ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

小さい秋

2015-08-31 20:15:47 | Weblog



 8月31日

 あの有名な童謡、「小さい秋」。(サトー・ハチロー作曲 中田喜直作曲)

  だれかさんが だれかさんが
  だれかさんが みつけた
  ちいさいあき ちいさいあき
  ちいさいあき みつけた・・・。

 一枚の黄色い落ち葉。
 咲き始めたオオハンゴンソウ。
 今を盛りのクルマユリ。
 家の丸太壁をつつくアカゲラ。
 カラマツ林のラクヨウタケ。
 高く晴れわたる空。

 この一週間ほどで、道の両側とクルマを停める場所の草刈りを終えた。
 やはり、うるさい蚊を追い払いながら、流れる汗をぬぐいながら。
 一休みして、顔を上げると、今年もまた咲いてくれた、あの吊り提灯(ちょうちん)のような、鮮やかな色のクルマユリの花。
 その数、30個余り。まだまだツボミも多く、しばらくは私の目を楽しませてくれることだろう。(写真上)

 一仕事を終えて、家の中に入り、汗まみれのTシャツを着かえて、冷蔵庫から出していたスイカをテーブルに置く。
 少し塩を振りかけ、水気たっぷりの赤いスイカを食べる。たまらん。
 運動の後の、理にかなった水分補給だ。
 そして、私が寝ている夜中に録画しておいた、AKBの歌番組を見る。
 新曲「ハロウィン・ナイト」。いいぞー、毎回顔ぶれが少し変わってはいるが、みんな個性的でかわいいし、歌のリズムにもノリやすい。

 といって、パンツ一枚のメタボおやじが、やおら立ち上がり、”昔とったきねづか”で腰を振ってのノリノリ・ダンス・・・”その鏡に映る、みにくいわが姿を見ては、このガマおやじ、いつしか、たらーりたらーりとあぶら汗を流して、そのあぶら汗を集めて、三日三晩、大釜にて煮詰めて出来上がったのが、さあお立会い、しろくのガマの油にもひけを取らぬ、北海熊印の権三(ごんぞう)油、この油を頭に塗れば、毎日忙しく働いているあなたもたちまち、のーてんきのぐうたらに変わることは間違いなし。そーれ、それそれ、世の中なんとかなーるだろう。”
 しーん・・・自分ひとりの、ボケとツッコミ、あほくさ。 

 さてと、食べ終わったスイカのあと片づけをして台所に運び、そこで外側の皮の部分をナイフでむいて、残りの赤みと白みがついたまま小さく切って、塩もみにしてしばらく置いて、食事の時に浅漬(あさづ)けで食べるのだ。
 周りの北海道の友達は、そんな貧乏くさい食べ方はしたことがないというけれども、貧しかった子供のころに食べていた食習慣は、今になっても身についていて、つい自分で作ってしまうのだ。
 熱いご飯に、カツオブシをまぶしたスイカの浅漬け・・・それだけで、ご飯いっぱい食べられるほどだ。
 
 さらにもう一つの、うれしい秋の便り。
 このところ不作続きだった、家のカラマツ林の中のラクヨウタケが、今年はどうだろうかと見て回っていたところ、あちこちに出ていたのだ。(写真下)



 大体このラクヨウタケ(正式名ハナイグチ)は、最近は家の林で採るのではなく、少し離れた所にあるカラマツ林にまで行って採っていたのだ。
 というのも、そうしたまだ若いカラマツ林の方にたくさんあって、家の林のように、もう数十年近くにもなるような古いカラマツ林では、たまに数本ぐらいは見つけることはあっても、もう昔のようにいっぱい採れることことはないだろうと、半ばあきらめていたのだ。
 それが、今年は思いもよらずに、自分の家の林で、(写真では日が当たっているが、本来は半日陰の所に多い)、なんと二十年ぶりくらいの大豊作と言えるほどに、あちこちに出ていて、その数50本余りもあり、ポリ袋がいっぱいになるほど採れたのだ。
 
 さっそく、そのキノコを半日ほど水につけておいて、念のための虫出しをして、さらにカラマツの葉など汚れた部分を洗って取り除き、適当な大きさに切って、鍋で煮ると、初めの大きさの何分の一ぐらいかに小さくなっていて、それを酢に砂糖を入れた器に移して、上にカツオブシをまんべんなくふりかけて、さらにだし汁をかけてなじませて、半日おけば、ラクヨウの”三杯酢漬け”のでき上がりで、これまた熱いご飯の上にかけて食べれば、もうこの世の極楽珍味にもなるのだ。
 テレビ番組食レポで紹介される、一品、何千円何万円の料理なんて、もしお金があっても、そんな店に行って食べたいとは思わない。
 というのも、私には、根っからの貧乏人根性が染みついていて、それだからこそ、こんな山の中で暮らしていけるのだろうが。
 もう一つ書き加えれば、このラクヨウタケは、”大根おろし和(あ)え”でもおいしくいただけるのだが、あいにく今手元に大根がない。明日にでも買いに行かねばと思う。

 さらに、今家の小さな畑には、赤や黄色のミニトマトがいっぱいなっていて、ひとりで毎日食べる分には十分すぎるほどだ。
 こうして私は、小さな秋の恵みを受けて、毎日の食事をありがたくいただいているのだが、もっとも、そんないいことばかりがあるというわけでもない。
 実は昨日のこと、たまには、家の五右衛門風呂にでも入ろうと、ホースで水を入れていたところ、途中で水が出なくなってしまった。
 ”あちゃー、やってもうたー。”
 その前から少し水の出が悪い時があって、気にはしていたのだが、少し前に降った雨の後だからと、風呂用に大量に水をくみ上げて、井戸が枯れてしまったのだ。

 仕方なく今は、その風呂釜に半分ほど入れた水を、洗物、洗面などに使ってはいるが、飲み水としてはフィルターもつけていない直(じか)の水だから、飲用に使う気にはならないし、とりあえず緊急用に買っておいていた市販の2Lミネラル・ウォーターが一本あるので、急場をしのいではいるがが、ともかくすぐにも隣の農家か友達の家に水をもらいに行かなければならない。
 18Lポリタンクで三日間はもつから、3個は必要だろう。つまりその間に、少しは井戸に水がたまってはくれるだろうし、ともかくあとは、雨が降ってくれることを待つ他はないのだ。
 もっとも、こうして井戸が枯れて、もらい水で何とかしのいできたのは、今までに何度もあったことだし、さらに加えて、私の長い登山経歴の中で、テント泊山行で水に不自由することは当たり前のことでもあったし、今回のことぐらいでそうあわてふためくこともないのだ。
 つまり、少しの飲み水さえあれば、山の中でも何とか生きていけるのだからと。
 
 所によっては、水害や土砂災害を招く危険な大雨だけれども、こうして私のように井戸利用のために直接的に水が欲しいという人は、今の時代には水道普及率は100%近くもあるだろうから、きわめて少人数だとしても、稲や畑などの営農用に、その雨を待ち望んでいる人も多くいるのだ。
 街の中にずっと住んでいる人などは、物心ついたころから、水は水道の蛇口からいつでも出るものと思っているだろうから、水に苦労していることなど、テレビで見た遠いアフリカかどこかの井戸掘りの番組でしか見たことはないだろうが。

 世の中って、そうしたものだろうと思う。時と場所と人によって、その環境の価値はさまざまに変わってしまうのだ。決して一つの答えだけで、誰でもみんなが満足できるものではないのだから。
 つまり、大切なことは、どのような立場にいるにせよ、たとえばそれは、あの聖アントニウスのように、さまざまな誘惑にも負けぬ強い信仰心をもって、あるいは達磨(だるま)大師のがんとして動かぬ意志をもって、などとまではいかぬにせよ、いつも自分の依(よ)って立つ位置を見失わないことであり、またさまざまな立場にある人々への思いを失わないことではないだろうか。
 以下にあげる言葉は、ここでも何度も上げてきた、あのローマ時代の政治家でもあり哲学者でもあったセネカ (BC5~65、’14.9.16の項参照))が言っていることなのだが。
 ただ、前もって言っておっけば、これらの言葉は、日本の過去の戦時下での『教育勅語』ふうな響きのようだと受け止められかねないだろうが、大きな違いは、これが”個人のために”書かれたものであり、”国に殉(じゅん)ずるために”と書かれたものではないという決定的な違いがあるということだ。

「・・・自制心を鍛(きた)え、贅沢(ぜいたく)を控え、虚栄心を抑(おさ)え、怒りを鎮(しず)め、貧しさを偏見のない目で眺め、質素を大切にし、、たとえ多くの人がそれを恥じようとも、自然の欲求を満たすには安価(あんか)で賄(まかな)えるものを当て、手綱(たづな)が切れたようなとめどない期待や、未来をひたすら待ち望む心に、いわば枷(かせ)をはめる術(すべ)、富を運命に求めるのではなく、われわれ自身に求めるようにする術を、われわれは学ぼうではないか。・・・」 
 
(『生の短さについて』より『心の平静について』の中の一節、大西英文訳 岩波文庫)

 読んで分かるように、この言葉は、むしろ日本における、最近ここでも取り上げることの多い『方丈記』の鴨長明(1155~1216)や『徒然草』の吉田兼好(1283~1352、’11.5.2の項参照)に、あの良寛和尚(りょうかんおしょう、1758~1831、’10.11.14の項参照)、そして宮澤賢治(1896~1933、’11.1.19の項参照)の世界に近いとさえ言えるだろう。
 時代を離れて、そうした人々がいたということ、さらには若き日のヨーロッパ旅行で出会ったあのアイルランド娘の”おいしいものを食べるために旅行しているのではないと言った”言葉に、そうしたものが、生来の貧乏生活に慣れ親しんでいた私の心には、大きな違和感もなく、素直に響いてきたのだ。

 そして、こうした思いをたどる時に、私の耳に聞こえてくるのは、あのフィギュア・スケートの荒川静香がトリノ五輪で優勝して、その後のエキジビジョンで滑った時に流れた曲、「YOU RAISE ME UP」である。
 ”神様がそばにいてくれるから、悲しい時にも苦しい時にも乗り越えられてきた”と女性ヴォーカル・グループの”ケルティック・ウーマン”が歌っていたのだが、それは母が死んで間もない時であり、思いが重なって、ひとりスポットライトを浴びて滑る荒川静香の姿を見ながら、思わず涙したのだった。

 そういえば、厳しい祖母にしつけられた大正生まれの母は、いつも質素で倹約であることを旨(むね)としていた。
 ただ、その息子である私が、こうして母の意にそえずにいることについては、はなはだ申し訳なく思うばかりだが・・・。  

 
  


夏の終わりと秋の初め

2015-08-24 21:27:49 | Weblog

 8月24日

 ずいぶん涼しくなってきた。
 晴れた日がほとんどなくて、小雨や曇り空の日が多いこともあるのだろうが、朝のうちは10度をやっと超えるくらいで、日中でも20度を超えることは少ない。
 当然のことながら、Tシャツの上に長そでシャツを重ね着するようになってきたのだ。
 
 すでに7月のころから、病葉(わくらば)の幾つかを落とし始めていたシラカバには、今やところどころに黄色くなった葉が見えている。
 秋の花である、あの黄色のオオハンゴンソウとアラゲハンゴンソウの花が咲き始めた。
 さらに毎年の、わが庭の見ものである、大株に咲くクルマユリの最初の一輪も咲いている。(写真上)
 ただし、毎年数本は出るその茎が斜めに傾いていて、余り見ばえがいいとは言えない。

 それは、このユリの根張りが十分ではなくて弱いからなのだろうが、それというのも、この夏は九州に戻って長くいたうえに、その後には遠征登山に出かけたりと、大切な時期に一月近くもここにいなくて、十分に手入れをしてあげられずに、そのために周りのササが繁茂して、ユリ根の栄養分が横取りされたせいなのかもしれない。
 さらには、毎年やっている”立ちション”による、生肥(こ)やしが足りなかったからかもしれない。
 もっとも、今は亡き母の言葉によると、生肥やしは”効きはしない”と言うことなのだが。
 だからこうなっては、見ばえは悪くなるけれども、支柱を建てて倒れないようにしてやるしかないのだろう。

 そんなに涼し日々が続いているのならば、今伸び放題の草取りや草刈り作業に取り掛かるべきなのだろうが、そこはぐうたらで自堕落(じだらく)なこのじじいのこと、なかなか仕事に取りかかろうとはしないのだ。
 もちろん、言い訳がある。トイレ以外にはめったに外に出ないのだが、その短い時でさえ、この”メタボじいさん”をめがけて、親愛の情にあふれる蚊たちがわんさかと集まってくるからだ。
 その蚊たちはちゃんと知っているのだ。
 じいさんは、自分の”ひな鳥ちゃん”を両手で押さえてじっと立っているだけだから、その手でぴしゃりと叩かれることはない。その時こそが、じいさんのドロドロ栄養過多の血をいただける最高のチャンスなのだと。
 
 そうして、私が長そでシャツを着ているにもかかわらず、蚊たちは手首の裏や首筋、額にまでとまって血を吸おうとするのだ。
 両手ともに離しにくいが、仕方なく片手をはずして、ぴしゃりといけば、当然放水軌道はぶれて周りに飛び散ることになるし、そう簡単に蚊はつぶせないし、何より、血を吸われることより、刺された後のかゆみがひどいのだ。
 あー、いやだいやだ。
 蚊が活発に飛び回るのは、真夏の30度以上の時ではなく、25度から15度位の気温の時だそうで、それで朝夕に蚊が多いというのも納得できるし、ともかくここでも朝の最低気温が10以下にならないと、さらに言えばマイナスにまで下がって、やっと安心して仕事ができるようになるのだ。
 このことも、私が夏を好きにはなれない理由の一つではある。

 というふうに、自分で理由をつけて、自分のぐうたらぶりを正当化しようとするところに、私の人生そのものの生き方を見るような気もするのだが・・・。
 ”逃げてきたのか”、あるいは”自ら選んで進むべき道を変えてきたのか”と。
 まあ、今さら自分を責めてみたところで、もはややり直しのきかない短い時間しか残っていないのだから、むしろ大切な今の時間をしっかりと生きることだけを考えるべきなのだ。
 と言いつつ、相変わらずのぐうたらぶりなのだが。

 私はいまだに、このブログに前回までの3回にも分けて書いてきた、あの夏山遠征の山旅を思い出しているのだ。
 単調に流れゆくバッハのクラヴィア曲かなんぞを聞き流しながら、目の前のパソコンのモニター画面に、その時の山の写真をスライド・ショーにして見ている・・・。
 ”山の思い出”と”クラッシック音楽”と、そして揺り椅子に身を預けて、ぐうたらに過ごすひと時・・・林の中の丸太造りのみすぼらしい一軒家の中で・・・それでいいじゃないか。
 あの鴨長明(かものちょうめい、1155~1216)が『方丈記』の中で・・・「象馬(ぞうめ)、七珍(しっちん)もよしなく、宮殿、楼閣(ろうかく)も望みなし。(遥か南の国にいるという象や名馬の誉れ高い馬、さらには金銀財宝なども必要ではなく、宮殿や高くそびえる邸宅さえもほしいとは思わない)」と書いているように、ましてや、”酒池肉林(しゅちにくりん)” の紅灯(こうとう)の巷(ちまた)の世界からは遠く離れて、こうしてひとり閑居(かんきょ)してあることの”安らぎ”・・・これ以上のものが、いったいどこにあるだろうか。

 そういうふうに自分で思うこと、そこに小さな自分だけの幸せを見つけることこそが、自分の生きている意味ではないのだろうか。
 そうなのだ、人それぞれの世界はあっても、すべての人に共通するような、人生の意味などないのだ。

 「一般的な人生の意味はない。人生の意味は、あなたが自分自身にあたえるものだ。」

 (『アドラー心理学入門』 岸見一郎 ベスト新書)

 昨日、日本テレビ制作の例の『24時間テレビ』を、少しの間だけ見た。
 正直に言えば、それは多くの視聴者たちがそうであったように、障害をかかえた人々を応援援護するためのチャリティー番組に共感して、見ようと思ったのではなく、ただAKBが出ると知っていたのでその時間に合わせて見ようとしただけの、まさに不純な動機からチャンネルを合わせただけのことだったのだが、結果的に前後の障害者たちの現実もまた見ることになり、むしろAKBの印象は薄くなり、障害者たちのそれぞれの生きる思いに、強く心を動かされることになってしまったのだ。
 さらにこの『24時間テレビ』のダイジェスト版が、今日の昼間にも放送されていて、そこでも昨日見た以外の他の障害者たちの、懸命に生きる姿もあわせて知ることになり、この世の中を斜(しゃ)に構えて見ている所のある、この”ごうつくばりじじい”でさえ、まぶたを熱くするほどに心打たれたのだった。
 
 生まれた時から両脚がなく、それでも今ある自分の体だけで動き回り、今や、スポーツとしての天井から下げられたロープ競技さえも、軽々とこなすようになったアメリカの美女。
 生まれた時から心臓に異常があり、何回もの手術を受けたが完治はせず、いつも手元には緊急救命器具があり、それでも臆(おく)することなく知識を学びとり、才能豊かにパソコンを操り、明るく大人並みの受け答えをする13歳の少年。
 子供のころからドイツに住み、そこで就職した矢先に多発性硬化症の難病にかかり、次第に四肢がマヒしていき車椅子と寝たきりの不自由な体になっても、遠く離れて暮らす日本の両親に”心配するな”と声をかけ、ドイツ人のパートナーの力を借りて必死に生きている、40歳を過ぎた彼女。
 「私がいて、何の役に、何のためになっているのだろうと・・・。」と自問自答していたが、「それでも生きていく。」とつぶやいた言葉の意味は、余りにも大きい。
 
 最近世間を驚かせた”大阪中学生男女殺人事件”。
 まだ全面解決したわけではないが、もし逮捕された45歳の男の犯行だとしたら、さらにそれが偶然の事故ではなく、あえて意図して犯した犯罪だとしたらと、その罪の持つ意味の大きさを考えてしまう。
 13歳の二人には、まだこれからの前途洋々たる未来と、自分だけが描いていける豊かな人生が待っていただろうに。

 さらにこれは、十日以上も前のことになるが、8月15日の終戦記念日前後に放送された、特別番組の数々で、NHKに民放各局を合わせてかなりの数の番組が放映されていて、私は、ただその中の何本かを見ただけにすぎないのだが、その中でもNHKの『カラーによる太平洋戦争』と『書き換えられた沖縄戦』などは、他にも欠落していた大切な部分があったとしても、興味深いドキュメンタリーだったのだが、それでも日数を過ぎると、見た当初の高ぶる感情がいつしか薄らいできて、今では俯瞰(ふかん)的な総論として思うだけなのだが。
 ただ、310万人もの戦争犠牲者を出していても、個々の死は、それだけの意味しかなかったということ。
 いつも例えにあげることだが、人間社会は、ライオンに襲われ食べられる仲間を遠巻きに見るだけのヌーの群れにすぎないのだ。
 自分でなくてよかったと思いながら、そして、これからの彼らの行く先は、残された集団の若い者たちが決めることなのだろう。

 しかし、その中の一つにしか過ぎない、一頭のヌーの生きる意味とはいったい何なのだろうかと考える。
 先にあげた、アドラーの言葉とともに、さらに思い起こすモームの小説の中の長い一節がある。
 前にも書いたことがある言葉であり、その中から幾つかを抜粋(ばっすい)して、書いてみることにする。

 主人公のフィリップが、クロンショーに、”人生の意味は何か”とたずねた時に、彼はこれが答えだと言って、目の前のペルシャじゅうたんを指差したのだが・・・そのことを思い出して、さらにフィリップは考えるのだ。

 「・・・人は、生まれ、苦しみ、そして死ぬ。人生の意味など、そんなものは何もない。そして人間の一生もまた、何の役にも立たないのだ。生も無意味、死もまた無意味なのだ。」

 「・・・一度人生が無意味だと決まれば、世界は、その冷酷さを奪われたも同然だった。」
 「・・・彼自身は、ほんの束の間、この地上を占拠している、おびただしい人間の中にあって、もっともとるに足りない一生物にすぎないのだ。そのくせ、混沌の中から、一切の虚無の秘密を暴(あば)き出した点においては、全能者といってもよかった。」

 「・・・ちょうど織物の匠が、あの(ペルシャじゅうたん)の精巧な模様を、織り出していくときの目的が、ただその審美眼(しんびがん)を満足させるためだけにあるとすれば、人間もまた一生を、それと同じように生きていけばいいわけだし・・・。」
 
 「・・・人間の一生の様々な事件、彼の行為、彼の感情、そうしたものから、あるいは整然とした意匠(いしょう)、あるいは精巧、複雑な意匠、あるいは美しき意匠を、それぞれ織り出すことができるというだけだ。」

 「・・・そして人生の終わりが近づいた時には、意匠の完成を喜ぶ気持ち、それがあるだけだろう。いわば一つの芸術品だ。そしてその存在を知っているのは、彼ひとりであり、たとえ彼の死とともに、一瞬にして失われてしまうものであろうとも、その美しさには、少しも変わりはないはずだ。
 フィリップは幸福だった。」

(『人間の絆(きずな)』 モーム 中野好夫訳 新潮社 「世界文学全集」)

 こうして、私が人生論なんぞを、ここに書いているというのは、実はその裏側にある日常の”漠然とした不安”を消し去るために、今までの私の記憶の中から、幾つかの言葉を探し出してきては、自分に言い聞かせているというだけのことなのだ。

 さらに、もう一つ思い出すのは、あのアンドレ・マルローの『王道』の中で、死の間際に、ペルカンがクロードに言うともなくつぶやいていた言葉なのだが、その小松清訳による『王道』が今手元にないので、正確なことは分からないのだが、確か、「・・・死などない。ただ俺という存在が死んでいくだけだ・・・。」というような言葉だったと思うのだが。
 この『王道』の全編を通じて描かれている、未知への探究心と功名心とに燃える若者と、危ない橋を何度も渡ってきて、理想と現実のはざまを知り尽くしている中年男との、互いの心理を巡っての対話が、緊張をはらんだストーリーとともに、当時の若い私の心を強く打ったのだ。
 そして今にして思えば、上にあげた心理学者アドラー(1870~1937)の言葉と、モーム(1874~1965)が『人間の絆』の中でフィリップに言わせた言葉と、そして、マルロー(1901~1976)の『王道』におけるペルカンの言葉に、私は共通して、虚無の影を背負った、彼らの強い生への意志を感じたのだが・・・。


 窓の外を見ると、今までの力強い緑色の勢いが衰えて、冒頭にも書いたように、シラカバやサクラやリンゴなどの木の葉に、明らかに秋色を思わせるものが混じってきた。
 そして、今年はそのリンゴの木に、枝もたわわになるほどにリンゴの実がついているのだ。しかも、色づき始めて。(写真下)
 しかし、哀しいかな、それは観賞用のヒメリンゴほどで、余りにも小さすぎる。
 今まで、この木には、食べられないほどの小さな身が幾つかなるだけで、花を観賞するための木なのだと、あきらめていたのだが、今年になって春の花つきがいいと思っていたら、何と今、あふれんばかりの実がなったというわけなのだ。
 それも、花の時期の摘花(てきか)や、実がつき始めた時期の摘果(てきか)をしなかったために、栄養が多くの実にまんべんなく回って、かえって一つ一つが大きくなれなかったのだろう。
 しかし、小さくてもリンゴの味はするし、得意のジャムにでもしようかと思っているのだが。

 こうして、夏が終わり、秋が来るのだろう。

 

 


 

  

 


「要なき楽しみを述べて」 後立山連峰(3)

2015-08-17 21:01:54 | Weblog

 8月17日

 二週間以上も前の、わずか四日間の山旅の話を、こうして長々と伸ばして3回にも分けて書いてきたのは、ひとえに私個人の愉(たの)しみのためであり、ヒマな年寄りらしく、良い思い出は長い間ねちねちと味わい尽くしたいからなのである。
 今、モニターに映る山の写真を見ながらこのブログを書いていると、あの時の山々の姿や風や冷気や暑さまでもが、よみがえってくるようで・・・。
 もちろんそれは、やがては老境に入ろうとする私だからなおさらのこと、あの短い夏の山旅が、何ものにも代えがたい山の思い出として、ひと時の至福(しふく)の時間を与えてくれるからなのだ。
 一昨年の、黒部五郎岳(’13.8.16~26の項参照)や、その前の塩見岳(’12.7.31~8.16の項参照)に登った時と同じように・・・。 

 しかし、山登りなんぞに興味もない人たちからすれば、私の話は、前二回でも取り上げてきた、あの『方丈記』の中の一節にあるように・・・。
 「いかが要なき楽しみを述べて、あたら時を過ぐさむ。」・・・これを私なりに訳すれば、”役にも立たない自分だけの楽しみを語って、大切な時間を無駄に過ごしてはいけないのに” ということになるのだろうし、そんな年寄りの、ただの繰り言(くりごと)にすぎないことではあるのだが。
 人は、他人の話を聞いて、少しは分かったつもりではいても、しょせんは他人事でしかないし、その思いのすべてを理解できるはずもないのだから。
 それだからこそ、私は私だけのために、わずか四日の山旅のことを、ここにこうしてだらだらと引き伸ばし味わいつくすべく書き込んでいるのだ。

 若い時に体験する、喜びとの出会いのひと時は鮮烈であり、身が打ち震えるほどの感動を憶えたりもするが、しかしその喜悦(きえつ)のひと時は、移り気な若さゆえの、つかの間のきらめきでしかない。
 しかし、年を取れば、そうした悦(よろこ)びにめぐり会える機会は少なくなり、それだけに、もし出会えたならば、その時にこそと自分だけの愉しみに執心(しゅうしん)しては、長く幸せな気分に浸(ひた)りたいと思うのだろう。
 どちらの年代の時の楽しみ方がいい、というのではない。それぞれの年齢にふさわしい、それぞれの楽しみ方があるということだ。
 
 ちなみに、話は飛ぶけれども、あの大正から昭和の時代にかけての文豪、谷崎潤一郎(1886~1965)の小説について、私は若い時には、『刺青』に代表されるように、あやしくきらめく感性が響きあうような、初期から中期の作品にひかれたものだったが。
 しかし、こうして私自身が作者と同じような年代に近づいてきて、そこではじめて、『鍵(かぎ)』や『瘋癲(ふうてん)老人日記』などの後期作品群に描かれているような、まるで老人臭漂う未練がましいとさえ思われる主題を、あえて作者が書いたことの真意が、見えてくるように思えて・・・つまりそこに、老年期に至る作者の美意識の変化と、そのねばりつくような年寄りの生命観がうかがい知れて、今にして深い共感を覚えるのだ。

 そうした、年齢に応じたものの見方の変化は、身の回りや社会を見る目だけではなく、こうして、昔読んだ本や、昔見た映画や絵画、昔聴いた音楽といった芸術作品などを、新たに読み直し見直した時に、さらにはっきりと自覚することになるのだが。
 つまり、自分の人生を生きるということは、その年代に応じて、ものの見方が変わり、常に新たな地平が開くように、実に面白い仕掛けが用意されていて、決してひと時の間もあきさせぬようにできているのではないのかと。

 だから私は、負け惜しみや強がりで言うのではなく、本当に思うのだが・・・多くの人は、若いころに戻りたいというのかもしれないが、私はそうは思わないのだ。
 何も分かってはいなかった小生意気なだけの若いころ、そんな自分の『仮面の告白』をすることもなく、ただ精いっぱいに背伸びをして、分かったふりをして、周りに対して粋(いき)がっていただけの、あの虚飾(きょしょく)に満ちた青春時代なんかに、今さら戻りたくはないのだ。
 そこに、たとえ熱情にあふれた恋愛があり、さらに固い絆の友情があり、そしてひたむきな思いと真摯(しんし)な努力に満ち溢れていた、若き日の自分がいたとしてもだ。

 荒れ狂う嵐の日の白波のうねりから、大きくたゆとう波のうねりだけを見ている今の私・・・ようやく彼方に島影が浮かび上がり、すべてのものがおぼろげながらにも見えてきたように思えて・・・今こうして、年寄りの時代にいることが本当にありがたいのだ。
 様々な雑念は次第に薄まっていき、ただ終末の日に向かってゆるやかに年を取っていくだけの、厳粛(げんしゅく)な時の流れを感じつつ・・・。

 と書いてくると、まるでどこかの修行僧のような達観の境地を、自ら演出しているように思われるかもしれないが、なあにそこは、舌を出したアインシュタインの写真のようなもので、日々生きている実態はと言えば、暑い寒い疲れた腹へったとつぶやいては、ひとり屁をこきわめくだけの、ただのぐうたらでわがままなジジイの日常にすぎないのだ。

 さて前置きから、すっかり余分な話になってしまった。以上のことは、ほんの人生の冗談だと読み飛ばしてもらって、本題の山の話を続けよう。
 一日目は、扇沢から柏原新道経由で爺ヶ岳に登って冷池小屋に泊まったのだが、次の日は白い霧の中で雨にもあって引きかえし、もう一日を同じ小屋で過ごして、翌日の三日目は、見事に晴れ渡った空の下鹿島槍ヶ岳に登り、短い行程の後、キレット小屋に泊まったのだ。 

 翌日、日の出の1時間前の4時ごろから、あちこちで起きて支度する人々の物音が聞こえていた。
 東の空からの朝日は、稜線の上まで行かなければ見られないが、剣岳は、今日もはっきりと西の空を区切って見えていたし、背後の薄い雲があかね色に染まっていた。
 小屋に泊まった人たちの多くは、日の出前に足早に出発して行った。
 小屋での5時の朝食を食べる人たちは、夕食時の半分もいなかった。

 私も食事を終えて、すぐに小屋を出た。
 実は、今日泊まるつもりだった五竜小屋が、昨日から混みはじめていて、あの狭い布団一枚に二人だったとか聞かされていて、さらに今日は土曜日だから、昨日以上に混むのは確かだろうし、さすがの私も恐れをなして、今日は一気に下まで降りてしまおうと決心していたのだ。
 ただしそうすれば、問題はこの山旅に出る前から気になっていたヒザの痛みなのだが、幸いにもこの三日の山歩きでも目立って悪化することはなく、ずっと現状維持の小さな痛みをかかえているだけだったから、距離を伸ばしても何とかいけそうだという気はしていたのだ。
 五竜岳から遠見尾根経由で、下のゴンドラ乗り場まで、コースタイムで9時間足らず。
 まあ普通の、一日行程でしかないのだが、現に昨日小屋に泊まって五竜方面に向かう人たちのほとんどが、そのコースで下りて行くと聞いていたくらいだから、別に無理な距離というわけでもないのだけれども、何しろ最近、のろのろとだらけて歩く楽しみを知った私にしては、それ相応のきつい行程にはなるのだけれども。

 さて、すぐに小屋の前から登りが始まり、先にはクサリ場も出てきて、今日も気を引き締めての岩稜歩きが始まるのだ。
 しかし、それにしても、二日続けての、全天を覆うこの青空の広がりはどうだろう。
 右手の信州側は、昨日と同じように雲海の波の下にあり、ただうれしいのは昨日は雲に隠れていた遠くの山々が見えていたことだ。
 北側には意外に近く、頚城(くびき)三山の妙高山(2454m)、火打山(2462m)、焼山(2400m)が並んでいて、上信国境の四阿山(あずまやさん、2333m)と浅間山(2560m)が雲の上に頭を出していて、遠くに奥秩父(金峰山、2595m)の山々が見え、その手前には長々と八ヶ岳(主峰赤岳、2899m)が連なり、富士山(3776m)がひとり大きく、そして甲斐駒(2967m)から北岳(3192m)を経て聖岳(ひじりだけ、3011m)に至る南アルプスの山々。
 反対側に目を転じれば、昨日から変わらずに立山(3015m)と剣岳(2999m)の姿があり、後ろに振り返れば、裏銀座に表銀座の北アルプスの峰々があり、それらの山々の手前に大きく、昨日たどってきた、あの鹿島槍ヶ岳(2889m)の双耳峰(そうじほう)が立ちはだかっているのだ。
 そして、前を向き、行く手の岩稜が続く先には、ひとり確かな高みをもって五竜岳(2814m)がそびえ立っている。(写真上)

 特に、G5と名付けられた岩峰の前後は、ザレ場(細かい岩礫や砂の滑りやすい斜面)や岩塊帯のクサリ場が連続していて、気をつかう所だが、息を切らして登り続けていて、ふと目をやった岩棚に、鮮やかなイブキジャコウソウの花などを見かけると、ほっとして一息つきたくなる。(写真下)



 ましてその背後に、青空の下、絵葉書写真のように、山肌に残雪を刻んだ剣岳から立山連峰が見えていると、確かに今、北アルプスンの縦走路を歩いているのだと実感するし・・・これこそが山歩きの、大きな楽しみの一つなのだろう。
 最後のクサリ場を抜けて、ジグザグ斜面の登りを繰り返すと、ようやく頂上稜線に上がり、その山稜を少し西側にたどると五竜岳山頂に着く。三度目の山頂だった。

 あまり広くはない頂上部分には、十数人の人々がいて笑い声が響いていた。
 私は、悪天候時に迷い込まないように×印がつけられている岩稜の先に行って、そこで休んだ。 
 目の前には、昨日と変わらぬ、大展望が広がっていた。
 まず大きく開けた北側の眼下には、五竜山荘の小屋が見え、唐松岳(2696m)から天狗の大下り斜面、白馬鑓ヶ岳(しろうまやりがたけ、2903m)、白馬岳(2932m)、そして小蓮華山(2769m)に白馬乗鞍などの山々が見えていた。
 そして西側には、僧ヶ岳(1814m)から越中駒ヶ岳(2003m)、毛勝三山(2414m)から、圧倒的な山稜を連ねる剣岳が依然として素晴らしい。
 さらに残雪多く彩られた立山から、南下して薬師岳(2926m)、並行するように赤牛岳(2864m)から水晶岳(2986m)に野口五郎岳(2924m)と連なり、その先には槍ヶ岳(3180m)と穂高連峰(3190m)ものぞいているが、何よりここでの見ものは、この五竜岳といつも相対するようにそびえ立つ鹿島槍ヶ岳の姿だ。
 黒部峡谷の谷から分かれた東谷の長大な沢を、その北西面に刻み込ませて、双耳峰の姿でそびえたつ鹿島槍の姿は、白馬岳から針ノ木・蓮華へと連なる後立山(うしろたてやま)連峰の中にあって、高さでは白馬岳に劣るけれども、それ以上に、 盟主たるべき威厳と気品を兼ね備えているといっても過言ではないだろう。

 ただ悲しいかな、頂上で大きな音でラジオを聞いている人がいて、人々の笑い声とともに、私には余りにも居心地が悪い場所だったので、わずか15分いただけで、頂上を離れることにした。
 これほどに天気が良くて、周りの山々もくっきりと見えているのに、もう二度と来るかどうかも分からない山なのに、しかし今日は、これから先に長い遠見尾根の道もあるしと、複雑な思いで、頂上稜線の道を戻って行った。
 右手に、広大に開けた北西面の全容を見せて、その東谷の雪渓が上がって行った上に、鹿島槍の二つの頂きが見えていた。(写真下)




 ”ああ、鹿島槍”。
 もう二度と見ることもないかもしれない、五竜からの鹿島槍の姿に、私は思わず涙してしまった。
 周りに行きかう人もなく、サングラスをかけていた両目から、幾度となく涙がこぼれれ落ちてきた。
 母とミャオと彼女たちへの、感謝の言葉を心の中でつぶやいた。
 それにしても、思いもしない感情の発露に、私自身がとまどうほどだった。
 年寄りは、小さなことでも、すぐに涙目になってしまうものだから・・・。
 
 そして、岩稜を北側に下って行くと、鹿島槍はその陰に隠れて見えなくなった。
 ゆるやかに砂礫の道をたどり、右下のお花畑を見ながら、人々で賑わう五竜山荘に着いた。
 親切な小屋のおねえさんに、今日の混み具合を尋ねると、昨日以上になるだろうとのことであきらめがついて、神城(かみしろ)からの電車の時間を教えてもらい、遠見尾根を下ることにした。

 小屋の裏手から白馬方面への縦走路と分かれて、少し登っては下って行くと、草原性のお花畑があって、ずっと下まで続いていろいろな花が咲いていた。
 黄色のシナノキンバイ、ミヤマキンポウゲ、ウサギギク、薄紫のハクサンフウロ、ミヤマアズマギク、ミヤマウツボグサ、赤色のシモツケソウなどであり、その背景には肩をいからせてそびえたつ五竜岳の姿があり、さらに遠く鹿島槍の二つの頂きも見えていた。(写真下)
 しかし、山々が見えたのはそれが最後だった。




 雲に包まれて展望のきかない樹林帯の尾根道、小さな登り下りを繰り返しながら、次第に高度を下げて行く道・・・時々日が差して、蒸し暑く、さらに気になるヒザのこともあって、途中からは何度も休んでは水を飲んだ。
 まだまだ、何人もの人々が登って来ていた。
 下りとはいえ、その延々と続く道は、これほど長かったのかといぶかしく思うほどで、汗まみれの体と疲れからだろうが、中遠見山(2037m)のコブの登りに差し掛かるころには、もう半ば意識が遠のいて、ふらふらの状態のままやっとのことで、標識のある高みにたどり着いた。
 あきらかに、熱中症一歩手前の状態で、前にも似たような状態になって、ふらふらになって歩いたことがあった。
 数年前のあの飯豊山(いいでさん)縦走の時に、胎内(たいない)からの長い尾根の登りで、バテにバテてふらふらになり、途中の雪渓の雪の冷たさに助けられて、ようやくのことで小屋に着いたのだった。(2010.7.28の項参照)  

 もう二度とあんな目には合わないようにと、休みと水を多く取るようにはしていたのだが、その一方で、早く下に降りて、松本に少しでも早く着きたいから、急ぎたいという気持ちもあったのだ。
 しかし、もう限界に近いこの有様だ。そこからは無理しないように、30分ごとに休みを取っては水を飲み、小遠見山(2007m)に着くと、もう後は確か下りだけのはず、何とかヒザがもってくれただけでもありがたいと、心も楽になった。
 ようやくのことで、観光客でにぎわう高山植物園を経て、ゴンドラ乗り場(1530m)に着いた。
 やれやれだ。この遠見尾根だけでも4時間半近くかかり、今日一日の行程としても、今の私の限度いっぱいの9時間半にもなっていて、いずれもコースタイムをはるかに超えてはいるが、年寄りの久しぶりの遠征登山としては十分にがんばったと言えるだろうし、ともかく晴天の日の山を楽しみ、無事に下りてこられたことだけでもありがたいことなのだ。
 
 神城から大町行きで乗り換えた松本行の電車は、何と浴衣(ゆかた)姿の若い娘たちでいっぱいになった。今日は松本の”盆踊り祭り”の日だったのだ。
 同じボックス席に座った、浴衣姿の二人の女子高生と、ずっと話をしていた。
 私の孫娘だと言ってもいいくらいの二人は、山帰りの汗臭いおじさんを嫌がることもなく、素直に話相手になってくれて、明るい笑い声をあげていた。そして、高校を卒業しても、東京に行かずに、地元に残りたいと言っていた。えらい。 

 私は、松本のビジネスホテルに一晩泊まり、翌朝一番の電車で東京に行って、羽田から飛行機に乗った。それも幸運にも、キャンセル待ちでの残りの1席に座ることができて、ようやく涼しい風の吹く北海道に戻ることができたのだ。
 出かける前の様々な不安は、いつの間にかすべて消え去り、ただ晴れた空の下に鹿島槍ヶ岳と五竜岳があって、そして尾根道では、いつもあの剣岳が見ていてくれたのだ。・・・いい山旅だった。

 こうして、何事もなく歩いてきたように見える、今までの人生の道のりの途中には、実は様々な危険や恐怖が潜(ひそ)んでいたのかもしれない。
 ただ私たちは、幸運の連続の中にいて、それに気がつかなかっただけのことで。

 それだから、そのことを忘れないためにも、自分の心のうちに思い浮かべることのできる、自分だけの神様に、まず感謝しなければならないのだ。
 昨日に対して、今日に対して、あるかもしれない明日に対しても・・・。
 
   


「もしうららかなれば」 後立山連峰(2)

2015-08-10 21:17:59 | Weblog



 8月10日

 猛暑にあえぐ内地に比べて申し訳ない気もするが、ここ北海道では涼しい日が続いている。
 北アルプス遠征の旅を終えて、こちらに戻ってきてから三日ほどは暑い日が続いたが、その中でも1日だけ、ここでも36度というべらぼうな気温になった日があったが、そこは何と言っても北海道であり、日差しは暑いが湿度が低く、まして締め切った丸太小屋の断熱効果はさすがであり、扇風機さえ使わずにすむような室温24度くらいの涼しさだった。
 もっとも翌日には、生暖かい空気がロフト(屋根裏部屋)などに残り、今度は逆に保温状態がいいから、その暑さを朝の涼しい空気に入れ替えるのに、また一苦労というわけだが。

  ともかく、この4日ほどは最低気温が15度以下という涼しさで、朝だけは上にフリースを着こむほどだった。
 さらに、低い雲に覆われる曇り空の毎日ということもあって、最高気温でさえ20度を越えないという心地よさなのだ。
 あの真夏の蒸し暑さが嫌で、それが東京を離れる一因となったことは確かであり、そんな涼しさ寒さマニアの私としては、これが当たり前の真夏の涼しさになっているのだ。

 ところで、1週間ほど前には、そんな涼しさを、私は山の上で味わっていたのだ。以下は前回からの、北アルプス後立山(うしろたてやま)連峰への山旅の続きを・・・。
 信州の大町に一晩泊まった後、翌日には柏原新道を経由して冷池(つべたいけ)小屋に至り、次の日に鹿島槍ヶ岳を目指したのだが、稜線で雨に降られて引きかえし、またも小屋で長い時間を過ごすことになり、それでも本を読んだり、また同じ部屋の同年輩の人と、少し難しい話などをしたりして有意義に過ごしたのだが、何といっても問題は、明日の天気なのだ・・・。

 そして深夜、お寺の鐘がゴーンと鳴り・・・まさか山の上だもの、鳴らない鳴らない。その真夜中の薄暗い廊下を、ミシリミシリと足音を立てて歩く男一人・・・ギーッと扉を開けて、おもむろに立ちずさみため息を一つ、チョロチョロと小さな音、勢いがないのだ・・・哀しい年寄りの、夜中のトイレ風景のおそまつでした。

 しかし、窓の外には、満月の光に照らし出されて、薄白く輝く山々の姿が見える・・・なにとぞ、この天気が朝になっても続いていますように。
  この日の同じ部屋に割り当てられた8名は、昨日とは違って、皆が静かな寝息を立てていた。
 私はさらに一眠りした後、夜明け前に早立ちする人たちの物音で、目を覚ました。それでも、しばらくはうつらうつらしていたが、やがて外の様子を見に出たらしい人が戻って来て、隣の人にささやいているのが聞こえた。
 「いい天気だ。山が見えている。」
 ああ何とうれしいその言葉だろう。私は起きて、カメラを持って外に出た。

 昨日、白い霧に包まれて何も見えなかった東の空に、黎明(れいめい)を告げる明るい黄金色の帯が見え、その下の安曇野は雲海に覆われていて、左手にはまだ暗闇を残している鹿島槍ヶ岳が、くっきりと明け方の空を区切ってそびえ立っていた。
 5時の朝食を慌ただしくかき込んで、支度をととのえて、二日間お世話になった山小屋を後にした。
 天気のいい日の朝に、まだ山道が冷気に覆われていて、草花に光る露の光を眺めながら歩いて行くことのうれしさ。山登りの醍醐味(だいごみ)の第一歩は、こうした晴れた朝にあるのだ。

 昨日も行き来したお花畑の斜面の向こうに、朝の光を浴びながら、南北二つの峰をそばだたせて、鹿島槍ヶ岳がすっくと立っている。何度見ても見あきることのない姿だ。(写真上)
 今日の行程は、キレット小屋までのわずか数時間足らずだから、何も急ぐことはないのだが、早出(はやで)して空気の澄んだ朝のうちに、ゆっくりと稜線歩きを楽しみたいのだ。

 樹林帯から草原帯を抜けると、ハイマツと礫地(れきち)の稜線になって、左手西側の展望も大きく開けていて、黒部の谷を隔てて並行するように、残雪をたっぷりと残した立山、剣岳の姿が見えていた。
 ただ昨日までの湿った空気の名残りなのか、少しモヤがかかっているようで、ややかすんで見えていたが、何よりもこの上天気なのだからぜいたくは言えない。
 (しかし、このかすんだモヤは、何と時がたつにつれて薄れてゆき、その後は夏山には珍しく、秋空のような澄んだ空気の中で、はっきりと遠くの山まで見えるようになったのだ。)

 昨日往復した、布引山のジグザグ斜面を登り、後は岩礫(がんれき)の稜線になるが、右側斜面の所々は草地になっていて、両側に咲いているいろいろな花々が私の目を楽しませてくれた。
 岩礫側には、たっぷりの花束になって咲いている、白いイワツメクサやタカネツメクサに、この稜線歩きを通じて最も目にすることの多かった、まだつぼみのものがほとんどだったクリーム色のトウヤクリンドウや、紫色のチシマギキョウにイワギキョウ、さらに赤紫のイブキジジャコウソウなどが咲いていて、草地の方には、赤いタカネイバラに赤紫のヨツバシオガマ、ハクサンフウロにクロトウヒレン、紫のミヤマトリカブトに、クリーム色のシロウマオウギ、黄色のコガネギク、ウサギギクなどを見かけたが、中でも久しぶりに見てうれしかったのは、こんな稜線にも咲いててくれたシナノナデシコ(写真下)の花だ。

 

 何という、いい登山日和(びより)だろう。
 前回にもあげた、あの『方丈記』の中の一節を思い出した。

 「もしうららかなれば、峰によじのぼりて、はるかにふるさとの空をのぞみ・・・」

 とあるように、何も山登りは、言われているような山岳信仰や修験道ばかりではなく、千年近くも前の昔から、一般の人たちによって気晴らしや楽しみの山歩きとして、気軽に登られていたのだ。 

 そして私は、最後の岩くずの道を登っていき、快晴微風の鹿島槍ヶ岳南峰(2889m)の頂上に着いた。
 周囲には、北アルプスの山々の大展望が広がっていた。

 四度目の鹿島槍山頂だったが、これほどまでに晴れ渡った日の眺めを見ることができたのは、初めてだった。
 いつもガスがかかり始めていたり、半分に雲がついたままだったりで、山頂には立ったものの、十分な展望を得ることはできなかったのだ。
 晴天山頂を正式な登頂だと思っている私には、鹿島槍は、長い間どこか十分ではなかったという思いが残る山だったのだ。
 それだけに、年寄りになってもう登れなくなる前に、日本全国には他にもまだ登っていない山々があるというのに、それらを後回にしても、この鹿島槍だけは、どうしても晴天の日にその山頂に立ちたい思っていた山だったのである。
 そして今回、その思いは、またとない快晴の日の澄んだ空気の下で、これ以上ないという条件のもとでかなえられたのだ。
 あー神様。人は誰に感謝していいかわからない時には、こうして神様の名前を口にするものだ。

 私は、10数人ほどがいたにぎやかな山頂部分から離れて、西側に少し岩礫斜面を下った所で、ひとり岩の上に腰を下ろした。
 目の前に、今やモヤも取れて、くっきりとした山肌と残雪模様も鮮やかに、剣・立山連峰が並んでいた。(写真下)
 左側から、立山雄山(3003m)、大汝山(おおなんじやま、3015m)、富士ノ折立(2999m)と並ぶ三つの頂の間に残る見事なカール(氷河圏谷)、さらに真砂岳(まさごだけ、2861m)の両側の二つの広大なカール、そして剣沢の雪渓から、黒い鋼(はがね)の頂を持ち上げる剣岳(2999m)、その右下に長大な三ノ窓雪渓を刻み、さらに小窓、大窓の雪渓も見えている。

 

 『万葉集』にある、あの有名な大伴家持(おおとものやかもち)の一首を思い出す。

 「立山(たちやま)に 降り置ける雪を 常夏(とこなつ)に 見れども飽(あ)かず 神(かむ)からならし」

 (『万葉集』 巻十七 4001) 
 
 そして同じ巻十七の三首後(4004)には、また似たような歌がもう一首。

 「立山に 降り置ける雪の 常夏に 消えずてわたるは 神ながらとぞ」 

 読んで分かるとおりに、前作の方がまとまりもよく、心地よく聞こえる。
 なかでも終句の”神(かむ)からならし”(神様がいるからなのだろう)の言葉の響きは、他の言葉に置き換えられないほどだ。 
 
 『万葉集』の中でも、最後の部分にあたる巻十七から巻二十には、ほとんど大伴家持の歌が収められており、この歌は、国主として越中(富山)に赴(おもむ)いた時の歌であり、他にも雪の降り積もった景色を歌ったものなど、当時から変わらぬ冬の北陸地方の景色を思わせせて、興味深いものがある。

 ちなみに、今の呼び名である立山(たてやま)を、”たちやま”と言っているのは、おそらくは富山平野側からは一番大きく高く見える、今の剣岳を指して、”たちやま”つまり”太刀(たち)山”と呼んでいたのだろうし、後年その”太刀山”が”剣(つるぎ)の山”、すなわち”剣岳”へと書き改められたのだろうとのことである。
 さらに、終句の”神(かむ)からならし”は、口に出して言えば”かんからならし”と聞こえ、さらにこの”神”という言葉が勇壮に響いてくる。
 そして、この”神”は、”かむ”と読めば、あのアイヌ語の”カムイ”に近く、北海道にある山の名前、神威岳(かむいだけ)として各地に幾つも残っているのだ。
 そうして、言葉探しへの思いはふくらんでいくのだが、もっともこれは私だけの勝手な想像にすぎなのかもしれない。 

 すっかり話がそれてしまったが、元に戻そう。
 その鹿島槍南峰からの展望はさらに続く、南方には、今までたどってきた爺ヶ岳(2670m)からの山稜が続き、その奥には、常念岳(2857m)、大天井岳(2922m)から、穂高岳連峰(3190m)、槍ヶ岳(3180m)へと高まり(写真下)、針ノ木岳(2821m)の上には裏銀座の山々と水晶岳(2986m)に赤牛岳(2864m)、その向こうに薬師岳(2926m)も見えている。
 ただ一つ残念なことは、南アルプスから富士山、八ヶ岳へと続く、遠く離れた山々が見えなかったことではあるが。
 



 振り向けば、今まで見えなかった後立山連峰の北半分の山々が、五竜岳(2814m)から唐松岳(2696m)そして白馬鑓ヶ岳(しろうまやりがたけ、2903m)白馬岳(2932m)へと縦位置に重なって見えている。
 北アルプスのほとんどの山を見渡すことのできる、何というぜいたくな展望だろう。
 私の後ろの頂上の方からは、にぎやかな声が聞こえていたが、そこから離れて西側の岩の上に腰を下ろしている私の目の前には、ただ山々が広がり続いているだけだった。
 いつしか人々の声が消えていき、青空と山々と私だけがいて・・・。

 さて、この鹿島槍南峰に20分余りいた後、私はさらに北へと縦走路をたどって行くことにした。
 急な岩塊帯の下りで、いよいよ気の抜けない稜線歩きが始まる。それだけに、行きかう登山者も少なくはなるのだが。
 南峰と北峰をつなぐいわゆる”吊り尾根”の南側には、いつものように雪渓の始まりになる雪がまだたっぷりと残っていた。
 そして、次なる登りが始まり、ほどなく鹿島槍のもう一つの頂きである北峰(2842m)に着いた。
 さらにすぐ後から一人の男の人が登ってきたが、彼は一休みしただけですぐに下りて行った。
 私だけの頂上になった。
 何よりも眼前に、今登ってきたばかりの南峰が大きくそびえたつさまが素晴らしい。(写真下)
 そのぶん、立山が隠れてしまうけれども、右手に剣岳が見え左手には薬師岳から先へ槍・穂高へと続く北アルプス核心部の山々は見えていた。 

 
 
 こうして、晴れ渡った日の、鹿島槍ヶ岳南北峰それぞれの頂きに立ち、長年の憧れでもあった大展望を前にして、私にはもう思い残すものはないとさえ思った。
 さらに反対側の、鹿島槍北壁下のカクネ里雪渓を眺め下ろし、30分近くもひとりでこの山頂にいて、ちょうど若い娘二人が登ってきたのを潮時に、下りて行くことにした。もうおそらくは二度と来ることもないだろう、鹿島槍北峰に別れを告げて。
 縦走路に戻り下っていくと、反対側から額に汗して重たいテント装備で登ってくるおじさんたちもいた。
 若い”山ガール”から、おじさんたちに至るまで、みんな山が好きなのだ。まして、この年寄りの私においておや、というところだが。
 
 岩稜帯に取り付けられたクサリ場からハシゴ場を繰り返し、狭い隙間になったキレット(尾根続きの所が両側から切れ落ちた所)を抜けると、キレット小屋が目の前にあった。
 まだ、10時半にもなっていなかった。今日の行程は、休みを入れても5時間余りにしかならない。
 小屋の人からは、まだ早いし、天気がいいのだから先の五竜まで行けばと勧められたのだけれども、私は、自分の方針を変えたくはなかった。今回の私の目的は、山々を踏破(とうは)することではなくて、山をじっくりと楽しむことにあったのだから。

 この小屋には過去に二度泊まっている。小さな小屋だが、鹿島槍と五竜の岩稜帯の縦走路の間にあって、まさに天候急変時などの避難小屋の意味合いも兼ねているのだ。
 しかし、私は、ここにあるこの小屋に今回も泊まりたかったのだ。西に開かれた正面に、剣岳を見ることができるからだ。
 そして、朝夕のあかね色の空を背景にした剣岳の姿だけでなく、今日のような晴天の日に、午後になってもずっと、その剣岳を見て過ごしたいと思ったからである。
 そして、この日は何というべきか、まるで秋の日の澄みきった空のように晴れ渡ったまま、剣岳は、午後からの雲がかかることもなく、終日見え続けたのである。
 
 小屋の前のテーブルに陣取って、昼前からの長い一日を過ごした。
 まだまだ、これから五竜まで行くという人たちが立ち寄って休んだ後、再び先を目指して歩いて行った。
 さらには、私と同じように、今日はここまでだという人たちが次々に小屋に入ってきた。もっとも、今日の出発地が私と同じ冷池の小屋だという人は一人だけで、他は種池小屋や新越山荘、あるいは扇沢からという人たちばかりだった。
 そういえば、先ほど五竜を目指して行った女の人は、朝の出発地点は扇沢だというのだから恐れ入る。私の若いころでさえ、一日で歩くには考えられないほどの長距離であり、全コースタイムはおよそ15時間、それを10時間余りで踏破することになるのだろうから。
 おそらく彼女はトレイル・ランか何かの選手かもしれないが、山に対する思いや歩き方は人それぞれなのだ。

 私はそこで、今日もまた、二三人の人と、社会問題から、音楽、文学などにいたるまでの少し難しい話もした。
 そして、一昨日昨日と冷池に連泊し、今日はこのキレット小屋で、明日は五竜小屋までという、私のゆっくりとした、物見遊山(ものみゆさん)の大名(だいみょう)登山を、みんながうらやましがったが、「なあに、北海道のニシン漁でもうけた金の使い道がなくて、困っているほどだから」、と煙(けむ)にまいてやった。
 名前も知らない、今日出会ったばかりの人たちだけど、山が好きでこの小屋に泊まるのだという共通項だけで、こうも気兼ねなく話をすることができるのだ。
 日ごろはいつも一人でいることの多い私だから、おそらくはこの山旅で、1年分の会話をしたような気分だった。

 夕方、西の空に、毛勝(けかち)三山の山際に日が沈んでいき、剣岳は、赤い夕陽の照り返しを受けて、いつまでもそのくっきりとした山稜を見せていた。(写真下)
 おそらくは、私の夏山登山史上に残る、稀有(けう)と言ってもいい素晴らしい天気と展望の、一日だったのだ。
 この、日頃は哀れな年寄りのために、神様がふと目を留めて、ひと時の間ほほ笑んで下さったような、そんな一日だったのだ・・・。
 それが、明日も続けばいいのだけれども・・・。

 次回へと続く。


 

  


「いづかたより来りて」 後立山連峰(1)

2015-08-04 20:43:18 | Weblog


 8月4日

 とうとう、山に行ってきた。
 台風崩れの温帯低気圧が、北に去るのを待って、もうその日に行くしかないという日に、私は九州の家を離れて、本州の山に向かった。
 空路ではなく、珍しく陸路伝いに新幹線(2年前の大山に行った時以来、’13.12,19の項参照)、中央線特急と普通電車に乗り継いで、信州大町に至り、そこで一晩泊まった。

 ヒザの痛みも残り、まだ確定していない天気への不安もあり、しかし夏山混雑時期を考えると、もうこの日以外に選択の余地はなかったのだ。
 そして、何としても、2年ぶりの北アルプスの山に登るつもりだった。
 その前から、今年も一つの長い縦走のコースを考えていたのだが、前回にも書いたように、6月終わりの大雪山の登山でヒザを痛めてしまったのだ。
 それでも何とかして山に行きたいから、そのヒザに負担をかけないように、ゴンドラ、リフトなどを使って上の方まであがり、なるべく短い距離で山小屋や山頂に登れるような所へと・・・白馬栂池(つがいけ)からの白馬岳(しろうまだけ)方面、白馬八方(はっぽう)尾根からの唐松岳方面、五竜遠見(ごりゅうとおみ)尾根からの五竜岳、あるいは新穂高(しんほたか)からの西穂高岳か、それとも観光客とともにバスで高所まで上がれる乗鞍岳か立山か。

 しかし、私には思いがあった。
 最近とみにも増して、登山体力の衰えを実感している私としては、昔から登ってきた思い出の山々に、”今生(こんじょう)の別れ”を告げるべく、今一度登りたいと思っていたのだ。
 去年は腰を痛めてどこにも行けなかったのだが、その前の年には北アルプス裏銀座コースからの黒部五郎岳(’13.8.16~26の項参照)、さらに前には南アルプス主脈縦走からの塩見岳(’12.7.31~8.16の項参照)など、いずれも天気と景観に恵まれて、もう思い残すことはないほどの素晴らしい山旅になっていたのだ。
 もちろん私には、日本の中にまだ登っていない山が幾つもあるけれども、それらはいつも言うように”百名山”などにこだわった山々ではなく、あくまでも自分の登りたい山々なのだが、しかし、それらの山々を差し置いても、私にはどうしても先に登りたい、その姿を眺めておきたい山々があるのだ、もう何度目かになる山々ばかりなのだが。

 まして7年前、私は、白馬(しろうま)岳から南下して鹿島槍ヶ岳からさらに先の針ノ木(はりのき)岳、蓮華(れんげ)岳へと続く、いわゆる後立山(うしろたてやま)連峰への三度目の縦走を試みたのだが、天気が悪く十分な展望を得られないまま、あきらめて唐松岳から八方尾根を下った苦い思い出がある。(’08.7.29~8.2の項参照)
 その再挑戦としての、今年の夏の全山縦走はもう無理だとしても、後立山の後半部分である、鹿島槍と五竜だけでもと、さらにこれもまた私の好きな山の一つである針ノ木岳を回ってのコースにすれば、今の私でも山小屋四泊で十分に歩けるはずだと考えていた。(若いころにはその四泊で白馬からの全山縦走ができたというのに。) 

 ところが、去年の腰の痛みに続いて今年はヒザと、まるで年寄りの病気の話のようでイヤなのだが、実際年寄りなのだから仕方ないとしても、ともかく心配な体の痛みをかかえているわけだから、いつでも途中から引き返して下りてこられるようなコースを考えなければいけないし、といってあの鹿島槍の雄姿を今一度、”冥途の土産(めいどのみやげ)”として目に焼き付けておきたいし、と考えて扇沢手前の柏原新道からのコースをとることにしたのだ。
 北アルプスでは、上にあげたゴンドラにロープウエイや高所まで上がるバスなどを使って、高い所まで行く以外は、普通には下の登山口から稜線に上がるまでには、おおむね数時間、あるいはそれ以上はかかるのだが、その中でも取り付きからの短い時間で登れるコースとして知られているのが、この柏原新道なのである。
 それは、コースタイムでもわずか4時間足らずで稜線の山小屋、種池山荘に着くことができるし、さらにほとんどの人の目的である鹿島槍までも、そこから4時間ほどで登れるから、北アルプスの一泊二日の人気コースの一つとして有名であり、若い歩きなれた人なら、日帰りする人もいるくらいなのだ。

 ともかく、途中でヒザの痛みがひどくなればすぐに引き返せばいいし、何とかがまんできれば種池の小屋泊まりで、翌日1時間ほどで登れる爺ヶ岳(じいがたけ)に行って、そこから鹿島槍の姿を見るだけでもいいし、さらにそれほどの心配がなければ、行程に余裕をもって鹿島槍、五竜に登って遠見尾根から下ればいいと考えたのだ。

 翌日、夜明け前に起きて外を見ると、山際から上には所々雲がかかっていた。5時前には宿を出て、駅前まで歩いて行った。
 扇沢までのバスはまだずっと後の時間だし、周りに同乗してくれる登山客の姿も見えないし、えーい、ここは大盤振る舞いだと覚悟を決めて、タクシーに一人で乗り込んだ。
 同年輩らしいタクシー運転手は、山に詳しいらしく、雲の切れ間から見える唐沢岳(からさわだけ、2632m)や鳴沢岳(なるさわだけ、2641m)までもちゃんと指摘してくれた。
 私はどちらの山にも登ってはいるが、こうした一般受けはしない隠れた名山を、ちゃんと知っているというのはうれしいではないか。
 聞くと神奈川の出身で、北アルプスの山々が見えるこの安曇野(あずみの)が好きで、30代のころにはこちらに移り住んで、ずっとタクシーを運転しているとのことだった。
 人それぞれの思い、そしてその人生も様々なのだ。

 30分ほどで、扇沢手前の柏原新道登山口に着く。
 余り広くはない駐車場は車でいっぱいで、数人の登山者が出発の準備をしていた。
 小さなテントが張られていて、登山カード提出係員のおじさんが、こんな早くから一人で立ち働いていた。
 木々の間から、青空の見える方向には岩小屋沢岳(2630m)から鳴沢岳にかけての稜線が続き、左手には木々の間から蓮華岳(2799m)の大きな山体も見えていた。

 5時半、急な山腹につけられたジグザグの道を登って行く。
 ヒザの心配もあり、ゆっくりとしかも足元をしっかり見て、たたらを踏んだりして余計な負担をかけぬように注意深く登って行った。 
 しかし、何といっても北アルプスの山だ。稜線や尾根は鋭く刻まれていて、その急坂を一気に登って高度を稼ぐ道になっていることが多いのだが、この道は新道と呼ばれるだけあって、登山者の負担にならないように、急勾配の少ないゆるやかな登り道が続いているのだ。
 最初のうちに、同年輩らしい夫婦とさらに先で私よりはずっと年上らしいお年寄りを抜いただけで、あとはもう全く早さの違う、競走馬で言う脚色(あしいろ)の違う若者たち何人にも抜かれてしまったが、それも当然のこと、私は今の自分にふさわしい歩みで、亀のようにのろのろと登って行けばいいのだ、何もあせることはない。
 ただ、この道の良いところは、南に下る森林帯の尾根の、主に西側につけられているから、夏山の時には、朝からの熱い日差しを浴びなくてすむし、その分涼しいということだ。

 その木々の間が切れて、斜め後ろ側には、針ノ木谷の雪渓を刻みつけて針ノ木岳(2821m)が、右にスバリ岳(2721m)を伴ってそびえ立っている。(写真上) ああ、北アルプスに来たのだと思う瞬間だ。
 時には尾根右手の日の当たる所を歩いたりもするが、おおむね左手斜面をたどって行き、やがて、今までのシラビソなどの木々からダケカンバの木が目立つようになってきて、行く手の稜線には種池の小屋が見え、小さな雪渓を横切り、最後の坂を上りきると、森林限界を越えた明るいお花畑の斜面に出る。
 雲は多いけれども、所々に日の当たっているお花畑には、あの小さな白い花をびっしりとつけたコバイケイソウの群落や、黄色のシナノキンバイ、ミヤマキンポウゲに、薄赤紫のハクサンフウロなどが咲いていて、背景には周りの雲の中から岩小屋沢岳の稜線だけが見えていた。(写真下)

 

 コースタイムよりは30分近くも余分にかかってしまったけれども、まずヒザがそれ以上痛まなかったことと、それほど息がきつくて足が疲れてというわけではなかったことで、何よりも一安心することができた。
 周りには、家族連れや夫婦や中高年仲間たちなど20人近くがにぎやかに話していて、私は、少しだけこの種池小屋のベンチで休んで、すぐに爺ヶ岳に向かって歩き始めた。

 前後には誰もいない、ハイマツの中に続くゆるやかな道をたどって行く。
 晴れていれば左手に、棒小屋沢の谷を隔てて、高度差1000m余りで、あの鹿島槍ヶ岳(2889m)がそびえ立っているのが見えるはずなのだが、その上部はすっかり雲に覆われていて、山の形さえ分からなかった。
 一人で下りてきた若者に、今日の鹿島槍山頂での天気模様を聞くと、朝早くには頂きだけが雲海の上に出ていたが、すぐに隠れてしまい、その前の日には雨も降って残念だったと言っていたが、”君は若い、また天気のいい時に来ればいい”と、偉そうなじじいらしい顔をして励ましてやった。よれよれ歩きで、励まされるべきは私の方なのに。
 ともあれ、今、前方に見える爺ヶ岳は、その南側を湧き上がる雲に洗われながらも、南峰、中央峰(2670m)、北峰と三つ並んで見えていた。(写真下)



 岩くずのジグザグ道をたどって、南峰の頂上に着くと、ここもにぎやかなグループに占められていて、一休みした後縦走路に戻り、今度は中央峰へと登り返すが、この頂きにも数人ほどがいて、外れたところに座って少し長めに休んだ。
 もう目的の冷池(つべたいけ)の小屋までは、1時間ほどで着くだろうから、急ぐこともなかったし、それよりも何とかして雲が取れて鹿島槍ヶ岳が見えてくれないものかと待っていたが、雲はそれ以上に減ることも増えることもなかった。
 急な斜面の下り口には、所々に紫のイワギキョウと、さわやかな乳白色のトウヤクリンドウの花が咲きはじめていたし、さらに下の方では、あのエーデルワスの仲間であるミネウスユキソウも咲いていた。(写真下)
 爺ヶ岳の下りの道を、反対側から登り返してくる人たちが何人もいた。霧に包まれて何も見えなかった鹿島槍への往復の道のりの後には、この登り返しはつらいことだろう。
 
 コルまで下って森林帯の中を少し登り返すと、そこには小さな池を前にして冷池山荘の小屋があった。
 今日の行程は、休みも含めて7時間半ほどで、確かに疲れはしたが、とにもかくにもヒザが痛み出すこともなく、ここまでもってくれたことがありがたかった。
 これでどうやら、明日へとつなぐことができそうだ。
 ここは、昔は暗くて古い小屋だったのだが、今ではすっかり明るい感じの小屋に建て替えられていた。
 さすがに夏山シーズンで混んではいたが、幅の狭い布団に一人とまずは十分だった。(さらに混み合えば、その狭い布団二枚に3人で寝るような、すし詰め状態になるのだろうが。)

 まだ1時過ぎで夕食までの長い時間があったが、その後で私の隣に来た二人連れの同年輩の人と、方言の言葉がきっかけで、いろいろなことを話し合った。
 企業城下町で、定年までを働いてきて、今こうして友達と山に登ることができるようになったこと、青春時代のアメリカのフォークソングの話から彼も聞くというクラシック音楽までの話などをして、それではとAKBの話を持ち出したのだが、やはり私の周りの友達と同じように、テレビに出ていたらチャンネル変えるとまでは言わなかったが、興味ないからと一蹴(いっしゅう)されてしまった。
 もちろん私は、ロリコン趣味のおやじというわけではなく、あくまでも秋元康の歌詞が良くて歌を聞きはじめ、今では元気な孫娘たちにいやされているとは言っておいたのだが。
 その後も、国際情勢から国内問題に至るまでの話をしたが、お互いに名前も知らない同士が、山小屋でたまたま隣同士の布団で寝ることになって、それを機にいろいろと語り合うなどということは、下界での日常の生活の中では考えられないことであり、その偶然の出会いは、しかし山登りのための山小屋泊まりという同じ目的のために集まった人々同士であり、だからこそひと時の間、心をゆるめて話し合える仲間になれるのかもしれない。
 
 夕方になって、何と雲が取れてきて、小屋の前から双耳峰(そうじほう)の鹿島槍の姿が見えてきて、泊まっている人々で黒山の人だかりになった。
 みんなは、こうして鹿島槍が見えただけでも大満足だと言ってはいたが、やはり明日の天気を期待しているのだ。

 翌日は、何と夜明け前からガスに包まれていて、何も見えなかった。
 それでも、ほとんどの人は鹿島槍を目指して出かけて行った。
 私は、今日はどのみち鹿島槍を越えたキレット小屋までの数時間足らずの行程だからと、しばらく待って見ることにしたが、ガランとした小屋に一人残っているのはどこかむなしい気がする。
 そこで、もしかしたらこのガスは低い雲で上空は晴れているのではないのかと思い、ようやく6時過ぎになって小屋を出た。
 そして途中のお花畑あたりから、何と青空が少しずつ見えてきたのだ。

 よしこれはいけると、喜び勇んで布引山(2683m)へのジグザグ斜面を登って行ったのだが、再び辺りはガスに包まれ、その布引山の高みを過ぎたあたりから、稜線は吹きつけるガスと雨になってしまった。
 すぐに雨具上下を取り出して着込み、再び歩き始めたのだが、すぐに立ち止まった。
 私は、何も雨の中を歩くために山に来たのではない。4度目になる鹿島槍の頂上を踏むために、そこからの展望を楽しむために来たのだ。それも、”今生(こんじょう)の見納め”になるべく覚悟をして来たのだ・・・。
 私は頂上へとあと30分余りの所で引き返すことにした。

 下りてくると、下の方では雨が降っていなくて、穏やかな白いガスに包まれたままだった。
 お花畑で花の写真を撮りながら、ゆっくりと戻ってきたが、小屋に着いたのはまだ8時半にもならなかった。
 そこで幾らか気にはなったが、すぐに連泊の手続くをすませて、しばらくして掃除がすんだ後の別の部屋に案内され、角の位置にある布団を割り当てられて、そこでしばらくひと眠りした。
 というのも、昨日、ものすごいいびきで部屋中の人たちを震撼(しんかん)とさせた人がいて、そのために眠られなかったからでもある。
 その後で、出入り口の登山者のための広い土間に下りると、ちょうど昨日隣同士で話した二人が戻って来ていて、やはり頂上は何も見えなかったが、これから種池の小屋まで行って、明日扇沢に下りるつもりだと言っていた。

 そうして山頂を往復した人たちが何人も戻ってきた後、彼らも帰るために出て行ってしまい、小屋は再び静かになって、私は談話室に行って、持ってきていた文庫本を読んだ。
 もう何度も折に触れて読んだ本であり、何を今さらとも思うが、言葉の響きと、言っていることの意味がそのまま心に入ってくる素直さで、何度も読み返したくなるのだ。
 ましてこんな山の上では、あまり深く考えるような本は頭に入らないし、かといって現実社会に引き戻されるような小説などもあまり読みたくはないし、だからということもあって、荷物にもならない薄い文庫本であるこの本を選んだのだ。

 「知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来(きた)りて、いづかたへか去る。」

 (『方丈記』 鴨長明 岩波文庫)

 明日の天気予報も、さして好転する気配はなかった。
 高気圧の張り出しが少し弱く、そのふちを回って湿った空気が流れ込んでいるためらしかった。
 もし明日もこうした天気なら、鹿島槍はあきらめて、このままただ爺ヶ岳に登っただけで下りてしまうことになるのか、それとも計画を変えて、南下して、鳴沢岳から赤沢岳、スバリ岳、針ノ木岳へと向かうことにするか、私の思いは千路(ちじ)に乱れるばかり、ああ、私の鹿島槍ヶ岳は・・・。 

 次回に続く。