10月10日
気がつけば、前回からもう半年もの月日が流れ去っている。
今日までのことを細かく書き綴って、それらの月日の後を追いかけて見ても、たいしたことは何も出てこない。
簡単に言えば、いつものぐうたらな怠けぐせが積み重なって、毎日続いていただけのことなのだが。
ただ、去年一昨年と二度の手術後の今、転移などはまだ見られないとのことだけれど、他にいくつかの検査を要する症状が顕われたりして、要注意の状態であり、そのための別な手術を受けることにもなりそうではあるのだが・・・。
若いころから、風邪ひとつひかない健康な体を、当たり前のことだと思っていたのに、年寄りになってから、こうして体のあちこちで不調が起こり、不協和音のように響き交わすようになるとは・・・まるであの”ヨハネの黙示録”の、御使たちが”悔い改めよ”と吹き鳴らす、ラッパの響きそのものではないか・・・。
しかし、元来が脳天気(能天気ではない)な性格で、あまり物事を複雑に考えることのできない、単純気質のこのじじいは、自分なりに考えてみるのでした。
前回(といっても半年前)にもあげた、あの万葉集の大伴旅人(たびと)の歌と同じく、”酒を讃(ほ)むる歌十三首”の中からの一つなのだが・・・。
”この世にし 楽しくあらば 来む世には 虫にも鳥にも われはなりなむ” (「万葉集 釋注二」伊藤博 集英社文庫ヘリテージシリーズ)
と生きにくいこの世を、歌一首で見事に表現したように、万葉人(びと)の時代のころからというより、いつの時代でも人々は、自分なりの小さな避難所(シェルター)となる世界を持っていて、そこでささやかな安らぎを得ていたのだ。
それは身分環境、年齢貧富の差を越えて誰にでもある、ある種の悲哀漂う、穏やかな境地とでもいえるものなのだろうが。
つまり、人は時代年齢にかかわりなく、ささやかな愉しみに浸ることで、ほんの少しでも、より良い生をまっとうしようとしていたのだ。
それは何も、上にあげた大伴旅人の歌のように、酒を飲むことだけではなく、特に多様に分化された領域からなる現代社会では、様々な趣味の世界があり、現実空間や仮想空間(メタバース)にあふれていて、そこには人さまざまな愉しみがあり・・・”蓼(たで)食う虫も様々”な様相を呈しているのだが。
”遊びをせむとや生まれけむ 戯(たわむ)れせむとや生まれけむ 遊ぶ子供の声聞けば 我が身さへこそ揺るがるれ(子供の声に合わせて自分も体をゆすってしまう)” (「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」日本の古典、小学館)
人には、人それぞれの好みや生き方があり、虫けらには虫けらの好みの食べ物があり、行きたい方向がある。
ある人は、自分の生きてきた証として、その爪痕(つめあと)を今ここに残しておきたいと思うのかもしれないが、それは結局、その時代だけの一過性のものであり、やがて忘れ去られ、埋もれてゆくものなのだ。
例え、永遠に語り継がれるような顕著な業績を残し、ほめたたえられたとしても、この世にいない自分が、どうして死後のことを知ることができるだろうか。
多くの生きものが通り過ぎる、時の流れの道では、自分の足跡、爪痕など、瞬時のものにしか過ぎないことを知っておくべきだ。
つまり人にとって大切なことは、今をどう生きていくかであって、死ねば自分の身体の機能感覚がすべて失われ、それ以後のことは知る手立てもないし、やがて体が崩壊する物体となり、分子レベルに分解され、骨と塵芥(ちりあくた)となってしまうのだ。そのような冷酷な現実を背景にして、自分が今、生きていることとは。
その値千金の時の中にいて、ただ、こうして生きているだけでいかにありがたいものかと・・・。
上にあげた”梁塵秘抄”の一句を思い浮かべながら、自分なりにこうも考えてみた。
今の社会、実の母親に殺される子供や自殺する子供がいて、さらには人生を知る前に死んでいく若者たちもいるし・・・何と無駄な早死にだろう。
そして外に目を向ければ、中東とイスラエルでの歴史をかけて繰り返される戦争や、ウクライナヘのロシアの侵略戦争などがあり、止めることすらできない情けない国際社会の現実があるのに、しかし日本にいれば、所詮は他人ごとでしかなく、すべては自分にかかわりのないことだからと思いがちである。
それは仲間の一頭がライオンに捕まり食べられているのを、遠巻きに見つめるしかない、あのアフリカはサバンナのヌーの一群たちの姿に重なるのだ・・・。
やがてAI(人工知能)社会が到来して、人間はそのAI様にかしずくように支配されることになり、それでも地球環破壊の悪化はとどまらず、やがてはあの童話「ハーメルンの笛吹き男」の光景のように、ネズミの大群に似た人の群れが、核兵器戦争後の海にいっせいに飛び込み、死んでしまう日が来るのではないのかと・・・今、その終末の時が迫っているのかもしれない。
”悔い改めよ”。
だから、生きている今こそが一番大切なのだ。
大きな青空が広がり、わずかに秋色を帯びた樹々の上に、これまた秋のうろこ雲がゆったりと流れていく。(写真上)
今はキンモクセイの繁みの中に、小さな黄色い花がびっしりと咲いていて、辺り一面に馥郁(ふくいく)たる香りを漂わせている。(写真下)
思えば、新緑の四月、あのクチナシの花が咲き始めたころから、その前のウメの花に始まり、サクラ、ツバキ、シャクナゲ、ツツジ、サルスベリ、ヒガンバナにキンモクセイと続き、私の眼を楽しませてくれた庭木の花々たち・・・また次の一年、こうした花々に相まみえることができるのだろうか。
この半年の間、特に夏の盛りのころには、少し熱があって体がふらつき、ほとんど一日を、クーラーをつけた部屋の布団の中で過ごすことが多かったのだが、そのときは本を読む気にもならず、ただ無聊(ぶりょう)の時を過ごしていたのだが、それでもテレビを見る(聞く)ことはできたし、その中には、なかなかに興味深い番組もいろいろとあった。
とは言っても、テレ朝の「ポツンと一軒家」以外は、ほとんどがNHKの番組で、”NHKの回し者”と言われそうだが、同じ昭和の年寄りたちが見る番組は、皆そうしたものだろう。
いつもの「ブラタモリ」から「ダーウィンが来た」「クローズアップ現代」、そして昼間の「日本百低山」、そして草花が好きなこともあって「らんまん」も半分くらいは見たが、それらの中でも何と言っても私の励みとなり悦びにもなったのが、二刀流野球の大谷翔平のBS中継放送である。特に6月から7月にかけての活躍時には、番組で見るだけでは飽き足らず、その後に、ネット・ニュースやレポート番組を繰り返し見ては、ひとり悦に入って楽しんでいた。(そして昨日も、その”大谷”番組をやっていた。)
それは昔の浪花節(なにわぶし)、あの「清水次郎長伝、森の石松三十石船道中」の一節を聞くのと変わりはない。
子供のころ、まだ家にテレビがなくラジオだけだったころ、その唯一のラジオから流れてくる浪花節、その浪曲語り、二代目廣澤虎造(ひろさわとらぞう)のどすのきいた渋い美声に、子供ながらにしびれたものであった。
”旅ゆけば、駿河(するが)の国に茶の香り、名代なるかな東海道、名所古跡の多い所、中に知られる羽衣の、松と並んでその名を残す、海道一の親分は、清水港の次郎長・・・”
さて話は、その清水次郎長の子分、森の石松が親分の名代(みょうだい)として、金刀比羅宮(讃岐の金毘羅さん)に刀を奉納して、その帰り道、大阪天満橋そばの八軒屋の船泊から京都伏見へと向かう、三十石船の中で、ばくち打ち列伝に詳しい、江戸っ子の若い兄さんの話に乗っていき、それから次はと聞きだしていくのだ。
”えっお兄さん、次郎長ってえのはそんなに偉いのか”
”いい子分がいるぜ、次郎長には”
石松は、自分の親分や自分たち子分のことをほめられて、嬉しくなって調子込んでにじり寄っていく。
”飲みねえ、飲みねえ、寿司食いねえ。江戸っ子だってねえ”
という名場面のくだりがあるのだが、今でもこの廣澤虎造の名調子を、YouTubeで聞くことができる。
私が今シーズンの大谷翔平を繰り返し、ビデオで見ているのは、全くこの石松の喜びようと変わりはないのだ。
しかし、大谷の野球人生の最後まで見続けることはできないにしても、せめて再来年のシーズンで、大谷が再び二刀流の活躍をするまでは、生きていたいと思うのだが・・・。
”神さま、わたしに星を取りにやらせてください。”(「星を得るための祈り・・・」フランシス・ジャム 堀口大學訳 新潮文庫)
(参考1:『万葉集 釋注一~十』 伊東博 集英社文庫ヘリテージシリーズ、分厚い文庫本の全集であり、やや研究者としての論調が過ぎる所もあるが、編者の一大労作であり、教えられるところが多い。)
(参考2:『枕草子 上下巻』 石田穣二訳注 角川ソフィア文庫、高校の古典の教科書に、例の”香炉峰の雪”の一節が載っていて、そこでの自分の知識をひけらかし自慢する清少納言が嫌いになり、その後、他の古典は素直に入っていけたのだが『枕草子』だけは読み流すだけで半ば無視していた。しかし、今回しっかりと読んでみて、やはり彼女の感覚表現には、さすがだと思わせるものが数多くあり、幾つもの切り口からさらに読み直したくなったほどである。人間、死ぬまで勉強です。その『枕草子』からの一節・・・。)
【ニ四五】ただ過ぎに過ぐるもの
帆かけたる船。人の齢(よわい)。春、夏、秋、冬。