ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

真冬日

2016-01-26 20:32:32 | Weblog



 1月25日、26日

 寒い。
 昨日は、朝-7度で、日中も-4度までしか上がらず、完全な真冬日になってしまった。
 そして今日も、朝-8度で、昨日から凍り付いたままの窓ガラスの氷が厚みを増したようで、今日もまた溶けることはないだろう。
 間違いのないように重ねて言うけれども、これは自分の家の居間にある、窓ガラスの、内側の光景なのだ。
 室温は、4度。もちろん上下ともに厚着なのだが、手袋も欲しいくらいなのだ。

 隣の部屋にテレビを置いてあり、そこではポータブル石油ストーブを一日中燃やしていて、何とか温まることはできるのだが、そこでさえ、ストーブに面した所以外は寒くて、ようやく家全体が温まってきて、普通に動けるようになるのは、昼過ぎまでかかるから、それでは、いくら寒さには強いとうそぶいている私でさえ、さすがに我慢できずに、台所のプロパンガスのコンロに火をつけて、暖房代わりに1時間ほどそのままにしておくと、ようやく居間も1,2度位は上がってくれて、いくらかは暖かくなるのだ。
 まあ、というふうな有様で、沖縄や奄美大島で雪が降るほどの、この二三日の記録的な寒波襲来には、さすがの”雪景色大好き”なじじいも参ってしまったのだ。少し前まで、暖冬だとほざいていたのに。

 本当のところ、この九州よりは北海道にいたほうが暖かいのだ。
 もちろん、家の中のことで、外気温は北海道のほうが寒いに決まっている。
 今日は上川地方の下川町で-31,2度まで下がったとのことで、私の家がある十勝地方でも、今の時期は-20度くらいまでは下がるけれども、鋳物(いもの)製の立派なストーブがあるから、一日中薪(まき)を燃やしていれば、部屋の中では20度近くはあり、朝起きた時でも12,3度の暖かさが残っている。
 つまりこの家にいるよりは、あの北海道の家にいるほうが暖かいのだ。

 しかし、何度も書いているように、あの家は今になって思えば、あまりにも問題が多すぎる。
 水に不自由するから、風呂には入れないし、外のトイレも雪の積もった冬場はつらい。若い時には苦に思えなかったことが、年を取ってくると身にこたえるのだ。
 それに比べれば、意外に寒い九州のこんな古い家でも、家の中で水洗トイレは使えるし、毎日風呂に入ることもできるから、そのおかげで寝る前に体は温まり、毎日ぐっすりと眠ることができる。
 それならば、この九州の家にも薪(まき)ストーヴを置けばいいのだが、薪をどこから集めてくるのか、それとも高い金を出して薪束を買い入れるのか、1年のうち8か月も使う北海道と違って、冬場のわずか3か月のために高価な鋳物製ストーヴを、残り短いじじいが今さら・・・とも思うが、もっともそれだから、少しでも居心地よい老後が必要なのだ。何か対策を考えねば。
 もっともいつも言っているように、すべては良し悪し相半ばしているということでもあり、ただ一つありがたいことがあるだけでも、すべからく手を合わせて神様に感謝するべきなのだろう。

 今回は、前回の『ピロスマニ』のような大きなテーマはないのだけれども、前回書き加えておきたかったテレビ映画放映などについて、いくつかのことどもを考えてみたい。
 まず、去年暮れから新年にかけてのテレビでの、いつもの特別映画放映を楽しみにしていたのだけれども、これも前に書いたことだけれども、そのほとんどが日本語吹き替えのものばかりで、ただの一本でさえ録画する気にもなれなかったのだ。(その理由については、’15.11.2の項参照。)
 それにしても、前に見たことがあって、それでももう一度見たいと思っていた映画が、テレビ放映されると知って喜んでいたのに、それが日本語吹き替え版と知った時の、年寄りの落胆(らくたん)ぶりなど、誰の知ったことでもないのだろうが。

 しかし、若者のように、いつかまたあるだろうからと、望みを先送りできないのが、老い先短い年寄りなのだ。皆様、どうかこの”懐かしの映画ファン”の年寄りに、憐れみを・・・たえがたい日本語による吹き替えではなく、字幕にして、映画のスターたちそのままの声を聞かせてください。
 そんなふうに、映画を放映してくれるテレビ会社に文句を言うくらいなら、以前から字幕付きで発売されているDVDを買えばいいのにと思うかもしれないが、年寄りだからと言って、年寄り皆が”オレオレ詐欺”に引っかかるような大金を持っているわけではないのだし、そんなにまでして金を使うのも嫌だし、というのも、テレビ放映される映画を、一枚50円くらいのBR(ブルーレイ)に録画していくのが、今ではこの年寄りの、コレクターとしての趣味の一つになっているからでもあり、そうしてたまりにたまったDVD,BRのディスクが今や、百枚を超えるほどもあり、そして、それを夜中に数えるのが何とも言えぬ喜びで・・・(若い人は知らない『怪談 番町皿屋敷(ばんちょうさらやしき)』)・・・一枚・・・二枚・・・あの凍り付いた窓ガラスに映る、落ち武者ふうな乱れた髪の年寄りの横顔・・・ふと、こちらを振り向くと、「ハイ、わたしがヘンなおじさんです。」

(・・・と、昨日は、まだこの先まで書いていたのだが、”二度あることは三度ある”の例え通りに、今回もまた大量の原稿を消してしまったのだ。それは、しばらく席を離れた時に、画面が暗くなりフリーズするという現象で、もう後は強制終了のシャット・ダウンのボタンを押すしかなく、書いていた記事の大半がまたも消えてしまったのだ。夕方だったけれども、私はそれで昨日はあきらめて、今日はこうして昨日とは違う内容になるけれども、何とか昨日からの記事をつなげて書いていくつもりだ。まあそのことで別のやる気が起きたわけだし、何より、私自身のために、老化防止記憶維持のために書いているんだから、誰が悪いわけでもなく、まあすべては、なるようにしかならないということなのだろう。以下今日、1月26日の記事として続けて書いていく。) 

 とか何とか、おふざけを交えて文句は言っているが、実は、最近うれしいテレビでの映画放映が二本。
 いずれも、NHK・BSによるものだが、あのタヴィアーニ兄弟監督による名作『父 パードレ・パドローネ』(’77)が10日ほど前に放送され、さらに今月終わりには『サン・ロレンツォの夜』(’82)も予定されている。
 今ではもう、イタリアの巨匠と呼ばれるべき兄弟監督である、ヴィットリオ・タヴィアーニ(1929~)とパオロ・タヴィアーニ(1931~)の二人による共同作品は、今回テレビ放映されて、当時から世評も高かった『父 パードレ・パドローネ』や『サン・ロレンツォの夜』から、『カオス・シチリア物語』(’84)へと続いていき、私も当時、その詩的でイタリア民俗色の強い映画表現に魅了されていたのである。

 彼らタヴィアーニ兄弟の作品は、同じイタリア民族主義的な抒情詩ドラマとしての流れが胸を打つ、あのエルマンノ・オルミ監督の『木靴の木』(’78)や、ベルナルド・ベルトリッチの『1900年』(’76)の写実的大河ドラマの映像と比べれば、さらに素朴な民話風な語り口と呼べるものなのだが、その一方で、映画創世記のアメリカ映画の巨匠グリフィスの姿ををドキュメンタリー的タッチでとらえた名作、『グッドモーニング・バビロン』(’87)では、この兄弟監督の映画作りの見事さにも感心させられたし、(そこで思い出したのは、トリュフォーの名作『アメリカの夜』(’74)であるが)、さらなる次の作品で、若い聖職者の人生の変転を遂げた姿を描いた『太陽は夜も輝く』(’90)の映像も心に残っている。

 しかし、私が見ているタヴィアーニ映画はここまでであり、その後の『フィオリーレ』(’93)『復活』(’01)『ひばり農園』(’07)『塀の中のジュリアス・シーザー』(’12)と、ずっと見ていないのだが、果たして、その後のタヴィアーニの世界はどうなっていったのかと気になるところだし、だからこそ、いつも良心的映画を選択し放映しているNHK『プレミアム・シネマ』のプロデューサーは、いつの日かこれらの作品を放送リストに入れてくれるだろうかと、ささやかな期待を抱いているのだが。

 私が、イタリア映画に親しんだのは、主に東京にいたころであり、そのころ足しげく通ったのは、場末の小さな映画館で、安い料金で少し前の名作映画を見せてくれたのだが、今にして思えば、そうした”名画座”こそが、実は私にとっての大切な社会科教室だったのだ。
 国家社会の規則を、改めて理屈づけて教える学校での勉強と違って、今生きている人々の生の声が聞こえてきて、そこには若い情熱と挫折があり、人々が共に生きる充実感に満ちていたのだ。
 というふうに、後になっていろいろと理屈付けはできるけれども、当時はただ”毛唐(けとう)かぶれ”と言っていいほどに、映画に出てくる外国娘たちに入れをあげていて、実際のところは、映画を見るのはそれが目的でもあったのだ。(それは対象こそ違え、今の若者”オタク”たちのAKB熱とおなじようなものだったのだ。)

 イタリア映画に関していえば、シルヴァ・コシナ(『鉄道員』の主人公小さな子供のお姉さん役)、クラウディア・カルディナーレ(『刑事』で殺人を犯した若者の恋人役で、ラストシーンのクルマを追いかけるシーンが胸を打つ)、他にもセクシー系のお姉さま方、ソフィア・ローレン(『河の女』)、ジーナ・ロロブリジーダ(『花咲ける騎士道』)、サンドラ・ミーロ(『青い女馬』)、エレオノーラ・ロッシ・ドラーゴ(『激しい季節』)などなど、こうして彼女たちが出ていた映画を思い出しているだけでも、楽しくなってしまうが、ここでは、本題のイタリア映画について、少しだけ触れてみよう。
 
 確かに初めのころは、ヴィットリオ・デ・シーカの描く『靴みがき』(’47)『自転車泥棒』(’48)『昨日・今日・明日』(’64)『ああ結婚』(’64)『ひまわり』(’69)や、ピエトロ・ジェルミの描く『鉄道員』(’56)や『刑事』(’59)『イタリア式離婚狂想曲』(’61)『誘惑されて棄てられて』(’63)のような、下町人情話的な映画から入っていったのだが、すぐに芸術的評価の高いフェリーニの『甘い生活』(’60)や『8½』(’63)、そして異色の衝撃映画『サテリコン』(’69)、なども見るようになり、さらに『フェリーニのローマ』(’72)『アマルコルド』(’73)では、卑猥(ひわい)なまでに成熟し膨れ上がった都市文化を巧みに表現していたし、また同時代には、あのミケランジェロ・アントニオーニが、『情事』(’60)『夜』(’61)『太陽はひとりぼっち』(’62)と続く三部作で、現代社会のむなしい愛の世界を描き出し、さらに自分自身が作家詩人でもあった、鬼才と呼ばれるピエル・パオロ・パゾリーニが『奇跡の丘』(’64)『アポロンの地獄』(’67)『テオレマ』(’68)と次々に問題作を作り、歴史の中に反倫理的な不条理の世界を描き出していったのだ。

 さらに戦前から活動していた”ネオレアリズモ”派の巨匠ロベルト・ロッセリーニは、映画史に残る『無防備都市』(’45)『戦火のかなた』(’46)『ドイツ零年』(’47)の三部作を作った後、再び『ロベレ将軍』(’59)で大きな注目を浴びた。(しばらく前にテレビで放映された『イタリア旅行』(’52)は、世界を揺るがす不倫恋愛になった相手の、イングリッド・バーグマンを主演にして撮った映画なのだが、まるで、この後の二人の危うい仲を暗示させるような内容だった。)

 もう一人の巨匠、ルキノ・ヴィスコンティは『郵便配達夫は二度ベルを鳴らす』(’42)と『揺れる大地』(’48)で、ロッセリーニと並ぶ”ネオレアリズモ”派の一人であることを強く印象付けていたのだが、その後は、貴族の爛熟(らんじゅく)文化の中で、ともに滅びゆく人々の哀愁を描いていくようになり、『夏の嵐』(’53)から始まり、『山猫』(’63)『熊座の淡き星影』(’64)『地獄に堕ちた勇者ども』(’68)『ヴェニスに死す』(’71)『ルートヴィッヒ』(’72)『家族の肖像』(’74)と切れ目のない傑作群を生み出していくことになるのだ。
 さらにこの70年代には前回も少し触れた、エルマンノ・オルミの『木靴の木』(’78)や、上にあげたタヴィアーニ兄弟による『父 パードレ・パドローネ』(’77)、さらにベルナルド・ベルトリッチによる『暗殺の森』(’70)『1900年』(’76)などの名作、大作が生まれることになるのだ。

 ここまで、きわめて簡単に、あちこち省略して、イタリア映画史をなぞって来たのだが、それだけでも十分には書ききれないほどだ。 
 そしてこれは、私にとってのイタリア映画の時代だったのであり、その60年代から70年代にかけてこそが、百花繚乱(ひゃっかりょうらん)のイタリア映画黄金期とも呼べる時期だったのだと思うし、たまたまその時期に映画に夢中になれたということは、今にして思えば、幸運なめぐり会いだったという他はない。ありがとう、イタリア映画。
 といいつつ、フランス映画、イギリス映画、ドイツ映画、スペイン映画、北欧映画、ロシア映画などなど、それぞれに、私が見てきた映画たちについて、もう一度振り返ってみたいし、いつの日にか記事として書いてみたいとは思うのだが。

 ここまで書いてきてすっかり疲れ果ててしまった。
 映画の話はこれで終わりとして、後は、最近のテレビから二つ三つのことを、書き留めておきたいと思う。

 少し前になるが、いつものNHK『ブラタモリ 熱海編』。
 源泉の位置から、温泉街の成り立ちなどを解き明かしていき、そこで現れた大学の先生が、まだ若く美しい宝塚男役ふうな美人で、思わず話を聞くのもそこそこで、ご尊顔を拝していた次第。
 さらに、山が後ろに迫った地形にある熱海では、それまでは水不足が深刻だったのだが、あの新丹那トンネルの掘削(くっさく)の際に湧き出た水を、生活水として使うようになったとのこと。
 火砕流、スコリア、海食崖など、地理地形学ファンにはたまらない言葉が飛び交い、さらにはその一方で、タモリのセクハラぎりぎりの、アシスタントの真帆ちゃんへのいじり言葉が面白い。私も参加したーい。

 その流れで続ければ、同じ日にBSのほうでは、ドキュメンタリー番組『体感!グレートネイチャー 大隆起の絶景~美麗島 台湾』があって、しっかり録画して、後で見たのだが、予想以上に、地理学地形学ファンには面白く、興味深い番組だった。私は、こうした地形を見るために、台湾に行きたいとさえ思ったくらいだ。
 台湾での、大陸プレートのぶつかり合いによって生まれる隆起の速度は、世界的なまでに速くて(南アルプスの4倍だとか)、普通ならば海底でしか見られないものが、台湾では地上で見られるのだ。
 北アルプスの黒部峡谷の比ではないほどに、深くうがたれた一大渓谷、泥岩の地層が隆起して、日々、浸食されている様子、地層の隙間から湧き上がる泥状火山の小山、最後に台湾の最高峰の玉山(3997m)の植生と、粘板岩に覆われた絶景。息をのんで見る1時間半だった。

 ただしこの番組で唯一の欠点は、今までにもこの『体感!グレートネイチャー』であったように、映像での感動をあおるかのように、後ろに流れている音楽がうるさいほどだったことだ。
 何もドキュメンタリー番組にまで、ドラマ風な感動を盛り立てることはないのだ。
 途中の、たどり着くまでの苦労を映像で写していれば、最後の感動のシーンに出会った時には、その場所にある風の音だけで十分なのだ。あとは周りに広がる映像がすべてを語ってくれるはずだから。

 そして、いつもの『AKB48SHOW』 だが、今回は去年9月の”じゃんけん大会”で幸運にも優勝した、そのごほうびとして、本人の名前が付けられた『藤田奈那SHOW』という特別番組になっていてた。
 もちろん、私はそれまで彼女の名前も顔も知らなかったし、”じゃんけん大会”優勝のニュースが流れて、”へーこんな子がいたのか”と思ったくらいなのだ。
 これもまた、優勝のごほうび曲として作られた、『右足エビデンス』という曲を、彼女は男たちのバックダンサーを引き連れて、ソロで歌い踊ったのだが・・・ただ、あぜんとして見つめるばかりで、恐れ入りましたと頭を下げたくなったほどだ。
 地味な顔立ちで、23,4歳位の、私はもう長い間AKBに在籍している子かと思ったのだが、何と当時まだ18歳であり、あれほどの大人の曲を長い手足を使って、見事に歌い踊っていたのだ。(このMVは”youtube"でも見ることができる。)
 300人もの女の子たちからなる、AKBグループ広しといえども、これほどの雰囲気をもって歌い踊れる背の高い子は、他には”にゃんにゃん”小嶋陽菜か阿部マリアぐらいしか思いつかないほどだ。
 いつもの秋元康の作詞もなかなか良いし、曲調もNMBの『MUST BE NOW』ふうな新しさを感じさせるものだし、何より気づいたのは、300人ものAKBグループにはまだまだ、こうした輝く才能を持った子たちがいるかもしれないということだ。
 それだけの数があるからこそ、これからも入れ代わり立ち代わり、アイドルだけではない、様々な才能を持った子が現れる可能性があるのだろう。

 AKB,すげーえ、と、じいさんは思うのでした。


(参考文献: 『スクリーン外国映画テレビ大鑑』 近代映画社、『ノーサイド 総特集おお、女優』 文芸春秋社、『イタリア映画を読む』柳澤一博 フィルムアート社) 

 

 


映像から絵画へ

2016-01-19 21:23:57 | Weblog



 1月19日

 外に出かけるのがおっくうになってきた私にとって、買い物に行くか、山に登るために登山口まで行く時の、いずれも1時間を超えるくらいのクルマのドライブならば、たいしたことではないのだが、2時間以上もクルマに乗っていると、もうそれは私にとって、一つの”旅”になる。
 数日前、私はそんな旅の一つをしてきた。

 バスで2時間余りもかかる大きな街に出かけて、映画を見てきたのである。
 もちろん、そのついでにとばかりに、大型書店に行って欲しかった本の数冊を手に入れ、さらには、前回の記事で、もうクラッシックCDなんぞは買わなくてもいいとか言っていたばかりになのに、その舌の根も乾かぬ内に、ついふらふらと久しぶりにCDレコード店に寄り、ついつい3点ものセットもののクラッシックCDを買ってしまったのだ。
 それは、私の”AKB熱”と同じようなもので、まさに”病咬耗(やまいこうもう)にいる”状態であり、よほどのことがない限りなかなかやめることのできない、長年続いている、哀しい私の”ビョーキ”なのかもしれない。
 まあそんな愚痴(ぐち)話はともかくとして、今回の目的であった映画のことについて、ここで書いておきたい。
 とはいってもそれは、確かな評論家としての理論的な意見ではなく、あくまでも自分で勝手に解釈しただけの、独断と偏見に基づく独り言に過ぎないのだが。

 それは、30数年前にも一度見ている、グルジア映画、『ピロスマニ』(1969年、日本公開1978年)である。(グルジアは、現国名をロシア読みから英語読みのジョージアに改名しているが、アメリカのジョージア州と紛らわしい。)

 今まで、ここで何度もこの映画のことには触れていて、それは”私の映画ベスト5”に入れたいほどの感銘を受けた映画であり、もう一度見たいと思っていて、廃盤中のDVDが再発売されないかと時々ネットで調べてはいたのだが、前に発売されていたDVDが、今では中古品サイトで、何と2万円以上もするべらぼうな値段をつけられて出品されていて、(元の値段の10倍だなんて、”プレミアもの”はそうした値段がつけられるのが当たり前の世界なのだろうが、私はいくら欲しいからと言って、そんなオークションの世界に加担(かたん)するような人間にはなりたくはないのだ、そんな余分なお金もないし)、ということで、せめていつの日にかテレビで放映してくれないかと、ただ淡い期待を持って待ち続けていたのだ。
 
 ところが今年になって、いつものように、もしかして『ピロスマニ』のDVDが再発売されていないかと調べていたところ、相変わらず”希少品”高額中古DVD商品としての記載があるだけだった・・・ところがその下のほうに、何と東京でこの『放浪の画家 ピロスマニ』が上映されているとのサイトがあったのだ。
 しかし、何と残念なことに、それは去年の11月のことであり、今はもう終わっていたのだ。
 いつもこまめにネットで調べていれば、そのことをあらかじめ知っていれば、12月の初めのこの九州への帰郷を早めて、東京に寄って見ることができたのに(さらには前回書いた犬塚勉の絵画展にも行くことができたのに)・・・何という不運だと、今さら一人わめいてみても、すべては”後悔先に立たず” で、がっくりと肩を落としていたのに・・・よく見てみると、一番下の欄に小さく、”その後各地を回って公開”と書いてある。
 もしかして、この九州でも公開されるのかと調べたところ、何と今、まさに上映されていたのだ。
 大逆転のどひゃー、”欣喜雀躍(きんきじゃくやく)”のうれしさでひとり舞い上がったのだが、それも来週までの予定とのことで、土日を避けて翌週になってから、その映画を見るために、2時間以上もかけての旅になることもいとわずに、バスに乗ってその大きな街へと向かったのだ。

 こんな片意地を張る”じじい”の願いをかなえてくれて、ありがとうとただただ”神様”に手を合わせるばかりだった。
 バスの終点の繁華街からは、少し離れたところに、その映画館はあった。
 2館併映の複合型映画館であり、それぞれの座席数が百人前後の、いわゆるミニ・シアターであり、昔の”名画座”(封切り後しばらくたっている名画を安い料金で上映)を思わせるような、若き日の下町映画館マニアだった私のような人間には、どこか懐かしく思える雰囲気だった。
 その日の午前中1回だけの上演に集まった人は、私と同世代の中高年の男女ばかりで、座席もぽつぽつと座っていて10人余り・・・。
 しかし、映画館の収益面で考えれば、とても採算に合わないような観客数なのだろうが、静かな映画館で、周りの話声が聞こえないような離れた座席に座って、その映画にだけ向き合って見たいと思っている私にとっては、まさにおあつらえ向きの観客席状況だったのだ。
 それにしても、今や大型化したテレビの前で映画を見ることができれば、それで十分だと思っている私にとって、映画館で映画を見るというのは、もう10何年ぶりのことにもなるのだ。

 予告編の騒がしい画面が終わった後、一転、スクリーンには、デジタル・リマスター版だとは言っても、少し古く色あせたような画面が映し出されて、静寂の中、オルガン曲だけが流れ響き、映画『放浪の画家 ピロスマニ』が始まったのだ。
 私が、この映画を初めて見たのは、まだ東京で働いていたころの37年も前のことで、会社からはそう遠くはない神保町の岩波ホールでだったと思う。

 そして今、若き日のあの時に、ぼう然とするほどの感銘を受けた映画に、こうして年寄りになった私が再びめぐり会い、果たしてまた前と同じように感じ取ることはできるのだろうか。

 映画のストーリーは、グルジアの画家ピロスマニ(1862~1918)の半生を、淡々と描いただけのものである。
 本名ニコロズ・ピロスマナシュヴィリだが、人々には愛称の、ニコあるいはニカラと呼ばれていた彼は、幼いころに両親を亡くしたが、幸いにも裕福な貴族の家に住み込み使用人として雇われることになり、そこで教育も受けたのだが、その家の若い未亡人に身分違いの恋心を抱いてしまって、ついにはその家を出て行く羽目になる。
 その後は、街に出て鉄道員などいくつかの仕事を転々とした後、友人の一人と乳製品を扱う小さな雑貨店を開くが、元来商売にうとい彼がうまくやれるはずもなく、結局は店を閉めてしまうことになる。
 その後は、子供のころから好きだった絵を描いて、何とか日々の生活の糧(かて)を得ていくことになるが、それは店の看板や居酒屋に飾る絵を描くことでしかなかった。
 しかし、ある時、フランスの画家たちの一行が偶然にもその街に立ち寄り、彼の絵を認めたことから、ロシアの中央画壇にも紹介されるほどになったが、それもつかの間、大半の人々からは絵画の基本も知らない画家だとさげすまれて、失意と貧しさの中、酒場の物置のような階段部屋で病に倒れて、薄幸の生涯を終えるのだ。

 今では、ピロスマニの絵は、一点でも億という値段がつけられるというのに、本人は極貧の中、50代の若さで、失意のままこの世を去っているのだ。こうした昔の画家や作曲家、詩人たちなどが、世に十分に認められることなく、早逝(そうせい)した例は他にいくつもあげることができるが、ピロスマニもその一人であり、余りにも痛ましい最後である。 

 ピロスマニの絵は、一目見ただけで彼の絵だとわかるほどに、単純平明なものであり、それだけに基礎的なデッサンもできていない、独学による幼稚な絵だと揶揄(やゆ)されることもあったのだが、よく見ていけば、すべての絵に彼のやさしい視線が感じられるし、特に背景に冴え冴えとした青い色を多用した絵などからは、彼の純粋な魂の叫びが聞こえてくるようであり、美術史的にはあのフランスのアンリ・ルソー(1844~1910)とともに”プリミティヴ(素朴)派”としてまとめられることが多いのだが、両者には何の接点もなく、ただ所を変えて同時代が生んだ、奇跡の二人の画家だったのだと言えるのかもしれない。

 映画の冒頭は、森を背景にした白い教会へと人々が向かっているシーンで、草むらで鳴く虫の音が聞こえる。
 次に、ピロスマニが書いた有名な『キリン』の絵が挿入され、オルガン曲が流れ、(ニコが若いころにいた貴族の館の)白壁の部屋のベッドには少女が寝ていて、隣の部屋に座っていて聖書の一節を読み聞かせている彼がいる。
 そして次のカットでは、同じ家の別の部屋でソファに座っている、未亡人になったばかりのまだ若いこの家の娘と、その後ろにじっと立つ母親たちの姿が映し出されていて、それぞれのシーンが、もう絵画的映像美の世界になっている。 

 さらに続くシーンは、貴族の家を出て街に向かうニコが、川の渡し船に乗るシーンであり、その遠景描写もまた絵画的ではあるのだが、私はふと、どこかで見たことがあるようなカメラ・ワークだと思ったのだ・・・そういえばと、すぐに思い当たったのは、あのギリシアの名匠テオ・アンゲロプロスの、『旅芸人の記録』(1976年)とそれに続く一連の名作の中での、さまざまなシーンが思い浮かんできたのだ。
 人物が点在する遠景のシーンで、それが静止画のように動きを止められて、映像として映し出された時、それは巧みな構図によって描かれた絵ではないのかと思ってしまうのだ。
 こうしたこの映画の静止画のようなシーンは、さらにあのイタリアのエルマンノ・オルミ監督による、映画史に残る名作でもある『木靴の木』(1978年)の中にも見出すことができる。
 これら3本の映画に共通することは、そのいずれもが他国の真似事ではなく、自分が一番よく知っている自分たちの国について、底辺に暮らしていても誇りを失わない自国の人々について、しっかりと表現している点にある。本当に国を思うこととは、まず、自分の国に住む愛すべき人々の姿を描くことから始まるのではないのかと・・・。

 さらに映画の場面は変わり、時に周りの虫の声や田舎楽隊の演奏音や村人たちの合唱が聞こえてくるものの、ほとんどはセリフも短く、そうした静寂の中で、人の視線がたどるようにゆるやかに画面は動いていくのだ。
 この映画に特徴的な、静寂こそは、絵画的な画面構成の大きな要因となるものであり、さらには寡黙(かもく)な清貧の画家ピロスマニの、心の内なる叫びを抑えて作り出されているものなのかもしれない。
 それだけに一シーン一シーンが、考えられた構図としての絵画的要素を満たしていて、以後長々と繰り返すことになるので、すべてのシーンについて説明するわけにはいかないけれども、それぞれ場面ごとに、今までに知っているヨーロッパ絵画のいくつかをどうしても思い浮かべてしまうのだ。

 食卓を囲んで座る家族の肖像、テーブルを囲んで杯を交わす村人たち、酒場のテーブルに座るニコと仲間たち、馬車に揺られながら幼子に乳を与える女などなど、それらはすべて今に残されているピロスマニの絵を基にセットされたものなのだろうが、私には、明暗表現でより強く場面を印象づけたあのカラヴァッジオ(1573~1609)やベラスケス(1599~1660)にレンブラント(1606~1669)などから、前にもここで取り上げたことのある、北欧デンマークの淡い色彩の中の静寂を表現した、ハンマースホイ(1864~1916、’08.11.8の項参照)の絵にさえも及ぶような、長い歴史の中で培(つちか)われてきたヨーロッパ絵画の流れを、その様々な宗教画や風俗画を見るように、頭の中に思い描いてしまうのだ。
 
 久しぶりに見たこの映画は、確かに素晴らしかったが、若き日に見た時の、鮮烈な衝撃というよりは、むしろ周りのことがいろいろと見えてきて、ふつふつと湧き上がる滋味あふれる思いに満たされたと言うべきだろうか。
 他にも、書いておきたいことはいろいろとあるのだが、後で追記として書くけれども、昨日からこの記事にかかりっきりで疲れてしまい、それでも言っておきたいことだけを最後に二つ三つ。
 
 まずは、ニコが自分たちの雑貨店を閉める時の有名なシーンだが、俯瞰(ふかん)した画面として撮られていて、彼が看板として掲げていた二枚の牛の絵を取り外し、通りがかった人に言い値で譲ってやり、その後でそれぞれの方向に歩み去っていくシーン(上のパンフレット写真の上部の映像)だが、ここではむしろ私は、古い時代のアメリカ映画の名作、あの『シェーン』(1953年)の一場面を思い出したのだ。
 それは、流れ者のシェーンと開拓農家の妻が、互いにほのかな思いを抱いて、すれ違いながら夜の戸外に出入りするシーンであり、若い時には何気なく見て憶えてもいなかったのだが、年を取って再度見直してみて、早打ち決闘シーが有名な西部劇だとしか思っていなかった映画に、そんな心理劇の場面があったことが、私には新鮮な驚きだったのだ。
 
 さらに劇中で、フランスからやって来た、女優のマルガリータが歌い踊るさまを、食い入るように見つめるニコのまなざし。(ニコが描いたマルガリータの絵 パンフレット裏表紙写真下)


 
 酒場の主人の話によれば、「何だったか名前は憶えていないが、ニコがフランスから来た女に夢中になっていたことがあった」、とのことで、その話を聞いたロシアの詩人が詩を書き、それにラトビアの作曲家が曲をつけて、あの名曲『百万本のバラ』が作られたのだという。
 日本では加藤登紀子の歌によるものが有名だが、忘れられないのは、あの倉本聡(今日の『徹子の部屋』に元気に出演されていたのがうれしかった)の『北の国から ’98時代』 で、正吉が蛍(ほたる)に求愛するために、道路わきに果てしなく続いているオオハンゴンソウの花を刈り取っていた時に、画面の背後に流されていた曲で、そのひたむきさに胸がいっぱいになってしまったほどだ。

 そして映画の最後で、病に倒れたニコが酒場の階段下の部屋にうずくまり寝ていると、隣の家に住むニコの友人が、御者(ぎょしゃ)に話をつけて馬車で病院へと運んでくれるように頼み、その御者が暗いその部屋に入り、「何をしているんだ」と問いかけると、ニコは暗闇の中でようやく目を開けて言ったのだ。

 「死ぬところだ」

 それまでにも、たびたび懐かしのシーンに出会い、私はまぶたを熱くしていたのだが、もうこの時ばかりは、涙を抑えきれなかった。涙はほほを伝って、幾筋にも流れ落ちた。
 映画は、そのニコが馬車に運び上げられて、石畳の道を下っていくシーンで終わっている。
 この最後のシーンは、見知らぬ御者が来てニコを連れて行ったと解説している人もいて、つまりは、あの死期の迫ったモーツァルトに、最後の「レクイエム」を頼みに来た見知らぬ使者と、その姿をダブらせているのかもしれない。

 それにしても、この映画の脚本を書き上げ、監督としてこれほどまでの作品に仕上げたギオルギ・シェンゲラヤ(1937~)の才能について、さらに深く調べたくなるのだが、悲しいかな、私が見ている彼の映画はこれ一本だけであり、なぜ彼がこれほどまでに映像と絵画の描写にこだわったのかを知りたいし、さらなる作品を見てみたいのだが・・・。
 彼は、この『ピロスマニ』を作った時に、まだ32歳という若さであり、父親が同じ映画監督であり、母親も大女優として知られていて、さらには、モスクワの大学で映画を学ぶことができたという、恵まれた環境にあったとしても、この静寂の画面を絵画芸術にまで高めた感性は、何と言うべきか。
 私たちは、この作品で、ピロスマニの絵と、シェンゲラヤの絵の二つを見ることができたのだ・・・。

 私は、しばらく椅子から立ち上がれなかった。
 若き日に見た時とは、また違った様々な思いが飛び交っていて、どうまとめていいのかもわからなかった。
 ただ言えることは、今回見に来て良かったということと、その自分なりの理解の仕方は変わったとしても、私の映画ベスト5の一つであることに変わりはないということだった。

 実は、昨日の夕方6時過ぎに、この辺りまで書いていたのだけれども、いつものようにその下書きのままの原稿を、一時保存しておくべくクリックしたのだけれども、普通はそれで下書き保存され、後で読み直し訂正して、いつもの夜の10時前後の投稿終了になるのだけれども、何と昨日は、ネットにつながりませんと表示が出て、最初の投稿保存のところからさらに3倍ほどの量を書き続けていたのに、その部分が瞬時に消えてしまったのだ。
 ぼう然自失。
 あわててあちこちクリックしてみても、もうすべては後の祭り。いかに泣きわめこうが事態はもう元には戻らない。
 前にも何度かあったことだし、消えたものはもう戻ってくることはないと、自分に言い聞かせて、もう今日は記事を書かずに終わりにしようと、きっぱりあきらめたのだ。

 考えてみれば、昨日の首都圏の雪で、スマホ、パソコン連絡が行き交い、田舎の遅い回線は後回しになって、つながりにくくなっていたのだろう。
 しかし、そのために、もう一日『ピロスマニ』について考え直すことができて、さらにより確かにまとめることができるのだから、その上に、こうして書いていることが、年寄りには良い認知症予防にもなるのだからと言い聞かせ、すべてを良い方向に解釈して、ゆっくり夕食をとり、のんびりとテレビでAKBの録画を見たのだ。あーソレソレと。物事は、なるようにしかならないものなのだ。

 まだ他の映画について、テレビ番組のいくつかについてとか、書いておきたいこともあったのだが、年寄りの私にはこのあたりが限界なのだ、次週に回すことにしよう。
 
 昨日は、まだ小雪がちらつく程度だったのに、今日は強い北西の風が吹きつけて積雪10cmほど、気温は朝の-5度からほとんど上がらず、マイナスのままの真冬日になってしまった。
 さあ明日は、二日もかかったこのブログ書きも終わったことだし、家の周りの雪かきをしてしまおう。

 (参考文献:『放浪の画家 ニコ・ピロスマニ』 はらだ たけひで 冨山房、映画『放浪の画家 ニコ・ピロスマニ』 パンフレット)
 
  


眼前にある光景

2016-01-11 23:00:54 | Weblog



 1月11日

 曇り空の日には、さすがに最高気温でも5度くらいまでしか上がらず、少しは寒く感じるけれども、晴れた日には10度を超える暖かさになり、小春日和(こはるびより)のように、陽だまりが心地よい一日になる。
 冬の間は雪の降る日も多く、東京よりははるかに寒く感じる、この九州の北部山間地では、まだ”寒の内(かんのうち)”の1月のさなかだというのに、その後も相変わらずの暖冬のままに、雪の降らない穏やかな日々が続いているのだ。

 そして、このような日々が続けば、人は誰でも、こうした日々の気象の変化にさえ慣れていき、この冬の暖かさを、いつもの冬だと思うようになるのかもしれない。
 前回取り上げた”慣れる”ということは、あくまでも私自身の、苦境に陥った時の、極めて消極的な対処法に過ぎないのだが、実際、今ここにこうして”ぐうたらに”生きていられることは、今までの苦しみ苦難を、人生の様々な”通過儀礼(つうかぎれい)”の一つとしてとらえ対処しては、そうした境遇に慣れていったからだと思ってはいるのだが。
 もっとも、いつもそうしたことは、時間の経過とともに、後になってそうだったのだと、つまり、いつしか慣れてしまっていたのだと気がつくだけのことなのだが。

 ともかく、命にかかわるほどの大けがでない限り、傷は癒(い)えるものなのだ。
 自分の体が、ひとりでに時間をかけて癒(いや)してくれるものなのだ。
 ”心の傷”がいつまでも治らないのは、さらにそれ以上に悪化する場合さえあるのは、自分で実際以上に深く考えすぎ悩みすぎているからなのだ。
 時間の助けを借りて、”忘れること”、それにしくはない。
 悲しいことを思い返すよりは、誰にでも自分の人生には楽しい思い出が幾つかはあったはずなのだから、そんな良き時代の良き思い出の一つでも、あらためて思い出してみたいものだ。

 私の場合、そんな良き思い出は、数十年に渡って続いている、その年ごとに行った幾つかの山歩きの記録と写真に重なっている。
 例えば、もう十数年以上も前のことだが、まだ北陸新幹線がなかったころ、東京から長野新幹線に特急電車と乗り継いで(車窓から見える山々の眺めを楽しむこともできたが)、富山に着いてそこで一泊して、翌日富山電鉄バスと乗り継いで折立(おりたて)登山口まで行き、そこから太郎兵衛平に登り、下ってやや増水していた黒部川奥の廊下沿いの道をたどって(途中誰にも会わなかったが)、ようやく高天原(たかまがはら)の山小屋に着いて、歩いて10分ほどの秘湯、高天原温泉にも入ることができた。その時も、広い湯船に一人だけだった。
 翌日、四方を薬師岳、黒部五郎岳、鷲羽岳、水晶岳に囲まれた、ほとんど人のいない雲の平の周遊を楽しんだのだが、その時の写真を見ていて、ふと思い出したのだ。
 それは、犬塚勉の描いた「縦走路」と題された、一枚の絵である。

 

 この絵を、雑誌か何かで初めて見た時には、てっきり写真だと思ったくらいに、細密具象画としての完成度が高くて、それもそうして描くことが目的ではなく、一瞬の時をとらえた山上光景だということに気づいて、しばらく見入ったほどだった。
 これは、もちろん言い過ぎになるだろうけれども、背景の雲の多い空は、あのフェルメールの「デルフトの光景」の移り行く雲の描写さえ思わせたのだ。
 変わりやすい天気の雲を描くことによって、移り行く時を、その時の一瞬を閉じ込めたこと。
 あのデルフトの家並みと係留されたいくつもの船、立ち話をする人々などをすべて詳細に描くことで、よりその時の現実の光景が写し取られているように。
 同じように、周りの雲が山上に上がってくる正午に近い時間帯の風景を、背後のややかすんだ山と、縦走路の細かい岩礫(がんれき)の一つ一つを詳細に描くことで、よりその時に見た光景に近づけて、現実のある瞬間だけを、自分の印象として封じ込めたのだ。
 
 山に登っている人なら、誰もがわかるような、ある登山道での風景なのだ。やがてはガスに包まれるかもしれないという、幾らかの不安を感じつつ、目的の山小屋はもう近いのだからという安心感もあって、歩き続けている・・・。
 何という、微細に描かれた風景画だろうと思うよりは、それ以上に、何と登山者の心を描いた絵だろうと思ってしまうのだ。
 さらにある、この展覧会パンフレットのコメントには、(南アルプス)北岳付近とあり、あの二重山稜になった北岳山荘付近の光景かとも思ったのだが、初めて見た時に、私の記憶の中から浮かんできたのは、あの雲の平への道だったのだ。

 他にも、北アルプスの縦走路の幾つもが目に浮かぶ。
 折立から登った太郎兵衛平付近、蝶ヶ岳付近の二重山稜や大天井岳や裏銀座の野口五郎岳付近、後立山の天狗山荘付近など、北海道で言えばトムラウシ山が近づいた北沼手前の付近、十石峠から音更山に向かう途中の展望の良い砂礫地など、思い出しあげていけばきりがない。
 つまり、森林限界を超えた高山帯の縦走路なら、どこにでもありそうな所、それは展望ポイントや休憩地点としてよく知られていて、それまでに写真に撮られたりしたことがあるような場所ではなく、誰もがそのまま通り過ぎるような、ありふれた登山道の一地点に過ぎないということ。
 それだからこそ、登山者の展望を待ち望む時の視覚だけに頼らない、その時に歩いていた登山者の感覚が伝わるのではないのか・・・。
 
 さらに、このパンフレットの最初には、彼のもっとも良く知られている絵が載っている。
 「梅雨の晴れ間」1986年。
 (冒頭写真、以上二点、高崎市美術館 『犬塚勉展 永遠の光 一瞬の風』パンフレットより)

 林の中へと入って行く、古い林道跡のような細い道。
 車のわだち跡の片側だけが、人々の通う山道として使われているのだろうか。
 初夏の朝、まだ少し涼しい空気の残る中、緑一色の草の中、手前には、ハルジョオンらしき野草の花が咲いている。
 どこにでもありそうな、里山の光景か、あるいは、山頂へと登るべく向かう登山口の光景なのか。
 思わず道をたどって、林の中へと入って行きたいような、眼前にある光景なのだ。

 というふうに、この二点の絵を自己流に解釈してみた。
 私は、世界の絵画について、特に抽象画については、十分に理解するだけの鑑識能力はないし、ただ誰でもすぐに絵画だとわかる具象画だけのファンでしかないのだが、そのなかでも、今まで何度もこのブログで触れてきたように、昔からのフェルメールの絵のファンであり(若き日のヨーロッパ旅行は、フェルメールの絵を見ることが一つの目的でもあったくらいで)、それも一次元でしかない平面の絵を、二次元三次元的に陰影の中でとらえた上に、四次元の時間までも、そこに今あるものとして封じ込めた、フェルメールの画家としての才能に心酔しているのだが、この犬塚博の絵にも何か近しいものを感じているのだ。
 まだ実際には、目の前で見たことがないだけに、もし彼の美術展があるならば、なんとかして行きたいと思っているのだが。
 先日、他のことでネットを調べていて、何と先月から、群馬県高崎市の美術館で”犬塚勉展”が開かれていたことを知ったのだ。それも今月いっぱいの期限しかなくて。

 前から知っていれば、北海道から戻る途中に、東京に寄って、一日かけて高崎に行って見ることもできたのに。
 しかし考えてみれば、私はもう長い間、東京には泊まっていないのだ。
 ビジネスホテルでも宿代が高いうえに、何より部屋がとれないことが多いのだ、外人観光客が増えたのが大きな要因だろうが。
 それならば、今行くかと考えてみても、宿は東京に泊まらず高崎周辺に泊まればいいのだが、往復の飛行機代などの多大な交通費をかけても行くべきかと、決心がつかない。

 それはまさに、優柔不断な私の一面を表すものであり、例えば私は長年にわたって、あのヨーロッパ・アルプスのトレッキング再訪の旅に出かけたいと思ってはいるのだが、お金はともかく(自分の墓石代金を取り崩してでも行くべきだし)、ただいろいろと出発前後滞在中の細かい手続きなどを考えていると、もうこの年寄りとしては、行く前からうんざりしてしまうのだ。
 わずか数日の国内遠征の山旅の計画とその実行でさえ、やっとのことで何とかここまでやってきたのに、外国となればさらにと、その思いもなえてしまうのだ。
 苦労した分、その旅を実行して得た果実が大きいことはわかってはいるのだが。

 この冬、他にも実行に移したい旅が二つもある。
 去年の冬は、とうとうどこにも行かなかった。一昨年の冬の蔵王があれほど素晴らしかったのに。(’14.3.3,10の項参照)
 この、”ぐうたら”じじいのこと、果たしてどうなることやら。

 前回、暮れから年始にかけて見たテレビ番組についてあれこれ書いたのだが、さらに書き足りなかった番組について、幾つか書き足しておく。
 まず、先月半ばにNHKで放映された『絶景アルプスを飛ぶ~パラグライダー・レース』だが、先にヨーロッパ・アルプスについて書いたのは、この番組を見て、やはりもう一度行って見たいと思ったからでもある。
 上空からの撮影(おそらくはドローンによるものだろうが)、青空と白雪のアルプスの峻峰たち、マッターホルンやモンブランが迫ってきて、もう居ても立っても居られない気持ちになるのだ。
 動力を一切使わずに、パラグライダーと自分の足によるマラソンだけで、東から西にアルプスを縦断するというレースは、まさに過酷そのものの争いなのだが、やはり私にはいつも背景にある山の風景が気になっていた。 
 
 そして、これは日本のドキュメンタリー番組だが、NHKの『ドキュメント72時間』。
 同じ場所に3日間カメラを置いて、そこに来る人々にインタビューしていくという、まさに社会学的な定点観測番組であり、その時々のテーマで当たりはずれがあり、多くの編集作業や削除事項が必要だとしても、ドキュメンタリーの本質を突いたなかなかに見ごたえのある番組だと思う。
 今回は、一年間放送されたものの中からのアンコール・ベスト9であり、4時間を超える放送で、その中には見たものもあり、早送りで飛ばし見ただけのものもあるが、今の日本のある断面から見た社会の声として見れば、なるほどと思うものばかりだった。
 
 さらにこれも、1月9日のNHKの対談番組『SWITCHインタビュー達人達』だが、あの104歳になる病院医師の日野原重明さんと、103歳の現役の書道美術家である篠田桃紅(とうこう)さんによるもので、”207歳の奇跡の対談”といううたい文句ほどの見世物的なものではなく、(ただ桃紅さんのバセドー氏病によるという大きなのどの腫れがあまりにも痛々しかったが)、お二人の話に、よどみや言い間違いなどもなく、きわめてはっきりと普通の会話として聞くことができた。
 興味深かったのは、お二人がここまで長生きできたのは、日野原さんがビジョンを持ち使命感を持つことだと言ったのに対して、一方の桃紅さんが、今日のことだけを考えて後は気にしないで生きていることだと答えたことだ。
 もっとも、それらは相反するようだが、実はお二人ともそろって、強い好奇心と信念を持っているということになるのだろう。 
 それなのに、昨日のニュースで、一月ほど前に介護老人ホームに入居したばかりの、93歳同い年の老夫婦の、夫のほうが妻の首を絞めて殺したとのこと・・・様々な事情があってのことなのだろうが、余りにも痛ましい。

 次は1月2日の新年特別番組で、『ブラタモリ×鶴瓶の家族に乾杯 (大河ドラマ)真田丸』三本合わせたような構成になっていて、『真田丸』の主人公真田幸村を演じる堺雅人は、この二人の番組にそれぞれ参加するという形での出演だったのだが、もちろん『ブラタモリ』はここでも何度も取り上げているようにいつも楽しみに見ているし、今回も地質地形学から見た真田幸村の築城の仕方というテーマが何より興味深かったし、いつも同行している、この番組の”ぼけ役”アシスタントでもあるNHKアナウンサーの桑子真帆アナウンサーが、途中で地元のおばさんたちから、「真帆ちゃん、きれいになったね」と声かけられていたのだが、それは彼女が新人時代に長野放送局に配置されていたからだと、その時になって初めて知ったのだ。
 何を隠そう、実はこのおじさんも、7時のニュースにも出ている桑子真帆アナウンサーの隠れファンなのだ。てへー。
 AKBだったり乃木坂だったり、真帆ちゃんだったり。これが年寄りのほのかな思いの楽しみなのだ。
 もちろん、NHKのもう一つの人気番組である『鶴瓶の家族に乾杯』も、さすがに”天真爛漫”な親しみやすい大阪のおっちゃん丸出しで、いつものように楽しめたのだが、この特別番組を見たために、つい昨日の『真田丸』第1回目さえも見てしまったのだ。
 
 そして昨日のいつもの『AKB48SHOW』は、大晦日の紅白特集だったのだが、やはり卒業する”たかみな”高橋みなみだけには知らせずに、卒業生のエースの二人、”あっちゃん”前田敦子と”ゆうこ”大島優子が、それぞれのセンター曲で、”サプライズ”出演したのは、もちろんそのことを知らなかった私たち視聴者を含めて、やはり何度見ても楽しい”ドッキリ”仕立てだったのだ。 

 はい正直に言えば、私にとって、AKBは今では、山登りに並ぶ私の大きな趣味の一つとなっておりまして・・・ただテレビで観て聴いて、ネット情報でいろいろと知るだけで、別に生で見たい聞きたいなどとは全く思わないのですが。
 そういえば先日、そのネットの情報サイトの書き込みに「AKB以外のお前たちの趣味を教えろ」という書き込みがあって、何人もの”AKBオタ(オタク)”たちが、その質問にまじめに(中にはふざけて)答えていたが、その中には、少数ながら登山やクラッシック音楽、ジャズ、絵画、読書というものもあったのだが、多かったのはスポーツ観戦(野球、サッカーなど)と、競馬であり、そしてAKBだけというのもあって、ある意味気にはなったけれども。
 まあAKBファンは、ひとくくりには、まとめられないのだろうが。
 
 それにしても、ここで初めて、私はAKBのファンでいることが趣味なのだと教えられたのだ。いつまで続くかはわからない趣味だけれども。
 前に書いた、AKBのCD発売日を待っていると言った、あの北海道の70幾つかになるというおじいちゃんは、まだAKBのCDを買っているのだろうか。 

 
  


慣れていくこと

2016-01-04 22:34:12 | Weblog



 1月4日

 前回書いたように、、暖冬気味のこの冬の暖かさは、年が明けてもまだ続いている。
 確かに、寒い時には、朝-5度くらいにまで冷え込むこともあったのだが、その寒さはすぐにゆるんで、最低気温でもプラスになり、日中には10度を楽に超えてしまう暖かさになっているのだ。
 それは、秋の終わりか、あるいは春先のころの気温である。
 写真は数日前に、いつもの1時間以上かかる散歩(というよりロング・ウォーキング)に出かけた時に撮ったものだが、青空に浮かぶ筋雲を見ていると、紅葉が終わった後の晩秋の風景か、あるいは新緑の前の春先の風景と少しも変わらないように思えるし、それに吹く風の何という心地よさ・・・。

 いつも言うように、古くて寒い家に住む年寄りにとっては、もちろんこの暖かさがありがたいのだが、一方では冬の雪景色が好きな、山岳鑑賞を趣味にしているこのじじいにとっては、余りありがいことではない。
 雪が降ったのは、もう3週間も前の話で、その時に山に登ったきりで(’15.12.21の項参照)、ライブ・カメラで見る九重山牧ノ戸峠の駐車場付近の光景も、正月休みでクルマがいっぱいなうえに、どこにも白い雪景色が見えず、ただの冬枯れの山があるだけで、とても行く気にはならない。
 ということで、いやそうでなくても、稀代(きだい)の”なまけもの”であり、”でぶしょう”な(出不精でありデブ症でもある)私は、暮れから正月にかけては、家の周りの散歩以外に外に出ることはなかった。

 負け惜しみでもなく強がりでもないのだが、それで、寂しくもなく、退屈することもなかった。
 今まで、例えばあの北海道は日高山脈の山の中で、誰に会うこともなく、たった一人で二日三日と過ごしたことがあるが、その時でさえ寂しいと思ったことはなかったし、下山してようやくクルマを停めている登山口に戻って来た時に思ったのは、不便な山から人里に帰ってきたというよりは、ようやくヒグマの心配をしないですむ所に戻って来た、という安堵感のほうが大きかったくらいなのだ。
 だから、この一週間は、ましてそんな不便な山の中に閉じこもっていたわけでもないし、食べるものは十分にあり、普通に生活できる環境はととのっていて、読むべき本や雑誌は周りにあり、見たい時にすぐに見ることのできるテレビやビデオがあり、パソコンでいつもの山の写真を見たり、ネット情報を調べて回る楽しみもあり、何も困ることはなかったのだ。

 つまりは、ひとりならば、すべて他の人たちのやっていることに合わせてやっていく必要もないのだということ。
 それでも、社会の中に生きる一人としては、普通の社会規範の中にあることを忘れずに、自分だけの小さな楽しみを見つけて、生きていくことができれば、それだけでも十分にありがたいことなのだ。
 そんな、自分だけの”神の固き砦(とりで)”にいられるようにするには、周りのすべてのことに、”慣れてしまう”ことだ。
 強い苦しみや悲しみの中にある時はもとよりのこと、逆に大きなきな喜びや幸運のさなかにある時ですら、それがすぐに過ぎ去るものだということにも、”慣れ”ておく必要があるのだ。
 つまり、”慣れる”ことは、苦しみや悲しみを時間とともに和(やわ)らげてくれ、あるいは備えとしても和らげてくれる、自分だけでできる唯一の同化方法なのだ。

 そこで思い出したのは、あの誰もが知っている、サン=テクジュペリの『星の王子さま』の一節である。

 「・・・ キツネが現れたのは、そんなときだった。
 「こんにちは」キツネが言った。
 「こんにちは」王子さまはていねいにあいさつして、ふりむいた。だがなにも見えない。
 「ここだよ」 声だけがする。「リンゴの木の下」
 「きみ、誰?」王子さまは聞いた。「きれいだね、きみ・・・」
 「キツネだよ」キツネが言った。
 「おいで、ぼくと遊ぼう」王子さまは声をかけた。「ぼく、今すごく悲しいんだ・・・」
 「きみとは遊べない」キツネが言った。「なついていないから」
 ・・・。

(『星の王子さま』 サン=テクジュペリ 河野万里子訳 新潮文庫)

 ここにあげた文章の末尾、「なついていないから」という訳語は、フランス語から英語訳では”tame"だが、日本語訳の場合、他にも様々に訳されていて、「飼い慣らされていないから」とか、あるいは「慣れていないから」と訳されている場合もあり、いずれの訳も間違いではないのだろうし、私が今問題にしている自ら”慣れる”という言葉の意味には、それぞれに近いものを感じるのだ。
 それは、両方の側から見て、親しくなつくことであり、親しく飼い慣らされることであり、親しく慣れていることだからでもある。
 
 さらに、ここでキツネは、王子さまからの”なつく”ってどういう意味かと尋ねられて、答えるのだ。

 「・・・それはね、”絆(きずな)を結ぶ”ということだよ・・・」

(同上。これは、他にも”つながりを持ったり絆を結んだり”と訳されている場合もあり、英語訳では、”to create ties or form a bond"とある。) 
 
 つまりここで、私が問題にしてきて、自分に言い聞かせたかったこととは、起きている出来事に対して、それが良かろうと悪かろうと、よく理解して、”慣れていくこと”が必要ではないかということだ。 
 
 ところで私は、北海道では、自分の家の周りだけでなく、山の中でもたびたびキタキツネに出会っている。
 その中で、特に印象的だったのは、今から15年も前のことだが、すべてが雪に覆われた10月下旬の、初冬の十勝岳(2077m)で、この日は他に登山者もなく 私一人だけだったのだが、向こうから歩いてきたキタキツネにばったりと出会ったことである。
 ボロボロにすり切れた夏毛ではなく、ふさふさとした冬毛に覆われたきれいなキタキツネだった。
 私たちはお互いに対峙(たいじ)して見つめ合った。私は、持ってきていた食料の少しを取り出して、キタキツネにエサをやるつもりはなかった。
 彼も私を見て、そうもの欲しそうではなかった。四足で立ってこちらを見ている彼の姿からは、この大自然の中で生きているのだという、ゆるぎない信念のようなものさえ感じた。(写真下)
 


 私は、まだ長い距離が残る頂上への雪の斜面を登って行った。
 キタキツネは、その私が通った道と交差するように、山腹の斜面を横切って行った。

 このまま、雪氷に覆われたこの日の十勝岳登山について書いてみたい気もするが、とまれ、始めは、年末からこの正月にかけて読んだり見たりした、雑誌やテレビことについて書いていこうと思っていたのに、”星の王子さま”から十勝岳のキタキツネへと話がそれてしまったのだ。話を元に戻そう。

 まずは、いつものように暮れに買ってきていた、3冊の1月号の雑誌のことだが、いずれもその付録目当てに、一年のうちのこの新年号だけを買っているだけで、毎月買うほどの熱心な読み手でもない。
 『レコード芸術』 は、若いころからずっと毎月買っていた雑誌なのだが、10年ほど前から、それほどクラッシック音楽ニュースにこだわらなくなり、ただ毎年発表されるクラッシック音楽の”レコード・アカデミー賞”だけは知りたいし、さらには年間クラッシックCD発売のカタログとしての、別冊付録”レコード・イヤーブック”がついてくるので、それ欲しさに新年号だけは買っているようなものだが、しかし今回”レコード・アカデミー賞”の本文を読んではみても、もうどうしても欲しいと思うほどのCDは見当たらなかった。

 それもそのはずで、毎年購入していたCDが少しづつ減ってきていて、とうとう今年は春先に買った昔の録音のセットもの一点と、新しい録音の一枚だけになってしまったのだ。
 それは、クラッシック音楽への興味が薄れてきたというよりは、もう今ではおそらくは1000枚近いCDコレクションがあるし(それと同じくらいのレコードもあるし)、それはもう、死ぬまでにそれらの全部を聴きなおすことができないほどの数だし、もうこれ以上買う必要もないのだ。
 むしろ逆に、これらのCDレコードの整理”終活”を考える時期に来ているのだろうとさえ思ってしまう。

 次は『山と渓谷』で、これもまたその付録”山の便利帳”が欲しいからであり、特にこの厚い冊子の大半を占める、ルート時間図と日本のすべての山小屋詳細案内は、私たち登山愛好家には欠くべからず情報だともいえる。
 新年号本誌のほうの特集記事は、”わたしの好きな山”であり、まあ読者層からして毎年同じような内容にしかならないのだが、むしろ年間を通じて時々興味ある特集が組まれることもあり、この時以外にも二三回買うこともあるくらいだ。

 そして最後に『アサヒカメラ』だが、これも付録の岩合光昭氏による”猫にまた旅”カレンダーが欲しくて買ってしまうのだ。
 この岩合光昭氏によるNHK・BSでの『世界のネコ歩き』は、いつも楽しみにしている番組だが、それとは別に、こうして本来の写真家である岩合氏の作品を見るのも楽しいし、ワンショットにおさめた猫たちの姿と、その背景にある場所の表現にはいつも感心させられる。
 今回のカレンダーでは、表紙の背景の戸棚の前に座る黒猫もいいが、スナップ・ショットとしての3月の項の一枚、羊と猫と農家のおばさんの視線空間。さらに静物画としての7月の項の一枚、古い開拓時代の家のベランダで横になり、こちらを見ているトラ縞の猫。
 はい、生きているということは、こうしたいいものを見せてもらうということなのです。
 
 次に、去年の暮れからこの正月の一週間に見たテレビ番組から。
 12月28日、地デジNHK『プレシャスブルー”美しきハンター、シャチとの交流”』 。
 私は言うまでもなく、数十年にも及ぶ根っからの登山愛好家であり、海派と山派に分ければ、その少数派である山派であることに間違いはないのだが、そんな私が、思わずこの海のドキュメンタリー映像に引き込まれてしまったのだ。
 私は、実は泳ぎが得意であり、あまり波の高くない海ならば何キロでも泳ぐことができるほどであり、毎年海が好きだった母を連れて、夏だけでなく他の季節にも近くの海辺に行っていたのだが、十数年前に母を亡くしてからは、すっかり海からも足が遠のいているのだ。
 そうして。相変わらず山だけには登っているのに、こうした番組を見ると、もう一つの大自然である海はやはり素晴らしい、と思わせる1時間15分ほどの番組だった。
 
 酸素ボンベなしで6分間も潜っていられる、というだけでも驚異的なことだが、その上に水平潜水距離の世界記録を持っているという女性ダイバーの彼女は、海の生態系の頂点に立つシャチにひかれ始めて、どうしても一緒に泳ぎたいと思っていたのだが、そんなシャチの群れを識別観察している女性海洋学者がニュージーランドにいると聞いて、彼女はやってきたのだ。
 私たちが映像などで知っている”海のギャング”シャチは、サメに至るまでのすべての魚を食い荒らし、浜辺で横になっているアシカやアザラシでさえ襲って食べるという凶暴さだけが印象に残っているのだが、一方では、群れで行動している彼らは家族間の絆が強く、その群れの皆で狩りをして獲物を追い込んでいく様子からは、高度に知能的な集団としての姿も見えてくるのだ。
 外洋を渡り歩く群れほど、その凶暴性が強く、人間のダイバーが近づくのは危険だということで、この女性海洋学者の研究対象でもあり、地元のニュージーランド北島沿岸を周遊していて、今まで何度も触れ合ってきた実績があり、安全だろうとの判断で、彼女は、その特定のシャチの群れに近づき、初めて相手の目を見ながら一緒に泳いだのだ。
 青い海の中で泳ぐ彼女と大きなシャチの姿、彼女の夢がかなった美しい一瞬だった。

 30日、TBSの『レコード大賞』。やけど跡が治りきっていない”ぱるる”島崎遥香も出演して、皆と一緒に必死に踊っていた、AKBの『僕たちは戦わない』は、2連覇を成し遂げた"三代目J Soul Brothers"の前に今年も破れ、”たかみな”高橋みなみ卒業のはなむけ受賞にはならなかったのだが、まあそれなりに、この業界にも、裏事情がいろいろあるのだろうとは思うのだが。
 (今では国民のだれもが知っているであろう、AKBを代表する名曲の「恋するフォーチュンクッキー」が、2年前にもなぜ”レコード大賞”をとれなかったのか・・・。)

 翌31日のNHK紅白。期待していた乃木坂46の「君の名は希望」 は悪くはなかったのだが、ただしショート・バージョンで歌われていて、この歌の良さは全体の歌詞にあり、それが大半カットされていては、とうていあの歌の本当の良さは伝わらないだろうにと思えたのだが・・・。
 そして朝ドラ主題歌の、例の「365日の紙飛行機」は、リードボーカルの”さやねえ”山本彩とNMBメンバーによる単独チームの形で歌われていて、AKBはメドレーとしてAKBを代表する曲でもある「フライング・ゲット」「ヘビーローテーション」「恋するフォーチュンクッキー」を歌うことになったのだが、”びっくりぽん”の”サプライズ”として、冒頭から当時の絶対エースだった卒業生の”あっちゃん”前田敦子が現れ、さらに次には「ヘビロテ」のセンターであり今は卒業生の”ゆうこ”大島優子が飛び出してきて、最後は今年で二人と同じように総選挙二回目の1位になった現役の”さっしー”指原莉乃がセンターになって、卒業する”たかみな”を囲んで、みんなで「フォーチュンクッキー」を歌っていて、その4人が並んだ姿は、AKBファンにとってはまさにお宝ものの、感動的なシーンだった。
 これからも1年に1回くらい、こうした卒業OGと現役とが一緒になって歌うようなコンサートをやってもらえないだろうか。
 何よりも、舞台で踊る卒業生の”あっちゃん””ゆうこ”の楽しそうな笑顔と、その二人によって、さらに華やかになったその舞台・・・。

 その後の深夜枠での、年明けのTBSの生放送『カウントダウンTV』では、その”たかみな”が抜けた後のAKBと、その他のSKE,NMB,HKTそして乃木坂46のメンバーたちがが元気に歌っていた。
 人々が案ずる間もなく、時は流れゆき、新しい年になり、また新しい道が作られていくのだろう。

 そして、2日と3日のCS無料放送で、何と若き日によく聞いていた”プログレッシブ・ロック”界の、有名グループであるあの”ジェスロ・タル”と”イエス”による8年ほど前のライブ演奏が放映されたのだ。
 彼らが全盛期のころから、もう40年近くもたっているし、メンバーもそれぞれに年老いて、しかし元気なおじさんたちのままであったのだが・・・。
 ”ジェスロ・タル”のイアン・アンダーソンのフルートは、相変わらずの変幻自在で、その昔最初に聞いてひかれた、あのJ・S・バッハ の「リュート組曲ホ短調 ブーレ」からの編曲による演奏が素晴らしかった。
 さらに、それまでに再結成を繰り返していた”イエス”の、これが最後のオリジナル・メンバーによる演奏だったのかと思うとなおさらのことだし、まして特徴的なハスキー・ボイスのジョン・アンダーソンの声は、今も変わらずに確かに”イエス”そのものだったのだ。
 この両者については、いまだに手元に残しているレコードがあるくらいで、書きたいこともいろいろとあるのだが、しょせん年寄りの昔話になってしまう。

 ただし、私たちは、まさにロック・ミュージックの百花繚乱(ひゃっかりょうらん)という良い時代に遭遇(そうぐう)し、それらのさまざまな演奏スタイルを比べ合い楽しむことができたのだと、今になってありがたく思うし、そうしたプログレッシブ・ロックからジャズそしてクラッシックへとつながっていく、当時の音楽シーンの幾つにも出会えたこと自体が、つくづく幸せなことだったのだ。
 去年夏の、あの鹿島槍・五竜の山旅で、ある若者と出会い、こうしたロック・ミュージック全盛の時代の話になって、二人で盛り上がったことを思い出した。(’15.8.10の項参照)
 ものを知っているということは、ものを経験しているということは、また一方では、それだけの時間と失ったものも大きいという場合があるのかもしれないが、入り口にも入ろうとしないで何もしなかったことよりは、少しでも近寄って垣間(かいま)見ることができたからこそ、得られたものも多くあり、後になって初めて、それが自分の音楽観や人生観の成長のために、いかに必要なものだったことかと気づくものなのだろう。

 年寄りになっていくのは、そう悪いことではない。どこかのキャラメルの宣伝文句ではないけれど、一粒(ひとつぶ)で二度、いや三度でも、おいしく味わえるものなのだろう。昔のことだからこそ・・・。
 長く生きていればいるほど。それが生きることの、一つの意味になるのかもしれないのだが。