ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

暇(いとま)あるこそ

2018-08-27 21:45:19 | Weblog




 8月27日

 庭の片隅に、ある時それは突然に、ユリの葉をつけた茎が伸びてきて、年毎に大きくなり、やがて橙色のクルマユリの花が咲き始めて、もうそれは、おそらく20年近くになるのだろうが、毎年変わらずに、秋の初めのころになると、まるで玄関先の燈火、提灯(ちょうちん)のような鮮やかな花を見ることができるようになったのだ。(写真上) 

 球根がまだ元気なうちはこうして、見事な花を咲かせてくれるのだろうが、しかし全盛期のころの、数十本もの花が一度に開いていた、あのまるで祭りの山車(だし)のような、豪華な飾りつけの華やかさは、もう見られなくなってきているのだ。

 もちろん、年毎に球根が分球したりして増えてゆくユリの仲間には、寿命はないのかもしれないが、地中の変化や害虫などの影響によって、いつしか球根の力が弱っていき、ついには球根そのものが腐ったりして消えていくこともありそうで・・・。 
 その心配は、10年ほど前に、それまでにはなかった林縁の木の根元近くに、小さなユリの葉の茎が出てきて、二年目にはもう花が咲いて、それがクロユリだとわかって小躍りしたくなるほどうれしかったのだが、その後3年ほど花を咲かせてくれた後、花の咲かない年があって、それから姿を消してしまった。(2015年5月25日の項参照)
 そうしたクロユリの例もあるから、心配ではあるのだが。

 さて、一週間ほど前に、台風崩れの温帯低気圧が二つ続けてやって来て、風の心配をしたのだが、雨風ともに大したことはなくて、それはそれでよかったのだが、一方では期待していた、水位の低いままの井戸への恵みの雨にはならなかった。
 水の出ない日々が、何と3か月余りにもなるが、何と長い断水生活が続いていることだろう。
 今までに、二三週間、井戸水の出ない時はあったのだが、このたびのような長い渇水状態には全くお手上げであり、これはわが家でのギネス記録として認定することにしよう、とか笑っている場合ではないのだが、一方では、もらい水とペットボトル水だけで、3か月も生活できるということにもなるのだが。

 さて、その後晴れる日もあって、気温は27,8℃くらいまで上がり、まだまだ夏の空気も残っているようだった(内地の40℃近くにもなる炎熱地獄から見れば、天国だが)。
 それでも今日は、また曇り空の中、朝の14℃から、ほとんど気温は上がらず18℃と、秋らしい涼しさの中で、仕事もはかどるというものだ。
 今は、天気図上の前線をはさんでの、夏の空気と秋の空気のせめぎあいなのだろう。

 先日近くの大きな街まで買い物に行ってきたのだが、大きく広がる牧草地にも、そこはかとなく秋の気配が漂ってきているようだった。
 きれいに刈り取られた小麦畑に代わって、今は穂先が白銀色に輝くデントコーン(飼料用トウモロコシ)畑がうねり続いている。
 道の両側には、黄色のオオハンゴウソウやセイタカアワダチソウの群生が目につき、さらには時々、鮮やかな色が目を引いて、ここでもあのクルマユリの花が咲いている。 

 やはり、秋だなあと思う。

 ”春暮れて後(のち)、夏になり、夏果てて、秋の来るにはあらず。春はやがて夏の気を催(もよお)し、夏より既(すで)に秋は通(かよ)い、秋は即ち(すなわ)ち寒くなり・・・。”

(『徒然草』第百五十五段 兼好法師”吉田兼好”著 西尾実・安良岡康作校注 岩波文庫、以下の引用文も同上)

 前回、この私のぐうたらさのまま生きていくことへの、何か指針となるような本はないものかと考えていたのだが、それで以下の一文を思い出したのだ。 
 それは最近、ある議員の国会答弁で一躍流行りの言葉となった、”非生産的”だが、それはもちろん、ものぐさぐうたらじじいである私みたいな男の行いを、後押しするために書かれたものではないのだが、ふとこの『徒然草(つれづれぐさ)』の中の一節を思い出して、何か少し救われたような気にもなったのだ・・・。

 ”大方(おおかた)、万(よろず)のしわざは止めて、暇(いとま)あるこそ、めやすく、あらまほしけれ。世俗の事に携(たずさ)わりて、生涯を暮らすは、下愚(かぐ)の人なり。”(『徒然草』第百五十一段)

 これを自分なりに訳すれば、”(年寄りになれば)今までかかわって来た多くの仕事はやめにして、ひまな自分でいることが、周りの人からも安心して見ていられるし、自分のためにもそうであったほうがいいのだ。死ぬまで、世間とかかわりあって生きていくというのは、愚かな人がやることなのだ。”(注:下愚の反対語は上智)

 この『徒然草』の作者吉田兼好は、若くして出家(しゅっけ)隠棲(いんせい)し、哀感あふれる物事に心を寄せて、細やかな思いを書き綴る一方で、あの『枕草子』の作者清少納言と同じように、才ばしる人間にあるような、独断的な物言いが気になるところもある。 
 上の一節は、私のようなぐうたらじじいにとっては、小声でもっともだとも言いたくなるのだが、一般世間論として、それでは、105歳まで現役医者として生きてこられたあの日野原重明先生や、今年96歳になる瀬戸内寂聴さんもいまだ僧侶としての講演を続けておられるし、前回書いたあの大分の78歳になる”スーパー・ボランティア”のおじいさんなどなど、尊敬すべき見ならうべきお年寄りたちがいくらでもこの世にはいるのだから、一概に、年寄りの仕事を否定することなどできないのだが。 
 もちろん兼好は、そうしたしっかりと世間にかかわっている人々を批判したのではなく、年老いても権力を手放さずに、見苦しくも君臨し続けている人たちを非難したかったのだろうが。 
 この後の段に、その辺りのことをうかがわせる”ブラック・ユーモア”じみた、あの有名な話が載っている。 
 以下原文で載せるよりは、私の意訳で書いていくことにすると。

 ”ある時、宮殿内裏(だいり)に西大寺の静燃上人(じょうねんしょうにん)が参られて、その腰が曲がって眉が白くなり、いかにも徳にあふれた様子を見て、当時の内大臣西園寺実衡(さねひら)が、「なんとも尊いご様子だ」と感心して言っていたのを聞いていた、中納言資朝(すけとも)は、「お年を召されたからでございましょう」と答えたそうで、後日この資朝は内大臣のお屋敷へ、一部分毛の抜け落ちた老いさらぼえた犬を引き連れて行って、「この犬も尊く見えるでしょうね」と言ったそうである。”(『徒然草』第百五十二段) 

 さらにこの話の後日談、この35歳で内大臣になった西園寺実衡は、そのわずか二年後に病死していて、一方の資朝は実衡と同い年で、35歳で権中納言となったが、その後すぐに鎌倉幕府への謀反の疑いで捕らえられ、後に佐渡ヶ島へと流罪にされて、さらに元弘の乱のために同所で刑死したと書き記されている。享年43歳。

 同期で、内裏(だいり)に参内(さんだい)していた仲間の高級官僚の二人だが、一人はすぐに病に倒れて亡くなってしまい、もう一人はあらぬ疑いをかけられ、流罪の地で斬首され命を絶たれることになったのだ。
 私たちが歴史上の史実として知っているだけでも、万葉の時代から明治維新の前夜に至るまで、さらには二度の大戦を経てまでも、いかに多くの讒言(ざんげん)が飛び交い、謀反(むほん)、抗争のためにどれほど多くの凄惨な悲劇が繰り返されてきたことか。

 戦争を知らない世代として生まれ育ち、戦争を知らないまま死んでいくことになるだろう私たちは、もちろん誰にでも、多少なりとも常に不満な思いがあり、不幸なこともあったとは思うけれども、こうして生きているだけでもめっけものというべきであり、戦争の時代からは遠く離れていて、実に幸せな時代に生きたということになるのだろう。

 四季はめぐって、花は咲き、チョウが飛び回り、セミが鳴き、鳥たちがさえずり、木々は緑の中であふれ繁り、山々は高くそびえ、雲は白く沸き立ち、すべてのものの上に、大きく包み込むように蒼穹(そうきゅう)の青空が広がり、陽の光に満ちている。

 さて、『徒然草』の話の一つから、思いは時代を超えて果てなく膨れ上がってしまったが。
 もともとの話に戻れば、”ひまであることはよいことだ”ということから、さらに続けて兼好はこうも書いているのだ。

 ”ゆかしく覚えん事は、学び訊(き)くとも、その趣(おもむき)をしりなば、おぼつかならずして止むべき。もとより、望むことなくして止まんは、第一の事なり。”(『徒然草』第百五十一段)

 これも私なりに訳すれば、”どうしても知りたくなったことは、誰かに聞いて教えてもらうにしろ、大体のことが分かれば、それ以上深入りして知る必要はない。もちろん、そうしたことを知りたいと思わないことが一番よいのだが。”

 つまり兼好が言いたいのは、好奇心旺盛で、思うままにあっちこっちに興味をもって、なんでも人並み以上によく知ってやろうと、首を突っ込んで深入りしてはいけない、物事は知らないでいることが幸せなことがいくらでもあるのだから、と言っているのではないのだろうか。
 流行に乗って皆がするから、皆が行っているから、皆が食べているからと追っかけて行く必要はないのだ。
 そのことに必要以上に気を使うことで、自分の心の平安を乱されることにもなるからだ。
 年寄りになれば、静かに穏やかでいることが一番なのに。

 私は、今、流行りの服装も知らず、人気の食べ物も食べたことはなく、評判の映画を見たこともなく、誰でもが何度でも行きたいというディズニーやユニバーサルに行きたいと思わないし、そうした都会の喧騒の中でがまんして時を過ごすくらいなら、こうして人里離れた林の中で、何事もなく毎日を送っていられるだけのほうがはるかにいい。
 つまり、他人はどうあれ、今の、何もない静かで穏やかな暮らしの中にこそ、私の一番大切なものがあると思うから・・・と私は、この『徒然草』の一文から自分なりに勝手に理解してみたのだが。
 
 三日ほど前、久しぶりに街に出て友達の家で話して戻る途中、十勝平野の上空に斜めに広がっていた雲の間から、夕焼けの光が差し込んできて、何ともきれいで壮大な眺めが広がっていたのだが、あいにく私はその時カメラを持っていなかった、家に戻って再び見晴らしのきく所まで出て見たのだが、大空を彩るその壮大な色彩の舞台はすでに幕切れの時を迎えていた・・・あと何回の夕焼けを・・・。(写真下)


 


8月中旬の山の初雪

2018-08-20 22:29:45 | Weblog



 8月20日

 外に出ると、ムッとする熱気が体を包み込み、エゾゼミの”とジー”と鳴く大きな声が聞こえてくる。
 しかし、5月下旬から6月にかけて、家の林の中で、一個の巨大な共鳴体のようになって耳を聾(ろう)するばかりに鳴く、あのエゾハルゼミの大集団と比べれば、今この家の林で鳴くエゾゼミたちは、数はその何分の一くらいしかいないから、それほどの集団の音ではないのだが、何しろ日本にいるセミの中では最大級の大きさであり、あのエゾハルゼミの3倍もある7㎝近くにもなる大きなセミだから、個体が発するその音は一匹でもかなり強く聞こえる。 

 他のセミたちの声も併せて聞いていけば、このエゾゼミは、まずはあの”シワシワシ”とこれまた大きな声で鳴くクマゼミとともに、傍で鳴きだすと、思わずうるさいと言いたくなるほどだが、一方では、朝夕に”カナカナカナ・・・”と鳴く、あのヒグラシのもの寂しげに鳴く声は、どこか日本人の哀感を誘うような感じで、いつしか物悲しい気分になってしまうのだが。

 ・・・冒頭、暗い舞台に、このヒグラシの鳴く声が、一匹二匹と聞こえてきて、そこに琵琶(びわ)をかき鳴らす音が入って来て、やがてその暗い舞台に、薄明りの光が満ちてきて、そこに一人座っている、琵琶法師の揺らめくような声が聞こえてくる。 
 ”祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声~諸行無常(しょぎょうむじょう)の響きあり~沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色~盛者必衰(じょうじゃひっすい)の理(ことわり)をあらわす~おごれる人も久しからず~"

 ということで、今日のぶり返してきた暑さの中(帯広で30℃)、ぐうたらな私には、再び”心頭滅却(しんとうめっきゃく)”の心構えが必要なようだ。

 それまでは、北海道でも”かくや”と思うばかりの涼しい日が続き、というよりは寒いくらいの日もあって、すっかり秋になってしまったと思っていたのに。 
 朝の気温が10℃前後の日が続き、最も冷え込んだ朝は7℃までも下がり、周りの草花も白露に濡れて輝き、息が白く見えるほどだった。
 一方の最高気温は、晴れていても20℃を少し超えるくらいで、曇り空の時は、15度くらいまでしか上がらず、スト-ヴに火をつけようかと思ったくらいだ。

 そんな中で、テレビ影像として映し出されていた”大雪山・黒岳(1984m)の山小屋石室(いしむろ、1870m)での初雪”・・・大雪山に登っている人なら誰しもが思うだろう驚き・・・お盆が終わったばかりの8月17日に初雪だなんて!
 これは、観測史上最も早い記録だそうであり(表側の姿見ロ-プウェイ駅でも旭岳2290mの初冠雪を確認したとのことで)、平年の初雪は一か月後の9月18日であり、遅かった去年の初雪9月28日と比べれば、何と40日も早い初雪になるとのことであり、これは単なる異常気象だと見過ごせる数字ではないのだが・・・思うに、結局、人間は、いつも大多数が護送船団の船に乗っている安心感に惑わされているだけで、いざ船内の自分の足元に水が押し寄せてきて初めて、人類を救うノアの箱舟などどこにもないことに気づくのだろうが・・・。

 ともかく、これまでに最も早かった大雪山の初雪の記録は、2002年の8月21日とのことであり、自分の登山記録を見てみると、その年は、いつもの紅葉の盛りになる9月中旬に黒岳に登っていて、ウラシマツツジやチングルマの紅葉に降り積もった(何度目かの)雪を見ながら、お鉢周辺を歩き回った記憶はあるのだが。
 それにしても、もう数十年近くにもなる私の大雪山登山の記録の中でも、8月中旬に初雪というのは余りにも早すぎるし、ということは今年の紅葉時期も早くなるということなのだろうか。

 今日のぶり返した暑さは、一時的なものだろうからいいとしても、それまでの涼しさは、夏は暑くなるという北海道十勝地方の常識を、多少ともいい意味でくつがえしてくれたような気もする。
 それは家の中でも、例えば2階のロフトは、それまでは夏の昼間はいられないくらいだったのだが、今年は小さな扇風機は使ったものの、十分パソコン作業などもすることができたし、着ているものもさほど薄着にこだわらずに過ごせたような気がする。

 何より、いつもの年と比べて、家の内外の気温の差をこれほど強く感じたことはなかったのだ。
 今日も、外の気温は28度まで上がったのだが、屋根裏のロフトはそれなりに蒸し暑いけれども、一階の居間は22℃くらいで、Tシャツでは寒いほどだ。

 それまでの2週間は、ほとんど一日中、フリースを上に着こんでいたくらいで、夏の暑さが苦手な私には、不謹慎な言葉かもしれないが、異常気象による寒冷化はありがたいことなのだが、一方では全体的に地球高温化現象が続いていて、この夏の本州各地の40℃越えの記録的な気温は、さらに高みがあることを告げているのかもしれない。
 若いころに、いい思いをたくさんしてきて、いい思い出をいっぱい作って来て、そんな思い出の資産を多く抱え込んでいるだけの年寄りの私は、この辺りでドロンさせてもらうとしても・・・これは、全く無責任な卑怯(ひきょう)極まりない言葉かもしれないのだが、後は若い世代の君たちが決めることであり、右に行こうが左に行こうが真ん中を目指そうが後ずさりしようが、君たちの未来と将来は君たちの思うがままにすればいい、護送船団に乗り組めば、命運もその船の行くままなのだから。

 もちろん世の中には、こうした私のような、ただの”ごくつぶし(穀潰し)”なだけの、ぐうたらわがままの子供帰りしたような年寄りがいるものだが、その一方で、神様はこの世に粋な差配をして見せることもあるのだ。 
 最近のニュースの中で、あの山口県の瀬戸内海の島で行方不明になった2歳児を、三日後に救出したというニュースほど、私たち日本人の心をあたたかい気持ちにさせてくれたものはなかった。
 もちろん今年は、それとは比べ物にならない、多くの人の命が失われた悲惨な事件がいくつもあった中で、今年のニュースのベスト1をあげるとすれば、もう今の時点から、私は、みんなが幸せな気持ちになったこのニュースをあげたいと思うのだが。

 それにしても、私よりはるか年上の78歳にもなるご老人が、自分の時間の多くを使ってまで、他人のために働き、力になろうとするそのひたむきな思いに心打たれてしまうのだ。
 私のように、自分のためだけに生きてきた人間にとって、今も自分のためだけに山に登って、ただ他人に迷惑をかけないことだけを旨(むね)として、わがまま、ぐうたらに生きている人間にとって、その差は、”天使と悪魔”ほどもあるのではないのか。
 
 思えば、この国の政治家、官僚が自分の私利私欲のために画策して国の財産にたかっている姿を思えば、彼は、自分が長い間働いて供託してきた、その見返りになる年金だけで生活していて、自分のボランティア・奉仕の謝礼を一切受け取らないという強い意志をもってことに臨み、今の時代ではもはや消え果てしまっていたと思われる、日本人のあるべき倫理観として、または、脈々として受け継がれてきた日本人の心として、私たちに見せてくれたのだ。
 報われるべきは、彼を顕彰し謝礼を与えることではなく、そうした日本人的な無償奉仕の心を持った仲間や若い人たちを増やしていくためにも、国や地方が彼らが働きやすいような施策をしていくことなのだが。
 そして、それが地方再開拓のために、若い人たちを地方に呼び込む方法の一つにもなり、ひいては国家そのものの力となっていくのかもしれないのに。

 これもニュースから、アメリカアリゾナ州の大きな病院で、ICU(集中治療室)に勤める看護婦たち16人が偶然にもいっせいに妊娠していることがわかって、病院は彼女たちが職場を離れる間、他の病院に応援を頼み、病院側は妊婦になった彼女たちへの祝福のしるしとして、生まれてくる赤ちゃん用のおそろいのTシャツを贈ったとか。 
 一方の日本では、ある医科大学で、受験者に知らせることなく、事務局で試験の点数を操作して、医師になっても出産などで病院を離れることの多くなる、女子の受験者の合格者数を意図的に減らしていたとのこと。 
 テレビ番組の名前ではないけれども、その差ってなんですか。アメリカと日本の病院勤務ならびに病院管理意識の差!

 さらに、いつものように気になった番組をあげていけば、いつものNHKの「日本人のお名前っ!」は、先週は生き物や昆虫などの名前の話だったが、こうして名前にまつわる話はいくらでも広げていけるのだから、植物名など何回にわたっても取り上げてほしいと思うのだが。

 相変わらず、「ポツンと一軒家」(テレビ朝日系列)はつい見てしまうし、もちろん事前の調査での当たりはずれもあるのだろうが、放送されるものは、確かにそれぞれの持ち主たちの物語があるから面白いのだ。
 今回の放送での一つは、佐渡の山の中にある一軒家の話で、まだ佐渡に絶滅前の日本産のトキがいたころ、そのトキのえさ場のために、棚田や池の環境を守り続けてきた亡き父の跡を継いで、一人でこの山の上までやって来て、草刈りなどの作業をしている71歳になるという男の人の話だった。
 父親が彼に話してくれた昔の話・・・えさ場からそのトキたちがいっせいに羽ばたいて飛び上がり、その裏羽の鮮やかな桃色が、まるで咲きそろったボタンの花のようだった・・・と。

 次に、新潟県の1000mほどの山の中腹にある、当時は使われなくなっていた営林作業小屋を借り受けて、自分たちの山小屋として管理して、そこに至る林道や途中にある仲間の遭難碑や登山道を整備している、新発田(しばた)高校山岳部の元部員たち、70代から81歳までの3人。
 彼らを含む8人の仲間は、60代から70代になった時の10年ほど前に、皆で飯豊山全山縦走をしたとのことで、その時の絆が今も続いているのだと言っていた。(私は、8年前”2010.7.28~8.4の項参照”に彼らとほぼ同じコースを一人で歩いたのだが。)

 三日ほど続いた雨で、やっと井戸水が使えるようになったかと思ったら、翌日また水が出なくなってしまった。
 もともと今年の水位が低いうえに、この三日の降水量は50㎜ほどで、つまり5㎝水位が上がったくらいでは、まさに”焼け石に水”状態でしかないのだろう。
 またというか、これからも周りの家にもらい水にいかなければならない状態が続くのだろうが、やれやれ、私も被災者の一人なのかもしれない。

 先日まで長い間続いた涼しさで、一気に秋が近づいてきた。
 オオハンゴンソウの黄色い花が咲き、ハギの薄紫の花が林のふちを飾り、2年前の台風で幹ごと折れたナナカマドの木に、今年もだいだい色の実が鈴なりについているが、それが木が枯れる前の予兆ではないことを祈るばかりだ。
 そして、庭木としての刈り込みをして、丸く整えているオンコ(イチイ)の木に、今年も赤い実がいっぱいになっていて、時々つまんでは食べてはみるが、やはり鳥たちが食べに来るので、このままにしておくべきなのだろう。(冒頭の写真)

 ・・・夏ももう終わりね。」とお前が言った。
 ・・・もう秋だ。」と僕が答えた。

 ここまで来ると僕らの言葉は、
 たいして似てはいなかった。

(『月下の一群』フランシス・ジャム「哀歌十四」より 堀口大學訳 新潮文庫)

 
 


山の青さに空の色

2018-08-13 22:15:39 | Weblog




 8月13日

 一週間前のことだ。
 未明、トイレに起きた私は、再び惰眠(だみん)をむさぼろうと、布団の中にもぐりこんだのだが、そこで眠れないまま、様々な思いが頭の中をよぎっていくのにまかせていた。
 今日の天気予報は、全道的におおむね晴れで、もうこの後はお盆休みが近づいてきて、どこも混んでいて出かけられなくなるし、山に行くのは前回も書いたように、もう一月も間が空いているし・・・そうだ京都へ行こう!じゃなくて・・・せっかく早く目が覚めたのだから、このチャンスを逃す手はない。
 昔の手塚治虫の漫画に出ていた、アセチレン・ランプの頭の後頭部のローソクに火がともるように、私ははっと気づいたのだ。
 そうだ、大雪山に行こう!

 それまで、ぐうたらな毎日を送っていて、それは、この年になると、山に登るのにまず登山口に行くまでの長距離運転をしなければならないし、体もだるいしヒザも気になるし、天気もはっきりしないしと難癖(なんくせ)をつけては、すっかりものぐさになった自分に言い訳をしていたのだが、その日は、私の頭の中にいる神様が降臨(こうりん)してきて、言ったのだ。
 ”そんな、だらだらした毎日を送っていたらあかん。ここは自分のためにも、ひとつ山にでも登ってきたらどや。男は時には、シャキッとするもんやで、ほんま。”

 私は、起き上がって、急いで支度をして、薄明るくなった空を見ながら家を出た。
 朝日が昇ってくる田園地帯や町の市街地を抜けて、糠平(ぬかびら)辺りから山間部に入り、峠を越えて工事中の高原大橋のたもとまで来ると、青空の下、あちこちにまだ残雪模様を残した大雪山東面の山々が、長い一本の尾根のように連なって見えてきた。
 左から、緑岳、小泉岳、そして東ノ岳に赤岳の山なみだ。
 この眺めを前にしただけでも、来てよかったと思う。

 しばらく砂利道を走って、いつもの高原温泉の登山口に着く。
 紅葉の時期には、特に高原温泉沼めぐりの起点として大混雑するから、手前の大雪湖畔の駐車場からシャトルバスが運行されていて、ここまではクルマでくることはできないのだが、今の時期は閑散としていて、手前の広い一般駐車場には私のクルマがあるだけだった。

 先行者数人がいる登山者名簿に記入した後、噴気孔のそばを通り、いつものエゾマツ・トドマツ林の急斜面の登りが続く登山道をたどってゆく。
 ヒザの痛みはいつ再発するかわからないから、無理をしないように第一歩目から歩幅を短くしてゆっくりと登って行くが、そうまで言わなくても、年寄りの私には、他の人と同じペースではとても登っては行けないのだ。
 急坂が終わり、ゆるやかな山腹の道はさらに一登りで見晴らし台へと着く。
 おなじみの景色で、正面には、いつもの残雪模様の忠別岳(1963m)の溶岩台地が続いている。 
 そういえば、高原温泉への道が開いたばかりの、6月の下旬のころにこの道を登ってくると、いつも辺りにはルリビタキたちのさえずりの声が、遠く近くに幾つも聞こえてくるのだが、今はかろうじてもどかしい声で鳴く、一羽の声が聞こえてくるだけだった。

 そこで一休みした後、お花畑の台地への最後の登りが続く。 
 昔はこの辺りから上部の花畑にかけて、いつもぬかるみの道になっていて、長靴でなければ登れないほどだったのだが、この十数年余り、一部を木道にするなど、年毎に登山道が改良されていて、普通の登山靴でも何の問題もなく、楽に歩いて行けるようになったのだ。
 それは、工事を担当している営林署や環境省関係の人々たちの、たゆまぬ労働作業の結果なのだろうが、ありがたいことだ。
 
 そして木々が低くなり、ハイマツとササになると視界が開けて、第一花園の台地に出て、お花畑の向こうに、いつもの緑岳(2020m)から東ノ岳(2067m)への連なりが見えている。 
 上空は、一面の青空が広がり、さわやかな風がやさしく吹きつけている。 
 ふとあの有名な”芭蕉布(ばしょうふ)”の歌の出だしの一節が、頭の中に流れてきた。
 ”海の青さに 空の色”
 それは、たとえれば、まさに”山の青さに 空の色”を思わせる一瞬だった。
 静かだった。
 今までの道の途中で、私を抜いていった人たちが、一人、二人、一人ともうずっと先に行っているようだった。
 
 青空を映す池と石を配置した、自然の庭には、緑の草と赤いエゾコザクラの花が敷き詰められていて、それらを縁取るように白いチングルマの花も咲いていた。(写真下)





 そうしたお花畑の中を、道はゆるやかに続いている。
 7月下旬までの花の最盛期に比べれば、明らかに花の種類は少なくなったけれども、赤いヨツバシオガマや紫のミヤマリンドウ、黄色いエゾウサギギクにミヤマキンバイ、白いエゾノハクサンイチゲにワタスゲ、薄緑のアオノツガザクラに赤いエゾツガザクラ、それに加えて花期の長い白いチングルマと、雪田の雪が溶けた今の時期に咲き始める赤いエゾコザクラと、見るべきものは十分にあった。
 何より涼しい風の吹く高原逍遥(しょうよう)の道、周りに人影はなく、鳥の声が一つ二つ聞こえるだけで・・・私が思い浮かべる静かな大雪の山歩きだった。

 ヒザの具合が悪ければ、もうこの辺りで引き返しても良かったのだが、その体調も悪くなく、何よりこの快晴の空の広がりだ。
 そして、第一花園から第二花園、第三花園とゆるやかな高原歩きの道は続いていく。 
 行く手には緑岳の柔らかな山容があり、右手には屏風岳から武利岳に至る北大雪の山波が続き、振り返るお花畑の向こうには、ニペソツ山、石狩岳、クマネシリ山群も見えている。 
 夏の初めのころなら、ここまでは長い一本の大雪田となって続いているのだが、この先は少し崖状の逆相スラブの岩場になっていて、眼前には大きく緑岳東斜面が広がっている。(冒頭の写真)

 そこを抜けると緑岳山腹をめぐるハイマツ帯の道になるが、途中でチシマノキンバイソウとバイケイソウの群落があり、その先で灌木帯を抜けて、いよいよ緑岳岩塊(がんかい)帯の斜面を登る道になる。
 手前に高原沼から高根ヶ原の台地があり、その向こうに、遠くトムラウシ山が見えていて、その岩塊帯の始まりの所で、いつものように一休みした。

 山に登るのに、私のように大自然の静寂を求めてくる人間もいれば、夫婦や気の合う友との語らいの場を併せ求めて山に登る人たちもいるし、さらにはにぎやかな多人数の仲間とともに来たいと思う人たちもいる。
 さらにそこに、親子や老若男女の違いや、山に何を求めるかとか、どの山の登山コースを選んだのかということまでも考え併せれば、もう幾つもの組み合わせが生まれてきて、その人が山に登ることへの思いというものは、実に多岐に分かれているということが分かるだろう。
 それはどれが正しいかとか言うことではなく、物事は単純に一つだけに断言できない、多様な内容を含んでいるということなのだ。

 誰が言った言葉かは分からないが、確か、”万人向けのものは、実は誰のためにも向いていない”という言葉があったかと思うが、確かに、厳密に考えれば、誰にでも向いているということは、その対象となる誰でもが多少の差こそあれ、不満な部分があるということでもあり、つまりそれは、実は誰一人として完全に満足しているのではないということになり、さらに言い換えれば、ほとんどの人が大多数の賛成納得の枠の中に組み込まれているだけにすぎない、ということになるのではないのだろうか。 
 極論すれば、すべての人の数ほどにそれぞれの考え方立場があり、その時の環境があり、年齢の差があり経験の差があるわけだから、すべての人が100%満足できるわけではなく、多くの人が多少の不満を抱えながらも妥協して受け入れているということになるのだろう。

 つまり、そこで考えたのだが、私たちが本を読んだり画像を見たりする場合、それはいつの時代の誰によって何歳の時に書かれ記録されたものか、そしてそれを受け取る側の私たちは、それを何歳の時に読んだのか見たのかによって、それからくみ取るべきものや、その価値の大小さえもが大きく変わってくるのではないかということだ。
 例えば、あのニーチェ(1844~1900)の有名な『ツァラトゥストラはかく語りき』(1885年)は、若い時に読んで大きく心揺さぶられたものだが、人生を終わろうとする今になって改めて読んでみれば、その壮年期のあふれる思いの勢いが、多少大げさで疎(うと)ましくも感じられるようになるものだし、さらに例えば、そのあの谷崎潤一郎(1886~1965)の後期のマゾ的な小説群(『鍵』(1956年)『瘋癲(ふうてん)老人日記』(1961年)など)は、若いころには”この色狂いじじいめが”と思い、あまり読む気もしなかったのだが、今になって読んでみると、その裏に内包されている老人の生への執着が痛いほどに感じられるのだ。

 それは、小説などの文芸書や哲学書は言うに及ばず、音楽、絵画、映画などの、人間が歴史とともに営々と伝えて来た、文化そのものすべてに対しても言えることではないのだろうか。 
 今の私たちは、何を読み、何を見、何を聞けばいいのか。 
 それは、ここまで考えてきた流れからすれば、万人を納得させる名著などというものは在りえないのだから、あくまでも今の自分の年齢、立場、環境を考え併せて、名著の名前にとらわれずに、今の時にふさわしい一節だけを引き抜いて、考えては、これからの生きるよすがの一つとしていけばいいのではないのか。
 それでも、”ぐうたら”・・・”山が好き”・・・”ひとり”と結びついていくような都合の良いものは、何もないような気もするのだが・・。

 とりとめもなく続く思いに一区切りをつけて、いよいよ緑岳山腹を覆う岩塊(がんかい)帯の登りにかかる。
 足場の悪い、岩礫(がんれき)岩塊帯は、ただでさえ足元がふらつく年寄りには、鬼門ともいえる登山道なのだ。
 それでも、わずかに残って咲いている薄紫のイワブクロやウスユキトウヒレンの花に慰められて、ジグザグのつらい登りも終わりに近づいてきて、遠く阿寒の山が見え知床連山は海側からの滝雲にまかれ始めていた。 
 そこで、今まで見えなかった北側の景色が一気に開けてきて、緑岳頂上に着く。
 私の好きな、大雪山の頂上の一つだ。 
 足元の、すでに紅葉が始まっているイワウメの一株一株の向こうに、夏雲沸く青空を背景に旭岳(2290m)と熊ヶ岳(2108m)が並んでそびえ立っていて(写真下)、その右手前に白雲岳が大きく盛り上がり、北側に続く穏やかな尾根の向こうに小泉岳(2158m)が見えていた。




 この緑岳まで、コースタイム3時間の所を、途中花畑の写真を撮っていたとはいえ、やっとの思いで3時間半以上もかかっている。
 今日は、もうこれ以上行く元気はないが、若いころには、この先の小泉岳から白雲岳までも往復していたというのに。 
 腰を下ろして休んでいると、いつものことなのだが、今日もまたキアゲハたちが飛び回っていた。
 このキアゲハは、上昇気流に乗って山の頂上まで上がってくるのだろうが、その昔、日高山脈はペテガリ岳(1736m)の頂上で出会って以来、北海道の夏山の頂上ではたびたび見かけるチョウである。
 そのキアゲハたちが飛び回る南側は、今まで登りの岩塊帯の斜面だから広大に開けていて、まだあちこちに残雪がついている高根ヶ原の溶岩崖の斜面から、さらに遠くトムラウシ山(2141m)が見え、その右手には十勝岳連峰も並んで見えていた。(写真下)


 
 しかし、足の遅い私は、帰り道を考えればそうのんびりともしていられない、わずか30分ほど頂上にいただけで、下っていくことにした。
 大きな岩の上に置く足の位置に注意しながら、ゆっくりと登りと変わらない時間をかけて下りて行く。
 まだ一人、二人と下から登ってくる人もいる。大きなザックの人は、小屋泊まりなのだろうが、確かに白雲岳からの朝日に染まる旭岳や、高根ヶ原のコマクサやエゾノオヤマノエンドウ、リシリリンドウなどの花を見るには小屋に泊まって、山をもっと楽しむこともできるのだが。
 何とか無事に岩塊帯を下りてきて、後はハイマツ帯を抜け、そして再びお花畑の中の道だ。
 私はそこで、何度立ち止まり腰を下ろして、花を眺め写真に撮ったことだろう。
 行きにも見た登山道から離れたところにある、エゾコザクラの群落は、回りをチングルマが取り囲んでいて、そこだけが、山の中にあるひそやかな楽園のようだった。(写真下)



 そして、最後の急坂の下りにも何とかヒザがもってくれて痛むこともなかった。
 これも、家の階段の上り下り訓練と、時々飲んでいるサプリメントのコラーゲンのおかげかもしれない。
 緑岳往復だけの今回の登山で、休み時間や写真撮りの時間も入れて7時間もかかってしまったが、ともかく無事に山旅を終えることができたのだから、まだこのじいさんの頭の後ろにも、あの漫画に出てくるランプのように、山登りの希望の灯が灯っているようで・・・。

 それにしても、これは、今年初めて北海道の山に登ったことになるのだが。
 年間、20回ほども登っていた昔は、遠くなりにけり・・・と哀しむべきか、それとも懐かしむべきか。
 家に戻る途中で久しぶりに、友達の家に寄って1時間半余りも話し込んでしまったが、こうして遠く離れていても、いつ会っても、心おきなく話し合える友達がいることはありがたいことだ。 
 こうして、年寄りになればなおさらのこと、友達や知人は増えることはなく、むしろ一人二人と減っていくばかりなのだから・・・。

 だからこそ、毎年間違いなく咲いてくれる、山の花々たちに会えることは、何ともうれしいことなのだ。 


気温11℃の朝

2018-08-06 21:54:58 | Weblog




 8月6日

 今日の朝、曇り空で、気温11℃。
 この三日ほど、今までの重苦しい夏の空気とは違う、ひんやりとした涼しい空気の中で、朝、目を覚ましている。
 網戸だけの窓から、冷たい空気が流れ込んできて、思わず夏布団の裾を合わせるほどだ。
 いいなあ、と私は布団の中で目を閉じたまま、そのひんやりとした空気を楽しんでいる。
 この、秋の気配を感じる夏の朝の涼しさが、私が北海道を好きになった理由の一つでもあるのだ。
 何といっても、この初秋を思わせる、きりりと張り詰めたような乾いた空気感が素晴らしい。 

 その、朝の涼しい空気の中、近くの丘から見ると、朝もやのたなびく十勝平野の向こうに、夏には珍しく日高山脈の山々が並んでいるのが見えた。(写真上、左からペテガリ岳、ルベツネ山、1839峰、ヤオロマップ岳)
 手前には、刈り取りの時期を迎えた黄金色の小麦畑と、緑色の牧草地やビート畑が入り組んで見えている。
 先日、飛行機の上から見た、あの鮮やかなパッチワーク状の大地の畑模様だ。
 こんな日は、昼間でも気温は20℃を超えるくらいで、気分のいいことこの上なく、日ごろものぐさな私にもすべてにやる気が起きてくるのだが・・・。

 それまでも、朝の気温は20℃位にまで下がっていたから、十分に北海道らしい涼しい朝が続いていたのだが。
 ただし、そんな時でも、日中晴れて日が差していれば、やはり日差しは熱く、30℃を超える暑さになって、とてもじゃないが外で仕事なんかしていられないほどで、最近とみにものぐさになってきたこの年寄りは、相変わらずに家の中に閉じこもって、ぐうたらに日を過ごしていたのではありますが。

 あの一月前の西日本豪雨で、自宅が被害を受けたお年寄りたちは、毎日の猛暑の中で額に玉の汗を光らせて、復旧のための泥との格闘に明け暮れているというのに。
 いつでも、この世には、日本だけでなく世界中どこでも、今でも、災害や戦争に日々おびえながら暮らしている人々がいるように、神様はいつも、運不運の運命の差配を、偶然という名のもとにまき散らしているように思えるのだ。 
 もっとも、それらの困難な状況の日々に立ち向かう人と、ぜいたくに怠惰(たいだ)な時を享受する人々との差異は、ただ私たち人間側が、それをどう受け取りどう学ぶかにあり、それこそが良きにしろ悪しきにしろ、神から与えられた人間としての試練の時なのだろうが。
 (私がたびたび使う神という言葉は、在って無いに等しい地球上のすべてのことを統(す)べる概念というべきものであって、もちろん特定した宗教上の神ではない。)

 さて、涼しい朝が続く北海道の家で、年寄りの私は、いつも日が昇るころには目が覚めてしまい、それではと、外に出て、一か月ほど留守にした間にすっかり伸び繁ってしまった、道まわりや庭の草刈りに精を出している。 
 それも、やる気を出せば一日仕事で終わるはずなのだが、そこはぐうたらで狡猾(こうかつ)なこのじじいのこと、毎日涼しい朝の間に、気温が低く蚊もアブもいない間に一仕事と、小一時間あまり草刈りガマをふるって、その後は家の中に逃げ込んで、いつものものぐさな”引きこもり”じじいになってしまうのだ。

 ああ、神様、あのいたいけな瞳をした子供のころとはすっかり変わってしまって、今はどんよりと濁った眼をして世の中を斜(はす)に構えて見ては、ただぐうたらに日々を過ごしているだけの、この年寄りに、何とぞお救いの一筋の光をお与えください。
 そこで、先週に続いてあの歌の中の神様の声が聞こえてくるのだ。

 ”なあ、おまえ、まだそんなことばかりやってんのでっか。ほなら、出てゆけ。”

(ザ・フォーク・クルセイダーズ 「帰って来たヨッパライ」より)

 というわけで、よだれを流してうたた寝をして夢を見ていた私は、”ここはどこ私はだれ”と初期認知症の状態で目が覚めて、はっと気づいて起き上がり、そこで初めて自省の念に駆られるのだ。 

 山好きだと自認している私が、最近では一か月二か月もの間、山に登らないどころか、最近では三か月もの間山に登らなかったこともあったくらいで、言い訳をすれば、夏の暑い時には少し前までは、近くの日高山脈の谷筋に分け入って、沢登りを楽しんだものだったが、この年になって、はたして昔と同じように、もう何年も歩いていない水辺の岩の上を飛び跳ねて行けるかどうか、それならば、まだ涼しい雪渓の残る大雪山に行けばいいのだが、そこにたどり着くまでの長時間のクルマの運転を思うと気持ちは萎(な)えてしまうのだ。
 そんな人間が、果たしてそれでも、趣味は高踏派(こうとうは)的な登山だと自負していていいものかと、近年のあまりにも少なくなった山行の数を思い、自ら恥じ入ってしまうのだが。
 それ以上に、はやりの言葉ではないけれども、あまりにも”非生産的”なまま、自分の思うところとはいえ、こうして悠々自適の、静かな時間を送るだけの生活を続けていていいものだろうかと。

 もちろん、この北海道での生活環境は普通の家と比べればかなり過酷で、相変わらず井戸の水は枯れたままで、最低限度の生活用水を周りの農家や友達の家にもらいに行き、その18Lのポリタンで一週間の生活用水をまかなっていて、それだからけちけちと二度三度と同じ水を使い、飲み水は2Lのペットボトル(一本100円)をケース買いしている。
 五右衛門風呂は、水がないから今年はまだ一度も使っていないし、二三日おきにクルマで近くの銭湯に行くしかなく、トイレの大きい方は、離れの小屋に作ったポットン型の”おがくず式”だし、小用は外に出れば”どこでもトイレ”になるからいいものの、雨の時は傘をさして夜は懐中電灯で照らして、だから、もし夜に風雨の中で大きい方をしたくなったら、もうそれは覚悟を決めて外に出て、クマと出会わないか、ヘビが出てこないかと、気の休まる時はなく、半ば位でも早々に止めて家に戻る始末だ。

 そういえば、この家の周りにヘビが何匹かいることは今までにも書いてきたが、そのヘビはすべてアオダイショウであり、むしろ家の周りのネズミなどを食べてくれるからと、昔の人がそう言っていたように”家の守り神”だと思っていて、追い払うことはせずに、お互いに横目で見て認め合ってきたのだが・・・。
 しかし、つい四五日前のことだが、二階の屋根裏部屋から降りる時、ふと目の前の小さな丸棒の手すりに、何と長々とヘビが横になっているのを見つけたのだ。
 それは、鳥肌ものの一瞬だった。初めてのことだった。どうして家の中に。 
 世の中には、ヘビを何とも思わない人もいて、素手でつかむこともできるというけれど、私は大男の割にはゴキブリ(北海道にはいないが)やヘビ、トカゲなどは苦手なたちで、見つければ一瞬、体が氷結してしまうほどで、夏にはもってこいの状態だとか冗談を言っている場合ではないが、ともかく何とかしなければこのまま家の中に居ついてしまうことになるかもしれず、そしてもしかして私が寝ている所にやってくるかも・・・。

 意を決して、そろりとその場を離れて、ぞうきんを取りに行って戻って来て、そのままそこにいたヘビをそのぞうきんタオルでつかんだ。
 長さ1m以上はあるそのアオダイショウの胴体の力は強く、何とか手すりから引き離したが、しっぽにかけての部分で私の腕に巻き付いてきて、その気持ちの悪さと言ったら。 
 そのまま、近くのバケツに入れようとしたが収まり切れるものではなく、仕方なくそのまま強く握って家の外に出て、時々振り回して、50mほど離れた家の前の道の向こうにある、隣の農家の牧草地の方へと投げ飛ばした。

 しかし、これで一件落着と安心するわけにはいかないのだ。
 というのは、前にも家の玄関でとぐろを巻いていたヘビを見つけて、その時は、二本の松葉ボウキではさんで、同じように牧草地の方まで行って投げ捨ててきたのだが・・・その日の夕方、風呂入りに行って戻って来た夕暮れ時のころ、なんとあのヘビが、道路を横切ってわが家の方へと這って行くところを見たのだ。
 私は、クルマで踏みつぶすわけにもいかず、そのままクルマを停めてただ見ていた。
 もうそれは十数年以上も前の話だから、同じ蛇ではないのだろうが。

 話がすっかり横道にそれてしまったが、ともかくこの家は、素人の私が何も知らずに、ただ安上がりになるからと自分の力だけで建てた家であり、とてもお金持ちのリタイア組が住んでいるような、きれいな別荘とは全く違う、まさに外観ともども小屋と呼ぶにふさわしい家でしかなく、様々な不便さは覚悟の上のことであり、むしろお金や物がない中で、ガマンして才覚をはたらかせて暮らしていくことが、自分のためにもなると思ったからでもある。
 そう、私は、ムチを持った黒タイツのお姉さんに叩かれて、それが快感になるような性向があるのかもしれないが、それはまた、つらい環境の中にあっても、乗り切って行けるという学習にもなり、自信にもつながるものだと思っている。
 例えば、私の今までのテント泊縦走の山旅の経験からいえば、その不自由さの中から、なんと多くのことを学んできたことか。

 つまり、金持ちのぐうたらさはもちろん良いことではないし、逆にあくせく生きるだけの貧乏さも良くない。
 求めるところは、貧乏のぐうたらさであり、そのことが成り立つならば、私にはそれが一番だと思っているからだ。
 そんな思いの中で、半ば荒れて草が伸び放題の庭の隅に、今は生垣としての体をなしてはいないが、毎年もう何十年にもわたって毎年のことだが、種から育ったハマナスのとげとげの木の枝先に、鮮やかな色の花が咲いている、かぐわしい香りとともに。(写真下。)
 それで、いいのだ。
 ハマナスも私も、今、生きている。

 (こうした私の生き方を、あのギリシア時代のエピクロス学派の考え方に沿って、それは一般的に知られている快楽主義的な哲学とは違う、つまり、むしろ相対する考え方としての禁欲主義的な、あのストア学派にも通じるところのある、自己抑制的な考え方を通じて、この後、書き進めるつもりでいたが、またしても1時間半分の原稿を誤って消去してしまい、そこでやる気がうせてしまった。続きは、また別な機会に、何とか自己弁護の、小さな一文としてまとめてみたいと思っているのだが。)