ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

忘れるから生きていける

2017-11-27 21:58:56 | Weblog




 11月27日

 毎回ここに載せている記事は、いつも言うように、私の日記の一つでもあり、この一週間ほどの間にあったことで特に深く感じたことについて、ただ思いつくまま書いているだけにすぎないのだが、しかし、山に登った後には、その思い出について書くだけでいっぱいになっていて、他の様々なことどもは、何事もなかったかのように、省略され行き過ぎてしまうことになり、また私の記憶も薄らいでいってしまうのだろう。
 もっとも、先日、ふと見たテレビの中で、誰かが言っていたのだが、確かに人間は、”忘れることができるから、生きていける”、のだとは思うのだが。
 ”忘れようとする”ことは、今まで何度もここで書いてきたように、ある種の自己防衛本能であって、記憶がいっぱいになりすぎないように、適度に取捨選択しているからか、さらには、つらい記憶につながるものを排除しようとする思いからなのだろうが、そうして私はいつも、頭の中が、”おつむてんてん、チョウチョウが飛んでる”状態になれるようにと、心がけてはいるのだが。

 どうして、こういうことを最初に書き始めたかというと、この一週間の間に起きた出来事の他に、私がテレビを見て、新聞を読んで、本を読んで、人と話をして、その時々に様々に思い感じたことなどがあって、しかし、その中には、人生の機微(きび)にふれる極めて重要な事柄があったかもしれないのだが、それ以上に鮮烈な思い出として残っている山歩きについて、まずはいつも優先して書き残そうとするから、それは、私の自己満足的な性癖によっているからでもあるのだが、そうした大切なことが後回しにされて、いつしか私の記憶の中では薄らぎ消え去っていっているのではないかと思ったからである。 
 もちろん私は、世の中で起きるすべての出来事を、まるで法界悋気(ほうかいりんき)の思いを起こして、残らず知っておきたい記憶にとどめておきたいと思っているわけではない。

 それらの、実は重要な物事は、ひとたび記憶の海に深く沈んでいたとしても、やがてそれが必要な時が来れば、感情の嵐によって奥底深い中から、巻き上げられ浮かび上がってはくるのだろうだが。 
 しかし、記憶は自分のうちにあって自分では制御できない領域にも属しているから、それを少しでも自分の意の中にあるものとして残すには、事前の工作が必要だと思うのだ。 
 例えば、そのことを繰り返し思い出すようにするとか、あるいは書き残したり写真などに撮るとかして。
 それは前にも書いたことがあるが、昔の一枚の写真が残っていることで、併せてその時の前後のことや情景を思い出すことがあるように、そのことについて書き残すことで、記憶がより確実に自分の内に残る事にもなるのだ。

 というわけで、まずは最近のテレビから。 
 いつも見ている、NHKの「ブラタモリ」から、前回の”ものづくり名古屋”編から、名古屋発展の起点になったのは、その昔、徳川家康が作らせた一本の川、その運河によって物資の輸送能力が飛躍的に向上し、さらには明治期に瀬戸や常滑(とこなめ)から外国への陶器輸出の一大拠点となり、名古屋はそのころから陶器の絵付け作業の町としても栄え(あの有名な”Noritake”ブランドなど)、その運送のためにこの運河が使われて、その水面高低差調整のための閘門(こうもん、ヨーロッパの運河で普通に見られる)が作られていて、そこでは”下ネタ”好きのタモリ一同が大いに盛り上がり、われらがマドンナ”近江ちゃん”も、笑顔で受け流すほどになってきたのだ。
 ともかく今や、自動車や電子部品などの”ものづくり名古屋”が、その時代から、さらには有名な豊田の自動織機発明へとつながり、そして今日の隆盛につながっているというのがよくわかる番組だった。

 一方で、同じNHKの「日本人のおなまえっ!」、これまた毎週見続けていて、名前に関することで毎回”目からうろこ”的に教えられることが多いのだが、今回は北陸地方などでわずかに残っている名前、”四十物”さん、普通は誰もこれを”あいもの”さんと呼ぶなんては思わはないだろうが。
 どうして”あいもの”なのかというと、つまり生魚と乾燥させた干物乾物との間には、一夜干しなどの干物があり、その二つのものの間のもの、いわゆる”あいもの”つまり、”相物や合物”と呼んでいたのだが、それらが40種類にもなることから、”四十物”と書いて、”あいもの”と呼ばせるようになったというのだ。 
 そこで、なるほどと感心したのだが、しかし、最後に出てきた築地市場の相物協会の会長さんの話では、”昔、年寄りから聞いたんだが、”四十物”と書いたのは、”しじゅう食べられるもの”という意味からだってえことで、いわゆる江戸っ子の言葉の遊びだろうがね”、と言うのだ。

 そういえば、日本人は、万葉の昔から”掛詞(かけことば)”や”言葉合わせ”などの言葉遊びを楽しんでいて、江戸時代にはその言葉遊びが”駄洒落(だじゃれ)”となって日常会話に欠かせないものになっていたし、当時の浮世絵や草紙・読本には、そうした言葉遊びの数々が書き連ねられている。
 しかし、その言葉遊びの流れは、その後の外国語の流入とともに、次第に勢いを失い、今日ではわずかに、伝統芸能としての寄席の落語などでうかがい知るのみである。
 もちろん、”おやじギャグ”としての”だじゃれ”の存在は、今日もなお健在であるが、それを聞いた若者たちが”シーン”と白けて、いわゆる”潮干狩り”状態になってしまうところに、昭和から平成への世代の落差を感じてしまう。
 ましてや、今の時代は、江戸時代の終わりのころからしても、もう二百数十年もの時を経た、遠い昔のことなのだから無理もないとは思うのだが。

 それだからこそ、昔の人々について知りたいと思っている今の人々にとっては、こうして数多くの日本の古典文学作品が残されていること自体が、何にもましてありがたいことだし、何よりもそうした作品から、私たちは当時の人々の生々しい息づかいを聞こくことができるし、変わらぬ人間の本質を知ることもできるのだ。
 私にとっては、こうして、昔の本を読みあさることのできる、年寄りになれたことがありがたいことなのだ。

 そして、さらに同じNHKの番組が続くが(何度も言っていることだが私はNHKとは何の関係もありません)、昨日の「ダーウィンが来た!」では、ボルネオの密林に棲む、体長5㎜という小さなアリと食虫植物ウツボカズラとの、全く奇妙な共生関係が実に興味深かった。
 他の虫たちは、その消化液の入ったウツボカズラのツボの中に落ち込んでしまうと、そのまま這い上がれずに沈んでしまうのだが、この小さなアリだけは、消化液への耐性があり、ツボに落ちた他の虫を引き上げてその場で細かく砕き、巣のあるウツボカズラの茎にまで運んでいくのだが、そう見るとウツボカズラには何の利点もないようだが、ツボに落ちた虫を消化するには長い時間がかかるから、むしろアリたちに細かく砕いてもらって、そのおこぼれが再びツボの中に落ちたほうが消化しやすいのだ。
 さらには、ツボの中の水のような消化液には、蚊の幼虫のボウフラがわき、それもこの小さなアリたちのエサになるから、ウツボカズラとしても大いに助かっているのだ。
 この小さなアリたちの行動範囲は、このウツボカズラの周りだけでしかなく、他の大形アリが襲って来た時には、素早くこのウツボカズラの中に隠れて、難を逃れることもできるのだ。 
 このアリとウツボカズラの共生関係は、彼ら両者の進化過程の中で少しづつ形作られていったのだろうが、逆に、脳だけを発達させていった人間の進化過程についても考えざるを得なかった。 
 その人間進化のあげく、私たち人間は、どうしてこうも、ただ無益な殺し合いを続けているのだろうか。

 この「ダーウィンが来た!」では、前の週まで2週間続けて”ネコ特集”の特別番組があった。
 福岡は玄界灘の相島(あいのしま)には、百匹余りのネコたちがいて、その中の若い一匹のオスに焦点を当てて、彼の成長行動を見事にとらえていた。 
 若いオスネコは時が来れば、生まれ育った環境から離れて、ひとりで旅に出なければならないこと、そこには自分の存在を認めさせるための壮絶な闘いがあること、場合によっては、自分の遺伝子を残すために、メスネコの子殺しさえもするということ(ライオンやクマやサルの世界にあることは知っていたが)、そのためもあってか、子供を産んだメスネコたちはお互いに近い場所にいて、いわゆる共同保育的な態勢をとるということなど、いつもの岩合さんの「世界のネコ歩き」とはまた違った、生々しい生の現場を見せてもらった気がした。 
 みんな、生きることに一生懸命なのだ。

 さらに次は、日本テレビ系列で春と秋に放送される、あの「のどじまんTHEワールド!」。
 今回もまた、日本の歌を愛する海外の人たちがそれぞれに自国の民族衣装的な服を着て、歌を披露していくのだが、さすがに世界各国での予選大会を勝ち上がってきただけあって、音程・技術・声量ともに確かなうえに、日本の歌手以上に発音がきれいだし、さらには、日本に対するあこがれが歌に対するひたむきさになっていて、聞く私たち日本人の胸に訴えかけてくるのだ。
 私は、歌を聞くのは好きだから、テレビでいろいろな歌番組を見ているのだが、毎回、感動を覚えるほどに引き込まれてしまうのは、この「のどじまんTHEワールド!」だけである。
 今回も、期待にたがわず素晴らしかった。
 手持ちハープのような民族楽器を弾きながら歌ったウクライナの歌姫、日本語翻訳者だという圧倒的な歌唱力を持ったケニヤの娘、そして天才だと思わせるほどのラオスの13歳の少女などなど、聞きごたえ十分だった。 
 もしこの歌番組に、日本の歌手が混じったら、はたして何人が彼女たち以上にそん色なく歌うことができるだろうかと、考えさせられてしまった。
 しかし、今回はともかく、今までのこの番組で、私が最も心を動かされたのは、あの2015年秋に、インドネシアの女子大生ファティマが歌った”いきものがかり”の名曲「Bluebird」であることに変わりはない。('15.10.5の項参照、youtubeに動画あり)

 いつもこの番組を見て思うのは、もちろんここでの歌声が、あの「Imagine」や「We are the world」ほどに、全世界的規模の歌には成りえないだろうが、少数だけではあっても、確かに”歌は世界をつないでいる”、ということを実感してしまうのだ。

 さらに、他の音楽番組では、今やオペラの世界に冠たる女王であるアンナ・ネトレプコの、ザルツブルグ音楽祭での、ムーティ指揮ウィーン・フィルによるヴェルディのオペラ「アイーダ」についてや、さらには世界的なバロック・チェロの名手、あの鈴木秀美が指揮者となって、古楽器のオーケストラ・リベラ・クラシカを指揮して演奏する、モーツアルトの第40番や、同じ古楽器で、クラヴィコードからピアノへの移行期に使われたという、タンゲンテンフリューゲルでのピアノ協奏曲9番のことにも触れておきたかったのだが、ここまで書いてきただけですっかり疲れてしまった。
 また別の機会に改めて書くとして、今回はここまでにするが、この秋は様々な用事が重なって、早めにこの九州に戻って来たのだが、その大半がようやく片づいて、今は多少のんびりとしている所であり、誰でもそうなのだろうが、懸案の事項がいくつか終わった後の、この力の抜けた安堵感がいいのだ。
 ベランダの椅子に座り、秋の日差しを浴びて。

 年寄りには、もう何事も起きなくて、毎日が同じように過ぎていくだけの、静かな時間であればそれでよいのだ。
 庭の紅葉も、ほとんどが散ってしまって、あとは風に揺れる葉が、数枚、やがて一枚になり、それも落ちてしまうことだろう。
 
 夕焼け空とともに、秋の日が終わっていく。(冒頭の写真)
 いい、秋だった。


夢か現(うつつ)か幻か

2017-11-20 21:31:47 | Weblog



 11月20日

 この秋は、9月半ばの大雪山黒岳(9月18日の項参照)に始まり、同じ大雪山の高原温泉沼めぐり(9月25日の項)と続き、九州に戻ってきてからは、九重山大船山(10月30日の項)から由布岳(11月6日の項)そしてその周辺の山々と、合わせて6回もの登山が続いて、私にとっては、近年にない満ち足りた紅葉登山の年になったのだ。ありがたや。
 今回書くのは、その最後の山の紅葉についてであるが、この秋はこうして立て続けに山に行ったために、すぐに記述するべきところが間に合わなくなってしまったのだ。
 もともと、このブログが私のもう一つの日記であることから考えれば、10日遅れもの記事になってしまったことで、どこかずいぶん前のことを書くような気がして、いささか後ろめたい気もするのだが。 
 それにしても、まだ近い記憶として、写真とともにあの時の鮮やか色合いがよみがえってくるのだが。いやー、よかったなあ。

 前回から一週間たって、同じあの沢沿いの林の紅葉を見に行こうと思ったのは、もう山の紅葉の時期は終わりを迎えていて、今では山裾から山里の紅葉が盛りを迎えている時だから、山に登るのには遅すぎる時期でもあったからだ。
 思えばあの沢沿いの林は、それだけに風当たりも弱い所だろうし、午後の暖かさを保つこともできるから、紅葉の進み具合が遅く、去年もそうだったあの紅葉の木々(’16.11.16の項参照)は、今でも十分に楽しむことができるだろうと考えたことと、併せて、前回見たあの白い花の正体を確かめたいこともあったからである。

 前回と同じように、登山口を出たのは遅く9時くらいだったのだが、沢沿いの木々に日が当たるのを考えれば、それでもまだ早いくらいだった。
 登山口には、他にクルマが2台停まっているだけで、先の方に一人が林道を歩いて行く姿が見えていた。静かだった。
 その日は、終日快晴の素晴らしい青空が広がっていた。
 私にとっての山登りとは、こういう日に山に登ることを言うのだ。
 何という、年寄りのぜいたくだろう。だから年寄りはやめられないのだ。
 むつかしく言えば、今までここで何度も取り上げてきたように、ドイツの哲学者ハイデッガー(1889~1976)が、その著書『存在と時間』の中で言っているように、死ぬことを意識し了解したうえで、自分の今生きている時間の意味を知ることにあるからだ。ああ、ありがたや。

 林道の終点の土場(どば)跡から、沢沿いの登山道に入って行くと、すぐに紅葉の林に包まれる。 
 去年、私が心いやされるような、穏やかなひと時を味わった場所だ。 
 しかし、まだあの時と比べれば少し時期的に早く、それ以上に、まだ午前中の日の当たらない山陰の所だから、淡いいろどりの夢の中にいるようだった。
 もっとも、それはそれで、昼間の紅葉とは違う、朝の山間の静けさを思わせるような、穏やかな色合いにも見えたのだが。(冒頭の写真)

 沢沿いの道を登り、浅い三股に分かれた所から、山腹斜面の登りになるのだが、ちょうどそのあたりに、見事なイロハモミジがあり、ここもまだ十分には日が当たっていなくて、帰りの楽しみにしようと思った。
 急斜面を登りきると、周りの山々に囲まれた平坦地の林に出る。
 その先に去年と同じように、群れになった鮮やかな紅色の紅葉の木々がある。
 ちょうど、そこに私より先に登っていた人が上の方から下りてきて、あいさつを交わし少し話をした。
 彼が私と同じように一眼レフ・カメラを首から下げているのを見て、ついでにこの木の名前を聞いてみた。
 去年その名前がわからずに、ネットや図鑑で調べて、まだ木々の名前には詳しくない私が、確信の持てないままに、メグスリノキではないのかと思っていたのだが、その時に彼が遠慮がちに言った名前は、コマユミだった。(写真下)



 家に戻って調べてみると、良く知られているマユミの木とは別の、ニシキギ科に属するコマユミだと初めて分かった。
 マユミの紅葉の葉は、この木の近くにもあって、コマユミほどには垂れ下がっていないし、むしろ赤い実がが印象的なほどであり、かといって同じ科のニシキギは、家の庭にも生えていて、確かに紅葉の葉は少し下垂して色合いも似ているのだが、このコマユミには、ニシキギの枝にある背びれのような翼と呼ばれるものがないのだ。
 なるほど、これがコマユミだったのか。年寄りになって、なお初めて知ることがあるし、人生とは生涯を通じての学びの場でもあるのだろう。

 もう一つ、この先の方には、前回見た白い花のこともあるが、それよりも、この見事な青空だ。展望派の私としては、こんな日に、周りの山々を見るために頂上に行かない手はない。
 さらに先に続く、火口壁の急斜面をジグザグに登り、明るい草地になった稜線に着いた。
 由布岳も九重連山も祖母・傾も、雲一つない青空の下にくっきりと見えていた。
 そこから頂上までは、紅葉の終わった灌木(かんぼく)帯の中の道をたどり、すぐだった。
 しかし、そこには、表側から上がってきた観光客の声も聞こえてきていて、束の間、新たなる展望を眺めた後、そさくさと頂上を後にした。
 山腹の紅葉も、ほとんどが終わってはいたが、まだ十分な色合いが残っているものは、それだけにひときわ鮮やかに青空に映えていた。
 下りでは、登りの時とはまた位置が違って、新たな別の紅葉を見るような気がして、さらに写真を撮りたくなってしまう。

 これは、前々回に書いた由布岳の紅葉の木々と同じことだが、紅葉している木は、コハウチワカエデやイロハモミジ、ウリハダカエデやコマユミなどがあり、黄葉しているのは、イタヤカエデにウリカエデ、ヒトツバカエデにチドリノキにリョウブ(紅葉も)などである。 
 私は、地面に落ちているそれらの葉を持ち帰って、さらに木の幹の写真を撮ったりして、少しでも木の名前を憶えようとしているのだが、”少年老い易(やす)く、学成り難(がた)し”ならともかく、今頃からの”年寄りの付け焼刃”では、なかなか身にはつかないものだ。 

 そして先ほどの、コマユミが群生する平坦地に戻ってきた。
 さらに先にあったはずの、あの白い花を探しに歩いて行ったのだが、見つからない。 
 確かこのあたりだったと思ったのに、一房の花さえ残っていなかった。 
 あれは、最近視力が衰えてきた、私のかすみ目のせいか、あるいはそもそもが幻覚だったのか。しかし、前回あげたように、ちゃんと写真として残っているし。
 周りをあちこち探しまわっているところで、その中には、赤い実をつけたマユミの木もあったのだが、何とずっと低い所に、ツル状に重なってあの白い花が咲いているのを見つけた。

 これだこれだと、喜び近づいて行くと、それは花ではなく、がくの周りが白い綿毛に包まれた形からなる、種子の集まりだったのだ。




 樹木・植物については、ありあわせの知識しかない私だから、前回その白い花が、高い木の枝の上にあったこともあって、遠目には、がくのふちから伸びた白い綿毛を合わせて見て、それらが枝先まで鈴なりについていたので、花として見間違えたのだろうが。 
 年寄りになれば、足腰は弱るは目はかすむは、と大変なことも多いのですが、はい。
 それでも、年寄りでいることが好き!八丈島のきょん!(昔のマンガ「こまわりくん」のギャグ)

 これも家に帰ってから、ネットにあげられた写真をいろいろと探し回って、やっと見つけたのだ。
 ツル性の樹木であるのは分かっていたが、それだけでは探しようがなく、手あたり次第調べていたら、全く同じ綿毛の写真を見つけたのだ。
 ボタンヅル。
 樹木に詳しい人なら、遠目に見ただけでもすぐに分かって、私のような手間ひまをかけなくてすんだのに、まあ年寄りとしては、こうして物事が解決されて”アハ体験”を得られることで、認知症対策の一つにもなったのだと喜ぶべきなのだろうが。

 さて、物事が二つ解決して(この時点ではまだ名前の最終決定には至ってはいなかったが)、いい気分になって斜面を下って行くと、行きに目にしたあの紅葉の木が、今や青空を背景に、いっぱいの光を浴びて明るく輝いているではないか。 
 それは、今年の、私の紅葉行脚(あんぎゃ)の山旅を締めくくるにふさわしい眺めだった。
 紅葉のイロハカエデの木と、黄葉のアオハダ(幹と葉の形から)の木が、相立ち並んでいるのだ。





 私は、斜面に立つこれらの木の周りをめぐっては、何枚もの写真を撮り、そして傍らに腰を下ろしては、静かなるひと時を過ごした。 
 先ほど出会った彼は、別のコースに行くと言っていたし、他に人の気配とてなく、時々、さわさわと梢(こずえ)を揺らす風が吹いて、その色づいた葉が二枚三枚と落ちていた。

 しばらくして、腰をあげた私は、沢沿いの道を下って行った。 
 朝見た時のように、辺りの紅葉は進んではいたが、まだ去年来た時と比べると、一週間以上も早く、もうここでまた腰を下ろすほどではなかった。 
 むしろ林道の途中に、ひと塊りになって群生しているモミジのほうが、ちょうど逆光になってきれいに見えていた。
 こうして、私の秋の山旅は終わったのだった。

 これからあと何回、こうして秋の山道をたどり、冬の雪の上に自分の足跡を刻み、春の燃えあがる新緑を眺め、そして夏のお花畑を見ながら、歩いて行けることだろうか。 
 そして、今までの私の山歩きは、それぞれが一つずつ、確かにそこへ行ったことの思い出でとしてありながら、今では全体が曖昧模糊(あいまいもこ)とした大きな山という思い出のくくりの中にあって、私は、その記憶の大海原の中に浮かぶ一つの島である山に、ずっと登り下りを繰り返してきたような気もする。 
 その島が何であったのか。
 それらの思い出の数々は、果たして、”夢か、現(うつつ)か、幻か”と思う時が来るのだろうが。
 その時に、私だけの島は沈みゆくのだろう。

  あの有名な、桶狭間(おけはざま)の戦いの前に、織田信長(1534~1582)が自ら吟じ舞ったとされる”幸若舞(こうわかまい)”「敦盛(あつもり)」の一節 、”人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻(ゆめまぼろし)の如くなり”の前にある詞書きには、以下のごとくある。

  ”思えばこの世は、常の住処(すみか)にあらず。
 草葉に置く白露、水に映る月よりなほあやし。
 金谷に花を詠じ、栄花は先立って、無常の風に誘わるる。”

(『新日本古典文学大系』59「舞の本」岩波書店)

 すべて常ならぬものはなく、人も去り花も散る。この世には無常の風が吹くばかりである。
 しかし、これらの言葉の言外に含まれている意味は、それだからこそ、今の一瞬一瞬を、強く生きるべきなのだと、聞こえてくるのだ。
 彼は、無常の世界だからこそ、今を生きる強い力が必要なのだと、自らを鼓舞(こぶ)したのだろう。
 それは、虚無的にも見えながら、おのれの存在を信じ続けた行動主義の作家たち、アーネスト・ヘミングウェイ(1899~1961)やアンドレ・マルロー(1901~1976)だけでなく、あの”アラビアのロレンス”(T・E・ロレンス、1888~1935)にさえ、私はそこに、挑むことを決めた男たちの、真摯(しんし)な眼差しを見る思いがするのだ。
 私の若き日のオーストラリアに・・・。

 今日北海道では、気温が-17度まで下がり、60㎝もの雪が積もったところもあるとか・・・九州の山々でも、九重や由布岳、そして阿蘇高岳からも初冠雪の知らせが届いている。 
 今朝、わが家の外に置いてある温度計では、ー1度だった。
 九州の山の紅葉の秋は、あの時で終わってしまい、今はもう雪氷の冬が来ているのだ。

 

 


人知れず赤く染まりゆく樹々

2017-11-13 20:45:32 | Weblog




 11月13日

 もう3週間近くも、毎日のように秋の青空を見ている。
 ほんの少し小雨が降ったことはあったけれども、これほど長く天気が続くのも珍しいことだ。
 その間に、私は4回も山に行ってきた。 
 最近は、あれやこれやと理由をつけて、出かけるのがおっくうになり、2か月もの間、山に行かないことも珍しくはなくなっていた私が、ここにきて何という山への入れ込みようだろうか。

 それは、北海道にいた時のように、平野部のただ中に家があって、山の登山口に着くまでに時間がかるということもなく、今いる所がすでに山の中だから、周りの山々に行くのも、それほどの時間がかからずに、たやすく日帰り登山ができるからでもあるが。
 さらには、この秋の季節、山の紅葉の盛りの時期はわずかなひと時であり、それを思うと、老い先短いこの年寄りめは、居ても立ってもいられなくなり、今朝も今朝とて、またもう一つの錦織りなす舞台を見んがために、出かけて行くのでありました。

 前回書いたように(11月6日の項参照)、もう由布岳(1583m)上部の紅葉は終わっていて、山の中腹からすそ野にかけてが見ごろだったから、今はどの山でもそれ以下の標高の所でしか紅葉を楽しむことはできないだろうと考えて、去年も行った(’16.11.21の項参照)あの山々に囲まれた、静かな林に行くことにした。
 ただし、この時のことはもう2週間近くも前のことで、今さらここに記事としてあげるには気がひけるのだが、私の山の日記の記録としては、やはり順番通りに書き進めるほかはないし、さらには3日前にもまた、同じ所に行ってきたのだが、それも次回に書くつもりでいる。

 登山口に着くと、休日のさ中だから、路肩には10台ほどの車が停まってはいたが、すでに出発した人たちが多く、ちょうど私と同じころに出発した人たちも、すぐに私を抜いて先に行ってしまい、いつもの静かな沢沿いの道になっていた。
 去年ここに来て、穏やかな紅葉の眺めにしばしのひと時を過ごしたのだが、その時から言えばまだ2週間も早く、まして山陰の沢沿いの道だから、まだ日の当たらない淡い秋の色を感じられただけだったが。
 もちろん、それはそれで、静けさと相まって、なかなかに味わいのある風景だったが。 
 そして山腹を登りつめ、木々に囲まれた平坦地に出ると、その先に、一瞬目を疑うような光景が広がっていた。  
 里の秋だが、山では晩秋の季節なのに、なんと白い花がびっしりと咲いていたのだ。高い枝の上に雪が降り積もったように。(写真下)





 とりあえず、写真だけ取って後で調べることにして、先にある展望が開けたコブの頂上まで行って、そこからの九重山や祖母山そして由布岳の眺めを楽しんだ。

 しかし、今回の目的は、ここだけではない。 
 今来た道を戻って、平たん地の所から、今は使われていない、山腹をめぐる林道跡の道をたどることにした。 
 もうずいぶん前のことだが、この山腹の上にある長い稜線をたどり向こう側に下りて、この林道跡をたどって戻って来たことがある。 
 起伏は少ないが距離が長く、その上に春だったのに見るべき植生もなく、徒労感だけが残ったのだが、しかしその時にも、紅葉時期に来たらまた違う風景になるだろうと思ってはいたのだが、それが今頃になってふと行ってみる気になったのだ。

 その道は、まさに昔の林道跡というのににふさわしく、クルマはおろか重機でさえ、まず道を作る工事をしなければ通れないだろうと思えるほどに荒れていて、右手の急な山腹から転がり落ちてきた大岩が散乱し、完全に道をふさいでいるところもあった。
 しかし、そんなところでも通り抜けることはできるし、所々には赤いテープが残されていて、確かに人の歩いている踏み跡が残っていた。
 そんな、長年手を入れられていない古い林道跡だけあって、そのぶん、山腹の庭園風な紅葉の林の眺めが素晴らしかった。(冒頭の写真)

 天気は、午後から雲が多くなり、晴れたり曇ったりの状態だったが、上にあげた写真のように、日が陰った曇り空でも、むしろこの錦秋の豪華な色彩には、さらなる陰影など必要ないと思わせるほどだった。
 そして、所々には木々の間に隙間ができていて、そこからまるで額縁の絵のように、由布岳の姿が見えていた。
 それはまるで、私好みの絵葉書写真のような光景であり、その由布岳東面の山腹には、小さな雲が流れ込んでいた。(写真下)




 そして、雲が増えてきた空ながらも、その由布岳の左手遠くには、秋の澄んだ空気の中で、それぞれに藍色の陰影を強めながら、いずれも登ったことのある山々が見えていた。
 手前に由布岳側火山の一つである日向岳(ひゅうが岳、1085m)の丸いふくらみがあり、次に城が岳(1168m)から倉木山(くらきやま、1160m)への連なりがあり、さらに遠く九重の山並みが見えていた。(写真下)
 


 

 私は、そこで腰を下ろすことにした。ここまでくれば、もう十分だった。
 風もなく、あたりには人の声も聞こえず、鳥の声さえ聞こえなかった。
 明るい静寂の風景の中で、私は何も考えなかった。
 この秋色の光景の中に、ひとりいることが心地よかった。
 大きな岩の上で、あおむけになると、今度は真上に紅葉の風景が広がっていた。(写真下)
 人知れず赤く染まっていき、そして枯れ落ちていく木々の葉。 
 ただ雲だけが流れていき、時間が流れ、その流れの中にいる私・・・生きているということ。

 そこで、前にも何度かあげたことのある、あのローマ時代の政治家であり哲学者でもあったセネカ(紀元前4~紀元後65)の言葉が浮かんでくる。

 ”今ある現在は一日一日を言い、その一日の刹那(せつな)からなる。”
 ”自分の生のどの部分も自由に逍遥(しょうよう)できるのは、不安のない平静な精神の特権である。”
 ”現在という時は常に動きの中にあり、流れ去り、駆け去る。やってきた刹那に、すでに存在するのをやめている。”

 また彼は、ギリシャの哲学者デモクリトス(紀元前460~370)の言葉としてもあげているのだが。

 「静謐(せいひつ)に生きたいと思う者は、私人としても、公人としても、あまり多くのことをなすべきではない。」むろん、無益なことを指しての言である。
 ”精神には、自己を信頼し、自己に喜びを見出し、自己の優れたものを尊び、できる限り他者のものから遠ざかって、自己に専心し、損害を損害と思わず、不運な出来事でさえ善意に捉えるようにさせなければならない。”

 (以上、『生の短さについて』セネカ 大西英文訳 岩波文庫より)

 もちろん、そうした賢人たちの有意義な言葉があることは知っていても、今の私は、ただぐうたらに一日を暮らし、ただのんべんだらりと一日を生きているだけのことでしかないのだが。
 地面をはい回る虫がいて、枯葉をつついてその隙間にいる虫をついばんで食べる鳥たちもいる。
 彼らは、ただ一日一日を、生きる本能に基づいて生きているだけかもしれないが、しかし、私たち人間も似たようなものであり、それ以上でも以下でもないし、こうして生きている日々こそが、すべての生き物に取っての、それぞれのかけがえのない今なのだろう。

 さて、その岩の上に横になっていた大きないも虫は、あのカフカの小説『変身』のいも虫ほどに、わが身を持て余して動けないわけではなく、むっくりと起き上がっては、30分余りもいたその場を離れて、元来た道を下って行ったのであります。
 帰りの道でも、まだ見るべき光景がいろいろとあって、繰り返し写真を撮りながら、これらの紅葉風景に見あきることはなかった。
 そして、午後の早い時間に、クルマを停めていた場所に戻ってきた。

 今日の行程は、6時間足らずで、ありがたいことに、今回もヒザやじん帯が痛むこともなく、帰って来ることができたのだ。
 この秋に、最初に登った九重の大船山(10月25日の項)では、時間がかかりすぎて疲労困憊(こんぱい)の状態だったのだが、ヒザにきたわけではなく、これでもう長い間、登山でヒザが痛むことはなくなっていたのだが、それは最近、飲み続けているコラーゲンのサプリが効いているからだろうか。
 それはどうかわからにけれども、去年、あの大雪山は緑岳(’16.7.11の項参照)の下りで味わった、ヒザの痛みは忘れられないし、ともかくこうして一日の行動時間や距離を抑えることで、まだまだこのじじいでも山歩きができるのだと、教えてもらったような気がするのだ。

 特に、今日の紅葉の色は、私の紅葉登山史上でも忘れられないものの一つだったし、こうした山腹めぐりの紅葉トレッキングとしては(あの数年前の九重・黒岳周遊の時以来だが)、確かにこの山歩きで、私の登山には、頂上を目指さないという新しい道が見えてきたような気がする。
 ともかく、この日のことを思い返すと、今でも心穏やかになるほどの思い出になったのだから。
 ただただ、この年まで生きてこられたことに、ありがとうと感謝するばかりで・・・。
 しかし、この一週間後、またもや私は、同じ場所に別の紅葉を求めて出かけて行くことになるのだが、それは次回に。
 

 


歳歳年年、人同じからず

2017-11-06 22:20:53 | Weblog



 11月6日

 10月半ば、九州に戻ってきたころからの、十日余りも続いた秋の長雨の後、今度はそれに代わって、見事な秋晴れの日が続いている。
 そのうち、この連休を含めて一週間余りにもなる好天の日々は、ちょうど紅葉の時期と相まって、連日行楽地は大賑わいだったらしいのだが。
 もちろん、山登りにも最適の日々だった。
 特に、この一週間、月末と昨日今日は、風も穏やかで、空気も澄み渡り、雲一つない快晴の空が広がっていた。 
 それなのに、わざわざそんな絶好の日々を外して、私は二度も山に行ってきたのだ。

 もちろん、私が山に登った日も、それほど天気が悪かったわけではないのだが、日ごろから”快晴登山”を標榜(ひょうぼう)にして心がけている私にとっては、いささか”看板倒れ”ふうな結果になってしまって、いささか自分に後ろめたい気もするのだ。 
 もっとも、そんな自分の決断の小さな誤りなど、人生の中ではよくあることであり、いちいち気に病んでなんかはいられない。
 最適な時を選ばなかったことは、いつかまた最適の時に会える可能性があることであり、さらにはそのことが、最適な時に次ぐよい時だったと知っただけでも、十分に価値のあることだったと思うのだが。
 ”逃した魚は大きい”かもしれないが、手に入れた小さな魚があるだけでもありがたいことだし、つらつら鑑(かんが)みれば、その小さな魚は、今、唯一自分の手元にあるものとして、きらきらと輝いているではないか。ものは考えようだ。

 私は、二日間、快晴の日が続くと予報された二日目の日に出かけたのだが、確かに高気圧が帯状に続く天気図ではあったのだが、その日は高気圧と高気圧の間に入っていて、いささか冷たい空気が入ってきては、山には雲がかかるだろうことは予想されたのだが、連休も控えているし、今しかないと思って決断したのだ。
 朝から東の空には雲があって、それが山にかかっていたのだ。

 目指した山は、由布岳(1583m)である。
 今までに何度も書いてきたけれども、この由布岳は、あの深田久弥の”日本百名山には選ばれてはいないけれども、その二つの耳をそばだたせた個性ある姿から言っても、その興味深い植生をめぐる変化ある登山道から言っても、”見てよし、登ってよし”の、むしろ私が選ぶとすれば、”日本五十名山”の一つとして選びたいぐらいの山であり、そのことは、この度の紅葉時期の登山で、さらに思いを強くすることになったのである。

 この由布岳には、若いころから何度となく登っていて、その半分以上が雪のある冬の時期である。
 雪はひざ下ぐらいまでで、それほど多くはないのだけれども、独立峰だけに、北西の風を受けて、霧氷、樹氷にシュカブラ、”えびのしっぽ”などの雪氷芸術を見ることができる。もっともそのための、西峰からお鉢めぐりにかけての岩稜帯にはアイゼンなどの冬山装備が必携となるが。
 しかし、そうして何度登っていても、九州にいる時期が冬を中心として限られていたために、どうしてもその時期だけに偏りがちになり、あとは新緑のころと、ミヤマキリシマの花の終わりの方のころ、さらにはこの紅葉の時期にも、ほとんど終わりのころにしか登っていなかったのだ。 
 しかし、今年は他の用事もあって、早めに九州に戻ってきたので、これでやっと紅葉が盛りの山に登れると、意気込んでいたのだ。

 前回の、九重は大船山の紅葉も上のほうは終わりに近かったが、十分に楽しめたし、大船山よりは高度が200mも低い由布岳なら、まだ紅葉の時期に十分間に合うだろうと思ったからでもある。
 朝は、早く起きたのだが、由布岳の方向の空には雲の塊があり、すぐにはとれなかったこともあって、さらに天気予報、衛星画像とともに見ては、決断して出かけるまでに時間がかかり、遅くなってしまった。
 そのため、由布岳登山口(約770m)に着いた時には、もう9時半にもなっていて、数十台は停められる駐車場はいっぱいであり、そこに何とか空いている所を見つけては停めることができて、これはついているというべきか、さらには目の前の山の雲も取れつつあったのだ。
 由布岳は、誰もが立ち止まって見たくなるほどの、優美な裾野を広げた姿なのに、頂上部分だけははっきりとした二つの岩峰に分かれていて、昔の火山分類でいうコニーデ型とトロイデ型の複合系である、いわゆる”コニトロイデ”の特徴をそろえている。
 そして、その岩峰の頂上から山腹、裾野に至る山体には、明らかに上から下に紅葉が下りてきている様子がうかがい知れた。(冒頭の写真)

 なだらかに続くすそ野の、カヤトの原の中の道をたどって行くのだが、この最初のさわやかなアプローチの道がいい。
 ススキや小ザサの間には、これまたすがすがしい紫色のリンドウの花が二つ三つと咲いていた。
 そして山腹の林の中の道となる。
 まだ緑色の木の葉が多い中でも、すでに赤く黄色く色づいた木々もあって、青空を背景にして輝いていた。



 前後に何人かの人はいたが、それも離れていて静かだった。
 しばらく、その山腹沿いの道をたどると、少し開けた合野(ごうや)越えに出る。
 このまま西側に下って行けば、西登山口のある由布院の町へと降りて行く間道が続いているし、途中で南側に盛り上がっているきれいな草山への道をたどれば、由布岳の側火山の一つである飯盛ヶ城(いもりがじょう、1067m)へと一登りである。
 そこで一休みした後、いよいよ由布岳山腹のジグザグの登りが始まる。
 しかし、その勾配はゆるやかだから、この樹林帯の紅葉を楽しみながら登って行くことができる。
 前後に人もいなくて、あれだけの車が停まってはいたが、多くの人は朝早く山頂へと向かったのだろうし、私の後ろから来た人たちも、たちまちのうちに私を抜いて先に行ってしまい、それでかえって、静かな山歩きができているのだろう。

 やがて、紅葉の木々の梢が低くなって、明るくなり、灌木混じりの開けたカヤトの山腹に出た。
 たちまちのうちに、見晴らしが開けてきて、由布院盆地の町が見え、遠くの九重の山々には雲がかかっていたが、この由布岳山腹の、白いススキから紅葉のつづれ織り模様と、その下に広がるまだ緑色の牧野うねりが、鮮やかな色合いになっていた。(写真下)




 この山裾の紅葉模様は、山頂に至るまでずっと見ることができて、その同じような写真を、私は何枚撮ったことだろうか。
 紅葉が美しいのは、単に赤い色が多いからだけではなく、対比する色としての、橙色から黄色薄黄色などの色も混じるからだと、この時また改めて知らされた思いだった。
 ようやくジグザグの道が終わり、そこでササやカヤに覆われた斜面の上に紅葉の帯が見え、さらにその上に岩稜からなる東ノ岳の頂上部が続いていた。(写真下)




 これからは、二峰への分岐点になるマタエへの急こう配の登りになる。
 もう下りてくる人たちもいるし、後ろから登ってきた若い人たちには抜かれて、やっとのことでマタエにたどり着いた。
 しかし、そこから見たお鉢火口の周りの木々は、もう葉がほとんど散っていて、数えるぐらいの紅葉しか残っていなかった。 
 マタエからは、人の多い東ノ岳(1580m)には行かずに、人の少ないに西ノ岳(1583.3m)に行くことにする。 

 この西ノ岳へは、すぐの所にゆるやかな鎖場が二か所あり、さらに先では、垂直に近い岩壁をトラバースする鎖場がある。 
 もっとも、それほど高い岩壁ではないから、落ちたところでたかが知れているのだが、慣れていないと足がすくむし、敬遠する人が多いようだ。 
 その岩壁をすぎても、まだ細い稜線の急な道が続くが、冬に雪がある時には、このあたりの雪氷芸術が素晴らしいのだが。
 やがて、道はようやくなだらかになり、西ノ岳頂上に着く。
 時間は、コースタイム2時間ほどの所を、40分近くも過ぎているが、写真撮るのが好きな足の遅い年寄りだから、それも仕方あるまい。 
 それよりも、頂上には数人しかいなかったが、その一角では、シートを広げた上で女子会が開かれていて、その楽しげな声に恐れをなしたこのじいさんは、その先に続くお鉢めぐりの道をたどって、そこでようやく自分の居場所を見つけたのであります。 
 もちろん山に登るのは、みんなそれぞれに目的があり楽しみ方があるのだから、分かってはいるのだけれど、と年寄りはつぶやくのですが。

 天気は相変わらず、西の方から雲がわいてきていて、日が差したり陰ったりの繰り返しで、私としてはあまり良い天気とは言えないのだが、今まで見てきた紅葉風景は十分に満足できるものだった。 
 天気が良くて、まだ紅葉がきれいならば、1時間ほどのお鉢めぐりをして東ノ岳にも登って、と思っていたのだが、眼下に広がるお鉢火口周辺はすっかり冬木立の景観になっていて、そこにいくつかの紅葉の木が見えるくらいで、とても行く気にはならなかったのだが、注目すべきは、そのお鉢の剣ヶ峰の向こうに横たわる、鶴見岳(1375m)山群の姿であり、その山腹が、見事な赤い色に覆われていたのだ。あそこへは行かなければ。

 30分余りを過ごした頂上を後に、女子会のそばを、”ごめんやしておくれやしてごめんやっしゃー(吉本新喜劇の鉄板ギャグ)”と通り抜けて、少しもたつきながらも岩壁を下りて、マタエに戻ってきた。 
 さあ後は、ゆるやかな下り道だけだし、ゆっくりと紅葉風景を楽しんでいこうと、あちこちにカメラを向けては(写真下)、さらに日が差すのを待ってみたりと、女子会の彼女たちをはじめ多くの人に抜かれながらも、私にとっては、”紅葉ファースト”がすべてであり、天気が今一つだったと思いながらも、結局、160枚余りもの写真を撮って、登山口に戻ってきたのでありました。
 下りの時間も登りと同じくらいかかって、今日は6時間の、私にはちょうど良い山歩きになったのだ。

 ただ、この年になって初めて知ったことだが、あの九重の紅葉と同じで、由布岳にもおそらく二、三十回は登っていながら、恥ずかしながら、紅葉の盛りの由布岳がこれほどに素晴らしい景観になることを知らなかったし、ということは、まだまだこの九州の山だけではなく、全国にはどれほど多くの紅葉名所の山々があることか、まして、その紅葉を眺めるには、様々な見方があることを、今さら教えられたような山歩きの半日だったのだ。 
 私は今まで、余りにも北海道の山々の紅葉にこだわりすぎていて、足元の地元の山々に目がいかなかったのかもしれない。
 これからは、足腰が衰えてきたぶん私にはちょうど良い、こうした九州の低い山々の紅葉を、少しずつ見て回りたいと思う。なにごとも、生きていればこそのことだから。
 それにしても、若い元気なころに、北海道の日高山脈や日本アルプスなどの山々に登っておいて、本当に良かったと思う。
(この二日後に、私は、また紅葉の山歩きをしてきたのだ、次回に。)

 前にも、このブログであげたことのある有名な漢詩だが、唐代の劉希夷(りゅうきい、651~680)の一編。

 ”年年歳歳(ねんねんさいさい)、花あい似たり。歳歳年年、人(ひと)同じからず。”

 私なりに訳すれば、”毎年咲く花は大して変わらないけれど、それを見る人の顔ぶれは、毎年変わっていくのだ。”
 つまり、毎年の、山の紅葉の美しさには、たいした差はないけれども、それを見るために登ってくる登山者の顔ぶれは、少しずつ変わっているのだ。 
 木々の紅葉は、当然のことながら誰かに見てもらうためではなく、ただおのが生長生成過程で起きる、生きる過程の一つの姿でしかないのだが、それを美しいと思う人間たちにとっては、自分が生きている間だけにしか見ることのできない、一過性の貴重な感覚美なのだ。

 マーラー作曲の交響曲『大地の歌』第一楽章「大地の悲しみに寄せる酒の歌」からの第三節。
 それは、あの有名な唐代の名詩人、李白(701~762)の詩をもとにしたドイツ訳詩よるものとされる一編である。

  ”天空は永遠に青く、大地はいつまでも揺らぐことなく、春至れば花が咲き誇る。 
  だが人間よ、お前はどれだけ生きられるのか。百年もない期間、この世のはかないことを楽しむにすぎない。”

(『名曲解説全集2』交響曲2 音楽之友社)