7月31日
前回の日付を見て驚いた。
すでに一か月半も前のことになるのだ。
私が悪うございました。
ただひとえに、自分のぐうたらな怠けぐせゆえであり、小さくなって平身低頭するばかり。
自分の日記外伝として、記録として残すべきところを、ただ漫然と過ごし、何も書かずにいたことに、自ら深く恥じ入るばかりであります。
まず、悪性腫瘍除去手術一年後の経過としては、今のところ再発の兆候は見られず一安心なのだが、術後の機能回復のために、一部の再建手術が必要であり、そのための入院調整がされていたのだが。
しかし悪いことに、前にも罹患(りかん)したことのある機能箇所の障害が起き、さらに新型コロナ・ワクチンの4度目の接種日も予定されていて、日程がずれ込んでしまい、秋に北海道の家に戻れるかどうか、というところにまで来てしまったのだ。
さらに、この夏に断念せざるを得なかったことがもう一つ。
それは、長年考えていた花を見るための、東北の山の縦走計画であるが、自分の年齢体力を考えると、今年こそは最後のチャンスだと思っていた。
それには、天気予報で三日間の晴天の日が欲しかったのだが、というのも、この縦走ルートは普通の人なら二日もあれば十分なのだが、私は無理せずに三日で歩くつもりで計画していたのだ。
そして、人が多くなる休日の日に、二日続いて晴れるという予報はあったものの、その後は天気の続く日はなく、今年も断念せざるを得なかった。
あの3年前の、鳥海山での失敗をもう二度と繰り返したくはないし、と言っている間にも、年齢とともに山は逃げていくのだ。
そこで、山関連の記録としては、一か月前に、久しぶりに由布岳(1583m)に行ってきた。(上の写真は、登山口からのカヤトの草原と由布岳)
”登ってきた”と書かなかったのは、頂上まで行かずに途中であきらめて、戻って来てしまったからである。
東西両峰を分ける火口基部の、”マタエ”のすぐ下のとこまでは行ったのだが、ゆっくりと時間をかけて登ってきたために、暑さで少しもうろうとしていて、さらには朝あれだけの快晴の空だったのに、頂上付近に雲がまとわりつき始めていて(写真下)、自分の今の体力を考えて引き返すことにしたのだ。
この山にはおそらく20回近くは登っていて、特に冬場の雪や霧氷がついている時に登ることが多くて(冬のお鉢一周はアルペン的で楽しめる)、もう今までに四季それぞれの良い所は見てきたのだから、一回くらい頂上まで行かなかったからといって、たいしたことではないしと強がりを言ってはいるが・・・残念ながら、寄る年波には勝てずということか。
それでも、5時間ほどの間山の中にいたことになり、十分に山の雰囲気を楽しむことができたし、林の中にそこだけ明るく咲いていた、数本のヤマツツジの樹が、行きも帰りも私の心をなごませてくれた。(写真下)
そしてこの一か月は、例のごとく時々、家の周りの一二時間の長距離散歩はしているが、山には登っていない。
山についての、ゆるやかなあきらめ、と言うべきか、山麓の逍遥(しょうよう)を味わい楽しむべき時が来た、と言うべきか。
今回取り上げたかった話は、この小さな諦観(ていかん)についてである。
というのは、実は今年は、あの森鴎外(もりおうがい、1862~1922)の没後100年にあたり、そのための講演会や展示会、出版物などが見られていたのだが、先日新聞の文芸欄に、あの芥川賞作家の平野啓一郎氏の講演会での、森鴎外評論の一部が掲載されていて、そこで、(彼は)”人間の人生を反自己責任的に理解している。それが自身の人生に向かう時には「諦念(ていねん)」という概念に至る”(朝日新聞2022年7月10日)と語っていたからである。
森鴎外は、私の好きな日本人作家の一人である。
若いころにも読んでいたのだが、近年読み返して、その確かな文章と物語に、再度引き込まれてしまった。
短編小説として読むのには、人口に膾炙(かいしゃ)している「山椒大夫(さんしょうだゆう)」や「高瀬舟(たかせぶね)」になるのだろうが、ともに心打たれる情景が目に浮かぶ。
さらにもう一つの重要なジャンルとして、「興津弥五右衛門の遺書」から連なる「阿部一族」などの歴史小説があり、淡々とつづられていくその描写力がすさまじく、さらにそれは巨大な集積力となって、あの「渋江抽斎(しぶえちゅうさい)」以下の史伝小説へと昇華していくのである。
軍医と作家という二足の草鞋(わらじ)をはいていた彼は、若き日にドイツに留学して(そのころの思い出を描いた小説が「舞姫」である)、そこで最新の細菌学を学び、軍の医局に勤めて陸軍軍医総監(中将相当)にまで上り詰めたのだが、当時の日露戦争では、自説を曲げずに細菌説を主張し、ビタミン不足の多くの兵を脚気(かっけ)で亡くすことになってしまったと言われている。
その負い目もあったのだろうか、軍務の仕事をこなしながらも、一方では以上のような名作の数々を発表し、さらには、膨大な資料を必要とする史伝の世界にのめり込んでいったのも、理解できるような気がする。
そうした作品群の底辺には、ある種の諦観が流れていると、昔から言われていて、不平等な社会に生きる人々への、ゆるやかなあきらめからくる現実直視と、静かな受け容れを表現しているからなのかもしれない。
前に書いたことのある、島田雅彦氏の言う ”幸せとは、断念ののちの悟りである”(「NHK100 分で名著」”幸せについて考えよう ”NHK出版)という言葉に通ずるものがあるし、あきらめることすべてが悪いわけではない。
目指すべき目的や計画をあきらめることは、大きな挫折を味わうことになるかもしれないが、他の見方をすれば、それまでのものに費やすべき時間や能力を、新たなものへと振り向けることもできるわけであり、一つの道をあきらめることはたんなる失敗ではなく、別な道を始めるためへの希望にもつながっているのだ。
私は、いつ再発するともわからない病気に罹患してしまい、他にも小さいながら体のあちこちの異変もある。
しかし、それらを一つ一つ悔やんでいたところでどうなるというのだ。
それらのことを含めても、今こうして一日一日を元気でいて、まずは、この ”Wonderful World" に生きていられることを喜ぶべきではないのだろうか。
例の『万葉集』から、酒の歌の連作で有名な大伴旅人の歌を一首。
”生ける者 つひにも死ぬる ものにあれば この世なる間は 楽しくあらな”
(生きている者は、やがては死んでいくものなのだから、せめてこの世に生きている間は、楽しくしていたいものだ。)
(『万葉集』巻三より 佐々木幸綱監修 中経文庫)
つまりは、前回取りあげた『葉隠』や『養生訓』と同じようなことを言っているのだが、1300年前の奈良・天平時代から300年前の江戸・元禄の時代、さらに現代にいたるまで、人の思いは変わらないということなのだろう。
さてこの夏も、ずっと家にいたおかげで、もちろん新型コロナの蔓延(まんえん)で、あまり外には出られなかったのだが、何と今年は、庭のブンゴウメが、初めて大量にというほどに実った。(写真下)
おそらくバケツ三杯分くらいはあったのだろうが、ウメの実は傷みやすく、すぐに腐ってしまうので、バケツ二杯以上は捨てたことになり、さらに体調のすぐれない中、何とか数ビンのウメジャムを作ることができたのだが。
それは、”立ちション”による”生ごやし”と、併せてちゃんと有機肥料をやっていたからかもしれない。
ただ心配なのは来年以降で、ウメは今年その全精力を使って、大きなものでは直径5㎝にも及ぶ実を実らせ、これでもう来年からは、実がならなくなるのではないのだろうかと心配になる。
それも天命、私の寿命と一緒で、相途絶えていくことになるのかもしれない。
変わらぬものもある。毎年夏になると、いつも辺りにかぐわしい香りがして。
この一か月の間、庭にクチナシの花が咲いているのだ。(写真下)
気がかりなもの、半年も続くウクライナの惨状、新型コロナの蔓延、エンゼルス大谷の行く末、逃げていく山々・・・。