ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

飼い主よりミャオへ(132)

2011-04-28 18:49:52 | Weblog



4月28日

 拝啓 ミャオ様

 ミャオと別れて、もう1週間になるけれど、元気にしているだろうか。おじさんからエサをもらうのにも、慣れただろうか。
 固く閉められたドアや窓の傍で、まだ開けてくれと鳴いているのだろうか。そして、ベランダでただひとり、私が帰ってくるのを待っているのだろうか。
 冬の間、仲良く一緒に暮らしていたのに、今は遠く離れて、お互いにひとりになって暮らしていかなければならない。私は北海道にいて、少し後ろめたい気持ちになって、考えてしまうのだ。無理やりにでも、オマエを連れてきたほうが良かったのかと。
 しかし、母がそうであったように、年寄りネコになったオマエもまた、全く知らない土地に行くのはイヤだと言うだろう。
 あの大震災の被災者であるお年寄りたちが、いくら不便な生活になったとしても、自分が長い間暮らしてきた土地から離れたくないのは、当然なことだ。お年寄りたちは若い人たちと比べれば、変化にすぐには対応できない。不便な暮らしを我慢することはできるだろうが、例えいくら便利な生活を送れるとしても、いまさら知らない所に行きたいなどとは思わないだろう。
 前にも書いたが、この度の震災で、壊れた家の片隅から離れないで生きていた、あのクロネコの例を挙げるまでもないことだ。(3月31日の項参照)

 しばらくは、不便だろうけれども、何とかガマンしてそこで暮らしておくれ、私も時々はオマエに会いに帰るから。


 今日は、昨夜からの雨が昼頃まで降り続いて、水溜りができるほどだった。四日前にも、かなりの雨が降り、その雨ごとに、庭の芝生の青さが増していく。
 さらにその雨は、春先に涸れることのあるわが家の浅井戸にとっても、しばらくは安心できるくらいに、たっぷりと降ってくれた。
 
 辺りの景色は、まだ殆んどが寒い冬枯れの中にあるけれども、カラマツ林に囲まれた日当たりの良い所には、フクジュソウの黄金色の花が、二つ三つと咲いていて、さらには、淡い緑色のフキノトウの群落が、確かな春の訪れを告げていた。(写真)

 「 あたたかき光はあれど 野に満つる香(かおり)も知らず
    浅くのみ春は霞(かす)みて 麦の色わずかに青し ・・・」

 (島崎藤村 『小諸なる古城のほとり』より)

 あの九州の山の中での季節から比べれば、2ヶ月近くも遅いけれど、これからは、北国の春が、一気に駆け足になってこの山野をめぐっていくことだろう。
 しかし、まずは目の前の日高山脈をゆっくりと眺め、そしてまだたっぷりと雪のあるの山々に、すぐにでも登りたいのだが、それなのに、その思いがなかなかにかなえられない。
 というのも、雨の降る日はともかく、晴れた日でも、まだ山がすっきりと晴れ渡って見えてくれないからだ。もう戻ってきて1週間にもなるというのに。
 長年にわたって、日高山脈の姿を見てきたのだから、いまさら目新しい眺めだというわけでもないし、それは頭の中でいつも思い描くことのできるほどに、慣れ親しんだ風景なのだが、やはり一刻も早く、この平原の彼方に連なる山々の姿を見てみたいのだ。
 
 今のNHKの朝の連続ドラマでは、安曇野(あずみの)から見た飛騨山脈、つまり北アルプスの蝶が岳、常念岳(じょうねんだけ)、大天井岳(おてんしょうだけ)、燕岳(つばくろだけ)、有明山などの山々の姿がいつも映し出されていて、私は深い思いをこめてそれらの山々を見ている。
 それは、安曇野を走る電車の窓から何度も見てきた光景だし、その山々にも何度も登ったことがあるのだが、どうしてもこの日高山脈に対する時のように、ある種のふるさとの山を見るような思いになってしまうからだ。
 
 ずいぶん昔のことだけれど、東京から離れることを決めて、田舎で暮らそうと思った時に、最後まで迷ったのが、この十勝平野にするか安曇野にするかだった。そのために下調べにも行き、職安(今で言うハローワーク)を何度か訪れたこともある。
 (3年ほど前に、初冬の常念岳に登った時に、同じように都会での暮らしに別れを告げて、この安曇野に移り住んでいるという人に会ったことがある。’08.11.1、3の項)
 
 こんなことを言うのは、安曇野の方を選んだ方が良かったのでは、などと思っているからではない。私は、今のこの十勝平野での暮らしに十分に満足しているし、この地を選んだことに何の後悔もない。
 ただ、もし安曇野の方を選んだとしても、そこではまたそれなりに、満足できる暮らしをすることができただろうと思うだけのことだ。
 要は、自分が決めたことを、いつもベストの選択だったと思うことだ。
 つまり、結果が良ければそれにこしたことはないし、少し悪いことがあっても、自分を強くするための試練だと(実際そうなることが多い)、思うことにしている。
 前回も書いたように、間違っても他人のせいにしたり、運命のせいなんかにしないことだ。
 楽観論こそは、悩んだ後に、最後に飲む心のお薬なのだ。

 まあ、見方によっては、この年になってこんな哀れむべき(そうは思っていないが)、身の上にあるからこそ、楽観的に、脳天気に人生を考えているとも言えるのだが。
 それは何も世紀末的な、退廃的な投げやりの気持ちからではない。大きく違うのは、終わりがないという悲観論と、楽観的に明日を思うこととの差だ。例え、現実的に確かな明日がないとしてもだ。
 悲観的な現実をくぐり抜けて、新たに目の前に開けてくる楽観的な今と明日。これこそは、中世から続く、隠者、隠遁者たちそれぞれに共通している、隠れた一つの思いだったのではないのか。

 いつも書くことだが、私は、鴨長明(かものちょうめい)を思い、兼好法師(けんこうほうし)を、一休禅師(いっきゅうぜんし)を、西行法師(さいぎょうほうし)を、そして良寛和尚(りょうかんおしょう)を思う。
 
 さらに、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と唱えることで、救われて極楽往生(ごくらくおうじょう)できると説いた、浄土宗の開祖、法然(ほうねん)の教えこそは、戦乱と災害に明け暮れ、厳しい現実をくぐり抜けて生きていた当時の人々にとって、何よりもの心のよりどころになったのだろう。

 このところ、NHK・BSでの、素晴らしい日本美術紹介の番組が続いている。
 前にもあげた『知られざる在外秘宝』(4月15日の項参照)に続き、『日本最大の国宝絵巻 法然上人絵伝』と、さらに江戸時代の日本画家、あの伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)の合計4回、6時間にも及ぶ、恐らくは個人画家の番組としては最大の長時間番組だろうが、『若冲 ミラクル・ワールド』が進行中である。
 
 これらの有意義な番組は、今の時期に、日本人の心の源流を知る上での、その大きな一助となることだろう。
 しっかりと生きていくからこそ、確かなものを知りたいと思うし、知ることのできた喜びこそが、また生きていることの証にもなるのだろう・・・。


飼い主よりミャオへ(131)

2011-04-23 18:45:35 | Weblog



4月23日

 拝啓 ミャオ様 

 あの日、私はストーヴの火を消し、寝ているオマエを抱え上げて、玄関のドアから外へ出した。そこには暖かい朝日が差し込んできていたが、オマエは寒気に身を震わせて、再びドアの隙間から中に入ろうとした。
 私はすぐにドアを閉め、家の中の点検をした後、再びドアをすばやく開け閉めして、鍵をかけた。
 オマエは私を見上げ、今朝は少し早いが、飼い主がいつもの散歩の行くのだと思ったのだろう、私の後についてきた。しかし、すぐに立ち止まってはその場に座り込んだ。
 そこは、サクラの花びらが散り敷いた道の上だった。背後には、大きなヤマザクラの木があり、そして、オマエと秋の終わりから冬そして春と、一緒に過ごしてきた家があった。

 私は、もう後を振り返らなかった。足早に、バス停までの長い道を歩いて行った。すべて私が悪い。許せよ、ミャオ。
 それが、毎年繰り返される、ミャオとの別れだった。(’10.4.24、’09.4.26、’08.5.11の項参照)

 思えばいつも私は、自分の決めたままに、悲しむ人のもとを去って行ったのだ。
 若き日のその時々に、私を思ってくれていた娘たちの涙の顔、母の顔、そしてミャオの顔。何という、無情な自分勝手な生き方をしてきたのだろうか、私は。
 しかし、その報いが、今きりきりと、近づく老いが独り身をさいなむように迫り来ている。
 分かっている。分かっているからこそ、今生きている私は、どうしても、自らが住むべき場所として定めた地へと、たったひとりの力で建てた北海道のあの家にと、行かなければならないのだ。

 人はいつも、どちらかを選ばなければならない時があるものだ。それは、誰かに鼎の軽重(かなえのけいちょう)を問われたわけでもなく、自らが秤(はかり)にかけて決めたわけでもなく、ただ心の内奥から呼びかける声に導かれて、決断したまでのことだ。
 ただし、いずれにせよ、吉(きち)と出ればともかく、凶(きょう)と出たとしても、いつまでもその結果の良し悪しにこだわるべきはない。その時にそう決断したことで出た結果は、誰のせいでもない、すべて自分自身が責任を負うべきものなのだ。

 特に、失敗した時には、余計にそう考えるべきなのだ。自分が悪かったのだと思うこと、そう思うことによって、誰かを恨むこともあてにすることもなく、この過ちを自らの力だけで、何とか乗り越えようとするからだ。
 成功よりは失敗の方がはるかに多い、私の人生の中で、その時々に悔恨の臍(かいこんのほぞ)をかみながらも、何とかここまで生きのびてこれたのは、それらの挫折の後の、明日を目指す内なる心の呼び声があったからだ。
 「運命なんていうものは存在しない。ただ、自らの挫折を運命だと決めつけてしまう、弱い心があるだけのことだ。」と、私は、若き日に読みふけったアンドレ・マルロー(1901~1976)の小説からの言葉のように、今日まで自分に言い聞かせてきたのだ。

 とはいうものの、結果、私がなし得た大したものは何もない。ただ、この北海道の地に作り上げた、粗末な小屋があるだけだ。
 だから私は、ミャオを九州に残して、北海道へ行く、それだけのことだ。

 
 さて、戻ってきたこの北海道では、寒い日が続いている。最低気温は0度前後だし、日中でも5度前後までしか上がらない。20度近い暖かい日が続いていた、九州から来た私には、少し戸惑う寒さだ。
 冬の間、締め切っていたままの家の中は、2度という冷気に沈んでいて、早速燃やした薪ストーヴだが、温かくなるまでには相当の時間がかかった。さらに昨日今日と、朝のうちには雪が降っていた。
 冬の間の雪はもう殆んど溶けていたが、家の裏には屋根から落ちた雪が、まだ少し残っていて、その上に今朝の雪がうっすらと積もっていた。(写真)
 
 朝の見事な雪景色は、冬景色が好きな私への、天からのささやかな贈り物だったのかもしれない。しかし、雪はいつしかミゾレに変わり、そして午後には雨になって、雪を溶かしてしまい、今もその冷たい雨が降り続いている。
 まるでひとり九州に残された、ミャオの涙雨のように・・・。

 この北海道へと出かける前の、ミャオと暮らす日々が、私にはつらかった。1週間、3日、1日と日は過ぎていく。何も知らずに、ストーヴの前で、ベランダで、時には私のあぐらの上で、寝ていたミャオ。私には、その体をやさしくなでてやることしかできなかった。
 そんなことぐらいで私の、ミャオを不憫(ふびん)に思う気持ちや、あるいはミャオへの呵責(かしゃく)の念が消えるわけでもなく、何か落ち着かなく気が滅入る日々を送っていたのだ。

 そんな時には、私の心の記録でもあるこのブログに、何かを書きたいなどと思う気にもなれず(すっかり間が開いてしまったが)、ただ、毎日を数えるようにして送っていたのだ。
 本当につらい時や、本当に悲しい時には、その心の内の葛藤(かっとう)に対処するだけで手いっぱいなのだ。
 
 私はもう長い間、習慣的に記録としての短い日記を書いているが、例えば、7年前の母の死の後以降の、百か日を過ぎる位までの間のページについては、今あらためて見たくもないし、その頃のことをふり返り思いたくもない。
 
 このたびの大震災で、家族だけでなく家財すべてさえもなくしてしまった人々が多くいて、その中には、日々の日記を欠かさずにつけていた人もいたことだろう。
 それぞれの人々のささやかな、しかし大切な人生の記録が失われてしまい、ましてあの大津波以降のことなど、とても書く気にもならないのだろうが、私はそんな人々のことを思ってしまうのだ。
 記録すること、記憶することがすべて、人生の何がしかの足しになるというわけでもない。なるべく記録しないこと、記憶しないことが、その人の人生のためになることだってあるのだと。
 
 嘆き悲しむことだけが、もう二度と帰ってはこない人々を弔(とむら)うことではない。自分が、生きている今を懸命に生きることが、実はその個人的な幸せを求めることこそが、自分を知る彼らに報いる最も大切なことなのだ。
 「あなたが楽しければ、わたしも楽しい。あなたが幸せならば、わたしも幸せ。」
 少なくとも、私にも、そういうふうに思えればよいのだが・・・。


ワタシはネコである(187)

2011-04-15 22:49:02 | Weblog



4月15日 

 毎日天気の日が続いて、ワタシは外で過ごすことが多くなった。時には、飼い主に怒鳴られて外に出たこともあるが。
 家の中にいる時、ワタシは寝ていなければ、飼い主を見てニャーニャーと鳴く。なんでもいいからかまってほしいのだ。それは、ワタシの心の中に、なぜかふと寂しい気持ちが流れ来るからだ。

  今まで、春先になると、急に飼い主がワタシの目の前から姿を消してしまうことが度々あった。その時の、目の前が真っ暗になるような不安さを、ワタシは何度も経験してきている。
 そんなワタシの心の傷も知らずに、飼い主は、うるさく付きまとうワタシに怒鳴るのだ。全くネコ以上に、自分勝手なのだから。

 まあ、こうしたネコと人の関係にしろ、あるいは人間同士の関係にしろ、似たようなことかもしれない。
 いくら家族とはいえ、あるいは恋人同士とはいえ、友達とは言え、100%相手の気持ちが分かり、すべて相手の望むようにしてやることなどできはしない。
 理解し合うより、むしろ、いがみ合うことの方が多い関係さえあるだろう。しかし、なぜ彼らは、そこでケンカ別れすることにはならないのか。

 それは、お互いの気持ちのほんの数パーセントでも理解し合う時があれば、その時の、一瞬の相互理解、信頼の光こそが、彼らの関係を継続させることになるのだ、私のことを分かってくれていると。
 本来、個性溢れる個人であるひとりが、全く別のもうひとりと心の交流をして、気持ちをくみ取り合うことで、自分がひとりではないと思うこと、つまりそれこそが、手をたずさえ生きていくことの喜びでもあるのだろう。

 ある時は怒鳴られて、ある時はワタシの傍からいなくなっても、顔が少し怖くっても、ワタシはこの飼い主の傍から離れることはできないのだ。生ザカナをくれる飼い主のいる、そして安心できるねぐらのある、この家から離れることはできないのだ。
 イヌは人に付き、ネコは家に付くとは、昔からよく言われていることだ。あの大震災の後も、壊れた家で暮らしていたネコがいたそうだが、(飼い主が前回の項で書いていた)、それほどに、ネコでさえ人や家に寄り添う気持ちは強いのだ。

 さて日が傾いた頃、ワタシは、家に帰る。すると、飼い主が、ネコなで声で言うのだ。「おーよしよし、帰って来たか、おさかなをあげまちゅからね。」


 「 何という、暖かい春の日が続くことだろう。調べてみると、快晴の日は、この3週間で14日間、しっかりと雨が降ったのは1日だけだ。今までに経験のない天気率だということになるだろう。
 雪が多かったり、雨が多かったりすれば誰でも異常気象だと思うのだろうが、こんなに穏やかな良い天気の日ばかり続いても、誰も変だとは思はない。

 今年は寒い日が続いて、そのために少し遅れたけれども、家の周りでも、花々が咲いている。今は、白いコブシとヤマザクラの花が満開であり、その間に、緑の葉を分けて赤いツバキの花も咲き始めた。その他の花の咲かない木々も、枝先に黄緑や赤紫の新緑の葉を伸ばし始めている。
 それらの木々の下には、チョウセンレンギョウの黄色い花が鈴なりに咲き、赤いボケの花も二つ三つ開き、そして地面には紫のキランソウやハルリンドウそしてヒゴスミレの花も見える。

 良い天気が続けば、庭仕事はいくらでもある。その他にも、本業の仕事関連の用事が重なって、忙しい毎日だった。ともかくなんとか、自分の仕事に区切りをつけて、後はただ穏やかに、今の質素な暮らしが続けられれば、それだけで良いのだが。
 自分で作る、簡単な三度の食事ができて、好きな山歩きができて、テレビで芸術作品を見ることができて、静かに本を読むことができれば、他に何の望みがあろう。後は、ミャオが長生きをしてくれて、私も、ここまで生かされた命を、さらに精いっぱい生きることができれば。

 心地よい風の吹く晴れた朝、私はいつもの自宅から登れる山に行ってきた。冬に大雪で、途中までしか行けなかった山だ(1月10日の項)。
 もちろんこの暖かい春の山には、もう一片の雪も残っていない。ただ、山の上では新緑の季節にはまだ早く、林の中には、クロモジの黄色い花だけが目につき、稜線でもやっとアセビの花が咲き始めたばかりだった(写真)。そして足元には、一つ二つのキスミレが見えている。
 そういえば、まだ新緑や花に乏しいこの季節に、阿蘇から九重、そして由布、鶴見山群の、火山性の山裾や高原は、おびただしい数のキスミレで埋め尽くされるのだ。スミレの仲間で、あれほどの大群を見られる所は他にないだろう。
 そのうちに年を取って、山に登れなくなったら、のんびりとそんな花たちを求めて旅に出たいものだ。もうそのころには、ミャオもいないのだろうが。

 北海道の山に登り、友達に会うために、そのミャオを置いて私は旅立たなければならない。ミャオは、他にネコ友達がいるわけではなく、ただエサをくれるあのおじさんを知っているだけだ。
 それでも、半ノラ、半野生に帰ることで、ミャオがさらにいっそう、生きる力をみなぎらせてくれるはずだと思う。それは、私の都合のいい解釈かもしれないが。
 それにしてもこのところ、ミャオの食欲がなく、一匹のコアジの大半さえ残すほどだったのに、今日は一匹では足りずに、さらにもう半分さえ食べてくれたのだ。これでひと安心だ。
 今、私のあぐらの上に乗って寝ているミャオが、ほんとにいとおしいく感じられる。それでも別れは来るのだ。

 さて、標高差わずか600mほどの、往復4時間足らずの山登りだったのだが、何と一カ月以上も間が空いたことで(前回は3月10日の項)、急な坂道がつらかった。
 こんなことでは、北海道の日高山脈の急な登りはどうするのだと、自分に言い聞かせた。しかし一方では、もう昔のようなハードな計画は立てられなくなるだろうとも思った。
 しかし、そうして自分の前のハードルを少しずつ下げていくことは、決して恥ずべきことではない。それは、前に書いたように(3月25日の項)、自分にとっての分別のある思慮深さ、人生を長く味わうための生きていくすべなのかもしれない。

 山歩きの他には、録画しておいた幾つかのテレビ番組を楽しんで見た。
 前回書いたNHK・BSで、クラッシック音楽の名指揮者、カルロス・クライバー特集の第二回目があり、同じくドキュメンタリー番組とコンサートの組み合せだった。
 その『目的地なきシュプール』と題された、2010年オーストリア制作の番組は、各界著名人へのインタヴューによるドキュメンタリーであり、前回のドイツ制作の番組と同じ手法だったが、それ以上にカルロス・クライバーの人間性を掘り下げていて、実に興味深く見ることができた。
 後半のコンサートは、いずれも、名門ウィーン・フィルとのもので、1991年が、モーツァルトの36番とブラームスの2番、そして1992年のニューイヤー・コンサートでのウインナー・ワルツの演奏なのだが、やはりなんといっても、前半のドキュメンタリー番組の中で白黒フィルムで映し出された、若き日のカルロスが、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』を演奏する姿ほど素晴らしいものはなかった。
 そこには、ムジトゥーレン、音楽をする人のひたむきで幸せなひと時が映し出されていたからだ。
 
 次に、『知られざる在外秘宝』と題されたこれまた長い、2時間半にも及ぶ番組だったが、日本から海外に流出したという100万点もの浮世絵、日本画、陶磁器、工芸品の中から、限りある数十点だけが紹介されていた。
 イスラエルにある北斎(ほくさい)の版画、ギリシアにある写楽(しゃらく)、イギリスにある北斎の肉筆画、ロシアの歌麿(うたまろ)の肉筆画に春草(しゅんそう)の日本画など、初めて見るものの他にも、有名なボストンの平治物語絵巻やメトロポリタンの光琳(こうりん)などが、次から次へと紹介された。
 ただ、できることなら、余計な解説者の話よりは、その分、他の作品も見せてほしかった思いが残るのだが。

 美術番組からはもう一つ、新しく始まったNHK・BS『極上美の饗宴』(何という着飾ったタイトルだろう)から、 シリーズ美女第1回 『真珠の耳飾りの少女』。
 言わずと知れたあのフェルメール(1632~75)の名画『真珠の耳飾りの少女』について、その制作の秘密を解き明かしていこうという試みがなされていた。その絵を再現するために、有名カメラマンの篠山紀信氏が選ばれたのだ。
 彼のカメラによる試作の過程には、興味深いところもあったのだが、その仕上がりは、素人の私から見てあまり満足できるものではなかった。
 それはモデルがどうのという問題ではなく、一つには彼のカメラの位置にあるようにも思えた。つまり、そのカメラが対象の少女と同じ目線の位置か、あるいはほんの少し見上げる位置にあったように見えたことである。
 実際の絵では、明らかに少女が少しこちらを見上げるような位置にあるということ。つまり絵では、少女が少し振り返り、やや見上げるように眼を見開いた時の美しさを捕らえているのだ。

 さらに言えば、その少女の顔は、カメラのソフト・フォーカスやピントがややずれたような感じで、フェルメールの時代にあったというカメラ・オブスキュラの映像を思い起こさせるものだった。
 彼が使用したカメラは、高画素数を誇るキャノンの一眼レフ・デジカメだった。それではあまりにも、精細に描き出しはしていないか。
 フェルメールがとらえたのは、精妙な顔形ではなく、精妙な光と影、つまり闇の中から浮かび上がる、にじんだような光の美しさだと思うのだが。
 もちろんこれは、あくまでも、ただフェルメールの絵が好きで、写真が好きな素人の、少しピンボケ気味の意見にすぎないのだが。

 フェルメールについては、以前にも何度か書いたことがあるが(’08.11.8の項参照)、私は、彼が残したわずか30数点の作品のすべてを見たわけではなく、大半は画集で見ただけなのだが、それでもなお、フェルメールの絵を見るたびに何かを書きたくなってしまうのだ。
 ひとりの人が描いた芸術作品でも、受け取る側の思いは様々だ。それほどまでに、個々人それぞれの思いをかきたて考えさせるから、今の時代にもなお、芸術作品として生き続ける大きな意味があるのだろう。

 最後に、いやな思いになった番組を一つ。ある民放の有名な討論番組で、この度の大震災による原発事故に関して、原子力委員会にいた一人と、国会議員と、政治評論家が、責任論についてののしり合いをやっていた。私は耐えきれずに、すぐにチャンネルを切り替えた。
 文句を言うのは、誰にでもできる。あのテレビに出て、感情的になって批判し合い、なおかつ出演料を受け取っている人たちと、大震災の現場に飛び込んで、今も避難者たち手助けし、あるいは原発事故に今も立ち向かっている人たちとの大きな差・・・。」


ワタシはネコである(186)

2011-04-07 20:59:18 | Weblog



4月7日

 春だなあ。毎日天気が続き、毎日、飼い主と一緒に散歩に行く。あちこちから、花の香りがただよい、傍らには枯れ草の間から伸びてきた青草の匂いもしている。
 ワタシが途中で座り込んでいると、飼い主はさっさと先に帰ってしまう。まあ、それはそれでいい。人間たちにも、それぞれ仕事というものがあるのだろうから。
 ワタシは、そよ風の吹く草原や、人のいない他の家の軒下などで、のんびりと寝て時を過ごす。
 それは何も、飼い主のあの鬼瓦顔を見飽きたからというわけではないのだが、もしそうだとしてもそんな恩知らずなことはワタシには言えないし、ただワタシがノラネコあがりだからなのかもしれない。
 ともかくそうして、誰もいない所で、時には他の生きものたちの動きに耳をすませ、ウトウトしながら時を過ごすのがワタシは好きなのだ。
 冬場は寒くて、そんなことはできないし、夏は暑くてただぐったりと日陰で寝るだけだから、何といってもこの春や秋の穏やかな気候の時こそ、外にいるには一番いい時なのだ。
 
 そして、ワタシは考える。いったい、ワタシの人生いや猫生は何だったのだろうかと。他に比べるネコがいないから、良かったのか悪かったのかは分からないが、それにしても、ワタシの猫生の中でも様々な事件や出来事があったのだ。
 それらの出来事についての大体のところは、飼い主が折にふれて、このブログに書いてきたらしいが、思い出してみれば、シャムネコの母親や兄弟たちと過ごした日々、酒飲みの前の飼い主や、この家の亡くなったおばあさんにそして強面(こわもて)の今の飼い主、さらに恋の季節や縄張り争いで受けた大けが、鳥やモグラを捕まえて必死で生きた日々など、めぐる走馬灯のようによみがえってくる。
 よくこの年まで生き延びてきたものだ。そして今、暖かい日差しの中、花の香りがして、鳥の声が聞こえ、ワタシはまどろんでいる。これでよいのだ。
 この穏やかさこそが、生きるということの最終的な目標なのかもしれない。

 さてワタシの腹時計が、飼い主がくれるサカナの時間に近いことを教えてくれる。あーあ、と大あくびをして、よっこらしょと立ち上がる。青空の下、日の光が大分傾いてきた。


 「 昨日までの三日間、快晴の日が続いた。それも爽やかに澄んだ青空が終日広がり、少し高い所に上がると、遠くの山々までがくっきりと見えていた。
 つまりそれは、絶好の登山日和(びより)だということでもあった。しかし、私は出かけなかった。家での仕事がいろいろとあったからだ。と同時に、今の時期の九州の山は、他の季節と比べれば、登っても何か物足りない気がするからでもある。
 それが初めて登る山ならば、空気が澄んで遠くまで見通しのきく展望に、歓声をあげるところだろうが、いずれも何度も登っている山々だ。
 雪景色はとっくに終わってしまったし、新緑や花の時期には早すぎるし、それは秋の時期の、紅葉が終わった後の雪景色になるまでのころと同じように、九州の山々にとっては、余り見るべきものもない一番地味な装いの時なのだ。
 これが、北海道や北日本、日本アルプスの山々ならば、豊かな残雪期の山歩きを楽しめるところなのだが。

 家での仕事は、庭仕事に小さな物置内の大掃除片づけ作業、そして先日書いた(1月15日の項)水道水漏れ個所の探索作業である。
 しかし、聴診器を買ってまで、水漏れ個所を見つけようとしたのだが、残念ながらやはり無理だった。元栓メーターの所から、家の中に引き込んである水道管に沿って10mほどの全部を、本気になって掘り返して調べる必要があるし、そのためには、コンクリート土間の一部を割っての大仕事になる。
 そこまではできずにあきらめて、仕方なく大枚を払うことになるが、水道屋さんに頼むことにした。なかなか、思うようにはいかないものだ。

 それにしても、暖かい日差しとさわやかな青空の毎日だ。あちこちで花々が咲き始めた。先日、離れた町まで買い物に行った時、その途中では、満開の桜並木が見事だったし、赤いハナモモと白いモクレンの花の取り合わせも目を引いた。
 家の庭でも、もう梅の花は散り始めているが、今はその香りに変わって、強い香りのジンチョウゲの花が満開だ。そして、コブシの白い花も大分ほころび始めた。写真は、人の住んでいない家の庭に咲いているトサミズキの花である。
 ミズキの仲間でよく目立つのは、街路樹などに植えられている、白や桃色の大きな花が咲くアメリカハナミズキだが、このトサミズキの木全体を飾り立てるような花も素晴らしい。
 北海道のわが家の林には、ミズキが自生していて、6月の頃、ヤマアジサイのような小さく幾つかに集まった白い花を咲かせるが、少し薄暗い林の中で、そこだけ明るいこの花を見つけると、いつもほっとした気分になる。

 私が一番好きな季節は、雪のある冬、つまり北海道の冬なのだが、とはいっても、こうして爽やかな風が吹き花々が咲き始める春や、暑かった日々に涼しい空気が入り込み、日ごとに木々の葉が色づいていく秋の季節もまた良いものだ。
 ただ私は、あの湿度の高くべたついた夏が、苦手である。ただ人それぞれに、季節の好みがあり、夏が好きな人が一番多いとは思うのだが。
 今年の夏、計画停電の夏、クーラーの涼しい空気に慣れた私たちは、そして大震災による避難者たちは、さらに都会に住む人たちはどうするのだろうか。

 このブログで、私は最近、どうしても大震災のことに関する事ばかり書いてきたのだが、その間、本を読まなかったわけではなく、テレビでの映画や美術、クラッシック関係の番組を見なかったわけではない。
 それで、そうした番組の幾つかについては何か書き残しておきたいとも思っていたのだが、日にちがたてば、その時の新鮮な反応や感情は次第に薄れていってしまう。
 そこでとりあえずは、備忘録(びぼうろく)として簡単な感想コメントを書いておくことにした。

 まず、民放BSで放送された『髪結いの亭主』(’90)。この映画を見るのは、これで三度目だが、フランス映画の伝統をしっかりと受け継いだ、このパトリス・ルコント(1947~)の監督・脚本の力量には感心するばかりだ。
 彼が、トリュフォーの『隣の女』(’81)を意識していたかどうかは別にしても、恋の想いのすさまじい情念を描いた名作の一つであることに間違いはない。
 この作品については、ルコントの他の作品とともにまたいずれ書いてみたいと思う。

 NHK・BSの”山田洋次監督が選ぶ日本映画100選のシリーズ”から、まず『東京物語』(小津安二郎監督、昭和28年)。
 デジタル・リマスター版によって、より鮮明な映像になっているが、それでなくとも、やはり日本映画の第1級の作品であると思う。
 市井(しせい)の普通の人々の普通の暮らしを、破たんなく描くことの難しさを感じさせずに、たんたんと描き通す見事さ。感動は泣き叫ぶことだけから生まれるわけではない。
 
 『二十四の瞳』(木下恵介監督、昭和29年)。リバイバルされたこの映画を、母に連れられて見に行った。その時、子供ながらに泣いてしまったのを憶えている。その後も何度か見たのだが、そのたびごとに涙がにじんでしまう。
 私は、子供の頃、母と別れ田舎に預けられていたが、その時に慕っていた小学校の担任の女先生の名前が、この映画で高峰秀子演じる女先生の名前と一緒だったのだ。

 私が必ず泣いてしまう映画は、他にも幾つかある。特に『禁じられた遊び』(ルネ・クレマン監督、1952年)のラストシーンには、いつも涙があふれてしまう。
 こんなオヤジになっても、あの子供のころの、ひとりっきりになった時の寂しさがよみがえってきて、胸いっぱいになるからだ・・・。
 子供の時の経験が、その後の人生に反映されること・・・今度の大震災で孤児になった子供たちのことを思う・・・。

 次は、クラッシック音楽番組だが、NHK・BSの”カルロス・クライバー特集”は見ごたえがあった。特に、2011年ドイツ制作になるドキュメンタリー番組、『ロスト・トゥ・ザ・ワールド』は、そうそうたる顔ぶれの、関係者各位へのインタビューをつなぎあわせて、名指揮者カルロス・クライバー(1930~2004)の様々な毀誉褒貶(きよほうへん)のエピソードを、その天才ぶりだけでなく、悪いうわさも含めて編集しては、見事に彼の人間像として描き出している。
 後半は、手兵バイエルン・フィルとの1986年熱狂の日本公演と、さらにその10年後のハイビジョン映像による、ミュンヘンでのモーツァルトとブラームスの演奏であり、カルロスの魅力が十分に伝わってくる。

 それに反して、演奏は悪くなかったのだが、そのめまぐるしく動く映像にとてもついて行けないと思ったのが、エッシェンバッハ指揮パリ管弦楽団演奏の、モーツアルトのピアノ協奏曲とマーラーの交響曲第1番である。
 その昔、モーツァルトの『ピアノソナタ全集』で、若手の代表的なモーツァルト弾きと言われていたエッシェンバッハが、何ともう70歳になるという、その記念のコンサートだったのだ。
 しかし映像は、映画風に、短いカットを連ねズームを多用して、とても同時に音楽を聴いてはいられなかった。クラッシック音楽コンサートは、映画ではないというのに。
 私たちは、映像の見えないCDだけで音楽を楽しむことができるのに、ここでは映像が音楽を壊してしまっていたのだ。
 しかし、これは逆に言えば、音楽と映像の関係を考えるにはふさわしい番組だった。

 ドキュメンタリー番組から、私たち山登り愛好家にはいつも見逃せないNHK・BSの”グレート・サミッツ”シリーズだが、その取り上げる対象の山によっては、番組としての面白さに大きな差が出てしまう。
 私はもう年だし、ガイドに支払うお金も持っていないから無理だけれども、あの『アイガー』や『アコンカグア』の登頂シーンの臨場感あふれる映像を見ては、私にも登れるのではとさえ思ってしまう。
 そんなふうに胸を高鳴らせて見ていた山もあったのだが、あのトルコの『エルジエス』などは、地元の名山というのは分かるけれども、世界の”グレート・サミッツ”としては、どうしても格落ちの感が否めなかった。
 
 そして、長い間楽しみにしていた、あのNHK・BSの『日めくり万葉集』が、とうとう終わってしまった。万葉集の全作品を取り上げてほしかったというわけではないが、日本人の大切な古典文学の紹介がこれで終わるというは、あまりにも寂しい。できれば、『古今集』『新古今集』などとつなげていってほしいものだが。
 
 この冬に読んだ本は、わずか数冊だけだが、その中で、若い時に読んで以来久しぶりに、ヘルマン・ヘッセの『郷愁』(1903年)を読み返した。大部分は忘れてしまっていたが、それにしてもと、改めて感じるところが多かった。
 それはその前に読み返していた、ジャン・ジャック・ルソーの『孤独な散歩者の夢想』(1778年)と同じように、一人称で書かれた、あくまでも自分の理想を掲げて誠実に生きてきた男たちの独白であり、そういう文学手法が成り立つ時代であったということだ。
 たとえばそれは、あのトーマス・マンの『魔の山』(1924年)にも見られるように、若者が高き知や徳の理想を求め、人生を自分の修養の場として、人々の中で成長していく過程を表現したものだった。何と一途(いちず)な思いにあふれた、良き時代だったことだろう。
 しかし現代は、真面目であることが笑われ、逆に悪ぶった所がもてはやされるようになってしまった。理想の御旗を掲げて、若者たちが集った時代は、もはや遠く過ぎ去ったのだ。誰かが言っていた。『今は何でもありの時代だから・・・。』

 そんな世の中だと思っていたのに、この大震災を期に、被災者たちの困苦を知って、新たなる、いや昔からあった日本人の助け合いの心が、一つの旗のもとに少しずつ集まってきているような・・・。」