ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

キツネノカミソリ

2016-07-25 22:25:04 | Weblog



 7月25日

 梅雨明け後の、晴れた日が続いている。
 ここは山の中だから、朝は少しひんやりとして20度ほどのちょうど良い気温だが、日中にかけて30度近くにまで上がる中で、雲が広がりあっという間に怪しい雲行きになって、ザーっと一雨来たりもする。
 朝夕にはカナカナカナとヒグラシが鳴き、昼間にはジーと鳴くアブラゼミに混じって、もうツクツクッーシとツクツクボウシまでもが鳴いている。
 夏の盛りの音の風景だ。

 ようやく簡単な手入れの終わった庭を歩いていると、そんなセミたちの短い一生を終えた亡骸(なきがら)が落ちているのを見たりもする。
 そんな庭の日陰になった片隅に、なんと目にも鮮やかに、一本のキツネノカミソリの花が咲いていた。
 この庭でのキツネノカミソリは別に珍しいわけでもなく、その昔、母が周りの野山から一株とってきて植え付けたものが、今では毎年、どこかで花を咲かせてくれている。
 ただしこのヒガンバナ科の花たちは、冬の間、細長い緑の葉を茂らせていて、(その葉の形からもスイセンたちの仲間に近いというのもわかるが)、春にはその緑の葉は枯れてしまい、夏から秋にかけて花を咲かせるのだ。
 このキツネノカミソリも、春先までは確かにそこに緑の葉が出ているのを見ていたのだが、葉が枯れて何もなくなった後、そのことはすっかり忘れてしまっていて、だから今、突然湧いて出て来たかのように、木陰の下にひときわ色鮮やかな花が咲いているのを見て、驚いたのだ。

 それにしても、こうしたキツネノカミソリのように、昔の人がつけた日本の花の名前は面白い。
 そうした花の名前の中でも、春先に小さな薄紫の花を咲かせる、あのオオイヌノフグリ(2月29日の項参照)ほど、思わず笑みがこぼれてくるような名前はないだろう。
 春の温かい日差しを浴びて、一番最初に小さな花を咲かせる草花の名前が、直訳すれば”いぬのおおぎんたま”だとは・・・。
 もっともものの本によれば、この草の実が、ちょうどそのような形をしているからだということで、別におふざけでつけられた名前ではないということだ。
 
 そして、このキツネノカミソリだが、”カミソリ”とはその細長い葉の形が、床屋さんで使われているような昔からの”剃刀(かみそり)”の形に似ているからつけられたものだろう。(今では、家庭用としてそうした一枚刃の”かみそり”は使われなくなり、4枚刃の安全なハンディ”カミソリ”が使われていて、それ以上にほとんどの人は電気カミソリを使っているようだから、あの床屋さんでの”かみそり”は、ますます縁遠いものになっていくのだろうし、この名前の由来も最初からの説明が必要になるのだろう。)
 次に、その”カミソリ”の前に付けられた”キツネ”とはと考えると、こうした木の下の薄暗がりの所に、まるで突然に生えてきてだまされたような、その怪しげな生態を見て、名付けられたのに違いない。
 さらに余談だが、調べていて、このキツネノカミソリの仲間には、まずオオキツネノカミソリがあり、さらにはムジナノカミソリやタヌキノカミソリまでもがあるというような、冗談めいた事実もあった。

 日本の植物には、この”キツネ”だけでなく、身近にいる多くの動物たちの名前が付けられている。
 上にあげた”オオイヌノフグリ”にある、”イヌ”の名前は他の多くの植物たちの名前に付けられていて、大体において”役に立たない”とか”無駄な”という意味が込められているようだが、今やペット・ブームのさ中、多くの飼い主たちにとっては、人間にとっての大切なパートナーにもなっている”イヌ”たちが、”無用な”という意味で使われているのは到底納得できないだろうが。

 つまり、物の名前や私たちが使う言葉も、こうして時代の中でさまざまに変わっていくのだろう。
 ところで、前回あの『枕草子』にちなんで、「すさまじきもの・・・」としてあげた短い拙文(せつぶん)についてだが、それは今でいう”凄まじい”という言葉とは意味が違っていて、当時は”不釣り合いで不快な”とか”興ざめな”とかいう意味合いで、使われていたとのこと。
 私が生きてきた間でも、良いことや良い品物を言うのに、”すてき”や”イカす”から、最近はすっかり”ヤバイ”に変わってしまったし、それでも”かっこいい”という言葉のように、昔からずっと使われ続けているものもある。

 つまり、”言葉は世につれ、世は言葉につれ ”変わっていくものだろうから、あの中村草田男(1901~1983)が、「降る雪や明治は遠くなりにけり」という一句を詠(よ)んだ時の思いもわかるような気がするし、私たち昭和世代の人間たちも、平成生まれの若者たちを前に、世代の差を感じることが多くなってきて、同じように”昭和は遠くなりにけり”と思うのかもしれない。
 そこで言えるのは、当然のことながら、人は自分の生きた時代の経験をもとに、今の年齢の自分の目線で、今の時点からしかものを見ることができないということだ。
 それは世代間の断絶とかを言っているのではなく、むしろ世の中には、年齢差を超えて理解し合えるような事例などいくらでもあるだろうし、そういうことではなく、自分はこれだけの経験を経てきて、その中にはそれこそ無駄なものや語る価値のないものさえ含まれていて、決して今の若者たちより優れた経験をしてきたなどとは言えない場合も多くあるのだし、ただそうしたことを踏まえて、私は自制の意味を込めて、自分は実に狭い視野でしかものを見ていないということを言いたかったのだ。 
 もちろんそれが、一人一人としての際立った個性を持つ、個人である人間の特性でもあり、自分に何らの利があるようにと考える、動物としての本性の一つでもあるのだろうが。

 先日、ふとテレビを見ていたら、よくテレビ番組に出ていて名の知られた動物学の先生が、元気な小学校の子供たち数人を引き連れて動物園に行き、それぞれの動物たちの意外な能力や行動について話してやっていたのだが、次にあの北米に住むプレーリードッグの園地の所に行き、子供たちがかわいいと叫んでいる前で、その先生は、群れで暮らすプレーリードッグたちの生態などをを教えてやり、さらには母親のプレーリードッグが、近くの他の巣穴にいる他のプレーリードッグの子供を殺してしまうことさえあるとまで言っていたのだ。
 子供たちは一瞬、たじろぎぼう然として何も言えなくなっていた。
 先生は、動物界の現実を、正直にありのままに教えてやったつもりだろうが、まだ十分に世の中の仕組みや道理がわかってもいない、感じやすい子供たちにまでも話してもいいことだろうかと思ってしまった。
 そのことを、子供たちに告げることがいけないと言っているのではなく、むしろその後に付け加える言葉がほしかったと思うのだ。
 たとえば、「プレーリードッグの母親が、そうしたことするのは、何としても自分の子どもだけは守りたいという母親の思いから、止むに止まれずにしたことであって、同じ動物の仲間でもある人間の私たちはそこまではしないとしても、君たちのお母さんの気持ちも一緒であって、毎日君たちを一生懸命に守っているんだよ」、とか・・・。

 生存競争の中にある、動物であるがゆえの集団と個の問題は、今までにもここで何度も取り上げてきたことであるが、あの日高敏隆の『利己としての死』や、これもテレビで見たのだが、ライオンに襲われ食べられる一頭の仲間を、遠巻きにして見ているヌーたちの群れなどの話からも言えることだが、つまり人もまた、今いるこの時点からしかものを考えられないものであり、それだからこそ、今いる場所に専心することや、ひたむきに生きることで、おのずから確かな生の存在である自分が見えてくるのではないのかと。

 最近またあの『歎異抄(たんにしょう)』を読み返して、つくづく考えてしまったのだ。
 もう言うまでもないことだが、親鸞(しんらん、1173~1262))の高弟の一人でもあった唯円(ゆいえん、1222~1289)が、浄土真宗の祖ともいえる親鸞の教えを正しく守ろうとして、その師の言葉を中心にしてまとめ上げた、簡潔にして緻密に構成された仏教書であり、今までもそこに書かれたいくつかの言葉をここでもあげてきたが、今回は以下の親鸞の言葉について少し考えてみた。

 「・・・自余(じよ)の行(ぎょう)も励みて、仏(ほとけ)に成るべかりける身が、・・・いずれの行も及び難(がた)き身なれば、とても、地獄は一定(いちじょう)、住処(すむか)ぞかし。
 
 「聖道(しょうどう)の慈悲というは、ものを哀れみ愛(かな)しみ、育(はぐく)むなり。
  しかれども、思うが如く助け遂ぐること、極めて有り難し。」
 
 「弥陀(みだ)の五劫思惟(ごこうしゆい)の願(がん)をよくよく案ずれば、偏(ひと)へに、親鸞一人がためなり。」

 以上の抜き書きの部分を、自分なりに解釈すれば。
 ”様々な行に励んで、仏にまでなろうとした身なのに、・・・どの行(ぎょう)でも、思いを遂げることはできず、(ただ念仏を唱えるばかりであるが、たとえ法然上人(ほうねんしょうにん)からの教えにだまされて、念仏を唱えることで地獄に落ちたとしても、悔いはないし)、むしろ地獄こそは確かに私の住むところになるのだから。”

 ”仏道に悟りをひらく道においては、この世の生き物を哀れに思い、かわいがり、守り育ててやることであるが、しかし、思うように助けてあげることできないのが現実だ。(だからこそ、念仏をし続けることによって、衆生に慈悲の心を示し手助けすることにもなるだろう。)”

 ”阿弥陀様(あみださま)が計り知れないほどの長い間、考えて誓願なされた教えをよくよく考えてみれば、ただこの私、親鸞一人のためであった、(と思えるようになるのだ)。”

 もともと私は、仏門に帰依(きえ)し仏教を学ぶほどの理解力もない、他の多くの日本人がそうであるように、ただの冠婚葬祭の時だけの門徒の一人にすぎないから、たとえこの『歎異抄』繰り返し読んだところで、親鸞の教えを正しく理解することなどできないだろう。
 しかし、そう考えていけば、すべての書物があいまいな意味のないもになってしまう。そうではないのだ。
 文学にしろ哲学にしろ、あるいは音楽にしろ絵画にしろ、すべての人間によって書かれ作り上げられたものの芸術的価値など、その時代その時代によって変わり、ましてや個人個人によっての受け取り方も違うから、何も普遍的な評価がいきわたっているものだけを選んだとしても、それが自分の嗜好(しこう)に合っているかどうかはわからないのだ。

 要するに、個人によって書かれ、あるいは作り上げられたものは、自分が共感し納得できるところだけを、取り入れればいいだけのことだ。
 たとえは悪いけれども、最近いくつもの冤罪(えんざい)事件が明るみになっていることをつい考えてしまう。
 長年の刑務所生活から放たれて、無実の罪が晴れた人の思いは、いかばかりのものか。
 そこで思うのは、その無実の人を犯罪者に仕上げた、警察の取り調べであり、決めつけた犯人を有罪にするだけの証拠だけを集めて、無罪を示すことになるような証拠物件には、一顧(いっこ)だにしないこと。
 つまり、私たちが本を読んだりする場合には、そうした悪い意味での我田引水的な方法と似通ったところがあって、ともかく、自分の理解できるところや共感できるところがいくつかあればいいのであって、大半の部分がわからないとか共感を覚えなかったとしても、必ずやその読書はそうしたものとして有意義なものになるだろう。
 
 それを踏まえて、私が言いたかったことは、大きな誤解を恐れずに言えば、親鸞は仏教の教えに対して、自分でできるしそして誰でもができる”念仏を唱える”ということだけで、すべての人の心が安らかになる、仏の御国の実現を夢想したのだろうが、それはまさに自分自身のためだけのものでもあったのだと思う、いつもの私の妄想として・・・。
 雑念を捨てて、”念仏を唱える”ことだけに執心すること、それはすべての衆生のためであり、親鸞自身のため、自分ひとりのためでもあったのだということ。
 たとえ背後に、僧侶としての妻子持ちという現実生活があったとしても・・・。

 あのバロック音楽の大家であり、クラッシク音楽の祖ともいわれるバッハ(1685~1750)が、現実の世界では教会の音楽運営の激務に追われ、家に戻っても妻や子供たちのにぎやかな家族がいた中で、あれほどの静謐(せいひつ)美麗な音楽を作り続けていたことを、同じように思い浮かべてしまう。

 以上、長々と書いてきたことの結論を言えば、自分はこうして生きてきた、今の時点からしか見ることしかできないけれども、そうして見ている世界は、今まで自分が経験体得してきたものの礎(いしずえ)の上にあり、そのようにして、再びせりあがっていく世界こそ、自分だけのゆるぎない王国としての存在価値があるものだということ。
 あえて言えば、それは言われているような複眼的思考が必要だということではなく、自分だけの強い単眼的な思考で十分であるということ。
 ということになれば、これから読んでいく本も、私の思いにかなう古典文学が中心となるだろうが、ただ”ポケモンGO”をやる人々から遠く離れて、私は自分だけの道を歩いて行くほかはないのだ。

 梅雨が明けて、いつものように遠征登山に出かけようと思っていたのだが、関東・東北の梅雨明けが遅れているうえに、相変わらずヒザの状態が思わしくなく、セミの鳴き声を聞きながら、なんともつらい気分にもなるのだが、なあに山だけが私のすべてではないし、こうしてまだまだ読むべき多くの本があり、見たい映画があり、聞きたいクラッシック音楽があり、そしてAKBがあるのだ。
 このところ、長時間にわたるテレビでの夏の音楽祭があり、AKBが出ているところだけは録画して見たのだが、AKBグループそれぞれの持ち歌や踊りは十分に楽しめたのだが、企画ものとして、他の歌手たちの曲を生歌で歌っていて、その素人並みの音程を外す歌声には、さすがのAKBファンの私も聞くのがつらかった。
 せめて人並みには歌えるように、ボイス・トレーニングやリハーサル練習を繰り返し行っては、せめて恥ずかしくないだけの歌のレベルで、ステージに上がるべきだとは思うのだが。
 もっとも、AKB新選抜による新曲「LOVE TRIP」やSKEの新曲「金の愛 銀の愛」などは、まだまだAKBグループへの希望が十分にある、と思わせるほどの詩や曲調で、順調な仕上がりになっていた。 

 家の庭には、今年もまたクチナシの白無垢(しろむく)の花が咲き始めて、あたりにかぐわしい香りが漂っている。(写真下)
 生きていることとは、こうした何気ない出来事の、小さな喜びの連続としてあるのだろう。

(参考文献:『歎異抄』 安良岡康作 校注・訳 『日本古典文学全集』 小学館)



  


 


ウメとヤマモモ

2016-07-18 21:36:21 | Weblog



 7月18日

 今日は、梅雨の晴れ間というべきか、いやそれ以上の、素晴らしい快晴の空が広がっていた。
 (その後気象庁からの発表があって、西日本では梅雨があけたとのことだが、天気図では前線も残っているし、高気圧も弱いし、いささか気にはなるが。)

 こうしたさわやかな夏空の下では、山歩きをするには、最高の天気だろう。
 もちろん、ここ九州の山では、日差しが強すぎるし、北アルプスで見るような残雪もないし、ただ裸地の山の尾根道を歩くのは嫌だから、こういう時には展望が第一の私でも、森林帯の中の、木漏れ日が差しているような山道を歩きたい。
 あるいは、沢登りで谷を詰めて頂上を目指すのもいいが、もう沢から離れて数年近くになるし、体力的にというよりは、バランス感覚が衰えてきていて、岩の上を飛び伝いに行くことができるのかと心配でもある。
 もっとも、それ以上に今の私は、痛めているヒザの状態が依然思わしくなく、山どころではないというのが本当のところだ。
 
 そして、さらには、ここでの短い間の滞在の間に、幾つかの用事や仕事をすませてしまわなければならないのだ。
 庭仕事では、生垣や植え込みの剪定(せんてい)に、庭の草取りと芝生の草刈りなどがある。
 それも今までは、雨の日が多かったから、遅れ気味になってしまい、こうして晴れ間がのぞいた時に、一気にやろうとするから余裕がなくなって、そのうえ九州の蒸し暑い夏だから、少し動いただけで汗が吹き出し、ポタポタと落ちる汗をぬぐっての仕事となる。
 北海道でも、同じように暑くはなるが、湿度が低くさわやかな風が吹いているから、まだましだともいえるし、家の中に戻れば冷房の効いた部屋にいるようで、それまでの汗もすぐに引っ込んでしまうほどだ。
 
 しかし、この九州の家では、どんなに暑くとも、もちろん部屋にクーラーはあるし、それ以上に何よりすぐに風呂に入れるのが一番なのだ。
 いつも、昨夜の残り湯をそのままにしておいて、洗濯にも使うのだが、こうした時に、汗まみれの体で気持ちよくぬるま湯の風呂につかって、さっぱりできる。
 そして、風呂上がりに、買っておいたスイカを食べる。たまらん、生きている喜びは、ここにあるのだとさえ思う。
 前にもここで書いたことがあると思うけれども、スイカの残りは、自分の歯型のついた赤みのところは、もったいないので包丁で切り取って、そこに練乳などをかけて夕食後のデザートにして食べるし、その残りの薄赤い白い部分は、外側の緑の縞模様の部分を除いて切り取って、軽く塩もみをして一夜漬(いちやづ)けにして、たっぷりとカツオブシをかけて食べる。
 熱いごはんとこれだけでも、十分な夕食になるくらいだ。

 このスイカの皮の一夜漬けは、子供のころから、農家出身の母が作っては出してくれていたもので、今や私の夏の間の大切なおかずの一品になっているのだが、北海道の友達の家でその話をしたところ、農家出身の友達の奥さんともども、「子供のころから、そんなことはしなくても、家には十分に食べるものがあったから、食べ終わったスイカの皮はそのまま”なげて(すてて)”いた」と言われて、少しさげすまれたような・・・。

 はい、私は貧乏階級の出身です。もったいない”と、”けち”の性分が身にしみついておりまして・・・もっともそれだからこそ、昔からの貧乏性の節約家だからこそ、今もこうして食べるに困ることもなく、幸せな気分で毎日を送っていけるわけであって、私は、金持ちになりたいと思ったこともないし、世界中のグルメ珍味など食べてみたいなどと思うどころか、日本の一流料理店にさえも行ってみたいとは思わないのだ。
 まあそれは、私が食通の舌を持っていない、ただ食べられればいいというだけの人間だからでもあり、トリュフ”も”キャビア”も”北京ダッグ”さえも興味はなく、そんなものよりは、今ここで、熱いごはんにのせて食べる、たっぷりのカツオブシにまぶしたスイカの皮や、北海道の秋にとれるカラマツの”ラクヨウタケ”、その三杯酢醤油であえたものを、これまた熱いごはんにのせて食べる楽しみに勝るものはないとさえ思っているからだ。

 情報があふれている現代だが、実は世の中には、知らないでいいこともたくさんあるのだと思う。
 知るべきことと、知らないでもいいことが、今の時代にはあまりにも多すぎて、私のように懐古(かいこ)趣味にとどまり、昨今の流行ものに関する情報処理能力に欠ける人間には、田舎暮らしこそがよりふさわしい所だということだろう。

 さりとて、こうした私の生き方は、本当にこれでよいのかと小さな不安を感じないわけでもないのだが、そうした時にこそありがたく思えるのが、何者にも代えがたき、心の支えにもなるような、偉大なる先達(せんだつ)たちがいることである。
 それは、今までにもここで何度も取り上げてきた『方丈記』の鴨長明(かもちょうめい、1152~1216)と『徒然草』の吉田兼好(兼好法師、1283~1352)の二人であるが、今回はその中でも、『方丈記』の中からの一節を取り上げることにする。

 「・・・。
  人に交(まじわ)ざれば、姿を恥ずる悔いもなし。
  糧(かて)乏(とぼ)しければ、おろそかなる哺(ほ、口に含んだ食べ物)をあまくす(おいしくなる)。
  すべて、かようの楽しみ、富める人に対して言うにはあらず、ただわが身ひとつにとりて、昔今(むかしいま)とをなぞらえるばかりなり。
  それ三界(さんがい、輪廻’りんね’する欲界、色界、無色界)はただ心ひとつなり。

  心もしやすからずは、象馬七珍(ぞうめしっちん、象や名馬に珍しい宝)もよしなく、宮殿楼閣(ろうかく)も望みなし。
  今、さびしき住まい、一間の庵(いおり)、みずからこれを愛す。
  おのずから都に出でて、身の乞匃(こつがい、乞食)となれる事を恥ずといえども、帰りてここにをる時は、他の俗塵(ぞくじん)に馳(は)することをあわれむ。
  ・・・。」 

 (『方丈記』鴨長明 神田秀夫校注 日本古典文学全集 小学館) 


 さて、この夏も暑さを覚悟で九州に戻ってきたのは、他にも様々な用事や家仕事があったにせよ、どうしてもウメの実の時期に合わせて帰ってきたかったからである。
 私の、個人的な健康食品であるウメ・ジャムづくりをするためだ。
 しかし、帰ってきてみると、なんと今年はそのウメの実が少ないのだ。下に落ちてもう腐り始めているものが半分くらいはあって、翌日にまたいくつか新たに落ちていて、それを合わせてもザルいっぱいもなく、それだけで
もうウメの木の枝に実はなかった。
 つまり今年も去年と同じ不作の年で、出来上がったウメジャムは大ビン一つに中ビン一つだけ。
 最も多い年には10何個もの量があったのに(’14.7.21の項参照)、それでもまだ作り切れずに、半分ほどのウメの実は捨ててしまったほどだから、確かに今は一つ一つの実が大きくなってきてはいるが、春先にあれほどの花が咲いていたというのに、今年も不作になったのが信じられないくらいなのだ。
 やはり十分な肥料を与えなかったということか、私の立ちションでは効かなかったということか。
 まあそれでも、帰ってくるのが二三日でも遅ければ、もうすべての実が落ちて腐りかけていて、ジャムづくりさえもできなかっただろうし、それを考えれば、これだけでも作れたのだから、不幸中の幸いだと思うべきなのだろう。 
 

 そして、そういう不作の年もあるだろうと思って、すでに今までに作っていたウメジャムを冷蔵庫に保管していて、それが全部で5個もあり、そのうちの一つは大びんの2倍はある特大びんだから、合わせて7ビン以上もあることになり、まだ3年ぐらいはもつだろう。
 ちなみに、今は取りに行くのが面倒ですっかり作らなくなった、北海道で作っていたコケモモの大びんが2個ある。もう10年も前のものだが、煮沸(しゃふつ)消毒瓶詰で冷蔵庫保存だから、私にとっては消費期限はないも同然で、いつでも食べることができる。

 『枕草子(まくらのそうし)』ふうに言えば・・・すさまじきもの、ため込んだジャムのびんを眺めながら、冷蔵庫の明かりに照らし出されてニタリと笑う、年寄りの横顔。

 それにしても、今年作ったウメジャムの量が少なくて気になっていたので、少し離れた所にあるいつものヤマモモの木の下に行ってみると、今年はもう足の踏み場がないくらいに落下散乱していて、木になっている実はもう数少なかった。(写真上)
 その落下しているもののうち、半分以上は痛みかけていて、その中からきれいなものだけ選んで持って帰り、きれいに水洗いしてさらに選別して、ヘタの部分を取り除き、そのまま鍋で煮て、それを裏ごしする段階でタネを取り除き、砂糖を加えて煮詰めて、ようやく大ビン1個分のヤマモモ・ジャムが出来上がった。
 三日前に作ったウメ・ジャムと合わせても、今年はわずか3個だけのさびしい年になってしまった。(写真下)
 これでは少なすぎる、もう一ビンくらいは作っておかなければと思っているのだが。



 
 こうして、ジャムづくりや庭仕事などは何とか終わらせたものの、梅雨明け後のいつもの遠征登山への決心はつかないままだ。
 違和感の残るこのヒザでは、とても縦走登山などはできないだろうし、交通機関を使って高い所まで上がり、日帰りで登れる高い山となると限られてくるし、立山か西穂高かそれとも乗鞍くらいだろうが、今一つ一日だけで行くにはもったいない気もする。
 一番いいのは、ヒザのことを考え、このままどこにも行かずに北海道に戻って、再びぐうたらな生活を続けることだが、それもなんだかなあー。

 とはいっても、私の好きなものは他にもあるし、特にこのところ、テレビ各社が夏の歌番組として長時間にわたる生中継放送をしていて、わがAKBグループも、そのすべてのチームが、AKBにSKE、NMB、HKTそして乃木坂、欅坂(けやきざか)と総出演の大盤振る舞いで、それらを長時間録画して、他の歌手たちのところは削除して、AKBグループのところだけに編集していかなければならないのだ。
 もっともそれが、後でAKBグループだけのメドレーとして、繰り返し見ることができる楽しみにもなるのだが。
 あらためて言うけれど、私は秋元康の作詞による歌を歌うAKBグループが好きなのであって、他のアイドル・グループに興味はないのだ(まして、ジャニーズ・グループの下手な男の子たちの歌など、とても聞く気にはなれないし)。
 まあ、その他の有名歌手たちの歌も一応は聞いてはいるが、録画保存したいとまでは思わないのだ。

 というわけで、ウメ・ジャムに不足し、山には登れずと、不遇(ふぐう)をかこっているような私でさえ、こうしてテレビでAKBを見る楽しみがあるということは、実にありがたいことなのだ。

 この孫娘たち、AKBグループのそれぞれのメンバーたちが、その後どのような人生を歩んでいくのか、もはや生きてはいない私のあずかり知らないところではありますが、なるべく多くの娘(こ)たちが幸せになれますようにと、じいさんは陰ながら祈るばかりであります。

(またしても、書き込み中に他のキーボードの部分を触ってしまい、一瞬にして書体や大きさまでもが変わってしまった。いつもの字体に戻せないままで投稿することになったが、他意はなく、あくまでも私の不手際によるものである。) 

 

 


一匹狼の遠吠え

2016-07-11 21:20:45 | Weblog



 7月11日

 前回、7月4日の項からの続きである。
 大雪山、高原温泉登山口から山に登り始めた私は、ヒザの痛みの不安を抱えながらも、何とか緑岳(2020m)の頂上にたどり着くことができたのだが、問題は、さてその先をどうするかだった。
 もう時間は12時になっていたし、ヒザの心配もあってここから戻るのが妥当なところなのだが、私は、これから先に行く道を何度も歩いていて、今の時期に何があり何が見えてくるかをよく知っていた。
 咲き始めたばかりの、高山植物の花たち・・・もう何度も見てきているのに、それでも今年もまた、あの美しく可憐な花々を見たいのだ。できるならば、あのウスバキチョウさえも。
 ここまで来て、いつもの花を見ないで帰ることができるだろうか。小泉岳の頂上まで行く必要はないし、その手前の、ゆるやかな小さなコブを二つ三つ越えた辺りまで行けば、十分なのだから。

 上空を見上げると、山々の上に雲は出ているけれども、すぐに天気を崩すような天気ではなかった。
 私は背中を押されるように、緑岳頂上からゆるやかに下る道を下りて行った。(写真上。左は白雲岳)
 反対側からは、若者が一人二人と、この緑岳へと登り返していた。
 朝6時前後に高原温泉を出れば、小泉岳からさらに白雲岳に登り、そこであの旭岳の残雪の縞模様の光景を眺めて、後は一気に戻って来て、12時になる今ごろちょうど緑岳というのは、確かに若者たちのコースタイムとしては、納得できるものだった。
 私も、かつてはそうだったし、そうしてより多くの景色を眺めてきた。 
 しかし今、私は年相応の時間をかけて、それでも若い頃よりは、よりありがたい思いを込めて山々の道を歩いているのだ。

 「・・・。
 ああ、自然よ
 父よ
 僕を一人立ちにさせた広大な父よ
 僕から目を離さないで守ることをせよ
 常に父の気魄(きはく)を僕に充たせよ
 この遠い道程(どうてい)のために
 ・・・。」

 (高村光太郎 「道程」より 『日本文学全集』集英社) 
 
 まず緑岳から下っていく前に、頂上付近では唯一緑濃い東斜面にある、湿性のお花畑をのぞいてみた。いつものように白いチングルマの花や赤紫色ののエゾノツガザクラなどが咲いていたが、こちら側の吹きさらしの砂礫地の縦走路には、途中でも見てきたように、あの黄色のミヤマキンバイや白いイワウメがモザイク模様に咲いていた。
 その他にも、いろいろと小さな花々たちが咲いていたが、やはりあの第一花園からの広大な雪の斜面が物語っているように、今年の山の雪は多く、そのために全体的に見て、開花の時期が遅れているようだった。
 私は何度も立ち止まり、腰を下ろしては小さな花たちの写真を撮っていった。
 まだ咲いていなかったものは、あの緑岳岩塊斜面での薄紫色のイワブクロや、この砂礫地での、白いチョウノスケソウや黄色のチシマキンレイカにキバナシオガマ、赤いエゾツツジにコマクサの花も見かけなかったし、いくつかがようやく咲きかけていた、薄紫のホソバウルップソウも数が少なかった。

 と書いてくると、まだ花には早すぎたとも思えるのだが、ハイマツのそばに咲くキバナシャクナゲ(黒岳からの縦走路付近の群生が有名で’15.6.30の項参照)や、上記のミヤマキンバイにイワウメ、さらにミネズオウにエゾオヤマノエンドウなどは今が盛りで、さらに白い花のチシマアマナも久しぶりに見ることができた。
 以下に二枚の写真をあげるが、一枚目のミネズオウは、その小さな花の勢いが、そばにある岩と相まって、ちょっとした石庭の趣さえ感じさせるし、もう1枚のエゾオヤマノエンドウの写真からは、他にも、周りに生えているウラシマツツジの新緑と、大雪山固有種であるエゾハハコヨモギのもえぎ色のもこもことした葉と、さらに上のほうには一輪だけのエゾコザクラが咲いていて、右上にはハイマツの枯れ枝も見える。





 
 この写真から見えてくるものは。
 一年中、強い風が吹きつけていて、冬でも吹きさらしになるいわゆる風衝地(ふうしょうち)にあって、ハイマツでさえ枯れてしまうほどの劣悪な環境の中で、わずかな夏のひと時だけの太陽の光と、乏しい土壌の上に根づいては、長い年月にわたって時代更新しては生き続ける植物たちの今ある姿、それを激しい生存競争の勢力争いの縮図とみるのか、あるいはお互いに身を寄せ合うことで(あの冬場のニホンザルたちの”猿だんご”のように)、過酷な環境から自分たちの身を守ろうとしているのか。
 私は、道の上に座り込んで、じっとその場の光景を眺めていた。

 緑岳から、途中何枚もの写真を撮りながらここまでで、もう40分ほどもたっていた。小泉岳の平らな頂上(2158m)へは、さらにこのゆるやかな斜面を30分ほど登っていけばいいのだが、今回は、もうここまで来れば十分だった。
 私は立ち上がり、来た道を引き返して行った。
 小さなコブが三つほどあり、その向こうになだらかに盛り上がる緑岳の頂があり、さらに遠くにトムラウシ山(2141m)も見えていた。山々の上には雲が広がってはいたが、山の姿を隠すほどではなかった。
 右手にはずっと、鮮やかな残雪模様に彩られた、白雲岳(2230m)と旭岳(2290m)の姿が見えていた。

 30分ほどかけて、緑岳頂上に戻り、そこで一休みして、旭岳の姿に別れを告げて、いよいよ、ヒザにとっては最大の難関になるであろう、岩塊帯の岩だらけの斜面を下って行った。
 なるべく、ヒザに大きな負担がかからないように、恐る恐るゆっくりと一歩一歩下りて行った。
 幸いにも、ヒザが痛むほどのことはなかったのだが、何しろ久しぶりの登山だから、脚の筋肉が疲れ果てていて、途中で二度ほど腰を下ろした。
 その私の横を、後ろから来た若者が、駆け降りるように下って行った。
 私にも、あんな時代があったのだと思いながら、高根ガ原から続く雪の斜面を見ては、さらなる彼方にあるトムラウシ山へと思いをはせた。

 さて、ようやく岩塊帯とそれに続く下り坂が終わり、ハイマツ帯のトラバース道から、あの大雪原の斜面に出る。
 雪は、ヒザにやさしく衝撃を受け止めてくれるし、その上にゆるやかな下りだから、雪の上をずんずんと下って行ける。
 それでも私は、二度三度とその雪面の上に腰を下ろした。疲れというよりは、周りに誰もいない雪原にひとりいることが、何とも言えずに心地よかったからだ。
 その雪原が終わる第一花園入口のあたりで、私は、雪原の彼方に並んでいる、緑岳から小泉岳、東ノ岳へと続く山なみを、しばらくの間見ていた。(写真下、比較、前回掲載の写真は朝10時ごろ)




 それは、今までに何度となく見てきた光景であり、何一つ目新しいものはなかったけれども、見慣れているからこその、なじみのある、安心できる居心地の良さが感じられる眺めだった。
 今年の山の雪は、おそらく久しぶりにと言ってもいいほどに、多くの残雪があって、実はこのあたりでも、いつもの年の早い時で7月初めに、そして遅くとも7月下旬のころまでには、雪がほとんど溶けていて、わずかに上のほうに残るだけで、この辺りの斜面には目も鮮やかに、赤いエゾコザクラやエゾノツガザクラの群落が、さらには多くを占める薄黄緑色のアオノツガザクラの群落で覆われているというのに。
 それでも何度も言うように、残雪の光景が好きな私には、そうした花々の群落が見られなくとも、何とも心が広々とすがすがしくなるような、大雪原がまだこうして残っていたことは、実にありがたいことなのだ。
 しかし、こんなヒザでは、もう再び来られるかどうかもわからないし、という思いにもなって、何度も振り返り緑岳を見た。
 
 そんな感傷に浸る間もなく、問題はそこからだった。
 雪がなくなってからの、登山道の下り道がつらかった。筋肉疲労とヒザの痛みも出てきて、階段状のところは一段ずつ降りていく始末で、ようやく登山口に着いたころには、もう4時にもなっていた。
 コースタイムからいえば、緑岳の先まで行ったにせよ、大体で6時間足らずで行けるところを、8時間もかかっているのだが、何よりもヒザがどうなるかとの心配を抱えながらの、久しぶりの登山で、何とか青空の下、最終目的の稜線の花々まで見ることができて、足の疲れはともかく、満足のいく山登りだったのだ。
 
 家に帰る途中で寄り道をして、いつもはなかなか会えない友達の家に行った。
 家族の皆としばらくぶりで話をして、山とともに心までやさしく包まれた気分になって、家路につくことができた。
 とはいっても、家までの途中には、すっかり夜になってしまい(できるならばあまり夜はクルマで走りたくはないし)、さらには脚がつってクルマのペダル踏むのがやっとになるしと、かなりヤバイ状態になったのだが、何とか家に帰りつくことができた。
 これも草葉の陰で見守ってくれている、母とミャオのおかげだと、神妙にも小さな仏壇の二人の写真に手を合わせたものだった。

 しかし、望外の喜びで充たしてくれた今回の久しぶりの登山には、それに見合うだけの大きな代償が待ち構えていた。
 翌日から、ひどい筋肉痛とヒザ痛に苦しむことになったのだ。
 平らな所では、何とかぎこちないまでも歩くことができたのだが、階段の上り下りは、もう苦行(くぎょう)に等しいつらさだった。
 脚の筋肉痛は、5日ほどで何とか収まったのだが、ヒザが治らない。ヒザ内部の違和感はもとより、裏側の痛みがずっと取れないのだ。
 市販薬の、コンドロイチン剤を飲み、ヒザを冷やし、あるいは湿布薬を貼ったところで、痛みはひかないし、いまだに階段の上り下りでは苦労する始末だ。
 じん帯の損傷は、少しずつひどくなっていき、最終的には手術をするしかなく、入院1週間にリハビリ3か月とのことだが、この病院嫌いのじじいにそんなことができるわけもなく、ただ今後とも、激しい運動をしなければ、普通の生活を送るのに差支えはないとのことで。

 つまり、今後はもう北アルプス縦走などの、何日もかけての山旅ができなくなるということであり、あとはせいぜい翌日の痛み覚悟で、日帰りの小さな登山をするしかないのだ。
 もうずいぶん前から、山登りの下りでヒザが痛むことはわかっていたのだが、少しずつ悪化してきていて、決定的だったのは、去年の北アルプス鹿島槍・五竜縦走(’15.8.4~17の項参照)の時の最後の日を、つまりキレット小屋から神城(かみしろ)まで、のんびりと二日で行く予定だったのに、その日の五竜小屋が超満員だと聞いて、無理してそのまま一気に遠見尾根経由で下ったことが、ヒザ痛ひどくなった最大の原因だと思っているのだが、普通の人には一日コースでも、年寄りの私にはさすがにこたえて、その時のヒザの痛みが以後も、ずっと残っている感じなのだ。

 もっとも、あれが私の北アルプス最後の山旅だったとすれば、まさしく掉尾(とうび)を飾るにふさわしい、素晴らしい天気の下での鹿島槍・五竜縦走の山旅であり、そのことに感謝こそすれ、後悔することなど何もないのだ。
 最高の天気の山旅一回と、あまり天気の良くないままの十年間毎年の十回の山旅、どちらかを選べと言われれば、私はためらうことなく前者を選ぶだろうし、それが展望登山派の私の山に対する思いでもあるのだ。

 ”ワオーン、ワウワウ”と、一匹狼の遠吠えが聞こえてくる。
 ”桐一葉(きりひとは)、落ちて天下の秋を知る”。 

 ところで数日前、私は九州のわが家に戻ってきた。いくつかの用事があって、さらにはまたいつものように、再び北海道に戻る途中で、北アルプスなどに行くつもりでもあったのだが、こうしてヒザを痛めていては、いかんともしがたく、あの2年前に、腰を痛めてただ寝ているしかなかった時(’14.7.28~8.11の項参照)と同じく、今年の私の夏山は。もう終わってしまうのだろうか。
 それでもやるべきことがあり、他の楽しみもいろいろとある。まずはここでの、ウメとヤマモモのジャムづくりであり、さらには地味に日本の古典を読んでいくことであり、そして総選挙後の、新しい選抜チームで新曲を出した、AKBの動向を、日々ネットやテレビで見ることでもある。
 本物の参議院選挙には、もちろん行きましたけれど、それが何か?

 たかが山登りができなくなったくらいで、落ち込んでいられるかい!こちとら、まだまだ”憎まれっ子、世に憚(はばか)る”ような、元気なじいさんだい!は、はっくしょーんとくらあ。 

  

 
  


山が好っきゃねん

2016-07-04 22:25:03 | Weblog

 7月4日

 数日前に、山に行ってきた。
 前回山に登ったのは、5月半ばのことだったから(5月16日の項参照)、一月半も間が空いたことになる。
 年を取ってきて、山に行くのが面倒になってきたというよりは、ヒザ痛という身体的な障害におびえて、山に行きづらくなったというのが本当なところだ。
 ここまでずっと書いてきたように、もう長い間ひざの状態が思わしくないのだが、それでも山に行きたい気持ちは、ふくれ上がってくる。
 そこで、いまだに多少の違和感が残るひざの状態が、山登りではどうなのか確かめたい気もあって、短時間で見晴らしの良い所に上がれて、悪くなればいつでも引き返せるような、そんな所にと考えて、やはり、いつもの大雪山に行くことにした。

 それには、表側の旭川側からロープウエイを使って姿見駅まで上がり、そこから高山植物の花が咲き始めたばかりの、姿見の池周辺を歩いて回るのが無難なところで、もしひざの調子が良ければ旭岳(2290m)に登るか、それともぐるっと回って裾合平まで行くかだが、ただし私が住んでいる帯広十勝方面から行くには遠回りになってしまうし、いつも観光客でにぎわっている遊歩道歩きではとためらってしまう。
 それでは、帯広十勝側からの、層雲峡ロープウエイで6合目まで上がり、1時間ほどで登れる黒岳(1984m)にするかだが、しかしこちらも観光客登山者が多く、さらには、その登山道途中の展望もそれほどの楽しみがあるとはいえないし・・・(黒岳頂上からの眺めは素晴らしいが)。
 そこで、残るのは二つ、登山口までクルマで行って、そこから歩くしかないが、すぐに展望に優れたポイントまで上がることのできる、銀泉台か、そこでヒザの状態が良ければ、さらにそこから先に駒草平や赤岳(2078m)へと足を延ばすこともできるし、もう一つは、高原温泉からの第一花園で、さらに先の緑岳(2020m)まで行くこともできるし。

 久しぶりの山で、さらに初夏の今の時期に私が見たいのは、咲き始めたばかりの山の花たちであり、さらには青空の下に広がる一面の残雪である。
 どちらとも、もう何回も行き来した道であり、それでも、帯広側から行けばより近い(10分も違わないが)登山口になる、高原温泉から山に登ることにした。

 昔は夜明け前に起きて、すぐにクルマに乗って出かけたものだが、今はもうそこまで焦ることもなく、日の出からしばらくたったころに起きて、それからようやく家を出たくらいで、途中の道路沿いのフランスギク(6月13日の項に書いたように駆除対象外来種だが)や、咲き始めたばかりのルピナス(のぼりふじ)の眺めを楽しみながら走り、三国峠のトンネルを抜けると、青空の下、谷間の向こうに、残雪豊かな旭岳から緑岳、白雲岳といった大雪山の山々が見えてくる。
 その先で、大雪湖近くの高原大橋を渡る。いつものことながら、まだ雪をたっぷりとつけた緑岳、小泉岳、東ノ岳、赤岳と並ぶ溶岩台地の連なりの山なみが素晴らしい。(写真上)

 そして着いた高原温泉の広い駐車場には、”ヒグマ・センター”や営林署関係者のクルマを除けば、ほんの数台のクルマが停まっているだけで、もっともこの高原温泉への砂利道も、冬季閉鎖からようやく開いたばかりのところでということもあったのだろうが、ともかく、これで静かな山歩きが楽しめるというものだ。
 数人ほどの先行者の名前がある、登山者名簿に記入して、歩き始めたころには、もう8時にもなっていた。
 しばらく前までならば、6時前後にこの登山口を出て、緑岳の先の白雲岳(2230m)まで行って、頂上からあの見事な旭岳の縞(しま)模様残雪を見ることもできるのだが、あるいは、いつものように、白雲小屋に泊まって翌朝、白雲岳に登って、そこから朝日に染まる縞模様残雪を見ることもできるのだが。(’14.7.8の項参照)

 まあそれは、今までにもう何度も登っているし、その時の記憶や写真がいっぱい残っているのだから、もう十分ではあるし、今回は何より、じん帯損傷のヒザがどこまで耐えられかの方が問題なのだ。
 この高原温泉口のコースは、最初にエゾマツ、ダケカンバの林の中の急な登りがあり、さらにいくらか低くなったダケカンバとササの山腹を上がって行くと、すぐに周囲が大きく開けた第一花園の大雪原に出て、ひざの状態が悪ければ、このコースタイムで40分ほどの、その雪原辺りまででもいいと思っていたのだ。

 登り始めて、確かにヒザに違和感はあるものの痛むというほどではなく、むしろ1か月半もの登山のブランクがあって、他に運動もしてこなかったことからくる体力の不安があって、ともかく一歩一歩をゆっくりとした足取りで登って行くことにした。
 そして、南側の展望が開ける、いつもの展望台に着く。
 若いころなら、登山口から20分もかからないほどだったのに、今回はここまででもう40分近くもかかっている。
 腰を下ろして、高原温泉沼巡りコースになる森を見下ろし、その上には、なだらかな溶岩台地として広がる忠別岳(1963m)方面が見えている。(写真下)



 小さな雲が一つ二つ浮かんではいたが、ほとんどは青空で、それほど暑くもなく、申し分のない天気だった。
 そして、ここまで何とかヒザが痛くならずに登って来られたことに、まずは感謝し、さらには、こうして大好きな残雪の山の姿を見ることができることにも感謝した。
 いつものルリビタキの声と、ウグイスと遠くでツツドリの声も聞こえていた。
 他に誰もいなかったし、静かだった。この道を選んで、良かったと思った。
 私が、今まで選んできた道は、すべてが最上の選択ではではなかったにせよ、少なくとも、今こうして山々を眺めながら、ひとりだけの安らぎのひと時にいるというだけでも、間違いではなかったのだと思う。

 今にして思えば、若い時の悦(よろこ)びは押し寄せる激情にあふれていて、それだけに刹那(せつな)的なものだったかもしれないが、年寄りになってからの悦びは、ひたひたと身に寄せくる安らぎにあふれていて、それだからこそ、いつまでも心に残るのだろう。
 そういえば、このブログでも何度も取り上げている、あの貝原益軒(かいばらえきけん、1630~1714)の『養生訓(ようじょうくん)』は、やはり年寄りになってからこそ、読み返すにふさわしい本だと思っていて、もちろんそれは、養生し長生きするためにと書かれた、様々な衣食住の条項を開いて読むということではなく、むしろそのあたりのことは読み飛ばしても、ところどころに年寄りの心構えとして書いてある様々な事柄こそが興味深く、そこに、今の時代も変わらぬ、人が生きていくための単純で複雑な心のあやを感じ取り、自分なりに読み解いていけばいいのだと思う。

 「・・・。
 老後は・・・つねに月日を惜しむべし。
   心、しずかに、従容(しょうよう、いつもと変わらず)として余日を楽しみ、いかりなく、欲すくなくして、残躯(ざんく、としおいたからだ)をやしなうべし。
 老後一日も楽しまずして、空しく過ごすは惜しむべし。老後の一日、千金にあたるべし。」

 「・・・。
 つねに楽しみて日を送るべし。
 人をうらみ、いかり、身をうれいなげきて、心を苦しめ、楽しまずして、はかなく、年月を過ぎなん事、おしむべし。
 かくおしむべき月日なるを、一日も楽しまずして、むなしく過ぎぬるは、愚(おろか)なりというべし。
 たとい家まどしく(貧しく)、幸(さいわい)なくして、うえて死ぬとも、死ぬる時までは、楽しみて過ごすべし。
 貧しきとて、人にむさぼりもとめ、不義にして命を惜しむべからず。」

  「年老いては、ようやく事をはぶきて、少なくすべし。
 事をこのみて、多くすべからず。
 このむ事しげければ、事多し。事多ければ心気づかれて、楽しみをうしなう。」 

 (『養生訓』貝原益軒 現代語訳伊藤友信 講談社学芸文庫) 
 
 これを、自分なりに勝手に解釈すれば、”年を取ってからは、怒ることもなく、欲に溺れることもなく、ただ心静かに、すべてのことを受け入れて、一日一日を楽しい思いで生きて行けばいい。今さら、他人のことにかかわり、あるいは自分のことで、いろいろと嘆き苦しんで何になるというのか。貧しければ貧しいなりの楽しみがあり、そう考えて、死ぬまで楽しく生きていったほうがいいのだし、そのためには、悩みのもとになる身辺雑事は減らして、幾つかの自分の好きな事ことだけをやっていけばいい”のだと。

 つまり、今の私の、”脳内天気”的な考え方と、他人に迷惑をかけずに、自分の好きなことだけを楽しんでいくという、ぐうたら、隠居生活にふさわしい、まさに”お墨付き”の書きつけをもらったようなものであり、思えば年寄りはすべて、今さら”老いては子に従い”的に、年下からどなられ指図されることにはなれておらず、むしろこの年で言うのは何だが、”ほめられて伸びるタイプ(年寄り)”だからなのだろう。

 さてと腰を上げて、まだ一面の雪に覆われているだろう、あの第一花園を目指して登って行く。
 一昔前までは、この道は残雪の雪解け水で、あるいは雨の後などは、ひどいぬかるみになって、長靴でなければ無理なぐらいだったのだが、年々登山道改良化が進み、今では多少水にぬれるところもあるにせよ、登山靴で十分に歩けるようになったのだ。
 そして、木々が低くなり明るくなって、周囲が開けて、前面に大きく雪原が広がっていた。
 その雪原の向こうには、目指す緑岳から小泉岳(2158m)にかけての山塊が横たわっていた。(写真下)

 

 この光景を見ることこそが、ヒザに不安を抱える私の、今日の第一目標でもあったのだ。
 この雪原をしばらく歩き回り、あるいは腰を下ろして山々を眺めて、ひと時を過ごすことができれば十分だと思っていたのだ。
 何という、雪原の広がりだろう。雪面に流れる涼しい風、青空、山、他に誰もいない、一羽のルリビタキの声。
 ここまでで、もう戻っても良かったのだが、幸いにも私のヒザは、まだ大丈夫だった。
 そして、ここからは、私の大好きな雪原歩きが始まる。
 ゆるやかな勾配の雪原では、アイゼンは不要で、むしろ登山靴のトレッドパターンで、程よい硬さの雪を踏みしめて行くのだが、何と心地よいことだろう。
 これだから、残雪の山歩きはやめられないのだ。

 私は、何度も歩みを止めては、周りの景色を眺め、写真に撮り、また腰を下ろして休んだ。
 振り返ると、歩いてきた雪原の彼方に、音更(おとふけ)・石狩岳(1967m)連峰から二ペソツ山(2013m)へと連なる、東大雪の山々が見えていた。
 山の稜線には、雲がついていたが、山の姿を隠すほどではなく、その上空には変わらず青空が広がっていた。
 広大な自然の中に、包み込まれているという安心感と、それとは逆に、広い自然の中に解き放たれているという開放感の、相反する二つの感情の中にあって、私はもう何も考えてはいなかった。
 生きているということは、そんな思いの間を行き来することであり、また死んでいくということは、こうした混沌(こんとん)とした、空間の狭間(はざま)にいる、ということではないのだろうか。

 今は厚い雪の下にある、第一花園から第三花園に至る、1キロ以上にも及ぶ長い雪原歩きだが、昔、何の目印もないこの雪原で、ガスに包まれていて足跡も定かではなく、道に迷ったことがあるが、今では雪原上にしっかりと道標がつけられていて、ガスの中でも迷うことはないだろう。
 最初のうちは、着色剤のベンガラや雪山用のポールや旗竿(はたざお)だったが、今では途中の道での邪魔になるだけだったササが切り取らて、そのササにテープが結び付けられ等間隔に立てられていて、なるほどと思った。
 これなら、ベンガラやポールのように余分な手間がかからなくていいし、と納得したのだが、ただ写真に写り込むのだけは少し気になってしまう。
 
 さて、崖地になった所で、雪原歩きは終わり、これからは山腹に沿って、背の高いハイマツ帯下をトラヴァースして回り込んで行くのだが、その途中で大きなザックで下りてくる人に出会った。今日出会った初めての登山者だったが、それにしても、ああヒザが悪くなかったら、私もいつもの年のように、白雲小屋に泊まって二日間かけて、この大雪山の初夏を楽しむことができたのにと、少し残念に思った。
 もっともそんなことより、今は目の前にあるこの景色を楽しむだけだ。
 そして、これからが緑岳の登りになるという辺りからは、道の両側に、黄色いミヤマキンバイとメアカンキンバイが隣り合わせになって咲いていた。(写真下)



 遠くに高根ヶ原の残雪斜面が見えて、ああ今、大雪山の山道を歩いているのだと思う。
 ”やっぱ、山が好っきゃねん。”

 ハイマツやナナカマドの下には、白いエゾイチゲの花や、薄黄色のキバナシャクナゲの花が咲いていた。
 そしていよいよ、緑岳名物の岩塊帯斜面の登りが始まるが、この辺りですっきりと周りの見晴らしが開けてきて、遠くにトムラウシ山を眺めながら、いつもここで一休みをするのだが、若いころには登山口からここまで1時間もかからなかったのに、今日は、なんと2時間近くもかかっているのだ。

 今回のヒザに不安を抱えての登山では、第一の目標があの第一花園の雪原であり、さらに行けるなら、この高根ヶ原や高原沼群に、遠くトムラウシ山までもが見える、ここまで来ることが第二目標だったのだが、一休みしてまだまだ歩けそうだったので、さらに、この岩塊帯斜面のジグザグ道を登って行くことにした。
 ヒザは何とかもちこたえているが、岩の上でバランスを崩して転んでしまえば、ヒザは大きな衝撃を受けることになるし、ともかく用心深く足元を見つめ、それだけではなく、何しろ一か月半もの間が空いての登山で、息も切れて脚も重たく、一歩一歩がやっとの思いだった。

 ただ、途中の所々の岩の間には、白いイワウメや薄赤のミネズオウにコメバツガザクラなどが咲いていて、それが慰めだったが、それでも今年は下の雪原の雪が多かったように、平年よりは花の時期が遅れているらしく、とうとう一輪のイワブクロ(タルマエソウ)の花さえ見ることができなかった。
 あの冴え冴えとした、薄紫色のぼってりとした花を見たかったのに。

 さらに下の方から、鈴の音や話し声が聞こえてきて、夫婦らしい二人が登ってきていた。
 そのことが、少し気にもなりながら、幸いにも彼らに抜かれることもなく、先に緑岳の頂上に着いた。
 そこには、期待通りのいつもの光景が広がっていた。
 岩礫帯に点々と咲く、黄色いミヤマキンバイと白いイワウメの花を前景にして、右手に熊ヶ岳と間宮岳を従えて、残雪豊かな旭岳(2290m)が見えている。(写真下)



 振り返れば、今登ってきた岩塊斜面の向こうには、まだ半ば雪に埋もれた高原沼群があり、東斜面に残雪をつけた高根ヶ原の溶岩台地は、さらに忠別岳から化雲岳(1954m)へと高まり、その向こう遠くには王冠のような山頂部が印象的なトムラウシ山(2141m)が見え、その右手さらに遠くかすんで、十勝岳連峰も見えていた。
 昼に近い時間で、雲は出ていたものの周囲の山々にかかることもなく、この展望は申し分なかった。
 もちろん、こんな遅い時間に着いたということは、朝家を出るのが遅かったにせよ、なんと4時間もの時間がかかっていて、若いころにはいつも2時間かからずに登っていたのにと、改めて、ヒザの不調と、体力の低下を思わないわけにはいかなかった。
 ただし、行く前に心に決めていた第三の目標である、緑岳山頂まで来たのだから、これで後はヒザに負担がかかる下りのことを考えれば、登りと同じくらい時間がかかるとみて、もうすぐにでも引き返すべき所なのだが、実はここから次の小泉岳までの間が、高山植物の花々が多い所なのだ。
 
 やがて、あの下に見えていた二人が登って来て、さらにもう一人、そして反対側の小泉岳の方からも一人、そしてもう一人と登って来ていた。
 登山口に戻りつくまでの時間、下では風呂にも入っていきたいし、久しぶりに友達の家にも寄っていきたいし、といって家に帰るのが夜になるのは嫌だし、せっかくここまで来て、あの高山植物の花たちは見たいし、何よりもヒザの心配もあるし・・・。
 優柔不断な、私の思いは千路(ちじ)に乱れるばかり。

 ここまで書いてきて、もうかなりの長文になってしまったので終わりにするが、ほんの日帰り登山のことを、二回にまで分けて引き延ばすのは、いささか思わせぶりな気もするが、いつものことで途中横道にそれて余分なことまでを書いたためだと、反省しきりなのです。

 ”やっぱ、山が好っきゃねん。”