ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(34)

2008-03-18 17:54:46 | Weblog
3月18日 朝、-2度、日中17度と、この三日間、春本番の暖かさが続いたが、どうやらその天気も今日までで、明日にかけて雨になるらしい。しかし草木にとっては、待ち望んでいた潤いの雨になることだろう。
 そんなふうに、物事は、一方にとって悪いいことでも、もう一方にとっては良いことになったりもする。たとえば、ワタシにとっては、飼い主には一日中ずっと、家にいてほしい。ワタシがちょっと外の見回りに出て、家に戻ってきたときには、いつもニャーと鳴いて知らせるのだが、そんな時、飼い主がいなかったり、ドアの鍵がかかっていたりすると、いつも、また捨てられたのではないかと不安な気持ちになるからだ。
 だから、飼い主が買い物などから戻ってきたときには、今までの寂しさと不安な思いから、ニャーニャー鳴いて、すり寄っていく。すると飼い主は、オーヨシヨシとムツゴロウさん可愛がりをしてくれるのだ。
 そんなワタシのことを分かってくれていて、飼い主はこの四ヶ月近くの間、一晩たりとも家を開けて、外に泊まったことはない。しかし、ワタシにとってはこのありがたいことが、実は、飼い主にとっては困ったことになり、ワタシが足手まといとなっているのだ。
 冬、雪がやんで晴れ間が広がってきて、明日は晴れそうだという時に、飼い主が空を見上げてよく言っていた。「山の夕映えがきれいだろうな」と。つまり飼い主は、山小屋とかテントに泊まって、朝夕の山の写真を撮りたいのだが、ワタシがいるために、一晩家をあけることができないのだ。
 一方にとっていいことが、他方には都合の悪いことになる。しかし、飼い主は言ってくれる。「夏の間、オマエを残して、北海道へ行ってしまうから、せめて一緒にいる冬から春にかけてのこの間だけは、なるべく他所には行かないことにしているんだ。せめてもの罪滅ぼしで悪いけど。」その言葉は、ワタシにとっては、ありがたいけれど、ツライ言葉だ。
 しかし、そんな先のことなど考えても仕方がない。今は、夕方にもらえるあのコアジ一匹のことだけ考えていよう。おばあさんがいたころからずっと、ワタシはアジをもらい続けてきた。はじめこの家に来たころは、おばあさんはいろんな魚をくれたのだが、ワタシはマグロとアジしか食べなかった。
 「まあ、なんてゼイタクなネコなんだろうね。きっとあの酒飲みオバサンから、晩酌の時の刺身をもらっていたからだろうね。」
 しかし、もちろん当時から、値段の高いマグロはたまにしかくれなかった。ましてシブチンの飼い主だけになってからは、見たこともない。
 かといって、ワタシがゼイタクなわけでもない。ワタシの食べるものは、その一匹10円か20円ぐらいの生アジの他には、キャットフードとミルクくらいなものだ。飼い主がアツアツのゴハンの上に、カツブシやモミノリをかけて、うまそうに食べているのを見て、ミャーと鳴いてほしがったら、そのおこぼれを頂戴するときもあるが、大体グルメには程遠い飼い主と同じで、きわめて日本的なネコの食生活だ。
 夕方になると、ワタシはソワソワして、飼い主に鳴いて催促するが、時々怖い顔をして、まだ早すぎると怒鳴られる。それでも我慢できずに鳴いて、最後にはもう空腹に耐えきれずに、仕方なくエサ場の残りのキャットフードを食べようとした、その時、飼い主が声をかけるてくるのだ。
 猫なで声で、「さあ、ミャオ、サカナをあげようかね」と。ワタシはもう走って行って、飼い主にすがりつき、鳴き叫ぶ。「ネコ神さま、ネコ仏さま、飼い主さま、あんたが大将!」
 しかしその、じらされたあげくに食べるサカナのうまいこと・・・たまらん。ネコに生まれてよかった。そして、そのサカナの後、飼い主と一緒に散歩する、この二つの時間がワタシのゴールデン・タイムだ。