ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

梅は咲いたか

2019-02-25 22:03:38 | Weblog




 2月25日

 一週間前、去年よりも一か月も早く、庭のブンゴウメの花が咲いていた。
 昨日今日と、気温が12℃近くまで上がり、青空の下、もう五分咲きほどになっていた。

 繰り返し書くことになるが、今年は目に見えてはっきりとわかるような暖冬の年だった。
 まず、この冬は、一度15㎝ほど積もったことがあっただけで、初めての経験だと言えるほどに雪が少なかったし、昔は一晩に50㎝近くも積もったこともあったというのに、もちろん気温も高めに経過していて、この冬は、ー5℃まで下がった日が一日二日あったかどうか。
 かつては気温がー15度まで下がり、保護カバーを付けた水道管などが凍りついたこともあったくらいで、いつもならひと冬の半分は、朝のうちは窓ガラスが凍ったままで、それが溶けてくる昼頃になって、ようやく窓ガラスの水滴を拭き取れるようになるほどだったのに、この冬はそれがたったの二三日あったぐらいだったのだ。

 こうした、気候の変化で、もちろん良かったことも悪かったこともある。
 確かに言えるのは、この年寄りにとって、これほど楽な冬はなかったということだ。
 私は一日中ぐうたらに家にいることが多いから、このすきま風の多い古い家では、石油ストーブをつけていても寒いと思う日が、一冬に何日もあったのだが、この冬は、裸で”ふんどし踊り”ができるほどに、なわけはないけれど、そんな冗談が言えるほどに楽に過ごすことができたということだ。
 もちろん、逆に悪いこともある。
 今年は、大好きな雪景色が見られた日が少なかったし、雪山にもいつものようには行けなかったし、さらには、毎年遠征登山に出かけていた(去年は足のケガで断念したが)北アルプスや東北などの山々の雪も少ないということで、この夏のお花畑などの植生への影響が気になるし。
 まあ、とかくこの世は、”ああ言えばこう言う”世界ではあるのだが。

 ところで山についていえば、最近YouTubeで、北アルプスの西穂高岳(2909m)と中央アルプス宝剣岳(2931m)への厳冬期登攀の模様を映した、個人の映像を見たのだが。
 それは、あの自撮り映像で有名な登山家、栗城史多(くりきのぶかず、1982~2018、去年8度目のエベレスト挑戦に失敗し亡くなった)の、ヒマラヤはダウラギリ(8167m)でのインターネット中継以来、こうしたYouTubeやSNSの場でも、一般の人たちが気軽に登山記録を動画で発表することが多くなり、今までテレビ番組などでしか見ることのできなかった登山ルートでの情報を、こうした一般人の投稿映像という形で見ることができるようになって、登山に関心のある私たちにとっては、ありがたいことだし、いい時代になったものだとは思うのだが。
 それらの映像は、今やハイビジョン画質から4K映像の世界へと、高画質で見ることができるような時代になっていて、今では、10数年前までのDVD映像ではとても見る気がしないほどになっているのだ。
 ということは、それまでにテレビ録画で録りためていた、多くの昔のDVDディスクはどうすればいいのかとも思うが。
 最近の山番組は、いうまでもなくこの新しい画質で撮りなおされているし、それをブルーレイ・ディスクに録画してはいるのだが、将来的には4K から8K 画質へとさらに進歩していくことになるのだろうが。
 もちろん記録的な価値のある、古い映画などはそのまま資料として保存していてもいいのだが、もともと、DVDやBR(ブルーレイ)のディスク自体が劣化していくものだろうし、冷静になって考えてみれば、自分自身がそんな先まで生きているかどうかも分からないのに、とんだお笑い種(ぐさ)の話ではあるのだが。

 どうも話が主題からそれて行ってしまうが、今回、YouTubeでの西穂と宝剣の映像を興味深く見せてもらって、ともかくは、その感想を書いておくことにすると、まず西穂の場合は、晴れていても、時々地風雪が吹き荒れるさまなどは良く撮影されていたが、片手にカメラを持っているために、どうしても岩稜帯の危険な岩場での映像は撮ることができないから、普通に見た人は、簡単なコースだと思ってしまうのかもしれないが、雪のある時は危険なルートになるということを、一場面ぐらいは入れてほしかったのだが。
 そして、もう一つの宝剣岳へのルートは、冬季の雪崩を避けて、サキダルの頭(2885m)東側の小尾根をたどって主稜線に出て、北へと続くナイフリッジの稜線をたどっていたのだが、私も積雪期にこの南側からのルートで宝剣まで行こうとしたことがあって、もちろんいつもの単独行だから、このサキダルの頭から続く三ノ沢岳分岐の先の所で、宝剣岳へと続く凍結した岩稜帯を見て(写真下、奥は木曽駒ヶ岳)、あきらめて戻ってきたことがある(夏はそれほど危険な道でもないのだが)。





 ただこの時に、宝剣岳の代わりに三ノ沢岳(2847m)に行くことも考えていたのだが、こちらには思った以上に雪があり、そのうえに前日、木曽駒ヶ岳(2956m)に登った時の天気は良くて、朝は千畳敷から見る宝剣岳がモルゲンロート(朝焼け)に染まり、夕方は南アルプスの峰々が赤く染まっていったのに、翌日は上空は雲に覆われて天気は下り坂になり、ここで三ノ沢もあきらめて、唯一残った縦走路を南下して行き、雪の少ないなだらかな尾根道の先にある島田娘(2858m)まで行ったのだが、しかし、そこから眺めた、空木岳(うつぎだけ、2864m)と南駒ヶ岳(2841m)が並んだ姿が素晴らしかった。(写真下)





 ともかく、私の体験から見ても、西穂もこの宝剣へも、ロープウエイが運行されているからこそ、冬季にも比較的簡単に取り付けるコースだと思うし、完全装備で仲間と一緒に登って行く姿を見ているのは楽しかったが、一方で私が不満に思ったのは、あの西穂の映像でもそうだったのだが、あくまでも登山ルートでの登り下りの様子だけが主になっていて、景色の展望が少なかったことである。
 仲間との互いに確保しながらの登攀や、さらには雪崩時のビーコン(無線発信機)の訓練などが長い時間撮影されていて、それは、雪山での必要条件なのだから良いとしても、下山後の駅舎でのおしゃべりシーンなどを入れるくらいなら、せっかくの好天の日だったのだから、頂上からの展望をもっと映し出してほしかったと、そのことが惜しまれてならない。 
 もし私だったら、頂上からの展望に多くの時間をさいていただろうし、まずは広範囲を映す展望から始まり、ズームに換えて一つ一つの山をねちねちと撮っていただろうに、と思うのだが。
 もちろんそれは、他の人に見せるためではなく、あくまでも後で、自分で繰り返し見ては楽しむためなのだが。
 つまり、今までもこのブログで何度も書いてきたことだが、他のスポーツと違って、山登りには各人それぞれの好みがあって、それぞれの登り方や楽しみ方があるのだからと、改めて知らされたような気がしたのだ。 
 それは、どれが正しくどれが良くないかという問題ではなくて、いつも遭難という危険を承知のうえで、それぞれの感性に応じて、自分の登り方で山を楽しむべきということなのだろう。

 いつものように、だらだらと山の話を続けてしまったが、ここでもうあと一つだけ、どうしても書いておきたいことがあって、それは、昨日からテレビ・ニュースで流されていた、あの日本文学研究者のアメリカ人(のちに日本に帰化した)、ドナルド・キーン(1922~2019)さんの訃報(ふほう)である。

 今年もう96歳という、かなりのご高齢であるから、お亡くなりになったこと自体にそれほど驚いたわけではないのだけれども、外国人でありながら、日本文学研究を通じて、これほどまでに日本人の心深く分け入って、日本人というものを理解された人は他にいなかったのではないのか、と思えるほどの人だったからだ。
 私たち日本人が日本人であるがゆえに、その日本人的体質の中に浸かりきっていて、そのままでは見えていなかったものを、外国人という、ある意味で言えば、無垢(むく)な判断力をもって、日本人の文学的、歴史的なつながりの系譜としての、日本人のこころの研究し続けたこと、そして、それを英訳本という形で海外に広めてくれたこと。
 私たちは、その彼の研究の成果を通じて、今まで営々と続いてきた日本人の”やまとごごろ”の一端を、改めて知らされることにもなったのだ。
 私は今までに、彼の生前に放送されていた多くのテレビ対談番組を見てきたし、その英語なまりの強い日本語はご愛敬だとしても(最近、活躍が目立つあのロバート・キャンベルさんの日本語は見事であるが)、ともかく、その話言葉は正しかったし、いつものユーモアを含めた話しにはつい引きずり込まれたものだった。
 思えば、私の日本古典文学懐古への思いには、偉大なる日本文学研究の先達(せんだつ)の一人でもある、このドナルド・キーンさんの影響を、少なからず受けていたとも言えるだろう。
 人種文化を超えて、日本にたどり着き、その世界に在(あ)ろうとし、人生のほとんどを日本文学研究に費やしたドナルド・キーンさん・・・。
 日本の文化勲章までももらった彼にとって、日本は、幸せな人生としての終着点になったのだろうか・・・合掌(がっしょう)。

” (日本の古典近世文学の)日記作者こそ、まことに「百代の過客(かかく)」、永遠の旅人にほかならない。彼らの言葉は、何世紀という時を隔てて、今なお私たちの胸に届いてくる。そして私たちを、彼らの親しい友としてくれるのである。”

 (参照:『百代の過客』ドナルド・キーン著 金関寿夫訳 講談社学術文庫、他に『果てしなく美しい日本』講談社学術文庫、『日本の面影』(NHK日本放送出版)。

 


雪中の登山者

2019-02-18 22:39:12 | Weblog




 2月18日

 今日は、朝から快晴の青空が広がっていた。
 そよとの風もなく、暖かい春の日差しにあふれていた。 
 私は、洗濯をしてベランダに衣類を干しながら、幸せな気分だった。
 いつもなら、こうした天気の日には、山に行くべきだったと、多少の悔しい思いをするのが常なのだが、そうではなかった。
 その前の日に、雪の九重を十分に楽しんできたからである。

 この一週間、いつも見ている九重のライブカメラで、山が霧氷や雪で白くなっていた時が二度ほどあったのだが、残念ながらその時には、事務的な書類整理に追われていて、山に行く暇がなかったのだが、おそらく今回は、最後の寒波がやってきてその寒さがひいて行くときの、そのぎりぎりのタイミングで、九重の雪山に行くチャンスが巡ってきたのだと思ったのだ。
 これでは、いかに休日で混んでるとはいえ、”いかざあなるめえ”と心に決めて、いつもの山道をクルマで走って行ったのだが、前回の時は両側の樹々は霧氷に白く輝いていたのに、今回はその霧氷どころか、前回には圧雪状態だった道にも雪はなく、路肩に雪が残るだけで、楽に牧ノ戸峠の駐車場(1330m)に着いたのだが、駐車場はすでに満杯状態に近く、かろうじて一台分が空いていて停めることができたが、帰りに見ると、何台もの路肩駐車もあったようだった。

 ただ残念なことに、朝のうちは曇り空で、これまた前回と同じことになるのではという心配もあったが、昼前から晴れてくるとの予報を楽しみに、さてと遊歩道を歩きだしたのだが。
 この沓掛山前峰まで続く舗装された遊歩道は、特に下のほうほどひどく、雪が溶けた後の氷の張ったつるつる路面になっていた。
 ほとんどの人は、アイゼンを効かせてガシガシと登っていたが、まあどうしてもアイゼンなしで歩けないほど全面凍っているわけではなく、雪が十分にあるからと、年寄りの遅い足でゆっくりと登って行った。
 しかし、背に腹は代えられない、すぐの所にある展望台で、10本爪のアイゼンをつけた。といって、そこから足が速くなったというわけではないのだが。
 
 縦走路には、雪はそれほど多くはなく10㎝ほどで、ただ寒波が来ていたおかげだろうか、霧氷樹氷は前回(2月4日の項参照)と変わらずに、枝先いっぱいに氷がついてていた。
 とは言っても、相変わらずの曇り空で、前回の二の舞になるのかと心配したが、明らかに上空の雲が少なくなってきて、扇ヶ鼻分岐に近づいてくるにつれて、ちらちら見えていた青空が、特に北側の星生山(1782m)方面が、ものの見事に晴れ渡っていた。
 これこれ、これがあるから山登りは、やめられまへんな。
 雪の登山道には、上り下りともに人が多く、休日ならではの黄色い声にあふれていたが、私はそのあたりで、少しずつ位置を変えながら、何枚もの写真を撮った(写真下)。




 さて前回たどった扇ヶ鼻への道は、横目に見て通り過ぎて、そのまま西千里浜の平たん路を歩いて行く。
 この辺りから、行く手に見えてくる久住山(1787m)の三角錐の姿が素晴らしいのだが、上空には雲が広がっていて、私の思う絵葉書写真の姿にはなっていなかった。
 帰り道での楽しみにしよう。天気はさらに良くなってきており、高気圧が覆ってくるという予報通りに、青空が次第に増えてきていたからだ。

 岩塊帯での登りで星生崎下のコルに着き、下の避難小屋付近にいる人々たちの話声がここまで聞こえていた。
 その避難小屋へと下り少し上がった所が久住分れで、その名の通りに、久住山に向かう道と、御池から中岳へと向かう道に分かれている。
 昔は圧倒的に、九重の主峰である久住山に登る人が多かったのだが、近年では改めての測量後、中岳の方が高いとわかって、御池中岳を目指す人が多くなっている。
 もっともこの両山ともに登っても大した登りではなく、九重中央部の山々はポコポコと出た溶岩ドームのトロイデ状火山の集まりだから、2,30分もあれば頂上に着くので、若い人なら、中央部の山々の、久住ー稲星ー中岳ー天狗ー星生と登って回ることはたやすいことだろう。
 私は、今回は天狗ヶ城(1780m)だけに行くことにしていた。
 こうした休日の日は、特に混雑するだろう久住山、中岳は避けて、どちらかといえば人の少ない静かな、そして展望の良いこの山を目指すことにしたのだが、もっとも平日で人が少ない時でも、この山だけを目指すことが多くて、星生山とともにこの天狗ヶ城は、私にとっては欠かすことのできない山なのだ。

 御池へと向かう人々の列から離れて、私は天狗ヶ城の急な岩塊帯の斜面を登って行く。
 すぐ右下には、中岳を背景に御池の湖面が広がっていて、真ん中を除いて凍っている所に人々が群れ集まっていて、歓声が聞こえてくる。




 どこかで、見たような構図だが、もちろんすぐに思い当たったのは、フランドルの画家ブリューゲル(1564~1637)の絵である、有名な「雪中の狩人」や「鳥罠のある冬景色」であり、そこには凍ったため池や川の上で滑ったりコマ回しをしたりして遊ぶ子供たちの姿が描かれており、鈍色(にびいろ)の空の下で遊ぶ子供たちの歓声が聞こえてきそうだ。
 特に「雪中の狩人」では、左側手前に描かれた、猟犬を連れて戻って来た狩人たちが主題なのだが、周囲には家の仕事に精を出す他の人々や、自分の遊びに夢中な子供たちなども描かれていて、ある種の教訓を含んだ人生の縮図のようにも見える。
 この絵については、あの『清貧の思想』で有名な中野孝次の、『ブリューゲルへの旅』(河出文庫)という優れた随筆集がある。
 さて今、日本では各地を巡回しての、1年にも及ぶ”ブリュ-ゲル展”が開かれていて、私も出かけるチャンスはあったのだが、年寄りの出不精(デブ症ではありません念のため)で、まだ見に行ってはいないのだ。12人もの画家を輩出したブリューゲル一族の絵画展としても貴重なものなのに。
 
 さて、”雪中の登山者”として歩いている、私の山の話に戻ろう。
 もともと天狗ヶ城は、中岳のついでに東側からの尾根続きとして登られていて、単独でこの急な西側から登られることは少なく、私は滅多に同じ登りで人に出会ったことはないのだが、もちろんこの人の少なさが、私にとっては魅力なのだ。
 しかし、年寄りにはこたえる山だ。一度二度と息を入れて、ようやく巨大な白鯨のような久住山(1787m)の全容が現れてきて、眼下はるか下に先ほどの御池があり、その向こうに稲星山(1774m)が見えていて、すぐそこの頂上に上がると、北東側が開けて中岳(1791m)がそびえ立ち、その後には黒々と灌木に覆われた大船山(1787m)が見え、坊がつる湿原の向こうにはミヤマキリシマで有名な平治岳(1643m)が盛り上がっている。
 北側にはその名の通りの三俣山(1745m)があり、また西側には、火山礫の斜面が白い雪と黄色に分かれた星生山の姿が素晴らしい。

 もう、1時を過ぎていた。私は、北側に少し下った石の上に腰を下ろし、持ってきた簡単な昼食をとり、温かい紅茶を飲んだ。
 風は少しあったが、それほど寒くはなく、長そでのスポーツ着と上に厚手のフリースを着ているだけで十分だった。
 前回の扇ヶ鼻での(2月4日の項参照)、その上に冬山用ジャケットを着こんだだけでは寒くて、さらには厚手の手袋をしていても、指先が冷たくかじかんだとの比べれば、まさに冬と春の違いがあった。
 周りには私の好きな、雪山が見えていた。
 今年の雪山は、(今後は暖かくなるとのことで)この二回だけで終わるのかもしれないし、大好きな雪の風紋(前回8年前の写真参照)やシュカブラ等にもお目にかかれなかったが、年寄りになっても、こうして雪山に来られるだけでも幸せなのかもしれない。

 下りでは、もう雪が溶けて水浸しの登山道が多くなったが、気温がそれほど高いわけではないのか、例の岩塊帯からの久住山の姿も、まだ溶けていない霧氷を入れて写真を撮ることができたし、扇ヶ鼻分岐の所から眺めた、霧氷を前景にした肥前ヶ城(1685m)も、行きとさして違わないように見えた。(冒頭の写真)
 しかし、そこからが大変だった。
 長い縦走路の下りと沓掛山への上り返しは、もうひどいぬかるみになっていて、靴がはまり込むところもあるほどだった。
 九重の春先のぬかるみ道は分かっているからと、春先にはあまり行かないようにしているのだが、2月中旬というのにこのひどさは何と言うべきか、私が経験したた最もひどいものの一つだと言ってもいいくらいだった。
 "きれいなものには、えてしてこういうことがあるものなのだよ”。
 しかし、それだけではなかったのだ。
 行きには、雲に隠れていた沓掛山頂(1503m)からの眺め、雪の三俣山と星生山の姿、そして尾根を彩る赤いアセビのツボミ。
 春が近いことを知らせる、見事な光景だった。(写真下)



 
 まだ相変わらずすべりやすい、雪の遊歩道をのろのろとたどって、牧ノ戸峠の駐車場に戻って来たのはもう4時を過ぎていた。 
 コースタイムでは、休みを入れないで往復4時間足らずの所、今回休み時間を入れたにせよ、何と7時間余りもかかっているのだ。
 さらに、家に戻ってからも脚はつるわ、今日にいたっては筋肉痛は出るわ(明日はもっとひどくなっているだろうし)、何より年のせいにするだけではなく、自分の常日ごろからの不摂生をとがめるべきではありますが。
 私はどうあがいても、あの老人の星、三浦雄一郎さんのようにはなれないのでありまして、それは、山上たつひこの描くマンガ『ガキデカ』で、警察官の帽子をかぶった”こまわり君”が、しどけなく寝そべって”ワタシってダメな男”といっている時のような、”八丈島のきょん”(意味のない感嘆詞)ではあります。

 今回も、書いておきたいことがいろいろとあったのだが、山に行ってきたので、どうしてもまずそのことを書いておかなければならず、いつもの『日本人のおなまっ』やパリでの『ブラタモリ』そして『ポツンと一軒家」などについての話は割愛せざるをえなくなったが、というのも、他にも気になったテレビ番組からの話しがあって。
 それは、たまたま偶然にその所だけを見たのだが、民放フジテレビ系列での『アンビリバボー』で、”70年の時を経て明かされる初恋ミステリー”と題された一編である。 

 今から75年前の、第二次大戦当時のイギリスはロンドンで、アメリカ軍空挺(くうてい)師団に所属していた若きノーウッドは、休暇の時に友達の一人とともにロンドンの公園に遊びに行って、ちょうどそこに来ていた、同じ二人連れのロンドン娘と出会い知り合うことになった。
 彼女はジョイスという名前で、その後もデートを重ねていたが、ある時からぴたりとノーウッドからの連絡が途絶えてしまった。
 後でわかったことだが、彼は、あの有名なノルマンディ上陸作戦(映画『史上最大の作戦』)に加わったパラシュート部隊の一人として、当時ナチスが占領していたフランス海岸に降り立っていたのだ。
 この日だけでも1万人の死者が出たという激戦の中、彼は生き残ってさらにドイツに向かって進撃を続けていたのだ。 
 その後ノーウッドは、休暇のたびごとにロンドンに戻ってきて、二人はずっと会い続けていたのだが、ある時、彼女のもとへといつものようにノーウッドからの手紙が届いたが、それはジョイスへの求婚の思いが込められていた手紙だった。しかし、彼女は彼の申し込みに断りの返事を書いてしまったのだ。

  戦後、傷心の彼はアメリカに戻り、ジョイスのことはあきらめてアメリカの娘と結婚して3人の子供に恵まれたが、今から8年前にその56年間連れ添った妻を亡くしていて、今は息子のもとで暮らしていた。
 一方看護婦になったジョイスは、イギリスからオーストラリアに渡りそこで結婚して二人の子をもうけたが、彼女が50代のころ、36年間連れ添った夫と離婚して、もう二度と結婚しないと覚悟して、今は息子の家で暮らしていた。

 何が二人を再会させたのか。 
 それはある時、ジョイスの息子が、生きている今のうちに知っておきたいことはないかと母に尋ねて、ロンドンでの初恋の話を聞きだし、息子がパソコンで相手の名前を調べると、何と母の相手ノーウッドの名前が、そこには88歳でスカイダイビングの記録を作ったというニュース映像が、若いころの写真とともに幾つも出てきたのだ。 
 そこで、お互いの息子たちは連絡を取り合って、ネット電話で二人を対面させることにした。
 ノーウッドは前立せんがんにかかっていて、一方のジョイスは加齢黄斑変性で視力がすっかり衰えていたが、二人はテレビ画面の前で2時間も話し合ったという。  
 その時、ノーウッドが”あの時なぜ君は僕の申し出を断ったのだ”と言うと、彼女は”私は家政婦としてあなたの家に手伝いに行くなんてできないと思ったからよ”と答えたのだ。

 そのノーウッドの手紙の文面の一節はこうだ。
 ”Woud you come to the states and make my house a home .(アメリカにきてくれないか。そして僕の家を君との家にしてみないか)”
 この言葉は、そのころ人気のあったアメリカのエッセイストが書いた、当時のアメリカ人ならだれもが知っている求婚の言葉だったのだが、一方イギリス人であるジョイスはそんなアメリカの流行りの言葉を知る由(よし)もなく、彼女は文面通りに、自分に家事をしてもらうためにアメリカに来てほしいのだと思い、そんな家政婦のような仕事をさせるなんて、イヤだと思ったのだそうだ。(アメリカの英語とイギリスの英語の微妙な違い。) 

 さて二人が画面で対面した後、お互いの息子たちは、なんとか二人を再会させるべく、ネットのクラウド・ファンディング(みんなの募金)を呼びかけた所、所定の額が集まったのだが、それを知ったニュージーランド航空が、ノーウッドと息子の二人分の旅費とホテル代をもつことになり、二人は再会したのだ。
 今から3年前の2016年2月11日、二人は70年の歳月を経て、再会したのだ。
 93歳のノーウッドと88歳のジョイスが、万感の思いを込めて抱き合うシーンが映し出されて、私は不覚にも涙した。

 二人は、2週間を一緒に過ごし、最後の5日間は、息子たちが相談して、マスコミ抜きで彼らも離れて、二人っきりで一緒の時を過ごさせてあげたそうだ。
 その間、ノーウッドは目が見えにくいジョイスのために、本を読んであげていたという。 
 その再会の時から10か月後の、2016年12月、ジョイスは亡くなってしまった。
 ノーウッドは、去年95歳の誕生日の日に、またもやスカイダイビングを実行したそうだ。
 彼は、テレビ画面に向かって、私たちに語り語りかけていた。

” もし愛する相手を見つけたら、自分の心のすべてで愛してください。”

 思い出すもの・・・ヘミングウエイの小説と映画『武器よさらば』、主題歌が大ヒットしたメロドラマ映画『慕情』、小説と映画の『マディソン郡の橋』、若いころのヨーロッパ旅行のノルウェーで知り合い、日本に戻ってきても、しばらくは手紙のやり取りをしていたアイルランド娘、その他の様々な出来事・・・みんな私が悪いのです。

 

 
 


-31.8℃

2019-02-11 21:53:13 | Weblog




 2月11日

 全く、この数日の北海道の寒さは、何というべきか。
 十勝地方陸別町での最低気温は、-31.8℃。(陸別町では、2月上旬の10日間だけでも、-20℃を下回った日が7日間あり、他の3日も当然ー15℃以下。) 
 その陸別町ほどには気温が下がらない帯広市だが、その郊外の泉(空港付近)での、2月8日から昨日2月10日までの最低気温は、-27.4℃、-29.6℃、-26.2℃。
 一方の最高気温は、-10.7℃、-11.6℃、-6.3℃。(今日の最低気温は、明日にならなければわからないが、相変わらず-20℃を下回っていることは確かだろう。以上気象庁発表による観測点の数値。)

 私も、3シーズンの間、冬の間も北海道にいたことがあって、真冬の寒さを経験しているのだが、その時でも-23℃くらいまでだったのだが、しかしそのころは、家にある薪ストーブを強めに燃やしていたのだが、ストーヴから離れると寒くて家の中でもダウンの上着を着ていたくらいで、-30℃というのは、そんな私にも経験のない寒さなのだが。

 一方、東京を含む東日本や西日本のこの暖かさはどうだろう。
 北海道にいる時は、周りの人から九州の冬は暖かくていいだろうと言われて、返す言葉で、家は九州だとは言っても内陸部の山の中にあって、雪は50㎝くらい積もることもあるし、-10℃以下になることもあるのだから、東北仙台くらいの感じだと答えていたのだが。
  しかし、いつもの冬なら1月から2月にかけて、家の一重のガラス窓が、毎日のように凍りついていたのだが、今年の冬は、まさに暖冬だといえるほどの暖かさの中にあって、結晶模様に凍りついたのは、わずかに二三度あったくらいなのだ。

 もちろん、年寄りになった私には、そんないつものような寒さがないから、暮らしていく上ではいくらかは楽になってありがたいのだが、いつも言っているように、若いころからの雪山、雪景色好きだから、むしろ毎日のように雪が降るような、例年並みの冬であってほしいとさえ思うこともあるくらいなのだ。
 ましてや、ただでさえ雪山になる期間が少なく限られている九州では、最も雪が多い九重の山でさえ今年は雪の日が少なく、ほとんどが冬枯れ景色のままで、時々霧氷を楽しめるほどの寒波しか下りてこなくて、雪山歩きが楽しめたのはおそらく二度くらいであり、私もその二度目の雪の時に、いつもは行かない曇り空ながらも、焦って九重に行ってきたのだが、その時のことは前回このブログで書いたとおりである。
 今日の牧ノ戸峠のライブカメラを見ると、今年三度目の雪景色になっていて、休日ということもあって曇り空の下ながら、クルマがびっしりと並んでいた。 
 みんな雪山が好きなのだ。

 私は、休日で混雑する上に、この曇り空ではと、とても出かける気がしなくて、そこはそれ、年寄りゆえに長年ため込んできた九重の雪山の思い出の中から、18年前の九重の雪山の写真を眺めてみることにした。
 以下の写真は、2001年2月15日、扇ヶ鼻から星生崎まで行った時のものであり、当時はまだデジタルではなく、中判のフィルムカメラで写真を撮っていたのだが、今と比べるとフィルム代がかかるので、枚数を気にしながら写真を撮っていて、かといって”一枚入魂”というほどに、立派な芸術的な写真を撮っていたわけではないのだが。
 ただ、今のデジタルカメラでのように、のべつまくなしにシャッター押しているのと比べれば、その枚数は五分の一、いや十分の一ぐらいの枚数しかなくて、まあ今見ても、その時々の景色を選んで撮っているのがよくわかる。
 もっとも、そうして写真を芸術としてではなく、あくまでも自分の思い出のために撮っているだけだから、そこには私の写真の技術的な限界があり・・・はい自分の写真の未熟さ拙さは十分に分かっております。

 そのうえで、ここにその時の写真をあげるのだが、まず冒頭の写真は、沓掛山からの縦走路の中間点辺りから振り返り見た雪景色で、アセビの木も半ば凍りついていて、左端にまとまって沓掛山、涌蓋山(わいたやま、1500m)、黒岩山(1503m)が見えている。 
 この時は雪がかなり積もっていて、深い所では40㎝くらいもあって、みんなが通る道以外は、ラッセル状態で歩くしかなかった。

 次の写真は、扇ヶ鼻頂上(1698m)下あたりから眺めた星生山(1762m)と右に星生崎への稜線が続き、その間の雲は、星生山新火口と硫黄山からの噴気である。
 ここでは、手前の雪原に続くうろこ型の風紋が美しい。



 さらにもう一枚、一番下のものは、同じ扇ヶ鼻山頂直下付近、南側寄りの所から見た九重山主峰群の眺めであり、前回あげた写真と比べてみると、雪の多さがよくわかるし、何より雪原に描かれた風紋が雪山の厳しさをうかがわせる。
 まあ、こうして今の時期の雪山を見られなくとも、私だけの山のアルバムを見れば、いつでもその時の光景が、吹きつける風の冷たさとともに、あの時の雪山の映像としてよみがえってくるのだ。
 写真はありがたいものだ。
 物言わぬ写真の中の風景には、いつも静寂と平穏さが漂っている。

 昨日のテレビ朝日系列の「ポツンと一軒家」は、今回はまず、岡山県の山の中の一軒家に一人で住んでいるいう73歳のおばあちゃんの話しである。
 しかし、そこには男の人が働いていて、彼女の弟さんで下の集落から毎日通っているとのことだった。
 昔は、家族12人という大家族で暮らしていたが、弟さんは若いころ都会に出て行ってしまって、そのまま戻らずに、年老いた両親の世話を姉に押し付けていたからと、今はその恩返しのために毎日通って家の手助けをしているのだと言っていた。
 まだまだ元気なそのお姉さんもまた、毎日7キロ離れた下の町の地元名産の食品加工場にクルマで通っていて、大雪の時には歩いて2時間かかって工場にたどり着いたこともあると笑っていた。

 もう一つは、宮崎県の山奥の一軒家に住む、63歳のご主人と59歳の奥さんの話で、二人の子供はひとり立ちして出て行ってしまい、今は夫婦で林業と農業に携わっているが、林業の方は持山の植林の伐採ではなく、今はシイタケ原木の伐採加工をしているとのこと。ときどき口げんかをしながらも、二人して軒下の椅子に座って、(標高700mもある)その家の前から眺める夕日の光景が一番だと言っていた。

 この番組を私がいつも見ているのは、始めは謎解きミステリーふうであり、スタッフたちが山奥の道の先にある一軒家を探しに行き、次にはそこに住む人たちに会って、それぞれの住んでいる理由を聞き、家族の歴史を聞いていくという、ドキュメンタリー仕立ての面白さにあると思うのだが、もちろん”きゃぴ”ついているような若い世代の話ではなくて、世の中の苦労を一通り体験してきた人たちの話であり、もちろん私と年代が近いこともあって、彼らの話を聞いていてうなづけることが多いからでもある。
 そして、毎回最後は、こんな不便な山奥に住んでいても、満足そうなその一軒家の住人たちの顔が映し出されるのだ。

 こうして、毎回わかりきったような状況の話ではあるが、長年住み慣れたこの家が好きだからという、その小さな満足の中で、穏やかに暮らしている人々の姿を見て、私たちもなぜかほっとした気持ちになるのだ。
 考えてみると、私たちが子供のころから繰り返し見てきた『忠臣蔵』『赤穂浪士討ち入り』の物語は、その最後が本懐(ほんかい)をとげ目的を果たすことで終わるとわかっていても、繰り返し見てしまうのと同じようなもので、さらにはテレビドラマの『水戸黄門』での一話ごとの話が、結局は勧善懲悪(かんぜんちょうあく)で終わることが分かっていても、毎回似たような話でも繰り返し見てしまうように。

 さらに今回学んだこともある。北海道の自宅林内で木を育てている私としても興味深かったのは、木々の苗は、もともと林の中や道のそばなどにひとりでに生えた苗を引き抜いてきて、植え替えていたのだが、この農村で行われていた、若い木の枝先を切って毛根促進材をかけ、土を入れたポットに入れて一年置いておけば、野菜花苗のようにいつでも植えることができるという方法は知らなかった。
 もともと挿(さ)し木といって、土団子や土に直接枝先を差し込んで苗に育てるという方法もあるのだが、この九州ではうまくいっても、寒い北海道ではなかなか根付いてはくれなかったし。

 さらに、テレビ・スタッフにどうして町に住まないのですかと尋ねられて、彼女が答えていたのだが、”都会や町の人は怖くていやだ”と。
 思うに、おそらく若いころには、田舎の若者の90%が都会の生活にあこがれて、都会に出て行ってしまうのだろうし、先になって田舎に戻ってくる人は果たしてどのくらいいるのだろうか。
 つまり、都会の便利さから離れられなくなって住みついてしまう人と、不便な田舎に住み続ける人、あるいは戻ってくる人たちを含めても、そこには依然として大きな差があるのだろうし、それだからこそ、田舎の過疎化はさらに進んでいき、都市集中化はさらに増え広がって行くのだろうが。

 私には、それが差別化につながる悪いことなのか、それとも、効率化としてむしろいいことなのかは分からないが、タワーマンションの最上階で、グラス片手に都会の夜景を眺めて過ごすのが、安らぎのひと時だという人もいれば、小型車が一台やっと通れるだけの、不便な山奥に住んでいても、遥か遠く山間に沈んでいく夕日を見るのが、何よりの楽しみだという人もいるのだということ。

 そこで、今までも何度も取り上げてきた、あのドイツの良心と呼ばれたヘルマン・ヘッセ(1877~1962)の言葉から。

 ”老齢と老衰は進行する。時として血液はもうそれほど正常に脳を通って流れようとしなくなる。ただしこの弊害(へいがい)は、よく考えてみるとよい面ももつ。人はもう必ずしもすべてのことをそれほどはっきりと、強烈に感じなくなる。人は多くのことを聞き逃すようになり、多くの打撃や、針の刺し傷などもまったく感じなくなる。かつて自我と呼ばれた存在の一部は、まもなく全体とひとつになってしまうところに行ってしまうのだ。・・・。
 
 ある者が年を取り、そして自分の義務を果たし終わった時には、静寂の中で死と友達づき合いをする権利を持つ。彼は人間を必要としない。彼は人間を知っている。人間なら十分に見てきた。彼が必要とするのは静寂である。・・・。”

(『人は成熟するにつれて若くなる』ヘルマン・ヘッセ著 フォルカー・ミヒャエル編 岡田朝雄訳 草思社文庫)









曇り空の雪山

2019-02-04 23:02:42 | Weblog




 2月4日

 数日前、曇り空の雪山に行ってきた。
 日ごろから、”宵越(よいご)しの金は持たねえ”という江戸っ子並みの見栄っ張りで、”天気の悪い日の山には登らない”、つまり”天気のいい日にしか山には登らない”というのが、長年の私の口ぐせなのだが、そうした自分の決め事を破ってまで、今回、山に行ってきたのにはわけがある。
 
 一週間前、前回書いたように、この冬初めて積るほどに雪が降って、九州での雪山条件にふさわしい舞台が整えられて、今日か明日かと天気をうかがっていたのだが、山は雲に包まれていて、出かけられない日々が続いていたのだが、その合間合間には青空が出ていた時間帯もあったので、これではもう、あの時の山の雪も溶けてしまっているだろうと半ばあきらめていた。
 ところが、雪の三日後の朝、朝のうちは曇っていたが、昼前から、あの「日本百名山」の深田久弥氏の言葉を借りれば、”一転にわかに掻(か)き晴れて”、青空が広がり、ネットのライブカメラで見てみると、九重の山は霧氷と雪に白く覆われていて、牧ノ戸の駐車場にはさすがにこのチャンスを逃すものかと、もうクルマがいっぱいに並んでいた。
 今から準備して出かけても、着くのは午後になってしまうしと、晴れた青空の下の山のライブカメラの映像を見ながら、泣く泣く山に行くのはあきらめたのだ。

 すべて私が悪い。
 おそらくは、あの雪の後三日もたっているから、雪はだいぶん溶けているだろうからと、山に行く準備さえしていなかったし、天気予報で午後から晴れの予報が出ているのは知ってはいたのだが、ここまで天気が良くなるとは思っていなかったのだ。
 今にして思えば、山にはずっと雲がかかっていたから、雪が溶けるどころか、また新たな雪が降って強い風で霧氷にも覆われていたのに、私は自分の長年の経験から、この天気では今日は無理と決めつけていたのだ。

 それは、まさに千載一遇(せんざいいちぐう)のチャンスだったのに、私はむざむざ逃してしまったのだ。
 暖冬気味の今年の九州では、もう雪山の景色が見られるチャンスはあまりないのかもしれないし。
 まさに、私は不覚(ふかく)を取ったのだ。
 その日、私は家にいて、洗濯をした後、一面に広がる青空を”臍を噛む(ほぞをかむ)”悔しい思いで眺めていた。

 しかし、そうして悔やんだことで何になるだろう。自分を責めるのは、そのひと時の間だけでいい。
 今までにも、自分の決心がつかずに、快晴の日に山に登らなかったことが何度もあったし、もっと広く言えば、自分の人生の中でチャンスを逃したことなど、枚挙にいとまがないほどいくらでもあったことだし、今さらその小さなチャンスを逃したぐらいでくよくよすることはないのだ。
 九重の山の雪山景色など、こうして年ごとに暖かくなっていく一方の、昨今の雪山と比べれば、昔の雪山は雪の量も寒さも厳しかったし、幸いにもそのころの山々の雪景色を見てきているし、自分の部屋にも四つ切写真にして飾っているくらいだから、たかがこのくらいのことでと自分に言い聞かせた。

 しかし一方では、もう長い間山に登っていないし、雪山景色も眺めていないという、もどかしい思いが残っていたのも確かだった。
 その後、家の周りの雪は溶け、さらに次の日は、真冬だというのに一日中雨が降っていた。 
 そして、その次の日、ライブカメラを見ると、曇り空の下、山は雪と霧氷で白くなっていた。標高が高い分、山は雪だったのだ。 
 クルマが数台停まっていた。その牧ノ戸駐車場の前を通る道は、圧雪状態のようだった。しっかり雪が降ったのだ
 今日の天気分布予報では、九重山域も午後から晴れるとのことだった。
 キャイーン、ワンワンワンと、”じじいは喜び庭駆けめぐり”の状態になったのでした。

 山に向かう車道は、始めはシャーベット状の雪が残っていて、さらに長者原からは圧雪一部アイスバーンになっていて、冬用のスタッドレス・タイヤではあるが、注意して走って行く。
 1330mの高さにある、牧ノ戸峠の駐車場に着いたのは、もう昼近くになっていたが、青空は見えず雲が低く垂れこめていた。

 クルマを降りて登山靴に履き替え、白い雪に覆われた遊歩道を登って行く。
 いつものように、両側のノリウツギやリョウブなどの木々の霧氷が見事だが、いつもはそれを切り抜くようにあるはずの、青空がないのが残念である。
 後ろから来た若い人に一人、そしてもう一人と抜いて行かれたが、気にすることはない。
 この日、出会った人はほとんどが一人だけの単独行の人ばかりで、彼らの雪山への思いが伝わってくるようだ。

 展望がきかないけれども、霧氷のトンネルが続く白い道の稜線をたどって行くのは楽しかった。
 ちゃんと登山靴を履いて山に登るのは、あの東北の栗駒山以来、なんと4か月ぶりにもなるのだ。(ハイキング山歩きだった、帯広郊外の金竜山に登った時から見ても、3か月半もの間が空いたことになり、たいした理由もないのにこれほど長く山に登らなかったのは、まさに自分の”ぐうたら”さにあると言えるのだが。)

 さて、強い北風の吹きさらしの縦走路を歩いて、扇ヶ鼻分岐下まで来た時に、一瞬空に明るい陰りが見えて青空がのぞいていた。
 そして、後ろから来た人に声を掛けられ、自分はこの天気では扇ヶ鼻までのつもりだと答えたのだが、彼も同じだと答えて、元気な足取りで先に登って行った。
 分岐の所には、ちょうど中岳(1791m)まで行ってきたという3人組の人たちもいて、彼らの話によれば、上では結構晴れ間が広がっていたと話してくれた。
 これなら、頂上からの眺めに期待が持てそうだ。
 そうなのだ、独立峰などと違い、その山群の山域が広くある場合、その周りに雲があっても中央部が晴れていることはよくあるのだ。
 この九重だけでなく北海道の大雪山や日高山脈、北アルプスや南アルプスなどでも言えることだが。 

 さて、ここまでほとんどの人がアイゼンをつけて歩いていたが、私はこのくらいならばとアイゼンはつけずに歩いてきたのだが、さすがに、この扇ヶ鼻の登りのてらてらに凍りついた道ではアイゼンが欲しくなった。(帰りの道では、この所だけはアイゼンをつけて下りた。) 
 そして切れ切れの雲の間から一瞬青空がのぞき、私は扇ヶ鼻本峰(1698m)には行かずに、その手前のいつもの扇ヶ鼻前峰の北の肩(1675m)の所にまで行って、そこで腰を下ろした。
 下の駐車場から2時間余りもたっていたが、そんなことは問題ではなかった、問題なのは、いっこうに晴れてくれる気配のない空で、相変わらず上空を流れる雲がうねり続いていた。  

 しかし、その岩陰の所でも、小雪混じりの北西の風が強く吹きつけいて、寒かった。 
 当然のことだが、薄着の私は、長そでの下着にフリース、その上に山用ジャケットを羽織っているだけだったから、その汗をかいた下着が冷たく、さらに手袋は厚手のフリース生地のものだけで、手は指の部分は脱いでグーにしていないと冷たいくらいで、いつもの冬山装備とは明らかに一つ軽めのいでたちであり、それは、暖冬気味のこの冬の雪山を、そのくらいにしか考えていなかった私が悪いのだが、風に吹かれるまま、初めてのこの冬の厳しさを前に、自ら反省しきりだった。(もっとも15分ぐらいで下の風の弱まった縦走路に戻ることができるので、そう大げさに考えることのほどでもないのだが。) 
  そうして待っている間に、また少しばかりの青空が広がり、待望の雪の九重主峰群が見えてきた。(写真下、肥前ヶ城越しに左から星生崎、天狗ヶ城、中岳、久住山)




 しかし、その後も時々青空が広がる時もあったのだが、それ以上には晴れずに、すぐに西側に続く暗い雲の塊が再び押し寄せてくるという繰り返しだった。 
 冷たい風が吹きつける中、そこで45分ほども待ち続けたのだが、これ以上晴れてくれることはなさそうだったし、何より体が冷え冷えで、熱い紅茶ぐらいではもうもちそうにもなかったので、この辺りであきらめて下りることにした。 
 ともかく、天気が悪かった時に来たのは、私の失敗だが、何より久しぶりに山を歩けたこと、久しぶりに雪山を見られたことで、それだけでも良しにしようと思った。 
 つまりは、それも私には、今までのこの九重での多くの冬山経験があり、そんな時々での冬山の景色をたくさん見てきているのだから、このぐらいのことでと自分に言い聞かせたのだ。
 例えば、下の写真は、去年の同じころに登った(’19.2,26の項参照)同じ扇ヶ鼻前峰からの左端の星生山を含めての眺めなのだが、青空はもとより雪も多かったし、何という違いなのだろうか、やはり山は晴れた日に限るのだ。





 さて、あとはこの扇ヶ鼻の斜面だけアイゼンをつけて下ってきて、ゆるやかな縦走路をたどって沓掛山に戻り、まだ山々の頂き付近には雲がついていたが、一部日の当たっている所もあり、明日は予報通りに朝から晴れるだろうと思った。 
 駐車場に戻ってくると、もうクルマは数台しか停まっていなかった、いつも午後にはもうだいぶん溶けているはずの道にまだ雪がかなり残っていた。
 山の上が寒かったように、下でも日の光が当たらずに気温も低かったのだろう。 
 そして長者原まで下りてくると、雪の草原の向こうに、夕方前の光に照らし出された、いつもの三俣山(1745m)の姿があった。
 私の大好きな、絵葉書風景だ。(写真下)
 この姿を見られただけでも、今日来たかいがあるというものだ。




 ということで、今回は久しぶりに山に登ってきた話を書くことができて、いくらか楽しい気分になった。
 そして、この山に行った翌日は、朝から快晴で、牧ノ戸の駐車場はクルマであふれていた。しかし、雪山を十分に味わうには少し遅かったようで、気温はここでも、前日よりは一気に10度近く上がって15度にまでなり、ライブカメラで見ると、午前中には、もうほとんどの霧氷が落ちていたし、上の登山道もぬかるみになっていたことだろう。ネットにあげられていた写真も、背景は青空で素晴らしかったが、周りの山の風景は、雪が溶け落ちたものが多かった。
 私は、曇り空で強風が吹き付ける日に雪山に登ったのだが、良い時期だったのだ。 

 さて話は変わるが、いつものように、自分の人生を振り返り考えることにもなる、例のテレビ番組などからその幾つかを。
 いつも見る、テレ朝系の「ポツンと一軒家」、昨日の番組は、九州は長崎の離島の山中を切り開いて作った牧草地で、11頭の親牛と6頭の育成牛の子牛を育てている、66歳になるというオヤジさんが紹介されていたが、彼は山道の反対側にある集落に奥さんを残し、毎日一人で牛の世話のためにここまで通っているということだった。365日休みなしで通うおじさんは、ここで牛と一緒にいる時が一番気が楽だと言っていた。
 もう一本は、青森県の八戸の山中で、ひとりで200本もあるリンゴの木の剪定(せんてい)作業をしていた65歳になるおやじさんの話で、最近、昔はこの辺りにはいなかったというシカの食害に悩まされているとのことだったが、今までにもこの番組でそうした深刻な被害を何度聞いたことか、それは前々回のこの番組で紹介されていた、鹿児島県の山奥で60代の夫婦二人で作業している梨(なし)園でもそうだったのだが、将来、日本の山村地域は高齢化に加えて、こうして辺境農村で働く人たちには後継者がいなく減少していくだけだから、そこにはシカやサル、イノシイ、ツキノワグマなどがさらに進出してきて、やがては都市部との接点における一般市民たちとの問題にもなるだろう。
 つまりは、これらの農園・畑・田んぼなどは、やがては耕作放棄地になって荒れ果ててしまい、野生の獣たちが歩き回る山地荒野になるだろうし、その土地を買うのは外国人たちだけだろうから、この先日本の山村は一体、どういう自然形態、社会形態になって行くのだろうかと思う。
 私たちじじいの世代は、そんな先まで生きていないから、無責任な意見は言えないのだが・・・。

 二三日前の新聞の読書欄に「水道」という題名で、3冊の新刊本を紹介したコラム記事が載っていた。
 それは、昨年制定された改正水道法が、自治体の浄水施設の運営権を民間に移譲できるというもので、いまだにその是非をめぐって各地で議論が続けられているということだが、このコラムの作者は、古代シュメール文明や、古代ローマの治水設備(前々回のこのブログでも書いたように「ブラタモリ」ローマ編でもその遺跡が紹介されていたが)を例に挙げて、利害関係のない水供給の原点を示し、さらには諸外国では外国人の土地所有に一定の防衛策を講じているのに、日本の土地が、外国人であっても買収・利用・転売できるという危うさをあげていた。
 現実的に、北海道でも数年前に、あの石狩川水系にもつながる、芦別夕張周辺の広大な山林が外国人に買い占められたという新聞記事が載っていて、その時に、この日本という国はいったいどうなるのだろうか・・・と、暗然(あんぜん)たる思いになったものだが。
 
 今は何も心配していない。
 私たち世代は、幸運にも平和な時代に暮らして、それなりの人生を送らせてもらったと思うし、そうした感謝の言葉をつぶやきながら、やがて消え去って行くだけの運命だし、後は、今の時代を生きる迷える子羊たちがどうするのか、誰について行くのかなどは、もう私のあずかり知らぬ遠い先の話だからだ。

” みろよ 青い空 白い雲 そのうちなんとかなるだろう”

(「だまって俺について来い」歌 植木等 作詞 青島幸男 作曲 萩原哲晶 1964年)

(追記: 前回の記事で、昔の思い出の山の景色として、誤ってグリンデルヴァルトのユースの窓から見たマッターホルンと書いていたのだが、もちろんこれはツェルマットのユースから見たものであり、さらには、ニーチェとエピクロスとの関係も一部間違った書き方をしていて、二日後に読み直して気がついたのだが、自分の原稿校正能力が落ちてきているのに、今さらながらに気づかされるばかりで。)