ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

旅ゆけば駿河の国に茶の香り

2023-10-10 21:55:28 | Weblog


 
 10月10日

 気がつけば、前回からもう半年もの月日が流れ去っている。
 今日までのことを細かく書き綴って、それらの月日の後を追いかけて見ても、たいしたことは何も出てこない。
 簡単に言えば、いつものぐうたらな怠けぐせが積み重なって、毎日続いていただけのことなのだが。
 ただ、去年一昨年と二度の手術後の今、転移などはまだ見られないとのことだけれど、他にいくつかの検査を要する症状が顕われたりして、要注意の状態であり、そのための別な手術を受けることにもなりそうではあるのだが・・・。
 若いころから、風邪ひとつひかない健康な体を、当たり前のことだと思っていたのに、年寄りになってから、こうして体のあちこちで不調が起こり、不協和音のように響き交わすようになるとは・・・まるであの”ヨハネの黙示録”の、御使たちが”悔い改めよ”と吹き鳴らす、ラッパの響きそのものではないか・・・。
 しかし、元来が脳天気(能天気ではない)な性格で、あまり物事を複雑に考えることのできない、単純気質のこのじじいは、自分なりに考えてみるのでした。
 前回(といっても半年前)にもあげた、あの万葉集の大伴旅人(たびと)の歌と同じく、”酒を讃(ほ)むる歌十三首”の中からの一つなのだが・・・。

 ”この世にし 楽しくあらば 来む世には 虫にも鳥にも われはなりなむ” (「万葉集 釋注二」伊藤博 集英社文庫ヘリテージシリーズ)

 と生きにくいこの世を、歌一首で見事に表現したように、万葉人(びと)の時代のころからというより、いつの時代でも人々は、自分なりの小さな避難所(シェルター)となる世界を持っていて、そこでささやかな安らぎを得ていたのだ。
 それは身分環境、年齢貧富の差を越えて誰にでもある、ある種の悲哀漂う、穏やかな境地とでもいえるものなのだろうが。

 つまり、人は時代年齢にかかわりなく、ささやかな愉しみに浸ることで、ほんの少しでも、より良い生をまっとうしようとしていたのだ。
 それは何も、上にあげた大伴旅人の歌のように、酒を飲むことだけではなく、特に多様に分化された領域からなる現代社会では、様々な趣味の世界があり、現実空間や仮想空間(メタバース)にあふれていて、そこには人さまざまな愉しみがあり・・・”蓼(たで)食う虫も様々”な様相を呈しているのだが。

 ”遊びをせむとや生まれけむ 戯(たわむ)れせむとや生まれけむ 遊ぶ子供の声聞けば 我が身さへこそ揺るがるれ(子供の声に合わせて自分も体をゆすってしまう)” (「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」日本の古典、小学館)
 
 人には、人それぞれの好みや生き方があり、虫けらには虫けらの好みの食べ物があり、行きたい方向がある。
 ある人は、自分の生きてきた証として、その爪痕(つめあと)を今ここに残しておきたいと思うのかもしれないが、それは結局、その時代だけの一過性のものであり、やがて忘れ去られ、埋もれてゆくものなのだ。
 例え、永遠に語り継がれるような顕著な業績を残し、ほめたたえられたとしても、この世にいない自分が、どうして死後のことを知ることができるだろうか。
 多くの生きものが通り過ぎる、時の流れの道では、自分の足跡、爪痕など、瞬時のものにしか過ぎないことを知っておくべきだ。

 つまり人にとって大切なことは、今をどう生きていくかであって、死ねば自分の身体の機能感覚がすべて失われ、それ以後のことは知る手立てもないし、やがて体が崩壊する物体となり、分子レベルに分解され、骨と塵芥(ちりあくた)となってしまうのだ。そのような冷酷な現実を背景にして、自分が今、生きていることとは。
 その値千金の時の中にいて、ただ、こうして生きているだけでいかにありがたいものかと・・・。

 上にあげた”梁塵秘抄”の一句を思い浮かべながら、自分なりにこうも考えてみた。
 今の社会、実の母親に殺される子供や自殺する子供がいて、さらには人生を知る前に死んでいく若者たちもいるし・・・何と無駄な早死にだろう。
 そして外に目を向ければ、中東とイスラエルでの歴史をかけて繰り返される戦争や、ウクライナヘのロシアの侵略戦争などがあり、止めることすらできない情けない国際社会の現実があるのに、しかし日本にいれば、所詮は他人ごとでしかなく、すべては自分にかかわりのないことだからと思いがちである。
 それは仲間の一頭がライオンに捕まり食べられているのを、遠巻きに見つめるしかない、あのアフリカはサバンナのヌーの一群たちの姿に重なるのだ・・・。
  
 やがてAI(人工知能)社会が到来して、人間はそのAI様にかしずくように支配されることになり、それでも地球環破壊の悪化はとどまらず、やがてはあの童話「ハーメルンの笛吹き男」の光景のように、ネズミの大群に似た人の群れが、核兵器戦争後の海にいっせいに飛び込み、死んでしまう日が来るのではないのかと・・・今、その終末の時が迫っているのかもしれない。

 ”悔い改めよ”。

 だから、生きている今こそが一番大切なのだ。
 大きな青空が広がり、わずかに秋色を帯びた樹々の上に、これまた秋のうろこ雲がゆったりと流れていく。(写真上)
 今はキンモクセイの繁みの中に、小さな黄色い花がびっしりと咲いていて、辺り一面に馥郁(ふくいく)たる香りを漂わせている。(写真下)
 思えば、新緑の四月、あのクチナシの花が咲き始めたころから、その前のウメの花に始まり、サクラ、ツバキ、シャクナゲ、ツツジ、サルスベリ、ヒガンバナにキンモクセイと続き、私の眼を楽しませてくれた庭木の花々たち・・・また次の一年、こうした花々に相まみえることができるのだろうか。

 この半年の間、特に夏の盛りのころには、少し熱があって体がふらつき、ほとんど一日を、クーラーをつけた部屋の布団の中で過ごすことが多かったのだが、そのときは本を読む気にもならず、ただ無聊(ぶりょう)の時を過ごしていたのだが、それでもテレビを見る(聞く)ことはできたし、その中には、なかなかに興味深い番組もいろいろとあった。
 とは言っても、テレ朝の「ポツンと一軒家」以外は、ほとんどがNHKの番組で、”NHKの回し者”と言われそうだが、同じ昭和の年寄りたちが見る番組は、皆そうしたものだろう。
 いつもの「ブラタモリ」から「ダーウィンが来た」「クローズアップ現代」、そして昼間の「日本百低山」、そして草花が好きなこともあって「らんまん」も半分くらいは見たが、それらの中でも何と言っても私の励みとなり悦びにもなったのが、二刀流野球の大谷翔平のBS中継放送である。特に6月から7月にかけての活躍時には、番組で見るだけでは飽き足らず、その後に、ネット・ニュースやレポート番組を繰り返し見ては、ひとり悦に入って楽しんでいた。(そして昨日も、その”大谷”番組をやっていた。)

 それは昔の浪花節(なにわぶし)、あの「清水次郎長伝、森の石松三十石船道中」の一節を聞くのと変わりはない。
 子供のころ、まだ家にテレビがなくラジオだけだったころ、その唯一のラジオから流れてくる浪花節、その浪曲語り、二代目廣澤虎造(ひろさわとらぞう)のどすのきいた渋い美声に、子供ながらにしびれたものであった。

 ”旅ゆけば、駿河(するが)の国に茶の香り、名代なるかな東海道、名所古跡の多い所、中に知られる羽衣の、松と並んでその名を残す、海道一の親分は、清水港の次郎長・・・”
 さて話は、その清水次郎長の子分、森の石松が親分の名代(みょうだい)として、金刀比羅宮(讃岐の金毘羅さん)に刀を奉納して、その帰り道、大阪天満橋そばの八軒屋の船泊から京都伏見へと向かう、三十石船の中で、ばくち打ち列伝に詳しい、江戸っ子の若い兄さんの話に乗っていき、それから次はと聞きだしていくのだ。

 ”えっお兄さん、次郎長ってえのはそんなに偉いのか”
 ”いい子分がいるぜ、次郎長には”
 石松は、自分の親分や自分たち子分のことをほめられて、嬉しくなって調子込んでにじり寄っていく。
 ”飲みねえ、飲みねえ、寿司食いねえ。江戸っ子だってねえ”
 という名場面のくだりがあるのだが、今でもこの廣澤虎造の名調子を、YouTubeで聞くことができる。

 私が今シーズンの大谷翔平を繰り返し、ビデオで見ているのは、全くこの石松の喜びようと変わりはないのだ。
 しかし、大谷の野球人生の最後まで見続けることはできないにしても、せめて再来年のシーズンで、大谷が再び二刀流の活躍をするまでは、生きていたいと思うのだが・・・。

 ”神さま、わたしに星を取りにやらせてください。”(「星を得るための祈り・・・」フランシス・ジャム 堀口大學訳 新潮文庫)

 (参考1:『万葉集 釋注一~十』 伊東博 集英社文庫ヘリテージシリーズ、分厚い文庫本の全集であり、やや研究者としての論調が過ぎる所もあるが、編者の一大労作であり、教えられるところが多い。)
 (参考2:『枕草子 上下巻』 石田穣二訳注 角川ソフィア文庫、高校の古典の教科書に、例の”香炉峰の雪”の一節が載っていて、そこでの自分の知識をひけらかし自慢する清少納言が嫌いになり、その後、他の古典は素直に入っていけたのだが『枕草子』だけは読み流すだけで半ば無視していた。しかし、今回しっかりと読んでみて、やはり彼女の感覚表現には、さすがだと思わせるものが数多くあり、幾つもの切り口からさらに読み直したくなったほどである。人間、死ぬまで勉強です。その『枕草子』からの一節・・・。)

【ニ四五】ただ過ぎに過ぐるもの 
 帆かけたる船。人の齢(よわい)。春、夏、秋、冬。

 

 

 

 

 

 


いい季節だなや

2023-04-27 22:35:56 | Weblog



 4月27日

 ”・・・早咲きのリンゴのはなッコがさくころは、おらだちのいちばんたのしい季節だなやー”

(「リンゴ追分」小沢不二夫作詞 米山正夫作曲 美空ひばり歌 1952年)

 ”リンゴの花びらがー風に散ったよなー”の歌い出しで知られる、美空ひばりの歌う『リンゴ追分』の、間奏部のセリフであるが、いつも今頃の季節になると思い出してしまう。

 その昔、東京での仕事を離れて、いったん母のいる九州に戻り、それでも北海道に住むことをあきらめきれずに、そこから毎年北海道へと一往復するようになったのだが。
 しかし、九州と北海道の間の距離、2000㎞は遠い。当時、飛行機には今のような大幅割引はなく、おいそれと乗れるものではなく、時間はかかるが寝台列車の乗り継ぎで、何とか北海道は十勝へとたどり着くようにしていたのだ。
 ただ途中で、東京の友達の家に泊めてもらって、そこで何日かを過ごしたりして、つまり、映画を見たり美術館やクラシックのコンサートに行ったり、大きな本屋で本の探し物をしたりと、それはそれなりに、自分の文化芸術嗜好の愉しみの、いくらかの補給にもなったのであって、まあそうした旅行も、若い時だからできたことなのだが。
 もちろん、長距離旅行ゆえに見るべきところも多くあって、毎年でも見飽きることもなかったのだ。例えば寝台列車の広い車窓から見える富士山や、青函連絡船から見える函館山、北海道上陸後に列車に乗り換えて、風光明媚な大沼を前景にした渡島駒ケ岳(おしまこまがたけ)の姿を眺めてなど、忘れがたいものばかりで。(飛行機で往復している今では上空からのジオラマ風景としてしか見られないのだが。)

 ところで、そんな寝台列車の旅のルートは、通常の東北本線だけではなくて、日本海側の景色も見たくなっては、遠回りにはなるが、何度か奥羽本線側を選んだこともあった。
 いつもは、東北本線から連絡船へとあわただしく乗り換えるだけで、青森、弘前で途中下車をして、街中を見て回ることもなかったのだが、ある時思いついて、有名な弘前城を見に行ってみることにしたのだ。
 それは連休前のことで、まだ桜の満開には少し早くて、ちらほらの状態だったのだが、そんな静かな城内を散策して、西側に開けたところに出た。そこには、私の期待していた展望が広がっていた。
 白い花が咲いているリンゴ畑が見えて、遠くには、山という漢字の形そのままの姿で、残雪の岩木山が見えていた。

 そこで、冒頭にあげた「リンゴ追分」の歌を思い出したのだ。
 この歌は、詞に曲に歌手にと見事にそろった名曲であり、日本の不世出の名歌手である、美空ひばりを代表する一曲だとも言えるのだが、この時、彼女は何と15歳の少女だったのだ。
 もともと、彼女の歌はすべてが、彼女の名歌唱があってのものであり、他の歌手の歌では聞きたくはないと思えるほどの、唯一無二の歌手であったのだと思っている。
 そして私は、彼女がいた同じ時代に重なって生きていたから、彼女の歌を知り聞くことができたのだし、同じようにまた、2023年のWBCの野球決勝で、大谷翔平があげた雄たけびを聞くことができたのも、この日まで私が生きていたからこそのことなのだろう。

 つまり誰でも、自分が生まれる以前のことなどは、資料や映像で知るだけのことで、本当のところなど分かりもしないし、これからいつ訪れるともわからぬ、死後の世界、自分の意識が遮断され、存在自体が消失した後のことなどは、知りようもないことだし、生きていることとは、日々の出来事を、自分の意識のもとで判断できるからのことなのだと思う。
 これまで自分が生きてきた人生は、人間それぞれにあたえられた期間内のことであり、例えば美空ひばりの生涯を例にとれば、それは、単に(1937~1989)とカッコで区切られた歳月で表記されることでしかない。
 つまり、個々にとっては、様々な形でその期間内にあてはめられた人生があるのだし、そこには、生まれ落ちてすぐに死にゆく赤ん坊から、そしてまだ子供の時に、大切な青年時代に、働き盛りの時に、年老いてから、それぞれに様々な理由で、自分の人生を終え、あるいは終わらせられる人々がいるということだ・・・人生の寿命などは平均化された座標に過ぎず、他人と比べることもないのだろうが。

 ならばだ。その不確定なる人生を、年寄りはどう生きていくべきなのか。
 そこで、前にもあげたことのある、『万葉集』のあの大伴旅人(おおとものたびと)の一首を。

 ”生ける者 つひにも死ぬる ものにあれば この世なる間は 楽しくをあらな”

(『万葉集(一)第三巻三四九 中西進訳注、講談社文庫)

 現代語に訳する必要もない有名な歌であり、古今東西を通じての、万人の思うところなのではないだろうか。
 この歌は、『万葉集』の ”酒を讃(ほ)むる歌十三首” の中の一首であり、酒好きな人たちにとっての、時代を越えての酒飲み賛歌集になっているのだ。

 私は、山登りの後などにビールを飲む程度で、酒に浸るほどのタイプではないのだが、この歌にあるのと同じような気持ちで、残り少ない人生を、質素でつつましやかに、しかし自分の心のうちでは、楽しく生きていければ良いと思っている。
 一日一日が、何事もなく静かに平穏に過ぎてゆくこと、それが年寄りにとっては一番なのだ。

 朝、洗濯をして青空のもとで衣類を干し、坂道の散歩に出かけては、遠くの山々を眺め、四季折々の草花や樹々を見ては悦(よろこ)びにひたり、家に戻ってきては、バッハを聴きながらうたた寝をして、合間合間に日本の古典文学(今は冬からの『枕草子(まくらのそうし)』をようやく読み終えるところだ)を少しづつ愉(たの)しみながら読んでゆき、簡単な夕食を作って食べ、少しテレビを見て、寝る前に温かい風呂に入り、ベッドの上で本を読みながら、眠りにつく。
 簡単な衣食住があって、ともかくは自分で動き回れる健康さえあれば、それだけでも結構なことだ。

 私は、鈍感な人間ゆえか、そんな単純な毎日の繰り返しでも、寂しさや退屈さを感じることもないし、そして外に向かっては、自分の出処進退をわきまえていたからこその、今の平穏があるのであり、他人の迷惑にならぬように、静かに生きてゆくことができれば、それだけで十分だと思っている。

 前回の記事から、何と3か月もたってしまった。
 何かあったわけではない。ただぐうたらな怠けぐせがついて、毎日が、おおむね穏やかに流れて行くのに、身を任せていただけのことで。
 手術したところからの、病気の転移はまだ確認されてはいないが、年寄りゆえか、体中のあちこちに不都合な個所が出てきて、その度ごとに病院に行ったり、ネットで調べては、疑心暗鬼(ぎしんあんき)になってしまったりもしたが。
 ただし、現実に転移が見つかったとしても、もう歳だし、その時が寿命だと思うしかない。根は単純な脳天気じじいだから、ニワトリがココッと鳴いて首を振るごとに、前のことを忘れ、産んだ卵のことも忘れてしまうと言われているように、私の心配も一晩寝れば忘れているだけのことだ。人はそれを、年寄りの物忘れだという。

 このブログも、その認知症予防のボケ防止のために、つまりは自分の健康寿命を延ばして生きていくためにも、これからも書き続けなければならないのだと、久しぶりにこの原稿を書きながら思ったところです。ココッ!

 ”走れ走れコウタロー”のごとくに走っていくこと・・・そういえばあの山本コウタローさんも去年お亡くなりになったし、私には前回書いた東京の友達のことが、いまだに信じられなくて。
 ”おまえ、ほんとうはまだ東京の家にいるんじゃないの。”

 ともかく、今まで思いのままにため込んできた様々なことがらが、あれやこれやとあって、これからは自分のためにも、なるべく早く書いていきたいと思っているのだが・・・。

(写真上は、咲き始めた庭のツツジの花。写真下は、散歩途中新緑の山の斜面にフジの花が点々と咲いていた。)





厳然とひかれた一線

2023-01-29 21:34:51 | Weblog



  1月29日

 上の写真は、庭の片隅にできた小さな雪庇(せっぴ)である。ああ、雪山を歩きたい。

 この1週間、毎日北風に乗って雪が吹きつけ、積雪はとけることなく5㎝~10㎝と積もったままで、寒い日が続いている。
 わが家は九州北部の山の中にあるから、冬は日本海側の天気の影響を受けて、寒いし雪も多く、かつてには一日に40㎝積もったこともあるくらいだ。
 さらに、古い家だからすきま風が多くて、石油ストーヴを置いていない部屋では、4℃くらいにまで下がるから、何枚も重ね着をしなければならない。

 今ごろの時期は、冬山登山の最盛期で、いつもならばここぞとばかりに、一月に一二回は山に行っていたのに。
 というのも、去年の夏に山頂まで行かずに引き返したことがあってから、本格的な山登りからは遠ざかってしまい、低い山へのハイキングや長距離散歩をするだけになってしまったからだ。
 もちろんそれには、一年半前の手術入院という出来事があって、心身両面ともに障害を受けたことによるものが大きいのだが。
 そして間が空けばあくほど、年寄りであるがゆえに、体力的に元に戻すのは難しくなる。
 しかし、山登り自体をあきらめているわけではない。
 あの年で鍛錬を続けていて、南米のアコンカグアを目指すという、三浦雄一郎さんとは比較にならないけれど、まだまだ夏や秋に登りたい山があるし、こんな私でも登れる山はいくつでもあるはずだ。
 問題は計画を立てて用意算段をして、実行する勇気があるかどうかだ、”言うは易(やす)く行うは難(かた)し”の言葉通りに。
 残された時間は、もうあまり残っていないのだから・・・行くなら、”今でしょ”、なのだが。

 さて、今回のこの記事も、結局一か月に一度という、いつもの”ぐーたらペース”になってしまい、それも、今月半ばにある出来事があったので、意図するところとは異なり、特別な回になってしまったのだが。

 ところで、昔は数十枚出していた年賀状も、今では必要最低限の十枚ほどしか出していない。
 そんな年賀状でのあいさつを、数十年にわたって交わしている、学生時代の3人の友達がいる。
 年賀状に書く短いあいさつだけで、お互いの現況を確かめ合っているようなものだが、今年はそのうちの一人からの賀状が来ていなかった。
 そして、今月の半ばになって、彼の奥さんからのハガキが届いた。 
 彼が去年の暮れに亡くなって、すでに家族葬で見送りもすませたと書いてあった。
 ・・・。

 彼をめぐる思い出が、私の中でいっぱいに広がった。
 そのことを懐かしんで、語り合う相手はもういないのだ。
 思えば、母が亡くなった時、そのことを強く感じた。
 私と母との間にあった様々な出来事を話し合える相手は、もう誰もいないのだということを。
 私と彼との間にあったいくつかの思い出は、もう分かり合える相手がいない今、ただ私の胸に思い出として残るだけなのだ。

 人が死んでも、その人はいつまでも残された人の胸の中で生きているというけれど、そうではない。
 亡くなった人は、もう私たちの生きていく時間の中に、生きている人として戻ってくることはないのだ。
 ただ私たちは、自分の胸のうちで、思い出でとして繰り返すことしかできない。
 死とは、こちら側の生と厳然と区別するために、最終決定された否応なしの強い一線なのだ。
 ・・・。
 だから私たち、生きものは、その定めの日が来るまで、本能としての生の中で、しっかりと生きていかなければならない。
 生きるためにこの世に産まれおちた、すべての生物に、自ら死ぬ権利などない。
 ただあるとすれば、究極に生きるための思いを込めた先に、死があるということなのだろうが。
  
 彼の死を告げる知らせが届いてから、もう2週間がたとうとしているが、いまだに彼のことが頭から離れない。
 彼は、その昔、同じ学校で学ぶ親しい4人の仲間の一人だった。
 その学生時代の専門課程での2年と、その後私も就職して、東京で働いていた10年間での、付き合いがあったのだが、もう長い間会っていなかった。
 しかし、学校での思い出や旅行での思い出に、地方の旧家でもあった、彼の実家に泊まらせてもらった時の思い出など、いくつも思い返すことができる・・・。

 彼が毎日同じダッフルコートを着て、同級生だった奥さんと肩を並べて、教室に向かうスロープを上がって行っていた姿を、今でも思い出す。
 そして二人は結婚し、私も司会者として参列したのだが、彼はそこでビートルズのあの名曲、”The Long and Winding Road"を歌っていた。
 彼は、就職先のテレビの報道番組の編成スタッフとして、番組のエンドタイトルで名前が流されるほどになっていたのだが・・・。

 ”日も暮れよ 鐘も鳴れ 月日は流れ わたしは残る”

 (『アポリネール詩集』より「ミラボー橋」堀口大學訳 新潮文庫)

 ”世の中は 空(むな)しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり” 

(「万葉集」巻五‐七九三 大伴旅人(おおとものたびと)伊藤博訳注 集英社文庫)

 

 

 


静観の生活

2022-12-31 17:27:30 | Weblog



 12月31日

 時は駆け脚で通り過ぎてゆくのに、年寄りの歩みは何と遅いことか。
 前回の記事は、二か月遅れだったのに、せめて残りの記事は、何とか今年中に書いてしまわなければと思い、大晦日の忙しい中、とりあえず短くまとめてみた。

 秋に、二週間ほど北海道に行ってきたが、そのことについては、前回書いた通りである。
 今回はそれ以外のこと、つまりいつも楽しみにしている、飛行機からの眺めについて始めよう。
 ただしコロナ禍の影響もあって、乗機率は60%前後で、すいていることはいいことだが、これではと飛行機会社の経営が気になってしまう。(減便の心配があるからだ。)

 ともかくにも、行きも帰りも天気の良い日を選ぶことができて、いつものように、窓辺に張り付いて下界を見下ろしていた。
 行きには、富士山の初雪からの新雪は消えていて、土くれあらわな山の姿になっていたのだが、帰りの便では、再び雪が5合目以上に降り積もっていて、富士山らしい姿になっていた。
 上の写真には、富士吉田口5合目と、そこから分れる頂上へと続くジグザグの登山道、さらに反対側に続く御中道が見え、その下の方にはカラマツ林の黄葉などが広がっている。

 一年ぶりということもあってか、九州から北海道までの日本列島を、上空からじっくりと眺めることができたのだが、そこで気づいたのは、まだ大きな変化とは言えないのかもしれないが、太陽光発電のソーラーパネル大軍団の広がりと、さらに風力発電の巨大な風車の林立である。
 思えば20年ほど前ごろから、次第に日本中の山野のいたるところで、山林がペーズリー模様に切り開かれて、ゴルフ場が作られてきたのだが、今回はそれに続く、新たな国土開削事業になるのだろうか。

 もちろん地球規模の気候変動を止めるためにも、これ以上の化石燃料使用をやめ、太陽、風、地熱、潮力などによる、自然エネルギーの開発が急務であることは、誰にでもわかっていることではあるが。
 そういうことなのだから、ソーラ―パネルも風車も、あるべき方向に進んでいるわけであり、問題となるところは何もないはずである。
 しかし、私は下界のソーラーパネルや風車を眺めながら、思わず顔をそむけたくなった。
 青い海、緑の島影に、大量に並ぶプラスティック・パネル、そして白い風車の列。
 それは、あるべき自然の景観ではないからだ。
 もし、地球上に生まれそこで育ったわれわれ人間に、自然景観を眺め安らぐ権利があるとすれば、これは明らかにその景観の破壊にあたるのではないのだろうか。

 東京都が推し進める個人住宅へのソーラーパネル設置義務化は、温暖化対策の一つのステップになるだろうし、それはあくまでも都市内部の変化であり、まだ理解できるとしても、自然が多く残された地方での、開発拡充計画は、もっと自然環境保全と併せて、慎重に考えていかなければならないと思うのだが・・・一度壊された自然が元に戻るには、どれほどの歳月が必要なのだろうか。
 地球上に住んでいるのは、人間だけではないはずだ。動物も魚も虫も花も樹も・・・。

 と思いながら、私は、ジェット燃料を使う飛行機に乗り、軽油を使うバスに乗り、ガソリンで走るタクシーに乗り継いで家に戻って来たのだ。
 ああ、何と罪深い人間であることか・・・。

 10月の終わりに、北海道を離れる時は、家のカラマツの黄葉が始まったころで、林の中のモミジ、カエデは紅葉の盛りを迎えようとしていた。(写真下)




 帰ってきた九州では、九重などの高い山々の紅葉が盛りの時を迎えていて、山間部にあるわが家周辺での紅葉はその後だったが、12月の初めころまで、樹々の色どりを楽しむことができた。
 しかし、今に至るまで、私はスニーカーでのハイキングには出かけても、登山靴での登山をしていない。
 九重には、もう四季を通じてさんざん登って来たから十分だという思いもあるし。
 もちろん登っていない山は九州にもたくさんあるけれど、遠く離れていても意にも介せずに、未知なる山を求めて登っていた若いころと比べれば、今は、家の周囲を歩き回るだけで、そのありふれた里山の風景だけで、事足りるように思えてきたからだ。

 私が山好きであるのは、死ぬまで変わらないだろうが、もうこれからは、飛行機で見下ろす以外は、下から眺める山ということになるのかもしれない。
 それは、今の私が、体に抱えている病気の転移を恐れるあまりに、無常観に取りつかれたからだというわけではなくて、「方丈記」の鴨長明や「徒然草」の兼好法師のような先達(せんだつ)たちの思いのように、孤独の中にあっても、そこに静寂を旨とする喜びを見つけようとする、年寄りの生き方に、大きくうなずくことができたからである。
 前にも何度も書いてきたが、それは”慣れること”なのだ。

 21世紀の現代社会で覇権主義による侵略戦争が起きていて、世界中の誰も停めることができないという、前近代的人間社会の情けなさ・・・虐殺や破壊の続く街で、真冬の寒さの中、電気や水道もなく、生きていく人々・・・新聞に載っていたウクライナの人々へのインタビュー記事に・・・ロウソクの灯でささやかな料理を作っていた婦人が答えていた・・・「慣れるしかありません。私たちは生き延びていきます。」

 さてこの年の瀬に、なかなかに見ごたえのある番組がめじろ押しにあって、一本ずつ詳しく取り上げることはできないが、まずは、ドラマ仕立てが気になるにしても、演じる役者の熱気に思わず見入ってしまったあの「鎌倉殿の13人」(NHK12月18日)をはじめとして、さらに昨日から今日にかけて長時間にわたる放送「ドキュメント72時間」(NHK12月30日、それぞれに今を生きている自分の世界があるのだと、毎回強く感じさせられる番組作り)。山番組は「白銀の大縦走」(NHK12月30日、宗谷岬からえりも岬まで積雪期の大雪・日高山脈を含む単独大縦走)。バドミントン小椋久美子による「黒部源流紀行」と「石狩川源流紀行」(BSテレ東12月28日、懐かしき山なみ)。「大谷翔平が自ら語る」(再放送NHK12月31日、偉大なる孤高への挑戦)。「世界ふれあい街歩き」(再放送NHK12月31日、戦禍に会う前の美しく平和なキーウの街並み)。
 その他にも、思わず感心する番組が幾つもあったのだが、現代のスマホ世代とは異なり、いまだに固定電話世代の私としては、若い人が見向きもしない新聞とテレビだけが、今日を生き延びていく糧にもなっているのであります。

 ・・・(若き日の)あの疾駆(しっく)と狂奔(きょうほん)から逃れて、すなはち「静観の生活」に到達したことが、どんなにすばらしく価値のあることであるか・・・。

(「人は成熟するにつれて若くなる」ヘルマン・ヘッセ ミヒェルス編 岡田朝雄訳 草思社文庫)


 何とか今年一年、また生き延びさせてもらえて、ありがとさーん。

 


北の国に帰る

2022-12-14 21:25:00 | Weblog



12月13日

 何と一月半もの間、このブログに新しい記事を書かないままに、放っておいたことになる。
 最長不倒距離の記録が書き替えられたのだと、はやし立てている場合ではない。
 ただただ、自分の不徳の致すところなのだから。
 病院に入院していた時でさえ、これほど間を空けたことがなかったのに。
 まさに、ぐうたら、怠惰(たいだ)、怠慢(たいまん)、怠廃(たいはい)の極みであり、申し開きすらできない私の無責任さの証左でもあるのだが。

 と、いくら自分自身をそしり責めたところで、元来がムチで叩かれることを喜ぶ、悪霊に取りつかれたマゾじじいの気があるゆえに、なおさらのことで、カイコの繭(まゆ)ごもりのごとくに、自分を守る糸を吐いては、生来の出不精も重なり、相変わらずに閉じこもるだけの、毎日が続いていただけのことでして。

 しかし、本人が元気でいて、それで静かに穏やかに暮らしているのだから、このままでよいと申しておりますれば、この怠けぐせをご理解いただいたところで、一件落着として幕引きさせていただきたく、お願い申し上げ奉(たてまつ)りそうろう。チャンチャン。

 さて、まずはこの一か月半のことを簡略化して、書いていくことにする。
 まずは、前回の記事のすぐ後から2週間ほど、北海道は十勝の”ポツンと一軒家”である、わが家に戻っていたのだが・・・レンタカーで、帰って来てみると、ぼーぜん!あぜん!前田大然!(まえだだいぜん、W杯スペイン戦でワントップのフォワードとして敵陣深く入りキーパーにまでプレスをかけていた。)
 なんと辺り一面、背丈より高く草が生い茂り、クルマも入って行けないほどの、原野状態になっていた。
 そのクルマが入る道の草刈りだけでも、二日もかかった次第。
 つまり、今回の一年ぶりの帰宅は、家の掃除と補修のためだったのだが、相変わらず井戸が干上がっていて、水は隣の(といっても数百メートル離れた)農家からもらってポリタンクに入れて運んで、何とか洗い物用にしてしのぎ、雨が降った時には、軒先にバケツを並べて用水に利用した。

 トイレは、家の前の辺り一面が、スコップ地堀式の”野ぐそ“用フィールドになっていて、周りの草むらの虫に注意して尻を出し、はい、シュート!
 しかし、こんな原始的なトイレで毎日はイヤになるから、通っていた公共浴場のウォシュレットでしたかったのだが、”たぬきのためグソ”と同じで、場所が変わると緊張して出なくなる、意外と繊細な神経の持ち主のタイプで。全くなんのこっちゃ!

 まずは家本体は、丸太組みだから心配はないのだけれど、何度か地震があったようで備品が倒れているし、電気をつけていないカビだらけの冷蔵庫の中も、くまなく掃除して、期限切れの食品も整理処分しなければならない。なにしろ、一年も不在にしたのだから。
 家の中も、ヘビのヌケガラが垂れ下がり、越冬バエが入り込んでいて、その数おそらく千匹近く、掃除機で吸い取るには限りがあり、仕方なく殺虫スプレーで一網打尽(いちもうだじん)にして、一日何回も掃除機をかけて何とか片づける。
 外に出ては倉庫などの小屋の補修をして、さらに屋根にたまった枯葉などをかき落とす。
 ブレーカーは落として通電していないから、電気代は基本料だけで安くていいとしても、固定電話の方は月額が高いから外してもらった。
 などなどと片づけをしていると、あっという間に日々は過ぎていく。
 
 しかし、その合間合間に見える日高山脈の山々に、その朝夕の姿に、いつも見入ってしまう。
 冒頭の写真は、南に遠く離れた楽古岳(らっこだけ、1472m)の夕景の姿であり、あの”北の国からの”主題歌が聞こえてきそうな眺めではある。
 そして、このころはちょうど日高山脈の山々が、雪に覆われる時期であり、朝のモルゲンロート(朝焼け)に染まり輝く姿も素晴らしい。
 下の写真は、左に1823m峰、右に1903m峰を従えたカムイエクウチカウシ山(1979m)の雄姿である。これだから北海道はやめられないのだ。


 ・・・とここまでを、10日ほど前に書いていたのだが、W杯日本戦などに気をとられ、その他の小さな用事や仕事も重なって、またもや大休止がさらに続くことになってしまったのだ。
 ただただ、ぐうたら、怠惰(たいだ)の極みとも言うべき情けなさである。
 ”怠惰はメンタルヘルスの問題というよりかは習慣に問題がある”(Wikipediaより)とのことであり、まさにその通りであって、返す言葉もない。

 というわけで、とりあえず、残りの北海道滞在について書いておこう。
 トイレは外で穴掘り式、水はポリタンクにもらい水でけちけち使い、家の五右衛門風呂にも入れずに、全く快適な生活は送れないのだが、それでも家の周りの自然の景観は素晴らしい、と今さらながらに思うのだ。
 しかし、そのカラマツ林の手入れもしなければならない。
 倒木や傾いた木など数本は、チェーンソーで切り倒して、家の補修部材や薪用にするべく切り分けていく。
 そして振り仰ぐと、このカラマツ林の中で大きく育ってきたモミジ、カエデの樹々が、青空を背景に、貼り絵のように鮮やかに照り映えている。(写真下)
 生きていて良かったと思う、ひと時の眺めだ。



 遠くに見える山々や、目の前に見える樹々・・・こうして自分の五感を働かせて感じ取り、味わい楽しむこと。それこそが、今ここに生きている、という幸福感につながるのだろう。
 私は、東京にいた時から、いつかは田舎に住んで、もっと多くの色々な山に登りたいと思っていた。
 それを実現させるために、いくつもの大きな決断をして、一人で実行してきた。
 確かにすべてを一人で背負い込めば、それだけ労苦も多くなるし、失敗しても誰かのせいだと転嫁はできない。
 失敗は、あくまでも自分の力が及ばなかったからである。
 しかし、成功した暁には、独力でやり終えた満足感に満たされることになる。
 それこそがまさに、私の独りで山に登るという、登山スタイルそのものの姿でもあるのだ。

 山中を一歩一歩と登って行くごとに、少しづつ変わっていく景色があり、そのおごそかな大自然の中に包み込まれていくような感覚になる。
 そして、私は今ここにいるのだと実感することで、自分の生きている時間を、より意味のあるものとして味わうことができるようになるのだ。
 つまりそれは、山という自然の中にいて、登山という、緊張と疲労感の行動の繰り返しによって、ある種のぼうぜんとした、小さな恍惚感(エクスタシー)を感じていたからのことなのだが。(クライマーズ・ハイとでも言うべきか。)

 思い出せば、これまで晴れた日を選んで登り続けてきた、日本の山々にありがとうと言いたい。まだまだ登り残した山々がたくさんあるけれども・・・。
 思い起こせば、若き日に見た、ヨーロッパ・アルプスの山々にもありがとうと言いたい。それらの山々をめぐる、10日間のトレッキングの山歩きの間、奇跡的にも毎日晴れた日が続いてくれたこと。(ヒマラヤには行けなかったけれど、まあテレビ画像でも十分だからと負け惜しみ。)

 しかし今、私はいつ転移再発するかもしれない病を、体の中に抱えている。
 それで、3か月や半年に一度、詳しい検査を受けなけねばならないが、本当のところ、あまり私は病状を気にはしていない。
 最悪の場合には、痛みだけをおさえるべく処置してもらうだけでいいと思っている。延命手術も治療もごめんだ。
 そしてただ、黙々と下を見て歩む一匹の羊のように・・・私の逝くべき道を、たどって行くだけのことだ。

 誰でも、幸せ半分、不幸せ半分の人生なのだから、後はそれをどう判断するかだ、それが幸運だったのか不運だったのかと。
 私はいい人生だったと、自分に言い聞かせることにしている。その思い込みだけで、幕引きの時が近づいている自分の人生を、幸福な思い出でいっぱいにできるからだ。

 今回の北海道は、わずか2週間の滞在だったが、何人かの友達や知人たちとも会うことができて、うれしかった。
 やはり、友達とは元気な顔を見て話しをするのが一番だ。互いの間に、1年という空白の期間があったとは思えないほどで。
 ただ彼らの身の回りでも、確実に新型コロナの感染が広がっていて、あの人もあの人もという感じで名前が上がってくる。もちろんやがては、このコロナも風邪の一種類に数えられるようになって、収まってはいくのだろうが、今はまだ道半ばで、一足早く冬が来る、北海道での蔓延(まんえん)ぶりを目の当たりにした感じだった。

 私は、北海道に行く前に、オミクロン対応のワクチン注射をすませてはいたが、飛行機の中、空港ターミナルでは気をつけて、なるべく後の人の少ない所に座るようにしていた。
 私のような持病もちの年寄りは、なおさらのこと、重症化したら致死率は高くなるし、覚悟して旅行しなければならないということだ。(もっとも、機内外ともまだ人は少なかったが。)
 ともあれこういう時は、”君子危うきに近寄らず”と言うのが、もっともな警句になるのだろうが。

 それにつけても思うのは、ローマ時代の哲学者セネカ(BC4~AD65)の言葉である。

 ”人は皆、あたかも死すべきものであるかのようにすべてを恐れ、あたかも不死のものであるかのようにすべてを望む。”(「生の短さについて」セネカ 大西英文訳 岩波文庫)

 長くなったので今回はここまでだが、まだまだ2か月分、書くべきことはいろいろとある。年内には残りのことを書いてしまわないと、年をまたいでしまう。これ以上、怠惰の罪は重ねられない。

 

 


蜘蛛の糸

2022-10-18 20:49:51 | Weblog



 10月18日

 緑の固い葉の根元に、びっしりと黄金色の小さな花をつけ、かぐわしい香りを辺りに漂わせていた、あの晩夏の花キンモクセイ(写真上)の季節は、ある日突然、いっせいに花々が落下して終わりを迎えて、元の常緑樹の株に戻ってしまった。
 そんな夏の暑さの続く日々から、初秋の風が吹き抜ける時期になって、さらには木々の紅葉が始まり、身をすくめる肌寒さに、思わずストーヴの火をつけることになる。・・・こうして、すっかり秋になってしまった。
 ただじっとりと蒸し暑いだけの、夏の日々と比べれば、この秋の気配を感じるころは、実にさわやかで居心地がよく、毎年、楽しみに待ち望んでいる季節なのだ。
 しかし一方では、冬の寒さを畏れながらも、すぐ近くまで来ている、白い雪の世界にも憧れるのだが・・・。


 さて、この夏の終わりに2回目の手術を受けて、さらにその後の経過観察のために併せて、8日間入院していた。
 1年前の、全身麻酔下での悪性腫瘍除去手術と比べれば、今回は局所麻酔下での手術であり、三分の一ほどの時間ですんで、体の負担感も少なく、余裕をもって入院生活を愉しむことができた。
 看護師(婦)さんたちにもよくしていただいて、相変わらずお互いにマスク姿ではあるが、多くが去年も担当してくれた人たちであり、心おきなく話しかけることができた。
 さらに日ごろ家にいる時は、スーパーでまとめ買いをして、同じようなカツどん弁当にお惣菜弁当ばかり食べていたから、この病院での三食の食事は楽しみでもあった。毎食ごとに数種類のおかずがついてきて、正直に言えば、お金を払ってでも、1か月以上は病院に居たかったくらいだ。

 つまりこれは、若い看護婦さんたちの介護付きで・・・天国へ行く前の、本当に年寄りにやさしい介護施設なのかも知れないと思った。
 そして、最後は全身麻酔をかけられて、そのまま病院で死んでいけば、様々な手間も省けて、迷惑をかけるのも最小限ですむのだから・・・死が近づいたら、昔の映画のタイトルではないが、”だれか、私を病院につれてって”といいたいところだ・・・。
 スイスには、国から認められた、そうした安楽死を迎えさせてくれる病院施設があるそうだが・・・日本ではまだむづかしい生命倫理規定の議論中であり、私の願いはかなえられそうにもないが。
 言っておくが、これは私のような人生を十分に味わった年寄りの、終末を迎える時の願望であって、最近、事件性が問題になっている、若い人の自殺願望とは全く別の話である。

 一言で言えば、その若さでもったいないと思う。せっかく神様が、100年近い人生を味わうべくこの世に送り出してくれたのに、自分の人生が何かも知らぬまま、ただ一時的な思い込みから、目の前のすべてを”Paint Black”に、塗りつぶしてしまう・・・繰り返し言うが、もったいない・・・若き日の失敗や過ちは、後で思えば、長い人生の中での一瞬の句読点に過ぎず、若き日の成功や勝利もまた、一瞬の打ち上げ花火の残像のように残るだけものなのだ。
 黒いペンキに取りつかれている若者たちよ、目を覚まして空を見上げ、彼方に続く青空を見よ!

 さて、今回の8日間の入院でも、前回と同じように数冊の本を持っていった。
    去年と同じように、まずは日本の古典から、いつもの『万葉集』の2分冊を(和歌は短い一行で完結するから、寝落ちに読むには最適だ)、そしてこれも読み直し中の『徒然草(つれづれぐさ)』を。
 他には息抜きのために、雑誌付録の「日本アルプス・コースガイド」を。さらに現代の本からは、アメリカの詩人であり、自然保護活動家のゲーリー・スナイダーの書いた『野生の実践』(山と渓谷社)を、これは10年ほど前に買って少し読んでいただけのものである。
 今回読み直してみて、最初の方には体験集としてのフィールドワークの話が多く、あのフランスの哲学者、レヴィ=ストロースが書いた『悲しき熱帯』や『野生の思考』に初めて接した時と同じように、私の乏しい知識と読解力ではとてもついていけず、同じように中断した理由もそこにある。
 今回は、病院の個室という恵まれた環境の中で、何とか読み進み、中ほど辺りから面白くなってきて、終盤のインディアン口承伝説である”クマと結婚した娘”の話の辺りから、その昔アイヌの神話を読んだ時と同じような気持ちになって、引き込まれていった。
 それは”自然への畏敬の念”である。

  彼はこの本の中で次のように言っている。
 ”危機に瀕しているのは、ほかならぬ人間自身である。それは精神と魂の次元の話なのだ。”
 ”自然界にはそれ自体の価値がある。自然の生態系の状態こそ、人間の第一の関心事でなければならない。”

 人間であればだれでも、自分の周りの自然界にある、すべてのものに好奇心を持つのだろうが、私もそんな一人として、ヒグマやエゾシカなどの大型動物から、鳥類、昆虫、植物に至るまで、初心者ゆえの好奇心を抱き続けてている。
 前回写真を載せたように、家のベランダでしばらく舞っていた中型のチョウについて、断定できずにいたのだが、実は翌日ネットの写真集で調べてすぐに見つけたのだ。
 なんとそれは、ウラギンシジミという普通にどこでもいるチョウだった。
 もちろん私も何度も見ているけれども、それは翅(はね)を閉じた裏側の銀色を見せている時ばかりで、あの時にも少し見えた鮮やかな橙色紋様を、翅を広げた状態で見たことはなかったのだ。
 さらにシジミチョウの仲間は、あの大雪山で何度か見たことのあるカラフトルリシジミのように、小型のチョウだと思っていたから、中型で胴の太いセセリチョウと間違えたのも、初心者としては当然かもしれない。
 つまり、ウラギンシジミは、それだけで独立した科に属していて、厳密な意味では、シジミチョウの仲間ではないことを初めて知ったのだ、年寄りになっても勉強です。

 そして昆虫つながりで、もう一つ”蜘蛛の糸”の話である。
 それは教訓的な短編小説として有名な、あの芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のことではない、家の屋根からキンモクセイの植え込みにかけて張られた大きなクモの巣のことである。(写真下)



 それは長さ数センチにも及ぶ大きなクモで、もう一か月以上もそこに居ついている。
 ただし、辺りはもう枯葉の時期で、そのクモの巣にいくつかの枯葉が引っ掛かっていて、罠としては気づかれやすいのではないのかと思うのだが、彼はじっと居続けている。
 写真は、細かい霧雨が降った後に写したクモの巣で、小さな真珠を集めて作った首飾りのようにキラキラと輝いていて、そこでも彼は、中央上よりの定位置でじっとしている。
 何時間かたって見てみると、水滴は消え、まだ彼は同じ位置でじっとしていた。
 小さな昆虫がかかるまで、ただじっと待つこと、それが、彼の生きていく道なのだ。

 私たちも、何かを待っていることが多い。
 しかし、いつも待ちきれずに、自分から余分に動いてしまうのだ。

 NHKの大河歴史ドラマ、「鎌倉殿の13人」(十三人と書かなかったことにも意味があるのだろうが)は、ドラマはあまり見ない私が、久しぶりに楽しみに見ている大河ドラマである。
 何よりも鎌倉時代という背景が興味深いし、あの三大和歌集の一つ『新古今和歌集』の時代であり、後鳥羽上皇や源実朝(さねとも)、藤原定家(ていか、さだいえ)などが実在者として登場する。(併せて西行法師や兼好法師なども、少しだけでもいいから登場させてほしかったが。)
 それにしても、源氏三代と北条一族、さらに彼らと御家人たちとの関係を、史実を大きくは外れずに描いていて、心理表現としてのそれぞれの役者たちの、鬼気迫る演技が素晴らしい。
 つまり舞台は鎌倉時代なのに、現代の役者が、現代の演技で、変わらぬ人間の心理状態を暴いていくという、シェークスピアにも通じる、優れた舞台心理劇になっているのだ。
 現代を代表する脚本家の一人である、三谷幸喜の書くこの物語に、私は『羅生門』『七人の侍』『蜘蛛巣城』などの作品で有名な黒澤明からの、日本映画の伝統の影を感じないわけにはいかないのだが・・・。

 そして、先日のいつもの「ブラタモリ」では、今回の舞台が対馬であり、「鎌倉殿の13人」のすぐ後の時代になる元寇(げんこう)にまつわる遺跡などもあって、さらに地学地質番組として、堆積岩の見事な地層なども見せてくれていた。
 いつもの「ポツンと一軒家」も、毎回見ていても同じようで違うし、それぞれの違った人生が、そこにあることを教えてくれていて面白い。

 生きるということは、様々なことを知る機会があるということだし、それらのことで別の新たな世界を識るということにもなるのだろう。
 私の眼と耳と鼻と口と手足が、これらの今あるものを伝え続けてくれている限り・・・のことではあるが。
 生きていて、ありがとさーん。 

 


秋来たりなば

2022-09-26 21:18:49 | Weblog



9月26日

 ”秋来たりなば、冬遠からじ。”
 これはもちろん、有名な英国の詩人シェリー(1792~1822) の詩の一節である、”冬来たりなば、春遠からじ”(『イギリス名詩選』”西風の賦” シェリー 平井正穂編 岩波文庫)という、希望ふくらむ思いの言葉を、私なりに言い換えたものなのだが、年寄りにとっては、自分の行く末を憂うる言葉にもなるのだろうか。

 もっとも実際には、私はそれほどに、自分の人生の終わりを意識しているわけではなく、相変わらずぐうたらに、のんべんだらりと、日々が穏やかならばそれで良いと思いながら、生きているわけであり、厭世的になるほど、自分の人生を考えているわけではないのだが・・・。

 さてその後、新型コロナ感染者が、日ごとに全国的に増えていき、20万人を超えるほどになっている中で、4回目のワクチン接種の予定が、2度目の手術日の前になって重なり、やむなく、ワクチンの方は手術後に延期させてもらうことにした。
 しかしその間に、いつしかオミクロン株対応のワクチンに切り替わってしまい、結局は、今までの予定のワクチンはパスすることになってしまった。何が幸いするかわからない。
(余談だが、病院に向かうタクシーの中で、運転手さんと話していたのだが、もともと私は風邪をひきにくい体質らしくて、風邪で病院に行ったこともなく、今まで一度もインフルエンザの予防接種も受けたこともないのだ、と話したら、何とこの60代になるという運転手さんは、自分もそうだが、さらに今日まで、コロナのワクチン注射を一度も打っていないと言うのだ!・・・リスクの多い客商売の仕事でも、世の中には、丈夫な人がいるもので、もっとも外国のニュースでは、ワクチン注射を拒否する人が多いと聞いていたから、確かに十分にわかる話ではある。)

 さて本題に戻って、前回このブログで簡単に入院の報告をした後で、すぐに入院して手術を受け、1週間後には退院して、それから今は、もう3週間余りにもなる。
 今回の手術は、前回の一年前の5時間近くにも及ぶ悪性腫瘍除去の手術によって、多少機能不全に陥った器官を、形成外科的な手術を加えて補正するものであり、それほど危険なものではないとの医師の話しだった。

 しかし、前回の全身麻酔による手術の時には、5時間という長さだったにもかかわらず、深刻さの度合いも、自分としては覚えてはいないのだが、それが今回は、局所麻酔による上半身の一部の麻酔だから、手術中もちゃんと意識があって、執刀医の先生たちとは、両手の握り開きによって、多少の意思のやりとりもすることも出来ていた。

 ただ自分の体の中に、メスやドリルが入って行くさまがわかるというのは、気分のいいものではなく、場所によっては、もちろん小さな痛みも響いてきた。
 今回の手術は、1時間半ほどで、意識の中では、それほどの時間がたっているようには思えなかった。
 
 その後、手術の傷口は10針ほど縫われて終了し、病室で手厚い看護を受けて数日を過ごし、今は退院後の抜糸もすんで、機能は明らかに改善して、順調に経過している。
 ただこの悪性腫瘍の影響は何年先までにも及び、転移する恐れもあり、定期的な検査を受けなければならないとのことである。
 もっとも、脳天気(能天気ではない)で楽天的に考えるようにしている私は、あといくらあるかもわからない日を数えるだけの、余生にはしたくないと思う。
    たとえ、朝起きて食べてTVを見て本を読んでまた食べて風呂に入り夜寝る、だけの毎日であったとしても、一日一日に退屈することはない。
 外に見える景色が、晴れた日だったり雨の日だったり、草木の花が咲いたり枯葉が散ったり、遠くに山が見えたりという毎日違った日々があるからだ。
 住み慣れた小さな家と、質素な食事をするだけのお金があれば、それだけで十分でないかと思う。他に欲しいものはない。

 3週間ほど前に放送された、例のTV朝日系列の「ポツンと一軒家」だが、それは茨城県奥久慈の山奥にあって、江戸時代の安永年間に建てられて、もう244年になるという、かやぶき屋根の家が話の舞台だった。
 そこには、今でも元気な84歳と80歳のご夫婦が住んでいらして、奥さんの方は22歳の時に3キロの山道を登ってこの家に嫁いで来たとのことで、一方のご主人の方は、自衛隊の施設大隊に勤務していたこともあって、そこで仕事を憶えていたから、家の補修なども何とか工夫して自分でやったとのことである。
 奥さんは、”この人が望む限りここにいて、これから先も二人で静かに暮らしていければ良いし、それが私の望みです”と話して、それを受けてご主人もまた、”ここで静かに終わりを迎えられればそれでいい、今は無欲の心境です”と応えていた。
 長い歳月だけが知る、夫婦の縁(えにし)・・・。

 つまり、誰でも年を取ってくると、自分の生きる時間や範囲が見えてきて、死という終着点にたどり着くべく、そこに近い、無なる状態を望むようになるものなのかもしれない。
 しかし世の中には、今でも世間を騒がせているように、年寄りになっても、さらに地位とお金に執着する人が多いようだが・・・あーあ、思えば私は、そうしたえらい人たちではなく(なりたくともなれずにというべきか)、ともかく、名もない貧しい一般庶民で良かったと思う。
 
 ”秋来たりなば、冬遠からじ”と、まだ暑さの残る今ごろの季節から、もう庭木のモミジの枝先が色づきはじめ、月日の移ろいを教えてくれている。(上の写真)

 最近ようやく『徒然草(つれづれぐさ)』を再度読み終わり、改めて気づかされたことも多いが、ここではその中の百七十二段の一節から、それは論語からの言葉であるが、若き日の過ちを戒(いまし)めた後で、以下のようにしめくくっている。

 ”老いぬる人は、精神衰え、淡く(淡白で)おろそか(ほどほど)にして、感じ動く所なし、心おのづから静かなれば、無益のわざをなさず。身を助けて(体を大切にして)愁いなく、人の煩(わずら)いなからんことを思う。老いて、智の若き時にまされること、若くして、かたちの老いたるにまされるが如(ごと)し。”

(『徒然草』兼好法師 小川剛生訳注 角川文庫)

 つまりはと、私はベランダの揺り椅子に腰を下ろし、思い出の中の若き日の自分を、ある時は励まし、ある時はあざ笑い、懐かしく思い浮かべているだけなのだが・・・あーあ、我ながら、扱いにくい年寄りになったものだ。

 私の退院と帰宅に合わせるかのように、庭のヒガンバナ(曼殊沙華、まんじゅしゃげ)が咲きはじめたが(写真下)、今度の14号の猛烈な台風で散ってしまった。
 それでも、山の中にある家では風速30mぐらいですんだから良かったが、あちこちの樹の枝葉が折れたりしたし、それ以上に、夕方から次の日の夕方までの、まる一日にも及ぶ停電の間は、何もできずに閉口した。
 私たちの日々の生活がいかに電気に負っているかが、よくわかる。(しかし、このくらいならまだいい方かもしれない。ウクライナ戦争の地下避難民は、いつまで待てばいいのだろう。)

 

 その前の台風では、南風に吹かれてきたのか、あまり見慣れないチョウがベランダに舞い降りてきていたが、すぐに見えなくなってしまった。
 セセリチョウの仲間だとは思うのだが、もともとセセリチョウは、チョウとガとの間の種なのだから、見分けにくいところもあって、飛び方と形から、ガではないと思うのだが、表面の鮮やかなオレンジ色の紋様と、裏面の銀色は特徴的であり、ともかく分からないので写真にあげておくことにした。(写真下)
 台風に乗ってということは、珍しい迷鳥や迷蝶発見の時には、ままあることでもあり、少し前にも、台風の後、家から離れたところで、一度リュウキュウサンショウクイを見たことがある。もっともこの鳥は、九州本土でも部分的に留鳥になっているから、珍しくはないのかも知れないが、ともかく台風後は、蝶や野鳥などは注意して見回し探すべきなのかもしれない。

 というわけで、まあこの年寄りも、古典文学や古典音楽に、鳥に蝶に、さらに花だ木だ、テレビ・ドキュメンタリーだ、「街角ピアノ」だ「駅ピアノ」「空港ピアノ」だと言っては、そこにそれぞれの人の人生がかいま見えて、興味は尽きないのでありまして、生きることに退屈するなどということは、金輪際なさそうではありますが・・・。

 ただ気がかりなことも多くあり、例えばヒトラー戦争と同じように、今の時代に起きたウクライナ戦争を、それを仕掛けた狂気をだれも止められず、こうして永遠に世界のどこかで戦争が起き続けるのだろうか。
 一方では、母たる地球環境を激変させているのも、ある意味人間の狂気なのかもしれない。
 そしてその間にも、人間の欲望を煽(あお)り立てるかのように、先端科学は進み続けて、次世代市場だと言われている、メタバース仮想空間は、巨大な商業領域となって拡大して行き、人間が人間でいることが出来なくなる時代が、近づきつつあるかのような・・・私たち年寄りには、もう終わりが見えつつあるから良いようなものの、後は若い人たちにあるべき未来を祈るだけで・・・こうして年寄りたちは、過去のしがらみやかかわりからすべて解き放たれて、暗闇の彼方に見える明るい花園(「臨死体験」の世界)へと歩いて行くのであります・・・あーえらいやっちゃ、えらいやっちゃ、よいよいよいよーい。

 そういえば、病室で過ごした1週間についても、書いておかなければならないことがあるのだが、長くなったので、次回に回すことにする。

 それにしても、やっと今、あの耐え続けるだけの長い夏が終わって、秋になり、涼しくなってきたことが何よりもうれしいのですが。
 秋が好き、八丈島のキョン!

 


ここにいること

2022-08-25 21:14:59 | Weblog

 8月25日

 庭のサルスベリの樹に、今年は今までになくたくさんの花芽がついていて、もう長い間、”百日紅”というその名の通りに、深紅の花を咲かせている。
 初夏のころの、あの大量に実をつけてくれた、ブンゴウメの樹といい、それぞれに何か意味ありげに思えてしまう。

 今日は空気が澄んでいて、さわやかな風が吹き渡り、秋を思わせる快晴の一日だった。
 私は、体に風を受け止めて、歩きながら考えていた。
 青々とした草が辺りを覆い、木々は緑の枝葉を茂らせて、遠くの山々はくっきりとした山肌を見せていて、青空に小さな雲が二つ三つ・・・。
 私の目の前にある景色、私が今、ここにいるということ・・・他に何が要るというのだ。

 私は、再び入院して手術を受けることになった。

 


ゆるい諦観

2022-07-31 21:04:48 | Weblog



 7月31日

 前回の日付を見て驚いた。
 すでに一か月半も前のことになるのだ。
 私が悪うございました。
 ただひとえに、自分のぐうたらな怠けぐせゆえであり、小さくなって平身低頭するばかり。
 自分の日記外伝として、記録として残すべきところを、ただ漫然と過ごし、何も書かずにいたことに、自ら深く恥じ入るばかりであります。
 
 まず、悪性腫瘍除去手術一年後の経過としては、今のところ再発の兆候は見られず一安心なのだが、術後の機能回復のために、一部の再建手術が必要であり、そのための入院調整がされていたのだが。
 しかし悪いことに、前にも罹患(りかん)したことのある機能箇所の障害が起き、さらに新型コロナ・ワクチンの4度目の接種日も予定されていて、日程がずれ込んでしまい、秋に北海道の家に戻れるかどうか、というところにまで来てしまったのだ。
 
 さらに、この夏に断念せざるを得なかったことがもう一つ。
 それは、長年考えていた花を見るための、東北の山の縦走計画であるが、自分の年齢体力を考えると、今年こそは最後のチャンスだと思っていた。
 それには、天気予報で三日間の晴天の日が欲しかったのだが、というのも、この縦走ルートは普通の人なら二日もあれば十分なのだが、私は無理せずに三日で歩くつもりで計画していたのだ。
 そして、人が多くなる休日の日に、二日続いて晴れるという予報はあったものの、その後は天気の続く日はなく、今年も断念せざるを得なかった。
 あの3年前の、鳥海山での失敗をもう二度と繰り返したくはないし、と言っている間にも、年齢とともに山は逃げていくのだ。

 そこで、山関連の記録としては、一か月前に、久しぶりに由布岳(1583m)に行ってきた。(上の写真は、登山口からのカヤトの草原と由布岳)
 ”登ってきた”と書かなかったのは、頂上まで行かずに途中であきらめて、戻って来てしまったからである。
 東西両峰を分ける火口基部の、”マタエ”のすぐ下のとこまでは行ったのだが、ゆっくりと時間をかけて登ってきたために、暑さで少しもうろうとしていて、さらには朝あれだけの快晴の空だったのに、頂上付近に雲がまとわりつき始めていて(写真下)、自分の今の体力を考えて引き返すことにしたのだ。
 
 

 この山にはおそらく20回近くは登っていて、特に冬場の雪や霧氷がついている時に登ることが多くて(冬のお鉢一周はアルペン的で楽しめる)、もう今までに四季それぞれの良い所は見てきたのだから、一回くらい頂上まで行かなかったからといって、たいしたことではないしと強がりを言ってはいるが・・・残念ながら、寄る年波には勝てずということか。
 それでも、5時間ほどの間山の中にいたことになり、十分に山の雰囲気を楽しむことができたし、林の中にそこだけ明るく咲いていた、数本のヤマツツジの樹が、行きも帰りも私の心をなごませてくれた。(写真下)

 

 そしてこの一か月は、例のごとく時々、家の周りの一二時間の長距離散歩はしているが、山には登っていない。
 山についての、ゆるやかなあきらめ、と言うべきか、山麓の逍遥(しょうよう)を味わい楽しむべき時が来た、と言うべきか。

 今回取り上げたかった話は、この小さな諦観(ていかん)についてである。
 というのは、実は今年は、あの森鴎外(もりおうがい、1862~1922)の没後100年にあたり、そのための講演会や展示会、出版物などが見られていたのだが、先日新聞の文芸欄に、あの芥川賞作家の平野啓一郎氏の講演会での、森鴎外評論の一部が掲載されていて、そこで、(彼は)”人間の人生を反自己責任的に理解している。それが自身の人生に向かう時には「諦念(ていねん)」という概念に至る”(朝日新聞2022年7月10日)と語っていたからである。

 森鴎外は、私の好きな日本人作家の一人である。
 若いころにも読んでいたのだが、近年読み返して、その確かな文章と物語に、再度引き込まれてしまった。
 短編小説として読むのには、人口に膾炙(かいしゃ)している「山椒大夫(さんしょうだゆう)」や「高瀬舟(たかせぶね)」になるのだろうが、ともに心打たれる情景が目に浮かぶ。
 さらにもう一つの重要なジャンルとして、「興津弥五右衛門の遺書」から連なる「阿部一族」などの歴史小説があり、淡々とつづられていくその描写力がすさまじく、さらにそれは巨大な集積力となって、あの「渋江抽斎(しぶえちゅうさい)」以下の史伝小説へと昇華していくのである。

 軍医と作家という二足の草鞋(わらじ)をはいていた彼は、若き日にドイツに留学して(そのころの思い出を描いた小説が「舞姫」である)、そこで最新の細菌学を学び、軍の医局に勤めて陸軍軍医総監(中将相当)にまで上り詰めたのだが、当時の日露戦争では、自説を曲げずに細菌説を主張し、ビタミン不足の多くの兵を脚気(かっけ)で亡くすことになってしまったと言われている。

 その負い目もあったのだろうか、軍務の仕事をこなしながらも、一方では以上のような名作の数々を発表し、さらには、膨大な資料を必要とする史伝の世界にのめり込んでいったのも、理解できるような気がする。

 そうした作品群の底辺には、ある種の諦観が流れていると、昔から言われていて、不平等な社会に生きる人々への、ゆるやかなあきらめからくる現実直視と、静かな受け容れを表現しているからなのかもしれない。
 前に書いたことのある、島田雅彦氏の言う ”幸せとは、断念ののちの悟りである”(「NHK100 分で名著」”幸せについて考えよう ”NHK出版)という言葉に通ずるものがあるし、あきらめることすべてが悪いわけではない。

 目指すべき目的や計画をあきらめることは、大きな挫折を味わうことになるかもしれないが、他の見方をすれば、それまでのものに費やすべき時間や能力を、新たなものへと振り向けることもできるわけであり、一つの道をあきらめることはたんなる失敗ではなく、別な道を始めるためへの希望にもつながっているのだ。
 私は、いつ再発するともわからない病気に罹患してしまい、他にも小さいながら体のあちこちの異変もある。
 しかし、それらを一つ一つ悔やんでいたところでどうなるというのだ。
 それらのことを含めても、今こうして一日一日を元気でいて、まずは、この ”Wonderful World" に生きていられることを喜ぶべきではないのだろうか。

 例の『万葉集』から、酒の歌の連作で有名な大伴旅人の歌を一首。
 
 ”生ける者 つひにも死ぬる ものにあれば この世なる間は 楽しくあらな”

(生きている者は、やがては死んでいくものなのだから、せめてこの世に生きている間は、楽しくしていたいものだ。)
(『万葉集』巻三より 佐々木幸綱監修 中経文庫)

 つまりは、前回取りあげた『葉隠』や『養生訓』と同じようなことを言っているのだが、1300年前の奈良・天平時代から300年前の江戸・元禄の時代、さらに現代にいたるまで、人の思いは変わらないということなのだろう。

 さてこの夏も、ずっと家にいたおかげで、もちろん新型コロナの蔓延(まんえん)で、あまり外には出られなかったのだが、何と今年は、庭のブンゴウメが、初めて大量にというほどに実った。(写真下)



 おそらくバケツ三杯分くらいはあったのだろうが、ウメの実は傷みやすく、すぐに腐ってしまうので、バケツ二杯以上は捨てたことになり、さらに体調のすぐれない中、何とか数ビンのウメジャムを作ることができたのだが。
 それは、”立ちション”による”生ごやし”と、併せてちゃんと有機肥料をやっていたからかもしれない。
 ただ心配なのは来年以降で、ウメは今年その全精力を使って、大きなものでは直径5㎝にも及ぶ実を実らせ、これでもう来年からは、実がならなくなるのではないのだろうかと心配になる。
 それも天命、私の寿命と一緒で、相途絶えていくことになるのかもしれない。
 
 変わらぬものもある。毎年夏になると、いつも辺りにかぐわしい香りがして。 
 この一か月の間、庭にクチナシの花が咲いているのだ。(写真下)

 気がかりなもの、半年も続くウクライナの惨状、新型コロナの蔓延、エンゼルス大谷の行く末、逃げていく山々・・・。


人間一生、誠にわずかの事なり

2022-06-18 21:31:49 | Weblog



 6月18日

 ぐうたらな男にとって、月日の経つのは早いもので、前回の記事から一か月以上も、このブログを放っておいたことになる。
 もちろん、ここに書き残しておくべき事柄は、毎日何かしらあるのだが、それらがただ転がる雪だるま式に増えていき、それを傍観者のように見ているだけなのだ、自分への言い訳をしながら。
 生きているのなら、まずここに何かしらのことを書いておくことだべ、と変に訛(なま)って独り言をつぶやいてしまう。(前は半年以上北海道で暮らしていたのに、コロナ後の今では、一年のうちのほんの3週間ぐらいを過ごすぐらいになってしまったからなのか。)

 そこで私は、ムチで一叩きされたかのように、ようやく重い腰を上げるのだ。
 誤解なきように言い添えておくと、それは黒タイツ姿のおねえさんに叩かれて、アヘアへと喜ぶムチではなく、スキクワをひいて野良の畑起こしをさせられている、あの鈍重な牛たちの背中に浴びせられる、ピリリとくるムチのようなもので。
 生きていくこととは、自分の因果な思いをあれこれと背負って、時というムチを受けながら歩いて行く、農耕牛のようなもので、よだれを垂らしながらただ前に歩いて行くだけで、先に何があるかとはではなく、目の前の今があるということだけで・・・誰でも似たような一生だとは思うのですが、はい。

 この一か月の間に書くべきだったこと、自分が考えたことや世事への感想、歳時記としての移り変わりなどなどを、せめて一週間に一度ぐらいは書いておくべきだったのだが。
 しかし今となっては、それら多くの事柄の中から、適当に取捨選択をして、その幾つかだけを書きとどめておくことしかできない。
 こうして書き残さなかったいくつかのことは、何事もなかったかのような時の流れとして、私の記憶の中から消え去っていくのだろう。

 それはともかく、まずは山登りについて。
 冬の間も、何度か雪山ハイクなどに出かけて、雪景色や霧氷などを楽しんではいたのだが、さらに春になってヤマザクラや新緑の季節になると、やはり心が浮き立ち、山野歩きをしたくなるもので、もっともそれは両手を後ろ手に組んでの、年寄りのそぞろ歩きに過ぎないものであり、逐一記録に書きとどめるほどのものでもなかったからであるが。

 しかし、九州の火山系の山々にとって、一年のうちでもっとも華やぐ、初夏のミヤマキリシマツツジの花の季節がやってくると、同じ繰り返しの花のことだとは思いながらも、年ごとに微妙な違いのある美しさを見たくて、二度ほど山に行ってきた。
 ひとつは、5月下旬の別府の鶴見岳(1375m)であり、登りはロープウエイをつかわずに、御嶽権現(おんたけごんげん)社の長い石段から続く、ひんやりと涼しい林の中の登山道をたどって行く。
 途中右に正面登山道と分かれて、左に南平台方面へと向かい、九曲がりの斜面から、鞍ヶ戸(くらがと1344m、崩壊で登山禁止)に続く尾根に上がり、そこからミヤマキリシマが散在する西斜面を登って行けば、観光客で賑わう山頂に着く。
 帰りは下りでヒザを痛めないようにと、ロープウエイをつかって下りてくるという、最近ではおきまりの私の鶴見岳登山コースである。

 この登りのルートは、頂上の賑わいを除けば、意外に人が少ないのがよい。(コースタイムで2時間、私の脚で3時間。)
 何より私好みなのは、古くからのいわれのある御嶽権現火男火売(ほのおほのめ)神社と、その御神体でもある鶴見岳の山腹を囲む自然林の中を、鳥の声を聞きながら登って行き、最後に展望が開けて、ミヤマキリシマが美しい尾根道を歩いて行けることである(頂上の付近の観光客の賑わいには目をつむるとして)。
(写真上、鞍ヶ戸分岐付近より由布岳、写真下、ロープウエイ山上駅付近より、高崎山と大分方面)




 そしてもうひとつは、一週間ほど前に行ってきた、九重である。
 いつもの牧ノ戸峠(1330m)からという定番のルートだが、今回はこの時期に行くことの多い扇ヶ鼻(1698m)ではなく、久しぶりに、星生山(1762m)のミヤマキリシマを見に行ってきた。

 7時過ぎに牧ノ戸峠の公共駐車場に着くと、すでに満車状態で(その日は梅雨の晴れ間だったから)、仕方なく路肩駐車をする。そして青空の下、ノリウツギやヒメシャラ、ヤシャブシなどの低木林の山腹につけられた舗装された遊歩道を登って行く。
 展望台を経て尾根道をたどり、沓掛山(1503m)に着いて、この辺りの花はもう終わりに近いが、遠くに見える星生山や扇ヶ鼻は所々桃色に染っていて、今年の咲き具合はどうなのかと気になるところだ。
 というのも、事前にネットで調べた所、今年は九重の山のあちこちで、ミヤマキリシマが虫害に遭っていて、花のつきが悪いとのことだった。特にいつも行く扇ヶ鼻の花の咲き具合は今一つだという声が多く、そこで今回は星生山に行くことにしたのだ。

 扇ヶ鼻の分岐から、さらに久住山への縦走路とも離れて、星生山南尾根へと取り付く。
(写真下、取り付き斜面付近から扇ヶ鼻方面)




 このコースは、星生山からさらに星生崎への一部岩稜帯の縦走路となり、特に雪と氷で凍てついた冬場には、北アルプスもどきの稜線となって、私たちを楽しませてくれる。

 すぐにロープつきの岩場があり、そこを越えて砂礫の斜面を上がってゆくと、ゆるやかな山腹の先に頂上が見えてくるが、まあ何と人が多いことだろう。
 梅雨空の続く天気予報の中で、今日の晴れマークの日は、花の時期には貴重な一日になると皆が知っているからだろう。(しかし、この日は予報通りに晴れていても、雲の多い一日だった。)
 頂上直下の火口壁の所では多くの人々が、カメラを構えていた。

 私もそこに座り込んで、この岩稜縦走路の先に見える、久住山本峰(1787m)にかかるガスがとれるまで待って、ようやく何枚かの写真を撮ることができた。欲を言えば、青空の背景があればと思うのだが、まあこの辺りの花はちょうど今が盛りで虫害も少なく、天気はともかく良しとするべきだろう。(写真下)




 まだまだ登ってくる人も多くて、落ち着かなくて、それでも30分近くいたことになるだろう。
 今回は天気も気がかりで、先に続く縦走はせずに、急な南斜面を西千里浜へと下り、分岐に戻り、後は朝来た道を引き返すだけだが、もうへろへろになっていて、年寄りの脚のよたよた歩きで、1時半ごろ何とか牧ノ戸に帰り着いたが、コースタイム往復3時間ぐらいのところを、休み時間も入れて、なんと6時間もかかっている。
 10年位前までには、この先の久住山や稲星山や中岳・天狗ヶ城なども回って、今回とは倍以上の距離を、さすがに疲れ果ててはいたが、それでも8時間くらいで戻ってきていたというのに。

 時の流れは、ゆっくりとではあっても確実に、自分の身体も心も共に乗せて、流れ下ってゆくものなのだ。
 何度も言うように、年をとることは、悪いことではない。確かに自分の体の衰えを教えられることはあるが、一方では、心の広がりや心の彩(いろどり)の世界を、新たに見せてくれるものでもあるからだ。
 こうして、山登りに時間がかかるようになったけれども、そこに新たに付け加えられる時間は、ゆっくりと考え感じとるための時間として、山登りによって教えてもらった時間でもあるのだ。ああ、ありがたや。

 そこで思い出すのは、同じように年を取ってきた昔の人たちの言葉である。
 今までにもここで、洋の東西を問わず、様々な先人たちの言葉をあげてきたが、今回は、江戸時代に書かれた『葉隠(はがくれ)』の中の一節から。

『葉隠』は、江戸時代の九州は佐賀鍋島藩に仕えた山本常朝(つねとも、1659~1719)の言葉によるものであるが、藩主光茂が病死した後、自ら”二君に仕えず”と出家引退して、山里に隠棲していたが、そこに三代目藩主に仕えていた藩士の田代陣基(つらもと)が訪れてきて、常朝の言行録を書き留めていき、常朝の死後それらの言葉を冊子にまとめて、藩内で読み継がれていったものとのことである。

 この『葉隠』の中であまりにも有名な言葉が「武士道というは、死ぬ事と見付けたり」(聞書第一)であるが、昭和の軍国主義の時代の中で、”大和魂の書”として賛美されてきたゆえに、敗戦後のアメリカ自由主義思想の中では否定され、時代の中に埋没していったのだが。
 しかし、平和な今の時代に、そうした昔の身分関係を守る書としてではなく、幅広い人間関係の心の書として読むと、新たなしかし変わらぬ日本人の心の真実が見えてくる。

 私が、今回あげたかった言葉は、「武士道というは、死ぬ事と見付けたり」という一節とは、まるで反語の位置にあるような、次の一節である。

 「人間一生、誠にわずかの事なり。好いた事をして暮らすべきなり。夢の間の世の中に、好かぬ事ばかりして、苦を見て暮らすは愚かなることなり。・・・。」
(『葉隠』名言抄 聞書第二 笠原伸夫訳、三島由紀夫『葉隠れ入門』より 新潮文庫)

 もちろん、彼はこれを快楽主義のすすめとして語ったわけではなく、あくまでも自分のように早く引退して、これから老後を送るような人々におくる、心構えの言葉として伝えたのだ。
 地位だ名誉だ金だ財産だと、年寄りになっても見苦しく立ち回る人々にあてた、警告の言葉でもあるのだ。
 この言葉の後、彼はちゃんと付け加えて言っている。「・・・この言葉は、若者には悪く取ると害になるから伝えてはならない」と。

 面白いのは、ここでも何度もあげてきた、あの貝原益軒(1630~1714)の『養生訓(ようじょうくん)』でも、同じようなことが言われているということだ。
 
 「老いての後は・・・常に楽しみて日を送るべし。人をうらみ、いかり、身をうれいなげきて、心をくるしめ、楽しまずして、はかなく年月を過ぎなん事、おしむべし。かくおしむべき月日なるを、一日もたのしまずして、むなしく過ぎぬれば、愚かなりと云うべし。・・・。」(『養生訓』貝原益軒著 石川謙校訂 岩波文庫)

 興味深いのは、福岡黒田藩に勤めた藩医、儒学者でもあった貝原益軒と、先にあげた佐賀鍋島藩の御側役(おそばやく)を勤めていた『葉隠』の山本常元との類似点である。
 歳の差が二十歳もあって、二人の間に接点があったのかどうかは分からないけれども、同じ九州の隣藩に位置していて、同じ元禄の時代を生きてきた二人が、当時の社会の華美に傾く風潮にあがらうかのように、あるべき武士としての姿、その矜持(きょうじ)あるたたずまいを提示していたということに、少なからず考えさせられるし、もし私に才能があるならば、二人の主人公を主役にした、サムライ映画を作ってみたいとさえ思わせるのだが。
 ただ大きな違いは、当時としては極めて長寿(84歳)を全うした貝原益軒と、当時の寿命に近い61歳で亡くなっている山本常朝の差である。

 もちろん、長く生きたほうが良いとかいう問題ではないのだが、ただ言えるのは、自分で書き表した『養生訓』にある通りの長寿法を自ら実践していたであろう益軒と、そうではなかった常朝との生き方の差にあったのではないのかと思われるのだが。
 というのも、上にあげた、常朝の『葉隠』聞書第二にある「人間一生・・・」には続きがあって、
 「・・・我は寝ることが好きなり。今の境界相応に、いよいよ禁足して、寝て暮らすべしと思うなり。」と言っているのだ。 
 一方の益軒の方はといえば、「・・・老人はつねに盤座(ばんざ、あぐら座り)して、凭几(しょうぎ、腰掛)をうしろにおきて、よりかかり坐すべし、平臥(へいが、横になる)を好むべからず。」とあるからだ。

 といって私はといえば、ささやかな夕食をすませた後、横になって、鼻をほじりながら、テレビを見ているのであります。どもならん。

 他にも書きたいことは、「ベニスに死す」のマーラーの5番や「鎌倉殿の十三人」、エンジェルスのトラウタニ、ウクライナ、テレビのドキュメンタリーに、天然水のCM(北アルプス白馬三山)、いつもの「ブラタモリ」に「ポツンと一軒家」などなどと興味は尽きないが、もうここまでで十分に長くなってしまった。
 もう、ぼくはこれ以上、書けまっしぇーん、風呂入って寝ます。

(参考文献:『葉隠』山本常朝著 和辻哲郎・古川哲史校訂 岩波文庫、『葉隠入門』三島由紀夫 新潮文庫、『続葉隠』山本常朝構述 神子侃編 徳間書店(たちばな出版より再版)、『養生訓』貝原益軒著 石川謙校訂 岩波文庫)