ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

紅葉と黄葉(2)

2018-09-24 21:54:29 | Weblog




 9月24日

 前回からの続きであるが、しかし今、山の紅葉が頂上から山腹周辺へと移っている中で、2週間前ほど前の山の様子を書いていくのは、いささか気が引けるが、もともとこれは私自身のための備忘録的な意味合いを持つブログであり、さらには年寄りの認知症対策作業だと考えれば、これもまた許されるべきものだとは思うのだが。

 さて、私が山に登った一週間ほど後にテレビニュースで、大雪山の主峰旭岳(2290m)の初冠雪の姿が、麓(ふもと)の旭岳温泉からの影像として映し出されていた。
 確かに、一か月ほど前には、大雪山黒岳(1984m)での初雪が確認されていたから、おそらくは旭岳でも初雪が降っていたのだろうが、しかし冠雪したかどうかは麓からの目視によるものであり、いくら頂上に雪が積もっていて今シーズンの初雪だとしても、天気が悪くて麓から確認されなければ、それは冠雪とは認められないし、この4日前の雪こそが初冠雪と記録されることになるのだ。

 そして、次の日の天気予報では、全道的に晴れのマークがついていたから、私も一瞬山に行こうかと思ったのだが、それは、例の大雪山情報ブログの”イトナンリルゥ”に、見事に紅葉した銀泉台斜面の写真が載っていたからなのだが。 
 つまり、前回書いたように、頂上稜線縦走路部分の低い灌木帯の紅葉は、あの早い初雪などの影響で紅葉が早まりさらには寒さのためにすでに変色しては落ちてしまっていて、今年の紅葉は良くないという話を納得させるものだったのだが。しかし、その寒さの影響をあまり受けなかった、中腹山麓部では、これも”イトナンリルゥ”の写真を見て知ったことだが、いつもの年と変わらないようなきれいな色合いを見せてくれていた。 

 さらに、この”イトナンリルゥ”の作者Tさんは、初雪の次の日に黒岳から北鎮岳(ほくちんだけ、2244m)へと足を延ばしていて、その北鎮岳からの雪の旭岳の写真を載せてくれていたが、それは”山の雪マニア”の私としては、久しぶりに興奮した一枚だった。
 青空の下、大雪山では旭岳に次ぐ標高の北鎮岳からの、雪に覆われた旭岳・・・申し分のない設定であり、私も同じような光景を何度か見ているが、それに勝るとも劣らない、私好みの写真だったからだ。

 つまりその時、私は中腹の紅葉具合に目が行っていて、前回行ったばかりの黒岳への道をたどって、さらにお鉢の先にある北鎮岳にまで行って、初雪の旭岳を見ようとは考えてもいなかったのだ。(それどころか、その日は出かけもせずに、いつものぐうたらな一日を送ってしまったのだ。もっとも、それもまた私の心地良い一日ではあったのだが。)
 若いころは、黒岳から北鎮岳どころか、その先の比布岳(ぴっぷだけ、2197m)や安足間岳(あんたろまだけ、2194m)までラクに往復していたというのに・・・寄る年波には。

 さて、前置きの話がすっかり長くなったがそんな年寄りの昔話よりは、今の山の話をしなければ。
 黒岳の頂上から下りてきて、黒岳石室小屋近くにまでくると、北側に小さくまんじゅう型に盛り上がった桂月岳(1938m)が見えてくる。(写真上、左手は上川岳、右手には遠く天塩岳) 
 そして、その先の十字路から、久しぶりに小屋の前を通って桂月岳へと向かった。
 桂月岳の名前の由来は、遠く大正時代に大雪山に登って、その名を日本中に知らしめた文筆家大町桂月(1869~1925)にちなんだものである。
 大雪山には他にも、あの探検家間宮林蔵にちなんだ間宮岳、植物学者小泉秀雄にちなんだ小泉岳や、冒険家、幕府特使として北海道をくまなく歩いた松浦武四郎にちなんだ松浦岳(緑岳)などがある。

 しかし、この山は標高も低く、縦走路からは離れているために、一般登山者に登られることが少なく、むしろ石室やそのテントサイトに泊まった人たちが、朝の御来光を見るために登る山(15分くらい)として知られていて、私もその頂上からの朝日を見たことがある。
 ハイマツの中の道を行くと、すぐに岩と低い灌木帯の斜面の登りになる。 
 そこで、もしかしてまだ見られるかなと思っていたのだが、やはりウラシマツツジやクロマメノキなどの紅葉は、もう終わりに近く暗い茶色になり始めていた。それでも、光越しに見ればまだ十分にきれいには見えたのだが。 
 ただし、この山は少し縦走路とは離れた位置にあるために、いつも見慣れている他の山が前景を含めて、少し違った形に見えて、どこか新鮮な感じがする。(写真下、桂月岳山頂下より右に北鎮岳、白水川源流部をはさんで、左にお鉢火口壁の間宮岳)




 その中でも、特に印象を新たにするのが黒岳である。
 特にその北面の、黒岳沢への崩壊斜面の姿はすさまじく、周りがなだらかな大雪山高地と呼ばれる広がりの中にあるだけに、異彩を放っていて、冬場だけでなく夏の沢登りでの遭難者も出ているほどだ。

 この山は、いつも人が少なくてありがたいのだが、この時も行きと下りに一人ずつに出会っただけである。
 往復で30分くらいの所だが、その岩だらけの山頂付近に長くいた分を含めて、1時間余りを過ごした。
 小屋の前に戻って来ても、まだ昼頃だったので、もう少し先のお鉢めぐり周辺の紅葉具合はどうだろうかと、途中まで行ってみることにしたが、やはり”イトナンリルゥ”の写真の通りに、ウラジロナナカマドは橙色のまま枯れ始めていたし、ウラシマツツジやクロマメノキの色も暗く枯れてきていたし、頼みのチングルマもくすんだ感じだった。(写真下、凌雲岳を背景にして、黄や赤の草もみぢ色のイグサ・カヤ類とくすんだ紅葉のチングルマ)





 しかし、今までに何度も、きれいな紅葉の時を見てきている私には、やはりこれでは物足りなくて、これ以上行ってもとあきらめて、途中で引き返すことにした。
 縦走路には、それほど多くはないにしても、まだまだ行き交う登山者たちがいたし、中には大型ザックを背にした外国人パーティーもいた。さらには、黒岳にかけては、若い外国人のカップルが多く、そのほとんどが短パン半そで姿で、手にはジャケットを持ってはいるもの、寒くないのだろうかと心配してしまう。

 さて、石室前に戻って来て、最後の黒岳への登り返しで山頂に着く。
 まだ晴れてはいるものの、少し薄雲も広がってきていたが、あとはリフト乗り場まで下って行くだけだった。 
 その下り道では若い人たちに抜かれてしまったが、気にすることもなかった、時々立ち止まっては、草花の写真を撮って行った。
 リフトからロープウエイと乗り継いで下の駐車場に戻って来たのは、3時くらいだった。

 今日の歩行時間と休憩を併せて、山の中にいた時間は6時間余り、今の私には実に適度な山歩きであり、天気も良く寒くも暑くもなく、そよ風が吹き渡り、いつものことながら、ああ山に行ってよかったと思うひと時だった。 
 長い家への帰りの途中で、友達の家に寄って、久しぶりのよもやま話に興じることができて楽しかった。
 夕暮れの中に暮れなずんでいく、日高山脈の山々を眺めながら、家に帰り着いた。
 さすがに、長いドライブ時間と久しぶりの登山に疲れてはいたが、それは思うに、山に行って歩き回り帰ってくる間、他のことはあまり考えない単純で充実した一日だったのだ。

 思うに、アホな私が山登りが好きなのは、何も考えずに、アホのまま単細胞でいられるからなのだろうか。
 しかし、そうすれば、それまでにぐうたらに過ごしていた毎日は、全く意味のないものだったのか、それは無駄なまさに”非生産的”毎日であったのかというと、そうではない。
 つまり、毎日、毎日山に登っていれば、それが日常になり、一つ一つの小さな山のありがたみさえ、分からなくなってくるのと同じで、無駄に思える平坦な毎日があるからこそ、異空間である山の環境に新鮮味を覚えて興奮するのだろう。 

 例え話とは少し違うかもしれないけれど、先日見たいつものNHKの「日本人のお名前っ!」では、同じ局内にいる若いディレクターの名前が取り上げられていて、そんな難読漢字にあたる樗木(おおてき)という名前の語源を調べていくという構成になっていたのだが、そもそも彼が高校生のころ学校の先生が、皆の前で難読の彼の名前を紹介するために言ったのは、”樗木(おおてき)という字は珍しいが、もともと中国では、樗木(ちょぼく)という字は役に立たない木のことであり、とるに足りないものという意味である。”と説明されて、彼はがっかりしてそれ以来肩身の狭い思いをしてきたのだと言っていた。
 確かに博識な先生ではあるが、番組ではさらに専門家に尋ねて、そのもとにある樗(ちょ)についての話を聞き出してきたのだ。

 それは、”孔子の思想”とともに”老荘の思想”と呼ばれるほどの、中国の一大古典になっている、荘子(”そうし”あるいは”そうじ”とも呼ばれる。本名は荘周(紀元前369年~286)が書いたとされる「荘子」がその字の出典のもとになっているというのだ。

 ここでは、原文はもとより漢文読み下し文でも分かりにくいから、現代語訳されたものをさらに自分なりに意訳して書いておくことにする。(以下『現代の名著4』 老子荘子 小川環樹・森三樹三郎訳 中央公論社)

 ”(いつもの議論相手の)恵子(けいし)が荘子に言った。私の家の庭には樗(ちょ、ヌルデの木)と呼ばれている大木があるが、その太い幹はコブだらけで、切って材木にするにしても墨(すみ)引きすることもできないし、枝も曲がりくねっていて差しがねで寸法を測ることもできない、切ったところで大工でさえ振り向かない、しまつに負えないものだ。それと同じであなたの考え方も大きいばかりで、誰も振り向いてはくれないだろうよ。”
 すると荘子は答えた。
”(ヤマネコと野牛の二つを例にあげた後で)、あなたはせっかく大木を持ちながら、役に立たないと考えているようだが、それならその木を何もない野原に植えて、その周りをさまよい歩いて時を無駄に過ごし、あきらめてその木陰の下で昼寝でもしてみたらどうだろうか。その涼しい木陰に居れば、その木を切り倒すために斧(おの)を使う気も起きないだろうし、そんな危険な作業をする必要もない。それが無用のものであるにせよ、それがあることで困ることは何もないと思うのだが。”

 荘子の説く、いわゆる”無用の用”の意義を端的に表している一場面ではないだろうか。
 つまり、NHKの樗木(おおてき)さんは、誇るべきいわれのある姓を受け継いでいたことになるのだ。
 これは「荘子」の初めの部分にあって(「荘子」内編 第一逍遥遊編)、私も昔読んだことがあり、かすかながら記憶していたのだが、実利主義、効率主義で動いている現代社会にこそ、必要な警告となる言葉ではないだろうか。 

 これは何も、日ごろからの、ぐうたらな自分の生活ぶりを弁護するために言うのではないのだけれど。

 ”万物の根源である、道(タオ)の世界”を説いた、老子に比べて、この荘子の方が、より具体的な日々の暮らしの中にも、たとえをあげてわかりやすく説明していて、それが日本の古典文学の世界にも、間接的な影響を与えていることは疑いない。 
 

 ”我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか” 
 
 フランスの画家ポール・ゴーギャンが描いた畢生(ひっせい)の大作に書き込まれていた言葉であり、10年ほど前の日本での展覧会(2009.8.4の項参照”)でも展示されていた。


紅葉と黄葉

2018-09-17 23:30:21 | Weblog


 9月17日

 数日前に山に行ってきた。
 いつもの大雪山、黒岳周辺である。
 今年の山の紅葉具合は、と聞かれると。
 ”まあ、天気が良かったので、きれいな所はよりきれいに見えたし、それほどでもない所もそれなりにきれいでした”、と答えるしかないのだが・・・。
 その昔、一世を風靡(ふうび)した写真フィルムのCMがあって、そのCMキャッチコピーのように・・・。
 そして、その時に綾小路家のお嬢様役を演じていた、樹木希林さんが、今の時代にはまだ早すぎる75歳でお亡くなりになり、その一方では、今朝のテレビを見ていたら、今年85歳になるという、宝塚出身の大女優草笛光子さんが、全くそんな年を感じさせない美しさとお元気さで、近くのお寺の境内を歩ている姿が映し出されていた。
 人それぞれの、人生なのだろうが。

 最初から、話がそれてしまったが、山の話に戻ろう。
 またしても、山に行くのが一か月も空いてしまった、というよりは、年寄りになってもせめて一か月に一度の、山登りのペースは保ちたいという思いもあってのことだが、ともかく大雪山の稜線の紅葉が盛りの今の時期に、もちろんそれは晴天の続く日にと、ようやくその日を決めて出かけることにした。

 その日の朝、十勝平野は一面の雲の下だったが、心配はしていなかった、気象衛星や天気分布予報、さらには現在の山のライブカメラで見ても、天気が悪くなる心配はなかったからだ。
 糠平(ぬかびら)から三股の盆地に入るころには、青空の下にウペペサンケ、ニペソツ、クマネシリ、石狩・音更と個性ある周囲の山々が見えていた。
 三国峠のトンネルを抜けると、谷あいの彼方に高い山なみが見えてくる。
 この時期でも、まだあちこちに残雪を残して、秋色の山肌に装いを変えた大雪の山々だ。
 
 次のポイントである高原大橋は、2年前の台風被害による一部崩落から、仮橋がかけられていたが、ようやく新しい橋に建て替えられたばかりのところで、ここは緑岳から赤岳方面へと続く大雪山の山なみを見ることができる所であり、そのためにではないのだろうが、前の直線橋とは違い、少し大きめのカーブ橋になっていた。
 そのまま走って、北見からの国道と合流して、層雲峡に着く。
 そうなのだ、今回も楽をしたいということで、主なものだけでも5か所はある大雪山登山口の中から、この層雲峡を選んだのだ。
 それは、何といってもロープウエイにリフトを乗り継いで、最短で大雪山の頂きの一つ黒岳に登ることができるからであり、この層雲峡口は、こうしてすっかり足腰に弱った年寄りには、表側旭川側の旭岳温泉口とともに、何ともありがたい大雪山登山の起点になるのだ。

 しかし、まず驚いたのが、ロープウエイ駐車場のクルマの少なさだ。
 いつもならば、この紅葉の時期には大混雑していて、駐車場の満車は当たり前で、大体は離れた所にある臨時駐車場の方に回されるのに、ガラガラの空きようだった。 
 そんな状態だから、8時前のロープウエイに乗ったのはわずか数人だけだった。
 これが、一週間前の北海道胆振(いぶり)中東部地震の影響を受けていることは確かだった。
 地元北海道の人はもとより、中国韓国などのツアー客の多くがキャンセルしたことだろうし、(その後のニュースで北海道全体で宿泊キャンセル数が94万件以上に及び、その損失額だけでも292億にもなるとのこと)、さすがに人の少ない静かな山が好きだと公言している私でも、北海道の経済に与える深刻な影響を考えると、素直に喜ぶことはできない程の数字である。

 ロープウエイを下りて、まずいつものようにその駅舎の4階にある展望台まで上がる、これが年寄りにはきつい階段の登りなのだが。
 しかし、息を切らして屋上に出た時の、目の前に広がる大展望には、いつものことながら声をあげたくなるほどだ。  
 山側には、これから向かう城塞のような頂きをした黒岳(1984m)を中央にして、右に桂月岳(けいげつだけ、1938m)、凌雲岳(りょううんだけ、2125m)、上川岳(1884m)が立ち並び、左手にはポツンととがった頂が印象的な烏帽子岳(2072m)と、さらには赤岳(2078m)も見えている。反対の層雲峡の峡谷の上には、長々とニセイカウシュペ(1883m)の連峰が連なり、さらに屏風岳(びょうぶだけ、1792m)へと続いて、その間にニセイチャロマップ岳(1760m)、支湧別岳(1688m)がのぞいていて、右手遠くに武利岳(1876m)と武華山(1759m)も並んで見えている。 
 そして、それらの山々の山腹から谷あいにかけては、朝もやの薄青いベールがかかり、稜線部分はくっきりと山肌が見えていて、空気の澄んだ秋ならではの景観だった。
 
 少し歩いて、リフトに乗る。 
 長袖のスポーツウエアの上にはフリースを着ただけだが、寒くはなかった。
 このリフトの下は、お花畑として整備されていて、夏から秋のかけての高山植物の花を見ることができる。
 今は、紫と白のエゾオヤマノリンドウが株をなして咲いている。
 この花で思いつくのは、旭岳周辺裾合平とか白雲避難小屋周辺、高原温泉沼巡りなどであるが、人の手で育てられたものではあるにせよ、今ではこれほどまとまった群落は他では見られないものだ。
 さらにリフトからは、ずっと行く手に目指す黒岳が大きく見えていたが、言うまでもなく、今年の紅葉はあまり期待できそうもない色合いになっていた。(写真上)
 ただ、上空には見事な秋の青空が広がっていて、いつも思うことだが、私は、紅葉の盛りの時の天気の悪い日よりは、紅葉の色が今一つの時の快晴の日を選びたいし、その上に人が少ないことと併せれば、この日は私にとっては申し分のない山登りの日だったのだ。

 リフトを下りて、登山道を歩き始める。
 しばらく行った先で立ち止まり、まずはフリースを脱いで、あらかじめ水を飲んでおくことにする。
 ありがたいのは、前後に人がいなくて大きな話し声などが聞こえないことだ。
 登山道は、黒岳東側の急な斜面に、九十九(つづら)折りにつけられた道で、昔は岩が多くて、さらにぬかるみも続いていて、長靴で登ったことが何度もあるくらいだが、近年、これは大雪山の主な登山道に言えることだが、環境省、営林署の努力によって、ほとんど申し分のないほどに立派な道に整備されてきていて、観光ハイキング客だけでなく、こうした私たち年寄りにとっても、実にありがたいことで、ただただ感謝するばかりである。

 さてその道を汗をふきふき、ゆっくりと登って行くと、八合目辺りで大きく展望が開けて、名所まねき岩付近の紅葉風景が目の前に広がってくる。
 しかし、何というべきか、確かに青空の下ではそれなりにはきれいなのだが、去年のあの豪勢な色合いと比べるとと思ってしまう。(2017.9.18~25の項参照) 
 それでも、それなりにきれいな色模様が山腹を駆け下りている写真を撮ってはみたのだが、やはり紅葉というよりは、黄色から橙色の黄葉と言った方がいいような色味だった。
 下りてくる人も何人かいて、挨拶を返しながら、さらにジグザグの登りを繰り返すと、最後の石段の登りの先には、もう高みはなく、ただ青空が広がっているだけだった。
 
 黒岳の山頂(1984m)だった。
 コースタイム1時間10分の所、なんと1時間30分ほどもかかっている、若いころには45分ぐらいで登っていたのにとも思うが、これが日ごろから運動トレーニングなどをしていないぐうたらじじいの現実なのだ。
 まあこれは、登りながら考えてもいたのだが、若いころと比べて倍の時間がかかるということは、それだけ時間を損していることになりはしないか、貴重な人生の時間をロスしていることになりはしないのかと。

 いや、そうではないと思いたい。若いころに快速のペースで山に登っていたことは、それは確かにあわただしい青春時代の時間の短縮化には、なったはずだし、体力トレーニングの一環としても大きく寄与していたはずだ。
 しかし、年寄りになってから、体力が落ちたままいきなり山に登れば、当然疲れるし時間もかかることになるだろう。
 それでも、無駄と思われる余分にかかった時間を、ただただ雲が流れゆくままに見逃していたのかというと、そうではなく、その時間の間、私はそれなりに何かを考え感じていたはずなのだ。

 つまり、もう少し体裁をつけて言えば、その余分に思われる時間の間、周りの大自然をより詳しく眺め知ることができたことになり、無駄どころか山での楽しみをより長く味わえたことにもなるのだ。
 さらに疲労を感じ己の体力を知ったことで、無理はできない力の限界をあらかじめ知ったことになるはずだし、さらには、この年寄りのいくらかの鍛錬(たんれん)の時間になったかもしれないのだから。
 だから、若いころより山に登るのに時間がかかったというくらいで、何も引け目に感じることはないのだ。
 むしろ今は、限界をわきまえて、悠々と山に遊ぶ”くらいの気持ちが必要なのかもしれない。

 たとえば、山での遭難のほとんどは、時間に追われたうえでの、知力、体力の過信と、経験不足による自分の限界を知らないことにあるのではないのだろうか。 
 一般の人たちが楽しむ登山は、エキスパート熟練者たちが挑む冒険的な登山とは、全く趣を異にしている別なジャンルの趣味的なスポーツであって、英語ではその辺りの所がしっかりと区別されている。(例えばトレッキングとクライミングとのように。) 
 だから、私たちの山登りは、自分なりの計画の中で、無理なく山歩きを楽しむことにある。
 私はここまで、1時間半もの時間をかけながら登って来たが、それに見合う価値は十分にあったと思っているのだ。
 ずっと、青空の下の対岸の山々の眺めを楽しみ(上の方からは遠く阿寒や知床の山々も見えていたし)、ダケカンバからウラジロナナカマドなどの色合いをそのたびごとに確かめていき、足元にはヤマハハコが咲いていて、ダイセツトリカブトやハイオトギリの花などもかろうじて見ることができたし、ナガバノキタアザミはほとんどが茶色く枯れていたが、ただ上部になるほど、ハイオトギリの紅葉が鮮やか色づいていて、そのたびごとに何枚の写真を撮ったことだろう。(写真下、ヤマハハコとともに)


 
 登り坂での、苦しい呻吟(しんぎん)のひと時が長く続いても、それに見合う時間だけ、長く自然の中にいられる幸せを感じることができたのだから。
 つまり、自分の目の前に起きる出来事は、あくまでも自分の受け取り方次第で、可能な限り何とでもなるということだ。 
 
 黒岳頂上から広がる展望。
 目の前には、いつものお鉢(おはち、旧噴火口)を囲む大雪山の山々が見えていて、いわゆる三段染めの白い残雪に緑のハイマツと紅葉模様が山肌を彩っていた。(写真下、北海沢上流部付近)



 その光景は、30何年か前に初めて見た時と、何も変わっていないような、ただ私という存在だけが、時間という苔(こけ)を身にまとって老いくたびれているだけのようで・・・。 
 などと、そんな感傷に浸っている暇はなかった。
 稜線の紅葉が、あまりよくないことは、いつものインターネットのブログ”イトナンリルゥ”を見ていて知ってはいたのだが、(今年も夏から秋にかけて、ほとんど毎日、写真とともに大雪山山域の植生状況を事細かに報告してくれていて、作者のTさんにはただただ感謝するばかりだが)、かといって紅葉の色が少し悪いくらいで、毎年見ている大雪山の紅葉を見ないわけにはいかないのだ。 

 10人足らずの人がいただけの黒岳山頂を下りて、ガラガラの石が重なる道を西にたどって行く。 
 その先の石室小屋に向かう下りの所で、下から登ってくる大きなザックの女の人と、お互いに道を譲りあって、そこでしばらく立ち話をした。
 まだ登山を始めて4年にしかならないという彼女は、そうしてテント泊をするまでに山登りの世界にはまってしまったと言っていたが、私は、それならばぜひ一度は北アルプスに行ってほしいし、その前に日高山脈主要部の山にも登ってほしいと伝えたが、私よりははるかに若くて登山経験も少ない彼女の、これからの登山体験世界を思うと、まさに”山は君を待っているのだ”と言ってやりたかった。

 山は、他の運動競技と同じように、限界までの体力を使うスポーツでありながら、決して他者と争い打ち負かすためのゲームではないのだ。
 あくまでも、打ち克(か)ち乗り越えるべきなのは、ただ自分の内なる自分にだけだ。
 つまり、私が山に登るのは、もちろんアルピニストやクライマーとしての記録を競う意味での登山はなく、アマチュアのただの登山愛好家として山歩きの意味であって、あくまでも自分の中だけで完結されるものなのだ。
 それは、他人と争うためではなく、ただ自分に打ち克ち、その自己達成感と、自然の静寂の中に包み込まれる安らぎを感じることという、その両極からなっているものであり、その背景に在るべきものは、自然の造化の妙である、美しい山々であり、木々であり、植物たちなのだが・・・。
 
 そこで、高校生のころの人文地理の教科書に載っていた、アメリカの地理学者、エレン・センプル(1863~1932)の言葉を思い出したのだ。 
 ただし、今の時代では、彼女の環境影響論的な人文地理学の考え方は、感情論にすぎないと否定されることが多いとのことで、確かに古い学説なのだろうとも思うが、ただこの一節だけは、うろ憶えであるかもしれないが、妙に私の記憶の中に残っているのだ。

 ”人間は、地球上に生まれたその産物であり、地球を母として生まれた、その子供である。”

 ここまで書いてきて時間もかかり、すっかりだらだらと続くだけの駄文になってしまっていることに気づいたが、これはただ自らの不徳の致すところであり、以降のことは、次回に回すことにする。
 
 今日もまた、青空の一日だった。
 周りの畑では、小麦の後の、ジャガイモの収穫も終わり、今は、二番牧草の刈り取りロール巻きと運搬作業で大忙しである。
 日中の日差しは、まだ暑い夏の名残が残っているが、日陰に入れば、もうすっかり秋の快い空気に満ち溢れている。
 家のシラカバの葉は少しずつ散っていき、サクラやスモモの葉も色づき始めた。
 紅葉の秋が近づいてきている、ということは、すぐにその秋も終わるということなのだが・・・。

 


POWER

2018-09-10 20:34:58 | Weblog




 9月10日

 夜中に、大きく揺れていた。
 それほど強い揺れではなかったが、少し長く感じた。
 夢うつつの中、私はどこか離れた所での地震だろうと思って、そのまままた眠りの中に戻っていった。
 (2年前に九州にいた時に体験した震度6弱の揺れを知っていたからでもあるが。2016.4.18の項参照)
 
 空が明るくなり始めた5時前、私はいつものトイレに行くために起きて、枕もとの小さな電気スタンドのスイッチを押したが、つかない。コンセントから外れているのかと思いながら、面倒でそのままにして、暗い階段を降りようとして廊下のスイッチを押したが、これもつかないし、下の電話の小さな明かりも消えている、そこで停電だとわかった。

 ひと身ぶるいして外に出た。
 離れた隣の農家の明かりも消えていた。
 遠く離れた所にある道の街灯が消えていて、ただそこを走るトラックの灯りだけが見えていた。
 いつもなら、まずテレビをつけて、あの夜中の地震の震源地はどこだったのか、どのくらいの震度だったのだろうかと見てみるのだが、停電でそれもわからない。
 そこで、まず部屋の灯りの代わりに、ソーラー・ランタンをつけて、小さな携帯ラジオを取り出して付けて聞いてみると。

 ”今日9月6日午前3時8分、北海道中央部の胆振(いぶり)地方中東部で地震が発生し、安平町で震度6強を記録するなどして、北海道各地に大きな被害が及んでいるもようです。”
 ”なお地震とともに、苫東厚真(とまとうあつま)火力発電所が故障して、送電を停止し、そのためにそのほかの発電所も影響を受けて停止して、現在北海道全域の約280万世帯で停電が続いており、復旧のめどはたっていません。”
 さらにその後、改めて発表されたこの地震による北海道の震度は、最大で厚真町の震度7、そして私の住む十勝地方での震度は4だった。
 それからも終日、えんえんと各地の避難所の開設や給水所などの情報が繰り返し流されていて、それは結局、夜まで聞く羽目になってしまったのだが。
 
 しかし、確かに情報伝達手段としての近隣情報は大いに役に立ったのだろうが、それほどの被害を受けずに、まずは周りの状況や被災地の状況などをニュース映像として見たい私たちには、もどかしい思いのするまま、ラジオから伝えられる情報だけを繰り返し聞いている他はなかったのである。
 そういえば、あの7年前の未曾有の大災害があった東日本大震災の時にも、そしてその後の大地震や大規模水害が起きた時にも、同じように命からがら避難所にたどり着いた人々がインタヴューを受けていたのだが、”なにしろテレビなど何にも見られないし、自分たちのまわりがどうなっているのかさえもわからなかった”と一様に答えていたのだ。

 そうなのだ。いつも災害が起きた時、そこから遠く離れた人々は、報道影像を通して冷静に被害状況を受け止めることができるのだが、その時に災害のただ中にいる人たちにとっては、何が何だかわからない事件の渦中にいるだけで、しばらくたって安全な所にたどり着いて初めて、テレビや新聞などでやっと災害の概要を知ることができるのだ。
 何よりも情報を知りたい人々には知らされず、遠く離れた人々たちに、災害のすべてのことが事細かに伝えられるという皮肉・・・そこで、いつも例にあげるのだが。
 “あのアフリカのサバンナの中で、ライオンがヌーの集団を襲い、その中で弱って来たものだけに目をつけて、ライオンが一頭を捕まえると、仲間のヌーたちはやっと逃げることをやめて、遠巻きにしながら、その仲間のヌーがライオンに食べられているのを見ているだけ。”

 そこではしかし、すべての当事者たちが非難されるべきことは何もないし、ただ自然界の時の流れの中での出来事というだけのことなのだが。
 つまり、渦中の中にあることと、その当事者以外のものとの差があるだけなのだろう。
 ただいつも、災難のただ中にいる人たちよりは、むしろ離れて周りにいる人たちのほうが、何が起きているかの全体像をとらえやすいとはいえるだろう。

 それだから、この地震の時に、ほとんどの北海道の人たちは、自分のいるすぐそばのことは見えていても、道央部の地震で何が起きているかは、ラジオで聞くことができても、映像として見ることはできなかったのだ。
 ただ、この停電の間、そうしてテレビを見ることができなかっただけでなく、もちろんパソコンも使えないし、電話もほとんどつながらないし、さらにはこの停電が長時間に及ぶに至って、灯りがつかないことで、曇り空で薄暗いわが家の中では本が読めないし、炊飯器やレンジが使えなくて、調理するのはプロパンガスだけで、ありあわせのものだけでなんとかしなければならないし、といろいろと不便な点が出てきたのだ。

 ただ、長年の山登りテント泊などの経験のおかげで、簡単に調理できる食品はいつも豊富に蓄えがあるし、ランタンや懐中電灯に、もちろんラジオや電池類を含めて家にあるから、何も今さら買い求めるものはないし、断水になったとしても、水は今は井戸水が涸れて使えずに、もらい水で何とかしのいでいるから、改めの不便さはないし、街の人がみんなが困ったと言っていたトイレの水も、わが家ではもともと”どこでもトイレ”方式で、家の周りに草だらけの空き地はいくらでもあるから、今さらの不便さはないのだ。
 つまり、他の家から比べれば、わが家ではいつもの毎日でさえ不自由しているのだから、それが日常になっているのだから、さほどの不便さは感じなかったのだが、ただそうした私でさえ、日ごろから当然のこととして使っていた、テレビ、パソコンに炊飯器、レンジなどが使えないことが、何よりも大変なことだった。

 もっとも、こうした私たち一般家庭での不便さなどよりは、信号がつかないままの交通マヒ状態、手術ができない病院、機械がいっせいに止まった工場、搾乳機(さくにゅうき)にミルカーが使えない酪農家、魚保存のための氷が使えずに漁に出かけられない漁船などなど、普通には気づくこともない業種にまで、その停電の被害は及んでいたのだ。
 ともかく、私みたいに、街の中に住むこともできずに、こうして田舎の一軒家に住んでいる人間にして、日ごろからいかに人間の最大の発明である、電気に頼り切った生活をしているかがよくわかる停電体験だったのだ。
 英語では、電気のことをそのエネルギーの力としてよく"POWER"という言葉を使うが(イギリス系英語では”POWER STATION”は発電所であり)、まさに今回の停電で、エネルギーの源である電気が、現代の文明のすべての面で、いかに大きな下支えになっているのか、あらためて教えられた気がしたのだ。

 停電は、私が住んでいる十勝地方では、翌日未明までほぼ一昼夜に及んだが、それでもその時点で全道の35%の回復だったから、田舎にしてはむしろ早い回復ぶりだと喜んだのだが、さらにもう一日たった時点では99%の復旧になって、よかったと思うけれども、その送電量はひっ迫していて(いつまた停電になるかわからずに)節電が求められているのだが(このブログ記事書いていること自体、不要不急のものではないだけに気がひけるのだが)。

 (一方で、1週間前に大きな台風の被害を受けた関西地方では、関空の復旧が急がれるのはともかく、和歌山・京都などでは、何といまだに停電が続いている家がまだ1万戸もあるとのこと・・・。)

 さて、こうして人間たちが、自然の異変の中で慌てふためいていても、自然は、何迷うことなく季節の歩みを一歩一歩と進めているのだ。
 前にもその様子を書いていたのだが、家のナナカマドの実も、確かに日ごとに赤みを増して、そのいくつかは落下し始めているし。(写真上、青空を背景に撮ることができれば、もっと鮮やかに見えるのだが、南側に林が広がっていて、どうしても青空を入れることができないのが残念。)
 あの大雪山の稜線部にある、ウラジロナナカマドの葉は、もう十分に赤く色づいているだろうか、それとも8月中旬と初雪の早かったこの秋のこと、もう茶色に枯れてしまったのだろうか。
 またしても、1か月以上も山に行く時期が空いてしまったが・・・今日は、一日中しとしとと小雨が降り続いているし、しかし、この雨も涸れた井戸の足しにはならないだろうが・・・。

 今回は、地震などの災害のことについて書いてしまったが、やはり締めくくりとして、いつもの『徒然草(つれづれぐさ)』からの一節をあげておきたいと思う。
 その作者である兼好法師が、かつて聞いたことのある、浄土教の高僧たちの言葉が集められた『一言芳談(いちごんほうだん)』の中から、その幾つかを思い出して書いている。

”  一   しやせまし、せずやあらましと思ふことは、おほようは、せぬはよきなり。
 一 遁世者(とんぜいじゃ)は、なきことかけぬやうを計らいて過ぐる、最上のやうにてあるなり。
 一 仏道を願ふといふは、別の事なし。暇(いとま)ある身になりて、世の事を心にかけぬを、第一の道とす。”

(『徒然草』第九十八段 ”兼好法師”吉田兼好 西尾実・安良岡康作校注 岩波文庫)

 以下、自分なりにそれぞれを訳してみると。
” することにしようか、それともしないでこのままにしておこうかと迷うときには、たいがいはしないでおく方がいい。
 現世を捨てて仏門に入った人は、日ごろから物がないことで不自由して、それに慣れておくことがもっともいいようだ。
 仏の道に専念するというのは、別段むずかしいことではない。ひまな身になって、世の中のことを気にかけぬようにすることが、一番の道なのだ。”

 私も、まだまだ、修行が足りないようで・・・。 

 


屋根の上のスネイク

2018-09-03 22:05:55 | Weblog




 9月3日

 今朝も、曇り空の下、気温が10℃以下にまで下がっていた。
 秋は、前回書いたあの『徒然草(つれづれぐさ)』の中にあるように、急に秋になるのではなく、夏のうちから幾つかの秋のきざしを内包していて、少しずつ秋の真っ只中へと向かうのだろうが、確かにわが家の庭でも、周りのフキやコゴミなどの葉が枯れ始めてきていて、朝になると庭先にはいつも何枚かのシラカバの葉が落ちているし、ナナカマドの実が橙(だいだい)色から、赤い色に変わってきた。
 このナナカマドの実の所には、よくキジバトが飛んできていて、私が木のそばに近づくと、大きな羽音を立てて飛び立っていく。 
 一方の、イチイ(オンコ)の実の方には、甘いものが好きなヒヨドリがやってきていて、私が玄関の外に出ると、いつも大仰(おおぎょう)な声をあげて逃げて行ってしまう。
 さらには、前回書いたクルマユリには、いくつもの花房があって長く花が咲いているのを楽しむことができるし、何より今は、例のオオハンゴンソウの花が黄色く周りを取り囲むように咲いていて、今は駆除すべき外来植物に指定されてはいるのだが、観賞用として見れば、放っておいても毎年咲いてくれて、これほど手入れが楽なものはないのだが。

 昨日は、一日中,さわやかな秋空が広がっていて、雲も出ていたが、日高山脈の山々も見えていた。
 そこでふと思いついて、先日クルマで通り過ぎた時に、気になっていた、林の中一面に広がるオオハンゴンソウの群落を見に行くことにした。
 それは、家からクルマで少し行った所にあるあまり広くはないカラマツ林なのだけれども、その林の中には、まだ植林されて20年あまりぐらいの細い木ばかりが立ち並んでいて、十分には間伐もされておらず、それだけに3年前のあの台風の時に、私の家の林の中でも何本もの木が倒れるほどの被害を受けたのだが、その時に被害を受けたものだと思われる木が、何本も途中から折れたり、傾いたりのままで放置されていて、とても写真集などで見るような、またはあの宮崎駿(はやお)監督作品のアニメの世界に見るような、林の中のメルヘンチックなお花畑とはいかなかったのだが。(写真上)

(余談だが、先日民放のテレビで「外国人に良く知られた日本人のベスト100」とかをやっていて、私はその番組の最後のほうを少し見ただけなのだが、2位が黒澤明で1位が宮崎駿になっていた。聞いた相手や年代にもよるのだろうが。)

 さて、今は駆除すべき外来種に指定されてはいても、こうして群生しているオオハンゴンソウにセイタカアワダチソウもまじえたお花畑は、見ている分にはきれいなものであり、そのままでも駆除する必要があるようには見えないのだが。

 さて、家に戻って来て、ふと玄関の上の方を見ると、その一角に何やら異形の形が見える。
 ヘビだ。
 それは、しばらく前にもここに書いていた、わが家に棲みつくあのアオダイショウである。
 あの時は家の中にまで入り込んできていて、タオルでつかんで、家の道の向こうの牧草地に放り投げてきたのだが、前にも同じ経験があって、そうしてなげてきた(北海道弁で棄てるという意味)ヘビがまた戻って来ているところを見たことがあり、今回も全く同じことで、わざわざ100m余りも離れたところまで行った意味がなかったわけだが、もう数日後にはわが家に戻って来ていたらしくて、最近はずっと何事もなかったかのように、玄関先の屋根の上で日向ぼっこをするのを日常にしていて、私が二階からカメラを向けても、なあにという表情でこちらを見るだけで(写真下、あまり気持ちのいいものではなく閲覧注意)、追い払ったところで意味はないし、このままお互いに共棲(きょうせい)していかなければならないのかもしれない。

 人によっては、ヘビなんて何ともないと素手でつかむ人もいるし、その顔がかわいいと自宅で飼っている人までいるくらいだが、あのぬめった体つきのどこがいいのだろうかと思う。
 もっとも、このヘビはアオダイショウであり、毒もなく別に人間に危害を加えるわけでもないし、むしろ家の周りにいるアカネズミやトガリネズミ、さらにはカマドウマやハサミムシなどの不快昆虫までも食べてくれるから、家の守り神でもあるのだが。  
 私には、ともかくヘビは、あのルナールがその随筆の中に書いているように。

 ”蛇・・・長すぎる。“  (『博物誌』ルナール 岸田国士訳 新潮文庫)

 だけの存在でしかないし、好きにはなれないのだ。
 そこでふと、あの『屋根の上のサワン』という短編小説を思い出したのだが、この屋根の上にいるヘビになぞらえて、この一場面を、”屋根の上のスネイク(蛇)”と名づけてみたが。
 どうもしっくりとこない。 
 例えば、キツツキならば、英語の”woodpecker”から来た”woody"(ウッディ)なんていう気のきいた愛称があるのだが、ヘビの"snake"にも”snaky"という形容詞はあるのだが、愛称の例えば”蛇ちゃん”などという意味では使われていないようだ。さもありなん。

 ところでこの『屋根の上のサワン』(1930年)は、今は、もうほとんど読まれることもなくなった日本人の作家の一人でもある、井伏鱒二(いぶせますじ、1898~1893)の短編作品である。
 簡単にあらすじを書いておけば、秋の狩猟の時期に猟銃で撃たれて、飛べなくなっていた一羽のガン(雁)を助けて、羽の治療をしてやった後そのまま自宅において、白鳥のスワンをもじって”サワン”と名づけて可愛がっていたのだが、春先になると、その”サワン”は家の屋根に上がってはしきりに鳴いていて、ある時突然いなくなってしまった。不自由な羽ながらも仲間たちの北帰行に合わせて一緒に飛んで行ってしまったのだろうか、という話である。

 井伏鱒二は、自分の本名に鱒(ます)の字を当てて筆名にしたほどで、他にも魚や動物たちを主題にした作品が多く、有名な『山椒魚(さんしょううお、1948年)』の他にも初期の『鯉』『河鹿(かじか)』『鸚鵡(おうむ)』にこの『サワン』などがあり、そこには生き物たちに姿を借りた、自分たち人間の抒情的な哀しみが漂っていて、あの太宰治が井伏鱒二を師と仰いだのも、少しは分かる気がする。 
 もっとも、彼の本領は、有名な『多甚古村(たじんこむら、1939年)』や『本日休診』(1950年)さらには、森繁久彌主演の映画のシリーズとなる『駅前旅館』(1957年)などに、如実に示されており、庶民の暮らしの中に垣間見える、そこはかとない哀感とユーモアが巧みに織り交ざっていて、一方で大衆小説分野での源氏鶏太(げんじけいた、1912~1985)の書く、いつもハッピーエンドに終わるサラリーマンものの娯楽作品とは一線を画していたのだ。 

 しかし、後年、盗作疑惑などで問題にされたけれども、『黒い雨』(1966年)は彼の畢竟(ひっきょう)の大作であり、世評にも高いものであった。
 思うに、いつの時代にも、その作品とそれに似通った同じようなテーマの作品があって、いつも類似盗作問題が取りざたされることになり、確かにその境界には微妙なものも存在するのだろうが、新たな作品が多大な作者の努力で作り上げられたことを思えば、元のテーマを扱った作品とは別の、新たな芸術作品として認知されるべきものだと思うのだが。 
 少し乱暴な言い方になるが、歴史上の様々な創作作品は、科学分野でも芸術の分野でも、いつも誰かが作ってきたお手本となるものがあって、それを作品の下地として産み出されてきたものなのだ。
 作品の始まりは、いつも誰でもが先人の技や成果をなぞっていき、それを自分のものとしてから、また新たなるものを作り出してきたわけであり、すべての科学や芸術の進化は、まずはそれまであったものの模倣・追従の上に成り立っているとさえいえるのではないだろうか。

 話が少しそれてしまったけれども、そうした芸術作品の問題は別にしても、近年は、ネット文化の蔓延(まんえん)状態で、若い人たちが本を読まなくなっていることの方が深刻な問題のようにも思えるのだが。
 せっかく私たちの先人たちが、それも選ばれた”智の達人”たちが考え作りあげてきた作品が、このまま、読まれずに時代の中で埋もれて消えていってしまうのではないのかと。 
 選ばれた賢者たちが書いてきた、人生を豊かに彩り人生が何かを学ばせてくれる、芸術作品の宝の山々が目の前にありながら、そのまま見逃され放置されていること。

 その中で、私はせっせと古本あさりに精を出すのであります。
 今までに読んだことのあるものも、まだ読んでいないものも含めての、蒐集(しゅうしゅう)することの愉(たの)しみ。 
 ”リサイクル・ショップ”と名づけられた店は、昔の古本屋よりはずっと安い値段で、それもページすらめくられたことのないようなまっさらの本が、ただ発行年月日が古いだけで、文庫本一冊よりもはるかに安い値段で売られていて、”安もの買い”に喜びを感じている貧乏性のケチおやじにとっては、ディズニーやユニバーサルに遊びに行くよりは、はるかに楽しいひと時を楽しむことができるのです。はい。

 人類が文字を作り出して、それを自分たちの意思伝達や記録として使うだけではなく、自分たちが考え出した物語として書き伝えていくようになり、ギリシアにおける”ギリシア神話”や”ギリシア悲劇”の成立、中国における『書経』『易経』『論語』など、日本ではさらに時代を経て、ようやく『古事記』『日本書紀』そして『万葉集』などが書き残されていて、それ以後連綿と続いてきた文学史に残る作品だけでも、膨大な量になるのだが、すべてに目を通すことなどできはしないにしても、例えばそれらの古典作品の幾つかを読んでみるだけでも、千年二千年もの時代を経ても変わらない、人間の心の機微(きび)に触れることができるだろうし、そこから学ぶことも多いはずだ。

 しかし、歴史に残されて以降の事柄を見て行けば、その形の差こそあれ、人間たちはいつも本能むき出しの我欲に走り、成功に喜ぶのもつかの間、やがては消え去る運命の中で、同じような過ちを際限なく繰り返しているようにも思える。
 そこに在るのは、同じような人間たちの、同じような悲喜こもごもの感情の移ろいであり、今の時代に生きる私たちは、そうした変わらない人間の悲喜劇の真実を求めては、昔の人の書いた本を読んでいきたくなるのだろう。 
 有史以来、さまざまな名人、賢者たちによって、書かれ描かれ作りあげられてきた、彼らの熱い思いの息吹が伝わってくるような、こうした芸術作品の多くが今もなお残されているということは、今を生きる私たちにとっては、これこそが、”最大の世界遺産”といえるものではないのだろうか。

 現代に生きる若者たちに、まるで”動物先祖帰り”しているような、インターネット上の格闘ゲームや恋愛ゲームに時間を費やすくらいなら、一冊でもいいから日本の古典文学を外国の古典文学を読みなさいと言ったところで・・・シーンとして、辺りには、おびたただしいほどのピコピコ音が響き渡るだけ・・・。