4月28日
拝啓 ミャオ様
ミャオと別れて、もう1週間になるけれど、元気にしているだろうか。おじさんからエサをもらうのにも、慣れただろうか。
固く閉められたドアや窓の傍で、まだ開けてくれと鳴いているのだろうか。そして、ベランダでただひとり、私が帰ってくるのを待っているのだろうか。
冬の間、仲良く一緒に暮らしていたのに、今は遠く離れて、お互いにひとりになって暮らしていかなければならない。私は北海道にいて、少し後ろめたい気持ちになって、考えてしまうのだ。無理やりにでも、オマエを連れてきたほうが良かったのかと。
しかし、母がそうであったように、年寄りネコになったオマエもまた、全く知らない土地に行くのはイヤだと言うだろう。
あの大震災の被災者であるお年寄りたちが、いくら不便な生活になったとしても、自分が長い間暮らしてきた土地から離れたくないのは、当然なことだ。お年寄りたちは若い人たちと比べれば、変化にすぐには対応できない。不便な暮らしを我慢することはできるだろうが、例えいくら便利な生活を送れるとしても、いまさら知らない所に行きたいなどとは思わないだろう。
前にも書いたが、この度の震災で、壊れた家の片隅から離れないで生きていた、あのクロネコの例を挙げるまでもないことだ。(3月31日の項参照)
しばらくは、不便だろうけれども、何とかガマンしてそこで暮らしておくれ、私も時々はオマエに会いに帰るから。
今日は、昨夜からの雨が昼頃まで降り続いて、水溜りができるほどだった。四日前にも、かなりの雨が降り、その雨ごとに、庭の芝生の青さが増していく。
さらにその雨は、春先に涸れることのあるわが家の浅井戸にとっても、しばらくは安心できるくらいに、たっぷりと降ってくれた。
辺りの景色は、まだ殆んどが寒い冬枯れの中にあるけれども、カラマツ林に囲まれた日当たりの良い所には、フクジュソウの黄金色の花が、二つ三つと咲いていて、さらには、淡い緑色のフキノトウの群落が、確かな春の訪れを告げていた。(写真)
「 あたたかき光はあれど 野に満つる香(かおり)も知らず
浅くのみ春は霞(かす)みて 麦の色わずかに青し ・・・」
(島崎藤村 『小諸なる古城のほとり』より)
あの九州の山の中での季節から比べれば、2ヶ月近くも遅いけれど、これからは、北国の春が、一気に駆け足になってこの山野をめぐっていくことだろう。
しかし、まずは目の前の日高山脈をゆっくりと眺め、そしてまだたっぷりと雪のあるの山々に、すぐにでも登りたいのだが、それなのに、その思いがなかなかにかなえられない。
というのも、雨の降る日はともかく、晴れた日でも、まだ山がすっきりと晴れ渡って見えてくれないからだ。もう戻ってきて1週間にもなるというのに。
長年にわたって、日高山脈の姿を見てきたのだから、いまさら目新しい眺めだというわけでもないし、それは頭の中でいつも思い描くことのできるほどに、慣れ親しんだ風景なのだが、やはり一刻も早く、この平原の彼方に連なる山々の姿を見てみたいのだ。
今のNHKの朝の連続ドラマでは、安曇野(あずみの)から見た飛騨山脈、つまり北アルプスの蝶が岳、常念岳(じょうねんだけ)、大天井岳(おてんしょうだけ)、燕岳(つばくろだけ)、有明山などの山々の姿がいつも映し出されていて、私は深い思いをこめてそれらの山々を見ている。
それは、安曇野を走る電車の窓から何度も見てきた光景だし、その山々にも何度も登ったことがあるのだが、どうしてもこの日高山脈に対する時のように、ある種のふるさとの山を見るような思いになってしまうからだ。
ずいぶん昔のことだけれど、東京から離れることを決めて、田舎で暮らそうと思った時に、最後まで迷ったのが、この十勝平野にするか安曇野にするかだった。そのために下調べにも行き、職安(今で言うハローワーク)を何度か訪れたこともある。
(3年ほど前に、初冬の常念岳に登った時に、同じように都会での暮らしに別れを告げて、この安曇野に移り住んでいるという人に会ったことがある。’08.11.1、3の項)
こんなことを言うのは、安曇野の方を選んだ方が良かったのでは、などと思っているからではない。私は、今のこの十勝平野での暮らしに十分に満足しているし、この地を選んだことに何の後悔もない。
ただ、もし安曇野の方を選んだとしても、そこではまたそれなりに、満足できる暮らしをすることができただろうと思うだけのことだ。
要は、自分が決めたことを、いつもベストの選択だったと思うことだ。
つまり、結果が良ければそれにこしたことはないし、少し悪いことがあっても、自分を強くするための試練だと(実際そうなることが多い)、思うことにしている。
前回も書いたように、間違っても他人のせいにしたり、運命のせいなんかにしないことだ。
楽観論こそは、悩んだ後に、最後に飲む心のお薬なのだ。
まあ、見方によっては、この年になってこんな哀れむべき(そうは思っていないが)、身の上にあるからこそ、楽観的に、脳天気に人生を考えているとも言えるのだが。
それは何も世紀末的な、退廃的な投げやりの気持ちからではない。大きく違うのは、終わりがないという悲観論と、楽観的に明日を思うこととの差だ。例え、現実的に確かな明日がないとしてもだ。
悲観的な現実をくぐり抜けて、新たに目の前に開けてくる楽観的な今と明日。これこそは、中世から続く、隠者、隠遁者たちそれぞれに共通している、隠れた一つの思いだったのではないのか。
いつも書くことだが、私は、鴨長明(かものちょうめい)を思い、兼好法師(けんこうほうし)を、一休禅師(いっきゅうぜんし)を、西行法師(さいぎょうほうし)を、そして良寛和尚(りょうかんおしょう)を思う。
さらに、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と唱えることで、救われて極楽往生(ごくらくおうじょう)できると説いた、浄土宗の開祖、法然(ほうねん)の教えこそは、戦乱と災害に明け暮れ、厳しい現実をくぐり抜けて生きていた当時の人々にとって、何よりもの心のよりどころになったのだろう。
このところ、NHK・BSでの、素晴らしい日本美術紹介の番組が続いている。
前にもあげた『知られざる在外秘宝』(4月15日の項参照)に続き、『日本最大の国宝絵巻 法然上人絵伝』と、さらに江戸時代の日本画家、あの伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)の合計4回、6時間にも及ぶ、恐らくは個人画家の番組としては最大の長時間番組だろうが、『若冲 ミラクル・ワールド』が進行中である。
これらの有意義な番組は、今の時期に、日本人の心の源流を知る上での、その大きな一助となることだろう。
しっかりと生きていくからこそ、確かなものを知りたいと思うし、知ることのできた喜びこそが、また生きていることの証にもなるのだろう・・・。