ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

「天国は待ってくれる」か

2020-12-21 21:56:49 | Weblog



 12月21日 
 
 何とも言い訳のつかないほどに、またしてもこのブログ記事の間隔を空けてしまった。
 前回からはもう3週間もたっていて、もはや今では自分の怠慢(たいまん)さによって、このブログ記事は、記録として残すべき日記補完の体(てい)をなさなくなっていて、今では断片を集めた備忘録でしかないのだが。それでもよろよろと立ち上がり、拙(つたな)き文章を書き連ねるのは、思えばそれが自分が生きていることの、一つの形として、かそけき風の音のように響いてくるからである。ひとつ、ふたーつ、みぃーつ・・・。

 前回に書いたのは、もう一か月以上たってからの鶴見岳登山記録であり、その2週間後には、同じ山系にある志高湖小鹿山(おじかやま、728m)への、秋のハイキングを楽しんできた。
 この山には、春にも登っていて(4月13日の項参照)、観光地で有名な志高湖のそばにありながら、登山者の少ないその静かなたたずまいが気に入って、紅葉の時期にも歩いてみることにしたのだ。
 それでもさすがに、この時期の志高湖岸は人気のキャンプサイトとして幾つものテントが張られていて、多くの人でにぎわっていた。
 整備された園地には、植えこまれているモミジの樹々の紅葉が今を盛りにときれいだった。(写真上)

 湖岸をめぐる道から離れて、左に山側に入って行く。ゆるやかな登りの道が続く。
 林の中の、枯葉の散り敷いた道を、ひとり小さな足音を立てながら歩いて行く。
 時々立ち止まると、再び静寂の林に戻り、遠くで鳥の声が聞こえていた。(写真下)



 やがて、広い幅を取った防火線のある尾根に出て、しばらく行くと最後に急な斜面が二か所出てくる。
 息を切らしてたどり着いた山頂からは、別府市街地と海、それに国東(くにさき)半島が見えるだけで、そばにある由布岳鶴見岳はもとより九重山群の姿さえもが、木立ちに囲まれていて見えないのが残念であった。
 前回は来た道を戻ったのだが、今回は初めての東側の急斜面の道をおそるおそる下り、青少年センターに出て、そこから車の通れる道を歩いて、神楽女湖(かぐらめこ)から志高湖に戻った。
 その日は雲の多い一日だったが、最後に日がいっぱいに差してきて、園内の今が盛りのケヤキやコナラなどの黄葉が青空に映えていた。(写真下)



 結局その日は、その2時間ほどのハイキングだけだったが、年寄りの山歩きにはほど良い時間だった。
 もちろんその後も、山には登らなくとも、ひと月に2回ぐらいは、わが家から行ける2時間ほどの山麓歩きのトレッキングを楽しんでいる。
 それは健康を考えての運動というのではなく、ただ山野を歩きたくなるというだけのことなのだが。
 というのも、自分のいかつい風貌(ふうぼう)と体つきを考えてみれば、遠い祖先から受け継いできた野生の血が騒ぐということなのかもしれない。
 ”おまえの先祖はクマか、イノシシか”と言われれば、あながち否定できない私がいるのだが。
 そのクマさんも、今ではすっかり年を取ってクマじいになってしまった。
 これからは、このブログで高い山に登ってきたことなどは書けなくなるだろう。昔は登ったという炉辺話(ろへんばなし)だけで。
 それでいい、自分の人生、年相応に生きて行けばいいだけの話だ。

 上にあげた、春にトレッキングで登った山の話のところで、コロナ禍についても少し触れているが、それは、今も状況は変わらずというどころか、さらにひどくなっているようだし、より強い感染力を持った新しい変異種が見つかったとのニュースも流れている。
 それなのに一方では、株価高騰に沸いている金融界の話など、まるで末世の阿鼻叫喚(あびきょうかん)の世界に至る、狂乱社会の混迷ぶりさえもを思わせる。
 こうした疫病の蔓延(まんえん)は、当時も書いていたように、分をわきまえずに利益だけをむさぼっては、自分たちだけを進化させようとする、人類に対しての”神の怒り”と考えられなくもないのだが。
 ただ今にしてみれば、私たち年寄りは平和ないい時代に生きてきたと思うし、苦い経験を味わう時があったにせよ、多くのありがたくも楽しい時間を過ごさせてもらったような気がする。

 もっともよく見れば、それらもすべては、幸不幸ともに半分半分の法則の中にあるものだろうが。
 ものは考えようなのだ。
 自分だけがなぜにと、他人をうらやみ自分の不幸を嘆いたところで、ただ自分が惨めになるだけで、何も状況は変わらない。
 つまり事実は事実としてそこにあるだけのことで、誰かの人や物のせいではなく、それを受け取る側の考え方の問題でしかないのだ。
 そうなのだ。自分が今ある不幸をすべて背負っているように考えるよりは、実はその裏に今まで同じくらいの幸運があったのだと気づいたり、あるいはこれからその分の幸運が来るはずだと考えたほうが、これから生きて行くうえでは大事なことなのだと思う。
 さらには、今幸せだと思っていても、実はその後ろに大きな不幸があるかもしれないと身構えていたほうが、実際に遭遇した時の衝撃は少なくなるだろうし。すべてはプラス・マイナスが同じようになっていくのだ。

 少し離れた時代の哲学の話になるが、古代ギリシア時代に一世を風靡(ふうび)した、エピクロス学派の唱えた、”快楽を求める”こととは、もちろん単純な本能的快楽主義を意味したわけではなく、精神の平穏さを求めるためのものであり、ものの考え方として、自己訓練としての心地よき精神状態への追及だったのだと理解できる。
 他方、そのエピクロス学派とは対極の考え方として知られる、あのストア学派の、ストイックな自己節制から得られる、平穏な生き方は、その底辺で、実は同じ心の安定さを求める生き方につながっていると思うのだが。
 ただ付け加えるとすれば、これらの思想は、若い人たちに教え諭(さと)すものではなくて、あくまでも様々な体験をしてこれから老境に差しかかろうとしている人たちにこそ、聞いてほしかったことなのだろう。
 つまり逆に言えば、いつの世にも地位に金に執着する年寄りたちがいるからこその、彼らへの諫言(かんげん)でもあり、穏やかな余生への提言でもあったのだろう。

 さていつものように、少しわけのわからない世迷いごとなどを長々と書いてしまったが、とりあえずは、このところのテレビなどで見知ったことについて、いくつかの感想を書いておくことにする。
 まずは、NHKのドキュメンタリー番組「目撃!にっぽん”」の再放送から、林業が盛んな奈良県は吉野地方に住む、44歳になる”空師(そらし)”の話であるが、彼は父親の跡を継いで、今では一流の空師になり、地域にとってはなくてはならない存在になっている。
 空師とは、伐採作業車やクレーン車が入れない、山奥やあるいは市街地などで、高い木の枝切りや伐採などを請け負うチェーンソー作業者であり、特殊技能者としても登録されていて、外国にも同じ技術者がいて、たとえばイギリスなどでもArborist(アルボリスト)と呼ばれていて、その技術は高く評価されているが、危険な作業であり、毎年数人の死者が出ているとのことである。

 まずその一つの作業現場として、樹齢200年高さ30mといわれるトチノキを伐採するところが映し出されて、彼はスパイク靴をはき、胴綱と呼ばれるロープや命綱のザイルなどを使って、クライマーのように自分の身を確保して、そこで木を登って行き、上部の枝はらいをして、必要な大きさに上から順に切っていく。
 私も、北海道の自分の家に続く林の中で、毎年傾いたりしたカラマツの木の伐採をしていて、それでも周りの木に倒れかかり苦労するのだが、あんな高所で大型のチェーンソーをよく使えるものだと感心することしきりだった。
 さらには、彼は山の中で一本の木を倒す時は、その倒す方向を見極めて、その途中にある他の幼木を巻き込み倒さないように気をつけているとのことで、それはせっかく伸びてきた若木を倒したくないからだと言っていた。
 その思いは私も同じで、自分の家の林をカラマツとの混交林にしたいために、伐採時には、なるべく他の広葉樹などを巻き込まないように、気をつかっていて、同じように考えている人にうれしくなってしまった。
 普通に皆伐(かいばつ)を繰り返す伐採地では、そんなことなど気にせずに順に切り倒していけばいいだけの話しなのだが。

 ともかく35分余りのその番組を、食い入るように見続けたのだが、興味のない人には見る気にもならない話なのだろうし、林業や伐採作業に関心のある人たちだけの、いわゆるマニア向けの番組だったとは思うのだが。
(さらに余分なことを付け加えれば、上にあげたイギリスでのArboristという名前の起源をたどれば、バルト三国の一つであるエストニア人の現代音楽の作曲家、アルボ・ペルト(Arbo Pärt)のArboという名前と彼の作品に”ARBOS"(ラテン語で樹木)というアルバムがあることで、木とのつながりが感じられる。)

 次に先日NHK・Eテレで放送された”ベートーヴェン生誕250年記念演奏会”からであるが、私たちの世代ならば若い時代から知っている、今や巨匠と呼ばれる演奏家たちによる演奏会であり、まずはブロムシュテット指揮、アルゲリッチによるピアノ協奏曲第1番で、第2楽章ラルゴのアルゲリッチの深いリリシズムに思わず聴き入ってしまった。
 次にピアノ、ヴァイオリン、チェロによる三重協奏協曲で、バレンボイム、ムッターにヨーヨー・マ・という夢の組み合わせで、何と40年前に同じ顔触れで録音されている。しかし何といっても超豪華という点では、カラヤン指揮によるリヒテル、オイストラフ、ロストロポーヴィチのレコード史に残る組み合わせが忘れられない。
 最後には、最後期のピアノ・ソナタの31番と32番。ショパンコンクール優勝のテクニックで若い名人の名をほしいままにしていたポリーニも、巨匠と呼ぶにふさわしい齢になり、一音一音に込める音に彼の思いがあふれていた。これらの30番からの3曲の後期のソナタは、その前に29番の”ハンマークラヴィア”という大曲があるために、目立たないかもしれないが、私の好きな曲であり、ポリーニの名盤よりも、バックハウス、ケンプ、ゼルキンなどの老ピアニストたちが弾くレコードCDに、味わい深いものがある。

 最後に映画を一本。「天国は待ってくれる」1943年のアメリカ映画で日本公開は何と1990年。
 もちろん私も、このNHK・BSで初めて見た映画なのだが、このブログにあげたておきたいと思うほどの作品だった。(もっとも、ネットの映画評の中には、何の見所もない映画で無駄な時間だったとの悪評もあったが、せっかく見た映画をもったいない評価の仕方だと思う。人それぞれではあるが。)
 ソフィスティケイテッド・コメディーと呼ばれるにふさわしい、しっかりと構成された監督(エルンスト・ルヴィッチ)に脚本と撮影、そしてはまり役のやや前時代的なキャスト、すべてが興味深いものだった。
 私はこの2時間近い映画を一気に見てしまい、その当時のアメリカの洗練された中上流社会のコメディタッチの描写に感心してしまった。当時日本は、太平洋戦争のただなかにあり、言論芸術が統制されていたころなのに、このアメリカでは、戦争とは全く関係ない所での一般家庭のコメディ-・ドラマが作られていたのだ。

 ストーリーは、主人公のヘンリーが美人看護婦に見守られて息を引き取り、トンネルを通ってあの世の入り口にやって来る。
 そこには礼服を着ていかつい顔をした、日本でいう閻魔(えんま)大王がいて、地獄に落とすか天国に上げるかの差配をしていた。
 ヘンリーは、自分の女遊びのせいで地獄に落とされるだろうと思っていたのだが、その地獄の大王は、まずは彼の告白を聞いてみることにする。
 若き日のプレイボーイぶりから、ある日いとこの婚約者に会い、彼は略奪結婚をしてしまう(後の「卒業」を思い出させる)。その後は幸せな家庭生活が続くが、一度他の女に手を出し、妻はカンザスの実家に戻ってしまうが、必死の説得で彼女は戻って来る。それからは波風のない日々が続き、二人は年老いて彼女が先に亡くなってしまう。老齢になった彼は、寂しさから若い娘とデートしていたが、ついにある日倒れて、美人看護婦に看取られ笑顔を浮かべて死んでいく。そんな話を聞いて、大王は天国で待っている彼の妻などがいるからと、彼を天国へのエレベーターに乗せるという、ハッピーエンドの他愛もない話なのだが、途中のウィットを含んだ洗練された会話(少しだけ後のニューヨーク派のウッディ・アレンの映画を思わせる)や、主人公の夫婦(ジーン・ティアニーとドン・アメチー)、彼女の故郷のいかにも田舎じみた両親、地獄の大王などのマンガ的な配役が、まさにコメディーなのだ。

 長く生きていればそれなりに、楽しく思いがけないめぐり逢いもあるものなのだ、もちろんその分哀しい別れに遭遇することにもなるが。

 数日前から、急に寒くなり二日間雪の日が続き、1,2㎝積もったがすぐに溶けてしまった。それ以来、毎日最低気温はマイナスになり、最高気温も5℃くらいまでしか上がらない。家の中でも厚着しているから、それほど気にはならないが。
 もっとも、群馬県水上町の2mに及ぶ積雪や、北海道喜茂別町のマイナス25℃から比べれば何ということはないのかもしれないのだけれど。

 最後にいつもの『新古今和歌集』からの一首。

”嘆きつつ 今年も暮れぬ 露の命 生けるばかりを 思い出にして” (俊恵法師)

(『新古今和歌集』久保田淳訳注 角川ソフィア文庫)


紅葉の愉しみ

2020-12-01 21:02:38 | Weblog

 12月1日

 10月に北海道に行ってきて、このブログ記事を1か月ほど空けてしまい、その期間の埋め合わせがまだ追いついていない。
 それで今回の記事も、依然として1か月前の話しを追うことになる。

 九州に戻ってきてすぐ、今が盛りの九州の山々の紅葉を見るべく、すぐにでも出かけたいと思っていた。
 しかしこの時期には、もっとも人気のある九重の山々の駐車場は、早朝からいっぱいになっていて、クルマを停める場所だけでなく、登山道にも人があふれているだろうし、そんな混雑の中ではと、このか弱い年寄りは二の足を踏むことになる。
 ということで、もともと静かな山歩きを好む私としては、コロナ禍という状況下もあって、紅葉が盛りのこの時期の九重はあきらめることにしたのだが。
 しかし、今年の九重は紅葉の当たり年だったそうで、ネットには、この九重山群内の黒岳、大船山、三俣山、星生山などの、紅葉名所の鮮やかな写真が掲載されていたから、多少くやしい気もしていた。
 もっとも、初秋のころ9月の終わりに、かすかに色づいた扇ヶ鼻へと行ってきたのだから、それだけでも見なかったよりはましだと思うことにしよう。(10月5日の項参照)

 さて、それではどこに行くか、祖母・傾山群では年寄りには荷が重すぎる。
 阿蘇(南阿蘇や根子岳)、さらには由布・鶴見などを考えて、結局、鶴見岳(1375m)に行くことにした。
 体力に自信のない私には、何しろ山頂付近にまでロープウエイで行けるという利便性が、魅力的だ。
 もっとも行きも帰りも利用したのでは、頂上付近の観光散策にしかならないので、上りか下りの片道だけ使ってあとは山道を歩くことにした。
 しかし、今年の初夏にミヤマキリシマ・ツツジを見るために、上りにロープウエイを利用して、楽な下りは山道をと考えて下りてきたのだが、なんとその下りだけの歩行によってひざを痛めてしまい、ほうほうの体(てい)でロープウエイ駅の駐車場にたどり着いた、という苦い経験がある。(6月14日の項参照)
 
 そこで、今回は登山道を登って、下りにロープウエイで降りてくるということにした。
 由緒ある御嶽権現(おんたけごんげん)火男火売(ほのおほのめ)神社の手前にある駐車場(標高700m)にクルマを停めて歩き出す。
 始めから神社への長い石段の登りで、今までに何度も登ったことがあるから分かってはいるものの、息が切れて時々立ち止まってしまった。
 さらに急な山腹をジグザグに上り、その上の方でなだらかになった山腹に出て、そのあたりでスギの植林地も終わり、自然林の林になり、そこがちょうど上から降りてきた紅葉の始まりの所で、薄緑から薄緋色になり始めた樹々の色合いが素晴らしかった。(冒頭の写真)
 その少し先の分岐の所で、腰を下ろして一休みする。
 上空のほうで少し風の音がしている。鳥の声も聞こえない。
 ここまでゆっくり登ってきて、1時間余り、誰にも会わなかった。
 自然の中に在るということは、かくも心落ち着き穏やかになるものか。まさしく、値千金のひと時だと思う。
 そこでふと思ったのだ、私は恵まれている方なのだろうが、世の中にはそうでない人が数多くいるのだと。

 最近のコロナ禍の中で、人々の閉塞感が広がり、自殺者が増えて問題になっているという。
 特に若い女性の自殺者の数が倍増していることは、ゆゆしきことであり、すぐにでも各行政機関が援助の手を差し伸べるべき、喫緊(きっきん)の課題であり、大げさに言えば、この問題は日本亡国論にも値するものだとも思うのだが。
 さらには、中高年者の引きこもりまでが増えていて、先日のNHKスペシャルでは、「ある、ひきこもりの死」として放送されていたのだが、その男が引きこもりになってから部屋をゴミ屋敷化させて、ついには孤独死してしまう一部始終を取材していたが、その中で哀れだったのは、ノートに書かれていた”生きていても、ちっともいいことはなかった”という言葉だ。
 個人責任論、社会、国家責任論を言うのは簡単だが、将来にわたっての現実的施策としの対策が実行されることがのぞましいのだが。

 そんな中で思い出されるのは、前にも書いたことのある、パキスタンの女性活動家、マララ・ユスフザイさんの言葉だ。
 ”一人の子供、一人の教師、一冊のノート、一本のペンが、世界を変えられるのです。教育以外に解決策はありません。”
 相変わらずの紛争のただ中にあり、貧困の連鎖、社会国家の脆弱(ぜいじゃく)さの中にある彼女の国パキスタンと、平和な社会の中で高度な教育が受けられる日本とでは、比較するまでもないことだが、彼女の言葉を一般論としてみれば、教育の本質を見事に言い当てていると思うのだ。

 つまり、心の貧困さの連鎖は、自ら学び取り求める心がなければ、何も変わらないということにおいて。
 私たちが、学校で社会で学ぶ多くのことは、人生のすべての面において役に立つことばかりだし、そこで学んだものは、それから先の人生において、自分の人生の方向を選択する際に間口を広げてくれることになるからだ。
 具体的に言えば、例えばしろうとの私が北海道で丸太小屋を建てた時には、数学物理の様々な数式が役に立ったし、海外旅行、国内旅行ではもともと好きだった人文地理や世界史の記述をたびたび思い出すことになったし、そこから派生した地図をたどっていく探求心は、今でも山登りの際に活用しているし、国語や古文は今に至る読書の楽しみの礎(いしずえ)を築いてくれたし、家庭科で教わったものは、一人暮らしの時の助けになったし、社会に出てから知ったクラッシック音楽や絵画、映画などは、学校での美術や音楽の基礎があってこそのものだし、今に長く続く私の楽しみにもなっている。

 おそらく、若いころに学んだことで後の人生でためにならなかったことなど、何一つないのだ。たとえ、それが失敗や屈辱にまみれた体験であったにせよ、次なる時に活かすことのできる、有意義な経験教訓になるからだ。
 かと言って、それらのことを学び取ったから、そのことで、人生での成功を導くようになるとは限らないし、功利的なものだけを期待してはいけないことは、言うまでもないことだ。
 私は、他人に誇れるものは何もないし、社会的な成功も収めることができずに、ただの”ごくつぶし”の人生を送っただけの、ぐうたらな男としての一生を終わるのだろうけれども、今ここに在る貧しく穏やかな自分の境遇には満足しているのだ。
 静寂に伴われた暮らしの中で、老年に至った今、なるほど私の今までの波乱の人生は、ここに収斂(しゅうれん)されていたのかと気づいたからだ。

 そういうことなのだよ、とひとりつぶやきながら、私は腰を上げ、直接山頂に向かう道とは分かれて、側火山の一つである南平台へと山腹をまわりこんで行く。
 急なスギの植林地をジグザグに登り、木々が低くなってくると、谷あいの向こうに側に、まだらな紅葉模様に彩られた鶴見岳山頂部が見えてきたが、山頂部に電波中継用の大きな鉄塔が並んでいて、あまり見てくれのいいものではなかった。 
 すぐに、ゆるやかなススキの丘に出る。南平台(なんぺいだい、1216m)だ。
 ここからの展望は、何と言っても正面に由布岳が見えることだ。四季折々に、この南平台には来ているのだが、やはり一番いいのは、冬の霧氷や雪に覆われたころだろう。
 少し休んで、南側の見晴らしのきく大きな岩の所に行って見ると、やはり素晴らしかった。
 鞍ヶ戸(くらがと、1344m)の急な山腹を彩る見事な紅葉模様は、山頂手前の地震による崩壊跡(通行禁止)でさえ、一つのアクセントに思えるほどだった。(写真下)



 そこからゆるやかに下り、西の窪(くぼ)の平坦地に出ると、障壁のように連なる鞍ヶ戸の南面の紅葉が迫ってきて、さらには辺りの樹林帯の紅葉が、まるで絵の具を混ぜたようにひときわ鮮やかだった。(写真下)



 この付近で上から下りてくる人、一人ずつ3人と出会い、小声であいさつした。
 ここから、鞍ヶ戸と鶴見岳とをつなぐ尾根のコルになった所、馬の背への九曲がりのジグザグの登りになる。
 やっとのことで、その馬の背にたどり着くと、鶴見岳北面にある火山噴気孔が見え、周りの紅葉も見事だった。
 またここでも一休みした後、山頂に向けての最後の登りになるのだが、情けないことに、突然足がつり始めて、最初は少しだけだったが、もう歩けないほどになって、まさか助けを呼ぶほどではないにしても、焦ってしまった。
 足がつるのは、特に年寄りになってきてから何度も経験しているから、ともかく腰を下ろして休みマッサージしてみた。

 山を登っている時に足がつるようになって、ひどくなったのは、あの8年前の、今にして思えば最後の南アルプス縦走の時で、大樺沢雪渓を八本歯のコルまで詰めて、そこから北岳に向かおうと思っていたのだが、そこで休んでいざ立ち上がった時に、もう足がつっていて、何とか分岐点まで行ってはみたものの、もう登りは無理だからと北岳はあきらめて、花々の咲くトラヴァース道をたどり、何とか北岳山荘に着いたのだが、たまたまそこに大学診療班が来ていて、見てもらったところ、原因は足を冷やしたこと(雪渓の登りで)、そして水分が不足していたから(確かに余り水を飲まなかった)とのことだった。
 しかし、翌日には脚の痛みは収まっていて、朝早く北岳(3192m)を往復して、それから間ノ岳(3189m)へと縦走し、熊ノ平小屋で泊まり、翌日念願の快晴の塩見岳(3052m)の頂きに立ち(それまでは2回ともガスの中だった)、その日は三伏峠小屋に泊まり、翌朝烏帽子岳(2726m)まで往復して戻り、伊那大島に降りた3泊4日の山旅だった。(2012.7.31~8.16の項参照)

 ともかく今回は、その場で腰を下ろし脚をマッサージしながら少しずつ登り続けて、途中からは由布岳と鞍ヶ戸の素晴らしい光景(写真下)をカメラに収めながら、観光客でにぎわう山頂に着いた。
 そうして、足がつったこともあるが、ここまで4時間余りもかかっていて、今や山登りでは、コースタイムの倍の時間がかかることを覚悟しなければいけないのだろう。
 そしてロープウエイ駅まで下り、ゴンドラに乗ってふもとに降りて、当初はそこから30分ほどの神社の駐車場まで歩くつもりでいたのだが、とても無理で、タクシーに乗ってクルマのもとにたどり着いた。
 何はともあれ、無事に戻ってこられてよかった、静かな紅葉風景も心ゆくまで楽しむことができて、今年の秋の山の紅葉がこれで終わったとしても、私は十分に満足だった。

 昨日から、季節の月日に合わせて、きっちりと寒くなってきた。
 今日の朝の気温は1℃で、霜が降りていた。
 衣類は、上下ともに一枚ずつ重ね着をした。

 いつものように、「新古今和歌集」からの一首。
 
  ”晴れ曇り 時雨(しぐれ)は 定めなきものを ふりはてぬるは わが身なりけり”(道因法師)

 (自分なりに訳してみれば、”晴れたり曇ったりで、いつ時雨が降るのかわからない変わりやすい空模様なのに、それを見ているのは、ただひたすらに年老いていくだけの私なのだ。”)

(「新古今和歌集」久保田淳訳注 角川ソフィア文庫)