8月27日
庭の片隅に、ある時それは突然に、ユリの葉をつけた茎が伸びてきて、年毎に大きくなり、やがて橙色のクルマユリの花が咲き始めて、もうそれは、おそらく20年近くになるのだろうが、毎年変わらずに、秋の初めのころになると、まるで玄関先の燈火、提灯(ちょうちん)のような鮮やかな花を見ることができるようになったのだ。(写真上)
球根がまだ元気なうちはこうして、見事な花を咲かせてくれるのだろうが、しかし全盛期のころの、数十本もの花が一度に開いていた、あのまるで祭りの山車(だし)のような、豪華な飾りつけの華やかさは、もう見られなくなってきているのだ。
もちろん、年毎に球根が分球したりして増えてゆくユリの仲間には、寿命はないのかもしれないが、地中の変化や害虫などの影響によって、いつしか球根の力が弱っていき、ついには球根そのものが腐ったりして消えていくこともありそうで・・・。
その心配は、10年ほど前に、それまでにはなかった林縁の木の根元近くに、小さなユリの葉の茎が出てきて、二年目にはもう花が咲いて、それがクロユリだとわかって小躍りしたくなるほどうれしかったのだが、その後3年ほど花を咲かせてくれた後、花の咲かない年があって、それから姿を消してしまった。(2015年5月25日の項参照)
そうしたクロユリの例もあるから、心配ではあるのだが。
さて、一週間ほど前に、台風崩れの温帯低気圧が二つ続けてやって来て、風の心配をしたのだが、雨風ともに大したことはなくて、それはそれでよかったのだが、一方では期待していた、水位の低いままの井戸への恵みの雨にはならなかった。
水の出ない日々が、何と3か月余りにもなるが、何と長い断水生活が続いていることだろう。
今までに、二三週間、井戸水の出ない時はあったのだが、このたびのような長い渇水状態には全くお手上げであり、これはわが家でのギネス記録として認定することにしよう、とか笑っている場合ではないのだが、一方では、もらい水とペットボトル水だけで、3か月も生活できるということにもなるのだが。
さて、その後晴れる日もあって、気温は27,8℃くらいまで上がり、まだまだ夏の空気も残っているようだった(内地の40℃近くにもなる炎熱地獄から見れば、天国だが)。
それでも今日は、また曇り空の中、朝の14℃から、ほとんど気温は上がらず18℃と、秋らしい涼しさの中で、仕事もはかどるというものだ。
今は、天気図上の前線をはさんでの、夏の空気と秋の空気のせめぎあいなのだろう。
先日近くの大きな街まで買い物に行ってきたのだが、大きく広がる牧草地にも、そこはかとなく秋の気配が漂ってきているようだった。
きれいに刈り取られた小麦畑に代わって、今は穂先が白銀色に輝くデントコーン(飼料用トウモロコシ)畑がうねり続いている。
道の両側には、黄色のオオハンゴウソウやセイタカアワダチソウの群生が目につき、さらには時々、鮮やかな色が目を引いて、ここでもあのクルマユリの花が咲いている。
やはり、秋だなあと思う。
”春暮れて後(のち)、夏になり、夏果てて、秋の来るにはあらず。春はやがて夏の気を催(もよお)し、夏より既(すで)に秋は通(かよ)い、秋は即ち(すなわ)ち寒くなり・・・。”
(『徒然草』第百五十五段 兼好法師”吉田兼好”著 西尾実・安良岡康作校注 岩波文庫、以下の引用文も同上)
前回、この私のぐうたらさのまま生きていくことへの、何か指針となるような本はないものかと考えていたのだが、それで以下の一文を思い出したのだ。
それは最近、ある議員の国会答弁で一躍流行りの言葉となった、”非生産的”だが、それはもちろん、ものぐさぐうたらじじいである私みたいな男の行いを、後押しするために書かれたものではないのだが、ふとこの『徒然草(つれづれぐさ)』の中の一節を思い出して、何か少し救われたような気にもなったのだ・・・。
”大方(おおかた)、万(よろず)のしわざは止めて、暇(いとま)あるこそ、めやすく、あらまほしけれ。世俗の事に携(たずさ)わりて、生涯を暮らすは、下愚(かぐ)の人なり。”(『徒然草』第百五十一段)
これを自分なりに訳すれば、”(年寄りになれば)今までかかわって来た多くの仕事はやめにして、ひまな自分でいることが、周りの人からも安心して見ていられるし、自分のためにもそうであったほうがいいのだ。死ぬまで、世間とかかわりあって生きていくというのは、愚かな人がやることなのだ。”(注:下愚の反対語は上智)
この『徒然草』の作者吉田兼好は、若くして出家(しゅっけ)隠棲(いんせい)し、哀感あふれる物事に心を寄せて、細やかな思いを書き綴る一方で、あの『枕草子』の作者清少納言と同じように、才ばしる人間にあるような、独断的な物言いが気になるところもある。
上の一節は、私のようなぐうたらじじいにとっては、小声でもっともだとも言いたくなるのだが、一般世間論として、それでは、105歳まで現役医者として生きてこられたあの日野原重明先生や、今年96歳になる瀬戸内寂聴さんもいまだ僧侶としての講演を続けておられるし、前回書いたあの大分の78歳になる”スーパー・ボランティア”のおじいさんなどなど、尊敬すべき見ならうべきお年寄りたちがいくらでもこの世にはいるのだから、一概に、年寄りの仕事を否定することなどできないのだが。
もちろん兼好は、そうしたしっかりと世間にかかわっている人々を批判したのではなく、年老いても権力を手放さずに、見苦しくも君臨し続けている人たちを非難したかったのだろうが。
この後の段に、その辺りのことをうかがわせる”ブラック・ユーモア”じみた、あの有名な話が載っている。
以下原文で載せるよりは、私の意訳で書いていくことにすると。
”ある時、宮殿内裏(だいり)に西大寺の静燃上人(じょうねんしょうにん)が参られて、その腰が曲がって眉が白くなり、いかにも徳にあふれた様子を見て、当時の内大臣西園寺実衡(さねひら)が、「なんとも尊いご様子だ」と感心して言っていたのを聞いていた、中納言資朝(すけとも)は、「お年を召されたからでございましょう」と答えたそうで、後日この資朝は内大臣のお屋敷へ、一部分毛の抜け落ちた老いさらぼえた犬を引き連れて行って、「この犬も尊く見えるでしょうね」と言ったそうである。”(『徒然草』第百五十二段)
さらにこの話の後日談、この35歳で内大臣になった西園寺実衡は、そのわずか二年後に病死していて、一方の資朝は実衡と同い年で、35歳で権中納言となったが、その後すぐに鎌倉幕府への謀反の疑いで捕らえられ、後に佐渡ヶ島へと流罪にされて、さらに元弘の乱のために同所で刑死したと書き記されている。享年43歳。
同期で、内裏(だいり)に参内(さんだい)していた仲間の高級官僚の二人だが、一人はすぐに病に倒れて亡くなってしまい、もう一人はあらぬ疑いをかけられ、流罪の地で斬首され命を絶たれることになったのだ。
私たちが歴史上の史実として知っているだけでも、万葉の時代から明治維新の前夜に至るまで、さらには二度の大戦を経てまでも、いかに多くの讒言(ざんげん)が飛び交い、謀反(むほん)、抗争のためにどれほど多くの凄惨な悲劇が繰り返されてきたことか。
戦争を知らない世代として生まれ育ち、戦争を知らないまま死んでいくことになるだろう私たちは、もちろん誰にでも、多少なりとも常に不満な思いがあり、不幸なこともあったとは思うけれども、こうして生きているだけでもめっけものというべきであり、戦争の時代からは遠く離れていて、実に幸せな時代に生きたということになるのだろう。
四季はめぐって、花は咲き、チョウが飛び回り、セミが鳴き、鳥たちがさえずり、木々は緑の中であふれ繁り、山々は高くそびえ、雲は白く沸き立ち、すべてのものの上に、大きく包み込むように蒼穹(そうきゅう)の青空が広がり、陽の光に満ちている。
さて、『徒然草』の話の一つから、思いは時代を超えて果てなく膨れ上がってしまったが。
もともとの話に戻れば、”ひまであることはよいことだ”ということから、さらに続けて兼好はこうも書いているのだ。
”ゆかしく覚えん事は、学び訊(き)くとも、その趣(おもむき)をしりなば、おぼつかならずして止むべき。もとより、望むことなくして止まんは、第一の事なり。”(『徒然草』第百五十一段)
これも私なりに訳すれば、”どうしても知りたくなったことは、誰かに聞いて教えてもらうにしろ、大体のことが分かれば、それ以上深入りして知る必要はない。もちろん、そうしたことを知りたいと思わないことが一番よいのだが。”
つまり兼好が言いたいのは、好奇心旺盛で、思うままにあっちこっちに興味をもって、なんでも人並み以上によく知ってやろうと、首を突っ込んで深入りしてはいけない、物事は知らないでいることが幸せなことがいくらでもあるのだから、と言っているのではないのだろうか。
流行に乗って皆がするから、皆が行っているから、皆が食べているからと追っかけて行く必要はないのだ。
そのことに必要以上に気を使うことで、自分の心の平安を乱されることにもなるからだ。
年寄りになれば、静かに穏やかでいることが一番なのに。
私は、今、流行りの服装も知らず、人気の食べ物も食べたことはなく、評判の映画を見たこともなく、誰でもが何度でも行きたいというディズニーやユニバーサルに行きたいと思わないし、そうした都会の喧騒の中でがまんして時を過ごすくらいなら、こうして人里離れた林の中で、何事もなく毎日を送っていられるだけのほうがはるかにいい。
つまり、他人はどうあれ、今の、何もない静かで穏やかな暮らしの中にこそ、私の一番大切なものがあると思うから・・・と私は、この『徒然草』の一文から自分なりに勝手に理解してみたのだが。
三日ほど前、久しぶりに街に出て友達の家で話して戻る途中、十勝平野の上空に斜めに広がっていた雲の間から、夕焼けの光が差し込んできて、何ともきれいで壮大な眺めが広がっていたのだが、あいにく私はその時カメラを持っていなかった、家に戻って再び見晴らしのきく所まで出て見たのだが、大空を彩るその壮大な色彩の舞台はすでに幕切れの時を迎えていた・・・あと何回の夕焼けを・・・。(写真下)