ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(179)

2011-02-27 21:16:19 | Weblog



2月27日

 晴れて暖かい日が続いている。すっかり春の気分になり、ワタシも外に出てすごすことが多くなった。
 昨日は、一日中晴れていて、昼前の散歩から帰ってきた後も、ワタシは家の近くの草原や、木陰などで寝ていた。その時、飼い主が、歩いて出て行く姿が見えたが、クルマではないし、すぐに戻ってくるだろう。
 飼い主は、いつもはぐうたらオヤジなのだが、それでも少しは自分の健康のことが気になるらしく、時々思い立っては、1時間ほどの坂道歩きをしているみたいだ。すっかりメタボになった体を、今さら戻せないっちゅうのに。

 夕方、いつもの生ザカナをもらった後、飼い主の傍に行って毛づくろいをしようと思ったら、いない。庭の方で、煙が上がり、何かが燃えてパチパチという音がしていた。
 ベランダから庭に降りると、飼い主が、切り取った枝木を燃やしていた。ニャーと鳴いて傍に近づいて行く。
 かなりの炎が上がっているが、ワタシは怖くはないし、むしろ火の傍は暖かいくらいだから、そこに座り込んでは、飼い主が庭のあちこちから、木の枝や枯れ葉を集めて、火の中に投げ入れているのを見ていた。(’10,11.20の項参照)
 途中で、何度も呼びかけて家に戻ろうと鳴くが、飼い主は、ゴム手袋でワタシの体をなでては、まだダメだという。
 ワタシは、ひとりで家に行くのはいやだった。飼い主が、見える所にいたいのだ。

 というのも、数日前のこと、朝からクルマで出て行った飼い主が、夕方のエサの時間になっても戻ってこなかった。日はすっかり傾いて、やがては沈んでしまい、夕闇が忍び寄ってきた。
 今まで何度も繰り返してきたように、もし帰ってこなかったらという思いが胸をよぎる。この年になって、年寄りネコのワタシはひとり残されたら、どうすればよいのだ。
 しかし、ようやくクルマの音がして飼い主が戻ってきた。ワタシは、ギャーオギャーオと鳴き続けながら、飼い主を迎えたのだ。

 生きている者同士の、縁(えにし)。不思議なつながりで結ばれた縁こそが、生きることの必然性を示すものかもしれない。人の世では、無縁化社会への危惧が叫ばれているのだが・・・。
 しかし一方では、その人間たちが、出会いの縁にこだわりすぎて、相も変らぬ男と女のせめぎあいを繰り返し、その果てには命をかけてまでも争っているのだ、たかが色恋沙汰(いろこいざた)くらいで。
 飼い主が、今日もまた、テレビでそんな舞台の一つを見ている・・・。


 「夕方になって雨が降ってきた。すっかり雪の解けた庭には、もうオオイヌノフグリの小さな花さえ見えているし、木々にとっては、木の芽起こしの良い雨になることだろう。もっともこれで、冬が終わり、春になるとは思えないが。

 ところで私事ながら、去年からの仕事の手続きがなかなかはかどらない。そのために、時には遠く離れた町まで日帰りで行かなければならないこともある。
 どうしても帰りが遅くなってしまう。頭に浮かぶのは、ひとりで私の帰りを待っているだろうミャオのことである。
 ずっと一緒に家にいる時は、わずらわしくて、つい怒鳴ることさえあるくらいなのに、離れると心配になってしまう。

 それは、亡くなった母と暮らしていた時も、あるいは若い頃に女の子と一緒に暮らしていた時もそうだった。
 毎日の暮らしの中で、人はいつも知らぬ間に、大切な記憶の蓄えをしているのだが、その記憶の収入が消えて初めて気がつくのだ、もう何も入ってこないと。それまで毎日、何かしら積み重なって来ていたものが・・・。
 ミャオ、なんとか元気で長生きしておくれ。

 さて、この1週間の間、NHK・BSでは例のごとく、ニューヨークはメトロポリタン・オペラの昨年度公演のラインアップが組まれていた。
 20日 R・シュトラウス 『ばらの騎士』
 21日 ビゼー 『カルメン』
 22日 ヴェルディ 『シモン・ボッカネグラ』
 23日 トマ 『ハムレット』
 24日 ロッシーニ 『アルミーダ』

 それぞれにしっかりと録画したのだが、まだ全部は見ていない。
 それにしても、このメトロポリタンやミラノ・スカラ座のように、オペラの伝統を守って公演してくれる劇場があるということ、ましてそれが、ハイビジョンで放送されるということは、私のような田舎に住んでいて、いつまでも初歩的ミーハー的なままの、進歩のないオペラ・ファンにとっては、どれほどありがたいことか。
 保守的といわれるこの二つの劇場さえあれば、私は、革新的、現代芸術的オペラと称されている、ドイツ、オーストリア、フランス、イギリスの舞台を見ることができなくともかまわない。

 そんな、安心して見ることのできるメトのオペラではあるが、とは言っても、時には、今一つ満足できないものもあるのだ。例えば今回のシリーズでのそれは、今やメトの顔ともいえる大スター、ルネ・フレミングの歌った『アルミーダ』である。
 私は、ロッシーニのオペラが好きであり(’10.2.24の項参照)、今回も楽しみにしていたのだが、いかにモーツァルトやR・シュトラウスを得意にしているルネ・フレミングだとはいえ、フィオリトゥーラと呼ばれる、装飾音をつけての歌い方にはまだ十分に習熟していないようで、私にはそこが少し不満だった。
 というのも、私たちは、少し前のあのヴァレンティーニ=テッラーニや、今のチェチーリア・バルトリの歌声を知っているからだ。
 さらに、相手役のローレンス・ブラウンリーは、前にも同じメトの『チェネレントラ(シンデレラ)』にも出ていて、そこでも書いたことなのだが、ロッシーニ歌手としての歌声は素晴らしいのだが、もちろん私には人種差別的な偏見はないと断った上で言えば、その舞台上の小柄の黒人の立ち姿には、この作品としてはどうしても違和感を感じてしまうのだ。

 トマの『ハムレット』は、初めて見るオペラだったが、原作を大分変えて脚色してあり、簡潔な舞台の上に、さらに主演の二人とも知らない名前だったが、興味深く見ることができた。特にあのオフィーリア役のマルリース・ペテルセンの歌う”狂乱の場”は見ものだった。
 残りの『ばらの騎士』と『シモン・ボッカネグラ』はまだ見ていない。そして、ここで書きたいと思ったのは、ビゼーの『カルメン』である。

 それは、上演が終わった後、テレビの前で観客と一緒に拍手を送りたくなるほどの舞台だった。そして、何と言っても、そのカルメンを歌い演じきったエリーナ・ガランチャの素晴らしさに尽きるのだ。

 レコードの時代、カラヤン指揮ベルリン・フィルによる、アグネス・バルツァのカルメンとドン・ホセ役のホセ・カレーラスという、理想的な組み合わせの名盤があったのだが、確かに歌声だけを聴けば極め付きの1点だったのだが、映像としては少し不安な所も出てくるだろう。
 そしてDVDでいえば、あのカルロス・クライバー指揮ウイーン・フィルによるエレーナ・オブラスツォワとプラシド・ドミンゴの組み合わせによる名盤がある。しかし、この二人の歌声は見事なのだが、やはり舞台上の見た目から言えば、少し違和感を感じてしまう所もある。
 このDVDは、やはりあの若々しいクライバーの指揮ぶりを堪能(たんのう)するべき1枚なのかもしれない。

 そして今回テレビで見た、メトの『カルメン』。ガランチャ扮するカルメンが舞台に登場してから、私の目は彼女にくぎづけになった。
 それは、まさにメリメの原作通りの、タバコ工場で働くロマ(ジプシーは差別語にあたるので今は使われない)の女、カルメンのイメージそのままだったからである。目が青いことを除けば。(写真)
 特に素晴らしいのは、ガランチャのその眼力(めぢから)である。今までこのカルメン役を歌ったメゾ・ソプラノの歌手の中では、初めての原作通りの眼をした歌手だったのに違いない。
 ちなみに、メリメの小説『カルメン』の中では、以下のように書かれている。

 『特に彼女の眼は情欲的で、凶暴な表情を宿していたが、これはその後今日にいたるまで、私が人間の目には一度も見たことのないものだった。”ジプシーの目は、オオカミの目”、これはスペインのことわざだが・・・。』

 私は、昔行ったヨーロッパの旅で、このセビリヤのタバコ工場跡も訪れ、グラナダでは多くのロマの人々にも会った事があり、この『カルメン』の舞台と登場人物たちにも、ある程度の理解をすることができた。

 ガランチャの歌は、バルツァなどと比べればまだという部分もあったかもしれないが、それにふさわしい容姿と演技などを含めて見れば、もしかしたら、まさに歴史的なカルメン役だったのかも知れない。
 できればそんな彼女の場面ごとの、歌や演技、踊りなどを紹介したいところだが、とてもこのブログのスペースに収まりきれるものではない。
 一つ上げるとすれば、ラストシーン、嫉妬に狂ったドン・ホセに刺されて、死にゆくカルメン、すべてを受け入れ、永遠を見つめるような、死にゆく狼の目に・・・、私は思わず胸が熱くなってしまった。
 
 もちろん、このオペラはガランチャのカルメンがすべてではない。相手役は、あの当代きってのテノール、ロベルト・アラーニャであり、さらにミカエラ役は名ソプラノのバルバラ・フリットリだし、そして闘牛士エスカミーリョ役のテディ・タフ・ローズは、三日前の代役とは思えないはまり方で、それぞれに見どころが多かった。
 (代役ということで言えば、当初予定されていたこのカルメン役は、あのアラーニャの別れた妻、ゲオルギューだったそうだが、急きょ変更されてガランチャに代わったとのことだ。あの夫婦だった二人が名コンビだったことを思うと、何が幸いするかは分からない。)
 さらに、他の舞台装置、間奏曲中のバレー、指揮者についてもベストではないにせよ、大きな問題があったわけではなく、安心して、歌手達の演技と歌を聴くことができた。
 
 ところで、このバルト三国の一つ、ラトヴィア生まれのエリーナ・ガランチャ(1976~)は、先ごろ同じNHK・BSで放送された、『ベルリン・フィルのジルベスター・コンサート』の中でも、いわゆるスペインものを歌っていた。
 彼女が、オールマイティーに、メゾ・ソプラノ役のすべてを歌いこなせる訳でもないだろうが、少なくとも、この『カルメン』に関しては、彼女がベストのプリマだという思いは、今後も変わらないだろう。
  
 (これは、書かなくてもよい蛇足なのだが、彼女に似た顔の日本のタレントがいる。アイドル集団AKB48の秋元才加(さやか)である。ただ顔が似ているというだけで、全く他は比較にもならないのだが。)

 今回、このオペラ『カルメン』のことを書くにあたって、メリメの小説『カルメン』を少し読みなおしたのだが、そこで、巻頭(かんとう)に掲げられていた言葉を思い出したのだ。
 当時は、なるほどとひとり笑いしていたものだが、今ではセクハラだといわれるかもしれない。しかし、あくまでも作者のメリメがわざわざこの小説のために選んだ言葉である。

 『女は気むずかしいもの。おとなしいのは二つだけ、寝床の中と墓の下。』 
 (古ギリシャの詩人パラダスの言葉)

 ところで、その他のクラッシック番組では、あのおなじみのアバド指揮ルツェルン音楽祭管弦楽団による、マーラーの交響曲シリーズの第9番の、去年8月の演奏が放映された。今年で何と78歳にもなるアバドの、祈りにも似た最終楽章・・・。その消え行く先の長い沈黙・・・。マーラーを愛する、指揮者とオーケストラ団員と観客との間に生み出された、素晴らしいひと時の空間だった。
 (観客の中には『ベルリン天使の詩』(1987年)のブルーノ・ガンツと、『ライフ・イズ・ビューティフル』(1997年)のロベルト・ベニーニの姿も見えていた。)
 アバドとルツェルンによるマーラー・シリーズは、これで残る1曲、『千人の交響曲』とも呼ばれる第8番だけなのだが・・・。」


(参照文献: 世界文学全集より メリメ作『カルメン』堀口大学訳 新潮社)
 


ワタシはネコである(178)

2011-02-22 21:25:32 | Weblog

 




2月22日


 すっかり、暖かくなった。飼い主との毎日の散歩に行くと、道端には、冬の間雪の下で食べられなかった草が、新しい葉を伸ばしはじめていて、それを食べるのも楽しみの一つである。
 ベランダで、あるいは少し離れた草むらで、春の日を浴びて寝ている。いいなあ、春の暖かさは。

 今日は、日本のカレンダーによれば”猫の日”だそうだが、全く、ただの月日のごろ合わせだけで、勝手に”猫の日”だなんて決めて、とんだお笑いぐさだ。そうではなくて、1年365日、ワタシたちネコを可愛がる日であってほしいものだ。
 話は違うが、明治時代、まだ外国語の翻訳(ほんやく)が十分でなかった時代、あのドイツの文豪ゲーテのことを、発音表記がうまく表せずにいて、ギョエテとか書いていたこともあって、それを皮肉って、「ギョエテとは おれのことかと ゲーテ言い」、という川柳が作られたのだと、飼い主に聞いたことがある。
 なんだかなー。似た話のようにも思えるのだが。

 春めいてきた日差しとともに、日が暮れるのも遅くなってきた。それにつれて、ワタシのサカナをもらう時間も少しずつ遅くなってきた。お腹がすくのは、決まった時間なのに、それを考えてもくれずに飼い主は、夕方に食べるから夕食だと頭から信じこんでいる。
 ワタシが、ニャーニャー鳴いて催促しようものなら、あの鬼瓦顔で怒鳴るのだ。
 「おんどりゃー、何時だと思うてけつかんねん。まだ早いべやー。もう少し待たれんとか。」
 全く訳のわからない、関西弁に北海道弁、さらに九州弁までも入って、もうワタシの手には負えない。
 
 ワタシたち猫族は、共通のニャー語でどこに行っても通じるけれど、人間は同じ民族でも、地方によって少し言葉が違うし、ましてその民族や国が違えば、もうお互いに全く通じ合えない言葉を使っているのだ。
 つまり、あのバベルの塔の失敗以来、世界中は何一つまとまることなく、地球上の人間どもは、相変わらずそれぞれの言葉で自分勝手にわめきあっている。
 さらにその人間どもは、神からの教示でもある人間の嬌慢(きょうまん)さへの戒めを、何一つ学ぶことなく、恐るべき速度で科学を発達させて、限りなく続く自分たちの欲望のためだけに、ただひたすらに奈落へと向かっているような気もするのだが。

 私たち動物にとっての変化は、いわゆる進化程度の緩やかな歩みであるし、それだけで十分にやってこれたのだ。なのに、獰猛(どうもう)な欲望の塊(かたまり)である人間の、あのぎらついたあくどさはどうだ。
 2月22日は、”猫の日”ではなく、”猫を見習う日”、”動物を見習う日”としたらどうだろうか。

 飼い主が、ワタシを見ながら、あの恐ろしい鬼瓦顔に笑みを浮かべて、拍手をしている・・・。


 「すっかり春めいてきた。朝はまだー5度くらいあって、外では氷も張っているのだが、先日からの雪は、屋根の北側の下にかろうじて残っているくらいだ。
 日中の気温は、今日ついに14度までにも上がった。そんな春の初めの暖かさは、確かに気分がいいのだが、それとは別に少し寂しい気もする。というのも、今年のこの雪の多かった冬の季節に、山に行ったのは、ほんの2回きりだったからだ。
 やむを得ない事情もあったのだが、それは言い訳の一つで、年ごとに山に登るという強い気持ちが薄らいできているのかもしれない。
 しかし、それはそれで良い。私には、まだ他にも見たい知りたい未知のことが色々とあるからだ。そこに向かうのは、また新たな道をたどって山に向かうことにも似ている。

 その一つは、日本の古典文学である。日本人なら誰でも、どこかで知る機会があり、少しは読んだことがあるだろう日本の主な古典。古事記に始まり、万葉集、古今・新古今の和歌集、源氏物語に平家物語、日記文学から、枕草子に方丈記、徒然草、そして芭蕉の俳句に、井原西鶴の物語と近松門左衛門の戯曲集等など。
 しかし、私は恥ずかしながら、今までまだ源氏物語の全巻を読んだことがなかった。
 それで先日書いた、ミニノート・パソコンに古典文学サイト等から、その源氏物語のテキストをダウンロードして、少しずつ読んでいくことにしたのだが、その時調べていて、名前は知っていても、本として見たことのなかった他の古典作品をいろいろと見つけたのだ。

 私はとりあえず、さらに何本かをダウンロードした。
 電子図書化はしないと言っていた私だが、こうしてパソコンの中に古典文学の蔵書が増えていくのは楽しいものだ。それもお金もかからずに。

 次に相変わらず、テレビ録画に頼っている私だが、先日、大好きなバッハの演奏会の一つが放送された。
 2月20日、NHK・Hi 『2010年ライプツィヒ・バッハ音楽祭』よりアンドラーシュ・シフ(1953~)のピアノ演奏によるバッハの『フランス組曲』全曲他である。
 このシフというハンガリー出身のピアニストの名前は、早くから知っていた。1977年、当時の最先端録音技術とされていた、デンオンのPCMデジタル録音による、バッハの『二声のインヴェンションと三声のシンフォニア』を聴いた時からである。
 その後、レーベルはデッカに移り、そこで彼は上記の曲を再録し、さらに『パルティータ』『イギリス組曲』『フランス組曲』『ゴールドベルク変奏曲』そして『平均律曲集』と、主なバッハのチェンバロ曲をピアノで録音していった。
 もちろん、このバッハのピアノ演奏の分野には、一つの個性あふれる巨大なモニュメントがある。グレン・グールド(1941~2002)のバッハである。
 しかし、彼はグールドほどの内向的でエキセントリックな手法は取らずに、彼なりの流麗なタッチと流れるようなテンポというスタイルで、彼の思うバッハへと近づいていったのだ。

 私が、レコードで初めて聴いたのは、上記デッカの『インヴェンションとシンフォニア』であり、それまで主にドレフェスのチェンバロで聴いていた私は、シフの弾くピアノのタッチにすっかり魅せられてしまった。
 しかし、あろうことか、次に買った『ゴールドベルク』で、冒頭の有名なアリアの速さに、私は夢打ち砕かれた思いがした。私よりは若い彼に、ついて行けないのだと思い、以降シフのバッハからは少し足が遠のいていたのだ。

 そんな時に聴いたのが、テレビ放送によるこのシフの『フランス組曲』である。後半の『フランス風序曲』と『イタリア協奏曲』とともに、併せて2時間10分程の間、私はテレビの前に座り、暗譜(あんぷ)という驚異的な記憶力でピアノを弾き続けるシフを見ていた。
 若い頃のジャケット写真しか知らなかった私は、そのヘアスタイルは変わらないものの、すっかり白髪頭の中年男になってしまった彼を見た。彼の演奏スタイルも変わったのだ。というより誰もがそうであるように少しずつ変わっていったのだ。
 
 そして、彼の演奏が終わった後、私は、良いバッハを聴いたという思いに満たされていた。6曲の『フランス組曲』も『序曲』も良かったのだが、最後の『イタリア協奏曲』で、私はシフの音の中に、確かなバッハの思いを聴いた気がした。
 このイタリア協奏曲は、いわゆる急ー緩ー急の3楽章で構成されていて、弾き手によっては、自分のテクニックを発揮できる曲であり、そうした演奏が多く、なかなか私の思い描く演奏には巡り合えなかったのだが、今回のシフの演奏は間違いなく、私の理想に近い演奏の一つであったのだ。
 アレグロの出だしは決して早すぎず、その軽やかな流れは、次の思いを込めたアンダンテへと移って行く。何という夢のひと時・・・そして、プレストで再びの軽やかな流れに戻り、締めくくられるのだ。

 とここまで書いてきた時、ネットでシフのことを調べてみると、そこにはテレビでの演奏会ではなく、シフの生の演奏会の模様ばかりが書いてあった。そうなのだ、彼は最近来日しては東京で演奏会を開いていたのだ。何と、バッハの『平均律第2集』全曲、そしてシューベルトとベートーベンのソナタという三つのプログラムで・・・。
 こんな田舎にいて、ミャオがいて、私には都会に行くすべもないのだ。

 ただ、テレビで見て聴いただけだが、それでもシフのバッハは、十分に私の心を豊かにしてくれた。
 私は、若き日にヨーロッパを長期旅行したことがあるのだが、その時に、当時まだ東ドイツ内にあったライプツィヒにも足を伸ばした。そこで、バッハゆかりの聖トマス教会を訪れ、その前に立つバッハ像(当時の写真)を見上げて、思わず涙しそうになったことを憶えている。
 さらに、その聖トマス教会で、当時のカントール、ロッチェ指揮によるバッハのカンタータさえも聴くことができたのだ。ジーパン姿の異教徒のバックパッカーにすぎない私が・・・。何という夢のひと時だったことだろう。
 それは、再びシフの『イタリア協奏曲』のアンダンテへとつながって行く・・・。

 まだ書きたいことはいろいろとあって、例えば、民放の番組だが、あのサンデル教授が再度来日して、スタジオで日本のタレントたちを前に、例のスタイルで哲学の講義をしたのだが、そこには、日本と西洋の考え方の差を含めて、様々に面白い問題が見えていたのだが・・・。

 だらだら書き続ける悪い癖で、すっかり長くなってしまった。しかし、言えることは、ことほど左様に、人間にはそれぞれに様々な感性の違いがあって、それが面白いからこそ、何かを言いたくなり、さらに何かを考えたくなるのだろう。」


ワタシはネコである(177)

2011-02-17 20:59:35 | Weblog



2月17日

 雨が降っている。5日続いた雪の日の後、昨日はなんとか、雲が多いながらも晴れてくれたのだが、今日はまた天気が崩れて、朝からの雨模様だ。
 せっかく少し春めいてきたのかなと思っていたのに、先月と変わらない寒い雪の日が続いていた。今日の雨でもまだ、その雪は残っている。もちろん冷たい雪よりは、暖かい雨の方が良いのだが、外に出られないのは同じことだ。

 飼い主もあまり外に出ないで家にいるから、退屈なワタシは、相手をしてもらいたくなり、かまってもらいたくなり、ニャーニャーと鳴きかける。
 こうして長い間ずっとふたりっきりでいれば、どうしてもお互いのわがままな所が出てきてしまう。飼い主は、ワタシの鳴き声にも知らん顔して、新聞を読み続けている。
 子ネコのころならともかく、その新聞の上にあがってまで相手をしてほしいとは、とても言えない。そんなことでもしようものなら、あの怖い鬼瓦顔の口先から、どなり声が出てくるからだ。仕方なく、ワタシはストーヴの前で横になる。あーあ。
 ネコは、やることがないから、ヒマだから寝てばかりいるのだという、あるネコ学者先生の言葉を受け入れざるを得ないのだ。

  しかし、飼い主はそんなワタシを見て不憫(ふびん)に思ったのだろう。雨の合間を見計らって、散歩に連れ出してくれた。20分ほどの、小回りのコースだったが、雪の残る道のあちこちで臭いを嗅ぎまわり歩いて、ワタシは満足だった。
 家に帰ってくると、すぐにまた雨が降り出して来た。ワタシは、飼い主の顔を見上げてニャーと鳴いた。


 「 雪の日が続いた後に、昨日は久し振りの晴れ間が広がっていた。明日の予報が雨のこともあって、出来るならすぐに雪山を見に行きたいとも思ったが、結局行かなかった。
 数日間、降ったりやんだりの雪は、毎日10cm、3cm、5cm、15cm、5cmと積もったのだが、特に後の方では雪が里雪(さとゆき)型になって、風もなく静かに降り積もっていたから、恐らく山の上では風紋などできていないだろうと思った。
 長年、冬の山に登っていると、その雪景色の一つにさえぜいたくを言うようになる。その昔、中学生の時初めて登った雪山は、標高800mほどの低い山だったが、深い所で数十センチもの積雪があり、その雪だけで大喜びしたのを憶えている。

 つまり、初めて出会った景色の感激も、慣れてしまえば当たり前のことになり、さらに高い感動の景観を求めてしまうのだ。何という、ごうつくばりな、際限ない欲望にかられるのだろうか、人間という生き物は。
 例えば、ほんの1ヵ月前に、モバイル・アクセスを使ってインターネットの速度が上がったことに大喜びをしていて、もうこれで十分だとさえ言っていたのに(1月19日の項)、使い続けているうちに、その速度は、いつもの同じ速度でしかなく、例えば、YouTube などの映像が途中で何度も止まってしまうのを見ると、やはりもっと早い速度のインターネットならばと思ってしまうのだ。
 しばらく前に、北海道の友達に、「ダイアル・アップの時と比べれば、はるかにネットの速度が上がって最高、もうこれで十分だ。」と話した時、電話口の向こうで、彼は、「そうかな。上があれば、また欲しくなるんじゃないかな。」と言っていたが、今思えばその彼の、皮肉めいてニヤリと笑う顔が目に浮かんでくる。
 人は、その時の出会いに感激して、美辞麗句(びじれいく)をあげて誉めたたえるが、その後にさらに上なるものに出会うと、途端に消え入るような言葉で、自分の前言を翻(ひるがえ)す他はなくなるのだ。

 とはいっても、モバイル・アクセスでネットの速度が速くなったことの利点はいろいろとあるし、さらに例のただでもらったキャンペーン期間商品のミニノート(ネットブック)では、いろいろと便利なことができて楽しませてもらっている。
 まず最初に考えていたのは、山旅に出かけた時の、デジカメ写真のバックアップ用ストレージ(保管場所)としての利用だ。数年前から、いつもの民宿で会うプロの写真家の人が、当時は普通のノートパソコンより遥かに値段の高かった、モバイル・ノートパソコンを持ってきていて、その日に撮った写真をモニターで見ながら取り込んでいた。
 それだと、何枚ものメモリーカードを持ってこなくてすむし、すぐにその日のうちに写真をバックアップしておくことができるからだ。
 
 しかし、私が今このミニノートで楽しんでいるのは、寝る時に横になって見ることのできるスライド・ショーだ。あの時に登った山々の良い思い出に浸りながら、安らかな眠りに入って行けるようにと。
 つまり、この小さな10インチ画面のミニノートは、例えばもし病気やケガで入院することになった時には、気楽に枕元に置いておけるし、そこに外付けのDVDプレイヤーをつければ、今まで録画してきたたくさんの映画やドキュメンタリー番組の、DVDを見ることができるし、音楽CDさえも聴くことができる。

 さらに思いついたのは、例のネット上の青空文庫だ。
 久し振りにその一覧を見て、確実にその数が増えていることに気がついた。それは、普通の一般的文学書のラインアップからすれば、かなり偏(かたよ)ってはいるが、逆に今では読むことのできない作品も数多くあるのだ。
 その中には、例えば、加藤文太郎の『単独行』や松濤(まつなみ)明の小品(『風雪のビバーク』は作業中)などのように、昔買った本で、あちこち変色しシミが出ていて買い替えようと思っていたものまで含まれている。
 この二冊は、最近、山と渓谷社から文庫本として復刻発売されていたのだが、残念なことに、近くの大きな本屋でも置いてなかった。それで、いつか東京に出た時にでも買おうと思っていたのに、この青空文庫の中に『単独行』の名前を見つけた時には嬉しかった。
 何はともあれ、この青空文庫に載せるべく、作業をしてくれた人たちに感謝するばかりだ。

 ただし、そこには、私の好きな古典文学の作品が少ないけれども、他のサイトで見ることもできるから、とりあえずは十分だと思う。
 さてまずは、それらの文学作品の中から幾つかをダウンロードして、縦組み変換ソフトで読みやすいように変えて、このミニノートに取り込む。後は好きな時に、好きな作品を立ち上げて、寝る時などに読むことができるというわけだ。
 最新の本など読みたいとは思わない私には、何も今流行りの iPad などを買う必要もないのだ。タッチパネルかどうかの違いだけだし。
 念のために書いておけば、私はすべての本をこうしてデジタル図書化していくつもりはない。やはりちゃんとした紙の本を書棚に揃えて、これからも読んでいきたいと思っている。

 と、ここまでミニノートに写真や小説などを入れてきたから、これでよし、もし何かあって、入院することになったとしても大丈夫だ。
 つまり、後は、この年になるまで、払いっぱなしだった国民健康保険金(積算すれば信じられないほどの高額に達している)を取り戻すべく、病院に行くことだ。
 そこではいつも、きれいな看護婦のおねえさんたちが、ひとり寝ている私の所へ来てくれては、いろいろと面倒を見てくれるだろうし、もう最高ではないのか。
 大分前に、お笑い番組で、足をケガして歩けない患者に扮したお笑いタレントが、きれいな看護婦さんにベッドの上でシビンをあてがってもらって、全く幸せそうな顔をしていた。そうだ、すぐにも病院へ行こう。
 待て、今の私には、何の病気もないし、痛めた肩も腰も治りつつある所だし、行く理由がない。第一私が病院にいる間、あの哀れなミャオの面倒を誰が見てくれるのだ。

 こうして、私の極楽病院入院計画は、あっけなく頓挫(とんざ)するのでありました。むしろ、そんなしょうもない話を考えるアホな自分の頭を、何とかする方が先なのだろう。

 所で、今日ミャオと散歩に出かけた時に、家に近くにある一本のネムノキの幹に大きな傷がついているのを見つけた。(写真)
 それは、直径40cm、高さ10mほどもある大きな木で、毎年枝先にたくさんの明るいぼかし色の花をつけていたのに、無残な姿になっていた。これだけ皮がはぎ取られてしまえば、やがては枯れてしまうだろう。
 幹に残った歯形は、間違いなく皮を食べたシカのしわざだ。先日、山登りに出かける時にも、家の前で二頭の立派な角を生やしたシカ(ホンシュウジカ)に出会っていた。それは、北海道のエゾシカほどに大きくはないが、それでもかなりの体格だった。

 それまで北海道の家では、庭に植えていたリンゴやライラック、カエデなどの幹や枝がかじられて、何本も、枯れてしまっていた。
 時々テレビ新聞で、シカの被害が報告されているが、特に北海道などではその被害は深刻であり、田畑の作物だけでなく、山の木々や高山植物までも滅ぼすことになりかねないのだ。
 野生動物の保護は大切なことであるが、一方で高齢化により狩猟人口が減り、天敵がいなくなった山野では、こうしてシカやサル、イノシシがわがもの顔に辺りを跋扈(ばっこ)することになる。
 すべて、その彼らが悪いわけではなく、もとをたどれば、人間たちの様々な不始末のせいなのだが・・・。

 このネムノキは家の木ではないし、誰も気にも留めないのかもしれないが、このまま枯らすには余りにも惜しい。私はもちろん樹医でもないのだが、前にも経験はあるので、何とか自分で、この木の傷の手当てをしてみたいと思っている。
 春が来れば、木々は多くの水分を吸い上げるようになるから、皮をはがされた幹からは栄養を含んだ水が流れ出し、やがては枯れてしまうだろう。
 何とか今のうちにやらねばと思う。そのためには、二三日でも晴れた日が続いてくれればいいのだが。

 今日は一日雨が降ったり止んだりで、積もっていた雪も大部分が溶けてしまった。そして、長い間雪の下にあった草も、日の光を浴びて、緑の新しい葉を出すことだろう。
 そうすれば、もうシカたちは、あんなうまくもない木の皮なんぞを食べなくてすむようになるのだ。

 シカも、ミャオも、そして私もそれぞれの春を待っているのだ。」 


ワタシはネコである(176)

2011-02-11 08:43:46 | Weblog



2月11日

 ワタシはもう春になったのかと思っていた。あれほどに長く、晴れた暖かい日が続いていたからだ。ところが、今朝、飼い主と一緒にベランダに出てみて驚いた、外は一面真っ白の雪景色に変わり、また冬に戻っていたのだ。
 ともかく庭に下りて、雪のない木の下を通って一回りし、適当な所でトイレをすませて戻ってきた。飼い主が、タオルで体をふいてくれた。
 ストーヴの前に戻り、念入りに毛づくろいをする。これでは、今日はいつもの散歩にも出られないだろう。また一日、寝て過ごす他はない。

 それにしても、昨日までよく暖かい日が続いたものだ。ワタシは、いつも昼前後になると、飼い主に散歩に行こうと鳴きかけた。
 パソコンの前で、忙しく手を動かしていた飼い主は、鳴いているワタシをじっと見て、やおらどっこいしょと声をあげて立ち上がる。ああ、ジジくさくてイヤなかけ声だ。黙って立ち上がることができないものか。
 それでも、今までは顔をゆがめてアイテテテーと声に出していた位だから、体のケガも良くなったということなのだろう。ひと安心だ。

 外に出ると、もう雪は、日の当らない日陰のあちこちに残るだけで、草原斜面には暖かい春の空気が漂っている。まだ枯れ草が多くて、ワタシの食べる緑の新葉は余り出ていない。
 道の両側の草むらなどに、他のネコたちや獣たちの臭いが残っていて、それを一つずつ、これはあのクロネコだ、あれはパンダネコだとていねいに臭いをかぎ分けていく。
 と夢中になっている間に、飼い主の姿が見えなくなった。まあいい、先に帰ったのだろう。ワタシは、自分の日課をこなして帰ればいいのだから。

 といった毎日だったのに、この雪でまたあの1月と同じように、寝て暮らす日々が続くのだろうか。何事も神様の思し召しのままに、インシアラー。
 それは、飼い主が見ていたテレビ映画の一場面で、誰かが話していた言葉なのだが・・・。 


 「 久しぶりに雪が降り、10cmほど積もった。それは、1月の間中積もっていた雪が、最近ようやく溶けてなくなろうとしていた時に降った雪である。しかし、今回の雪は、あの1月の寒い時のさらさらとした雪ではなく、いつもの九州に降る湿った雪だった。
 気温も高く、日も差さない天気なのに、夕方までには半分ほど溶けてしまった。もっとも、この二三日は雪の予報が続いているのだが。

 さて相変わらずに、肩と腰の痛みが残るので、無理な仕事はせずにおとなしく家にいて、本を読んだり、録画していた番組などを見たりしていた。
 まずは、前回少しふれた地方局のテレビ番組について、あのテレビ金沢制作の『田舎のコンビニ~一軒の商店から見た過疎の4年間』である。

 それは、何気なくテレビをつけてたまたま見た番組だから、最初からちゃんと見たわけでもなく、すでに5分ほど過ぎていたのだが、その後の50分余りをずっと見続けてしまった。
 つまり、九州のそして北海道の田舎に住む私だからこそ、余計に思い当ることも多かったのだが、現代日本の社会が抱える、地域の過疎化、高齢化といった問題を、かろうじてつなぎとめている村落共同体意識としての、人々の心のつながりを描いた見事なドキュメンタリー番組だった。
 
 北陸は能登半島の、とある小さな町の、その海辺の一つの集落にある一軒の商店が舞台である。そこには、その女店主とその顔なじみの年寄りのお客たちとの、日常のやりとりが記録されていた。
 食品からちょっとした衣類までも売っている、いわゆる田舎の万屋(よろずや)であり、店の中には、幾つかの椅子が置いてあり、買い物ついでの年寄りたちが集まっては、女店主と話をしていた。
 その女店主は、店の軽ワゴン車で品物の配達をし、足の不自由なお年寄りのために店への送り迎えだけでなく、時には離れた病院への送迎までもしてやっていた。
 たったひとりで暮らしているお年寄りにとって、そんな彼女は、遠く離れた所にいる子供たちたちよりも、はるかに頼りになるかけがいのない存在になっていた。
 集落の年寄りたちが主なお客のその商店は、彼女と裏方の仕事を黙々とこなす口数の少ない夫との二人だけの経営であり、内情は苦しく赤字ギリギリの状態だという。それでも、周りにいるお年寄りのためにやめるわけにもいかないのだ。
 その毎日の話の中で、時は過ぎて行き、お客だったお年寄りが一人二人と、亡くなっていく。番組のナレーターは、短く結果だけをたんたんと伝える。

 その亡くなったおばあちゃんの一人が、まだ元気だったころ、テレビ・スタッフが家に行って、尋ねていた。『今、お幸せですか。』
 広い家の一部屋に座っていた彼女は、後ろを向いたまま答える。『そんな幸せなわけがなかろうが。子供たちと一緒に暮らして、孫を抱いていたかったわ。』

 やがて、その商店もいつかは店を閉める日が来るだろう。クルマを持つ若い人以外のお年寄りたちは、遠く離れた病院へはもとより、日々の食料の買い物にさえ困るようになるだろう。
 そのころ、都会に住む子供たちは、新しい便利な家に住み、明るい光の中で、家族で食卓についているのかもしれないが、しかしその子供たちが悪いわけでもない、彼らは彼らなりに手いっぱいなのだから・・・。
 
 それとは別に、一年前にも取り上げたことのある、あのNHKのドキュメンタリー番組『無縁社会』の続編が、『無縁社会の衝撃 若者と働き盛りの叫び 失業・病・独り暮らし・結婚できない』という副題をつけて、今夜新たに放送されていた。
 前回は中高年や高齢者たちに焦点があてられていたのに比べて、その問題が今や、若い人や働き盛りの人々にまで広がっていることを伝えていたのだ。
 あの能登半島の小さな集落の年寄りたちのように、ひとりで死んでゆく人々の話を聞いた後、さらに、まだ若い人たちが、孤独の果てに死に向かおうとする話を聞くのは、余りにも哀しい。

 誰に責任があり、誰が悪いのかということを軽々しくは言えないし、もちろん私ごときが、何かを提言できる立場にはないのだが、ただそこで思うのは、ひとりになってつらいと思う人々と、ひとりでいるしかなった人々との、大きな思いの差である。
 つまり、そんな孤独な逆境の中でも、しっかりと生きていこうとする若者たちもいるということだ。

 さらにもう一つ、別な角度から、今の世相の一端をうかがわせる番組もあった。2日前のNHK『クローズアップ現代』であり、そこでは今、爆発的人気の漫画『ワンピース』が取り上げられていた。
 20代から50代にまで及ぶ広い読者層の人々は、その漫画やアニメに描かれている、主人公を中心とした仲間意識と連帯感に、感動し憧れているのだ。現実にはない架空の設定の中で・・・。

 思えば、人は一人であることに、早くから慣れておくべきではないのだろうか。どのみち社会に出れば、若者は、ひとりで自分の道を進んで行くしかなく、何かを得ては失い、成功しては挫折し、自分ひとりでできる事とできない事を学びとるに違いない。
 併せて、仲間たちとあるいは集団になって行動して初めて、大きなことができることを知り、ひとりと集団であることの意義の違いを学ぶことにもなるだろう。
 そんな若者の時代なればこそ、自分が、今まさにその泥濘(でいねい)にまみれながらも、きらびやかな生のただ中にいることにも気づくのである・・・。


 第一次大戦のさ中、青空の広がるエジプトはカイロの、駐在イギリス陸軍情報部にその若者はいた。名前は、トーマス・エドワード・ロレンス(1888~1935)である。
 先日NHK・BSで放映された、映画『アラビアのロレンス(1962年)』(写真)は、私の青春時代の一つの方向を指し示してくれた作品である。

 話は、陸軍情報部の一将校だったロレンスが、イギリスの利権確保のために送られたアラビアで、当時のオスマン・トルコ帝国の支配下にあった砂漠の部族たちと協力して、反乱を起こそうと画策する。それは、イギリスの交戦国であったドイツの同盟国トルコを側面から脅(おびや)かすことでもあった。
 だが彼は、いつしかその砂漠の民に深く心ひかれるようになり、彼らのためにと弱小のアラブ軍を率いて立ち上がり、紅海の要衝(ようしょう)アカバを陥(おとしい)れ、さらに王都ダマスカスにまで進軍する。
 しかし、そこで開催したアラブの諸民族の会議をまとめ上げることができず、イギリス・フランスなどの国家の力を前にして挫折し、失意のまま母国に戻り、退役将校としての田園生活を送るさ中に、オートバイで事故死して、その生涯を終えるのだ。

 中学生のころから山登りに親しみ、自然への憧憬(どうけい)を深めていた私は、当時の70ミリ大画面いっぱいに映し出された砂漠の風景に、ただただ見入ってしまった。
 こごしい岩峰群の彼方に地平線が見え、やがて広大な砂丘が続き、まるで雪山と同じように風に舞い形づくられる風紋の波・・・。
 そして、その砂漠を目指してやってきた若者、ロレンスは、ラクダや馬にまたがる砂漠の民たちをまとめあげて、異民族の圧政から救うべく立ち上がるのだ。第一部のアカバ進行までのシーンを、私は、胸躍らせながら食い入るように見続けた。

 第二部は、トルコ軍の生命線であった鉄道の爆破と、ダマスカス進行そして挫折に至るまでの場面が続き、そこには、自己顕示欲が強く倒錯的趣向があると言われている、彼の人間性と心理状態が描かれていて、当時は少し退屈に思われたのだが、今になって見てみると、さすがに名匠デイヴィッド・リーン監督であり、あの砂漠の帝王と呼ばれたロレンスの、英雄としての輝かしい部分と、その背後にある屈折した思いを、陽と陰の一部二部に分けて、イギリスらしい慎み深さを持って的確に描き出していたのだ。

 俳優たちも、舞台俳優から抜擢(ばってき)されたピーター・オトゥールが見事に主役をこなし、アリ役のオマー・シャリフは、後のリーン作品『ドクトル・ジバゴ(1965年)』で主役を演じることになり、さらにそうそうたる顔ぶれの助役陣は、リーン監督の前作『戦場にかける橋(1957年)』の、アレック・ギネスとジャック・ホーキンス、あの名作『道(1954年)』のアンソニー・クィン等などである。
 劇中のロバート・ボルト脚本による、セリフの幾つかも見事であり、詳しく書いて行くときりがないので、一つだけあげるとすれば、ロレンスが炎熱の砂漠行軍中に、ラクダから落ちてはぐれてしまった男を助けるために、死の危険を冒してまで一人で引き返し、男を見つけて戻って来た時のセリフだ。
 『宿命などというものはないのだ。』

 この言葉は、当時、反運命論としての『運命は自ら切り開くもの』という、いかにも青臭い考えに凝り固まっていた私にとって、それはまさしくやり遂げた男だから言うことのできる、雄々しい言葉に思えたのだ。
 ちなみに、そのころ私は、アンドレ・マルローの小説に心酔していて、その中でも『征服者』『人間の条件』などの革命を題材にした話よりは、若者が出会ったある種の冒険譚(たん)的な、『王道』に強く惹(ひ)かれていた。

 『自己を世間から切り離す者が最も信ずることのできる武器、それは勇気である。人生を何らかの済度(さいど)に役立つものと考えている人間どもの思想の屍(かばね)がいったい何になるだろう。』

 『未知への探求、一時的にしろ征服、被征服の関係を打ち破ること。こうした経験を持たない人間たちは、それらを冒険と呼んでいるが、しかしこれが死にたいする防御(ぼうぎょ)でないとしたら何であろう。
 毎日己の周囲に見る塵埃(じんあい)のような人間の生活から一刻も早く抜け出して、彼以外の、かなたの何物かをかち得なければ!』
 (以上 小松清訳)
 
 『アラビアのロレンス』について書いていけば、まだまだいろいろとあるのだが、今回、1990年に再編集されて227分になった完全版を、改めて見直して、それはしっかりとブルーレイに録画して一安心なのだが、私の今まで見てきた映画の中で、やはり大きな感動を与えてくれた映画の一つであったことを再認識した。
 ちなみに、この映画は私のベスト10の中に入れたい一つではあるが、まだその上に置きたい作品たちもある。それらの映画についてはいずれまた、触れる機会があれば書いてみたいと思う。

 余談だが、キネマ旬報社から『映画遺産200』という特集号が出ていて、映画関係者や愛好家たち150人ほどによるそれぞれのベストテンの記事が載っていた。しかし、それほど多くの人々から選ばれた、数多(あまた)の映画の中に、私のベスト5の作品は一本も挙げられていなかった。
 それは、別に自分を恥じることでも、驕漫(きょうまん)になることでもない。ただ、ことほど左様に、たかが映画ベスト10といっても、その思いは千差万別であり、決して同じ10本の並びにはならず、遺伝子配列ほどに個性の違いが出るものなのだ。
 例えば、この『アラビアのロレンス』にしても、インターネットの映画評で見てみれば、星5つから星1つの評価までさまざまなのであり、だから、映画は面白いし、人間もまた、その一人一人の人生もまた、興味深いものなのだ。

 私は、この『アラビアのロレンス』を見た後、しばらくしてから、ラクダの代わりにオートバイの背に乗って、オーストラリアの砂漠を目指したのだった。若い時だから、できたことだが・・・。

 私の人生・・・。ミャオの猫生・・・。」

(参照文献): 『知恵の七柱』1,2,3(T・E・ロレンス 柏原俊三訳 平凡社東洋文庫)、『アラビアのロレンス』(ロバート・グレイヴス 小野忍訳 角川文庫)、『アラビアのロレンス』(ジェレミー・ウィルソン 山口圭三郎訳 新書館)、『王道』(アンドレ・マルロー 小松清訳 筑摩書房 世界名作全集)他。

(以上のブログ記事は2月12日、午前10時に改編。)


ワタシはネコである(175)

2011-02-06 21:30:44 | Weblog



2月6日

 やっと、あの毎日続いた寒い雪の日も終わり、暖かい日差しあふれる日々がやってきた。ワタシの体は、それを敏感に受け止めている。春だ。ストーヴを捨てて、外に出よう。

 今まで部屋の中で寝てばかりいたことが、ウソのような毎日だ。まずはベランダに出て、毛皮干しをして、さらに、何度も家から外へと出入りする。体も心もじっとしてはいられないのだ。
 昼前後には、飼い主を誘って散歩に出かける。家の近くの日陰の道には、まだ雪が残っているけれど(写真)、今まで雪が積もっていて行けなかった遠周りのコースも歩けるようになった。
 そして、夕方、サカナを食べた後などには、もうむしょうに体を動かしたくなって、家の中を走り回るのだ。
 飼い主が、あきれたようにワタシを見ている。

 動物の中には、カメ、ヘビ、カエルなどの変温動物はもとより、恒温(こうおん)動物のシマリス、ヤマネそしてクマなどは、冬の間は冬眠、あるいは冬ごもりをするようだが、ワタシにもその気持ちはよくわかる。
 日本の中でも、冬も暖かい所はエサもあるだろうし、十分に活動できるのだろうが、北国のように雪に被われて何一つエサが見つからない所では、ともかく生きていくだけでも大変である。下北半島の北限のサルが良い例だ。
 だから、体力を温存してずっと寝ていられれば、それにこしたことはないのだ。
 思えば、ネコ族の中でも、人間に飼われているワタシたちイエネコではなくて、本物の野生のネコがいるのは、あの暖かい沖縄のイリオモテヤマネコと九州のツシマヤマネコだけである。
 つまり、雪国のネコもしくはノラネコにしろ、冬場は人間に頼って、その生活圏の中で生きていくしかないのだ。

 今年のように、寒くて雪の多い日々を一ヵ月余りも暮らしてきて、ワタシはつくづくそう思うのだ。体が弱っていたり、歳を取ったりしているネコたちにとっては、飼い主がいなければ生きていけないと。
 そう思って、感謝の思いで飼い主を見ると、何やら情けないかっこうで歩いている。
 つい先日までは、腕をけケガしたとか言って、左腕をかばって歩いていたが、今度は、腰に手を当てて、顔をゆがめて妙な声を上げながらヨタヨタと歩いている。
 全く、年寄りじみた、情けなないジジイの姿だ。あーあ、とワタシはため息をつく。ワタシの方がずっと年寄りなのに・・・。


 「 2月に入って、全く急に暖かくなってきた。それまでは、雪の降る寒い日ばかりが1ヵ月以上も続いて、一日中マイナスの真冬日になったり、晴れて日が差してもプラスの4度どまりだったのに、この6日間、ほとんど毎日晴れて、気温も10度前後になってきたのだ。
 とはいっても、さすがにまだ2月だ、朝はー5度くらいまで下がっていて、日陰には雪も10cmほど残っている。しかし、昼間はストーヴも消して、ミャオと少し長い散歩にも出かけられるようになった。

 ところが、またも体を痛めてしまったのだ。今度は、腰である。全く情けない。人はこうして、自分が年老い、くたばっていく様を自覚することになるのだろう。
 腰は、あの北海道の家をひとりで建てた時に、痛めてしまった。始まりは、100キロ以上もある丸太をひとりで持ち上げたりしていたために起きた、いわゆるギックリ腰(椎間板ヘルニア)、からである。
 その時の病状は歩けないほどひどいものだったが、病院には行かなかった。歩けなかったからだが、原因と傷病名ははっきりしているので、トイレと食事以外は、ひたすら横になって寝ていた。
 そして、一週間後、起きて歩けるようになり、さらに2,3日様子を見てから建築現場に戻った。

 その後も、今日にいたるまで、年に二三回は、ふとしたはずみで、その腰痛が出ることがあった。原因は、重たい荷物を抱えあげようとする時に、さらに高い所のものを伸び上って取ろうとする時にである。
 しかし、それとは別に慢性の重たい痛みもあったのだが、それは今流行りのマッケンジー体操なるものをやり始めてから、目に見えて改善され、安心していたのに。またやってしまったのだ、高い所のものを取ろうとして・・・。

 今回も、安静にして寝ていればすぐに治ると分かっていたのに、ミャオの世話や散歩、買い物、さらにパソコン作業などで、ずっと寝ているわけにはいかず、痛いままにもう数日たってしまった。
 腰に、小さな痛い球がある感じで、ある姿勢になるとそれに触れてアヘーという痛さなのだ。ただ体を戻せば痛みも離れて、永続性はない。
 それにしても、情けないことだ。肩の痛みもまだあり、腰が痛いから体を左右に曲げ、ただでさえ怖いヒゲヅラの鬼瓦(おにがわら)顔が苦痛にゆがんで、ネコを連れて歩いている姿など、まるで田舎の爺(じじい)状態で、こんな山の中だから誰にも会わずいいけれど、都会にいれば、公序良俗違反、猥雑物陳列の罪の疑いがあり、職務質問されるかもしれない。

 田舎に住んでいるから、そんな目に遭わずにすむし、またこんな田舎にいても、テレビやインターネットのおかげで、日々新しい情報を目にすることができる。
 この1ヵ月の間に、NHK衛星・Hiなどでは“イタリア特集”として、様々の優れた番組が放送されていた。前にも書いたことのある“世界ふれあい街歩き”シリーズは、いつ見ても心温かい気持ちになるし、絵画史の謎解きとしての、ダ・ヴィンチの『チェチリアに捧ぐ』、ミケランジェロの『バチカン・シークレット』、『天才画家の肖像』シリーズのカラヴァッジオなど、それぞれの番組に思わず見入ってしまうほどだった。
 ちなみに、この『天才画家の肖像』シリーズでは、日本の曾我蕭白(そがしょうはく)の再放送があり、他にも長沢芦雪(ながさわろせつ)などが新たに放送予定とのこと。

 さらに、”イタリア特集”の一つとして、ミラノ・スカラ座のオペラ公演も、4本ほどが放送されていた。その中でも、あのいわくつきのマリア・カラス公演で有名な、ヴェルディの『椿姫』が、ロリン・マゼールの指揮により、ゲオルギウ、ヴァルガスの組み合わせで、歌手、舞台、衣装とともになかなかに見ごたえがあった(2007年)。
 続いては、2010年のマニトヴァからの、ライヴ・フィルムによる映画版ヴェルディの『リゴレット』である。
 バリトン役のリゴレットを、ドミンゴが歌い、ライモンディまでも出ているということで、期待していたのだが、全く残念なことに、せっかくの雰囲気ある現地撮影の舞台での歌手達の歌が、顔のクローズアップを多用するカメラ・ワークのために、大きく損なわれていたのだ。

 何のために、そういう演出にしたのか。そもそものオペラの形である観劇とは、つまり劇場で歌手達の歌を聴き、その舞台を楽しむということにあるのに、その劇場での伝統のスタイルを古いものとして退け、戸外に出て新たな革新的オペラの形を作り上げようと意図したのか。
 前にも何度も書いてきたように、その時代に書かれた劇場オペラの舞台を、目新しい現代舞台化するような、今の風潮には、どうしても私はなじめないのだ。
 今回は、現地の昔からの建物をそのままを背景にした舞台設定であり、加えて衣装等にも時代性を配慮していたのに、ただカメラの視点だけがそれらとは余りにも異質な現代の目であり、そこには、オペラを現代映画化し、テレビ・ドラマ化しようとした、製作者・監督たちの狙いが見えてくる。
 同じ映画化にしても、同じマニトヴァ・ロケでありながら、節度を守ったカメラ・ワークで、それ以上に、シャイー指揮ウィーン・フィルによる、絶頂期のパヴァロッティとグルベローヴァの歌が素晴らしかった、あの1982年の映像には、はるかに及ばなかったのだ。

 次に、最近様々な形で撮影放送されている、世界遺産の番組であるが、NHK・Hi の”世界遺産・一万年の叙事詩”の第二シリーズとして、第4回『世界宗教』、第5回『ルネサンス』、第6回『大航海時代』と続いて放送され、それぞれに興味深く見ることができた。
 監修者は、あのインターネット読書案内の『千夜千冊』で有名な松岡正剛氏であり、その博識ぶりからの、歴史的世界遺産に対する見事な編成の切り口は、実に面白かった。すべてに納得できるものでもないとしても。
 ともかく、単なる観光案内になっていた今までの他の世界遺産番組と比べれば、はるかに意義深いシリーズ番組ではある。

 映画では、一本だけだが、映画史の中でその名前を知っていただけの、フィリッツ・ラング監督による、あの1927年のドイツ映画『メトロポリス』が放送されたのだ。
 ああ、ありがたや。こんな歴史的映画は、フィルム・ライブラリー(映画博物館)にでも行かなければ見られないのに、数年前のあのエイゼンシュタインの『アレクサンドル・ネフスキー(1938年)』の放映以来のことである。
 第一次大戦後の1927年、まだリュミエール兄弟による初の映画上映から、30年余りしかたっていない頃に、当時のドイツ表現主義(1919年『カリガリ博士』等)ふうな演出により、未来社会を見据えて作られた映画の、恐るべき現代性が見られる。
 そこには、まだ映像と舞台劇との乖離(かいり)が十分ではなかったゆえの、さらには無声映画ゆえの大仰(おおぎょう)な身振りが、今の時代の私たちからすれば、余りにも異質なものに見えるのだが、それらの時代性を考慮しても、映画史に残る一作品であるといえるだろう。
 その後、80年余り、今、映画はどこに進もうとしているのか。

 実は今回は、民放テレビ金沢の『田舎のコンビニ~一軒の商店が見た過疎の4年間』という番組について書こうと思ったのだが、前置きだけですっかり長くなってしまった。次回に改めて書くことにしよう。

 世の中では、日々様々な事件が起こり、同じように日々忘れ去られてゆく。人間は、はたして、何かを学び取り、それを正しく後世に伝えてきたのだろうか ・・・いつも時代はめぐり、元に戻り、また始まり・・・。」

 『移ろいやすさがきまりであり、忘れ去ることがきまりなのだ。現実は一瞬一瞬つねに新しい。あらゆるものに及ぶこの新しさ、それが世界なのである。』 
 (『ささやかながら徳について』アンドレ・コント=スポンヴィル、紀伊国屋書店)


ワタシはネコである(174)

2011-02-02 21:29:47 | Weblog



2月2日

 ワタシは、昨日の夜から今朝までコタツの中で、さらに午前中にかけてはストーヴの前で、ただひたすらに寝ていた。飼い主が呼びかけても、目を閉じたまま、小さくニャーと返事するだけだった。
 というのは、昨日の昼間に余り寝ていなかったからだ。

 昨日の朝、飼い主はストーヴの火を消して、クルマで出かけて行った。天気は良かったので、ワタシはベランダの日当たりの良い所でじっと座っていた。
 すると、またも、ノラネコの一匹が、遠くから鳴きかけてきた。その黒ネコは、先日、ベランダの下で鳴いていて、飼い主から手ひどくおどかされて逃げ出し、ワタシの家に近づけなくなっていたのだ。
 ワタシが傍に寄って行くと、さらにもう一匹の黒白のパンダネコもやって来て、3匹でそれぞれに鳴き合ったり、近づいてちょっかい出したりしていた。そうして、ずいぶん長い間を過ごし、太陽の光が傾き始めた頃になって、エサの時間を考え家に戻った。
 しかし、家に飼い主はいない。ワタシは仕方なく、ベランダで辛抱強く待っていた。クルマの音がして、飼い主が戻ってきた。
 その顔を見ると、久し振りに、またあの季節外れの赤鼻のトナカイ状態だ。

 夜遊びはおろか、昼遊びもせず、大した道楽もない飼い主だから、まあ山登りくらいには行ってもいいけれど、こうやって、ワタシのエサの時間だけは、ちゃんと守って帰ってきてほしい。
 まあ今日は、大体時間通りだし、いつものように飼い主の周りにまとわりついて催促し、すぐに出されたコアジをひたすらに食べた。
 腹がいっぱいになり、昼間寝なかった分を取り返すために、それからワタシはひたすらに眠り続けたのだ。

 今日は晴れたり曇ったり、みぞれが降ったりの一日だったが、昨日までと比べれば、明らかに空気が少し暖かく感じられた。
 寒い日ばかりがずっと続くわけでもなく、急に暖かい春になってしまうわけでもない。
 太陽は、日ごとにその位置を変え、この地球を照らし続ける。
 飼い主から聞いた話によれば、その地球は、太陽系の惑星の中でただ一つ、適度な気温を受ける距離にあり、偶然にも豊かな水に恵まれて、植物や動物そして人間までもを生み出してきたということだが、そんな母なる地球に住んでいるのだから、そこに生きている事自体がまたありがたいことなのだ。

 不思議な縁で、この家に住みつくようになり、前の亡くなったおばあさんと、そのバカ息子、というのも時々長期間いなくなるのが許せないけれども、ともかくやさしい二人の飼い主に恵まれ、この年になるまで、16年も生き延びて来たのだ。
 ああ、ありがたや。
 所で、それはさておき、今はもうひと眠りすることにしよう。夢の中こそ、もうひとつの母のふところなのだから・・・。

 
 「 昨日、久し振りに山登りに行ってきた。前回(1月10日の項)からは、4週間近くも間が空いたことになる。もちろんその間、山に行かなかった自分への言い訳は、前回書いたように、肩が痛いから、タイヤが古いからなどと言ってはきていたのだが、昨日は、どうしても行かざるを得ない気持ちになっていたのだ。

 今年の冬もまた、あの純白の装いに姿を変えているだろう山々が、目に浮かんでくる・・・。長年にわたって毎年、雪に被われた九重の山々を見続けてきた私に、何かが呼びかけてくるのだ。
 そして一つには、これからの天気予報で、今までの寒波は過ぎ去り、暖かい日が続くとのことだったから、それでは、夏のアイスクリームのような九州の山の雪は、すぐに溶けてしまうだろうということ。
 さらには、その二日前に雪が降り、次の日は曇り空で風が強く、そしてようやく、今日の晴れマークの予報が出ていたのだ。よし行こう。
 その単純な思いは、先日、モバイル・インターネットを申し込んだ時の気持ちに良く似ている(1月19日の項)。それは、係のきれいなおねえさんに目がくらみ、ただのミニノートをもらい、早いネット接続と、もうただただ目の前の欲に駆られた感じだったが。

  とはいっても、この三日の気温は、-8、-9、-6度と冷え込んでいたし、さらにまだ朝だということもあって、覚悟はしていたのだが、途中の道は殆ど圧雪アイスバーンの状態だった。7年目の古いスタドレスタイヤだから、ギヤを落として慎重に、カーブの多い山道を曲がって行く。
 幸いにも、こんな道だからクルマは少ない。一台を先にかせてやり、別の一台を抜いた。

 思えば、北海道で冬を過ごしていた時、三度ほど雪道でスリップしたことがある。二つは、運良く対向車のいない道で、180度も回転してしまい、一度は農家のトラクターに引き上げてもらった。
 しかし、何と言っても肝を冷やしたのは、三度目の時である。村の道から国道に出ようとした時、その手前でブレーキをかけたのに、ミラーバーン(鏡のようにツルツルの路面)の道を、クルマは滑っていくのだ・・・ちょうど右側から走ってくる車が見えた、ああ、ぶつかる、クルマが衝突するイヤな音、私のクルマは滑る路面から弾き飛ばされ、路外に一回転・・・と覚悟した時、まさしく間一髪、走ってきた車は私の目の前を通り過ぎた。
 それはただの数センチ、イヤほんの2、3センチだったのかもしれない。何という、不運と幸運だったことだろう。
 その後、私がそのまま、新しいスタッドレス・タイヤを買うために、町に向かったのは言うまでもない。その時のタイヤは、3年目のものだったのに。

 さて、何とか走り続けて九重の長者原の平原に出ると、青空の下には、白銀の九重の山々が立ち並んでいた。しかし、そこからは、もう白一色の圧雪アイスバーンの道だった。私のクルマは四駆の乗用車だが、ギアを落として慎重に走る。
 そして、たどり着いた牧ノ戸峠(1330m)の駐車場には、すでに30台ほどのクルマが停まっていた。平日だというのに、この雪道だというのに。

 9時過ぎに、登山靴にアイゼンをつけたまま歩き始める。
 白い雪景色は素晴らしいとしても、残念なのは周りの木々に全く霧氷が見られないことだ。枝先についているのは、柔らかい雪玉ばかりだ。いつもなら、これから展望台まで続く遊歩道は、霧氷のトンネルになっているというのに。
 
 しかし、雪の量は確かに多かった。50cmから深い所では1mくらいはあって、余り記憶にないほどの量だった。そのため、トレース(雪の上の踏み跡)をつけられた道以外には、踏み込む気にもならない。
 牧ノ戸からのコースでは、メインルートの久住山(1787m)や中岳(1791m)へははっきりとしたトレースがあったが、他の山には、今まさに登っている人も見られたが、深い雪の中で苦労しているようだった。

 西千里浜から上の稜線は、雪が風に吹き飛ばされて、むき出しの地面さえ出ていた。
 それ以上に残念だったのは、風による雪模様の、シュカブラや風紋が少ししか見られなかったことである。冬の九重の写真撮りの楽しみの一つなのに、残念なばかりである。(’10.1.18、’09.1.17の項参照)
 なぜなのか、気温は十分に低く、風もあったのに。
 考えてみれば、昨日は午後から晴れて来ていたから、霧氷が全部落ちてしまったのか、いや、それなら下にばらばらになって落ちた氷片があるはずなのに、見られない。
 何より、稜線などにシュカブラがないということは、気温が低すぎて、初めの雪片が木の枝や岩につかなかったこと。つまり適度な水分を持つ雪の方が、岩や木の枝につきやすいはずだからだ。
 思えば確かに、いつもの九重の雪は重たいのに、今日の雪は、冬の北アルプスや北海道の雪のようにサラサラとしていて、歩いている間ずっとキュッキュッと音がして、アイゼンに雪がからまり雪ダンゴになることも少なかったのだ。

 さらに残念だったことは、メインルートを歩いたために、常に前後に人々の声が聞こえていて、静かな山歩きを楽しめなかったことだ。
 しかし、上空には、澄み渡った快晴の空が広がっていて、白い九重の山々が立ち並び、南の彼方には、祖母(1756m)・傾連峰と阿蘇山(1592m)がくっきりと見え、その間の向霧立山群(国見岳1739m)の後ろには、150キロ彼方の、霧島山群、新燃岳(1421m)の噴煙までもが見えていた。(写真は、天狗ヶ城下からの星生山1762mと硫黄山噴気孔)
 牧ノ戸から西千里浜、久住分かれ、御池、中岳、天狗ヶ城(1780m)、とたどり、再び久住分かれに出て牧ノ戸に戻った。5時間半の、適度な雪山歩きだった。
 心配した肩の痛みは、途中で少し痛くなることもあったが、痛み止めの薬も湿布薬も使うほどではなく、無事に戻ってくることができた。
 
 帰りの道は、楽だった。長者原まではもう半分ほどが溶けていて、それから先は、朝あれほどの圧雪アイスバーンだったことが信じられないほどに、ただシャーベット状部分を残すだけの、水たまりの道になっていた。その日から一気に気温が上がり始めたのだ。

 帰ってくると、ミャオが待っていて、すぐにサカナをやった。ベランダの手すりには、いつものヒヨドリがやってきて、リンゴの残りをついばんでいた。
 私は、ベランダの椅子に腰を下して、まだ暖かい夕方前の光を浴びながら、雪の残る庭と上空の青空を見ていた。
 ひとつひとつの時間が、ありがたく過ぎてゆく・・・。」