ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

木曽駒ヶ岳とジュリー

2013-12-30 22:36:38 | Weblog
 

 12月30日

 相変わらず、毎日雪が降る寒い日が続いている。
 とはいえ、積雪量が少ないから、薄く積もる先から溶けていってしまい、日陰に残るだけなのだが、その雪ももう2週間以上もたつのにまだ残っている。
 
 家の中が寒いから、窓や戸にはすきま風を防ぐべくウレタン・テープを貼り、さらにいつものように冬の間は、床下の排気口はふさいでいる。
 そして、少し後ろめたい思いをしながらも(化石燃料を使っているという)、朝から夜寝るまでの間、石油ストーヴはつけたままにしている。
 昔は部屋が温まると、すぐに消していたのだが、年寄りになった今、頭も体も血の巡りが悪くなってきて、家の中で寒いことにはガマンできなくなってきたのだ。
 かといって、小雪が吹きつける寒い中、散歩して回るのは気分がいいし、十分に着込んでいることもあるのだろうがそれほど寒いとも思わないのだ。

 本当は散歩よりは雪の山を歩きたいのだが、年末年始の山の人出の多さを考えると、ついおっくうになって家にいたほうがいいと思ってしまう。
 そこでどうしても、山恋しさのあまり、今までに登った山々の写真を見たり、テレビで山の番組を見たりすることになる。

 そして今は、ありがたいというべきか、山ガールの宣伝効果と名山ツアー人気のためか、久々の”登山ブーム”になっていて、それはテレビ番組からいえば、定期的なものは昔はNHKの「日本百名山」だけだったものが、その後に続く「日本の名峰」を経て、今ではNHKだけでも「にっぽん百名山」と不定期的な海外登山の「グレート・サミッツ」シリーズや「トレッキング」シリーズなどがあり、また民放でもBSフジの「絶景百名山」やBS-TBSの「日本の名峰・絶景探訪」などがあり、さらにそれぞれの時節に合わせた特別企画番組などを含めれば、一昔前と比べて、テレビでの山番組が大幅に増えていると言えるだろう。

 そんな中、一昨日、BSテレビ朝日の「日本の名峰・絶景探訪」で冬の中央アルプス・木曽駒ヶ岳を取り上げていた。
 地吹雪が吹き荒れる中、乗越浄土(のっこしじょうど)を経て駒ヶ岳に向かう予定が、余りの風の強さに登頂を断念して、中途半端な結果になってしまったが、それは日程が限られた俳優・タレントを使うからであって、スタッフだけで十分に時間をとって撮影登山をすれば、ちゃんとした絵が取れるのにと思ってしまう。
 山の番組を見ている山好きな視聴者たちは、何もタレントたちが登る様子を見たいわけではなく、登っていく途中の景色や頂上からの眺めを見たいだけなのにと思うのだが。

 ただし今回の「木曽駒編」では、そんなことはともかく、何しろ晴天の山でのブリザード(地吹雪)吹き荒れる光景が素晴らしかった。
 風紋ができた雪面に、さらに風に吹きつけられた小雪の波がうねって通り過ぎていく・・・まさに美しい冬山の景観をひと時楽しませてもらったのだ。
 それは、今までに私がひとりで歩いた、冬山の雪の景観の幾つかを思い出させた・・・。

 そして、上の写真は、このテレビ番組が撮影された12月下旬よりはちょうど一か月程前に、同じようにロープウエイで千畳敷(せんじょうじき)カールまで上がり、そこから木曽駒ヶ岳(2956m)に登った時のものであり、乗越浄土から前岳方面の和合山(2911m)を見たものである。
 この時の雪はまだ30㎝位だったが、吹き溜まりでは腰までもあり、翌日三ノ沢岳(2847m)へ行くつもりだったのだが、一人でのラッセルはきつくて、途中であきらめて引き返したのだが、それにしても三日間天気も良くて、雪の日本アルプスの景観を堪能(たんのう)することができたのだった。

 私は雪山には、高気圧が真上に来た晴れた日にしか行かないので、その上に単独だから、いつまでたっても技術的には進歩しなくて、初級者のままであるが、そんな私でも比較的楽に雪山の小屋泊り山行を楽しめるのが、この千畳敷ロープウエイからの木曽駒と、西穂ロープウエイからの西穂独標、そして途中までになるが八方尾根ゴンドラリフトからの唐松岳方面や五竜テレキャビンの遠見尾根などである。
 
 雪山はいいよなあ、雪山はー。あーだから変なおじさんってかー。
 そして、展望のいいところにある小屋泊まりができれば、天気のいい時には山々の朝焼けや夕映えの光景を見ることができる。
 山の姿は春夏秋冬、それぞれに良さがあるけれども、やはりベストなのは、冬のモルゲンロート(朝の赤)やアーベントロート(夕べの赤)に染まる山の姿だろう。
 この初冬の木曽駒ヶ岳に登った時、千畳敷から見た夕映えに染まった南アルプス全山の姿は素晴らしかった。(写真 北岳と間ノ岳)

 

 思い出の一つ一つは、それぞれの場面ごとに、動画としての動く姿ではなく、まるでコマ送りの写真のように、次第に形となって浮かび上がってくる。
 私の頭の中の深いところにあって、それが何かのきっかけで一場面の姿として、前後に幾つかの場面を伴って、眼前に立ち現われてくるのだ。

 私は、その木曽駒ヶ岳の番組を見て、自分がたどったその時々の幾つかの景観を思い出したのだ。
 もしそういうきっかけがなかったとしたら、これからもそういう機会がないとしたら、私の思い出は、私の頭の中だけにとどまり、私の死とともに消え去ってしまうものなのだ。
 思い出とは、元来そうした個人の記憶にだけとどめられていて、一つ一つが固有な形として蓄えられているものであり、たとえそれが、事件やスポーツの試合などの共同目撃者だとしても、そこには個人の受け止め方の違いによる、真逆ともいえる大きな差異があることもあるのだ。

 私は、木曽駒ヶ岳の番組を見て、昔の自分の山行の時を思い出したが、それはあくまでもそうした個人的な体験があったからのことであり、他に同じ時期の木曽駒に登った人でも、その記憶の場面はさまざまなのだろう。

 そして前回少しふれた映画について、これもまた私個人の体験があったから引き出されてきた、あくまでも自分だけの思い出でしかないのだが。
 そしてその時に、相手の彼女がどう思っていたかなど、私には詳しく知りえないことであり、重ねて言えば私の一方的な思い込みでしかないのかもしれないのだ。
 そうした前置きを並べておいて、しかしあの時、私と彼女の間の距離はかなり近くなっていたのは確かだった、それが”恋人までの距離”ではなかったとしても。

 まずは話をその映画から始めよう。
 2週間前ほどに、NHK・BSで、1995年のアメリカ映画、監督リチャード・リンクレイター(1960~)による『恋人までの距離』(原題 "Before Sunrise"、)が放映された。
 私は知らない映画でも、ヨーロッパ映画ならまず録画することにしているが、アメリカ映画、特にハリウッド映画風なものはいつもパスすることにしている。
 しかし今回の映画は、アメリカ映画ながら、なんと主演は、あのキェシロフスキー(1941~96)の名三部作の二つ『トリコロール 白の愛』『赤の愛』(’94)に主演していたジュリー・デルピー(1969~)だったので、とりあえず録画してみたのだ。
 
 そしてその映画を、見たのだが、私にとってはまさに予期せぬ秀作との出会いだった。
 それはアメリカ映画とは思えない、ヨーロッパ映画の感触さえも思わせるような、たとえて言うならば私の敬愛する映画監督のひとり、エリック・ロメール(1920~2010)の、アメリカ版にも思えるほどだったのだ。
 それも、舞台がアメリカだったらそうはならなかっただろうが、出会いのパリに向かう列車の中でのシーンを除けば、ほとんどオーストリアはウィーンの街であり、それも時間を追って、翌日の日が昇るまでのほとんど一日足らずの時間の中での、互いにひかれあうフランス娘とアメリカの若者との話を、まるでドキュメンタリーで追いかけるカメラのように二人を撮っていくのだ。

 ありきたりの話題から、深い話になったり、時に機知を働かせ、ウイットに富んだ話へと移っていく、二人の会話の面白さ・・・それは、まさにロメール映画の面白さであり、さらにそれをドキュメンタリータッチで時間の経過とともに追っていくスタイルは、あの有名な『24時間の情事』(’59)でアラン・レネ(1922~)が試みたように、やがては夢となる今の、その現実の証明でもあったのだ。
 だから、お互いに強くひかれながらも、時間が来て、それぞれの現実に戻っていく二人の思いが、まるで『ロミオとジュリエット』のように痛切であり、さらに魔法から覚めた『シンデレラ』のように、その後がむなしくもあったのだ。

 そしてこの放送の一週間後、続編となる2004年の『ビフォア・サンセット(このタイトルで前回の”ビフォア・サンライズ”の意味も生きてくるのだが)』が放映されて、もちろんそれも録画してすぐに見たのだが、しかし、前作がヒットしてパート2を作るというのは二番煎(せん)じのよくある話であり、主演の二人、ジュリー・デルピーとイーサン・ホークも実際の9年後の設定の通りに、明らかに年を経てもう若くはないし、あまり期待していなかったのだが・・・作家になった彼がアメリカからパリにやってきてそこで9年ぶりに彼女に会い、またしても彼の飛行機の時間が迫っている中、日没までの半日ほどの時間しかなく、そこで前回別れた時以降の二人の続きの話があり、半ば運命論的な話へと続いていく面白さに、いつしか引き込まれてしまったのだ。
 
 脚本は、前作同様に監督のリンクレイター(写真を見るとハンサムで自らが演じてもいいほどだ)自身の手になるものなのだが、クレジット・ロールで主演の二人の名前が記されていたから、適時三人で話し合いながら完成されたものだろう。
 そしてジュリーはこの映画作りに触発されたのか、その三年後の2007年に、自ら監督となり脚本・編集・音楽をも合わせ受け持って『パリ 恋人たちの2日間』を撮ることになったのだ。

 この映画は春先に、同じNHK・BSで放映されていて、録画してはいたのだが幸いにもまだ見ていなかったので、リンクレイターの2作に続く作品として、まして新しい世代のフランス映画の一本として、期待を込めて見させてもらったのだ。
 (私には若いころにすっかり親しくなったフランス人家族の一家がいて、フランス映画を見るたびに、よくあの一家のことを、パパにママンに私の友達にその妹などを思い出すのだ。)

 ユダヤ系アメリカ人(名前からしてアダム・ゴールドバーグ)の彼とのイタリア旅行から戻った彼女(ジュリー・デルピー)は、パリに住む両親や妹、そして友達などに彼を紹介していくのだが、そこで起きる国民性の違い、民族性の違いを面白く、時には下ネタを込めて描き分けていくが、愛するという感情こそはどんな人間にも共通するものだということを結論づけたかったのだろう。
 彼女の映画は、確かに会話体を重要視して人間感情の機微を描いていくという点で、たしかにあのエリック・ロメールの流れを汲むものであるが、さらに思い出したのは、あのルイ・マル(1932~95)の『地下鉄のザジ』(’60)やジャック・タチ(1907~82)の『ぼくの伯父さん』(’58)シリーズのような、ウイットとユーモアに富んだフランス映画の伝統である”おかしみ”を併せ持っているという点である。

ただこの彼女の映画には、彼らのアヴァンギャルド風な映像やモダーンな感覚ではなく、むしろいかに今の時間をそのままに描くかに、つまり作り上げられたドラマとしてではなく、現実の話として描くかに意を尽くしていることに、私は好感を覚えたのだ。
 (余談だが、先日の『笑っていいとも』の小池栄子がゲストの時に、日本のドラマのわざとらしさのシーンをタモリが盛んに揶揄(やゆ)していたのだが、まさにそのとおりであり、そうした確かな批評眼を持ったタモリの番組の一つが消えるというのは、さびしいことではある。)

 長々と映画の話をしてきたのだが、そしてこの3本の映画についてはまだまだ書きたいことがいろいろとあるのだが、もうすっかり長くなってしまった。最初に書いたように、私がこの映画を見て触発された旅先での思い出について、これは前にも書いたことなのだが、手短に書いてみたい。
 
 私は、若いころのヨーロッパ一周バックパッキング旅行をして、その旅の途中、ノルウェーの小さな村の宿で、アイルランド娘と知り合った。
 北欧を旅行して回るという彼女と、それから二日間行動を共にした。
 さらに二人で、スウェーデン、フィンランドへと回るつもりだったのだが、三日目に彼女は体をこわして、病院で検査してもらい(彼女を待っている間、私はあの『武器よさらば』のヘンリーの気持ちを思った)、その結果は、自国に戻って精密検査を受けたほうがいいということだった。

 彼女はその日のうちに、今学生として住んでいるイギリスに戻ることになった。
 空港での別れの時、私は彼女を強く抱きしめた。
 彼女は涙を流していた。私はそのほほに唇を押し当てた。
 その時、ロンドンから始まった私のヨーロッパ一周の旅は、まだ2週間もたっていなかった。
 その後ロシアから東欧、さらに南欧などを回って、3カ月近くたって再びロンドンに戻ってきた。
 イングランド中部の町に住む彼女に手紙を出したが、1週間たっても返事は来なかった。
 その後、上に書いたフランス人の友達のパパとママンと妹がいるリヨン郊外の家を訪ねて、楽しい三日間を過ごした。
 そしてパリから、南回りでの一泊二日かかる飛行機で、東京に戻ってきた。
 しばらくして、彼女からの手紙が来た。
 彼女は、療養のために母国のアイルランドに戻っていたとのことだった。
 彼女は”Shame"という言葉を使って、自分の気配りの足りなさを嘆いていた。
 彼女とはその後も手紙のやり取りをしていて、彼女はしきりに日本に来たがっていたのだが・・・数年後、彼女から地元の自転車屋を営む男と婚約したという手紙が届いた。
 私はお祝いの手紙を送って、そのクリスマス・カードが最後になった。

 その他にも、旅の途中で親しくなった女の子が3人いた。
 その中でも、上にあげた映画と同じように、列車の中で知り合ったアメリカ人のまだ若い女の人がいた。
 それはカンヌからヴェネチアに向かう列車で、彼女はトリノで降りるからあなたも一緒に行かないかと、私にトリノの素晴らしさを説明しては強く誘ってくれたのだが、私は自分の計画通りに旅を進めたかった。
 彼女はショートカットのブラウン系の髪の色で、私の好きな歌手のアン・マレーに似た落ち着いた顔立ちだった。
 そして彼女の仕事は看護婦であり、アメリカに結婚している夫を残して、ひとり旅に出てきたのだと言った。
 
 私は、いつも何かが起きる前に、先のことを考えては、早々とあきらめてしまうのだ。
 そして、それでよかったのだと思うことにしているのだが・・・。
 
 さてこれらのヨーロッパ旅行での幾つかの出来事が、上に書いた映画『恋人までの距離』を見て思い出されたのだ。
 そして、その女優ジュリー・デルピー(写真下『ビフォア・サンセット』より)に、あのアイルランド娘の面影がどことなく重なったのだ。
 私の手元に彼女の写真がある。ジュリーほどに髪の色は明るくなく、暗いブロンドであり、顔の輪郭が似ていて、目鼻立ちはもっと落ち着いた感じだった。
 ただ、少し遠視用の眼鏡をかけていたが、外すと美人に見えた。

 もう今では、彼女も私と同じように、初老の年齢へと差し掛かったころだろう。
 私の彼女への思い出の物語に、パート2はないのだ。
 むしろ完結した小さな話として、私の胸の中に残っているだけで十分なのだ。
 そして、それも私がいなくなれば、何事もない霧の中に消えていくだけのことで・・・。

 しかし、こうしてここまで書いてきて、私は自分の思い出をたどっていくことができて、少し幸せな気分になることができた。
 今何もなくても、幾つかの思い出の引き出しを持っているということだけで・・・その出し入れができるのは私自身だけだし・・・。
 酒を飲まない私にも、ひと時、酔えるものがあること・・・ありがたいことだ。

 
 「生が一つの夢にすぎないのならば、何のための骨折りや苦労か、
  私はもう飲めなくなるまで、一日中酒を飲もう。
  そして喉と心がいっぱいになって、もう飲めなくなったときに、
  わが家の戸口によろめいて行って、ぐっすりと眠るのだ。」

 (マーラー交響曲「大地の歌」原詩 李太白による 第五楽章より:「名曲解説全集」音楽之友社) 

 
 

 

カティアとアマリア

2013-12-23 19:15:58 | Weblog
 

 12月23日

 この三日ほど、雪の日が続いていた。昨日からようやく青空が見えてきて、今朝は快晴の空だったが、早くも昼前からまた曇り空になってしまった。
 山に行きたい気分だったが、あいにくの休日だし、もう峠の駐車場はクルマでいっぱいになっているだろうと思うと、とても出かける気にはならなかった。
 やはり、せっかくの雪の山道を、できることなら静かに歩きたいからだ。
 
 家の周りにも雪が積もった。ほんの5㎝程だけど、それだけであたりは明るくなった。
 日が差し込んできて、さらに雪に照り映えていた。
 いつもは丸く刈り込んでいるカイズカイブキだが、戻ってきてもう2週間にもなるのにまだ手入れが行き届かずに、上のほうが伸び放題になっている。
 しかしよく見ると、それがなんだか雪に覆われた山の樹林帯のように見えてきた。(写真上)
 さらに強い北西の風が吹きつけて、雪が張りついていけば、小さな樹氷群ができるのではないのかと、まだ見たこともない、あの八甲田や蔵王のモンスター樹氷の光景を思いえがいてみる。

 それにしても、なんという寒さだろう。
 朝-2度、日中5度くらいなのだが、家の中にいても10度以下で寒いのだ。
 あの暖かい北海道の家が恋しくなってくる。
 こう書いてくると、何か冗談めいてくるが、薪ストーヴが家全体を暖めてくれる北海道の家と、ポータブル石油ストーヴに小さな電気ストーヴくらいしかない家では比較にならないのだ。

 その上に、家のつくりにも問題がある。
 自分で建てた北海道の家は、直径15~30㎝程の丸太壁で仕切られていて、天井と床にそれぞれ15㎝の断熱材を入れ、これまた自作の窓は二重ガラスにしてあるのだが、それに比べて、この古い家の壁の厚さは半分以下であり、天井と床の断熱材も薄くて5㎝位しかなく、それに普通の一枚ガラスの引き戸窓でしかない。

 若いころは、そんな家でもそれほど寒いとは思わなかったし、薄着で過ごしていられたのに、今じゃ上下4枚も着込んだ着ぶくれ状態で、”だるまさんがころんだ”らどうするのだという格好である。
 思えば、隙間風だらけのもっと古い家で生まれ育っただろう母は、この家でも寒いとこぼすことはなかったのに。
 生まれ育った環境の経験の差が、人を強くも弱くもするのだろう。

 ともかくそんな家なら、薪ストーヴを入れるか、自分で今はやりのリフォームをすればいいのだろうが、それぞれに問題があって踏み切れないでいるのだ。
 その上によく考えれば、冬山にも行くほどの私が、ガマンできないというほどの寒さでもないのだ。
 わずか二か月足らずの真冬、それも本当に寒い日がそう毎日も続くわけではないのだから。

 思えば、人の苦しみや喜びは限りなく続くというわけではなく、望み無きまでの飢餓(きが)感にとらわれた絶望の淵に、いつまでも居るわけでもなく、ましてや、満ち足りた幸福の怠惰なまどろみの中に、果てしなく居続けるわけでもなく、それらにはいつも終わりが来ることだし、ただ言えることは、人々はおおむね、いつも少しだけ何かに不足していてそれに耐えながら、あるいは少しだけ何かに満足してその喜びを糧(かて)に、日々生きているのだろう。
 人は誰しも、小さなさだめを自分の背に負(お)っている。初めはそれに抗(あらが)い、変えるべく試みては、いつしか疲れ果て慣れてしまい、自分の一部として受け入れていくようになる。
 それが人生なのだろう。私も、年を取った今、あれほどまでに思い悩んだ若き日のことを、今更ながらに懐かしく思うことさえあるのだ。

 3週間ほど前、BS朝日で、再放送だったのかもしれないが、「ファド、新世紀の旗手たち」という番組をやっていて、私はそれを録画して後で見たのだが、懐かしさと今に生きる新しい輝きを見つけた思いで、しばらくは何かうれしい気分になっていた。
 その1時間の番組の中では、二人の歌手を紹介していたのだが、後半の地方で活動を続けるピアノ弾き語りの男性歌手は(録音マイク・セッティングが悪すぎて)ともかくだったが、前半の女性歌手、カティア・ゲレイロの歌が素晴らしかった。

 その撮影のために作られた小さな舞台で、ヴィオラ・ダ・ギター(クラッシック・ギター)とギターラ(ポルトガル・ギター)そしてベースの3人が奏でる伴奏に乗って、彼女は歌ったのだ。

 あの有名な「マリア・リスボア」に始まって、「赤いバラ」「私の詩」「翼」の4曲。

 カティア・ゲレイロ(1976~)という名前もその歌声も、どこかで聞いていた覚えがあったのだが、ステージで歌う姿を見たのは初めてだった。
 メゾ(ソプラノ)というよりはアルトに近い少し重いしかし深くうるおいのある声質が、聞く人の心をゆさぶるのだ。

 私は、若いころのヨーロッパ一周バックパッキングの旅で、もちろんポルトガルにも行って、リスボンの山の手にある小さなレストランで、ファドを聞いた。
 若手からヴェテランまで数人の歌手が歌ったのだが、その中ほどで歌った若手の歌手の歌声がひときわ心に響いてきた。
 やがて彼女は自分の持ち歌の時間が終わって、ステージから客席に降りて、自分のレコードやカセットを売って歩いたのだが、私はまだ旅を続けなければならず、荷物を増やしたくはなかったし、もちろん余分な金もなかった。
 私は、あの聞いたばかりのファドの歌声を心の中で繰り返しながら、深夜、リスボンの石畳の道を歩いて、若い旅人達が集まる安宿に戻った。

 あの時の思い出と歌声を、テレビの中で歌うカティアが思い出させてくれたのだ。
 何より彼女は、とびっきりの美人だった。
 あの「ファドに抱かれて」というCDジャケット(写真)の通りに、両手を後ろ手に組んで、軽く目を閉じて歌う姿が素晴らしかった。

 

 ファドは、ポルトガルの民謡歌謡であり、フランスのシャンソンやイタリアのカンツォーネ、日本の演歌などと同じようにその国独特の民衆の歌だと言われている。
 ポルトガルでの”FADO”とは、英語の”FATE”と同じように、運命や宿命を意味している言葉だそうだが、そんな悲しい思いの歌ばかりだけでなく明るい歌も多いのだが、ともかくそこには人生の喜怒哀楽の場面が情緒深く歌われていて、私たち日本人の心にも通じるものがあるとも言われている。

 そして、ファドといえば、どうしてもあの大歌手、アマリア・ロドリゲス(1920~1999)の名前をあげないわけにはいかないだろう。 
 私も、彼女の歌うあの名曲「暗いはしけ」のレコードを持っていて、今ではもうめったに聞くことはないのだが、そう簡単に”断捨離”をして捨てるわけにはいかないのだ。
 この「暗いはしけ」は、あの若いころのフランソワーズ・アルヌールが主演したフランス映画『過去をもつ愛情』(1954年)の中でも取り上げられていて、今でもその一シーンを”YouTube”で見ることができる。

 昔の乏しい音声ながらも、それでも当時のアマリア・ロドリゲスの素晴らしい歌声を聴くことができる。
 今にしてなお、ポルトガルでは彼女の名声は高く、シャンソンのエディット・ピアフや日本の美空ひばりなどと同じように、永遠にその名を残す大歌手なのである。

 そして、カティア・ゲレイロは、そのアマリア・ロドリゲスの再来ともうたわれているのだが、確かに後年のアマリアの落ち着いた深みのある歌い方に似ているともいえるが、彼女はアマリアの歳月を感じさせる哀感よりは、若き日の美しい哀感を感じさせるのだ。

 それに彼女は、まさに才色兼備というのにふさわしく、いまだに現役の医師としての務めも果たしているのだ。
 つまり医者であり、今を時めく名歌手であり、なおかつ比類なき美女なのだ。
 そんな彼女でも悩みはいろいろとあるのだろう、そのつらい思いや喜びを歌として表現し聞いてもらうために、彼女をして、ファド・ハウスとしてのレストランや酒場での歌手ではなく、小さな会場のコンサートで歌う新しいファド歌手にしたに違いない。

 最近、クラッシック音楽CDでさえ買うのが減ってきた私なのに、まして他のジャズやポピュラー音楽などずっと買うこともなかったのに、(もちろんいくらAKBの歌が好きだからと言ってそのCDを買うことはないし)、そんな私がカティアの歌うファドのCDを買いたくなったのだ。
 かつて日本にも来日公演したことがあり、すでに何枚ものCDが出されている中から、何を選ぶべきか・・・ジャケット写真からいえば、上にあげた「ファドに抱かれて」が一番なのだが・・・。

 「民衆音楽は、それは時とともに風化することがない。
 ・・・民衆音楽は、常に瞑想(めいそう)の部類に属すると言わねばならない。嘆き歌や物語歌に、そのことがよく表れている。・・・。
 本当の音楽家は、本当の詩人以上に、自分の苦しみを突き放して自分の目の前に、しかも、人間の視覚に収まる距離に、たもつのだ。
 自分の不幸とすべての不幸を、過ぎ去って遠くにある対象として、じっと見つめる、こうした状態は、他に適切な言葉がないために、ときにメランコリー(憂愁)などと呼ばれる。
 こうした思い出と忘却の全体を、音楽はものの見事に形象化する。歌う魂は内部に幸福を持っているのだ。」

 (『芸術の体系』アラン 長谷川宏訳 光文社文庫)


 こうしてカティアのファドを聞いたことで、私は若き日の異国での旅の思い出を呼び覚まされて、さらに最近あるアメリカ映画の連作とそれに関連のあるフランス映画を見て、より深くヨーロッパの旅の切ないまでの思い出が、歳をとった今だからこそなのか、鮮やかによみがえってきたのだ。
 主演のジュリー・デルピー・・・確かに彼女に似ているのだ・・・。
 
 

いつの日か誰かがこの道を

2013-12-16 18:00:28 | Weblog
 

 12月16日

 10日ほど前に、この九州に戻ってきた時、バスで走る道のそばの木々は、まだ紅葉の盛りにあった。
 しかし山の中にあるわが家の周辺では、もうほとんどの紅葉は終わっていて、ただドウダンツツジの赤い色だけが、ひとり鮮やかに残っていた。(写真上)
 実は、北海道の庭にも、このドウダンツツジを一本植えているのだが、もともと北の木ではないから、伸びるのが遅く、もう10数年にはなるのに、植えた時と大して変わらない大きさのままだ。
 ただ、このドウダンツツジの紅葉は、同じように葉が赤くなる他の木々と比べて、その期間がずっと長く楽しめるのだ。

 思えば、九重山のあちこちでは、特に大船山(だいせんざん、1787m)の山腹を彩るドウダンツツジの紅葉は有名であるが、残念なことに私は、その時期にはちょうど北海道や北アルプスの山々を歩き回っていて、恥ずかしながら今まで一度もその紅葉を見たことがないのだ。
 そして、そんな紅葉の九重には、年を取ってきつい山歩きができなくなってから、登ればいいと思っていたのだが。
 しかし今、いつしかそんな年齢に近づいてきているのだ。

 今年の山歩きは、前にも書いたように、去年と同じく一か月に一度行くのがやっとのところで、それまでの年20回ほどの山行からも、もっと言えば10数年前の最盛期にはひと月三回、年36回も行っていたころから比べればなおさらのこと、情けない山歩きの回数になってしまったのだ。
 そしてそれは、別に前ほどには山に執着しなくなったとか、山登りが嫌になったとかいうのではなく、ただただ年とともに、わがままになりぐうたらになったというだけのことであるが。
 もっともそれで、なるほど年寄りが嫌がられるのは、そういうわけだったのかと、自ら納得したのだった。

 とはいっても、今年の山行は、そうして数は少ないながらも、一つ一つが十分に満足できる、というよりはきわめて印象的なベストの山行が多かったということでもある。
 その中でもあえて選べば、厳冬期に近い3月の初めの大山(だいせん、3月12,19日の項)、7月中旬の木曽御嶽山(きそおんたけさん、7月16日、22日の項)、そして8月初旬の北アルプス(8月16日~26日の項、特にあの黒部五郎岳での至福のひと時はわすれられない)、ということになるだろうか。

 いずれの時ももう歳だからと自分に言い聞かせて、コースタイム通りのゆっくりしたペースで歩いたのが良かったのか、ひどい疲れを感じることもなかった。
 思えば、むしろ若き日には無理をして、疲労困憊(こんぱい)の状態になったことのほうが多かったのだ。
 
 そういえば、こうしたゆっくりしたペースで登っている時に、思わず口の中で繰り返し歌っていた歌があった。
 それは、何とも恥ずかしながらこの年になって、この一年ですっかりお気に入りになってしまった、あのAKBの歌である。
 思い返せば、確か二三年前、Eテレでやっていた登山入門講座か何かで、息を整えていくために、演歌の一節でも歌いながら登って行くのがいいとか言っていたのだ。
 かといって、「しらかばー、あおぞーら、みーなーみかぜー」とか、「うえのはつのやこうれーっしゃ、おりたときからー」などと歌いながら登る気にはならず、といって突然口をついて出たりする、コマーシャルの一フレーズがあったりしたのだが、それが、今年になってなんとAKBになってしまったのだ。

 こんなことを、このブログに書いてみようと思ったのは、少し前に放送されたテレビでの年末特番の歌番組を見たからでもある。
 それは最初から見ていたわけではなく、たまたまチャンネルを変えた時に歌番組をやっているなと思った程度のものだったのだが、しかしずっと見続けるには余りにも忍耐を要するものだった。

 それは昔のアイドルたちが、今のアイドルたちと一緒に自分のヒット曲を歌うというものなのだが、ひどかった。
 両者ともに音程を外しっぱなしで、とても聞くにたえなかった。あれならば、カラオケで歌っているそこら辺の娘たちのほうが、よっぽどうまいと思うほどだった。
 つまり、両者ともにいつも、スタジオ録音に合わせて口パクで歌っているということだろう。
 新旧のアイドルで、ヒット曲をというアイデアは面白いのだが、生放送の実演だから、逆に歌唱力のなさを露呈(ろてい)してしまっていたのだ。

 この番組の演出・プロデュサーが、自分の首をかけて、今の若い歌手たちを批評の俎上(そじょう)に乗せるつもりでやったのなら、すごいブラックな告発番組だと思えるのだが、そうでなく真剣に番組作りをしたのなら、もう何をか言わんやであるが。
 新旧の歌い手たちが、当時の歌をデュエットする場合、歌唱力が確かなクラッシックや演歌・民謡の歌手たちならば、確かに興味深く面白く聞けるのだが、下手な二人が歌えばもうそれは自分たちだけの宴会の席での歌でしかないのだ。
 確かに、この番組には”何々祭”というタイトルが付けられていたのだが。

 話は変わるが、しばらく前にNHKの『日本の民謡』で、ある若い民謡歌手が、すでに定評のある歌手の歌もあり難曲でもある、あの「道南口説(くど)き」を見事に歌いきったところを見たのだが、その時私は、しばらくの間ぼうぜんとしてしまうほどだった。
 あーあ、録画しておくべきだった。もともと民謡の番組自体が少ないし、その後あの歌手による同じ曲を聴いてはいないから、なおのことなのだが。

 話はそれてしまったが、なぜそんな歌番組のことを書いたかというと、その時はそれ以上聞くにたえずすぐに他の番組に変えて、しばらくして次にその歌番組を見た時に、ちょうど谷村新司があの名曲「昴(すばる)」を、デーモン小暮にAKBのバック・コーラスで歌っていたのだ。
 中高年のおじさんたちには、とみに人気が高いこの曲は、当然のことながら、この私の好きな曲でもある。

 歌の心は、詩にあり、曲にあり、そして歌い手にある。
 昔の歌は、ほとんどが文学的才能のあるプロの作詞家が書いていたから、その内容は心に響き不自然なところも少なかった。
 ところが今の歌手たちの歌う歌は、半数以上が十分な経験もないままに書いた、自作自演の単なる歌のための詩だから、どうしても拙(つたな)く思えてしまう。
(その一方で、今のアイドルであるAKBの歌の作詞は、あの美空ひばりの「川の流れのように」の作詞家でもある秋元康が書いているのだ。)
 
 そういうことを考えると、谷村新司が自分で書いたこの詩には、私たちおじさんたちをうならせるだけの、文学的表現力を感じ取ることができる。
 もっとも、この「昴」については、盗作だとかという非難を浴びたこともあったのだが、果たして私たちは、自分の文章や話し言葉を、今まですべて、自分のオリジナルとして作り出してきたのだろうか。
 思うに、学ぶことはすべて、赤ん坊や子供たちの成長過程を例にあげるまでもなく、まずはまねることから始まるのだ。

 彼の「昴」の詩が、あの石川啄木(1886~1912)の歌集『悲しき玩具』の冒頭の二編からきていることは疑うべきもないことだが・・・、

  「呼吸(いき)すれば、
  胸の中にて鳴る音あり。
   凩(こがらし)よりもさびしきその音!」

  「眼閉づれど、
  心にうかぶ何もなし。
   さびしくも、また、眼をあけるかな。」

 (「現代日本の文学」石川啄木より 学習研究社)

 この歌はわずか26歳で死ぬことになった啄木が、当時不治の病であった結核になったことを、はっきりと自覚し始めたころの歌であり、さらに最初は、この歌集『悲しき玩具』の中にはおさめられていなくて、死後、編者によって冒頭に掲げられることになったものである。

 その歌と、俗世界から離れ行く心の旅人を歌った谷村新司の詩とを比べれば、両者の伝えようとするところは全く別な世界であることが分かる。
 上にあげた死に向かう二首の歌の中に、彼はただ、言い知れぬ孤独な感情を読み取り共感したのだ。
 私はこの「昴」を初めて聴いた時、むしろ彼が、石川啄木までも読んでいたという、その文学的素養に感心したのだった。
 それを、盗作だと指摘する人たちの、心の貧しさを思ってしまう。

 話がまたまたそれてしまったが、山登りと歌というここでのテーマに戻れば、特にこの「昴」の中で終わりのほうで出てくる一節、
 
 「ああ、いつの日か誰かがこの道を・・・」

 というところが好きで、たとえば道のない日高山脈の山々での、誰もいないかすかな踏み跡の道や、雪の斜面にかろうじてぼんやりと残る足跡をたどって行く時には、そのフレーズが思わず口をついて出たものだった。

 そしてその歌番組での「昴」で、バック・コーラスを歌っていたAKBの曲では、あの「フォーチュン・クッキー」はテンポが早すぎて無理だけど、春先にヒットしていた「So Long(ソー・ロング)」は、登山の時に歌うといいとされた演歌のテンポに近く、あの夏の木曽御嶽山の時は、よく口の中でひとりモゴモゴと歌っていたものである。
 
 「So Long・・・ほほえんで、So Long・・・じゃまたね、・・・思い出が味方になる、明日からは強く生きようよ・・・」
 
 ”歌は世につれ、世は歌につれ”なのかもしれないけれど、そこに個々人の思いが加わり、人それぞれの歌への思いが込められることになるのだろう。
 私が歌う歌は・・・とても人様に聞かせられるものではなく、誰もいない家の中で小声で歌う程度のヘタな歌で、と言って時には自分はうまいのではと思ったりして・・・まあそれも、例えて言えば、”鬼が便所でまんじゅう食べている”様なもので、はい、他人様から見れば、ただ怖くて、臭くて、少しはうまいかなよく味はわからないけれど、といったたぐいのものにすぎないのだが。

 毎日、朝はマイナスまで下がり、日中でも5度を超えるくらいで、家が古いから余計に寒い日が続いている。
 そんな中でも、庭の日陰にあるサザンカの花が、今も次々に咲き続けている。(写真下)
 北海道の家の小菊がそうであったように(12月2日の項)、もう虫たちもいなくなっただろうに、まだ夕べに飛び回る蛾たちでもいるのだろうか。
 さえざえとした、その薄桃色の八重咲きのサザンカ、二輪・・・。


 

 
 

飛行機からの眺めとナイス・ランディング

2013-12-09 19:56:25 | Weblog
 

 12月9日

 数日前、北海道から九州の家に戻ってきた。
 いつもの時期より遅くなったのだが、それはなかなかに北海道を離れる決心がつかなかったからだ。
 
 薪(まき)ストーヴを燃やしている暖かい部屋で、揺り椅子に座って暮れなずむ窓の外の景色を見ていると、もうどこにも行きたくはなくなってしまう。
 クルマに乗って買い物に行くのでさえ、近くの温泉に行くのでさえ、おっくうになってしまう。まして九州にまで行くなんて。

 このまま静かに揺り椅子を揺らしながら・・・バッハの”平均律”の音の流れを聞きながら・・・すっかり葉を落とした林の向こうに沈んでいく夕日を見ている・・・ああ、穏やかに生きていくことに、何の悔いがあろうか。
 私が最もそばにいることを望んだのは、若き日に愛した娘たちでもないし、家族たちでもない。
 実は、ひとりだけのこの穏やかなひと時だったのではないのだろうか。
 もちろん、それ相応の寂しさの大きな代償を支払いながらも・・・。

 そして、日に日に寒くなってくる。日陰の雪はもう溶けることはないだろう。
 その寒さが嫌だったのではない、あの-20度になる朝夕の雪原を、ひとり歩きまわることが、何にも増しての私の喜びなのだから、この冬にこそそのまま居たい場所なのだ。
 
 だけれども、哀しいかな、私はもう若くはないのだ。
 夜中にトイレに起きるようになって、そのたびごとに外のトイレに出るのが嫌になってきたのだ。
 まして大雪になった時に、トイレに行くのがどれほど大変なことか。若いころにはそれでさえ、面白い体験だとさえ思っていたのに。
 さらに、もともと井戸水の出が悪い所だから、真冬に渇水になることはないが、そんな水では洗濯もできないし、風呂にだって入れない。
 1週間に一度、町に買い物に出る時に、コインランドリーで洗濯をすませ、ようやく町の銭湯にも入ることができるのだ。
 若いときには、それでも十分だった。

 しかし、すっかりヨイヨイのジジイに近づいた今、もう夜中のトイレは家の中ですませたいし、風呂も毎日入りたいし、晴れてさえいれば洗濯も毎日でもしたいのだ。
 九州の家ではそれができる。私は決心して、この冬も北海道の家を離れることにした。

 もちろん九州の家での問題もある。もう数十年にもなる家だから、あちこちすきま風が入ってきて、ともかく寒いのだ。
 九州とはいえ山間部だから、数十センチの雪は積もるし、最低気温も-10度くらいまで下がる。
 それなのに暖房は、ポータブルの石油ストーブと電気コタツ、それにトイレなどに小さな電気ストーブを置いているだけで、北海道にいる時よりも厚着をしなければならないというありさまなのだ。

 まあそんなことは世の中にはよくあることで、あちらを立てればこちらが立たずと、いつも相半ばするところで妥協満足しなければならないのだ。
 とはいっても、北海道と九州を行ったり来たりということができるだけでも、”ぜいたくな不便さ”とでもいうべきか。
 その行き来に、まして大好きな飛行機からの眺めを楽しむことができるとあっては、文句を言ってはバチがあたるというものだ。

 その昔、飛行機にはあまり大幅な割引運賃がなくて、とても片道数万円もする空路で行くことなどは考えられなかったから、寝台列車や長距離フェリーの乗継で行くほかはなく、ただ途中の東京には、泊めてもらえる友達たちがいたし、ついでに地方では味わえないコンサートや美術展、新作映画などを見に行くこともできたし、時間はかかってもそれなりに悪くはなかったのだが。

 今回、北海道から九州に戻るにあたって、途中の東京で降りることもなく、つまりコンサートにも美術展にも封切映画も、大型書店にも輸入CDショップにも、秋葉原電気街(AKBを見に行くためにではない。念のため)にも行くことなく、一気に戻ってきたのだ。
 つまり、様々な楽しみがある東京さえも立ち寄るのが面倒になり、素通りしたということだ。
 折しも東京では、美術展でいえばあの「クレラー・ミューラー美術館展」と「ターナー展」の他にも「カイユボット展」に「モローとルオー展」や「印象派から世紀末絵画展」など、絵画ファンにはたまらない企画が勢ぞろいしており、できることなら東京に二泊はしてゆっくりと見て回りたい程だったのだが、特に”クレラー・ミューラー”と”ターナー”は二度と見られないかもしれないのに。

 それでも、東京に泊まらなかったのは、このところずっと書いているように、すっかりぐうたらになったからであり、さらに前回書いたように、「少しは不便でもいいから、もっとのんびりさせておいてほしい。」という思いが強くなったからでもある。

 さて北海道・帯広から東京への便は、もし右側の席ならば日高山脈の山々を、その末端の襟裳(えりも)岬までを眺めて、その後はしばらく海の上を飛び、そして大津波の跡が残る三陸海岸から東北地方に入り、それぞれの名山を眺めて最後には遠く富士山までも見ることができるのだが、その日はあいにく左側の席であり、福島上空に至るまでずっと海しか見えなかったのだが、今回はその海上に点々と連なる積雲が、海とともに日の光に映えて、何とも見あきることのない光景だった。(写真上)
 もっとも毎日忙しい仕事に追われているだろう人たちは、窓のシェードを下して、束の間の休息や眠りをとっているようだった。
 窓の外の光景に一喜一憂するのは、毎日出かけることもなく家にいて、ヒマに過ごしている私くらいのものだろう。

 この日はちょうど高気圧が日本の真上に来ていた。
 東京から福岡に向かう便では、さらなる景観が私を待っていた。
 席は通路側だったのだが、それはそれでいい。つまり中央部の非常用ドア部についている小さな窓のそばに、いつでもすぐに駆け寄れるからだ。それも右側にも左側にでも。誰もそんな窓から外の景色を眺めたいとは思わないから、いつも自分だけで心おきなく外を見ていることができるのだ。

 羽田空港から東京湾をぐるりと舞い上がって、丹沢山系に差し掛かるともう待ちきれない。そのあたりでは、電子機器類禁止やシートベルトのサインも消えたころで、私はうきうきとした気分でその小さな窓に駆け寄りカメラを構える。
 もう冬の姿になった富士山の姿が、大きく素晴らしい。(写真)

 

 やや逆光気味で、さらに午後の時間だから少し空気がかすんでいるが、文句は言えない。そして小さな窓だから、正面に来たほんの少しの間の時間しか撮れないのだ。
 去年も良かったが、今年も悪くはない。何度見ても飽きることのない偉大な山の姿だ。(’12.12.3の項参照)

 普通の座席の窓側からだと、その窓いっぱいにカメラを動かせて丹沢上空から静岡上空ぐらいまでの長い間、写真を撮ることができるのだが。ただしこの窓ならではの利点もある。すぐに今度は反対側に移動できるからだ。
 もし普通座席の窓側に座っていれば、反対側の小窓へ行く時は、隣に座っている人たちに迷惑をかけながら座席を離れなければならない。
 ベストな状態は、機内がガラガラに空いていて、特に後部座席のほうで窓側の両側とも空いている時であり、心おきなく行ったり来たりして山々を眺め写真を撮ることができる。

 そんな意味からいえば、若き日に行ったヨーロッパ旅行では、南回りの格安航空券で、香港に一泊さらに機中泊と三日もかかったのだが、いずれも機内は空いていて、思う存分窓からの眺めを楽しむことができたのだ。
 それからも私の思いは変わらず、飛行機に乗ったらなんとしても窓からの眺めを楽しむことが一番の大きな目的であり、いい天気の日には運賃のほとんどはその眺め代といってもいいくらいだ。

 今までかなりの回数の飛行機に乗っているが、窓側でなくそのうえ上空までも雲に覆われて、まったく楽しめなかったというのは、数度あるかないかだろう。そのうちの一つは、この夏の北アルプス山行の後、ちょうどお盆の時期に重なりやっとの思いでキャンセル待ちで乗ることができたあの時だ。(8月26日の項)
 それでも、山にいた時の黒部五郎岳があまりにも素晴らしかったから、飛行機からの眺めがなかったことなど、まったく大した問題ではなかったのだが。

 さて右側の窓へと移る。見えてきた。南アルプスの山々だ。(写真)

 

 そしてこちら側は、順光で空気も澄んでいて、山々がはっきりと見えている。白根山脈の北岳(3193m)、間ノ岳(3189m)、農鳥岳(3026m)と並び、左上に仙丈ヶ岳(3033m)、上に甲斐駒ヶ岳(2967m)といつ見ても素晴らしい。
 下から登る途中の山腹の雪はまだ1メートルもはないだろうから、何とかラッセルして稜線に上がれば、少し風は強くなっても、雪は少なく凍り付いていて、アイゼンがガシガシと効いて、気持ちよく歩いて行ける。あの岩場の斜面を上がれば頂上だ・・・なんて、想像してみる・・・実際はもうそこまで行く元気はないけれど。

 左側の座席から見えるのは富士山だけだけれども、この右側の窓には次々に山々が見えてくる。中央アルプス、木曽駒ヶ岳(2956m)や宝剣岳(2931m)から続いて、空木岳(2864m)に南駒ヶ岳(2841m)と縦位置に連なっている。(写真下)
 その上のほうに少し雲に隠れながらも見えているのは北アルプスの山々だ。
 奥穂(3190m)の吊り尾根から槍ヶ岳(3180m)、大天井岳(2922m)、常念岳(2857m)とはっきりわかり、その後ろに裏銀座から後立山の山々が続いている。

 そして最後のフィナーレを飾るのが、この夏に登ったばかりの木曽御嶽山(おんたけさん、3067m)だ。少し離れて乗鞍岳(3026m)の一群も見えている。
 日本で最も高い山々のすべてを眺めることのできる、なんと心ときめく思いのひと時だったことだろう。
 この眺めのためだけに飛行機代を払ったのだとしても、何の後悔もない。その上に、目的地の九州へと時間移動させてもらったのだから。
 
 「シートベルトをお締め下さい。当機は間もなく着陸態勢に入ります」とのアナウンス。
 眼下の海の広がりは、福岡の街並みに代わり、そして飛行機は低く下がっていき、滑走路の上に、実に静かに接地して、停止のための逆噴射も少なかった。
 見事な、ナイス・ランディングだった。

 その昔、オーストラリアを旅した時に乗った地方のプロペラ機で、今回のようなソフト・ランディングだった時、思わず機内の乗客から拍手が起こり、”Nice Landing!”と声をかけられたりしていた。
 私も、今日の着陸ぶりは、久しぶりの見事なソフト・ランディングだったから、拍手したかったが、もちろんここは日本であり、それも札幌便と並ぶ利用者が最も多いドル箱路線なのだ。
 それも30分、1時間おきにダイヤが組まれた大都市間の新幹線並みの路線なのだ。
 人々はこの大型機のソフト・ランディングを当然のこととして、いつものように着陸しただけのことだと思い、ランウエイを走る間にもうシートベルトを外す音が聞こえていた。

 先日、NHK・BSで、『ハッピーフライト』(2008年)という映画をやっていた。あの大河ドラマ女優でもある綾瀬はるかのまだ若いころの映画であり、昔の『スチュワーデス物語』みたいなドタバタ・CA(客室乗務員)物語かと思っていたが、ともかく録画しておいて後で見たのだが、ドラマの筋立てや出演者はともかく、なんといっても飛行機整備や操縦室、客室乗務員、管制塔、空港グランドスタッフなどとのそれぞれの関連事項など、知らないことを次々に見せてくれて、”目からうろこ”式に教えられることが多く、いつも乗っている飛行機なのに、さらに関心を抱かせるような映画だった。
 もちろんそれは、映画に芸術至上主義を求めたい私には、物足りない部分が多すぎたのだが、ドキュメンタリー的な要素でそれを補えるだけの、まずは一見の価値ありといえる映画だった。

 その中で知ったのだが、ナイス・ランディングとは静かに衝撃も少なく止まるソフト・ランディングだけではなく、向かい風や横風からの危険を避けるために、そして雨や雪で滑りやすい時などに、ブレーキを効かせてドスンと着地することもあるということ、ひいてはそれが、機体の安全や乗客の安全にもつながるということ。
 知らなかった。時々あるドンと音を立ててのあの乱暴な着陸は、単なるパイロットの経験の差だと思っていたのに(それもあるのだろうが)、事前に危険を回避するための一つの手段だったとは・・・。

 昨日たまたま見た夕方のテレビで、日本刀の刀匠でもある和包丁(わぼうちょう)の匠(たくみ)が、鋼(はがね)に焼を入れて鍛錬(たんれん)していくさまを映し出していた。
 78歳になる匠は、800度という温度を温度計で測ることなく、その焼き色だけで1度たりとも間違えずに言い当てていたのだが、彼は聞かれて、「なるほどそうだったのかとわかることが今でもある。生涯まだまだ学んでゆくことばかりです。」と言っていた。 
 名人にしてこの言葉あり、まして俗人においておや。

 私の人生のソフト・ランディングへの思いは、果たしてナイス・ランディングになるのだろうか。
 それが、ハッピー・フライトであったと思いたいのだが・・・。

  
 

寒菊と上ホロカメットク山

2013-12-02 17:20:55 | Weblog
 

 12月2日


 雪の残る庭の片隅に、赤紫色の小さな寒菊の花が咲いている。(写真上)
 ここは、北海道でも雪の少ない地方だとはいえ、それだけに寒さは厳しいのだが、そんな中、この花は毎年11月半ばからの今の時期に咲いているのだ。
 もう外には蝶や虫たちもいないのに、毎日続くマイナスの気温(一昨日は-7度)に耐えて咲いている。
 それぞれにいくつかの小さな花と葉をつけて、数十本の集団となって、もうずっと前からそこに咲いているのだ。

 人間の手によって耐寒性を持つように改良された、栽培種の小菊の花。
 この菊の花は、もうずいぶん前のことだが、今はもう亡くなってしまった近くの農家のおばあさんにもらったものであり、その時に植え付けたほんの一束の小菊の株が、年ごとに少しずつ増えてきたのだ。
 
 何度かこの北海道の家にやってきた母が、この小菊を気に入って、その数本を持ち帰って九州の家の庭に植え付けたのだが、しかし北海道の庭の花ほどには元気がない。やはり、その土地だけに合う花もあるのだろう。
 そして今、もう他に花がなくなったこの時期に、ただ一かたまりになって咲いているこの寒菊は、見て楽しむだけでなく、いつも母の仏壇にと花瓶に入れて供えることにしているのだ。

 ただ残念なことには、この花は日持ちがせずにすぐに枯れてしまう。
 そこで、茎を切るときに水切りをしたり、葉をむしり取り減らしたり、あるいは咲き始めのものだけにしてみたのだが、どうしても3日ともたずにすぐに枯れてしまうのだ。
 だいたいは、花屋で売っている切り花の中でも、菊の花はよくもつ方であり、それも小菊ではなく大きな菊の花の場合は、一二週間どころかうまくいけば三週間もったことさえあるくらいなのに。

 なぜなのかと考えてみたのだが、今の時期、外の気温は日中でも5度に満たないくらいであり、まして最低気温は-5度前後まで下がるというのに、家の中の気温は、朝冷え切った時でも10度位はあり、それからストーヴに火をつけて時間がたてば、部屋の温度は20度近くまで上がることになる。
 つまり、わざわざ、虫たちもいない冷え切って霜の降りる時期、雪の降る時期に咲くこの寒菊にとって、今の寒さこそが、居心地の良い気温なのではないのだろうか。20度の部屋の中では、暑すぎるのだ。

 ”やはり野に置け、れんげ草”のたとえ通りなのだろうか。

 植物にとっても、虫たちにとっても、その他の生き物たちにとっても、それぞれに人間世界とは全く別の、人間たちの考え方ではわからない、それぞれに住みやすい環境世界があるということだ。

 そこで思い出すのは、今までもこのブログで何度かあげてきた、あの言葉だ。

 「少しは不便でもいいから、もっとのんびりさせておいて貰(もら)いたい。」

 これは尾崎一雄(1899~1983)の『虫も樹も』の中の一節であり、思い返せば、私が東京を離れてこの北海道に移ってきた理由も、それからの生活も、まさにこの言葉通りであったような気がする。
 もっとも、そうしたことで自分にとっては、結果的に良くないこともあったのだが、良くも悪くも自分で決めた結果だし、それはプラスとマイナスの半々であり、悪くはなかったのだとそう思えばいいことなのだ。

 他にも、彼はこの短編の中で、こうも書いている。

 「しかし、私の今考えているのは、なんでも発見し、何でも発明し、何でもやってやろうという人間の――根性についてである。止め度のない人間の根性。もういい加減にしてもらえないだろうか。・・・。

 私は月旅行なんかしたくない。火星かどこかに土地を持とうなどとは思わない。一発の爆弾で十何万人の人間を殺して何が面白いのか。」 

(以上、今手元に講談社文庫版の尾崎一雄の『虫も樹も』がないので、中野孝次『人生の実りの言葉』文春文庫より転載)


 思えば、この地球上に生きている生き物たちは、すべてそれぞれに生きる世界があり、この世に生きている人たちもまた、それぞれに生きていく道があるのだ。

 想像できないほどに寒くて、疲れるばかりの冬山に登るなんて、とても考えられないという人のほうが圧倒的に多いのだろうが、それでも一部の山好きな人たちは、そんな寒さや困難を承知の上で、冬の山に向かうのだ。
 そして、あの長いアイスバーンの急斜面が続く冬の富士山で、数人の滑落(かつらく)遭難事故があったとのニュース。
 それも初心者などではない、ちゃんと冬山装備でアップ・ザイレンした(ザイルでつなぎあった)ベテランの山岳会所属のメンバーたちだというのだ。

 前回取り上げた、7人もの死者が出た立山での雪崩遭難事故も含めて、冬山については考えさせられることが多いのだが。
 体感温度-20度にもなるような烈風(れっぷう)が吹きすさび、降り積もった雪で雪崩の危険もあり、また吹きさらしの凍結斜面ではいつでも滑落の恐れがあるのに、なぜにそんな危険を承知の上で、冬山に向かうのか。
 今回の富士山の場合は、遭難者救助の訓練だったというのだが、そのもとにあるのは、冬の厳しく美しい山の姿を見るためにあったはずだ。
 つまり、山好きな人にとっては言うまでもないことだが、彼らが冬山を目指すのは、それは何にもまして、純白の雪に覆われた山々の景観を見たいがためなのだ。

 あの立山での雪崩遭難事故と同じころに、北海道は十勝岳連峰にある上ホロカメットク山(1920m)でも遭難が起きていた。
 これもある山岳会の数人のメンバーの遭難なのだが、悪天候の吹雪の中、退避中に一人が低体温症のために亡くなっている。

 冬山では、それにふさわしい装備や技術の他に、雪崩の危険を察知する能力とそのための学習、天候状況の判断(晴れていてもブリザードが吹き荒れることがある)、など夏山とは比べ物にならない配慮と注意が求められるのだ。
 いつでも単独行の私は、それでも冬山に登りたいから、その中でも第一条件となる天気の日を選んで行くことにしている。
 つまり、高気圧の中心が登る山の真上に来るような日、一冬にそう何日もはない絶好の日和(ひより)の日を選んで、雪山に登ることにしているのだ。

 だから、悪天候の危険や氷壁登攀(とうはん)などの経験のない私は、いつまでたっても冬山の初心者でしかない。
 しかしそれは、私が山というものに、踏破や征服さらに技術訓練などといった、冒険、スポーツ的な要素を求めていないからでもあり、いつでもただ山登りだけの楽しみや、山岳景観の楽しみなどしか求めていないからでもある。
 したがって、いつまでたっても登山上級者にはなれないし、またそうしてまで技術向上のための訓練を受けたいとも思わない、つまりぐうたらで楽をしていい眺めを見たいというだけの、山好きおやじにすぎないのだ。

 ひとりでゆっくりと山に登り、誰にもじゃまされずに周囲の眺めを楽しんでは、写真に撮り、家に戻ってひとりニヒニヒと笑みを浮かべながら、山々の写真を見る・・・それは、究極のぐうたら山オタクの姿なのかもしれない。
 そんな私が今までに撮りだめてきた、上記上ホロカメットク山の写真のうちの一枚である。

 


 数年前の11月上旬。、圧雪アイスバーンの曲がりくねった山道を十勝岳温泉まで上がり、そこから雪道を三段山(1748m)に登って、快晴の空の下でただひとり、十勝岳(2077m)や上ホロカメットク山や富良野岳(1912m)の眺めを心ゆくまで楽しんだのだ。
 それは高気圧に覆われた穏やかな日で、風も強くはなく、雪も稜線で10㎝吹き溜まりで50㎝程であり、それほどラッセルで苦労することもなかった。

 今は、この富良野岳温泉から三段山に登る道は雪崩の危険のために禁止されてはいるが、同じように夏道通りに行く上ホロカメットク山へと向かうルートとともに、初冬のころまでは何とかトラヴァース道を通ることができて、手軽に雪山を楽しめるし、さらに北側の望岳台からのコースになる十勝岳(’09.11.9の項参照)や美瑛岳(2052m、’10.10.12の項参照)とともに私のお気に入りの山域になっている。
 
 しかし今年は、すっかり怠けぐせがついて一向に出かける気にはならず、十勝地方を取り囲む山々の峠越えも、いつしかほとんどが圧雪アイスバーンになってしまい、とうとう行く機会を失ってしまった。
 となれば、残すは机上(きじょう)登山ならぬパソコン画面登山だ。
 スキャナーからのフィルム時代のデジタル画像と、デジカメ時代になってからの画像を繰り返し見ては、あの日の山々のことを思い出しニタニタとほくそ笑むのだ。

 三段山に登ったこの日は、確かその三段山の南面のジグザグ道では雪が多く、覆いかぶさる木の枝の雪を振り払いながらで少し苦労したが、稜線に上がると、雪は吹き飛ばされて地面が見えるところもあり、眺めを楽しみながら歩いて行くことができたし、何より上にあげた写真のように、主稜線の山々の素晴らしさに圧倒されたのだった。

 そしてさらに、三段山の頂から東にたどり、急降下の岩稜帯になる手前まで行ってみた。
 ここから下って登り返せば、大砲岩を経て十勝岳と上ホロカメットク山との間の主稜線に出るのだが、夏道の時でさえ少し注意が必要ルートであり、まして雪山だからそれ以上行く気にはならなかった。
 しかし、そこまでで十分だった。圧倒されるような上ホロカメットク山の北西壁と、振り返ってみれば三段山への対照的になだらかな尾根道が続いていた。(写真下)

 こうして、私でも登ることができるような冬山だけにとランクを下げても、十分に雪山の美しい景観を目にすることはできるのだ。
 ずいぶん昔のフィルム会社のCMではないけれど、”それなり”に自分が楽しめればそれでよいのだ。
 私はもう若くはないし、これからのために学ぶよりは今までの経験だけで、それでも慎重にじっくりと山を楽しみたいのだ。

 私は、寒さに震えながらもひとり身を引き締めている、あの庭の寒菊のことを思う・・・。