ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ユスラウメの咲くころ

2015-12-28 21:45:32 | Weblog



 12月28日

 今までここで何度も書いてきたように、この九州の家は、古い家ですきま風も多いから、薪(まき)ストーヴのある北海道の家よりも寒く感じるくらいなのだが、それでも、最近は気温が高くて(一日だけ雪の降った日があっただけで、前回の項参照)、寒い日には一日中つけている石油ストーヴも消している時が多いほどで、この冬が暖冬だというのもうなづけるのだ。
 もっとも今日は少し寒くなり、北海道や東北では、寒波襲来の吹雪に見舞われていて、暖冬どころの話ではないのだろうが、一方の沖縄では、最近は25度を超える夏日になっているとかで、ことほどさように、南北に長い日本列島では、一言だけで冬の寒さを表すことのできる言葉はないのかもしれない。

 そんな、やや暖かい感じがするこの九州の、わが家の庭で、何と数日前にユスラウメの花が開いたのだ。そして満開の今、春先に咲く時と同じように、二、三十輪もの花をつけている。(写真上)
 調べてみると、このユスラウメは中国原産とのことで、古来、サクラとはこの花のことを指していたともいわれていて、他のサクラ科の木と同じように、初夏のころには小さなサクランボの実をつける。
 この木は母が植えたものだが、今では周りの木が大きくなって、日当たりも悪くなってしまった。
 ただでさえ、栄養分の少ない山土のやや湿った場所にあって、ユスラウメにとってはあまり良くない環境なのに、もう何十年もそんな中でがまんして、あまり大きくもならずにここで生き続けていて、毎年こうして、細々ながらも花を咲かせて、春の到来を教えてくれていたのだ。
 山の中にあるわが家の庭では、そうして3月初めに咲く花なのに、師走の12月終わりに咲くなんて、来年の春は、どうするのだろうか。
 そうならば、もう一つのブンゴウメの木はどうなるのだろうか。何らかの異変があれば、毎年収穫している大量の実から作る、自家製のウメジャム(7月13日の項参照)が作れなくなってしまう。
 
 しかし世間にとっては、このくらいの異変では、たいした驚きではないないのだろう。そんなことより、今世界規模で起きている、地球温暖化による影響や、数々の天変地異(てんぺんちい)による、自然のもたらす災害のほうがより逼迫した問題であり、それなのに、今私たち人間はただうろたえているばかりなのだが。
 日ごろから、自然の多大な恵みを享受して生きている私たちにとって、またこうした災害も、あらかじめ自然が与える過酷な裏の一面として、いつも心しておかなければならないことなのに。
 前回ここでも、すべての物事は、”五分五分”というところに起因すると書いたように。

 考えてみれば、人それぞれの思いは、その人の数ほどさまざまにあって、誰もその人と全く同じ経験をしているわけではないから、その人のすべてを理解できるわけでもないし、逆に同じように似た経験をしているからこそ、そんな人たちのことに思いが及ぶし、少しは理解することもできるのだろうが。
 先日、日曜日なのに、 いつもの朝ドラを見る習慣で8時になってもテレビをつけていて、ふと見たのが『小さな旅』の特集番組だったのだが、それはNHKが得意な、悪く言えば”じじばば”向けの、”ほっこり”した雰囲気づくりのお涙ちょうだい番組とも言えるのだが、しかし、まともに見れば日本人の心の”琴線(きんせん)”に触れるような心温まる番組であり、特にこのシリーズの”山の歌”はよく見ていることもあって、同じ”じじばば”仲間の一人として、とうとうその1時間もの番組の最後まで見てしまった。
 それは視聴者からの、昔の思い出の旅をつづった手紙をもとに構成された、数本のエピソードからなるもので、それぞれの筆者たちの当時の写真や近影の姿までもが映し出されていた。

 恋に破れた娘が、北に向かうつもりの列車を間違えて新潟に着いて、宿もなく教えられるままにそこから佐渡へと向かうフェリーに乗って、そこで見た佐渡の海の光景に慰められたこと。
  戦争時代の北海道での勤労奉仕の日々の中で、珍しく休みが与えられて、当時の先生に引率されて摩周湖の山に登り、そこでこの世のものとは思えぬ深い湖の色を見たこと。
 友達と行く予定の京都旅行が、ひとりだけになり、そこで当時の文通相手だった京都在住の若者に連絡を取り、彼に案内してもらった京都旅行の日々、二人はその後結婚して、”友禅(ゆうぜん)染め”作家の彼のそばで、やさしく微笑んで見守る今の彼女の姿があった。
 筋萎縮(きんいしゅく)性硬化症で体が動かせなくなった夫の介護をする妻は、彼がようやく動かせる眉の動きを文字に変えることのできるパソコン画面で知った、夫のもう一度富士山五合目に行きたいという思いをかなえてあげるべく、周りの多くの人と準備して、車椅子の彼をクルマに乗せて、夕暮れ近い富士山五合目の駐車場に向かい、そしてそこからの光景を彼はじっと見続けて、「生きていてよかった」と言ったとのこと。
 終戦直後、夫を亡くした母は子供二人を育てるために、近くの農家からコメ野菜を買い入れて東京で売るという、いわゆる”闇屋(ヤミヤ)”をして生計を立てていたのだが、幼い彼はその母親と離れたくなくて、東京までついて行っていた。ある時、東京に向かう列車がデッキにまで人がいっぱいで乗れずに、家に戻る列車もなく、仕方なく20キロの道を、母に手を引かれて歩いて戻ることになってしまい、まだ4歳の彼は疲れ果てて、母におぶってもらいたかったのだが、重い荷物を背負っている母にそのことは言えずに、黙って歩いていた。しかし、途中の橋の所から見たホタルの乱れ飛ぶ光景が、今でも忘れられないと書いていた。
 (前にもここで、自分の子供のころの忘れられない思い出を書いたことがあるが、同じように、幼い私が働きに出る母を見送って、一緒に歩いた橋のたもとの光景を思い出すのだ・・・その時に母が言った言葉は、「一緒に死のうか」・・・。幼い私は何もわからずに、ただ「いやだいやだ」と泣いて後ずさりしたのだった。・・・その話を知っている唯一の人、母はもうこの世にはいない。)
 学童疎開で、長野県の木崎湖畔の宿に逗留(とうりゅう)して、子供たち集団の毎日が始まり、そんな中でふさぎ込んでいる子供たちを見て心配した先生は、子供たちを連れて裏山に登り、そこで思い切り叫んでもいいからと言ってあげたのに、子供たちはみんな「お母さーん」と叫んで余計に寂しくなって、みんなで泣いてしまったこと。しかし、今にして思うのは、あの時、本当につらかったのは子供を手放した母だったということが、自分も子供を持って初めてわかったと語る老婦人。

 今の時代に生きる私たち誰もが、彼女たち彼たちと全く同じ体験をしたわけではないから、同じ感情にはなれないのかもしれないけれど、幾らかでも似たような体験をしていれば、もしこれからそうした事に遭遇した時には、相手の気持ちをわかってやれるだろうし、さらに少しでも”やさしくしてあげたい”と思うのではないのだろうか。

(話は変わるが、今年のAKBの総選挙1位2位コンビ、”さっしー”指原莉乃と”ゆきりん”柏木由紀による歌、「やさしくありたい」は、いい曲なのに余り話題にされることもなかったが、後述の「365日の紙飛行機」と併せて、CDのAB面として売られるべき曲だったのにとも思ってしまう。)

 こうして今記事を書いていて、一休みするべくお茶を飲んでテレビをつけたら、あのNHKの『あの日わたしは。証言記録・東日本大震災』という、今までも時々番組の間に5分番組として放送されている、ミニ・ドキュメンタリーの一つを映し出していて、そのまま見たのだが、今回はあの原発被害によって、全町民避難の対象となった福島県双葉町の話で、その中学校で英語の先生をしていたイギリス人の彼は、自分の生徒たちや知り合いになった日本人たちを見捨てるわけにはいかず、そのまま避難先で滞在していたのだが、イギリスでは、毎日日本の原発事故のニュースを流していて、母親がそれを見ては心配し泣き暮らしていると聞いて、彼はその母親の願いを聞いて、いったんイギリスに戻って母親を安心させたものの、日本の教え子や人々のことが忘れられずに、根気よく母親を説得して、今は日本に戻り、避難先のいわき市にある双葉町の仮中学校で、毎日明るく子供たちを教えている姿が映し出されていた。
 
 一方で一昨日のニュースから、ある有名お笑いコンビの一人が、今までに何度も土日で休みの都内の高校校舎に忍び込み、女子高生の制服などを盗み出していて、逮捕されたとのこと。
 まさに、人様々であり、その人生も様々だということなのでしょうか。

 そして、先日のクリスマスの日には・・・私は日本人の仏教徒の一人であるから、表立ってキリストの生まれた日のお祝いなどはしないけれども・・・あの18世紀ドイツのキリスト教新教徒信者であり、その教会に属する音楽家でもあった、ヨハン・セバスチャン・バッハ(1685~1750)が、クリスマスの祝祭のために書いた、「クリスマス・オラトリオ」だけは聴くことにしているのだ。
 つまり、今まで私が様々な分野で学び親しんできた、キリスト教に心からの敬意を表して、ほぼ毎年の習慣として、ひと時の間、当時の信者たちの思いを、音楽家バッハの思いをたどるように聴いていたいのだ。

 もっとも、ここに含まれる6曲は、 クリスマスの祝日の三日間と、新年の三日間の祝祭日に、一曲ずつの”カンタータ”が演奏されていたものが、まとめられて一つの「クリスマス・オラトリオ」と名づけられたものとのことであり、本来は、教会でその一つ一つを聴いてゆくべきものなのだろう。
 ただし、今に生きる私たちは、6日間に渡ってなどと悠長な気分にはなれずに、気ぜわしく、この祝祭気分にあふれた6曲を、いつも通して聴きたくなってしまうのだ。それほどに、それぞれの曲が次につながり、全体を形作っているように思えるのだが、なんというバッハの天才だろう。
 この「クリスマス・オラトリオ」のCDは、古い順からいえば、旧東ドイツのクルト・トーマス指揮によるもの、そしてカウンター・テナーの名歌手でもあるルネ・ヤーコブス指揮によるもの、さらには日本の鈴木雅明指揮のものを持っていて、それぞれにいいところがあり、毎年その時の気分で、どのCDにするかを決めて聴くことにしている。
 
 ところで、私は、死んでいく時には、ヘブラーの弾く、ピアノ演奏での「フランス組曲」か、ジャンドロンの弾く「無伴奏チェロ・ソナタ」か、あるいはピエローのヴァイオリンと通奏低音のオルガンによる「ヴァイオリン・ソナタ集」(写真下)の演奏を聴きながら、と思っているのだが、こうしてバッハの声楽曲を聴くと、このそれぞれに有名なカンタータのうちの一曲でもいいなとさえ思ってしまうのだ。
 今どれほどAKBの歌にうつつを抜かしていてもやはり、私が帰るべきところはバッハをおいて他にはないのかもしれない。




 と言いながら、その舌の根の乾かないうちに、やはりAKBのことに触れないわけにはいかないのだ。
 年末になって、特別な歌番組が幾つか放送されて、AKBグループもあちこちで必ず顔を出していて、録画編集するのに大忙しだった。
 今年のAKBのベストは、選挙投票券が付くので最大の売り上げとなった「僕たちは戦わない」よりは、”たかみな” 卒業ソングの「唇にBe My Baby」のB面扱いとなってはいるが、今までもここに何度も書いてきたように、何といっても、広く人口に膾炙(かいしゃ)した朝ドラ『あさが来た』の主題歌になった、あの「365日の紙飛行機」であることに異論はないだろうし、また幾つもの歌番組で彼女たちが歌う姿を見ても、改めて良い曲だと思うのだが。
 
 そして、乃木坂46の紅白初出場は、最近の乃木坂のヒット曲の連続を見ていれば誰もが当然だと思うだろうし、(それによってSKEやHKTが落選したのは残念だったけれども )、その乃木坂の名曲ぞろいの中からどの曲が歌われるのか、一番新しい「今、話したい誰かがいる」も良い曲だし、それでもいいと思っていたのだが、何と選ばれたのは、3年近く前の、あの私の好きな名曲「君の名は希望」だったのだ。
 AKBグループの歌すべての中で、二つだけあげろと言われれば、私は迷うことなく、AKBの「UZA(ウザ)」と、この乃木坂の「君の名は希望」を選ぶことだろうし、それほどの曲だから、紅白なんぞで多くの人々の目に耳にさらされるのは、うれしい反面こんなところでは余りにももったいないような、娘を嫁にやるような気分にさえなるのだ。

 私は、クルマで1時間ほどの街まで買い物に出かける時は、いつも乃木坂とAKBの歌を入れたCDをクルマの中で聞きながら行くのだが、最近ではその一枚のCDの三分の一は、乃木坂の曲になっている。
 今まで何回となく書いてきたように、私が2年前にAKBを好きになったのは、AKBの可愛い娘たちのこともあるが、ひとえに秋元康の歌詞にあって、その青春時代のただ中にいる若者たちの、屈折した純粋な気持ちがつづられた詩を、彼は、乃木坂だけには変わらず提供し続けているように思えるのだ。まるで、自分の若き日の思い出のよりどころを失いたくないかのように。

 だからと言って、他のAKBグループへの歌詞がいい加減だとは言わないが、NMBの「Must Be Now」は、「UZA」以来久しぶりに、歌ダンスともにそろった良い曲だと思うけれども、一方で本家AKBの「ハロウィン・ナイト」と次の「Be My Baby」 ともに、あまりにも表面的、類例的な歌詞に見えて仕方がないのだ。
 そっともそれは、”さっしー”センターのダンス曲だから、そして”たかみな”センターのアイドル曲だからと言えなくもないのだろうが、厳しく見れば、この2曲とも、曲調が歌詞を上回っているとさえ思うくらいだ。
 最近、秋元康は引退を口にしているとのことだが、もしそうなればAKBの根幹部分が崩壊することにもなりかねないし、ただあまりにも広げすぎたAKBグループ全体を再度見直して、少数精鋭の大改革をして、それまでのように、彼は歌詞とプロデュースだけに力を注いでほしいとも思うのだが・・・それにしてもAKBは10周年にもなるし・・・これほどの数を抱えるアイドル・グループを、よくも変わらずに10年間も率い続けてきたものだと感心するし、やはり彼は名作詞家であったとともに、日本芸能史に名を残す一大プロモーターであったことは、後世にまで語り継がれるだろう。

 そして私は、まだまだAKBのファンであり続けるのだろう。 

 

  


白い羊の群れ

2015-12-21 20:39:45 | Weblog




 12月21日

 数日前に、全国的に強い寒波が襲い、各地で初雪が降ったとのニュースが流れていた。
 九州北部の山中にあるわが家のあたりでも、夜から昼ころまで小雪が降り続き、3cmほどの積雪になった。
 そして、翌日は予報どおりに、低気圧一過後の青空が広がっていた。
 前回の登山(11月9日の項参照)からもう一か月以上もたっていて、ぜひとも山に登りたいところだった。

 雪山に行くには、この辺りでは何といっても九重山なのだが、ここ最近は”登山ブーム”再来もあって、牧ノ戸峠の駐車場がすぐいっぱいになるし、人が多いのも気になるし、さらには雪の後の冷え込みで、たっぷりと道路に撒(ま)かれる凍結防止剤の”塩カル(塩化カルシュウム)”によって、クルマの裏側のサビがさらにひどくなるのもイヤだし、といろいろ理由をつけてはみたが、つまりのところ、”出不精(でぶしょう)”なじじいの理屈に過ぎないだけなのだが。
 (13年目になる私のクルマは、そうして冬の山にばかり行っていたものだから、底面はひどい赤サビだらけで、今年も防錆塗装をしてもらったのだが、去年春の車検ではそのサビのため、サスペンション丸ごと交換の高い出費になってしまったのだ。昔は”漁師町の中古車は注意しろ”(潮風でクルマがサビているから)と言われていたのだが、今では逆で”雪国の中古車は注意しろ”ということになるのかもしれない。)

 そこで、余り人に会うこともないし、家から歩いて登れるいつもの裏山に行くことにした。
 低い山ではあるが、家からの標高差は数百mほどあり、2時間半ほどはかかるから、これも立派な登山対象の山になるし、さらには近くて手軽な山だからと一年を通じて登っていて、おそらくは今までに数十回以上にもなるだろうし、あの九重山や大雪山以上に最も私が親しんでいる山でもあるのだ。 

 そんなうちの裏山だから、急いで家を出ることもない。ゆっくり朝食をとった後、いつもの朝ドラ『あさが来た』は昼の回で見ることにして、8時前に家を出た。
 7時すぎの日の出からまだ時間がたっていなくて、-5度の寒さの中を歩いて行く。
 しかし、あの北海道を離れる日の朝の、マイナス10度という鼻の中が凍りつきそうな寒さと比べれば、何ということはない。(12月7日の項参照)
 この寒い家にいるときの格好のまま、出てきたのだが、それは長袖上下の下着に、インナーのフリース を着て、その上に薄いフリース裏生地のジャージー上下で、他には毛糸帽子に厚手の毛糸手袋だけだが、ゆるやかに登って行く道だから、かえって温まるくらいだ。

 車道が終わって、林の中を行く登山道になる。(写真上)
 ただ、何と驚いたことに、その雪道に数人分もの足跡がついていたのだ。そんなにぎやかなグループに、上で会うことになるのだろうか。
 朝日を見るために、朝一番の暗いうちから登ったのだろうが、しかしよく見ると、下ってきた足跡のほうがはっきりとついている。つまり、もう下りてきて帰ってしまった後なのだろうかとも思ったが、その通りにずっと登った上の尾根ほうでは、足跡がアラレ状の雪に埋もれていた。
 つまり、彼らは、家の周りでは昼ころまで降っていたあの昨日の雪の中、山に登っては下りてきたのだろう。
 ということは、ありがたいことに、これで、今日もまた一人だけの静かな山になるということだ。
 
 昔はこの山にも、他にも二本ほど地元民がつけた作業道兼用の登山道があったのだが、年々その利用価値が薄れて、手入れもされなくなり廃道化が進んでいて、今ではこの林を通って西尾根から頂上に至る道が残されているだけなのだ。
 それだから、この道に他の新しい足跡がついていないということは、もうこの山には誰もいないということになるのだ。
 これで、いつもの静かな自然の中での、山登りができるということだ。
 葉が落ちた、コナラやヒメシャラなどの明るい林の中をゆるやかに登り、その先の暗い杉林を抜けて再び明るい林の中を行くと、一面に明るい薄黄金色のカヤに覆われた尾根に出て、道はゆるやかなジグザグの登りになる。 
 頭上には青空が広がり、輝く霧氷に縁どられた木々が一つ二つと現れてきた。(写真下)



 
 北海道とは違う、明るい冬色の光景であり、山に来たことがうれしくなるひと時でもある。
 山道の雪は5cmどまりで、夏場の小砂利の山道などと比べれば,むしろ歩きやすいくらいだ。
 尾根のゆるやかな登りは、ところどころに霧氷のミヤマキリシマの株を配置して、地上と青空との境を指し示しているかのようだった。(写真下)




 そして、私の頭の中に聞こえてきた歌は・・・。

 「飛翔(はばた)いたら、戻らないといって。
 目指したのは、蒼(あお)い、蒼い、あの空。・・・」 (”いきものがかり”水野良樹 作詞作曲)
 
 あの二か月ほど前のテレビで見た、『のどじまん・THE・ワールド』でのインドネシアから来たファティマが歌った、心に残る一曲だ。(10月5日の項参照)
 私は、ひとり口ずさみながら登って行った。
 
 そこから続く 、霧氷に飾られた尾根道歩きも楽しかった。
 何度も立ち止まりながら、目の前にある私だけが見ている霧氷の写真を撮っていく。
 時とともに次第に薄れゆき、不確かな形だけが残る頭の中だけの記憶と比べて、時にはそれ以上に鮮烈に美しく、ある時は残酷な時の流れを見せつけるかのような写真の力・・・。

 最近、私は、高校卒業以来、数十年ぶりに、同級生の彼女から手紙をもらった。
 思いがけない喜びと混乱と不安との感情がまじりあう中で、私はすぐに、その昔、彼女を含めた数名で、友達のクルマに乗って行った、小さなドライブ旅行のことを思い出した。
 そして、その時のフィルムを探し出し、スキャナーでスキャン編集しては、写真用紙にプリントしてみた。
 白いスーツ姿の彼女は、こちらを見て小さく微笑んでいた。彼女は、若くてきれいだった。
 私は、あふれ来るなつかしさで、まぶたを熱くした。

 それは、一枚の写真によって、昔の記憶があざやかによみがえってきた一瞬だった。
 しかし、それだけで、いい。十分なのだ。
 もう、すでに通り過ぎてきた人生の思い出は、そのまま自分の胸の内にあるだけのものであり、今さらその記録に手を加えてどうなるというのだ。
 何事にも、世阿弥(ぜあみ)の『花伝書』にある”秘すれば花なり”の言葉のように、意味合いは違うけれども、物言わぬまま、己の胸の内にとどめおいたほうがいいこともあるのだ。

 今まで自分が生きてきた中で出会った、様々な出来事の一つ一つは、すべてが良いことでもあり、悪いことでもあったのだ。
 ある時は、欣喜雀躍(きんきじゃくやく)して喜んだものが、実は後になって大きなマイナスとなるものを含んでいたり、またある時には、人生最大の悲劇だとハムレットのように嘆き悲しんでいたものが、実は後になって思えば、それが自分の成功へと導くべく、その後の努力の出発点だったのだと知るように、すべてがその時だけでは、簡単に判断できない様々な要素を含んでいるということではないのだろうか。
 だからと言って、すべての出来事にそれぞれに意味があるものだと、格言ふうに言うつもりはないが、ともかく”良くも悪くも五十歩百歩”の違いでしかないし、またそれをどう自分で受け取るかの違いによるものだと思うのだが。
 心すべきことは、その時の感情に流されずに、時間をおいて冷静に、すべては結果的に五分五分なのだと考えることなのだろう。

 霧氷に彩られた尾道を、たった一人で歩いて行くのは楽しかった。
 行く手の山体の斜面に、おそらくは水の流れる沢筋に沿って、灌木の茂みが上がってきたのだろうが、それらがすべて白い霧氷に覆われていた。(写真下)
 まるで、谷筋を登って、かなたの青空とのはざまを目指す白い羊たちのように・・・。
 前回に書いた、これもまた”冬の日の幻想”の一シーンなのだろうか・・・。




 青空の下、遠くに九重の山々や由布岳などが見えていた。
 2時間半以上かかって頂上に着いたが、四方の展望は途中までの眺めとさほど変わらない。ほんの10分足らずいただけで、下ることにした。それも廃道化が進む南尾根を下って。
 途中の霧氷は、もう昼に近く、大半が崩れ落ちていた。そして下も見えないような両側からのササかぶりの道は、予想以上にひどくて、着ていた上下のジャージーと登山靴は残り雪などでびしょ濡れになってしまった。
 ようやく登山口に出て、後はのんびりと車道の道を降りて、12時過ぎには家に帰り着いた。
 往復4時間余りの、年寄りの久しぶりの登山には、まさにちょうどいいコースだった。
 何より家のそばに、こうして有名でもない静かな山歩きができる、山があることに感謝するべきだろう。何歳(いくつ)まで登れるかどうかはわからないけれど。
 
 ところで思い出したのは、ロビン・ウィリアムス主演のアメリカ映画の佳作の一本で、『今を生きる』(1989年)という題名の作品があったことだが、それは熱血教師と若い生徒たちによるいかにもアメリカ理想主義的な話で、まさに感情あふれる思いに満ちた青春時代と呼ぶにふさわしいものだったのだが、今回の私の山登りは、その意味こそ違え、まさしくこれからの一回一回の登山がそうであるように、年寄りの”今を登る”登山だったのかもしれない。

 またしても、あの『養老訓』からの一節。

「老いての後は、一日をもって十日として、日々楽しむべし。

 ・・・世の中の人のありさま、わが心にかなわずとも、凡人なればさこそあらめ、と思いて ・・・なだめゆるして、とがむべからず、いかり、うらむべからず。

 又、わが身不幸にして福うすく、人われに対して横逆(おうぎゃく)なるも、うき世の習いかくこそあらめ、と思い、天命をやすんじて、うれうべからず、つねに楽しみて日を送るべし。

 人をうらみ、いかり、身をうれいなげきて、心をくるしめ、楽しまずして、はかなく年月を過ぎなん事、おしむべし。

 たとい、家貧しく、幸いなくして、うえて死ぬとも、死ぬる時までは、楽しみて過ごすべし。・・・」 

(『養生訓』 貝原益軒著 岩波文庫) 


冬の日の幻想

2015-12-14 21:22:45 | Weblog


 12月14日

 ”ここはどこ、私はだれ”。
 九州の家に戻ってきて、もう十日余りもたつのに、いまだに北海道の家にいたころの、一瞬の幻覚にとらわれることがある。
 特に最初の二三日は、朝起きた時に、そして昼間にうたた寝をして目覚めた時に、いつでもはっとして、今自分がどこにいるのかわからなくなる時があったのだ。
 ここは、いつもの北海道の家なのか、それとも違うどこかなのかと、いぶかしく思い、たじろぎ、回りの光景が目に入ってきて、ようやく自分が九州の家にいることに気づくのだ。

 それは、ほんのひと時に過ぎない幻覚の瞬間なのだが、私にはただそれだけのこととは思えないのだ。
 日常が習慣化され、脳の中で蓄積記憶されていたものが、一瞬、周りの環境の変化の中でも、同じように繰り返し、再現プログラムの日常へと導こうとする力。
 そのプログラムが現れたかと思うと、現実の光景を目の当たりにして、ゆるやかに消え去っていく・・・。

 それは私のように、こうして違った所に、長く居住することを繰り返していると起きる、私だけの小さな幻覚なのだけれども、それが実は、何かを暗示しているように思えてきたのだ。
 赤ちゃんが眠りから覚めた後、そのまま泣き出してしまうことがあるように、それは自分のそばにいつもの母親の温かい肌のぬくもりがなく、自分を見守っている優しいまなざしもない、と気づいた時の不安からくるものかもしれないが、そこになぜか年寄りになった今の自分との、小さな共通点を感じてしまうのだ。
 若い時には、まして働き盛りのころには、目まぐるしく行きかう様々な義務遂行処理に追われて、感じることも余りなかった、人間の始原的な存在への不安感が、一瞬の間だけれども、その姿を現すこと・・・。

 年を取るにつれて、幼児がえりをする、とはよく言われることだが、この幼児期と老年期のどこか似通った不安感は、もしかしたら生から死へのやさしき前ぶれとして、あらかじめ心得知っておくべきことの一つなのかもしれない。
 つまり、”ここはどこ、私はだれ”の状態になってこそ、今いる現世からのゆるやかな訣別(けつべつ)ができるのではないのか、これはそのための習熟期間の始まりなのかもしれないのだと・・・。 

 
 私は、死を恐れているわけではない。少しの口惜しみを含めて、開き直っていえば、十分に生きてきたと思えるからだ。
 今までの自分の人生は、この年になれば誰でもがそう思うように、様々な良し悪しの起伏を越えてきたわけであり、それだからこそ、自分がたどってきた人生の足跡だけが、振り返る価値のあるものであり、それは、他人の人生とくらべて羨望(せんぼう)のまなざしで見ない、ということにもなるのだが。
 つまり、私は、他人の人生などをうらやましいとは思わないし、そう思ったところで今さらどうなるものでもないからだ。
 自分は自分にできることをやるだけで精いっぱいだし、他人の体に群れるきれいな蝶を見ていたり、あるいは他人の頭の上のハエを追ってあげたりと、そんなヒマなんぞはないということだ。
 ましては、どこかの映画やドラマのように、時空を超えて自分が生まれ変わってと、ありもしないできもしないことに思いを馳(は)せるような夢想家でもない。

 年寄りになって大切なことは、限りある時間の中での今の時間であり、そこで いかに毎日をありがたく思って生きていけるかだけなのだ。
 今までたびたび取り上げてきた、あのドイツの哲学者、ハイデッガーが言っているように 、”死を意識して、初めて真の時間を理解し、今ある自分の存在を知るようになる”のだろう。
 つまり、それは”生”を強く意識するがために大切な、”死”の意識だということになるのだろうが。

 これも前にもあげたことがあるけれども、アンドレ・マルローの小説『王道』の最後で、死にゆくペルカンがクロードを前に、もうろうとした意識の中でつぶやく言葉・・・。

 「死など・・・死などないのだ。ただおれだけが・・・ただおれだけが死んでゆくのだ・・・。」 

 (『王道』 マルロー 小松清訳  筑摩書房版世界名作全集)

 ここまで、こうした重いテーマを書いてきたのは、昨日の新聞の書籍広告欄に載っていた、今までも、『臨死体験』などでたびたびあげてきた、ドキュメンタリー作家・評論家でもある立花隆氏の、新刊本『死はこわくない』の案内広告のキャッチコピーの一文を目にしたからだ。

 ”死ぬというのは夢の世界に入っていくのに近い体験だから、いい夢を見ようという気持ちで自然に人は死んでいくことができるんじゃないか”。 

 さらに加えて、最近の体験で、目覚めかけた時の夢うつつの中で見る幻覚は、それはまた昼間の通常の感覚の中でも、まるで”白日夢”のごとく起きる、幻想的な風景が見えるということにもつながっているのではないのか、と思ったからでもある。
 そこで、前々回の記事からの続きになるが(11月30日の項参照)、この時の大雪について記述した中で、わが家から歩いて行ける近くの雪の丘への、”ワンダリング”(さまよい歩き)をした時のことについて、改めて今ここで書いておくことにする。

 あの時の二回もの大雪で、併せて70cmもの積雪になった日の午前中に、私はさっそく出かけることにした。
 冬の間もここにいた時には、たびたび裏の丘へとさまよい歩く”ワンダリング”を楽しんだのだが、今回の大雪でそんな真冬の時期が早くも来たような気がして、それならばその”雪中散歩”に出かけようと思ったのだ。
 しかし、深い雪は意外にやっかいで、表面は朝の冷え込みで凍りついていて固そうに見えるが、その下はやわらかい雪で歩きにくく、とても長靴では無理だし、冬用スパッツをつけての登山靴でも歩きにくいだろうからと、冬用長靴にスノーシューをつけて、ストックを手にして歩いて行くことにした。
 まず、自分の家の林の中に入って行く。どこでも自由に歩いては行けるが、そのスノーシューをはいてでさえ、表面の氷が割れて、下の柔らかい雪に足を取られて、たびたび転んでしまうほどだった。
 
 やがて、林を抜け、広い畑に沿ってゆるやかに上がって行く。
 風もなく、青空の下に、一面の雪原が広がっている。
 振り返ると、十勝平野のかなたに、白い日高山脈の山々が続いていた。
 耕作地と牧草畑が続く丘へと登って行く。
 これこそが、私の好きな冬の風景なのだ。(写真上)

 さらにゆるやかにたどって行って、丘の高みのあたりに近づくと、そこから遠く雪原を区切って、陰影をつけた山々が立ち並んでいた。
 右から十勝幌尻岳(1864m)、カムイエクウチカウシ山(1979m)、1823峰、コイカクシュサツナイ岳(1721m)へと続くあたり・・・。(写真下) 

 

 さらにこの雪原が、真冬の吹きすさぶ風雪にさらされて、シュカブラや風紋による様々な陰影ができると、私の望む冬の光景の一枚の写真が出来上がる・・・幻想の風景。
 そこに立ち止まり、景色を眺めている私の耳に、懐かしい響きが聞こえてきた。
 フルートに導かれた主題のメロディーが流れ、すぐに弦楽セクションの響きがその主題の厚みを増してふくらんでいく・・・。
 ロシアの作曲家チャイコフスキーの、交響曲第1番ロ短調「冬の日の幻想」、冒頭分部の音の流れである。

 ロマン派というよりは、民族楽派と呼ばれるにふさわしいチャイコフスキーの、自国ロシアの冬の光景を見事に表現した、”交響詩”と呼ばれるにふさわしい曲である。
 レコードの時代、私は、国内盤よりは安い輸入盤の中でも、さらに安かった当時のソ連メロディア盤を、よく買っていたものだった。
 ”鉄のカーテン”の時代、自由な海外コンサートでさえままならなかったソ連の演奏家たちだが、その伝統に裏打ちされた演奏技術は素晴らしく、西欧系の並みの演奏家には及びもつかぬ見事な演奏を聞かせてくれたものである。ムラヴィンスキー、ロストロポーヴィチ、リヒテル、ギレリス等々・・・。

 そんなメロディア盤の中でも、私が多く買ったのは、タネーエフ弦楽四重奏団のシューベルト弦楽四重奏曲のシリーズであり、さらにはロジェストヴェンスキー指揮モスクワ放送交響楽団による、このチャイコフスキー交響曲シリーズである。
 最初に、この第1番の「冬の日の幻想」を買ってきて聴いたのだが、意外にも情景が生き生きと活写されているかのような、そのオーケストラの響きが素晴らしく、次々に最後まで買ってしまうことになったのだが、特に第2番「小ロシア」、第3番「ポーランド」などは私のカタログを埋める曲でもあったので、それだけでも十分に価値あるものだったのだ。(ちなみに、チャイコフスキーの交響曲は、有名な「悲愴」を含む後期の4番から6番までが有名であり、若き日の作品でもある1番から3番までは演奏される機会も少ないのだ。)

 そして、指揮のテクニシャンとも呼ばれたロジェストヴェンスキーの指揮による演奏は、確かにこうした標題音楽的なものでは定評があったのだが、一方ではブルックナーやマーラーなどの、長大な楽曲を深く掘り下げて、作曲家の心の深淵を描くといった演奏には、余り向いていなかったようにも思える。
 その意味でも、このレコードの「冬の日の幻想」における彼の指揮ぶりは、秀逸なものだったと言えるだろう。
 この曲については、後年CDで、定評あるカラヤンとベルリン・フィル演奏のものも聴いたのだが、やはり私には、あのロジェストヴェンスキーの明るくにぎやかで、なおかつ冷たい凛(りん)とした空気が伝わってくるような、音の響きこそがふさわしく思えるのだ。

 人は誰でも、一つの風景から聞こえてくる、自分だけの音の響きを思い浮かべるのだろうが、それはそのまま自分の歩いてきた人生の、”交響詩”としての一節になっているのかもしれない。

 さて、私はひとり、自分の思うままにゆるやかにうねる雪原の中を、スノーシューの足跡をつけて歩いて行った。 
 丘の高みから少し下ると、斜面になった雪原に切り取られて、十勝平野の雪の平原が広がり、その果てに、雪の峰々が立ち並んでいた。
 左から、ペテガリ岳(1736m)、ルベツネ山(1727m)、少しだけ1839峰が見え、ヤオロマップ岳(1794m)、コイカクシュサツナイ岳へと続く・・・。(写真下)



 こうして、私は1時間余りの、雪の丘への”ワンダリング”を楽しんできたのだ。
 「冬の日の幻想」の響きの、ひと時は終わり、家の中では、今の私の音楽である、AKBの歌声が聞こえていた。
 何という、脈絡もなく雑多なままの、私の音楽人生だろうか。
 
 今回も、例の土曜日夜遅くの、NHK・BSでの『AKB48SHOW』を録画して見たのだが、なかなかに興味深く考えさせられた番組でもあった。
 まず、好評の朝ドラ『あさが来た』の主題歌、「365日の紙飛行機」を、初めてフルバージョンで最後まで聞くことができたこと。
 もちろんそれは、今までにも書いてきたように、私がAKBを好きになったきっかけが、秋元康の作詞にあることを、あらためて再認識させるような歌詞の続きを聞くことができて、やはりいい歌だと思ったのだが。(11月23日の項参照)

 次に、もう長い間、病気やケガのために、AKBの歌番組やコンサートに出ていなかった”ぱるる”こと島崎遥香(総選挙9位)が、元気な顔を見せていたことであり、さすがに他の若手には代えがたい存在感があって、それは今どきの言葉で言えば、”ハンパなかった”のだ。

 さらに、もう一つ気になったのは、前にもいろいろと書いたのだが、あの”ゆきりん”こと柏木由紀が、メンバーと一緒に歌う時の立ち位置が、きわめて後ろの方に下げられていることが多いのだ。
 総選挙2位という実力から、総選挙後すぐの「ハロウィン・ナイト」では、1位の”さっしー”こと指原莉乃のすぐ隣で歌っていたのに、最近の歌番組では、ずっと2列目以降に下げられているのだ。
 それはAKBファンならば誰にでもわかるように、選挙後に有名ジャニーズ・タレントとのスキャンダル写真が暴露報道されて、AKBオタクたちからの、ごうごうたる非難にさらされたのだが、本人はもとよりAKB運営サイドも、かたくなに沈黙を守り通して、”人のうわさも四十五日”のことわざ通りに、火種も消えたかに思えていたのだが、最近の歌番組等における”ゆきりん”の立ち位置の冷遇ぶりを見ていると、今さらにしてと思わされるものがあったのだ。
 指原や峯岸のスキャンダル事件の時には、運営側から対外的にもはっきりとわかる処分が下されたのに、今回の”ゆきりん”の場合には、今に至るまで何の処分も下されなかったというのは、あれは週刊誌報道の行き過ぎたねつ造スキャンダルだったのか、とさえ思っていたのに。
 しかし、最近の”ゆきりん”に対する、運営側の冷遇ぶりは、彼女が総選挙2位という位置にいることを考えれば、あまりにも目に余るものがあって、つまりは、これが運営側の処分であり、あのスキャンダルは事実だったということになるのではないのか。

 いやー他人事ながら、はたから見れば、そういうふうに想像を働かせていく面白さがあり、ということは、私も立派なAKBオタクになりつつあるわけだし、”ソープ・ドラマ”や”昼メロ、不倫ドラマ”にうつつを抜かす、そこら辺のヒマな主婦たちと、何ら変わりないことになるのだろう。
 はい、ワタシが、ヒマなじいさんです。あ、ヒマなじいさん、ときて、ヒマなじいさん。だっふんだー。

 しかし、20歳を過ぎたくらいの若い娘の、恋愛関係の一つや二つが、スキャンダル扱いされるなんて、いかにアイドルとはいえ、本当にかわいそうな話だと思う。
 私なんぞの若き日のことを思えば、もし同じようなタレントだったら(そんなことは金輪際あり得ないが)、何度週刊誌ネタになっただろうか。片手をついて、深く反省。
 あの指原が、”ゆきりん”をかばう意味も込めて、”AKBも恋愛解禁にすれば”と言ったのも、わからないではない。
 しかし、多くのAKBファンが、アイドルとしての彼女たちに求めているのは、架空恋愛対象としての、自分だけの清純なアイドルの彼女たちなのだろう。
 だからと言って、娘ざかりの彼女たちに”恋愛禁止令”の不文律を守らせるのは、あまりにも酷な話だと思う。
 まさに、美しいさかりの若い時に・・・”命短し、恋せよ乙女”であるべきなのに。

 つまり、できるならば、”恋愛解禁”を表ざたにはしない不文律として、絶対にバレないようにすることを条件として、内々で認めてやればいいのではないか。
 もし見つかり公表されれば、自らの退団の決意を含ませて。
 何事も、”秘すれば花”なのだ。

 つまりは、アイドル稼業とは、様々なファンの思いのあと押しをうけての人気商売でもあり、それほどに厳しいものだということを、まずAKBに入るにあたって、そんな年端もいかぬ娘たちにしっかりと教え込むべきだと思うのだが。
 もう一つの方法は、宝塚歌劇団にあるように、”男子禁制”の絶対的条文を掲げて、アイドル”聖女化”することだろうが。

 
 今回は他にも、テレビで放映された有意義な番組がいくつもあって、それについて書こうと思っていたのに、そうしたまじめな話や哲学めいたことを書いてはいても、一方では、こうしてAKBの話になると、いつしか下世話な興味がわいてきて、一転、下劣な品性丸出しの馬脚(ばきゃく)を現す始末で、まあ”悪女の深情け”ならぬ、AKBを想う”悪爺の深情け”と思って、お見逃しくださりませ。
 ヒマなじじいの、”世迷いごと”と”戯(ざ)れごと”にございますれば・・・。
 
 それにしても、今、雪もない九州の山の中にいて、想うのは、あの時の「冬の日の幻想」の光景・・・。
 

 


冬の飛行機からの眺め

2015-12-07 21:43:59 | Weblog



 12月7日

 -10度。快晴の空、日の出前の、冷え込んだ空気の中を歩いて行く。
 毛糸の帽子に冬用手袋と、雪山に登るときの格好だが、冷たい空気が鼻から入り込んで、むずがゆく凍りつきそうだ。
 車道は除雪作業が行き届いていて、雪がないが、その横の歩道部分は除雪が十分ではなく、残った雪が凍りついていて歩きにくい。
 しかし、まだ朝早く、ようやく明るくなり始めたころの時間だから、車はたまにしか通らず、そこで楽な車道に降りて歩いて行く。
 7時前、ようやく日が昇ってきた。
 トラクターによる秋耕(しゅうこう)跡の、畝(うね)の縞模様に、朝日が映えている。(写真上)
 山ではないが、平野部の”モルゲンロート”の光景だ。もちろん、背後の日高山脈の山々も、少しかすんではいたが、同じ”モルゲンロート”の日の出の薄赤い色に染まっていた。
 30分ほどかかって、バス停に着いた。

 これは、数日前の光景だ。
 私は、ようやく雪の北海道を離れて、九州に戻るところだった。
 その長距離旅行には、長い移動時間がかかるから、帰り着く時間が少しでも早くなればそれにこしたことはない。
 そこで、朝一番の飛行機で行くことにして、バスもそれに間に合うように、朝早い時間のものにしたということだ。

 前回書いていたように、今年は、早めに九州に戻るつもりでいた。
 しかし、事情があって出発の日を伸ばさざるを得なくなり、さらに追い打ちをかけるように、十勝地方の11月としては珍しく、二回で併せて70cmもの大雪が降って、外のトイレに行くのも一仕事になり、冬の間の井戸ポンプの取り外し作業に一苦労したりなどと、急に来た冬のためにやることがいろいろとあったのだ。
 まあ、日ごろからのんびりぐうたらに過ごしているタヌキおやじには、心身ともにちょうど良い”お仕置き”の時間だったのかもしれない。
 
 しかし、そんな一苦労があれば、また良いこともあるものだ。
 この日に乗った、飛行機からの眺めが素晴らしかったのだ。
 残り少ない人生だもの、大好きな飛行機からの山々の眺めのためには、何としても天気のいい日のフライトを選びたいものだ。
 確かに、下界の天気が悪くて雲に覆われている場合でも、成層圏から上にはいつも青空が広がっているから、そのあまりにも深い青空の色と、下に広がる雲を見ているだけでも楽しくはあるのだが、何といっても、山が好きで、地図が好きで、地理地学マニアである私としては、こうして雪に覆われた山々の姿がくっきりと見える時にこそ、飛行機に乗りたいものなのだ。
 
 この日は本州の中央部が高気圧に覆われていて、中部以北には晴れマークの予報が出ていた。天気の変わり目になっていた九州では、午後から雨マークだったが、主要山岳地帯が続く、中部以北の天気さえ良ければ何の問題もない。
 ただ、この日の残念な点は一つだけ。帯広空港からの出発が、南に向かっての離陸だったことにある。
 飛行機の離陸は、風に乗って上空に上がりやすいように、風が吹いてくる方向に向かって飛び立つ。
 冬場のこの時期には、北海道は冬型の気圧配置になることが多く、十勝地方には北西の風が吹きつけてきて、飛行機はその風向きに北側に向かって飛び立ち、その時には、上昇していく進行方向に中央高地大雪山の山々が見えてくるのだ。
 そこで、すぐに右旋回して南へ、東京へと向かい、高度が上がった位置から、右手に日高山脈の山々を見下ろすことになるのだ。
 しかしこの日は、西から張り出してきた高気圧の圏内にあり、弱い西風が吹いていたと思われる。それならば飛行機としては、燃料を使わない南に向かって飛び立った方がいいわけだから、つまり大雪山を背にするような方向で離陸して、そのまま上昇して行って、とうとう大雪方面の山々の姿を見ることはできなかったのだ。

 もっとも、こんなことを気にしているのは、窓辺にカメラを構えて写真を撮り続けている私くらいなもので、他の乗客たちにとっては、どうでもいいことなのだろう。そして思うのは、こうして私のように、飛行機から写真を撮り続けている人に、いまだ出会ったことがないということだ。
 先日の、国産旅客ジェット機初飛行の時のニュースで流れていたように、飛行機そのものが好きなファンは多くいるようだが、ただ上空からの眺めが楽しみで、その写真を撮ることを趣味にしている人などいるのだろうか、プロの写真家の人は別にして。
 もっとも鉄道ファンにも、”撮り鉄”や”乗り鉄”などがいるように、飛行機にもそうしたファンは多くいるのだろうが、ただ窓からの眺めをというファンはほとんど見かけないのだ。
 しばらく前に、確か『中央線から見える山』という、鉄道車窓からの写真集が出ていたくらいだから、それを楽しみにしている人もいるのだろうが、そうした類のファンとして、飛行機の場合にも、空中撮影山岳ファンとでも呼ぶべき人たちが他にもいるはずだし、それならば、プロ写真家が写した『飛行機から見た山』という空撮写真集を、新たに出してくれてもいいと思うのだが。

(だいぶん前のことだが、セスナ機から写した『日高山脈』という写真集が出ていて、今手元にはなく、北海道の家に置いてあるのだが、そこには、私の好きなあの日高山脈の山々のすべてが見事に映し出されてて、それは眺めて楽しむだけでなく、未知なる山々を目指す沢登りや冬の尾根ルートなどで、たびたび参考にしたほどだった。ただ残念なことは、この写真家があまり山には詳しくないらしく、写真のネーム、キャプションに数多くの誤りがあったことだ。) 
 
 話がそれてしまったが、その日の飛行機からの眺めに戻ろう。
 帯広空港を離陸した飛行機の右手の窓からは、期待していた日高山脈の山々が、次々にその姿を現しては雄々しく立ち並んでいた。
 もっともこの時にも、斜め後ろになって、日高幌尻岳以北の山々は写真には取れなかったのだけれども、あのカムイエクウチカウシ山(1979m)に始まって、1823峰、コイカクシュサツナイ岳(1721m)、ヤオロマップ岳(1794m)、1839峰、ルベツネ山(1727m)、ペテガリ岳(1736m)と続く中部日高、さらに南部日高三山の、神威岳(かむいだけ1600m)、ソエマツ岳(1625m)、ピリカヌプリ(1631m)に、冬山最短ルートの野塚岳(1353m)、オムシャヌプリ(1379m)から十勝岳(1457m)、そしてこの春久しぶりに登った楽古岳(1472m)、さらにピロロ岳(1269m)から広尾岳(1230m)へと連なっている。
 (写真下、左からピロロ岳、楽古岳、十勝岳) 


 やがて、日高山脈最南端の山、豊似岳(1105m)が見えてきて、その先で山の勢いは衰えて、襟裳(えりも)岬の列状岩礁となって海に消えていく。
 しばらくの間、太平洋に広がる雲海の上を飛んでいくと、やがて右手には、4年前の大津波の跡が今も残る、東北三陸の海岸が見えてくる。
 その先の内陸部に見える、二つの白いこぶ。北と南からなる八甲田(はっこうだ1584m)の山々だ。
 そして、東北の内陸部に入っていく。手前に早池峰山(はやちねさん1917m)、その先にひときわ大きく岩手山(2038m)から、左右に秋田駒乳頭山群(1637m)と八幡平(1613m)の広がりがある。
 機体はやや南寄りに方向を変え、右手に沿って次々に東北の名山たちが姿を現す。それも山が雪に覆われ始めた今の時期だからこその、くっきりとしたコントラストのきいた眺めになるのだ。
 焼石岳(1548m)、栗駒山(1627m)と並んだ向こうに、ひとり大きく鳥海山(2236m)、そして、あの樹氷がきれいだった蔵王山(1841m)と、その後ろの霧に覆われた山形盆地の向こうに、月山(がっさん1984m) と朝日連峰(大朝日岳1879m)。
 息つく間もなく、小さな火口の吾妻小富士を手前に吾妻連峰(2035m)が広がり、米沢の盆地を隔てて飯豊連峰(2128m)の大きな山塊が見えてくる。(写真下)
 




 真下に安達太良山(あだたらやま 1709m)と、すぐ上に磐梯山(ばんだいさん1819m)があり、左手に猪苗代湖の湖面が光っている。
 やがて、東北と上越国境にかけては、多くの山々が群れあふれている。
 それらの山々の中でも、尾瀬の燧ヶ岳(2356m)が高く目立つけれども、私の目が行くのは長年のあこがれでもあり、去年も同じように飛行機から眺めた、あの越後駒ケ岳(2003m)と中ノ岳(2085m)の姿である。(’14.12.15の項参照)
 那須山群(1918m)は真下になって見えにくいが、日光の山々が近づいてきて、その中でも、さすがに日光白根山(2578m)がひときわ高く堂々としている。
 東京の天気予報は曇りだった通りに、関東平野は雲海に覆われていて、その上に遠く小さく富士山が見えていた。
 ”よし”と心の中で叫ぶ。これで、東京から福岡に向かう乗り継ぎの便からも、富士山がよく見えるだろうから。

 その乗り換えの時間は30分ほどで、長い待ち時間にうんざりするほどでもなく、かといって長い連絡通路を、大股急ぎ足で歩かなければならないほど、せかされる時間でもなかった。
 さて福岡行きの座席は、今度は左側になる。富士山を見るためだ。
 他の山々、南アルプスに中央アルプス、遠く北アルプスさらには御嶽山などを見るには、右側の座席がいいのだが、その時には右側の窓の所に行けばいいのだ。
 ともかく、最初に近づいてくる、巨大な山、富士山をまず写真に収めておきたいのだ。
 一昨年の便でも、よく見えていて、夢中でシャッターを押し続けたのだ。( ’13.12.9の項参照)

 今年は、どうか。
 機体の順番待ちで、離陸に時間がかかったが、雲海を突き抜けると、すぐに青空が広がっていた。 
 ただ翼のすぐ後ろの席で、少し角度が悪くて写しにくい。
 それでも、まずは山中湖側から、次に河口湖側から、そして大沢崩れ側からと、少しずつ違う雪の富士山の姿を撮ることができた。
 さて次は、南アルプスだ。(これも’13.12.9の項参照)
 北の甲斐駒ヶ岳(2967m)から塩見岳(3047m)までがはっきりと見えている。(荒川三山・赤石・聖は機体の真下になって撮りにくい。いつかは写したいものだが。) 
 そして伊那谷を隔てて、今度は中央アルプスが同じように縦に連なり、その上には乗鞍岳(3026m)から北アルプスの山々が大きな塊になって、見えている。
 乗鞍のすぐ上に笠ヶ岳(2897m)、右手に槍(3180m)と穂高(3190m)、そのさらに右に常念山脈から表裏銀座の山と後立山から白馬岳(2932m)までが、さらに笠ヶ岳の上に黒部五郎岳(2841m)から薬師岳(2926m)があり、そして立山(3015m)と剣岳(2998m)が最後の高みになる。(写真下) 


 

 そして、最後の雪に覆われた大きな山が近づいてくる。
 まだ記憶に新しい、あの一年余り前に、多数の登山者たちの噴火遭難事件を引き起こした、木曽御嶽山(3067m)である。その時の噴火口から、まだ白い噴煙が上がっていた。
 
 それから先には高い山もなく、雲が広がっていて、福岡に着いた時には小雨が降っていた。
 しかし、私は十分に満たされた思いだった。
 平野部と山間部に色分けされた、地図帳に描かれている通りに、北から南へと、高い山々を空の上から眺めてきたのだから。
 今までに何十回となく、福岡・北海道間を往復して、飛行機から見下ろしてきた山々の眺めなのに、いまだにあきることなく、そのたびごとに、カメラを構えては写真を撮っているのだ。
 誰のためにでもなく、誰に見せるためでもなく、ただ繰り返し写真を撮って(今回写した分だけでも170枚ほどになったが)、ひとりモニター画面を見ては、ニヒニヒと笑うのだ。
 それは、”マニア”と呼ぶほどに正統派的なものではなく、日本的な”オタク”というほど、陰にこもって仲間を求めているわけでもなく、ただの”偏執狂(へんしつきょう)”と呼ぶのにふさわしい、私だけの楽しみの一つなのだ。

 おそらくは、山に興味のない人たちは、ただ山々の名前が羅列(られつ)されただけの、この記事を辛抱強く読むこともなく、まずは写真だけでもと見ただけのことなのだろうが、それでいいのだ。
 私は、ただ自分のためだけに、楽しい思い出を書いているだけの話で、私と同じ体験をと訴えかけているわけでもない。
 ”蓼食う虫も好き好き(たでくうむしもすきずき)”の例え通りに、誰も食べようとはしない蓼の葉を食べる虫もいるくらいだから、世の中の人それぞれの好みは様々なのだ。
 こうして、北海道と九州に分かれて、行ったり来たりの生活をしているのは、ほとんどの人から見れば、ぜいたくこの上ないことに思えるのだろうが、ちなみにこの同じ生活を、他の誰かが、すぐに入れ替わってできるとは到底思えない。
 それほどに、いざその人の立場になってみなければ分からないことが幾らでもあり、というのも、人間はいつも自分の今いる立場でしか、ものを見ることはできないからだ。

 九州にいる私は、北海道にいた自分を思い返して見ては、つくづくこう思うのだ。 
 まあ、何とありがたいことだ。水が自由に使えるなんて。
 北海道の家では、いつ枯れるともわからない井戸のために、いつも水を節約していて、まず食事で食べた皿などは舌でなめてきれいにしたうえ、それらの洗い物などすべては、まずボールにためた水で洗っていたのに、ここでは、蛇口から流れる水で洗いものができるし、北海道の五右衛門風呂にはほとんど入れないのに、ここでは浴槽をいっぱいにした風呂に毎日入ることもできるし、その残り湯で毎日洗濯もできるし、水洗トイレがあるから、北海道の家のように、雪の中、寝ぼけ眼(まなこ)で外に出て行ってまで、用を足す必要もない。
 ここにいて外で用を足すのは、木々に栄養分を与えてやるためだ。生肥やしは、効かないというけれど。
 さらには、ここでは燃えるゴミ、分別ゴミと分けて出しておけばゴミ収集車が来てくれるが、北海道の家でのゴミの多くは、自分で処分しなければならないから、一部は分別ゴミ場まで運ぶことになるし、ともかく食品の包装ポリ袋、トレイ、パックなどが多すぎるのだ。(店側は、レジ袋有料化よりは、その何百倍にもなるだろうまず食品包装トレイなどを減らす工夫をするべきだと思うのだが。)

 その代わりに、ここにいては足りないものも多くある。
 この古い家では、すきま風が多いから、コタツと灯油ストーヴと電気ストーヴだけでは、薪(まき)ストーヴのある北海道の家にいるより寒いのだ。
 さらには、目の前に広がるあの北海道の、広大な大自然の風景が見られないのだ。
 ただし、母とミャオの墓は、ここにあるから、ここにもいるべきなのだろうが。
 ともかく、いずれの家にいても、便利さと不便さの相反する日常の中で、暮らしていくしかないということなのだろう。

 思えば、その他にも、もろもろの小さなことがあるのだが、その中で一つ言えば、北海道のテレビでは見られるAKBグループ関連のバラエティー番組が、ここではそのいくつかしか見られないのだ。
 AKBファンの私としては、何よりも残念なことなのだが、それならば有料ケーブルテレビを引けばとか、有料BSやCSに加入すればと思わないでもないが、そこまでのAKBオタクではないし。
 ともかく、NHK・BSでの『AKB48SHOW』という、歌とコントとその時々でのAKBニュースを含んだ極めて優れたバラエティー番組があるから、それだけでもありがたいことだし、さらに歌番組でのカメラワークに定評のある、テレビ朝日の『ミュージックステーション』で、時々AKBグループが歌っているのを見ることができれば、それだけで十分だとも思う。 

 まあ、いずれにせよ、どこにいるにせよ、いつもそばにあるものだけで耐え忍び、そのことに早く慣れて、いくらかでも満足してやっていけば、それでいいのだと思ってはいる。 
 そうしているうちに、無駄な欲望に駆り立てられることも次第に少なくなっていくのだろうし、それがまた、年寄りになっていくことの良いところなのかもしれない。


 「・・・はじめにこらゆれば、かならず後のよろこびとなる。灸治(キュウジ)をしてあつきをこらゆれば、後に病(やまい)なきが如し。杜牧(とぼく)が詩に『忍過ぎて、喜びに堪えたり』といえるは、欲をこらえすまして、後はよろこびとなる也。」

(『養生訓』 貝原益軒著 岩波文庫)