ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

青空、残雪、花(1)

2014-06-30 21:58:57 | Weblog



 6月30日

 数日前に、山に行ってきた。
 前回の登山からは、何と一カ月以上も間が空いてしまった。
 北海道の初夏は、山登りには一番いい季節であり、今の時期にこそ、もっと山に何度も行くべきなのに。
 しかし、そうして山に登ったのに、そこでは、毎日を平易にぐうたらに過ごしてきたことの、相応の代償を支払うことになり、思い知らされることになったのだが。

 それまで、ぐずついた天気の日が続いていたが、ようやく天気予報で、3日続いてのお日様マークが並んでいた。
 ずいぶん前に登っていて、もう一度は行きたいと思っている山が二つ三つはあるのだが、遠すぎて日にちがかかるし、あるいは歩く距離が長すぎて、ひざのけががようやく治ったばかりの私には、とてもそんな山に行く決心がつかなかった。
 どこに行くか、そういうと時にこそ、私を優しく迎え入れてくれる山がある。

 北海道の中央部に、一際目立つ高みとなってそびえる山々、大雪山・・・その広大な山域には、主な登山口だけでも8か所はあり、それぞれの季節ごとに、初心者から上級者まで、変化に富んだコースを歩いては、様々な山の姿を楽しむ事ができるし、まさに北海道の登山愛好家たちのなくてはならぬホーム・グラウンドである。

 私は、もともと日高山脈の山々にあこがれて、その山々が見える十勝平野へと移住してきたのだが、確かにまだ若くて元気なころには、その日高山脈の冬山に挑み、残雪期のテント装備縦走に、夏の沢登りにと、単独行による自由なワンダーリング(逍遥 しょうよう)の山旅を味わっていたのだが、こうして次第に年を取ってきて、もう無理な事ができなくなってくると、少しずつ日高山脈の山々からは足が遠のくようになってきていた。
 その分、アプローチも便利で、短時間で登ることができて、なおかつ日高山脈以上に明るい高山環境を併せ持った、大雪山の方へと足が向くようになるのは、年寄りとしては、まあ当然のなりゆきだったとも言えるだろう。

 さらに最近では、年寄りのものぐさ病から、山に行く回数さえもが大幅に減ってきていて、なんとか月一度の山行を続けなければと思うほどになってきているのだ。
 ただし、この時期に登った時の写真を見たり、ブログ・レポート(有名なのは『イトナンリルゥ』)などで、今の山の姿を見たりすると、そこはもともと山好きなおやじのこと、林の穴ぐらからのこのこ出てきては、山を目指すことになるのだ。
 この大雪山へは、厳冬期を除いて、それぞれの登山口から合わせて数十回は入っているだろうが、その度ごとにいつも同じ景色を見ることになり、またかとも思うのだが、それでも実際に行けば、やはり大雪山の山のよさを味わい知ることになり、満足して山から帰ってくることになるのだ。 

 大雪のどこに行くかと考えて、まずけがしたばかりのヒザの心配があり、久しぶりの山行での体力の心配、さらには夏の内地遠征の山旅に備えての訓練も兼ねてということで、山小屋どまりの山行にすることにした。
 大雪の稜線上には、四つの山小屋があり、そのうちの二つは夏季には管理人のいる 素泊まり小屋であり、あとの二つは避難小屋である。
 このうち最もよく泊まっているのが、白雲岳避難小屋である。
 管理人のいる夏や秋に、そしてまだ管理人のいない残雪期や初冬のころにと、今まで十数回はお世話になっている。
 そして、トムラウシなどを目指して大雪山を縦走する人たちは、まずは表側の旭岳温泉口を出発点にする場合が最も多く、次に裏側の層雲峡側から上がる黒岳経由のコースもあり、いずれにしてもこの小屋までは軽い一日行程になるし、さらには交通の便は悪くなるが(自分のクルマで行くことができれば問題ないが)、銀泉台や高原温泉口から入れば、もっと近くて4時間ほどで着くことができる。

 もちろん、周りの緑岳、赤岳、北海岳、白雲岳などを登った後小屋に寄っても、日帰り往復できる距離にあるのだが、まずはのんびりと山を楽しみたい時には、そして周りの高山植物の花たちや秋の紅葉を眺めながら散策したい時には、まさにうってつけの拠点になる小屋だといえるだろう。 
 つまり幾つかの心配を抱えて、かつ次の山行の準備もしたい私には、まず最初に思いつく山小屋でもあるのだ。
 
 朝早く家を出たのだけれど、途中でコンビニやスタンドなどに寄ったうえに、最初目指した銀泉台への道はまだ冬期間閉鎖のままで、仕方なく戻って高原温泉に向かうことになり、登山口の駐車場に着いたのはもう7時にもなっていた。
 まだ夏山シーズンには早いために、クルマは十数台ほどがあるだけだった。
 そして、高原温泉の噴気孔を横目に見ながら、登りはじめたのだが、すぐの急坂で、なまった体がもう悲鳴をあげ始めた。
 脚が重い、息が苦しい。そのうえ、一泊装備のザック(15㎏)が重たすぎる。

 あえぎながらのろのろと登っていると、後ろから来た同年輩のおじさんが、あいさつしてはすたすたと私を抜き去って行った。 
 ザックは日帰り装備で、私よりははるかに小柄だから体も軽いだろうし、あの足取りは、おそらくは日ごろからよく山に登っているからだろうと思った。
 それに引きかえ、この私は最近だけでも3㎏近くも体重が増え、身長引く100の数式体重の値をはるかに超えてしまったメタボぶり。
 日ごろから食っちゃ寝の自堕落(じだらく)な生活で、足腰を鍛えることもなく、前を行く彼とは同じ年代でも、その差は歴然としていた。
 さらに、言い訳その二として、私は山を急いで登るために来たのではなく、周りの景色を眺め楽しむためにきたのであり、だから疲れないようにのんびりと歩いているのだと。

 そしてやっとのことで、展望が開けた見晴台に着いた。
 私は、重たいザックをおろし、汗をふきながら、小さなベンチに座った。
 あたりにはルリビタキのさえずりが聞こえ、目の前には、いつもの眺めが広がっている・・・新緑の高原温泉の盆地の上に、鮮やかな残雪をつけて、忠別岳(1963m)から高根ヶ原方面の山なみが見えていた。(写真上)
 今まで、何度も見てきた光景だが、実際にこうして目の前に対峙(たいじ)して見ると、その度ごとに何物にも代えがたい新鮮な感興が湧き上がってくる。

 青空いっぱいの光、遠近感そのままの眺め、さわやかに吹きつける風 、木々の匂い、鳥たちの声・・・今、そこにあるものの確かさ。
 そこに、自分がいるということだけで、満ち足りた思いになるということ。
 私は、あのジャン・ジャック・ルソー(1712~1778)の言葉の一節を思い出す。

「・・・魂が安立の地盤を見出して、そこに完全にいこい、そこにその全存在を集中することができて、過去を想起する必要もなく、未来に蚕食(さんしょく)する必要もない状態、現在が永久に持続しつつ、魂にとって時間が無に等しい状態・・・ただあるのは、我々の存在しているという感覚だけ、そして、この感覚が全存在を満たしうるような状態がつづくかぎり、そこに見いだされるものこそ、幸福と呼ばれうるのである。
 ・・・。
 この状態がつづくかぎり、人は自分だけで満ち足りうる。ちょうど、神と同じように。その他の一切の煩悩(ぼんのう)をなくした存在感覚は、それ自身、満足と平和の貴重な感覚で・・・。
 ・・・。
 それにしても、人間社会から削除された一人の不幸な男なら、もはやこの世では他人に対しても自分に対しても、有益なことも、善いこともなすことのできなくなった男なら、人間のあらゆる幸福に対する償いくらいは、せめてこの状態の中に見いだしてもよかろう。」

(『孤独な散歩者の夢想』ジャン・ジャック・ルソー 青柳瑞穂訳 新潮文庫)

 山登りの幸福感は、ひたすらな苦役(くえき)行動の後の、一気の解放感の中にあり、そうしてただ周りの光景に身を任せるそのひと時こそが、山登りの醍醐味(だいごみ)の一つなのかもしれない。

 しかし、その平和な状態は長くは続かないのだ。
 私は、再びザックを背にして、まだまだ先に続く山道を登り始めることになる。
 もう先ほどのような急坂ではなく、丸太で区切られた雪の残る道を上がって行くと、辺りが開けて広い雪田(せつでん)に出た。
 その雪田の果てには、いつもの緑岳(2020m)から小泉岳(2158m)に連なる山なみがあり(写真)、振り返り見ると、沢筋に残雪を刻んでニペソツ山から石狩連峰へと山々が続いている。



 この辺りの雪田が消えて、エゾコザクラやアオノツガザクラのお花畑が見られるようになるのは、まだ二カ月近くも先のことだろう。
 それにしても、この雪田や雪渓歩きほど楽しいものはない。
 勾配が急な所なら、アイゼンが必要になるのだが、この大雪山ではそうした危険な所は余りないし、残雪の涼しい冷気の上を、サクサクと靴音を立てて歩いて行くのは実に気持ちがいい。
 天気の良い日の、青空と残雪と緑色の山なみ・・・その絵葉書写真的な鮮やかな光景こそ、私の最も好きな自然の風景の一つなのだ。

 第一花園から第三花園まで続く雪田歩きの最後の所、緑岳が正面に大きく見える辺りでザックを下ろして休む。
 行きかう人もなく、はるか下の沢筋の方から、カッコーの声とウグイスの声が聞こえてくる。
 雪田を吹き抜ける風が涼しく、このままぼんやりと山を眺めていたかったが、気になるのは緑岳の上にまとまり始めた雲の塊である。 

 崖になったガレ場を上がり、背丈を超すくらいのハイマツやナナカマドの中の道を回り込んで行くと、高原温泉方面が開けて見え、足元には、濃い黄色のミヤマキンバイとレモン色のメアカンキンバイが隣り合って咲いていた。コマクサの花はまだ見えなかったが。
 さらに後ろから来た、私よりは若い人だが、小屋泊まり装備のザックの人にも抜かれてしまった。
 私はそこから少し上がった所、開けた急斜面の岩塊帯が始まる辺りで、岩の上に腰を下ろして休むことにした。先ほどの休みからまだ30分ほどしかたっていないのに。
 彼方には、いつものはるかに続く山々の眺め・・・高根ヶ原からトムラウシ山(2141m)へと続く溶岩台地の尾根が続き、その東側では急崖となって、まだ残雪に覆われた高原沼群が点在している。
 振り返り見上げる緑岳山頂の上には、相変わらず雲が広がっていた。

 私は立ち上がり、再びゆっくりと登り始めた。
 脚が張って疲れていたし、息つぎも苦しいし、背中のザックも重たく感じられて、一カ月以上ものブランクと日ごろの不摂生(ふせっせい)がたたっていることは明らかだった。
 上から小屋泊まりらしい大きなザックの人たちが、二人また二人と下りてきていた。
 私は何度も立ち止り、息を整えてはのろのろと登って行った。

 ただ足元には、所々に、白いイワウメとさわやかな薄黄色のメアカンキンバイの花々(写真下)が咲いていて、つらい登りを一瞬だけでも忘れさせてくれた。
 そして、さしもの大岩塊斜面がいつのまにかゆるやかになり、砂礫(されき)の道が出てくると、ジグザグに上がって緑岳の頂上に着く。誰もいなかった。
 何と、3時間のコースタイムの所を4時間もかかっている。その昔には、2時間たらずで登っていたこともあったというのに。
 しかし嘆くことはない、年を取り体力が落ちたことで、余計に時間がかかることで、あらたに見えてくるものもあるわけだから。

 砂礫地の線状土に沿って、イワウメやミヤマキンバイ が点々と咲いていて、その背景には残雪模様の旭岳(2290m)と白雲岳(2230m)が並んでいた。
 ニペソツ山から石狩岳、武利(むりい)岳、屏風岳などの周りの山々も幾らかかすんできていて、上空にはすっかり雲が広がっていて、花の色も褪(あ)せて見えていた。
 ゆっくりと休んだ後、頂上から下って行き、日帰りで戻ってくる人とすれ違い、分岐から左手に小屋を目指して下りて行くと、辺りはキバナシャクナゲ、エゾノハクサンイチゲ、エゾコザクラなどのお花畑になっていて、写真を撮っていたら、何とポツリポツリと水滴が落ちてきた。

 それはいつの間にか、本降りの雨になってしまった。
 カメラをザックに入れ、雨具を出して上だけ着込み、小屋との間を埋め尽くす雪渓を歩いて行ったが、目印のロープがずっと引かれているから、ガスの時でも迷うことはないだろう。
 それにしても、天気予報からしても、雨になるとは思いもしなかったし、大体が晴れた日にしか山に行かない私にとって、おそらく何年ぶりかで着込んだ雨具だったのだ。

 雨の中、緑岳からはさらに1時間近くかかって、小屋に着いた。
 それからも雨は降り続き、雷が鳴り、登山客が次々に入ってきて、今の時期には珍しく十数人もの人たちでにぎわうことになった。

 その中にはオランダから来たという、若いカップルがいて、娘の方はきれいな英語を話していて聞くと、日本が大好きでこれで4回目になるという。
 3週間のバカンスの休みを取って日本に来ていて、2週間をトレッキングにあて、まずはトムラウシ山まで縦走するつもりだとのことだった。
 あまり長くは話せなかったから、詳しいことは分からないが、それにしても、世界の若者たちにとってはよく知られた日本のアニメやコスプレではなく、北海道の山歩きに来たという若い二人のその思いがうれしかった。
 政府に観光立国の方針があるのなら、こうした本当に日本の風土や人々を好きになってくれる旅行者たちにこそ、何らかの力添えをしてやるべきなのだろうが。

 付け加えて、あのスイス・アルプスの山小屋と比べて、現在のこの大雪山の山小屋のトイレ事情は、全く最貧国トイレと変わらないひどさであり、私たちはもうそんな山のトイレには慣れてはいるものの、彼女には申し訳ない気がした。 
 (そのあとも二日間天気は良かったから、二人は、美しい大雪のトレッキング・コースを満喫したことだろう。そして、彼女はオランダに戻って周りの人に言うことだろう。
 「日本の北にある山は、すべてがお花畑で、ロックガーデンのようで素晴らしかったわ。ただし、トイレだけは、Terrible ! 」・・・だと。) 

 雨が止んで、再び晴れ間が広がってきて、明日は晴れるだろうと思いながら、私は往復1時間かけて、いつもの高根ヶ原の東側にできている巨大雪堤(せきてい)を見に行ってきた。
 いつもは10数メートルもの高さになる雪庇(せっぴ)ができるのだが、今年は全体的に雪が少なく、ほとんどは雪田(せつでん)状に広がっているだけだった。
 戻ってきて、夕食を作って食べ、周りの人たちといろいろな話をしたが、みんなそれぞれに生きてきて、そこではそれぞれの状況がありながら、今の時期の大雪山を歩くために、同じようにこの山小屋にやって来たのだということ。
 そして明日になれば、互いに別れを告げて、それぞれにまた自分の向かう道へと歩いて行くだけのことだ。

 みんなは早めに寝袋に入り、話し声もしだいにおさまっていき、ただドイツ語の発音に似たオランダ語の話し声だけが聞こえていた。
 彼女の、声を抑えてクスクス笑う声が可愛いく聞こえていた。
 その二人の声も聞こえなくなり、次には何頭もの怪獣たちの呼び交わす声に代わってきた。
 いつも静かな林の中の一軒家で、ひとりで寝ている私にとっては、とても眠れる状態ではなかった。
 それは覚悟の上だった。眠れなくても目を閉じているだけでも、いくらかの睡眠の代わりにはなるだろうから。
 地鳴りのような声で吠える怪獣が一匹、怪獣が二匹、怪獣が三匹・・・。

 次回へと続く。

  


内向的な生き方

2014-06-23 20:55:46 | Weblog

  

 6月23日

 一週間もの暑い日が続いた後、一日だけ晴れて、さらに一週間雨の日が続き、ようやく晴れてさわやかな青空が広がったと思ったら、昨日の夕方から今朝まで、またもしっかりと雨が降った。
 晴れ間を見計らって、いつもの植林地に行き、もう終わりに近づいたスズランの花を採ってきて、花瓶に活けてみた。(写真)
 もちろん、生け花の心得とてなく、武骨な手で100円ショップで買った花瓶に入れただけのことだが。
 それでも、あの北国のさわやかな香りが辺りに広がり、こうして雨の日に部屋の中で眺められるのも、何か心楽しい気がする。

 今までここで度々書いてきた、”やはり野に置けれんげ草”の思いはあるとしても・・・。
 人間と動物を分かつ、感覚の違いの一つは、美しいものを手元において、眺めていたいという思いがあるかどうかではないのだろうか、と言い訳がましく考えてみたりもするのだが。

 さらに、私の思いには、その美しいものを大きなスケールの中で見てみたいという気持ちがある。
 そうなのだ、もう一か月も山に行っていないのだ。
 前回の残雪の雪景色の山(5月26日の項参照)から、初夏の花が咲き始めた山へ・・・毎年、同じように繰り返し出かけているのだが、その習慣化された思いがふくれ上がってくる。

 こうして、長い期間が空いてしまう前に、もっと早く山に行くべきだったのかもしれないが、行けなかったのだ。
 一つには、このところの天気の悪さもあるが、もう一つは、何とヒザにけがをしてしまったからなのだ。

 私のクルマは、いつも今の時期まで冬タイヤをつけている。
 それは残雪の山を目指しての、山奥の林道走りが多いために、そうしておく必要があったからでもあるが、最近ではそう山に熱心ではなくなってきたから、前回の登山の後で、もうタイヤを交換しておいてもよかったのだが。
 ともかく、ちょうど車検の時期も近づいていたので、クルマ屋さんでついでにと思って、後ろの荷物スペースに交換してもらう夏タイヤを積み込んでいたところ、その一つを手が滑って、誤って自分の膝の上に落してしまったのだ。
 
 車は3ナンバーのRV車だから、タイヤも普通車よりは大きくて重い。
 それがちょうど、かがんだヒザの所に落ちてきたのだ。キャイーン。
 痛いのなんのって、ケンケン歩きの後触ってみると、どうやら骨は折れていないようだし何とか歩くこともできる。ともかく車検入庫の時間もあるからと、クルマ屋さんまで行って、代車に乗って帰ってきた。
 (クルマは7年乗っていた中古車を買って、もう11年目になるが、さすがにこれで最後の車検になるとは思うが、ありがたいものだ、日本のクルマは、いつまでも貧乏人のフトコロにやさしく、その上、大きな故障もなく走ってくれて。)

 しかし、車の乗り降りでは、さすがにヒザを曲げると痛いが、歩けないことはない。
 医者に診てもらうべきか、そうすれば診療所のかわいい看護婦さんの顔も見ることができるし、しかし、このぐらいのことで大騒ぎしていると思われるのもイヤだし、もともと自分は医者嫌いで、長年軽いけが以外で病院に行ったことがないし、と意地を張って、ともかく一日様子を見てみることにした。
 そして、手持ちの湿布薬をヒザに貼って、おとなしく横になって、AKBの録画ビデオなどを見て過ごした。

 翌日、いくらか痛みは取れてきた気もするし、ともかく階段の上り下りなどで大きく曲げない限りは、歩くことに不自由はない。
 どのみち、こうして天気も悪くて山にも行けないし、まあ、ぐうたらに過ごすことも悪くはないと、太平楽(たいへいらく)を決め込んだわけである。

 そして二週間、確かにヒザはすっかり良くなって、曲げ伸ばしに不自由はないのだが、わずかに痛みは残っていて、完全とは言えない。
 もし、ヒザに重大な損傷があって、ちゃんとした治療を受けなかったために、今後山には登れなくなったとしたら・・・なあに、出かけられなくなっても、まだまだ他に、死ぬまでにもとてもやり終えないほどの、やるべきことがいろいろとあるから、そのことに精を出せばいい、そうなった時はそうなった時と、いつもの脳天気な考えで、思いに区切りをつけたのだが。

 しかし、この二週間は余り歩き回らずに、ぐうたらを決め込んで食っちゃ寝をしていたために、何と体重が3㎏も増えてしまった。
 いかん、これではだめだと、ヒザに負担をかけないようにしながらも、少しずつ数日をかけて、いつもの道から庭への刈り払い作業に励んだのだが、草刈鎌での手作業だから汗だくで疲れて家に戻ると、すぐに飲み食いしてゴロ寝してしまい、すべては”元の木阿弥(もとのもくあみ)”・・・なんのこっちゃ。
 ひとり暮らしというのは、気楽な反面、こうして自由にできるから歯止めが利かなくなることもあり、自制する強い心も必要なのだ。 

 先日の新聞の土曜版にこういう記事が載っていた。
 「あなたは内向的?それとも外向的?」
 そのアンケートの結果は、78%の人が内向的だと答え、自分の気質として、”ひとりの時間を楽しめる”とか”他人と衝突するのはいや”ということをあげていた。
 一方で、外向的と答えた22%の人は、”活動的だといわれる”とか”ひとりより、人とかかわる方が楽しい”と答えていた。
 
 もっともこのアンケートが送られた人は、この土曜版にモニター会員登録している人だけであり、ということは、私のような(会員なんかではないが)中高年の人たちの年代層が一番多いのだろうし、なおかつ新聞を読む習慣があり、時間もある人たちの答えなのではないのかと思うのだが。
 つまり今、仕事や勉強に遊びに追われている若い人たちや、会社や家事・育児に忙しく働く世代の大多数は、新聞を読む暇もなく、あるいは全く読まないだろうし、そういう人たちを省いてのアンケート結果をして、現在の日本人の姿だとは思えないのだが・・・。

 この記事の中に、例として取り上げられていた話の人たちは、ほとんど5、60代ばかりであり、つまりそうした私と同世代の人たちの、自己分析の答えだと思って、受け取ればいいのだろう。
 ということだとしても、このアンケートの結果から結論づけられていたのは、この社会は外向的な人と内向的な人が互いに補完し合って成り立っているのだし、また多くの人はそうした両面を併せ持っているのだという、極めて妥当な答えだった。
 ただこの記事の中で、私が一番ひかれたのは、ある81歳になるという御婦人の言葉である。

 「一人暮らしは寂しくないかと心配されるが、ちっとも気にならない。静かに本や新聞を読んだり、パソコンに向かったりで24時間では足りない。このまま100歳を超えても一人暮らしをしたい。」

 私の母は、90歳まで元気だった。私はその母を九州に残して、毎年、北海道とを往復していた。

 ある時、母が私に言ったことがある。
 「あなたがいない時でも、私には、新聞とテレビがあればいいし、こうしてミャオがいて、散歩ができれば、それだけでありがたいんだよ。」 

 今にして思えば、確かにそれは母の毎日のことだったのだが、ただしその裏には、親不孝な息子への恨みつらみへの言葉が呑み込まれていたのだろうと思う。
 もちろんその時にも、母の強がりの思いに気づいてはいたのだが、その時はどうすることもできない現状だったし、ただ年を取ってくると、いつもその時の小さな痛みが思い返されて、大きな後悔となって身をさいなむようになるということだ。
 
 私は、この新聞の記事を読みながら 、81歳になるというその御夫人の胸の内を思った。
 いずれ私も、同じ道を歩むのかもしれないが、最もそんな先まで、ぐうたらで、悪たれづきの私が生きているとは思えないのだが。
 ともかく、年寄りになれば、年よりなりに考え生きていくべきだということなのだろう。当たり前のことだが。

 「老いの身は、余命久しからず事を思ひ、心を用(もちい)る事わかき時にかわるべし。
  心しづかに、事すくなくて、人に交わる事もまれならんこそ、あひ似あひてよろしかるべけれ。
  是も亦(また)、老人の気を養ふ道なり。」

 (貝原益軒 『養生訓』 巻第八の三 講談社学術文庫)

 (これを私なりに訳すれば、”年寄りになれば、もう先がないことを考えて、若い時のようにあれこれ悩まずに、できることだけをやって、あまり他人とも付き合わずに、静かに過ごすのがいい”といったような意味になるのだろうか。)

 つまり、このことは改めて教えられることでもなく、私の日常そのものの生き方でもあるのだが、呼び方こそ違え昔も今も、心を用いる事、ストレスのかかることの多い人間社会だからということなのだろう。
 だからそれだけに、常日頃から脳天気な考え方でいて、頭の中に、「おつむてんてん、あ、ちょうちょうがとんでいる。」とか言ってたほうがいいのかもしれない。
 最近深刻な問題となっている、高齢者はもとより、若年層までをも含む痴呆症の問題は、あくまでも私の個人的な考え方なのだが、若いころからの、あまりにも度重なる繊細な気のつかい方によって、知らぬ間にため込んできたストレスで、それが限界まで来て、ある種の自己防衛的な、精神への一大転換反応が起こり、それまでのストレスをゼロにするために、幼児帰りをするのではないのか・・・。

 ということは、何も深く考えないし、深く考えるところへは近づかないという、今の生き方でいいのではないのか。
 思えば、最近AKBが好きになったのも、何の悩みも見せずに明るく歌う、彼女たちの若々しい姿が、目に耳に心地よいからであり、幼児帰りへの予防線を、自らあらかじめ用意していることになるのかもしれない。

 おつむてんてん、あ、ちょうちょうが・・・と言う間もなく、実際に目の前に蝶々が飛んできたのだ。
 それは、家の周囲のあちこちにある、外来種のフランスギク(誤通称マーガレット)が今を盛りに咲いていて、それを写真に撮ろうとしていたところ、カメラをのぞき込んでいたそのファインダーの中に、何と一匹の色鮮やかなチョウが飛んできて、花にとまったのだ。

 ほんの一瞬の出来事だった。
 カメラのシャッターが聞こえて、チョウは、すぐそばに私の気配を感じたのか、その一瞬の後、飛んで行ってしまった。
 それは、先日にもここで取り上げていた(5月19日の項参照)、あのミヤマカラスアゲハだった。それも黒色味が強いやつではなく、最も美しく輝く、全身ルリ色の、その鱗粉(りんぷん)さえ感じ取れるような、実に見事な一匹だったのだ。(写真下)

 まさしく、偶然としか言いようのない、出会いだった。数日前のことだ。
 同じように、花を撮ろうとしていて、たまたまその花のそばに飛んできたチョウが、ファインダーの中に見えて写したことがある。
 もうずいぶん前の話で、大雪山は緑岳周辺で、咲き始めていたチョウノスケソウの花を撮ろうとしていて、そこに何と一匹のウスバキチョウが飛んできたのだ。

 あの時、手にしていたのは、フィルムの中判カメラだった。
 その中判カメラは、デジタルに移行して以来使わなくなり、人に譲ったのだが、もう一台あった古い方の中判カメラは、今では使うこともないのだが、かといって安い価格で処分するには忍び難くて、手元に残している。
 
 こうして、若いころの、体と心がせわしく動き回る欲望に惑わされていた時に比べれば、今は、心も体も静かに落ち着いてきて、受動的に構えては、そこあるものを見るだけでも、喜びを感じるようになってきたのだ。
 若いころには見えなかったもの、見ようとしなかったものが、実は素晴らしいと気づくことができるし、年を取るということは、こうしていろいろなものが見えてくることであり、これは決して強がりではないのだけれども、年寄りになるのも一方ではありがたいものだと思うのだ。
 前回書いた、あの南アフリカのジャズ・ピアニスト、アブドゥーラ・イブラヒム(ダラー・ブランド)の言葉ではないけれども。

 「75という歳は、物事がやっと理解でき始める年齢なんだよ。」

 その歳までにはまだまだ、かなりの歳月がある。
 さらには上にあげた、81歳の御婦人の言葉と合わせて、こうした良き人生の先輩方の話を、しっかりと心にとめておきたいと思う。

 始めの所で書いたように、ヒザをけがしてしまい、テレビの前にいることが多かったので、そこで録画しておいた、AKBの総選挙で選ばれたそれぞれのメンバーたちのコメントや、大島優子卒業コンサートなどのビデオを繰り返し見ていたのだが、そこでも、あの宝塚ほどの厳しさはないのだろうが、先輩たちを見習い努力するという、メンバーの少女たちの思いが伝わってきて、実によかった。
 さらには、選抜メンバー以外の下位の彼女たちの顔も少しは憶えられたし、将来が楽しみだ。

 華やかに見えるアイドル・グループAKBだが、あの2位になった指原(さっしー)が涙目で言っていたように、「AKBって、そんな簡単なところじゃありません。」という言葉が、彼女たちの意気込みと選ばれた自負の思いを伝えていた。
 
 そうなのだ、若い時には目の前の道を精一杯走っていくことだよ、とつぶやきながら、今はグータラになってしまったおじいさんは、孫娘たちのみんなをやさしく見守るのでした。  


  


消えゆくヒオウギアヤメとアブドゥーラ

2014-06-16 22:05:46 | Weblog

 

 6月16日

  8日間、晴れて暑い日が続いた後、次の8日間は、全く日の射さない肌寒い雨の日が続いた。
   北海道には梅雨がないといわれているが、それは7月の”エゾ梅雨”とも違う、内地の梅雨そのままの空模様だった。
  そして一昨日、待望の青空が広がってきて、その中に、久しぶりに雲があるのを見たような思いがした。
   そうなのだ。雲は、雨の日や曇り空では、周りがすべて雲に埋めつくされているから、雲の形がわからない。
   私たちは、青空になって初めて、空に浮かんでいる雲ののどやかな光景に気がつくのだろう。

  そうした晴れた日が戻ってくると、再びすべてのものの上には日の光があふれるようになる。
  今までの暗い日々と比べると、何と草花や木々が輝いていることだろう。

  そして、今まで押し黙っていた林の中のセミたちも、待ちかねていたかのように、みんなで一斉に鳴き交わし大合唱になる。
  こうして、この晴れた日に間に合って、思いの限り鳴くことができて、種の保存本能の思いを遂げて、セミとしての一生を全(まっと)うしたものもいれば、たまたま降り続く雨の日に出てきて、十分に鳴き交わすこともできぬまま、そのままひとり短いセミとしての一生を終えるものもいるのだろう。

 誰が悪く、誰が正しいということでもない。ただ、自然の神の差配のもとに従っているだけのことだ。
 そうして、今まで自然がつくりあげてきた社会は、動いて来たわけだし、それでいいのだと思う。
 そこには運不運もなく、平等不平等なる不平すらあるはずもないのだ。
 ただただ、受け入れることだけがあるのだ。
 そうすれば、気持ちがずっと楽になる。すべて、不満に思わないし、 争わなくってもいいからだ。
 それは、不満たらたらにあきらめることではなく、何かを恐れて争いから逃げることでもない。
 例えて言えば、ただ道ばたに花が咲いていて、人気(ひとけ)のない静かな道を、自分が選んだだけのことだ。

 さて、家の近くにある、まだ苗木が植えられて数年ほどしかたっていない植林地では、下草が草原状に残されていて、前回書いたように、スズランの群生地があり、さらにヒオウギアヤメやトカチフウロなどの花が咲いている。
 もう数年もしたら、さらに苗木が大きくなり、10年もたてばすっかり木の陰に隠れてしまい、これらの花々は徐々になくなってしまうことだろう。

  私はこうして晴れた日には、今のうちだけだと思い、その植林地に行って花々を眺め、花々の香りを楽しみ、写真に撮って戻ってくる。(写真上はヒオウギアヤメ)

  もう少しの間見られるだけで、やがては消えゆく定めにある花々たち。
  しかしそれは、誰が悪いわけでもなく、どうすればいいというわけでもない。

 もうずいぶん前の話だが、こうして植林地になったばかりの所に咲いていた花を、移植して助けてやろうとしたことがある。
 それは、本州では北アルプスなどの高山帯でしか見られない、高山植物の花として有名なハクサンチドリであるが、北海道では、山だけでなく丘陵地帯から平地でも咲いているのだ。

 家の近くの、まばらに木が生えている原野に近い丘の斜面に、そのハクサンチドリが咲いていて、毎年花の季節には見に行くのを楽しみにしていた。 
 しかし、ほどなくまわりのカシワやミズナラ、シラカバなどのすべての木が切られて、一面のエゾマツの植林地になってしまった。
 私はその時、このままでは消え去る運命にあるハクサンチドリを助けてやろうと思い、家に持ち帰り移植した。
 次の年、そのハクサンチドリは、あのさえざえとした赤紫の小さな花を咲かせて、私を喜ばせてくれた。
 しかし、次の年、その花は咲かなくなり、さらに次の年には、もうその緑の葉さえもなくなっていた。 
 それは、他の場所にあった山野草を、自分の楽しみで盗掘・移植したわけではなかったのだけれど、この時から私には、”やはり、野に置けれんげ草”という言葉が、身に染みて感じられるようになったのだ。

 それにしても、このスズランの群生と、ヒオウギアヤメの幾つもの株が、もう何年もたたぬうちに見られなくなるというのは、哀しいことだ。
 ただ、このスズランもヒオウギアヤメも、自分の家の林のふちに、多くはないが幾つか咲いているし、群生地としても、まだまだこの広い北海道のあちこちに咲いていることだろうから。

 青空の下、一面に広がる大地から、聞き覚えのあるリズムに乗って、ピアノの音が聞こえてきた。
 話は変わるけれども、先日、NHK・BS”プレミアム・アーカイブス”で、何度目かの再放送の番組として、2010年制作の『”南アフリカの絶景を弾く”ジャズ・ピアニスト、アブドゥーラ・イブラヒム』 が放映され、それを録画して見たのだ。
 その番組は、前に再放送されてはいたのだが、南アフリカのジャズピアニストなら、あの『アフリカン・ピアノ』で有名なダラー・ブランドなら分かるけれども、アブドゥーラ・イブラヒムなんていう、アラブ系の名前は聞いたことがないし、二番煎(せん)じの若手のジャズ・ピアニストの話だろうと、余り見る気にもならなかったのだ。
 しかし今回は、そのタイトルにある”南アフリカの絶景”にひかれて、一応録画することにした。

 そして私は、番組を見始めてすぐに、その年老いたピアニストが、あのダラー・ブランドその人であることを知らされて、驚いた。

 私が彼のピアノを聴いていたころから、すでに30年以上はたっているだろう。 
 東京で働いていたころ、私は若者の一人として、当然のように、体ごと突き動かすようなロックのリズムに酔い、その始まりはビートルズあたりだったのだろうが、次第にハードロックへと進んで、ディープ・パープル、E・L&P、B・T・O、レナード・スキナードなどからイエス、ピンク・フロイド、ジェスロ・タルなどのプログレッシヴ・ロックへと向かい、そこからロビン・トロワーやサンタナそしてマクラフリンなどの個人技の超絶ギターにひかれて、ついにはジャズへの道とつながることになり、チック・コリアやキース・ジャレットなどを聴いて、それらのジャズのソロ・ピアノから、いつしかクラッシック音楽の世界へと導かれることになったのだ。

 私の聞く音楽は、日本の流行歌に民謡から、世界の民族音楽、映画音楽、ポップス、シャンソン、ファド、タンゴから、クラッシック、ジャズ、昔のロック、そして最近のお気に入りAKBと、もうそれは知らない人から見れば、玉石混交(ぎょくせきこんこう)の魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世界というべきか、精神錯乱状態のハチャメチャぶりの好みであって、ということは単に広く浅いだけで、何一つ深く極めたものはないということにもなるのだが。

 そうして、一時期にハマってよく聴いていたジャズの中でも、もちろんマイルスやコルトレーンも良かったのだが、次第にピアノ・トリオなどが自分が聴くには一番合っているように思われて、そこからついには、ピアノ・ソロの世界に入り、モンクやビル・エヴァンスからオスカー・ピーターソンなどを知ったのだが、何と言っても衝撃的だったのは、キース・ジャレットのアルバム『ケルン・コンサート』の世界であり・・・それは一つのテーマから即興演奏の音が延々と続く、瞑想(めいそう)のひと時だったからである。
 キース・ジャレットには、他にトリオ編成の名盤もあるけれども、やはり彼のピアノ・ソロの世界こそが、(来日コンサートを聴きに行ったくらいで)、当時の私の求める音の世界にふさわしいものだった。
 彼はその後、クラッシック音楽の世界でも活躍して、バッハの『平均律』 や『フルート・ソナタ集』なども録音している。

 話がすっかりそれて、キース・ジャレットのことになってしまったけれども、そうしたピアノ・ソロを聴くようになって、様々なジャズ・ピアニストのレコードを探していたころに、出会った一枚が、ダラー・ブランドの『アフリカン・ピアノ』だった。(写真)


 

 そして、それが優秀録音で有名な、あのECMレーベルのヨーロッパ輸入盤であることも、その時に、すぐ買う気になった理由の一つだった。
 当時、ジャズだけでなくクラッシック音楽もよく聴いていて、さらにはいくらかオーディオの世界へも入りかけていた私は、プレイヤーのカートリッジからステレオ・アンプそしてスピーカーへとつながり出されてくる音の、最初の音源であるレコード自体(詳しく言えば、演奏ホールの音響や録音機材なども関係してくるのだが)、そのレコードが作られた国によって、大きく音が変わることを少しは分かっていたからだ。

 つまり、一つの演奏が録音されたオリジナル・テープから、メタル・マスター・ディスクが作られ、それからマザー・ディスクになってスタンパーによって、レコード一枚一枚にプレスされていくのだが (音楽雑誌の編集という仕事柄、当時のレコード工場を見学させてもらったことがあり)、細かく言えば、音質を変えることはどの段階にもありうることであり、さらに厳密に言えば、演奏された音をそのままレコードやCDにトレースさせることがいかに難しいかということにもなるのだ。

 私はそのころ、ヨーロッパ輸入盤レコードと国内盤レコードの違いを、聞き比べたことがある。
 それは、ピエール・ランパル(fl)によるヴィヴァルディのフルート・ソナタ集『忠実な羊飼い』(現在はヴィヴァルディの偽作ということになっている)であり、当時よく聴いていたFM放送「バロック音楽の楽しみ」の冒頭のテーマ曲にもなっていて、朝のひと時にふさわしいさわやかな曲であった。 

 そのエラート原盤と日本コロムビア盤の音質の違いは、私の貧弱なステレオ・コンポでもはっきりと分かるほどに、衝撃的なまでの差があったのだ。
  エラート原盤では、ランパルの息づかいと、後ろできらめくヴェイロン=ラクロワのクラヴサンの音に、ホールの空気感が感じられたのに、日本盤ではそれらの音がすっかり薄められて、ただフルートの音だけが強く聞こえてくるだけだった。

 もちろんそこには音に対する、個人的な好みがあるから、私の好みから言えばという但(ただ)し書きをつけなければならないのだが、そのことを知って以降、私はクラッシック音楽においては輸入盤しか買わなくなってしまったのだ。
 その上に、輸入盤の方が安かったこともあるが。

 二つのレコードの音の違いとは、一言でいえば、間接音の響きを重要視した音の作りと、直接音の響きを大切にした音の作りの違いであり、またホールでの響きと楽器そのものの発する音の差にあると思うのだが。
 私は、その後のヨーロッパ旅行で、各地の音楽ホールや教会などで様々な演奏を聴いて、豊かな響きのホールの音を堪能(たんのう)することになったのだ。

 ともかく、輸入盤のそれは、まさしくホールから聞こえてくるアナログの音であり、一方の国内盤は、直接に聞こえる楽器の音をとらえようとしており、その後、日本で開発されたPCM録音は、じかに楽器音をとらえるという点でまさに画期的なものになり、さらにそれは、以後主流となっていくデジタル録音への一大変換点になったのだ。

 ただし私は、あのランパルの『忠実な羊飼い』を聴きたくなった時には、CDなどではなく、今でも変わらずにあのエラート原盤レコードに針を下ろすことになるだろう。

 またしても話がそれてしまったが、ともかく私は、その当時から輸入原盤の音の方が私の好みだったから、ともかくにも、ECM原盤の『アフリカン・ピアノ』 を買ったのだ。
 そして流れてきたピアノの音は、今まで聞いたこともない、いやどこかで聞いたことのあるようなリズムで、私の思いをアフリカの地へといざなうかのようだった。
  左手で奏(かな)でられる単調に繰り返されるリズムは、まぎれることもないアフリカ民族特有の音の響きであり、そこに右手の奏でるメロディーが、今の思いを語るかのように流れていく。
 素晴らしい一枚のレコードだった。これだから、レコードあさりはやめられないとさえ思った。

 さらに、他にもソロ・ピアノのレコードはないかと探し回り、それぞれに傾向は違うけれど、マッコイ・ターナーやポール・ブレイなどのピアノの音もなかなかに味わい深いものがあった。

 しかし、やはりジャズはジャズであり、クラッシック音楽のピアノの構築性と技巧性には及ばないところもあり、次第に私はジャズの世界から離れてしまい、それ以降長きにわたって、ほとんどクラッシック音楽だけを聴くという毎日になっていたのだ。
 ところが、そんなクラッシックな毎日を、最近ここにも書いているように、歳を取ってきて幼児帰りが始まったのか、何とAKBの歌声が変えてしまったのだ。

   さらに、あのワールドカップ2010年南アフリカ大会の記念番組として制作された、このアブドゥーラ・イブラヒムのテレビ番組を見て、私の心の中に、昔聴いたあのダラー・ブランドの『アフリカン・ピアノ』のリズムが響いてきたのだ。
 レコードは、九州の家に置いてあるから、今すぐには聞けないけれど・・・。
 南アフリカのケープタウン出身の彼が、波の打ち寄せる砂浜にピアノを置いて、あるいは内陸部カラハリ砂漠の砂の上にピアノを置いて、アフリカのリズムを刻みながら、そのピアノが奏でる音に彼の思いを託していたのだ。

 そして、私がその名を長い間憶えていて、多くのジャズ・ファンもまた親しんでいたダラー・ブランドという名前は、彼が青年時代のころ、当時はまだ船による旅行が盛んだった時代であり、世界中の多くの船が航路の要衝(ようしょう)であるケープタウンに停泊し、その時立ち寄ったアメリカ船の船員や兵隊たちから、当時アメリカではやっているジャズのレコードを買うために、いつも彼が1ドル札を手にして待ち受けていたために、アメリカ人たちから、”ダラー・ブランド(ドル印)”と呼ばれるようになったからだ、と明るく笑って話していた。
 
 その後、彼はアパルトヘイト(人種差別政策)の南アフリカを離れて、アメリカに渡り、ジャズ・ピアニストとして成功したのだが、母国の白人政権が崩壊して、アパルトヘイトが廃止され、ネルソン・マンデラが復帰することになり、彼も祖国に戻ってきたのだ。
 彼が街中を歩けば、誰もが声をかけてくる。
 それは、彼が、第二の国歌とも呼ばれる、反アパルトヘイトのシンボルともなった曲「マネンバーグ」の作曲者であることを知っているからだ。
 若いころの彼の名作『アフリカン・ピアノ』で、クレジットしていたアメリカ風な名前、ダラー・ブランドから、イスラム教に改宗して、名前をアブドゥーラ・イブラヒムに変えた気持ちも分かるような気がする。  

 あの『アフリカン・ピアノ』のジャケット写真の若き日の彼から、もう40年余りもたっていて、当時の面影はないけれど、むしろそこには風格さえも感じる老人の顔があり、その力強いまなざしで遠くを見ながら、彼は語る。

 「75という歳は、やっと物事が理解できるようになる年齢であり、これからやりたいことが山ほどある。」
 「現代は、時が進みすぎた時代であり、時計の針を戻す必要がある。」

 そして、時々、自分の祖先であるブッシュマン居留地を訪れては、彼らの話に耳を傾けるのだ。

 そのブッシュマンの老人の一人が、砂漠で生き抜くための食べ物の知恵を紹介していた。
 小さなサボテンの一種を採り、ナイフでそのとげのある皮をむいて口にして、これを幾つか食べれば、一日他に何も食べなくてもいいほどの貴重な食べ物なのだと話し、さらにヒースのような植物を砂の中から根ごと掘り返し、その根には解熱剤の効果があり、少し切り取った後の残りはまた根のついたまま砂の中に戻し、そこに自分の着ている大切なシャツの一部を切り取って、感謝の気持ちで一緒に土の中に埋めたのだ。

 それは私が、アイヌネギ(ギョウジャニンニク)やタラノメ、コゴミなどの春の山菜を採る時の思いと同じことだ。
 今年だけでなく、来年もまた採れるようにと配慮すること・・・自然の中で、自然の恵みを受けて暮らしている人たちが誰でも考えていることなのだ。
 そして日本の農漁村でも、山の神、海の神に感謝して、お神酒(みき)をあげたり、獲れたばかりのものを神様にささげるという風習が、いまだに受け継がれ残っているのだ。

 自然に対して、最大限の感謝の気持ちを持つこと、それは自分たちが生きていくための大切な教えでもあるのだ。
 
 この番組で私が知ったのは、昔よく聴いたダラー・ブランドに、その音楽に再会した喜びとともに、いやそれ以上に、この番組では小さな挿入話でしかなかったのだが、アフリカの砂漠に生きた民、ブッシュマンたちの、自然を敬い生きていく知恵を教えられたことだ。
 あの、オーストラリアの原住民アボリジニーズたちと同じように、本来はすべて自分たちの暮らしている土地であったのに、砂漠の中の居留区に押し込められる形で、現代社会に同化させられている、彼らの今を思わないわけにはいかなかった・・・。 

 「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこに行くのか」

 (ポール・ゴーギャン、1848~1903) 


春の終わりのカッコーの声を聞いて

2014-06-09 17:50:57 | Weblog



 6月9日

 終日小雨模様で、寒い。数日前までは、気温30度を超えていたのに。
 朝の気温は10度にもならないくらいで、日中でもそれから数度上がるだけで、とうとうたまらずにストーヴの薪(まき)に火をつけてしまった。
 まあ、今頃の北海道では、こうした気温の上下はよくあることだが。

 それにしても、数日前までは、北海道各地で最高気温が更新 されるほどの暑さが続いていた。
 もともと季節ごとの寒暖の差が大きい、この十勝地方で、最高気温37.8度を記録したのだ。まだ真夏でもないというのに。

 ただし我が家では、木々に囲まれているせいもあって、それほどの高い気温にはならなかった。 
 もちろん、照りつける日差しは真夏並みで、30度を超えていたから、外での仕事はせずに涼しい家の中にいた。
 丸太づくりの家の中は20度くらいで、外から戻ってくると、冷房の効いた部屋に入るようで、体にはあまりよろしくはないのだが。

 そしてこの暑さで、あのエゾハルゼミたちが、幼虫から成虫にかえったヌケガラをあちこちに残して、それぞれに羽をふるわせていっせいに鳴き始めたのだ。
 その数・・・無数。

 ふつうセミの鳴く声は、一匹一匹の連続的な断続音なのだが、これだけ林中のセミがいっせいに鳴くと、もうただギャーと絶えることなく続く音の流れでしかない。
 他の物音は何も聞こえないほどの、大音量の音なのだが、慣れてくるとあの街中での騒音ほどにはうるさくはないが、やはり、耳を聾(ろう)するばかりのやかましい音ではある。

 一月前に”ライラック祭り”が開かれていたその札幌の街は、この週末にかけて恒例の”よさこいソーラン祭り”でにぎわい、独特の鮮やかなはんてん衣装で身を固めた若者たちが、新緑の街路樹の下、隊列を組んで華やかに踊っていた。
 そのライラックの花が、家の庭では今ごろになって満開になっている。青空に映えるライラック(ムラサキハシドイ)の花。(写真上)

 地面に咲く草花に比べて、いつも見上げた上にある花たちであり、それだから空を背景にしてひときわ鮮やかだ。
 春先の、白梅紅梅のウメの花に始まり、白いコブシにモクレン、赤いハナモモ、日本の心の色であるサクラ、赤から白へと変化してゆくシャクナゲに三色のツツジ、さらにはアメリカハナミズキの明るい薄紅色、そしてこの白と紫のライラックから、真夏のネムノキノの虹色、さらには緋色のサルスベリに至るまで、その他にもいろいろと季節ごとに見ることのできる、木の花たちの数々・・・。
 そうしたおなじみの花々たちに、毎年変わることなく出会えることの喜びは、我が身を仮託した生きることの証しなのかもしれない。
 みんなそれぞれに、自分の生を全うすることに懸命なのだ。

 長く続いた暑い日々が終わり、この三日ほどは 一転して小雨模様の寒い日が続いている。
 林の中で、あれほどまでにうるさく鳴いていたセミの声が、ぴたりとやんだ。
 時々、一匹が羽をふるわせようとするが続かない。もどかしげな、セミの声が一つ二つ、林は押し黙ったままだ。
 すると、突然、明るく響き渡る鳥の声が聞こえてきた。
 カッコー、カッコー。 

 春先には、林のあちこちから聞こえていた小鳥たちのさえずりの声が、今ではもうほとんど聞こえない。
 もうそれぞれに、縄張り宣言のさえずりの時を終え、つがいになった鳥たちは、枯れ草で編んだ巣をつくり、そこに卵を産んで温めているからだ。
 そんな静かになった林に、渡りの時期をうまくずらして、カッコーたちがやってくるのだ。

 彼らは、他の鳥たちが卵を産み落とすところをうかがっている。忙しく行き来する小鳥たちの巣をねらって、親鳥がいない時に素早く自分の卵を産み落としていくのだ。
 そのカッコーの卵は、もともとその巣にあった鳥たちの卵よりは早くかえるようになっていて、その孵化(ふか)したばかりのカッコーのヒナは、まだヨチヨチ歩きの毛も生えていない体で、他の卵たちを動かしては巣の外に落とし、自分だけがその巣の親鳥たちが運ぶエサを独占して、ひとりだけ早く成長しようとするのだ。

 それはカッコーにとって、様々なリスクもあるのだろうが、ヒナの育成を他の鳥に託した、托卵(たくらん)という彼らが考えついた一つの種の保存の形態であり、人間社会の価値判断だけでは決めつけられない、自然に生きる者たちの厳粛(げんしゅく)な姿でもあるのだ。
 つまり、そこではカッコーだけがずる賢く悪いわけでもなく、自分のヒナだと思って育てた鳥だけが、哀れなわけでもない。

 それは、そういう鳥社会の中で、長い時間をかけて変容し、常態化させてきた自然の営みの一つだと見るべきなのだろう。
 ずいぶん前にもこのブログに書いたことがあるが、ある時、ハマナスのやぶの中に作られていた鳥(アオジ)の巣が、蛇に襲われて、その鳥の卵が丸呑みにされるところを見たことがあるが、その時、私は何もしなかった。
 ただ目の前で繰り広げられる、神聖な自然の営みを、多少の感情に揺さぶられながらも、黙って見ていただけである。

 今、小雨降りしきる中、小鳥たちはおろか、セミの声すらしない。
 ただカッコーの声だけが、遠くに聞こえている。
 それは、”春の終わりの、カッコーの声”だった。
 
 イギリスの作曲家、フレデリック・ディーリアス(1862~1934)には、「春の初めのカッコーを聞いて」という管弦楽曲がある。 
 その中で聞こえてくるのは、少し間延びしたようなカッコーの声だが、あのイギリスのゆるやかにうねる田園地帯の風景には、ふさわしい響きでもある。
 こうしたイギリスの自然風景を見事に活写(かっしゃ)したものといえば、他にすぐ思いつくのは、ここでも何度か取り上げたことのあるヴォーン=ウィリアムス(1872~1958)の曲だろう。(’13.4.7の項参照)
 彼の管弦楽曲は、たとえばあの有名な「グリーンス・リーブス」のように、美しいメロディーをもとに起承転結をはっきりと描いた、ややロマンティックな響きの曲調のものが多く、それと比べると、このディーリアスの曲は、目の前に単調に流れゆく風景を、そのまま音楽にしたような、まるで自分がひとり丘をさまよい逍遥(しょうよう)しているような感じさえしてくる。
 その音の風景の後ろで、のんびりとしたカッコーの声が聞こえるのだ。
 
 この曲の演奏でいえば、今まで幾つかの指揮者・オーケストラのものを聴いてはきたが、やはりレコードの時代からずっと聴いていたあの一枚、それを今ではCDに買い替えているけれども、あのビーチャム指揮ロイヤル・フィル演奏によるEMI盤を超えるものはないと思っている。
 古い時代の演奏でも、良いものは良いのだ。

 ところでついでながら、クラッシック音楽ではこのカッコーの音型がよく使われているのだが、なかでも有名なのは、あのベートーヴェンの交響曲第6番『田園』の第2楽章の「小川のほとり」で、そののどやかな散策の情景が描かれている終わりの方で聞こえてくる、カッコーの声であり、もう一つはマーラーの交響曲第1番『巨人』の冒頭部分で、この交響曲のテーマの一つにもなっている、カッコーの音型である。

 クラッシック音楽では、他にもナイチンゲールの音型なども、よく使われているのだが、いずれにしてもわかりやす鳥の鳴き声こそが、何よりも自然風景を表す良いモチーフになっているからなのだろう。

 ところが、ここではそうしたクラッシック音楽の話を取り上げているのに、最近の私は、めっきりクラッシック音楽を聴くことが少なくなっているのに気づいた。
 それは長年、私の心に寄り添い慰め励ましてくれた大切な音楽なのに、なぜか今はそこから少し遠のいているのだ。
 考えてみて、すぐに思い当たる節があったのだが、そのわけは後述するとして・・・。 

 さて先日、近くの街まで買い物に行ってきた。
 まず、2週間分溜め込んだ洗濯物をコインランドリーで洗濯し、その待ち時間に、近くのリサイクル・ショップ古本屋に行って、そこで一冊の本を買った。
 それは、昔から読みたいと思っていた水上勉の一休や良寛などを含む時代伝記ものを集めた全集本の一冊であり、ほとんどページがめくられた跡もない新品同然なのに、30数年前に出版されたものだからなのか何と105円!これだから古本あさりはやめられないのだ。
 
 さらに一週間分の食料品を買い込み、一週間ぶりに町の銭湯に入り、さっぱりした気分になった後、さて帰ることにするかと、108円のアイス・キャンディーを口にくわえ、暮れなずむ日高山脈の山々をちらりちらりと眺めながら、両側に広大な畑が続く中、ゆっくりとクルマを走らせて行く・・・全く、これ以上の幸せがどこにあるのだろうか。
 
 そして家に戻り、その買ってきたばかりの本の中の、「金銀」という短編の一節を読んだのだが。
 そこには、中国、唐代の話であり、禍(わざわい)のもとになるからと、財宝家財のすべてを船に積んで湖の真ん中に沈め、妻と息子に娘の三人を引き連れて、山奥の岩窟(がんくつ)の中に隠棲(いんせい)していたという、在家の禅修行者、龐(ほう)居士(~808)についての逸話が幾つか書かれてあった。
 その彼が残した詩編などは『龐居士語録』して残されていて、のちの宋時代になって禅宗が認められるようになると、その話は伝説として伝えられるようになったとも言われている。
 その中の一つが、この短編の最後に記してあった。

「人は金銀が大好きだ

 だけどわしは刹那(せつな)の静が好き

 金は多けりゃ心が乱れる

 静なら真如(しんにょ)の性が出る」 

(以上 『水上勉全集 第18巻 一休、良寛他』 中央公論社)
(注:真如とは迷いの境地に対しての万物の本質である絶対真理のこと。学習研究社 『新古語辞典』 市古貞次編より)

 しかし今の私は、水回りなどの不便な生活には耐えながらも、自分の大切な用具である、クルマもテレビも、そしてカメラもパソコンも捨て去ることはできない。
 あまつさえ、家の周りにある木々や草花たちを自分の好みで取捨選択しては、ひとり悦に入り眺めているだけだ。
 というのは、家の裏にある若い木々の植林地には、まだ原野のように日が当たっているから、スズランの群生地にもなっていて(写真下)、その花を採ってきているからだ。
 しかし植林された木々は、確実に毎年大きくなってきているから、そのスズランの群生地も年ごとに狭まってきていて、あと何年かすれば、その野生のスズランは消え去る運命にあるのだが。
 
 私は毎年、そのスズランの花の何本かを引き抜いて、部屋のテーブルの上にある花瓶に活(い)けている。
 辺り一面に、強く甘い北国の香りが漂っている。
 しかし、その小さなスズランの花は長くもつことはない。
 花は数日で香りがしなくなり、黄色く枯れて、その幾つかがテーブルの上に落ちている。

 私は、前々回に書いたオオサクラソウのことで、その花を株ごと採って行った人を非難したばかりなのに(5月26日の項)、そんな時に思った”やはり野に置けれんげ草”のたとえに従うこともできず、さらには上に書いた龐居士のように、自分の身の回りにあるゼイタク品たちを捨て去ることもできない。
 つまり、未練たらたらの人生の中で、しぶとく、自分の我欲にしがみついて生きているだけなのかもしれない。

 一昨日、私の好きなAKBの選抜総選挙が、テレビで生中継されて、私はその4時間半にも及ぶ放送時間の、終わり近くまでを見てしまった。
 私の娘や、もしかしたら孫にもなるかという二十歳前後の若い女の子たちなのだが、彼女たちがそのファン投票で選ばれて、マイクの前で語る悲喜こもごもの言葉は、そこいらの作り上げられたドラマよりは、よほど有無を言わせぬ真実味があった。
 私は、AKBファンになってからまだ1年余りしかたっていないから、あまり大きなことは言えないけれど、一人で1票の普通選挙投票ではなくて、CD一枚に1票という仕組みに問題はあるだろうけれど、その結果としての順位は大方の予想通りに妥当なものに思えた。

 私は、上位の子たちしか名前と顔は分からないから、下位のほうにまで気はまわらないけれども、しかし、そんな彼女たち一人一人のスピーチを聞いて、まだ若いながらもそれぞれに、今の人生をかけているという思いが伝わってきたのだ。

 そこにはあの宝塚ほどではないにしろ、仲間と競いながら歌に踊りに話にと一生懸命な彼女たちの姿が見えてきて、このおじさんも思わずもらい泣き・・・鬼の目にも涙というよりは、年を取ってきて、心寂しく涙もろくなっただけのことだが。

 そんな彼女たちが、明るさいっぱいに歌い踊っているテレビ番組を録画しておいて、ことあるごとに繰り返し見ているのだ。
 そして、すっかり老いぼれてヨタヨタになったこのジジイも、その若い娘たちに励まされるのだ。
 ”人生捨てたもんじゃないよね。運勢、今日よりも良くしよう”と。

 こうして、私の心いやされる音楽は、いつのまにかAKBの歌になってしまい、そのあおりを食ってじじくさいクラッシック音楽からは少し遠ざかってしまったということなのだ。
 じいさんが、若者ぶって、テレビに映るAKBの娘たちと一緒に歌い踊っているさまなんざ、ああ見たくもない・・・。
 まあ、老人暴走族よりは、こうした老人妄想族(もうそうぞく)の方がまだましかもしれないが。
 
 あの雨の降りしきる中、声援を送り続けていた7万人もの若いファンたちの熱意はともかく、テレビの前でも、多くの子供たちやおじいちゃんおばあちゃんたちが見ていただろうし・・・まあつまり早い話が、年を取ってくると、単純に明るいものが好きになり、面倒くさいものは敬遠して、いわゆる幼児帰りしているということなのだろう。

 おー、ばぶばぶ・・・。ぼくも、 あまえたいでちゅ。

 


穏やかな日々

2014-06-02 21:03:34 | Weblog



 6月2日

 このところ全国各地では、早すぎる真夏の気温になり、猛暑日を記録しているとのことだが、この北海道でも同じように暑くはなっているのだが、私のいる十勝地方の気温は、まだ30度を超えてはいない。
 朝は10度以下にもなる冷え込みがあるし、暑い日中でも25度を超えるくらいだ。
 さすがに日差しは夏の暑さだが、空気が乾燥しているから、吹く風はさわやかで、日陰に入れば少し肌寒くさえ感じる。
 空はもう何日も晴れ渡り、青空に時々薄い雲が流れていく。

 いい季節だ。
 どこにも行きたくはない。
 この青空の下、新緑の木々や、草花に囲まれ、遠くに日高山脈の山々を眺めながら、毎日を暮らしていると、もうそれだけで十分な思いになる。
 これ以上何がいるというのだ。

 この春に、こちらに戻ってきて(もう一月あまりにもなるが)最初のころは、もともと水回りが不便なうえに、肝心の井戸水が出なくなるし、それまでいた九州の家では、それが普通の家なのだろうが、下水道は整備されていて、当然のようにいつでも風呂に入れるし洗濯もできるのに、それと比べて、ここは何と不便極まりないことかと、不平たらたらの思いだったのだ。
 しかし、新しい井戸ポンプに換えて、ともかく最低限の生活用水が確保されると、その他の不便さには、いつものことだからと慣れてきて、今はこうして、静かな自然の中で、大好きなこの北海道の空気の肌触りを感じながら、毎日を送っていけることにすっかり満足してしまい、やはりこの家にいたほうがいいと思い直しているのだ。

 ”のど元過ぎれば熱さを忘れ”のたとえの通りに、幾つになっても同じことを繰り返しているのだ。
 思えば、もう私の人生のかなり多くの時間を、この小さな家で過ごしてきたのだから、多少の不便は覚悟の上と分かっているはずなのだが。

 昨日、今日と山々がよく見えて、絶好の登山日和だった。
 特に今日なんぞは、一日中快晴の空で、さわやかなそよ風が吹き、ずっと山が見えていて、まさに残雪の山歩きにふさわしい日だったのだが、このところ書いているように、もうそれほど山にガツガツしなくなってきていて、一月に一度行けばいいと思うようになっていて、それはもちろん、もう北海道のめぼしい山のほとんどには登っているからでもあり、また年寄りになって動き回るのが面倒になってきたからでもある。

 しかし、山に登らなくても、家の周りでも自然の美しい景色を見ることはできる。
 昨日、最近気になっていたあの春の眺めを見るために、家から少し離れたところにある場所へと車を走らせた。
 それは、菜の花畑であり、畑にすき込んで肥料にするための草花なのだが、一面の黄色の広がりは、私たちの目をも楽しませてくれることになる。

 母がまだ元気だったころ、春になるといつも車に乗って出かけたものだった。
 ゆるやかに流れる川沿の河原に、帯のようにつながり続く、あののどやかな九州の菜の花畑の光景が忘れられない。
 ・・・その眺めとは違うけれども、この北海道の広い大地の一面を彩る、菜の花畑の光景もまた素晴らしい。

 毎年どこかの農家が、自分の畑に菜種をまいているのだが、もちろんそれは輪作(畑の作付を毎年変えて地力を保つ)の計画でもあって、その農家以外の人には、どこが黄色くなるのかは、花が咲くまでは分からないのだが、それが毎年の私の楽しみの一つにもなっているのだ。
 そして今年は、その背景にちょうどいい具合に日高山脈が見えるとはいかなったが、それでも、広い菜の花畑とそれを区切るカラマツ林、さわやかな雲が流れる初夏の空と・・・ここに椅子でも置いて、ずっと眺めていたいような光景だった。(写真上)

 先日、テレビのあるバラエティー番組で、タレントたちが、「私たちは日ごろ空なんて見ようとも思わないから・・・」と言っいたが、それは都会での忙しい毎日の中では当然のことなのだろうし、また別の番組では、ある高層マンションに住む女優の日常生活として、同じように高い階にあるスポーツクラブで、美しくきらめく東京の夜景を見ながら、フィットネスの運動に励む彼女の姿を映し出していた。

 こうして都会に暮らす彼女たちは、私の住んでいる田舎のみすぼらしい小屋には住めないように、私も都会の高層マンションで暮らすことはできない。
 どちらの生活が正しいのかという問題ではなく、それはもう子供の時代から育まれ大人になって確固たるものになっていった、いわゆる性分(しょうぶん)、性向の差であるとしか言えないものなのだろう。

 ただ人間を、類人猿からたどってきた進化の過程にあるとするならば、彼女たちこそが、自らが生み出した文明に適応して、変化し進化し続ける人間たちであり、こうして田舎の生活にしがみ続ける私たちは、文明の環境に順応できない、進化することのできない人間たちであると言うことはできるだろう。

 先日、日本創成会議の人口減少問題分科会から、「2040年には、全国896の地方自治体が人口減少高齢化などの影響で、消滅の危機に直面することになるだろう。」との調査発表があった。 
 さもありなん。
 私たちのような、田舎暮らしを好む人間たち、進化することのできない人間たちは、ごく小さな少数派でしかなく、そのまま高齢化していけば、若者はいなくなり、自治体としての形が成り立たなくなり、さらに彼らが死に絶えることでまた集落も消滅することになるのだろう。

 大都会、地方都市だけがふくれ上がり発展し続けていき、そこでは都市生活に適応し進化し続けることのできる、大多数の人々が暮らしていくことになるのだ。
 そのこと自体、生物進化論の立場から言えば、実は正しい流れのようにも思えるのだ。

 他方で、今までの生物たちの繁栄と絶滅の歴史を見ていけば、進化できなかった者たちいわゆる守旧派は、絶滅するわけではなく、どこかで細々と命脈をつなぎ、生物界によくある亜種という珍しい形で生き残るのかもしれない。

 同じように先日発表された人口動態調査によれば、相変わらず北海道は、全国人口減少都道府県の第一位にあり、上にあげた消滅自治体数でも断然トップの数であった。
 それでいいのかもしれない。大幅に人口が減っても、大規模農業企業体、漁業企業体、そして外国人相手の巨大リゾート地などが作られることになり、北海道はちゃんと生き延びるだろう。
 別にこの大自然豊かな北海道がなくなるわけではなく、むしろ人間がいなくなることで、大自然に生きる生物たちの更なる活力が生まれるのかもしれない。

 何もそこまで、老いぼれジジイの私が心配することはないのだが、未来への考えをめぐらすのは他人事ながら興味深いことだ。
 そういえば先日、北海道の放送局制作による番組が二本放送された。
 一つは、HTBの『氷の島のメッセージ グリーンランド温暖化の最前線から』というドキュメンタリーであり、 あの有名な北大低温科学研究所が、地球温暖化の現実として、グリーンランドの氷河の急激な変化でもある、その後退・減少の実態を調査していた。

 さらに取材班は、このグリーンランド最北の集落に住む一人の日本人の漁師のもとを訪ねるが、彼が言うには、年ごとに結氷の時期が遅くなり、犬ぞりが使いずらくなってきたとのこと。
 彼は、あの植村直己さんにいろいろと教えてもらったこともあり、イヌイットの女の人と結婚し、以後40年ここに漁師として住み続けていて、今では孫が9人もいるとのことだった。
 
 もう一本は、NHKの『独り歩いて北極点へ』という、ある若い冒険家の北極点行のドキュメンタリーだった。
 荻田泰永(36歳)は、目的を見失っていた学生時代に、公募による北極圏徒歩行に参加し、以後10回以上北極圏での犬ぞり、徒歩行を実行し、今年はついに、今まで日本人としてはまだ誰も成し遂げたことのなかった、無補給単独徒歩による北極点到達に挑んだのだ。
 過去の日本人記録としては、あの日大隊に始まり、植村直己、集団の一員としての和泉雅子、大場満郎、河野兵市などが北極点に到達していたのだが・・・。

 しかし、彼は40日にも及ぶ苦闘の末、道半ばで断念することになる。
 その苦しい決断に至るまでには、いろいろのことがあったのだろうが、大きな理由の一つは、予想外に繰り返し続いていた、乱氷帯を乗り越えるのに手間取ったことにある。
 その乱氷帯は、地球温暖化で氷が薄くなり流されやすくなって、氷同士がぶつかって盛り上がり、行く手をふさぐ形になっていたのだ。

 私はこの番組を見ていて、比較にはならない小さな冒険だったけれども、あのオーストラリアの砂漠で、何度も転びながら、そのたびごとに重たいバイクを抱え起こした時のことを思い出していた。(4月7日の項参照)
 さらに、この番組の中で、今年同じ北極点を目指す他のパーティーなどが紹介されていて、単独行は彼一人だけだったが、それを知った二人組の一人が言っていた。
 「おれは頼まれたって一人では行きたくないね、肉体的に精神的に、二人でいるときの十倍はつらいだろうからね。」

 私は、たった一人でこの丸太小屋を建てた時のことを思い出していた。長く重たい丸太を抱え上げるときには、一人だけだから、片方ずつを持ち上げていくしかないし、丸太積みが高くなって上で作業しているとき、もしノミや鉛筆一本落としても、下で拾って手渡してくれる人など誰もいなかったのだ。
 つまり丸太小屋を一人で建てるということは、二人で建てるときの、数倍の労力と時間がかかるものなのだ。

 しかし、思えばすべてはどこかでつながっている。
 若き日の冒険も、地球温暖化も、高層マンションに住むことも、田舎に年寄りだけが取り残されることも・・・。
 しかし、すべて地球の歴史、生物の歴史の流れから見れば、大したことではないのかもしれない。
 ただ黙々と、自然の生物たちは生き続けるだけなのだから・・・。
 
 さて、庭のチューリップ花が終わって、代わりにエゾヤマツツジとレンゲツツジの花が咲き始めて、ライラック(ムラサキハシドイ)の花も今が満開になっている。
 林のふちには、白いチゴユリが群れて咲いているし、ナナカマドの木の根元には今年もクロユリの花が咲いてくれた(写真下)。
 さらに林の中には、ツマトリソウの白い可憐な小さい花が点々と見え、一方では群落をなしてベニバナイチヤクソウが咲き始め、ササ原の緑の葉の間には、白い鈴なりの花が見え隠れして、あのスズランのかぐわしい香りが漂ってくる。

 山に行けなくっても、こうして天気の良い日に、庭いじりをして林の中を歩き回り、半日、ブログ書きでパソコンの前に座っていたとしても、まずは、満足すべき穏やかな一日があったということだ。

「・・・人間の大事、この三つには過ぎず。飢えず、寒からず、風雨に侵(おか)されず、閑(しず)かに過ごすを楽しびとす。・・・」

(吉田兼好 『徒然草』第百二十三段より)