ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

飼い主よりミャオへ(138)

2011-05-28 21:21:48 | Weblog



5月28日

 拝啓 ミャオ様

 前回、南日高の山に登って(5月7日の項)から、もう3週間も間が開いてしまった。登ろうと思っていた日高の山も、ただでさえ雪が少ない上に、暖かい日が続いて、大分雪が溶けてしまい、ヤブ尾根をたどることはできなくなってしまった。
 そこで、それなら林道の雪が溶けて、奥まで入れるだろう山々のことを考えて、東大雪の山の一つ、石狩岳に登ることにした。
 
 この山には、今までに3回ほど登っているが、思えば前回の登山からは10年以上もたっている。それは、まだフィルム・カメラを使っていた時代のことで、その時の、青空を背景にした山々の写真も残っているのだが、今の液晶画面で楽しむわけにはいかない。
 そこで、あらためてデジタル・カメラで山の姿を撮って、例のごとく大画面に映して、ひとりニヒニヒと、薄笑いを浮かべながら楽しみたいのだ。
 明日の天気予報は、全道的に晴れマークがついているし、よし、久しぶりに、石狩岳に行くべと決めて、早めに寝た。とは言っても、翌日、いつものように4時頃には目が覚めたのだが。
 外は深い霧で、早速、気象衛星画像を見ると、大雪や日高山脈の回りに雪ではない雲が、うっすらと映っている。大雪山旭岳のライブカメラでも、少し雲がかかっていた。

 心配になって、気象庁発表の5時の天気予報まで待った。やはり、変わらずに、全道的にも晴れのマークだ。気になるのは、気温の高さだ。昨日の午後から天気が回復して、一気に気温が上がり、夏日の25度くらいになるという。
 気温が急に上がると、雪崩(なだれ)の心配もあるが、私にとってはそれ以上に、雪解けなどで水蒸気が満ちて、春霞のようにぼんやりとしか山が見えなくなるのが気がかりなのだ。
 今まで、天気の日でも、かすんで山がよく見えなかったことが何度もあった。何よりも、山岳展望を山登りの楽しみの第一にしている私には、山がかすんで見えないことは、雲が多い日と同じように残念なことなのだ。

 さて、これは年を取ってきてからの、私の悪いクセなのだが、ベストの時をねらう余り、出かけるのに慎重になり、グズグズと時間を過ごし、行きそびれたり遅くなったりしてしまうのだ。
 しかし、これから1週間の天気予報では、もう天気の良い日はないとのことだし、ついに決断して家を出た。

 山々に近づいてくると、確かに霧は取れて、青空が広がっていたが、もう気温も上がっていて、糠平(ぬかびら)辺りから見るニペソツや石狩の山々も、少しかすんでいた。
 元は御殿飯場跡と呼ばれていた、二十一の沢出合いの登山口に着いたのは、もう8時に近かった。もちろん、こんな時期の平日だから、他にクルマがいるはずもなく、人の気配もなかった。
 しかし、目の前の、何という素晴らしい石狩連峰の眺めだろう。川上岳(1894m)からポン石狩(1924m)、石狩岳(1967m)そして音更山(1932m)へと白雪の山稜が続いている。
 この光景を見ただけでも、やってきた甲斐があるというものだ。しかし、これから登る、そのシュナイダー尾根を見上げて思った。余りにも時間が遅すぎる、今日の、時間に制約がある中では、もう頂上までは行けないだろうと。

 ともかく、プラスティック・ブーツをはきストックを手に、出発した。
 昔は、すぐの所で仮の丸太橋を渡り、右岸側を歩いた記憶があるが、今は左岸に、河岸段丘のササ原を刈り分けて開いた立派な道が続いている。
 先で沢を渡り、急な尾根に取りつく。ジグザグに登って回り込み、尾根上に出る。

 それにしても何という暑さだろう、夏山と変わらない汗が流れ落ちてきて、ともかく一休みだ。
 ルリビタキの声が聞こえる。大雪の山々に初夏の訪れを告げる、あの夏鳥たちがもう鳴いているのだ。樹々の間から、ニペソツ山(2013m)が見えていたが、背景の青空は白っぽく、ようやく輪郭が分かるほどにかすんでいた。
 初めて、石狩岳に登った時、それは7月の初めのころだったが、空は青く澄み渡り、今と同じこの辺りから、原生林の上に一際鋭くそびえ立つ山を見た。
 残雪を刻んだ、孤高の北の山の姿、その雄々しいニペソツ山の姿に、いたく感激したものだった。

 下草にはササが茂り、エゾマツ・トドマツにダケカンバの樹々が混じった細い尾根道は、初めのうちはゆるやかだったが、次第に勾配が急になってきた。
 さらに、まだらに雪が出てきた後、ササが雪の下に隠れ、ハイマツが現れ、ダケカンバが目立つようになってきた。そして、尾根の雪は所々で両面雪庇(せっぴ)の危険な場所となり、慎重に登って行く。(写真上、尾根からの川上岳、ポン石狩、石狩岳へと続く山稜)
 
 雪の上には、たまにシカの足跡があった位で、恐らくはこの5月の連休でさえ、人が入らなかったのだろうと思われるほどに、全く靴跡の痕跡(こんせき)すらなかった。
 固定ロープの岩場を越えて上がると、すぐ上に、国境稜線の雪庇の連なりが見えてきた。しかし、登りはじめてもう4時間近くもたっていて、12時になろうとしていた。
 あの国境稜線に着くには、まだこの雪の尾根を30分以上も登り続けなければならないし、それから頂上まで1時間はかかるだろう。
 朝2時間早く家を出ていれば、昼前には頂上に着いただろうに。それでも、この1650m地点で引き返すのは、私には十分にあきらめのつくことだった。

 それは、頂上からの展望が、このかすんだ空気の状態では、たいして期待できないこと、さらにまだ脚の疲れはなかったのだが、雪山のためのプラスティック・ブーツをはいて、長い間、雪のない道を歩いてきたので、外反母趾(がいはんぼし)気味の足先が痛くなった(普通の登山靴にするべきだった)こと、帰り道に寄るはずの友達との約束の時間があることなどである。
 言い訳はともかく、要するに、今日は出だしから遅すぎたし、天気なのに展望が今ひとつで、すっかりやる気を失っていたのだ。こんな時には、無理をしないほうがいい。

 私は、ハイマツの枝に腰をおろして、山々の景色を眺めた。登ってきた雪稜の尾根の向こうには、十勝三股の森林帯が広がり、彼方にはクマネシリの山々が見え、右手には、これもかすんで、ニペソツ山が高い(写真下)。そのニペソツから天狗岳への連なりの端には、去年登ったあの1618m('10.5.30の項)のピークが、可愛いらしい姿で見えている。
 振り返り尾根の上を見ると、覆いかかるように、この石狩岳の山なみが迫ってくる。川上岳から音更山、ブヨ沼尾根と、周りをぐるりと取り囲んでいるのだ。
 その昔、私は若く、石狩に登った後、音更山も往復して、まだ日の高いうちに、この登山口まで戻ってきた。さらに、二度目の時には、石狩から川上岳、さらにニペの耳(1895m)までを往復して、まだ明るい夕方前に戻ってきたこともあったのに。
 
 帰りは、急な雪面のために、アイゼンをつけて下って行った。そして、誰もいないこの尾根道の所々で立ち止まっては、腰をおろして休んだ。
 時には、辺りの雪山の景色を楽しむために、時には、ルリビタキの声を聞くために、また時には、トドマツやエゾマツの、春先のあの良い香りをかぐために、私は、ひそやかな自分だけのための時を楽しんだ。これが、生きていることなのだと。

 下りは、そうして度々休んだにもかかわらず、さすがに早く、2時間半で降りてきた。雪解け水の勢いが増した川の傍で顔を洗い、頭から水をかぶる。ああ、たまらん。下山後の楽しみの一つなのだ。
 そして、時々見つけてはつぶしていたダニが、まだ帽子や服に三つ四つとついていた。家に帰りさらに翌日までの間に、何と合計12匹。
 彼女らダニたちは、あのササの茂った尾根や刈り分け道で、この春初めての獲物である人間にめぐり会い、それも脂ぎった高血圧気味のメタボオヤジに向かって、喜びの叫び声を上げて飛び移ったのだろう。
 その殆んどを、私は、苦しませずに一瞬のうちに彼岸の彼方へと送ってやったのに、今、まだ、頭と体がかゆいのだ・・・。
 
 さて、登山口からその先に続く橋を渡り、すぐの所で車を止め、20分ほど歩くと、露天風呂で有名な岩間温泉があるのだが、今回は割愛(かつあい)して、帰り道を急いだ。
 そして、久しぶりに友達の家に寄って、そこで2時間ほど過ごした。論語の一節にあるように、「朋(とも)あり遠方より来る、亦(また)楽しからずや」。

 十勝平野の夕暮れの景色が、夕闇に沈む頃、ようやく家に帰り着いた。遠く離れた所にある山に、久しぶりに登り、友達にも会うことができた。いい1日だった。
 しかし、それは頂上に達することのできなかった登山だった。同じ時期に、もう一度、石狩岳に登らなければならないという思いが、今も残っている。それは、あこがれに似て・・・。

 あの有名な登山家、ガストン・レビュファ(1921~)が、その著書の中で書いている。
 
 「 けれども、あこがれは、いつも抱いていなければならない。わたしは、思い出よりもあこがれが好きだ。」
  (『星と嵐』 近藤等訳 新潮文庫)

 山の詩人と呼ばれた、このガストン・レビュファには、『天と地の間に』(1961年)と『星にのばされたザイル』(1976年)という、優れた山岳映画があり、私は、公開されたずっと後になって見たのだが、そのクライミング技術はもとより、山々の映像が素晴らしく、それが私の若き日に、ヨーロッパ・アルプス、トレッキングの旅を思い立たせることにもなったのだ。

 さらに1週間ほど前に、NHK教育で、『モンブランが心の故郷~女性クライマー垂直の岩壁を行く』というドキュメンタリー番組が放送された。
 再放送だということも知らなかったが、アイガー、マッターホルン、グランド・ジョラスの三大北壁に加えて、ドリュ西壁までもすべて単独で制覇し、クライミング界の女王と呼ばれている、カトリーヌ・デスティヴェル(1960~)の登攀(とうはん)映像が素晴らしかった。
 レビュファを思わせる、軽やかな彼女のクライミング技術はもとより、家族や友人達と伴に岩壁や雪稜などを登る姿が、見ているものまで楽しい気分にさせてくれた。
 そしてもう一つ、驚いたのは、カメラ技術の高さである。その場にいるような、いやそれ以上のベスト・ショットで彼女の登る姿をとらえているのだ。

 私たちはこうして、新しい時代の、素晴らしい技術の恩恵にあずかり、また一方では、古き良き時代を思い、その穏やかな時代をしのぶこともできる。
 つまり、私たち人間は、そのいずれをも、時に応じてそれぞれに楽しむことができるのだ。ただし、そのことが果たして、幸か不幸なのかは別として・・・。


飼い主よりミャオへ(137)

2011-05-22 21:27:29 | Weblog



5月22日

 拝啓 ミャオ様

 それまでの、少し肌寒い春の日から、一気に25度近くまで気温が上がり、むっとする初夏の空気に満ちた日が三日間も続いたのに、昨日はまた10数度も下がって、10度そこそこの、雨と曇り空の日だった。
 今日も曇り空で、朝のうちは少し寒くて、ストーヴをつけたほどだったが、昼頃から少し青空がのぞいてきて、さわやかな風が吹き、明るい春の日差しが溢れてきた。

 前から気になっていた仕事を一つ。それは電気や電話の引込み線にかかる、木の枝切りである。入り口の道の付近は、電気会社の作業車が来て、時々切っているようだが、そこから家までの引込み線にかかる枝は自分でやると答えておいたから、木の成長期を前に切っておかなければならないのだ。
 そして、これが意外に一苦労だった。6mの二段梯子(はしご)を立てかけて上り、そこから2mほどの長枝切りバサミを伸ばして切っていくのだが、まあ、ゆるくない仕事なのだ。(ゆるくない=簡単ではない、大変な)
 ただでさえ不安定な長いハシゴの上で、ふらふらする長枝切りバサミの先につけてある、小さなノコギリで、カラマツやシラカバの太い枝を、少しずつ切っていく。
 長枝切りバサミは、この冬に、九州の家での痛い体験があり、そのことがチラリと頭をよぎる。(1月23日、28日の項。あの時の肩の痛みは、完全には直らずに、やはり先生が言っていたように、ずっと残っているのだ。)
 さらに、見上げる上からノコクズが降りかかる。何度も休んでは、少しずつ押し引いて、ようやく大きな枝が自分の重みで下に落ちていく。やれやれ、やっとこれで一本だ。
 そうして、2時間かかって五本の枝を切り落とした。これでしばらくは、大丈夫だろう。

 この林は、家の周りをぐるりと取り囲んでいるから、防風林の役目を果たしてくれるし、夏の暑さをしのぎ、冬の雪も少しは受け止めてくれる。そして、周りの農家の広い畑と比べれば、秋や春の霜も降りにくい。
 さらに、この植林されたカラマツの木を、ストーヴで燃やす薪にするために(薪に適してはいないのだが)、それを切ることによって、周りに生えていた他の低い樹々に日が当たり、少しずつだが混交林としての形を成してきていて、前回書いたように、鳥たちも来てくれるようになったのだ。
 しかし、そうしたいいことずくめに見える林も、こうして、電気電話線にはジャマになるし、もっと日差しが欲しい時にも、樹々に隠れて早く日陰になってしまう。
 雨の日には、雨粒が樹々の枝葉にたまって大きくなり、トタン葺(ぶ)きの屋根に落ちてきて音を立てる。秋の枯葉の掃除は大変だし、雪が溶けた後の春先には、また枯れ枝と伴に掃き集めなければならない。

 それでも、私は、この林が好きだし、樹々を見ているのは楽しいものだ。季節とともに移り変わる下ばえの草花とともに、新緑の頃、真夏の草いきれ、秋の紅葉、冬の雪模様と変化していく。
 また春の鳥たちのさえずりから、耳をろうするばかりのエゾハルゼミの声、夏の盛りのエゾゼミの声、アカゲラの木をつつく音、走り回るエゾリス、時たまノラネコがやってきては悩ましい声を上げ、夜更けにはキタキツネの鳴く声が聞こえ、朝には、家の畑にヒグマの足跡を見たことさえあるのだ。
 わずか1町歩(3000坪)ほどの、取るに足りない小さな林だが、私にとってはかけがえのないものだ。

 こうして手入れをしながら、自分の望むような、針葉樹と広葉樹の交じり合う、混交林に育てていきたいのだが、毎年ストーヴで燃やす薪用に数本ほど切り倒しているだけで、まだ全体に残っているカラマツが多すぎるし、とても、死ぬまでかかっても、そんな理想の林はできないのだろうが。
 できることなら、私はもっと広い林が欲しかった。5町歩から10町歩位はあって、その中に小川が流れていて、様々な木が生えている自然林に近い、そんな山林を買いたかった。そして、見回るだけで一日かかるような、そんな林の山守(やまもり)になりたかった。
 しかし、今になって考えてみれば、この私の家の周りにある小さな林が、私には分相応の所だ。

 最近、北海道の山林が外国資本によって、買い集められている。農林業がふるわず、過疎化が進み、使い道もない北海道の山間部の林や森は、値下がりして、売買の規制もないことから(指定区域外の山林、荒地は原則的には一般の人も買うことができる)、将来の自然資源、水資源への投資として、買われているのだろう。
 
 植林地の維持管理には、金や手間がかかるが、それ以外の普通林、自然林では、もしその気になって少し整備さえすれば、健康的で楽しい森の人、山の人の生活体験ができるのだ。
 都会に暮らし、少し余裕がある人は、わずかな投資をして、自分の林を買ってはどうだろうか。そこから金銭的な利益をあげるなどとは考えないで、豊かな心の利益をあげればいいのだ。
 年に数回でも自分の林を訪れて、自然と伴にあることの楽しさを知ることができれば、それだけでも満足できるはずだ。
 そうして、日本の都会の人たちが、北海道の山林を買ってくれれば、こうした外国資本による、土地投資の問題など起きないだろうに。

 まあ世の中の物事は、単なる一個人の単純な思いとは関係なく、世界的な経済法則に沿って進んで行くものだから、こうして今の世界があるわけだし、北海道の土地がどうなろうと、地球の自然がどうなろうと、すべては気づいた時点で遅いのだし、人間とは所詮、後悔するべく生まれてきた生き物なのだろうか。
 しかし、他の生き物たちに、後悔という言葉はない。与えられた環境の中でただひたすらに、愚直(ぐちょく)なまでに生きるだけだ。その方が、どれほど素晴らしく、また神に近いことか。
 ミャオに向かって、手を合わせております、はい。
 
 今日の仕事から、少し余分なことまでいろいろと考えてしまったが、ともかく、汗をかいて、枝切り作業を無事に終えることができた。
 わが家の小さな畑も、10日前のタネイモの植えつけに始まり、古いイチゴ苗の半分を入れ替えて、トマトにキャベツなどの野菜苗の植えつけも終わり、一段落といきたいところだが、さてこれから秋までは、草取り草刈りの仕事が延々と繰り返されるのだ。
 サシバエ、カ、アブと闘いながら、草刈りガマを振るう日々が続く。あーあ。今日の枝切り作業のように、何事も楽なことばかりではない。

 しかし、その闘いの前の、まだ穏やかな家の庭に、雑草たちが伸びる前の静かな庭には、今年もチューリップとシバザクラが色鮮やかに咲いてくれた(写真)。
 ただそれは、あの”ターシャの庭”のように、見事に意匠され手入れされた庭ではない。例えば、このチューリップの球根も堀り上げもせず植えたままだし、シバザクラと芝生の境目もそれぞれの侵入にまかせたままだ。
 元来が、ぐうたらで、何事においても中以下、あるいは下の上くらいまでしか達成できない私には、分相応の庭だ。家も庭もその人の性格を表すそうだが、さしずめ私の家と庭は・・・。

 さて、今日もしっかり汗をかいたので、ゴエモン風呂をたきつけわかしている。あの亡くなった母でさえ、タヌキ風呂だと入るのを嫌がったくらいだが、しかし私にとっては、極楽の湯である。
 どーれ、人様にはとてもお見せできない、平成ダヌキぽんぽこオヤジの、入浴とござーい。
 アホくさ、そんなもん頼まれたって誰が見るか、とミャオの声。 


飼い主よりミャオへ(136)

2011-05-18 20:28:56 | Weblog

5月18日

 拝啓 ミャオ様

 もう九州では、すっかり春から初夏のころの暖かさになっているようで、私としても、寒がりのオマエのことを思えば、一安心なのだが、とはいえ、年寄りネコのオマエにとっては、いつもの飼い主が傍にいないのはつらいことだろう。
 そうなのだ、若い頃には、変化は経験をつむための学習の場となるから、何とか新しい環境に慣れようと思うが、年をとってからは、変化しないこと、居心地の良い日常こそが、生きることなのだから、目の前の環境の激変は、何よりもつらいことになる。

 それは、この大津波で住み慣れたわが家を流されて、いまだに不自由な避難所暮らしを強いられて毎日を送っている、お年寄りたちの例を挙げるまでもないことだろう。
 大勢の人たちと一緒の不便な暮らしに、体調を崩し、病が重くなってしまうのもよく分かる。

 そういえば、先日、あの”YouTube”で見た、『Tunami Fhoto Project』という、14人の写真家の3枚ずつの写真からなる、動画サイト写真展は、なかなかに考えさせられるものだった。
 確かに、津波そのものの恐怖を知るためには、あの時に撮られた何本ものビデオ動画をしのぐものはない。
 しかし、被災者たちの思いを汲み取って、一瞬の、しかし永続的な感情として表現するのには、1枚の写真もまた、強いメッセージ性を持っている。
 そのうちの何枚かの写真は、私の胸の中に、今も残されている。バックに流れる音楽は、坂本龍一作曲によるものだった。

 例えば、その一枚の写真からは、一瞬、あのシューベルト作曲の弦楽四重奏曲『死と乙女』のメロディーが流れ来て、さらに次の一枚からは、イングマール・ベルイマン(1918~2007)の映画『叫びとささやき』(1972年)の一シーンをイメージさせた・・・。
 さらに、私の記憶のアルバムの中には、映画『叫びとささやき』の名前を受けて、また、別な一枚の写真としてのイメージがよみがえる。

 その映画の中で、召使のアンナに抱かれて、死の床にあえぐアグネス姿は、あの水俣病告発のために体を張って写真を撮り続けた、ユージン・スミス(1918~78)の有名な一枚、『入浴する智子と母』(胎児性水俣病の娘を風呂に入れる母)の作品を思い起こさせる。
 私の好きな映画5本のうちの一つに入るだろう、ベルイマンの『叫びとささやき』は、こうして、いつもあのユージン・スミスの写真とつながっている。
 (期せずして、同じ年に生まれた二人だが、亡くなった年には30年もの開きがある。)

 話が脇にそれたけれども、元に戻して言えば、ミャオの今のつらい気持ちが、私にも思い当たるということだ。
 私がこちらに来てから、もう1ヶ月近くにもなる。そして、今にして初めて、ミャオが傍にいなくて寂しいと思ったのだ。
 ここに家を建ててからずっと、九州との間を行き来して、こちらに戻ってくるのが、いつも大きな楽しみだったのに、今はさほどには感じられなくなってきた。
 それは、長年繰り返し登り続けてきた北の山々に、もう十分に満足したからなのか、さらに繰り返し見続けて来た家の周りの風景にも、少し見飽きてきたからなのか。
 いや、そうではない。長い間生活を伴にしてきた、相手というべきか、相方のミャオが今傍にいないことに、その大きな環境の変化に、私もまた戸惑っているのだ。
 それまでは、ミャオの存在以上に、ここでの生活の魅力が勝っていたのに、同じように年を取ってきた私にも、環境の変化が、年毎に身にこたえるようになってきたのだ。慣れるまでには、時間がかかると。

 こちらに来て1、2週間くらいはさほどに感じなかったのに、今になって、というのは、旅行気分のような期間が過ぎて、ここでまた、新たな自分の生活環境を築き上げていかなければならなくなったからだろうか。
 このところ私は、前回書いたようにベストの日の山登りを逃していて、さらにミャオのことも考えて、少し落ち込んだ気分になっていたのだ。

 そんなある日、一羽の鳥が、私の心の中に飛んできたのだ。
 もともと、この家の庭や林には、毎年、様々な鳥たちがやってきている。もちろん、無理な餌付(えづ)けはしないし、エサ台も置いていない。
 私は、野鳥観察愛好家のひとりだが、珍しい鳥を求めて出歩くほど熱心でもない。たまたま、家に立ち寄った鳥たちを見るだけで十分だ。
 というのも、こんなカラマツの樹との混交林の小さな林でも、あのクマゲラが来たこともあるのだ。
 
 そんな鳥たちの中で、今の時期に夏鳥としてやってくるものの一つに、コルリがいる。前回書いたように、今年もやってきた。そしてその日から、何と三日間も家の周りにいてくれたのだ。
 天気は良くなくて、小雨模様や曇り空だったが。あの鮮やかなルリ色の小鳥は、3日もの間、私の胸の中までも瑠璃(ルリ)色に塗り替えてくれたのだ。

 私は、いつも眠りから覚める前に夢を見ている。最近は、つらい夢を見て、いやな気分で目が覚めることが多かったのに、コルリが来て二日間続けて、私は、楽しく幸せになる夢を見た。
 その内容は今も覚えているが、人様から見れば、余りにも他愛のないことで、恥ずかしくとても話せるようなものではないのだが、ともかく、そんな単純なことで、私は、今までの落ち込んでいた気分から抜け出すことができたのだ。
 もちろん、私は、自分の力だけで、何事も解決し処理できるとは思っていない。つまり単純なことだが、このコルリとの出会いのように、他者との出会いによって、初めて、自分の中だけでらせん状に渦巻いていた悩みから、解き放たれることもあるからなのだ。

 今、私は、まさに”わたしの青い鳥”であってくれた、あの一羽のコルリに感謝するばかりである。

 「 どうぞ行かないで このままずっと わたしのこの胸で 幸せ歌っていてね クック クック クック クック 青い鳥」
(阿久悠作詞 中村泰士作曲 桜田淳子歌)

 ミャオから、全くいい年して、ばっかじゃないのー、って言われそうだが・・・。

(写真は、家の窓越しにそのコルリを写したものだが、小雨が降っていて、鮮やかなコバルト・ブルーの冠毛が、水滴に毛ばだっていて、それが何ともいえずに私を幸せな気分にした。) 


飼い主よりミャオへ(135)

2011-05-13 21:07:46 | Weblog



5月13日

 拝啓 ミャオ様

 昨日、一昨日、さらに数日前にも、素晴らしく晴れた日があったのに、私は山に行かなかった。
 前回にも書いていたように、私は、いつも晴天登山をしている。そんな、ゼイタクな選択ができるのに、山に登らなかったのだ。

 それは一つには、前回の登山から間が開いてなくて、脚にはまだ筋肉痛の余韻(よいん)があったからだ、というよりは、年ごとに、ぐうたらになってきたといったほうが良いだろう。
 たった一人でこの家を建てた時の、今にして思う、あの連日の猛烈な労働。そして家ができて、さて目指す山々に登れると、日をおかずに山登りにのめりこんだ日々。あれから、何年もの月日が過ぎてしまった。
 その後、私は、何一つの進歩もないまま、いたずらに哀しく馬齢(ばれい)を重ねてきただけだ。そして、思えば、今までに数々の別れがあり、さらに、ただひとり私に残されたミャオでさえ、遠く離れた所に置いてきているのだ。

 いささかの寂寞(せきばく)感にさいなまれることがあるとしても、それは自業自得(じごうじとく)、因果応報(いんがおうほう)であり、またこれほど私にふさわしい言葉もないだろう。
 神様はよくしたもので、いつも幸せと不幸せの配分を、相半ばするように考えてくださる。ただ私たちが、その配分に、これは幸せなことだ不幸せなことだと、気づいていないだけのことだ。

 私は、ともかくそんな天気の良い日に山に行かなかった自分を、情けなく思い、しばらくは落ち込んだ気分になってしまう。
 しかし、こんなに明るく太陽の光が溢れている時に、ウダウダ考えて家に居ても、返って哀しくなってしまうだけだ。じじむさいオヤジよ、テレビや書を捨て外に出よ、という声が聞こえる。 
 そうだ、いつもの裏山に行こう。私は身支度をして、ポケットにビニール袋とハサミを入れ、肩にはカメラを下げ、手には刈り払い用の長鎌を持って、家を出る。畑やカラマツ林の傍を通って、広い牧草地に出る。

 私の目の前には、私がこの地を選んだ理由の一つでもある、北海道らしい雄大な風景が広がっている。青空の下の日高山脈である。(写真は、左のペテガリ岳から右の1826m峰まで。)
 この百数十キロにわたって連なる、日高山脈の山々の眺めこそが、山岳眺望(ちょうぼう)マニアである私にとっての、最大の楽しみなのだ。
 それは、例えて言えば、宝塚歌劇団の星組が舞台にずらりと並んだ姿とか、あるいは今をときめくAKB48のカワイコちゃんたちが、ステージに並んで歌い踊る姿のようなものなのだろうか。
 いや私にとっては、たいした興味もないそれらの舞台よりは、広大な青空の下に、それぞれの個性ある姿を際立たせて、そびえ連なるこれらの山々の方が、どれほど魅力的なことか。あーたまらん。

 ゆっくりと山々を眺めて、写真を撮った後、次の目的地へと向かう。ヒグマに遭わないようにと、時々口笛を吹き、掛け声をかけて、藪の中や沢沿いをたどって行く。
 ヤチブキ(エゾノリュウキンカ)の花が咲き乱れいて(写真下)、その端のいくつかをハサミで切り取り、さらに所々に小さく群がっているアイヌネギ(ギョウジャニンニク)を見つけては、そのいくつかだけを切り取っていく。
 こうして袋がいっぱいになり、私は満足して家に戻る。それは小さな山登りほどの時間と体力もいる。

 さらに、これが一番イヤな所なのだが、家に入る前に、玄関の所でダニ検査をしなければならない。
 これから夏にかけてが、最もダニの動き回る頃なのだ。彼らは、ササの葉や小枝の先に止まっていて、人やヒグマ、エゾシカ、キタキツネが通りかかれば、さっとその体に乗り移る。
 そして少しずつ、その体の中を這い回り、ベストな場所で、かにバサミのように前足を肉身に食い込ませる。これで、もうその体から離れることはなくなる。後は吸血管をその体に差し込んで、もとの体の何倍にもなるまで血を吸い続けるだけだ。

 やがて、小豆(あずき)ほどの大きさになった体は、自然に離れ落ちて、地面を這いながら産卵場所を探して卵を産む、そして卵からかえった成虫は、再びササや小枝に這い上がって、生き物が通るのを待つのだ。

 そのダニが、服について動き回っているだけなら、すぐにつぶしてしまえばいいのだが、体についてしまうと厄介(やっかい)だ。特に、頭につくと、それから数日はもぞもぞと髪の毛の間を這い回る。
 風呂に入ろうが、頭を洗おうが、そんなことくらいでは取れない。私は、余りの不快さに、脱毛症になることを覚悟して、ハエ取りスプレーをかけたり、掃除機のホースを頭に当ててみたりもした。
 それでも、取れないのだ。今も、少し体がかゆいし、一匹、どうも体のどこかにいる気がするのだが・・・。

 というわけで、いつも物事には、いいことがあればまた何がしかの悪いことがあることを、日々思い知らされているのだ。
 ベストの日に山に登ろうとしても、その日を自由に選べるとしても、なかなか、事はそういつも思い通りに行くとは限らない。
 そして、その単純な法則を学び知る頃には、私たちは、すでに、冒険や挑戦、変革へと踏み出す元気を、少しずつ失ってきており、しかし代わりに、静穏さを愛し、日々慣れ親しんだものに執着することになるのだ。
 それは、若い時だけが素晴らしいということではなく、まして年を取り中高年になるほどに、良くなってくるというわけでもない。いくら、年とともに、物事が見えてくるようになるとしてもだ。
 いつの時代にも、気づく気づかないはともかくとして、幸不幸は等しく相半ばしてあり、私たちは誰しも、そんな日々を生きているのだ。

 数日前にあった、NHKスペシャル『大津波』(番組時間が短すぎた)での、生と死を分けた一瞬の判断、それは当然、生き残った人たちからだけの話であり、死者たちから聞くすべもないのだが、そこではどうしても、運や運命という言葉を持ち出して考えてみたくもなる。
 さらに昨日、あらた若い命を自ら断った、あるタレントの娘のことが報じられていた。
 死はいつも、生者の側だけから語られる。確かに、すべての死は、残された生者にとっての悲しみであるのだろうが、しかし、また同じように、すべての死者にとっての悲しみでもあるのだろうかと、ふと思う時があるのだ。

 前回にも、この生と死のことについて少し触れたのだが、私は何も、死者たちを不遜(ふそん)に、事実として冷たく、取り扱っているわけではない。
 むしろ、前にも書いたように、身近な母の死の衝撃を、ただ一人で受け止めながら過ごした日々が、いかにつらいものであったかを経験しているだけに、残された人々の悲しみについても、幾らかは理解しているつもりである。
 そして、誰にでもいつかは訪れる死のために、つまり自らに返る心構えとして、彼らの生と死について考えてみたのだ。

 生き残った人々が同じように言っていたのは、その災害のさなかに、「ああ、これでダメだ。死んでいくのだなあ。」と思ったという言葉であり、それでも一縷(いちる)の望みを捨てずに、生きようとする必死の行動をとったのだ・・・。
 私は子供の頃に、川でおぼれて死にかかったことがあり、今になっても、その時のことをまざまざと憶えている。
 必死になって、水の中でもがき苦しみ、私はこれで死ぬのだと思った。走馬灯のように、短い人生の思い出が駆け巡っていき、そして私は助け上げられた。

 それと相反するように、まだ人生の何たるかも十分に理解しないまま、(しかし彼女としては、もうそれまでの人生で十分だったのかもしれないが)、自ら死を選んで実行した、その意思の源を考えてもみた。
 私が高校生の頃、同じクラスの私の後の席にいた友達が自殺した。それは、今でも余り書きたくはないつらい思い出であるが・・・。
 ともかく、それらの出来事は、いずれも生と死についての重たい、余りにも重たい言葉であり、行動であったのだ。

 
 今日は、未明からの雨が、とうとう一日中降り続いていた。その雨の中、さらに夕方の闇が深まる中、裏の林で、一羽のアカハラが鳴いていた。
 アカハラはヒタキ科のツグミの仲間で、その赤褐色の腹の色から名づけられたのだろうが、同じ仲間のクロツグミのように、いつも周囲によく通るような声で鳴いている。キョロン、キョロン、ツルリ。
 毎年その鳴き声を聞いては、夏鳥がやってくる季節になったのだと思う。
 さらに今日は、昼間、窓辺へ目をやった時に、まだ枯れた色が多い林の中に、ありえないほどに鮮やかな、コバルトブルーの色が目についた。
 コルリだった。まだ移動の途中なのだろうか、さえずり鳴くこともなく、枝から地面へと往復しては、しばらくの間、私の目を楽しませてくれた。

 今日は、ストーヴで薪(まき)を燃やさなければならないほどの、寒い一日で、気温も6度くらいまでしか上がらなかった。それでも、春は日一日、はっきりと進んできている。
 さわやかな青空が広がった昨日、家のエゾムラサキツツジは満開になり、庭のシバザクラやチューリップが咲き始め、エゾヤマザクラも二三輪開いて、私の家での開花宣言の日だった。
 すべて、何事も変わることなく、毎年繰り返していくのだ、芽を出し、花を咲かせ、さえずり鳴いては・・・。


飼い主よりミャオへ(134)

2011-05-07 21:59:38 | Weblog



5月7日

 ミャオ、もうひとりで過ごすことに慣れただろうか。ベランダで横になりながら、毎日を暮らしているオマエのことを思うと、やはりつらい気持ちになる。
 甘えることができるのは、エサをやりにきてくれるおじさんだけだ。その他に、時たま家に来る人もあるだろうが、オマエはそのたびごとに私が帰ってきたのではないかと身を起こし、ニャーと鳴いているのかもしれない。
 オマエは、指の曲がらない肉球をじっと見ては、考えているのだろう。一つ二つ・・・六つ・・・、後は数えられないくらいに、たくさんの日が過ぎて行った気がすると。
 私の心は、いつもオマエとともにある。しばらくは、辛抱して待っていておくれ、私が戻るその日まで。


 私は、昨日ようやく山に登ってきた。こちらに戻ってからも、毎日、山登りには向かない天気の日が続いていた。
 ただ1日だけ、朝のうちに恐ろしく晴れ上がって、白雪の日高山脈の山々が、ずらりと立ち並んでいた。それは、もう眺めるだけでも十分に満足できるほどの、目に鮮やかな光景だったのだが、残念ながら山に行くことのできる天気ではなかった。
 いくら晴れていても、天気図では気圧の等高線が混んだ状態で、低気圧が過ぎ去る時だったのだ。案の定、外にも出られないくらいの風が吹き荒れていて、山の上ではと想像するだに恐ろしいほどだった。

 いつも一人で山に行く私が、自らに言い聞かせているのは、穏やかに晴れた日、それも高気圧が真上にあるような、快晴の天気の時が望ましいということだ。
 それは、山々の展望を楽しむためであり、もちろん遭難しないためでもある。天気が良ければ、風雨の日と比べて体力も消耗(しょうもう)しないし、道迷いなどをすることも少ない。
 たとえ他の人たちと一緒に、あるいは大勢の人とのパーティーを組んで出かけたとしても、最近の遭難事件の例のように、たった一人のリーダーの間違った判断のために、大量の遭難者を出すことになる。
 それは、単独行の時の一人だけではすまない、事件性を帯びた多くの悲劇を生み、多くの迷惑をかけることになるのだ。

 しかし、それでも単独であることは、確かに危険を伴う。例えば、山中で急病に陥った場合、どうするのか。まして私のように、人と会わないために、誰も行かないような山にばかり登っていては・・・。
 もちろん、その時は必死になって、這いつくばってでも山を降りようとするだろうが、それも到底不可能だと分かれば、答えは一つしかない。これを限りと、あきらめることだ。

 つまり、自然の中で生きること死ぬことの、ごく当たり前の、生き物の一人としての事実を、受け入れるしかないのだ。
 それは例えば、あの松濤明(まつなみあきら)の遺稿集『風雪のビバーク』に記された、涙を誘うほどの最後の言葉を思い浮かべるかもしれないが、私にはそれほどに執着するものはない。
 ただ、前にも書いたことのある、良寛和尚(りょうかんおしょう)の言葉、『死ぬ時節には死ぬがよく候(そうろう)』を思い出すだけだ。

 もっとも、実際に死に臨めば、そう無欲恬淡(てんたん)とした気持ちではいられないのだろうが・・・。

 もちろん、私は、いつもそうした死を前提としての山登りについて、考えているわけではない。ただ、自然の静寂の中で、なるべく快適かつ安全な山登りを続けられれば、それにこしたことはない。
 それはまた、静けさという枠をはずしさえすれば、年寄りになってからも、ほんの数分歩いて登れるような山が、日本にはいくらでもあるということだ。つまり、他の観光客と伴にクルマやリフト、ロープウェイに乗って、おとなしく皆の後をついて行けばよい。
 そして静けさは、近くの丘や林の中を歩く時にとっておけばいいのだ。

 つまり、ここで、あえて大上段に振り構えて言う必要もないだろうが、自然の中にいること、それこそが、私にとっての生きていることの、最も大きな意義なのだ。
 その自然の中で、私はひとつの生き物になって、山に登る。
 それは、ミャオが、野山を歩き回る時にこそ、生き生きとしているように・・・。


 ところで、私は毎日、日の出の頃には目を覚ますのだが、今朝は、昨日の山の支度をする時に忘れていたものに気づいて、そのために時間をとられ、さらに天気予報の確認のためにと(高気圧が去ってしまい、夕方には曇るとの予報で)、出発するのが遅くなってしまった。
 クルマで家を出てから、ずっと十勝平野は霧と低い雲の中にあった。しかし、ネットで見た気象衛星の赤外写真では、北海道全部が晴れ渡り、中心部の大雪山から日高山脈にかけての形のままに、白い連なりが写っていた。つまりこの雲の上に、雪の山々が浮かんでいるはずなのだ。

 そして、天馬街道の道が山間に入る頃から、少しずつ晴れてきて、野塚トンネル傍の駐車場に着く頃には、もう上空には青空だけが広がっていた。さすがに連休期間だけあって、他にも3台のクルマが停まっている。
 すぐにプラスティック・ブーツにはき替え、ザックを背にして歩き出す。

 一時このプラスティック・ブーツは、経年変化の劣化によって、登山中に割れてしまうことがあり、大きな問題となり、近年では、新しい防水皮革ブーツだけになりつつあるようだ。
 しかし、私は、そう頻繁(ひんぱん)には使わないこともあって、10数年前に買ったものと、さらに2年前にも別な一足を買い足して、使っている。
 雪以外のところでは歩きにくいが、なんといってもその防水性能が捨てがたいのだ。
 新しい方は、一昨年のカムイ岳(’09.5.17~21の項)でも使ったのだが、二日行程くらいでは靴下までぬれることはなかった。古い方は、日帰りだけで少し水がしみこんでくるが、足なれていて歩きやすいし、その二足を山に応じて使い分けている。

 さて、道路を少し戻って、橋を渡りきった所まで行く。防雪柵があり、その傍はネットの張られた土留め工事跡の斜面である。斜面の角度が70度近くもあり、一応、工事用のロープが下がっている。
 去年はすべて雪の斜面だったのだが、今年は雪が少なく地肌が出ている。前回はそこからアイゼンをつけて登ったのだが、今回は、面倒で靴のままその壁をよじ登ろうとした。
 上のササ斜面を含めて、わずか5mほどの高さだが、途中でずるりと靴が滑った。下は、橋のたもとからそのまま、20mほど下の谷にまで落ち込んでいる。私は必死でササをつかんで、事なきを得た。
 何もアイゼンは、雪や氷のために使うだけではない。ここはアイゼンをつけて登るべきだったのだ。
 このコースでは、この登り口だけが危険なだけで、後は問題になるところはないだけに、私の不注意だった。

 今回、私が目指すのは、去年、天気が悪くなり途中までで戻った1225mピークである。(’10.4.28の項)
 野塚岳(1353m)の北尾根が、冬尾根として登られる1147m分岐からさらに北に向かい、1151m点から東に向かった先にある、1225mピークである。つまり野塚岳から長々と伸びる北尾根の中で、もっと高い頂なのだ。
 そこからの南日高の山々の眺めに、私は長い間憧れていた。去年失敗して、今年こそはどうしても行きたいと思っていたのだ。

 さて、登り口で少しヒヤリとしたが、その後は低いササから雪の急斜面になり、アイゼンをつけて登って行く。
 1151m点に至るこの西尾根は、北側に豊富な雪が残っていて、古い雪の上に、まだ新しいあの二日前の雪(私の家の周りでも2cmほど積もった)が数センチほど積もっていて、見た目もきれいだし、程よく固まっていて歩きやすかった。
 しかし何といっても、そこは急峻な日高の山の斜面だ。息が切れて、何度も立ち止まる。振り返るとダケカンバの樹々の間、青空の下に、白雪のトヨニ岳(1493m)が見え、右手には、国境稜線から野塚岳への白い山なみが連なっていた。

 やがてこの西尾根の分岐に出ると、そこからは明るく開けて、1151m点へと長い雪堤(せきてい)が続いている。これら北国の山々に、夏の初めのころまで残る、残雪の雪堤こそ、私の最も好きな道だ。
 ここには全く人の足跡もないし、まして獣たちの足跡さえもなかった。青空が広がり風もなく、長袖のシャツだけで十分だった。
 私はストックを手に、ゆるやかな雪堤の上を一歩一歩と登って行った。後にはトヨニ岳の姿が大きかった。(写真上)
 
 そして、下から2時間半くらいかかって、去年と同じ丸い雪の丘の1151m点にたどり着く。待望のその眺めは。
 しかし、またしても残念なことに、途中から気になっていた、西側の日高側から吹き上がってきた海霧の雲が、もう山々を隠そうとしていた。他はすべて青空が広がっているというのに。
 それでもかろうじて、野塚岳、オムシャヌプリ(1379m)、十勝岳(1457m)の姿が見えていたが、あの楽古岳(1472m)は雲に隠れていた。(写真下)

 ただ、天気が悪いわけではないし、ともかく目的の1225mピークまでは行こうと思った。そこからは、今度は南側に雪堤ができていたが、しっかりしていて歩きやすかった。
 それにしても暖かく、雪もゆるんできていて、アイゼンに雪が団子状につきやすく、ストックで叩き落しながら歩いて行く。
 こんな雪道では、アイゼンはいらないのだが、取り外しまたつけなおすのも面倒で、そのままにして歩いた。

 この展望の良い、余り高低差もなく伸びやかに続く雪堤の道を、ひとりっきりで歩いて行くのは気分が良かった。
 ただ残念なのは、右手に立ち並んでいるはずの南日高の山々が、もうすっかり雲に被われてしまったことだ。今は、かろうじて南端の山の、広尾岳(1230m)とピロロ岳(1269m)が見えているだけだった。
 1時間ほどで、ハイマツが少し雪の上に出ている1225mピークに着いた。
 南側には、さらに余り高低差のない雪堤が続いていて、その先にあるのが、この野塚岳北尾根の最南端の山、三角点のある1193mピークである。あの山まで行けば、今見えている中部から北日高の山々が、さらによく見えるのだろうが。

 そして、再び1151点に引き返すと、今まで山々の上に大きな波のように押し寄せていた雲が低くなり、何とあの秀麗な三角錐の頂を見せて、楽古岳の姿が浮かんでいた。
 さらにしばらく待っていると、、やがて十勝岳、そしてオムシャヌプリから野塚岳と見えてきた。良かった、これで私の望みの半ばはかなえられたのだ。
 とは言っても、いつの日かもう一度、これら南日高の山々がくっきりと見える日に来なければとも思った。
 
 私は、途中の尾根歩きからの山々の姿をまだ見たくて、南側の野塚岳冬尾根分岐へと続く雪堤を下って行った。
 そして登り返して、1時間ほどで1147点に着いた。そこには、野塚岳を往復したのだろう、登山者たちの足跡が残っていた。しかし、もう山々は雲に隠れてしまっていた。
 後は、雪が少なくてササが出ているその冬尾根を下り、最後に雪の大斜面を尻セード(お尻すべり)などですべり降り、トンネル上に出て、駐車場に着いた。
 
 今回は、またしても天気が今ひとつで、私の望む山登りには少し物足りなかったが、ともかく久しぶりの雪の日高の山歩きで、まずは楽しむことができた。往復、7時間ほどでバテバテになるほどでもなく、適度な雪山ハイクだった。
 と言いつつ、今日、私の脚のふくらはぎは筋肉痛で痛いのだ。ああこのくらいの山登りで、情けなや。

 しかし、美しい山々の姿を求めての、私の登山行脚(あんぎゃ)の旅は、まだまだ続くのだろう。いつの日か、年寄りになってしまい、もし病の床に伏せるようなことになっても、私は山への憧れを失うことはないだろう。
 
 『旅に病(や)み 夢は荒野を かけめぐり』、という有名な芭蕉(ばしょう)の辞世(じせい)の一句が思い出される。


飼い主よりミャオへ(133)

2011-05-02 21:24:48 | Weblog

5月2日

 ミャオは元気でいるだろうか。いつもは静かな山の中の家だけれど、この春の連休の間は、さすがにクルマも人も多くなったことだろう。
 聞きなれない物音にはいつも敏感なオマエは、恐らくはベランダの隅にいて、目を見開いて周りの様子をうかがっていることだろう。
 エサをやりに来てくれるあのおじさん以外は、誰も来ないと分かっていても、臆病なオマエが、日ごろの警戒を怠ることははないのだ。
 オマエに余計な気苦労をかけてすまないとは思うが、もうすっかり暖かい春になって、何とか家の外でも過ごせるようになったことだろうから、そうしてしばらくの間は、ひとりでがんばっておくれ。


 ところで、こちらに戻ってきてからは、三四日ごとにしっかりとした雨が降り、もう井戸水の水量の心配はしなくてよいようになったのだが、一方では、晴れた日でも、風が強かったり雲が多かったりで、なかなか山登りに行くほどの天気にはなっていない。

 まあそれでも、やるべき仕事はいろいろとある。まずは、ささやかな畑や庭から裏の林までの手入れ作業がある。そこでは、傾いていたカラマツの木を二本、チェーソーで切り倒し、さらに友達に頼まれていた木を切りに行ったりもした。
 家の中では、あちこち片付けをして、さらに少し雨漏りしていた天窓を修理した。
 有名メーカーの木製の天窓サッシは、恐ろしく値段が高く、仕方なく自分で作ったものだが、この厳しい北国の天気の中で、何とか今まで持ちこたえてくれていた。しかし、ポリカーボネイト製の窓の数ヵ所にひびが入り、そこから水が滴(したた)り落ちてくるようになった。
 接着剤でその割れ目をふさぎ、セロテープでしばらく固定し、さらに雨水が良く流れ落ちるようにと、シリコン・スプレーで厚塗りした。
 昨日は一日中雨が降っていたが、もう水漏れすることはなかった。しかし、雪の季節のためには、何か次の手を考えておかなければならない。

 晴れた日に外に出れば、さすがに春らしくて、その暖かさが心地よい。エゾムラサキツツジの花が咲き始め、樹々の梢の芽もふくらんできた。
 芝生の緑とともに、周りの広い牧草地も、見る間に緑へと変わっていく。そんな今の時期に、私には、行かなければならない所がある。近くの丘陵地帯の中にある湿原だ。
 
 雪の少なかった今年は、やはりいつもより早く、ミズバショウが点々と咲いていた。さらに小川の流れに沿っては、エゾリュウキンカ(ヤチブキ)の緑の葉と鮮やかな黄色い花が連なっている。まさしく春の色だ。
 そして私のお目当ての、アイヌネギ(ギョウジャニンニク)も、いつものように群生している。(写真)
 一つの球根から二つ三つ伸び出たものの中から、一本だけをその茎の根元からナイフやハサミで切り取る。こうしておけば、また来年、その球根から新たな芽が出てくるだろう。そして、私の他には誰も来ないから、毎年増えることはあっても、決して減ることはないのだ。
 ヤチブキも、その大きな株の中から、少しだけを切り採る。ありがたい山野の春の恵みだ。

 私ひとりが食べるに十分な量だけを採って、家に帰る。いずれも、さっとゆでておひたしにして、かつをぶしに醤油(しょうゆ)をたらし、たきたての熱いごはんの上にのせていただく。
 なんという、春の息吹(いぶき)の味だろう。私は、都会のミシュランの星のついた店にも、B級グルメで有名な店にも行ったことはない。それでも、季節の山菜を、そのたびごとに近くの山に採りに行っては、すぐに食べることができることを、なによりもの幸せだと思っている。
 さらにこの後も、山菜はタラノメ、ウド、コゴミ、ワラビ、フキと夏の初めまで続き、秋には、ハスカップ、コクワ、ヤマブドウ、コケモモなどの果実と、そしてラクヨウタケにボリボリ(ナラタケ)などのキノコを採りに行くことができる。

 こうして私は、田舎にいることに、つまり都会に住んでいないことに、お金持ちでないことに、しかし時間だけは十分にあることに感謝して、毎日を送っている。
 あることの幸せと、ないことの幸せ。貧者であるからこその恵みと、その配分の妙を、日々のささやかな暮らしの中で、感じていくこと・・・。
 よく例に挙げることだが、あの『徒然草(つれづれぐさ)』の一節を繰り返し思うのだ。

 「 思ふべし、人の身に止むことを得ずして営む所、第一に食う物、第二に着る物、第三に居る所なり。人間の大事、この三つには過ぎず。飢えず、寒からず、風雨に侵(おか)されずして、閑(しず)かに過ごすを楽しびとす。」(第百二十三段)

 この思いは、その昔、東京を離れて北海道へと向かう頃から、すでに私の頭にあったことで、その後の田舎暮らしでの、度重なる困苦の体験の中で、さらに強い思いとなっていったのだ。さらに一つ付け加えれば、「何があっても、自分の望む所に住んでいるのだから、最低限、生きていければそれでいいじゃないか」と。
 それはまた、時々九州に戻って、ミャオと一緒に住むことで、改めてミャオの生き方から教えられることでもあったのだ。
 自分が生きていく上での、衣食住さえこと足りていれば、他に余分なもので自分を飾り立てる必要もないし、余分なものを手に入れてまで満足を得ようとは思はないのだと。

 だから、ゼイタクなものは買わないこと、ローンを含めて借金をしないこと、余分な財産は持たないこと・・・決して金持ちにはならないこと、いやとても金持ちにはなれないのだが。
 私は、6年間走った中古車を買って、もう7年間乗っている。まだこれからも、走れるまで車検を取るつもりだ。
 私はともかく、何とか暮らしていくだけのものがあれば、それで十分だと思っている。さらに、同じ『徒然草』から。

  「 身死して財(たから)残る事は、知者のせざる処(ところ)なり。よからぬ物蓄(たくわ)え置きたるもつたなく、よき物は、心を止めけんとはかなし。こちたく多かる、まして口惜し。『我こそは得め』など言う者どもありて、跡(あと)に争いたる、様(さま)あし。
 朝夕なくて叶(かな)はざらん物こそあらめ、その外は、何も持たでぞあらまほしき。』(第百四十段)

 このようなことを書いてきたのは、私もまた、いくばくかの恵まれたる貧者の一人だからなのかもしれないが、少なくとも恵まれたる富者でなかったことを嬉しく思う。

 聖書の中の、『ルカによる福音書』第16章に書いてある、『富める人とラザロ』の話のように、死後の世界でのことまでを意識しているわけではないし、私はラザロほどに貧しくはなく、さらには貧富のどちらが正しいのかといった問題でもないのだが、確かなことは、今でさえ、私と彼らの間には深き淵(ふち)が横たわっているということだ。
 この聖書からの話は、イギリスのヴォーン・ウィリアムズ(1872~1958)によって管弦楽曲として作曲されていて、私が今まで聴いた中では、マリナー指揮アカデミー室内管弦楽団によるもの(Decca)が素晴らしく、そのCDには、他に『グリーンスリーヴス』や『揚げひばり』などの名曲も収められている。
 
 夕焼けの空が、雲を赤く染めていた。明日は晴れてくれるだろうか。