ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

飼い主よりミャオへ(119)

2010-09-25 21:42:55 | Weblog



9月25日

 拝啓 ミャオ様

 寒い。朝の気温の6度から、余り上がらず、日中も曇り空のまま10度少し越えたくらいである。つい一週間前までは、なんて暑い秋だとこぼしていたのに、急に涼しくなり、そしてついには寒くなってしまったのだ。

 昨日、朝早く家を出て、雪と紅葉と青空の鮮やかな光景を目に浮かべながら期待に胸をふくらませて、大雪の山に向かった。マイカー規制で、駐車場になっている大雪湖のレイクサイトに着くと、何と銀泉台方面へのシャトル・バスは10cmもの雪のために、運休になっているとのこと。
 それでも駐車場にはかなりの車が停まっていて、その全部の人が唯一運行されている高原温泉の方に向かったのだろう。まだ高原温泉の沼めぐりコースの紅葉には、少し早いはずだが。
 それならば、夏にも登った緑岳へと向かうコースもあるからとも考えたが、気が進まなかった。

 天気予報では高気圧に被われるけれども、寒気が入ってきているから、山では雲が多いとのことで、途中から見た緑岳から東ノ岳方面の山なみ(写真)は、上空に青空が見えていたものの、冬型気圧配置のときのように稜線に沿って、雲がびっしりと一直線に並んでいた。
 さらに、この天気の下、稜線での寒さと風に耐えられるだけの、十分な冬山装備もしてきていない。さらに、毎年もう何回となく見てきた紅葉の風景だから、一度くらい見ない年があったところで大したことではない。今年は、あきらめることだ。来週には、また本州遠征の旅もあることだし。

 そしてそのまま、2時間以上もかかる道を、再び家へと戻って行った。天気が思わしくなくて、途中まで行って、あるいは今日のように登山口まで行って、山に登るのをあきらめて帰ってくることは、私には度々あることだ。
 それは、私の登山における基本方針が、単純な、馬鹿の一つ覚え的に、オウムの繰り返し言葉風に、晴天登山にあるからだ。
 天気の悪い日には動かない。2年前の白馬(しろうま)岳から唐松岳への縦走の時、私は天気が悪く景色が見えないからという理由だけで、三日もの間、山小屋に留まっていた。(’08.7.29,31,8.02の項)

 これからの私に、そう多くの時間が残されてるわけではないし、出かけてきたからには、満足できる景色を見たいし、悪天候の中、それでも山頂に立ったということだけで帰ってきたくはない。
 この夏の飯豊連峰(7.30,8.01,04の項)にしても、展望が利かなかった残り半分の山には、近いうちに登り返さなければならない。
 私の中で、その山の姿が見えず山頂からの展望もなかった山は、正しく登ったうちには入らない。何も見えなかったのに、その山について語ることは、その山に対して失礼に当たるからだ。

 登れなかった山に対しては、山は逃げないからまた来ればいいという、ありふれた冗談めいた警句がよく語られるが、そうではない場合も多いのだ。確かに山はそこにあるのだろうが、そこに自分がまた行けるかどうかは、分からないからだ。
 かといって、陳腐(ちんぷ)な一期一会(いちごいちえ)などという言葉を、山登りの時に使いたくはないが、その山が晴れ渡った天気の時に、私が見たいと思ったベストの時に、その頂に立ちたいものだ。

 私はそうして、自分の時間を、自分だけのために、使うことができる。もちろんそれだけで、幸せであるとは限らないが。
 一人であるがゆえに、様々な拘束にわずらわされることもあり、ひとりであるがゆえに、荒涼(こうりょう)たる寂寞(せきばく)感に耐えなければならないからだ。
 それでも、運命に導かれ、戦場での命令という重い足かせをつけられたまま、戦い死んでいった人々に比べれば、今の私は、何たるぜいたくな幸せの境遇の中にいることだろう。


 前回からの続きになるが、残りの最近見た連作の戦争映画とドラマについて。
 まず、クリント・イーストウッド監督による2006年制作の2本の映画であるが、それは確かに公開当時から、名監督による評判作だと聞いてはいたのだが、アメリカ映画の戦争ものということで、4か月前のテレビ放映を録画してからも、そのままのしておいたものだ。
 しかし、前回に書いたあの『愛する時と死する時』(1958年)の、いかに50年前の作品とはいえ、昔はそうであったアメリカ映画としての、きわめてまっとうな描き方に納得する所があって、次に、新しいこれらの2作品で、戦争がどう描かれているかを知りたくなったのだ。
 
 そしてこの連作の2本を見て、改めて、クリント・イーストウッドの監督としての力量に感心し、またアメリカという国の、大きな矛盾を抱えながらも進化し続ける、懐(ふところ)の深さを思い知らされたのだ。
 イーストウッドについては、彼がまだ若いころ、あの連続テレビ西部劇『ローハイド』に主演していて、その後、マカロニ・ウェスタン(イタリア制作西部劇)にも出るようになり、その俳優あがりの彼の監督作品を、余り見たいとも思わなかった。
 しかし近年、特に『許されざる者(’92)』辺りから、その作品は注目されるようになり、『マディソン郡の橋(’95)』、『ミスティック・リバー(’03)』、『ミリオンダラー・ベイビー(’04)』と、監督だけではなく、制作を取り仕切り、出演し、音楽も手がけるなど多才ぶりを示し、一作ごとに完成度を高めて、洗練された作品を作り上げるようになっていたのだ。

 この連作映画は第二次大戦末期、太平洋の孤島、硫黄島(いおうじま)を、日本本土爆撃の足がかりにしたいアメリカ軍と、軍命により死守する日本軍との壮絶な戦いを、アメリカ側、日本側とそれぞれの立場から描いた力作である。
 私はそれまで、太平洋戦争を描いたアメリカ映画は、あの悪者のインディアンを殺していく西部劇映画と同じように、勝者である自国の戦勝誇示のための娯楽作品でしかないと思っていた。(『ジョニーは戦場へ行った』などの幾つかの作品を除いては。)

 それだから、このアメリカ映画が、自国側からだけでなく敵国側からも、なるべく公平になるようにと制作されていたのは、今にしては当然とはいえ、時代の流れを感じさせるものだった。
 さらにそれは、前回書いた『愛する時と死する時』と同じように、ヒューマニズムの苦悩をテーマにした、まさにアメリカの良心を感じさせる映画だったのだ。

 ただ私の目から見れば、『父親たちの星条旗』の方が、より人間の内面に踏み込んだドラマとしての仕上がりが見事で、『硫黄島からの手紙』の方が、同じ日本人として見るからだろうか、今ひとつ描き方が足りないような気がした。
 (小さなことだが、主人公の一人である若い兵隊役の話し言葉が、今の若者ふうなのは興ざめだった。
 私が、地方から上京した頃、もう戦後何十年もたっていたが、東京には、まだ江戸・東京と受け継いできた、歯切れの良い下町言葉が健在だった。特に、下町の親父さんたちの話す言葉は、滑らかで威勢が良く、いつまでも聞いていたかったほどだ。今は一様に、標準語風な若者言葉がしゃべられているだけだ。)

 とはいえ、この2作品はともに、今まで見た戦争映画の中でも名作に入るものであることは確かだ。
 その映画の中からの言葉・・・。

 「戦争を知っていると、そう思うのは愚か者だ。出征(しゅっせい)経験のない者に多い。
 皆、物事を単純に考えたがる。善と悪、英雄と悪人、どちらも大勢いるが、そんな単純なものではない。」
 
 戦後、60年たってからの、なんというアメリカの言葉だろう。ヴェトナム、イラン、アフガニスタンなどの戦争を経てきた、アメリカだから・・・。

 まだ書きたいことはいろいろあるけれども、長くなってしまった。最後に、この夏の終戦記念日に放送された、民放の優れた戦争ドラマ、『歸國(旧字体、きこく)』である。

 このドラマの冒頭、『サイパンから来た列車(1955年)』という原作のタイトルどおりに、深夜の誰もいない現在の東京駅のプラットホームに、幽霊列車が入ってくる。そして、太平洋戦下の、南洋の島、サイパンで死んだある分隊の兵士たちが降りてくる。
 私は、それを見て思い出した。恐らく公開された何年かはたっていたのだろうが、まだ子供だった私が、母につれられて見た映画と同じ話だということに。
 当時は白黒映画だったが、二重写しによるまさに幽霊のような兵士たちの姿が怖くて、母にすがりつきながら見た記憶があるのだ。

 調べてみると、それは佐藤武監督、笠智衆、中山昭二らによる『姿なき一O八部隊』(1956年)だということが分かった。
 もちろん、このドラマにおける脚本家の倉本聡は、単にその作品の着想を借りただけで、ある意味、現代のドラマとして書き上げているのだ。
 現代の日本の家族事情を取り上げては、例の多分に懐古的な批判をこめて、昔と今を対比させていくのだ。
 そこには、戦争を経験していない私たちの年代から見ても、うなずけるような言葉が幾つもあったのだが、後でウェブ上で見ると、このドラマについては、数多くの若い人たちの批判が載っていた。中には、「倉本聡はここまで堕(お)ちたか」とまで、書いているものさえいた。
 
 私は、日ごろから、今はやりのテレビ・ドラマ、つまり乱暴なだけの学園ものとか、働きもせずに恋に悩んでばかりいるOLもののドラマなどは、見ることもないのだが、これは久しぶりに見た良いテレビ・ドラマであり、倉本聡の健在ぶりを知って嬉しかった。
 倉本聡は、このままのひたむきな心を持ったガンコおやじでいてほしい。そう思うのは、どちらかといえば若い世代よりは彼の年代に近い、われわれ中高年の世代だけかもしれないが。

 戦争の悲惨な記憶は、次第次第に薄れていく。
 スクリーン上での、ゲーム感覚的な、コンピューター・グラフィックスで描かれた人物がヒーローになる今。何百人もの殺戮(さつりく)が行われても、それはゲーム上での、感情のない同じようなものの抹殺(まっさつ)でしかないのだ。
 いつか、本当に、硫黄島の戦いのように、腕か吹き飛び、首がちぎれる、陰惨(いんさん)な阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄に堕(お)ちる日が来るかも知れないのに。

 否(いな)、年寄りの私たちが、そんな若者たちの将来を嘆き悲しむべきではない。いつの時代も、若者たちは、年寄りの忠告を聞かず、年寄りは昔のことにしがみついているだけで、さらに民族間での誤解は増幅され、互いの過ちで戦いになり、反省しては、また争いが起こり、そうして人間は、同じような歴史を繰り返してきたのだ。
 時は流れ、同じような物語が書かれ、同じような言葉が繰り返されるだけだ。何一つ進歩することなく。
 つまり人は、過去や未来との比較ではなく、目の前で比較できる同時代の中でしか生きられないということだ。それぞれの人々の運命が、良かれ、悪しかれ。
 
 私は今まで幾度となく、同じようなことを書いてきたから、ここでまた取り上げるには、少し面映(おもはゆ)くもあるが、そんなわれわれの世代に近い、倉本聡のこのドラマでの言葉・・・。

 「幸福とは、現在に満ち足りていて、それ以上望まない心だ。」

 九州にひとりでいるミャオは、とてもそういう気持ちにはなれないだろうが、それも私には分かるのだ。
 ことほどさように、それぞれの心とは、異なる思いの中にあって、理解しあうことは難しいものなのだが、それでも行く手には、いくばくかのあかりが見えていると・・・。

                      飼い主より 敬具


 



  


飼い主よりミャオへ(118)

2010-09-23 20:44:34 | Weblog


9月23日

 拝啓 ミャオ様

 昨日、内地の各地が名残の猛暑日にあえいでいた頃、ここ北海道はすっかり秋の空気に被われていて、旭岳や黒岳での、初冠雪、初雪のテレビ・ニュースでの映像が流れていた。

 昨日の朝の曇り空は、すぐに快晴の空へと変わる。すると、今まで雨模様の変わりやすい天気の日が続いて、ぐうたらにしていた私の体の中に、一本のしんが入り、心も体もじっとはしていられなくて、家の外に出たくなる。
 最高気温は19度。さすがに、あのうるさい蚊たちも殆んどいなくなり、まずは庭仕事だ。
 伸びすぎた芝生の草をカマで刈っていく。半分ほど残し、次は畑を掘り起こし、植えていたジャガイモを収穫する。わずか10kgほどだが、冬をここで過ごすわけではないから、それで十分だ。
 さらに、これで三度目になるが、ミニ・トマトがザルいっぱいほどもある。今年は、暑くて雨の少ない夏だったから、これほど多くのトマトが採れたのは初めてだった。

 少し汗をかいたが、さわやかな空気ですぐに乾いてしまう。一休みして、裏山の牧草地の方へと散歩に行く。少し雲があるが、圧倒的な青空が頭上いっぱいに広がり、彼方には日高山脈の山々が並んでいる。
 広い緑の牧草地や周りの木々には、まださほど秋の気配は感じられなかったが、その上に流れる雲は、秋の印象そのものだった。(写真)

 私は、もう今年の刈り取りを終えている、その牧草地の中を歩いては立ち止まり、空を見上げては思った。
 青空とか、流れる雲とか、日ごろは、なんでもないようなものを、こうして時々眺めては、ありがたいと思う心・・・。

 実は、この一週間ほどの間に、ずいぶん前からテレビで放送されて録(と)りためていた、映画やドラマを4本見た。
 まず初めに見たのは、1958年のアメリカ映画『愛する時と死する時』であり、それに触発されるように、2006年制作の連作映画『父親たちの星条旗』と『硫黄島からの手紙』を見て、最後に倉本聡のドラマ『歸國(旧字体、きこく)』を見た。
 そこで、それら4本の映画とドラマについて、ここで若干の感想を書いてみたくなった。まず、『愛する時と死する時』であるが、公開時にはまだ私は子供であり、今に至るまでこの映画があることさえ知らなかった。
 一週間分のテレビ欄を見ていて、気づいたのだ。確かこれは、あのレマルクの小説の映画化に違いないと。

 エーリッヒ・マリア・レマルク(1898~1970)、何と懐かしい名前だろう。その昔、まだ私が学生時代の頃、夢中になって読んだ作家の一人である。
 彼は、あえて分類するとすれば、文学作家というよりは、ロマン(小説)を書く作家と呼ぶにふさわしく、そのストーリーをたどって面白く楽に読むことができた。
 初めに読んだのが『愛する時と死する時』(執筆1954年)であり、その後に『西部戦線異状なし』(1929年)、『凱旋門(がいせんもん)』(1946年)、『汝の隣人を愛せ』(1941年)と時代順ではなく、古本屋で見つけた順に読んでいった。
 これらの小説に共通するのは、いやおうなしに戦争という極限へと投げ込まれていった人々の、良心としてのヒューマニズムの苦悩であり、残酷な運命である。

 いつも戦争の後には、優れた戦争文学が生まれる。例えば、ナポレオン戦争後のトルストイの『戦争と平和』(1865年)、第一次大戦後のこのレマルクの『西部戦線異状なし』、ヘミングウェイの『武器よさらば』(1929年)、映画として忘れられないトランボの『ジョニーは戦場に行った』(1939年)、第二次大戦後のノーマン・メイラーの『裸者と死者』(1948年)などを思いつくが、詳しく調べていけばきりがないほどだ。
 ドイツ人であるレマルクも、自ら第一次大戦に従軍した(1916年)経験を基にして、13年後に『西部戦線異状なし』を書き上げ、翌1930年には早くもルイス・マイルストーン監督によって映画化されている。
 この映画は、小説に劣らず見事に、戦場に響く運命の一発の銃声の結末を描き出していた。

 そして、第二次大戦を舞台に書き上げられたのが、この『愛する時と死する時』である。映画化は、4年後の1958年である。
 当時アメリカに亡命していたこのドイツ人作家、レマルクの小説を、同じドイツに育ったデンマーク人のダグラス・サークが監督し、主役には当時のアメリカ若手俳優のジョン・ギャビン(『サイコ』’60)を起用したが、相手役にはドイツ語圏スイス人のリゼロッテ・プルファー(『美しき冒険」’59)をあてるなど、要所にドイツ関係を意識したキャスト・スタッフを組み、ロケも当時はまだ廃墟の残る西ドイツで行われたという。
 アメリカ資本によるアメリカ映画であり、ドイツやロシアでの物語なのに英語で話されていて、初めは違和感もあったが、ストーリーが展開されていくにつれ、そんなことは気にならなくなった。


 話は、日増しに戦況が悪化していくロシア戦線にいた、ドイツ軍の主人公エルンストが、休暇をもらい爆撃下のドイツに戻り、そこで幼なじみのエリザベスにめぐり逢い愛し合うようになるが、休暇は終わり再びロシア戦線に戻ると、そこで、あの『西部戦線異状なし』の時と同じように、一発の銃声が鳴り響くのだ・・・。
 休暇で故郷に帰る兵士をテーマにした映画は、逆にロシア側から描いた『誓いの休暇』(1959年)という優れた作品があった。リバイバル公開で見たあの映画の中の、初々しい若い二人の切ない想いに、私は思わず涙してしまったのだ。
 フランコ・ゼフィレッリの名作『ロミオとジュリエット』(1968年)の、余りにもはかない若い二人の悲劇に涙するのと同じ思いからだ。

 今の時代、日本の若い人たちは、もう戦争という苛酷(かこく)な運命に、二人の仲を引き裂かれることもなくなった。もちろん、それだけで彼ら彼女らが、幸せで楽な時代にいるなどと言うつもりはない。
 ただ戦争の時代には、不幸な運命に泣いた人たちが多くいたことは確かだ。私たちが、そんな人たちのことを、そして今でも、世界中の戦時下にある人たちのことを、どれほど思いやってあげられるかだ。

 それは、似たような突然の悲劇が、自分の身の上にも降りかかってこないとも限らないから、そして、遠い世界に見える不幸な人々は、時を越えた自分たちの姿であるかもしれないからだ。

 思えば、年寄りのミャオが九州で一人取り残されている姿は、近い将来の私自身の姿なのかもしれないのだ・・・。
 次回は、残りの2本の戦争映画とドラマについて。

                     飼い主より 敬具


飼い主よりミャオへ(117)

2010-09-18 18:39:45 | Weblog



9月18日

 拝啓 ミャオ様

 ようやく、秋の気配が感じられるようになってきたけれども、ミャオは元気にしているだろうか。長い間、このブログで近況を知らせることもせずにいて、申し訳ない。

 5日前のあの日の朝、オマエはいつものように、私の部屋の布団の上で寝ていた。そのオマエの体を抱きかかえて、玄関から外に出した。外は、霧雨が降っていた。
 オマエはけげんそうな顔で私を見つめ、それでも裏側からベランダのほうに上がり、皿においてあった二切れほどの魚の臭いをかいでいた。
 許せよ、ミャオ。私は、もう後も振り返らずに、ただひたすらにバス停への道を歩いて行った。霧雨にぬれながら。

 これからしばらくの間は、いつも来てくれるおじさんからエサをもらって、他のノラネコやカラスたちに、時々横取りされたとしても、何とか生きのびて行っておくれ。寒くなる頃には、ちゃんとまた、オマエの元に帰るから。

 それは、何度繰り返してもつらい別れの時であり、しばらくの間は私の頭から離れないのだ。オマエの寝ている時の姿や、サカナをねだる時の顔や声が。
 そして、戻ってきた北海道は、さすがに涼しくなっていた。飛行機を降りて、外に一歩足を踏み出した時に感じる、北海道は十勝の大気の、何ともやさしい肌ざわりは、やはり、いいなあと思う。
 しかし、家の周りは、わずか三週間ほどですっかり草が伸びていた。またこれから、草取り草刈りの作業が始まるのだが、そこはそれ、あの血に飢えた蚊たちが、飼い主であるメタボおやじの帰りを首を、いやその吸血管を長く伸ばして待っているのだ。
 一度、10度ほどに冷え込んだ日もあったが、それ以下になってくれないと、蚊はいなくならないので、なかなか作業がはかどらないのだ。

 その他にも、やらなければならないことがいろいろとある。例えば、高い山では、もう紅葉の時期を迎えていて、タイミングを逃すと盛りの時を見られなくなってしまうのだ。
 今後、一週間の天気予報は余り良くなかった。こちらに帰ってきてから数日は天気の良い日が続いていて、二日前の晴れの日は最後のチャンスだった。
 
 大雪山の紅葉は、毎年欠かさずに何度も見ているから、今では、もう昔ほどの早起き一番という気迫はなく、日が昇った後になってようやく家を出た。
 十勝平野はずっと曇り空の下だったのだが、分水嶺の三国峠のトンネルを抜けると、まさしく劇的に景色が変化した。雲ひとつない青空の下に、くすんだ秋色の大雪の山々が見えていた。
 ひとり、クルマの中で奇声を発して、気分は高ぶってくる。ロープウエイ、リフトを乗り継いで黒岳六合目の登山口を出たのは、しかし、もう9時に近かった。
 
 途中の、山腹のウラジロナナカマドなどの色づきは、まだ少し早いこともあってか、赤というよりは橙(だいだい)色に近く、さすがにこれは今年の暑さの影響だろうかと心配した。
 しかし、黒岳(1984m)頂上にたどり着き、そこから眺めた景色は、残雪がいつもよりは少なくなっていたが、それでも、ハイマツの緑と様々な赤色が織り成す模様が、今年も変わらずにきれいだった。
 人も数人ほどいただけで、多くはなかった。周囲には雲が押し寄せてきていたが、頭上にはまだまだ十分に青空が広がっていた。

 黒岳頂上から下りて、雲の平の溶岩台地を歩いて行く。右手には、桂月岳(1938m)、凌雲岳(2125m、写真上)、北鎮岳(2244m、写真下)と、溶岩ドーム、トロイデ型の山々が並び、左手には、お鉢平から流れ下る赤石川をはさんで、烏帽子岳(2072m)、北海岳(2149m)の山々が見えている。
 何よりも、もう遅いかもと心配していた稜線の紅葉が、暑い夏だったにもかかわらず、今年もまたきれいに色づいていたことが嬉しかった。
 チングルマ、ウラシマツツジ、クロマメノキの赤と、ミネヤナギの黄色、そしてウラジロナナカマドの橙色が織り成す模様の道を、ひとり静かに歩いて行ける幸せ。行きかう人も少なく、さわやかな風が吹き渡っていた。
 
 私は、何度も立ち止まっては、心ゆくまで辺りの景色を眺め、カメラのシャッターを押した。
 それにしても、私はなぜに、毎年、こうも似たような秋の風景を、写真に撮り続けるのだろうか。このブログに載せる写真は、あくまでもそこに書いた文章の説明のための一写真でしかないのだが。
 本来ならば、それは私のためだけの写真、つまり眼前の光景が時の流れで色あせてしまわないようにと、その一瞬を切り取ったもの さらに言えば、他人に見てもらうためにではなく、自分の記録に残すためだけの意味しかないのだ。
 他人に見られることを意識しないゆえに、写真としての芸術性はないし、写真を撮るための基本さえもおろそかである。例えば、ブレないシャープな写真を撮るための基本でもある、三脚は使わないし、カメラの露出補正や構図なども深くは考えていない。
 つまりカメラまかせで、自分が歩いて行く途中の景色をそのまま撮っているだけにすぎない。写真は私にとって、あくまでも個人的な行動の記録としての物でしかないのだ。

 毎年同じ場所で同じ時期に見る風景にしても、それは決して同じではなく、そこにある微妙な差が、薄れかかっていた前の記憶とは別の新たな感動で、私にカメラのシャッターを押させるのだ。
 さらに、今ではもう殆んどの北海道の山には登っているから、さほど有名でもない、初めての山をめざして出かけて行くのは面倒になり、今まで登った中での、ベストの地点を繰り返し選ぶだけになったからだろうか。

 前にも書いたことがあるのだが、私が2歳のころに撮られた一枚の古い写真がある。
 若い母に抱かれて、私は手におもちゃを握っている。白黒の写真だが、私はその木のゾウのおもちゃをはっきりと憶えている。
 淡い水色の地色に所々うす赤いぼかしの円形模様が入っていて、大きな耳と長い鼻の頭の部分が少し揺り動き、4本の足の所には車輪が取り付けられていた。そのおもちゃは、確か小学生の頃まで手元に持っていたはずだ。
 殆んど忘れていたそのおもちゃを、母が大切に持っていてくれたその写真によって、私は思い出したのだ。そして、それに付随する様々な断片までがよみがえってきた・・・。

 それは自分の記憶にないものが、既視感(きしかん、デジャヴー)として現れるのではなく、潜在していた記憶が一枚の写真をもとに呼び戻されるということだ。
 もちろん写真に写されたすべてのものが、ありのままの真実かどうか疑わしい場合もあるが、少なくとも自分の記憶を探る手段としては、書かれた文字による日記などと伴に、かなり正確に自分の過去を示していると思う。

 最近、はやりの脳科学の分野であるが、先日、NHKの「ためしてガッテン!」でやっていた、認知症の改善策としてのその方法は、目からウロコ的に素晴らしいものだったし、ある意味で、やはりそうだったのかと納得できるものでもあった。(再放送23日朝、NHK・BS2)
 心や精神をつかさどる脳については、私たちが知らないことや知ってはいても軽んじていることなど、まだまだそこには、素晴らしい可能性を秘めた、人間の生き抜こうとする力の根源ががあるに違いない。
 ミャオがひたむきに生きようとするように、同じ動物である私たち人間の体の中に、心の中にもあるはずなのだ。

 そこで、思い出すのは、もうずいぶん昔のドキュメンタリー番組のことである。
 交通事故などで寝たきりの植物人間に近い状態になった患者を、見捨てることなく、日々の呼びかけによる絶えざる努力で、少しずつその患者の意識を取り戻し、日常生活ができるようになるまでもと目指した記録であった。
 それは、ある神経外科病院の看護婦長他による、患者個々に深く入り込んだ看護治療であり、当時の画期的な方法にも思えた。

 患者に残された小さな意志を信じて呼びかけていくこと、それは、手術や薬に頼る現代西洋医学だけではなく、直接患者に向き合う心理療法的な看護によって、回復の可能性があることを教えてくれた素晴らしい番組だった。
 つまり今回の番組とあわせて考えれば、そこでは、外科、内科的な治療方法が最終的なものではなく、このような処方箋(しょほうせん)が、様々な心の病にも適応できるかもしれない、ということを私たちに教えてくれたのだ。


 一枚の写真の記憶の話から、少し話がそれてしまった。
 さて、大雪山は雲の平の紅葉を眺めながら、お鉢(はち)展望台に上がり、さらに登って、旭岳(2290m)に次ぐ高さの北鎮岳の頂に立った。
 しかし、今やこの大雪山の周りには、十勝平野側と旭川、富良野の盆地側からそれぞれに雲が押し寄せてきていて、楽しみにしていた旭岳や裾合平、そして比布岳(2197m)、愛別岳(2112m)などの姿も雲の中だった。
 ただ、このお鉢平の巨大な火口の周りの山々は、それらの雲の流れをせき止めていて、頭上に広い青空を残していた。

 北鎮岳からまた来た道を戻り、同じ紅葉のいろどりを楽しみながら、雲の平から黒岳へと登り返した。頂上は、札幌の中学生たちの学校登山でにぎわっていた。
 リフトとロープウェイで層雲峡に戻り、温泉でゆっくりと汗を流し、途中で久しぶりに友達の家を訪ねていろいろと話をした後、夜の長い道のりを家へと帰って行った。

 それは6時間ほどの、のんびりとした高原歩きを楽しんだ登山だったから、今になっても余り筋肉痛は残っていない。その上、下界は曇り空だったのに、ちょうど私が歩いた所だけは晴れていて、稜線の紅葉も十分に楽しむことができたし、途中しばらく山の話しをしながら歩いた道連れもいたし、良い登山だった。
 
 ミャオにかあさん、お二人のおかげです、ありがとうございました。私めは、何とか、しっかりと生きております。

                      飼い主より 敬具


 


ワタシはネコである(158)

2010-09-11 18:06:45 | Weblog



9月11日

 ワタシは、飼い主が戻って来てしばらくの間は、居間のソファの上で寝ていたが、この2週間は、一日中暗くしてある飼い主の部屋で寝ている。

 この家は、居間の他には二部屋しかなく、飼い主は、クーラーのきいた元のおばあさんの部屋の方で寝ている。ワタシは、クーラーの風に余りなじめなくて、その上に、時々、蚊取り線香の匂いもするから、とても長く寝ていられる場所ではない。
 飼い主の部屋の方は、暑い夏の間は窓を閉め、厚いカーテンで閉め切ってあるから、じっと寝ているだけならさほど暑くもなく、暗くて静かで良い所だ。どうかすると、夜から午前中のほとんどをその部屋で寝て過ごしている。

 飼い主が言うには、ワタシは人間でいえば80歳を過ぎたおばあちゃんネコだが、ワタシ自身はさほど自分の年齢を気にしたことはない。
 それは自分の年齢を指折り数えるにしても、肉球の周りのツメの伸びた指を、一本ずつ折り曲げるわけにはいかないから、5歳以上の年の数は私にはわからない。
 年寄りネコだから、もう老い先が短いから、そう寝てばかりいては貴重な時間がもったいない、というかもしれないが、無駄なエネルギーを使って疲れてしまい、命を危(あや)うくするよりは、長く寝て、穏やかに暮らし、体力を温存していたほうが、長く生きるためには良いことなのだ。
 それは、人間にしても同じことだと思う。つまり、赤ん坊は、これから生きていくために長く眠り、年寄りは、これからも生きていくために長く眠るのだ。

 ただ、最近気になることがある。飼い主が、ワタシのエサをねだる鳴き声にこたえてくれて、今までは夕方の一回だけだったサカナを、朝にもくれるようになり、さらに夜食というべきか、夜にもカツオブシをひと握りくれるようになったのだ。
 時には、猫なで声でワタシを呼んで、何か話しながらやさしく体をなで続けている。これは、もしかして、また飼い主が姿をくらます前ぶれなのかとも思うのだが・・・。


 「日中の暑さは、まだ続いているけれども、朝は少し涼しくなってきた。
 思えば、前回の山登りからすっかり間が開いてしまった。この暑さだから、とても山に登りたくはない。しかし体はなまるし・・・。

 そこで、気温19度の朝早いうちに家を出て、歩くことにした。見晴らしのよい高台の所まで、標高差100m余り、30分ほどの坂道の登りである。
 道の途中には、何本かのサルスベリ(百日紅)の木があって、青空を背景にその赤い花が鮮やかだった。(写真)
 このサルスベリの花は、離れた町までクルマで買い物に行く時にも、あちこちで見かけたし、またこの暑い中咲いている花も少ない時に、ひときわ目立つ花なのだ。

 『炎天の 地上花あり 百日紅』 (高浜虚子) 

 夏に咲く木の花でいつも思い出すのは、あの富山は立山駅周辺でいつも目にしていた、ネムノキの明るい薄紅ぼかし色の花と、九州でよく見かけるこの赤いサルスベリの花である。しかし、去年咲いてくれた家のサルスベリは、今年は花をつけてくれなかった。
 時には、私とミャオが水溶液肥料をかけ与えているのだが、やはり、母が元気だったころ言っていたように、生こやしは効かないのだろうか。(’07.12.31の項)

 しかし、九州の山の中では、サルスベリの名前の由来にもなった、同じ薄い赤褐色のつるつるした木肌をした、ツバキ科のヒメシャラの木があって、それもサルスベリと呼ばれていてまぎらわしい。
 それにしても、夏の暑い盛りに花芽を次から次に出して、百日近くも咲き続けるサルスベリは、この時期には欠かせない花である。

 その花を見ながら、坂道を登って行く。さすがに久しぶりで息が切れる。ようやく見晴らしの良い台地の端に出る。辺りにはイワツバメが飛び交い、遠くの山までくっきりと見えている。
 風がさわやかに吹き抜け、足元のススキの穂が揺れている。いくら暑い日が続くといっても、終わらない夏はないし、秋という季節も来るはずだ。
 下りは、別の道を通って下りてゆく。草原の斜面には、盛りを過ぎたヒゴタイの丸い花が幾つも風に揺れていた。

 一時間余りの、良いウォーキングだったのだが、翌日になってたったそれだけの歩きで、脛(すね)のあたりに筋肉痛が出ていた。それで、その痛みを長引かせないためにもと、さらに仕事のことで少し思い悩むこともあって、今日もまた同じコースを歩いてきた。

 そして、一時間、坂道を登り下りして歩き続けることで、自分がつらく考えてていることが、どうでも良いことのようにも思えてきた。少なくとも、私の生きている間、そしてその後も、青空や雲や、山々や、緑の木々たちの姿が、大きく変わることはあるまい。

 つまり、私がたどるべき道は、それらの自然や、ミャオの生き方と同じことだ。そのままに、生きて行くことだ。
 余分なものは、持たないことだ。そして余分な夢も、持たないことだ。分相応の暮らしの中で、不満を抱かずに生きていければそれでいいのではないか。

 『最初に一つの欲望を消しとめる方が、それに続くすべての欲望を満足させるよりも、はるかにたやすい。』(540)
 『この世で最も幸せな人は、わずかなもので満足できる人だから、その意味では、幸福になるために無限の富の集積が必要な王侯や野心家は、最もみじめな人たちである。』(522)
 (『ラ・ロシュフコー箴言(しんげん)集』二宮フサ訳、岩波文庫より)

 もっともこの、ラ・ロシュフコー公爵(1613~80)は、フランス貴族の中でも名門として知られていて、いわば封建君主国家の支配者側の人間だったのだから、そのことを差し引いて考えなければならない。
 それでも、中には、いかにもフランスらしいエスプリ(機知)のきいた名言が多く、フランス古典の一つとして愛読されているとのことだ。

 それは例えば、こうしてブログに勝手気ままに駄文(だぶん)を書き連ねている、私にも当てはまることだが・・・。

 『年寄りは、悪い手本を示すことができなくなった腹いせに、良い教訓を垂(た)れたがる。』(93)

 こうしてフランス人たちは、日常の会話の中に、自分のエスプリを織り込むすべを覚えていき、映画や文学など、彼らの芸術の中にそれらを反映させるようになるのだ。


 ニャーオ、ニャーオ。外に出ていたミャオが、遠くから鳴きながら帰ってきた。
 コアジを二尾、ハサミで小さく切って出してやる。私が、話しかけると、食べながら、フニャーゴ、ニャーゴと返事をする。

 もうそろそろ、今年で三回目(4月19日、6月22日の項)の別れの時が来る。何度繰り返しても、オマエをひとり残して行くのは、つらいことだ。
 許しておくれ、ミャオ。」
  


ワタシはネコである(157)

2010-09-05 18:35:52 | Weblog



9月5日


  前にも言ったことがあるけれど、こう暑い日が続くと、あの舌を垂らすイヌたちほどではないのだけれど、ワタシたちネコ族もさすがにぐったりとして、日陰で寝てばかりなのだ。
 できるなら、あのクリバンのキャット・カレンダーの絵に描いてあるように、毛皮を脱いで樹の枝にかけ、涼しい川の中で水浴びなどしたいものだ。

 ワタシは相変わらず、皿に入れてあるキャットフードは食べる気もせず、生ザカナだけを食べている。飼い主が戻って来た時からしばらくの間は、2か月前に冷凍したコアジばかりが出てきて、少し味の抜けた古いものだけれど、久しぶりのサカナだからと食べていた。
 しかし、余りにそれが続くと、さすがのワタシも文句を言いたくなる。ある時、そのコアジを食べ残して、飼い主の顔を見上げて、ニャーと鳴いた。

 翌日、買い物から帰ってきた飼い主が、猫なで声でワタシを呼び、とれたての新しいコアジを出してくれた。さすがに、これはうまい、ワタシは3匹も食べてしまった。
 傍で飼い主が、話していた。

 「ミャオ、今まで買えない時のために冷凍してあったものを、早く片付けてしまおうとして出していたんだが、やっぱり古くてうまくないよな、ごめんよ。
 オレだって、北海道から送ってきたアキアジ(鮭)の切り身を、半年後に食べればさすがにうまくない、味が落ちているのが分かるもの。
 たかが1パック200円くらいのサカナをケチったわけじゃないのだが、老い先短いオマエのためには、悪かったと思う。

 しかし、分かってくれ、ひとりで生きていくためには、いつももしものことを考えていなければならない。つまり、ケチというよりは、無駄を出さないこと、倹約することが大事なんだ。貧乏に慣れることは、いつか自分の身を助けることにもなるからね。
 でも、大切な家族であるオマエのために、気がまわらなかったのは本当にすまなかったと思う。」


 「こちらに帰って来てからもう2週間にもなるのに、毎日晴れた日が続き、雨が降ったのは、夕立の二三度だけだ。
 この一週間は、庭の植木の刈り込みや草取りの毎日だ。朝、涼しいうちの2時間ほどの仕事だが、びっしょりと汗をかいてしまう。
 その後に、残り湯の風呂に入りながら思うのだ。北海道で、そしてこの家で、私はただ、草刈りと草取りをしているだけではないのかと。

 大した仕事でもなく、誰のためにでもなく、毎年、同じことを繰り返し、夏の暑さには音(ね)をあげ、冬の寒さには縮こまって、皆に鬼瓦(おにがわら)のでくのぼーと呼ばれ、ほめられもせず、苦にもされず、そういう者に、私はなりつつある。
 それはまさしく、あの宮沢賢治(1896~1933)の自分を厳しく律した生活からは、遠く離れた自堕落(じだらく)な毎日なのかもしれないが。しかし、今さらもう変えるべくもない、それが私の人生なのだから。
 この世には様々な人生があり、様々な事件がそこに交錯する。誰が良くて誰が悪いという運命だけでは語りつくせない、様々な人生模様がある・・・。

 前にも少しふれたように(8月27日の項)、私はこの二日で録画していた映画、二作品を見た。『永遠と一日』(2時間14分)と『エレニの旅』(2時間50分)であり、久しぶりにいい映画を見たという思いに満たされた。

 この映画監督、テオ・アンゲロプロス(1935~)は、アテネ生まれのギリシャ人であり、アテネの大学を卒業後パリに留学し、そのころから映画批評に関係して、その後ギリシャに戻り、長編第一作『再現』(’70)を作った。
 以後、ギリシャ現代史三部作とされる第二作目にあたる、『旅芸人の記録』(’75)で世界的評価を得て、さらに『アレクサンダー大王』(’80)によりその名声は揺るぎないものになった。
 そして、『霧の中の風景』(’88)をはさんで、国境三部作といわれる『シテール島の船出』(’83)、『こうのとりたちずさんで』(’91)、『ユリシーズの瞳』(’95)と名作を作り続け、さらにその国境問題と自己省察をテーマに、『永遠と一日』(’98)を発表し、そして20世紀三部作と言われ、『トリロジー1』として発表されたのが、現代史の悲劇、『エレニの旅』(’04)である。

 私は、『旅芸人の記録』以降の、彼の主要作品のほとんどを見ている。そして、その2時間以上もかかる長編映画の、ゆったりと動くカメラや、セリフの少ない、絵画的ともいえる静謐(せいひつ)な画面構成を、ことさらに気に入っていた。
 それらの作品は、私の映画ベスト5の一つであり、何かと取り上げることの多い、あの『ピロスマニ』(’69)や『木靴の樹』(’78)と同じように、どこか懐かしく、うら哀しい田舎の風景の匂いを感じさせてくれる。
 この二作品は、確かに今までの彼の作品の流れを受け継いでいて、相変わらずに納得させられることの多い映画だったのだが、一方では、彼の映画にかける思いが少しずつ変わって来ているようにも思えた。

 『永遠と一日』は、北ギリシャ・マケドニアの港町であり、ギリシャ第二の都市、工業都市でもあるアレクサンダー大王ゆかりのテッサロニキに住む、作家・詩人でもある男が、進行性の不治の病にかかり、今にして自分の身辺を顧(かえり)みる話である。
 死を意識してより強く、自分の過去と愛する亡き妻との思い出に苛(さいな)まれ、一方では、偶然に出会ったアルバニア難民の子供を助けようとする。すべてに一段落がついた後、一人になった彼は亡き妻に呼びかけるのだ。
 「明日という時間の長さは」と。そういえば、そのころ、彼の妻は答えていたのだ。「永遠と一日だ」と・・・。
 それは、この映画をしめくくるための言葉、あるいはその言葉からこの映画が作られたのかもしれない。
 
 彼は、その映画の完成時、63歳であり、私は初めて彼の自省的作品を見たような気がした。つまり、明確な筋書きのある、ドラマのような・・・。そして、そのドラマへと向かう姿勢は、彼が69歳の時に作った、次の『エレニの旅』でさらにはっきりとしていたのだ。

 映画の冒頭、1919年のロシア革命の混乱で、移民生活地のオデッサ(あの映画史に残る1925年製作の名作『戦艦ポチョムキン』の舞台でもある)を追われて、母国のギリシャに戻ってきた人々の一団が、川向こうから、黒いひと固まりとなって近づいてくる。(写真)
 あの『旅芸人の記録』以来の、絵画的な集団群像風景だ。それはゆっくりと近づくカメラと同じように、私たちが美術館に入って、一枚の絵に近づいて行く動きと同じような速度である。
 アンダンテ(歩くような速さで)・・・。何という巧みな、映画導入部だろう。

 彼ら難民たちは、岸辺の入植地に定住して村を作る。その村長(むらおさ)が連れてきた、小さな孤児のエレニは美しい娘に成長し、その村長の息子と愛し合うようになる。それとは知らない村長は、病弱だった妻が死んだ後釜にと、エレニと結婚しようとする。
 そこから、村を出た若い二人の苦難の旅が始まる。アコーディオン弾きの彼は、家族のために新天地のアメリカを目指す。残されたエレニは、双子の子供たちと暮らし、やがて成長した二人は兵士になり、それぞれに死んでしまう。
 エレニは子供の亡骸(なきがら)の前で、もう私には思う相手がいない、愛する人がいなくなったと泣き叫ぶのだった。

 それは、哀しいドラマだった。確かにあの『霧の中の風景』の、幼い姉弟の状況もいたたまれないほどだったが、それ以上につらい出来事が降りかかってくるエレニは哀れだった。
 しかし、彼の今までの映画には、それほどまでに悲惨な出来事が重なり、主人公が泣き叫ぶようなシーンは余りなかったのだ。むしろ自分の運命を静かに受け入れて、また歩き始めるような流れだったのに。
 ここでは、起承転結がはっきりとしたドラマになり、難解さは消えて、明快に、ギリシャ現代史のそしてエレニの悲劇が描かれていた。
 私は、この映画の終わりで、いつもとは違う小さな違和感を感じていた。しかし相変わらず、絵画的な映像美は素晴らしく、これがあのテオ・アンゲロプロスの一級の作品であることに疑いはなかった。

 ギリシャ映画といえば、あのメリナ・メルクーリの『日曜日はダメよ』(’60)の明るい港町の人と風景や、『その男ゾルバ』(’64)の豪放磊落(ごうほうらいらく)なギリシャ人気質を見せられていた私には、『旅芸人の記録』で初めて見たテオ・アンゲロプロスの描くギリシャの情景は、暗い曇り空の下ばかりであり、衝撃だった。(ギリシャ軍事政権下の暗黒を描いたコスタ・ガブラスの名作、『Z』(’69)も、当時の政治的な衝撃だったが。)

 ギリシャは、青空の下、明るく輝くエーゲ海のイメ^ージだけではなかったのだ。そこには、曇り空の下、雪の残る暗い泥濘(でいねい)の道が続いていた。
 私は、若いころ旅した長いヨーロッパ旅行の時に、一週間ほど滞在したギリシャの光景を思い返していた。

 ヨーロッパ文化の始まりでもある、ギリシャ文化隆盛の時代から、アレクサンダー大王の時代を経て、ローマ帝国の属州になり、やがて400年もの間のオスマン・トルコ支配下から、ファシズムのイタリア、ドイツに占領され、大戦後に解放された後も、内戦、国王派、共和制派、軍部のクーデターなどの、悲惨な歴史を繰り返してきたギリシャ。その民族の誇りと屈辱の歴史を、彼はしっかりと見つめて、自国を描き続けているのだ。

 国境からは遠く離れて、戦争の記憶からも遠く離れて、自分たちの今の時代の繁栄の中だけを見ている国もあるというのに・・・。
 
 私の映画についての第一義は、一枚の絵画を見る時のように、まず映像を見て考えさせてくれることである。そして、登場人物たちの言葉で、さらに深く考えさせてくれることである。
 つまり考えさせるいとまも与えないような、最近流行(はや)りの、あり得ないスピード感の映像、感覚だけを刺激するような映像、コンピューター・グラフィックスの映像で作られた映画などには、ついて行けないし、そんな遊園地の世界を見たいとも思わない。

 私が見たいのは、昔そこにいた人々の世界であり、今そこにいる人々の世界である。」