9月25日
拝啓 ミャオ様
寒い。朝の気温の6度から、余り上がらず、日中も曇り空のまま10度少し越えたくらいである。つい一週間前までは、なんて暑い秋だとこぼしていたのに、急に涼しくなり、そしてついには寒くなってしまったのだ。
昨日、朝早く家を出て、雪と紅葉と青空の鮮やかな光景を目に浮かべながら期待に胸をふくらませて、大雪の山に向かった。マイカー規制で、駐車場になっている大雪湖のレイクサイトに着くと、何と銀泉台方面へのシャトル・バスは10cmもの雪のために、運休になっているとのこと。
それでも駐車場にはかなりの車が停まっていて、その全部の人が唯一運行されている高原温泉の方に向かったのだろう。まだ高原温泉の沼めぐりコースの紅葉には、少し早いはずだが。
それならば、夏にも登った緑岳へと向かうコースもあるからとも考えたが、気が進まなかった。
天気予報では高気圧に被われるけれども、寒気が入ってきているから、山では雲が多いとのことで、途中から見た緑岳から東ノ岳方面の山なみ(写真)は、上空に青空が見えていたものの、冬型気圧配置のときのように稜線に沿って、雲がびっしりと一直線に並んでいた。
さらに、この天気の下、稜線での寒さと風に耐えられるだけの、十分な冬山装備もしてきていない。さらに、毎年もう何回となく見てきた紅葉の風景だから、一度くらい見ない年があったところで大したことではない。今年は、あきらめることだ。来週には、また本州遠征の旅もあることだし。
そしてそのまま、2時間以上もかかる道を、再び家へと戻って行った。天気が思わしくなくて、途中まで行って、あるいは今日のように登山口まで行って、山に登るのをあきらめて帰ってくることは、私には度々あることだ。
それは、私の登山における基本方針が、単純な、馬鹿の一つ覚え的に、オウムの繰り返し言葉風に、晴天登山にあるからだ。
天気の悪い日には動かない。2年前の白馬(しろうま)岳から唐松岳への縦走の時、私は天気が悪く景色が見えないからという理由だけで、三日もの間、山小屋に留まっていた。(’08.7.29,31,8.02の項)
これからの私に、そう多くの時間が残されてるわけではないし、出かけてきたからには、満足できる景色を見たいし、悪天候の中、それでも山頂に立ったということだけで帰ってきたくはない。
この夏の飯豊連峰(7.30,8.01,04の項)にしても、展望が利かなかった残り半分の山には、近いうちに登り返さなければならない。
私の中で、その山の姿が見えず山頂からの展望もなかった山は、正しく登ったうちには入らない。何も見えなかったのに、その山について語ることは、その山に対して失礼に当たるからだ。
登れなかった山に対しては、山は逃げないからまた来ればいいという、ありふれた冗談めいた警句がよく語られるが、そうではない場合も多いのだ。確かに山はそこにあるのだろうが、そこに自分がまた行けるかどうかは、分からないからだ。
かといって、陳腐(ちんぷ)な一期一会(いちごいちえ)などという言葉を、山登りの時に使いたくはないが、その山が晴れ渡った天気の時に、私が見たいと思ったベストの時に、その頂に立ちたいものだ。
私はそうして、自分の時間を、自分だけのために、使うことができる。もちろんそれだけで、幸せであるとは限らないが。
一人であるがゆえに、様々な拘束にわずらわされることもあり、ひとりであるがゆえに、荒涼(こうりょう)たる寂寞(せきばく)感に耐えなければならないからだ。
それでも、運命に導かれ、戦場での命令という重い足かせをつけられたまま、戦い死んでいった人々に比べれば、今の私は、何たるぜいたくな幸せの境遇の中にいることだろう。
前回からの続きになるが、残りの最近見た連作の戦争映画とドラマについて。
まず、クリント・イーストウッド監督による2006年制作の2本の映画であるが、それは確かに公開当時から、名監督による評判作だと聞いてはいたのだが、アメリカ映画の戦争ものということで、4か月前のテレビ放映を録画してからも、そのままのしておいたものだ。
しかし、前回に書いたあの『愛する時と死する時』(1958年)の、いかに50年前の作品とはいえ、昔はそうであったアメリカ映画としての、きわめてまっとうな描き方に納得する所があって、次に、新しいこれらの2作品で、戦争がどう描かれているかを知りたくなったのだ。
そしてこの連作の2本を見て、改めて、クリント・イーストウッドの監督としての力量に感心し、またアメリカという国の、大きな矛盾を抱えながらも進化し続ける、懐(ふところ)の深さを思い知らされたのだ。
イーストウッドについては、彼がまだ若いころ、あの連続テレビ西部劇『ローハイド』に主演していて、その後、マカロニ・ウェスタン(イタリア制作西部劇)にも出るようになり、その俳優あがりの彼の監督作品を、余り見たいとも思わなかった。
しかし近年、特に『許されざる者(’92)』辺りから、その作品は注目されるようになり、『マディソン郡の橋(’95)』、『ミスティック・リバー(’03)』、『ミリオンダラー・ベイビー(’04)』と、監督だけではなく、制作を取り仕切り、出演し、音楽も手がけるなど多才ぶりを示し、一作ごとに完成度を高めて、洗練された作品を作り上げるようになっていたのだ。
この連作映画は第二次大戦末期、太平洋の孤島、硫黄島(いおうじま)を、日本本土爆撃の足がかりにしたいアメリカ軍と、軍命により死守する日本軍との壮絶な戦いを、アメリカ側、日本側とそれぞれの立場から描いた力作である。
私はそれまで、太平洋戦争を描いたアメリカ映画は、あの悪者のインディアンを殺していく西部劇映画と同じように、勝者である自国の戦勝誇示のための娯楽作品でしかないと思っていた。(『ジョニーは戦場へ行った』などの幾つかの作品を除いては。)
それだから、このアメリカ映画が、自国側からだけでなく敵国側からも、なるべく公平になるようにと制作されていたのは、今にしては当然とはいえ、時代の流れを感じさせるものだった。
さらにそれは、前回書いた『愛する時と死する時』と同じように、ヒューマニズムの苦悩をテーマにした、まさにアメリカの良心を感じさせる映画だったのだ。
ただ私の目から見れば、『父親たちの星条旗』の方が、より人間の内面に踏み込んだドラマとしての仕上がりが見事で、『硫黄島からの手紙』の方が、同じ日本人として見るからだろうか、今ひとつ描き方が足りないような気がした。
(小さなことだが、主人公の一人である若い兵隊役の話し言葉が、今の若者ふうなのは興ざめだった。
私が、地方から上京した頃、もう戦後何十年もたっていたが、東京には、まだ江戸・東京と受け継いできた、歯切れの良い下町言葉が健在だった。特に、下町の親父さんたちの話す言葉は、滑らかで威勢が良く、いつまでも聞いていたかったほどだ。今は一様に、標準語風な若者言葉がしゃべられているだけだ。)
とはいえ、この2作品はともに、今まで見た戦争映画の中でも名作に入るものであることは確かだ。
その映画の中からの言葉・・・。
「戦争を知っていると、そう思うのは愚か者だ。出征(しゅっせい)経験のない者に多い。
皆、物事を単純に考えたがる。善と悪、英雄と悪人、どちらも大勢いるが、そんな単純なものではない。」
戦後、60年たってからの、なんというアメリカの言葉だろう。ヴェトナム、イラン、アフガニスタンなどの戦争を経てきた、アメリカだから・・・。
まだ書きたいことはいろいろあるけれども、長くなってしまった。最後に、この夏の終戦記念日に放送された、民放の優れた戦争ドラマ、『歸國(旧字体、きこく)』である。
このドラマの冒頭、『サイパンから来た列車(1955年)』という原作のタイトルどおりに、深夜の誰もいない現在の東京駅のプラットホームに、幽霊列車が入ってくる。そして、太平洋戦下の、南洋の島、サイパンで死んだある分隊の兵士たちが降りてくる。
私は、それを見て思い出した。恐らく公開された何年かはたっていたのだろうが、まだ子供だった私が、母につれられて見た映画と同じ話だということに。
当時は白黒映画だったが、二重写しによるまさに幽霊のような兵士たちの姿が怖くて、母にすがりつきながら見た記憶があるのだ。
調べてみると、それは佐藤武監督、笠智衆、中山昭二らによる『姿なき一O八部隊』(1956年)だということが分かった。
もちろん、このドラマにおける脚本家の倉本聡は、単にその作品の着想を借りただけで、ある意味、現代のドラマとして書き上げているのだ。
現代の日本の家族事情を取り上げては、例の多分に懐古的な批判をこめて、昔と今を対比させていくのだ。
そこには、戦争を経験していない私たちの年代から見ても、うなずけるような言葉が幾つもあったのだが、後でウェブ上で見ると、このドラマについては、数多くの若い人たちの批判が載っていた。中には、「倉本聡はここまで堕(お)ちたか」とまで、書いているものさえいた。
私は、日ごろから、今はやりのテレビ・ドラマ、つまり乱暴なだけの学園ものとか、働きもせずに恋に悩んでばかりいるOLもののドラマなどは、見ることもないのだが、これは久しぶりに見た良いテレビ・ドラマであり、倉本聡の健在ぶりを知って嬉しかった。
倉本聡は、このままのひたむきな心を持ったガンコおやじでいてほしい。そう思うのは、どちらかといえば若い世代よりは彼の年代に近い、われわれ中高年の世代だけかもしれないが。
戦争の悲惨な記憶は、次第次第に薄れていく。
スクリーン上での、ゲーム感覚的な、コンピューター・グラフィックスで描かれた人物がヒーローになる今。何百人もの殺戮(さつりく)が行われても、それはゲーム上での、感情のない同じようなものの抹殺(まっさつ)でしかないのだ。
いつか、本当に、硫黄島の戦いのように、腕か吹き飛び、首がちぎれる、陰惨(いんさん)な阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄に堕(お)ちる日が来るかも知れないのに。
否(いな)、年寄りの私たちが、そんな若者たちの将来を嘆き悲しむべきではない。いつの時代も、若者たちは、年寄りの忠告を聞かず、年寄りは昔のことにしがみついているだけで、さらに民族間での誤解は増幅され、互いの過ちで戦いになり、反省しては、また争いが起こり、そうして人間は、同じような歴史を繰り返してきたのだ。
時は流れ、同じような物語が書かれ、同じような言葉が繰り返されるだけだ。何一つ進歩することなく。
つまり人は、過去や未来との比較ではなく、目の前で比較できる同時代の中でしか生きられないということだ。それぞれの人々の運命が、良かれ、悪しかれ。
私は今まで幾度となく、同じようなことを書いてきたから、ここでまた取り上げるには、少し面映(おもはゆ)くもあるが、そんなわれわれの世代に近い、倉本聡のこのドラマでの言葉・・・。
「幸福とは、現在に満ち足りていて、それ以上望まない心だ。」
九州にひとりでいるミャオは、とてもそういう気持ちにはなれないだろうが、それも私には分かるのだ。
ことほどさように、それぞれの心とは、異なる思いの中にあって、理解しあうことは難しいものなのだが、それでも行く手には、いくばくかのあかりが見えていると・・・。
飼い主より 敬具