ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

コブシの花と「自省録」再び

2013-03-27 21:47:36 | Weblog
 

 3月27日

 小雨が降る中、庭の一隅が明るくなるほどに、コブシの花がいっぱいに咲いている。

 例年になく早く咲いたウメの花は、散ったばかりだが、しかし家のヤマザクラはまだ咲いていない。
 だからこそ、ひときわこのコブシの花の明るさが目立つのだ。
 花の形から言えば、同じ仲間の大きななめらかな花びらを持つ、モクレンの方がはるかに見栄えがするのだが、この握りこぶしを弱々しく開きかけたような、コブシの花の風情もまたいいものだ。
 長い冬の後、春先の暖かい光でおずおずと花を開き始めたコブシを見るたびに、私はあの有名な歌にも出てくる『北国の春』を思い出すのだ。
 北海道の家の庭に、まだ数十センチはあるだろう雪に囲まれながら、ひとりたたずんでいるあのコブシの木を思う・・・。

 この三日ほどは幾らか寒くなったけれども、それでも3月末の平年並み気温なのだ。というのも、今までが季節外れの暖かさだったからだ。
 それは、東京から西の各地では、記録的な速さで桜の花が咲いて、満開になっている事からもうかがえる。

 私は、二日前に少し離れたところにある大きな町まで買い物に行ったのだが、その途中の光景は、どこもかしこもまさに春爛漫(はるらんまん)といった様子だった。
 サクラ、ハナモモ、スモモ、コブシ、モクレンそしてそれらの木々の下草をいろどる菜の花・・・。
 二両編成の電車が走っている。その線路の両側は黄色い菜の花でふち取られ、その行く手には、無人駅のホームに植えられている桜並木が見える。
 何とも心なつかしい風景である。子供のころ、母の田舎で過ごした時からの、毎年のサクラ色と黄色の記憶の連鎖が、今も続いている。

 生きているということは、そうした思い出が続いているということなのだろう。
 ”よく、生きよ”という声が聞こえてくる。
 今あるのは、誰のものでもない自分の人生なのだ。そこに、多少の運命的な神の差配による違いがあったにせよ、すべての人にまた等しく、数々の喜びと苦しみがあったはずだ。
 今にして思えば、それらの喜びのひとつひとつが、自然なる神からの贈り物であり、周りの人々の温かいい思いやりによるものだったのだ。また、同じように経験してきた幾つもの苦しみこそが、実はその人を試し鍛(きた)えるために、神々が与えた試練の時であり、周りの人々から課された修練の場でもあったのだ。

 世界史における古代の時代から、人々が群れ集まるようになり、いつしか集落や町ができ、さらには小さな国家を作るにつれて、そこで暮らす人々が思い悩むようになったのは、まさにその集団社会の中での一人である自分の生き方だったのだ。
 そこでは余分な争いが起きぬように、自ら規律を定めてより正しく生きるためにはどうあるべきかという、道徳的な形ある提案としての倫理学が生まれ、さらに問い詰めて行った先にある、この世界そのものの成り立ちの解明こそが、哲学をはぐくむ元にもなったのだ。

 誤解を恐れずに言えば、今の時代の枝葉末節から始まる論理のための哲学よりは、こうしたギリシア・ローマ時代の哲学創生期における考え方の方が、それは確かに科学的ではない事実誤認の点も数多く含まれているが、しかし、当時の混濁の残る世界の中で真摯(しんし)に生きようとしてきた人々の、強い生への息吹と挫折による苦悩などが、今もなお生々しく感じられるのだ。
 それは、後の宗教的に発展した中世哲学から自我に目覚めた近代哲学、さらに今日に至る現代哲学などよりは、はるかに人間的な、当時の社会に即した哲学であり、むしろ彼らのその自然哲学における基本的な誤解部分を取り除いた他の部分、つまり道徳的なその考え方や生き方の提唱こそがまさに倫理学的であり、私たち今の時代の人間にも納得できる所なのだろう。

 そのギリシア哲学の中でも、倫理学としてわかりやすい二つの学派、快楽を生きる上での善の一つとしてとらえたエピクロス学派と、逆に快楽を抑え律することを善としたストア学派については、前回を含めて今までに何度かここでもふれてきたが、(ソクラテスからプラトーン、アリストテレスについてまで考えを広げるには問題が大きすぎて、それぞれ別の機会に譲るとして)、そのストア学派の流れを受け継いだローマ時代の哲学者であり、なおかつその名だたる帝国の支配者でもあったマルクス・アウレーリウス(121~181)が書き表した、『自省録』ほど興味深いものはない。
 つまり、哲学の目的の一つは、多くの人々を正しく導く指針となる考え方を提示することにあり、それが実際の政策として施行されることが望ましいのだから、皇帝マルクス・アウレーリウスこそは、哲学史上それが実現できた唯一の哲学者であり為政(いせい)者であったのだ。

 もっとも、それが簡単に実行できるほど現実はたやすくはない。小さな町ひとつくらいならともかく、彼が支配し命令を下したのは、あのヨーロッパからアジアにかけてを領有した他ならぬローマ帝国であったからである。
 その帝国の長である彼は、日々おびただしい数の訴えごとやもめごとに耳を傾け、判断を下し、さらに軍の長でもある彼は、長期にわたって辺境蛮族(ばんぞく)との争いに身を挺(てい)さなければならなかったのだ。

 その折々にわたって、断片的に書き残されていたものが、彼の死後『自省録』として編集されたのである。
 この『自省録』については、前にも何度か書いたことがあるのだが(’12.12.10の項参照)、やはり折に触れては、この本の幾つかのページをめくりたくなる。
 それは、決して他の思想家たちの哲学的著作物のように、ひとつの主題をもとに書かれたものではなく、例えて言えば、後の時代のモンテーニュの『エセー』やパスカルの『パンセ』のような、エッセイや随想録(ずいそうろく)的なものだと考えられなくもないが、そこには為政者、指導者としての理想的な在り方が述べられていて、一方では度し難(どしがた)き人々への切実な嘆きの声も聞こえてくるのだ。

 その理想主義的な理念と、時折かいま見えるニヒリスティックな虚無的な側面こそ、本来誰しもが持つ光と影の部分を表していて、”余りにも人間的な”ゆえの苦悩をうかがい知ることができるのである。
 今日の私たちから見れば、1900年も前の歴史上の畏敬(いけい)すべき存在であるローマ帝国皇帝の、これは偽らざる魂の告白録であり、彼の心の日記なのかもしれない。
 だからこそ、今の私たちの胸にも響いてくるのだ。

 この本の中で、ここに書き出してみたいものは幾つもあるが、今日はそのうちの二つだけを。

 「無限の時という計り知れぬ深淵(しんえん)の、なんと小さな部分が各自に割り当てられていることよ。それは一瞬にして、永遠の中に消え失せてしまう。・・・」

 「君が求めるものは何だ。生き続けることか。しかしそれは感じるためか。衝動に動かされるためか。成長するためか。次に停止するためか。言葉を用いるためか。考えるためか。
 以上の中で、何が望むに足るものと思われるか。もし何から何まで取るに足りないものであるならば、とどのつまりは理性と神への服従に向かうがよい。・・・」

 ミャオがいない寂しさ、母がいなくなった寂しさ、彼女と別れた寂しさを含めた家族と別れたすべてが、今思えば私が一人で心穏やかに暮らすための私への試練であり、かつまた意図しない布石の一つであったのかもしれない。
 清濁(せいだく)すべてを併せ飲んでは良しと受け止めて、これからもしっかりと生きていくことだ。
 とは言いつつ、些細(ささい)な日常が私の小さな平穏をかき乱す。

 暮れに買った新しいデスクトップ・パソコンは(と言ってもWindows7だが)、至って快調に作動していて、5年間使ったWindows Vista のデスクトップ・パソコンは余りにも遅すぎて全く使わなくなり、どこも悪くはないのだが場所を取るばかりで、中古品として処分することにした。 
 離れた大きな町にある大型家電店に持って行き、買い取ってもらうことにした。結果は、何と100円。
 また持って帰る気にもならず、泣く泣く承諾した。教訓一つ、パソコンは最後まで何らかの形で、たとえばバックアップ用にとかで使うこと。

 次に、ケイタイを買い替えた。念のため言うが、スマホにではなく、ケイタイからケイタイにである。
 私がケイタイを持っているのは、あくまでも旅先や、山の中での緊急連絡用のためであり、日ごろから電源オフにしているから、メールが来ることも電話がかかってくるわずらわしさもない。極めて静かなケイタイのある生活を送っている。
 そして今回も、乗り換えキャッシュ・バックでケイタイ本体はタダであり、さらに最低限度の契約だから、月々千数百円位しかかからずに、おサイフにもやさしい生活が送れる。
 今までのケイタイは、これも数年前のものだったから、それだけにこの新しいケイタイの様々な性能には感心するものの、一方で追加項目の種類の多さにとまどうばかりで、もちろんやむを得ないもの以外は一切追加契約しなかったのだが。
 それにしても、取扱説明書を読んでちゃんと設定し終えるまで、数日はかかるだろうが。

 そして、3月24日(日)に放送されたテレビ番組の2本から。

 NHK・BS 『厳冬・利尻富士 究極のスキー大滑降』。
 30代半ばの山岳ガイド・山岳スキーヤーである彼が、ヒマラヤ並みと言われる厳冬期の北海道の利尻山(1721m)に登り、その頂から急斜面を滑り降り、狭い谷を通り抜けて、わずか数分間の危険なスキー滑降に挑むというドキュメンタリーである。
 いやー、すごかった。悪天候が続く厳冬期の利尻に登るだけでも、第1級の氷雪クライミング技術が求められというのに、さらにそこから滑り降りるなんて。
 雪山登山が好きで、そしてただのゲレンデ・スキーヤーでしかない年寄りの私には、異次元空間でのしかし理解はできる山に向かう行動であり、興味深く見せてもらった。それにしても、朝日に染まる利尻の美しさ・・・。

 NHKスペシャル 『完全解凍 アイスマン・5000年前の男は語る』。
 1991年、イタリア・オーストリア国境のエッツ・タールで氷河の中から発見された古代人のミイラ。彼はアイスマンと名付けられて長らく冷凍保管されていたのだが、ようやく最新技術による科学的解剖(かいぼう)が行われて、様々な新たな事実が見えてきたのだ。
 彼が持っていた斧(おの)から、すでに高度な青銅器の精錬技術があったことが分かり、さらに彼の胃の中からパンの名残らしきものが出てきて、つまり地球上にやっとメソポタミア文明が起こったばかりのころ、遠く離れた未開の地でも、すでに小麦から作ったパンが焼かれていたということ、そして彼の体のあちこちにあった小さな刺青(いれずみ)が、何と中国の鍼灸(しんきゅう)のツボの位置にぴたりと重なっていたこと。

 他にもさまざまな発見があり、それをひとつひとつ現代科学によって解明していくのだが、多分に気持ちの悪いゾンビのような体の大写しをガマンしさえすれば、まるでミステリーを見ているようで面白かった。分かったことは、7000年前の人がそれほどに原始人ではなく、文字を持たなくてもそれ相応の文明があり、人間らしく生きていたのではないのかということ。

 彼の体が、こうして後世の私たちの目に触れたことは極めてまれな例である。
 ほとんど人は、あのマルクス・アウレーリウスが言うように「一瞬にして、永遠の中に消え失せてしまう。」のだろう。
 それだけに、今の一瞬を生きていることがありがたいのだ。


(参考文献: 『ギリシア哲学者列伝』(上、中、下)ラエルティオス著 加来彰俊訳 岩波文庫、『自省録』マルクス・アウレーリウス著 神谷美恵子訳 岩波文庫) 
 
  

早春の山旅、大山 (2)

2013-03-19 10:42:56 | Weblog
 

 3月19日
 
 前回からの続きである。山陽新幹線、伯備線を乗り継いで、青空の下、大山(だいせん、1729m)の白い優美な姿を眺めながら、ふもとの大山寺まで行き、そこで一晩泊った。

 翌朝、日の出の時間に合わせて宿を出た。まだ薄暗く、-5度くらいだが、風もなくそれほど寒くはなかった。
 河原の橋の傍で、日の出を待つことにした。薄明るくなってきた山の端から、ずっと離れた上に、ひとり三日月だけが残っていた。
 しかし、この時期は、ここからでは朝日の当たる位置が見えなくて、わずかに北壁上の頂上稜線が薄赤くなっただけだった。
 おそらくは、冬至(とうじ)からまだ2か月余りしかたっていないから、北壁の方には十分に日が当たらず、今の時期に朝焼け夕焼けの山の姿を見るには、南側から南壁の姿を見るべきなのだろう。

 橋を渡り、登山者たちのクルマが並んでいる駐車場の前を通って、左に夏山登山道入り口の標識がある。踏み固められた雪の道だ。
 すぐに右手から上がってきた石畳の参道に出合う。
 そこで登山者が二人、座り込んで靴にアイゼンをつけていた。こんな下の所からとも思ったが、彼らの判断のほうが正しかった。
 というのも、昨日の登山者たちの踏み跡がいったん溶けては、凍りついて滑りやすくなっていたからだ。
 それでも、やせガマンをして、テラテラ光る踏み跡から外れた道の両側を歩いていたが、やはり歩きにくい。二合目の標識あたりで、休みもかねて私もアイゼンを取りつけた。

 少しずつ勾配が増してきたが、アイゼンの爪が効いて快調に登っていける。周りの雪の山腹斜面には、見事なブナの林が続いていた。しかし、先ほどから少し気にはなっていたのだが、風が出てきていたし、木々の間から見えている頂上付近にかっていた雲が、少しずつ広がり始めていたのだ。
 さらにしばらく登って、頭を上げると、何と雲は上空をぐるりと取り囲んでいて、下の大山寺の街並みやそれに続く北側の平野部が見えるだけになっていた。
 朝は、あんなに快晴の空で、天気予報も終日晴れだったのに・・・。さらにこの山腹の林の中にも風が一段と強く吹きつけていた。

 よくあることだ。天気予報ではお日様マークで、山登りには心配のない天気かと思うと、それは平野部の天気についてであって、わずかな寒気や気流の影響を受けやすい山では、雲が湧き上がりそのまま張りついて、曇り空になってしまうこともあるのだ。
 NHKの全国の天気予報では、お天気マークがつくのは、県庁所在地などの主要都市だけであって、内陸部ではわずか長野、宇都宮、盛岡そして北海道の旭川と帯広だけであり、翌日の時間ごとの予報に至ってはわずか長野の一か所だけ。

 つまりこの中国地方、四国、九州では、お天気マークのつく県庁所在地はすべて沿岸部にあり、厳密に言えば内陸部の天気は分からないことになる。それが顕著に表れるのは、冬型の気圧配置の時なのだ。
 日本海側の沿岸部は、雲が広がり雪も降るが時々青空ものぞき、それほどひどい積雪にはならない。しかし季節風がぶつかる山間部は、雪雲に覆われ続けて豪雪になることが多い。そして太平洋側に出れば、吹き下ろしの空っ風で、青空が広がっているというわけだ。
 それだから日本海側と太平洋側だけの予報では、内陸部の天気は分からないということになるのだ。

 さらに言えば、もっと簡略化された民放局の全国の天気予報では、内陸部どころか、北海道にいたっては、札幌一か所だけであり、それで四国九州を合わせた広さがある北海道の天気予報になるのだろうか。
 つまりあとは、地方局のさらに地域ごとの天気を見てほしいということなのだろうが、そこでも地域の主要市だけだから、離れた山間部の天気とは違うということがよくあるのだ。

 まあ民主主義多数決の世の中だから、都市に住んでいた方が情報は多いし、何かにつけ便利なのは言うまでもない。
 しかし、東京で数センチの雪が降ると、全国ニュースのトップになるし、土埃(つちぼこり)が舞い上がり空が覆われると、風塵(ふうじん)だ煙霧(えんむ)だとこれまたニュースになるのだ。
 都会に住んでいる人には、5mもの雪が積もる所で日々暮らしている人たちの気持ちなど分かるはずもないだろう。
 また広大な畑が広がる北海道では、毎年雪が消えた春になると、砂塵(さじん)が空一面を覆うけれども、それは馬糞風(ばふんかぜ)と呼ばれていて、いつもの季節のことだからと思っている北海道の人と、天変地異(てんぺんちい)的な出来事ではと思う都会の人では、大きな感覚のずれがある。

 それでいいのだ。そういう地域差の中で、それをわかって人々は暮しているわけだから。
 人は生まれながらにして不平等であり、不平等のまま一生を終わり、決して自由になどなれないし、地球上にはこれだけ多くの人々が生きているわけだから、そこに格差や混乱が起きるのは当然のことだ。
 ただ、そうしたことを認めたうえで、それぞれに自分なりにできる範囲以内での楽しみを見つけては、自分を律しながらも、しぶとく生きて行けばいいのだ。

 その点で、あのストイックという言葉の語源にもなった、ギリシア哲学におけるストア学派が主張しているように、”自分の欲望や感情を理性の力で抑えて、運命に従いながらも論理的に生きていくこと”が必要なのだろう。
 それは一方では、逆の立場の快楽主義と受け取られかねないエピクロス学派(’10.6.22の項参照)の教えである、”なるべく苦痛になるものを避けて、自分を律した簡素な生活を送ること”ともそう隔たってはいないのだ。
 つまり、最終的に両者が求めたのは、魂の平安であり、穏やかな暮らしだからである。

 などと、とりとめもないことを考えながら、上に見える先行者の後を追って登り続けた。
 こうして天気が悪くなったのも、すべては神のおぼしめしなのだ。というのも、さすがは噂に高い悪天候の続く日本海側の独立峰の山であり、初めて来てそうやすやすと最高の天気に恵まれるなんて、そんな虫のいい話があるはずもないのだ。いつかまたもう一度出直して来いということなのだろう。
 それにしても昨日の電車の窓から、あるいはふもとの大山寺から仰ぎ見た大山の姿は素晴らしかった。それだけでも十分価値があるし、さらに言えば、家でうだうだとしていた毎日から、こうして異なる一歩を踏み出せたことだけでも十分ではないかとも思った。

 とその時、上から雪道を早足で降りてくる人がいた。思わず呼び止めて山の状況を尋ねてみると、上は危険を感じるほどのひどい風で、7合目であきらめて戻るところだと答えてくれた。
 しばらくしてさらに一人、下りてくる人がいて彼にも声をかけてみた。雪で凍り着いた防寒雨具のフードをかぶったままの彼は、頂上まで行ったが、風が強くガスもかかっていて何も見えなかったと話してくれた。

 それで私は、これからの行動を決めることができた。すなわち、もうしばらく登ったところにある6合目避難小屋まで行って、そこでゆっくり待つことにしよう。時間は十分にあることだし、せっかく来たのだから、やはり間近に迫る冬の大山北壁の姿を見てみたいのだ。
 ただ、幾らかの望みもあった。空全体を覆う雲のその早い動きの中にも、ちらちらと青空が見えていたことだ。つまりそれは、雲の層が薄いことを意味していて、風が強いからこそ一気に雲が吹き払われる可能性もあると・・・。

 やがて、左に行者谷(ぎょうじゃだに)に下る道への分岐点があり足跡もついていた。
 そこからさらに登って、今までの樹林帯を抜けて、ノリウツギやツツジなどの灌木が雪面に頭を出すだけの、見通しの良い尾根に出た。
 風が強くガスがかかる中、人々が見え、雪に埋もれた小さな小屋の屋根が見えた。6合目の避難小屋だった。
 そこで休んでいた数人の人たちと、天気予報は良かったのにと話し合った。切れ切れの雲の間から、三鈷峰(さんこほう、1516m)らしい姿が見えていただけだった。入り口付近が除雪されていたので、その小屋に入って休むことにした。

 詰め込んでも数人が泊まれるぐらいしかない小さい避難小屋だが、頂上小屋とともに、緊急時のためにはありがたい存在だ。
 そこで、少しゆるんでいたアイゼンを締め直し、テルモスの温かい紅茶を飲んで、さてこの天気の中いつまでここにいようか、それとももう少し上まで登ってみるかと考えていたところ、小さな窓の外が明るくなり、誰かが声をあげていた。

 外に出ると、何と、空に大きく青空が広がり、雲が流れながらも北壁と稜線が見え隠れしていた。
 あーあ、ありがたや。心に念じていた”八大竜王、雨やめたまえ”(源実朝)の祈りが通じたのか。
 そして、見る間に青空がほとんどになっていた。そのうえに、風も幾分弱まっているように思えた。見上げる先に続く青空と白雪の稜線の姿に、私は小おどりしたいくらいだった。

 そこから始まる急な登りも苦にはならなかった。見事な景観に思わず笑みがこぼれ、何度もカメラのシャッターを押しては、上を目指した。(写真上)
 まだまだ続く急斜面には、トレースがジグザグについていて、苦しい登りを幾らかやわらげてくれる。
 ただ、時折吹きつける風には、耐風姿勢を取るためにもやはりピッケルが欲しい気もした。(出発前に、持っていくかどうか迷ったのだが、この時期の2000mほどの山ならばとストックだけにしたのだ。)
 まあ結果的に言えば、全面氷結しているわけではないから、ストックの石突きだけでも十分に役に立ったのだが、基本的にはまだピッケルが必要なな時期なのだ。

 そして8合目を過ぎると、急に道がゆるやかになり、上の方にかけてなだらかな広い斜面が広がっていた。
 なるほど、これがこの山の特徴的な形の一つであり、富士山型のコニーデ型に噴出した後、その上に、今は崩壊が進んでいるが、弥山から剣ヶ峰、天狗などの頂きがトロイデ状に噴出したのだ、という解説にも納得できるのだ。
 加えて言えば、この大山という山の姿は、上から見た平面的な形では、イチョウの葉の形に似ている。葉の部分が、コニーデ型のすそ野が広がる部分であり、軸の所が北壁南壁となって切れ落ちる稜線であり根元が東壁というわけだ。

 そのゆるやかに続くコニーデ上部の道には、少しだけ木道が姿を現していて、その傍らには天然記念物のダイセンキャラボク(イチイの高山型)がエビノシッポをつけて凍りついていた。
 やがて人々の姿が見え、雪に埋もれた小屋があり、その先が最後の高み、弥山(みせん)山頂だった。登山口から3時間ちょうどというのは、最近すっかり弱くなってきた私としては上出来の時間だった。

 そして、そこからの剣ヶ峰の姿、これこそが私の見たい冬の大山の姿だったのだ。
 しかしそこでは、まだ北壁側を含めた全部は見えない。その先に続く稜線の100mほど先の小さな高みが、1709m三角点のある本当の弥山の頂上なのだ。
 そこへと続くトレースをたどってその頂きに立ち、さらに少し降りたところから、ようやく両側がすっぱりと切れ落ちて、さえぎることなくそびえ立つ大山の本峰、剣ヶ峰(1729m)の姿を見ることができたのだ。(写真)

 


 右手には烏ヶ山(からすがせん、1448m)の崩壊山稜が続き、その上には蒜山(ひるぜん、1202m)三座があり、遠くに見える山々は那岐山(なぎのせん、1240m)から氷ノ山(ひょうのせん、1510m)方面になるのだろうが、詳しく地図で調べない限り、新参者の私には見分けがつかなかった。

 そして目の前の剣ヶ峰への稜線。この縦走路は崩壊が激しく通行禁止になっているけれども、むしろこの雪の時期の方が歩きやすいのではないのだろうか。昨日も、縦走して下りてきた人たちに会って話を聞いたのだが、一部雪庇(せっぴ)の張り出しで怖いところがあるといっていたが。
 ここからも、その彼らの昨日のトレース跡が見えていたし、このくらいの凍結していない稜線なら私にも行けないことはないのだが、いかんせん装備が十分ではない。
 初めからこの弥山までのつもりだったから、ピッケルはもとより、靴も冬季専用の完全防水ではないし、気休めのヘルメットはともかくザイルもない。ただ時間的に見ても、ここから剣ヶ峰までは十分に往復できそうだった。

 何という、欲深い思いだろう。あの6合目あたりの強風とガスの中では、引き返すことも考えていたのに、幸いにも一転して晴れてしまうと、その先のものが欲しくなってしまうのだ。
 いや、これ以上は望むまい。目の前に広がる、この見事な雪山の景観だけでもう十分なはずだ。
 ほほをなでるやさしい風と日の暖かさを浴びて、私は座り込んでいた。

 そして三角点ピークに戻り、そこにいた一人と話していると、何と右手の切れ落ちた北壁側の弥山尾根に人の姿が見えた。それは、ダブル・アックスを雪面に打ち込んでは登るクライマーの姿だった。
 つまり、この冬の大山は上級者の訓練用の山でもあり、また冬山初心者のための山でもあるのだ。

 さて再び、さらに広くなった弥山山頂に戻り、そこにいた人たちと言葉を交わしたが、みんなこの天気と山々の眺めに喜んでいた。
 なかでも地元だという、私と同じ年くらいのおじさんは、今年はもう6度目になるが、こんなに晴れたのは今日だけで、初めて来てこんな天気の日に登れたなんて、あなたは幸運な人だと言ってくれた。
 そんな時に、何も正直に、私は十分に天気を調べてきたのですと言うべきではないのだ。ここは、みんなからの祝福の言葉を素直に受け入れるべきなのだ。私は笑顔で、頭を下げた。

 なごやかな人々たちのいる雪山の頂上だった。青空のもと、皆もなかなか立ち去りがたい様子だったが、私は意を決して、また来るかどうかも分からない大山の弥山山頂を後にした。(1時間ほどいたことになるが、その後早く下に着いてしまい、その時になってもっといてもよかったのにと思った。)
 下りは下りで、太陽光線の当たり具合も違うから、雪面や雪庇の状態が面白く見えて、何度も立ち止まってはカメラを構えた。
 まだまだ登ってくる人も多く、風も収まって日差しが強くなり、汗を光らせている人もいた。おそらくこの日だけで、30人以上は登っているだろう。

 それは、この大山の見事な雪山の姿を見るためなのだろうが、そこには今年だけでもう6回目だと言う地元のおじさんがいたように、ほとんどの人はもう何回となく登っているに違いない。
 そんな人々の、この大山に寄せる思いが伝わってくるようだった。近くにいつでも登れる、名山と呼ばれる山があることの幸せ・・・。
 それぞれに十回以上は登っている山といえば、私にとっての九重連山や由布岳、北海道での日高山脈や大雪山などのように、自分にもなじみのふるさとの名山たちがあるのだ。

 下りは、6合目の小屋を通り過ぎ、5合目の所からは行きに見た行者谷へと下る小さな尾根をたどった。今日の足跡らしいものが一つ。
 それにしてもようやくここで、前後に誰もいない静かな山になった。私は何度も立ちどまっては、斜面の見事なブナの木々を見ていた。
 下の谷に下りると、右手北壁からの雪崩(なだれ)の危険が気にならないこともなかったが、全層雪崩が起きるほどに気温が上がっている訳でもなかった。
 右手に元谷避難小屋を見て、小さなの砂防ダムが続く元谷に出る。昨日行った金門のさらに上流部である。
 そこからの、北壁と弥山から剣ヶ峰、天狗ヶ峰と続く雪の稜線が、昼の光を浴びてテラテラと輝いていた。(写真下)

 まだ1時にもなっていなかった。続けて泊ることにしていた宿に戻るには早すぎた。この時間なら、バス電車新幹線と乗り継いで、今日中には家に戻れそうだった。 
 若い時ならそうしただろう。しかし、今では何とか楽をしようと思うだけの偏屈(へんくつ)なジジイにすぎない。残りの人生、急ぐよりは時間をかけて楽しみたいのだ。
 ねちねちと・・・ロープとムチを片手にローソクを持って・・・いや、これは違う、私の趣味ではありませんから。念のため。

 その後、昨日行った金門から、さらに再び大神山神社に参り、次に大山寺の街(750m)の裏手にある寂静山(じゃくじょうざん、868m)への雪道をたどり、その展望台からは雄大な大山北壁を眺めることができた。
 誰もいなくて、展望も素晴らしいのだが、何しろ裏手がスキー場になっていて、ゲレンデの音楽が流れ響いて、とても寂静という雰囲気にはほど遠かった。

 翌朝、二日もお世話になり、家族的なもてなしで料理もおいしかった民宿を後にして、朝一番のバスで米子(よなご)に出た。(初めて分かったのだが、大山寺に行くにはJR大山寺口からよりは、米子から行く方が便数も多く運賃も安く時間も早く着くのだ。)
 バスの後ろの窓からは、今日も晴れてはいるものの、すっかりかすんでしまった大山の姿が見えていた。

 さて米子からは、伯備線に乗って、一昨日見たあの大山南壁の姿をもう一度見たいと、行きと同じ左側の席で待ち構えていたが、やはりちらりと見えただけだった。しかし、何とその時、反対の右側の窓から大きく南壁が見えたのだ。根雨(ねう)駅のあたりだったが、気づくのが遅かった。残念。
 しかし、見る位置からその形が違うこの雪の大山を、特に南壁の姿をもう一度じっくりと眺めては、写真にも撮りたいものだ。そのためには、いつの日かクルマで来なければと思う。鍵掛(かぎかけ)峠、笛吹山、三平山などから・・・。

 ともかく、今回の大山への山旅は、ゆったりと組んだ日程と、米子付近の車窓からの富士山型の優美な姿、ふもとの大山寺からのアルペン的な北壁、そして何より登山の日の快晴の山頂からの眺めの素晴らしさ、さらに加えてあたたかい宿のもてなしを受けて、私の忘れがたい山の思い出の一つになったのだ。
 そして、この雪の大山には、間違いなく、日本の山の中でも第一級の山岳景観美があるということだ。
 もっともそれは、あなたの好きな山はと問われて、いつも「ついこの前に登ってきた山です」と答える人の思いにも似ているのだが。

 幸せな思いを求めることは、そのささやかな快楽を求めることは、上にあげたエピクロスが言うように、まさに日ごろから、質素で自分を律した生活をしているからこその、小さな幸せの喜びであり、それを糧(かて)に生きているということにもなるのだ。

 私が、ひとりだけのぐうたらな泥濘(でいねい)にまみれた毎日から、別な世界への一歩を踏み出せたのも、結局は自分の好きな山の呼ぶ声に従っただけのことだったのだが。
 つまりは、孫悟空(そんごくう)が自分は遥かなる天空を飛び回っていたと思っていたのに、実はお釈迦(しゃか)さまの手のひらの周りを回っていただけだったという例えと同じように、ただいつもの山に登ったようなことだったのかもしれないが・・・。

 (参考文献:山と高原地図 大山・蒜山高原 昭文社、ギリシア哲学者列伝(上・下)ラエルティオス著 加来彰俊訳 岩波文庫)

 

早春の山旅、大山 (1)

2013-03-12 17:28:33 | Weblog
 

 3月12日

 この一週間ほどの間に、すっかり春めいた陽気になってきた。
 数日前に、庭の梅の木の枝先が薄赤く色づきふくらんできたかと思う間もなく、花が咲き始めた。梅の花の香りが漂ってくる。
 開けたままの窓から、暖かい風が通り抜けて行く。空は春がすみ、鳥たちのさえずりも聞こえてくる。

 つい先日まで、寒い冬を通して、私の心も冷たく沈んでいたのに、今、暖かい春の風が吹いて、私のかたくなな心もいつしか明るい春の光に誘われていくような・・・。
 実は一週間ほど前に、私は久しぶりに家を離れて、泊まりがけの山旅に行ってきたのだ。
 その時はまだ寒い心のままで、さらに冷たい雪に覆われた山に登るべく、しかしそれは、新たなる一歩への熱い気持ちに燃えての旅立ちだった。

 目的は、島根県の大山(だいせん、1729m)である。
 この山は『出雲国風土記』の神話などにもその名が出てくるように、古来、有名な山であり、東側から見た秀麗な富士山型のその姿から、島根の旧国名を冠して、伯耆(ほうき)富士と呼ばれているが、さらに隣の島根県からもよく見えることから、出雲(いずも)富士とも呼ばれているという。

 しかし、日本の名だたる山々から見れば、わずか1700m余りの取るに足りないほどの山でしかなく、それは例えば、この山が、3000m級の山岳が連なる北アルプスや南アルプスなどの傍にあったとしたら、さして注目を浴びることもなかっただろう。
 しかし、この山の周りには他に高い山がない。東西に長いこの中国山地全体で見ても、次に高いのは芸北の恐羅漢山(おそらかんやま)の1346mだし、東の果てのもう近畿地方になる兵庫県との境にある氷ノ山(ひょうのせん、1510m)までを含めたとしても、この大山だけが、ひとり頭抜けて高いのがよく分かる。
 さらに、コニーデ式富士山型の優美な姿と、険しい北壁と南壁を擁(よう)した岩稜の山という二つの姿を併せ持っていて、その印象的な山容を思えば、なおさらのことだ。

 つまり、隆起準平原として知られるなだらかな頂きの山が連なる中国山地の中で、それは東京―福岡便などの飛行機の上から見るとその単調さが良く分かるのだが、この大山だけは、高さからいってもその山の姿からいっても、ひときわ抜きんでた存在の山である。
 まして、日本海側に面した独立峰だから、冬の季節風による積雪量が多く、そのためにこの山は、他の北アルプスなどの3000m級の山々と変わらない苛酷(かこく)な冬の気象環境の中にあるのだ。

 それだからこそ、その厳しい冬山の姿を求めて、地元の中国地方だけでなく、関西、四国、九州から山好きな人々が集まってくるのだろう。
 つまりこの大山は、あの加賀の白山(2702m)以西では、唯一の冬季のバリエイション・ル-トとしての山稜縦走や登攀(とうはん)ができる山であり、また一方では、晴天の日には比較的安全に登ることができて、冬の山岳景観を楽しむことができる山でもあるのだ。

 今まで何度も書いてきたように、私は何も”日本百名山”を目指しているわけではない。というより、あのリストにある山の幾つかには登りたいとも思わないし、そんな山に登るくらいなら他の選ばれていない地方の名山や、すでに登っている好きな山に何度も登った方がましだと思っているくらいである。

 しかし、中国地方からただ一つそんな“百名山”に選ばれているこの大山は、今までその写真や映像を見て、やはりいつかは登るべき山だと思っていた。それも雪のある時期に、できれば1月2月の厳冬期に。
 その理由は、夏山の写真を見る限りではやはり標高並みの姿でしかないのに比べて、(もっとも新緑の季節や、夏のお花畑が花盛りになるころ、そして秋の紅葉とそれぞれに素晴らしいのだろうが)、何といってもその姿が一番美しく見えるのは、それも確かに3000m級の山の景観と変わらぬ姿を見せてくれるのは、雪に覆われた冬山の姿であり、登るならばそのベストな時にと思っていたからである。

 さらに、他の冬山では難しくなる登山口までのアプローチが、夏場と同じくように簡単であり、弥山(みせん、1709m)頂上への夏山登山道と呼ばれるルートには、余り危険な所もないからである。
 さらに付け加えれば、冬場も人気の山だから登山者が多く、しっかりとトレース(踏み跡)もついていて、雪が降ったすぐ後でない限り、深い雪のラッセルをしなくてすむからでもある。

 ただし、問題は冬の間じゅう悪いという天気である。
 週末は交通機関をはじめ混み合うから避けるとして、平日に二日以上晴れる日がないかと、いつも天気予報を気にしながら待っていた。
 しかし、そんな好条件の日はなかなか来なかった。
 それでは、他にもどこか手軽に行ける冬山はないかと考えてみた。冬場に晴れる内陸や太平洋側の山として、中央アルプスや八ヶ岳があるが、いずれも過去の好天の日に登っているし、南アルプスはアプローチが大変だし、となると富士山周辺の山々をのんびりと巡り歩くかとも考えて、一応計画を立てて、それぞれに見合う日を待っていたのだが・・・。

 やはり、生来のぐうたらな性格が災いしてか、その上気持ちが落ち込んだ日々も続いて、その機会はあってもなかなか踏ん切りがつかなかった。
 頭の中に、だらしなく寝そべった腹黒いぐうたらなビンボー神の姿と、その周りを力なく飛び回っている、夢と希望の白い小さな天使の姿が見える・・・私は花びらを一枚一枚取っていく・・・おまえは行く、おまえは行かない・・・そうして、日々は過ぎていく・・・。

 そして3月。もうだめだ、春になってしまう。
 しかし一方では、このままぬるま湯につかって、毎日を何事もなく心穏やかに過ごしていければいいと思うようにもなっていて、少しの後ろめたさも感じつつ、相変わらずグダグダと日を送っていた・・・。
 ところが、週間予報で、松江に晴れのマークが三日続いて出ていた。それも当日の朝になって、翌日は快晴マークになっていた。
 はやりの言葉でいえば、もう、行くしかないでしょう。
 私は突然、何かにつかれたれたようにバタバタと支度をして家を出た。
 バス停までの長い道を歩き、新幹線に乗り換えて岡山まで行き、そこで米子(よなご)方面行きの伯備(はくび)線の特急に乗り換えた。

 新幹線には、去年の富士山登山からの帰りの時に乗って、久しぶりだったからでもあるが、そのすさまじいスピードには不安を覚えるほどだったし、そのうえトンネルが多く、車窓からの眺めを楽しむ余裕もないし、ただ早く着くために乗るようなものだ。
 それならば、飛行機のほうが窓からの景色を十分楽しむことができるし、当然のことながら時間的にもさらに早いのだが。

 ともかく、新幹線から在来線に乗り換えてやっとホッとした気分になる。そして何より車窓からの眺めを楽しむことができる。
 まして、この(伯耆の国鳥取と、備中の国岡山とを結ぶ)伯備線は初めて乗る路線だったから、余計に期待は高まる。そのうえ空は青空で、駅弁を食べながら移りゆく車窓の景色を眺めての電車の旅はいいものだと、あらためて思った。
 総社(そうじゃ)を過ぎて、電車は高梁(たかはし)川の流れに沿って、うねうねと曲がりながら山間部を走って行く。

 さらに先に行くにつれて気がついたのは、溪谷というほどではないにしろ、山の斜面が急こう配であり、その斜面が九州ではスギ、ヒノキの植林になっているのに比べて、マツがまばらにあるものの全体的にはカシやシイなどの落葉広葉樹の林が多いことだ。
 そのことは何を意味するのか。スギ、ヒノキによる造材林業ではなく、天然木切り出しによる林業、あるいは炭焼き用の林として利用されてきたからなのか、さらには花崗岩(かこうがん)の地質がスギ、ヒノキの植林には余り適しなかったからなのか。
 その昔、九州―東京を往復する寝台特急の車窓から、この中国地方の低い山々のその所々に白い花崗岩が露頭しているのを見て、九州山地との地質の違いを感じたものだった。
 実際、この伯備線で目立つのは、次々に出てくる花崗岩採掘の現場であり鉱業所である。

 さらに、集落の家々の姿は、昔ながらの小天守閣ふうな純和風建築から、新しい西洋風住宅まであり、その西洋風住宅の屋根は一様に平板なスレート屋根になっていて地域的な差は感じないのだが、興味深いのは、日本家屋の屋根瓦だ。
 あの日本海側に多い、雪の重みに強いという赤褐色の石州瓦(せきしゅうがわら、島根県西部の石見(いわみ)の国の製品)と瀬戸内側に多い黒や銀色の淡路瓦、備前瓦の家が入り混じっているのだ。

 確かに、車内放送もされていた県境の分水嶺(ぶんすいれい)付近からは、日陰のあちこちに雪が残っていて、晴れて暖かい瀬戸内海側から、冬型の天気になる日本海側に入ってきたことが実感される。
 そして、進行方向、右側の窓に顔を押しつけて、待望の山が見えてくるのを今か今かと待っていた。

 それまで南に流れていた高梁(たかはし)川とは逆に、日野川の流れは北の日本海側へと向かっている。その谷間を走って行く電車からは、右手に少しだけ雪の残る1000mほどの高さの山々が見えてはいたが、ひときわ高いあの大山の姿はなかなか見えてこなかった。
 そして、行く手の山の端に白い線が見えたような、と次の瞬間、青空を背景に鮮やかな白い雪に覆われた大山の南壁の姿がせりあがってきた。私は、思わず小さく声をあげてしまった。

 しかしそれは一瞬の間で、カメラを構えるひまもなかった。後はまた谷あいの中を走ってゆくだけで、次に大山が見えたのは、米子に着く前の平野部に出た時であり、しかしそれは、あの荒々しい南壁の姿とは違う、優美な伯耆富士としての姿だった。
 九州の同じ1700mクラスの九重の山々では、もう雪は日陰でしか見られないのに、この大山は、何と豊かな雪に覆われていることだろう。まして、その大きく美しい山体の見事さは・・・。
 私は少なからず興奮しては、窓ガラスにカメラをつけて、シャッターを押し続けた。(写真上)

 さらに、米子から今度は山陰線に乗り換えて大山寺口に向かう電車の窓からも、ひとり高く大山が見え、少しずつ荒々しい北壁がのぞいてきて、しかし相変わらずにその半分は優美な大山の姿のままだった。
 私は、憧れの大山の姿を快晴の空の下に見ることができて、それだけでもう十分幸せな気持ちになっていた。

 そんな自分の姿は、若い女の子たちが、あこがれのアイドルやスターたちの姿を見て興奮し、幸せの絶頂で泣き叫ぶ思いと大して変わらないのだ。
 高く美しい山々に対する、私のミーハー的な思いは、ジジイになっていくこれからも変わることはないだろう。
 とすると、もしヒマラヤのエベレスト(チョモランマ)なんぞを、ゴーキョ・ピークまで登って眼前に見た日にゃー、血圧は最大値に上がり、おしっこもちびってしまい、高山病が悪化してその場に倒れてしまうのではないのか・・・まだ死にたくない。だから私は、ヒマラヤ・トレッキング・ツアーには行きたくないのだと、ひとりうそぶいてみた。

 それはともかく、この大山の姿をじっくりと見るためには、クルマで行った方がいいことは言うまでもない。
 今回なぜに、私がクルマで来なかったのかというと、一つは明らかに年のせいであり、とても8時間近くもの間、ひとりで高速を走って行く自信がないのだ。(最近の私の車の運転は、往復3時間ぐらいまでが疲れずにすむ限度なのだ。)
 若いころは、知床の流氷を見に行くために、一日で十勝から往復して5百数十キロの道を走ったこともあったのに・・・。
 だから年寄りなりに考えて、倍以上のお金がかかっても、楽な電車の旅を選んだというわけだ。

 旅はいいよなあー。電車に乗って、窓からきれいな山の姿を眺め、時々車内のきれいなねえちゃんもチラ見して、旅はいいよなあー。
 あー、だから変なおじさん、と言われないように、内心ニタニタしながらも、顔は生来の強面(こわもて)の鬼瓦顔のまま、素知らぬ顔をして、それにしても”雀百まで踊りを忘れず”とは悪い意味でも使えるのだろうか、あー情けない、まだまだ修行が足りないのだ。
 ということで、そんなわが身を律すべく山に登らねばと、山陰地方の名刹(めいさつ)大山寺山門前にたどり着いたのだ。

 石畳の道の両側に並ぶ、小さな食堂を兼ねた旅館民宿の家々の前には、まだうず高く雪が積もっていた。
 今は時期外れで休館しているところも多くて、訪ね歩いた三軒目でようやく泊めてもらえることになり、これで一安心だ。

 まだ午後の遅い時間で、夕暮れまでには十分に時間があった。 
 外に出ると、午後の逆光線の中、家並の上に圧するように大山北壁の山稜が連なっていた。
 つま先上がりの参道をたどると、神社の鳥居がありその先は雪の残る石の階段になっていて、所々凍りついていた。
 周りに杉の大木が立ち並び、その道の上からゆっくりと降りてくるご婦人が一人、こんな季節に参拝する人もいるのだ。
 あいさつをかわしながら、さらに雪で滑りやすい階段を上がって行く。
 山門をくぐり、さらに続く石段を上がると、周りを雪に囲まれて鐘つき堂があり、そして大山寺本堂があった。

 大山寺は、早くも奈良時代には修験場として開かれ、平安時代には天台宗の開祖、最澄(さいちょう)に次ぐ慈覚大師によって天台宗の寺として建立され、室町時代には、僧房の数160軒、3千人の僧兵を擁するまでに至ったといわれている。
 北陸の名刹と言えば、大みそかの除夜の鐘で有名な、越前は福井県の禅寺、永平寺を思い浮かべるが、曹洞宗の開祖、道元によってその地に寺が建立されたのは、ずっと遅く鎌倉時代に入ってからのことである。

 本堂で手を合わせた後、左に雪道の踏み跡をたどると、雪で見え隠れするもう一つ先の石畳の道に出る。
 それは、明治時代の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の後に、新たに大己貴命(おおなむちのみこと)がまつられるようになった神殿がある、大神山(おおかみやま)神社奥宮へと向かう参道である。
 この地方ではひときわ高く秀でた山であったこの大山は、山自体がご神体であり、また修験道(しゅげんどう)の場、修行の場でもあって、まさに神仏混淆(しんぶつこんこう)の日本の宗教の典型を見る思いがするのだ。

 その奥宮に向かう前に右手に分かれる雪の道があり、たどって行くと、大山北壁を見渡せる元谷(もとだに)の名所、金門に出る。
 そこは、下流に向かい佐蛇(さだ)川の流れになる前に、元谷の扇状地形が一気に狭まった関門になっているのだ。
 夕暮れ近い陽を浴びて、青空を背景に北壁の山稜が連なっていた。

 戻って、さらに所々雪に埋まった石の階段を上がって、山門からさらに上にある奥宮に着いた。
 先ほどからもう誰にも会っていない。その夕暮れ迫る静寂の中、1m以上もの雪に囲まれて、こんな山奥にと思うほどに立派な本殿が建っていた。
 信仰のよすがとなるものとしての存在。俗世間から遠く離れた所に、ひとりあらねばならぬことへの強い意味がひしひしと伝わってくる。
 そこから、大山の山を駆け巡る修験道をひたすらにたどって行った修験者(しゅげんじゃ)たち・・・その一途な無に近い思い、生きるための思いこそが、古代神道の時代より続く真実の教えなのだろうか。
 私は、いつも楽をして登ろうとする、今の自分の山登りの在り方を考えないわけにはいかなかった。

 「 山は日本の宗教のあらゆる要素を含む文化の母体である・・・。
 単に神仏習合(しんぶつしゅうごう)の世界と言っても、そのありようは複雑であるが、その中でも、山岳宗教の世界観は、常にある一つの方向を指し示している・・・。
 それは自然と一体になりすべての息づきにわが身の鼓動を聴くときに人が目指す、共に生きる(共生)という思いに他ならない・・・。」

 (『山岳霊場巡礼』久保田展弘著 新潮選書より) 

 私は、その本殿で柏手(かしわで)を打った後、薄暗くなった杉林の中、凍って滑りやすい石段の道を降りて行った。
 街並みの外れにある佐蛇川の高い堰堤(えんてい)の傍から、夕映えの大山の山肌が見えていた。明日の好天を約束してくれるかのように・・・。(写真下)


 とここまで書いてきて、ちょうどあの東日本大震災の2周年(三回忌)前にあたることを思い、しばらく時間をおいて考えてみることにした。
 今は、ささいな自分の出来事ことよりは、あの震災の被災者たちのことを少しでも思いやるべき時だと。

 昨日、3月11日は、NHKはじめ民放各社でも、一日中特集番組を組み、その時に合わせての黙とうの時間も取られていた。
 それらの番組のすべてに目を通したわけではないから、それぞれの十分な評価はできないけれども、ただ、数日前から1時間番組として放送されていた、NHKスペシャルの”あの日から2年”のシリーズは、それぞれのテーマがはっきりとしていて、確かなドキュメンタリー番組になっていた。

 そのシリーズの前の番組、「震災ビッグデータ」では、ケータイGPSやカーナビの記録から、震災当日の人々の行動足跡をたどっていたが、地震の後、山の方へ逃げる人とは反対に、海側に向かう人が多かったという衝撃的な事実。
 つまり、家族知人を助けるために、クルマで海側の市街地に向かったのだ。そのピックアップ行動によって素早く山側に逃げ出せた人は良かったのだが、多くの人は、間に合わずに、あるいは超渋滞(じゅうたい)現象のために身動きできないままに犠牲になってしまったのだ。
 なかでも、内陸にある工場から、自宅に残された祖母と体の不自由な叔母を救うべく、海の近くにあるその家に向かった若者の乗ったクルマの移動記録・・・もう戻ってこない息子の、そのクルマの軌跡を見つめる父親。
 そして、ケータイのツィッターによって救われた者と、しかし余りにも膨大な量の中で、埋没してしまった多くの救いを求める言葉。

 「何が命をつないだか~知られざる救出劇」では、消防車や道具もないまま自分たちの力だけで、助けを求めていた人たちの救出にあたった地元のレスキュー隊や消防団員たち。
 さらに、遠く離れた静岡の港から、自分たちの遠洋出漁を取りやめて三陸に向かい、孤立集落へと食糧燃料を運んだ海の男たち。

 「わが子へ~大川小学校、遺族たちの2年」。全校生徒108人中70人の子供たちの命が失われたという、この震災最大の悲劇。
 妻と幼い子供たち3人を一度に失った若い父親の、ぼう然としてつぶやく姿、「自分だけ、何で生きてんでしょうかね」・・・妻は地震の後、幼い子供2人を車に乗せて、小学2年生の長男を迎えに海側にある小学校へと向かったのだ。
 その小学校の子供たちとともに亡くなった一人の若い教師。その年老いた母親は、息子を失った哀しみを抑えつつ、他の家族たちからのなぜ子供たちを助けられなかったか、という非難の思いを感じつつ生きていくしかないと話していた。
 3人の子供たちのうちの、末っ子の小学生の娘をなくした中学教師の父親の苦悩。教師としての責任の限界が分かるだけに、しかし被災家族としての子どもを失った悲しみと悔しさの中で・・・。

 「福島のいまを知っていますか」。いまだに、放射能汚染に苦しむ人々。その中で、老いた両親とともに仕事のために地元に残った夫と離れて、3人の子供たちと避難先の新潟で離れて暮らす妻の苦しみ。まだ小学生の下の娘が母親に言うのだ・・・『私、ちゃんとした子どもを産みたい』。

 さらにテレビ朝日系列で放送されていた番組から、津波で両親を失い、仮設住宅で年老いた祖母と暮らす小学生の兄弟の話。亡くなった父が祭の山車(だし)の上で叩いていた太鼓を、自分も同じように山車に乗って叩くのだ・・・ただ一心不乱に。

 一方、9人もの死者を出した2週間ほど前の北海道での地吹雪による事故の数々。雪に埋まり動けなくなった車の中で亡くなった、母親と3人の子供たち。残された父親ひとり。
 さらに別な所では、小さな軽トラが雪で動けなくなり、その猛吹雪の中、近くの知り合いの家に行こうとして、あと一歩の所でたどり着けずに、倉庫の陰で幼いわが子を抱きかかえて自分だけが凍死してしまった父親。妻はすでに病気で亡くなっていて、残されたのは、助かったその小学生の娘ひとりだけ。


 思えば、私がひとり身を嘆きながらも、こうしてありがたく生きていることの、何というぜいたく・・・。
 そんなわがままな私の、大山への山旅の続きは、次回に。