9月24日
前回からの続きであるが、しかし今、山の紅葉が頂上から山腹周辺へと移っている中で、2週間前ほど前の山の様子を書いていくのは、いささか気が引けるが、もともとこれは私自身のための備忘録的な意味合いを持つブログであり、さらには年寄りの認知症対策作業だと考えれば、これもまた許されるべきものだとは思うのだが。
さて、私が山に登った一週間ほど後にテレビニュースで、大雪山の主峰旭岳(2290m)の初冠雪の姿が、麓(ふもと)の旭岳温泉からの影像として映し出されていた。
確かに、一か月ほど前には、大雪山黒岳(1984m)での初雪が確認されていたから、おそらくは旭岳でも初雪が降っていたのだろうが、しかし冠雪したかどうかは麓からの目視によるものであり、いくら頂上に雪が積もっていて今シーズンの初雪だとしても、天気が悪くて麓から確認されなければ、それは冠雪とは認められないし、この4日前の雪こそが初冠雪と記録されることになるのだ。
そして、次の日の天気予報では、全道的に晴れのマークがついていたから、私も一瞬山に行こうかと思ったのだが、それは、例の大雪山情報ブログの”イトナンリルゥ”に、見事に紅葉した銀泉台斜面の写真が載っていたからなのだが。
つまり、前回書いたように、頂上稜線縦走路部分の低い灌木帯の紅葉は、あの早い初雪などの影響で紅葉が早まりさらには寒さのためにすでに変色しては落ちてしまっていて、今年の紅葉は良くないという話を納得させるものだったのだが。しかし、その寒さの影響をあまり受けなかった、中腹山麓部では、これも”イトナンリルゥ”の写真を見て知ったことだが、いつもの年と変わらないようなきれいな色合いを見せてくれていた。
さらに、この”イトナンリルゥ”の作者Tさんは、初雪の次の日に黒岳から北鎮岳(ほくちんだけ、2244m)へと足を延ばしていて、その北鎮岳からの雪の旭岳の写真を載せてくれていたが、それは”山の雪マニア”の私としては、久しぶりに興奮した一枚だった。
青空の下、大雪山では旭岳に次ぐ標高の北鎮岳からの、雪に覆われた旭岳・・・申し分のない設定であり、私も同じような光景を何度か見ているが、それに勝るとも劣らない、私好みの写真だったからだ。
つまりその時、私は中腹の紅葉具合に目が行っていて、前回行ったばかりの黒岳への道をたどって、さらにお鉢の先にある北鎮岳にまで行って、初雪の旭岳を見ようとは考えてもいなかったのだ。(それどころか、その日は出かけもせずに、いつものぐうたらな一日を送ってしまったのだ。もっとも、それもまた私の心地良い一日ではあったのだが。)
若いころは、黒岳から北鎮岳どころか、その先の比布岳(ぴっぷだけ、2197m)や安足間岳(あんたろまだけ、2194m)までラクに往復していたというのに・・・寄る年波には。
さて、前置きの話がすっかり長くなったがそんな年寄りの昔話よりは、今の山の話をしなければ。
黒岳の頂上から下りてきて、黒岳石室小屋近くにまでくると、北側に小さくまんじゅう型に盛り上がった桂月岳(1938m)が見えてくる。(写真上、左手は上川岳、右手には遠く天塩岳)
そして、その先の十字路から、久しぶりに小屋の前を通って桂月岳へと向かった。
桂月岳の名前の由来は、遠く大正時代に大雪山に登って、その名を日本中に知らしめた文筆家大町桂月(1869~1925)にちなんだものである。
大雪山には他にも、あの探検家間宮林蔵にちなんだ間宮岳、植物学者小泉秀雄にちなんだ小泉岳や、冒険家、幕府特使として北海道をくまなく歩いた松浦武四郎にちなんだ松浦岳(緑岳)などがある。
しかし、この山は標高も低く、縦走路からは離れているために、一般登山者に登られることが少なく、むしろ石室やそのテントサイトに泊まった人たちが、朝の御来光を見るために登る山(15分くらい)として知られていて、私もその頂上からの朝日を見たことがある。
ハイマツの中の道を行くと、すぐに岩と低い灌木帯の斜面の登りになる。
そこで、もしかしてまだ見られるかなと思っていたのだが、やはりウラシマツツジやクロマメノキなどの紅葉は、もう終わりに近く暗い茶色になり始めていた。それでも、光越しに見ればまだ十分にきれいには見えたのだが。
ただし、この山は少し縦走路とは離れた位置にあるために、いつも見慣れている他の山が前景を含めて、少し違った形に見えて、どこか新鮮な感じがする。(写真下、桂月岳山頂下より右に北鎮岳、白水川源流部をはさんで、左にお鉢火口壁の間宮岳)
その中でも、特に印象を新たにするのが黒岳である。
特にその北面の、黒岳沢への崩壊斜面の姿はすさまじく、周りがなだらかな大雪山高地と呼ばれる広がりの中にあるだけに、異彩を放っていて、冬場だけでなく夏の沢登りでの遭難者も出ているほどだ。
この山は、いつも人が少なくてありがたいのだが、この時も行きと下りに一人ずつに出会っただけである。
往復で30分くらいの所だが、その岩だらけの山頂付近に長くいた分を含めて、1時間余りを過ごした。
小屋の前に戻って来ても、まだ昼頃だったので、もう少し先のお鉢めぐり周辺の紅葉具合はどうだろうかと、途中まで行ってみることにしたが、やはり”イトナンリルゥ”の写真の通りに、ウラジロナナカマドは橙色のまま枯れ始めていたし、ウラシマツツジやクロマメノキの色も暗く枯れてきていたし、頼みのチングルマもくすんだ感じだった。(写真下、凌雲岳を背景にして、黄や赤の草もみぢ色のイグサ・カヤ類とくすんだ紅葉のチングルマ)
しかし、今までに何度も、きれいな紅葉の時を見てきている私には、やはりこれでは物足りなくて、これ以上行ってもとあきらめて、途中で引き返すことにした。
縦走路には、それほど多くはないにしても、まだまだ行き交う登山者たちがいたし、中には大型ザックを背にした外国人パーティーもいた。さらには、黒岳にかけては、若い外国人のカップルが多く、そのほとんどが短パン半そで姿で、手にはジャケットを持ってはいるもの、寒くないのだろうかと心配してしまう。
さて、石室前に戻って来て、最後の黒岳への登り返しで山頂に着く。
まだ晴れてはいるものの、少し薄雲も広がってきていたが、あとはリフト乗り場まで下って行くだけだった。
その下り道では若い人たちに抜かれてしまったが、気にすることもなかった、時々立ち止まっては、草花の写真を撮って行った。
リフトからロープウエイと乗り継いで下の駐車場に戻って来たのは、3時くらいだった。
今日の歩行時間と休憩を併せて、山の中にいた時間は6時間余り、今の私には実に適度な山歩きであり、天気も良く寒くも暑くもなく、そよ風が吹き渡り、いつものことながら、ああ山に行ってよかったと思うひと時だった。
長い家への帰りの途中で、友達の家に寄って、久しぶりのよもやま話に興じることができて楽しかった。
夕暮れの中に暮れなずんでいく、日高山脈の山々を眺めながら、家に帰り着いた。
さすがに、長いドライブ時間と久しぶりの登山に疲れてはいたが、それは思うに、山に行って歩き回り帰ってくる間、他のことはあまり考えない単純で充実した一日だったのだ。
思うに、アホな私が山登りが好きなのは、何も考えずに、アホのまま単細胞でいられるからなのだろうか。
しかし、そうすれば、それまでにぐうたらに過ごしていた毎日は、全く意味のないものだったのか、それは無駄なまさに”非生産的”毎日であったのかというと、そうではない。
つまり、毎日、毎日山に登っていれば、それが日常になり、一つ一つの小さな山のありがたみさえ、分からなくなってくるのと同じで、無駄に思える平坦な毎日があるからこそ、異空間である山の環境に新鮮味を覚えて興奮するのだろう。
例え話とは少し違うかもしれないけれど、先日見たいつものNHKの「日本人のお名前っ!」では、同じ局内にいる若いディレクターの名前が取り上げられていて、そんな難読漢字にあたる樗木(おおてき)という名前の語源を調べていくという構成になっていたのだが、そもそも彼が高校生のころ学校の先生が、皆の前で難読の彼の名前を紹介するために言ったのは、”樗木(おおてき)という字は珍しいが、もともと中国では、樗木(ちょぼく)という字は役に立たない木のことであり、とるに足りないものという意味である。”と説明されて、彼はがっかりしてそれ以来肩身の狭い思いをしてきたのだと言っていた。
確かに博識な先生ではあるが、番組ではさらに専門家に尋ねて、そのもとにある樗(ちょ)についての話を聞き出してきたのだ。
それは、”孔子の思想”とともに”老荘の思想”と呼ばれるほどの、中国の一大古典になっている、荘子(”そうし”あるいは”そうじ”とも呼ばれる。本名は荘周(紀元前369年~286)が書いたとされる「荘子」がその字の出典のもとになっているというのだ。
ここでは、原文はもとより漢文読み下し文でも分かりにくいから、現代語訳されたものをさらに自分なりに意訳して書いておくことにする。(以下『現代の名著4』 老子荘子 小川環樹・森三樹三郎訳 中央公論社)
”(いつもの議論相手の)恵子(けいし)が荘子に言った。私の家の庭には樗(ちょ、ヌルデの木)と呼ばれている大木があるが、その太い幹はコブだらけで、切って材木にするにしても墨(すみ)引きすることもできないし、枝も曲がりくねっていて差しがねで寸法を測ることもできない、切ったところで大工でさえ振り向かない、しまつに負えないものだ。それと同じであなたの考え方も大きいばかりで、誰も振り向いてはくれないだろうよ。”
すると荘子は答えた。
”(ヤマネコと野牛の二つを例にあげた後で)、あなたはせっかく大木を持ちながら、役に立たないと考えているようだが、それならその木を何もない野原に植えて、その周りをさまよい歩いて時を無駄に過ごし、あきらめてその木陰の下で昼寝でもしてみたらどうだろうか。その涼しい木陰に居れば、その木を切り倒すために斧(おの)を使う気も起きないだろうし、そんな危険な作業をする必要もない。それが無用のものであるにせよ、それがあることで困ることは何もないと思うのだが。”
荘子の説く、いわゆる”無用の用”の意義を端的に表している一場面ではないだろうか。
つまり、NHKの樗木(おおてき)さんは、誇るべきいわれのある姓を受け継いでいたことになるのだ。
これは「荘子」の初めの部分にあって(「荘子」内編 第一逍遥遊編)、私も昔読んだことがあり、かすかながら記憶していたのだが、実利主義、効率主義で動いている現代社会にこそ、必要な警告となる言葉ではないだろうか。
これは何も、日ごろからの、ぐうたらな自分の生活ぶりを弁護するために言うのではないのだけれど。
”万物の根源である、道(タオ)の世界”を説いた、老子に比べて、この荘子の方が、より具体的な日々の暮らしの中にも、たとえをあげてわかりやすく説明していて、それが日本の古典文学の世界にも、間接的な影響を与えていることは疑いない。
”我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか”
フランスの画家ポール・ゴーギャンが描いた畢生(ひっせい)の大作に書き込まれていた言葉であり、10年ほど前の日本での展覧会(2009.8.4の項参照”)でも展示されていた。