ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

飼い主よりミャオへ(126)

2010-10-28 19:06:54 | Weblog



10月28日

 拝啓 ミャオ様

 ついに、北海道も雪の季節を迎えた。
 去年よりも早く、旭川、札幌、函館と北海道の西半分で、昨日、初雪が降ったとのこと。札幌市内では、ちらつくだけではなく本格的に降って、7cmもの積雪というのは、初雪とは思えないほどである。
 もちろん、山間部では30cm以上の積雪となり、高い山々ではさらに雪が降り積もっているはずだ。1週間前に登ったあの美瑛岳の雪景色の上にも、さらに雪が吹きつけていることだろう。

 ところが、私の住む十勝から、釧路、根室にかけての道東では、風が強く寒いものの、見事な青空が広がっているのだ。
 それは、学校の社会科の時に習った、冬の裏日本、表日本の天気分布そのままであり、私が、北海道の中でも、十勝に住みたいと思った理由のひとつでもある。
 (私の性格がお天気屋なのは、そういうことなのだ。晴れてさえいれば、ごきげんだというのは。)
 そんな、西高東低の冬型の気圧配置になった時に、旭川や札幌などで雪が降っていても、あの大雪山や日高山脈が、その雪雲を受け止める障壁(しょうへき)になってくれて、その東に広がる平野部では、からっ風の晴れた日が続くのだ。
 
 さらに時々は、その雪雲が取れて、眼前に百数十キロもの長さに渡って、純白の日高山脈の峰々が連なっているのを見ることができる。
 夜明けの頃、ひとり裏山に向かい、マイナス20度の寒さの中で見る、赤く染まった日高の山なみ・・・、吹きつける風に向かい、ああ私の喜びはいかばかりだったことか。

 できることなら、私の一番好きなそんな厳冬の季節に、この十勝の私の家で暮らしていたい、そして、ミャオも一緒に傍にいて、赤々と燃えるストーヴで寝ていてくれたらいいのに・・・。
 
 しかしミャオは、九州育ちの年寄りネコだ。夏の間は、飼い主の私がめんどうも見ずに放っておいたから、その罪滅ぼしに、せめて寒い冬の間は、傍にいてやらなければならない。
 ミャオ、オマエと一緒に過ごすために九州に戻るのは、イヤイヤすることではないし、オマエを重荷に感じているわけでもないのだよ。ミャオは私の大切な家族だし、一緒に暮らす話し相手いるということは、ありがたいことだと思っている。
 しばらくしたら帰るから、それまで元気にしていておくれ。

 だから私は今、冬の先取りをして、雪の山に登り、秋から冬への北海道を楽しんでいるというわけなのだ。
 前回の美瑛岳登山のように、この初冬の時期にも、今まで何度も北海道の山に登ってきた。もちろん、真冬にもこちらにいて、厳冬期の山々にも登ったことはあるのだが、それができない今、この10月から11月にかけての登山は意味のあることなのだ。
 とはいっても、前回、北海道の紅葉時期の登山について書いたように、長年にわたって同じような山にばかり登っていると、いつしかゼイタクになり、他の山々にも行ってみたくなる。
 
 その私の思いは、数年ほど前から強くなってきた。例えば、日本の中央高地と呼ばれる長野県には、日本の山々の中でも、最もアルペン的な鋭い岩稜の峰々が連なる、北アルプスや南アルプス、中央アルプス、八ヶ岳などの魅力溢れる山々がある。
 私は、若い頃から今に至るまで、何度となくそれらの山々に登っていて、新たな頂に立ちたいと思う所は、もう一つか二つ残るくらいなのだが、しかし昔登った思い出も遠くなり、前回書いたように、フィルムからデジタルへの写真の取り直し、さらには季節を変えての山への思いから、今では年に二三回は、それらの山々に、北海道から遠征するようになったのだ。
 
 そして特に、今の時期の新雪にいろどられた山々を、ぜひとも見たくて、毎年一つずつ実行してきたのだ。
 中央アルプス駒ケ岳、八ヶ岳(硫黄岳から赤岳)、立山連峰(’10.8.12の項参照)、常念山脈(’08,11.01~05の項)、八方尾根からの唐松岳(’09.11.01~05の項)と、そのいずれもが、新雪の山と青空という、私の思い描いた情景に見事に当てはまってくれたのだ。
 そして、今年も私は計画を立てていた。しかし、予定した日が近づいてきても、週間天気予報は思わしくなかった。とはいっても、しっかりと準備をして、出発当日まで、変わるかもしれない天気予報を待ってみた。
 
 そして発表された予報、長野県のこの一週間は、傘(かさ)のマークが5日の曇りマークが2日という有様だった。冬型の気圧配置から見ても、その後大きく変わることもなさそうだし、もう断念する他はなかった。
 私は、始めから天気の悪いとわかっている山には、登らないことにしている。この北海道でも、クルマで2,3時間かけて登山口まで行って、多少晴れ間が見えていても、雲がかかっているだけであきらめて、戻ってきてしまうほどだ。
 登りはじめて、途中からの天気の変化は、仕方がないけれども、あの2年前の、白馬乗鞍岳から唐松岳への縦走の旅(’08.7.29~8.02の項)は、山登りとしては数少ない失敗の思い出である。

 つまり、私はトレーニングや健康のため、あるいは誰かと話すために山に行くのではなく、ただ山の美しい姿を見たいから行くのであり、いくら咲き誇る花々や紅葉がきれいだったとしても、雨や白い霧の中を歩いただけの山登りをするくらいなら、最初から出かけないことにしている。
 近くに山があれば、天気を見て当日にでも決められる。しかし、遠くから飛行機に乗って行く場合は、そういうわけにもいかない。2か月前に買った、変更のきかない安い切符だからだ。

 今回、私はあきらめて、半額しか戻らないキャンセルをした。今まで何度も安い切符で往復したのだから、一回ぐらいは、そういうことがあってもと自分に言い聞かせて。
 まして前回の遠征では、あんなに見事に晴れた日の、穂高連峰と紅葉の涸沢を見ることができたのたのだから、そう何度も良いことばかりは続かないのだ。
 これはきっと、行くなという虫の知らせに違いない。そして、そのおかげで、私は今、日々色づいていく自宅林内の紅葉を楽しむことができたし、こうしてストーヴの傍で静かに本を読むことができ、音楽を聴くことができたのだから。

 それは、山にいれ込む私の気持ちを、静かになだめてくれるありがたい神の一声だったのかも知れない・・・と、私は、自分が納得できるような結論を出した。
 つまり、前回書いたような生物学的に言えば、人は、自分の体の中の遺伝子が、不平不満によるストレスで傷つかぬように、きわめて自己弁護的な言い訳を考えて、偶発的出来事の悪影響から逃れようとするのだ。
 それはまさしく、自分の遺伝子を守るための利己的な行為に他ならない。
 とは言っても、もう私は年だし、自分の遺伝子なんぞどーでもいいことなのだが、あー、コリャコリャと。

 と、その時、揺り椅子に腰をおろして、馬鹿ヅラ下げてアホな考えにうつつを抜かしていた私の頭の上で、何かパタパタと音がした。ハエなどの小さな虫ではないしと、一瞬、身構えした私の前で、蝶が一匹、ガラス戸とカーテンの間で、羽を動かしていた。
 それにしても、どこから入ってきたのだろう。
 自分で建てた家だから、軒先、天井などには小さな隙間(すきま)ができていて、そこから、越冬バエが入ってきて、今の時期には、それを掃除機で吸い取って駆除するのに一苦労なのだが、蝶が入ってくるとは・・・。
 窓は締め切ってあるから、考えられるのは、短い廊下の先にある玄関のドアを、私が開けた時だ。蝶は、家の中の温かい空気に誘われて、飛んできたに違いない。
 
 羽を広げて休んでいるその蝶は、北海道では普通に見られるクジャクチョウである(写真)。
 私が、春先になって九州からまたこの家に戻ってきて、薪(まき)小屋や風呂小屋などを開けると、そこにいつもあの寒い冬を越したらしい、クジャクチョウやクロヒカゲなどを見ることがある。
 最も、それらのうちの幾つかは、そのままの姿でもう動くこともないのだが、それにしても、-20度までも下がる冬の寒さに良く耐えられるものだと思う。生き物たちの自ら住み分けていく本能や、環境に順応する能力には、いつも驚かされるのだ。

 しかし、いくら越冬するにしてもまだ早すぎる。私は、そのクジャクチョウをつまんで、外に出してやった。彼は、そのまま、あわてているふうでもなく、ハラハラと飛んで行った。
 
 そういえば、子供の頃、他の友達と伴に、大きな家に住む同級生の女の子の家に遊びに行ったことがあった。私は、すらりと背の高い上品な感じのその子に、淡い想いを抱いていた。
 広い客間の、応接台の上に置いてある花瓶に、たくさんの花が活(い)けられていた。その中の、大きな白いユリの花の香りが、私のまだ幼い胸にも強く匂ってきた。そこに、どこから入ってきたのか、一匹のモンシロチョウが、部屋の中をユラユラと飛んで行った。
 彼女の白い顔と、ゆりの花の香り、揺れ動くモンシロチョウ・・・。それは、今でも思い出すことのできる、子供の頃の、一枚の写真のような光景だった。

 フランスの作家、ルナール(1864~1910)は、『にんじん』や『葡萄(ぶどう)畑の葡萄作り』などの作品で有名であるが、短文の連作では特に評判が高く、なかでも『博物誌』には、彼の生き物たちに注ぐ温かい眼差しとエスプリが溢れていて、私は、折にふれて、どこかのページを開きたくなるのだ。
 その中で、『蝶』と題された短い一文。

 「二つ折りの恋文が、花の番地を探している。」

 さらに、もう一つあげてみる。『蟻(あり)』という題だ。

 「一匹一匹が、3という数字に似ている。
  それも、いること、いること。
  どれくらいかというと、333333333333・・・ああ、きりがない。」

  (『博物誌』ルナール 岸田国士訳 新潮文庫)

 ルナールは、あの有名な昆虫学者のファーブル(1823~1915)や詩人作家のジャム(1868~1938)と伴に、その本を読めばいつも会うことのできる、私の大切なフランスの田園詩人たちなのだ。

 今日は、ストーヴの燃える部屋の中にいて、ゆっくりと過ごした。朝はー2度まで下がり、辺りは霜で白くなり、日中も曇り空のまま、7度までしか上がらない、肌寒い一日だった。
 風もなく、窓から見える林の紅葉も、その色合いのままで動かない。少し離れて、渡りの途中らしいヒヨドリたちの声が聞こえている。
 明日は、晴れの予報だ。しかし、峠は凍りついているだろうし、山の天気もすぐに回復するわけではなさそうだ。
 とりあえず、薪(まき)割りに精を出すことにしよう。

                      飼い主より 敬具


飼い主よりミャオへ(125)

2010-10-23 18:46:52 | Weblog



10月23日
 
 拝啓 ミャオ様

 夏からの暑さをいくらか残しているような、この秋の季節だったが、それでも、日ごとに冷え込みが増してくる。
 4日前には、ついに朝の気温が-2度まで下がり、強い霜が降り、薄い氷が張った。平年よりは10日くらい遅いとのことだが、庭先には、雪虫(ゆきむし)も飛んでいて、初雪の降る日もそう遠くはないのだろう。

 家の薪(まき)ストーヴにも、火をつけた。赤々と燃え盛る炎の音が、静かに聞こえている。
 やわらかく暖まっていく部屋の中で、揺り椅子に体を預けて、バッハのヴァイオリン曲を聴く。
 
  「秋風の ヴィオロンの ふし長きすすり泣き
  もの憂(う)き哀しみに わがこころ 傷(いた)みくる」
  (ヴェルレーヌ 「秋の歌」 堀口大学訳)

 過去の思い出がゆっくりと現れては、消え去り、ただ、今こうしていることだけが、心地よい。今を生きること、それで良いのだ。
 この三日の間、天気の日が続き、私は山登りに行ってきた。
  
 いつも9月から10月半ばにかけて、毎年数回は、紅葉の山の風景を求めて、北海道内各地の山々に登りに出かけていたのだが、今年は何と、あの9月16日の黒岳から北鎮岳への高原歩き(9月18日の項)一度だけになってしまった。
 それは、天気が思わしくなかったこと、内地遠征の山旅(10月4日~11日の項)に出かけたことなどもあるけれども、もう何年もの間、同じ山に登り続けてきて、紅葉の風景を堪能(たんのう)し、是非ともという気概(きがい)がなくなってきたからかもしれない。人は、慣れればゼイタクになるものだ。
 かといって、山そのものの興味が薄れたわけではない。むしろ年を経るにつれて、今だからこそ登っておかなければという思いが、強くなっていくのだ。

 私もやがては、老いの一徹(いってつ)、などと言われるようになり、さらには年寄りの浅ましさ、ごうつくばりと呼ばれるようになるのだろうが、しかし、今を生きるという思いにおいては、老いも若きも関係なく、地上に生きるすべてのものの、本能としての強い意志なのかもしれない。
 前にもあげたことのある、『利己としての死』(日高敏隆著)の中では、動物の死は、自らの遺伝子を残すために次なる若い世代に道を譲り、老いて死ぬことであり、それを利己的な行為として捕らえているのだが、立場の違う私は、行動の根幹そのものが利己的なものであって、単純な嗜好(しこう)と本能によるものであり、死はその行動の果てだと考えたいのだ。
 まあ平たく言えば、私は、山で死んでも仕方ないと思っているのだが、その前に、ぐうたらな生活とメタボ体型でくたばるかも知れず、まあ物事はそう簡単なことではない・・・。

 さて、この三日間、快晴の天気が続いた。その最初の日、私は、ウェブ上のライブカメラで、ようやく雪で白くなった山を確認して、午後になって家を出た。その日は、なじみの民宿に泊り、翌朝、大雪山か十勝岳連峰の山に登るつもりだった。
 昔は、まだ暗い3時過ぎに家を出て、日の出の頃に登山口に着き、8,9時間の山登りの後、夜の9時頃に帰り着くという、往復500キロ近くをクルマで走っての日帰り登山をやっていたものだが、さすがに今では、もうそんな元気はなくなった。
 行きか帰りに、宿に泊って、ゆっくり山旅を楽しむことにしたのだ。若い頃には、まだ長い人生の時間があるのに、気ぜわしく動き回り、年をとると、もう残りの時間は少ないのに、のんびりと動く、それは、まるであのスフィンクスの謎かけのようでもあるが。

 朝7時、美瑛(びえい)町の望岳台(ぼうがくだい、930m)にクルマを停めて、出発する。道の先には、人の姿も見えない。
 快晴の空の下、行く手の正面には、二つの噴火口から煙を上げる十勝岳(2077m)の姿が見え、その右手には、朝の光に陰影深く富良野岳(1912m)があり、左手には山陰になって美瑛岳(2052m)から、美瑛富士(1888m)、オプタテシケ山(2013m)の、十勝岳連峰の山々がずらりと並んでいる。
 今日目指すのは、美瑛岳である。この山の頂上には、数回ほど立っているが、こんな雪の時期に登ったのは、もうずいぶん前のことになる。
 その時は、誰もいなくてひとりきりの、素晴らしい初冬の山上風景を味わうことができた。

 しかし、あの時は、マニュアル・カメラのフィルムで写した風景であり、もうプリントすることもなくなった今では、無用の資料となり、それならば、再度その姿を、デジタル・カメラで撮って、後でテレビやパソコンの液晶画面で見て、ひとりニヒニヒと笑みを浮かべながら、楽しみたいと思ったからでもある。
 実はこうした、デジタル再撮影の傾向は私だけかと思っていたら、先日の涸沢・穂高連峰縦走の時に、山小屋で隣になった彼も、同じ目的で来ていて、わが意を得たりと嬉しくなったものである。
 左手に遠く、大雪山の山々の姿が白く見えている。なだらかな道には、まだ雪は積もっていなかったが、霜で凍りつき歩きやすかった。

 1時間足らずで、去年は途中までだった十勝岳(11月9日の項)との分岐に着き、左へと山腹を大きく回りこんで、美瑛岳へと向かう道に入る。
 雪が出てきて、道の傍のハイマツなども白く凍りついている。朝の山陰で、日もまだ差し込まず、空気は冷たいのだが、風も余りなく、歩き続けることで、それほど寒くは感じなかった。
 山すそを回り込んだところで、今まで隠れていた美瑛岳の姿が前面に見えてくる。その道を、ポンピ沢へと降りて行く下りの所で、小さな涸れ沢を渡るのだが、見ると上部で大きな崩落があり、それが土石流として流れ下ったようで、高い所では10mほどもあるえぐれた沢になっていた。
 しかし、ちゃんとロープと鎖がつけられていて、3mほどの崖の上り下りになっている。ハイキング気分では行けないだろうし、それで良いのだが、心配なのは、将来さらに深くえぐれてしまいそうなことだ。
 
 所々凍りついた、ポンピ沢の流れの傍で一休みした後、ハイマツと笹の中の急な登りが始まる。雪だけでなく、凍りついた斜面では、持ってきていたアイゼンをつけたくなるほどだった。
 ようやく登り切って、尾根の向こうに出ると、白い雪の斜面の彼方に、反り返ったような美瑛岳の頂が見えている。
 しばらくは、右手のハイマツの尾根の夏道をたどるが、えぐれた溝状の道の両側には、雪が凍りつき垂れ下がったハイマツが邪魔をしていて、登りにくい。これなら、まだ雪崩(なだれ)の恐れもないし、前回たどったように、左手の浅い沢状の岩礫斜面を登った方が良かったと思ったほどだった。

 とはいっても、そのハイマツ帯を過ぎると、後は雪の岩塊斜面になり、風雪の作る雪紋様のシュカブラやエビのしっぽの造形が素晴らしく、いつもの冬山の景観が待っていた。
 彼方には、純白の十勝岳(写真)、そして噴煙の上がる噴火口から、富良野岳があり、その後には、夕張・芦別の山なみも見えている。十勝岳の左手には、さらに遠くに、日高山脈の山々が連なり、私のいる十勝平野が広がっているのだ。
 少し歩いては立ち止まり、写真を撮っていたので、苦しい登りではなかった。雪は、深い所でも20cmほどだったが、雪の下の岩が凍りついていて、アイゼンをつけようかとも思ったが、危険な火口壁側とは反対斜面ということもあって、そのまま注意深く歩き続けた。
 
 ようやく、頂上にたどり着いた。何と5時間もかかってしまった。しかし、朝からの快晴の空になんの変わりもなかった。北側の展望が開けて、北海道中の山々が見えそうだった。
 まず同じ山群の、美瑛富士とオプタテシケ山が連なり、その奥に旭岳(2290m)を始めとする表大雪の山群があり、離れてトムラウシ山(2141m)が相対している(写真下)。その右手には、石狩岳(1967m)連峰、ニペソツ山(2013m)、ウペペサンケ山(1848m)と続き、然別の山々も見えている。

 頂上では、眼下の南側の噴火口壁から吹き上げる風が、汗ばんだ体には、さすがに寒かった。しかし、何よりも、これほどの見事な景観の中に、私ひとりでいることが嬉しかった。私の意図していたとおりの、登山の形があったからだ。
 頂上には、30分近くいて、下りでも時々カメラのシャッターを押しながら、初冬の山の光景の余韻に浸っていた。すると、何と登ってくる一人の男の人がいた。
 私たちは挨拶を交わして、すれ違った。それだけのことだった。同年輩らしい彼も、ひとりで上ってきたのだから、思いは同じだろう。
 
 下りは、さすがに楽だった。登りには苦労したハイマツの道も、ぐんぐん下って行ける。そして、ポンピ沢への急斜面の道は、日が当たり始めていて、すっかり雪が溶けていた。
 私は、途中で何度も立ち止まっては、名残(なごり)惜しい気持ちで山々を眺めた。青空と雪の白、それは先日、あの涸沢(からさわ)で見た青空と紅葉の赤、さらに春の青空と新緑の色と伴に、私の最も好きな、単純な山の配色の景色である。

 下りは、3時間余りだったが、膝の痛みもあってようやくの思いで、登山口の駐車場に着いた。
 振り返ると、十勝岳連峰の山々が、午後の長い光を浴びて立ち並んでいた。その中でも、鋭い頂きを突き上げる美瑛岳の姿は、一際(ひときわ)立派だった。もうこの時期に登ることはないかもしれないが、いつまでもそこにいておくれと、心の中で呼びかけた。

 最初の予定では、久しぶりに友達の家に寄って行くつもりだったのだが、すっかり遅くなってしまった。もう一泊しても良いのだが、来週にはまたもう一つの計画もある、今回は、残念ながらあきらめるとしよう。
 いつものように、望岳台の下にある、白金(しろがね)温泉に立ち寄り、地元のおやじさんとあれこれ話をしながら、夜の長い道のりに備えて、ゆっくりと風呂に入った。
 
 帰り道、運転席の窓の外は、満月の光で明るかった。車のライトが幾つも通り過ぎて行った。遠くに街の灯りが見えていた。私は、母さんとミャオのいる私の家に帰って行くのだ。


                      飼い主より 敬具 


             
  


飼い主よりミャオへ(124)

2010-10-16 18:04:57 | Weblog



10月16日

 拝啓 ミャオ様

 この五日ほどは、天気が思わしくなく、昨日などは、一日中冷たい雨模様の空が続き、朝の気温の8度から余り上がらず、最高でも10度という有様だった。
 それでも、あの夏からの暖かい日を引きずっていて、まだ霜は降りていないし、山も9月半ばの初冠雪以降、まとまった雪は降らず、寒さへの歩みは、平年と比べれば遅いようにも思える。
 とは言っても、家の林の中を歩けば、樹々が色づいてきていて、曇り空ながらも、ずいぶんと明るく感じるようになった。
 イタヤカエデやホザキカエデ、そしてエゾヤマザクラやタラノキなどの黄色い葉が、幾つか地面に散り落ちている。

 ミャオはどうしているだろうか。まだ九州地方の気温は、高めに推移しているようだから、寒さの心配はないのだろうが、誰もいない家のベランダで、ただ一日中、寝ているだろうオマエのことを思うと、さすがの私も気がとがめてしまうのだ。自分だけ、山登りに行ったりして、いい思いをしているのにと。

 しかし、オマエは、山育ちの半ノラネコで、クルマに乗ることさえ嫌がるから、とてもこの北海道に連れて来ることなどできはしないのだ。
 殆んどの飼い猫は、クルマに乗せられたり、中には、後で書く、マルタ島の猫などのように、船に乗せられても平気なものもいるし、どこかへ連れて行かれることをそう怖がらないのだ。
 それどころか何と、自分が先に立って、山に登る猫さえいるのだ。
 今まで度々、ニュースネタになった名物駅長猫や、店の看板娘ならぬ看板猫の話は聞くけれど、60もの山に、飼い主と登った猫がいるなんて・・・。

 話は、あの紅葉の盛りには少し早すぎた、穂高連峰への山歩きの旅に出かける前のことだ。
 雨のために、仕方なく東京にいた時に、八重洲のブックセンターで長い時間を過ごした。それは時間つぶしとかというのではなく、日ごろから地方にいて、なかなか新しい本を手にとって見る機会がないものだから、ここぞとばかりに、見て歩く楽しい時間でもあったのだ。

 まず8階まで上がって、芸術関係から見て回り、順に下へと降りていく。途中、山で読むための文庫本(10月6日の項)を一冊買い、そして、地階の山関係の本が置いてあるコーナーで、あれこれ本を引っ張り出して見ていた所、何と、”山登りねこ”という表紙が目についた。
 私は、山登りをするし、家にはネコがいて、一緒に散歩もする。なのに、山登りをするネコだと・・・。表紙には、安曇野(あずみの)からの北アルプスの山々を背景にして、一匹の三毛猫らしい賢そうなネコが写っている。

 『山登りねこ、ミケ 60の山頂に立ったオスの三毛猫』(岡田裕著 日本機関紙出版センター)という、写真エッセイ集である。
 登った山の殆んどは地元の里山であるが、なかには2200mもの山にも登っているのだ。今年で15歳。ゲッ、ミャオと同じ歳だ。
 飼い主のご夫婦は、大阪の出身で、山好きがこうじて安曇野に引っ越されたとか。
 さらに、ミケが山登りするようになったことについて、飼い主は言っている。「ミケは野生的な性格だから、山登りをするようになったのかもしれない。」

 まず気に入ったのは、その名前である。三毛猫だから、ミケ。私の家のミャオも、ミャオミャオ鳴いてばかりいたから、ミャオなのだ。ネコの名前は、タマとか、クロとかシロで十分だ。本人たちにとっては、何と呼ばれようが同じことなのだから。
 そのミケを、一緒に散歩に連れ出し、野山を歩くようにしたのも、飼い主の山好きゆえとはいえ、家族のひとりだからという思いからでもあったのだろう。
 そして何より、山が好きで、北アルプスの麓(ふもと)の安曇野に、引っ越してきたというのが嬉しい。この飼い主に、このネコありということだ。

 だからといって、別に私は、ミャオがどうだとか言うつもりはない。ネコにはネコそれぞれの性格があり、育ってきた環境があり、飼い主の良し悪しもある。
 つまり、こうした立派なネコを見て、あーあ自分の家のネコは、などと言ってはならないのだ。それは逆に、飼い主の人となりを、その甲斐性(かいしょう)なし振りを、さらけ出すことにもなりかねないからだ。ごめんね、ミャオ。

 それにしても、この本を買いたかったが、これから山に行く身だから、余分な荷物は持たないようにしなければならない。ミャオのことを思い出しつつ、後ろ髪を引かれる思いで、ブックセンターを後にしたのだ。
 その後、帰りに東京で降りる時間はなくて、こちらに戻ってきてからも、まだ本屋では見かけてはいないのだが。
 この記事を書くにあたって、ネット上で調べてみたのだが、この本はすでに今年の春に発売されていて、評判になっていたとのことであり、私は、うかつにもその時まで知らなかったのだ。

 
 ところで、ネコの話のついでにもう一つ。
 もう6,7年前の番組だが、前にも何度も再放送されたこともあり、最近また、NHK・Hiで放送された『マルタの猫』についてである。
 前にも一度途中から見たことがあるのだが、再放送されていて、それを始めから録画して見たのだ。

 良かった。優れたドキュメンタリー番組だった。『マルタの猫』がそのタイトルだが、主題は猫というよりは、その猫たちにかかわる人間たちの、静かなドラマだったからだ。
 イタリアのシシリア島のさらに南、アフリカ大陸のチュニジア、リビアの北にある、島国マルタは、地中海の要衝(ようしょう)として長らく、イギリスの支配下にあったが、1964年に独立し、日本の淡路島の半分ほどの面積の島に、38万ほどの人々が住み、猫は、その人間の数の2倍近くいるといわれている。
 
 猫の天国といわれるほどに、マルタに猫が多いのはなぜか。
 それは、地中海の交易が盛んな頃、貿易船の食料などの積荷が、ネズミに食い荒らされないように、それぞれの船には猫がいて、重要な中継点であったマルタで、下ろされたり逃げ出したりして増えてきたものだといわれている。
 
 そんな猫の多いマルタには、ちゃんと「マルタ猫協会」なるものもあり、専属のスタッフがいて、猫に関する諸問題に対応しているのだ。
 そんなスタッフの話に、猫を飼う一般家庭の話、そして野良猫にエサをやる人たちの話などが、それぞれに、決して劇的な話にはならず、淡々と映し出されていくのだ。ナレーターや撮影スタッフの質問も、控えめになされていて、余分な説明などなくて、私たちは、ただ猫とそれにかかわる人たちの姿を、見守るだけである。
 それで良い。現実の毎日とは、そういったものだからだ。

 (最近、奈良・飛鳥時代の特集番組が3回にも分けて放送されたが、案内人・ナレーターの若手俳優の出演が、その時代の雰囲気を壊してしまっていた。番組として、それぞれの分野の専門家の人たちの話が興味深かっただけに、残念だったが、私は、録画したすべてを消してしまった。わかりやすくという意図が度を越すと、低俗な今風の娯楽番組にしかならないのだ。)

 さて番組のラスト近く、その港町が一面の夕焼け空の下のシルエットになる頃、教会の鐘が鳴り響く中、エサをやる人の影があり、猫たちの影があった。
 2002年6月から12月のクリスマスまでの記録だが、そこに番組としての、なんらかの結論を映し出す必要などないのだ。恐らくは今もなお、同じように猫を飼い、あるいは野良猫たちにエサをあげている人たちがいるのだろうから。
 

 午後になって、ようやく少しずつ日が差してきて、私は、外に出た。
 林の中の、ハウチワカエデの葉が、部分的に赤く色づきはじめている(写真)。もう10日もすれば、真っ赤に染まり、家の林の紅葉も、盛りの時を迎えることだろう。
 そして、ミャオのもとに帰る日も近づいてくるのだ。
 ミャオ、元気でいておくれ。

                      飼い主より 敬具
 


飼い主よりミャオへ(123)

2010-10-11 18:56:13 | Weblog



10月11日

 拝啓 ミャオ様

 昨日は、一日中、雨が降り続き、気温も14度位までしか上がらなかった。ただ家の中は、まだ20度近くもあって、薪(まき)ストーヴに火をつけるほどではなかった。
 しかし、窓の外から見える家の周りの樹々の葉は、日一日と、ほんの少しずつだが、黄色や赤い色に変わってきている。
 秋の初めまでは、あれほどの暑さにあえいでいたのに、季節は暦(こよみ)どおりに、進んでいるのだ。

 そんな、秋の盛りの山の風景を、先取りして見たいと思い、私は、北アルプスの、涸沢(からさわ)周辺をめぐる山旅に出かけたのだ。
 前回からの話の続きは、もうこれで4回目になってしまった。

 さて、涸沢に入ってからの3日目の朝を、私は北穂高小屋で迎えた。前回書いたように、それは、朝焼けの山々が鮮やかに見えるほどの、申し分のない見事な快晴の朝だったのだが、しかし、もう下界に戻らなければならない日でもあった。
 北穂高岳北峰で、日の出前後の光景を心ゆくまで写真にとって、私は頂上を後にした。

 この北穂から涸沢に降りる道は、昨日の縦走路と比べれば、比較的楽なコースだが、悲しいことに一ヶ月ほど前に、あるヴェテラン山岳写真家が、この道から転落死している。山にいる間は、危険は常に隣り合わせにあるということだ。
 次々に、下の涸沢から登ってくる人たちと挨拶(あいさつ)を交わし、紅葉が始まったばかりの周囲の写真を撮りながら、南稜のジグザグ道を降りて行く。
 涸沢に着くと、三日前と比べれば、明らかに樹々の色づきが進んでいた。まだ全体のほんの一部だけれども、真っ赤に色づいたナナカマドもあり、黄色くなったダケカンバもある。
 紅葉風景とは、いっせいにすべての樹が色づくわけではなく、それぞれに微妙に時期がずれて、全体的なベストの時はあるにせよ、長い間、その紅葉を楽しめることにもなるのだ。

 私は、それらの赤くなったナナカマドを入れて、奥穂高岳と涸沢岳を背景に(写真上)、そして北穂高岳を背景に(写真下)、何枚もの絵葉書的な写真を撮った。
 本来、私が目指していた紅葉の盛りの涸沢の風景と比べれば、明らかに早すぎたのだが、今、目の前にある、青空と山と樹々の彩(いろどり)の光景には、十分に満足していた。これはこれで良かったのだ。

 (昨日、今日時点で見る涸沢からのブログ写真は、まさにあの涸沢全体が、すべて赤や黄色に彩られていて、近年まれに見る美しさだそうであり、その場にいたらまさしく息を呑むだろう風景だった。
 しかし、写真に写っているテント場はいっぱいになっているし、この連休の間は、二つの小屋も恐らくはすし詰め状態だったはずだ。
 すべてにおいて、混んだ所が嫌いな私には、このくらいの所でちょうど良かったのかもしれない。)

 涸沢から横尾へと下る途中で、私は登ってくる何人もの人々と、またも挨拶を交わさなければならなかった。この土曜日の混雑から、逃れるために、私は山を降りて行くのだ。
 今日が平日ならば、この天気の良い日に、さらに涸沢のあちこちを歩き回り過ごせたのにとも思うが、まあ文句は言うまい、今まで天気に恵まれて、涸沢・穂高連峰の山歩きを楽しむことができたのだから。
 
 横尾からさらに3時間ほどもかかる、上高地への長い単調な道も、退屈することはなかった。
 いつもと変わらぬ、梓川の流れを傍に見て、ある時は日陰になった長い林の中の道を行き、ある時は開けた所から、前穂高岳から明神岳へと続く峰々を振り仰ぎ見ながら・・・。
 しかし、三日間にわたる8時間前後もの歩行で、さすがに私も疲れていて、足の歩みが遅くなってきた。
 そして、やっとの思いで、上高地にたどり着き、人々で混雑する河童橋(かっぱばし)から、まだ晴れている空の下に、淡い絵のような穂高連峰の姿を見た。昨日はあの頂にいたのだ。
 そこで、私の今回の山旅は、終わりだった。


 初めて見た涸沢の紅葉であり、まだそのはしりの時期だったから、余り正確な評価とはいえないだろうが、私なりに納得する所があった。
 その特徴は、紅葉そのものだけではなく、背景となる山々、氷河が削り作り上げたアルペン的な岩稜にもあるのではないのかと。
 写真からもうかがい知れるように、青空と、白い岩稜、そして紅葉の赤のそれぞれが目立っている。
 このトリコロール(フランスの三色旗)の、鮮やかな色の対比こそが、紅葉をより強く印象づけているのだ。(トリコローレになれば、青の代わりに緑を入れてのイタリアの三色旗になる。)
 
 紅葉の規模から言えば、北海道の大雪山系の山々やニセコ山群、あるいは東北の山々などの方が、勝(まさ)っているのかもしれない。しかし、それらの山々には、背景となる、アルペン的な景観に乏しいのだ。
 北海道には、唯一、氷河地形を残す日高山脈の山々があるのだが、惜しいかな、稜線まで続くハイマツの緑が多すぎる。むしろ火山地形ではあるが、紅葉の時期に、山頂から稜線にかけて雪が降った時の、大雪山は素晴らしい。

 ともかく、何年にもわたり、今もなお涸沢の紅葉を見に通い詰めているという人が、何十人、何百人といるはずだから、初めて見たばかりの私が、あれこれと評価する資格はないのだろうが、涸沢が日本有数の、山の紅葉の名所であることは確かである。

 
 さて、話は変わるけれども、私はこの旅で、もうひとつの彩り(いろどり)を見てきた。
 雨のために、東京で一日を過ごした時に、美術館に行ってきたのである。それは、世田谷美術館で開催されていた、『ザ・コレクション・ヴィンタートゥール』である。
 このヴィンタートゥールという、スイスの町の名前には、聞き憶えがあった。確か、あのヴァイオリンのヘンリク・シェリングが演奏する、『バッハ・ヴァイオリン協奏曲』でのオーケストラが、確かこのヴィンタートゥールだったはずだ。(シェリングは後年、マリナー指揮で再度録音しているが、私は、古いこちらの演奏の方が好きだった。)
 
 それはともかく、平日の雨の朝の美術館は空いていて、そのヴィンタートゥールの引越し展覧会を、一作品ごとにゆっくりと見て回ることができた。
 嬉しかったのは、思いのほかに、数多くの名だたる画家たちの作品が多かったことだ。ドラクロアに始まり、ブーダン、モネ、ピサロ、シスレー、ドガ、ルノアールと印象派の画家たちの作品が並び、さらにゴーギャン、ゴッホ、ルドン、ボナール、ユトリロ、ルソー、マグリットから、抽象画のカディンスキー、クレー、ブラック、ピカソと、さながら絵画史を見る趣(おもむき)があった。

 後になって、先生に連れられた小学生たちが入ってきて、ざわついてしまったが、美術の生きた教材なのだから仕方あるまい。
 テーマを絞った作品展ではなく、まして有名絵画が売りでもない、地方の豊かな収蔵物を誇る美術展という感じだった。本来絵を見に行くのは、こうした美術館から始まるのだ。
 そして、こうした小品の中にこそ、画家たちの次のステップへと踏み出す兆(きざ)しが見えていたりして、確かにそれぞれの画家の特徴が現れていた。

 ルノワールは、あのドガの小さなバレリーナ像を思わせるような彫像1点の他に4点の絵画があり、ルドンの3点、ボナールの6点と伴に、印象に残っている。
 さらに、ゴッホの有名な『郵便配達夫』の絵もあったのだが、実は『ゴッホ展』が、この10月から、国立新美術館で開催されていて、しかし旅行中の私には、その初めの土日しかなく、あの恐ろしい人出を思うと、とても出かけて行く気にはならなかった。

 ともかくこの、絵画展で私が見たのは、画家たちのそれぞれの思いをこめた色の配色、錯綜(さくそう)する彩(いろど)りの妙であった。
 それは、涸沢で見た、トリコロールの鮮やかな自然界の光景とは違う、人々の思いが息づく、生々しい人生のキャンバスの色合いだったのだ。


 今日は、昨日の人生模様を思わせるような暗い空から、一転して、単純な一色の青空になり、気温も20度を越えるほどに上がってきた。
 一週間前に私が滞在した、あの涸沢も好天に恵まれ、大勢の人が、今を盛りの紅葉風景に酔っていることだろう。
 私は、この連休の間、家で過ごした。そして、次に行く、山のことを思っていた。青空に、小さな雲がひとつ流れて行った。

                       飼い主より 敬具


飼い主よりミャオへ(122)

2010-10-09 17:45:18 | Weblog



10月9日

 拝啓 ミャオ様

 前回からの、山登りの話の続きである。

 北海道の家を出て、二日間は雨で足止めをくい、次の涸沢(からさわ)までの一日は晴れたものの、翌日は雨で山小屋で停滞して、そして稜線に向かう今日は、またすっきりと晴れてくれた。
 私は、涸沢からザイテングラートの岩尾根の道をたどり、紅葉が始まったばかりの光景を前に、何度もカメラのシャッターを押しながら、ようやく、信州と飛騨とを分ける白出乗越(しらだしのっこし)の穂高岳山荘に着いた。

 (ちなみに、ザイテングラートとは、ドイツ語であり、主稜尾根に側面から分かれた支尾根、側稜(そくりょう)のことである。
 なぜに、この涸沢から奥穂に登る道にその名前がつけられたのか、それは恐らくには、当時のヨーロッパ留学などで、スイス・アルプスに登って帰国した若者たちが、よく似たアルプス的景観のこの穂高の山にと、名づけたのかもしれない。 
 昔の帝大生などの、ドイツ語を習い始めたばかりの若者たちは、自分たちだけに通用するある種の若者言葉として、普通の日本語の会話の中に、盛んにドイツ語の単語を入れて話していたようである。
 当時のことを書いている本の中には、シェ-ン・メッチェン(きれいな娘さん)とか、マイネ・リーベ(恋人)とかいった仲間内で話す言葉がよく出てくるからだ。) 

 さて、ザックを小屋において、軽装で奥穂高岳(3190m)に向かった。さすが日本第三位の高さの山であり、飛騨側から吹きつける風で、日陰の岩は一部分、凍りついていた。この後の、涸沢岳の岩場の下りのことが、少し頭をよぎる。
 それでも、素晴らしい天気の下、頂上に着くと、その広大に広がる展望に、これから先の懸念など忘れてしまった。

 東側には、八ヶ岳の山なみが見えていたが、富士山から南アルプスや中央アルプスに至る山々は雲海に囲まれ、所々に少し雲がついていた。
 しかしその手前、眼下に見下ろす上高地の景観は、まるで箱庭のような美しさだった。霞沢岳(かすみざわ、2546m)と焼岳(2444m)にはさまれた間には、梓川(あずさがわ)が流れ、上高地(約1500m)の幾つかの家並みや大正池が見え、目を上げると、南の彼方には、二つの3000m級の火山群、乗鞍岳と御岳(おんたけ)山が重なり広がっていた。
 
 西には遠く、ひとり白山(はくさん、2702m)だけが見え、その手前から北側にかけては、延々とこの北アルプスの峰々が連なっている。
 北アルプスで、最も魅力的な核心部の連なりである、この穂高連峰から槍ヶ岳へとつながる3000mの岩稜尾根は、槍の頂から二つに分かれて、一つは東鎌尾根から次第に高度を下げ、樅沢岳(もみさわ、2755m)で、西側に平行して並び続いてきた笠ヶ岳(2897m)からの山なみを併せて、さらに北西へと伸びて、黒部五郎岳(2840m)、薬師岳(2926m)から、遥かなる立山(3015m)、剣岳(2999m)へと続いている。
 樅沢の先、三俣蓮華岳(2841m)から分かれた尾根は、鷲羽岳(2924m)から野口五郎岳(2924m)、烏帽子岳(2726m)へと伸びて、さらには長大な後立山(うしろたてやま)連峰となって、針ノ木岳(2821m)から鹿島鑓ヶ岳(2889m)、五竜岳(2814m)、そして白馬岳(2932m)へと続いている。
 一方、目の前の、ジグザグの岩の稜線が印象的な、前穂高岳(3090m)の向こうには、梓川の対岸に、蝶ヶ岳(2677m)から常念岳(2857m)へと並ぶいわゆる常念山脈があり、さらに大天井岳(2922m)で槍の東鎌尾根から来た山稜と合流して、燕岳(つばくろ、2763m)から餓鬼岳(2647m)へと続いている。

 北アルプスの展望の山々としての魅力は、確かに日本有数の高山景観にあるのだが、さらには上にあげたように、二本から三本の主稜線が並行していて、互いの山なみを見ることのできる、ある種の配置の妙にもある。
 
 私はそれら北アルプスの峰々の殆んどに登っているし、この奥穂高岳の頂にも何度も立っている。しかし、そこからの眺めは、今でも飽きることはない。
 夏と比べればはるかに人は少なく、頂上の祠(ほこら)を祀(まつ)った所や展望台座付近に、数人の登山者たちがいるだけだった。
 それでも私は彼らから離れて、ケルンの立ち並ぶ山稜を少し先まで歩いて行き、眼下に涸沢と前穂高の岩稜を眺めることのできる、いつもの場所にまで来て、そこで腰を下ろした。
 遠くに彼らの声が聞こえていた。風も弱く、上に何かを着込むほど寒くもなかった。秋の北アルプス3000mのピークとは思えないほどの、穏やかな山の頂だった。

 大自然の広大な景観に囲まれて、ひとりでいることは、なんという大きな安らぎだろうか。
 子供の頃から今に至るまで、四季折々にそこに訪ねて行けば、いつも変わらずに、ただ黙って私を受け入れてくれる山々・・・。そのことを知っただけでも、私の人生は十分に意味のあることであり、この世に生まれてきたことに、ただ感謝するばかりである。


 前にも触れたことのある、旧ペルシヤの詩人、ハイヤームが書いた『ルバーイヤート』(平凡社 岡田恵美子訳)からの一節。

 「大初の神秘を、お前もわたしも知りはしない。
  その謎は、これから先も解けぬであろう。
  この世の垂れ幕のこちら側でいかに語りあおうと、
  幕が落ちれば、われらはもうこの世にいない。

  われらが消えても、永遠に世はつづき、
  われらの生の痕跡(こんせき)も、名ものこりはしまい。
  わらが生まれるまえ、この世に欠けたものはなにもなく、
  われらの死後、なんの変化もあるまい。」

 つまりそうした、変わらないだろう大自然に近づくことが、永遠へと近づこうとする、私たちのはかない夢、願いなのかもしれない。私もまた、限られた短い時間の中でしか、生きられない生き物たちの、ひとりであるから・・・。


 再び、白出乗越の小屋に戻り、一休みした後、涸沢岳(3110m)へと向かった。しかし、先ほどまで晴れていた奥穂から前穂の稜線には、少しだけガスの雲がかかり始めていた。
 さて涸沢岳からが、緊張する岩場の下りになる。しかし、時間がたち霜も溶けたのか、心配していた凍った岩は見あたらなかった。その上、人が少なく(北穂までの間に会ったのは、3パーティーの6人だけだった)、さらに、私は今までに何度もこの稜線を行き来しているのだが、毎回少しずつ鎖を張り巡らせた箇所が増えていて、そうびびるほどの所はなくなっていた。
 それでも途中からのぞく、切り立った岩壁の眺めは迫力がある。ガスは思ったほどには増えることもなく、稜線の草紅葉の彼方に、おなじみの、前穂の恐竜の背びれのような山稜が見えていた。

 途中で、写真を撮るために何度も休み、白出乗越から3時間近くもかかって、北穂高岳(3106m)北峰山頂に着いた。北側にさえぎることなく槍ヶ岳が見えてはいたが、しばらくすると東側からの雲に隠れてしまった。
 しかし、今日の7時間半ほどの行程は、もうここで終わり、後はこの頂のすぐ下にある北穂高小屋に泊るだけだった。
 
 槍・穂高間の大キレットをはさんで、その南と北にある、北穂高小屋と南岳小屋。この相対する二つの小屋は、北アルプスの中でも、特に展望に優れていることで有名であり、私の好きな小屋でもある。
 この北穂からの槍ヶ岳と、南岳からの穂高連峰。私は今までに何度、カメラのシャッターを押しただろうか。それでも飽きることなく、今回もまたやってきてしまったのだ。

 楽しみにしていた夕映えの光景は、遠くの白山方面がきれいだったけれども、槍ヶ岳は雲に包まれたままだった。
 しかし翌朝になると、周囲の山々の雲は取れていて、朝焼けの空の彼方に、妙高山、浅間山、八ヶ岳から、富士山と南アルプス(写真下)、さらには中央アルプスと、それぞれの山なみがはっきりと見え、待望の槍ヶ岳も朝日にうす赤く染まっていた(写真上)。 
 望むらくは、槍の頂上から稜線にかけてが、初雪にでも被われていればとも思うのだが、それはぜいたくというもの。
 
 さて、今日も快晴の空が広がり、後は眼下に見える涸沢に向かって、下るだけだ。着いた日からもう三日がたっている。下の紅葉は進んだだろうか・・・。
 この山の話は、さらに次回へと続く。

 ミャオ、家のカツラの木の黄葉も、始まるころだと思うのだが。

                       飼い主より 敬具             

 


飼い主よりミャオへ(121)

2010-10-06 20:54:46 | Weblog



10月6日

 拝啓 ミャオ様

 一日中降り続いた雨の後、昨日今日と晴れの天気が続いて、さすがに朝は8度位まで冷え込むが、日中は20度までも上がり、日向を歩くと汗ばむくらいの暖かさになる。
 今の時期の雨の後には、カラマツの林の中に入っていって、探しものがある。キノコのラクヨウタケ(ハナイグチ)である。特に出始めのナメコのように、ぬるぬるとした小さなものは、見た目もきれいだし、秋の山野で取れる楽しみな収穫物の一つだ。
 簡単に、大根おろしにしょうゆをかけて、あるいはカツオブシをあえた三杯酢に、一晩漬けておいて食べるかだが、どちらにしても、温かいごはんにのせて食べる時にはいつも、こんな山の中で貧乏暮らしをしているがゆえの喜びを感じる。

 私は、キャビアもトリュフも北京ダックの味も知らない。一流シェフの作る料理を食べたこともないし、もし余分なお金があったとしても、そんな三ツ星レストランに行きたいとも思わない。
 評判のラーメン屋の前に並んでまで、そのラーメンを食べたいとも思はないし、近頃はやりの、B級グルメの店を訪ねる気などさらさらない。
 つまり、ぐうたらな私は、わざわざそんな店に情報通(つう)のように出かけて行くのがいやなだけだ。
 家で何もおかずがない時には、まず庭の畑からミニトマトやキャベツをとってきて、あとは温かいご飯に、カツオブシか卵をかけて食べれば、それで十分だ。

 そんな、他人から見れば情けないほどの食事、食べればいいだけの私の食生活は、思えば学生時代に一人暮らしをはじめてから、次第に身についたものであり、さらに前にも書いたことのある、若き日の長期間のヨーロッパ旅行の時に、さらに、その思いを強くしたことでもある。
 あの時、短い間だったが一緒にいたアイルランド娘は、買ってきたパンで三食をすませていたし、イギリスで訪ねた、その前の旅で知り合った彼は、何とお城に住んでいて、招かれた夕食は彼等の普通の食事である、フィッシュ・アンド・チップス(魚のフライとフライド・ポテト)だけだった。

 それだから、私は、不便な山の上での食事に、さしたる不満はないのだ。ひとりで食料を持参して簡単な食事を作るしかない、テント(日高の山、’09.5.17~5.21の項)や山小屋泊り(今年の飯豊山、7.30~8.04の項)の山旅にしろ、今回の北アルプスは穂高連峰をめぐる山旅での、2食付の山小屋泊まりにしろ、ただ腹いっぱいに食べられればそれで良いのだ。

 とはいっても、最近の食事つきの山小屋の献立は、昔に比べれば、品数も増え、味も良くなってきた。
 もっともそれだけではなくて、もともとずうたいも態度もデカイ私は、山小屋では払ったお金の元は取り返そうと、大喰(おおぐ)らいの山男に変身して、いつも、ご飯に味噌汁それぞれを、三杯ずつはお代わりするという浅ましさ。
 ああ、今は亡き母が、わが息子のそのおぞましき姿を見たならば、きっと言うだろう。
 「この子だけには、決して食べ物に不自由はさせまいと、わが身を粉(こ)にして働いては、十分に食べさせてきたはず。それが何のたたりか、ごの餓鬼道(がきどう)ぶりの情けなさ、ああ親の因果(いんが)が子に報い、あな、恐ろしや・・・。」と嘆くことだろう。


 さて、前回からの、山登りの話だが、涸沢の小屋に泊った翌日は、やはり予報通りに天気は良くなかった、午前中は時折小雨が降るくらいだったが、午後からは本格的に雨になった。
 それでも殆どの登山者たちは、朝早くからそれぞれに出かけて行った。雨の中、頂上を目指す人も、上高地へと降りて行く人もと。
 写真撮りのために連泊した人たちもいて、雨の中の紅葉を写すために、この涸沢周辺を歩き回っていた。
 しかし、私は一日中、小屋にいた。従業員たちによる朝の掃除が終わった後、誰もいないその穴倉のような薄暗い部屋に戻り、一畳ほどの自分のスペースに布団を敷いて、そこで持ってきていた文庫本を読んだ。

 泉鏡花(いずみきょうか)の『春昼(しゅんちゅう)・春昼後刻』(岩波文庫)である。それは、こんな部屋の片隅で読むにふさわしかった。
 山に来る前に、雨で東京にいた時、いつも立ち寄る八重洲のブック・センターで、いろいろと立ち読みなどをして長い時間を過ごし、その時に買ったものである。
 
 鏡花は、私の好きな作家の一人である。若い頃、当時は、まだ旧かなづかいの原文のままで出版されていて、読みにくかったのだが、それでも時間をかけて、その短編作品の多くを読んだ憶えがある。
 泉鏡花(1873~1939年、明治6年~昭和14年)は、主に明治から大正時代にかけて、『外科室』『夜行巡査』『高野聖(こうやひじり)』『婦(おんな)系図』『歌行燈(うたあんどん)』などの、幻想文学的な優れた中篇や短編の小説を数多く発表した。

 なかでもこの一編ということになれば、やはりあの有名な『高野聖』であろう。山奥の一軒家に住むうら若き美女と、そこに宿を求めた修行僧との話は、怪奇的な幻想の世界へと私たちを引きずり込んでいく。
 あのラフカディオ・ハーン(小泉八雲)による日本の怪談話と同じような、否、それ以上に、上田秋成などの江戸怪奇文学の流れをも、色濃く感じ取ることができる。

 鏡花の小説には、封建制度の江戸時代から、一気に近代国家への道を歩み始めた明治時代の日本の、しかし、いまだに古い江戸時代の文化様式からは抜け出すことのできない、当時の日本人の心のありようが、見事に映し出されている。
 それらを決して、懐古(かいこ)調だ古臭い世界だと切り捨ててはならない。次なる、近代文学、現代文学へと移行していくための大事な過渡期にもなる、独自の世界を持った作品群だからである。

 鏡花の師でもあった尾崎紅葉(こうよう、1868~1903)の描く、『三人妻』『伽羅枕(きゃらまくら)』などの耐える女たちの姿も見事であるが(わずか35歳で夭折したのが惜しまれる)、その紅葉と伴に紅露時代と呼ばれた擬古典(ぎこてん)派のもうひとりの巨匠、幸田露伴(ろはん、1867~1947)の描く、『風流佛』『五重塔』などの雄渾(ゆうこん)な男の世界もまた素晴らしい。
 彼らは、前の時代の江戸文学の世界に、例えば、近松(ちかまつ)門左衛門や井原西鶴(さいかく)の描く、義理人情の狭間にあえぐ人々の物語に、彼らの時代に生きる人々の姿を投影させたのである。

 一方で、同時代には、森鴎外(おうがい、1862~1922)がいて、彼はそうであっただろう一昔前の世界を、口語体による話として分かりやすくまとめ上げ(『高瀬舟』『山椒大夫』など)、さらに歴史伝記小説としての分野に、並ぶ者なき成果を打ち立てた(『阿部一族』『渋江抽斎(しぶえちゅうさい)』など)。
 さらに、まだ封建色が強く残るその時代の中でも、女として強く生き抜こうとした樋口一葉(いちよう、1872~1896)が、書き残した名作短編や日記の数々(『にごりえ』『たけくらべ』など)は、彼女がわずか24歳で亡くなったことを思うと、余りにも惜しまれる才能の喪失であった。
 そして、現代文学の最大のテーマともなった自我の相克を、すでにその時代から取り上げて苦闘してきた、夏目漱石(そうせき、1867~1916)の偉大さを、今にして思い知らされるのだ(『こころ』『道草』『明暗』など)。

 まだまだ他にも、名前をあげたい明治時代の作家は何人もいるのだが、それにしても、なんという日本文学の新しい息吹の時代だったことだろう、明治という時代は。そこは、すべての日本文学の、以前以後の集約点になったのだ。

 さて思えば、私の好きな時代の文学の話だけに、すっかり横道にそれてしまった。
 ところで午後になって、新たな登山者たちが次々に雨の中、到着するころまでには、私は、その鏡花の文庫本を読み終えていた。
 それは、成り上がりの分限者(ぶげんしゃ)の妻になった美女と、ひとりの書生との夢幻の恋物語であり、いかにも鏡花らしい一編だったことに満足した。

 この短編は、確か昔にも読んだような気がするのだが、ただ思い出すのは、彼の小説に挿絵(さしえ)を書いていた小村雪岱(こむらせったい、1887~1940)が描いていた、丸髷(まげ)を結ったきゃしゃな着物姿の女を描いた、淡く凛(りん)とした一枚の絵である。
 それは、美人画で有名な、同時代の上村松園(うえむらしょうえん、1875~1949)や、一時期挿絵も描いたという鏑木清方(かぶらききよかた、1878~1972)などの、余りにも鮮やか過ぎる美人像とは違って、静寂の中に秘めたる思いを抱いた、しかしか細く消え行きそうな物腰の美人画だった。


 夕方にかけて、小屋の中はにぎやかになってきた。私は、同じ部屋の人たちとしばらく話しをして、夕食はいつものとおりに、ガッツリと食べて、早めに布団の中に入った。
 それでも、なかなか眠れない。そして何度かに分けて眠った後、人々の声で目が覚めた。東の空がほんの少し明るくなってきていて、その上に星がまたたいていた。

 早めに朝食を終え、ザックをかついで外に出た。同じように写真を撮る人たちが、それぞれの場所で立ち尽くし、待ち構えていた。
 この半円形の涸沢カールを取り囲む峰々、前穂、奥穂、涸沢、北穂のそれぞれに日が当たり始めた。後ろに雲がなくて、朝焼けにはならなかったが、それでも岩壁と草紅葉の斜面をうす赤く染めていった。(写真)
 私は、写真を何枚か撮った後、ザイテングラートのコースの道を登り始めた。
 上空には、真っ青な空が広がっていた。よし、いいぞ。

 この山の話は、次回へと続く。


                      飼い主より 敬具


飼い主よりミャオへ(120)

2010-10-04 21:19:49 | Weblog



10月4日

 拝啓 ミャオ様

 雨が降っている。気温は、朝の9度から余り上がらない、肌寒い一日だ。窓の外では、雨にぬれた樹々が首うなだれて、静かな祈りの時にいるようだ。

 森の樹々よ、今はただ、ひと時の思いの中にあれ。
 やがて、おまえたちは、その装いの葉を脱ぎ捨てる時が来るだろう。
 そして、長い冬の間、ひとり静かに憩うのだ。 
 ほら、今、かさこそと静かに、枯葉を踏む音がして、
 向こうから、物思う人が、小道を歩いて来る・・・。

 ミャオ、長い間、連絡もせずに申し訳なかった。前回、知らせておいたように、山登りに行ってきたからだ。
 それは、長い間いつも気になっていた、秋の涸沢(からさわ)と穂高連峰をめぐる山旅だった。
 もちろん私は、今までにもう何度も、穂高の山々には登っていて、別に目新しい所ではないのだが、混雑を恐れて、紅葉の時期に登ったことはなかったのだ。
 しかし、その季節になると、山の雑誌や写真集で見かける、日本一の山の紅葉といううたい文句に・・・、それは、この老い先短い山おやじへの、殺し文句にもなり、ついに出かけることにしたのだ。

 それは、死ぬ時に見るという、天国の色鮮やかな花園や、妖(あや)しいまでにきれいな地獄の業火(ごうか)などよりは、生きている今、見ることのできる美しいものを見ておきたいという、法界悋気(ほうかいりんき)なごうつくばりの思いからである。

 例のごとく、2か月前に買っておいた早割の安い航空券では、その時に決めた日に行くしかないのだ。
 しかし、出発前にネットで見た、現地の山小屋ブログには、「ナナカマドの赤い実がきれいに見える季節になりました。」と書いてあり、まだ緑色に茂る涸沢の写真が添えられていた。
 今年は、あの記録的な猛暑が長引いたためか、本州の山々の紅葉も、一週間ほどは遅れているらしい。
 その上、これから先の長野県の天気予報では、秋雨前線の影響を受けて、雨と曇りマークばかりだった。

 出かける前日まで、迷っていた。紅葉には早すぎるし、その上、天気の悪い山になど登る気はしない。
 払い戻しだと半額しか戻ってこないが、航空券をキャンセルして、計画を中止し、今までどうりに家で、自分に甘いぐうたらな毎日を送ったほうがいい、何も汗水たらし苦しい思いをして、そんな山に行くよりは・・・と、悪魔顔のもう一人の鬼瓦権三(おにがわらごんぞう)が、ニタリと笑う。

 一応準備はしておいたのだが、ギリギリにその日の朝の予報を見て決めることにした。すると、なんと一週間の予報が少し変わって、最初の二日の雨の後に、はっきりと晴れのマークが出ていたのだ。

 私は、東京で雨の日をやり過ごし、次の日に、快晴の空の下、梓川(あずさがわ)の彼方に、穂高連峰の姿が美しい上高地(標高約1500m)に下り立った。
 朝の早めの時間だから、まだ行きかう人も少ない。いつもの清らかな川の流れを隔てて、青空を背景に一際高く、鋭い岩稜の明神岳(2931m)から前穂高岳(3090m)へと連なる峰々がそびえ立っている。
 平坦な、固い砂地の道をたどって行くと、朝の光が木々の間から差し込んでいて、わずか一羽だけのヒガラの声が聞こえていた。

 今まで、私は何度この道を歩いたことだろう。今回行く涸沢から穂高連峰へ、槍沢から槍ヶ岳へと、あるいは徳本(とくごう)峠へ、蝶ヶ岳、常念岳へ、あるいはその帰り道にと、その度ごとに同じ光景を眺めながら歩いてきて、それでも飽きることはない。
 あのスイスのマッターホルンの麓(ふもと)の町、ツェルマットのように、上高地から先、横尾までの3時間ほどかかる平坦な道を、一般車両が入れないようにしたのは、先人たちの正し選択だった。

 回復不可能な自然の破壊にもなる、車の走る道路は、元来行き来していた動物たちにとっても危険なルートに変わってしまう。人間がほんの少しの不便を覚悟すれば、そのままの自然を、次の世代にまで残すことができるのに。
 とはいっても、便利な道路ができてしまえば、私たちは利用してしまう。だから作らないことだ。危険なものを与えないことだ。

 しかし、一方では、増えすぎたシカやサルの食害が、山里だけではなく、高山帯のお花畑にまで及んでいる。
 単に駆除や保護をと叫ぶばかりでは、問題は解決しない。今日では地球上の動植物の多様性と、それにかかわる問題も増えてきた。
 私がこうして、山に出かけることそれだけで、自然環境の破壊につながることにもなる。つまり、飛行機に乗り、バスに乗り、石油化学製品を身に着けて、山の中に作られた小屋に泊ること自体が・・・。
 
 極論すると、そうなってしまう。つまり、人間対地球上の他の生物との大きな問題になり、人間のそして私個人の存在さえが、害悪を及ぼすものだからである。
 巷(ちまた)に溢れる、「自然にやさしい」なんていう、人間側からの思いあがった言葉を使いたくはない。現代文明の下にあり、今の時代に生きる人は皆、その存在自体が、すでに自然にやさしくはないからだ。

 唯一、いまだに未開の地に住む原住民たちだけが、実は、他の地球上の生き物や植物たちと伴に、大自然という神に最も近しい人間たちなのだ。
 私にできることは、ほんの少しだけ、彼らの真似(まね)をしてみることだけだ。自分の家の周りの、林の木々や畑の植物たちの手助けをしてやり、水は地下からくみ上げ、排泄物はすべて自分の土地の中で利用する。あくまでも、ほんの少しのことだけれども・・・。
 しかし、本当の所は、私はただ、貧乏な生活に慣れているだけなのかもしれない。
 山の奥に入って行く度に、つまり人工物がない、自然の中に入って行く度に、私はそう思ったりもするのだが。

 横尾で梓川にかかる吊り橋を渡ると、山道に入り、左手に屏風(びょうぶ)岩を眺め、行く手に高く北穂高岳(3106m)が見えてくる。さらに、横尾本谷出合付近の高巻きの登りを過ぎると、いつものあの涸沢カール(氷河圏谷)を囲む穂高連峰の山々が、少しずつ見えてくる。
 しかし、山小屋のブログ記事のとおりに、カール下の谷あいに群生するウラジロナナカマドは、殆んどが緑の葉のままであり、その赤い実だけが鮮やかに青空に映えていた。

 アイゼンまでも用意して準冬山装備で来ていた私には、ザックが重過ぎて(とは言ってもたかだか15kgくらいだったのだが)、上高地からはコースタイム通りの6時間もかかり、このぐうたらメタボおやじにはきつすぎた。
 やっとの思いで小屋にたどり着き、一休みすると、少し元気が出てきた。明日は雨の予報だし、それならば、今日の天気の良いうちに、ともかく近くの山にに登っておこうと、出かけることにした。

 それは、涸沢をめぐる穂高の峰々とは相対する位置にあり、それだから好展望台にもなる、屏風の耳(2565m)であり、前穂高岳北尾根から続く尾根をトラヴァースして行く、パノラマコースと呼ばれる道である。
 しかし、そこは名前とは裏腹に、幾つもの急な沢斜面を横切って行く、経験者向きのコースでもある。
 私は、まだ雪の残る危険な頃を含めて、上高地への短絡路にもなるこの道を二回通ったことがあるが、以前に比べれば、道も整備されロープを張った箇所が増えていて、歩きやすくなってはいた。

 その道を行く途中から、明日の天気を予告するかのように、上空に雲が増えてきた。しかし、涸沢では目立たなかった紅葉が、分岐から屏風の耳へと登る辺りから、所々で盛りを迎えていた。
 その紅葉の急峻な斜面の彼方に、南岳(3106m)から槍ヶ岳(3180m)と続く山稜が見えていた。(写真)
 その名のとおりに二つに分かれた、屏風の耳の小さな頂に立つころには、涸沢カールを囲む穂高の峰々に、少し雲がかかり始めていた。
 しかし、眼下には、梓川の白い河原がうねり流れ、対岸に高く常念岳(2857m)が見え、槍ヶ岳にもまだ雲はかかっていなかった。

 誰もいないひとりきりの頂上に、私は満足して座っていた。傍(かたわ)らにあった、クロマメノキの実を、二つ三つつまんでは口に入れた。いつも、北海道で食べる、あのみずみずしく甘酸っぱい味に変わりはなかった。
 涸沢までの途中で、何十人もの人とすれ違い、追い越したりして登ってきた道に比べて、時間が遅かったこともあるだろうが、この屏風への行き帰りの道で、私は誰にも会わなかった。登山者で大混雑する、秋の涸沢周辺で、こんな所もあるのだ。

 写真を撮りながらゆっくり歩いたこともあって、屏風の耳への往復に3時間程もかかってしまい、今日の行程は併せて9時間にもなったが、明日は雨の予報だから、小屋にもう一日泊ってゆっくり休養すればよい。その時のためにと、一冊の文庫本も持って来ていた。
 まだ三日間の余裕もある。一日でも晴れてくれれば、上に登って稜線の草紅葉を楽しむことができるのだが・・・。

 ミャオは、元気にしているだろうか。
 私は、ひとりで高い山に登りに来ているというのに、オマエはひとりで、九州の山の中にいる・・・思いは別々であり、一つでもあるのだが。

 話は次回へと続く。

                      飼い主より 敬具