ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

夏、快晴の空

2018-07-30 21:18:54 | Weblog




 7月30日

 寒い。
 北海道の家に戻って来た時の、思わず口をついて出た言葉だ。
 午後3時半、閉め切っていた室内の温度、20℃。外気温、帯広で28℃。
 
 数日前、北海道に戻って来た。
 この記録的な暑さの続く、本州の夏のさなかに、九州の家にずっといたのは、幾つかのすませておかなければならない用事があったからであり、さらには、これももう一つの大きな目的である本州の高い山に遠征登山をするためでもあったからだ。
 ところが、連日の暑さにあえいでぐうたらしているうちに体調を崩してしまい、二日も寝込む羽目になって、それも完全回復するにはおぼつかなくて、さらに梅雨明け後の東北の天気が安定せずに、以上の諸案をかんがみて、今年も夏の遠征登山を断念することにしたのだ。これで、3年連続にもなる。

 まあ、良い方に考えれば、天の声がして、”おまえみたいな病み上がりの年寄りが、まして今年のように記録的な暑さの続く中、夏の山に登ろうとすること自体が、どだい無理な話や、家でおとなしゅうしてた方がいいのんと違うんか。”
”ははーっ、これはありがたき神様のお言葉、そのお心に感謝して、今年は取り止めにいたします、これからもありがたきご忠告をよろしく、あんじょうたのんまっせ、頼りにしてまんのや天の声、ほんま。”
 そこで、バックグラウンド・ミュージック流れる。
 ”天国いいとこ一度はおいで、酒はうまいし、ねえちゃんはきれいだ”ホンワカ、ホンワカ・・・。
 どっかで聞いたセリフだと思っていたら、昔なつかしい日本のフォークソングの一節だった。 
 その後に、神様のお叱りの言葉が続く。
 ”天国ちゅうとこは、そんなあまいとこやおへんのや、もっとまじめにやれー”

 (ザ・フォーク・クルセイダーズ「帰って来た酔っ払い」より)

 ということで、3週間近くも暑い九州の家にいて、数日前、この北海道の家に戻って来たのだが、冒頭にあげたように、全く空気感の違うこの北国の夏こそが、まさに私の選んだ夏なのだ。
 もっともそれは、九州から北海道へと縦断する空の旅でも感じたことだったのだが。
 九州から、瀬戸内海、近畿、中部と雲の多い中を飛んできたので、前回の九州に向かう時に見下ろした、生々しい西日本豪雨被害の爪痕(崖崩れや濁った河口など)は見られなかったけれども、あの暑さの中、今も被災者たちの必死の手作業による清掃作業が続いているのだろうと思うと、一方ではそこに私のように、涼しい北海道へと向かっているぜいたくな人間もいるのだ・・・。

 今回の豪雨被害に遭われた被害者の方が、インタヴューに応じて話していたけれども、「去年の北部九州豪雨災害のニュースを見て、大変なことだと思ってはいたが、それでもやはり他人事だったのに、今回自分が直接被害を受けて、初めてその手の付けられないほどの被害の大きさを実感した。」
 何度もここにあげていることだが、私たちは、アフリカのサバンナで、仲間のヌーの一頭がライオンに食べられているのを遠巻きに見ているだけの、群れの中の一頭にすぎないのかもしれない。

 ともかく、飛行機から見る景色は、中層雲や下層雲が多くて、あまり下界を眺めることはできず、富士山も雲になかば隠されていて、わずかにその山体の存在が分かるだけだった。
 ただそんな中でも、あの南アルプスの塩見岳から悪沢(わるさわ)岳、荒川岳、赤石岳、聖(ひじり)岳の3000m峰の連なりが、その部分だけが雲の中に浮き上がって見えていた。

 そして、乗り換え地点の羽田でしばらく待った後、十勝帯広行きの便に乗り込む。
 なんとか窓側の席に座ることができて、飛行機がまだ上昇体制のうちから斜め後ろの方が気になって見ていたが、よかった富士山が見えている。
 九州からの便で見た時には、山体のほとんどが雲の中だったのに、今度は逆の東側から見ることになって、その富士山の東面はすっきりと晴れていたのだ。
 もちろん、富士山は雪のある時が一番きれいなのだが、こうして夏場の雪のない時でも、周りの雲とともにシルエット状になって見えていて、その巨大さと均衡のとれた美しさは変わらないし、やはり山の中の山、日本一の山だと実感するのだ。(写真上)

 やがて、その富士山も後方に見えなくなっていき、次は押し寄せる関東平野の雲に洗われながら、男体山をはじめとする日光連山に日光白根山も見えてきたが、さらにその先は次第に雲が少なくなってきて、真夏の午後だというのに東北地方には快晴の空が広がっていた。
 それは、こんないい天気になるのなら、無理してでも今回東北の山に登るべきだったと、地団駄踏んで後悔するべきか、それとも盛夏の快晴の日に、飛行機から残雪の山々を眺められて幸運だと喜ぶべきか。
 ただ、今回の飛行コースは、多分積乱雲などをよけるためだったのだろうが、少し北側にずれていて、いつもの那須連山から磐梯吾妻などの山々は、直下になって見ることができず、それがかえって良かったのだろうが、東北の名だたる山々をいつもより近くに見ることができて、ずっとカメラから手を離すことができなかったほどである。 

 まずは、もう7月下旬だというのに何と多くの残雪を残していることだろうか、あの長大な飯豊(いいで)山塊の姿が窓の下いっぱいに広がってきた。 
 


 左側に大日岳(2128m)右に飯豊山本山(2105m)その真ん中あたりがJP(ジャンクション・ピーク)の御西岳(おにしだけ、2013m)で、そこから主稜線が北に向かって伸びていて、最後にあの杁差岳(えぶりさしだけ、1636m)も見えているし、その中程に白く続く沢筋は、玉川から飯豊本山へと突き上げる直登沢なのだろうが、あの有名な石転び沢雪渓は残念ながら左側からの尾根に隠れて見えない。 

 ただ今回、この飯豊山の眺めで私がまじまじと見続けたのは、御西岳から飯豊山本山へと続く尾根沿いの大雪渓斜面である。
 確かあの8年前の縦走の山旅(2010.7.24~8.4の項参照)の時にも、その傍を通った時に、この時期にこれほどの雪渓がとうれしくなったのを憶えているし、それがこうして飛行機から見ると、間違いなく広大な雪渓として存在していて、その地形的な理由も理解できるように思えたのだ。
 つまり、この三つに分かれた雪形地形は、南・北・中央アルプスや日高山脈で見られるあの氷河地形の名残であるカール(氷蝕圏谷)を思わせるものであり、それらの地形が、冬の雪を運ぶ北西の季節風の風下側の南東斜面に残されているからでもある。

 もちろん、この飯豊山の尾根の両側の地形があまり切り立ってはいないし、カール地形が形成されるには少し高度が低すぎるし、もし高度があと数百メートル高ければ、そして稜線が少し切り立っていたならば、この飯豊山にも東北唯一のカール地形が見られたのかもしれないのだ。 

 次に、同じく長大に続く朝日連峰が見えてくる。
 飯豊山と比べれば、高度が低いぶん残雪地形が少ないけれども、逆に言えばわずか1800m程の山で、今の時期に残雪があること自体珍しいのだが、それはこうして東北の豪雪地帯に位置しているためでもあるのだろうか。



 上の写真では、中央左下に大朝日岳(1871m)があり(よく見ると山頂直下の小屋も見える)そこから続く主稜線が、遠く以東岳(いとうだけ、1772m)にまで続いているのがわかる。
 次に月山(がっさん、1980m)が見えてくるが、顕著にそびえ立つ山ではなく、昔の地学の時間で習ったような典型的なアスピーテ(盾状火山)の形で、点々と残雪模様を残したなだらかな山容が北側に伸びている。

 そして、何といっても見事なのは鳥海山(ちょうかいさん、2236m)だ、その下半身まわりの広大な山体は、上で爆裂崩壊が起きていなければ、ゆうに3000mを越えていたのかもしれないが、その高さを減じた分、おおらかにゆるやかにすそ野が広がっていて、それは山形県側から見ても秋田県側から見ても、甲乙つけがたく美しい。

 下の写真では、望遠でもっと大きく撮った写真もあるのだが、この時のさわやかな上層雲の巻雲の形が、まるで”雲のオーロラ”とでも呼びたいほどに素晴らしかったので、広角にして成層圏付近から見下ろす鳥海山の姿として撮ってみた。



 さらに”南部の片富士”と呼ばれる、岩手山(2041m)が見えてきて、遠くには津軽の岩木山(1625m)とその右手には八甲田山群(はっこうだ、1585m)も見えていた。

 その後、飛行機は陸地を離れて、しばらく太平洋上を飛んだ後、ようやく襟裳(えりも)岬から始まる北海道の山影が見えてきた。
 ”カモメの~鳴く音に~ふと目を~覚まし~ 
  あれが~蝦夷地(えぞち)の~山かいな~”

「江差追分」は、やはりいいなあ。日本の民謡の中から一曲をあげてと言われれば、通俗的だと言われるかもしれないが、やはりこの歌になるのだろうが。次に推したいのは、「道南口説(どうなんくどき)」なのだが。

 そして、パッチワーク状の十勝平野が広がり、雲の中から、南日高の山々が見えてきた。楽古岳、十勝岳、オムシャヌプリ、野塚岳、トヨニ岳・・・。
 飛行機は田園地帯のただ中にある、十勝帯広空港に舞い降りた。
 私は、夏の十勝に戻って来たのだ。


心さわやかに

2018-07-23 21:32:52 | Weblog




 7月23日

 いつしか、木々の間からカナカナカナと鳴くヒグラシの声がいっぱいに響き渡るようになり、さらには昼間にはツクツクボウシの声も聞こえてきた。
 夏、真っ盛り。
 私は、何を好きこのんでか、まだ暑いこの九州の家にいるのだ。
 本州の連日38℃を超すような(今日、熊谷での47℃超えの新記録の気温になるほどの)、猛暑にまではならないが、何と言っても、じっとしていてもまとわりついてくるような湿度の高い暑さだけには、どうしても慣れることができない。
 もっとも西日本豪雨被害者たちの現状を見れば、家がありクーラーがあり、水が自由に使えるだけでもありがたいことなのだが。

 ともかく、この夏の暑さこそが、私が夏を好きになれない理由の一つであり、北海道に移住した大きな要因の一つでもあるからだ。
 それでも、今はしばらくここで耐えるしかない。
 濃い緑の木々の中、”セミ時雨(しぐれ)”を聞きながら、咲き始めたクチナシの花を見る。(写真上)
 白い細いツボミから、一枚一枚と曲がりうねりながら開いて行く、その純白の花のさわやかさと、あたりに漂うかぐわしい香り。
 そこだけが、夏とは思えないさわやかな空気に包まれているようで・・・。

 こちらでやるべき用事や仕事は、あらかたすませてしまったので、あとはいつもの本州の山遠征の旅に出かけるつもりでいたのに、前回書いたように、体調を崩してしまい、二日も寝込んで、それでもどうやら普通の状態に戻ってきたようには思えるのだが、いつまでたっても体の芯がだるい。
 とてもこんな状態では、縦走の山旅どころか、普通の山登りでさえとてもおぼつかなく思えるのだ。
 こうして3年続けて、遠征登山に行くことができなくなってしまった。
 情けないことだが、受け入れるしかない。

 そうして簡単にあきらめるようになったのには、遠征の山に登るためには、まずはその山の登山口に至るまでの、行き帰りの飛行機、電車、バス、タクシーなどの交通機関、宿泊設備、山小屋情報、天気予報などを詳しく調べなければならないのだが、年を重ねるごとに、それらすべてのことが面倒になってきて、かつ怠惰な日常に流されるようになっているから余計のことで、交通機関の接続時間が合わないだけで、もういやになってしまうのだ。
 今回は、東北の山の縦走を計画していた。
 梅雨が明けたら一番にと思っていたのに、例年よりずっと早かった本州中部の梅雨明けからは、東北地方はずいぶん遅れて、さらにはその梅雨明け宣言後も天気はあまりよくないし。(今年は北アルプス方面では好天が続いたようで、行く先を間違えたのかもしれない。)
 さらには夏休みになり、交通機関は混雑してくるし。そして自分の体調もすぐれず、何とも動きの取りようがないのだ。
 こんな調子では、もうあの東北のたおやかに続く山なみを見ることはできないのかもしれない。

 2010年7月下旬、私は念願だった東北の飯豊(いいで)連峰を縦走した。(2010.7.28~8.4の項参照)
 それは、北の杁差岳(いぶりさし、1636m)に始まり、北股岳(2025m)、大日岳(2128m)、飯豊本山(2105m)から地蔵山(1485m)に至る、主脈縦走の山旅だった。
 稜線の素泊まり山小屋に3泊し、出発点の奥胎内(おくたいない)と下山地点の川入集落の宿にそれぞれ一泊して、都合5泊の長い山旅だった。
 そのうち稜線縦走の時の一日、大日岳がほとんどガスの中で展望がきかなかったことが心残りではあったが、その他は広大なお花畑と残雪豊かなたおやかな山稜が続いていて、北海道はあの大雪山の、なだらかな寒冷地山稜が続く、砂礫高山植物地帯の景観とは違う、緑あふれる温かい自然の包容力を感じたのだった。
 写真下は、一日目の夕方、杁差小屋付近からの眺めで、ニッコウキスゲの大群落の中、縦走路は南へと続いている。遠く霞んで見えるのは二王子岳(1421m)。



 実は、その日は、奥胎内の足ノ松登山口からの尾根道の登りで、すっかりバテてしまい、上の方では10分に一度休むほどであり、水も残り少なく意識ももうろうとなる寸前で、明らかに熱中症になっていたのだが、ただ次の鉾立峰(ほこたて峰、1573m)に登る鞍部の所で、右手に大きな雪田(せつでん)を見つけて、そこでようやく体を冷やして冷たい水も口にできて一息つき、あとは目の前の鉾立峰から、杁差岳直下の小屋へとたどり着くことができたのだ。
 同じ時刻に登山口を出た若い彼とは、1時間もの差がついていた。
 それでも、まだ午後も早かったので、小屋下の沢水で渇きを十分にいやした後、杁差岳山頂付近をしばらく歩き回り、その広潤な展望を心ゆくまで楽しむことができたのだった。
 写真の左手には、この飯豊主脈の山並みが続きそこから左に少し離れて飯豊本山の姿が見え、北側遠くには墨絵のシルエットになって朝日連峰が見えていた。
 周りには誰もいなくて、静かだった。
 ただ、さわやかな風だけが、ニッコウキスゲの群落を揺らしていた。

 こうして、暑い日でも、遠征登山に出かけられなくても、私は、ひそかに自分だけで蓄え込んでいた、山の思い出の一つを思い返してみるのだ。

 それは、今までもここで何度か取り上げてきた、フランスの思想家数学者パスカルがその著書『パンセ(随想録)』の中で言っているような、私自身の”気ばらし”なのかもしれないのだが。
 以下、そのことについて少し長くなるが引用してみることにする。

 パスカルは、モンテーニュが説明した精神療法としてのディヴェルシオン(気分転換)を、新たに”気ばらし”と名付けて、人間の普遍的な心理状態を説明したのだ。

「気ばらし。ー私は、人間のあらゆる不幸が、一室にじっと休息していることができないという、この一点から来ていることを発見した。
・・・それは、弱い死すべきわれわれ人間の状態、それをまともに考えれば何ものも我々の慰めにならないほど惨めなわれわれ人間の状態の、生まれながらの不幸のうちに存する理由である。
・・・したがって、言うところの気ばらしなるものがないならば、彼は不幸である。
・・・ただ自分たちがそこに求めているのは、ただ自分自身を考えることから心をそらしてくれるような、一つの激しい忙しい仕事でしかない。
・・・かくして一生が流れ去る。人は何らかの障碍(しょうがい)と闘いながら、休息を求めている。しかしそれに打ち勝ったならば、休息は耐え難いものとなる。休息は倦怠(けんたい)を生むからである。
・・・いかなる身分も、騒ぎや気ばらしがないならば、幸福ではない。いかなる身分でも、気ばらしができる限り、幸福である。」

(モンテーニュ『エセー』原二郎訳、パスカル『パンセ』松浪信三郎訳 筑摩書房版世界文学全集より)

 こうした、フランスの”モラリスト”と呼ばれる倫理思想家たちのことを、ここでたびたび取り上げるのは、私にとっては、あの難しいドイツ系の哲学者たちの系譜の論理よりは、その箴言(しんげん)集的な"プロポ(語録)”としての話がわかりやすく思えるからでもある。
 フランスには、モンテーニュ(1533~92)から、ラ・ロシュフコー(1613~1680)、パスカル(1623~62)、アラン(1868~1951)、コント=スポンヴィル(1952~)などに至るまでの流れがあり、彼らの本を読むことは、私のありがたい話し相手になってもらえることにもなるからだ。


夏にやるべきこと

2018-07-16 22:15:03 | Weblog




 7月16日


 実は、一週間前に九州の家に戻ってきていた。
 つまり、前回の北海道の記事は、この九州の家で書いていたのだ。
 そして次の日から、この九州の家での用事と仕事が待っていた。
 幾つかの業務作業を片付けていくのは当然のことだが、庭の手入れ修理などもやらなければならないし、まず何より先にやるべきことは、毎年の年中行事になっている庭のブンゴウメの実の収穫と、そのジャムづくりである。 
 しかし、今年は帰ってくるのが遅かったから、すでに足の踏み場もないほどに、あちこちにウメの実が散らばっていて、その大半が傷み始めていて、コバエも寄ってきていて、何ともひどい惨状を呈していた。
 それはもう何日も前から落ちていたものらしく、ウメの実は熟れた後傷がつくと(落ちる時や、虫や鳥たちについばまれて)、そこからすぐに腐ってきてしまうので、一日も早い収穫が必要なのに。

 ともかく、それでも半分ぐらい傷んでいるものも含めて、使えるものがバケツ一杯分はあったのだが、その一方で、何とも残念なのは、捨てるしかない傷んだウメの実だけでもバケツ2杯分以上もあったということだ。 
 さらにその後も、毎日数十個ものウメの実が新たに落ちて来ていて、半分は痛んだものだから使えないにしても、ジャムにするには十分すぎる量になる。
 今年は、春先きの花の咲き具合を見て、さらには一年前が不作だったから、今年は豊作の年になるだろうとは思っていたのだが。
 写真(下)にある通り、丸ごときれいなウメと何とか使えるウメの実とを一緒にして、まず水洗いをした後、一個ずつ種を除いて果肉だけを切り取って行く。



 前までは、使えるウメの実だけをそのまま鍋に入れて煮て、その後でまだ熱いいナベの中から種だけを取って、果肉を新たに煮ては皮もすりつぶし、砂糖を加えてことこと煮詰めていたのだが、今回からは最初からその余分なウメの種はもうとってあるから、いくらか皮も残した果肉だけををミキサーにかけて細かくして、あとはそこに水も加えず砂糖を加えて煮詰めていくことにした。

 ジャムとしては、砂糖を多めに入れたほうが腐らずにいいのだが、私は甘すぎるジャムは苦手で、少なめにしているのだが、それでも煮沸(しゃふつ)消毒したビンに詰めて、冷蔵庫に入れておけば、5年どころか10年ぐらいでも平気なのだが。
 もっともそれは、地面に落ちたものでもそのゴミを払っただけで口に入れていた、私の子どものころの体験から来ているのであって、多少傷んだものを食べても腹をこわすことはないと、自分で思っているだけのことだが。
 ありていに言えば、賞味期限切れ一二か月は当たり前で、缶詰の5年前賞味期限切れのものも食べたことがあるくらいだ。
 それは、何より母が強い胃を持った子供に産んでくれて、さらには、子ども時代にあの汚い非衛生的な環境に放置しておいくれたからだと感謝しているのだが。人間、何が幸いするかわからない。

 そうして汗だくになって作ったジャムは、大ビン2本に小ビンから中びん4個、さらにはこの後も大びん2個は作れると思っているのだが、それにしてもバケツで捨てた傷んだウメの実は、作ったジャムの二倍以上もあり、バケツ4杯余り、ああ痛ましや。

 それで、ジャムづくりに一区切りつけて、足慣らしに九重の山に行ってきた。
 前回の帯広近郊の金竜山のハイキングを別にすれば、何と3か月ぶりも間が空いた山になるのだ。
 さて、家を出るのが遅くなり、牧ノ戸峠の駐車場(1330m)に着いたのは6時半過ぎだった。 
 夏の登山は、昼間の暑い時間帯を避けるために、夜明け前に登山口や山小屋を出発しもいいくらいなのだが。
 駐車場に停まっているクルマは十数台くらいで、その後登山道で会う人たちもぽつりぽつりといった感じで、ミヤマキリシマが終わった後の九重の山は、夏にかけて静かな山歩きを楽しむことができるのだ。


 ところで、歩き出した駐車場から沓掛山の前峰までの舗装された遊歩道の周りには、今や鮮やかな紫色のアザミの花があちこちに咲いていて、そこに多くのチョウたち、ウラギンヒョウモンやアサギマダラが、いつもの年よりは多くわんさかと群れて花々にとまっていた。 
 今年はウメの実が豊作だったように、チョウたちにとっても当たり年だったのだろうか。
 これらのチョウたちは、結局このあたりだけでなく、尾根から頂上に至るまで見ることができた。
 もし本気でこのアサギマダラのいい写真を撮りたければ、この辺りで待ってみればいいのだろうが、しかし、歩くことが目的である私には、そうのんびりともしていられなかった。
 それでも、通りすがりに撮った写真だけでも何枚もあり、上の写真はちょうど一つの花に二匹がとまっていた時のものである。
 このアサギマダラは他のチョウたちと比べれば、そう人間たちを恐れるふうもなく、ただふわふわと飛んでいくさまが優雅でもあって、私の好きなチョウの一つであるが、とてもあの海を越えて渡りをするチョウとは思えないくらいだ。

 久しぶりの登山で縦走路を扇ヶ鼻分岐まで行って、そこからあの星生山(ほっしょうざん)南尾根の急坂に取り付いて、展望の開けた尾根道をたどり、ようやく星生山山頂(1762m)に着いた。
コースタイム2時間ほどの所を何と4時間近くもかかっていた。(写真下、星生山から久住山、手前の急斜面の茶色のうねりは、枯れたミヤマキリシマの花の跡)




 さもありなん、水分補給のために30分ごとに休んだだけでなく、途中の花々、白いノリウツギやヤマブキショウマにシライトソウやオカトラノオ、さらに紫のヤマアジサイにマツムシソウと写真を撮って行ったからでもあるが。
 さらに他には、稜線のコケモモは実が小さすぎるものの、もう半分くらいは赤く色づいていた。
 ただ、あの豪華絢爛(けんらん)に九重の山を彩るミヤマキリシマの時期はとっくに終わっていて、一輪の花さえなかった。
 
 途中ガスがかかる時もあったが、それもかえって涼しくってちょうどよいと思ったくらいだが、やがてそのガスも取れてきて、申し分のない夏の青空が広がっていた。
 ここも他に一人がいるだけの静かな山だった。山はいいなあ。
 久しぶりの登山にしては長くなるが、その先の岩稜帯を星生崎まで行って、急坂を久住分れの小屋にまで下りて行き、再び星生崎下のいつものもの見晴台の所まで登り返して、あとは平坦な西千里の道をたどって戻って行った。 
 すると南側の山の間から、一機のヘリコプターが飛んできて、先の縦走路の上で長い間ホバリングをしていた。
 そして、ヘリコプターが搬送するために飛んで行った後、そのあとに、仲間の人たちや救急隊員たちがいたので聞いてみると、救助されたその人は、この上り坂で転んで頭を打ってしまいその後にはイビキまでかき始めたので、仲間が緊急救助の要請したとのことだった。
 本人はもちろんのこと、仲間にとっても予測できない事態だったのだろうが、思えば決して他人事ではない、明日はわが身の遭難事件だったのだ。

 暑い日差しが照りつけるその縦走路をたどり、12時過ぎに駐車場まで戻ってきた。
 コースタイムで言えば2倍近くかかっているが、疲労困憊(こんぱい)しての登山ではなく、休み休みの夏の山歩きには適度な時間だったのだろう。
 家に戻って、すぐにお風呂にぬるま湯を張ってゆっくりと浸かった、あー極楽極楽。
 しかしその後、クーラーにあたりながら横になってうとうとして目を覚ましたところ、下半身が硬直して痛くて動けない。
 脚がつってしまったのだ。動かすたびに七転八倒の苦しみで、このままではだめだと無理して立ち上がり、痛みをこらえて歩き回っていたら、何とか回復したのだが。

 そしてさらに厄介なことが起きてしまった。 
 この2年は、天気が良くなかったり、さらにはひざを痛めていたりして、内地遠征の山旅を中止する羽目になっていたのだが、今年こそはと準備してきたのに、何と冷房つけっぱなしで寝たのが悪かったのか、すっかり体調を崩して、体がだるく熱も出て、昨日は一日中寝ていたのだが、今日はこのブログを書くために午後から無理して起きて、何とかここまで書いてきたのだ。
 そして、これからも天気が良くて山日和の天気が続くというのに、この病み上がりの体では、とても山に行く気力も起きないし、ましてや、あの縦走の山小屋泊まりの山旅などできるはずもないのだ。
 これは、年だからもう山には行くなというお告げなのか。
 この度の西日本豪雨被害の人たちが、汗を流して自宅復旧に精を出しているというのに、おまえはぜいたく言って山に登っていていいのか。

 ジョー、おまえの明日はどっちだ。


7月にストーヴ

2018-07-09 22:33:12 | Weblog



 7月9日

 寒い!。
 この数日、朝夕の短い間だけれども、ポータブル・灯油ストーヴに火をつけて暖をとっている。 
 7月ももう半ばになろうかというのに。
 この数日の気温は、朝は7℃から9℃で日中にも10℃から14℃くらいにまでしか上がらない。
 半袖どころか、毎日フリースを着ているほどだ。

 天気も、相変わらずの梅雨空のままで、全くあのさわやかな”十勝晴れ”の空はどこに行ったのだろうかと思う。
  あの雲の上には、いつもの青空が広がっているはずなのに・・・。
 ただ、数日前に朝2時間ほど南の方に青空が見えて、霧雲の雲海の上に遠く南日高の山々が並んでいるのが見えていた。(写真上)
 

 その梅雨空から、しとしとと雨は降っていたのだが、いかんせん全体的に雨の量が少なくて、相変わらず井戸水が使えるほどには水位は上がっていない。
 一方で、記録的な豪雨被害を受けたところもあり、私だけが、水に困っているなどとはとても言えない状態だが。
 今回の西日本の豪雨被害は、まさに激甚災害と呼ぶにふさわしい大災害で、その惨憺(さんたん)たるありさまがテレビ映像からも伝わってくる、特に瀬戸内海の小さな島で、若い母親と小学校3年生と1年生の娘たち二人が土砂崩れの犠牲になったというニュースほど心痛むものはない。
 せっかく、大きな町を離れて静かな島で暮らしていた親子3人が、なぜ犠牲にならなければならなかったのか・・・。

 今を去ること、もう何十年も前の話だが、東京を離れて北海道に住む決意をした私は、長距離列車に乗って北を目指していた。
 その時に相席になったのが、上にあげたような若い母親と小学生くらいの二人の娘たちだった。
 青森まで向かうその長時間の電車の旅の中で、私たちはすっかり親しくなって、子供たちと遊びじゃれあいながら楽しい時間を過ごしていた。
 そして、下の子が遊び疲れて母親の胸で眠り始めていたころ、上の娘はせっせとノートに筆を走らせて、出来上がったものを私に差し出してくれた、それはその時にチェックの半そでシャツを着ていて、まだ若かった私の上半身の似顔絵だった。
 子供の描く絵はどこか誇張されていて、とても本人とは似ても似つかぬ姿に書かれることが多いのだが、その私の似顔絵は、誰が見ても私とわかるほどに写実的に描かれていて、感心したことを憶えているし、それは今でも大切に持っているほどだ。

 そうした、親子三人が、土砂崩れの泥の中に一瞬にして飲み込まれてしまったのだ、まだまだ、それぞれの人生がこれからも長く続いていくはずだったのに・・・。
 その代わりに、私のようなどうでもいいようなグウタラじじいが、のうのうと生きながらえて、ぜいたくに時間を使っているのだ、誰かのためにではなく自分のためだけに・・・。

「すべての人間は生まれながらにして自由であり、かつ尊厳と権利について平等である。」(『世界人権宣言』第一条より)


 さらに、あのジャンジャック・ルソー(1712~1778)は、その有名な『人間不平等起源論』の中で言っているのだが、つまり元来人間は自然状態においては、不平等は存在しなかったが、人間集団としての上下関係が決められた国家が成立し、さらにそれらの中で文明が発達していくと、持つ者と持たざる者の差が顕在化していくようになり、その不平等さはやがて固定化されていくようになると。
 しかし、彼はその成り行きを当然のこととして受け止めていて、むしろ国家との契約の中で権力者たちによって作られた、もともとあるべき自然法を超えるような法律こそが問題であるとしたのだ。
 こうした理論は、結局マルクスの思想に行きつくことになり、ここでの話とはそぐわないので、これ以上の探求はやめたいが、私が今問題にしたいのは、そうした社会的な不平等さではなく、運命的な不平等さが起きる現実について、やり場のないつらい思いにかられて、何らかの解決の糸口はないかと考えてみただけなのだが。

 昨日、庭の草取りをしていた。
 ほとんどは、あのギシギシの仲間であり、スカンポとも呼ばれているヒメスイバなのだが、私が庭を作り土をならし芝生の種をまく前から、荒れ地の優占種としてすでに生えていたものだが、それからもう何十年にもなるというのに、取っても取っても、彼らは種をつけて風で飛ばし、地下茎で庭中にその根を張り巡らしているのだ。
 そんな彼らを根絶させるためには、土の表面を剥ぎ取り、土を入れ替え、新たに芝生を張って行くしかないとのことであるが、田舎のじじいにそんな大規模な工事をする余裕はなく、ただただ“もぐら叩き”のごとくに、毎年そのヒメスイバの草取りを続けているのだ。

 ただ幸いなことには、いまだにストーヴを使うほどだから、いつもならわんさか寄って来る、蚊、サシバエ、アブの類の虫が極端に少ないのだ。
 そんな草取り作業のさ中、薄日の中から、今頃まだいたのかと思うほどに(盛りは6月初め)、一匹のエゾハルゼミの鳴き声が聞こえてきた。
 少し間延びした元気のない声だ。
 一節鳴いて、少し間をおいてもう一度、さらに一度鳴くが・・・辺りに他の仲間のセミの声はない。
 それっきりかと思っていたら、少し離れたところで、また鳴き声を繰り返していた。
 しばらくたつと、また少し離れたところに移動して。
 その鳴き声も止んで、林はシーンと静まり返っていた。
 時季外れに、地下から出てきて羽化し成虫になったものの、周りには誰もいないのだ・・・時期を逃した者の孤愁の声・・・。

 このところずっと考えているのだが、自分なりの”存在と時間”とは、それは”時節を待つ”ことにあることは分かるのだが、しかしその潮目を見つけられずに逃してしまうこともあるわけだから、それならば逆に、自分に与えられた今の時間だけを、意識して楽しむことにあるのではないのかと思うようになったのだ。
 すべての出来事に良し悪しがあるというのではなく、すべての出来事には、良きこと悪しきことが等分に含まれているものだと考えれば、物事が起きるたびに極端な一喜一憂をせずに済むということだ。

 草取りの時の続きの話だが、そうして繰り返して続くヒメスイバの抜き取り作業中に、ふとかぐわしい匂いが漂っているのに気づいた。
 それは家の林の方から流れてきていて、大体察しはついていたのだが、林のあちこちにウバユリの花が立ち並んでいた。
 昔は、ほんの二三本あるだけだったのだが、ある時から急にその数が増えてきて、今では数十本以上もある一大群落地になってしまったのだ。(写真下)




 ユリ科の仲間であるから、当然に香りはいいのだが、ずん胴な花房が一気に並んで咲いて、色も白というよりは青白く、どうも姥(うば)ゆり”という名前のせいもあってか(英語名はheartleaf liliyという名前なのに)、一般的に広く親しまれている花ではないようだ。(家の林の中のものは高さ2mにもなる。)
 ただ今までにも、九州の家の近くの石垣の間に一本だけ目立つように咲いていたのを思い出すし、何より忘れられないのは、もう9年前の話になるが、加賀の白山(2702m)に初めて登った時のことだ。(’09.7月の項参照)
 その時には、白山の幾つもの山上池と残雪とお花畑の景観に出会えて、それだけでも十分満足できた登山ではあったのだが、三日目に別山へと縦走するつもりでいたところ、雨になってやむなくあきらめて、行きの観光新道とは違う砂防新道を下ってきたのだが、味気ない泥だらけの雨の道が続いていて、そこに突然、ウバユリの群落が現れたのだ。
 その時、沈み気味だった私の心がどれほど慰められ、また予想外の喜びに満たされたことか。
 この雨の日の思い出は、一日目二日目の晴れた空の下の白山の姿とともに、同じようにはっきりと残っている、というよりは、つらい雨の中の下山を、逆にウバユリの思い出だけで喜びに満たそうとする、私の強い思い入れがあったからかもしれないが。
 昔のフィルムのコマーシャルのセリフではないけれど、”美しいものはより美しく、そうでないものもそれなりに美しく”。

 さて毎週一度、こうしてその日に気のおもむくままに書き始めて、それなりに一つの話にはなるのだが、そのために、気になっていた他のことを取り上げないまま、それが一週間すべての話のようになってしまうが、例えばサッカーのワールドカップについて書いていけば、誰でもがそうであるように、日本人一億サッカー解説者の一人になってしまうから、あえて書くまいと思ったのだが、その中であのサッカーをよく知るセルジオ越後さんの辛口コメントを一つ。
 ”日本ではベスト16に入ってベルギー相手に大健闘したと大喜びしているけれども、勝ったのは1試合だけ、それも十人相手のチームにだけだ。後は2敗Ⅰ分けでそんなチームが強いと言えるのか”

 さらに、全く話は飛ぶが先週のテレビ番組、いつものNHKの「日本人のおなまえっ!」から、埼玉に住む”出牛(でうし)さんからの依頼でその名前の由来を探っていくのだが、埼玉県の皆野町にはその名前と同じ出牛(じゅうし)という地名が残っていて、郷土史家によれば、そこは川が大きく蛇行曲流していてたびたびそのあたりで洪水が起きていて、その水の勢いが、”牛がどっと出ていくような勢い”があって名付けられたのではないのかというのだが、さらにもう一つの説があって、それを聞いた時は鳥肌の立つような思いがしたのだが。

 それは、出牛地区から北に数十キロ離れた、埼玉と県境で接する藤岡市の地区での出牛さんの話なのだが、そのあたりでは江戸時代の昔から”隠れキリシタン”(長崎の潜伏キリシタンという名前にはどうもなじめないが)の信者たちの墓が残されていて、一見して周りの他の墓石とはどこか違っていて、中が小部屋空間になっていて、上には格子戸(こうしど)のように彫り込まれているのだが、その子孫だという人が、その格子部分の半分を手で隠すと、なんとそこは十字架が現れたのだ。
 さらに付け加えて、彼が先祖から聞いた話として・・・出牛(でうし)は隠れキリシタンたちがあがめていたデウス(ゼウス=神)からきているとか・・・。

 こうして、昔の入り組んだ話が収れんしていって、おおもとの所にたどり着くという結論が見事である、その話がどこまで正しいかはわからないにしてもだ。

 生きている愉(たの)しみとは、思いもしなかった”目からうろこ”的な話を聞くことの喜びでもある。


  


春、時々夏

2018-07-02 21:05:45 | Weblog



 7月2日

 ここ、北海道では、天気が安定しない日々が続いている。
 まして数日前には、関東甲信越地方では、いまだかって聞いたこともない6月下旬の梅雨明けが宣言されていて、連日35度以上の猛暑日が記録されているというのに。

 北海道には、その梅雨前線が押し上げられてきていて、今、内地の梅雨のような天気図になっているし、今後一週間の予報にも、連日、雨のマークがつけられているのだ。
 北海道には、もともと内地の梅雨が明けた後、その余波を受けて数日余り天気が悪くなる、いわゆる”えぞ梅雨”とも呼ばれる時期があるのだが、この夏は6月半ばから、ずっと天気が良くない日が続いている。

 連日、曇り時々雨の日で、そこに時折晴れた日が混じるというのは、まさに梅雨そのものの空模様なのだから、さらにこれからもこんな天気の年が続けば、もう北海道に梅雨はないという常識が、覆(くつがえ)されることになるのかもしれない。 
 ただ一つだけ違うのは、さすがに北海道は日本列島の北に位置しているだけに、全体的には気温湿度が低くて、暑い夏が苦手な私には、おあつらえ向きな気候になっているのだ。
 それをたとえれば、”春、時々夏”の感じだとでも言えばいいのだろうか。

 そんな、時折広がる青空の一日を選んで、私は久しぶりに山に行ってきた。
 もっともそれは、山登りというよりは、ハイキングと呼ぶにふさわしい山歩きにすぎなかったのだけれども。
 クルマで走って行く途中の田園風景も、まさに北海道らしい、広がりのあるさわやかな眺めが広がっていた。(写真上、デントコーンと呼ばれる飼料用トウモロコシ畑)
 
 それにしてもここに至るまで、何と二か月以上にも及ぶ登山空白期間ができたのは、もちろん屋根から落ちた時の脚のケガと、その後の回復がはかばかしくなかったことにもよるのだが、考えてみれば去年はおろか、二年前の冬の八甲田以来、内地遠征の山旅には行っていないし、これは近年とみにぐうたらジジイに成り下がってしまった、自分自身の咎(とが)であることは言うまでもないことだが。
 つまり遠方の山に登る計画を立て、準備し手はずを整えて、いざ何日間にも及ぶ長距離旅行に出かけて行くという、その過程そのものを実行することが面倒に思えてきたのだ。

 そうまでしなくとも、幸い今は自然豊かな田舎に住んでいるのだから、自宅のまわりを散策するだけでも、十分に自然を楽しむことができるのだし、わざわざ手間暇かけて、遠くまで行くことはないと思うようになってきたからだ。
 そう思うようになったのは、今までの長い登山人生で、もう十分に山々の醍醐味(だいごみ)を味わい尽くしてきたから、とまでは言えないまでも、これまで日本全国の多くの山々に登ってきて、それなりの充足感を味わってきたのだから、もちろん登り残した山はまだ数多くあるが(百名山にこだわる気なぞさらさらないが)、何も今さら苦労してまで、長期間遠征の登山などに出かけて行く必要など、ないのではないかと思うようになってきたからだ。
 その代わりに、こうして毎日、木々に囲まれた家に居て、鳥や、昆虫たちや、草花たちとともにいる生活をして、時々自分の足で行けるハイキングや山々のトレッキングなどをしていれば、もう十分ではないかと思えるようになってきたからだ。
 そんな思いの中での、今回の低山歩きの山だったのだ。

 もっとも、こういうふう出不精になっていって、自分の家から離れたくなるのが、何よりもの年寄りになった証拠なのだろう。 
 あのボーヴォアール(1908~1983)の名作『第二の性』の中の言葉を借りて言い直せば、まさに”年寄りは、誰のせいでもなく、自らが好き好んで、年寄りになっていくのだ”ということなのかもしれない。

 最近見ることの多いテレビ番組に、「ポツンと一軒家」(テレビ朝日系)というのがあり、それは前にもここで紹介したことがあるのだが、テレビスタッフが衛星写真で探し見つけた、僻地の山や島の中に”ポツンと一軒だけある”、その家を探して尋ねて行くという番組なのだが、もともと僻地生活志向のある私には、何やら他人事とは思えなくて、分かる分かるとうなづきながら最後まで見てしまうのだ。
 そんな山の上の一軒家に、今も住み続けているのは、先祖からの家だからとか、ここに嫁いできたからという場合が多いのだが、それもその時代を考えれば理解できるし、その他にも自分の好みでここに家を建てたとか、あるいは作り変えて住んでいるという場合もあるのだが。
 ただ、いずれの場合も人里離れた山の中に住んでいて、生活するのに不便なのは言うまでもないことだが、その住人たちは、中には90歳にもなるおばあちゃんが一人暮らしをしていることもあるのだが、ほとんどは今さら下の町に住むくらいなら、この家で暮らした方がいいというお年寄りたちばかりなのだ。

 ただこの番組の残念なところは、今の若い人たちの気持ちと同じように、冒険心の混じった興味だけで番組を作っていることであり、それだからタレントのコメントが必要なのだろうが。
 そうではなくて、できるならば、実際そこに住んでいるおじいちゃんおばあちゃんの話をじっくり聞いて、さらには一晩だけでも泊まって、その暮らしがどんなものであるかの実態を伝えてほしかったのだ。
 つまり言葉を換えて言えば、ただスタッフが”生きた化石”としてのお年寄り家を探していくだけの捜索番組ではなく、あくまでも人間ドキュメンタリーの物語として捉えて、番組として仕上げてほしかったのだが。

 最近の旅バラエティー番組のすべてに言えることだが、テレビ局のスタジオでその映像を見てコメントを述べるだけの出演者たちなど不必要だから、その彼らのギャラをすべて制作費にあてれば、さらにより良い番組にすることは可能なことだろうし、その映像を流す時には味のあるナレーターが一人がいれば十分なのだ。
 長く続いている「人生の楽園」(テレビ朝日系)、あの亡くなった”いかりや長介”がナレーターの時代から見ているのだが、現在の西田敏行と菊池桃子の二人のナレーションは、もう今では、この番組に欠かすことのできない存在にすらなっているのだから。

 いつものことだが、なんと話が横道にそれてしまったことだろう、ここからは元に戻って、久しぶりの山歩きというよりは、ハイキングを楽しんできたその山のことについて書いていこう。
 それは帯広近郊の金竜山(466m)で、日高山脈の山裾が十勝平野に接する、その山裾の辺りに小さなコブのように盛り上がった山であるが、その山よりは、むしろその傍を深く穿(うが)って流れる岩内川がつくる、渓谷美の”岩内仙境”としての方が有名である。
 この山には今までに数度は登っているが、いかんせんスニーカーで簡単に登れる山だから、登山として大げさに考える山ではないのだが、3年前の秋にも登ったことがあって、その時はなかなかに紅葉がきれいだった。(’15.10.19の項参照)

 朝9時前、誰もいない駐車場にクルマを停めて(この辺りで240mの標高があり、頂上までは残り220mくらいしかない)、渓谷にかかる高い吊り橋を渡り、気持ちの良い園地の中を歩いて行く。
 10分ほどで登山口の標識のある所に出て、そこから右に曲がって、広い林道跡の登山道をたどる。
 シラカバやモミジの新緑の木々の下を、ゆるやかに登って行く。(写真下)



 この日は、雲も少しは出ていたが、空は大体晴れていて、木漏れ日がところどころ道の上に落ちていた。
 この緑の木々の下の道こそが、今回のハイキングの目的の一つでもあったのだ。
 それでもジグザグの曲がりが数度続いて、さすがに上着は脱いだものの、Tシャツ一枚だけでもすっかり汗をかいてしまった。
 上の方で、カシワやミズナラの尾根の道になり山らしくなってきたら、すぐに頂上に着いた。駐車場から、ゆっくり歩いてきて50分ほどかかったが、足の速い若い人なら30分ほどで登れる山だろう。
 頂上は、ならされたような平坦地で、ここにもフランスギクの花が一面に咲いていて、二匹のキアゲハがもつれ合いながら飛んでいた。
 南方だけが開けていて、南十勝の平野の広がりが見えていた。(目をこらすと太平洋の青い線が・・・。)



 秋や冬の、木々の葉が落ちた時には、反対側の日高山脈が見えて、十勝幌尻岳(1846m)やカムイエクウチカウシ山(1979m)も見えるのだが。
 しかし、すっかり汗をかいてしまい、水を持ってきていてよかったのだが、しばらくの間その頂上で休んだ後、下りも緑の木々を眺めながらゆっくりと降りてきて、登りとさして変わらない時間をかけて駐車場に戻って来た。
 往復2時間近くかかったが、他には、数人が園地内を歩いているのに出会っただけで、静かな山歩きを楽しむことができた。
 もっとも、九州の家に居るときにもそうなのだが、いつでも年寄りは分相応に、年寄りなりの静かな散策の山歩きができるということだ。
 
 そこで思い出したのは、今までもたびたびここにあげてきた、尾崎一雄(1899~1983)の「虫も樹も」(1965)の中からの言葉、”少しは不便でもいいから、もっとのんびりさせておいてもらいたい”だが、今回はその真意がより分かりやすくなるように、少し長くなるが、その前後の文章もここであげておくことにする。

 この短編の中で、有機水銀剤などの農薬被害についての現状を憂えた後、続けて以下のように書かれているのだが・・・。

”私もずっと文明開化の恩恵に浴してきて、いろいろと便宜を得ているのだから、文句は言えぬわけだが、それにしてもこの頃の人間には、暴走の嫌いがあるのではないのだろうか。
 私は月旅行なんかしたくない。火星のどこかに土地を持とうなどとは思わない。一発の爆弾で十何万人の人間を殺して何が面白いのか。
 ・・・。
 少しは不便でもいいから、もっとのんびりさせておいてもらいたい。
 人間は、いずれは絶滅するものらしいが、それはそれで仕方ないとして、絶滅への行程を、自分から縮める術(て)もなかろうではないか。”

(『新潮日本文学19 尾崎一雄』新潮社)