ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(62)

2008-11-29 18:00:43 | Weblog
11月29日 
 今日は、まるでネコの目のように、目まぐるしく天気が変わった。晴れていたかと思うと、すぐに雲が広がり、雨が降り出すといったことを繰り返した。気温は、朝1度、日中でも8度くらいまでしか上がらない。
 こんな日は、外に出たくはない。昼に一度、トイレに出ただけで、後はストーヴとコタツのある部屋で、ぬくぬくと寝て過ごす、アーヨイヨイと(写真)。
 ところで、飼い主の方は、このところ忙しかったみたいで、外にいることが多かったが、今日は一日家にいて、なにやら新しいパソコンに向かって、盛んに手先を動かしている。
 ワタシにとっては、何はともあれ、飼い主が家にいてくれることが、一番ありがたい。一週間前までの、あのつらい半ノラの生活を思えば、暖かい部屋で、ちゃんとかしづいてくれる召使もいるわけで、その無愛想な鬼瓦顔を厭わなければ、心から安心できるのだ。
 
 「ミャオがもうすっかり、この家のネコに戻ってくれた。一緒に散歩に行って、私ひとりだけ先に帰ってきても、一時間位はかかるものの、やがてニャーと鳴いて帰ってくる。
 当たり前といえば当たり前のことだろうが、それが夏に帰った時などは、ミャオは私と散歩に出た後、そのまま自分の棲み家である、ポンプ小屋へと戻っていたのだ(6月8日の項)。
 あの哀しく、情けない日々のことを思えば、私の傍にいて寝てばかりいるミャオに、文句は言えない。むしろ手間もかからず、ほんとにいいネコちゃんだと思う。私が家を空けて出かける時も、帰ってくるまで、おとなしくひとりコタツの中にいてくれる、トイレさえもがまんしてだ。(家の中にトレ場はないし、外でしかしないからだ。)
 さて私は、この一週間、いろいろと忙しかった。長い間空けていた家の中の片づけはもとより、庭に降り積もっていた落ち葉を掃き集めて、伸びた木々の枝や生垣の剪定をしたりして、さらに外に出かけなければならない用件もたまっていて、一日がかりで遠く町まで行ったり、歯医者に通ったりと。
 その上になんと、使っていたノート・パソコンが壊れてしまったのだ。まだ4年余りしかたっていないのに、ハードディスクが完全に動かなくなったのだ。写真等のデータのバックアップは、別にとってあったから良かったものの、こんなに簡単に、早く寿命がくるとは思わなかった。
 雑誌等でいろいろと調べて、ノートに近い一体型のデスクトップを買うことにした。写真整理がメインであり、あとは検索とこのブログだけだからと考えてのことだったが、結果は大正解だった。
 画面がはるかに大きくなり(20インチ)、なんと自分の下手な写真がきれいに見えることか。OSはビスタに変わり、メモリーもハードディスク容量も十分で、キーボードのタッチも素晴らしい。
 いろいろとソフトのデータを入れるのに手間取ったが、今はそれも終わり、快適にパソコン作業をすることができる。新しいものは、やはりいいものだ。「長生きはするものだ、なあミャオ、アーゴホゴホ」と傍にいるミャオに言ってみる。ミャオはジロリと私を見ただけで、また眼を閉じて寝た。
 音楽が静かに流れている。ベートーヴェンのピアノ三重奏曲、変ロ長調、作品11「街の歌」・・・。まだ二十代の若きベートーヴェンの、有名なピアノ・トリオの一曲であり、本来はヴァイオリンの代わりに、クラリネットで演奏されることが多い。
 確かに、まだハイドンやモーツァルト等の宮廷音楽の香りが残っているが、しかし所々には、後年のあのベートーヴェンの情感のほとばしりが感じられる。
 演奏は、ボーザール・トリオ。実を言うと、それまで、私はこのアメリカのトリオの演奏を、あまり真剣には聞いていなかった。
 ピアノ・トリオには、他にチェコのスーク・トリオ等がいて、有名な同じベートーヴェンの「大公トリオ」を含む全集曲は、彼らのレコードで聴いていた。
 一週間前に、こちらに戻ってくる時に、ついでにとCDを買いに行ったのだが、そのスーク・トリオのものを買うつもりが、5枚組ではるかに安い(3,290円)ボーザール・トリオのほうに手が伸びたのだ。
 哀しい貧乏性とでもいうべきか。しかし、今回は、それが幸いした。なかなかに良い演奏だったのだ。
 ピアノ・トリオには、もともとはソリストである三人が集まって、その曲のためだけに演奏し、レコーディングすることが多いのだが、その場合、名手ぞろいの彼らが、場面に応じて個性を主張し合い、協調し合うということで、曲調がより豊かなものになり、名演奏が生まれることになる。
 しかしこの、ボーザール・トリオは本来、トリオ(ピアノ三重奏団)として結成されたものだけに、個性を主張し合う緊迫感あふれる演奏というよりは、むしろそのいつもの3人の、アンサンブルで協調し合う演奏を、その楽しさを味わうものなのだ。
 それが、この曲調にマッチしていたのだ。まだ3枚目を聞き終わったところだが、あの有名な「大公」の演奏も、なかなか良かった。好き嫌いのはっきりしていた若い頃には、聞こうとも思はなかったボーザール・トリオだが、今にしてその良さを知ったと言えるだろう。
 そういえば、大分前に2007年度ベスト・テン(1月22日の項)として書いたクラウディオ・アラウのCDの場合もそうだった。つまり年を取れば、それだけにいろいろと今まで見えなかったもの、見ようとしなかったものが見えてくるということなのだな、ミャオ。」

ワタシはネコである(61)

2008-11-24 17:54:01 | Weblog
11月24日
 今日は、雨が降ったりやんだりの、うっとうしい一日だったが、ワタシは、日がな一日を、ストーヴの傍で寝て過ごした。気温は12度と、それほど寒くはなかったのだが、今ではもうすっかり、このぬくぬくとした生活に慣れてしまった。
 とはいえ、二日前のこと(つまり、前回21日の記事の後)、ワタシは夜、テレビを見て馬鹿笑いをしている飼い主を見て、ふと気がついたのだ。ここは、ワタシがいるべき所ではないと・・・。
 そこで、飼い主を促してドアを開けさせ、外に出た。ぶるっとくる寒さだが、これこそ、飼い主が帰ってくる前に、ワタシが半ノラとして暮らしていた時の、あの緊迫した空気だ。あそこへ戻ろう。
 ワタシは、夜の闇の中、時間をかけて注意しながら歩いて、それまで慣れ親しんだあのポンプ小屋へと戻って行った。そして、いくらか暖かい配管バルブの傍で、体を縮めて座り込み、夜が明けるのを待った。
 反対側の、より暖かいモーターの傍には、あのノラネコ仲間の白黒のパンダネコと、最近仲間に加わった子猫のチビスケがいたが、ワタシは彼らの傍で一緒にいるのはイヤだった。少し寒くても、ひとりでいるほうが良い。
 日が昇るまで待てば、体も少しは暖かくなるし、おじさんがポンプの点検を兼ねて、エサを持って来てくれる。そして、体の大きい、パンダネコやあのキジネコのマイケルににらまれて、エサを食べることのできなくなるワタシを見かねて、おじさんがちゃんとワタシだけで食べれるようにと、傍で見守ってくれるのだ。
 朝になったが、それにしても寒い。ワタシは、飼い主が帰ってきたばかりの、あの家のことを思い出していた。そこへ、ミャーオ、ミャーオと誰かが鳴いている。
 そうか、飼い主が迎えに来たのだ。ワタシはたまらず鳴いて、 小屋の金網の下から出て、飼い主のそばへと走り寄る。飼い主は、分かっているのだ、まだ自分が帰って来てから日が浅いので、ワタシが元の古巣へ戻るだろうことを。
 そこから家までの間、ワタシは時々立ち止まりはしたものの、前回のように、ポンプ小屋へ引き返そうという気もおきずに、飼い主に抱きかかえられることもなく、一緒に歩いて家に戻った。
 写真は、途中の、今は人がいない他人の家の庭を通り抜けて戻る時に、飼い主がワタシを撮ったものだ。まわりのモミジの木からの落ち葉が、あたりに散り敷いていた。
 飼い主が言うには、まるで一幅の日本画の掛け軸みたいだったと…たとえて言うならば、あの江戸時代の尾形光琳の流れをくむ、菱田春草や、あるいは小林古径ふうな絵の光景だったと。
 飼い主はさらに言う・・・近世の日本画の流れは、なかなか興味深いものがある。徳川・江戸期の文化の華として海外にまで知られ、一時代を築いた浮世絵や、それまでの大和絵からの伝統を受け継ぐ日本画の手法が、明治期になって、海外から流れ込んできた西洋画の手法と、並立し、融合されていく、その時代ならではの、それぞれの画家たちの、あの個性のきらめきが素晴らしい。
 春草や古径の猫を描いた絵には、今の私たちから見れば、まだ時代の名残が見えるし、意匠的な硬い感じがする。しかし、それこそが、一つの光景を、平面的な狭い空間として、装飾的にとらえた日本画の意図するものであり、まさに我々日本人の美意識だといえるものなのかもしれない、と・・・。
 つまり、ワタシが落ち葉の庭の、飛び石に座っていた姿が、飼い主の例のじいさん趣味にぴったり合ったというわけだ。やれやれ・・・まあ、お互いに年も取ったことだし、これからの長い冬を、元気に暮して行くことにしましょう。
  

ワタシはネコである(60)

2008-11-21 19:05:32 | Weblog
11月21日
 飼い主の話、「二日前の夕方遅くなってから、家に着いた。もちろんミャオがいるはずもない。外では雪がちらついていて、暗い誰もいない家の中は、それ以上の冷え込みだった。
 ひと片付けした後、懐中電灯で道を照らしながら、400mほど離れた所にある地区のポンプ小屋に行く。何度も、ミャオの名前を呼んでみるが、物音一つしない。
 あきらめて家に帰る。仕方がない、エサをあげてくれているおじさんの家に行って、ネコのことを聞くには、こんな夜になってからでは気がひける。
 しかし、いろいろと考えてしまう。何といっても、年寄りの猫だ、死んでいたらどうしよう。すべては私が悪い。ちゃんと傍にいてやれば、もっと長生きさせてやれただろうに。ネコが死んだからと言って、この後すぐに北海道へ戻るというわけにもいかない、などと・・・。ともかく明日また探しに行くしかない。

 翌日、夜が明けて、7時過ぎに、ポンプ小屋まで行ってみた。二声三声、私が鳴いたところで、すぐに鳴き声が聞こえ、小屋の金網の下をくぐって、鳴きながらミャオが出てきた。
 良かった、良かった、元気でいてくれて。それでも、少し警戒しながら、傍に寄ってきたミャオの体をなでる。十分にエサをもらっていたのだろう、太っているというよりは、少しがっちりとした体つきになっていた。
 しかし、毛並みは荒れていて、何よりも全体にくすんだ汚れた色になっていた。もともと雑種のシャム猫の、不自然な色合いとはいえ、部分的には焦げ茶と明るいクリーム色の対比がきれいだったのに、今は見る影もないのだ。
 それから、お互いに鳴き交わしながら、家に帰ろうとするのだが、長い間の住み家であるポンプ小屋の方を振り返り、なかなかまっすぐに帰ろうとはしない。そこで何度も抱きかかえて、家の近くまで運んだのだ。
 家に戻って、すぐにエサとミルクをやった。エサは食べないで、ミルクは皿を抱えるようにして(まさか)、ともかくよく飲んだ。
 それからはずっと、ストーヴの前にいた。夕方に、いつものコアジを一匹やり、後は、夜の間ずっとコタツの中に入って寝ていた。
 今日も、ずっとストーヴの前にいたが、午前中、一緒に散歩に出かけて、途中で私が一人で先に戻ってくると、しばらくして、ちゃんと家に帰ってきた。何というこの家への順応ぶりだろう、と嬉しくなった。
 前に私が帰ってきた時は、なかなかこの家に順応せずに、すぐにポンプ小屋に帰って行ったのに(6月4日、7日、8日、そして8月23日の項)、何という変わりようだろう。というよりは、おそらくそれほどまでにポンプ小屋が寒かったのだ。つまり、暖かいストーヴのあるこの家が、一番ということなのだ。」

 
 昨日の朝は、雪がうっすらと積もり、-4度。ここは山の中とはいえ、とても九州とは思えない冷え込み方だった。
 ワタシは、ポンプ小屋の温かいモーターや配管の傍で横になっていたけれど、隙間風だけでなく、コンクリートの床からも冷気が這いあがってくる。
 全くイヤになる。ネコはすべて、寒がりなのだ。というのも、その昔、ヤマネコにすぎなかった祖先のネコ族たちが、人間のペットになることに決め、そこで長い時間をかけて、自分の体を人間たちとともに家の中で暮らすように作り替えていったわけだから、いまさら、人間社会に頼らずに、全くの自然の中で、野性の山猫のように暮らすことなどできないのだ。
 それは、ノラネコでも同じことで、できることなら暖かい人間様の家の中で、ぬくぬくと暮らしたいのだ。まして、大半のネコ生を人に飼われて生きてきたワタシにとって、この寒くなる時期に、人間の住む家で暮らすことができないのは、その人肌が恋しいとかいう生半可なものではなく、ただただ寒くてイヤになるのだ。
 ノラネコの寿命が、飼い猫の半分もないという事実は、常に空きっ腹を抱えたエサ不足の問題もあるだろうが、何といってもこの寒さからくるのだと思う。
 ゴホゴホとせき込んで寝ていても、「おとうさん、お粥(かゆ)ができたわよ」と言って声をかけてくれる親孝行な娘ネコがいるわけでもない。年を取り、半ノラのつらい状態でいることが、どれほど年寄りネコにこたえることか、全く、あのバカたれ飼い主は、何をしているんだろう。
 そんな思いで、体を丸くして縮まっていたところ、懐かしい飼い主の呼び声、ワタシも思わず鳴き声を上げる。
 なんて長い間、ワタシをほおっておいたのだと、後ろを向いたりしてすねてみる(写真)。長い間暮らしたポンプ小屋も気になる。それでも飼い主は、私を抱えて走り出す。中高年オヤジの50mダッシュには、いつもワタシがハラハラさせられる。
 家に戻って来て、暖かいストーヴの前にいると、もうあの寒いポンプ小屋に戻りたいとは思わなくなる。エサ、暖かい家、飼い主…これですっかり前のような毎日が送れるのだ。
 ワタシは安心して、ひたすら眠る、眠る・・・飼い主があきれるほどに寝ている。今までの睡眠不足の日々を取り戻すように・・・。

飼い主よりミャオへ(47)

2008-11-18 17:25:34 | Weblog
11月18日
 拝啓 ミャオ様
 
 二日ほど、小雨の降りしきる日が続いた後、今日はやっと晴れてくれた。日高山脈の山々にも、さらに新雪が降り積もっているのが見える。午後からは、その山並みの上に、雪雲が並び始めた。
 明日から、一気に寒くなり、日本海側の札幌、旭川では雪の日が続くことになり、一方、太平洋側の帯広や釧路では、晴れた日が続くことになる。これからが、冬型人間の私には、心楽しい季節になるのに、ミャオの待つ九州へ帰らなければならない。
 ミャオも、今では、すっかりおばあさんネコになった。九州とはいえ、山の中だから、50cmもの雪が積もることもあるし、-10度まで下がることもある。そんな所に、ミャオをノラネコ状態で、おいておく訳にはいかない。
 冬の間、ミャオはストーヴの傍か、コタツの中で日がな一日を過ごし、晴れて暖かい日には、ベランダに出ていっちょうらの毛皮を干す。その姿を見るのは、飼い主である私も、心安らぐことなのだ。
 だから、九州に戻ることがイヤなのではない。ただ、大好きな北海道から離れることが辛いのだ。できることなら、ミャオを北海道につれてくればいいのだが、ノラネコ上がりで、神経質なオマエが、まして年寄りネコであるオマエが、環境の激変に耐えられるわけがない。命を縮めるようなものだ。
 そこで夏の間は、ミャオに辛抱してもらって、近くのおじさんからエサをもらえるように頼んでおいて、私が行き来をしているわけだけど、果たして、こんな生活が、何年続くだろうか。
 しかし、もしミャオがいなくなって、私は喜んで北海道に住み続けるようになるのだろうか。少なくとも、私は今でも、ミャオが邪魔だとは思っていない。それどころか、ミャオと一緒に暮らすことは、私にとっても楽しみでもあるのだ。つまり、私はミャオに会うために九州に帰るのだ。

 とはいっても、この北海道はいい所なのだ。ましてこの十勝は・・・春の山菜採りの頃(5月14日、25日の項)、残雪の日高山脈(6月1日の項)、ハマナスの花(7月6日の項)、夏の大雪山(8月8日、10日の項)、秋の大雪山(9月24日の項)、ジャム作り(10月9日の項)、雪の大雪山(10月24日の項)そして前回の剣山のヒグマ(11月14日の項、クマについては色々の体験があり、また後日書きたいと思う)など、いろいろと思い出してしまう。
 日高山脈の、落日風景(写真)を胸にいだいて、しばらくの別れだ・・・。
 

飼い主よりミャオへ(46)

2008-11-14 22:05:38 | Weblog
11月14日
 拝啓 ミャオ様

 今朝も晴れている。山側には雲が出てきたけれども、上空には青空が広がっている。これで、何と七日間も快晴の日が続いている。そのうちの前の二日間は、強風の吹き荒れた、いわゆる上州の空っ風ふうな晴れた日だったが、その後の昨日までの四日間は、掛け値なしの雲ひとつない、風も弱く穏やかな快晴の空だった。
 日高山脈の山々も、毎日、青空の下に見えていた。真冬の晴れの日が続く時でさえ、こんなふうに、快晴で山もはっきり見えている日が、四日も続くことはない。その意味では、記録に残るこの一週間の天気だったのだ。
 冬に備えるための、庭や林での作業も一段落して、その快晴の日の一日を選んで、二日前のことだが、山に登ってきた。

 前回書いたように、日高山脈の主稜線にある、1700m以上の山々は、上部がすっかり白くなっている。恐らく稜線では、深い所では50cm位の雪になっているだろう。
 その位ならば、何とか一人でもラッセルできるから、登れないこともないのだが、あいにく色々とついでの雑用があり、一日を山に費やすわけにはいかない。
 そこで登ろうと思ったのが、剣山(1205m)である。日高山脈の前衛の山として、手軽に登れて、十勝側では良く知られた人気の高い山である。
 剣山という名前は、アイヌ名の多い日高山脈の山の中では、珍しく日本名である。北海道開拓の時代に、全国から人々が集まり、その開拓者たちの中には、四国から来た人たちもいて、あの四国の名山、剣山(1955m)にちなんで名づけられたと言われている。
 しかし、その山容は、日高山脈の山としては他に余りない、岩峰群からなっており、四国の剣山の穏やかな姿とは異なっていて、むしろ剣という名前は、その岩峰の姿から名づけられたのだろう。
 ちなみに、和人がこの北海道に入ってくる前から、元々住んでいたアイヌの人々は、この山を、エンチェンヌプリ(とがって突き出ている山)と名づけていたのだが、私は、その呼び名こそがふさわしいと思っている。
 そして、歴史の浅い北海道の山では、日本古来の山体を祀る神社は数少ないのだが、ここには、あの徳島の剣神社から分祀された剣山神社があって、そのことからも、昔から地域の人たちによく登られていて、かかわりの深い山であることが分かる。

 家からクルマで1時間ほどで、剣山神社の駐車場に着く。他に誰も居ない、登山口にある入山者名簿を見ると、何と昨日は7,8人もの登山者があったのだ。良かった、良い日を選んで、今日は昨日以上に空気も澄んでいて、一人だけの静かな山歩きができるだろう。
 ミズナラの林の、なだらかな尾根道を行く。朝は-6度と冷え込んでいて、霜柱が高く地面を盛り上げている。その先の方では、まだらになった雪も、少し残っている。道端の所々には、浮き彫りにされた不動明王や千手観音などの、様々な仏像が安置されている。
 やがて急な斜面のジグザグ登りになり、一時間ほどで、一の森(これも四国の剣山からの名前らしい)のコブに着く。少し離れた岩の上からは、広い十勝平野を見晴らすことができる。その彼方には、白い雪に覆われた十勝岳連峰、トムラウシから大雪の山々、さらに石狩からニペソツ、ウペペサンケ、遠く阿寒の山も見えている。
 一休みした後、次の登りにかかり、二の森の手前にある大岩に寄り道をすると、そこからはさらに 広大な展望が広がっている。戻って、再び登山道をたどる。左手に続く岩稜を避けて、山腹を斜めに行き、回り込んで、再び稜線の三の森のコル(鞍部)へと登って行く。見上げた道の先、稜線下のダケカンバの木の傍に、何か黒いものが見える。
 立ち止まって、その30mほど先を見つめると・・・黒い丸い形に二つの丸い耳が見える。クマだ!・・・(今、この記事を書いていても、そのときの興奮がよみがえってきて、ドキドキしてくるほどだ。)
 
 落ち着くことだ、と自分に言い聞かせる。相手も私の様子を伺っていて、すぐにこちらに向かって下りてくるふうではない。私は、持っていたストックで地面の岩を叩き、音を立て、さらに手を広げた。
 次の瞬間、クマはゆっくりと、後を振り向き、稜線の方へ戻って行き、姿が見えなくなった。
 私は、ザックを下ろし、鈴を探したが、持ってきていなかったのだ。始めからザックに付けておくべきだった、うかつだったと言うより、まさか、多くの人が登るこの剣山で、それも雪の降り始めたこの時期に、さらにクマのエサになるものもない、こんな岩稜の続く尾根道で、出会うなんて、考えてもいなかったのだ。
 二十数年来、日高の山に、一人で登り続けている私だが、その頃大雪の五色ヶ原で、今回と同じような距離でクマに出会ったことがあり、以来もしもの時のために、いつも鈴を付け、ナタさえ用意して持って行くのが習慣だったのに・・・。長い間、クマに出会わないでいたので、すっかり警戒心が緩み、鳴り物の音を立てて、歩いて行くのが無駄に思えてきていたのだ。
 考えてみれば、あの五色ヶ原以来、長い間、私がクマに出会わなかったのは、偶然なんかではなく、鈴などをつけて歩いていたからで、クマはその音を聞いて逃げてくれていたのだ。
 私は、一人でとても先に進む気にはならなかった。しかし、後30分足らずで着くはずの頂上をあきらめて、その展望も見ないで下るのは、余りにも残念だった。そこで少し道を戻り、左手にそそり立つ三の森の岩峰に登ることにした。踏み跡らしき所から、岩の下に行き、クラック(割れ目)を使ってよじ登ると、鎖のつけられた恐竜の背のような岩稜に上がる。
 そこを慎重にたどって、三の森の岩峰に着く。展望が開けて、ピパイロ岳から1967峰へと白い稜線が続き、右手に芽室岳も見えている。眼下の、先ほどのコル辺りに目を凝らすが、クマの姿は見えない。
 私よりは小さい、1m50cmほどの若いクマだったとはいえ、もしもっと近くで出会っていればと考えると、恐ろしい。内地のツキノワグマと比べれば、この北海道に住むヒグマは、体もはるかに大きく、体長は2mを越え、体重も300kgをゆうに越えるまでになるのだ。(一ヶ月ほど前の、10月23日、別海町で捕獲されたクマは、推定15歳以上のオスで、体長2.1m、体重400kg・・・南知床ヒグマ情報センターのブログ写真もある。)
 偶然に出会えば、クマは自分を守ろうと人間に襲いかかる。今でも、春の山菜採りの時期に、悲惨なニュースが伝えられることもある。開拓時代の昔には、天塩の方で、集落ごとクマに襲われ、何と6人もの人が殺された事件が起きている。
 登山では、38年前に、この日高山脈のカムイエクウチカウシ山で、福岡大学の3人が襲われて殺されたが、その有名な事件以来、大きな事故は起きていない。とはいえ、私たちはクマの領域である山に入る時には、どんな時でも、それなりの覚悟と準備をしておく必要があるのだ。
 三の森の岩峰を下りて、登山道に戻ったところで、下から鈴を鳴らして登ってくる登山者がいた。年配のおじさんだ。クマのことを話すと、もう逃げたのなら、注意して行けば大丈夫だと言う。
 私としても、同行者がいれば心強いし、やはり頂上までは行きたい。私が先になって、登って行く。おじさんは鈴を振って鳴らし、さらに笛を何度も吹いてくれた。これなら、クマも嫌がって、逃げて行くだろう。
 30分ほどの上り下りの後、最後のハシゴ場を登って、大岩の頂上に着く。十年ぶりで、4度目の山頂だった。
 快晴の空の下、日高山脈の大展望が広がる。十勝幌尻岳から札内、エサオマン、カムイ、伏見、ピパイロ、1967峰、ルベシベ、チロロ、芽室岳と続く、なじみの山々が美しい。そして十勝幌尻の向こうには、十重二十重になった山脈の支稜の山襞の果てに、遠く楽古岳までも見えている(写真)。
 二人で快晴の天気を喜び合いながら、おじさんに話を聞くと、何と一週間に一度はこの山に登りに来ているとのこと、まさにこの山のことを知り尽くした、スペシャリストだったのだ。
 どうりで、先ほど出会ってクマの話をした時も、余り動じることもなく落ち着いていたわけだ。さらに、とても70代とは思えない、顔つき体つき・・・私もあんなふうに年をとりたいものだ。
 帰りは、それぞれ間をおいて先に後に下り、登りはクマ騒動で3時間もかかったが、1時間半ほどで登山口に着く。神社で手を合わせ、おじさんに礼を言って、山を後にした。
 何という、結局は、幸運に恵まれた半日だったことだろう。何と学ぶべきことの多い日だったことだろう。この年になっても、まだまだ理解が足りず、反省すべきことも多いのだ。右手を台に乗せ、頭を下げて、反省。サルか、おまえは、と自分でつっこむ。
                     飼い主より 敬具

飼い主よりミャオへ(45)

2008-11-11 21:51:37 | Weblog
11月11日
 拝啓 ミャオ様
 
 昨日の朝は-4度、今日は-6度と冷え込む。日中も7度くらいで、さすがに寒くなってきた。
 しかし、晴れた日が続いていて、毎日、目の前には雪をつけた日高山脈の山々が見えている。それでもいつもの年と比べれば、まだ雪が少ない気がする。本来ならば、もう白い雪稜の帯となって、北から南へと延々とつながっている様を見ることができるのだが、まだその白い帯が途切れている。
 それでも、青い空の下、先日の強風で散ってしまったが、まだいくらか残っているカラマツの黄葉と、白い日高山脈の山々との光景は、やはり素晴らしい。
 思い起こせば、まだ私が、東京で働いていた頃のことだ。私は、いつもの短い夏休みを、人が少なくなる、秋に入ってから取っていた。行く先はいつも、この北海道だった。そして、列車の車窓から、あるいは、バイクの上から、思いをこめて北海道の山々を見続けていた。
 アイヌの神々が住む山々。そのアイヌの言葉からつけられた山の名前。ヌタクカムウシュペ、ニセイカウシュペ、トムラウシ、ニペソツ、ウペペサンケ、ポロシリ、カムイエクウチカウシ、ピリカヌプリなどなど・・・なんという美しい響きの山々だろう。
 そして、一般的な登山対象としては、余り良く知られていなかった、この日高山脈の山々に、私はすっかり魅せられてしまった。広大な十勝平野の彼方に、百数十キロにわたって続く山並み。それは、あの北アルプスや南アルプスに匹敵する長さなのに、全国的に知られている山は一つか二つだけだった。
 最高峰の日高幌尻岳にして、わずかに2000mを少し越えるだけの高さしかないのだが、緯度が高く北に位置するだけに、その高山環境は、本州の日本アルプスの山々に匹敵するだけのものがある。
 ちなみに、その日本アルプスにある氷河期地形の名残のカールが、標高差で1000m余りも低い、ここ日高山脈でも見られるのだ。ただし、日高山脈よりも高い大雪山の山々には、氷河期以降の火山活動によるために、カール地形はないとされている。
 この日高山脈は、北の佐幌岳(1059m)辺りからその姿を現し、狩勝峠を経て、1700mを越える主稜線は芽室岳(1754m)に始まり、主峰の幌尻岳(2052m)、第二位のカムイエクウチカウシ山(1979m)などと続き、ペテガリ岳(1736m)に終わるが、まだその南には、ピリカヌプリ(1631m)や楽古岳(1472m)などの名峰が連なり、襟裳岬手前の豊似岳(1105m)で山脈としての終焉を迎える。
 この南端の豊似岳以外のほとんどの山々を、十勝平野から眺めることができるのだ。北アルプスを眺める安曇野からでも、南アルプスを眺める甲府盆地や伊那谷からでも、その山並みのすべてを見ることはできない。
 私は、この広大な山岳展望の地に立った時、ここが自分の後半生を過ごすにふさわしい場所だと思ったのだ。あれから、もう二十数年を越える歳月が過ぎ去った。私は、厭きることなく、晴れた日の山並みを見続けるのだ。
 あれがピパイロ、あの大きな山がポロシリ・・・
 ひときわ高いカムイエク、ヤオロマップにルベツネ、ペテガリ・・・
 そしてカムイ、ソエマツ、ピリカヌプリ・・・
 私は、この日高山脈の殆どの山に登ってきたが、これからもまだまだ登り続けるだろう。しかし、いつの日にか、山に登れなくなる日が来る。そんな時が来れば、私は家にいて、カラマツの林の向こうに、白く輝く峰々の連なりを見ていることだろう。
 それなのに、これからが、その山々を見るのには最も良い季節なのに、私はミャオの待つ九州へ帰らなければならない。ミャオのことは、もちろん大事だけれども、同じように、日高山脈の山々も私には大切なものなのだ。
 もうこの冬、あとわずかな、山々との日々なのだ・・・。 
(写真は、帯広市郊外から見たカムイエクウチカウシ山。) 
                     飼い主より 敬具

飼い主よりミャオへ(44)

2008-11-08 18:53:37 | Weblog
11月8日
 拝啓 ミャオ様
 
 昨日の夕方からの強い西風は、北西の風になり、今日も一日中、ごうごうと音を立てて吹いている。気温は、日中でも7度くらいまでしか上がらない。
 旭川周辺では、すでに20cmの積雪があり、山沿いではさらに40cmもの雪が降るだろうとの予報だ。しかしここ十勝地方では、西側には日高山脈があり、北側には大雪山系の山々があって、それらが取り囲むようにして雪雲を阻んでくれているのだ。今、上空には鮮やかな快晴の空が広がっている。
 西高東低の気圧配置が続く冬の間、十勝地方では、この風の強い、寒い、しかし晴れた日が続く。年によっては、正月の頃には、札幌や旭川が50cmもの雪になっているのに、帯広では積雪0cmということもある。
 私が、十勝地方を住む場所として選んだのは、この冬の季節の、マイナス20度を越える寒さと、晴れ渡る青空ゆえである。しかし今年も、その冬を十分体感できないまま、ミャオのいる九州へ戻らなければならない。残念なことではあるが。
 仕方がない、今はこの冬の初めの日々を、ゆっくりと味わうことにしよう。ただし、こんな風の強い日には、外に出ないで、薪ストーヴで暖かくなった家の中にいたほうが良い。
 ガラス窓越に、暖かい日の光を浴びながら、音楽を聴く。ルイ・クープラン(1626~61)の、クラヴサン(チェンバロ)曲だ。演奏は、女性奏者のユゲット・グレミー・ショーリャック。レコード時代の名録音で名高い、シャルラン・レーベルのCD復刻版である。
 あのレコードの音とは比ぶべくもないが、それでも彼女の弾くたおやかな音が心地よい。クープラン一族のはじまりでもあるこのルイのクラヴサン曲は、その後に彼の甥であるフランソワ・クープラン(1668~1733)によって、フランス・バロックのクラヴサン曲として集大成されることになるのだ。
 ところで今聞いている、このルイ・クープランと同時代を生きたのが、オランダの画家であったあのヤン・フェルメール(1632~75)である。
 一週間前に、私は東京・上野で開催中の「フェルメール展」を見てきた。さらに併せて、同じ上野で同時期に開かれていた「ハンマースホイ展」にも行ってきた。前回までの記事(11月1日、3日、5日)で書き綴ってきた、北アルプス山行を終えてのことではあるが、この旅ではまた、これらの絵を見に行くことも、大事な目的だったのだ。
 何度も書いていることだが、私は若い頃に4ヶ月の間、ヨーロッパを旅して回ったことがある。 当時から流行っていた、ザックを担いだGパン姿で、安い宿を渡り歩く例のバック・パッカーのスタイルだった。
 しっかりと計画を立てて、ヨーロッパじゅうをめぐったのだが、その時の目的もはっきりとしていた。もちろんヨーロッパそのものが目的ではあるが、それぞれの国や人々、その風土や文化の差異について知ること・・・建築、絵画、音楽は、その中でも、アルプスの登山と伴に大きな目的の柱の一つでもあった。
 どうしても見たかった絵画の一つが、アムステルダム国立美術館にあるフェルメールの「牛乳を注ぐ女」(写真左)であった。私は二日間、数時間にわたって、その絵の前に立ち続けた。たまに他の客が一人二人と来るだけだった。
 すっかり顔見知りになった監視員のおじさんは、フラッシュなしならと、写真を撮ることさえ許してくれたのだ。何と幸せなひと時だったことだろう。その時のこの絵に対する思いを、当時、ノートに3ページにわたって書いている、今ここで同じことを書くつもりはないけれど。
 そしてちょうど一年前に、同じ東京は上野に、なんとこの「牛乳を注ぐ女」がやってきたのだ。私はその時、今回の旅と同じように、北アルプス立山への山行(この時もまた素晴らしい山旅だった)と併せて、その絵に会いに行ったのだ。
 溢れんばかりの人の波だった。しかしその人々の黒い影の向こうに、確かに間違いなくその絵は、彼女はいたのだ。あの時の思いがよみがえってきた。人々の雑踏の中で、私は危うく、涙をこぼしそうになった。彼女はあの時のまま、変わらずに、台所の部屋で、牛乳を注ぎ続けていた。しかし、私には、二十数年の歳月が流れていた。
 そして今回の東京都美術館の「フェルメール展」。数少ないフェルメール作品のうちの、なんと7点もの絵が集められているのだ。その中の「小路」は、アムステルダムで見たものだが、今回見ても、その構図、空間処理、描写法には感心せずにはいられない。
 他に様々に展示されていた同時代のオランダの画家たちからは、明らかに遠く離れた、孤高の場所にいたのだ。あのレンブラントと伴に。
 初期の宗教画の二点はともかく、残りの人物のいる室内画の四点もそれぞれに素晴らしかった。直接描くのではなく、光と影、色彩の減衰、平面と空間を描いて、人や物の存在を明らかにしているのだ。なんという観察力だろう。
 絶えることない人々の波から離れて、私は部屋の中央の柱にもたれかかり、遠くからこの四点の絵を見ていた。そこには、フェルメールが、私を取り囲むようにいてくれたのだ。幸せな思いだった。
 翌日、同じ上野の国立西洋美術館の方で、「ハンマースホイ展」を見てきた。今度は開館時間と伴に入ったこともあり、余り知られていない画家ということもあって、人も少なく、それぞれの絵の前で、ゆっくりと見ることができた。 
 ヴィルヘルム・ハンマースホイ(1864~1916)は、近世のデンマークの画家である。その名前は聞いてはいたが、前述したヨーロッパの旅では、残念ながらデンマークは、ハンガリーやブルガリアと伴に、行かなかった国の一つであり、コペンハーゲンの美術館も見逃してしまった。
 他の国の美術館で、彼の作品を見たかもしれないけれど、記憶には残っていない。今回の絵画展の予告で初めて、彼の作品を詳しく知ることができたのだ。そしてどうしても見に行きたいと思った。
 私には、この絵を見に行くためだけに、東京を往復するほどの余裕はない。しかし、毎年の初冬の北アルプスへの山行と、さらに幸いなことに同じ期間に「フェルメール展」が開かれていて、この旅は、三つの目的を持ったすっかり欲張ったものになってしまった。そしてそれらはすべて、期待にたがわぬ素晴らしさだった。
 驚くのは、このハンマースホイの作品(写真右)の多さだ。105点のうちの86点が彼の作品なのだ。(ちなみに、あの「フェルメール展」では、40点のうちの7点のみ。)それは、作家個人の個展というのにふさわしい、見事な絵画展だった。
 肖像画から風景画など、とりわけ室内画の数々は、まさしく期待どおりのものだった。200年もの時代を隔てて、彼が「北欧のフェルメール」と呼ばれたのも良く分かる。
 しかし時代以上に、彼の絵をフェルメールの絵と区別するものは、個性の差はもとより、間違いもなく、その北欧の空気感そのものにある。フェルメールが、そのオランダはデルフトの空気感を、巧みに描き出しているように。
 さらに、彼の絵に漂う孤愁のメランコリックな影は、北欧の風土と伴に、あの私の好きな名匠たち、カール・ドライヤーやイングマール・ベルイマンの映画を思い起こさせるものだった。
 この二つの絵画展を見て、フェルメール、ハンマースホイの両者に、共通して私が見たものは、静寂の中での、一瞬のひと時、その時の流れを捉えた情景である。
 私が、静寂の大自然の中の、山々の姿を見たいと思うのも、その姿をカメラに収めたいと願うのも、同じ思いからではあるのだが・・・いまだにその姿を、納得のいくべき光景として、捉えることはできないでいる、恐らくこれからも。私には、それが凡人故のあがきに過ぎないことを、理解してはいるのだが。
 ともかく、今回の旅は、蝶ヶ岳、フェルメール、ハンマースホイと続いて、いずれも素晴らしく、何と恵まれた日々だったことだろう。こんな幸せな日々の後には、何か良くないことが・・・いや、むしろそれまで辛い日々が多かったからこそ、こんな良い日々が訪れたのだ・・・そう思いたい。
 ミャオにも、辛い日々の後に、私が帰ってきて、一緒に居ることのできる日々が待っているのだから、もう少しだから。
                     飼い主より 敬具

飼い主よりミャオへ(43)

2008-11-05 17:28:45 | Weblog
11月5日
 拝啓 ミャオ様
  
 朝、-2度、日中11度。晴れ渡った空の下に、久しぶりに日高山脈の山々が見え、稜線がすっかり白い雪に覆われている。
 昨日、街まで買い物に行ったのだが、チラチラと雪が舞っていた。それまでに雪が降っていた道北地方を除く、残りの札幌、函館などの北海道各地で初雪を記録し、その上、山間部では、2,30cmの積雪があったとのことだ。
 ネットで道路情報を見てみると、道東への主な峠は、すべて圧雪アイスバーンの状態だ。これでは、もう何時間もかけて苦労して雪の峠を越えて、大雪山系の山に登りに行こうとは思わなくなる。
 あの10月下旬の旭岳(10月24日、26日の項)で終わりかと思うと、少し物足りない気もするが、仕方ない。ミャオの待つ、九州の家に帰らなければならないからだ。冬もずっと居ることができれば、周りの日高山脈の山などに登ることができるのに。
 あのサラサラとした深い雪を、ひとりでラッセルしながら、尾根をたどり登って行く。夏の倍近い時間をかけて、無名峰の小さな頂にたどり着く。風の音、青空、白い峰々・・・クーッ、あの寒さがたまらんのー。
 なにも私は別に、にしおかすみこ(最近余り見ないが)のような女王様に、ムチで叩かれるのを好むような、どM(極端なマゾ)というわけではないのだが、こと山の話になると、われながら少しその気があるようにも思えるのだ。
 話は変わるが、昨日街に行った時に、ついでにコインランドリーで洗濯をしてきた。待っている間に、傍に置いてあった漫画雑誌を手にとって見た。日ごろ漫画など読まない私だが、そこになつかしの「こまわりくん」が載っていた。
 とてもお下劣な、マゾっぽいナンセンス・ギャグ漫画だが、当時大いに笑った思い出がある。あれから30年と、綾小路きみまろのセリフではないが、こまわりくんが40代になった設定で描かれていた。
 相変わらずのバカバカしさに、私は声をあげて笑ってしまった。店にいたもう一人の客は、私と目をあわさないように、下を向いて座っていた。
 確かにぃー。大きな体格の鬼瓦権三ふうな顔をした、いい年のオヤジが、漫画雑誌を開いて笑っているのを見れば、誰だって何か空恐ろしい感じがするものだ。ミャオと一緒に居る時でも、私がテレビを見て、ひとりカラカラと笑い出すと、ミャオは何事かと身構えて、私の顔をじっと見ていたものだ。
 話がすっかりそれてしまって申し訳ない。まあ、ともかく私は冬の雪山が大好きだということだ。その雪山の話を前々回から続けているのだが、今回もその続きを書いておこうと思う。
  
 朝の穂高連峰の眺めに満足した私は、長塀山経由ではなく、昨日たどってきた蝶ヶ岳の穏やかな稜線を横尾分岐点まで戻って、降りて行くことにした。
 雪道に、昨日の私の足跡だけが残っている。風で雪が流れて、その足跡が消えている所もあるが、ほとんどはしっかりと残っている。つまり、夜に雪は降らなかったということだ。
 もしさらに雪が深く積もり、そのうえ風雪で何も見えなければ、下降点を見つけるのに苦労するところなのだ。
 幸いに、天気も良く、すでに稜線に雲がかかってはいるものの、それでもまだ迫力ある槍・穂高の山塊が見えていた。分岐点から、梓川の谷を目指して降りて行き、すぐに樹林帯に入る。
 急な尾根の斜面はシラビソやコメツガの原生林になっている。稜線であれほど吹きつけていた風は、樹々の梢の上の方で、その音が聞こえているだけだった。下枝まで雪をつけたシラビソの樹々に囲まれて、私の他には誰もいなかった。
 私は腰を下ろし、ジャケットを、そして毛糸帽と冬用手袋も脱いだ。ステンボトルに入れてきた熱い紅茶を、ゆっくりと飲んだ。なんという、暖かい落ち着いた安らぎのひと時だろう。
 これも昔の話だけれど、南アルプスは北岳(3193m)の、その裾をぐるりと廻るように流れる野呂川の、相対する尾根を、同じようにぐるりと回って歩いたことがある。
 夜叉神峠から鳳凰三山、アサヨ峰、仙丈ヶ岳、間ノ岳、北岳とたどり、広河原に下りる五日間の山旅だった。その中でも、数人の人に出会っただけの、仙丈ヶ岳から間ノ岳にいたる仙塩尾根は素晴らしかった。
 しかし、このコースは、他の稜線歩きと比べれば、単調な長い樹林帯の歩きが続き、昔はバカ尾根と呼ばれたほどだった。ところが、ただ一途に山に登っていた若い頃とは違い、私も年と伴に、次第に山の様々な魅力に気がつくようになってきていた。
 緩やかに続くシラビソの森の中を、私はひとり歩いていた。もう二時間ほど人に会っていない。少し樹々の密度が薄れて、いくらか明るく感じた頃、樹々の下に、一面に明るい新緑色のシダが茂っていて、その上から木々の間を通して木漏れ日が落ちていた。
 どこか遠くで、鳥の声が一つ・・・樹々の上では、高い空に風の音が聞こえていた。私は、ザックを背にしたまま、その場に立ち続けていた。
 今、頭上で吹く風の音を聞いて、あの時の風の音を思い出したのだ。そして、私は立ち上がり、再びこの樹林帯のジグザグの尾根道を、下って行った。
 いつしか雪は消え、緩やかな道になり、3時間ほどで横尾に着いた。人影はまばらだった。梓川沿いのカラマツの黄葉が、鮮やかな色合いで見えていたが、すでに上空は雲に覆われていた。さらに2時間ほど歩いた明神辺りからは、観光客の姿も増え、それと伴に、ついに雨になった。しかし、もう上高地の宿はすぐそこだった。
 何度も泊まったことのあるその宿には、外国人が多かった。カナダからの夫婦、オランダからのカップル、そして私の部屋にはオーストラリアからの若者がいた。私の、例のブロークンな度胸英語で、なんとか彼らと楽しく話をすることができた。
 そして翌朝は、なんと昨日以上の快晴の空だった。日の出前に宿を出て、あの有名な河童橋の近くで待ち構えて、日が当たり始めてきた穂高連峰の写真を撮った(写真)。さらに大正池までの遊歩道を歩いて行き、青空を背景にして、カラマツの点在する裾野の上に雪をつけた、焼岳などの写真を撮った。
 なんという申し分のない山旅のフィナーレだったことだろう。
 その日のうちに東京に戻り、この旅のもう一つの目的でもある絵画展を見に行き、翌日にも、さらにもう一つの絵画展を見ることができたのだった。
 
 もう後わずかしかない北海道で、山に行けなくっても、それを補って余りある良い山旅だった。残りの日々は、いつものように、カラマツの黄葉が散り始めたこの家の周りで、北国の余韻を楽しむとしよう。
 ミャオ、もう少しだから、元気で待っていてくれ。
                      飼い主より 敬具 

飼い主よりミャオへ(42)

2008-11-03 16:25:37 | Weblog
11月3日
 拝啓 ミャオ様
 
 今日の朝の気温は3度、昨日は-0.5度と、冷えこんできた。日中でも10度位までしか上がらない。いくら寒さに強い私でも、朝の寒さには勝てない。すぐに薪ストーヴに火を入れる。パチパチと音を立てて、やがてゴーっと燃え上がる。その暖かさが少しずつ、ゆっくりと部屋の中に広がっていく。
 窓の外を見ると、先ほどからハマナスのヤブの辺りで小鳥が動き回っている。双眼鏡で見てみると、腹の辺りの黄色が目立つ。もしやあの、めったに見ることのできないムギマキではと、窓辺ににじり寄り、じっくりと見る。しかし後ろに回った時に、尾の先の方が暗い青色だった。ルリビタキの幼鳥だ。繁殖地の夏の高い山から、下の林へと降りてきたところなのだろう。
 私もまた、雪の山から、黄色く色づくカラマツの林の中の家に、戻ってきたところだ。しかし、まだ心は、あの一週間ほど前の、雪の山々から離れられない。以下は、前回の山の記録の続きである。

 10月28日、朝6時前。安曇野の上に、噴煙をたなびかせた浅間山がシルエットになって浮かび上がり、東の空から、辺りを深紅色に染めて陽が昇ってきた。自然が我々に日々伝え知らせる、鮮やかな自らの変身の一場面だ。なんという見事な、その暗転の舞台のひと時だろう。
 しかし、目の前の常念岳と反対側の横通岳は見えていたものの、梓川の谷を隔てた向こうにあるはずの槍・穂高連峰の姿は、相変わらずの雲に隠れていた。
 午後からは良くなってくるという天気予報もあって、さらに今日は蝶ヶ岳までという短い距離だから、ゆっくりと小屋を出る。それから常念岳への登りにかかったのは、7時半に近かった。
 吹きさらしの斜面に、また昨夜降った雪が数センチほど積もっていた。吹き溜まりの所では30cm以上はあるだろう。そこに先行者の足跡がついている。
 風はそれほど強くはない。雲がかかったり、青空が広がったりする中で、カメラを構えながら、ゆっくりと登っていく。1時間余りかかって頂上に着く。先に着いていた軽装の二人はすぐに小屋へと戻っていった。
 小さな祠のある頂上には、他に誰も居ない。しかし残念なことに、相変わらず槍・穂高の姿は見えないが、周りには青空が広がり、槍の手前に続く赤岩尾根や、北側に相対する横通岳は見えていた。
 この常念岳(2857m)には、今まで4,5回は登っているのだが、その中でも印象深い山行は、上高地の霞沢岳(2646m)からこの常念山脈を北上し、この常念から大天井岳(2922m)、燕岳(2763m)を経て北端の唐沢岳(2632m)までの五日間にわたる山旅だ。
 それはもう十年以上も前の夏のことで、天気もずっと良く、咲き誇る花々もきれいで、途中で一緒になり歩いた女の人もいた、そして私も若かったのだ。
 とその時、白い雲の塊の中から前穂高岳の姿が見えてきて、再び雲に包まれた。しかし、それは天気予報どおりに午後からの晴れの空を期待させた。私は、南に続く岩尾根を下っていった。
 霧が吹きつける尾根道は、岩の間の雪の深みにはまったりと、歩きにくい所が多かったが、コル(最低鞍部)に下り立ち、今度は三つほどあるコブの登り下りが始まる。
 北面に位置する斜面の吹き溜まりでは、50cmを越える雪があり、二人組の先行者が苦労してつけたラッセル(深く積もった雪に道をつけること)跡を、ありがたく利用させてもらった。それは真冬の山での、1mもの雪をラッセルするほどの厳しさではないとはいえ、雪の斜面の辛い歩行なのだ。先行者の若い二人に感謝するばかりだ。彼らはその日のうちに、蝶ヶ岳から三股に下りるとのことだった。
 ところが、コブを越えて、南面の下りにかかると、今度は一転して雪が溶け始めていて、ベチャついた道になる。そして最後の蝶槍への登りだ。シラビソの森林帯を抜けると、先ほどのジャケットを脱いだ暖かさから、再び風が吹きすさぶ寒さに変わり、あたりは一面、霧氷に覆われている。
 蝶槍からは、森林限界を超えたなだらかな稜線歩きになり、幾つか緩やかに登り下りして、今日の目的地である蝶ヶ岳ヒュッテに着く。ゆっくりと6時間半ほどの行程だった。
 泊り客は、他に一人だけだ。小屋閉め間近かの、初冬の山歩きの静かさがありがたい。そして夕方になって、やっと雲が取れてきて、常念岳の姿が見え(前回の写真)、さらに穂高連峰も少し顔をのぞかせたが、すぐに隠れてしまった。
 二人で夕食を食べながら、天気予報を見て、ただ明日の天気に期待するだけだった。この蝶ヶ岳は、なんといっても、正面に槍・穂高連峰を見る、展望の素晴らしさで知られていて、私もこれで何度目になるだろうか。
 そして翌朝、日の出前にカメラを持って外に出る。昨日と同じように、まだ槍・穂高方面には雲がかかっていたが、日が昇ってくる東側は晴れていた。八ヶ岳から富士山そして南アルプスと、赤い背景のシルエットになって見えている。
 しばらくすると、反対側の待望の槍・穂高連峰の雲が次第に取れてきた。私たちは、寒さに震えながら、それでも喜びの声を上げて、何度もカメラのシャッターを押し続けた。
 眼下のまだ暗い梓川の谷を隔てて、千数百mの標高差をもってせり上がる、白い巨大な城砦のごとき、白雪の穂高連峰・・・。他に何を言うことがあるだろう。
 私は、思わずカメラから目を離して、相対するその山々を見続けた。少し離れた所に居た彼が居なかったら、私は、寒さのためかもしれないけれど、恐らく涙を流していたに違いない。
 ありがとう、この大自然に、穂高の山々に、そして私がこうして生きていることに、ただ感謝するばかりだった。このひと時のために、私は山に登ってきたのだ。
 そしてしばらくすると、再び槍・穂高連峰には雲がまとわりつき始めた。しかしもう、十分だった。私は満ち足りた思いで、上高地に向かって、樹林帯の尾根を下っていった。
 写真は左から、前穂高岳(3090m)、奥穂高岳(3190m)、涸沢岳(3103m)、北穂高岳(3106m)。 

 さらに、上高地の宿に泊まった翌日の景色も、素晴らしかった。そして、東京に戻り、そこで見た二つの美術展・・・ああ、余りにもこの旅が印象に残るものだっただけに、今もなお茫然としていて、夢見心地の思いなのだ。
 ミャオには悪いけれど、私をもう少し、この思いに浸らせておいておくれ。
                      飼い主より 敬具

飼い主よりミャオへ(41)

2008-11-01 17:40:18 | Weblog
11月1日
 拝啓 ミャオ様

 朝の気温は3度、日中は13度まで上がる。昨日いた東京での最低気温が15度で、その前にいた山の上の気温は、もう終日マイナスの気温だった。
 昨日旅先から戻ってくると、家の中は冷え切っていて、8度位しかなく、薪ストーヴで暖めるのに時間がかかった。その後、パソコンの画面で、この旅の山の写真を眺めては、ひとり悦にいっている。いやあー、良かったな、いつまでも帰らなくて、ミャオには悪いけれど。
 
 10月27日早朝、長野県は安曇野、豊科の駅に着く。三両編成の電車から降りたのは私一人だった。駅前に一台だけ止まっていたタクシーの運転手は、その中で丸くなって寝ていた。山に雲はあるが、晴れた寒い朝だ。
 前の日まで行き先を決めかねていた。予定は、安曇野側から常念岳(2857m)に登り、縦走して蝶ヶ岳に至り、上高地に下るという計画だった。山には、また新たに雪が降っているのは分かっていたが、むしろそれは望むところで、むしろその後の天気の方が問題だったのだ。
 山は晴れた日以外には歩かない、という私のわがままな方針から、昨日の天気予報では長野中部は余り良くはないので、それなら天気の良い南部の、中央アルプスにでも行こうと思っていたのだ。それが、朝5時の予報では、何と今日明日と天気マークがついている。
 これはきっと、八大竜王(幸田露伴「五重塔」参照)が私の願いを聞き入れてくれて、夏の白馬岳山行(7月29日の項)が良くなかった代わりに、その埋め合わせとして、今回を晴れの登山日和にしてくれたのに違いない、ああ、ありがたや。
 カラマツの黄葉が鮮やかな、一の沢の登山口(1323m)から登り始める。沢に沿ってなだらかに道は続いている。私の前にも後にも誰も居ない。なんという静かな林の中の道だろう。
 しばらく歩いて、大きな音を立てて流れている沢の河原で、一休みする。上空は雲に覆われているけれども、背後の安曇野側には青空が広がり、日が差し込んできているし、目指す山の方向の、雪で白くなった常念乗越の稜線辺りには、青空も見えている。
 下草のササが広がる谷あいが次第に狭くなり、道は今までの左岸(川を遡る右手)から右岸(左手)に移り、再び左岸に戻り、急な高巻きの道を越えた後、さらに沢を渡る。もう山は初冬の時期だから、夏の時期ほどの喉の渇きはないのだが、沢に沿っての道のあちこちに小さな流れがあり、水に不自由することはない。
 そしていよいよ、シラビソの樹の急斜面の尾根を、ジグザグに登っていく。あちこちに小さく残っていた雪は、いつの間にか、一面の白い斜面へと変わり、そこに少し前に通ったものらしい足跡がついている。
 風の音が近くなり、木々が低くなり、そして雪が少し厚みを増してきた。山用ジャケットを着込み、冬用手袋に毛糸帽をかぶる。
 明るくなって、低いハイマツの傍の50cmほどの深さの雪のラッセル跡をたどると、風吹きすさぶ常念乗越(2466m)に着く。
 楽しみにしていた、大展望は・・・青空はあるものの、やはり雲が多く、槍・穂高の山並みも見えなかった。風で雪が吹き飛ばされた礫地の、緩やかな斜面のすぐ下には、常念小屋が見えている。
 まだ昼前で、今日の行程はわずか4時間20分ほどだったが、この天候では辺りの景色を見に行くというわけにもいかない。稜線の風に身をすくめながら、小屋に下りていった。 
 今日の泊り客は私を除く、3パーティー6人。夏のシーズンの時なら、一畳に二人位は並んで寝ることになるのに、さすがにもう小屋閉めが近づいた初冬の時期だ、登山客は少なく、一部屋ずつをパーティーごとに割り当ててくれた。つまり私も、ゆったりと一人部屋だった。
 談話室兼食事所の暖かい石油ストーヴの傍で、私よりはずっと若い登山者たちと色々と話をした。旅に出て、見知らぬ人たちに出会い、ひと時の間でも話をするのは、良いことだと思う。普通の日常の暮らしの中では、決して出会うこともない人たちと話ができるのだから。
 会話というのは、お互いに、話のやり取りをすることなのだから、本来両者には優劣の差などはなくて、どんな相手でも、臆することなく、しかし見下すこともなく、常に五分と五分の立場であるべきなのだ。
 大げさな言い方だと思われるかもしれないけれど、例えば、その相手がお年寄りの人だとしても、あるいは、まだ小さなやっと話せるようになったばかりの子供だとしても、さらに彼らが善人であろうと悪人であろうと、話をすることによって、必ず何事かを考えることになるはずだ。それが、良い思いになったとしても、不快な思いになったとしてもだ。
 もちろん、それが何か人生の済度に役に立つものだとか思って、話をしてはいないけれど、少なくとも、後になってその相手の話が、夢に現れる無意識下の希求のように、自然にまるで本来の自分の思いのように、口をついて出てくることもあるのだ。
 とは言え、常日頃、ひとりで暮らしている私にとっては、同じように少し深く考えてしまうような人に出会い、話をすることは、心嬉しいことでもある。
 その登山者の一人である彼と、連日のニュースになっている世界の金融危機の話から、世界の人々、日本人論にまで話が及んだ。
 そこで、私が、今日の日本人の道徳観倫理観のなさは、宗教心の欠如(もちろん私も無信仰ではあるが)がその一因であると言ったのを受けて、彼が答えたのだ。「戦後に入ってきたアメリカ文化、アメリカ思想を一つの宗教だと考えれば・・・そうして古来、日本人は様々な宗教を受け入れ順応してきたわけだから」。
 なるほどと思った。それは、今の変化を時代の流れとして好意的に受け取れない、保守的な我ら、おじさん世代の思考の柔軟性のなさを、深く考えさせられた一言でもあったからだ。

 話すことはいいよなあ、話すのは。ミャオと一緒に居る時は、考えてみればいつもお互いに話しているものなあ。ミャオはネコ語で、私は日本語と少しネコ語で・・・。
 山の話の続きは、次回に。写真は次の日(28日)、蝶ヶ岳から見た常念岳。
                      飼い主より 敬具