れて、自分だけの世界に逃げ込みたくなるという、誰にしもにあるような性癖(せいへき)があるのではないのか。
 それは、程度の差こそあれ、人は集団に対してあるいは対人関係として、いつもかすかな疎外感を持っていて、それだからこそ、ある時にはそこから離れて隠れ住みたくなり、またある時には、それが逆に、独力でという強い反発心を生む力にもなるのではないのか。
 ”無常観”とは、その裏に孤独の感情と強い独力の意志を併せ持つようになる、まさに”諸刃の剣(もろはのつるぎ)”であり、逆に言えばそれが、より人間らしい姿の一つの形でもあると思うのだが・・・。

 こうして、自分に言い聞かせるだけの、自分勝手な妄想をふくらませては、誰からも同意されることなく、否定されることもなく、ブログという形の中で、自分だけの世界を楽しむこと、これもまた、私の趣味の一つだと言えるものなのだろう。

 私の好きな”万葉集”の歌は、これから先、毎回このブログで取り上げていったとしても、とうてい生きている間に終えることなどできるわけはないし、さらに他にも、今まで私が登ってきた様々な山々の一つ一つについても、とても生きている間に、このブログで書ききれるものではないし、映画、文学、絵画、音楽についても、あのモーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』の中での、レポレッロが歌う「カタログの歌」のように、次から次にその思い出が浮かび上がってきて、きりがないことになるし、もっとも、これこそが年寄りのねちねちと楽しむ道楽ともいえるものだし、まあ、他人にとってはどうでもいい話なのだろうが。

 さて、今回もまた水害の話から余分なところに話が及んでしまったが、さて自宅周辺の話に戻るとして、水浸しの家の周りはともかく、8月初めに戻ってきてからも、一切庭の手入れをしていないから、芝生の庭とは思えないほどに荒れ放題だし、さらに始末の悪いことには、マメ科のクズの葉のような雑草が庭さき一面を覆いつくしては、ハマナスの灌木帯も見えなくなり、隣のオンコの木さえ覆いつくさんばかりになっているのだ。(写真上)
 そして、そのあちこちに延び絡みつくツル性の茎には、びっしりと種の入った実がついている。
 もう一年、このままにして放っておけば、庭はなくなり、人の歩けないほどの、深い草むらになってしまうことだろう。
 つまりここは、私が生きている間だけの、私が手入れするしかない庭なのだ。

 もっとも、そう考えたところでどうすることでもないのだが。
 すべて、何事も、周りの世界も、私が生きている間だけの話ということだ。

 話は変わるが、広島カープの優勝、カープ・ファンではない私でさえ、今シーズンのチームの精神的支柱となった、黒田と新井の二人の、男泣きの抱擁に、思わずもらい泣きしてしまった。
 個の力と集団の力が、うまくまとまり一つになった時の、爆発的な喜び・・・”無常観”の静かな喜びとは対極にあるもの・・・これもまた然(しか)り。

 さて、もうこれ以上の雨が降らないうちに、林内の十数本もの倒木の伐採作業をしてしまわなければ、と思っているのだが。 


水上家屋

2016-09-05 21:56:38 | Weblog



 9月5日

 先日の台風は、少し西にそれて、3度目の十勝地方直撃にはならなかったが、最初の台風の時から続いている、雨の多い天気に追い打ちをかけるように、この二三日で、平年の二か月分ほどの雨量にもなる大雨が降って、日高山脈北端部の東西に位置する、南富良野町や清水町では、今でも死者行方不明者の捜索が続いていて、多くの倒壊浸水被害家屋が出たことはもとより、収穫期を迎えようとしていた田畑の被害を合わせると、まさに激甚(げきじん)被害と言うにふさわしい状態になっていた。

 テレビに映し出された、あの帯広市と音更町にかかる、十勝大橋から見た十勝川の様子には、ただただ驚くほかはなかった。
 十勝川は、この十勝平野の母なる川であって、大雪山に十勝岳連峰、そして日高山脈からの水を集めて、その流域面積は、北海道では石狩川に次ぐ2位の大きさを誇り、全国で見ても第6位になるという大河である。
 中流域にあたる帯広市付近でも、川幅全体では500mほどもあって、日ごろは、河畔林を持った広い河原の中に、100mほどの澄んだ川の流れがあるくらいなのだが、その時に見たのは、両岸の堤防幅まで、いっぱいいっぱいになって流れている、褐色の濁流だった。
 そして、当時下流域では、すでに危険水位を超えていたとのことだったが・・・。

 北海道でも、この十勝地方では、確かにたびたび大きな地震が起きてはいるし、冬は極端に寒くなるけれども、その他には、台風に襲われることもなく(台風が来るときにはいつも弱まっていて)、さらには大規模な河川の氾濫や土砂崩れなどとは縁遠い所だと思っていたのだが、今回、これほどまでに内地と同じように、台風がたて続けにやって来て、大きな水害に見舞われるとは、北海道に住む誰もが思ってもいなかったことだろう。

 わが家でも、被害が出た。
 前回の台風でも、カラマツ10本ほどが倒れてしまったのだが、今回の台風でそれほどの風ではなかったのにもかかわらず、またカラマツ数本が折れたり根こそぎ倒れたりしてしまった。(写真上)
 さらにひどいのは、あふれる水の量であり、前回これで井戸水の心配がなくなったと思っていたのに、それどころか、今度はその大雨の影響で、家の周りは水につかってしまい、今でも床下土間には水が10cmほどたまったままだし、車庫の中には裏の植林地などからの水が流れ込み、五日もたった今でも、まだ小川となって流れているのだ。
 まるで、敷地ごと全部が、”水上家屋”状態なのだ。
 草苅りもせずに、ただでさえ草が伸び放題の庭は、まるで山の湿原地帯のようなもので、長靴でしか歩くことができずに、ピチャピチャと音がする。

 もともと、まだ外は暑くて、そのうえアブや蚊が待ち構えているから、たいした仕事はしていなかったのだが、こうして家自体が水につかったままだから、家の中での、日々のぐうたらぶりになおさら拍車がかかり、食う寝るの繰り返しで、いつしかだらしないメタボ体になり果てて、さあお立ち会い、”親の因果が子に報い~” 、草葉の陰のおっかさん、”こんな子供に育てたつもりはない”と、ヨヨと泣き崩れ、傍でミャオが一声、ニャーオ。
 と、ここで目が覚めて、今日二度目の昼寝からむっくりと体を起こして、パソコンに向かい、調べては、通販サイトへのメール一本。

 何をさておいても、林の中で何本も倒れ傾いている木を、いつまでも放置しておくわけにはいかないと、新たにチェーンソーを買うことにしたのだ。
 この家を作る時に買ったスチールのチェーンソーは、20年あまり使って、もう交換部品が高すぎて、廃棄処分にするしかなくなり、次に買って今まで使っていた同じスチールのものは、最近エンジンがかからなくなり、自分であちこち清掃、プラグ交換などしたのだが、それでもダメで、後はキャブレターの分解かダイヤフラムの交換かということで、近々代理店に修理に出そうとしていたのだが、何日かかるかわからないし、どのみち別に予備として、もう一台欲しいと思っていたので、ネット通販サイトを見て注文した次第なのだ。

 今十勝地方は、札幌道央圏との交通網がずたずたに寸断されていて、まず鉄道は、途中の橋梁が数か所で流失損壊していて、復旧に1か月以上かかるとのことだし、四方を取り巻く国道の峠道が、あちこちのガケ崩れで通行止めになっていて、唯一残された道である高速道路だけが、命綱の交通網となって無料開放されているとのこと。
 そのために、宅配便業界も混乱しているのだろう、二日遅れて届いたのだが、それなのに、まだ続く小雨が止まないし、木の伐採作業には取り掛かれない状態なのだ。

 それでも、新しいチェーンソーが届いたときはうれしかった。
 誰でも、少し高価な買いものをした時には、気分が高揚するものだ。
 もっとも、高い品物という基準は人によって違うのだろうが、一か月一けたのお金で暮らしている私には、少なくとも、その何分の一かにあたる品物は、高価なものということになるのだ。
 しかし、小型軽量のモデルではあるが、やはり新しいだけあって外観のデザインが格好良くなっているし、バーにソーチェーンを取り付けて、しげしげとあちこちから眺めると・・・いいなあと思う。
 そこで思い出したのは、古い昔の歌であるが。

    内大臣藤原卿(きょう)、采女(うねめ)安見児(やすみこ)娶(めと)る時に作る歌一首。

 「我れはもや 安見児得たり 皆人(みなびと)の 得かてにすという 安見児得たり」 

 (『万葉集』 巻二 九五、伊藤博校注 角川文庫)

 歴史上でも有名な、あの奈良時代の大化の改新(645年)の時に、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、後の天智天皇)とともに力を合わせて、当時の権力者、蘇我入鹿(そがのいるか)を討ち取った、中臣(後に藤原)鎌足(なかとみのかまたり)が詠(よ)んだ歌である。
 これは、当時、宮廷では評判の美女であった、鏡王女に使えていたとされる女官”安見児”を、妻にめとることができた、藤原鎌足、絶頂の時の思いを歌に詠んだものであり、”私は、なんとあの安見児を自分のものにすることができたのだ。誰もができないと言っていた、あの安見児を自分のものにすることができたのだ。”というような意味になるだろうか。

 この歌は万葉集の中でも、異質な感じがするくらいの単純な歌に見えてしまうが、もしこれがあの”花鳥風月”の雅(みやび)を詠(うた)った歌が多い、”新古今集”の時代などに詠まれた歌であったら、おそらく一顧(いっこ)だにされることもなくそのまま消え去っていたことだろう。
 しかし、この歌が面白いのは、この”万葉集”だからこその歌であり、ましてそれぞれの歌の背後に、歴史上の事実が生身のままの言葉として、見え隠れしている所にある。

 つまり、当代きっての美人を手に入れることができたという、極めて生々しい個人的な喜び高ぶりの気持ちは、もちろん天皇皇女付きの女官を欲しいと願い出て、その思いが簡単に受け入れられるようになった、自分の今の地位を誇りに思う気持ちからでもあったのだろうが。
 さらには、”万葉集”という存在そのものに大きな意味があり、それは今から1200年も前の奈良時代に成立したといわれていて、そこには、天皇から地方農民に至るまでのあらゆる階層の人々の詠んだ、4500首もの歌が収められていて、今の目から見れば、そんな昔から変わらずにと思わせられるほどに、生々しい情愛の思いにあふれた歌があり、そんな昔にこれほどの歌集が編纂されたという驚き、さらにそれが、今日に至るまで消失することもなく、現存し続けてきたという奇跡・・・世界遺産がもてはやされている今日だが、私は日本を代表する世界遺産は、この”万葉集”一つだけでも事足りるとさえ思っているほどだ。

 それにしても、当時、日本各地で詠まれ伝えられてきたあまたの歌の中から、取捨選択をして、主たる編者として(他にも名のある編者がいたとされているが)、ともかくもこの”万葉集”を編纂(へんさん)したといわれている大伴家持(おおとものやかもち、718~885)の、その百科全書的なバランス感覚の見事さを、まずあげるべきなのかもしれない。
 もちろん、それを背後で支え、その独立性を保証していたであろう、当時の歴代の天皇(持統天皇、文武天皇など)の理解ある力を考えないわけにはいかないが。

 ふと思うのだが、今の時代では、短歌、現代詩、俳句などの分野や、あるいは民謡や演歌なども含めた歌詞の分野を併せても、余りにもそれぞれに、専門家愛好家だけに通じる細分化されたものとなっていて、一冊の現代歌集としてなど、とてもまとめ上げることはできないだろうと。
 さらに、今の時代に多くの人々の人口に膾炙(かいしゃ)している、誰もが作れて歌えるものとしては、Jポップスと呼ばれる今のはやり歌のジャンルがあり、それは主に若いシンガー・ソング・ライター(自作自演)などの歌手たちによる歌であり、そしてその中には、今私がよく聞いているAKBなどのアイドル・ソングも含まれるのだろうが、それらのすべての歌をどのように取捨選択しても、その歌詞は、表面的な愛の言葉の羅列(られつ)しただけのものが多くて、とても後世に残る”万葉集”のような、一冊の歌集とはなりえないだろう。

 時代の移り変わりということを考えれば、明治の時代の、あの正岡子規(まさおかしき、1867~1902)が、当時の沈滞化した日本短歌界を批判して、”万葉の時代に戻れ”と言った気持ちも、わかるような気がする。
 確かに、今あるものを厳しい目で見るという写実描写こそが、今という時代を表現できるものだろうから。

 その趣旨は違うけれども、上の”安見児”の歌を、今風な時代として言えば、”ウィッシュ”で有名な、竹下元首相を祖父にもつ、あのロック歌手の”ダイゴ”が、日本一の美女の誉れ高き北川景子との結婚発表をした時に、もし、あの万葉集の藤原鎌足が今に生きていたらとして、発表していれば面白かったのにと、ひとり妄想を働かせてみるのだが。

 ”ウィッシュ、オレ景子ちゃんをゲットしちゃったぜ。みんながムリと言ってた、あの景子ちゃんをゲットしちゃったぜ” 

 もちろん、ダイゴ、北川景子の素晴らしいカップルであるお二人を、心から祝福するばかりであり、他意はありません。

 まあこのところ、昼間に薄日が差して、つかの間の青空が見えることはあっても、一日続いた晴れの日はなく、ほとんどが雨や霧雨暑い曇り空の日ばかりで、それで、もう2週間もうっとうしい日が続いている。
 そして、明日もまた雨の予報なのだが・・・。

 今日、ネットで見て笑ったMSNの動画サイトにあった一場面、「もぐらたたきで深く葛藤する猫」。